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山と谷の話の続きです。 さて今度は大きい山を二つ連ねたものと、先に述べた大と小の2つの山、 この二つを見比べてみてください。どんなことに気づくでしょうか。 ここで、紙に書き出して眺めてみてください。行動しなければ分からないと思いますよ。(TV「相棒」の右京さんの名台詞です) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、いかがでしょうか。山が大きくなることで、「谷が深くなっている」、というところに気づく方は、 1に、行動する習慣のある人。2に、脳力開発でいう両面思考が身についている。 今度は、低い山も二つ並べ、谷を比べて見たらどうでしょう。 山が大きければ、谷も大きい。谷が小さければ小さい山になります。 「当然じゃないか」と言われるでしょうが、この当り前のことが、実は分かっていない。 分かっていないと言うことは、知っていても使えない。使えるには、次の3つの条件が不可欠なのです。1に、学んだこと自体に普遍性が存在していること。2に、置き換えが出来ると判断すること。3に、実際に置き換えの行動を取ること。 昔、植木等さんが「わかっちゃいるけど、やめられない」、を私は、置き換えて「わかっちゃいるけど、やりゃしない」と言っています。 分かっていても、使わない、使えないから、不幸や悲劇も含めた多くのあれこれが起こることになるのです。
2012.05.31
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唐突ですが、ここで「谷」の絵を描いてみて下さい。 たぶんVのような形になるでしょう。ではそれを逆に向けたら谷に見えますか。見えませんね。 「どうしてできないの」と叱るお母さん。「俺の言うことがまだ分からないのか」と怒鳴る社長。 こうしたケースから、「そうか、自分の立場が相手に伝わらない理由はここにあったのか」と、納得していただけたでしょうか。今度は山を描いてみましょう。でも反対から見たら谷に見えますね。「相手の立場立って...」と口でいくら言っても分からないということを理解されましたか。実際に動いて反対の位置に立ち、そこから見る以外に出来ないことを口先で済ませるから、口だけの人と言われるのです。 それでは次に大きい山を描いて下さい。「ハ」と描いただけでは大きいことが分かりませんから、大きい山を表現するには、そばに小さい山が必要ですね。 そこで「へ」のように描くことになります。この絵で「山が大きいのは小さい山のおかげだ」と気づき、また「大きい」と胸を張っても、もっと大きいのが現われたら、小さいと言われる。だから、「他と比較して威張ることなどないぞ」、と理解できれば、いつも謙虚でいられます。 昔々例ですが、元たのきんトリオの一人が、「俺はビッグだ」と公言。以来、仕事が入らなくなったという話があります。 この発言が原因と言うより、自分の大きさを自分一人で決める人は、他人との係わりに気付かない人ですから、人間関係で孤立してしまい、行き詰まったということなのではないでしょうか。 人との関わり、物事との関係、つまり「自分」の存在そのものは、自分以外との関わりである、ということ。ここに根本ありです。
2012.05.30
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「鬼さん、手の鳴る方へ」という唄がある。 私は「みなさん、割あう方へ」と謳いたい。 さいわい情報開示の流れも含めて、露顕される機会は、かってと対比したら比較にならないぐらい増えてきている。しかも、ツイッターやフェイスブックなどを通じて、その露見された内容は瞬時に拡散されていくのである。 そこで、1つに、その本能を抑制する力がない企業は、間違いなく組織外の一般消費者などの位置する社会から忌避され、自らの首を絞め組織崩壊を招く大きなリスクを抱えているこのことを周知認識させる。 2にそれを前提に、露顕を企業が防ぐことは不可能とする社会的牽制制度(ソーシァルチェックシステム)を確立すること。 この2つの流れを確立すれば、ことを起し、隠したらいっそう損失が増えるという図式が定着すれば、むろんそれでもやる者がゼロになるとはいわないが、確実に減少する。 ということで、こう書けばなんだか難しく見えるが、要は自分にとって、会社にとって、「割りのあわないこと」、という認識を持てるようにすればいいのである。 「割りのあわないこと」を本能的に嫌うのが、人であり、とりわけ企業経営者なのだから。 割りのあわない論理を捨て、割りの良い論理と入れ換える。ここに、私が、「消費者中心主義を提唱した狙いがある。 企業が{永統的な}繁栄を真に望むのであれば、「企業の諭理」を捨て、「消費者中心の諭理」に転換を図り、社内体制を「お客様本位体制」へギャチェンジする。 この方が割に合うとなれば、企業はこぞって私の提唱へ移行するに違いない。 なぜなら「割りが合うこと」を欲しがるのも、企業と経営者の本能なのだから。(了)
2012.05.29
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この「露顕さえしなかったら、その方が得じゃないか」という意識が、これが発覚したら、我が社は大変ことになる、自分は破滅する、といった将来(さき)の危惧を上回る。 嬉しいことは少しでも早いが良い。嬉しくないことは先送り、といった意識は、人誰しも持っている。 だからこそ、ここは、情ではなく理を重んじる企業経営だからこそ、「長い目で見てどっちが得、どっちが損」、といった合理性で判断すればいいはずである。 ところが、企業が判断するのではなく、実際は人が判断しているのであるから人が判断する限り、嬉しいことは少しでも早いが良い。嬉しくないことは先送り、といったことになってしまうのである。 私は「企業の諭理」と称し、その実、本当のところは自分の目先の損得で判断し、その責任を企業に被せ、責任転換する「場」といったことが、人の心に存在している限り、短期的、組織内的に生産性。合理性が上がることであれば、その判断に流れて行動してしまうことは避けられないのではないか、と思う。 加えて、長期戦略でものを判断できる経営者、そもそも戦略思考が苦手とされる日本人である、といったことを考えると、もうそのことを避けさせることは期待できない、とすら私は考えている。 あるいは、このこと企業の持つ本来、いや人の本能であり、それを人の意識能力で抑えるには限界がある、と考えている。 だから、その点を認めた上でどんな些細なことであろうと間違いなく露顕することも、また大いに確認し合い、認める。 その上で、当然、確実にそうした企業(=人)の隠し事が例外なく、間違いなく露顕する社会的仕組み、すなわち、ソーシャルチェックシステム等をきちんと作り、また、各企業内にも内部牽制制度(インターナルチェックシステム)を確立することで、企業犯罪を起こした企業、個人は現行より、広くより厳しい社会的制裁を課する。 このことで、企業にとつて、人にとって、こうしたことは到底、「割りのあわないこと」という強い認識を浸透させることだ、と私は提言したいのだ。
2012.05.28
