全3件 (3件中 1-3件目)
1

7月のラーメンは「北京」さんに行ってきました。昨日のキャンプツーで土砂降りにやられたテントを干したり、キャンプ用品を再度洗ったりしてたらいつの間にか昼をとっくに過ぎてた。ランチ難民になっちゃいそうな時間だったんで、昼中開いてる近所のラーメン屋「北京」へ行くことにしました。ここが、お昼の休憩時間がないことは、リサーチ済みっていうか近所なんで・・・。ここ、割と老舗で、30年以上はここで営業してる。昔はラーメンとライスしかなかったんだけど、初代のオヤジが引退するのを機に、店に出入りしていた麺屋さんが、経営を引き継いでやってて、少しづつメニューを増やしてるみたい。おお、確かにメニューが爆増しとるがな。しかも、メニューにない企画商品まであるじゃん。それじゃあ、ちょっと変わり種の「つけめん」いってみるかな。つけ麺定食(大盛) 1040円これ、かなりのボリュームやで。オーダーした後で気づいたんだんだけど、定食についてくるご飯はお代わりし放題で、お代わりご飯のジャーの所に置いてある漬物も食べ放題だった。つけダレもうまいし。麺も旨かった。さすがにご飯のお代わりはいらないボリュームだったちょっと他の種類も食ってみたいし、昔からのラーメンも、味が昔のままか食ってみたいな。ちなみに、初代オヤジから経営を引き継いだ麺屋さんも、現在は麺屋さん自体の経営を止めてしまったらしく、この北京は洋食やラーメンを手広くやってるグループのフランチャイズに入ってるみたい。企画商品がたくさん派生してるのは、このおかげかな
2023年07月31日

さて、「四国カルストキャンプツー」の2日目です。夜中から雨が降ったり止んだりだったんだけど、夜明け前に大降りして、日が昇るころには止んでました。日の出は、テントから見れたんだけど、昨晩の雨で足元が悪かったので、テントの中で様子見していたら、今度は本気の大降りが開始。雨雲レーダーの予想図を見たら、今後断続的に大降りと小康状態を続けていくみたい。雨が小康状態になったところで、カッパ着て、テント撤収。撤収中にまた本降りに戻って、カルストから、下山するときには豪雨になってた。ツーリング中に、こんな豪雨に当たったのは初めてだな。Ninja400は、初キャンプだったんだけど、トンだ応用編からのデビュー戦になってもうた。R197まで降りてきたら雨は止んでて、須崎まで戻ってきたら嘘みたいに快晴だった。須崎はカワウソの町なんで、ローソンのマスコットもカワウソ君になってる。今日の予定が四万十方川を南下して、須崎経由で高知へ入る予定だったんだけど四万十方面は雨雲の帯が連なってたから断念。高知入りも横浪黒潮ライン経由を狙ってたんだけど、雨に濡れたテントを積んだ、この重荷重状態でワインディングに行きたくないのでこれまた断念。須崎の道の駅で、レストランの開店時間を待つ間に、行先変更先をリサーチしよう。高知で別の機会に行こうと思ってたところがあるので、行先はすぐ決まったんだけど、名所の位置関係とかを頭の中にインプット、ナビにも登録して、行先は決定したんで、お土産買って、鍋焼きラーメン食べたら出発やね。この道の駅は、この界隈の交通の要所に作ってあるから、よく利用するんだけど、お土産も充実してるし、レストランもメニューが充実してるのよ。鍋焼きラーメンは、須崎で生まれ50年近くの間地元の人々に愛され続けてきた須崎の食文化。スープは、親鳥の鶏がら醤油ベースで、具は親鳥の肉、ねぎ、生卵、ちくわ(すまき)など。そして、器は土鍋(ホーロー、鉄鍋)であり熱々の状態で土鍋のふたを取ると鶏がらスープの香りの湯気に包まれ、スープと細麺の絶妙なバランスがとれた日本一熱いラーメンと言われています。市内に専門店の名店もたくさんあるんだけど、ここの道の駅のお店もおいしいのよ。行先は、今、NHKの朝ドラの舞台にもなっている、高知県佐川町でした。NHK朝ドラ『らんまん』主人公の槙野万太郎のモデルとなっている、日本を代表する植物学者・牧野富太郎博士のふるさとで、ここ佐川町は幕末から明治にかけて多くの歴史的な人物を輩出した町としても知られています。高知県は江戸時代、土佐藩を山内家が治めていました。その筆頭家老・深尾家が領地としたのが佐川町で、教育や商業振興にも力を入れたことから、幕末から明治にかけて人材を輩出する素地を作ったとされているそうです。