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なんでブログに書いているのか。「対(つい)の関係」、つながりです。人と人との関係づくり、これです。一例としてである。1に、このブログで、この文章を読んでくださった方が、良い選択の一つであったと喜んでいただく、という結果を生み出すこと。これが書く私の務めであるし、目的です。2に、一人一人の人間の脳力は凄い、それも天井知らずだと思います。ですが、その脳力は、どう考えても有機的システムの中にあって、天井知らず、ねずみ算のごとく発揮できるものである、というのが私の確信なのです。 端的に言えば、どんなに凄くても一人では生きられないという意味です。また人それぞれ違いがある。だからこそその違いを持ち味、得意として社会システムや組織の中で存在し得るし、貢献していける。これ例外なしに。ということです。 他にもあろうと思いますが、上の2点が、私がほぼ毎日、「書き続けている」根本にあり、それを現実に実践していく「場」の一つが、 このブログです。これからも,楽しく書き続けます。ここに見えない方々との,対を願って。
2012.06.30
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豆腐製造機が豆腐を創るコンニャク製造機がコンニャクを創る。このイン→プロセス(あるいはブラックボックス、またはトンネル)→アウト、これがなかったら、イン、ことを成しても何が出来るかわからない.やること、なすこと全て出来たところ任せ(出任せ)になってしまう。シクミなしでは、豆腐、ところてんだけではなく、思考も、モノ、サービスも生産できない。人生は、選択の「シクミと積み重ね」による織りなしで生成されていくものだ、と私は思っています。だから本来、進歩発展思考なのは当然です。そう言う意味でも、皆様方が、このブログを選択、今、この文章を、ここまで目を通していてくださっている。この事実こそ、私がこのブログを使って、今この文章を書いているという選択の、「成果」だ、と私は誇らしく、有り難く思っています。だからこそ(ここで、力を込め、見得を切る)、この皆様方の選択が、間違いない「良きもの」だったと、いう結果がでて初めて、私は自分の仕事が出来た、という結果を得ることになり、「積み重ね」の意欲が生じて、その成果は螺旋状(スパイラル)のものとなります。この関係こそ、本来の作り手・売り手対買い手の関係。拙書「羊たちの探しもの」で、書き記した、これ、「対(つい)の関係」こそ、繁栄のリレーションと、私は確信を持っています。
2012.06.29
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判断の意志決定の「組み合わせ&積み重ね」が盛衰を決める、と私は信じています。これは、1-一発の判断ではない、と言う意味。お金持ちになるのも、宝くじを当てて一発でなることもあるけど、これはいかがなものかな、と言うこと。道徳、倫理的ではなくて。2-「組み合わせ」です。だから、自分一人での組み合わせもありますが、それより自分以外との組み合わせが、重要な決め手になるのではということ。3-積み重ねです。これは継続、すなわちし続けるという要素と、線香花火やシャボン玉的では成したことが蓄積、堆積していかない、といった2つの側面を含みます。ここは、たとえばイメージとしては階段、梯子・・・・それも螺旋状(スパイラル)の階段、梯子だと思います。それにもうひとつ加えるならば、絶えず「ゆらぎ」ながら。私達の「日常の風景」の中には、毎日みていて、同じような風景にみえるのだが、あるときふと見たら、すごく成長している。進歩発展している。そんなイメージがスパイラル。螺旋階段、大きく揺らぎながらたくましく山をぐるぐる回り、上っていく観光バス。そうしたものを頭に浮かべています。こうしたニュアンスを一切内包して、パッケージソフトとして私は「シクミ」と言う言葉を使っています。期する成果を得るためには、そのための「組み合わせ&積み重ね」、すなわちシクミを、脳に構築すること。これだ、と思っているのです。豆腐を作るには、豆腐ができるシクミが必要です。豆腐を作りたいのに、ところてんをつくるシクミでは代用にすらならないのです。。続く
2012.06.28