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「万全を期して」の対策が、まったく無効、と私は、断言的に書いた。 これまで私は新聞や雑誌を通じ幾度となく、「企業論理が行動規範である限り企業に学習効果は機能しない」と、言い続けてきている。 その根拠は、1に、それら企業の不祥事に共通する根本原因は、倫理感の欠如というより、その個人の倫理観すら支配する"企業の論理"そのものにあると、私は確信しているからである。2に、その"企業の論理"は、それを司る人達の欲望の凝縮体。欲望自体を云々というのではなく、人の責任転嫁先としてダミー体的存在であるところを問題視してのこと。 この2点である。 その自らの倫理観をも押し殺して、企業のために「企業の諭理」による思考と行動を優先させたことが、少なくとも(一過性の)成果なり生産性を上げたことは事実である。 しかし、それ「一過性の」と( )を付けたのは、「今までのところ」という限定付きである、という意味である。 このことをけろりと忘れ、あるいは無視しての結果である。 万引きも、詐欺も、窃盗も、そして偽装工作も、そのことが永遠に露顕しなければという条件付き、それに自分の良心の呵責といった、倫理・道徳問題を抜きにしたら、まちがいなく成果なり生産性を上げ得る。 これを、「結果(良し)論」という。 一人の目より、その他の目の数が多いからいかなる隠し事もいつしか必ず、露顕する。そして、そのことは、まず氷山の一角とみられ、他の企業まで及ぶことすら少なくはない。 その結果、結局は企業のピンチを招き、企業生命を短くしてしまう。 怖いことは、こうした露顕さえしなければ、という考えである。またこれぐらいは、足ししたことない、どこでもやっていること、という考えである。 赤信号は皆で渡ろうと、一人で渡ろうと、青信号よりリスクは多いことを忘れている。
2012.05.26
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企業に「倫理観があるか?」と、問われれば、私は即答で「ない」と答える。 理由は、簡単明瞭だ。倫理観とは、人に関わるもので、人ではない企業には元々心、意志の?は存在していないからだ。存在していないものに、その機能や責任を求めることはできない。 あくまで、企業に求められる倫理とは、その企業の構成している人、とりわけ人たる経営陣に対してである。 企業が悪いことをなした、ということはその企業構成員が{悪いことを成した、という一種のすり替えであるといえる。 こうしたことを念頭に置き、企業犯罪に関し考える事を記して見たい。 この今ほど、企業中心主義、企業の諭理から、消費者中心主義、すなわち消費者の側に立ってものごとを考え、消費者の願望、喜ぶこと、幸せ、といったことに、我が社としてどう貢献できるか、といった思考と行動への切替えが企業の存続とそこで働く者の幸福のために望まれる時はない、と考える。 では、なぜ消費者中心主義なのか。 これまでおびただしい企業犯罪が発生している。犯罪として表に出なかったものも含めると、すごい数になろうかと思う。 そのたびに「二度とこのようなことが起きないように、万全を期し・・・」と、トップが身体を直角に折り曲げ、お詫びをする姿を私たちは、幾度となく見てきている。 こうしたことは、企業行動の暴走を牽制する意味での企業倫理や人間としての道徳的間題で諭じたとしても、なくならない。けして。そして、これからも同様の不祥事が繰り返される、であろうと私は思っている。 その根拠は、「これまでがそうだったから」である。何度、「遺憾、二度とこのようなことは」といったことが白々しいセリフをきかされたか。 「万全を期して」の対策が、まったく無効であることは、だれしも容易に理解できる。(続く)
2012.05.25
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以下のこと。蘭から学んだこと。もちろん、いまは水谷豊さんの奥さんである伊藤 蘭さんのことではない。 隣の老犬、蘭のこと。 1に、経営者と現場との乖離を詰める。 あるいは現場と経営者との乖離を詰める2に、あるべき姿と、今の実際との乖離を詰める 乖離を詰める、ということを考えていたときたまたま隣の老犬 蘭が、我が家の猫の額を横切るのがみえた。 その姿を見て、ふと、いやはっと思った。 動物が前足に,後ろ足を寄せることで前に進む、これ、乖離を詰める、ということではないか。 前足が大地を掴む。これがなければ後ろ足は役に立たない。 大地を掴んだ前足に、後ろ足を寄せる。これで身体が丸くなりバネ化する。それで次に、後ろ足が大地を抑え、前足と身体が前にバネのごとく前に跳ねる。 この繰り返しが前に進む、ということだ。 4つ足の場合、前足が先に前に進むことはありえない。たちまち身体は伸び上がって、いわゆる死に体の状態になる。 4つ足のメリットは、スピードある前進力にある。 一方、デメリットは、次の2点。1に、彼らは後進はできない。前足も後ろ足も、先に挙げた動作を、後ろに向けてはできないからだ。 2に前足なしでは、前に進めない.後ろ足だけでは前に進めない。 蘭と同じく、昔々その昔には、4つ足であった人間は、そうしたことに気がついたのだろうか。それとも、偶然か何かで立つことによってそれを知ったのか。 前足を使わず、(後)足で前に進む。そして,ここだ。ここがポイントだ。それは・・・・・。 前足を捨てることによって,他の動物と、大きく差別化できる道具となって、手。それも専用の手。この最高のメリットを得たということ。
2012.05.24
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まずは現場だ。現場を実際に見る わからなくとも、現場を見る。そうした上で、まずは現場の人の話も聞かずに現場を見る。それから人のヒヤリングだ。それも現場の人の話が先だ。優先だ。この順序がキーだ。間違えてはならない。できれば役付けではない、その現場、現場の担当者、ヒラがいれば、ヒラをさきに、パートがいればパートから、監視人付きの,意見交換会など、この場合なんの役にもたたない。現場は嘘をつかないが、人は時として嘘をつく。飾る。形容詞を付ける.繕うからだ。これは、階層の上に行けば行くほど、その傾向が強くなるからだこうして現場から、そして組織の階層から順に上に。そして現場と経営者の乖離、ズレを把握し、このズレ等こそ問題ではないか。それはどこから来ているのか、といった仮説を立てつつ、上に、上にと、この疑問を投げかけていくといったアプローチを採る。理由は、すでに述べているが、事実はあらゆる縛りから解放されたところに存在するからである。次に、これを言い換えてみる。理想と現実との乖離の把握とその解消言っていることと実際との乖離の把握とその解消建前と本音との乖離の把握とその解消経営者と現場との乖離の把握とその解消つまりあるべき姿と、今の実際との乖離、これをありのままに把握することが、ヒヤリングである。1に、経営者と現場との乖離を詰める。 あるいは現場と経営者との乖離を詰める2に、あるべき姿と、今の実際との乖離を詰めるこれは、動物が前足に,後ろ足を寄せることで,前に進む、ことをイメージしたらわかりやすいのではないか。
2012.05.23
