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関門海峡。一日一日を、たっぷりと生きて行くより他はない。明日のことを思ひ煩ふな。明日は明日みづから思ひ煩はん。けふ一日を、よろこび、努め、人には優しくして暮らしたい。青空もこのごろは、ばかに綺麗だ。舟を浮かべてみたいくらい綺麗だ。山茶花の花びらは、桜貝。音を立てて散っている。こんなに見事な花びらだったかと、ことし始めて驚いている。・・・」。 (太宰「新郎」)・太宰も意外なことを書いている。これも太宰の一面なのだろう。しかし彼には風景はものでしかなく見えるのは人間ばかりだった。もともと関心がないのだろう。綺麗か、そうでないかしか、「風景」はない。西洋人の美の原点はシンメトリーである。おそらく太宰もそうだったのだろう。・へ2・・・私が読んで感じるものと講座の講義が相当違うのが面白い。専門家に感心することが多いが、何でそんな風に思うのだろうというところもある。どちらがどうのでもないだろう。文学は読者の解釈の自由がある。自己撞着した男がなぜそんなに自分を書くのだろうか。自家中毒してみせて快感なのだろうか。よくわからない。「死」が美学だと思っているとしたら、それは幼い。太宰も、すべてを捨てて、世界一周でもすれば良かったのではないか。
2021.01.31
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関門海峡。9世紀末のフランク人の歴史著述家であるプリュムのレギノは、「部族の区別は、出自、慣習、言語、法に拠ってなされる」(diversae nationes populorum inter se discrepant genere, moribus, linqua, legibus)という。出自、慣習と並んで言語は部族に固有な判別標識であった。即ち、部族は言語共同体を形成したのだ。言語の共通性は連帯感を促がし、異なる言語は、反感を生んだといえる。同じ言語や非常に類似した言語を話す異なる部族はお互いに同族と感じていたし、他の部族からもそのように見做された。ゲルマン諸部族が、どの程度に言語上の諸部族と一致するかは、ゲルマン語学でも論議されているが、原ゲルマン語から、東ゲルマン語、西ゲルマン語、北ゲルマン語の3分流をへて、個々の部族言語へと分かれるという系統モデルは現在の研究では否定されている。言語の役割についての研究は、文化の根底を揺るがしかねない重要問題だと思う。語学教育はそういう意味では、日本語文化の崩壊につながる危険をも包含しているだろう。部族イデオロギーを最も特徴的に表現している言語の存在は、安易なものであってはならないだろう。
2021.01.31
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メジロ。「盾はヰリアムであり、ヰリアムは盾である」。これは「一心不乱」の極致であり、絶対の境地である。(石井和夫「漱石と次代の青年」より)漱石の「幻影の盾」解説の中にある。拘りは拘りを生む原因になる。一片の小説も内奥に至れば、二度とこの世には、帰って来れないかも知れない。文豪の小説と云うものはそんな原生林の世界でもあるのだろうか。謂わば一端踏み込めば蟻地獄にもなる。作家の仕掛けた罠に嵌まるからだろう。ミイラ取りがミイラになる運命でもある。・何時も現世に帰る準備をしておかないと偉大な作品ほど、迷わされるだろう。好きな場所でミイラになるのだから本望だと云う研究者もいるだろうが、如何に自分の精神を燃焼できるかでもあるだろう。ことばに溺れることが、人生を台無しにもしかねない。AはAであり、非Aではない。「盾」はヰリアムではない。あり得ないからだ。然し、小説の中ではそれが通用する。あり得ないことが起きるから小説でもある。ひとは想像力の威力を持つ存在でもある。 ・へ2・・・詭弁を弄して平気でいるひとがいる。それを許す社会もある。何が言われているのか、本当のことは中々証明できない。すべてを知る目を持たないからだ。聖職者が500人も幼児虐待をしたと海外ニュースで報じられている。ローマ法王は知っていたのではないかと疑いを持たれているが、そのことさえ真実は解からない。宗教さえ誠実さが欠けているのだろうか。
2021.01.31
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モニュメントバレーのバレードライブ。ヒトが観ている世界は素晴らしい。生命の進化は劇的だ。顔がシンメトリーだとかどうかなどどうでも良い。よってたつ人生の重みを学ぼうではないか。大衝突から始まり、全球凍結、海からの離脱、PT境界期大量絶滅、大陸大分裂とアフリカからヒトは旅立つ。悠久の時を経て、さまざまの犠牲があり私たちをここまで導いたのだ。そして、それはまだ旅の途中でもある。焦ってはいけない。人生の味を噛み締めて、行かれよ。いまは、平和な時間なのだ。ヒトが生きた第4氷河期の世代は最高に恵まれた時代ではないだろうか。あと数百億万年に亙り、宇宙はインフレーションを繰り広げようと、斯くまでに素晴らしい然し、過去何回もあった10万年続く氷河期が、始まるかもしれないという。 これまで地球では、5回の大量絶滅があり、6600万年前の Kpーg境界がある。
2021.01.31
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クライネシャイデック駅。何故宗教戦争があるか分からないというほど、軽薄でもないが、時間をかけすぎるだけ、拘りが深くなることを憂う気持ちはあるだろう。それは民族の不幸に止まらないかも知れない。あるいは欧米を狂わせかねない危険をも孕んでいると懸念されるからでもある。それは誰もがもつ未来への漠然とした不安かも知れない。或いはヒトには、そういう予知能力があるのだろうか。自分の死を予感するものでもある。 ・自己否定といっても、自分たちの生きてきたルーツを消去してしまうことはできない。部分的に削除はできても、両親やその先の祖先たちの存在を無視することは、それはできない。どれだけ批判すべきものがあろうと、存在そのまでリセットすることは人生の否定になるからだ。それは、盲目的になることではない。あるがままに受け入れる許容性を持つという意味だ。学問を深くしても、拘りをもってはならないものと、拘り続けるものがあっていいものがあるだろう。併し、それは、宗教戦争を肯定するものではない。絶対神を信じるのは個人の内面の問題であり、その拘りは捨てねばならない。誰と付き合うべきかは選択の問題だ。偶然ではない。そこにその人の意志があり、信条があらねばならない。人生は、墓穴を掘ることではないはずだからだ。 ・へ2・・・自分が、どれだけのものか知らないではない。それでも知らない部分はある。これから自分がどう変わっていくかだろう。「男子三日逢わざればかつ目すべし」、という。どうも、女性も同じだろう。樋口一葉の例もあるようにジャンプがあるのだろう。しかし、それは、死を賭したものであった。世を儚んだ封建社会が存在したからでもある。夢を見ていいものと、そうでないものがあるのはヒトがもつ宿命でもあるだろう。生き残るために、捨ててきたものがすべて価値がなかったものばかりではないように、それは人間の温かさであったかも知れないからだ。私たちもいま目にしている物は一瞬のシーンでしかない。やがて、海は枯れてしまうだろう。それは、自分の肉体の水分がやがて無くなるように儚いものでもある。だが、忘れられないものがある。それは、自分が育ってきた人生そのものであろう。
2021.01.31
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ベルナー・オーバーランド。「ひとはしばしば愛から野心へ移行するものである。しかし、野心から愛へ戻ることはない」(ラ・ロシュフコーの「マクシム」) 戦争・飢餓・パニック・大災害などの極度の社会的混乱は、恐怖・疑心・自信喪失・無気力・狂乱の状態を惹起する。そこにあるのは意味など存在しない狂気であろう。然もそれは、コトの一つでしかなく単なる事象でしかない。ヘーゲル的な見方に立てばコトそのもの。 コトとは、次のようなモノを指す・事由、事宜、事理・事実、事況、事情、事象、事態・事件、事故、事変・事例、事項、事務、事業 ものの世界とは、客体としてのものと、事物化されたコトで成立つ。 「こころ」の多様性とは、・こころは、知・情・意の根本の働き・思考、志、思惟、思慮・中心・根本・思い遣り、情け・趣向、工夫 etc 感知・認識・思考の能力を意味している。想像力を豊かにし、知性を活性化することでもある。 デカルトの「コギト・エルゴ・スム」が出てきたので、まあそのあたりの本であろう。それほど興味はないが、面白いフレーズが出てきた。「青春とは、絶えざる陶酔のことである。即ち、それは理性の熱に浮かされた状態なのだ。」 「おおかたの女性たちの才智は、自分の理性よりも自分の狂気を強めるのに役立っているだろう。」
2021.01.31
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ひとはそれぞれのエリアの中で虚構と誠実さとの間を揺れているようだ。どちらに針が振れているかであろうか。日々も朝から夜のあいだである。すべてが始まり、そしてすべてのことが終わる。点を線に考えられるのは人間には記憶があるからだ。刹那で生きている動物もいる。人間でさえいつも同じ感情をもつのではない。虚構を作り自分を守ろうとする。許されるものと許されないものがあることを識別しなければならにだけだろう。そして誠実さも、自分に対してだけではなく、他人にもあまねくそれを証明できるかでもある。 ・作家たちが激しく虚構と誠実さを揺れつづける生き物であるかを見るだろう。彼らは何時までも虚構だけにいるのでないが、誠実さにも留まり続けるのでもない。読者を騙そうとさえする。それは、決まり文句のことばで表現されるようだ。松林は、幼い頃心を寄せた場所であり、古里の安らぎをさしていたりする。起伏の激しさがあるから、小説が書けるのかも知れない。決してウソつきではないのだ。誠実さにとらわれていては、小説は死んでしまう。 ・へ2・・・香椎に冬牡丹を見に行こうかと思っている。そのタイミングを狙っているが、そのふんぎりがつかないでいる。どうもそとが薄ら曇りで、太陽の光を浴びた美しさが得られないのではないかおもうこともあるから。こころを奮い立たせるものがまだ足りない気がしている。どうも慾張りだ。色々と注文を付けたがっている。どこでも読書はできるし、真理に近づくことはできるだろう。こころに怠惰が巣食っている。
