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職務遂行と殉職 今般の「安保法制反対デモ」を見ていて私が懸念するのは、で、現実に起こっている尖閣諸島への脅迫行為や、先の小笠原諸島におけるサンゴの大量密漁などの行為がさらにエスカレートし、領海侵犯に止まらず不法上陸占拠とか、日本漁民に対する傷害事件などに発展した場合(必ず起るでしょう)、さらに言えば朝鮮半島有事に韓国在住の日本人(数万人単位ですよ)救出に関して、この人たちはどのような回答を持っているのか。最悪のシナリオは「政府は何をしているか?自衛隊はなぜ出動しないんだ?」といった異議申し立ては、必ずこうした人たちから出て来るだろうということです。現にかつて明らかに左翼系の思想を持った若者たちが、三人ほどイラクで人質になった時に、その家族は「政府は何をしている。速く何とかしろ」と罵倒していたのを思い出します。言論思想信条の自由は保障されているとは言え、その自由には「責任」というリスクが伴なう場合がある、ということがまるで分っていない。 こうした立ち位置で自己表明する人々に、私はどうしても信を置くことが出来ないのです。私がもっとも憂慮するのは、そうした仕方の世論が「民意」という形で言論を圧殺していく時、先に見たような邦人救出の手立ては、法律の範囲では手も足も出ない。結果として「超法規的な判断」で、自衛隊を送り出すことになるということになってしまう。法治国家が法で武装組織をコントロール出来ないまま、それを使用するというのはきわめて危険な兆候である上に、戦地において法の定めの無い武装組織は、かえって危険に曝されるでしょう。 余談ですが、これに対する保守系議員の「自己責任論」にはあきれました。「自分の判断で行ったのだから、自分で責任取れ(後は知らん)」というのは、一般国民の感想としても上等とは言えない。まして国民に立法権を附託された国会議員は、国家の維持管理の上でこうした場合、いかなる思想信条があろうと、日本国籍の人には関与しなければならないのです。(関与の仕方に多少の濃淡はあるにせよ)それが「国家主権」というものでしょう。 以下は私のごく個人的な考えですが、国家の維持管理において「実力組織」―まあ言ってみれば、身体を張る組織―というのは、たぶん三つあると思う。一つは国内において犯罪から住民を守る「警察組織」、二つめは国外からの脅威に対して国家と国民を守る「軍隊組織」、そして広く災害から住民を守る「消防組織」といったところでしょうか。 さて警察と消防については、国民は彼らが「身体を張って、住民を守る」事について、何の疑問も抱かない。で、不幸にしてその職務遂行中に殉職した場合、大いに敬意を払うことはあっても、もちろん「迂闊だった、愚かだった」などと軽侮することはない(あたりまえです)。しかしこれが軍隊のこととなると、途端に話が不透明になるでしょう。早い話、旧軍の兵士の死について、ほとんど上に近い揚言をする人たち(あるいはマスメディア)は、今でもいるのではないか? 私は思うのです。デモに参加している主婦らしき人が、「子供や孫を戦争に行かせてはならない」と言う時、では火事の場合誰が火消しを行うのか?泥棒が入って来た時誰がそれを排除するのか?皆さん何の疑問も無く消防や警察を呼ぶでしょう。火事や泥棒は危ないから「子や孫を消防や警察に行かせてはならない」とは、誰も言わない。国家の主権が外国から脅かされる時、つまり主権の存立危機事態ですが、具体的にそれを排除し守り得る組織は、武装集団である軍隊しかないのですが、なぜ自衛隊だけが「行かせてはならない」ことになるのか? 将来的に自衛隊員が発砲したり、殉職したりするケースは必ず出て来るでしょうが、それが国家の存立危機事態に対応するものであること、あるいは平和維持活動において生じたものである場合、それは消防や警察と同じく職務遂行中に起きる不可避的な出来事であって、それ以上でも以下でもないのだと思う。 私は今から恐れるのですが、仮に自衛隊員が職務遂行中に殉職した場合、日本国民はそれをどのように受け入れるつもりなのだろう、と今から思ってしまう。実際のところイラクでもモザンビークでも、殉職者が出なかったのは、たんに偶然であって、戦地の実態というのは(「平和を守る」ということの実態は)、ほんとに国民に知らされない。国会はそれこそ取り上げるべき場なのに、誰もしない。実際の戦地で命の危険に曝されている原因の本質が、現行法制の不備にあることは明白なのに、野党はわざとその話題を避けて、空論に時間を浪費したのです(リアルな話に及ぶと、自身の論が途端に脅かされるからです)。