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「理論と現実はちがうよ」とよく商店主はいう。そのとおりだと思う。 その違いの責任は、往々にして理論にある。元来、現場現象で機能的に得たものの中から、一定の普遍的法則性を持つものを法則とし、それに理屈を体系的に纏めたもの、これが理論である。 普遍性があるのだが,世の変化、進歩につれて、理論は現実とのずれが生じる。 だからたとえば大会社の経営者や学者が、現場の者に向かって、「理論と現実はちがうよ」ということは、まずなかろう。 ここに理論と現実の対峙、乖離、ズレが生じる因がある。このことはある意味で必然的で避けられないこと。あって当然、あって良しなのだが、問題はその理論自体が保守的な縛りとなって、理論にあわない現実を直視もせず、言下に否定する論者の存在である。 演繹手法は、理論、原理原則に照らして現象をみるのだが、それでも,現象を原理現象に縛られず,偏見を持たずに、穏やかに素直に現象を直視する姿勢を崩してはならないのである。 なにごとであれ現場を知らずして、改善を説き、指導することは難しい。それは言葉だけを「支援」と置き換えても同じことである。事実がみえないところに,改善が見えるはずがないからである。 私は、経営改善を図るのに、自分の思っている、あるいは用意した理論、原理原則は、実際の現場を見るときには邪魔になると考えている。で、可能な限り虚心坦懐を心がけるようにしている。と書けば、偉そうに、また難しく取られそうだが、要は何も知らない素人、バカ、子供になって望む、ということだ。 と同時に,現場を見る前にヒヤリングをすることはない。経営者のいうあれこれも、ここだけの話、本当のところ、実のところあえて聞き流すように心がけている。 まずは現場を見る まずは現場の人の話も聞かずに現場を見る。 それからヒヤリングだ。
2012.05.22
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「リーマンリーマンショック以来の景気の低迷」「少子高齢化」、「過疎化」、「格差拡大」「小さかったから」、「資本力がなかった」、{人材不足}」「後継者難」「「大型店・郊外店の安売り攻勢」などなど。因と果の区別もつかない,、そして聞いたようなセリフや語句こうしたものを散りまぶして、「だから不振なのだ」「・・・・・・ということで低迷している」と、結論づけているのである。こうしたことをいくら聞いても,読んでもそこから「理由と原因」を引き出すことはできない。「理由と原因」が捉えられないと対応ができない。なのに彼らは驚いたことに、のうのうと「対応,対策」まで指し示しているのである。むろん一般的な「対応,対策」なわけだが。こんなもの、時間つぶしとして聞いたり読むだけならかまわないが実践でもしようものなら、えらいことになる。さいわいに多くの経営者は,知ってか知らずか,ほとんど実践しないから実害がなく、助かっているのだ。そうした結果と原因の取り違いや、ドラッカーなどの著書を異口同音の言葉の置き換えや切り貼りしている輩、また知識人と自称し、文字通り知識の切り売りしている者に、つきあい、混乱を招く、余裕はないはずである。「それは原理、法則レベルの問題なのだろうか」。あるいは、「ノウハウ・技術レベルの問題なのだろうか」。と自らに問いかけて、それらをいくつかのモデルを通して、因、本質的問題点しっかりつかみ、あれこれ実践における試行錯誤で改善を図っていく。これが「対応」なのである.その具体策が「対策」である。繰り返すが,ここでは「対」する相手、つまり因、問題点を捕まえた者が、行動により「応」じる。これが「対応」である。対応に一般論があるわけはないのである。
2012.05.21
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ある講演会。その論者はしたり顔で商業統計上での「1-4人の零細商店」の減少を例に挙げこの経済情勢における影響についてあれこれ言及していた。しかし,私に言わせれば、それは一方的な見方である。少なくとも、1に、淘汰された中小商店の数より生き残っている中小商店の方が圧倒的に多い事実。2に、「1-4人の零細商店」が、がんばって「5人以上」に、成長しランクアップしている成長組のことを見過ごしている。この2点の検証がされていない、つまり片面思考なのである。とりわけ、2の成長組も彼らにかかれば、「パパママ店の減少」であり、嘆かわしい材料になっている。このように、ものごとをマイナスという1面でしかみないで、危機状態をあおる永田町や霞ヶ関の輩同様,彼らなりの、意図があるとみてよい。事実、私の限られた周囲だけでも、前年130%以上もの増収増益し続けている零細中小商店が少なからず存在している。そのことはおいて、淘汰されている商店や企業が少なくはないこのことは間違いではなく事実で、そのことを私は否定しているのではない。問題は、いわゆる勝ち組もいる。負け組もいる。この両者の存在を冷厳に見定めて、その分岐、命運を分ける要素は何になのか、を両側面から、分析することなのである。売上が上がるには上がる理由がある。下がるには下がる理由がある。この両側面から,普遍性ある理由を掴むことで、今後の進歩発展に活かし,社会に貢献すること。これが、いわゆる論を論じることで糧を得ている論者のあり方、使命であるはずだ。それをなんだ!それとも、大きななにものかの御用聞きで彼らの意向を受けて,危機感を煽る使命感に燃えているとでも,言うのであろうか。
2012.05.20
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あらゆるものは、常に「変化」する。としたら、その変化をとらえることができないものは対応しようもないから、淘汰されるのは当然、冷たい言い方だが、ということになる。で、商業統計にみる夥しい中小商店の減少や全国商店街の空き店舗増加は、淘汰された結果の現象面、すなわち、これ結果にすぎない。結果である現象面を変えることは絶対にできない。変えることができないことには,対応対策は存在しない。手が打てない、ということだ。しかし、こうした現象面を,今後発生させなくすることは可能である。これが対応、対策である。「常に変わる」という概念は、2つの側面に分けられる1つに変化しないという側面の存在である。2つに変化するという側面の存在である。多くの人が変化を掴めなかったり、見誤まったりするのは、この変わらない側面があるから、変化が認識できる、ということをわかっていないためである。脳力開発でいう,両面思考が分かっていないことになる。表があれば,裏がある。表だけの10円硬貨は存在しない。山があれば、谷がある。谷の存在には山は不可欠である。日は影のお陰で認識される.これをお陰で、という。例で説明したい。自分の車が50キロのスピードで走っている。そこに50キロのスピードで走っている車が並んで走ると、双方停まって見え動いている。動くはずがない風景は,後ろへ走っている。こうした経験は,誰しもお持ちのはずだ。これだ。今注目すべき変化とは何なのか、変化潮流をつかむ方法は、まず前提として不変のものをしっかり学び、掴んでおくことが絶対条件なのである。
2012.05.19