2021.01.31
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ヒヨドリ。ミミズだって、人間だって基をただせば種の一つでしかない。人間を分析してしまえば、細胞の集合体であり、複雑系でしかない。でしかないというべきかは語弊があろう。人間をどこまで科学的に分析できているだろうか。意外と宗教や観念論の壁があるかも知れない。人間を科学的にみる視点は、現代人にとって不可欠な前提条件なのではないだろうか。それは、人間の存在を同じ形質を持つ動物だということを証明することであり、種としてのヒトとは、すべてはひとしく化学反応でしかないことを意味してもいるだろう。 ・ヒトが種の一生物だと認識すれば、人間の役割もおのずから知れる。どうして、現象だけを見ようとするだろうか。人間の拠って立つ生命体としての存在を知らねばならない。何故、住みやすい環境が必要であるか。あらゆる生命体は、レスポンデント行動とオペラント行動に分類される。「つもり」「はず」ではない生き方をし、スモール・ステップをすることだという。・・・できた「つもり」でも「はず」ではだめだ。 ・へ2・・・太った豚か、痩せたソクラテスか?二者択一でもないが、人の選択には、自分の人生がかかっている。あの時、違う選択をすれば、また違うのかもしれない。今あることが、理想だったとは思えないが、してきたことの結果でもあるだろう。ゴールデンパラシュートの人たちもいるのだろうが、そのコストも安くはあるまい。途中で落っこちた人も大勢いる。嘲笑されることもある。他人よりも自分は優れていると思いたいのだろうが、たいていは思い上がりでしかない。トランプ氏の人生もそれほど偉いとは思えない。
2021.01.31
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ベルナー・オーバーランド。ヒトはDNAだけの生物か。ドーキンスは、1976年「利己的な遺伝子」で、同族に優しく、他族には過酷で、自分には甘い利己的なDNA を受け継いで生き延びたのが人間の祖先と言う。そういえばそんな経営者多い。というより人間は皆同じかも。そして、脳神経系の文化的伝達が、 meme だ。それは、言葉であり、思想であり現代と言う文化なのだ。こういた非物質的な文化伝達がコピーされて、承継される。それは、複雑系の由縁だ。DNAの担い手の genome と meme がヒトを動かしている。人間の身体は道具でしかない。 絶望の淵から這い上がれインド洋大津波被害は、見方によっては、未来に齎される災害の甚大さを示すものだ。地上に67億人の人類が犇き合い、何れ100億人を超す人で地球は飽和状態となる。最早国家と言う概念では人々を括ることのできないことが証明された。これまでの南北問題の取組みでは何も出来ない。少なくとも、EUに観られるような国家の統合を東南アジアでも、中東でも、或いは東アジアでも世界中で考えるべきではないか。いま例えば、日本と韓国がそして北朝鮮が、そして中華人民共和国が連合国になるなど笑止千万の議論だろう。然し将来それが全くないと断言できるだろうか。利己的な遺伝子は生き残るために何でもやってみせるだろう。絶望の淵からだって這い上がる。世界がそれこそひとつにまとまらない限りヒトの未来はない。苦難を舐めることで学ぶ人たちが人類を導くだろう。 マイトーシスとアポトーシス 個々の細胞の運命が厳密に定められている。最終的に固体を形成する組織と存続しない組織があるらしい。これらの存続しない細胞は過程で消えて行く。環境の変化や、殺されるのではなく静かに消える。この現象を「プログラムされた細胞死」という。これを、その死に方の潔さから「細胞の自殺」言われる。今日では所謂アポトーシスと同義語として用いられている。たとえば蛙の変態だ。蛙の尻尾は消える。尻尾は短くなり、遂に消える。尻尾は本体に吸収される。さて、今年も自分の為すべきことやろう。
2021.01.31
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子どものころから病弱だった。痩せていたが腸の中に回虫を養ったらしい。親戚のおばさんから水前寺のもやしだといわれたりした。食べたものを回虫が横取りしていたからだ。どうやら祖母が畑で人糞を肥料にしていたからではないだろうか。肺病になりかけもした。母が心配して、家で山羊を飼ってその乳を飲ませてくれたし、鶏を庭で飼って、毎日新鮮な鶏卵に穴を開けて飲ませてくれたりした。一人っ子で親には大切にされたほうだろう。 ・お陰で、お人好しだったかもしれない。あまり他人を恨まずに生きてこれたからだ。熊本の田舎で、高校までいたが、他人との競争心も余りなかった。都会に出てから、やっと現実が少しわかりだしたのだろう。どうやら実篤とか、変な本ばかり読んでいたらしい。本の世界と現実の境界がぼけてみえていたようだ。引揚者の息子で、それこそ一からの船出でしかない。 ・へ2・・・あれやこれや迷いながら生きてきたが、人との触れ合いもなかったわけではない。こちらがどうすればいいか迷ってばかりいたから、誤解されることも多かったのだろう。30歳近くまで、その後勉強していたが、世の中の役に立つことはできなかった。カネにならないことをしていた。それこそ、どんな酷い余生が来ても文句は言えないと思っていたが、意外とこれまで楽しい人生だった気がしている。
2021.01.31
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モニュメントバレーは、十数年の海外ツアーの中でもトップの部類のインパクトのある風景だった。西部劇で見た風景とは違い、大雪の中のモニュメントバレーでもあったからなおさらであろう。それほど寒暖の差があることも知らなかったからだ。日本人は、山や海や田圃や畑や、そしてどこも人間のいない場所はいない空間で生きている。違う世界があることは、子供のころから知ってはいたが触れたことはなかったからだ。 ・一人っ子で、引っ込み思案になって育ち、学校でも目立たないタイプだった。自分に自信が持てなかったからだ。いつも周囲が大人ばかりでいたからかもしれない。戦後で、しかも敗戦したばかりの大人たちが混乱していたこともある。軍国教育を受けた教師たちが、どれだけ民主主義を生徒たちに教育できただろうか。父が、住井すゑ著「橋のない川」を読めと薦めてくれたことがある。 ・へ2・・・少なくとも金持ちにだけはなるまいと中学生の時には思っていた。父母は、親の投資を受けることができなかった少年時代を過ごしていた。しかも戦後中国からの引揚者だった。母が、帰りの船で乳飲み子が海葬されるのを何度も見たといっていたが、私は、若い母親のおっぱいを飲み続けたのだろう。
2021.01.31
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呼吸をするのが下手な人は長生きできないとか、見逃している視点がある。自分の好きな所を見つけるのもそうではないだろうか。西欧人に比較すると日本人は自分の人生で好きになるところを見つけることを安易に思っているのではないだろうか。好きにならなければ人生なんて楽しくもなんともない。ある解脱したひとは人生は苦しいだけだといった。確かにそういう視点もあるだろうが、人生や自分を好きになることではないだろうか。 ・どうしても見つけることが出来なければ、それから絶望でもなんでもしたらいいのだ。何も努力もせず、厭だ嫌いだというのはおかしい。視点を変えるだけかも知れないだろう。私は日本文学は嫌いだと思っていたが案外視点を変えればそうでもない。好きなところもある気がしてきた。 ・どうも生きるということを甘く見ているのではないだろうか。息の吸い方から考えたことがない。殺されてから、・・・では遅すぎる。自滅しているかもしれない。まあ犯罪にならないだけではないだろうか。構成要件に該当せずとも、ひとは他人を殺し、自分も殺していると言えなくもない。どうも正月に書くべきではない話になったようだ。 へ2・・・毎日のように日本では、M4クラスの地震が各地で発生しているようだ。東日本大震災から、3.11は、もう10年になるが、その余震もあるらしいから、そのスケールの大きさに驚くほかはない。何とヒューマンスケールは小さいことだろうか。自分の苦悩だけでも手いっぱいで過ごしてきた。何ともはや狭い世界だ。このままでは自分の人生にも負けそうである。先に待っているものはあまりいいことではあるまい。10に1でも文句は言えない。生きていることの喜びは、生きているからこそだろう。
2021.01.31
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クライネシャイデック駅。約1時間のフリータイム。周辺を散策することにして、妻とホットワインを飲んでありして雄大な風景を楽しんだ。ユングフラウの氷河かみえた。リフトがいくつもあり、スキーを楽しんでいる人々が多かった。アポートシスがあるから細胞の進化が可能だった。不能の作家が溢れていることに絶望を感じなければならないのかも知れないが、それを誰も認めようとはしない。子殺しは種の絶滅につながるのだろうか。サインを見落としているのではないか。女たちが男を恐れなくなっている。それは復讐につながるのであるか。増えすぎた種は一挙に絶滅するか。魅力を失いつつある男は存在価値を失いつつある。 ・この社会を頽廃させているのは誰でもない私たちの油断だろう。油断する者は自然淘汰されてきた。そのルールはいまでも当て嵌まるに違いない。そのことを誰も気づかないのは頽廃しているからに他ならない。かっての中国がそうあったように疲弊して崩壊している。現代の作家たちがなにをしているのだろうか。政治家になったり、タレントになったり、社会批判さえしなくなっている。読者は古典しか読むものが無くなり、読めない外書の翻訳ばかり読んでいる。こどものようにしか喋れない。 ・へ2・・・何を誇れるのだろうか。そんなものは何もない。まだ立ち上がることができるかを考えているだけだ。まだ歩いてさえいない。歩かねばならないということだけを知ったところだ。これからいくつもの山を越えて行かねばならない。この世界を読み解く汀に届くだろうか。それは知らない。立ちはだかる壁が誰にもある。