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凡人、私たちは、売上の起死回生に対してこの消去法も選択ではなく、どこかに奇跡の類(たぐい)を期待するのである。 「景気が良くなれば、きっと・・・・・・」 「従業員皆様方の、いっそうの努力を期待します。」 「必達、努力に勝る天才無し」 「戦い抜くぞ、命の限り」しかし、こうした「日本は神国だ。だから神風がふく」の奇跡は起きず、努力も虚しく、深刻な事態を招くか、死するまで、現状が続くことになる。それは、起死回生もまた、日常の中の小さな意志決定、すなわち選択の組み合わせとその積み重ねで、具現するものだからである。消去法ででは、「うまくいかなかった場合、「うまくいかない」やり方を選択したからうまくいかないことは当然である。だからその他にうまくいくという対策がある、ということを親切な情報として、ということを、私達に教えていることになる。花にはパンツの位置を動かせないが、人には出来る。愚妻にも出来る。だが、花は出来ることをかまけないが人は、かまけることが出来る。 つまり、物事すべからず、「やるかやらないか」で決まるのに「やらない」という意思決定をしてしまう。こうしたことが人には、ある、ということだ。以下、次稿。
2012.06.27
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過去は変えられないが、こちらに向かってくる未来が結実したものは変えられる。これを仮説とする。 そこでこの仮説を実証してみた。妻が先週の土曜日に作ったカレーが、まずかった。妻も珍しく「このカレー、まずいよね」と同感した。二人がかりで悔やんだとしても、「覆水盆に戻らず」だ。どうしようもない。そこで昨夜は、妻はカレー粉を変えてみた。今度は実に美味かった。先週のカレーがまずいのではなく、「まずいカレー粉」を選択した、まずい選択がまずいカレーの因と言うことが、ほぼ実証できた。これを、私から見たら、カレーを食べない、妻を取り替える妻にしたら、豚肉を牛肉に取り替えるうまいと言ってくれる亭主に取り替える、といった後から間違いとわかる選択をしなくてよかった、ということになる。だが、今回は、たまたまかも知れない。たまたまといった選択肢は存在しないから、次はタマネギ、その次はご飯、次は肉こうしたものも検証しなければカレー粉が理由だったとは言えないのだ。これが、あのエジソンですらやっていた消去法である。ちなみに消去法は、消し込んでいくうちに間違いなくぶち当たる、といった強い確信がなければ、あほらしくてできない手法、だと私は思う。だから、消去法を採る根気と粘り、いやその前提としての確信が描けない凡人、私たちは、売上の起死回生に対してこの消去法を選択するのではなく、どこかに奇跡の?を期待するのである。 「景気が良くなれば、きっと・・・・・・」続く
2012.06.26
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朝から良い天気だ。晴れても降っても、我が家にとっては良い天気だ。妻は、朝の工程を変えて、今朝は、調理の前に洗濯を選択した。その結果、私のL寸のパンツやシャツが、花たちの上を覆っています。花には、はなはだ迷惑でしょうが、それを自らでは避けることは、はなから出来ません。 花の運命でしょうか。でも人にも同じ人はいるのでは?。これが、本稿を書き始めた動機です。このブログを選び、そして今書いているこの文章に目を通すか、通さないか、そうしたことは、日々、刻々、瞬時瞬時のおびただしい天文学的選択肢の中の一つ。選択だから無意識にということはあっても、厳密には、偶然の選択はない。今、小さな食品店の店頭で、レジ前の棚にある16種のチュウインガムの中から、1個が売れたといったことは、作り手、売り手から見たら別にたいしたこともないことだろう。といった意識。あるいは多分にそうした意識すらも、考えることもない当たり前のことと思うだろう。こうした1個の売上は、一人の消費者の選択によって、選ばれて、それが総和され、今日の売上が立ち、それが自分たちの月給の原資になっているなど考えても、いまい。選択の結果、その選択の結実が、この今の状況と考えることは、実に重要である。それは、今からの選択によって望むべき結果を得られることの確実な「証明」だからである。このことから、過去は変えられないが、こちらに向かってくる未来が結実したものは変えられることが、仮説として言える。 そこでこの仮説を実証してみた。 続く
