2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全31件 (31件中 1-31件目)
1
ペルセウス・デジタル・ライブラリ 本の装丁でギリシア語を使うことになるかもしれないということで今度の本の中で何度も引いた(キーフレーズというべきか)プラトンの『クリトン』の原文をコピーして出版社に送った。古代ギリシア語のフォントがあればいいので、実はもう長らく棚上げにしていた課題に取り組むことにした。今日のところはまだフォントをダウンロードするところまでは進まなかったが、1984年に初めてマックを使い始めた頃にも古代ギリシア語のフォントを使っていたのでそれほどむずかしいことではないはずである。 僕が寄り道して今日ようやくできたのは、Perseus Digital Libraryに保存されているギリシアの文献をギリシア語で表示させることである。こんなことはすぐにできるだろうと思っていたのに、思いがけずつまづいてしまい長らくほうっておいたのだが、ここはギリシア、ラテン語の文献の宝庫であり、ギリシア語の研究には欠かせないギリシア語の辞典も入っている。フォントをインストールしなくても、unicode greekを使えば表示はできることはわかっていたが、今回、Mac(僕はiBookを使っている)、OS X、Safariという組み合わせで成功した。Internet Explorerでは表示できない。青空の中の星 もう一つ今日驚いたことがあった(僕にとっては、ということだが)。『心を生みだす脳のシステム』(茂木健一郎、NHKブックス)という本を読み始めたら、まえがきのところに柳田国男の『故郷七十年』という本からの引用があった。僕は前にこの本を読んだのに誰の何という本かもわからないでいた。今回、読んで、見事に僕の記憶が歪められていたことがわかった。わりと最近も古井戸を見た時(蓋がしてあって中を覗くこことはできなかった)、思い出していた。僕の記憶では、深い井戸を覗くと昼までもそこに星が映るということだったのが… 柳田によるとある家にその家の先代のおばあさんを祀った石の祠があった。十四歳の柳田はこの石の祠の中がどうなっているかあけてみたくてしかたなかった。春のある日、恐る恐る誰もいない時を見計らって開けてみた。すると中には一握りくらいの大きさの、きれいな蝋石の珠が一つ納まっていた。亡くなったおばあさんが中風で寝てからその珠をしょっちゅう撫でまわしていたので、おばあさんを記念するにはこの珠が一番いいということで孫にあたる人が祠の中に収めたのである。以下、柳田の美しい日本語をまとめるのは惜しいのでそのまま引用する。「その美しい珠をそうっと覗いたとき、フーッと興奮してしまって、なんともいえない妙な気持ちになって、どうしてそうしたのか今でもわからないが、私はしゃがんだまま、よく晴れた青い空を見上げたのだった。するとお星様が見えるのだ。今も鮮やかに覚えているが、じつに澄み切った青い空で、そこに確かに数十の星を見たのである。昼間見えないはずだがと思って、子供心にいろいろ考えてみた。そのころ少しばかり天文の事を知っていたので、今ごろ見えるとしたら自分らの知っている星じゃないんだから、別に探し回る必要はないという心持を取り戻した。 今考えてみても、あれは確かに異常心理だったと思う。誰もいないところで、御幣か鏡が入っているのだろうと思ってあけたところ、そんなきれいな珠があったので、非常に強く感動したものらしい。そんなぼんやりした気分になっているその時に、突然高い空でヒヨドリがピーッと鳴いて通った。そしたらその表紙に身がギュッと引きしまって、初めて人心地がついたのだった。あのときにヒヨドリが鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたのではないかと思うのである。」 僕の記憶とは違ったが、ずっと気にかかっていたので心のつかえが取れたかのようである。「あのときにヒヨドリが鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたのではないかと思うのである」というあたり、思い当たることがあって、なかなか怖い。子どもを罰しないということ アドラーは罰したり叱ったりすることを否定し、また子どもに恥をかかせたり、面目を、面目を失わせたりすることで行動を改善するよう影響を及ぼすことができるとは決しては信じてはならない、罰すること、説教することでは何も得ることはできない、といっている(『個人心理学講義』p.81、岸見『アドラー心理学入門』p.58)。 本当に小さな子どもであれば、自分の行動が不適切であることを知っている。知らないのであれば教える必要はあるだろうが、知っている人に思い知らせるつもりで罰を加えても行動の改善は期待できないどころか、いよいよ悪化することは考え得る。 また、罰したり叱ったり批判すれば、関係が悪くなる。子どもを援助しなければならない場面は出てくるだろうが、関係が遠ければ子どもを援助することはできないし、助言をしようにも、聞き入れてはくれないことになる。 第三に、罰の効果は一時的であり、罰する人がいなければ不適切な行動は続く。不適切な行動をしないまでも、積極的に適切な行動をするようにはならないだろう。子どもたちが大人の顔色をうかがうというのは問題だと思う。よく僕を講演に招いてくれる人がある幼稚園に講演のチラシを持っていった。ところが、うちではこれを貼るわけにはいかない、と断られた。その幼稚園では保育士が全員竹刀を持って保育している。親はそういう方針の園であることを知って入園させているのだから親から文句をつけられることはないだろう。きっと子どもたちは保育士に従順に従うだろう(従わないわけにいかないというべきか)。しかしこんな環境で育った子どもたちが小学校に上がった時、何が起こるか目に見えるようである。 ではこのような方法に代わる教育、育児の方法はあるかといえばもちろんある(数行では書けないが)。
2003年10月31日
コメント(14)