深尾家が力を入れた商業振興の要が、酒造りで、日本酒で佐川領を発展させようと、領内で酒造りを始めたことがきっかけで、多いときで9つの酒蔵が集まる日本酒の一大産地だったそうです。「牧野博士の生家もそのひとつで『岸屋』という屋号でした。「岸屋」は明治時代になると経営が傾き、別の酒蔵に統合されることになりますが、その後、佐川町にあった酒蔵は次々に統合され、いまでは司牡丹酒造1つにまとまっています。この通りも、朝ドラのロケ地ですね。2トンの砂をまいてアスファルト舗装を隠し、主人公が生れ育った明治初期の町並みが再現されました。ロケの時は、このマンホールたちは、砂の中だったんでしょうね。安永元年(1772年)ときの領主、六代領主 深尾重茂澄が家塾「名教館」を創設し、後に享和二年(1802年)七代繁寛がこれを拡充して郷校としました。この名教館は明治維新に再開して多数の先覚者を輩出しています。後で佐川町のHPで確認したんだけど、これがそうそうたるメンバーなんです前列:楠木 繁夫1905年-1956年 歌手。西町に生まれる。上京、東京音楽学校中退後、多くのレコード会社を渡り歩いた後、昭和10年テイチクレコードでの「緑の地平線」(作曲古賀政男)がヒットし、一躍流行歌手となった。戦後も「紅燃ゆる地平線」「ハルピン恋し」 などヒットを出し、紅白歌合戦にも出演した。前列:牧野 富太郎1862年-1957年 植物学者。造り酒屋の一人息子として西町に生まれ、名教館で学ぶ。明治14年(1881)家業の造り酒屋を処分し上京。以後植物分類学に人生を捧げる。明治21年(1888)「大日本植物志図編」を自費出版、同22年には日本人として初めて新種発見の植物「ヤマトグサ」を発表する。「-志図編」を第11集まで出版するなど貧困窮乏に耐えながら独力で「植物学の父」と呼ばれるほどの権威となった。前列:古沢 滋1847年-1911年 政治家。上郷に生まれる。名教館で学び勤王倒幕運動に参加。維新後、新政府に出仕し明治3年イギリスへ留学。帰国後、板垣退助らと愛国公党を結成、民撰議院設立建白書を起草した。後に官界に再び入り、奈良、石川、山口などの知事を歴任、明治38年に貴族院議院となった。後列:伊藤蘭林1814年-1895年 儒学者。深尾家家臣伊藤徳正の子として上郷に生まれる。名教館で学び長じて教授となり、多くの深尾家臣子弟を訓育したことから、田中光顕以下、佐川郷内から輩出した志士は皆蘭林門下である。維新後の名教館廃止後も終生家塾を開いて郷党の子弟を教導した。(佐川町HPより)ほかの人は佐川町のHPをチェックしてください。高知の田舎町から同時期にこれだけの人材が出てきたなんて、ホント驚きだわここで一息、冷たいものを頂きましょう。旧浜口家住宅は江戸時代中期から続いた酒造商家の邸宅で、現在はカフェやお土産屋、地元観光協会が入っています。ここ佐川町は、「さかわかき氷街道」として毎年、町産の食材をメインにしたかき氷を紹介したイベントを開催しています。抹茶をオーダーこれが、デカいんだわ。原料は水だからパクパク行けるかと思ってたんですが結構大変でした佐川文庫庫舎は、明治初年の鹿鳴館時代の雰囲気を現在に伝える県下最古の木造洋館です。うえまち駅は、現存する日本唯一の木造2等客車を展示した、観光振興拠点です。現在は観光協会さんも旧浜口家住宅からこっちへ移ってきています。「ロ481号客車」明治時代の2等車なので現在のグリーン車ですね。。きれいに復元、保存がされています。ベースは明治時代の車両ですからね。牧野富太郎の生家は酒造り業者の一つ「岸屋」。大正時代には割烹旅館に変わり、昭和初年代に取り壊されました。跡地は、昭和27年に記念碑が建立され生誕地として顕彰されてきました。平成25年、生誕150年事業として、当時の面影を再生した「牧野富太郎ふるさと館」が開館しました。さらに令和4年には内部をリニューアルし、牧野博士の少年期のエピソードなどをもとにした部屋が作られ、記念撮影などが楽しめるようになっています。佐川町地場産センターの「街並模型展」の看板に惹かれてやってきました。ここは、歴史的建造物を一同に展示しており、2階では佐川町の模型作家、栗田眞二さん作成の町並み模型が展示されています。佐川町内外の建物が内部まで緻密に再現されており、その精巧さにはまさに「驚き」屋根が外せて、上から内部を覗くことができます。名教館教授の伊藤蘭林は、名教館が廃止となった後も、自宅で私塾を営んでいました。