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アイト・ベン・ハッドウ清張「黒地の絵」を読み始めたら、短編でもあり昨夜、多分初めて読んだ。つい引き込まれてしまったが、流石に清張は凄いと思った。ミステリー作家というのは、肝心なことを言わない。それだけに凄味がある。恐怖感が伝わってきた。先日の講座で紹介された作品で、何のことかと思って読んで意味がわかった。朝鮮戦争のさなかの駐留軍と日本の出来事を書いている。 ・清張の凄さは、一葉と同じ目をもっている。生くらの視点ではない。学生の時「昭和史発掘」を読んでショックを覚えたのを思い出した。ついでに「点と線」も借りてきた「傑作総集」にあるので、再読して視る気になった。暖かいと思ったら雨になっている。気温は18℃。硝子戸を開けた場所に来て、そこでブログを書いている。 ・へ2・・・「黒地の絵」とは、黒人のいれずみのことらしい。白人が多い駐留軍の中で、朝鮮戦争では黒人の戦死者が多かったらしい。前線に送られるからだという。その黒人から軽く見られレイプされる日本人は何だろうか。
2018.11.30
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アイト・ベン・ハッドウ 見ようによっては美しい村である。でもなれないのではないだろうか。まず、自分に気付くこと。自分の興味、目標、計画、夢をこれからの人生 に持ち込むことだ。自分は誰であり、自分は何を望んでいるかを知ることだ ろう。病気をもっていれば其の管理と自分の生活との折り合いをつけること だ。そして大事なことは、自分の弱点を正しく認識する能力がなければなら ない。それは、適切な情報を得るために必要だ。多くの情報を知ろうと思え ば知ることができる情報社会になりつつある。其の教育は欠かせない要素で あろう。これが、私たちが、たとえ病気持ちでも優雅に人生を生きることへの アプローチになるのではなかろうか。社会的なサポートは、法整備されてはいないし 自己責任の原則と言う人権無視が大勢である。「リア王」の悲劇は、まだ繰 り返されている。
2018.11.30
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アイト・ベン・ハッドウ日頃はその寂しさを忘れている。どんな寂しさかはその人でしか分からないが、誰もそのすべてを引き受けることはできない。そして、自分を過信しないことだ。まだ試してもいない現実を侮ってはならない。そのために死ぬかも知れない。それでも死はタブーではない。それを隠そうとして躍起になっているのは悪意があるからだろう。身の回りのものが死んで行き、やがて自分の番がくる。それは諦めることではない。それは「明日」のようなものだろう。誰も明日が来ることを止められない。 ・「時代が変わる」と言い続けてきたが、何も変わらない自分がいる。その時代にすぐ馴染んでしまうからだろう。そして、新しさが、すぐに古くなり、また「時代が変わる」というものが出てくる。新陳代謝のようなもんだろう。それは間違っていない。時には減数分裂もある。いつまでも新鮮ではいられない。そこに価値を求めてはならない。残ろうとするからだろう。「輪廻転生」を断ち切ることが「悟り」だと仏陀はいう。判らないことをいうべきではない。目論見でものを言っているものは必ず破綻するだろう。 ・へ2・・・いっていることとしていることが矛盾しがちなのは理由がある。意識と無意識の世界があり、現実が目まぐるしく変化しているから起きる。孤独な脳は、他と繋がらないから起きる。寂しさはどこから来るのだろうか、それはネットのない星間宇宙のドットのようでもある。
2018.11.30
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宗教をもつことは神との対話をもつことであり、その意味では自分の行為を常に客観的に思考する基本ができているのだろう。無宗教にはそれがないが、それに代わる対話があるかどうかでもあり、その相手がいるかでもある。謂わば弁証法的なものがあるかだ。論理を得るためには知識が要る。そのために教養を磨く必要がある。それまでの教育が問題でもある。社会で起きている諸々の状況を客観的にみるだけの洞察力がいるし、広い視野も必要になる。それが教育の意味でもある。 ・「若者たちの言語力が低下している」との話題がNHKのクローズアップ現代であっていたことがある。労働戦士を造るために大量生産の促成栽培のような教育をしておきながら「今更何だ」と言いたくなる。ろくな教育もしていないで、成人したらまともな仕事をしろと言われてきた。親の時代がそんな中途半端な教育をされて、その子どもたちが言語力がないというのも当然の結果でもあろう。 ・へ2・・・物事は原因と結果の因果律がある。言語力の低下は、文化の低下でもある。日本社会の文化が低迷していることの一現象に外ならない。対話のない人間には、スキルとしての論理が低下する。与えられたものを食べるだけでは食材がなにかさえ知らないのではないだろうか。漱石でさえ、東京で育ったために、稲と米がどう繋がるか分からなかったらしい。そんなことでは、農家のことを知らない筈である。どこか半端な人間になってしまうのではなかろうか。我儘な人間が、自滅していくだけだ。
2018.11.30
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アイト・ベン・ハッドウ民族の大移動から始まるヨーロッパの歴史は、複雑怪奇なようだ。英国でさえ、その実態は、結合と分裂と連合があり、そして紛争は、 潜行しているだけだろう。いつ吹き出すか分からないマグマが内在している。今日は、北アイルランド紛争を映画や文学からみたレクチャーであった。どうも私たちが世界史というものを、遠い国のこととして、無関心に学んでいたようだ。 ・日本史を、なにか欧米に比べてマイナーな歴史のように思ってきたが、それこそ北アイルランド紛争も屈折した民族の精神が歪に存在している敗北の足跡なのだろう。カトリックへの弾圧は独立さえ許されてはいない。日本とあまり国土の違いのない英国で、アイルランドとスコットランドとイングランドが権力闘争を繰り返してきた。 ・へ2・・・パリの同時多発テロでオランド大統領は、「これはテロではなく、戦争だ」と宣言したが、9.11の時も同じフレーズを聴いたが、テロと戦争の概念を、曖昧にしている。戦争は政府がするものであり、国民や国家ではない。政府が国家の名においてするまでだ。国民の支持がなければならないが、メディアやその他のアジテーターの言動に煽られ煽動されて始まるのが常である。北アイルランド紛争は、治安維持に警察ではなく、軍隊を出動させて「血の日曜日事件」の惨劇が起きている。軍隊は武器を使いたがるのがどこも同じだ。そのためのシビリアンコントロールであるが、日本は甘い。
2018.11.30
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マラソンを続けると苦しくなるが、その苦しみを突抜けると、脳から脳内ホルモンである エンドルフィンが出て、快感に近い感覚が生じるという。最近の研究では、「苦悩」でさえ脳 内モルヒネの分泌を促進させるのではないかと考えられる。 或る意味「辛いこと」も嗜癖化する。自責的志向の人間は、或いは周囲からの慰めを求めて いるかも知れない。自分を責める姿は、周囲から好意的に見られ傾向がないだろうか。必要以 上に自責的な傾向には、もっと懐疑的であっても良いかも知れない。案外強かな計算があるこ とが想像されるからだ。例えば神への懺悔も形骸化すれば空虚だ。 人間に関する心理学も新たな展開をみせつつある。
2018.11.30
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「勧善懲悪のゆくえ」の講演メモ ・レジュメA3-5枚(10ページ)。 ・山東京伝「優曇華物語」の随所の「趣向」を弟子の曲亭馬琴「南総里見八犬伝」が如何に換骨奪胎したか。 ・馬琴の勧善懲悪批判に焦点を当てた文学史に就いて。 ・「小説神髄」や鴎外、露伴、芥川、安吾、漱石からの視点。(馬琴の勧善懲悪)をどのようにとらえていたのか? ・レジュメによって、いくつかの文章を紹介された。 ・逍遥は馬琴に嵌まっていた。 ・鴎外の馬琴観。 ・露伴の馬琴観。 ・龍之介の馬琴観。そのまま肯定していない。 ・安吾の勧善懲悪批判。 ・漱石の馬琴観。漱石の勧善懲悪に対する考え方は、明治以前のそれとは異なっている。その作家の持つその人の勧善懲悪であって世間と違うものがあって当然だと言う。自分の良心に恥ずかしぬ様に勧善懲悪をやりたい。 ・大正5年。アイシュタインの相対性理論について寺田寅彦が、漱石の家で説明して聴かせたらしいが、「先生には解らないだろう」寅彦はいったという。漱石は、理系の頭をしていたが解らなかっただろうとのこと。 ・梶井も理系の頭だった。だから漱石も梶井も緻密なところがある。 ・漢文にも数学的なところがあり、それは両者ともよく理解できたのではないだろうか。 ・鳩山元首相も工学出身。 ・善悪をいうのは人間だけである。自然界にはない。勝手な世界観でもある。 ・to be or not to be that is question. ・肯定と否定のあとに、疑問がある。「二項対立」。 ・船虫には、悪女の魅力がある。悪を生き延びさせる。殺さないのは、悪の存在の魅力があるからでもある。「デスノート」では、悪が悪をさばく爽快さを感じる。 ・三島は、漱石が嫌いだったが、鴎外は尊敬した。 ・京伝ほど馬琴は単純ではない。 ・二つの作品の共通点。 ・鷲に攫われる女の児。 ・象徴としての「水晶」。 ・獣や人名が同一。 ・足利持氏の時世の設定。 ・眼疾の治療薬としての胎児。 ・お家再興の物語。など。 ・殊に「水晶」については、京伝は、一か所しかないが、馬琴はそれを、最後まで縦横に遣っている。 ・「源氏物語」は、「事皆淫娃に過ぎて、反て勧懲に鮮やかならず」。 ・八犬伝には、人畜の交わりをぎりぎりで止めている。発禁を予想している。行間を読むしかない。 ・ふせ姫が水面を覗くと自分の顔がイヌになっている。八犬伝は単純ではない。 ・オリジナルを出す事が重要である。 ・京伝と馬琴は師弟関係であるが、力が逆転している。表の師弟関係だけではなく、関係が好い筈はない。先生もへったくれもないところがあるのが普通だ。 ・おのれの目を発見することが大学の使命でもある。オリジナルの自分の目に立って考えること。 ・今昔物語の逸話、目の治療として、胎児を所望する話を引用している。 ・化け猫。優曇華と八犬伝。 ・鷲が子供をさらう話の共通性。それが女児であ る。馬琴は、それを犬に攫われることにした。 ・優曇華は三千年に一度咲く花。そして吉凶を占うことでもある。 ・テクニック ・反復は様式である。反復=様式。 ・リフレーンは、繰り返す。前の作家のいったことを自分もそれを繰り返している。 ・京伝は、場当たり的であるが、馬琴は違う。 ・竹取物語から優曇華になったものを馬琴が違うものにした。 ・八犬伝では、優曇華のおろちが、化け猫の目が光る。別のところでおろちをつかう。 ・仇打ちが当時の流行であった。そしてお家再興の話。 ・構成・・・蟒蛇が人を襲う(優曇華) 化け猫が人を襲う(八犬伝) ・因果・・・目の病。 ・八犬伝には、8つの水晶につながっていくだけの構想力がある。 ・京伝は、腹の子を暴いて晒すというグロテスクの特徴がある。それをあえてやる。挿入画までつけるという方針まであった。大学図書館にその本がある。 ・「八犬伝」の社会への影響は大きかった。現代でもその片鱗がみられる。これは単純には考えるべきではない。 ・虞美人草の「藤尾」の魅力は、現在の女子大生にも共鳴する人が多いことがある。悪女の魅力。 ・水戸黄門の印籠の意味はどこにあるのか。あれは勧善懲悪か。 権力を笠に着ている。様式化することで図式を超える。 ・その心地よさはどこから来るのだろうか。それを誰よりも馬琴は知っていた。 ・鴎外は、矛盾の人である。 ・終わりは始まりであり、終わりはない。 ・だれかのおわりはだれかのはじまりであり、おわりのないものがたりはつづく。