2012.06.25
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相手の方が、喜ぶことは、何かを頭に強くおき、いろいろ試み続ける習慣が、脳に「あるシクミ」を創ります。ちなみにこれを私の「脳力開発ゼミ」では、脳力と呼んでいます。もう一つちなんでいうと、自分の技を発揮する力を『能力』といいます。相手を感動させるために為したことに対して、相手の喜びが、こちらに伝わってきくること。これが、「手応え」です。手応えとは、お客様の思い、気持ちと売り手である自分の気持ちが同期されたとき感じとることができます。これが共感です。 手応えのないことは、暗闇にボールを投げ込む様なこと。すーっと闇に吸い込まれ、なんの反応もない。ボールの代金が嵩むだけ。ここでボールとは、「自分のこと」、「自社のこと」、「自分のなしたこと」。あるいは営業費、宣伝広告費、投資のこと。相手のプラス、相手の喜ぶこと、相手の得になることを投げれば、相手は必ず受け取ろうとします。そして「有り難う」といってくれる。自分のプラスになること。自分の喜ぶこと、自分の得になるこならいくらでも欲しいのが人間ですから、いつもあなたの周囲、お店は人でいっぱいになります。潰れたら消費者も困りますから,支えてくれます。 この域に達する練習として、お勧めは、まずは自分の発案を惜しげもなく多くの人に晒すことです。情報発信、情報公開が決め手です。相手のプラス、相手の喜ぶこと、相手の得になること発信、与えを続けていれば、間違いなく相手は反応する。このことはやれば必ずわかります。やらないと、絶対にわかりません。
2012.06.24
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アフターサービス、フォーロー、手間暇こうした表面に見えるものに、心を動かされ感服して顧客が支持する、といった受取りだけでは、本当の理解にはならないのでは、と私は思う。そこに経営者、あるいは従業員の人間性が感じられる。ああ律儀な人なんだ。いつも消費者のことを考えてくれている親の代から、手間暇を厭わない正直な人だ。・・・・・・・・・こうした一言で言えば、長い間に積み重ねられて地域の人々にまで染み渡った信用、そうしたものを「形」を見て、地域の人達、消費者が、再認識する。こうしたものを、消費者が支持するのではないか。そうした状態を目指して、商人は日々精進する。杉さんの話に戻す。こんな煩わしいことまで、やってくれる店はどこにもないから、最初の頃のお客が次のお客を呼び、さらに次のお客を・・・、といった形で常連客になる。こうして増えた常連客が、いわば杉さんの親衛隊となって、クチコミをするのだから、その効果は大きい。そして、時間の経過とともに波及効果が広がっていく。以下杉さんが行っている"常連客優遇策の項目だけ撤去すると、次の通りである。(1)来店客すべてにサービスカードを発行。常連客に商品券進呈。(2)初めてみえたお客には、どんなに忙しくても その日のうちに手書きの礼状を書く。(3)お客様を紹介者くださった方に、その日の内に礼状を書く。(4)オーダーのお客様には時々、商品の着心地などの問い合わせをする。 (5)店のイベントを時々企画し、お客さんであるなしを問わず、誰でも参加できるようにしている。 一言でアフターサービスと言うが、杉さんは、ニットの洋服の丈を詰めるといったことから、ほつれや虫食いなどのお直しも、といったところまで、やっている。 こうしたことを、販促の手段として受け取っては、全く意味が無いことを、繰り返し記し本稿の〆としたい。
2012.06.23
