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Stand Alone 定置農耕を主体とするエートスが優位な精神性とは、これまた月並みな風土論になりますが、「多産」と「集団性」が強く求められる社会であるということでしょう。弥生時代以降、定置農耕主体の集団が優位を占めるに到って、それまでの縄文的エートスを主体とした集団は、急速に周辺に追いやられたようです。稲作の生産性は漁労や狩猟採集の生産性を圧倒したわけで、これは戦争とか略奪といった集団同士の衝突のような形ではなく、いわば自然消滅のような経緯をたどったのではないか? 大陸と日本の大きな違いは、定置農耕集団に拮抗するような力を持つ集団が他に常にいたということであり、それはたんなる狩猟採集とかもちろん漁労集団ではなく、遊牧を主体とした騎馬の集団だったでしょう。日本の歴史においてかつて見られず、ユーラシア大陸全体の歴史に大きな影響を与えたのが、この遊牧騎馬民族だったのです。 そもそも遊牧騎馬という集団は、どのような経緯で生まれ、どのようなエートスを持っていたのか?この集団が騎馬の技術を手に入れたのは、おそらくずうっと後で、もともとは羊やヤギに「寄食」する遊牧民だったでしょう。ここで大事なのは「遊牧」というと、何やら人が羊やヤギを飼っている、要は「家畜」として飼っているような印象を、つい抱いてしまうのですが、初めの頃はたぶんそうではなかっただろう。話は逆で、人のほうが羊やヤギにくっついて移動していた、というのが実態に近いのではないか?「寄食」という言い方をしたのはそういう意味です。 狩猟採集民に見られる大きな特色は、たぶん生き物に対する突出した観察力でしょう。これがなければ、もちろん彼らは一時も生存出来ない。そして、そうした民の中から、羊やヤギといった草食動物に寄食する集団が現れたのではないか?一人の人間に十頭ほどの羊やヤギがいれば、彼の衣食は一生保障される。日頃は動物たちの乳を食し、羊毛で衣服を作り、場合によっては動物の生き血を吸う。老いた羊だけを屠って食べるかぎり、彼らは生きて行けるのです。彼らはおそらく羊やヤギが、新鮮な草を求めて平原を移動するのといっしょに、ユーラシアの大地を巡っていたのでしょう。 それがいつしかユーラシアのどこかで、馬を扱う民と出合った。たんなる「寄食」から「飼育」への転換は、そういう仕方で起って行ったのではないか?こうした集団の有する特色は、明らかに定置農耕の民とは違う。まず第一にこの形態は、最初から「多産」を前提に出来ないということでしょう。一人を養うのに十頭の羊が必要とした場合、一家族を仮に五人として五十頭、一つの集団を十家族五十人とすれば五百頭ということになります。これに馬や犬などの飼育という手間も含めれば、さらなる大集団の形成というのはかなり難しい。仮に形成したとすれば、放牧以外の何かで不足を補うということになる。放牧民から他集団の収奪を旨とする遊牧騎馬の民が現れたのは、そうした経緯があったのでしょう。 こうした経緯で生まれたであろう遊牧騎馬の民のエートスとは、どういうものであったのか?私はそこにどうしても「自立単独(Stand Alone)」的な在りようを見てしまう。羊やヤギが十頭いれば、「誰にも拘束されず」、草地がある限り「どこへでもいける」というエートスです。 定置農耕集団はある一定の多数を形成するほど、その生産性において絶対的に有利であり、その数が土地とか気候とかの諸条件によって、数百人から数千人に及ぶとき、その中からは必然的に集団を束ねるリーダーが生まれたでしょう。集団的な労働が必須な農耕は、祈祷とかも含めた司令塔があったほうが便利なのです。 しかし遊牧騎馬の民のエートスは、基本的には集団を束ねるようなリーダーという存在を必要としなかったのではないか。実際にはモンゴルとかオスマントルコとか、強力なリーダーが存在しましたが、その在りようは農耕民的な集団の紐帯とはだいぶ違う。それぞれの部族の独立性はかなり強かったでしょう。 もう一つ、この遊牧騎馬の民のエートスで考えられるのは、「どこへでも行ける」という条件から、当然予想されるのですが、外部との接触機会が多かったことから、「他者(異物)に対する耐性がある」ということでしょう。モンゴルが反抗勢力に対しては仮惜なき駆除を行ったのに対し、そうでない集団に対しては、いたって寛容だったのはよく知られたところで、これはオスマントルコにおいても同様ですね。 この移動の自由と異物に対する耐性性のエートスは、彼らに先の馬だけでなく、例えば鉄とかその他あらゆる多様な文明や技術との接触機会をもたらすことになったでしょう。 この自立単独(Stand Alone)」的な在りようこそ、日本の私たちのエートスから最も離れた地点にあるものではないか? 「農耕」は基本的に一定地域に集団で住まわない限り、自身の生存がおぼつかない。私たちは弥生時代以降の定置農耕集団のエートスに、深く釘付けされているのです。逆にそれに馴染めない集団は、早くに周辺に追いやられ、ほぼ消滅してしまったということでしょう。網野さんとか司馬さんが、そうした日本人のエートスを相対化する意味で、漁労集団や騎馬民族にこだわったのには、私たちがごく無意識に選択している振る舞い方や価値判断には、歴史的地域的な経緯があったはず、という大きな理由があったのでした。