2021.01.31
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アイガー北壁。考えてみれば、誰も「明日」生きているかさえ判らない。どれほど生命に溢れた若者でも、彼が、何時まで生きていられるか知らない。極寒に棲む北極熊たちが、温暖化の影響で絶滅の危機に瀕しているという。環境の変化が徐々に過酷な運命を生んでいる。それは、いずれ人類の未来をも予感させていないだろうか。生物は、ぎりぎりの健気な努力によって生き残ってきた。地球の平均気温の上昇が、2℃上昇すると騒いでいるが、或る調査では、一番影響を与えている極地で5℃上がっているとの話だ。これは、大きな警鐘となるはずだ。漠然とした安全の約束でしかない社会のなかに私たちは居るだろう。それは、すべての国民が、これからの人生を平穏で居られないことを意味している。どんなリスクがあるか、分からない。例えば、病気になれば、それが不治かどうかで残りの時間が予測されるだけだろう。いえることは、たとえ世界中の誰でも安心ではいられないということだ。どんな不幸が襲ってくるか判らない。いえることは、ネガティブなことでしかない。どうストレスと闘うかだ。生きるということは、その不安に立ち向かって行くことでもあるだろう。不安を克服しながら、挫けそうになるこころを奮い立たせることだ。誰も知らないからこそ、多くの迷いが付き纏うのだろう。確たるものがないことは、また或る意味で、足らざるを補おうとする意欲にもなるのだ。自分の明日を誰も知らない、人生の途上にいる。
2021.01.30
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メジロ。スマートに消されると判らなくなる。手際よくされると信じてしまう。だからこれまでの歴史は、「どんな世界も裏から見ればおぞましいだろう」と言われるのであろう。私たちは、忘れられた案山子のように、刈り取られた田圃の中で、風雨に晒されるだけだろうか。大事件だけが残る歴史でしか知らないで知識で何がわかるだろう。情報の氾濫のなかで現実が擦り抜けて行くだろう。人々は、歯噛みしながら受け入れるだけだろうか。それしかないのだろうか。空騒ぎがあるだけの人生だろうか。肯定だけの回答しか持たない選択など人生ではないだろう。混沌としている社会認識があるとすれば、真実も隠れていることを知らねばならない。そして、当然知るためのプロセスが必然だ。そのためのライセンスはないが、長い隘路が待つだろう。それまで届かなければ、やがて真実は消えていく。
2021.01.30
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ヒヨドリ。要点を絞ったら大した事もないものばかりだろう。あれは何だったのか、何を言いたいのかわからないものばかりなのだろう。太宰も妙な言い訳をしていたりする。そういえば、弁解ばかりする研究会の発表とか、「・・・で、いったい、何をいいたのか?」と訊きたいような講演会があるし、「何が新しいのですか?」と、「源氏・・」とか「万葉・」とか、言われる。要するにそこから出ていない話ばかりだ。勿論内々で議論されるのはいいとしても、一般の人にそれを、現代風に解釈して見せるのが必要であり、それは「翻訳」であって、どうすれば、どういう風に話すべきかを知らないのではないか。それは研究者がそれだけ消化しきれていないからではないだろうか。 ・あれこれ考えて書くよりも、滅茶苦茶書いた後で、ぽかりと出たものがいい時があるものだ。それはやぶにらみ思考かもしれない。あまりまじめ過ぎると面白くないのと同じだ。それは潜在能力を使うということではないだろうか。それは、そこまでいつも辿り着けるものではない。それが苦しいが、スタートすればゴールは彼方にあるのだろう。誰も皆同じだ。生まれて死ぬまでの間でしかない。それは、100年間もない。 ・へ2・・・「花の命は短い」というが、人間の生命も相当短い。満足して死ぬ人はそうはいないのではないだろうか。天才が、現実と空想の世界を自由に往来するようには凡人はいかないが、それはやり方次第ではないだろうか。天才でも、それを翻訳し表現できなければ無価値であろう。凡人には日頃のスキル次第だ。
2021.01.30
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和白海域。2世紀末、神功皇后が和白にて三韓征伐の軍議を開く。日本議会最初の発源地は、筑前和白であるとされる。東洋学的に和白という言葉は「議会」という意味である。これが元で地名として定着したと思われる。(Wikipedia) 和白とは、「議会」を意味することばだとは知らなかった。 神功天皇の遺跡はあちこちにある。謂れを探すと面白いものがある。あまり興味はないが。然しもっと郷土史の研究はされて良いのではないだろうか。地域の大学に先鞭を取る若手の研究者はいないのだろうか。どうも埋もれて行くだけでは意味がない気がするが。 ・幼稚な文化では詰まらない。確りしたものに作り上げれば良いのだ。和白という地名を大事にすべきだろう。このままでは、何かの都合で消えて行くかも知れないだろう。2世紀から、何ともう21世紀まで来た。 ・へ2・・・和白干潟が、いつまで残るだろうか。由緒のある地名も、それを引き継ぐ者がいなければ消えて行くだろう。これからも、和白に住んでいくつもりですが。
2021.01.30
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アイガー北壁。日本は、工業国を目指して努力してきたが、世界の大国は例外なく、農業と「食」を重要視している。現在「食」の安全のみが、日本では問題視されがちだが、その根幹は日本の農業政策にある。農業を見直すべきだという議論は、昔から聴くが、工業立国の精神はいまだに国民の潜在意識を支配している。農業は、棄てられてきた。 ・肉体労働をともなう作業に対して3Kという意識もある。辛い農作業が頭をかすめる人も多いのかも知れない。天候に左右され、不確かな仕事のようにさえ思えるかもしれない。それだけ、過労多くして実の少ないものであったのだろう。農業に対するイメージは明るくはない。士農工商に見られるイメージもある。貧農による貧しい生活が重なっても来るだろう。農家と言えば、マイナスイメージであったかも知れない。 ・へ2・・・農業に対する国民の一般的なイメージづくりが国家権力や教育によって為されたのではないだろうか。それは、企業戦士を早急に充実させたいという政策があったからでもあるのだろう。日本的囲い込み運動が為されたのだ。国土は荒廃してしまった。これから農業を中心とした社会システムに戻ることができるだろうか。それは国民の意識次第ではないだろうか。「食」は、人類の文化の基本である。それを蔑ろにした政策が、長続きする筈がない。経済の中心として農業を考えるべきである。農業があって人類の歴史の流れを形成してきたのだ。
2021.01.30
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モニュメントバレー。澄 懐澄懐黙稿数離憂 耳順那甘章句囚 天外孤蓬常挙踵 欄中老騎尚昂頭胸間薄膜存余悸 脳底残筋耐激流 溌墨江湖呵凍筆 展箋編録百春秋「老騎は厩に伏すも志は千里に在り」と昂然としている。文章の字句の奴隷になるなも良い。これは曹操の詩。一本の根無し草でも踵が大地に触れる限り高くの伸び上がって、希望を失うまいという気概がある。人間は、こうでなければならない。中国の四千年の歴史には叡智があるだろう。日本が少し時代を先取りしているからといって、他国を侮ってはならない。道は中途でしかないだろう。狭いナショナリズムで自己満足していては、百年の歴史を書きとめることはできなくなるだろう。これからだと謙虚に自戒すべきだろう。
2021.01.30
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スイス ベルナー・オーバーランド。クライネシャイデック駅。国家とは国家権力の意味である。それは漠然としたものだが、それは見ようによっては非常な力でもある。それを感じるのは、恐らく、国民の目には、しばしばではないかも知れないし、それは大き過ぎて見えないかも知れぬ。歴史を学べば、それはどこにでも散らばっている。というよりも、その歴史そのものが国家権力と国民の自由の歴史でもあろう。帝大と言われた時代で学んだ者たちはいわばその洗礼を早く受けていたに違いない。作家たちはそれをどう表現するかで苦心し、正直な者は自滅したかも知れない。 ・法を学び地方の裁判所の傍聴席でやくざの、恐らく娑婆では肩で風を切っているだろう人物が、肩を落として萎れている姿を見て、これが国家権力のパワーの一断面なのだろうと直感した。法に触れれば処罰される。たとえ総理大臣でも逮捕される。ブタ箱に入れられる。そこでは人間扱いなどされはしない。唆されようが、甘い罠にかかろうが、言い訳にはならない。或いは何もしなくても、犯罪者にされるかも知れない。それは現実にあることだ。どんな生き方をしようと勝手だが、そういう時に自分を助けてくれるものがいるだろうか。それは誰にもわからない。確かに、弁護士はいるし、裁判所も公正な裁判をするというが、それは本当に公正で、誤りのない裁判になるだろうか。それは誰にも保障などできはしないのだ。 ・へ2・・・何をどう信頼しているといえるだろうか。それは何を根拠にしているだろうか。それは確実と言えるのか。おそらく半端な愛情で相手を守るだけの勇気があるだろうか。自由とは、その勇気がなければ勝ちえない社会でもあるだろう。花たちも心ない人間に踏み躙られれば同じだろう。私たちは何を信じて安穏と生きていられるのだろうか。何も信用などできないだろうか。いざという時に自分を守ってくれる安全弁を持っているだろうか。