本の方はいよいよ出版に向けて始動。原稿を書き終えてからもたくさんすることがある。本の装丁もこんなふうなのにしてほしいという希望を伝えた。一週間くらいするとサンプルができるとのこと。僕の仕事のうち最初の二冊の翻訳はシリーズ物だったので色が変わっただけ、『アドラー心理学入門』は新書のシリーズの一冊だったので、題字と著者名意外は基本的に他のとデザインは一緒だった。『人はなぜ神経症になるのか』は単行本でデザインもこの本のためにしてもらった。非常に気に入っている。さて、今度の書き下ろし本はどうなるか。楽しみでもあり、不安でもある。 あとがきも書かないといけない。字数がどれくらいになるかは明日中に判明の予定。僕の本の買い方としてあとがきを最初に読んで買うか買わないか決めることがあるので(あとがきを本文より先に読んでいけないという理由はない)、気合い入れて書かねばと思うと傑作意識が働いてきっと書けなくなるだろうから、何か月か前に書いたあとがき用覚え書きを見てさっと書いてしまった方がいいのだろう。 僕が書いたものなのに書いた途端、僕の手元を離れてしまったような気がしてさびしい気がしている。今は僕の手元にはゲラもない。何もない。ワープロ原稿はもちろんあるが校正の段階で手を入れたのでこれとはもう別のものなのである。さてどんな姿で再び僕の前に現れるだろう。 二十歳の男性が同居していた女性の娘の頭を手でつかんで突き飛ばし、この女の子とは頭を強く打って重体になっているという。「部屋を散らかしたり、うるさかったりしたのでやった」と男性は容疑を認めている。体罰であれ折檻であれ虐待であれ、僕がそれらに反対する理由の一つは、子どもが親と同じことをするということである。想像するに、この男性の親は、この男性が子どもの頃、うるさくしていた時、力を使って黙らせようとしたのではないか。子どもが生まれてすぐにわかった。子どもが夜泣きして泣きやまない時どうしたらいいのか、うるさくした時どうしたらいいのかわからないのである。その時、おぼろげながらかつて自分の親が自分にしてきたことを思い出した。僕は父に一度(だけだと思う)殴られたことがあるが(父は覚えていないと思う)、それは例外だった。普段の親は二人とも穏やかだった。いうことをきかない子どもを前にして途方に暮れた時、親が力でその場の問題をおさめていたとしたら、そのような対応の仕方がモデルになっていたであろう。 何が困るかといって、と学校の先生に話を聞いたことがある、子どもが真似をするのです、と。十年前も生徒同士が喧嘩をすることはあった、でも、今は小学校一年生の生徒が喧嘩をする時に椅子をふりかざすことがあるらしい。子どもたちに力ではなく言葉で問題を解決するようになってほしいし、大人はそのためのモデルになりたい。
2003年10月30日
コメント(18)
午前中、カウンセリング。昼から夕方まで起き上がれなかった。過集中で仕事をするが時々こんなふうにしてエネルギーを補わないといけなくなったのかもしれない。奇妙な夢ばかり。フェイスペインティングを無理矢理。落ちないじゃない、と抗議したが、大丈夫、といわれる夢とかいろいろ。 体罰について昨日、書いたが、学校教育法では体罰は禁止されているが懲罰を加えることはできるとされている。どこがどう違うかはむずかしい問題で、これに折檻、虐待という言葉が加わってくるとその言葉を使う人によって指している意味内容は違ってくるので議論することも容易なことではない。『通販生活』の「国民投票」は、質問事項を<就学前>と<就学後>の二つの時期に分け、それぞれに、1.どんな体罰にも反対。2.軽い体罰は必要。3.体罰は必要。4.その他。という四択の項目を設けて体罰の是非を問ういている。就学前、就学後のどちらも6割以上の読者が「軽い体罰」を含む体罰を容認しているという結果が出ている。これを受けて、「文部科学省のみなさん、この結果をどう思います?」と書いてあると、これだけの「国民」が体罰を指示しているのだから学校教育法を変えてもいいのではないか、といわんばかりで驚いてしまう。 言葉が通じない子どもには「軽い」体罰が必要、言葉でいってきかない子どもには体罰が必要、と子どもにとっては受難の時代である。僕が書いた『アドラー心理学入門』の第2章は、ある校長先生の「いまどきの中学生は力で押さえつけるか、おだてるしかない」という言葉への反論を軸に書いた。初めから大人と子どもの対人関係の構えが縦なのである。いわれなき子どもへの差別を問題にしていかなければならない。息子の担任だった保育士さんの言葉を思い出す。「先輩からもっと子どもを叱れといわれているのですが、私は子どもを叱ることができないのです」。僕は子どもを叱ることと、厳しくするということは全然違うという話をしたら驚かれた(実際、アドラー心理学の育児は相当厳しい)。一年後には子どもたちに絶大な人気を博する保育士になった。学年が変わると担任が変わった。息子のことで困っているといわれるようになった。「朝、私に抱きつきにこないのですよ」「そうなんですか」(嫌われているんでしょうね、とはいえない)「家庭でたっぷり愛情を受けてられるお子さんは私に抱きついてきます」返す言葉がなかった。
2003年10月29日
コメント(25)
今日は朝から3コマ講義のある日。夕方、疲れ果てて帰ろうとしたら呼び止められて、来週は午前中の教育心理学は休みだといわれた。最終講義が一週間先に延びたわけである。午後の最後の講義の後に学生が一週間の講義で楽しみなのはこれだけやわ、といっているのを聞いてしまった。(僕の講義であるかはともかく)こんな内容の講義を僕が二十歳代の頃、聞いていたらとんでもないことになっていただろうと思う。 昼食を食べられなくて、夕方京都駅で食事をした。高校の時の倫理社会の先生が種智院大学で哲学の講義をした後、ひどく消耗するので「大丸で」(ローカルな話だ)かつおのたたきを食べて帰ると話していたのを思い出した。僕が土曜日の放課後(だったと思う)先生の個人授業を受けていた時に使ったテキストは、先生が大学で使っていたプリントだった。マルクスの『経済学批判』の序文を先生と一緒に読んだのだが、プリントには日本語の他にドイツ語の原文も書いてあった。「ドイツ語も読んでもらえますか?」とおそるおそる頼んだら、「では後について読みなさい」とドイツ語の方も教えてもらった。そんな勉強をしていることを知った担任の宗教の先生がある日僕に(マルクスのテキストに出てくる)「「規定する」というのはドイツ語で何というんだったかな?」と突然たずねた。少し驚いたのだがbestimmenです、といったら、ふむ、とまた何かを考え続けた。今はこんなことは僕の卒業した高校ではありえないことなのだろう。そう、かつおのたたきの話からそれてしまった。僕は、生醤油うどんというのを食べたくなったのである。季節柄冷たいうどんはないかと思っていたらあって、自分でもおかしいのだが幸福感に包まれた。単純。 『通販生活』2003年秋号に「「体罰」時には必要か? いや、絶対にやめるべきか。」という特集があり、読者がアンケート調査の結果(「国民投票」は大げさだろう)が冬号に掲載されている。秋号には六人の人(小山内美江子、亀井静香、長谷川三千子、山口良治、松房正浩、藤井誠二)が体罰について自説を述べている。お話にならない体罰容認論が多い中、個人的には藤井氏のが比較的まったとうだと思った。「体罰を肯定する人は、自分の子どもが亡くなっても、「先生、ありがとうございました」と、子どもの亡骸を受け取れるのでしょうか」と問う。体罰で殺された女子高生のこと、部活のシゴキでバレーボールをぶつけられ植物人間になった生徒の話などを引き、どんな体罰も死を招く暴力になる可能性が常にあるという指摘は正当だと思う。 ただし藤井氏が、2、3歳の子どもの手を叩いて注意することまでは否定しない、というところは一貫性がなく徹底していないと思う。僕は子どもを一度も叩くことなくこれまできている。まったく叩く必要などなかった。トラウマということがしきりに取り沙汰され、事件や災害があると心のケアということがいわれるのに、今日教師による体罰によって子どもが受けるかもしれないトラウマのことは問題にされないのは解せない。力によらない教育、育児の方法論を具体的に持っているアドラー心理学の考え方を子どもが幼い頃に知ってよかったと思う。