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「諸行無常」という言葉があります。もともとは仏教用語だと思いますが、「平家物語」の「祇園精舎の鐘の音」の下りが有名です。この「諸行無常」は、簡単にいうと、世のあらゆることは常であることは決してない、ということ。これを、さらにかみ砕いてみます。「世の中は人の思惑や事情には一切関わりなく常に変化している」、といったことになりましょうか。 これを、さらにお説教的に意訳しますと、「だから変化に対応するのは、みなさん方人間の方」。ですから常にその変化に対応できなければ、どんな人であろうと企業であろうと例外なく淘汰される。たとえば、そごう、シーガイヤ、ダイエー、銀行すらも、そして商店街のお店であろうと枚挙に暇がない。そして例外はありません。一般的には、そうした常に変化するものに対して、自らをもって対応できなかった人たちが、嘆くときにつぶやくセリフに「ああー、情けない」、といった言い方があります。無情という言葉は、昔は「無情な雨じゃ」といった使われ方をしていたのですが、これは最近は死語に近くなり、「情(なさけ)無い)といった使われ方が、敗者のぼやきの中心のようですところで、この「ああー、情けない」には二通りあります。1つは主語が「私」の場合。「ああ、変化を読み取れず私は情けない」、「対応できなかった私が情けない」。 もう1つは、「なんで国は大型店の出店を認めたんか。情けないじゃん」、「こんな猛暑が続いたら、お客は来いへんわ。情けんなかっ!」といったように自分以外に対応の責めを振る類です。ここで結論をいうと、少なくとも私の経営支援の限界は、この前者の経営者、領域内にとどまることになり、後者の方は、他の優れた先生に譲ることにしています。
2012.05.18
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「継続は力なり」の前提には、これを逆にみれば、多くの人がなかなか物事を継続ができないということがあり、「そんなことではだめだよ。続けなければ・・・」といった背を押す,激励的なニュアンスを、私は感じている。「継続は力なり」といっている本人も含めて。 こうした人間の持つ弱さ、だめ加減を背景にしている、といった皮相的な教訓とも受け取れる。 ところで、「継続」が、どうして重要視されるかということを、ここで改めて掘り下げ考えて見ると、 まずは,根本に、そこに、「命」,すなわち寿命の存在があるから、と私は空想を広げる。 寿命とは、「一所懸命」の連なり、積み重ねで,人の場合は「人生」、「一生」を構成することになる。その上で、人、企業、その「人生」、「一生」に信用、信頼は時間を経て蓄積される、と考えている。 こう考えると,企業にゴーイングコンサーンが求められる意義が理解できる。 一時的な善し悪しではなく,長い目で,長い寿命を保つためには、といった長期見据えた視点、俯瞰的思考、長期戦略が求められている、ということではないか。 その意味で、思いつきにきわどさがあるのは、こうした時間軸という意味での試練に耐えていないこと。フイルターを通していないことにある。 「継続」が出来ない人は、継続されるであろう、という周囲の期待、願望、予測を裏切ることを意味し、この裏切られる恐れが、周囲から信頼されない、信用されないことの因になっているのではなかろうか。 古今東西、「裏切り」こそ、他者の憎悪を生むものはない。
2012.05.17
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「継続は力」という言葉がある。 これを脳力開発でいう「多角的に考えてみる」と、1に、「やろう」といった計画自体はいくらでも立てたり、口にできたりできても、いざ実行しない。やっても続かないではなんにもならない。 逆に自分や自社の評価を落とすことにもなりかねない、という含蓄が背景に込められている、と解。2に、継続は難しいことである、ということを前提にして、それだけに継続をなしたら、それが実績として、あるいは蓄積され、それが他者に評価されることで、一種のパワーとなるという解。3に、「努力は報いられる」という言葉は、「努力は必ず、いつしか報いられる」ということを前提にしている、といったことを,以前書いたことがある。これと同様に、この「継続は力」という言葉も,必ずいつしか「力」になる、ということを前提にしている。 これは、その前提以外、すなわち,努力は報いられない場合もある。継続は力にならない場合もある、 という両面性の,都合の良い面だけを,だれかが意図を持って、発せられる言葉ではは表わした言葉ではないか、という解。 つまりこの「継続は力なり」の意味は、1にどれだけ継続出来るかどうかが本当のその人の実力だ、と言う意味と、 2に小さなことでも一歩ずつ、一口ずつ続けていけば、成果として、力を得られるか得られないか、のどちらかである。 3に、言葉のもつ両面性の内、片面だけ発するには、人の意図がある、ということである。 とりわけ,上の3が,私が一番大声を上げて問題としていることだ。それは,意図する体制、人といった誰かの、国民、誰かに対しての刷り込みではないか、という,私の疑問による。
2012.05.16
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「相棒」の右京さんは,個々ばらばらの情報を,いろいろ組み合わせて仮説を立てます。 個々の情報は、その仮説が成り立つかどうかの、いわば破片です。むろん1つ1つの情報には、それぞれ個々に意味があるわけですが、全体としての部分としての意味をもつ、という役割を持っているのです。右京さんは、このことをよく知っている。 だから、誰しも見過ごすような変化(こと)を、情報のかけらとして、見逃しません。 変化をしるものは,県化のない日常性を十分体感的に知っているということが前提にあるのです。このことを忘れて,右京さんが天才だ、と特殊性に押しやっては、わたしたちは学ぶものを失ってしまう。 情報は、まず受ける.感じる。それを・・・・・。 「入ったばかりの新米が何を抜かすか」、「あんな子供のいうこと、信用できるか」、 と,情報をカットする。また、個々の情報に,言葉で軽重を付し、評価を下すといった人は、情報の本質を理解していない。私に言わせたらリーダー失格者です。 繰り返しますが、情報は,繋がりで考える。他者との関わり、関連で考える。これが,根本です。入ってくる情報に評価を加えたら、入ってくる情報は極端に少なくなります。しかも恣意性が入り、かつ時には加工情報になる。そうしたもので判断をしたら、間違いなく判断を誤ることになります。よく,「最近は情報が少ない」とか「なにか良い情報がないかな」といったぼやきをする人は、これに属する?とみて間違いがないでしょう。 心しておきたいところです。
2012.05.15
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情勢判断学、情報の収集法についてのその2です。 自分という存在は,自分以外の他者との関わりで認識されます。逆に言えば,他との関わりのない存在は,あり得ないと言うことにもなります。 光は,光以外のものの存在で認識されますし,影も然り。光がなければその存在はない、 10円玉の表は裏の存在で、裏は表の存在で、否、ina以外の存在で、「あっ,10円玉!」といったことになります。このことはこれまで,何回となく述べてきたところです。 情報収集法の2は、このことを強く意識に上げることを前提にしています。 つまり人と人とのつながり、組織力、ネットワーク・・・そういったものを活かすことです。 人ひとりの知っていることも行動力も、たかが知れている。一人であらゆる活動分野に精通することは難しいことです。 私は、いま自分の事務所のデスクにいます。ということは自宅の居間にはいない。福井にいない。空港にも,自治会のリサイクルの倉庫にはいないということ。 自分の事務所以外のところにはいない。