2015.05.28
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Borderless 境界の無い球面であるにも拘らず、「際(border)」を求めて止まない歩哨(Sentinel)のような因子が、極少でも集団の中にいるとすれば、あるいはすべての生き物に共有されているけれど、まれにしか発現しないそうした因子があるのだとすれば、生き物が地球上にバラけて生息している理由が説明しやすい、というのがここまでの話でした。これは単なる私の仮想世界に過ぎず、もちろん何ら科学的な話をしているわけでもありません。 しかしそれでも、例えば「自然選択」とか「優勝劣敗」といった、「覇権主義」的な進化論が科学というなら、そこに伏流する優生学的なエートスで生き物を見るより、このほうがマシではなかろうかという話なのです。 なぜこんな話をしているかというと、生き物の在りようというのが、もし自然界のエントロピー拡散の法則に抗うような仕方、つまり「秩序形成の方向」を持つものなのだとしたら、こうした歩哨因子のような仮定は、私たちをはるかに原型的な見かたに立ち戻らせることが出来るのではないかと考えたからです。 ところで「生物と無生物の境目」というのは、実は最新の科学をもってしても、いまだに判然としないというか、むしろ細密に調べれば調べるほど、ますます曖昧になって来ているらしい。見ようによっては無生物の振る舞いにも、あたかもエントロピー拡散に抗うような現象も見られるのかもしれない。 例えば水分子はH2Oという分子式で表され、全体では電気的には中性とされます。面白いのはこの分子は、水素原子2個と酸素原子1個が一直線に共有結合しているのではなくて、ご存知のように「くの字型」に結びついているということなのです。原子の構造はこれまた中学の理科のおさらいになりますが、プラスの電荷を持った陽子の周囲を、マイナスの電荷を持った電子が周っているというイメージですね。しかし量子力学的な考え方からすると、プラスの電荷を持った陽子の中心核を、マイナスの電荷を持った「電子の雲」がボウッと取り巻いている、という感じに近いらしい。 まあそれはさておき、水分子の場合なら「くの字型」に結びついた水素2個酸素1個の陽子の周りを、電子の雲が取り巻いているわけです。ということは全体では電気的に中性でも、一個の水分子の周辺は、ごくわずかでも電位差があることを示しているのです。これを水分子の「極性」と言うらしいのですが、言い換えればここには、「方向」があるということでしょう。で、この「方向がある」ということは、その振る舞いが完全な無秩序運動ではない、ということも表してはいないか?具体的には「くの字」の頂点、酸素原子の周辺はマイナスの、両翼の水素原子周辺はプラスの電位を帯びていて、そうなると水分子同士は、たがいの異なる「極性」に引かれる形で、要は「方向を持った」形で、ゆるやかに集まっていることになる。 このあたりは私の妄想ではなく、例の橋元淳一郎さんの「時間はなぜ取り戻せないか」(PHP新書)の、第二章「もろい秩序が生命を可能にする」の受け売りです。 「生命がなぜ水中で生まれたのか」、その出発点はどうやらこの水分子の極性(方向性)にあるらしい。とはいえ、ここに「意志」とかを持ち込んでも、もちろんまったく無意味で、「極性」は完全な自然現象でしょう。純粋に自然科学の用語で説明できる事柄であるにも拘らず、何らかの「秩序を目指す方向性」を持っているのだとしたら、それが生命現象誕生の第一歩だったろうと考えてもおかしくはない。アルコール分子は一直線で結合していて極性を持たない、ということはアルコールの海では、生命が誕生する(秩序を構成する)機会はないということです。 私が妄想している「歩哨因子」というのも、ほとんどそのレベルの話というか、人間の意志とかエートスとはまったく関係のない、ごく自然現象に近い地点での話をしているのです。 それにしても、じゃあ、なぜ水分子は「くの字」なんだ、という話になってしまいますが、専門的にはさまざまな説明があるようですが、ここではこれ以上は、何ぼなんでも割愛。 さて、人や人の集団というのが無意識に選ぶ行動様式とか振る舞い(エートス)が、どのように形作られて来たのか、というようなことを考えていて、話がずいぶん遠く離れたところに行ってしまい、元に戻すのが(どこが元だったかさえ判然としなくなっていますが)大変ですが、要は中国人のエートスは日本人とはずいぶん違っているのだろうということでした。まあ今どき、中国人も日本人も同じアジア人種、同文同種などというような、ナイーヴな感覚を持つ人など、さすがにいなくて、たぶんドイツ人とフランス人以上に異なったエートスを持っているのだろう、というのが普通の感覚でしょう。 その由って来たる要因を思いあぐねて、なぜか有史以前にまで夢想が広がってしまったのすが、要は違いを違いのままで放置せず、「どこがどのように違うのか」「理解の仕方、言葉の使い方等々、どのあたりに違いを見出すのか」みたいなことを考えているのです。このあたり、しかし注意しないと、よくある「ここが違う」式のおしゃべりに堕しかねず、それらは往々にしてエスニックな自己満足に陥りやすい。