1000人を超えたと言われる教え子の中には、牧野富太郎博士をはじめ、明治維新後に宮内大臣を務めた田中光顕や近代土木の先駆者・広井勇など、著名な人物が多く輩出されました。青山文庫は、名前に「文庫」とついているので、町立図書館と思ってましたが、坂本龍馬・中岡慎太郎・武市瑞山らの維新関係資料や、江戸時代に佐川の領主であった土佐藩筆頭家老深尾家の資料などを展示している博物館です。青山文庫の裏山にある牧野公園は、桜の名所としても知られています。明これは、治35年、牧野富太郎博士が故郷に桜の苗を贈ったことが公園のはじまりです。竹藪だった場所を切り開き、草刈りや花壇づくりなども行い、今ではおよそ700種類のうち400種類が牧野博士ゆかりの植物の公園となっています。ボランティアグループによる管理が行き届いていて、あちらこちらで、野草の花が咲いていました。桜のシーズンにまた来ていたいですね。町も公園も桜が咲き乱れるようですよ。公園の頂上付近の物見岩まで上がってきました。物見岩の上からは、佐川の街並みが一望できます。清源寺は、朝ドラの中で、主人公が通った学問所「名教館」として登場します。佐川ナウマンカルストは、佐川に2度来町し、佐川を「地質のメッカ」として世界に広めた日本地質学の創始者である、ドイツ人地質学者エドモンド・ナウマン博士の名にちなみ博士の来町100年を記念して造られた公園です。巨大なナウマン象のオブジェが羊の群れのような石灰岩の谷間に置かれています。ここも朝ドラに出てきましたね。夏場になると草が生えマムシが出るあるみたいです。冬に行けは、草がほとんどなく幻想的な世界を楽しむことができそうです。?伊野ICから高知道に乗って、そのまま岡山まで帰ってきました。途中、馬立PAで休憩したときに、懐かしいジュースを発見。マウンテンデューってこんな味だったっけ?Ninja400とは、早島ICで別れて、無事帰宅。2日で645kmの旅でした。四万十へ回れなかったから、ちょっと消化不良だな。今回のお土産は鍋焼きラーメンの名店「橋本食堂」の半生ラーメンセットと、芋けんぴと塩けんぴです。
2023年07月30日

'23 7月の遠征ツーリングは、令和5年7月29日から7月30日で「四国カルスト」へキャンプツーに行ってきました。本来は1週前の開催予定だったんですが、仕事の関係で急遽1週ずらしての催行となりました。楽しみにしていた人、ごめんなさいね。集合は、鴻ノ池SAに8:00です。時間丁度に到着。ninja400が待ってました。今回はキャンプツーなんで、フルパーニアで積載しています。しかも、30Lのトップケースではなく、60Lのホムセンケース乗っけてきました。このホムセンケースが、いまいち安定しないので、休憩ごとに積載チェックです。2つのバンドで留めているので、落ちることは絶対無いんですが、ギャップで微妙に動くのが気になるんですよね一気に高知の中土佐にある、久礼までやってきました。久々の高知の海だな。前にここに来たのはゼファーに乗ってた時だから、20年くらい前なの家族で子供連れて来た時も、ここの海で遊んだな~家族で来たときは、向かいの半島の先にある「黒潮本陣」に行ったな。懐かしい20年の間に、避難タワーが出来てるそれでは、大正市場へ参りましょう。大正4年、それまでは地蔵町通りと言われていましたが、市場周辺一帯の約230戸余りが、大火事で焼失してしまいました。その時に、大正天皇が落ち込んだ町民へ復興費として当時のお金で350円を寄付してくださいました。これに深く感激した町民たちはそれまでの町名でもあった旧地蔵町通りから「大正町」へと改め、市場の名称も「大正町市場」となり現在にいたっています。明治時代の中ごろ、漁師のおかみさんたちが捕れた魚を売り出すようになったのが市場のきっかけ。新鮮な魚で人気の大正町市場は、干物や地元の野菜、果物から、店内で食べられる魚介のどんぶり物など、海や山の美味しいがギュッと詰まっている市場です。特産であるカツオ節の製造を土佐藩が奨励していたこともあり、土佐沖では古くからカツオ漁が盛んでした。その漁法として、ここ久礼で400年以上の伝統を誇るのが「一本釣り」。巻き網漁で獲れたカツオと違って傷がつかず、鮮度がいいんです。ド定番のカツオのタタキ丼と、ウツボのタタキ(単品)をオーダー。丼用とタタキ用のタレが2種類ありました。もう少しあれこれ食べたかったですが、キャンプ場の場所取りもしたいし、先を急ぎます。せっかくなんで、避難タワー経由で帰ります。