でも、私が好きな麺について知りたければ、「越前ソバについて、ITでわかんないことを調べてくれませんか」新潟・十日町のそば屋の三代目に、ヘギソバのる言い伝えみたいなこと、教えてくれませんか」、落語でよく出てくる「根岸っていま、どんな感じですか」と、それぞれのところに友人がいますから聞いて、属人的な感想、情報を入れることができるわけです。 その意味では、先日、1で述べた、「行動力」が前提になっていますが、いくら行動力があっても、人と人の関係が豊富な人で、たくさんの仲間を動員できる人と、一人で行動する人では、大きな格差が出るのは当然です。 自分という存在は,自分以外の他者との関わりで認識されます。で、他との関わりのない存在は,あり得ないのです。 「そもそも人は、一人では生きられない」とは、よく使われる言葉ですが、このレベルまで含蓄をこめて発せられているのかどうか。 生きていくこと、これすなわち「人と人との関係づくり」生きていくことでは,大きすぎるのであれば、仕事は、畢竟、「人と人との関係づくり」ものことの判断は、「個々の関連でみる」こと。 いずれにしても生き方の根本において、日常の生活、仕事において、このことを、常に意識において日々生きていくのとそうではないのとでは、それは、それは大きな差がつく,と私は考えています。 本稿は,「情報」がテーマですから、上に触れたことを頭に置きながら、話を情報に戻し,考えてみることにします。 企業において、大勢の部下に命じて情報収集するといった場合、それは意見をきくということも含まれるわけですが、大切なポイントがあります。 それは、個々、ばらばらに入ってくる情報、それら一つ一つを、けして評価しないことです。情報に、最初から質を求めると、部下は自らの判断で評価し,情報を取捨選択し,上司が良き評価をしそうなもの、上司が喜びそうなものといったものを上程し、そうでないものを捨ててしまうからです, 「そんなつまらんことを俺の耳に入れなでくれよ。忙しいんだから」 私の好きなTVドラマ「相棒」のあるシーンです。警察の本部長は、交番のお巡りさんからの情報を、そう怒鳴りつけて無視してしまいます。 それが結果的に彼の失脚を招きました。 対して、わが右京さんはその小さな情報を、多くの様々な情報の中に、平等に加え、そのばらばらの情報を「関係づけ」て、一つの結論を見いだします。 右京さんにとっては,個々ばらばらの情報は、真犯人を見いだすための戦術なのです。 小田原評定は、戦術である会議の、これまた戦術に過ぎない議論で喧々囂々している間に、落城したという、戦術が目的化し、本来の目的を逸した典型的事例です。 「相棒」の右京さんは,個々ばらばらの情報を,いろいろ組み合わせて仮説を立てます。 個々の情報は、その仮説が成り立つかどうかの、いわば破片です。むろん1つ1つの情報には、それぞれ個々に意味があるわけですが、全体としての部分としての意味をもつ、という役割を持っているのです。右京さんは、このことをよく知っている。 だから、誰しも見過ごすような変化(こと)を、情報のかけらとして、見逃しません。 変化をしるものは,県化のない日常性を十分体感的に知っているということが前提にあるのです。このことを忘れて,右京さんが天才だ、と特殊性に押しやっては、わたしたちは学ぶものを失ってしまう。 情報は、まず受ける.感じる。それを・・・・・。 「入ったばかりの新米が何を抜かすか」、「あんな子供のいうこと、信用できるか」、 と,情報をカットする。また、個々の情報に,言葉で軽重を付し、評価を下すといった人は、情報の本質を理解していない。私に言わせたらリーダー失格者です。 繰り返しますが、情報は,繋がりで考える。他者との関わり、関連で考える。これが,根本です。入ってくる情報に評価を加えたら、入ってくる情報は極端に少なくなります。しかも恣意性が入り、かつ時には加工情報になる。そうしたもので判断をしたら、間違いなく判断を誤ることになります。よく,「最近は情報が少ない」とか「なにか良い情報がないかな」といったぼやきをする人は、これに属する?とみて間違いがないでしょう。 心しておきたいところです。
2012.05.15
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生きていくこと、これすなわち「人と人との関係づくり」「生きていくこと」では,大きすぎるのであれば、仕事は、畢竟、「人と人との関係づくり」ものことの判断は、「個々の関連でみる」こと。 いずれにしても生き方の根本において、日常の生活、仕事において、このことを、常に意識において日々生きていくのとそうではないのとでは、それは、それは、大きな差がつく,と私は考えています。 本稿は,「情報」がテーマですから、上に触れたことを頭に置きながら、話を情報に戻し,考えてみることにします。 企業において、大勢の部下に命じて情報収集するといった場合、それは意見をきくということも含まれるわけですが、大切なポイントがあります。 それは、個々、ばらばらに入ってくる情報、それら一つ一つを、けして評価しないことです。情報に、最初から質を求めると、部下は自らの判断で評価し,情報を取捨選択し,上司が良き評価をしそうなもの、上司が喜びそうなものといったものを上程し、そうでないものを捨ててしまうからです, 「そんなつまらんことを俺の耳に入れなでくれよ。忙しいんだから」 私の好きなTVドラマ「相棒」のあるシーンです。警察の本部長は、交番のお巡りさんからの情報を、そう怒鳴りつけて無視してしまいます。 それが結果的に彼の失脚を招きました。 対して、わが右京さんはその小さな情報を、多くの様々な情報の中に、平等に加え、そのばらばらの情報を「関係づけ」て、一つの結論を見いだします。 右京さんにとっては,個々ばらばらの情報は、真犯人を見いだすための戦術なのです。 小田原評定は、戦術である会議の、これまた戦術に過ぎない議論で喧々囂々している間に、落城したという、戦術が目的化し、本来の目的を逸した典型的事例です。
2012.05.14
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情勢判断学、情報の収集法についてのその2です。 自分という存在は,自分以外の他者との関わりで認識されます。逆に言えば,他との関わりのない存在は,あり得ないと言うことにもなります。 光は,光以外のものの存在で認識されますし,影も然り。光がなければその存在はない、 10円玉の表は裏の存在で、裏は表の存在で、否、ina以外の存在で、「あっ,10円玉!」といったことになります。このことはこれまで,何回となく述べてきたところです。 情報収集法の2は、このことを強く意識に上げることを前提にしています。 つまり人と人とのつながり、組織力、ネットワーク・・・そういったものを活かすことです。 人ひとりの知っていることも行動力も、たかが知れている。一人であらゆる活動分野に精通することは難しいことです。 私は、いま自分の事務所のデスクにいます。ということは自宅の居間にはいない。福井にいない。空港にも,自治会のリサイクルの倉庫にはいないということ。 自分の事務所以外のところにはいない。でも、私が好きな麺について知りたければ、「越前ソバについて、ITでわかんないことを調べてくれませんか」新潟・十日町のそば屋の三代目に、ヘギソバのる言い伝えみたいなこと、教えてくれませんか」、落語でよく出てくる「根岸っていま、どんな感じですか」と、それぞれのところに友人がいますから聞いて、属人的な感想、情報を入れることができるわけです。 その意味では、先日、1で述べた、「行動力」が前提になっていますが、いくら行動力があっても、人と人の関係が豊富な人で、たくさんの仲間を動員できる人と、一人で行動する人では、大きな格差が出るのは当然です。