2021.01.30
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ベルナー・オーバーランド。「桜の樹の下には」、・小説?詩か。散文詩(冬彦)・着想で成立している作品。・桜のイメージ。爛漫と咲く。雪月花。美観。・坂口安吾 桜の森の満開の下 虚空―風。・陰惨さ。・梶井の独自性。・朔太郎「竹」の連想。・ポーの作品。朔太郎。梶井に繋がる。・調和と破壊の二面性を持つ。本能的。「猫町」と「檸檬」・透視。・ふっと思いついた。「桜の樹の下には」・・・屍体が埋まっている。感覚的。・知識は何の役にも立たない。理屈ではない。・説明的。比喩的。・繊細さ。病的な感じがしない。・透視術。・「俺には惨劇が必要なんだ。」オリジナルのアイデアであること。当たり前ではない。
2021.01.30
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「廃仏毀釈」の明治政府の政策によって皇国史観になっていくのだが、国民がそれをどこまで支持したのだろうか。すくなくともそれが国家意思として成立したということに違和感がある。しかし、それが私たちの意識下にあるのかも知れない。それが初詣に延べ9000万人といわれる(?)人たちが、参拝するのだろうか。私自身も何の恥ずかしさもなく出かけている。生と死と同列に考えることができなかった。死は、遠い未来の話でしかなかったから、知り合いの人々の葬儀もどこか他人事でしかなかったし、両親や義父や伯父伯母たちや、それこそ身近な人たちの死でさえ、内面的には深刻な問題にはならなかった気がする。それほど真剣に考えていなかったのだろう。 ・これを書きながら宮家準氏の講演を聞きながら書いているが、こういう儀礼の常識を昔の人はよく知っていて伝承していたのを思い出している。今では名講義として紹介されてものを聞くしかないのだろう。葬儀のときのいくつかのシーンが頭に浮かぶが、儀礼を知らなかった私は、そういうものかと思いながらみていただけだった。レジュメをみていると、伝統的な葬儀と、現代の一般的なものの比較がされている。 ・へ2・・・それこそ「病院死」が現代では普通のことになったのだろう。死亡診断書を医師が書き、洗浄さえ葬儀社がする。末期の水、魂よび、枕飯、葬具作り、穴掘り、賄、通夜には添い寝までして死者を見送った。日本人は昔と今とどちらが命が大切に扱われたのだろうか。「私は貝になりたい」という映画が評判になり見たことがある。善人が兵隊になり、上官の命令に従って、戦犯になり死刑になる話だ。戦争に勝てば英雄とされるのだろう。私たちは、まだ先祖祭を繰り返しているだけなのだろうか?
2021.01.30
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メジロ。世の中が善くなれば、自分の命さえ社会が守ってくれるものと安心している向きもあるのではないだろうか。実はそうではないことが露呈し始めている。自己責任のルールが広がりつつあるからだ。国民健康保険料が支払えずに保険証が取り上げられ、医療サービスが受けられずに死亡する人が増えているという報道がされている。これは弱者は要らないということに他ならない。国家の支出が強者優遇ではないだろうか。強いものだけ生き残るという経済の原則が、政治の原理になりつつあるからだろう。選挙のときだけ思わせぶりを云っているだけではないか。それは、再成立させたテロ特措法で顕わにされた。 ・薬があってもその薬が飲めない。医師がいても治療が受けられない。カネの有無で医者の顔色が変わるようになるのだろうか。それは差別の拡大につながるに違いない。確り、言うべきことをいい、主張すべきを主張しなければならないのではないかと思う。国家の言うままでは格差が広がるだけだろう。私たちは、門外漢ではいられない。まさに自分の問題である。 ・へ2・・・多くの犠牲によって購われた平和を目前の道具を最大限に利用して、課題に取組むべきだと思う。たとえ個人一人ひとりの力が非力だとしても、個々人が自分の役割を果たすべきだろう。それしかないと思っている。
2021.01.30
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ユンググラウ登山列車。クライネシャイデック駅。スキー客が多かった。記憶力のいい人が一度聞いた知識を忘れないで、それを学校で上手く発揮できれば成績は良くなるだろうし、一流大学を出て社会の頂点に駈け上がることもできる。そういうヒエラルヒーのシステムが明治時代から整備されてきた。しかし、それはいいばかりではない。こういう人たちは、逆に、一度でき上ったニューロンのつながりを切り替えることができず、頭の固いに人間になりがちだからだ。彼が覚えた数十年前の知識がいつまでも頭の中で固まってしまっているからであり、それは進歩をつづけている時代に適応できなっているかも知れない。そこに日本の官僚機構の弱点がある。だから何かというと「そんなはずはない」「前例がない」「決まりは変えられない」と言い続けることになる。新しい考え方をしようとしなくなるのだ。 ・それは、ある意味で、社会の一種の「老化」現象でもあるだろう。そういうことから考えると、今回の海の中道大橋の飲酒運転事件の「危険運転致死罪」の裁判官の「酩酊状態」の解釈も頭の固い証拠ではないだろうか。少し頭のいい被疑者なら、この「危険運転致死罪」をあっさりすり抜けることができるだろう。裁判官は、適用の判断を狭めてしまったのではないだろうか。国民の世論の高まりである飲酒運転禁止の要請を理解していないのではないだろうか。 ・へ2・・・日本の判決も常に前例を重視しがちであり、判事は自分の頭で考えて判断しているとは思えない。だから柔軟性を欠いた判決も出てくるし、裁量権も生かされないことが多いのではないか。明治の法律を唯そのまま解釈されてはたまったものではないが「決まりは変えられない」と威張ってばかりいるのではないだろうか。寧ろそれを現代の国民のニーズに応えながら、法改正を政治家に求めるのが裁判官たちの使命ではないだろうか。もうにうそ寒い日本である。
2021.01.30
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アインシュタイン ミュージアムの広告。クライネシャイデック駅。ほんとうによりよく生きているだろうか、と考えた時に、目先に利害や、他人の目を気にしてばかりいる自分がいた。それは、よりよくではなく、よりうまく(上手)であるにすぎない。上手く世渡りをすることだけを考えて自分をわすれていたのだと思った。意識的に考えてやっていたのではない。それこそ意識的思考というものがなかったのは、環境もあるが、多くは自覚の問題でもあるだろう。言われれば気づくだろうが言われなければ気付かないのであればそれは意識的思考がないのだ。 ・よりよく生きることを意識しなければ、どんなに恵まれていたとしてもそれは、よりよくにはならない。世間では、どんなお笑いタレントでも政治家になるし、弁護士でも政治家になろうとするが、例えば県知事になれば先生と呼ばれるし、代議士も同じだろう。知事や代議士になったから偉くなったのではない。そういう社会的な地位に立つから世間では知事であり、代議士であり「先生」という敬称で呼ばれるだけだ。しかし、「選挙」という厄介なハードルがあり、それで他人から投票してもらわなければその地位に就くことができない。そして選挙人は気紛れである。どうにか日本では、それほど高い識見がなくてもやれる仕事らしい。官僚社会であるからだ。そこで、官僚と上手くやれるかがあるだろう。よりうまくやらなければ追い出されるのが関の山であろう。 ・へ2・・・経済は、よりよくではない。よりうまくやらないと競争に勝つことができないから、経済の中では、よりうまくが優先している。だから、この社会はよりうまくやらねばならないと思っている人たちも多いだろう。だから一般には准教授は、教授を狙っているが、その逆はない。よりうまくやろうとして、よりよく行きたいとも思わないかもしれない。思ったとしても、実行しなければよりよく生きているとは言えないだろう。 ・世間は「見せしめ」を作りたがる。それに責任を押し付けようとさえする。悪いのはあいつだとして血祭りに上げたがるようだ。それは中世の魔女裁判ではないだろうか。そのために異教徒や、反抗的な女性が殺されたのだ。それはよりよく生きるものたちがなすべきことではなかったはずだ。今日の福岡市の海の中道大橋飲酒運転事件にも、問題のすり替えがされている気がしてならなかった。飲酒社会をこそ問われるべきなのだ。車社会こそ見直すべきなのではないだろうか。まだ多くの交通事故が発生し、悲惨な事故が起きるのだろう。 ・へ2・・・胸に手を当てて、自分はよりよく生きているか、意識的思考をもたねばならない。
2021.01.30
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メジロ。岸田吟香は、「新聞は国家の耳目なり、事の細大に拘わらず見聞する所あらば即ち録し、速やかに海内同胞に報知するを以て責任とす、・・・」という。事実は如何と言えど、精神は立派な信念であろう。人間は、謂わば耳目に拠って知るのであろう。何がそのひとの耳目であるかで知ることが決まり、思考も方向付けられる。だから政府は新聞を統制して国民をコントロールしようとした。報道の自由とは、かっては政府の掌の内の自由であった。勿論反骨精神の記者や記事もあったであろうが、その光は世論に届くことはなかっただろう。ベトナム戦争の報道は、やがてアメリカの侵略を止めさせる大きな力になった。それまで、罪のない多くの人たちの血が流された。よく、「知らなかった。もっと早く知っていれば、まさかこんなことにならなかったのでは・・・」と後悔するひとの声が報道されることがある。聞く度に、空虚な思いがしてくるのは何故だろうか。歴史は唯、繰り返されるだけだろうか。「耳目」を広辞苑で引いてみた。・耳と目。・聞くと見ると。・多くのひとの注意・注目。「耳目をひく」・上の人の意を受けて見聞する所を告げ、補佐するもの。「耳目となって働く」「耳目を属す」が本来の意味なのだろう。メディアが皆そうなのかは知らないが似たようなものであろう。併し、情報は揺らぎだしている。一つだけではない情報が流れ出している。ブログもそうだろう。これまで手の届かなかった情報を知ることができるようになった。それでも、まだそれを正しく処理するだけの準備ができていないだろう。唯「知る」だけでは「分かる」ことにはならない。私たちは試されているだろう。喜劇にするか悲劇に終わるかは知れないが、せめて、「聞くと見ると」くらいまではできるだろう。