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「 ニットが好きで好きで、好きで、そのため採算を考えず、手面倒なことなど気にならず、それでも生きるために、夢中でやっていたら、娘に継がせるだけの広がり、事業になっていた」。「実際に編んでみていいなと感じたものしか展示しない。お客様にお勧めしないと売れない商品づくりや、売らんがために流行を追ったり、デザインに流されたり、といったものを作ったり売ったりすることは私の仕事ではない。何年着ても大丈夫、という商品を作りたかとです」。いやはや、すごいですね。杉さんのこうした言葉は、どんな商いにでも通用する普遍性がある。置き換えれば、学べる、ということで紹介しているのです。毛糸を買うと、採寸、編み方からラッピング、保管方法まできめ細かな指導を行っている。この一貫性、最後まで見る、というひたむきさは、40余年前と何も変わっていない。それは、殆ど金にならないのに手間暇がかかるリフォーム、修理に力を入れている、「形」としてわかる。当店の強みは、まさに毛糸がリフォームしても使えない糸くずになるまでの完全なアフターフォローにあり、といってよい。しかしこのアフターに感服して顧客が指示する、といった見える部分だけの受取りだけでは、本当の理解にはならないのでは、と私は思います。 続く
2012.06.22
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経営計画、販促計画などなど、自分の願望やきれいなスローガン、テクニックを並べる前に、消費者に行動してもらうといった要素を主とした戦略設定が欠かせないのです。つまり「消費者が積極的に支持、協力をする、そして購買していただけるには、何をいかになせばいいのか」、これが、「戦略」です。そのために、販促ならお客さんが競って買いに来てくださる、他のお客をクチコミしてくださるには、何を為したらいいのか、このことに苦心して頂きたいのです。杉 美和子さん(オリジナルニット美和 代表)とは、もう20数年前の博多商人塾で、私が講師をさせて頂きましたおり、ご縁を頂きました。ゼミのあと、西新の西嶋康夫さん(パレット)代表)を加えて、夜遅くまで商人談義で意気投合。彼女のお考えを「商業界2000/1」に私が執筆させて頂いたことがあります。その中からほんのさわりを抜粋し紹介しておきましょう。これで如何に杉さんが、戦略を言葉や口先でなく、身体で捕まれているかを理解頂けたら嬉しいです。 *開口一番、「 ニットが好きで好きで、好きで、そのため採算を考えず、手面倒なことなど夢中でやっていたら、娘に継がせるだけの広がり、事業になっていた」。以下、続く。
2012.06.21
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商いには競争がつきもの。だから競争に勝たねば生き残れないよ、といわれますが、はて。 確かにライバルの同業他社がありますから、その中から消費者に選んでもらわないことには商売になりません。それはその通りです。 ですが、その対策としては、大きく分けて、次の2つの戦略があります。A 競争し、ライバルに勝つ戦略。B 競争関係にならないために自社・自店がお客様に選択してもらう条件を作る戦略 私たちみたいな仕事にも、それなりに同業者がいます。経営者の皆様方を正しい経営に導くこと。これが本来の大切な仕事の柱なのですが、自分が仕事をいただくための営業活動が、仕事の中心に、といった例も少なくありません。 なかには、仲間や同業者を誹謗したり、陥れたりといったことを、それとなくやる人もいることも、残念なことですが事実です。 道徳や倫理の問題は別にして、こうした人たちが存在するといったことに恐ろしさを覚えてしまうのです。 何故かと言いますと、ライバルを叩くという戦略では叩かれる相手も防戦上、たいていは同じ戦略をとることになり、その結果として泥仕合になることがほとんどです。 どちらが勝つにせよ、消費者には関係のないことですし、逆に自分の土俵である業界を狭め、業界に対する世間の信頼を失ってしまうことになるからです。 気がついてみれば、選択した戦略は自滅の戦略だった、ということになるわけです。 強調しておきます。真の正しい商人の道、あるいは業界の本来の目的は、自社、自分が伸びることによって、各人が所属する業界をもまた拡大発展させる、といったところにあるのです。続く
2012.06.19