2003年10月28日
コメント(19)
朝方まで寝るのが惜しいような気がして、久しぶりにゆっくりした気持ちで本を読んだりして過ごした。長い夢を見たがそんなにいやな夢ではなかった。校正を終えたがまだこれからである。それでもそろそろ大詰め、先が見えてきたのでうれしいという尾崎さんの言葉はうれしい。まだまだ煩瑣な作業が残っているのだが。 中曽根氏は総選挙には出馬しないという。アドラーが1930年に出版した『子どもの教育』(一光社、岸見一郎訳)には、こんなふうに書いてある。「六十、七十、あるいは、八十歳の人にすら仕事をやめりょうに勧めてはいけません。仕事を続ける方が、人生の計画の全体を変えるより容易なのです。しかし、誤った社会的な習慣があるので、老人はまだ働き盛りであるのに解雇されてしまいます。続けて自己を表現する機会を老人たちに与えません」(p.179)。 その結果、何が起こるか。この世で自分が価値があるということを証明しなければならない。アドラーは別の個所で、何かを証明しないといけないと感じる時は、いつでも行きすぎる傾向がある、といっている(p.192)。祖父母が自分がこの世で価値があることを証明しようとすることについては、これは証明するべきことではない、といっている。 証明しようとするとどうなるか。孫の教育を妨げる。ひどく甘やかすのである。「これは老人たちがまだ子どもの育て方を知っていることを証明するための方法ですが、大きな害をもたらすのです」(p.180)。 実際には親もさることながら祖父母も子どもの育て方を知っているとは思わない。僕の講演に孫との関わり方について学びたいと思って、とこられる方があるが、そんな人は少ないだろう。「老人はいわば(社会の)隅へと追いやられたように感じます。これは痛ましいことです。老人は働き努力する機会をもっと多く持てば、より多くのことをなしとげ、ずっと幸福になることができるからです」(p.179)。 今日、仕事の機会を奪われる人は低年齢化しているように見える。仕事の有無は別としても自分の価値を認められないのは辛い。アドラーはこの世で価値があることを証明しようとするべきことではない、といっている。価値あることを証明するために価値あることをしようとするのは間違っているわけである。
2003年10月27日
コメント(10)
校正を夕方、宅急便で送る。手元に校正刷がなくなってしまい寂しい気がする。「神々に愛される者は若死にする」といったのはギリシア新喜劇の作者、メナンドロスである。この言葉を僕は高校生の時に知った。今、手元にないのだが(そんな本が多すぎる)村川賢太郎の書いたギリシア史の本の中に、クレタ文字の線文字Bの解読したヴェントリスについての記述の中に引かれていた。建築家であったヴェントリスは線文字Bがギリシア語を表記したものであることを発見し、研究成果を論文にまとめ、解読の正しさは専門家に確認され学会でも認められたが、34歳の時に交通事故で亡くなっている。このヴェントリスの業績を讚えて村川はメナンドロスの言葉を引いていたのである。オーストリア人の親を持つアメリカ人の精神科医であるベラン・ウルフはアドラーの著作の翻訳を編集の仕事を手がけ、アドラーの後継者になっていたかもしれないが、患者をスイスのサナトリウムに搬送していた時、自転車を避けようとしてコントロールを失い、道を外れ木に激突として亡くなった。35歳だった。 もちろん、長く生きた人が神に愛されてはいないとは思わない。 宮沢賢治の詩を読んでいた。「これからの本当の勉強はねえテニスをしながら商売の先生から義理で教はることでないんだきみのやうにさ吹雪やわづかの仕事のひまで泣きながらからだに刻んで行く勉強がまもなくぐんぐん強い芽を噴いてどこまでのびるかわからないそれがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ」([あすこの田はねえ]『春と修羅 第三集』)
2003年10月26日
コメント(20)
阿児町で午前、午後と二回講演をした。遠いことだけが唯一難点でこれからの季節だと夜が明けてないこともある。それでも熱心に聴講してもらえるのでありがたい。リピーターの方も多い。 帰りの電車の中で三時間校正の仕事。ちょっと無理をしたかもしれない。まだ電車に乗っているような感じである。酔ったのかも。かなりできたが、でもまだ編集の尾崎さんのむずかしいリクエストには答え切れていない。何度も自分ではチェックしているのに、意味を補って読んでしまうのか、一読して文意の通じないところがたくさんあるのに気がつき愕然とする。「わからない」と指摘されているところはたしかにわからない。 若い医師と話す機会があった。自分が担当する患者さんが亡くなるのが辛い、よくなって退院してほしい、と。でもどの人も私のことを慕ってくれるという。「きっと患者さん達にとって先生は唯一の頼みの綱だから」「私にとっても患者さんはただ一人の人です」(昨日の日記では長寿の人の話を書いたばかりなのだが)「ギリシア人が、神が愛した人は若死にするといっています」「フリッツ・ヴンダーリッヒって知ってます?」「いえ、知らない」「ヴンダーリッヒは”不世出のテノール”と呼ばれたけれど、わずか三十五歳で階段から転落して死んだ。モーツァルトと同じ三十五歳でね」「そんなに若く…」「どうも私は情が深すぎるのです。いい人ばかりが亡くなっていく…」 若くても、長寿を全うしてもいずれの人生も完成したものであるという話を今度の本で書いてみた。そうあってほしいという願いがあるのかもしれない。
2003年10月25日
コメント(9)
9時に校正刷が届く。ドアホンが外れていたようで電話がかかってきた。午前中に届くのを知っていたのと11時からカウンセリングがあるので、その時間には起きていたのだが、電話をかけてもらわなかったら受け取るのが遅くなっていただろう。月曜に送り返さなければならず、しかも明日は鵜方で一日講演があるので、いつになく忙しい週末になりそうだ。 この頃、よく思うこと。人生を知る深さという言葉が適切ならば、人生を知るレベルが深ければ深いほど喜びも増すとともに悲しみ、苦しみも増すのかもしれない。ラテン語の練習問題の中に、誰も死ぬ前は幸せではないという言葉があって、初めて僕がラテン語の手ほどきを受けた岩倉具実先生はこの意味がわかるか、とたずねた。要領を得ない学生の答えを聞いて先生は悲しそうな表情を浮かべて首を振った。「人間長く生きていると最愛の人とも別れないといけないこともあるということだ」その説明を聞いても実感はなかった。人を愛することすら知らなかったのだから。ソロンはいう。「人間は長い間にはいろいろいろと見たくないものでも見なければならず、遭いたくないことにも遭わなければならない」長い、長くないは関係ないかもしれない。若くても人生を深く知ることができた人は、そんなことも見ないわけにはいかないのかもしれない。 ちょうど先週、学会に行っている間に高校の同窓会があった。僕たちが学んでいた校舎が今度取り壊されることになったのでもう一度最後に見ようという趣旨の案内が届いていたが僕は行くことができなかった。その時、こられた僕たちが在校時は副校長だった三浦俊良先生から手紙が届いた。今、「九十歳十か月の老生」と自称する先生は、その日参加した同級生十八人の現況についての話を聞き、「釈尊のお悟りのおことば”人生は苦なり”がしみじみ心にひびきます」と書いてられる。一体、皆はどんな話をしたのだろう。数年前に高校で講演をした時に少しだけだが先生と言葉を交わしたことを懐かしく思い出した。