2021.01.30
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西洋哲学が「有」の哲学であり、東洋哲学は「無(空)」の哲学だというのは、余りに概括的である。はじめ西洋は、シナやイスラムに比して政治的にも文化的にも劣勢であったが、15,6世紀より内的改革と外的飛躍に移った。そして、18,9世紀に科学的技術を集めて、個々に独立した文化的伝統をひとつの世界的連関の中に立たせたといわれる。これは、謂わば神話から哲学の時代への移行であり、青銅器時代から鉄器時代への移行に対応している。シナでは、神話の神々を歴史的人物につくりかえた。孔子は、怪力乱神を語らず、鬼神を敬して遠ざくべきと考えた。哲学は、その序論において豊かなる抒情詩のようである。やがて哲学以前は「神と哲学」に見えるのである。 哲学は果して人間に何をもたらしただろうか。或いは歴史とともに、権力者の論理の後付けの理論だったのだろうか。そも「愛を知る」とは、何なのだろうか?知識のみが先行し哲学はどこに行ったのだろうか? 小さな「愛」だけが讃えられている。
2021.01.30
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自然と反応するのに自分の脳の長期記憶がまだ適応していると思うと何かほっとしたりする。丁度架けたラジオで孤独死の話があっていた。増加しているらしい。少子高齢化がじわりと迫っている。自分がいつそういうことになるか分からないと思うとぞっとする。 ・プライドの高い人ほど他人の世話になりたくない。その心情をどこまで行政は把握しているだろうか。それこそ定額給付金で揉めるような低次元の政府では思いやられる。自殺者や高齢者への配慮の無さは文化の恥だ。温かさのない政治が慣れっこになってはいないだろうか。為すべきこと為していない人が多いからでもある。今日は、一番に検査を受けることができたようで、診察がえらく早い日だった。担当医は専門医である。何しろ広域の範囲に10人くらいしかいない。あとの患者は、好い加減な治療行為を受けていることになる。それだけではない。それは患者でしかない。病人ではないのだ。 ・へ2・・・病院に行かなければ医者は診てくれない。国も保護しない。それは患者になるが、病人は他にもいるのだ。自分が病人だと知らない人もいるし、知っていても病院に行けない人、行かない人がいる。色々考えるとこの国の医療行政が、偏頗であると気付くだろう。そして世界を見るともっと酷い国があるのに愕然とする。人間尊重は軽視されている。それが現実だ。結果は、よくやっていると誉められた。HbA1c 5.7%だった。
2021.01.30
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EUなど、すでにワクチン接種が始まっているが、日本では、まだいつ開始できるか公表されてはいない。パンデミックを終息させるためには、ワクチン接種するしかない。しかも7月には東京五輪も開催される予定だというのに、政府は、右往左往するだけではないだろうか。少なくとも開催国だけでも、安全だという証明が必要ではないのだろうか。それならそれで、することはしなければならないはずだ。 ・他人任せで思うようにはならない。自国では、ワクチンを作れないことがある。それならそれでやることはあるに違いないのだ。それこそ、五輪開催も、日本政府にどれだけの判断能力があるのだろうか。IOCに振り回されているだけだ。五輪招致には賄賂があったのではないかと追及されたが、国内では曖昧でしかない。訳の分からない人間たちが背後で動いているのではないのだろうか。しかもドタキャンさえ無いとは言えない。 ・へ2・・・前の東京五輪も戦争でキャンセルされたが、今度もまだ安心はできない。他国に任せてはいられないだろう。世界で、感染者は、1億人を超え、死者も200万人を超えたが、現在まだ拡大が続いているのだ。無観客での五輪などあまり見たくはないだろう。
2021.01.30
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立花山 中腹には、山城の跡がある。(吉永正春著「九州戦国の武将たち」より) 立花宗茂公について「豊公知遇顕衷誠 驍将偉勲天下鳴 敗績何憂鴻鵠志 幕恩還帰柳河城」 福岡東部立花山の中腹に立花山城址がある。立花道雪が城主で、入婿したのが宗茂である。宗茂曰く「彼のなすところをもって、これを我になせば、すなわち克たざることなし」。のちに秀吉から「九州一の勇者」と称えられ、筑後柳川藩主となった。彼は父紹運から兵略を学び、道雪から薫陶を受けた。宗茂15歳の時、道雪の娘?千代13歳と結婚した。天正14年島津の5万の兵に攻められて立花城は危機に陥り、降伏を迫られた。宗茂は、20歳であった。「命を惜しいと思うものははやくここを退出せよ。少しも恨みに思わぬ。また、日ごろの君臣の約を違えず自分と一緒に戦おうと思うものは、この場にとどまるべし」という。その後、多くの戦歴を経て、家康の家臣となって生き延びた。75歳病没。「わずかなことで手柄顔をするな。心ある人が聞けば何と思うか」と家中のものを戒めたという。 ・面白そうな郷土史がある。史跡も沢山あるので、調べ出したら興味が尽きない。どうも市民への郷土史へのアピールが足りないようだ。史跡が多いのに勿体ない気がしてならない。宝の山が転がっている。
2021.01.30
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クライネシャイデック駅。ここから、ユングフラウヨッホ9への電車がある。RHYTHMS OF LIFE で、ラッセル・G・フォスターは、時間の意味を説く。「伝道の書」では、捜すに時があり、失うに時がある。守るに時があり、棄てるに時がある。裂くに時があり、縫うに時がある。眠るに時があり、語るに時がある。愛するに時があり、憎むに時がある。戦うに時があり、和するに時がある。体内時計があるお陰で、生物は、時間を瞬間として最適に利用できるのだ。時間を知ることで、私たちの祖先も農耕を始めることができた。農耕には季節を予期できる必要がある。鳥は生まれつき体内に備えた光周期信号によって季節を自動的に知ることができる。だから、ひとは鳥から学んだ。鳥は時間について学習する必要がない。鳥は、聖アウグスティヌスのように「過去が過ぎ去ったものであり、未来はまだ到来しないものであるならば、存在するのものは現在だけである。では現在とはどの程度持続するのか?」という問いに頭を悩ませることはない。現在の私たちは、寸暇を惜しんで過ごしているが、己の内を深く見つめて、時間に対して愚かにならず、賢くなる方向に進んでいるかを見極めなければならないだろう、と指摘している。
2021.01.30
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博多に来るときゃ一人で来たが・・・。会田雄次著「アーロン収容所」で、イギリスの女性将校が、「東洋人は、人間ではないから裸を見せても恥かしくない」というフレーズがある。これに対して、イギリスの貴族と結婚しているマークス寿子は、「会田が、イギリスの階級というものを理解していないからだ・・・もっと上の将校ならば、描かれたようなことは絶対に無い・・・」と奇妙な弁解をしている。日本人のイギリス観というのは、多いのかどうかは知らないが、やはり民族間の相違は大きいだろう。アングロサクソンは、モンゴロイドとはかなり違う系譜だろう。然も、イギリス人は、奇人が多いだけではなく、奇人を好む性癖がある。その極端な奇人が集まっているのがケンブリッジらしい。それは、「孤高」のイメージであり、その「偉さ」の故でも在る。国が衰えて行くときの、坂道を滑り降りる爽快感であり、「滅びの快楽」を貪るような、「みんなで滅べは怖くない・・・」という雰囲気なのだろうか。レイランドをフォードに身売りする時、この国では「アメリカ人がカネを持ってくるから、米語の下品なボキャブラリーを増やしておかなくっちゃ」という類のジョークが飛んだそうだ。「われわれは、現代のアテネになるんだ」「アテネになって、ローマ(米国)に智慧を授けて、食っていけばよいのだ」と。「バラの代わりに庭にトマトを植えれば良い」という精神がある。イギリスは、ドイツのように分かりやすい国ではない。普遍的なプレゼンテーションをしてくれるわけではないから、主体的な自分なりの問題意識をもたないと、いつまでもこの国の実態が見えてこないだろう。イギリスを食べ物や、ガーデニングといった都合の良い楽しいところだけで受け止めるとしたら奇異なことだ。「精神的に平等に開かれている」意味なのだと言う。マークスのことば、「西欧に学べば学ぶほど日本人としてのアイデンティティが強くなるし、日本のものを誇りを持つようになる。日本の国内において日本だけをみていたら、絶対にアイデンティティだの、愛国心だのは育ちませんよ」吉田茂のことば、「日本の指導者たちは、みんな幼稚で、単にどちらが正しいか、正邪の問題ばかりを言う。それをあまりに真正面から議論するから、もう政治ではなくなり、殺し合うかどうかしかなくなってしまう」私が、面白いと思うのは、意外と悪書の中にこそよく真実が見えるということだ。悪でもない政治家は、現にまともな政治家ではないと言うことか。或いは、他人から学んだものは自分の脳で消化しなければモノにならないということか。それこそ、日本人が、一番苦手としている<客観的観察の問題>でもある。