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多くの企業、あるいは企業人は、 自企業内からしか外をみようとしない。 外から内を見るのが苦手なようである。それが国際関係においても、相手国の立場からの日本がみえない。あるいは見ようとしない。 それにどこか過去を引き摺っている。人間対人間の関係を構築するにも、国のしがらみをどこかにおいてしまう。もちろん他のアジアの人たちにも責任はまったくなしとはいえまいが、そうした彼らの多くはもはや過去の人といっていい。 日本人とて同じことだ。アジアの若い人は日本人と友達になりたがっている。新しい歴史を欲している。そのことに気づいていないのではないか。 他の国の人たちと共に発展していく。他の企業と共に伸びていく。地域の人たちと共に地域を良くしていく。 といった、個々人の幸せにしろ、企業の発展にしろ、この「とともに」といったパートナーシップこそ、日本における組織論において希薄なような気がならない。 国際関係に疎い関心も乏しい私だが、知人のぼやきを参考に、記して見た。
2012.06.14
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お互い助け合って幸せになる、お互いが組むことによって繁栄する、 といったパートナーシップの関係でつきあったとして、何の問題があるのか。 いわばメンツ、あるいは奢り、高い姿勢、圧力といった背景にはどこかに、大なり小なり彼らの「意図」が、あると言って良いのではないか。 しかし、そんなことは、私に言わせれば、大事に対しての些事、そんなつまんないことで、相手(の国)の人は、気分良く付き合ってくれないとしたら、損得に敏感な経営者ならなおのこと、なんと馬鹿らしいこと。とどうして思わないのだろうか。 私には、そんなことが「日本人としての誇り」、「我が社のプライド」、「私のメンツ」などとは思えないのである。 今、伸びている企業を見てみたら容易に判ることだが、またこれから発展していく企業の経営者は、自企業にとってもっとも大切かつ最大の条件は良き友(パートナー)であることを知っている。 良き友とは、情報を共有と共栄共存、対等である、ということだ。 国際社会での成功のキーなどと、別枠で見る必要はない。国内同様、そうした関係での友達関係である。 「友」を繰り返し、強調している。 企業と企業関係に、友達関係、友情など存在し得ない、と言いたいからだ。 人と人の関係づくりだ、と言いたいのである。 人と人の問題として、見なければ解決などできはしない、といいたいのである。 繰り返したい。こうした企業間に信頼や友情などあるはずがない。取引も然り。皆、人と人との関係なのである。人と人の関係を如何に構築していくか、その上で取引、ここでいえば「国際化」だと思うのだが。
2012.06.11
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対等ではない関係は、いずれにしてもビジネス上の取引、ひいては、経営のありかたといった観点からからみて大きなマイナスになると、私は考える。 以下、その理由を考えてみたい。 1+1=2 数式上では、例外なく加算される。 ところが、たとえば人と人の出逢いではどうか。極端な例、 1人の女性+殺人男=1,そして、この殺人男が死刑になれば 1+1=0 になる。 極端な例といったが、実は極端ではないのである。 人と人の付き合いで、「彼とつきあい始めてから、悪になった」といった?は、けして少なくない。 企業の取引関係でもそうである。あそことつきあいだしてから、マイナスばかりだ、といったことが、実は別の理由である、といったことはあるにしても。事実ある。 むろん、プラスが例外と言うことではない 相思相愛、子供作り好きの男女が、加算されれば、やがて、3,4.5。6と増えていき、アダムとイブ二人の世界が今の人類の繁栄を創りあげた。 こうした極端な話を、頭のどこかに置いて、話を戻したい。 下請けという言葉がある。もとろん元請けの方は、協力会社d、とかパートナーとか言った言い方をするがやはりその関係は、強弱、あるいは上下の関係というのが実態である。続く
2012.06.10