2012.05.13
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脳力は、人の主体性や具体的な動きを決定づけるものです。 この脳を自在に使いこなすことができるようするのが脳力開発。これをマスターすることで、事実、私達はだれしも、 今までの何十倍も能力を発揮し、大きな成果をあげることができます。それを聞いて、「ええっ」、と疑いの声を上げる私に、『人間には,凡人も秀才も天才も変わりなく、 百五十億の脳細胞があり、それを結びつける脳神経の伝導速度もまた 凡人、秀才、天才ともに違いはないんじゃ』と、師、城野宏先生。このセリフを何回聞かされたことか。では現実は、どうして凡才,秀才、天才といった違いが見られるのでしょうか。その理由は「組み合わせのやり方」にあります。脳細胞は百五十億あるのですから.これを2つずつ組み合わせて,2の百五十億乗ということで無限に近い組み合わせがある。これが可能性、ということです。 可能性としては,これだけある。しかし現実には、さきほども申し上げたとおり、ほとんどの人がその一部、3%ないし5%しか使わず、一生を終える。「なんともったいない」ことではありませんか。このことを天気予報や経済予測にたとえたら、 全体像のわずか3%程度を見て、結論を出したのと同じこと。 これでは当たるも八卦、はずれるのも八卦になるのは当然です。それでも,私達はそんなに不便を感じることなく、 差し障りのない生活を送り,仕事をしています。だからこそ脳力開発によって、広げたら新聞紙二面分の細胞を2の百五十億乗まではいかなくとも、今の2倍、3倍。これだけでもすごいことに、と思われませんか。 事実、師は、画家であり、武道家で在あり、オペラ歌手であり、そして多くの特許取得者であり、また多くの企業を再建、 何百倍にも発展させましたし、政治指南役でもありました。私は,師をすごいと思いますが,本人も行っていたように、天才などとはおもいません。では、なぜおまえさんは,城野さんみたいに,いろいろやれないのじゃ、と思われる人も多かろうと思います。もっともです。で、それには以下、2つをもってお答えしたいと思います。1に、田上、未だ未熟。進歩発展途上中。で、私は師より長く生きることで,追いつく戦略を立てていること。2に、私には,零細中小企業の人達と一緒に生きてお役に立てたい。ここに自分の人生戦略を置いています。これ一筋です。ですから、少なくとも今のところ、画家にも,音楽家にも、武道家にもなる予定はない、ということです。(了)
2012.05.12
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脳力は、人の主体性や具体的な動きを決定づけるものです。 この脳を自在に使いこなすことができるようするのが脳力開発。これをマスターすることで、事実、私達はだれしも、 今までの何十倍も能力を発揮し、大きな成果をあげることができます。それを聞いて、「ええっ」、と疑いの声を上げる私に、『人間には,凡人も秀才も天才も変わりなく、 百五十億の脳細胞があり、それを結びつける脳神経の伝導速度 これもまた凡人、秀才、天才ともに違いはないんじゃ』、と、師、城野宏先生。このセリフを何回聞かされたことか。では現実は、どうして凡才,秀才、天才といった 違いが見られるのでしょうか。その理由は「組み合わせのやり方」にあります。 脳細胞は百五十億あるのですから.これを2つずつ組み合せて, 2の百五十億乗ということで無限に近い組み合わせがある。これが可能性、ということです。 可能性としては,これだけある。 しかし現実には、さきほども申し上げたとおり、 ほとんどの人がその一部、3%ないし5%しか使わず一生を終える。 「なんともったいない」ことではありませんかこのことを天気予報や経済予測にたとえたら、 全体像のわずか3%程度を見て、結論を出したのと同じこと。 これでは当たるも八卦、はずれるのも八卦になるのは当然です。それでも,私達はそんなに不便を感じることなく、 差し障りのない生活を送り,仕事をしています。 だからこそ脳力開発によって、 広げたら新聞紙二面分の細胞を2の百五十億乗まではいかなくとも、 今の2倍、3倍。これだけでもすごいことに、と思われませんか。 事実、師は、画家であり、武道家で在あり、オペラ歌手であり、 そして多くの特許取得者であり、また多くの企業を再建、何百倍にも 発展させましたし、政治の指南役でもありました。私は,師をすごいと思いますが,本人も行っていたように、 天才などとはおもいません。では、なぜおまえさんは,城野さんみたいに, いろいろやれないのじゃ、と思われる人も多かろうと思います。もっともです。で、それには以下、2つをもってお答えしたいと思います。1に、田上、未だ未熟。進歩発展途上中。 で、私は師より長く生きることで,追いつく戦略を立てていること。2に、私には,零細中小企業の人達と一緒に生きてお役に立てたい。 ここに自分の人生戦略を置いています。これ一筋です。 ですから、少なくとも今のところ画家にも,音楽家にも、武道家にも なる予定はない、ということです。(了)
2012.05.12
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人生は分からないことだらけ。思うようになかなか運ばない。だから手前味噌、脳力開発で学び、その確実性を高め、人生に彩りを付けていただけたら、と思うのです。 こうしたこと、叶わぬか叶うか分からない夢と希望を抱くことで、人類は、ここまで繁栄し続けてきた。そして、これからもそれは変わらない。その意味で私たちは神でも仏でもなく、超予言者でもなく、生まれてきたことを至福、よかったと思いたいのです。 そのためには、刻々変化する情勢を的確に捉える、という情報力と、その変化に対して、どう対処すればうまくいくかといった判断力と、その判断に従って自ら動く行動力の3つが不可欠です。この3点がセットになって対応力ということになる。そうした対応力を自在に発揮できるための基礎となる脳の回線づくり、これが脳力開発の目的です、 よく能力(こちらの方が一般的に使われていますが)と脳力(師の城野宏が初めて使い広がりました)は、どう違うのか、といった質問をいただきますが、これは脳力開発によって脳の力が最大に発揮されるようになり、その結果として、一定の分野に関して能力が発揮されると、といったニュアンスの使い方でご理解くださって、とにかく脳力と能力は違う、ということだけをここでは理解して頂き、次へ進めます。
2012.05.11
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誰れしもが、打つ球が全部ことごとくホールイン/ワンにiなるといったことで、ゴルフが成り立ちましようか。将棋の駒を動かせるかどうかの初心者と、将棋をして100戦100勝。それで楽しいでしょうか。 私の述懐ですが、「にくい、こんちくしょう」とつぶやいた後、これまで何百回となく、「あいつ死んでしまえ」と付け加えています。父親にすら言ったことも何度もあります。その思い、望み、夢が、即座に実現していたら、私は殺人犯として処刑されているにちがいありません。 本屋に「あなたの願望が叶う本」といった類の本が、いっぱいある。そのこと自体が、思い、望み、夢が叶わないか叶うか、そんなことはわからない。という証ではありませんか。物事、とりわけ先のことは分からないからこそ、それを叶うように努める。そのこと自体が楽しくなる。 その思い、望み、夢を否定したら、人は多分に(私は経験したことがないので、たぶんです。)、生きていけますまい。だって自分の死ぬ日が分かっていたら、たまりませんよ。希望という文字を見てください。望みが希(ま)れ。夢は幻だと、先達が言っている。それでも、人は、「望みを捨ててはならない」、「いつでも夢を」を、と希なる望みの実現を期待して生きている。
