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エスニック 日本の国旗が何となく私たちを天蓋のように覆っていたような感触から、少し変質したような印象を受けたのが、私の場合、例の荒川静香さんがトリノで優勝し、日の丸を羽織って観客に応えていた写真を見た時からでした。後で愛国ジャーナリストの勝谷誠彦さんが「なぜ、それをテレビ中継しない」と激怒していましたが、私はむしろそれまで、この国旗が醸し出していた硬い印象を、かなりカジュアルなファッションに変えたという意味で、とても面白く思ったものです。 当時からして外国選手たちが国旗を羽織るという風景はごく普通に見られたのですが、日本人選手は日の丸に独特な「距離」を置いていたように思う。シャツに国旗をあしらうのはごく普通ですが、日本では今でもパンツに日の丸を施すことはしませんね(アメリカや西欧各国は、それを普通にやるのです)。 いずれにしても、当時の日本のテレビ中継映像は、このあたりの微妙な「異和」を嗅ぎ取ったか、その時の荒川さんの映像を流しませんでした(NHKは一体何に対して、何をどう気を使ったのでしょうかね)。 今回のラグビーワールドカップは、その時受けた漠然とした「異和」の印象を、さらに明晰に私たちに示してくれました。日の丸を囲むアスリートの半分近くは、「外国生まれの人」なのです。しかもその表情を見る限り、心底日の丸をリスペクトし、そのもとに参集したことに高い「誇り」を持っているように見える。一言で云えば、彼らは野球やサッカーなどで見られる、いわゆる「助っ人」外国人では絶対ないということです。これと同じような仕方で、外国からアスリートを参集し得る日本のスポーツは、あるいは「なでしこジャパン」ぐらいかもしれない。今のところそうした事例はないけれども、彼女たちもまたその「Japan Way」によって、世界から関心を持たれている存在でしょう。 エスニックな日本観に浸っている人たちは、こういう仕方で「日本」に参集して来るであろう外国人の取り扱いには、大いに悩むでしょう。イチローを眺めるアメリカ人は間違いなく、そういうふうにはイチローを見ていない。彼らにとって、「自ら選択して」アメリカに来て成功した人は、すべて「真正のアメリカ人」なのです。キッシンジャーをドイツ生まれだからといって、彼をドイツ人と見なすアメリカ人はいない。 話はずいぶん逸れますが、靖国に参拝される方々、何を以って我が身が「真正の日本人である」と言い切れるのか、一度聞いてみたい。と、こういう問いを発すれば、たちまち「我が家の五代前は何某の末裔で」みたいな話になるのでしょうが、そういうふうに言い募る身振りそのものが、すでにエスニックな感覚に浸されていることを示しています。 大半の日本人は自身の家系にほとんど無関心です。それが現実の生活感覚と結び付かないから。家系や血筋を重視するのは、それが実際的な利得に結び付くかどうか、現実の社会に作用するのかどうか、要は「権力」として作動するのかどうか、という一点で意味が生じるのであり、日本人はそのあたりのからくりを、「婿養子」というシステムを考え出したことで、かなり早くから見抜いていたようですね。 では、それでも「我こそは真正の日本人」と言い募る方々というのは、結局そこに現実的な利得を見出している集団ということになる。政治家にそれが多いのは、政治がまさしく「権力構造」そのものを体現しているからです。強面で参拝するところを「見せる」ことが、「真正日本人」であることの証明であり、それがそのまま我が身の「権力」基盤に繋がっていると信じて疑わない。この場合、この人たちの国家観というのは、漠然としたエスニックな感覚で意識されているのではなく、明らかに政治的なナショナリズムから来ているのです。 同じように「民族」とか「民族主義」と訳されながら、NationとEthnic Groupではずいぶん印象が違う。ざっと云えば、ナショナリズムは国民国家の形成過程で生まれた、きわめて理念臭の強い新しい概念であり、エスノセントリズムと言えば、もっと未分化の前近代を連想させますね。げんにナショナリズム発生の根源を、エスニックな共同社会の情緒に求める学説もあるようです。 要は具体的に「血の繋がった」、あるいは「顔の見える」情緒的な共同体意識が、産業革命以後の大規模かつ均質な労働力および兵士形成のために、大きな「物語」として政治理念的に再構成されたのがナショナリズムと言えるでしょう。いずれにせよ、ナショナリズムの根底には「仮想の共同体意識」があり、エスニックな気分とはそれらを包摂する概念だということです。ここで云うエスニックな気分とは、その「仮想の共同体」内ではあれこれ議論するまでもなく、「あたりまえの気分」として共有されている諸事項であって、逆にここで用いられる「あたりまえの気分」とは、その共同体以外の他者には絶対「分るはずがない」という予断と対になっています(「たくあんと味噌汁の味は、外国人には絶対分らない」というふうな)。「他者には絶対分らないはず」という前提が、逆に「共同体幻想」を醸成するのです。 明治以降の日本は、まさしく「他者には絶対共有不可能な物語」を、政治理念的に大規模に再構成することによって、近代「国民国家」を形成したのです。考えてみれば、江戸時代の共同体意識とは、まさしく「顔の見える、血と土地の繋がった」エスニックな気分で構成されていたのであり、具体的には住民が帰依する根源は「村」と「藩」、そしてその顔は「氏神様」と「殿様」であったでしょう。日本社会の九割を超える農民の意識に、殿様を越えた「天皇」が意識されることはなかったのです。 明治維新政府は、まことに巧みにこのエスニックな「共同幻想」の気分を、新国家形成に利用したと言っていい。「村社会」にとって「あたりまえの存在」という気分の帰趨するところを、地域限定の氏神様や殿様から広く日本を覆う天皇にすげ替えたわけです。殿様が実際に庶民の前に顔を出すことはまずなかったでしょうが、地域限定の「あたりまえの顔の見える」存在としては、氏神様とともにあり得たのでした。