2021.01.29
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ユンググラウ登山列車。中継点 クライネシャイデック駅。ここからユングフラウヨッホの スフインクス展望台へ。「時間」とは、「時」と「時」の間のことだろう。始まりと終わりがある。その時間は、見る視点で色んな時間がある。個人の小さな時間もあれば、個人を集合した時代という大きな時間もある。繊細なひとにとっては、果てしなく繊細な時だろうし、大まかな人にも、それはゆったりとした時の流れの時間だろう。寄せ来る波を見ていると、さまざまな波が押し寄せてくる。それは小波であり、ときには足元を洗う波にもなるし、人間を呑みこむ大津波もあるのだろう。地上に生きる生物も皆海の子孫たちである。 ・限られた時間は有限であり、ある意味生命はひと時の瞬時でしかない。昔こうして波を見ていたことがある。いつだっただろうか。そして人並みに妻子を持ち、いつ終わるとも知れない時間の中に自分がいる。いくつもの生命が、この世に生れ、そして散って行っただろう。私もまたその一片の藻屑でしかない。やがて跡形もなく肉体は滅び、脳も姿を変えていく。それは化学反応の因果律によって起きる1クールの生命現象の一つのプロセスでしかない。 ・へ2・・・自分が感じているものは決して自分だけのものはなく、これまで営々と築き上げてきた種としてのヒトの形質でしかない。自分は決して独りではない。ヒトの姿のプロセスなのだろう。それこそ地上にあふれたヒトの66億人分の1のクールなのだ。奢ることなく、卑下することもない。
2021.01.29
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「宗門人別改帳」をもとにして講座があった。講師はドイツ人で長身の准教授。金髪で小顔に口髭を生やしておられるが威圧感を感じない。これまでも数回講義を聴いている温和な先生だ。日本的に自分の自己紹介をされた。「朝廷と民衆のつながり」をテーマに研究をされている。ドイツで専攻され京大や東大にも行かれたようだ。京都では古文書を探して歩かれたらしい。福岡県からサラリーを貰っているので、公開講座で市民に自分の研究成果を公開したいと言っておられた。学内でも人気のある先生である。 ・去年も同じテーマで講座があったが、私は二度参加しようと思っている。京都の町人の生活を詳細に調べておられる。古地図を使って解説されるのが面白い。教室に自分の集めた史料を並べて観ながら話をされるので、親しみが湧き何でも話しができる感じがする。疑問をそのまま聴くことができる雰囲気を大切にされているようだ。これがドイツ流なのだろうか。隔てのない感じがある。 ・へ2・・・先生の造詣の深さに驚く。「宗門人別改帳」とは、江戸時代にキリスト教を取り締まるために作られた制度であり、それをドイツ人が、日本語の古文書で研究されている。もう私たちのような一般人には読めないものが多いが、ドイツ人が日本人に解説するというのは容易なことではあるまい。それをやってのけられるのだから恐れ入る。日本人のもう忘れてしまった時代の庶民の姿という地味な研究を目指しておられる。高い見識からではないだろうか。私たちにもまだやらねばならないことをすべきことはある。
2021.01.29
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いつも視点の違いを感じている。どこを見るか。どこから見ているか。そして主体が何か。色々と違うことで感想も違ってくる。ヒエラルヒーの社会でステータスでも違う。それは誰にとっての善い社会だろうか。公平である社会は把握し難い。いつも迷わざるを得ない。黒人の大統領にどんな意味があるのか。それが今日的だからだろう。パウエルは有力候補だったが妻は大統領になったら暗殺されると思った。それはその時は客観的見解だったに違いない。だから彼は候補者にならなかったのだ。 ・暗殺されても候補者になるべきだったかも知れない。それは分からない。成ってよい場合もあればその逆もある。誰が大統領になっても同じだろうか。すべてのことが明らかになっているわけではない。オバマ大統領は、ピース・メーカーだろうか。どれだけの仕事をするのだろうか? ・へ2・・・アメリカの時代は終わろうとしているだろうか?それは彼らの行動次第であることは間違いがないし、世界情勢でも変わる要素がある。極めて難しい仕事が待っていることは確かだ。すべては希望的でしかない。現実が待っている。両手を広げている。それが何ものであるかは、これから分かるだろう。冷たい寒気団が上空にまたやってきている。それが覆っている。外は薄暗くなっている。昼から雨か雪になるようだ。部屋の中も冷えてきている。
2021.01.29
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ベルナー・オーバーランド。クライネシャイデック駅。本当と嘘と見分けがつかなくなっている。真実を知ることは簡単ではない。不都合なことが隠されてもいる。政治は嘘を言うものである。沖縄は、そのことを一番知っている。広島も長崎も、その教訓は、ないがしろにされている。厚顔無恥な政府が、国のためだと原爆を落とした国に擦り寄っている。 ・アメリカは一言も原爆を落としたのが間違いだったとは言わない。また同じことを何度でも遣るだろう。北朝鮮でも使うに違いない。窮鼠猫を噛むだろうか。泣くのは誰になるのだろうか。張子の虎に過ぎない安倍内閣だった。どれだけ大震災があろうと何もしない。財界のために走狗になっているだけだ。 ・へ2・・・強い方の味方をするのは利口なやり方かもしれないが、何れは破綻もする。今度は自分も遣られる破目になる。日本の人口は減少し続けるからだ。経済力も半減していく。すべてが落ち目になる。127百万の日本人も、半減してしまう。無駄なことをしてばかりではそのスピードも加速するに違いない。
2021.01.29
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スイス ベルナー・オーバーランド。地球上で、ひとびとは人間同士の争いと厳しい自然と戦って暮らしている。どこも豊かな風土とは限らない。凍土に苦しめられていたヨーロッパや北の人びとが、築き上げてきた知識は、やがて地球を支配するような富を造り上げていったが、それは遅れた国からの搾取によって得られたものでもある。それこそ普遍的な世界史は存在しないが、それでもある程度は分かる。 ・言論の自由もない大国もある。エゴイストの大統領もいる。かれらが核のスイッチを持っている。常任理事国も第二次世界大戦の戦勝国であり、平和主義国ではない。また自分たちのために戦争をしかねない。彼らは勝利しなければならないからであり、そのためなら核兵器も使うだろう。 ・へ2・・・終末時計は、あと2分になった。冷戦の時の米ソの水爆実験が成功した時と同じらしい。の私たちは、これまでの先祖が残してくれたものを台無しにするかもしれない。愚か者たちは、この世に溢れてもいる。自業自得だろうか。未来のある子どもたちの夢を奪いかねないのだ。
2021.01.29
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ヒヨドリ。飢えている人たちが沢山いるのに、必要でもないカネを浪費する人たちもいる。莫大な防衛費が消えているのは何のためか誰も知らない。数千万人の人口で、数百万の兵隊が必要なのだろうか。彼らは何のために生きているのだろうか。巨悪が正義を口にしている。憎しみの連鎖が拡がり、自分たちの首を絞めるだろう。これから死んでいくものにとって一番大事なものは時間だろう。 ・産まれたばかりの赤ん坊も、新婚さんも、恋人たちもいる。彼らは戦争などしたくはない筈だ。軍隊も核兵器も要らない。憲法改正が必要なのは、敗戦した時とか、明治維新があったとか、大変革の後でするものだ。この時代にする理由は何もない。それを正当化しようとする安倍内閣や自民党は、国民の敵ではないだろうか。 ・へ2・・・得てして悪党は、何でもないような顔をして悪事をなすものだ。正当な手続きを踏んでいるというだろう。飴と鞭を使う。2020東京オリンピックも裏があるのかもしれない。東京オリンピックと憲法改正が同時進行して、あとで何が待つだろうか。
2021.01.29
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メジロ。少なくとも身体は化学反応であり、そして意識も化学反応でしかなく脳に支配されてもいる。この世で自由だというものがあるとすれば何なのだろうか。自由があると思うのは殆んどが幻想でしかない。キリスト教では、ひとはひとしく神の奴隷である。奴隷という言葉は、普通に使われている。宗教では、現代でも通用している。心の奴隷が現在している。近代化した筈の世界でも、実質的な奴隷がある。 ・日本では柵ということばがある。捉われてしまえば奴隷のようなものだ。拘束された時間は、奴隷ではないが、拘束された時間だ。それ以外は奴隷ではないとも言えない。差別され、棲み分けされてもいる。身分社会でないとも言えない。 ・へ2・・・花の戦略は劇的に存在価値を高めて生き残ることができた。美しく咲くことで生き残ったのだ。そこで利用価値のあるものが観るからだ。囚われしものの如くあるだろうか。常に心を致しておかないと閉じ込められてしまうだろう。
2021.01.29