私は出来ればもう少しマシな階梯まで、この違いの在りようを引き揚げて、互いを出来るだけ等分な距離から、一からげに笑えるような気分で眺めてみたい。 私が中国人のエートスに関して、特に感じるのはその「国際性」というか、「世界感覚」のようなものです。皆さんひょっとすると誤解されているかもしれませんが、上のような「国際感覚」については、たぶん日本人より中国人のほうが、はるかに世界標準に近いのではないか。「そんなことないだろう、世界の観光地でひんしゅくかっているのは中国人じゃないの」と言われそうですが、そうではなくて、外国に行っても「自身の行動規範で振る舞う」ことを何とも思わない、というのはむしろ「世界標準」の感覚なのではないか?自身の振る舞いに「勝手に規制をかけ、ジッとガマンしてしまう」日本人のエートスの方が、たぶん世界的には特殊なのだろう、というのが私の観測なのです。 中国人の振る舞いがひんしゅくをかったり物笑いの種になっているのは、その自己主張の特異的強さにあるのではなく、さしあたって今それが数の多さでもって、大いに目立つからに過ぎないのでしょう。要はアメリカ人にせよアフリカンにせよ、あるいはイスラーム諸国だってイヌイットだって、皆自身の無意識の行動規範から「自らを敢えて外す」ことなどはしない、という意味で、たぶん中国人のエートスはごく「世界標準」なのです。 となると例によって、「辺境の民」みたいな日本人特殊論でもって、日本を慨嘆するするという、お決まりのパターンに陥りそうですが、それではいかにも能がない。もう少し「世界標準」という奇妙な字句が、日本人に与えている不思議な権威性を剥がしてみる必要があるのでしょう。 という視点から物事をもう一度見てみれば、これまでもよく使われた日本人論の常套句も、あるいは新たな視点で見ることが出来るかもしれない。例えば旧大陸では多かれ少なかれ、大規模な人種混交がしょっちゅう繰り広げられたのに対し、日本では先住民が後発の人種に淘汰された、あるいは飲み込まれたという歴史は、アイヌのような小規模な例をおいて他になく、世界に希な単一民族、単一言語、単一国家を形成した、というような。さらに日本の国土的特徴から、定置農耕を主体とする民族性が優位となり、それに基づく精神性を強く持つようになったと。
2015.05.25
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Sentinel 「その必要がなくても、敢えて『際(border)』を確かめずにおれない」という衝動は、ひょっとして生き物のある部分に通有の原型因子なのかもしれない。早い話、身体はその恒常性維持のために、内と外を極めて厳格に駿別しますね。同じように生き物は、その所属集団の維持のために、自分たちが安んじれる「際」を、どうしても確かめずにおれないように出来ているのかもしれない。 しかし考えてみれば、すべての個体が等しく「際」に蝟集してしまっては、かえって危険なので、確かめずにおれない個体は、極少であることが絶対条件なのです。これを仮に歩哨(Sentinel)因子とでもしましょう。常に「際」に立って「ここから先は危険」と、警鐘を鳴らす見張り番のような役です。すべての生き物に通有の因子でありながら、それはめったに発現しない。というか、その生き物の所属集団の種類や周囲の環境によって、歩哨因子の発現は様々に変化するでしょう。 なぜこんな妄想話(!?)をしているのかというと、人間の「膨張指向」というのは本態的なものではなくて、「覇権主義」的なエートスが創り出した「物語」だからだろう、という話をするためでした。海で最初に出現した生き物のうち、生存競争に負けた種族が淡水域に逃れ、そこで敗れた種族が陸に上がり、さらに陸の弱者がより劣悪な環境に適応して、結果的に地球全体に広がったとする説は、いかにも「覇権主義」的な発想です。 しかし、これではヨーロッパ人が新大陸に来るはるか数千年前に、ユーラシア大陸から海を渡った人たちがいた事実を説明することが出来ません。さらに言えば、南太平洋の島々を次々と渡っていったらしい人々の気持の動因を説明することも出来ない。ここに宿っているらしい「好奇心」の源泉を、ヒトの本態的な「膨張指向」で片付けることは出来ないのです。 とすれば、ここに通有する「好奇心」の源泉には、先の「歩哨因子」の発現というようなものを置いてみると、説明しやすいのかもしれない。ある種族集団には、必ずその「際」に立とうとする一定数のSentinelが存在し、その周囲を見張っているのではないか?ということなのです。 で、肝心なのは、その「際」は際限がないということなのでしょう。「際」の先には、どこまで行っても(地球は丸いので)異界が広がっている。で、そこに止まることを由とせず、さらにその先の「際」を確かめずにおれないという点こそが、この「歩哨因子」の特色であり、それがあることによって所属集団が一定域内に蝟集し過ぎることを防ぐ。止まり続けることは食料の確保をはじめとして、集団全体の存続を危うくするからです。 大事なことは、ここには「囲い込み」というような機能は含まれてない、ということでしょう。「歩哨因子」の機能は「知らないところを確かめずにおれない」という一点だけであり、確かめた後を「囲い込む」というような高度な機能は、最初から付与されてないということです。 