2015.10.20
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公益と国家 国連の「平和維持活動」としてのPKOと、国家の存立危機事態への対処とは別じゃないか?という指摘を受けそうですが、私は先般の鬼怒川堤防決壊時に見られた自衛隊他の救出劇と、上の二つの活動をも同じ仕方で見守りたいのです。注意深く見ているとマスコミの報道も、災害救助支援の場合とPKO海外派遣の時では、その取り扱いがずいぶん違う。しかし同じ組織集団に対して、行動目的ごとに捉え方を変えるのは少しおかしいんじゃないか? 今回の鬼怒川堤防決壊に際する自衛隊他のレスキューというのは、テレビで何度も放映されて皆さんもよくご覧になったと思いますが、この地における死者が2人で済んだというのには、極めて練度が高く勇気あるレスキュー隊員の功績が大きいということは、あまり報じられませんね。あたかもそれが当然であるかのような描き方です。 とはいえ、それは言わば自衛隊員が社会の成員として、普通に見られていることをも示しているわけで、「東日本大震災」以降すいぶん取り扱いが変ったような気もします。 要は「公益のために身体を張る組織」の一環と捉えるならば、自衛隊も警察も消防も国家機関の一つ、という大きな概念で捉えることが出来るのですが、現状そうした仕方で軍事組織を腑に落とすことの出来る日本人は少ないでしょう。何が軍事組織と警察その他の実力組織を分けているのか? それはたぶん同じ「公益」でも、警察消防が直接住民の防護にあたる組織であるのに比べ、軍隊は住民一般の生活感覚を超えたもの、つまり「国家の防護」を前面に押し出しているからで、それが主に国外に向けられたものであることからも、警察消防よりはるかに見え難いというか、言わば「抽象的な防護組織」という面を持っているからでしょう。 ここで現れて来るのは、では「そもそも国家とは何か?」という命題であり、それに付随して「国家の防護」という話になるわけで、必然的にそれぞれの「国家観」によって、国の見え方が違う結果、軍事組織の位置づけとか存在意義は変ってくるのです。 と、こう話していて、今さら気付くのですが、日本人のような国家観を持った人たちは、たぶん日本にしかいないだろうし、アメリカ人はアメリカ人として、ロシア人はロシア人として、さらに中国人は中国人として、それぞれ相当異なった国家観を漠然と抱いているのだろう。したがってそれに付属した軍事組織に対する見方も、またおのおのかなり異なっているのだろう、という気がして来ました。 一括りに「日本人のような国家観」と言ってしまいましたが、簡単に言えば、ごく無意識に「国に帰依する」ような仕方の国家観を抱いているのは、たぶん日本人だけではないか、ということなのです。これはナショナリズムと言うより、エスニックな感覚と言った方がいいかもしれない。「自身が日本人である」ということに、大半の日本人は露ほどの疑いも抱かないのです。 このエスニックな感覚を考えるに好い事例が、今般のラグビーワールドカップでしたね(ずうっと、全部観てました)。多くの外国籍ないし外国出身者を交えたチームが、日本の国旗を背負って歴史的な勝利を挙げる。エスニックな感覚を持った人たちは、きっと「これって、本当に日本チーム?」と暗に感じていたに違いない。少なくとも白鵬(日本国籍ですよ)がいくら立派な成績を挙げようと、今だに「日本人横綱待望論」を平然と言ってのける角界、マスコミ関係者はそうです。 言わば世界のアスリートが、E・ジョーンズHCの「Japan Way」に共感し、日本の旗の下に集合し「君が代」を斉唱する。このはなはだ「面映い」風景から、別の新たな国家観を嗅ぎ取った人はどれくらいいるのだろう、と思ってしまうのです。白鳳もリーチマイケル他も「日本国籍を選択」した人々なのです。「日本的在りよう」に価値を見出し、リスペクトすることに自身の意味を見出す、という仕方で彼らは「日本人である」。そういう仕方で抱く「国家観」というのを、大半の日本人は理解出来ないというか、心の底ではたぶん「認めていない」でしょう。 しかし考えてみれば、今回のワールドカップ大会、他の参加国を見ていても、国旗以外のチームの中味は無国籍状態というか、ユニホームを着替えれば、ほとんど判別不可能な世界で笑ってしまいました。まあ英国とかフランスとか、そもそも植民地時代の宗主国として、他民族を糾合することに違和感を抱かない歴史があり、さらにアメリカなど最初から人種混交が前提の国家であるとすれば、むしろこういうのが世界では「当りまえ」なのでしょうね。 今回のラグビー大会を観ていて強く感じたことは、日本もそういう仕方で世界のアスリートを糾合し得る「世界性」を持てるのかなあ?という予感でした。帰国後の会見を観ていても、早くもマスコミは「五郎丸」オンリーで、他の特に外国出身選手に対して、はなはだ礼を欠いている(白鵬に対する時と同じです)。まあしばらく国内では「日本人選手」によるラグビー熱が盛り上がるのでしょうが、私はむしろ世界からどういうふうなアスリートが(助っ人として、ではなく)、「Japan Way」にシンパシーを感じてやって来れるのか(呼べるのか)、そっちのほうに興味があります。E・ジョーンズHCは今大会で退任だそうですが、日本人のエスニックな国家観にヤスリをかけたという意味で、大きな宿題を日本人に課したと言っていい。
2015.10.14
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