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我が社、我が社、俺は、俺はと、言葉の頭に主語を、必ずもっていく人をよく見かける。 私は、「ああこれは危ないな」と思う。この仕事に入って30年余、そうした人、そうした企業の行き着くところを見てきたからである。 理由は簡単である。人、企業、すべからく一人では生きられない。にもかかわらず、孤立化の戦略を採っているからである。 たとえば、これまでの中国などへの海外進出は、おおかた労働力(安さ)を求めてのものである。 かりに協力工場と謳っていたにしろ製造部門、それも実態は下請け(隷属)化しているといえる。 かりに進出した日本側がそう思わなくとも、相手の国、ここでは中国国民の人たちがそう思っていたとしたら、同じこと。 日本の大手企業のとりわけ年配経営者の「国際化思考」には、日本や自社の立場や論理で、他の国を見て優劣(の判断)をする、といった匂いがどこか感じられ、気になる。 そのことがあの戦争を知る他のアジアの人々には、当時の侵略を連想させることになることなど、彼らは思いもしていないのかもしれないだろうが。 そうした根底には日本人の奢り、つまり、その国の人々を自分達より低くみる戦前からの刷り込みがある、これも1つに上げられよう。 あるいは、国家としての日本、人としての日本人が、彼らを発展途上国(今、死語化)から脱皮し得ていない後進国(これも死語化)だ、といったように見下すといった視点で、彼らを捉えている、といったことがあるのかもしれない。 いずれにしても、そうしたことは、ビジネス上の取引、ひいては、経営のありかたといった観点からからみて大きなマイナスになると、私は考える。 以下、理由を述べる。
2012.06.09
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戦いはみないやです。 だから消費者は、逃げる。それを、さらにそれいけどんどん,売り込め、足で稼げ、押して押しまくれ、根性だ! とさらに頑張るから、消費者が背を向けて逃げる。何で、私が彼らのターゲットにされるのか。もう二度と、行きたくないって、いったように・・・。 こんなふうに、戦いの論理は、目に見えないところに消費者を遠ざける流れをつくってしまうのです。 対して、共感は、消費者の思いを感じること。消費者個々、自分の思いの共感者を、いわば求めているわけで、その思いを果たせると言うことにでもなれば、大歓迎。 みなそうした企業やお店の後押しするようになる。見えないところで、消費者が支持、応援してくださる。そうした流れが出来たら、もう盤石です。こうした流れづくりを私は、「販売促進」ではなく「購買促進」と呼んでいるわけです。 元来、商いは、消費者の思いを叶え、喜んでもらう、そうしたもの。 ところで、歴史をみたら、平和な時代に商いが栄えている。いや、商人がいきいきしている時代は、平和な時代なのです。戦いの時には、まっとうな商人は消え、死の商人がうごめいている。 商人が栄えると言うことは、経済活動が活発ということ。それは庶民の生活が豊かで購買活動が活発である、ということ。日々の購買活動が活発と言うことは、太平の世の中である、ということに他なりません。 それをなんですか。物騒にも戦いの論理を持ち込んで・・・・。 自分のところの不振を、他の人に戦いを挑むといったことで憂さ晴らしなどしないで下さい。 戦いは、腫れ物。腫れ物の不快、痛みから、国民の関心をそらすために他国へ戦いを挑む。これは、あの国、北朝鮮 同様、自社の不振という腫れ物、自分の無能という腫れ物を疑似の戦争を他者、消費者にむけて起すことでドバーミンを出して快感に転換、といったことやらないで下さい。
2012.06.08
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たいていは、自分の「想い」を、消費者に共感させようとしている。 その想いの先には、「自己欲求の具現」がある。端的に言えば、自分のために、自分に共感、協力して欲しい、ということになります。 これを強い口調で言うとしたら、自分の思い、やる気をお客に伝えよう、知らしめよう、ということになります。 それが高じて、いやでもわからしてやる。それ、チラシだ。それ激安だ、なにくそ価格ではあいつらに負けてなるものか、ということで、平和で崇高な業が荒んできて、いけいけ、どんどんと、冒頭に述べた戦いの世界になってしまう・・・・。 私は、口癖のように言っていますが、どこに売り手の売上アップのために共感、協力する消費者がいるでしょうか。 こう考えると、そうした考え方そのものが、間違いであることが分かってくるはず。 間違ったとおもったら引き返せばいいのに、「男(女)、前進あるのみ」、「敵に尻向けてなるものか」と、それいけどんどん、突き進んでしまう。 自分が全然経営的ではない考えに陥っていることにも気づかない。これ、やけくそ、というのでしょうが。 そうした企業はすぐ分かる。現場、従業員さんが荒(すさ)んでいるからです。荒みはどこか言動、場に出るものです。そうした言動、場をお客様が見られたらどうでしょう。いやです。戦いはみないやです。 だから消費者は・・・・・・・・・・・・・。