後で調べたら、この避難タワーは、「純平タワー」って名前がついてました。純平とは、久礼を舞台にした漫画「土佐の一本釣り」の主人公なんだって。この純平タワーは、南海トラフ巨大地震に備えた鉄骨造地上3階建ての津波避難タワーで、螺旋形のスロープや階段、避難ゴンドラを設置し、2、3階には防災倉庫、屋上にはヘリコプターによる救助スペースが設置されています。ただの避難タワーではなく、通常時は観光施設としても使われています。避難タワーらしからぬデザインに特徴があり、なんとグッドデザイン賞を受賞していました。タワー下の海辺には、銅像が立ってたんですが、「純平」が主人公の漫画「土佐の一本釣り」の作者、青柳祐介の銅像でした。青柳祐介は、地元・高知を舞台にした作品を多く発表した漫画家で、ビックコミックを主な作品発表の場にしていました。「土佐の一本釣り」は、1980年に松竹から映画になってました。青柳祐介の銅像の前の鰹の碑は青柳裕介氏が揮毫した「鰹感謝供養」の大きな文字が刻記されています。裏面にはマンガの主人公純平と八千代の姿と、碑の由来、鰹に対する感謝を記載した陶板がとりつけられていました。それにしても暑い。今回は暑さ対策として、一昔前に流行った「水を含ませて振り回すと冷感が戻るタオル」を持参。タオルの水を取り替えて、四国カルストに向かいます。道の駅「布施ヶ坂」で休憩。もう暑くて、休憩ばっかり四国カルスト「姫鶴平キャンプ場」着。姫鶴荘でチェックインしてきました。テント1張り¥500円です。予約はできませんが、場所の指定等もありません。要は早いもん勝ちです。キャンプ場は水場がある「上段」も若干の空きはあったんですが、そこが人の動線になる部分で、寝るときに人の出入りが気になりそうだったので、今日、特別に解放されていた「中段」のグランドにテント場所をゲットしました。ちゃちゃっとテントを設営して、テーブル、チェアを設置。大荷物を下ろしたので、四国カルストを堪能ながら買い出しに行きますか。R197まで下山してきました。とりあえずお風呂だな。お風呂は、梼原町の雲の湯温泉に寄っていきます。まあ、ここしかこの界隈は、温泉はないんだけどね。温泉の上にそびえ立っているのは「雲の上ギャラリー」日本建築の軒を支える「斗栱(ときょう)」という伝統的な木材表現をモチーフとして、刎木(はねぎ)を何本も重ねながら、桁を乗せていく「やじろべえ型刎橋(はねばし)」は、世界でも類を見ない架構形式による唯一の建物で建築家“隈研吾さんのデザインです。ここ梼原町は、図書館やまちの駅など、建築家“隈研吾さん”の建築が世界で最も多く集まっているスポットなんですよね。隈研吾さん建築巡りは、明日ゆっくり見て回ろう。時間もないんで、まずは夕飯の買い出しだわ。この界隈、スーパーらしいスーパーはここだけだったんで閉店の19時までには、絶対ここに来る必要があったのよ。買い出しも完了し、再び姫鶴平キャンプ場へ戻って来た。まだ、日も高いし、夕飯の支度前に、姫鶴平の展望台へさっきまでの暑さが嘘みたいに風が通るし、すげえ涼しい。真夏日が嘘のように快適だわさすが高地。もしかして本当に夜は寒いんじゃ・・・。ここが「下段」のキャンプ場。車、バイク横づけOK上の写真の左上が、我々がテントを張った「中段」キャンプ場。普段「中段」は駐車場として使用しているので、キャンプ場としては解放されていません。今日は特別に解放されていて、車、バイク横付けOK早めに来て先にテント張ってたんで、いい場所が取れました。上の写真右上の三角屋の水屋がある場所が「上段」のキャンプ場。更に一番右上の三角屋根の大きな建物が受付した「姫鶴荘」トイレは「姫鶴荘」の裏にしか無い。「上段」は、すぐ隣に駐車場があるので、そこから荷物搬入が可能です。ただし、この駐車場が狭くて、キャンプ場の広狭ではなくて、テントスペースはあっても車が停められないのよね。さて、晩餐会準備開始です。ここのキャンプ場は、ごみを全部持ち帰る必要があるので、缶ゴミになるビールはやめて、ハイボールで宴会します。さあ、日も暮れてきました。晩餐会スタートですね。WAQさんのLEDランタンがいい仕事してくれてます。お肉もお酒も無くなったので、晩餐会終了です。残念ながら楽しみにしていた星は見えず。明日に備えて、就寝です。夜中に何回か空を見上げましたが、星は見えず。残念ながら雨が降ってきました明日に続く
2023年07月29日
全3件 (3件中 1-3件目)
1

