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どうした場合持ち上げてくれるのか、また持ち上げる人をいかに増やすのかこうしたことが、「経営」。持ち上げてくれる人の中に従業員がいる。取引先がいる。消費者がいる。それをなぜ、彼ら、持ち上げてくれる人が、あきれて手を離す様なことをするのか。なぜ企業存亡の危機を賭してまで消費者を裏切り、背を向けさせる言動をとるのか。くりかえし、くりかえし同じようなことを言い続けている。書いている。しかし、これだけくりかえし、くりかえし、{背を向けさせる}こと」「自分だけ良」といった同じようなことを起きている。これは、経営というものの本質が、わかっていない経営者が、経営者として大手をふって経営ごっこをしている、としか、私には思えなくすら思えてくるのである。だからくりかえし。くりかえし同じことを、別のたとえで話している。いかにたとえを取っ替えようと、言いたいことは次の1点。これだけだ。 経営の本意は、自分、自企業を支えてくれる消費者なりと、いかなる関わりをするか。その関係作りだ。三方良し、分かっているのか、と。
2012.08.31
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商の国を作った湯王(とうおう)は、「民ありての王なり」といった。民主主義をの始祖みたいな人でもある。奇しくもこの国の人を商人という。 こう考えたら、仕事は濃淡の差はあるにせよ、この持ち上げてくれる人に、その気にさせる要素が含まれていることが不可欠であることが理解できよう。だから、企業内の論理、都合、事情、スケジュールといったことを恙なくこなすことではない。 事業や自分の都合、段取り、事情、ルールに消費者をはめ込んで言動することではない。自己の利害のために他者を操作することではない。働きやすい職場作りのために、消費者や取引先に犠牲を強いることではない。これらは道徳や倫理の話ではなく、企業存亡に関わる根本の話なのである。すなわち、経営を考えるとき、バーベルを企業規模、売上とみて、それらを増やし、いつまでも高々してもらうためには、この持ち上げてくれる人が、どうした場合持ち上げてくれるのか、また持ち上げる人をいかに増やすのかこうしたことが、「経営」ということになる。続く
2012.08.30
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ここに主従がいる。主は1人、従は10人としよう。主あっての従。従あっての主。これを主従の関係という。その関係とは、次のようなものだろう。この主は王になりたい夢を持っている。自分で自分を持ち上げることは絶対に出来ないと言うことを知っている。この主は、持ち上げてもらうために従を雇用した。従にすれば、主を王様にすれば、自分たちもそれぞれ出世できると空想しよう。。主はその彼らに乗っかっていさえすれば、彼らが王様の位置まで持ち上げてくれる、と、これまた名君を夢見る。ここで主従の戦略が共有されたことになる。この関係こそを「主従の関係」という。次に、バーベルを頭上に持ち上げている姿をイメージしてみよう。バーベルがあなた。あなたの事業、仕事としよう。支えている人を、あなた以外の人。事業では消費者だ。この支えている消費者が、手をはずしたらどうなるか。バーベルは己の力で持ち上がっていなかったのだ、と気づくまもなく、ドスンと床に落下する。これが倒産である。つまり 戦略共有の崩壊、その結果が、これである。続く
2012.08.29
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企業犯罪にしろ、政治家や知事の犯罪にしろ、当事者の吐く事件のはじめにの言葉と終わりの頃の言葉が、大きく、あるいは微妙に変わっている。その言葉を追うたびに、人の吐く言葉の、軽さ、意味のなさ、空虚さ、頼りのなさを痛感する。そしてそうしたものを報道で通じて、知る私たちの心に蓄積されるものは、結局は、企業なり、政治なりへの不信感なのである。 彼らには十分犯した罪は償って頂きたいのだが、そうした不信感を人々に抱かせた罪と、言葉に対する信頼性を軽くしたという罪にも、謝罪して欲しいものだと思う。こうしたものが蓄積され拡大化すると、人は人間への不信、企業に対する不信、政治への不信感、経済への不安、社会へ対する不安感・・・・・・などに陥るからだ。個人消費の不振も、お店の不振も、あるいはこの「不信感」が嵩じてきたものである、と、私は思っている。ここに私が、何を今更、と言われながらもこと新たに「商人道」を、ライフワークの一つとして心に決めて、ひたすら研究している理由がある。