例のR・ドーキンスの言うように、もし生き物が遺伝子の「乗り物(vehicle)」であり、いわゆる生存本能が遺伝子コピー(情報の保存)の結果に過ぎないのであれば、人類や他の生き物がなぜ全世界に、あたかもバラけるように広がって行ったのか、これでよく説明出来るのではないか知らん。 遺伝子というのが情報の自己保存だけを目的とした機能を持つものだとしたら、その乗り物である生き物は出来るだけ多様多種に変化し、そして広範囲になるたけ均等にバラけているほうが都合が良い。「歩哨因子」のようなものをピルトインしておけば、放っておいても生き物は勝手にバラけていくだろう、ということになります。 これは何も遺伝子が、何か高度な意志を宿した超越的な存在である、ということを意味しません。遺伝子という存在の本質が、たぶん自然界のエントロピー拡散の法則に抗うような仕方で、自身の情報の自己保存(コピー)という形で立ち現れた時、その後の「生き物」という在りようも決まったのではないか、ということなのです。 と、ずいぶん訳の分らない話をしてしまいましたが、「じゃあ、なぜそんな遺伝子なるものが、この世に登場したんだ」ということになってしまいますが、こればかりは誰にも分らない。確かなのはこうしてしゃべっている私たち自身の「意識」もまた「情報系そのもの」であって、我が身はすべて自然物から成り立っていて、おおむね数ヶ月で身体各部を、新たに入れ替えているにも拘らず、自身が入れ替わったとは誰も思ってないということだけでしょう。 それにしても、そうした因子を持った古代人が、数千年前にベーリング海峡を越えアメリカ大陸を南下して、ついに南米パタゴニアの荒地にたどり着いた時、彼らはそこに何を見たのだろう?はたまた南太平洋上を西に航海しイースター島に移り住んだ人たちは、そこで何を見、なぜ大量の石人を建て、なぜ再び航海の道を選んだのか?などと考えると、とてもじゃないですが「膨張指向」などという偏頗な尺度では測り切れない、ある種「憑き動かされて行く」ような、生き物の在りようが見えてくるじゃないですか。「ここまでは安全」と言いつつ、常に「際」の先を見詰めて止まない、Sentinelを先頭に立てた集団が動いて行くような。
2015.05.15
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好奇心 それにしても、先のような事例だけを並べたてると、人類史というのはさながら「恐怖の総和」が作りだした、収奪と殺戮の跡に過ぎないのではないか、という気さえしてしまいますが、もちろんそんなことはない。まあ特に政治権力といった話になると、ネガな話題のほうが目立つので、どうしてもそうした印象になるのでしょう。毎日のテレビや新聞のニュースが、ほとんど暗く鬱陶しい話題が中心になるのと一緒で、歴史的事象についても、私たちはそれと知らず「暗いトピック」ばかりを選択的に取り上げて、「物語」を作ろうとする性向があるのかもしれませんね。 ヘンな話ですが、私たちはややもすると「暗い話題」ばかりに惹かれる、という癖があるのかどうか。早い話、朝からイヤに明るいニュースや笑い話の記事を見せられても、何やら違和感がしないでもない。しかし実際に自身の周辺が、毎日「暗い話題」に満ちているのかと言えば、もちろんそんなことはないわけで、「娯楽番組じゃないんだから、当たり前じゃん。ふざけるな!」と一喝されてしまいそうです。 しかしこれは非常に意地悪い見方をするなら、自分たち「周辺の安寧」を確かめるために、「暗い話題」を選択的に指向する結果なのではないか?要はそれらのニュースや歴史トピックは、「他人事」として「暗い話題」に満ちているほど、相対的に「ウチでなくて良かった、ああ安心」という立ち位置に、我が身は置いておけるということになるわけです。 「非常に曲がった見方だ」と謗られそうですが、日常の生活感覚とは案外「そういうもの」なのではないか?ヘンに明るい話題が時に観る側をシラけさせるのは、ヒトという生き物がそもそもそういう性向を、持ちがちな生き物であることを示しているのではないか知らん。 ところで、先に使ったエートス(ethos)という言葉、古代ギリシャ語で「習慣・特性」「出発点・出現」「特徴」などを意味するようですが、これを社会認識の軸として捉え返したのが、例のドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(1864~1920年)で、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は有名ですね。 またまたWikipediaを借りると、― プロテスタントの世俗内禁欲が資本主義の「精神」に適合性を持っていたという、逆説的な論理を提出し、近代資本主義の成立を論じた ―とありますが、昔大塚久雄さんの岩波新書で大いに感銘した記憶があります。 要は近代資本主義がなぜポルトガルやスペインのようなカソリック(旧教)圏でなく、英米オランダなどのプロテスタント(新教)圏で特異的に発展したのかという点について、信仰の証としての「精励、勤勉、節約」が「結果として」富を生む、つまりプロテスタンティズムが富の追及を積極的に是認するエートスを生み出したとするのです。 