2003年10月24日
コメント(6)
目が覚める前に夢。足に注射を二本打たれる。鍼だったら痛くないのに、と思っている。夢の中は痛みは感じられなかった。やがて足が痺れ始めた。この感覚はリアルだった。この感覚を引きずりながら午前中、鍼。少しもとに戻った、といわれ失望。この頃、努めて夜に寝るようにしていたのだが。背中に鍼をうってもらっている時に初めて意識が飛んだ。見えないけれども全神経を集中してどこに何本鍼がうたれたかいつも意識していたというのに。 中務哲郎『饗宴のはじまり 西洋古典の世界から』(岩波書店)。国立大学法人化への批判があとがきに。実利から遠いことでは文学部が一番である。「その文学部の中でも、サンスクリット文学や西洋古典文学は最も世事に疎く、学問における絶滅危惧種に喩えられることもある。しかし私は(中略)どの学問分野もアプローチこそ違え、目指すところは同じだと素朴に信じているので(中略)、どこかが滅びるのはすべてが絶えることの前触れだと考えている」(pp.246-7)。「スコットランドのアバディーン大学では、八〇年代初めから古典語講座が廃止の方向に向かい、三人の教授のうち、一人は他大学へ移り、一人は引退し、一人は自殺したと聞く」(p.168)。僕が勤務していた大学ではギリシア語の講座がなくなり、僕は職を失った。他人事とは思えない。 来日中の癌疫学のリチャード・ドール氏は90歳。「健康の最大のこつは仕事を楽しむこと」というドール氏は、多忙なスケジュールをこなす。中曽根氏が引退を要請されたことに「政治的なテロ」だと強く反発していることを思った。中曽根氏は85歳。「全国の老人が反感を持つ」のだそうだ。
2003年10月23日
コメント(16)
三重県の明和町立曙保育園での公開保育で講演。公開保育の研究主題は「自分が大切にされていると感じ、周りの人も大切にする子ども」というもので、それにあわせた形で講演のテーマは「子どもの自尊心をはぐくむ保育」にした。二年前にこの町で講演したことがあり、参加者の半数がこの時の講演を聴いたことがあると聞き、急遽話の内容を変えることにした。子どもを尊敬し、信頼するとはどういうことかということから始め、子どもとのよい関係の中から子どもが自分を受け入れ自信を持てるようにする援助をする関わり方について話してみた。 柳澤桂子『生命の秘密』(岩波書店)。周期性嘔吐症候群という脳幹の病気になり、長く病床にあったがよくなられたようでよかった。三十年診断がつかず、心因性であるといわれ続けたという話は別の著書でも読んだが、安直に使ってはいけない言葉だと思った。病床にあってたくさんの本を読み、書く意欲に驚く。 柳澤の引くソルジェニツィンの言葉が注意を引いた。肉体が力の回復を要求するのに負けず劣らず、精神は沈黙の底深く沈むことを要求する。「内面の状態は、いわば清めることを、透明化を要求していた。そして今、こんなふうに身体を動かさず、押し黙って、心に浮ぶもろもろのことを考えるともなく考えていると、心はおのずから清められ、充実してくるのだった」(『ガン病棟』p.52に引用)。 病気のため、もはや休職の期間を延ばすことができず、勤務先の研究所から解雇の電話を受けた晩、不思議なことが起こったという(pp.46-7)。悲しくて眠ることもできなかったが、食べることも飲むこともできず床に入って『人間の生きがいとは何か』(橋本凝胤、講談社現代新書)を読んでいた。ゆっくり読んでいるうちに夜が明け始め、障子がほのかに白くなってきた。「その瞬間、私は炎に包まれて、ふわりと柔らかい毛布のようなものに抱きかかえられ、「もう何も心配しないでよいのだ」ということがわかり、たいへん安らかな気持ちになった。そして、私の目の前に、まっすぐな一本の道が見えた。私はこの道を進めばいいのだということが自ずからわかった」 こんな道は僕には三十代の半ばになっても見つからなかった。
2003年10月22日
コメント(7)
明治東洋医学院の出講日。午前中の講義を終えた後、次の講義まで二時間あいているのが、今日は疲れていてソファにすわると(横になったのではない)あっという間に深い眠りについてしまった。食事に行く時間はなくなったが、おかげで昼からの2コマ続きの講義は充電できた状態でのぞむことができた。 ちょうど目が覚めた頃に(と思ったのだが何度も部屋にこられてたのかもしれない)再試験の答案が持ってこられ時間がある時に採点をしてほしい、といわれた。選択問題で二問答えるようにしてあり、四人分の答案だったので、すぐに読むことにした。僕の教えている科目はともかくこれから(一年生)たくさんのことを学んでいかないといけないはずなのにひょっとしたら勉強の方法を知らないのではないか、と思える答案があり、評価をどうしたものかずいぶん迷った。昼からの講義で話した「課題」という言葉を使うならば、誰も代わりに勉強してくれるはずもないのに(本人の課題だから)他の人が代わりに勉強してくれるのではないか、もっといえば自分の人生の代わりを生きてくれるのではないか(他人事)と思っているとしたら大きな間違いなので、成績のことはともかく一度話をしてみたいと思った。もちろんそんなことは非常勤講師ができることではないのだが。 2コマ続きの講義には間に10分の休憩があるのだが5階から1階の控え室まで降りてまた上がるだけの時間はない。自動販売機で何を買おうかと迷っていたら「どれがいいか分析をしているのですか?」と学生に声をかけられた。別の学生はアドラー心理学に興味を持った、ともう5冊アドラー関係の本を読んだという。まだ今日が3回目の講義だったので大いに驚いた。アドラー心理学会に入会したいが僕に推薦者(入会時に必要)になってもらえないないか、とのことでもちろん受諾した。 学会で講演をされた中川晶先生の『診療内科医のメルヘン・セラピー』(講談社)を少し読んでみた。第9話「変なネコ」を読み、高校の時の宗教の時間のことを思い出した。この話の中に源信の『往生要集』に書いてある衆合地獄が引いてあって(pp.147-8)、そういえば宗教の時間に『往生要集』を読んだことを思い出したのである。僕はおもしろかったのだが今でもこの高校ではこんなことを教える先生がいるのだろうか。先生の影響で仏教関係の本を図書館で借りて読んだりしたが、仏教の方には進まなかった。『メルヘン・セラピー』にこんな話が続く。地蔵菩薩がつぶやく。「あたしだって仏陀(悟りし者)になる資格があるのに、あえて仏陀になる手前でとどまって、こうやって困っている人の助けをしているだけど……。こういうのを菩薩というのよ。そう、ちょっと変わり者よね」(p.151)。先生はいつも菩薩になれ、といってたのを思い出す。「変わり者」ねえ。たしかにそうかもしれない。仏陀になる資格があるとは思えないけれど、その時先生にいわれたような生き方を少しでも生きられているとしたらいいのだが。僕としては思いかげず高校の時学んだことが影響を与えていることに気づき驚いてしまう。