2012.05.10
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さらに続けます。では、アフリカへ行くのはどうですか。宇宙に行くのはどうですか。択一自体には変わりなく、数、量が増えただけで、基本的には、近くのコンビニに行くのと、アメリカのマンハッタンに行くこととは変わりがない。 ところが、上の例の後者になると出来ない、と考えもせず行動もせずいう人がいます。2+3ですら、式を立て、計算するという行動をなさないと出来はしないのです。123456789+987654321を、見ただけでうんざりして、計算せず出来ないという人がいる。計算したらできるのです。2+3との違いは、数字が大きいだけなのですから。考えもせず、やりもせず、出来る、出来ないと、即結果を言える人は、予言の超能力を持っているか、超怠慢の怠け者、逃避者、どちらかでしょう。やってからできなかったら、「出来ない」と判断する。その上で、できるためにはどうしたらいいだろうという式を立ててまた行動する。こうした習慣をきちんと身につけることが、きわめて重要です。それも主語を付けて、「俺はできない」、「私は、今出来ないだけ」というべきです。 たまたまできなかったのかも知れないし。今は、これまたたまたま時間が無くて出来ないのかもしれないそれに自分ができないといって、他の人も同じで、できないと、巻き込むことは許されないことです。
2012.05.09
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戦略は二者択一、スイッチのオン・オフ。だから簡単じゃないか。そんなたくさんの細胞は不必要じゃないか、と思われるかもしれませんが、その択一の決断を導き出すために、おびただしい脳細胞とエネルギーが必要になる」択一すること。これが判断。判断とは、スイッチのオンとオフ。つまり2進法です。言葉では簡単ですが、2進法の原始的形態、そのバックグラウンドでは複雑な情報を処理できない。そこでモールス信号、コンピーターの言語と発展していく。 これらは人間の脳を置き換えたしたものですから、人間の脳を並べてみると新聞紙を2面広げたぐらいに、このV状の二進(択一)のシナプスが組み合わさって構成されている。最も脳を並べて見たことなどありませんが、「らしいのです」。 つまり、出来る、やるためには、それはそうした状況を、様々な戦術の組み合わせをすることで、計算ができる、ということになります。 戦術の組み合わせとは、たとえば鹿児島から博多まで行くのと、北海道まで行くのと戦術の中身は同じ。 ただ、組み合わせと時間、費用が違う。違うところをみれば違うが、同じことがある。 問題は、どちらが主流か。根本か、ということになります。
2012.05.08
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営業とは?と問われたら、私はこう答えたい。 生きていくことは、つまるところ人と人との関係を基盤としている。当然、生活も経営も人と人との関係の上に成り立つものである。 その関係は、虚と実で構成される。本稿では、人を介在する「関係」を実としたら、人以外の関係を虚とおいて論を進めてみたい。 「うちとおたくの会社は、取引は緊密だ」、といった言い方がある。 うちとオタクは、会社の関係なのだが、会社同士の関係の内実は、両社の人間関係のことである。 会社同士が知り合い、名刺交換した後、取引しはじめたとか、会社同士が好意を持ったとか、恋愛関係にある、ということではないから、虚である。 「会社としては、君(田上)は不要。首にする」と人事部のAさんから、言われたとする。Aさんは、スタッフ。それも肩書きは主事である。したがって、管理本部の次長である私の上司ではない。その彼が、私を首にできるはずがない。 ここから、私を首に、と考えた犯人捜しをすることになる。 ところで、ここでは会社も首も虚、君というのはこの場合、固有名詞であるから実ということになる。 とすれば虚が実を首(これも虚で、実は解雇)にしたことになる。そこで実なる私は、腹を立て対策として抗議に行くわけだが、何処をさがしても会社さんは見つからない。 存在しない虚が私を首にするはずはないから、「誰が俺を首にしたのだ」と、私は実を探すことになる。その結果、「実は・・・・」と名乗って出てきたのが上司のO部長であることが明らかになる。 そこで私は初めて、首になる理由に思い当たることが出来るのである。「思い当たることに、当たること」、これが真因追求のキーとなる。続く
2012.05.07
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大先生のつもりで時間たっぷりと鷹揚さを満喫。悪い気分ではない。しかし当然のことだが、そのツケはやがて来る。まずは経済的に・・・・。つもりはつもりつもりになっても、仕事が入ってくるわけではない。そのことに決算を見せられて気がつく始末だ。が、経済的は、まだいい。何とか自分でのやりくりで、片がつくからだ。しかし、大先生のつもりの方はそうはいかない。鷹揚さとは、他の人から見たら、傲慢さである。人の見方、それが誤解だったとしても、その人から見たら、正解なのだ。だから、人の心の想いを、他者が変えることは、実に難しいし、時間がかかることなのだ。しかし、変えなければ、ことは変わらない。そしてそのことは、この今も、今後も続け行かねばならないのだ。しかし、今振り返ってみて、言えることはこうしたとんでもない心得違いもラッキーだったと言える。だが、それはあとのこと。ヘビースモウカーがタバコをやめたら、タバコを吸っている人に対して、「この馬鹿!」と言いたい気持ちになる、と聞いたことがある。事実、自分の禁煙後ももそうだった。同様、その禁煙前と後の自分に大先生志向と、それをすっぱり捨てた自分とを重ねて見る。そして言うのだ。怒鳴るのだ。かっての私に。「あの馬鹿!」と。過去の自分のあれこれに重ねて、今も自分をチェックしてみる。これが日々精進、この「場」で自分が成さねばならないことだ。人との比較ではない。人を目標にするのではない。今言える。目標とは、他者を模することではなく、自分の役割を果たすことだ。
2012.05.06