私はどちらかというと、実際に起きた歴史事象を唯物論的に解析する仕方より、そうした事象を生み出す背景、それぞれの集団を突き動かしているらしい、目に見えない「推力」のようなもののほうに興味があります。それを仮にエートスというような言葉でしゃべっているのですが、要はある集団に特徴的に共有されているらしい、「習俗」とか「行動様式」というような意味で使っています。 さて、話は敗戦後とも中国とも大きく離れるのですが、一般に言われる人間の拡張指向、あるいは膨張癖というのは、果たして本然のものなのかどうか?アメリカの西部開拓やロシアの東漸指向、さらにはモンゴルやオスマントルコの大陸制覇など、歴史に時に現れる特定集団の爆発的膨張については、人という生き物が本態的に持つ膨張指向という言葉で語られることがあります。しかし、それがどのくらい説得的かというと、私に言わせればかなり怪しい。 膨張指向が人間の基本的因子なのであれば、歴史とは人の集団と集団のぶつかり合いの集積に過ぎないことになってしまう。しかし先に上げた「暗いトピック」だけの選択が、「恐怖の総和」を生み出すのと同様、これも「覇権主義」というエートスが、優先的に選択したトピックに過ぎないのかもしれない。人は往々にして自分の為したこと、あるいは為そうとする思惑で、事実を選択的に取り上げて「物語」を語ろうとするものです。しかしたぶん人類史というのは、そんなきれいに整序された単純なものじゃないだろう、というのが私の見立てです。 「それでも『好奇心』というのは、生き物の基本因子だろう。膨張指向はその人間的結果じゃないのか」と言われそうですが、『好奇心』の結果がすべて膨張に繋がるとは必ずしも言えない。人間に限らず生き物の持つ『好奇心』の在りようは、たぶんもっと多様だろうと思うのです。 これも以前どこかで触れた話で、何かの動物番組でやっていたことですが、トムソンガゼルとライオンの距離関係というか、関り合いというのはすこぶる面白くて、捕食者の腹具合によって、その間合いは微妙に伸び縮みするのです。飽食したライオンの前でガゼルは驚くほど大胆で、そのうちの何頭かはどう見ても、わざとライオンの前を横切っているように見える。草地の安全を確認する上で、果たしてそこまで敢えてする必要があるのかどうか。 カギはどうやらこの「敢えて必要がなくても、せずにいられない」という点にあるようです。大事なことは、ここでそうした行為に及ぶガゼルは数頭であって、何百頭という群のごく一部に過ぎないということ。であるにも拘らず、この数頭がいることによって、他のガゼルは気兼ねなく草を食むことが出来る。ここに示されている『好奇心』というのは、先の膨張指向とは明らかに違うでしょう。 強いて言うとすれば、それは「際の確認」という衝動ではないか?
2015.05.14
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恐怖の総和 中国史に限らず世界史の様々な事象を見ていると、権力の収奪スケールの凄まじさというのは驚くばかりです。日本史にも苛政による収奪はあるものの、村や町を焼き払い全住民を「駆除」するというような事例は、信長をおいて他にはあまり例を見ない。 ユーラシア大陸では東も西も、例えば匈奴とかフン族、あるいは両者をまたいだモンゴルとかオスマン帝国、新大陸ではスペインによるインディオからの収奪と虐殺、さらには北米における先住民族、アフリカ大陸の黒人奴隷、インド亜大陸の植民地支配、オセアニアではアボリジニ系の先住民が、例えばタスマニア島のように入植者の狩の対象になって、完全に絶滅してしまった例もあります。 それらは昔の話だろうと言えば、とんでもなくて、ひょっとして20世紀というのは、全世界史的に最悪の「戦争の世紀」、あるいは収奪と虐殺の時代だったと言わざるを得ないのではないか。で、今世紀がそれを上回る惨禍の事態を引き起こさないとは、誰も確信を持って言うことが出来ません。 私たちのDNAというか生物的因子には、何かしらそうした収奪と虐殺指向の因子が、基本的にピルトインされているのかもしれない。あるいはそうした因子を持つ者だけが、選択的に今現在ここに残っているのかもしれない。ダーウィンの「自然選択説」や、かつてのドイツ「優生学」などは、西欧植民地支配あるいは白人優位説を正当化するロジックを暗に含んでいるのです。 しかし、だから今日的状況を招いたのが、ひとえに西欧的支配の論理だと一括してしまうのは乱暴な話で、先の事例に見るように、似たような事例は地球の各地各集団において、その手段や方法に変化はあっても、様々な時期に普通に発生しているとなれば、もう少し高次のレベルに目線を引き揚げて、世界史を見詰める必要があるかもしれない。生き物としての我が身に潜むどんな因子が、時に芽を出し集団的な暴走を抱くようになるのか、というような視点でです。 今、例に上げている中国史も、そうした人類史の事例として探りを入れているに過ぎません。 さて、中国史におけるもう一つの大きな特色は、先にも上げた権力による「収奪スケール」の大きさでしょう。年貢に耐えかねて住民が逃亡するという話は日本にもありますが、それが大集団を成して各地を流れ歩き、場合によっては天下を引っくり返すという事例はない。