2012.08.28
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綺麗な、聞こえのいい言葉で、一時的に消費者を引きつけることはできる。だが長く持続はできない。言葉は耳には入るが、形ではない。文字は目には入るが、動きではない。こうして押し詰めていくと、言葉にしろ、文字にしろ、行動の裏付けがあってこそ、その意味、真実としか受け取ってもらえない悲しさと寂しさがある。それを文章の力で、乗り越えさせることが出来るものが、小説家などプロの文筆家なのかもしれない。 凡夫にすぎない私などの言葉や文字は、いわゆる心にもない言葉を吐くと、自分にもいやになるほど虚ろに聞こえる。実際行動を伴っていない文章は、虚構に感じられる。自分で吐いたり、書いたりしながら、いつまでも不快な余韻が尾を引く。それがいやで、できるだけ借りてきた言葉は、自分で検証するか、最初から敬遠してはいるのだが。続く
2012.08.27
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古木、枯れ木、枯れ葉、落ち葉のお陰で、残った木々は生長し、さらに新しい木が育つ。その木のお陰で、それに張り付いているツタや草、そして、虫、動物たち。そう共生。お互い共生関係と循環で、森は育ち、繁栄しているのだ。このことが理解できれば、「おまえ等は弱かったから死滅したのだ。それに対して俺を見よ。俺は己の力で生き延びたんだぜ」と、いったように死者をさげすみ、己を奢る、といったことが、あってはならないことなのだ。また そうしたものに、哀れみの言葉や同情の言葉をかけることで「良し」、とは出来ないはずだ。「おかげさまで」といった謙虚な有り様(よう)で、故人に恩恵を受けた感謝の意を示して生きていく。これが自然の摂理の中で生きている木々同様、人の意に則している真の正しい生き方、資本主義国家に生まれたものの姿勢だと考える。
2012.08.26
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葬式は、死者を崇め弔うための生存者の儀式であり、昔みたいに死者をよみがえらすための儀式ではない。死を、一方的に悲劇、忌み嫌う立場から見てしまうのは、死者に対して失礼、冒涜であろう。消滅したお店の理由を、淘汰されたからとか商圏が飽和だから、といったのでは、浮かばれまい。残った店は、死者から学んだ教訓を生かせなくなり、どう対応したらいいのかもわからない。これでは死者も浮かばれまい。換言すれば、森の木々が、枯れ葉、朽ちた木々を需要としてたくましく成長していく。それと同じで、そうした螺旋形状で、経済も進歩していっているのである。いろんな世界やいろんな考えもあろうが、私たちは少なくとも計画・統制の、あの暗黒の世界の論理を、この日本に望んではならない。経営に、商いに、望んではならない。先に、マクロ的には、と断った「供給側の、倒産、消滅、空き店舗、売上不振」は、ミクロ的、すなわち個々企業にとっては大変なことは承知の上だ。だから大変にならないように努め、そのために不振の理由をさぐり、対応していくのである。それを、「経済的飽和の結果だ」とか「オーバーストアだから仕方ない」というのでは、「神仏のたたりじゃ」といわれたと同様、自助努力による起死回生の望みすら断ち切られたことになり、あまりにも残酷である。続く
2012.08.25
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話しを少し極論な例を取り、供給量=需要量の話を続けて診たい。私たちの国家が、完全鎖国をし、さらに48都道府県間の人、情報、物品などなど一切交流、流通を禁じているのであれば統制・計画経済は、あるいは可能かもしれない。で、供給量=需要量が成り立つ。だが商店が一店もない過疎村の住民が、不便、不自由ながらも生活できているのは、隣町へ、時には都会へ、時にはインターネットなどで買い物ができるからに他ならない従って、理論上にお店がないから不便という概念はあるが、買い物する「場がない」、「といったことは稀有であろう。これを逆の供給側からみたら、行政区域内におけるオーバーストアといった概念もないことになる。需要や供給が飽和になるということも存在しない。それは上に縷々述べてきた、いわば自然淘汰により必然的に調整されるからである。また、消費者は隣町からもその先の村からも買い物に行き来できるからである。したがって地図上に勝手に線を引いて、「我が商圏」、[我が買い場」といった論を、この今言う人があるとしたら、時代認識の錯誤が甚だしいか、空理空論者であるか、といっても過言になるまい。続く