2018.11.30
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アルト・ベン・ハッドウ 周辺の風景 急いで一生は終わろうとしている。老化は誰にでも日々進行して走り過ぎようとする。じっとしていれば早く過ぎてしまう命がある。からだを動かさなければ、それは大事にすることではなく、崖の上に向かって走っていることにもなる。死と反対に向かって歩くことはできないが、たちどまっていようとするその努力がなければならないのだろう。元々人生はゆっくりできていないのだ。 ・できないからゆっくりしたいと思う。その努力を如何に効果的にするかだが、大抵負けてしまう。不可能ではなく、困難なだけだと思うがどうだろうか。昨日は、「レッツ・エクササイズ」の講座があり、体育館でマットを敷いて、色々ストレッチを教えて貰った。参加者は40人くらいのシルバーたちだった。元気な人たちばかりだが、やはりみんなからだが硬い。若いうちは簡単にできることもできなくなる。だからこうしてエクササイズが必要だ。 ・へ2・・・QOLをいうけれど、自分の健康と反対のことばかりある。本当は何をしなければならないかの知識を教えない社会でもある。早く死ねばいい。そうではないのだろうが、真実はどこにあるだろうか。騙されてはならない。騙されたふりをしているとゆっくり死ねなくなる。 北アイルランド紛争史のレクチャーを受講してきましたが、どこでも汚い戦争がある。テロと戦争の概念も曖昧である。「これは、戦争だ」と誰が決めたのだろうか。 それこそテロなのか戦争なのか、都合のいい使い方をしているのではないだろうか。
2018.11.30
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よく西の空で、福岡空港へタッチダウンしていく滑空する航空機を眺めている。自分の人生もあのように自動操舵の安定した終わりを迎えたいものだと。安楽往生という言葉があるが、「願わくば、・・・」なのだろう。今日は午後から、モロッコの旅に出かける。長い時間機中のヒトになるのでエコノミークラス症候群が気になる。 ・足をのばせるというのが楽なのは分かっている。航空機の中でも差別があるというのは、この世界が、金持ちたちの社会だという証明でもある。旅は楽しみたいが、そうさせては中々してくれない。旅をしていて、旅行先が天国ばかりではない。地獄を見ることもある。 ・へ2・・・それでも生きて行かなければならない。それは人として生まれたもののノルマでもある。是から次に何をするか。犯罪者たちの野望もあるのだろう。人を陥れようとする人間たちがいることを忘れてはならない。
2018.11.30
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クサール・アイト・ベン・ハッドウ 日々報道されている事件や事故のニュースが、どれだけ公正なのだろうと疑問がないわけではないが、戦前のような政治状況でもないことは知っている。ただ、「報道の自由」も、時には歪められないでもないだろうし、癒着もあるに違いない。スポンサーに配慮した内容もあるだろうし、大学では紐付きの研究もされている。体に有害なものが必ずしも適切な行政処置がされてはいないケースもあるだろう。専門家の話に驚くこともある。「此処だけの話」があったりもする。酒や煙草がいまでも飲まれているのは、それを一挙に止められない社会的システムがあるからだろう。常識のない若者たちが話題になるが、それは社会の責任でもある。 ・電車やバスの中で漫画を読むよい大人がいたりもする。流石に家では恥ずかしいとみえて下車するとき棚の上に置いていたりする。情けないが、それが現実でもある。レベルの低い大学教育を受けているからだ。文化レベルが低いからでもある。暴力さえよくわかない子どもたちが事件を起こしている。昔に比べれば学校で、或いは街の中で、喧嘩をしているのを殆んど見かけなくなったし、自分でも喧嘩をすることはなくなっている。手を出すことはなくなっているが、それが反面教師にもなった経験もないのだろう。 ・へ2・・・「他人を殺してみたかった」というニュースを聴いた時、自分が他人から殴られた経験もないのではないかと思った。必要な通過儀礼を経験していなのではないか。暴力の意味を正しく認識していないのではないだろうか。レイプが、映画や小説や漫画で溢れている。間違ったジェンダーが流布してもいる。その責任はマスメメディアにもある。社会の責任でもある。だから私たちも同罪だろう。漫画が日本を代表する文化だろうか?カラオケの弊害も言われている。誰も日本人を尊敬しなくなるのも当然だ。
2018.11.30
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和白干潟から、西の空に福岡空港へ向かう滑空していく自動操舵の航空機が見える。もうすでに車輪を出している。時速200キロ位で、高度はかなり低空だ。ここから空港まで、距離は、10キロもないだろう。クールなタッチダウンをしてくれるだろう。昼間に眠気や集中力低下、集中持続困難や倦怠感が起きてくるケースでは、慢性疲労症候群と診断されることがある。患者の内因性リズムが関与している。睡眠も人間にとって重要な健康のバロメーターでもある。人間の持っている睡眠相の生体リズム一日25時間であることが地球の自転と衝突している。人間が長い時間をかけて、地球環境に適応してきたがまだそれができない人もいる。自由に生きてきた時代では好きな時に寝ていたに違いない。それができなくなった。日中起きて働き、夜眠ることで、この世界を造り上げてきたのだ。 ・周期的な不眠や覚醒困難が引き起こす深刻な社会的不適応をきたしている。そういう悩みを持ちながら暮らしている人もいる。それが病気の原因になり、Non-24シンドロームにもなる。その予備軍もいるに違いない。それが社会に確りと認識されているだろうか疑問だ。 ・へ2・・・社会人は、拘束された時間で労働し、対価を得て暮らしているが、それがスムーズにやれない人たちがいる。それがいつか深刻な事態を惹起さえする。よく睡眠できないことが、その人の人生にも大きな影響を及ぼしかねない。住む場所でも日照時間の違いからくる原因で、ある地域では冬期うつ病の多い地域と少ない地域の差が顕著であるという。明るい陽射しの中で暮らすことができるのは、人間には生きやすい環境でもあるのだ。
2018.11.30
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和白干潟 今日は二回干潟に出かけたが、昨日15羽いたクロツラヘラサギたちの姿は見ることができなかった。タイミングが悪かったのかもしれない。ミヤコドリとダイシャクシギがいた。そして、数百羽のカワウたちもいた。少し、黄砂が降っていたのかもしれない。「剣呑」dangerous; risky; な社会である。同じコンビニに20日目にまた強盗が入った。同じ犯人ではないにしろ、住宅地の真ん中にあり、前面道路には四六時中車が通っており、それこそ24時間営業をするコンビニだから、誰でもいつでも買い物に来ている。犯行時間は午前4時ごろだったらしい。私は、6時前ころウオーキングしていて、現場検証をしているところを見た。それこそ単純ではない人間がシンプルライフという訳にはいかない剣呑な社会の中で暮らしていかなければならない。 ・人間は自分の生まれた所が一番良いと思うようにできているのかも知れない。安心して生きておれたという記憶が刷り込まれている。どんなに貧しくてもこどものころそれほど辛いとは思わないのは傍に肉親がいて可愛がってくれたからだろう。勿論こういう時代で、そうはいかないこともある。世界には貧困が蔓延してもいる。飢餓の体験がない者にはその苦しみはわからないだろう。自分の環境でしか知ることはできない。にも拘らず、人間にはその環境で健気に生きていくことができるだけの能力があると思う。 ・へ2・・・どんな危殆に瀕した中でもこどもは肉親さえそばにいれば、明るく生きていける。そうできてもいる。明るく生きることができないとすれば、それはそうしている人間に罪がある。人間の免疫システムは二重に守られている。これだけの強かな戦略をもつ生物が、豊かな人生を生きるだけの能力を持たない訳はないと信じている。
2018.11.30
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和白干潟RHYTHMS OF LIFE で、ラッセル・G・フォスターは、時間の意味を説く。 「伝道の書」では、 捜すに時があり、失うに時がある。守るに時があり、棄てるに時がある。 裂くに時があり、縫うに時がある。眠るに時があり、語るに時がある。 愛するに時があり、憎むに時がある。戦うに時があり、和するに時がある。 体内時計があるお陰で、生物は、時間を瞬間として最適に利用できる。 時間を知ることで、私たちの祖先も農耕を始めることができた。農耕には季 節を予期できる必要がある。鳥は生まれつき体内に備えた光周期信号によっ て季節を自動的に知る。だから、ひとは鳥から学んだ。 鳥は時間について学習する必要がない。鳥は、聖アウグスティヌスのように 「過去が過ぎ去ったものであり、未来はまだ到来しないものであるならば、 存在するのものは現在だけである。では現在とは、どの程度持続するのか?」 という問いに頭を悩ませることはない。 現在の私たちは、寸暇を惜しんで過ごしているが、おのれの内を深く見つめて、 時間に対して愚かにならず、賢くなる方向に進んでいるか?