これは裏を返せば、それほどに収奪の規模が凄まじかったということで、それをやれてしまうエートスというのは、なかなか日本では想像し難いのです。 となれば、日本の歴史でかつて無く、ユーラシア大陸東辺において見られた事例、つまり遊牧騎馬民族と定置農耕民の攻防という点に、再び目を向けせざるを得ません。遊牧民族には家畜(羊、ヤギなど)を養う牧草地があれば、どこへでも移動して行くという機動性があり、それは馬の使いこなしによっていっそう増したでしょう。彼らから見て、中原に住まう定置農耕民というのは、どのような種族に映じたのか? これを想像しようとすると歴史学だけでは限界があって、人類学あるいはひょっとして動物行動学の部面にぐらいまで、射程を広げないと分らないかもしれない。歴史学とは、おおむね記述された記録をもとに年代記として語られるのですが、もともと遊牧民他、中原周辺の少数民族は文字を持たなかったわけで、いつ頃から牧畜を行うようになったのか、狩猟採集から騎馬に乗り移ったらしい民はどこで生まれたのか、といった起源を探りそれを確定する術など、もとより私たちにはないのです。 私たちが確信を持って言えることは、紀元前のはるか以前から中原周辺は、そうした生活スタイルの異なる種族が混交し、時に覇を争っていたということだけであって、初めて中原の大統一を成し遂げた秦の始皇帝(紀元前三世紀)が建設した万里の長城というのは、北辺からの浸潤が現実の大きな脅威として、ずうっと意識されていたことを表わしています。考古的には春秋戦国時代にも、数多くの砦や防御壁が作られていて、始皇帝はそれらを大規模に改修連結したのです。以来、明(14世紀~17世紀)の時代に到るまで、二千五百年以上面々として築かれ続けて来たのですが、実効的な役にはほとんど立たなかったようですね。となるとこの世界遺産というのは、ほとんど想像上の「恐怖の総和」が生み出したもの、と言うしかない。
2015.05.07
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神なき歴史観 しかし中国独特の徹底した「人間中心主義」が、自己抑制の効かない自我の増殖を、まるっきり是認しているのかと言えば、もちろんそんなことはない。「易姓革命」が、姓を易(か)え命を革(あらた)める、と読むように、徳を失った天子(王朝)は排除され、新たな姓の王朝に天命が降る、としているわけで、先にも触れたように、これは「権力の交代可能性」を含んた思想なのです。とはいえ、それだけだと仮に一つの王朝が永遠に続くとしたら、その王朝は西欧絶対君主並みの権力を、未来永劫振うことになるので具合が悪い。 「絶対的な天蓋」を持たない中国人が、そのリスクに対して考えついた智恵というのが、おそらく「史書」の編纂ということであったでしょう。歴代王朝の事跡は、その王朝が滅びた後、必ず「史書」という形で世に残す、というのが彼らの工夫でした。 「歴史書なら世界各地にあるじゃん」ということになりそうですが、別の王朝が前の王朝の事跡を記す、という所に智恵があるのです。当事者が自分の事跡を記したら、いつの世でもほぼ間違いなく自慢話に終始して、歴史書としての価値は求むべくもないのですが、王朝が変ればある程度客観的な記述が期待出来るでしょう。 司馬遷の「史記」をはじめとして、古代より様々な史書が編纂されるのですが、これはたぶん「易姓革命」の考え方から、必然的に出て来たものでしょう。新たな王朝はその(革命の)正統性を、前の王朝の誤謬に求めることになるのです。 ということで、中国では漢以来面々と、歴代王朝の「正史」が編纂され続けて来て、ほとんど「史書の国」といった感(現在の共産中国も「清史」を発行中)がありますが、その成り立ちからいって、客観的な歴史書とはなり難い。「絶対的な審判者(例えば神だの科学だの)」を措呈しない記述は、常に「現在」によって歪曲されるからです。とはいえ、後から自分たちの事跡を、必ず「記述される」という伝統は、少なからず時々の権力者(あるいは権力機構)の振る舞いに規制を加えたでしょう。 この場合も、だから中国の皇帝は善政をした、あるいはこれは一種の共和制だというようなことを、必ずしも意味するのではありません。そうではなくて彼らの行動様式(エートス)には、必ず上のような歴史に対する意識が宿っているということです。 現在の中国政府が必ずしも北朝鮮の現体制を快く思っていないのには、金一族の世襲体制というのが、中国伝統の歴史観に照らした場合に、少し具合の悪いことになって来るからでしょう。もし世襲一党独裁==王朝という体制を認めたなら、この一族世襲体制が仮に崩壊した場合、その共産王朝という枠組み自体も、「易姓革命」論的には革まってしまう(枠組み自体が批判の対象になる)ことを容認せざるを得ない。 中国が共産党主席の世襲を認めず、十年ごとの任期制にしているのは、共産党独裁という権力の枠組みを、代替可能な「共産王朝」ではなく、絶対的な「聖なる天蓋」に押し上げようとしているからです。そうすれば未来の「史書」で、当の枠組み自体が裁かれることはない。「清史」の発行が遅れているらしいのは、あるいはこの枠組み自体の見直しと、書き換えが関係しているのかどうか? それにしてもこのあたり、例えばアメリカの国立公文書館のような在りかたと、考え方がずいぶん異なるでしょう。