2012.08.24
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理論上は成立するが、実態ではありえないこと。かって社会共産主義が夢を見て、世界。流血革命まで起こして求めた世界は実現したのか。その夢、見事に裏切られ、主義そのものを崩壊に至らしめた社会主義計画統制生産はけして人々を幸せには出来なかった。いや不幸にしたといっても過言になるまい。ここで想像して欲しい。よしんば、この供給量=需要量が実現したとして、それは作り手&売り手、そして買い手にとって楽しい世界なのだろうかと。ついでに、倒産がない社会が、如何に人々にとって不幸な世界を作るかを、20年前以前の社会主義国家を頭に置き、考えて欲しい。資本主義では供給量=需要のバランスが崩れたら、マクロ的に、バランスを保とうと。供給側の、倒産、消滅、空き店舗、売上不振といったものは、いわばその善意的な成果である、と私には思えるのだ。皮肉なことだが、そのやりくりの繰り返しを、恐らく何万年続けたところで、供給量=需要量の世界に、私たちは遭遇することは出来ないのである。
2012.08.23
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かってそうであったように、需要が供給を上回ったらどうか。ものは高くなり需要を調整し、この原則を守ろうと必死に動く。一方供給側は、必死で需要に追いつこうとがんばり、この原則を守ろうとする。それは自分たち、供給側の利益になるからだ。では、供給が需要を上回るという状態が通常化している現状ではどうか。ものは安くなり需要を押し上げることで、この原則を守ろうと必死に動く。だが需要側(消費者)は、必死で供給量を増やそうとがんばり、この原則を守ろうとするだろうか。ノウだ。なぜか。現状のままの状態が需要側の利益になるし、供給側の心配などするはずがないからである。 ここで確認しておかねばならないことがある。経済の原則、「供給量=需要」は、ユートピアの世界、虚構の世界であること。つまり理論上は成立するが、実態ではありえないことなのである。続く
2012.08.22
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我が家の小さな庭の、小さなガーデン。妻が育てたひまわりの花を眺めていました。花に鼻を近づけてみると、プーンといいにおいがします。そしてどの花にも結構たくさんの虫がいるではありませんか。考え込んでしまいました。花は、虫を求めて動けない。だから花々は、その繁栄のために蜂や蝶などの虫に無視されたり、虫が好かぬ花であったりでは端(はな)から滅びを約束されたようなもの。そのことを花が、判っているかどうかは、花に話を聞いたり、アンケートを採ったりしたわけでないので、はなはだ心許ないことですが、やはり無心であるまい。虫に好まれるように美しく咲いていると見たら良いのでは、と思うのです。チラシをまいていない。イベントをやっているわけではない。営業マンもいない。一方虫の方は、露骨です。何も花の繁栄を助けてやろう、と花に集まるわけではない。花の蜜を食べるために花に近づく。その結果、花は繁栄を得る。だれが考えセットしたのか。まさに自然の着想ってすごい。これが神仏か、自然のシクミであるとしたら、巧まなくとも、他にも活かせるはずだ。商店を花、虫をお客さんとおき変えたら、商人は、我が繁昌のためどうしたらいいか理解できるはずだ。花と虫の話から、花の人生、繁栄のヒントを学ぶという虫のいい話を朝から夢想し、これまた大きく胸を膨らませ、これから鹿児島市へ。
2012.08.21
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繰り返すが、商人みずからもその地域の生活者であり、消費者自身でもある、ここに「共感」の素地が存在しているのである。共に感じる、「こと」、「もの」なりの存在、体験といったこと。このことを抜かしたまま経営革新では、うまくいくはずがないのだ。経営革新もまた、消費者からみての経営革新でなくてはならない。共感し合えること、ここに全ての素地がある。その意味で、「共感」という言葉が軽々しく使われ過ぎてはいないか。言葉ではき、文字に表わすことは、誰にも容易に出来るし、詐欺師の専門領域でもあろう。共感には、生活の、ある部分でもいい、共有の場、共通体験があってこそ、共に感じ合えるものである。それを接点すら無いもの同士が、「共感、共感」とは、いかにも軽薄気である。うまい使い方をされると、怪しげ、嘘っぽさすら感じる。そうした思いが、消費者をして、そうした言葉を吐く人、そうしたお店を胡散臭く思い始め、背を向け始める、といった危惧すら覚えている。整理が出来ていないまま、書き記した。経営が実践学である以上、言葉だけの世界では成り立たないし、経営者の立場からの視点。観点で、語られるものではない。そうしたことを記したかった。