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ヒヨドリとメジロ。突然「男女平等」が実現できるわけではない。日本の歴史ではそのスケールから、ゲマインシャフトで終わらなかった。ゲゼルシャフトだ。支配階級と被支配階級が生まれ、その中で男尊女卑も形成された。当然物書きも偏見をもっていた。国家を否定する思想は排斥された。飼い慣らされた論理が封建社会を経て、軍国社会を経由した。「男女平等」も敗戦処理の置き土産でもあった。棚ぼたの日本の女性は、すぐには頭の切り替えができなかった。何せそれまで、偏見の中に育ち、偏見を糧にして生きていた。 ・民主主義を知らないで育った国民が、戸惑ったのは無理はない。それを準備するだけの知識もなかったからだ。然もアメリカの民主主義は、ブルジョワジーの私物化されたものでしかなかった。日本的社会構造に合致するはずはない。それができると思うのは、彼らの勝手な思込みでしかなかった。然し日本人の教育や国民性が勝手気ままな解釈を始めた。仏教や、その他の思想がそうであったように、順応化を始めたのだろう。それは歪な日本的民主主義の中の歪な「男女平等」でしかない。確りとしたプロセスを経ずに、なにが真の「男女平等」かを理解できないでいる。 ・へ2・・・太宰の戦後の女性観や女性論は陳腐だが、それが戦争直後の文化人たちに成立し、若者たちに共感を得ていたとすれば、ショックだが、その後の日本に影のようにへばりついていた。太宰は日本人が育った作家でもある。彼の亜流はいくらでもいるのだろう。
2021.01.29
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メジロ。朝令暮改と会社の方針を嘲笑してばかりいたが、やがて他社に乗っ取られてしまった。もいひとつ竜頭蛇尾もあった気がする。初めはえらく景気の好い話があって、何かに躓くとと忽ちしゅんとなり、やがて「蛇尾」のようになった。確りした準備もせず、市場調査もしないまま他人の尻馬に乗るだけだったからだろう。始めた時には大抵二番煎じになり、競争相手は次のことを考えている。柳の下にいつも泥鰌がいるとは限らない。あの時上手く行ったから、今度も上手くいくとは限らない。すでに拠って立つ状況が違うからだ。 ・皆が同じものを求めるから、物が足りなくなる。成績も一番は一人しかいないが、優秀な人間は一人ではない。テストで点数が取れないからと云って優秀な頭脳でないわけでもない。ただ、1クールを短い時間で走らせて、テープを早く切っただけのことではないか。それで、優劣を決めるのだから、大した教育である。子供たちの家庭環境も年に一度か二度で訪問でわかる筈もないし、どれだけの教師たちに的確な教育ができるのだろうか?日本の教育システムとは、占領軍の政策に半強制され、そして大学では落ちこばれの学生たちが教職課程を取って教師になっていったという戦後の現象もあったくらいだ。その人たちがどうだというのではない。立派な仕事をした人もいるのは確かだろうが、それでも、このこころの荒廃は、どこから来ているだろうか。その責任の一端が教育にあるのもまた事実だろう。 ・へ2・・・敗戦後の混乱から立ち上がろうとして必死にこの国の再建を支えてきたのは事実だし、教育体制に綻びがあったことも認めねばならない。それはあらゆる面で挫折した現実でも明らかな如くだろう。冷戦も終わり、アメリカ一辺倒の政治も転換期を迎えている。これからは誰のせいでもない自分たちの国は自分たちの手で守らなければならないだろうし、国際協調も他国の尻馬に乗るようなことでは済まなくなった。そこで問われるのは責任感のある人間であり、自立心をもって地道に努力するリーダーの育成だろう。
2021.01.29
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ボタン。「そりゃ、綺麗に決まっています」。「冬」がつくから、・・・ですって?」「疑問をもったなんて言わないで下さい」。「ふゆでも綺麗に咲く」。「牡丹ですよ。あの楊貴妃のような、高貴な花です」。「夢中になって、カネに糸目をつけなかったという花です」。「牡丹のような・・・」は最大の褒め言葉です」。「殊にうす紅の牡丹が最高!・・・」「まあ、好き好きですが」。「写真なんて詰まらない。自分の脳が感じたほんものの牡丹と違いますもの」「そんなことを言わないで下さい。ブログに載せられなくなりますから・・・」。 「まあ。60点というところで、我慢してあげましょう」。「生憎光が少なくて・・・」腕も悪い。「それもありますが。大勢のカメラマンたちがいましたから、或いは誰かのブログでも載せているかも知れない。高価そうなカメラで撮っていた人もいましたからね」。「でも、脳には敵わない」。「人間の目も怪しい。牡丹の気持ちにならなければ・・・」 へ2・・・南無阿弥陀仏。
2021.01.29
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2014年だから、もう8年前になる。クルーデングロッジに宿泊したが、人気のホテルらしい。ものすごく寒い日で、しかも夜についたので、周辺を散歩することもできず残念だった。翌朝クルーザーで、女性ドライバーの運転で、周辺を周ったが、よくこんな道路を走れるものだと驚いたのを覚えている。恐らく通行止めで無理だろうと思っていたが、雪の中を決行した。随分西部劇とは違う風景だった。「玉川上水情死行」と云えば、だれの話か、戦後ならだれでも知っていた。60年経過して知っている人も少なくなっただろうか。太宰はそんな男だったが、愛読者が相当いたし、まだ現在も読まれてもいる。作家や学者たちですら評価が大いに分かれている。それでも、当時は偏見に満ちた文壇の権威、著名人たちがいたが、太宰も悪たれ売れっ子であり、彼らの偽善を嫌って不和だったのだという。どうもまともな神経では分からないことばかりだ。初めの自殺の相手は19歳の少女であり、太宰は生き残った。21歳の時だ。 ・人間の生命を何と思っていただろうか。当時の日本人の意識がそうさせたというべきだろう。そして妻が姦通したからと離婚している。太宰はパピナールの中毒者であり、人格破綻者だろう。戦時中に生き生きと文章を書いている。戦後書けなくなった。平時では夢を持てないのだろう。女と一緒でなければ死ねなかった男だ。さて、しかしそういう作家しか、当時日本にはいなかった。そして、現在はどうか。即製インスタントラーメンのような作家と、ファーストフードしか味わうことのできない読者ばかりになってはいないか。 ・へ2・・・いつまでも、忠臣蔵や、信長、秀吉、家康、そして戦国時代や明治維新ばかりではあるまいに、NHKの大河ドラマは同じようなコンセプトで恥ずかしくもなく続けている。最近衆院予算委の質疑を聴いたが、国家の現状の分析や、将来への展望もない政治家たちが政治を動かしていると感じた。何とも寒々しい光景ではある。日本に「変革」はあるのだろうか。
2021.01.29
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メジロとヒヨドリ。庭の写真が撮りやすい場所に柑橘類を置くとすぐ野鳥が見つけてくれる。最初に来たのは、メジロだったが、1時間も経過していなかった。次にヒヨドリがきて、俺のものだと暫く居座っていた。「機械文明の中の人間」というテーマの講座を受講したことがある。恐らく最初の大学の公開講座だった。科学との触れ合いの最初のものだった。機械文明が当然として受け入れていた自分がいた。科学的真実こそこの社会の基本であり、それに反逆することは間違いだと信じてもいた。機械文明に乗って生きて行くことが正しい選択なのだと思い込もうとした。そして、文明とは肯定して生きることでもあるという信条にもなっていただろう。 ・大学に対する崇敬は。大学の自治ということばに裏付けられた高い理想でもある。足元にも及ばない理論の集積だと思っていた。それは、目指すべきメルクマールであり、ランドマークだった。然し、いつまでも同じところを歩いている自分に気付いた時、愕然とする思いがした。私だけなのだろうか?自分の怠惰がそうさせているだろうか。競争に参加しなかった所為だろうか。ずっと悩んでもいた。自分が社会の歯車であり、それを務めなければ生きてはいけないことだけは知っていたから。選択はされたのだ。 ・へ2・・・最近よくクラッシックを聴いているが、何故これを、少年のころにちゃんと聴いていなかったのだろうか、残念でならない。こうして、ブログを書いたり、音楽を自由に聴ける時間もなかったのだ。無理な話である。もう50年以上前のことだ。何と足りないことばかり思うのだろうか。機械文明を肯定して生きてきたが、それが必ずしも人間のためではなかった。私たちが豊かな社会と憧れていたものは、汚れた環境だとは思いもよらないことだった。私たちは騙されていただろうか。否、確かの当時の科学者たちは真剣に機械文明を標榜していたのではないだろうか。やるせない気持ちがする。
2021.01.29
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高野山。 怒涛のように時代は変わりつつある。それを確りとみる目があるか。観ているだけで観察していなければ意味がない。自分に見識がなければならない。オバマ大統領の態度が演説でこれまでとは違っている。違う筈だ。大統領になったからだ。「社会的ステータスがその人の意識を決定する」。がらりと立場が変わっている。少し前にトップシークレットの話をオバマ次期大統領が伝達を受けているというニュースが流れているのを聴いて、恐らく、発言が変化するだろうと感じていた。 ・その立場になれば、「・・・らしく」なるという。大抵そうなる。その座を否定しない限りそうなるのだろう。以前ヨーロッパ・ウォッチャーという人の本を読んだことがある。成程、ヨーロッパ在住してよくあちらの気質を知っていると思ったが、バード・ウォッチャーと同じでしかないと思った。聴いたことをそのままでは観ただけでしかないし、知っただけなのだろう。それでは肥しにならない。 ・へ2・・・どれだけのひとがオバマ大統領の真意を感じているだろうか。何をしようとしているか。何を守り、どこを目指すのだろうか。壊さなければ新しいものができない。オバマ政権の真のウォッチャーといえるひとが、どれだけいるのだろうか。パウエルの存在が気になる。 退職後、しばらく仕事をしてとおもっとぃたが、入院したりで、チャンスを逸した。そうこうするうちにもう15年近くになる。体力も知力もそうr室したらしい。1日3万歩とか、大学の講義を聴いたり、ブログをしたり、時々ツアーもした。これも妻子のお陰らしい。自分ではしたいことをしてきたつもりでいるが、どうなのだろぷか。肝心の仕上げの今、パンデミックで、去年2020年は、ひどい一年だった。お陰で、体調もくるってきたようだ。前途多難がこれからもあるだろう。