是非善悪といった価値判断は別、歴史記録や資料は公開非公開は別として、とにかくそのまま凍結保存しておくというのは、人を超えた「絶対的なる天蓋=神」の存在を意識しない限り、出て来ない発想でしょう。日本だと敗戦後の公文書だけでなく、今でも公文書の破棄や改竄というのは、案外気安く行われているのではないか。 日本人は、間違いなく「誰とは言えない何者か」から、見られているのかもしれないという仕方で、自己を強く意識している集団だと思うのですが、この場合の「何者か」には、明らかに上のような唯一絶対神はカウントされてない。もしそれが意識されているのなら、だれもそんなことは「恐ろしくて、ようしない」はずです。この規制がどこからどのようにして働いて来るのか?これこそ、ここの話の根幹に関って来るのですが、まああまり急がないことにしましょう。 ここで再び断っておかなければなりませんが、私は中国人一般のエートスを批判しているわけではありません。先に「もし中国が、日本を占領したら」というヨタ話的な命題を掲げましたが、その時に現実に立ち現れるだろう切実な問題は、(ドンパチ勝ち負けの問題ではなく)エートスのぶつかり合いなのです。 こうしたはなはだ荒唐無稽な思考実験でも、もしそれをやってみる価値があるとすれば、それは「他者を知る」とはどういう作業なのか、どういう考え方をするのか、そのためには何をどう調べるのか、といったごく具体的なケーススタディーを、割と安直に行えるからだと思うのですが、さて。
2015.05.03
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絶対王政と「対自化」作用 絶対王政と言えば、すぐ17世紀フランスの太陽王ということになりますが、ここの話の流れで思い浮かぶのは、16世紀英国のヘンリー8世です。テューダー王朝第二代の王様で、6回の結婚に加えてローマ教会からの離脱と英国国教会の設立、そしてエリザベス一世の産みの親としても知られる王様ですね。 例によってWikipediaを借りると、絶対王政とは、― 王が絶対的な権力を行使する政治の形態を指す。中世までの諸侯や貴族、教会の権力が地方に乱立し、分権的であった状態から王が強大な権力を持って中央集権化を図り、中央官僚と常備軍(近衛兵)によって国家統一を成し遂げた時代 ―となりますが、この教科書的な説明では、王様は領国内の権力をすべて握っていたということになる。現にヘンリー8世はキャサリンとの離婚のためにローマ教会を離脱し、王自身が主催する英国国教会を作っているわけで、主導権はローマカソリックの権威から完全に彼自身に移っているのです。 しかしここで面白いのは、では絶対的権力を振るっているように見えるこの事例において、彼自身のエートス(性格・習性)はどうだったのかということで、実際のところ彼は敬虔なキリスト教徒だったのでした。ローマ教会を離脱したとはいえ、英国国教会の典礼儀式はほとんどローマ教会の写しであって、もちろん本人も背教者という気分はここから先もなかったでしょう。つまり絶対君主の彼においてさえ、「神の天蓋」はずうっと覆っているのであって、人間を超越した絶対者の存在という信念は揺るぎないものなのでした。 「それは世俗の部分において絶対的権力を握っているということであって、宗教的境位は別だったんだろう。それをごちゃ混ぜにしてはいけない」ということになりますし、現にヘンリーが簒奪したのはローマ教会の世俗的権力の局面であった、と言うことも出来ます。しかし「神の天蓋」を支える地上の主催者は俺だ、というのもヘンな話でしょう。絶対者は他者(それを支えるもの)を必要としないはずです。 理屈をこねれば、絶対君主というのが、もし「領国すべての生殺与奪の権利を専有する」存在なのであるとするなら、その王をさえ覆う天蓋の存在が、アプリオリに意識されているのはおかしいのではないか? 少なくとも中国の歴代皇帝は、そういう仕方で我が身を「上から覆う何物か」を意識することは無かったのではないか?先に触れたように中国における「天」とは一つの記号に過ぎず、事後的に「天命が下った」と説明される座標軸に過ぎない。我が身をいつでもどこでも確かに見詰めている「絶対的な何者か」が、皇帝の上にいるという仕方で意識されたことは、間違いなく無かっただろうと思うのです。 さて、「誰とは言えない何者か」から、見られているのかもしれない、という仕方で自己を意識するとは、「対自化」作用に他なりません。対自化を伴なわない権力構造は、際限のない自我の増殖を生み出す可能性もあり得る。まあいつの世、どこの世界においても、いわゆる「暴君」というのは現れるものですが(今でも)、西欧がいわゆる近代的自我の在りようを、真っ先に意識するに到ったのは、際限のない自我の自己増殖を抑制する機能を、「神」という存在が「対自化」作用という形で果たしたからではないか、と私は思っているのです。 主体の起点を「自己」に置くという点で、西欧近代的自我のエートスと、中国伝統の徹底した「人間中心主義」の構えは一見似ているように思え、さらに日本の「皇室」と違って「権力の代替可能性」も意識している、という点でも共通しているように見えます。現に自己主張のハッキリした中国人のプレゼンは、西欧では受け入れられ易いのではないか?しかし大事なことは、対置するもののない「人間主義」=「世俗主義」は、際限のない自己の増殖を生み出す契機ともなり得る。「中華思想」という言葉がありますが、これの根底には「対自化」作用を伴わない、究極の「人間中心主義」が横たわっているように思えるのです。 中国史というのは「三国志」がまさしくそうであるように、劇画のように飛び切り面白いのですが、時に疲れてしまうことがある。それは中味が厳密に人間同士の物語に限局されていて、それ以外の何ものか(神とか自然とか)、要は「人を超えた存在」が人に介在する物語というのが、ものの見事に一切ないという点です。 これは意識的にそうなっているのではなくて、彼らの歴史や風土のエートスがそうさせているのでしょう。