2012.08.20
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ものづくりの人たちもまた生活者からは離れた次元で、生活者への提言、ものづくりをやっている。それが現世の囚われ、縛りからの解放であり、{重要}奔放な「ものづくり」の源、といった考えに反対するものではない。しかし、消費者が買い、使う、といった消費者を主語に置いて、考えた場合、彼らから受け入れないものは売れるはずがないことも、現実なのだ。しかも、創った製品が、当たるか当たらぬかの第一次的な判断は、本来の消費者ではなく、卸屋なのである。彼らの判断が、消費者をピュアに代表し、彼らの視点からのものであれば、なんら問題はないが、そうは問屋が卸さない。加えて、それは儲かるか、リベートはいくらかだとかといったものまでソロバンのはじきに入れて判断される。この点、小売り店も、また同様といえる。卸屋が選択した中、その範疇内のものを選択し、提供することで、区々付加価値と称する口銭を得て、売りを行っている。今、経営革新がまるで流行(はやり)である。そのこと自体は歓迎すべきことである。だが本来革新とネーミングするなら、新しく何かを考える前に、今やっていること着眼、素朴な.疑義をもつことから始まらなければならないのでは、と私は考えている。
2012.08.19
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人とは何か、その人が作った企業や組織、製品とはどういうものか、といった人と人との関わりを中心に据えて、きちんとそのつながりの有無を押さえることで、虚の部分を実として確認しておかねばならないのである。面倒、大変な作業ではある。だから通常は、これをたいてい省略する。省略には、当然大きなリスクが想定されるわけだから、省力する条件がある。それが、かねがねの人間関係である。お母さんが毎日出す料理は、家族の誰しも安心して食べる。ところが同じ料理でも、これまで見たこともない人が、突然台所へ来て、作ったものはそうはいかない。お店には、大なり小なり、上の例の後者のもつハンディがある。だから、これをどうしたら、前者(お母さんレベル)へ持って行くかが、営業のイロハ、前提ということになる。虚を実に持って行く作業こそ、経営の主なる流でなくてはならない。だが、現実の流れは、合理化、能率化と称して、実を虚にということが目立つというのが、現場での私の実感である。このことは、今朝の新聞に入ったチラシを叩き台にして、それを虚実の視点から点検してみたら、理解いただけよう。
2012.08.18
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幽霊が出てきて、「うらめしや」というのは、幽霊になってからの恨みではなく、幽霊になる前、すなわち「生きているとき(実)の恨み、つらみである」ということだ。このことが、しかと理解していないと、私たちは対応を間違ってしまう。生活も、経済も、経営も、すべからく人と人との関係。この人と人との関係の中にのみ「実」があり。過去のことは、実に思えたとしてもが虚である。また未来も夢も、虚であるとみて、対応することが賢明と考えられる。一番の例が、代議士。たとえば、選挙時の候補者の言うことは、公約も含めて全て虚である。だから「当選の暁には・・・」という。当選し、暁後、それを実行して初めて実となる。だから、「なせ公約したことをやらなかったのか」と問うと、彼らは「実は・・・」といい訳をする。その「・・・・」の部分を補うと、「実は、は虚だったんだ」ということになる。つまり当選したために虚言を吐いた、これが実だったことになる。 経営でも、まったく然りである。手形は空手形、と「空」を付けなくても、候補者と同じく「虚」.割れて、落とせて「実」になる。
2012.08.17