2012.06.07
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商売に勝つか負けをしきりに口にする人がいますが、どうも私には、何を考えておられるのかわからないのです。 相撲とかレスリングの試合なら、自分のほっぺでも叩き「勝つぞ!!」と鼓舞でもするのでしょうが。 経営は戦いなんでしょうか。販売合戦なのでしょうか、人生これ戦いと、勇ましく言うものなのでしょうか。 経営では、いったい誰と戦っているのでしょう。販売では、だれと戦いたいのでしょう。まさかそんな勇ましい争いごとの相手がお客様ではないでしょうね。 誤解して欲しくはないのですが、戦いという言葉尻にもの申しているのではないのです。 現に私は脳力開発講師、経営指導家として、「戦略」という言葉は、他の人より多用しています。で、言葉の魔女狩りなど。するつもりもする立場でもありません。 そんな言葉の問題ではなく、「意識」の問題として、商いの本質はと戦いの本質は違う。 商いは、生。戦いは死。商いは、楽。戦いは苦。 商いは、他者を楽しく幸せに、戦いは、他者を苦しめ不幸に。 このように、むしろ相反するものだ、と言いたくて取り上げているのです。 このことを念のため、申し添えておきます。 商いは戦いや争いや、権謀といったものとは別の世界です。ですから少なくとも、あなたの企業やお店を支え、支持くださる消費者をこともあろうに敵視し、戦いや争いの対象にすることは、たとえ比喩であろうといかがなものか、と申し上げたいのです。
2012.06.05
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普遍性がある、というとは、置き換えができると言うことです。 逆に言えば、置き換えが聴かないことは、少なくともその当人にとっては何の意味も持たない、ということになります。 生きていれば大なり小なりリスクはある。リスクがあるから利もある。こうした山あり谷ありの変化があればこそ、人生。楽しいものではないでしょうか。 晴れたり曇ったり、雨が降ったり、また泣いたり笑ったり。こうした変化こそが人生の醍醐味、愉快さだと思います。 それを私は晴れが好き、雨は嫌い、楽は好き、苦は嫌いと片面だけを望む人生は、望んでも絶対に得られないので、その分「嘆く」ことになります。 望んでも得られないものを望むことは結局、不幸で嘆きの人生を自分自身が戦略として選択したことになります。 幸せを得るのも事業が繁栄するのも、全く同じ脳の使い方です。 脳によって判断していて、その日々、刻々の判断が、「人生」という織物を作る。 ならば、どうした織物を自分は創りたいか。まずこれが必要でしょう。これが、いわば人生戦略。 その具現に向かって、私たちは日々、刻々の判断を行う。これが人生の織りなし・・・・・だと、私は思っています。 人生という自分の織物の完成に向けて、日常生活で夥しい判断を積み重ねていく。これが「織りなし」。その上手な折なしのための、師が提唱した「脳力開発」はとても有効なもの、と手前味噌ながら思っています。
2012.06.04
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儲け話を持ちかけられたとして、話を進めてみます。 1に、利益が大きければ反面、リスクも大きいことを承知しておいたうえで判断する。 2に、見せられたら見せられないところを確認する習慣を身につけておく。 ジャーナリストの故筑紫哲也さんが、良くいっておられたことですが、情報には、知らされる(報道される)情報、報道されない情報がある。 その両面をみて判断せず、報道される)ニュースを聞いて、それで判断しているようでは、情報の真実は掴めないどころか一方的な刷り込み、洗脳されることすら迫られることになります。結婚詐欺などと、本質的には変わりないことになります。 健康を思う時はたいてい不健康の時。〈心の時代〉と言い始めるのは心が枯渇している時。交通事故ゼロ運動の垂れ幕がかかる町では交通事故が多い、 といったように、反射的に思うこと。 