2018.11.30
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・20;20聖母教会前が集合場所だった。目の前には「クルッぺ」があり、その周辺に屋台が林立していた。昨夜はこの場所でクリスマス・セレモニーがあったらしい。今年は暖かい。地球温暖化の影響らしい。この時期は、寒いという話を聞いていたが、今夜は防寒服は必要ないくらいだったが、夜が深まるとやはり寒くなった。日本のように派手なだけで電飾が煌々とした華やかさではないが、暗闇にぽっと蝋燭のように浮き立つ風情は心を温めるには充分であり、しかもメルヘンチックだと思った。それはまた重厚でゆったりとしており歴史を感じさせるものだ。羽根を広げた電飾の鳥(天使?)が、道路いっぱいに拡がり「道標」になっているようだった。 ・フリータイムの後、有名なドイツビアーが飲めるビアガーデンで遅い夕食になった。広いホールに大勢の地元ひとたちが賑やかにビールを飲んでいた。「焼きソーセージ」が名物らしい。ここに来るまでに、私は既に、「グリューワイン」を数杯とやはり名物らしい食べ物を片っ端から結構食べていたので空腹ではなかったが、新鮮な野菜類が意外と美味しいと思った。それほど豪華な食べ物が並んでいたわけではないが、決して貧しく冷たい食べ物ではないと思った。このビアーホールの和やかな雰囲気の中でドイツ人たちも今は楽しく暮らしており、ドイツワインとビールと焼きソーセージと、それから豊かな美味を味わいながら生活している。戦争から半世紀も過ぎて、其の殆どは戦争も知らない人々に違いない。中にはかなり年配の人たちもいる。ドイツは年寄りが冷遇されている国情でもない。ここは冠たるEUをリードする先進国ドイツである。私は、ツアーの人たちと会話を楽しむことも忘れて独り感動していたし、この地で見たことの感慨に耽っていた。そして時間さえ忘れてもいた。そして、ここに来るとは想像もしていなかった自分を思った。突然の幸運で、別の世界に紛れ込んだような夢の中にいた気持がした。 ・以前にも、断片を書いているが、やはり、ニュルンベルグという地域の特性を考えると、この地が、中世から重要なドイツの要衝の場所であったことが理解できた気がした。自分の目で見ているのではなく、やはりその奥にある目で見ているものは、ただの光景ではない。生き残ってきたものがどれだけ深く考え、注意深く見てきたかでもあるだろう。聖母教会の裏手にあるこれから盛り上がりそうな酒場を、私たちは早々に出た。そしてニュルンベルク中央駅横のホテルまで、黙々と歩く群衆と一緒に聖ローレンツ教会の方に向かって歩いた。流石に21時すぎると厳しい寒気がして、屋台も閉じている。人々は帰途についているのだろう。私は、つい周囲の光景に目を奪われて、きょろきょろしていたのかふと、妻の姿を見失っているのに気づいた。確か後ろを歩いていると思って待ってみたが、いつまでも来ないので不安になり、少しバックしてみたが、見つからない。そのうち前を歩いているグループの姿も消えていた。これは困った。どうしようかと思ったが、ふと考え直した。どうせ、この道は一本道でしかない。それに街路には横断幕の大きな電飾の鳥が案内しているではないか。迷子になるほど込んでいるわけでもないし、妻も誰かと連れ合っていることだろうから、心配することもあるまい。治安の悪いところでもない。折角の雰囲気を壊すにはあまりにも平穏な感じがするではないか。何かあれば妻は騒ぐだろうし、それに気付かないほど離れてもいないはずだと。そのまま、しばらく歩いていたら、先の方でツアーの皆が待っていてくれた。捜しているつもりだったが、こちらが捜されていたわけだ。頭の中に地図が入っていたので、一人でも帰れる場所でもあった。ホテルに着いたのは22時を過ぎていた。
2018.11.30
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和白干潟のカワウの群れすべての生物の細胞には多くのミトコンドリアが存在している。このミトコンドリアの役割は、吸収した酸素をエネルギーに換えること。しかしそのプロセスで、DNAやその他の細胞内の要素を破壊する酸化物を生み出す。生きるためのエネルギーと同時に、死をもたらす要因をも生み出すという生命にとって矛盾した働きをする。 ミトコンドリアに因って破壊された細胞を修復する機能をつかさどる遺伝子も現に存在することから、そのような遺伝子を人工的に増やすことができれば、ヒトの寿命は30%近く延ばすことが可能だと考えられている。この細胞因子は、レスぺラトロールという。赤ワイン用のブドウや落花生の種皮に多く含まれていることが確認されている。 私たちは、この社会で多くの矛盾に悩ませられるが、それは元来人間が生きる上で内在的に抱えているものなのかも知れない。それこそ「過ぎたるは及ばざる如し」なのだろう。また「あり余る才能が身を滅ぼす」こともなる。適宜の範囲とは、人間にとって、生きる知恵を示している。
2018.11.30
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「道義に重きを置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。ふざける、騒ぐ、欺く、嘲笑する、馬鹿にする。踏む。蹴る。ーことごとく万人が喜劇より受くる快楽である。この快楽は生に向かって進むの従って分化発展するが故にー喜劇の進歩は底止するところを知らずして、道義の観念は日を追うて下る。」 それこそ漱石の冷静な目がある。現代の風潮を見通したようなところがあると感服する。それこそお笑いブームを彷彿とさせる。そして道義は地に堕ちている。 ・安直なもので、人間の人生を考えてはいないだろうか。政治家は、学問をどのように考えているだろうか。政府を見ていると、憲法の遵法精神が欠如しているとしか思えない。国会や、裁判所を下に見てはいないだろうか。それは国民への裏切りでもある。法秩序への反逆でしかない。 ・へ2・・・選挙の時だけ、国民への諂いをしているが、腹の中は違っている。日本政府は、隣国やィ国際社会から、尊敬されているだろうか。安倍政権は、若者たちからリスペクトされているだろうか。反面教師ではないか。韓国も中国も、日本政府から乖離していくばかりではないか。
2018.11.30
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グリューワインを飲んで、そのままカップを持ち帰ることができる。毎年新しいカップが作られているらしい。これはニュウルンベルガー・カップだ。甘くて温かいワインは、寒い夜には忘れられない味になる。あれから12年になるが、まだ、目を楽しませてくれる。韓国の文在寅大統領は、強かな外交官なのだろうか。疑問だ。 ・相手に期待してはならないのではないだろうか。北朝鮮もアメリカも狐とタヌキのパフォーマーでしかない。むしろ戦略家だ。それが許されるかどうかでしかない。トップが素人でも、官僚たちが有能かどうかだろう。徳川幕府も、オスマントルコも、周囲には優秀なスタッフがいたのだろう。無能な貴族たちも誰を使うかを知っていたのだろう。 ・へ2・・・国連でさえ、世界を一つにできないでいる。いつまでトランプ大統領を使うのだろうか、暴君の言うままになるしかないのだろうか。何のための連邦憲法か忘れているのだ。自由のないアメリカなど何の価値もない。ただの木偶の坊でしかない。クリマルでは、純真な心に戻って新年を迎えると聞いたが、できるだろうか。
2018.11.30
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クサール・アイト・ベン・ハッドウの風景。独立独歩というほどのことはない。21世紀の街の中に暮らしている。近所にコンビニもいくつもあるし、スーパーも病院も、その他の施設も沢山あるし、家の前にはゴルフ場まである。福岡市内のゴルフ場だから狭いコースだろうと思われるだろうが、名門だ。潰してマンションでも建てたら、相当違う風景になる。恐らく将来はそうなるのではないかと密かに思っている。昨日「虞美人草」を半日かけて読了したが、昼間ウオーキングをしなかったので、その分夜のウオーキングで少し長めに歩かなければならなくなり、そして若干疲れて眠ったようだ。今朝は少し遅い。 ・雑踏の中の孤独がある。どこにいても悩みの種はある。一人で誰もいないところにいても孤独とは限らないし、大勢の家族や仲間や仕事があっても孤独な人はいる。人が生まれてまだ人びとの心は一つになって、豊かな人生ではない。ばらばらになって傷つきあっていなければならないまだ未熟な時代に生きている。無駄な死もある。 ・へ2・・・「虞美人草」の藤尾のように美しい女も憐れに死ななければ済まない。この世で価値のあるものとそうでないものがあり、はみ出た人は切られてしまう。独立独歩も怪しくなる。漱石がどうして読まれるのか少し理解できた。どうも鈍いのか莫迦なのか知らないが、私は、たそがれの独歩者だ。
2018.11.30
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アイト・ベン・ハッドウ 周辺は壮大な大自然が広がっている。 小さな漁船が沈没しその船内で3人の船員が救助されたニュースに驚いたが、関係者の話の中で、「三人だったから励ましあっていた・・・」ということだった。救難ボートの船長はひとりで亡くなっている。もし条件は違うとしても「誰かと一緒だったら」と思わないでもない。人と人とが一緒に生きていくことは自分たちで思っている以上の意味があるのだろう。そのことを教えてくれているように思う。普段こんなやつと一緒にいたくはないと嫌っていても、その人がいなければならない必要性は必ずあるものだ。時には反面教師もよき教師になる。 ・麻薬所持したタレントが、逮捕されてから、これからは介護の仕事をしたいと洩らして、それが介護関係者の怒りを買っていると報道されていた。どうもマスメディアが衒ったような話だが、煽ってい人たちがいるのも確かだろう。面白がり儲けてもいる。ひとは弱い生き物だ。周囲の思惑に翻弄されてもいる。そして、人間がどうなるべきかを見失いもする。ちやほやされて自分が特別な人間のようの考えてしまうのだろうか。誰でもがんになるのだ。これだけ毎日あちこちでアクシデントに遇い多くの人がなくなってもいる。それだけ剣呑な社会だ。 ・へ2・・・人生の手本にするような先生がいなくなった。誰も他人の真似をしても自分らしくは生きられない。自分の問題を自分で解決していかなければならない。だが周囲には冷たい他人がいる。それと仲良くしていかなければいざというとき困ることにもある。そろそろ一日が始まりそして自分だけのショータイムだ。