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幽霊が「うらめしや」というのは、実は・・・・、ということを頭に置いて、以下、話しを進めたい。生きていくことは、つまるところ人と人との関係を基盤としている。当然、生活も経営も人と人との関係の上に成り立つものである。その関係は、虚と実で構成される。本稿では、人を介在する「関係」を実と置く、人以外の関係を虚とおく。そうすると、幽霊は「虚」と言うことになる。虚は人間だけではない。「うちとおたくの会社は、取引は緊密だ」、といった言い方がある。ここで、うちとオタクとは、会社の関係である。だが、会社同士の関係の内実は、両社に属する人達の人間関係のことである。会社と会社が知り合い、名刺交換した後、取引しはじめたとか、会社同士が好意を持ったとか恋愛し始めた、ということではないから、虚である。「会社としては、君は首だ」と言われたとする。ここでは会社も首も虚、君というのはこの場合、固有名詞であるから実。こう考えると、虚が実を首(これも虚で、実は解雇)にしたことになる。そこで実なる私は、腹を立て対策として抗議に行くわけだが、何処をさがしても、私を首にした会社さんは見つからない。存在しない茂のが私を首にするはずはないから、「誰が俺を首にしたんだ」と、私はいきり立ち実を探すことになる。その結果、「実は・・・・」と名乗って出てきたのが、上司のO部長であることが明らかになる。この「実は・・・」で、初めて実態が掴めることになる。で、私は初めて首になる理由を思い当たることが出来るのである。私の仕事での聞き取り、ヒヤリングは、この「実は・・・・」を如何に聞き出せるか、診断、支援の正否はまさにここにかかっているのである。
2012.08.16
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商人が、その職場であるお店に住まなくなった、いわゆる職住分離が始まった頃から、商店街が衰退し始めている。偶然かもしない。他の要因が絡んでいるのかもしれない。後付けの根拠かもしれない。 だが強調しておきたいことは、そこに生活していない、あるいは異なった生活環境をしているということで、これまで「その土地で生活者している体感を踏まえる」といった視点が希薄になることは紛れもない,ということだ。また日常生活において、同じ生活者であるということで持つ様々な接点を失うことは、望外の損失になったのではないか。子供の校区が違う、といった一つをとっても、いかにたくさんの接点を失っていることか。遠くの親戚より、近くの友というではないか。つまり接点が希薄になるということは、経済学でいう、「売る人対買う人」の関係といった対峙概念がくっきりすることになる。そのことが、これは私の持論だが、近年、経営にやたらに「戦い」理論が入り込んできた理由ではなかろうか、と考える。少なくとも個々単位に、商店が行き詰まりを生じ、死滅したとして、それらを名医が解剖してみたら、彼らの死因は共通して、その商人が自分も生活者であるということを忘れて、対峙的な商いをなすことに始終したその姿勢にあった、と診断されるのではなかろうか。名医ではないが私はそう診断している。
2012.08.15
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この店は実行した。それはチラシにこういうセリフを追加したのである。「65歳以上のお客様で、日付切れ3日以内の商品をお買い上げの方は3割引。日付切れ商品を発見していただいたお客様には、ポイントカード5倍進呈」。これで売上げ上がり、日付切れ一掃、お客様は喜んだ。 嬉々としてお客様に当店の手伝いをして頂くような状態を作れば、アルバイト代ぐらいの削減は出来る、ということだ。 こちらで営業やれば、費用こちら持ち。それをお客にやってもらって、お客も得し、感謝してもらうには・・・・・・とあらゆることに関して考える習慣を作ること。脳の回線をそんな風に作っていくことだ。 白状するとこうした発想は、次の格言?から考え出したものだ。 「人のふんどし(ブラジャー)で相撲を取る」。ところが誰も、ふんどし貸してくれないと、憤怒している。 ふんどしやブラジャーの世話まで出来ないので、次の文章で堪忍してほしい。 お乳のでない母親は、出過ぎて苦しんでいるを見つけて飲ませる。感謝されて、ミルク代助かる。父が乳(ミルク)をませなくてもいい。 私は、ここに 商いの幸あり、商いの革新あり、と確信している。
2012.08.14
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次に、簡単に経費の考え方の部。たとえばCD、DVDの最大の特徴は、注文きてから、買いに行って焼く。売ってから仕入れたり作る。全部に適用するとはいわないが、そうした虫の良いシクミはないかなと考える。考えると、少なくとも私の頭の中では、つまり在庫かからない、資金が寝ず、在庫金利を軽減する方法はいくらでも沸いてくる。頭の中だからこそ、いくらでも沸いてくる。今日も、仕事先の指宿のA社に、実現性の高いそのシクミの一つをプレゼントしてきたところだ。お客の目の前で揚げる総菜を売れば、「作りたてほかほか」といった嘘の看板代がかからずすむ。余分に作ったものに、価格訂正のシール代貼るコストも省ける。あるスーパーで、日付切れ商品が出て困る。アルバイトやとって一掃したい、という。心がけは、大変よろしい。だがそんなところに金をかけてはダメだ。お金はお客様が喜ぶところへ、投じることを旨にすべし」と言ったら、「そんな方法ありますか」という。つまり考えたことがないのだ。 「ありますよ。それはね。むにゃむにゃ」というわけで、このスーパーはッ実行した