2015.05.02
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人文主義 論語に「子、怪力乱神を語らず」とあるように、孔子は道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らない、という姿勢で人倫を説きました。言い換えれば、そこでは「人間を越えた何物か」を措呈して、物事の説明を試みるというスタンスがない。 これは裏を返せば、春秋戦国の百家争鳴の世において、「怪力乱神」を人間の側の都合で説き、威勢を振るった勢力が一方で存在したということも示していて、それは後の「道教」のような、ごく現世的な民間信仰に繋がって行くものだったでしょう。孔子はそうした言わば非理性的な態度を退けたわけですが、それは一方で「主知主義」的な発想も孕んでいるわけで、「人間中心主義」という点では、他の古代中国の思想家たちと同一の平面に立っているわけです。 断っておきますが私はここで、孔子その他中国思想家の価値論をしているわけではありません。彼らの発想の土壌に共通するもの、そしてその理由を考えているのです。ここで安易に「風土論」を持ち出すのは、あまり知的な態度とは言えないのですが、それでもなお中原という土地柄を、中東の砂漠や日本の風土と比較してみたい、という欲望を抑えることが出来ません。 この三者を比較すれば、中原という土地柄はその「自然」自体の存在を、ほとんど感じる必要性の無い風土だったのだろう、と思わざるを得ないのです。無慈悲なまでに人間とは「無関係」に存在している中東の砂漠や、生半な人の智恵ではまるきり歯が立たたず、「鬼道」にすがる他なかった古代日本の風景とは明らかに違うでしょう。自然環境の違いというのは、そこに現われる「知性」の在りようにも、意識されない仕方でやはり影響を与えるだろう。孔子は「怪力乱神」を用いずとも、普通に世界を説明出来たのです。「主体の在りか」はあくまで人間なのでした。 余談ですが、それにしても「人間の営みをいちいち斟酌するようなことはしない」ほど、「超越した存在」である唯一絶対神という在りようを見い出したユダヤ教というのは、いったいどのような歴史的経緯で、中東の砂漠から世に現れたのだろうと思ってしまいますね。これは「信じれば必ず聞いて下さるはず(逆に答えてくれないのは、信心が足りないから)」といった類の、まあはなはだ「現世ご利益的」な宗教に比べて、主体の在りかを「対置」して見ようとしている点、ずいぶん曲がりくねった発想、言い換えれば「知的在りよう」をなしているじゃないですか。 以前別のところで、それは「たぶん、長く差別あるいは排除され続けた集団が、そう名指しされ続ける自身たちの在りようを説明するための物語として、『永遠に答えてくれない神』(むしろ答えてくれないことこそが、その絶対性の証明であり、であるにも拘らず人間の側は、それに問い続けなければならない存在)というものを作りだしたのだろう」というような話をしましたが、これは際限が無くなるうえにややこしく、また当該のテーマから離れる一方なので、一旦止めにしましょう。 要は、西欧ルネサンスのヒューマニズム(人文主義)というのが、そうした超越的な「神」と対峙し、それを意識する過程で現れたのだろうということだけを、ここでは確認しておきたいのです。 例によってWeb「はてなキーワード」を見ると、人文主義とは― ルネサンス期における、ギリシャ・ローマ・ヘブライの古典的教養を通して人間形成をはかる立場。ここから人間肯定の思想、教会を中心とした世界観から解き放たれた新しい普遍的人間像が生じた ―とありますが、肝心なことは、ここでは超越的な「絶対神」と対置する形で、人間を捉えようとしているということです。 具体的には、本来普遍的な権威であるべき教会が、はなはだ世俗的に権力を乱用した(免罪符の販売など)ことに対する疑問として現れたわけで、中世ヨーロッパ史とは、このローマカソリックの普遍的な権威と、ごく狭量で世俗的な王侯貴族たちの主導権争いの歴史と言っても好いのでしょう。西欧において権力が代替可能な仕組みとして観念されたのは、この両者の長い争いの結果であり、さらに教会が宗教的権威だけを残して、世俗的な権力を手放した(政教分離)ことによって、絶対王政に続く代替可能な権力構造が生まれ、西欧近代社会の芽(主体を「自己」に置くエートス)は開かれたのです。
2015.05.01
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