2003年10月21日
コメント(7)
昼から三人カウンセリング。遠方からこられる。もう何年も前の僕の講演を聴いたという人からの紹介であることを聞き驚く。 学会の帰り立ち寄った本屋で女の子の泣き声が響き渡った。皆が足を止めて振り返った。「おかあさんがいなくなったんですっ」と泣きながらもしっかりした口調で訴える。しばらくして迷子のアナウンスで彼女が三歳であることを知り驚いた。もちろん自分の名前もいえるわけだからほどなく親と再会できただろう。息子が二歳の時に保育園からいなくなって家に向かって歩いていたところを保護されたことを思い出した。あの一件は僕に大きな影響を与えた。子どものことを何も知らないことに気づいたのだから。 フジ子・ヘミングのCD(La Campanella)を聴く。先入見なしに聴かなくては、と思う間もないくらいすぐに演奏に引きこまれた。作詞家の松本隆がフジ子・ヘミングの生涯についてこんなふうに書いている。「人間に与えられる幸運の総量は決まっているという。彼女は晩年になってはじめて、頭上の雨雲の切れ間にさした光に包まれている」。僕は違うと思う。総量は決まっているわけではないし、晩年になってえ初めて幸運に恵まれたというのも違うと思う。苦難に充ちた人生であることはたしかにそのとおりだろうが。幸運の総量が決まっているにしてはあまりに早く死ぬ人がいる、もっともっと長く生きたかったであろう若い人の死の知らせは悲しい。僕が好きなアドラーの言葉を引く。「勇気があり、自信があり、リラックスしている人だけが、人生の有利な面からだけではなく、困難からも益を受けることができます。そのような人は、決して恐れたりはしません。困難があることは知っていますが、それを克服できることも知っており、すべて例外なく対人関係の問題である人生のあらゆる問題に対して準備ができているからです」(『個人心理学講義』p.26) 学会の最終日に野田先生が、デカルト・ニュートンパラダイムの破綻について話された。プラトニストでもある僕は今度の本でもこの問題に触れている。この物理学的パラダイムにおいては宇宙は機械仕掛けであるが、そこでは「物」ではないところの生命、心、目的、価値はすべて排除される。価値から自由な、没価値的、あるいは、価値中立的世界観に立つ。価値は原理上欠落しているのでいわば何でもありということになってしまう。医療倫理が問題になってくるのは、価値の欠落が問題の根底にあって、欠落したものを物の世界とは別にとってつけたみたいにくっつけて二元論にしてみたところでいよいよ世界は暴走してしまう。まったく異なったパラダイムの構築が必要であり(ギブソンには思いもよらぬことだろうが)そのためにプラトン哲学は有用な世界観を提供している、と考えている。
2003年10月20日
コメント(32)
学会は昼で終わった。帰り、寄り道をしながら帰ると遅くなってしまった。いつも学会の後は勉強したくなる。こんな時には本屋に寄るものではない。ただでなくとも行きは力がみなぎっているので少しくらい重くても平気な鞄が帰りは力が抜けてしまうのか倍くらいの重さに感じられるというのに、新しい本が加わると大変なことになる。 午前中のシンポジウムが休憩を挟んで最後のセッションに入った頃に会場に入ってきた人があった。これから二十年後の学会の展望について話が壇上のシンポジストたちによって行われていた。シンポジストの席の横に一人分のすわるスペースがあって話したい人はそこにすわって話していいことになっていた。ちょうど話は若い人がどんなふうに学んでいくかという話になっていた。会場には若い人がそれほど多くはないように見えたのか、司会者は(シンポジストの一人だったかもしれない)「二十歳代の人はいますか?」とたずねた。 すると今し方遅れて入ってきた人が手を挙げた。壇上に上がってくるように求められ、さてどうされるかと思っていたら臆することなくシンポジストの席にすわって、アドラー心理学にどんなきっかけで興味を持ったか、アドラー心理学についてどう思うか、アドラー心理学が広く知られるようになるためには私ができることなら何でもする、と発言された。初めての参加なのにこんなふうに発言できる若い人がいることを頼もしいと思った。 ふと息子のことを思った。きっと彼も同じ状況だとこんなふうにするだろう、と。もっとも、発言された人は母親の影響でアドラー心理学の本を読んだということだったが、彼の場合は、僕の本は読んでない。 学会が終わってからこの人の発言と似たメッセージが掲示板に前に書かれたことがあったのでひょっとしたらその人ではないか、と思ったので話しかけた。さっきは遠目で見たのでわからなかったのだが、話しかけた途端にその人が僕の基礎講座に出た人で、その時どんな話をしたか全部を思い出した。その時と雰囲気がずいぶん変わっていた。ここには書けないがその時相談にのった問題がいい方向で解決していてよかった。 僕が訳したアドラーの『個人心理学講義』には巻末に詳細な索引がついているので、「ハンディキャップ」という見出し語で引くとこんなふうに書いてある。「子どもが劣等器官を持って生まれてきた場合、重要なのは心理学的な状況です。このような子どもたちは、他の子どもよりも困難な状況に置かれているので、誇張された形で劣等感を示します」(p.24)。問題なのは劣等性ではなく、主観的に認知されている劣等性、即ち、劣等感(inferiority feeling)である。このように生まれてきたからといって必ず劣等感を持つとは限らないわけである。「そのような子どもは、原型(=ライフスタイル)が形成されている時に、既に他の人よりも自分自身により関心を持っています。そして長じても、自分自身に関心を持ち続ける傾向があります」(ibid.)。いうまでもなく、障害の有無にかかわらず自分のことにしか関心を持てない人は多い。アドラーは自分のことだけではなく、他の人にも関心があれば、人生の諸問題を満足のいく仕方で解決できる、と多くの個所でいっている(p.67など)(この項続く) 昨日書いた小学校の時の同級生は、その後結婚した。若い頃は結婚はするまい、といっていた。子どもが泣いても聞こえないから、というのが主な理由だった。アドラーは子どもが大きくなると親が聴覚が不自由であれば、怒る時も声を出さないで怒ると書いている。子どもの方も親の状況を理解できる。僕がもう会うことがなくなってからふっきれたのかもしれない。
2003年10月19日
コメント(11)