2012.08.13
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お客を得させる、喜ばせるには、無限の方法(戦術)がある。例えば、タバコ1箱かっていただいたら、1万円札1枚進呈もある。5千円進呈、4999円進呈も、といったことで無限ということだ。 「そんなことしたら、おれんちが損する」。 そうだ。当然だ。だから、損することはサケテ、うちも当然儲かることで、ということが前提になる。それをあれこれ、考える。これが「商い」だ。この工夫をし続けて繁栄し続けることがなければ、お客さんの喜びも一回キリに終わる。そこでずっと、ずっとお客様に喜んでいただきたい、という前提条件を加える。この前提の上で、どうしたらいいか、を考えるのが「経営」だ。これを考え続け、実行し続けるのが、経営者だ。 自社・自店が喜ぶ結果の生むには、消費者が得をし喜ぶことをなし続けること。これだ。
2012.08.12
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商いは、戦いとは全く正反対の論理、概念である。自社、自店を支えてもらうために、いかに協力を取り付けるか。つまりこれ和の戦略なのだそんなことわかってている、という人がいよう。ではあなたのやっている販促はどうか。仕入れはどうか。と突き詰めたら、わかっていることと反対、戦い戦略を採っていることがわかるはずだ。だったらわかっていない人と同じことではないか。和の戦略?そんな甘っちょろいことで、この厳しい競争時代を戦い向けるものか、という人もいよう。そんな考えはおかしいという人も多かろう。見解の相違だから、それはそれで結構。これまで通りやられたらいい。私は自分の考えを広くあまねく浸透させようとか、戦いを好きな人に戦いを挑む、といった野望も気持ちもない。ただひたすら、お客様の幸せを願う商人達のために和の戦略を選択したことの正しさを、結果で出せるよう微力を尽くすだけだ。私の方こそ、そんな商人達に支えられて、この途を歩んでこれたのだから。
2012.08.10
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相手に喜んでもらえる要素に比例して、消費者がお客に変わる確率は高くなる。この確率からはじき出された結果が「売上」。だから、これ結果が目標になるわけはない。また結果としての売上が上がったとして、それで喜ぶのは自社だけである。それもひょっとしたら経営者だけといったことかも知れない。喜ぶ者をかりに100人と多めに設定したとしても、その喜びに関係ない人たちが、地球人口-100人、いることになる。多勢に無勢、まさにこうした情勢下で、「戦い抜こう、中元商戦を。エイオー」とやっている。私には刀で大砲に挑んでいるサムライより、無謀なことに思え、滑稽にすら思えるのだ。そこで、地球人口全部などといわない。せいぜい30坪のお店であれば、10万人でも多すぎるが、この10万人を味方に付けたら、100人+10万の力になる。ここに商いの原理がある。
2012.08.09
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組織とは、外部に対して内部を最適に対応させるシクミのことです。そして、組織的な仕事ができることとは、仕事毎に最善・最適の人を配置することなのです。これができないと、いくら 多くの人に動いてもらっても、一人でやったのと同じことになってしまいます。「俺の言うとおりやっていればいいんだ」といった組織が、まさにその見本。 極端な例の方が、わかりやすいかも知れませんね。 100ある、やらねばならないことを、その中の1つだけを、 100人が重複してやっていることを頭に描いて欲しい。 100人分の給料を払って、1人がやる分しかやってないことになり、 これではその会社は大赤字になる。 そんな極端なことはないに決まっている、と思われるかもしれませんが、私が見る限り、大なり小なりどこの企業でもあることなのです。
2012.08.06