このように、反対面や様々な角度から見る習慣をつけることを、脳力開発では、「多角度から考えよう」と喚起していて、この習慣づくりによって、「頭がやわらかい」と言われるようになります。 多角的に見る習慣づくりにより、だれでも当然起こり得る災いやリスクを事前に読めるようになります。 予測できたら、通常の人は本能的にそれを回避する対策を考え、身の安全を保つ方向に動きます。 反面リスクの方ばかり見て、それを恐れてその場を動かなければ、何の変化もないばかりか「死」へ向かうことになります。 飯を食べなければ人は死にますが、食べるということはそれだけ経費というリスクがかかる。それを拒否すれば食事を取れなくなる。 こう置き換えたら、どなたにも理解できますね。
2012.06.03
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それで「なぜ信用したのですか」と尋ねると、「だってとっても立派な身なりしていて親切だった」「資産家の長男で、学習院大学を卒業し、今米国の大学院を優秀な成績で出られた、立派な方で・・・・」と、その相手に代わって、褒め称えるようなことを言っている。などといっている。 どこの世界に人をだますのに、身なりを悪く、不親切な態度で迫る人がいるでしょうか。 どこに、「私は先祖代々、家業は泥棒と詐欺師の兼業でして・・・」と、いって、プロポーズする人がいるでしょうか。 どこのお菓子屋さんで、立派な包装紙に包まれたお菓子について、「これ、うまいと!?」とお客様から聞かれて、「ずばり、正解です。めちゃ、まずいとです」と、おかしな返答をするでしょうか。 怒らないで、こう考えて下さい。騙す、つまり詐欺など、こうした商売が成り立つのは、実はだまされる方も協力しているからなのです。誤解されないために、言い直してみます。 騙される人がいなければ、騙すことはできないのです。いつも言っているように、売れるということは、買って下さる人が不可欠であるその点では、まったく同じなのです。 お金をだまし取るには、騙すには、騙される相手の協力が不可欠。 協力関係がなくお金を奪うのは、窃盗者、強盗の?。 あ、これは余計なことを。だからといって 人様の言うこと、なすことをアタマから疑ってかかれ、と言っているのではありません。 普通は、損する話、不味い話を持ちかけては来ませんから、儲け話を持ちかけられたとして、話を進めてみましょう。
2012.06.01
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「この株は絶対儲かるから、十万なんてハシタ金ではなく百万円出しなさいよ。軽く見ても倍になって戻ってくるのだから」、 と言う証券セールスマンに、中には「そりゃ,すごい!」,戻ってくるお金を頭に浮かべて、興奮、大金を投じて・・・といった被害に遭う、といった事件が後を絶ちません。 倍の儲けを反対側から見たら、倍の損になるのは、先に話した〈山と谷の絵〉とまったく同じことなのです。 が、それが1に、犬が猫に、猫がお金に変わる2に、今が、将来(さき)といったように時間軸をずらす。と、見えない。置き換えができにくい。 彼らはそこを利用しているのです。 ところが大抵の人は、今の、示された方向、それもほとんどは、自分の立場からしか見ないから、自分が百万円なりを儲かる方からだけを考えてしまう。 仮に百万円が儲かるとしたとしたら、その反対側には損をした人がいる。この人は、自分以外にも同じことを言っているに違いない。 この人も、儲かる話を人にしているぐらいだから、しこたま儲かるのであろう。ならば、そのお金は・・・・・。 かりにこの投資で、自分が百万円損したとしたら、そのお金が彼の懐に、といったように、想像をあれこれ広げる。 つまり、1に「自分が」、2に「儲かる」、といった片面思考の意識をあれこれ分散してみる。これを、脳力開発では「多角的に考える」と言っています。 「私はだまされた」と嘆く人は、その人、そのことを信用した人が言うせりふです。つまり、因が「信用したこと」、果が「騙されたこと。信用しなければ、騙された、という結果は存在しないということです。 だから信用しなければ良いのです。「おや?」って思われるかも知れませんが、それは明日。
2012.06.01
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