2018.11.30
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・「虞美人草」藤尾は24歳。美しい女性として描かれているが、漱石はその性格を決して許そうとはせず、容赦なく書いている。何故クレオパトラで毒杯を仰がねばならないのか、その理由が明解ではない。藤尾をつくったのは、彼女の生来のものだけではない筈だ、周囲の環境が彼女の性格を作り上げてもいる。それをむざむざ殺してしまう。それは作者も同じだ。世にも美しい女を描いて、殺してしまう。冷酷なストーリーでもある。女性の中で生き残る女性はどんな女性かを書いてもいる。 ・へ2・・・一夜にして暗転してしまう人間の物語でもある。長いプロセスは一夜にして変貌する。それを書きたいためにうんうん苦しんでいる作家たちだ。漱石の小説の中で、年齢に対する感覚が現代とは相当違っていることに気付くが、藤尾は24歳で焦っている。相手が恩師の銀時計の小野さんの他にはいないと思っている。そしてそれが消えたとき未来も消えた。
2018.11.30
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アイト・ベン・ハッドウ 大海の孤島のように見える自然の岩山を利用した城塞でもある。どのような歴史があるのだろうか。興味深いが、資料があっても知るチャンスはない。カスバ街道というのも、エキゾチックでしかない。北アフリカの歴史は、異次元の世界のようにさえ思えてくる。ドイツ人講師から、古都京都の商人や職人たちの暮らしを古文書を通じて、解説を受けるというのも、考えてみれば時代が変わった。日本人よりも日本の歴史を知っている外国人もいてもおかしくない。ドイツの大学で日本史を専攻し、京都で暮らして京大で研究もされた。そして福岡の大学で准教授で、日本の学生に教えておられる。京都では古本屋を廻って古文所を収集されたらしいが、ポケットマネーだそうだ。そして、福岡市民にその学んだ恩恵をお返ししたいと講座を開いておられる。勿論無料だ。勿論ということはないが、志は見上げたものだ。ドイツ人の品格を感じる。 ・横文字を、縦にするだけでも大変だろう。まして古文書となると、今どきの日本人にも読めないものが多いし、土台その書かれた内容や語彙も分からなくなっている。先生の講義は手を抜かないで、レジュメの資料を全部やろうとされる。だから講義の時間が足らなくなる。時間を守ろうとされるのも時間に厳しいお国柄だ。拝察していて興味の尽きないものがある。 ・へ2・・・古文所で残っている細々とした京都の西陣の商人や職人たちが奉行所に差し出した口上書などがメインだった。「乍恐御請書」「定書」「礼之事」など。商家の家法や家訓も面白い。朝から寝るまでどんな暮らし方をしなければならないかまで書いてある。「毎朝早起手洗 面之悪心不出様ニ神明遠拝祖先ご主人両親之御奥敬礼儀・・・」暮らしの中でことば遣いまですべて決められている。とても遣る瀬ない世界でもある。それこそドイツ人の先生でなくても面白くなるようなことが書かれている。
2018.11.30
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クサール・アイト・ベン・ハッドウ 参加者30人は、殆ど旅行者下痢症でした。水は、気を付けているつもりでしたが、やはり食べないわけにはいかないし、持参した日本食が何とか役に立ちましたが、それでも食欲がなく、体重が5キロ減りました。からだは快適とはいきませんでしたが、ツアーは、刺激的でした。やはり行ってよかった。ヒト脳が、宇宙と比較できるくらい広大な未知の世界だと知って思うことは、自分自身が世界 を小さく見ているのだ。そういえば、子どもの頃、遠くに見える山の向こう側は外国だと考え ていた。それから、徐々に自分の世界は拡がったが、まだそれこそ「井底の蛙」なのだろう。 生半可に知ったくらいのことで、社会が分かった気がしたりしたが、所詮針の穴からでしかな い。自分の二つの目は、見ていても本当に真実を理解しているとは言えない。四書にしろ、こ れまで一般論で、また少し読んだくらいでもう文化の遺物ではないかと断じたりしたが、今、 よく読んでみると含蓄があり学ぶべきことはまだ多くある。 所詮、蒙昧でしかなく、本の蟲になるだけだろうか。それこそ「汝らこころを上げよ」だろう。 これまで、まじめに真理を求める先人は迫害されたのだ。過酷な運命を生きてもいる。そうしなけれ ばならなかった。現在でも安易に得られる情報など大したことはない。ヒトの進化は、デッドロックを乗 越えた。それほど誇り高い種。平坦な人生など取るに足りない。
2018.11.30
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漱石の女性を描くスタイルには特徴があるようだ。文学作品に対する彼なりのイデーがそうされているのだろうし、彼のもつ生い立ちの固定観念や、豊かな内外の広い文学作品への造詣もある。当時の日本人にはないそれらの教養が作品にも反映されているに違いない。「世紀末と漱石」(ユン サンイン著)という本を読んでいた。漱石の美意識に触れており興味深い。それによると、漱石は絵画的な女性を描いているようだ。これまで、漱石のいくつかの作品を読んできたが、次回は「夢十夜」。 ・漱石は敢えて写実的な描写を女性に対してはしていない。ぼかしの影絵を見るようにしか書いていない。つまり写実的ではなく、抽象的で詩的に描いている。これはどこからくるのだろうか。ピカソは、敢えて抽象的な表現をしているが、写実が書けないのではない。漱石も同じではないだろうか。漱石はミステリー作家でもあるからだ。わざと書かない。効果を上げるためにはあえて描かない。漱石の奥深さは並大抵ではない。あの「三四郎」でさえ、容易に理解できるものではないらしい。漱石の女の髪に対する拘りがある。その裏には英文学の深い造詣がある。 ・へ2・・・漱石は百年先の日本人に対して小説を書いているが、その100年を経過したが、それでも分からないのだから、手に負えない。漱石の暗さは漆黒の闇なのだろう。烏賊の墨のような多くの作品の世界で、漱石の女性像をイメージするのは難しいようだ。 明日から12月で、正月には、「ふくを食す 山口三社参り」の日帰りのバスツアーに、今年も出かけて楽しかったので来年も出かけることにしている。12年前のクリスマスマーケットに行っていたようだ。そして去年の今頃はモロッコツアー10日間に行っていた。クサール・アイト・ベン・ハッドウは、7日目で11月29日で、夜にマラケッシュのホテルに到着した。そして、来年2月にはロンドンツアーを予定しているが、またエコノミークラスなので体調管理しておかなければならない。
2018.11.30
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アイト・ベン・ハッドウ。 クリントン女史の写真があったが服装が不自然であるが、何か理由があるのだろう。"chaos "天地創造以前の世界の状態。混沌。転じて大混乱。もう広辞苑もそれほどの威力がなくな っている。中学のときは、読む本がなくて国語の辞書で語彙を丸暗記で覚えたものです。中国で昔は、毎日のように漢字を 造語していたので膨大に数になるはずです。それでも余りに永い時間経過するとそ の目的とは違う方に歩き出してしまう。勝手に独り歩きもし異文化との交流を見失ってし まう。外国語と日本語も簡単に翻訳できないのは、勝手に語彙が変化してしまうし、 新しい意味を創るからでしょう。余りに情報が氾濫してしまい。日本人間でさえこころが通じな いどころか夫婦や、親子ですらそうですものね。現代では、多くの問題が科学技術で解決できるよ うになり、人々の生活も近代化し混乱もしている、宗教はやがて衰退するといわれたけれど、 1970年代から、むしろ宗教的なものを取り戻そうとする動きが目立つようになってきた。こと にアメリカの保守的なキリスト教徒たちが大きな政治的勢力をもっている。それが保守政党の基盤 にさえなっている。そして、他方で、ファンダメンタリズムが台頭してきている。更に、旧ユーゴ スラビアのボスニアーヘルツェゴビナの紛争は、民族紛争と正教とイスラム教との間の宗教戦争で もあるという側面を持っている。イラク戦争にしろ、或る種の代理戦争になっているところに抜きがたい深 刻さがあり、これはカオスなのでしょう。人間は、世界と個体という自分のそれぞれの病に苦しん で生きていかなければならない。
2018.11.30
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写真のケヤキも、剪定する前は今にも折れそうな枝を一面に伸ばしていた。強風で倒れたかもしれない。安全のために切ったのだろうが、無残な姿になった。然し、切ってしまえばもとには簡単には戻れない。道の真ん中に残っている大木があったりする。道路には車が通るから、たいてい伐採されてしまう。山も道路や、造成のために緑が犠牲になってきた。 ・韓国での慰安婦問題や、徴用工の最高裁の判決で、日韓が外交問題に発展している。それこそ戦争が多くの悲劇を生む根源的な問題でもある。人権を無視した政治が行われたのは事実である。日本にも数百万人の戦争犠牲者がいる。それは、だれに損害補填ができるだろうか。失われて時間の責任は、だれが保障できるだろうか。 ・へ2・・・アメリカが、日本に原爆を落としたり、焼夷弾を落としたが、その責任は誰も取られていない。国家とは、国民に対して、幸福をもたらしてくれるとは限らないのだ。何でもカネで解決できると思っているひとたちがいるが、そうではない。カネがあればいいことばかりではない。まだ真相はわからないが高千穂で、凄惨な事件があったようだ。とても考えられないことが起きている。一人の男が、何十人も銃殺する事件がアメリカでは起きている。それどころではない大量殺戮が起きかねない事態が起きているのではないだろうか。
2018.11.30