アドラー心理学会二日目。一時くらいには眠ってしまったようだ。その時間に着信したメールを夜中に読んだが、またすぐに眠ってしまった。 午前中、分科会、昼から講演とシンポジウム。inputされた情報が膨大なので心の中に定着するには(あるいは排除するには)しばらく時間がかかりそうである。 フジ子・ヘミングの生涯を描いたドラマを見て、小学校の時の同級生のことを思い出した。突然聴覚を失った彼女はしばらく今でいう不登校の状態になった。卒業文集の原稿をもらいにいったことを覚えている。立ち直りは早かった。その後会う時は彼女は話せるので僕が紙にメッセージを書いた。今だったらノートパソコンを使って会話することができるだろうが。毎年河原で打ち上げられる夏の花火の聞こえ具合で今年は少しよくなったと喜んでいたのを思い出す。音楽が好きだった。「どうやって聴くの?」と思わず聴いてしまった。「振動で感じることができるのよ。聞こえなくなる前にたくさんベートーベンの曲を聴いておいてよかった」。ベートーベンは第九交響曲の初演の際、曲が終わっているのにも気がつかず指揮棒を振り続けていた。頭の中に音楽が響いていたのだろう。 書くことについて考えていた。 ソクラテスは生涯著作を一冊も残さなかった。プラトンは著作を残した。その著作は奇跡的にすべてが残された。しかしその著作は、ソクラテスを主人公にすえた対話篇だった(もっとも中期以降になると様相が変わるがこの点については今は立ち入らない)。午前中の分科会で、本を書く前に論文を書かなければ、といっていた人があったが、プラトンが書いたのは論文ではない。現代哲学しか知らない人はプラトンの対話篇を読んだらきっと驚くことになるだろう。 思想はいわば生ものであるから書いてしまったら死んでしまうように思う。何も書かない(書けない?)のがベスト。書くとすれば対話をそのまま書き留める(もちろんプラトンはソクラテスが行った対話篇を記録したのではなく創作したのであるが)のが次善。『アドラー心理学入門』は教科書風に書くことはできなかった。対話篇にはできなかったが、その代わりにエピソードをたくさん書いた。具体的に書くためにはこのようにするしかなかった。尊敬するとはかくかくしかじかであるという記述を覚えても意味がないからである。しかし問題はあって、僕は息子のことをたくさん書いたが、僕と息子の間でしか通用しないかもしれないことを書いたので、教条的に書いてあることを自分の場合にも適用できると考えてもらっては困るのである。いわばエピソードを読んだ人の中に(前に日記の中で書いた言葉を使うと)「共鳴」が起きればと思う。あの本に書いた息子はもう高校2年生になった。いつの日か読んでほしいと思うのだが…息子が読んだら共鳴が起きるのかわからない。
2003年10月18日
コメント(5)
アドラー心理学学会一日目。梅崎一郎さんの『アドラー心理学への生態学的心理学的観点導入の方法』という宿題発表の指定討論者をつとめた。修士論文の口頭試問の時のことを後で思い出した。話を聴いている時にこんなことを思い出した。プラトンのテキストを読むと、正義が何かを知れば正義の人になれると書いてある。知るだけで正しい行為ができるということはないだろう、ただ知るだけではなく実践がいるだろう、そういう反論がただちにされる。僕は指導教官にこういった。「でも実践は知の補助にはなっても、行うことが知ではありません」。前後の文脈を書かないとわからないかもしれないが、理論的には、実践を伴わなくても知ることはできるはずである(現実にはこれはむずかしいことなので、知を獲得するために実践は必要になってくるということである)。 二つの比喩を思いつく。遠くの景色を今ここでいながらにして見ることができるならそれでいい、どうしてもここでは見えないのなら歩いて場所を変えて見なければならない。もう一つは奇妙な話なのだが、腹式呼吸といってもお腹が呼吸しているわけではないということ。 口も利けないほど疲れてしまって部屋に戻って休んでいた。少し元気を取り戻した。きれいな広い部屋で気に入っている。チェックインして最初この部屋に入った時は、きれいだが殺風景な気がしたが、さっそく本とコンピュータをかばんから出し、持ってきたコンセントをセットした。FAXが置いてあったり、インターネットに接続できるようになっているわりには、机のところには差し込み口が一つしかない。これだとコンピュータを繋ぐともうおしまいである。ホテルにはこんなところが多いことを経験で学んできたので差し込み口が三つあるコンセントを準備している。今回も役に立ってよかった。こうしてきれいではなくなったが僕の部屋になった。 たまたまテレビで『フジ子・ヘミングの軌跡』というドラマをやっていた。このピアニストのことについては何も知らなかった。ピアニストが聴覚を失うことの恐怖は想像に余る。ピアノなしでは生きていけない人からピアノを取り上げることを普通は意味するからである。それなのにフジ子の努力は並大抵ではなかった。いくつか言葉を書き留めてみた。後で思い出して書いたので正確ではないが。「生きていこうと決めたら何でもできる…私が求めていたピアノがここにあった。地位でも名誉でもない。心に響く音楽。それが私の音楽。一人でもいい、私の音楽を喜んでくれるがいればそこが私がピアノを弾くステージ。どんなにつらいことがあっても私は前に向いて歩いていくことを忘れなかった」チャンスをつかみ取れるのは幸運によるのではないと思った。
2003年10月17日
コメント(11)
学会は17日からだが前日から会場のコスモスクエア国際交流センターに泊まっている。夕方までギブソンの実在論について調べていた。途中で本屋に立ちよってさらに二冊本を手に入れる。一件目の本屋になかったのでそこであきらめたらよかったのにそこで手に入れることができなかった本を買い、さらに棚になかったので店員さんにたずねたら、別のところからたちどころに持ってこられた。もちろん、いりませんというわけにもいかず、これで三冊、読まないといけないことになったわけだが、きっと読めないと思う。発表者の梅崎さんと長く打ち合わせ。ギブソン心理学の理解が主眼ではなく、アドラー心理学にギブソンの生態心理学の観点を導入することの意味、メリットが知りたい。梅崎さんの解釈は僕の主知主義的アドラー心理学的理解とずいぶん違うみたいですね、といってみたが、扱われる問題が大きいのでどんな発表になるかいささか心配。でも安心したのは彼の話が具体的なことを交えて思っていたよりはわかりやすいということ。うまく彼のいいたいことを引き出す手伝いができたらいいのだが。それとともに討論者なのだから、yes, yesではだめだろうと思っている。 ギブソンがいうアフォーダンスが主観的なものではなく、対象の側の性質であるというのはよくわかる。テレビがテレビであるのは、われわれがそれをテレビとして意味づけているわけではない。問題はこのような考えを正当と見なすとどんな問題が起こるかということである(アフォーダンスについてはまた別の機会に)。 人はどこからきてどこへ行くのかという問いが立てられることがあるが、どんなに考えても、どこからもこないしどこにも行かない。未来はどこにもない(時間を空間的に表象してしまう)。どこかからくるものでもない。今日の発表のことをもう何度も頭に思い描いているが、それは今、現在のイメージであって、決してそのまま現実になることはありえない。 過去についていえば一度たしかに過去を生きたという思いから脱却できない限り、過去が今もまだどこかにあるかのように思ってしまう。過去を生きたわけではなく現在を生きることしかできないのだが、少なくとも過去が今に連なっているというふうに思ってしまう。しかし過去はどこにもない(ここでも時間を空間的に表象してしまう)。 プラトンはペリアゴーゲーという言葉を使っている。プラトンがこの言葉を使っている文脈では魂の向け変えというような意味になるのだが、この言葉からの連想を使うならば、過去の方に身体(魂といった方が適切だが比喩の連想の成り行き上身体)を向けながら首だけを時々前に向けるのではなくて、過去に向けた身体をぐるりと未来の方に向け変えたならばどんなに違った生き方ができるだろうと思う。身体が過去に向いている限り、未来へ向かって生きていくことはできない(ここでも厳密にいえば空間的な表現を使ってしまっている)。辛い過去に囚われている人にペリアゴーゲーを強く勧めたい。