2021.01.29
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読書をしているが時々嫌になる。本当は好きではないのではないかと思うこともある。面白い本ばかりならいいが苦しい本もあるし辛くなることもある。というのも自分勝手な事ばかり書いている気がする時がある。いい気になっているのではないだろうかとも。自分がうまくやったから、・・・とか、こうして成功したということが他人の参考になるのだろうか。真摯なハウツーもあるが、それは必要だろうが、どう生きるか、はその人によって違う。それよりもこの社会が豊かな社会に向かっているかを検証すべきではないだろうか。何が間違っているかを修正しないと「あとのまつり」になりかねないではないか。こうしている間に着々と戦争への準備が始まっているのではないだろうか。 ・まだ民主主義が確立されたとは言い難いのではないだろうか。この国も、そして世界も歪な成長を遂げているではないか。それは、でき上ってからでは遅いのだ。大衆の手足が縛られていくのではないだろうか。それは国家や、他人が強制して縛るとは限らない。自分の目に見えない心が縛られていくこともある。自分で自分の手を縛り、何もしなくなることもあるのではないだろうか。気がつけば足はコンクリートで固められている。歩くことのできない人間は人間ではない。動物でもない。植物人間だろう。儚い夢ばかり追いかけている子供たちのように自分の手足を縛っているのではないだろうか。時々そんな気がしてならない。 ・へ2・・・何かに縋ろうとする思いが人間にはあるかも知れない。それは、自分たちの思うようにできなかった太古からの遺伝子がそうさせているかも知れない。現代人ですら、ややもすると自分の手を自分で縛ってしまっている。もう他人のいうことを聴きたくないという。このままでいいという。恋人がどんな目に遭おうと、妻子が殺されようとそれは仕方がないという。「二度とこういう目に遭わないようにしてほしい」と子供を轢かれた親が交通事故に遭ったときいうだけではない。無残に子供を殺された親でさえ言っている。レイプされた娘の親が犯人を殴り殺したという話もとんと聴かない。世の中で何が起こっているのだろうか。分からないことが多過ぎる。自分のしたいことを諦めて、自分の両手を縛り上げているのではないだろうか。それをしているのは他人ではない。自分だということだ。まるで暗示をかけられているのではないだろうか。死んでからでは間に合わない。
2021.01.29
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ユンググラウと氷河。史実から庶民の声を聞き取ることは難しい。一次史料が少ない。紀伝体は司馬遷の「史記」にはじまり大日本史に繋がる。頼山陽の「日本外史」を目指しているが、初めに「日本政記」から読んでみようと思ったのは、芋掘りの極意でもあるが、これは多分に文学部の先生の影響もある。点ではなく線で読めだし、周辺を知らなければ行間は解からない。真実はどこに価値を置くかでもある。そのひとの求めるものがどこにあるかだ。 ・山を登り、階段を上るにもやり方がある。上流社会ばかり見ていては、庶民の声は聴こえない。だからといって無から有を探すことはできない。手間は掛かるが、地道にあるものを読み想像するしかない。それがどこまでできるかだ。近所の香椎宮で仲哀天皇、応仁天皇という字句を何度も見かけたが、それほど関心もなくうち過ごしてきたが、「日本政記」の中にそれが出てきた。 「九年春二月、天皇病み、香椎宮に崩ず、皇后、諸大臣と謀り、秘して喪を発せず、大連をして群臣を率いて行宮を守らしめ、而して武内宿禰をして密かに喪を奉じて豊浦にもがりせしむ。・・・」 文字は庶民のものではなかったから、長い間、無知文盲にされていた。学問の世界を知ったのは明治以後であり、それも一部の者たちの特権のようなものだった。戦後大衆化が進められたが、文字文化は、果して本当に庶民の声を伝えているだろうか?知ろうと思えば知ることのできるという社会は、それだけでも価値がある。然し、それを自分たちのものとするためにはもう一段も二段も上らねばならない。解っているようで解らないでいるのが無知な所以でもあるだろう。国民の声を無視した政治とは、どんな意味があるのだろうか。
2021.01.28
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スイス クライネシャイデック駅。早朝は凛として爽やかである。睡眠によって得られるのは生命力の回復なのであろうか。昨夜の疲労がどこかに消失している。もうこれ以上生きることもできないと困憊していても、朝になると忘れている。然し、何時か眠れぬ夜があり、それは己の肉体との別離となることにもなるのであろうか。たとえそうだとしても、そのことを思うことを念じることもない。その時は、真宗では、 為 証 以 両 手 印 仏教徒ではないが、両手を合わせることは日本人として自然と度々あるだろう。それは、物真似ですることだが何か、自分のこころを謙虚にさせ、相手を敬することであろうと思っているので、抗うつもりはない。自分には理解できないことでも、世の中に尊重しなければならない物事は多くある。 時としてわが身の蒙昧から傲慢とみえることはあるとしても、決して本意ではない。それ程優秀な人間でもないし、他人を蔑んでもいない。勿論人並みに喜怒哀楽はあるが、それは拠って立つこれまでの自分の本拠となる所為であり、所以でもあるからだろう。ひとは一人であるのではない。世間であり、巷の中であるべくしてあるのだろう。残念に思うことは、それ程多くあるがそれを論って仕方がない。あるがままにあるべくしてありつづけるだけだ。「朝に紅顔あるといえども夕べに白骨なれる」も人の世の常の出来事であるだろう。それは、そうだと思っている。 にも拘らず、私は、この社会が正しいことをして来たとは思えないし、なるようになるのだとも思わない。寧ろ、他力本願ではならないのであって、事実を明らかにすべきであり、ひとはそれほど愚かな生物ではない。自分の限界に挑み続けるのを本懐とすると思う。
2021.01.28
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メジロとヒヨドリ。「我々の国家は、暴力と憎悪の広範なネットワークを相手に戦争を行っている。我々の経済は、ひどく弱体化している。一部の者の強欲と無責任の結果であるだけでなく、厳しい決断をすることなく、国家を新しい時代に適合させそこなった我々全員の失敗の結果である。家は失われ、職はなくなり、ビジネスは台無しになった。我々の健康保険制度は金がかかり過ぎる。荒廃している我々の学校はあまりにも多い。さらに、我々のエネルギーの消費のしかたが、我々の敵を強化し、我々の惑星を脅かしているという証拠が、日増しに増え続けている。・・・」 (オバマ大統領演説より)最近想うことは、私たちはいつも「見えない敵」と闘うのだろうと言うことだ。他人には、それは何でもないことでも本人は、モンスターにもなり、天使にもなる。いつも等身大の課題に向かっているとは限らない。生存競争や羨望や嫉妬もある。世の中をふやけた世界だと勘違いしてはならないだろう。厳しい現実があるのだから。自分の敵は、自分自身であったり、世間だったりもする。あらゆるものが襲いかかる敵になる。目を離すとすぐ見失いもする。敵は、他人から創られる仮想だったりもするだろう。自分の身を捨てなければ、これらの敵と向き合うことなどできないのだ。そのことが、やっと判ってきた気がする。敵でもないひとをモンスターだと思ったり、くだらないひとを買い被ったり、チャンスを逃したりしたのだろう。ひととの関わりは、避けられない試練だろう。 ひとは、誰も自分のプログラムを生きねばない宿命だ。故に、生存競争が付いて廻るのだ。ライバルを追放しなければ、好きな相手を得ることができない。其れは、時として略奪になる。相手が本当は好きなのかどうなのかさえ判らないのだ。女性は、恋人が好きなのではなくて、子孫を残し、安全を得たいだけかも知れない。もう少し価値のある人生にしたかったが、こんな体たらくだ。どこが間違いだったのか知っても仕方がない。ことは過去のことでしかない。
2021.01.28
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「何故生きていなければならないか」と問われたら困るだろう。自然科学では、生命は目的をもって生まれていないという。偶然の産物でしかない。それを神が創りたもうたといってきただけだ。その評価は人によって違う。その慣習を今更止められないで苦労している。長い歴史の果てでもある。どうするつもりか誰も知らない。アメリカの大統領でさえ「神のご加護」と言っている。それでもいつまでも神のご加護を待っているわけではない。 ・本音を隠している。そうして、言葉を弄してきた。人々は言葉を信じなくなっている。その場限りのウソをつく。人間の特徴は、ウソをつく動物なのかも知れない。分かったようなウソをついているが、それをぼんやりと皆が知っている。悧巧な人間は上手に話している。「私はウソを言っています」という。「ああ、またか、あの人は解ってうそをついているのだ」と聴いていて理解する、ことのできるのが現代人であり、社会人なのだ。 ・へ2・・・妙な話になった。私がしていることは私の問題で、他人には何の関係もないことだろう。それが個人の存在でもある。社会的な動物だとしても、いつもそうだとは限らない。社会性をもつときだけその行動を問われる。自由であることは、自分の前の自由でしかない。神ではない。脅しや誤魔化しに屈してはならないだけだ。
2021.01.28
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