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2006年のクリスマスマーケットへ出かけました。あれから12年経過した。テレビで、博多駅でもクリスマスマーケットを開催しているという。期間中に一度覗きに出かけたいと思っている。ドイツのソーセージとグリューワインが飲めるらしい。人間は進化して今日を築いたのであり、子は親を凌いで更に進化する。私たちの世代よりも親たちはもっと幼稚な科学だったし、私たちも現代のような科学を学校で学んではいない。社会科学では一概に進化と言えるかどうかは分からないが、生物学者は退化も進化のうちだというだろう。時代認識も個人によってばらつきはあるとしても、若者たちが未来のカードを持っている。それは単に年齢だけで決されないが、コンセプトしては言えると思う。 ・金太郎飴であったとしても、歴史ドラマも受け手が違う認識を持っている。製作サイドがどうであろうと、それを変えることはできない。ただ、その意図するものが何であったかを明確にすべきであり、それが公平に批評されるだけのものでなければならない。人物に対する偏った思い入れは排すべきだろう。史実に基づいてなされるべきだ。 ・へ2・・・既成概念でものを考えている人間たちはそこにおいて行かれる。他の人が書いたものでものを考えるようでは、新しい視座は生まれない。自分の頭を使うべきだ。そうすれば必ず時代認識が違う。それを無視してはいないか。新鮮さのないものには感動はない。
2018.11.29
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稲佐の浜ソフォクレス「コロノスに於けるオディプス」より ・・・・・・ 物思いなく 美しき少年の日の過ぎ去りしよりは 人の世の迷い 汝を彼方へと 苦悩より 苦悩へと駆る 殺戮と党争 不和と争闘 憎悪と敵意 而していや果てに 老いの訪れるに及びてや なべての人びとに 厭われ 力なく 友なく 孤独なり まこと老いこそは至上のわざわい そをオディプッス ここにさとる 我らまた同じ 北の海に岬たつ 大波に洗われてーー 怒涛の前より 後よりさいなむどとくに・・・ 少しく反省してみれば、何人も幸福の達成に反するようなことばかり行なっている。即ちそれは、「有限性の忘却」にいうことに帰着する。 自分よりも、もっと近道を通る世代によって追い越されるのだ。しかし、絶えず先へ、先へと続け「より以上」を望むということが、 幸福を希求しながら、不幸に陥る原因でもある。 寧ろ、ショーペンハウエルのいうごとく、 「すべての建築物は、幅の広い土台の上に建てることによって堅固であり、丈夫であるが、幸福という建築物の場合は、むしろ、自分のもっている各種の手段に比例して、できるだけ要求を制限するのが不幸を免れるのに最も確実な道である。」 戦前、日本は領土を拡大しようとしたことが、却って領土の喪失と貴重な人命を奪ったのであり、自分たちの狭い国土や少ない所産を十二分に活用し、次に新たな獲得に対しては必要なもののみを明確にし、絶対に必要な限度内に止めなくてはならない。 即ち 「なにが自分に必要なのか、その限度内であるか?」
2018.11.29
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・現地ガイドはドイツ人の中年の上品な背の高い婦人だった。彼女は、英語しか話せないとのことだった。恐らく、日本語のできる現地ガイドを予定していたのだろうが、それで手違いの原因にもなったのだろう。搭乗員が英語の通訳をしてくれたが、どうも、現地ガイドの説明がかなり省略されているように思えた。直訳なのだ。言葉の壁は、意外と大きい。それでも地元のドイツ人に案内して貰うのは、この「バンベルク」の地を愛する愛情が籠っている感じがした。それは新鮮で良かったと思うし、観光には大事なことではないだろうか。私たちは、バンベルクの旧市街を歩きまわり、まあ英語がそれ程上手くもなく、よく分からないなりに愉しかった。それこそ解説がなく黙っていてもその存在だけで古い遺物は語りかけてくるものがあると思った。そして、ここでも、クリマルをやっていた。カップを探したが見つけられなかった。時間がなかったこともある。残念。 <感想> ・世界遺産「バンベルク」もどうも、見るところが多くて、それこそ各地を見学しながらよほど勉強して来ないと間に合わないと反省した。ただ見るだけのことと思っていたがどこも奥が深いというか。できれば数年でも滞在して周りたい位な思いがします。朝からどこかのベンチに座って夕方まで見ているだけでも日本にいるときの数倍は利口になるのではないだろうか。殊に、領主司教のゲープザッテルの新宮殿の「バラ園」のバラを見たかったですね。そこからのランドスケープが素晴らしかっただけに、どんなにか薔薇の華麗さが引き立つだろうか、と思いました。歴史のあるバロック様式の建物が見られました。現地ガイドの女性も気さくな女性で、案内してその人の人柄がわかり好感がもてました、ツアーで一緒だった女子学生がドイツ語を勉強しているらしく、彼女にドイツ語で話しかけているのを傍で見ましたが、その女子学生より、少し照れながら、その会話を誇らしげに見ている母親の顔が輝いてみえました。いいですね。母娘でドイツを旅行。こういうシーンは、私たちまで明るい気分になりほんのり心が温まりました。 「バンベルク」(約100キロ、約1時間30分)「ヴュルツブルクへ」 <感想> バスはアウトバーンを走りましたが、雄大な田園風景でした。広告看板もなく、人家も点在しているくらいで、自然に溶け込んでいるような、まさに、のどかな風景でした。ドイツ人の何か、自然に対する思いが込められている風景ではないだろうか。こうでなければならない田舎のコンセプトがドイツ人にはあるのではないだろうか。それを大切に守っているのだと思う。余計な広告看板など本来要らない。
2018.11.29
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アルト・ベン・ハッドウ生まれおちる場所が違えば出自も違う。親の投資を得られない子もいる。その人にとって学ぶことがなんであるかで違う運命かもしれない。体の弱い者が野を歩き海を渡ることはできないし、体を鍛えることもできないだろう。虐げられた子が他人を愛するなど並大抵ではできないだろう。それは試練であった。何がその人にとって学ぶことになるかは時と場所でも違うだろう。相手も選ばねばならない。 それにしても間の悪いことが多いことだろう。波長が合わずに折角のチャンスを逃すこともいくつもあるに違いない。どれだけ聞いておかなければならないことを両親から訊きそびれただろうか。そして両親の亡くなった年齢に達しようとしている自分を思うと切なくもなる。 これから何をしようというのだろうか。黙っていればいいだけではないだろうか。所詮それだけのことではないか。より豊かな大地に育ち、より多く陽ざしを浴びた者が大きく育つだけではないだろうか。大風が吹けばなぎ倒されるだけではないか。より多くエネルギーをもつものが高みに達し、より遠くへ行くだろう。人間の努力とは何なのだろうか? 病をえて入院し、中庭のベンチでよく考えていたものだ。もし悪性ならば命にかかわり死ぬだろう。この風景を微塵も変えることができはしない。生き延びることができたとしても、何ができるだろうか。生物は少しも変わらず生きて営みを続けている。どれだけ喜怒哀楽があったとしても、ただそれだけの営みでしかない。 未練を残さないようにするために何をすべきだろうか。それを考えるべきだろう。学ぶべき時を逸してはならない。死は常に付き纏う衣服のようなものだ。裸では生きていけないようにあるのだから・・。近くに無花果が実をつけていた。
2018.11.29
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アイト・ベン・ハッドウ 草木のない風景は、私たちには寂寞とした世界でもある。然しオアシスがある。人間の適応能力も大自然の厳しさの中で培われたものなのだろう。「エピソード記憶」をしない動物には「意識」は必要ではない。鳥類と哺乳類等が意識を持つ と言われる。 処で、教育とは何だろうか。 以前阪大の公開講座を受講していた時、講義を始める前に、「実は胆石で手術をする予定であ るが、この講義の為に2ヵ月前から準備しており、是非自分もその成果を講義をしたい、無理 を願って控室に医師と看護婦を呼んでいる。まだ痛みがあり途中で出来なくなるかも知れませ んが、その時はご容赦下さい」といって講義をされた教授がおられた。私はその時、そう言わ れるだけの素晴らしい講演だった。そして、こういう講義を受講できることは受講者にとって 何と幸運なことだろうと思ったし、阪大の学生を羨ましく思ったものだ。ややもすると一生優 秀な頭脳と接することなく、何とつまらない世界だろうと誤解するかも知れないだろう。まだ 感受性の豊かな頃、こういうすばらしい講師に巡り会えば気持ちも変わるかも知れないと思 う。どうも話す側と聴く側とのすれ違いが多いようだ。震えがくるような講義を受けてみたい ものだ。
2018.11.29
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「人は錯覚し易い」何故か。錯覚した方が都合が良いから・・・。脳は、空間を都合のいい ようにひずませるらしい。「脳はなぜ「心」を作ったのか」前野隆司著で、「意識するこころ の作用は、意識下の脳内活動よりもあとに生じる。」というリベットの実験結果を紹介してい る。オーグメンテッドリアリティーというらしい。私たちの五感は、それを感じる時、五感で 感じているのではなく、脳の「知」の働きが、あたかも感覚器のある場所で感じたかのように みせているに過ぎない。ひとは錯覚でものを感じている。そういえば、何故結婚し たのかと言えば、それはお互いだろうが恐らく錯覚。
2018.11.29