これではがんじがらめにされて身を守る方図を失ったまま戦地に送られた隊員から、自殺者が出るのも仕方がないのではないか? 逆に殉職者をことさらに「国家に殉じた」という仕方で弔おうと思っている向きに対しても、私は今から違和を感じる(こういう勢力も必ず出て来るでしょう)。公務を遂行し不幸にして殉職した人は、国家の義務として家族に返し、公務から永遠に解き放つべきなのです。靖国は死者を永遠に公務に釘付けにしようとする施設です。こんなところに自衛隊員を葬ることが出来ますか?ついでに言うと、靖国に参拝されている国会議員の方々、カンボジアPKOで殉職した警察官を、一度でも弔問したことはありますか? 私はそういう意味で、まだ日本人はこれから起るであろう事態に対する心の準備が、右左の主義に関係なくまったく出来ていないと思う。私はそういう仕方で自衛隊員を戦地に送り出すことはしたくない。消防隊員や警察官と同様の、国民に認知された「公務を遂行する集団」として見送りたいのです。
2015.09.26
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「議決」と「民意」、そして「合意形成」 今国会や議事堂周辺の騒ぎを見ていると、もうすっかり古びて見飽きた滑稽な光景が繰り広げられているのですが、それにしても国会の「議決」とか「民意」、そして国民の「合意形成」とは一体何なのだろうと思ってしまう。 そもそも「多数決原理」というのが、「議決」の根拠としてどれほどの同意を得ているだろうと思うのです。誰もが一点の疑いも抱かない「多数決原理」、過半数の賛成があれば「議決」という原則は、一見当たり前に見えますが、いつ頃誰がそう決めたのか?小学校の学級会以来「多数決」に慣れ親しんでいる日本人にとって当然の事でも、現実の社会でそれが軋み音をたてている現在、国会の目的である「議決」とか「合意形成」とは何か、というところまで立ち戻って問い直したほうが話が早いのではないかしらん。 分りやすい例を挙げれば先般の「大阪都構想」、住民投票の反対多数で否決となりましたが、賛否の差はごく僅少で、結果から言うと果たしてこれが「民意」と言えるのか?もちろん話は逆で、むしろ住民の意志を分断する結果を招いたと言った方が正確ではないか? ところが住民投票を決行した当の橋下さん自体が、「多数決原理」を振り回して、これまでの府政市政を乗り切って来たわけで、その手前あっさり「負け」を認めて手を引かざるを得ない、どころか政界引退発言までして「後は知らん」。これでは投票行動を起こした半数近い賛成住民の意志は置き去りになる。要は政治目的達成の手段を、すべて「数」に帰した結果がこれを招いたのです。数に偏すれば政治というのはチープな手段を厭わない。分りやすい「二項対立」を煽ることで人気を得るというのは、ある種の政治家にとって抜き難い魅力であるようで、その場合「少数派」は「負け組」として閑却されるのです。これって「合意形成」という、社会生活にとってたぶん極めて大事な視点が、決定的に欠けているでしょう。 で、これと同じ景況が、結局今国会でも繰り返されて来たように思う。「数」の原理からすれば、新安保法制は与党内の公明党と自民党の合意がなされた瞬間に、この法律は決まったと言っていい。与党としては次回選挙のこともあるので、出来るだけ穏便に丁寧に国会を運営しようとしますが、しょせんは既決の事項ですから、議論は形式的にならざるを得ない。で、野党もまた実質的に「決まっている」事項に、瑣末なイチャモンをつけるという仕方でしか態度表明が出来ないので、外から見ているといかにも不毛で、意味不明な論争をやっているとしか思えなくなって来るのです。 言っては何ですが、途中の参考人質疑で出て来た憲法学者、何だかイスラムの法学者を見るようでした。「憲法に照らして、これは違憲」とは、そのまま「コーランに照らして、これは違法」と裁定する彼の法学者の態度表明と一緒です。なぜならこの人たちは憲法を絶対的な法典=神と同定しているからで、もし本当に真の法律家であるなら、論理必然的に「現行では違憲であるので、ではどうすべきか?」という議論にまで踏み込むべきなのです。現行憲法をあたかも人間の作ったものでなく、神の下した「不磨の大典」に祀り上げるような仕方で、「違憲」と裁定するのは法律論争ではなく、明らかに「神学論争」の部類に属するものです(何もイスラム法学者をけなしているわけじゃないですよ)。 