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時間たっぷりと鷹揚さの満喫これは、いい。快適だ。さして自慢するものを持たない私も、これだけは、今振り返ってみると、ラッキー!と叫んでもいいのではないか、と今は、思っている。この空白な、あるいは後退の時期があったからこの、今、自分がン受け抜けと言うのもなんだが、満足している自分がある、といって良いのだから。サラリーマン時代の激務の日々。そして脱サラ後の、仕事なく暇はたっぷりではあったが、生活の不安というプレッシャーで心休まることのなかった日々。それに比べて、この時間たっぷりと鷹揚さ満喫の日々。これは、いい。快適だ。至福の日々だ。そのときは、そう思った。ヘビースモウカーがタバコをやめたら、タバコを吸っている人に対して、「この馬鹿!」と言いたい気持ちになる、と聞いたことがある。「この馬鹿!」と、今は、余裕をもってそんな傲慢さを、至福と見た自分をしかりつけることができるのだが。 繰り返すが、今、こうして今、叱ることができるのは、過去の傲慢な自分が存在していたからこそなのだから。映画「愛と追憶の日々」の感想で触れたことだが、人にはそれぞれ長所も欠点もあり、愛し合ったり、裏切ったり、反発しあったり、新しい命の誕生もあり、死もある。しかも、それが自分一人の人生に起きるのである。そうしたものを時には受け入れ、ときには逆らいながら過ごしていく。こうしたものが人生なのだな。人間なんだなぁとしみじみと感じる。そして、それを含んだ上で思うことは、人には、役割がある。その役割を見つかってこそ、最大の至福。その役割が、私にも在り、ささやかながら今、その役割を嬉々たる思いで、果たしている。世に、人にその役割を通して 果たしている。こうしたことに気がつくのが遅かった、という思いは、ないといえば嘘になる。だが、これも、良いタイミングだったのだ、という思いもまたある。今、時間にも、カネにも囚われない。役割があり、それを果たすことで 世に、人に、喜んでもらえれば、囚われなくとも、それらは与えられるものだ、と確信を持って言える。
2012.05.05
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実際にこの仕事に入ってみて理解できたことだが、ある側面から見たら、大先生の指摘は正解であった。限られた24時間をスキマ無く埋めていく。それも時間的コスト、アウトと得る対価、インを念頭に入れながら・・・・。 これを続けていくとどうなるか。当然、とてつもなく忙しくなる。時間がいくらあっても足りない。だから、さらに効率を考える。最高の効率は、原紙をその都度作る無駄を省き、1枚の原紙をコピーすることだ。いまでいうコピー&ドロップ。もう誰も忘れて口にしなくなった違法建築の姉歯事件が起きた時期の自分も、ある意味では彼と変わらない危険名心理領域にいたのだなと思った。ただ、私の幸運は、大先生の考えに、若造の至りで反発を感じていたこと、それとそうした自分の仕事に対する考えに、ある切っ掛けで疑問を感じていた。だんだん、忙しさのあまり、何かを捨てているのでは、天狗になってきていることには間違いない、どこかで、そうした自分に気がつき怖くなっていたのだが。しかし、なにせ天狗時代のこと。少しぐらい仕事を断っても、べつに生活にこまることはあるまい。と軽く考え、「忙しさ」を口実に、仕事をセーブした。こちらはセーブ、減じたつもりでも、相手にしてみたら、せっかく若造に声をかけてやったのに、ということで、それはそれはたちまちに、暇なコンサルタントへ転じてしまったのである。それも「ええっ」と気がついたのは、顧問の税理士事務所のI先生に、決算を見せられたときである。それまでは、むしろ暇を楽しんでいた。大先生のつもりで、時間たっぷりと鷹揚さを満喫していた。
2012.05.04
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今、ある小さな商店の診断報告書を作成している。もうこのGWに入る前から取りかかっているから、実働24時間以上は懸けていることになろう。断っておきたいが,私はこの仕事が大好きだから、せっかくの休みを仕事でシコシコ,といった思いはない。推理小説を読む時みたいに、あれこれ考えながら、時には、とんでもない方へ思いを飛ばしながら楽しくやっている。至福の時間にすら思える。だが、かっては2時間ぐらいで十分仕上げた。30余年もこの仕事をやっていると、おびただしい診断の実例が頭の中に入っている。それを頭の中から取りだし、頭の中で切り貼りしたものを、キーで叩けば、まずそれなりに立派な報告書ができあがる。そもそも頂く単価からみて、2時間以上も時間をかけるようでは、採算に合わないのだ、といった考えがどこかにあった。 経営の指導を生業にしている者が単価割れの仕事していては、恥ずかしいじゃないか。この仕事。ボランタリーでも聖業でもない。八百屋さんや魚屋さんや、雑貨屋さんたちと同じ生業(なりわい)なんだ。あのねぇ、君!この仕事は、第1にコスト、第2に効率、第3に生産性、つまり、時間でなんぼの世界なんだ。たとえ、暇であっても,時間をかけては駄目だ。粋がるなよ。そもそもクライナントだって、君から、最高のものを期待していないだから、そもそも,読んでいるかどうかと・・・・・・・。昔々、その昔、会社勤めの合間や休日を利用して、経営コンサルタントとしての修業をと、もう故人となったが、ある著名経営コンサルタントの鞄持ちをしていたときのこと。私は、その大先生から上のようなお叱りを受けた。
2012.05.03
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何度でも繰り返そうではないか。 購買の結果、売上が立つのだから、両者の関係は協力関係でなければならない。戦い、勝負の論理は、使えないと。 経営を戦いとみる。売上は戦い抜いた結果得られるもの、といった獣の時代、そしてその延長の、もの不足時代の刷り込み、幻想を、意識的に除染、脱却させ、消費者との関係を、協力関係に転換させうるのは、経営者しかいない。だから、経営者は、叫び続けなければならない。「それはお客様にとって得になるか」「それは。お客様が喜んで下さるか」「それは、お客様が自分のことのように自慢して下さるか」 経営者は、叫び続けなければならない。「買い手が得なこと、買い手が喜ぶことを考えるのが仕事」。そして、それで、売れて儲かるシクミを構築するのが、経営者の仕事である、のだ。 それに加えて組織を上げて、OJT,アファメーション、シュプレヒコールなどなど徹底的にやり、それいけ、どんどんをやり、そうした考えが組織の隅々まで行き渡り、「消費者が得なこと、消費者が喜ぶことを考え、実行すれば企業が、うひゃうひゃ売れて儲かるという脳の回線を、いっそう強化していく。 まずは、釣りをしたとき、魚は釣り針ではなく餌に魚が集まる、このあたりまえのことがわかっているのか、どうかである。
2012.05.02
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「企業が得なこと、自分が得なことを考えるのが仕事」。こうした考えは、元来だれしも体質的に持っている。それに加えて組織を上げて、OJT,アファメーション、シュプレヒコールなどなど徹底的にやり、それいけどんどんをやる。だから、組織の隅々まで行き渡り、「企業が得なこと、自分が得なこと」を考えるように脳の回線が、さらに強化される。その効果が見事に花咲き、売上不振となる。 一方、消費者の方も「自分が得なこと」を目指してギンギラギンしているから両者の利害関係は一致せず、ぶつかり合いになる。これ、両者、敵対関係にある、という。 で、この勝負、どちらが勝つか。まちがいなく多勢に無勢、消費者の勝となる。で、負けて困るのは売り手である。消費者の方は他で購入すれば良いからである。 購買の結果、売上が立つのだから、両者の関係は協力関係でなければならない。戦い、勝負の論理は、使えないと言うことだ。
2012.05.01
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