2003年10月16日
コメント(12)
午前中カウンセリング。遠方からこられた。もっと早くきていたらよかったと帰る間際にいわれる。そうだと僕も思うのだが、時期というものがあって、早くこられていたら僕の助言が入らなかったかもしれないのである。 金曜日から始まる学会に向けての準備は前から進めていたが(7月の講演は今回の学会の準備の一環でもあった)、発表者の梅崎さんからレジュメももらったので、昨日、今日と校正の仕事を中断し(僕の方は索引のチェックをのぞけば大体できているが編集サイドの仕事の進行待ち状態)準備のために本を読んだりしている。梅崎さんがとりあげるギブソンの実在論のことを調べているが、ギブソンが、対象(object)や事象(event)は主観の構成物や表象ではなく(これを間接知覚論、あるいは表象主義という)、対象、事象は環境中にそのまま実在し、人はそれらを直接に知覚しているという直接知覚論の立場を採っていることに驚く。感覚のみならず(感覚入力→心的処理→運動出力というのが間接知覚論)、対象や事象を直接知覚できるということの意味が目下『エコロジカルな心の哲学』(河野哲也、勁草書房)読んでいる段階では理解できない。あまりに常識的な立場といえないことはない。知覚されたそのままの対象が事象が実在しているという意味では、ギブソンの考えは素朴実在論とも呼ばれる立場である(河野はギブソンの立場をこの名前で呼ぶことに異議を唱えている)。 こんなことを考えながら鍼の治療を今日受けていたのだが、今日は興味深い体験をした。今さらと思われるかもしれないが、初めて鍼を見せてもらったのである。これまで僕は触覚だけで鍼についてのイメージを持っていた。僕の感覚で捉えられた鍼は、その時々で、あるいは打たれる身体の部位によって太さが変わる。中根先生の経絡治療では通常2mmくらいしか鍼を身体に入れないので痛みはないといっていい。僕の場合は腹部と背中に限っては(特に腹部)深く鍼を入れることがある。最近の不摂生がたたって今日は腹部4ヶ所に深く打つことになった。深いといっても2cmなのだが。その鍼は痛いというのとは違って、不快で息も止まりそうな気がする。少しずつ入れていかれる鍼はストローのように(もっとも細いストローだが)感じられた。 ところが初めて見せてもらった鍼は細い方で0.12mm、太い方(腹部に打った方)は0.14mmでしかない。しかも柔らかくしなやかに曲がる。その鍼が僕の身体に入る時はストローのように感じられるのである。一体、ギブソンの立場だとどう説明するのだろう。僕の考えでは鍼はある時は細くある時は太くなるのだが。 この話の流れでもう一つ。腹部4ヶ所に鍼を2cm打ってもらった(らしいということだが)。15分後(打った状態で安静にする)その内一ヶ所の鍼はそのまま。ところが後の鍼は5cm入っていたという。何もしないのに3cmも入ってしまったわけである。先生の説明によれば身体が異物と認識したものは出て行く。そげはその例である。 今日は本当に驚いた。そうか、そうなんだ…僕はここでは書けない連想をしてしまった。
2003年10月15日
コメント(21)
学校が休みだとわかっているのに、先週何もいわれなかったから(来週は休みですよというようなこと)ひょっとしたらという思いから離れられず、朝5時頃目が覚めてしまった。再試験を作ったのだが校正をさせてほしいといい、来週くる時(今日のことだが)でも間に合うかとたずねたら、「いえ」と否定されたので意外に思ったのを思い出した。ともあれ一日出かけなくてよくて助かった。急ぎの仕事を2件抱えている。校正の方は幸い(今の僕の状況にとってはということだが)少し締め切りが遠のいた。もう一つは金曜日から始まるアドラー心理学会の初日、指定討論者を引き受けたのでそのための準備である。発表者からレジュメを受け取ったがはたしてどうなることか。 思いがけず11時くらいに息子が帰ってくる。聞き間違いでなければ始業式だったようだ。昼食を一緒にとった。最近、あまり話していないような気がする。本代がほしいというので千円を渡す。本当に本を買うかわからないのによく渡すね、と笑っていたが、夜、帰った時レシートを見せてくれた。 森有正は、精神分析のことを念頭に置きながら、自分を分析しようともしてもらおうとも思わない、「私は、自分がものを書く、ということが、あるいみで、非常に緩慢な、しかし一番確実な分析だと思っている」といっている(『砂漠に向かって』全集2、443)。サロメはフロイトの友人として精神分析を学んだ。リルケはサロメに精神分析をしてほしいと頼んだのだが、サロメは「リールケの詩的創造の根源を枯らすことを恐れて」彼の切なる願いを拒否したという話を森が伝えているのが興味深い(p.444)。 書くことが自分を知るのに有用であるか。前に日記の中で辻邦生が書くことについてどう思っているか紹介した。私が書くのは自分の思念を正確に表現するためで名文を書くためではない。できる限り、文章を透明にし、私が考えたこと、感じたことが、じかに、あたかも文章なぞ仲介になっていないかのように、相手に伝わっていくようにしたい、といっている(『パリの手記』1、p.7)。自分のために書く場合も、自分だけがわかるように書くのではなく、他の人が読んでもわかるように書く。そうすることで思念が正確に表現できるわけである。 その意味で書くことは有用だが、ひとりよがりということもあるだろう。僕は最近メールでのやりとりがおもしろいと思っている。言葉でやりとりするほうがはるかに効率的である。メールだとタイムラグはあるし(すぐに表現の訂正ができない)、必ずしも思うように表現できないということもあるだろう。しかし書くことによって辻の言葉を使えば思念がかなりはっきりするということはある。かつ一人で書いている時のようなひとりよがりに陥る危険も回避できるように思う。
2003年10月14日
コメント(17)