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挨拶って、そんなものか。虚ろだなあ。突然、平山秀幸監督の映画「愛を乞う人」が頭に浮かんだ。母から愛を受けたことがない娘は、自分が母になっても娘をどう愛して良いかわからない。そしてその娘も。だから子への虐待は、親から子へ、子から親へと確実に受け継がれていく。それは「愛に飢え、愛を乞う」それが、母娘の間の、虐待の根底にあるといったことをえぐり出した名作である。 お客から、あるいは店主から、愛された経験が希薄だと、取引先などに挨拶を返さないという形で、「愛を乞う」ているのだろうか。おおよそ30年余年以前のはなし。大手のナショナルーチェーンの商品部のマーチャンダイザーとして、上向いて、大手を振って船場を歩いていた私自身を思い出し、その自分を棚上げしつつ、少しわびしくなった。 用を済ませ、天文館から、中央駅を歩く。明日から博多、熊本と、17日までは失調が続く。ゆっくりも出来ないが、暑くてたまらずブックオフに立ち寄る。105円コーナーで、元コムスン会長の本を見つけ、少し立ち読み。1時間に1本の鈍行まで、時間つぶし。 なんという本だ。書いていることと、現実の乖離。よくぞこれだけきれいごとを書けるものだと、あきれを超えて気分が悪くなる。「こりゃ、ほりえもんのほうが、かわいいわい」。NOVAも含めて次々不正が露見したこの会社のトップ。よくもこれだけ虚構を演じられるものだ。。 虚構は虚構、実になることは絶対にない。虚業家は、実業家にはなれないのである。軽井沢に豪邸を持とうが、自家用機をもとうが、それは虚である。こうした虚の人たちは、虚の人生を刻んで虚しくないはずはあるまい。それを押さえてまで、いったい何を乞うているのだろうか。帰りの鈍行で、そのことを考え続けていた。
2012.08.05
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鹿児島市・天文館アーケード街のある朝のこと。時間は9時半過ぎ。ヤマトの宅急便のリヤカを引いた若い青年が、通りを掃除している商店の人に「おはようございます」と、元気よく挨拶している。気持ちが良いものだ。 だが、商店の人は、だれも無視。「へっ?」とおもい、このリャカを尾行してみることにした。30分ぐらい後ろからみていたが、皆例外なく無視。挨拶を返す者はいない。 10時には、この彼らのお店の開店である。ごらんなさいな。青年の挨拶を無視した人たちが、一斉に「おはようございます」と、この青年みたいに、明るくお客様に挨拶を始めるのだ。さぁ、今度はこの人たちの挨拶に答えるお客はいったいどれぐらいいるかな。 作られた挨拶。営業用の挨拶。これでも「真心をこめて・・・」といえるのだろうか。 挨拶って、そんなものか。虚ろだなあ。
2012.08.04
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私の大好きな豆腐を例に取る。苦心に苦心を重ねて作った豆腐への思い入れは、それを作った豆腐屋自身のものであり、それを買って食べる消費者には関係のないことである。消費者はただ自分の選択に満足できればいいのであり、豆腐屋の豆腐に対する強い思い入れなどどうでもよいのだ。 豆腐屋の思い入れと、消費者の選択肢との違い。それは講師と受講生の感じる温度差であり、ここから講師に錯覚が生まれる。繰り返すが、その差の原因は百パーセント、講師の側にある。なぜなら温度差や湯加減を察知して話術や方法をさりげなく調整し、相手に対応するのは、プロたる講師の基本的な業務だからである。豆腐屋と書いたが、商人と読み替えてほしい。講師とかいたがこれはできれば読者自身に置き換えて読んでいただきたい。それは技術というより人間としての姿勢の有り様にかかわる問題なのだ。なぜなら状況の変化に対応するということは、人間の生き方としての根幹だからである。この基本的なことが理解できていない似非(エセ)「プロ」、リーダー失格、無能経営者・管理者といった人たちは、実に多いことよ。彼らには誰もいない会場で講演なり講義なりを一度やってみることを勧めたい。一人も部下や従業員がいない状態での自分を体験してみたらいい。自分以外の人々のお陰で、自分という存在や組織が成り立っているということが少しは理解できるだろう。ルネ・デカルトのいう「我思う。ゆえに我あり」であるとともに、「他あるがゆえに我あり」でもある。本質の持つ両面性を常に意識しておくことが、肝要ではなかろうか。
2012.08.01
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