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和白干潟の野鳥たち安易な防衛議論は、日本を軍国主義に導く危険性があるだろうと懸念される。浅薄な論理でことが進めるべきではない。アメリカは極東の軍事バランスをどう考えているかが問題だ。少なくともアメリカ政府の考えている日本は、極東の一つの国家としての位置付けでしかない。飽くまでも日本は、彼らにとって「普通の国家」ではない。寧ろいつまでも年少者の役割を演じ、いつまでも大人にならない、姑息でずるい国民に見えるのではないか。 少なくとも、アメリカの世界戦略にとって、アジアの平和の第一のテーマは中国の存在だろう。日米軍事同盟とは飽くまでもその全体の一部でしかない。アメリカ政府は朝鮮戦争以後、日本に役割分担と第九条の改正を望んでいる。もし台湾が中国から攻撃されたらどうするだろうか。少なくとも現在であれば、米国が戦争に追い込まれたとき、ともに戦ってくれると信じているのは、英国とそれに連なるオーストラリアくらいだろう。 日本の防衛議論も、アメリカの意向次第。要は、今のうちに日米安保条約をフル活動し、英国並みのバックス・アメリカーナにしたいのだ。それがカール・ジャクソンのいわゆる「普通の国」論だ。 一連の政府の行動は、その流れのなかで動いている。日米安保条約の軍事同盟は、アメリカ人が日本のために血を流すとするなら、日本人にも米国のために「命」をかけてくれということだ。 世の中は、ものすごい速さで変化している。中国も、台湾も、アメリカも10年前の国家とは相当違っている。日本だけがそのままなのでもないが、国民の意識がそれに追いついていないのではないだろうか。
2018.11.29
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和白干潟油断すると降りかかるものは好いことばかりではない。夫婦だっていつまでも好いことばかり ではない。「おんぶにだっこ」の赤ん坊もそのうち自分で歩けるようになり、悩みの種にもな る。日本もどこかの国から、戦後の日本は「おんぶにだっこ」で困る、といわれた時もあっ た。 いつまでも大人にならない「大人こども」がいたりしている。電車の中でも漫画を読ん でいる。せめて家の中で楽しんで欲しい。ところが家では妻子から嘲笑されたくないのだろ う。日頃の言動からそれ以上のことができるはずがない。それこそ他人と共鳴できないでい る。他人からどう思われようと無関係だと思い込むようになるかも知れない。 戦争経済は長続きしない。初期はその国の経済を繁栄させるが、短期に片をつけないとそのリ アクションがくる。 日清戦争も日本は巨額の賠償金を獲得し台湾を領土にした。多くの利 権と産業の拡大により急成長した。日本は一挙に世界の新興国家になった。そして、国民に大 いなる油断が生じた。その幻想があの無謀な15年戦争への遠因でもあった。 イラク戦争 も長引いてきた。どうしたら恥を晒さずに幕を下ろすかエリート集団が考えているが、もう誰 かの責任にしてしまうしかない。悲劇は喜劇で幕を引けるだろうか。それは分らない。言える ことは、アメリカ人が9.11というテロで拙いカードを引いたという事実だけだ。そのお鉢 が日本も回ってきて、痛いお灸がされた。加害者の烙印が押されて連座責任を取らされる破目 になる。歴史を見ると、ボーっとして、戦争責任を取らされた戦前の政治家が何人もいた。
2018.11.29
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すぐに身元を知りたがるのは身に備わった防衛の所為だ。ひとに備わったものは数百万年から生き残ってきた種としてのヒトの形質でもある。個の存在は自己以外の他を知ることによって精確なものになる。そして自然界には突然死がある。それを避けるためにあらゆる神経を使ってきた。その名残がいくつもある。そして多くの勘違いも生まれる。 どれだけPCの性能が向上したからと言って人間が優秀になったのではない。PCなど人間の脳に比べたら蚯蚓の脳。早いからいいのではなく、どれだけ精確かだ。公正であることが前提条件。何が曖昧か?それさえ忘れている。道具でしかないものを信じてしまう。手段でしかないものが目的にすり替わる。目の前の事実さえ正確に読めなくなっている。 ビジュアルであることがすべてではない。いまや仮想のものが殆どだ。政府は悪を為さないのではない。寧ろそれ自体が悪だってある。こどものころは毎日夢ばかり見ているが段々と夢を見なくなってしまう。それは、現実社会から夢が毀れているからだ。夢が枯渇してひとは死んでいる。最近そんな気がする。自分たちの目や耳や、その他の五感が、新鮮さを失くしかけている。どれだけ自己の周囲をガードしようと、内部から崩壊するものを止められない。遣らねばならないことを勘違いしている。そうさせているのは、日頃私たちが信用しているこの社会システムにある。 どうやら、「パンドラの箱」らしい。何も信用はできない。私の細胞は、自己以外のすべてのものと闘い続けている。自然界が減数分裂でしかないことを知っている。
2018.11.29
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アイト・ベン・ハッドウ 砦の中ベテランの庭師がテレビで解説していた。移植した木にすぐに水を与えない場合もあると。甘 やかすと弱くなると。植物も強くないと生き残れない。鳥渡水を与えないとすぐに死んでしま うようになる。人間も同じだろう。骨太の子にならない。プライドがどうのと言ってさっと自 殺してしまう。しかもまだ幼い子供さえのこしているのに。自分がこの世でどういう役割を果 たさねばならないのか、考えたことがあるのだろうか。どれだけ頭が良くても人としての責任 を果たさないのは無責任といわれても仕方がない。 植木に関心がなかったが、奥の深いこ とに気が付き始めた。子育てがどうも怪しくなったが、ひとも育てることの難しさを感じてい る。すぐに水をやるようなことをしてきたのではないだろうか。与えるタイミングがずれるだ けで子供たちは勘違いしてしまうだろう。家があるから、はじめからあるのが当たり前だと考 えてしまうのだろう。自分の家を造ろうとさえしなくなるのではないか。西郷は、「児孫に美 田を残さず(買わず)」といったが、親たちが子に残そうというものは、実は資産ではなく、 生きる智慧なのだ。 じっと待つことのできない愛情は本物ではない、何を言われようと も鍛え上げないと子は強く育たないだろう。その苗が自分の力をださない限り、この世界に生 きていくことはできない。少なくとも一人前にならない。自分の力を出し尽くしてこそ、真の 意味の幸福をも見出すのではないだろうか。それが少しわかってきた。そして子を甘やかすの は、自分をも甘やかしているのだとも。 強く生きるためには他人より優れた武器を持つこ とではないはずだ。殺し合いは共倒れになることを、どれだけ人類は学んできたことだろう か。戦争を放棄して殺されるような世界ならどうせ世界は崩壊するだろう。人類は絶滅するに 違いないと、わたしはそう思う。
2018.11.29
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アイト・ベン・ハッドウ の砦の中。フロイトとかユングとか名前は知っていても、それこそ入門書から先には中々。精々門前払いになってしまうのは、どうも著者が読者を甘く見ている。大学の授業もどうせわからないだろうというような講義をするから、学生がいつまでも分からないままだ。一部のものの知識で好いというところがある。医師も患者に知識を与えようとしない。いつまでも飼い殺しにしている。政治が、市民を子供扱いにしているところに文化の低さがある。宇宙を普通の市民に解らそうとした科学者がいたが、それでも中途半端で終わってしまうのは、確りしたテキストがないからでもある。心理学も入門書ばかり山のようにあっても、基礎のないものでは仕方がない。 ・図書館でもって本格的に学問ができる環境が整えられないものだろうか。ただ広く浅くだけではなく、科学や文化に関する確りした入門書から、専門書まで揃えてほしいものだ。外国の歴史や芸術にしても体系的なものが少ない。読まない学生にどんな図書館も意味がない。それこそ調べようとして、ウロウロしている間に時間が過ぎてしまう。観光ガイドにしてもいくつかのルートが選択できるようになってきた。学問に何故それができないだろうか。勉強したい自習者も多いのではないだろうか。 ・へ2・・・脳と心の機序にしても遣ればやるほど面白い。だがいつも、その先が見つけ難い。橋がないし、道がない。研究者はそれでもオリジナルを進む努力をするだろうが、そこまでいかなくても、基礎ができて、その上に立つくらいの勉強がしたいものだ。他力本願で言うわけではなく、いつも原生林をうろうろ同じところを回っているコンパスのない自分がいる気がしてならない。
2018.11.29
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アイト・ベン・ハッドウの室内。旅行は行く前に、行先がどんな所か調べる楽しさがある。女子大の図書館にどんな本があるか ネットで調べたが、驚くほどないのにショックだ。まあ今回は余り時間もないので仕方がない が、中国の首都の資料くらい整備したらどうなのだろうか。大学の名が泣くだろう。予算がな いといわれるのだろう。それこそ誰でも行くところではないだろうか。北京十景でさえ大した データもない。 どうも調べるということに対する意識が低いのではないだろうか。広く市 民に門戸を開くと言いながら知識の独占をしているのではないか。偏狭なことでどうするのだ ろうか。学外の者に図書を貸出しないというのもその現われでもあるだろう。本の持ち腐れで はないか。2年近く通っているが、学生の利用も多くはないではないか。知識の安売りをしろ というのではなく広く学ぶ機会を提供すべきだろう。庶民を侮るべからず、大学が一番意識が 遅れている。 たとえば、商業主義ではなく、どうせ行くならこことここを調べて行ったら どうでしょうかくらい教えてくれる大学でもないだろうか。こんな本がありますよとか。本の リストでも作って照会でもするとか、やって可笑しくはないと思う。物見遊山かも知れない が、どこかで感じる何かがあるに違いない。
2018.11.29