ここに現れた命題「では、どうするべきか?」の答は簡単で、「合憲であるためには、憲法改正が必要」と言うしかないじゃないですか。なぜそれを言わないのか、何が彼らにそれを言うことをためらわせているのか。それこそが先に見たノモンハンや東日本大震災でも現れた、日本人特有の強い強い心理的規制の一つなのではないか? 私の見る限り、これら憲法学者たちにとって「憲法改正」という言葉はたぶん禁句なので、護憲改憲関係無くその言葉を発すること自体を抑制してしまう。いったんこの言葉が遡上に上がれば、我が身が「改憲論者」と名指しされかねないリスクを暗に感じているのです。これって、「反戦平和主義」を唱える人たちが、反戦平和を達成するために当の「戦争」そのものについて論じることを忌避する態度と同じでしょう(被害者としての「戦争体験」は、山のように語りながら、です)。 この国では「思想信条の自由」が保障されていますから、一般の人が街頭で何を言っても基本自由なのですが、それは逆に「何を言われても自由」というリスクを認める、という前提が無ければ成り立たない。相手の意見あるいは当の議論そのものをも「封殺」してしまうような態度表明は、けっして「思想信条の自由」を醸成しているとは言えないでしょう。「自由」とは常にニュートラル、諸刃の剣の性質を持っているのです。 この「不毛な自由」から脱するために必要なことは、二項対立的な態度表明は避けるということでしょう。簡単に言えば「他者の存在を認める」ということであり、もし本気で「合意形成」を望むなら「他者の意見を聞く」しかない。この場合の「他者」とは、今まさにこの人たちが「改憲派」あるいは「好戦派」と名指しするところの、もっとも聴きづらい相手の話を聞く、ということです。 私の見る限り、街頭デモの参加者やそれを(優先的に報道するという仕方で)暗に支持するマスメディアと、それに便乗した野党議員たちは、二項対立の「異議申し立て」には熱心でも、それを乗り越えた「合意形成」を目指すという姿勢は微塵も見られませんでした。つまり「分断」には熱心でも、「合意」への困難なプロセスには関心が無い(じつは事態を引き受ける気が無い)という姿を露呈していたのです。これは戦後左翼や知的リベラルと言われる人たちが、なぜ今世紀になって急速に支持を失ったか、この人たちは今だに充分気付いていない、ということをまたしても示してしまったということです。
2015.09.25
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メディア・スクラム 長いことブログアップを休んでいます。毎年夏というのは、ことのほか「戦争」に関心のある私にとって、特別な季節であり、年中行事のように繰り返される「戦争報道」に刺激されて、このテーマでしゃべることが多かったのですが、この8月は敗戦後70年ということもあって、そのあまりの多さに辟易して、ドン退きしてしまいました。いや「戦争報道」の多さというより、その報道の仕方の一様さにウンザリしたと言ったほうが好いかも知れない。これぞ一見「反戦平和」という正義の味方を装ったメディア・スクラムなのではないか? 戦争の悲惨と残虐を「反戦平和」という看板で「報道」するとき、彼らはそういう在り方を「正義」と見なして、一点の疑いも抱かないようにして描くのですが、メディアの姿勢として果たしてそれで充分と言えるのか?少し考えてみればすぐ分ることですが、古今東西「戦争をやりたくて戦争を始めた人間」など、たぶんこの世に存在しない。で、いったん戦争が始まれば、この世で想像し得る限りのありとあらゆる悲惨と残虐は、必ずそこで繰り返されて来たのです。それらを充分承知の上で、人間は「戦争を繰り返して来た」し、今も起しているし、将来も起すでしょう。「戦争」とはそういうものです。 「いや、そんなことはない。軍産複合体や武器商人など、『戦争』で儲けているじゃないか」「ナポレオンだのヒトラーだの、やはりどう見ても『戦争が好き』だったんじゃないの」と言われてしまいそうですが、彼らとて我が身一人で「戦争が好き」だったわけじゃない。 こんなことを言うと、シニシズム(冷笑主義)あるいはペシミズム(厭世主義)と思われてしまいそうですが、そんなことはない。人の世に限らず、生き物が「生きて在る物」である以上、生存に関わるいざこざは常に生じるのであり、「戦争」とはその生き物としての基本属性が、人間という組織集団において特殊肥大化した容態であると言って好いでしょう。 戦争を悪と見なすのは簡単(そんなことは誰でも知っている)。