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クサール・アイト・ベン・ハッドウ 数人の人が、住んでいるらしいが,電気は来ていない。世界遺産でもあり、来訪者は多いようだ。クリントン女史の写真もあった。モードの切り換えが悪くなったのは加齢ばかりではない。心の在り方の問題でもある。 初めからリスクのない闘いなど多寡が知れている。何もしないで死んだ方が利口なのかも知れ ない。ブラブラして幸福だと思うような人間は役に立たないだけで死ぬ。案外人間は見損なう ものだ。役に立たないと思われるものがそうでなかったりする。 自分が利口だと思っている 奴ほど何も分かっていない。ブログも正しい日本語ではない。所謂「もどき」でしかない。土 台「変換」がまともではないし、漢字が正確に書けない。元々正しい日本語を書けるようには できていないから、もしそれをやろうとするなら、時間ばかりかかってしまうだろう。それで もそうすることが価値がないのではない。無駄だと思うだけのことだ。何故かと言えば、その 文章を読む人が理解してくれるかわからないし、私は教師でもないからだ。 あるものを使 うしかない。だが本当はそれではいけない。日本語は消えることになるからだ。心を伝えるの に外国語ではできないものがある。それは日本人が拠って立つ暮らしの中で暮らしている中か ら生まれてくる心情でもあるからだろう。しかしそれも通用しなくなっているだろう。アルプ スのハイジが、山小屋の藁のなかで眠るという悦びを、もう私たちのような年代でさえ想像で きるだけだからだ。藁の匂いを嗅いでもいないものが、藁の中で眠るという意味を理解できる だろうか。それが分からなければハイジのこころも理解できない。 ひとは何になろうとして いるだろうか。少なくとも好くなってはいない。時代の針はより多くモンスターに振れている だろう。平気で仲間も殺しかねない。親や子を殺す時代だ。どれだけ科学が進化しても人間自 体が進化するわけではない。殆ど数万年前から同じだ。おそらく生物学的には退化も進化と言 うだろう。
2018.11.29
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クサール・アイト・ベン・ハッドウ いわゆる成績のいい学生ほど、自由論文にてこづり、云われたとおりにするのは得意だが、自分 で考えてテーマをもてといわれるのは苦手である。長年のグライダー訓練ではつねにだれかが 手を引いてくれるが、現実社会はそうはいかない、自力飛行でないと役に立たない。 たい ていの子供は、実に創造的で、詩人である。自然と一体となっており、小さな発明家でもある。ところが就学をすると途端に散文的で、人まねの木偶人形になってしまう。そうしろと教 えるからだ。昔の芸術家は学校教育を警戒したといわれている。それは感情論だけではなかっ たようだ。飛行機をつくろとしているのに、グライダーでは駄目だからだろう。 学校は グライダー人間をつくるには適しているが、自力飛行のできる人間を育てることはできない。 学校教育が整備された国家ほどますますグライダー人間が増える結果になったのだろう。既製 品だけを作ろうとしすぎたのではないか。そうしてグライダーの欠点を忘れている。知的とい うが、つまりは飛翔していると錯覚しているだけで、自力飛行でもなく独創的でもないのだ。 誰かのモノマネでしかない。明治以来、日本の知識人は欧米で咲いた花をせっせと取り入れて きたが、多くは花の咲いている枝を切ってもって来たに過ぎない。それを日本で同じ花をさか せることは難しい。翻訳文化が不毛なのはそのせいでもあるだろう。 土壌を無視したから でもあろう。強い指導者がいて、目標がはっきりしている時代ではグライダー人間も高く評価 されるが、新しい創造力には自力飛行が欠かせない資質でもある。そこに日本の抱える弱点が あるのではないか。そのうち自分で飛翔できない人間はコンピューターに仕事を奪われる。
2018.11.29
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「楽」というのは、木の台の上に置いてある太鼓を両側から叩いている姿を象ったものだそう だ。太鼓を叩いているのだから「楽しい」のだろう。苦役を離れて楽しんでもいる姿に見えて くる。坊主から教えて貰わなくとも、「幸福」の何んたるかを少しは分かっている。何も念を おして知ることでもない。お説教を聴きたいとは思わないが芥川賞受賞の坊主もいる。坊主が 修行するのは当前だろう。社会人だって労働をする。 人間は生物学的な加齢だけでなく社会的にも歳をとる。社会の柵を離れると気分が良い。 訊かなくてもいい嫌なことを多く聞かねばな らない社会でもあるだろう。必要以上に警戒して余計なものまで壊してもいる。新しく作るこ ちは今あるものを壊すことから始まると頑なに思ってしまってもいる。仕事は、木の台で太鼓 を両側から叩くことではないと決めつけてもいる。相手を信用しないからだろう。太鼓は両側 から叩くものだ。片方からだとお経でしかない。 自分だけが幸福なだけで、何が幸福とい えるだろうか。家族や、周囲の人たちとともにあってこその幸福でもあるだろう。別に哲学者 や宗教家から幸福の概念など教えてもらう必要などない。幸福と思える環境であればいいの だ。これが幸福だと押し付けられるものほど歪なものだろう。極楽の地獄など、姑息な人間の 創りだしたものに過ぎない。それを飯の種にするなどそれこそ腐った根性だろう。悔しかった ら、それこそセラピストにでもなればいいのだ。 私は、こうして幸福になりましたなどと 書いた本が何が面白いのだろう。そのひとの幸福が他人にも幸福とは限らないし、もっと高い 次元を希望しているかもしれないではないか。世界観は人それぞれに違う。こんなもので幸福 などと言われても土台おかしな話ではないか。人間の向上心とは、同じところに満足せず、更 に高見を目指すのではないか。 ひとりで太鼓を叩いても仕方がない。楽しくはならない。 幸福は他人から教わるものでもない。自分が十分だと思うところまで行けば好い。
2018.11.29
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ダイシャクシギ山川捨松は大山捨松になり、鹿鳴館の貴婦人になっていた。小説「不如帰」の「人間はなぜ死ぬのでしょう!生きたいわ!千年も万年も生きたいわ!」のヒロインの浪子の実家で継母にいじめられるその継母が捨松がモデルだったという。それは事実と違い、虚像だったようだ。捨松は、日本人女性で最初に大学を卒業したひとであり、さらに看護婦の教育も受けたひとで、隔離などしたのは、当時肺病の伝染を怖れた処置だったようだ。捨松は日本赤十字社のボランテイア活動をするなど日露戦争当時のアメリカの世論は日本びいきでもあった。日本の総司令官の夫人がアメリカの大学の卒業生と報じたからだ。アメリカの寄付金は捨松のもとに送られ慈善活動に使われた。当時としては画期的なことだ。 それこそ鹿鳴館の仇花ではない。蘆花が脚色しただけだろう。それにしても津田梅子が亡くなり、その後捨松が女子英学塾を塾長の就任式までしながら、その翌日から体調を崩し、60年の生涯を閉じているのは惜しまれる。それにしても岩倉使節団の留学生の一人として当時捨松は12歳であった。10年の留学を終えて帰国したが、待っていたのは失望であった。 そして、捨松は日本語を殆ど忘れ、考え方もアメリカ的になっていた。男尊女卑の風潮は、高等教育をうけても女性の活動できる場がなかったからだ。日本語の文章が殆ど書けなかったという。それでも立派に最初の留学生としての仕事を遣り通したといえるだろう。異質な経歴を持つ捨松への偏見が虚像をもつくりあげたのでもあろう。 指摘されるのは、岩倉使節団の首脳が戊辰戦争の官軍側であったのに対し、女子留学生の親がみな賊軍の娘たちだったということだろう。捨松は8歳の時会津戦争で家族とともに籠城して悲惨な体験をしている。その時弾薬運びをして手伝い、義姉が砲弾に当たり亡くなるのを目の当たりにしている。まれに見る根性の据わった人でもあったのだろう。
2018.11.29
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ハクセキレイ中国人は「万里の長城」は、世界最大の建造物であり、宇宙から見ても地球で先ず目につくものと思っていたらしい。ところが中国が打ち上げた人工衛星で見たら見えなかったそうだ。何せ長さは8000KMでも幅員が略5メートルしかないのだから無理はない。だが同じものを造れ、という人はいない。遺物として、一つあれば十分だ。 冬場には八達嶺長城周辺は零下20℃近くになるという。厳しい環境なのだ。それこそ多くの犠牲者の亡骸は塗りこまれて城壁になっているという。累々とした亡骸で造り上げた長城なのだ。ライトアップした長城は美しくもあり悲しい記念碑でもある。20時過ぎて点灯されたライト中を歩いている人々を現地で望遠鏡でみていると、自然と震えが来た。 この長城ほど人の血を吸いこんで造られた記念碑はないのではないだろうか。8000KM以上も続いた巨大さが恐懼でもある。漢民族と55の少数民族がいるというその多様な顔は世界の縮図でもある。 まとめるのは並大抵の努力ではすまない。
2018.11.29
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和白干潟 クロツラヘラサギ 8羽。物事は、単に前の事象の表側と裏側に過ぎない。「福」の文字を逆さまにして貼り付け、福が出ていくのではなく、福がくるように逆さまに貼っているという発想が面白いと思った。中国人にはその発想があるのだろう。前からだけで見るのではなく、裏面をみる。そして必ずしも拒絶しない。彼らの現状肯定は自然には逆らわないという観察にあるのではないだろうか。唯物弁証法を国是としながら、その多様な思考は驚嘆に値するだろう。 強かさは決して美しさに繋がらないが大地に根ざした生き方ではあるだろう。広大な国土を抱えてまだすべてを利用した力ではないだろう。人海に頼った考えでは、これからの国際社会では通用しない。個人としての能力は見せかけでは通用しない。真に民主主義の何たるかを念頭に置くべきだし、個人の人権の尊重が優先せねばならない。その精神が足りなければ世界の一員とはなりえないのだ。 自分たちが何ものであろうと、他者を尊重して互譲の精神がなければ信頼される国際人にはなれないだろう。多くの西洋人を招き率直な意見を行くべきだ。一部のエリートだけが国際感覚をみにつけても大衆がそうでなければ意味がない。農民を豊かにし、貧民を救済してこそ正しい意見も出されるのではないか。エリートたちだけの国家ではない。パワーだけに頼った政治では、精神が疲弊してしまうだろう。
2018.11.29
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社会政策は「アメとムチ」と、その使い分けでもあるといわれる。それは形を変えているだけで、本質的には正体は同じだろう。古いものと新しいものがごちゃまぜになるとき人々は混乱せざるを得ないが目先の利くものが、先手を取ることにもなるが、転ぶこともある。アジア諸国の超学歴社会も何れ行き詰るだろう。必要な時もあるだろうがそれでは長続きがしないことを先進諸国は経験で知っている。エリートの役割はいつまでも続かない。 ・所謂「飴と鞭」は、いつの時代もあるがそれによって翻弄される人間をも作り出してきた。内部留保のない人間は、他人を利用するしかなく、それは必ず行き詰るだろう。出口のないトンネルを掘り始めがちだ。目先の成果だけを追いかけるからでもある。他人の痛みを感じることのできない不感症は肝心な時に、他人を動かすことができないのと同じだろう。 ・へ・・・鳩山内閣は果たしてこの難局に有効な布石を打つことができるだろうか。世論操作がされても数々のマニュフェストや政策が実を結ぶとは限らない。この国のターニングポイントになるのは平和へのリスクに対する判断力の見極めの難しさだ。ひたひとと中国の足音が高まりつつある中、何をアイデンティテイにして日本人はこれからの困難な舵取りをしなければならない。一つ一つの課題に真面目に取り組んでいくしかない。アメリカ一辺倒の依存体質から抜け出す模索を始めなければならない。
2018.11.29
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クサール・アイト・ベン・ハッドウ歴史の跡をたどっていくと行きつくルーツがすぐにわかるものと、わかり難いものも多いものだ。ドイツとフランスの比較される文化もルーツとされるものは一つだろう。キリスト教の世界観があるだろう。ただ成長する過程はその環境や状況によって変わってくる。際立った違いが強調されて、伝統を重んじる傾向とか、「フランス的例外」があったりもする。 ヨーロッパ的な合理主義が喧伝されるがそれも、時がする気紛れかもしれない。下克上がないとも限らない。かって、寒さや飢えと闘かい、厳しい環境で生き残ったヨーロッパ人が、その知恵で席捲したが、帝国主義や植民地主義では人類は破滅するだろう。何故ルーツなのだろうか。生命の起源を探究するのも種としてのヒトのルーツへの旅でもある。 ひとは必要以上に知りたがるだろうか。間違ったことをするかもしれない。それは生物の好奇心がさせるものだろう。生命に根ざしているものを止めることはできないが、コントロールすることはできる。そのためにルーツが解明されねばならない。 必ずしも長く経験した者が本質を理解するとは限らない。何も知らない子供が見抜くかもしれない。通りすがりの旅人が見抜くこともある。ドイツのクリマルが長い歴史を続けているのを見て、私は、子供のころの田舎のかき氷や、金魚売りをしていた夜店を思い出していた。熊本の本妙寺の頓写会というのある。 ・天才たちを生んだ土壌はどこにあるだろうか。それは完璧な環境で創られてはいないことだ。つまり創造性は、むしろ未成熟な環境とひとによって発揮されやすいのではないだろうか。
2018.11.29
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和白干潟は、泥濘化している。干潟の多くの生物が死滅してしまうのではないだろうか。概括的なことでよく議論がされている。実感の伴わない議論がされているケースが多いのではないだろうか。弱者が何を求めているかが強者に伝わらないことがあるだろう。強者は自分の存在を当然であると思っているのではないか。それが理にかなっただと信じようとさえしているように見える。政府が悪を為すはずがない。理由もなく悪事はなされないと信じようとさえする。 アメリカは正義を為す国家であり、卑劣なことをするはずがない。多くの人々はカトリック教徒であって、家庭を愛し、隣人を愛し、国民に支持された政府の政治に従うべきだということになる。ではベトナム戦争や、イラク戦争は何なのだろうか。広島や長崎の原爆と投下も正しい行為だったとされている。白人が最後まで生き残るべきだという。そこまでは言っていないと弁解することだろう。誰も批判されたくはない。単純な判断をしがちが。イエスかノーか、そのどちらかを選んで、それを繰り返していくと、結論は悲惨なものになるだろう。 最悪な政府は、国への忠誠心を国民に迫ってくるものだ。日本の政治家は単純過ぎるだろう。それは丁半で決めていた博徒と変わらないことをしがちである。賛成でなければ、反対勢力だといった政治家がいた。それを国民は信じてもいた。彼がやったことは何だっただろうか。今やあの毛沢東だって、ようやくただのひとになりつつあるだろう。
2018.11.29
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和白干潟 クロツラヘラサギ8羽 2018.11.29.健康ということについて一般国民にまちがった常識がいまだに流布しているようだ。過剰な商業的宣伝がされ、健康に有害なものまでまちがった売り込みがされている。医療関係者は知っているのに沈黙しているのは、そのことで職を追われるかも知れないというプレッシャーを感じている。何しろ産学協同なのだ。商売には逆らえないという意識が強過ぎてもいる。コークの色が砂糖の酸化した色だと最近知ったくらいだ。 ・マーガリンや各種のお菓子、ドーナッツがトランス脂肪酸が先進国では抑制され始めているようだが、日本では放置されている。酸化油で超悪玉だとの昨日の講演で指摘があっていた。何しろ都合の悪いことは黙っていようという連中が多い国である。公徳心が薄いのではないだろうか。 ・へ2・・・気概をもった人間を育てるにはどうしたらいいのだろうか。正しいことを正しいという人間がいなければならない。子は親を見て育つ。そういう環境をつくって行かないと、付和雷同の人間ばかり増えて、世の中が良くならない。
2018.11.29
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クサール・アイト・ベン・ハッドウ植物は生態系において重要な役割を担っている。光合成によって二酸化炭素は固定される。私たちの生命に必要なエネルギーは、光合成に由来している。動物と植物の違いは、光合成をするかしないかであり、動くかどうかである。植物は環境から受けるストレスに耐えながら成長しなければならない。環境要因が生物に及ぼす影響を「環境ストレス」という。 ・「低温馴化」の研究をされているようだ、レジュメによると「氷点下に晒す前に凍結しない程度の低温にさらすと、-10℃以下でも生き残るようになるものが存在する。植物が寒さをどのように感知しているのだろうか。まだ知られていない未知の世界があるだろう。 ・へ2・・・難しいメカニズムは分からなくても、目指す趣旨は充分理解できる。専門家の話は面白いものが多いのは、彼らも拠って立つものは変わらない。環境汚染やもろもろの出来事を研究の中で寧ろ私たちよりも強く感じていることだろう。彼らの研究の成果を聴けるのは楽しみである。雨で外出できなくなったのでしばらく様子を見るつもりでいる。本格的な寒気団が日本列島を覆い始めている。 そういえば、引揚者住宅だったから、バラック住宅に近い建物で、2DKしかなかったが、中学になるとき、勉強部屋を建て増してくれた。3畳もなかったが、嬉しかったのを思い出す。自分の世界ができた気がしたのだろう。どんなに狭くても天国に思えた。日本の住宅を、ウサギ小屋だといわれたする。土できた家も、見方によっては、汚いかもしれないが、懐かしいと思う人たちもいるに違いない。そこが育った場所でもあるからだ。故郷だから、家族だから、そこに育った者には違いもする。
2018.11.29
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クサール・アイト・ベン・ハッドウ船底に押込められ売られていく女たちが水も与えられず、遂に女衒の喉を喰いちぎる小説を読んだ時、言い知れない恐怖を感じた。現代の私たちも、それを知らない船員たちであり、当の女たちであり、女衒である。 現実を知らないからと言って、それが何だ。これは、つくられた話ではない。アメリカに送られたアフリカの人々も同じ運命でしかなく、白人たちに奴隷にされたのではなかったか。 その行為は、キリスト教の仕業なのだろうか。ユダヤ人を殺したのも誇り高きドイツの民族主義ではなかったか。お高く止まれるほど、人間は、誠実でも、それこそホモ・サピエンスでもない。 その虐げられたひとびとの怒りに、世界は震え続けねばならない。いつかその報復を受けるだろう。八つ裂きにされても弁解の余地はない。血祭りにあげられ、頭の皮を剥がれて、禿鷹に食われても仕方がない。そんなことをしてきた私たちは、その子孫なのだから・・・。
2018.11.29
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和白干潟のクロツラヘラサギここ数日、和白干潟には、絶滅危惧種のクロツラヘラサギが、15羽?グループでいる。プロではないので、よくわからないが、これまでいたグループとは違うかもしれない。和白干潟は、越冬するものもいるが、休息してさらに南に行くものたちがいる。しばらくいて、熊本や、さらに南を目指すのだろう。台南には、2000羽近いクロツラヘラサギが見られるという。 ・世界全体でも、3,000羽を超えるくらいだから、2,000羽となると壮観だろう。それだけ厚い保護もされている。日本人は、バードウオッチングをする人が少ないらしい。関心がないのだろうか。私も、リタイアするまでは、あまり関心がなかった。ネコも飼ったことがなかったが、猫と付き合いだして、小さいものに目が行くようになった気がする。 ・へ2・・・草も生えないような荒野で暮らしている人たちとか、それこそ迷路のようなところで生計を立てている。スリランカや、バリ島のような国もある。モニュメントバレーも視点を変えれば、そこに住む原住民たちの迫害された歴史がある。なんとも壮烈な歴史があふれていることだろうか。日本という極東の片隅で生きてきた私が、こうしてツアーを続けている。行きつく先は、ガーテー ガーテー ハラガーテー ハラサンガテー ボジスバー
2018.11.29
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