であるにも拘らず、21世紀の今に到るも、なぜ戦争が世界各地で繰り返されるのか?という仕方で問いを立てるのが、本来の「戦争報道」というものではないか?そういう「今」に関わる仕方で「戦争」に斬り込んだ報道は、私の見る限り一つもありませんでした。あえて言えば70年談話や新安保法制に絡めて、明らかに反安倍キャンペーンとしか思えない記事や番組も多数ありましたね。 こんなことでは、とても落ち着いてまともな話など出来ないというわけで、安保法制の騒ぎが収まって沈静するまで、ここでの話はするまいと思ったのでした。 こうした報道のスタンスは、私が物心ついて「戦争」に関心を持ち出した50年ほど前から、ほとんど変っていないのではないか?で、それに呼応するかのように繰り広げられる「街頭デモ」もまた、他の「反原発」だの「沖縄」デモと同様、60年安保70年安保を髣髴させるあるワンパターンを、より矮小化した形で示しているような気がしてしかたがない。こういうのを見ていると、私たち日本人は敗戦後70年一体何をして来たのか?あるいは明治以降の近代日本は、何を以って「近代化した」と言えるのか、にわかに自信が無くなって来るのです。 まあ今どきの世界情勢を見ていても、理想的な民主主義というような国家は、どうも現実には存在しないようだし、日本だけが一人チープなマインドに侵されている、というわけではもちろんないのですが、それにしてもこの8月9月のマスメディア、および一部デモ好きの人たちの振る舞いには呆れてしまう。新安保法制が国会で、彼らが言うところの「強行採決」されてごらんなさい。これら意見を成す人たちはとたんに何事もなかったかのように、間違いなく日常に戻るでしょう(60年、70年安保の後と同じように)。で、何か事が出来した時には、必ず「だから、私たちはその時反対した」と、今般の事柄を免罪符のごとく振り回すのでしょう。 明らかなことは、この人たちには「事柄を真に引き受ける」気が、最初から欠落しているということです。というより「引き受けなくて済む」ように真の問題から、我が身を巧みに逸らし続けて来たと言っていい。要は最初から「合意形成」を排除した、「他者を拒否する」姿勢に貫かれているわけで、この点だけは70年間全然変っていない。よくこれだけ古臭い思考回路で、この世を見続けて来たものだなと逆に感心してしまうほどです。 私が申し上げたいのは、例えば「戦争法案」だのと「徴兵制復活」だのといった、中味とはまるきり関係のないレッテルを貼り付け、絶対反対を叫ぶ仕方の報道とかデモというのは、裏返しの戦前のマインドだということです。戦前のメディアはこぞって「鬼畜米英」を呼号し、親英米派や宥和主義を徹底的に排除したのですが、その当の新聞各社やNHKは敗戦後、何らの歴史的脈絡も無しに突然「反戦平和主義」を唱えはじめ、それ以外の言論は「保守反動」のレッテルを貼って、この世にそれらは存在してはならないことにして来た。自分の過去も親肉親兄弟の過去も、全部無かったことにして、それらの言を成すこと自体を、あたかも「汚れ」でも扱うかのように排除して来たのです。 しかしそれらは、どう見てもまともな「歴史的な物の見かた」とは言えないでしょう。自身の根っこを省みない言説というのは、いかにもいかがわしさを感じさせる。彼らが「戦争反対」を叫ぶ時、自身の親祖父母の世代が、かつて何を叫んだかということは、絶対カウントされてないというか、確認したこともないのではないか?私はこういうふうに「超歴史的に正義や理想を語る」ことには、どうしても同意出来ません。何も親兄弟の恥や傷を、「紅衛兵」のごとく暴き出せと言っているのではありません。自身がそうした日本国の子孫であるということを忘れてはいけない、ということなのです。これもまた誤解されそうですが、「だから私たちは、永遠に汚された罪深い、許されざる国民だ」というふうに釘付けにせよ、と言っているわけではありません(そうしてしまいたい輩が、現に国内外にいるらしいのです)。 自身が語るとき、あるいは行動を起こすとき、それは何に立脚して、どういう経緯に基づいてそうするに到ったのか?こうした「絶えざる問い」を我が身に立て続けない限り、「真に事柄を引き受ける」ことなど出来ないだろうと思うのです。まあ、ここまでして来た長い長い話も、いずれもそうした「絶えざる問いかけ」の、ささやかな試みのつもりだったのですが。
2015.09.22
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