結局今日は六時くらいまで起きて仕事をした。いつのまにか季節はめぐりなかなか夜が明けない。三時半頃、勉強を終えた息子が部屋に寄ってくれた。「おっ、まだ起きてるのか?」と息子。少し前に起きて仕事を始めていたので厳密にはずっと起きていたわけではなかった。何をしているかと問われて索引を作っているとプリントアウトしたものを見て「なんで”宇多田ヒカル”なんだ…」と部屋を出ていった。 森有正が「茶碗一つ正しく洗えない人間がむずかしいことを論じても僕は信じないのである」(『砂漠に向かって』全集2、p.263)と書いているのを初めて読んだ時ショックだった。上手か上手でないではなく正しいか正しくないかだ、ともいっている。一体、僕が「正しく」できることがあるのだろうか、と思った。そんなものはないかもしれないと思ったし、今も思う。 料理一つとっても正しくはできない。僕はキーボードを打つのはかなり早い。初期のコンピュータは今とは違って僕のタイピングについてこられなかった。何度もコンピュータを買い替えたのはそのためである。キーボードを見ないで打てるからなのだが、実は一番上の段のキーはうまく打てない。ノートパソコンを専ら使ってきたのでテンキーのないのが多くて使う機会はあったことはあったが他の文字を打つキーに比べたら圧倒的に打つことは少ない。だから僕は厳密にはキーボードを「正しく」打つことはできない。こんなことは他にもいくつもある。僕の英語だって極めたというわけではないし、コンピュータについていえば限られたプログラムを使っているだけでコンピュータについて正しく理解しているわけではない。靴を脱ぐと必ず片方が逆さまになるらしい。ギターもそこそこ弾けるけれど、先生について学んだわけではないので限りなく我流に近い。森がオルガンを弾きこなすのとはわけが違う。そんな僕はむずかしいことを論じる資格はないことになる。 一月、二月では、いや一年、二年でもわからない変化というのはある。うんと長いスパンで見ないとわからない。例えば、蕁麻疹が出なくなった。最後は娘が保育園に通っていた頃である。正確に何歳の時のことか覚えてないのだが、あの頃、保育園の送り迎えを毎日していた。家に帰った時にひどい蕁麻疹が出たのである。今は平気である。気がついたらずいぶん遠くまできたというような変化(森有正は「変貌」という言葉を使うだろう)が真の変化であり、付け刃的な変化は変化とはいわない。
2003年10月13日
コメント(32)
夕方、カウンセリング。朝からずっと根を詰めて索引を作る作業をし、それがなんとか一つの形をなしたところで急激に疲れが押し寄せた。倒れ込むようにして寝てしまった。それでも何度か電話に答えている。僕としてははっきりと目覚めて話したはずだが(話したことも全部覚えている)ひどく相手を怒らせてしまった。その後、ずっとその気分を夢の中でも引きずることになった。 今日、明日にでも原稿を出版社に送り返せたらいいのだが。まだ煩瑣な作業が残っている。六月に出版の話が決まった時、「一度はぶつかることがあるかも」と編集者は予言した。それまで本を書いたり、翻訳を出版したが、一度も編集者と会ったことがなかったのに、今回は別の仕事も一緒にしたこともあり、気心もしれていたしそんなことはあるまいと思っていたから意外な発言だった。 ところがその後の経過は日記にたびたび書いたように思うように進捗せず、出版社側の意向を理解しつつもなかなか要求をのむことができず、章立てを大幅に変更するという作業に着手してからも時間がかかってしまった。結果的にいいできになったと思う。編集の二人に感謝したいと思っている。それにしても僕は自分がひどく強情であることに思い当たらないわけにいかなかった。これまでの人生でもずいぶん損をしているかもしれない。未完成の段階では決して人に原稿を見せて意見を求めるということはなかった。今回は、早い段階で見せたが初めてのことではなかったかと思う。初稿は原型をとどめてない。道に迷った時でも決して人にたずねなかった僕が躊躇しないでたずねられるようになった。そうすることが恥ずかしいことではないことを知った。それと似たような感覚がある。後少し。
2003年10月12日
コメント(10)
夜、まだ早い時間にひどい睡魔に襲われた。きっと10分でも寝たらすっきりするのだろうが。タイミング悪く電話。一生懸命話したが眠そうにしているのに気づいた相手は電話を切る。睡眠不足と細かい校正作業は思っている以上に神経をまいらせているようだ。来週の火曜日(朝、早く出かける日)が休講であることを学生からのメールで知り安堵。時間がほしい。 七十の半ばの父。見舞いに行った病院で父と話していて、森有正の言葉を思い出した。「この間ある七十以上になる老人がしみじみ僕に語った。『七十年! 夢のように経ってしまいますよ。のこるのは若い時のなつかしい回想だけです。青春は短いなどと言っているが、短いどころではない、あっという間に過ぎ去ってしまいます。』僕はこの老人の言葉は実感から出ていると思う」(『バビロンの流れのほとりにて』全集1、p.61) 父に聞いてみたいものだ。夢のように経ってしまったか、と。僕はまだ七十年も生きていないが、今のところ短いという感じはない。今度の本の中にはケパロスという老人の話を書いた。ソクラテスは七十歳で毒杯を仰いで死んでいった。ソクラテスにとっても人生はそんなふうに瞬く間に過ぎたのだろうか。「早く(人生が)終わってくれたらいいのに」と語る若い人の言葉に胸を痛めた。「そんなことをいうのなら僕にあなたのその命を預けて」といいたいと思ったが、僕はそんなことをいえる立場にはない。
2003年10月11日
コメント(8)
入院中の父から電話があってこなくていいから、という。明日、退院することになっている。もともと今日は検査の結果を主治医から聞くことになっていて妹が仕事があって行けないので僕が行くことにしていたのである。だから予定は空けてあったが、こなくていいといわれると、言葉を額面通りに受け取る癖をつけてしまっているので行くのを止めようかと思った。実のところ目下仕事がたくさんあるので止められるものなら止めようと思ったのだけれど、行かないと後悔するのも目に見えているので思い切って夕方出かけた。 ナースステーションで部屋の番号をたずね部屋に行くと、一番廊下側のところに横になって本を読んでいた。俵万智の本を読んでいるのがちょっと意外だが、聞けば歌を作ってみようかと思って、という。僕の持っていた校正刷をその本と比べて相当分厚い本になるのだと感心していた。 きてくれたのかという父はやはり予想通り堰を切ったように話を始める。いつも怒っているように見える。気が短いのは今に始まったことではないが、この傾向が近年顕著になった。まあそんな怒ると血圧上がるから、と宥めなければならなかった。医療不信が強い。三年前に検査中に血圧が下がるなどとして危なかったことがあって、今回その時と同じ主治医への不満が爆発した。あの時のことは思い出したくない、とその医師がいったという。明らかに失敗だったという意味だと父は言い張るのである。医師の意図がどうだったのかはわからないが患者はその言葉によって不信を持つに至っている。だから若い医師は嫌なのだ、と父。しかし誰でも最初は若いわけだからといったが納得したかはわからない。 池谷裕二、糸井重里の『海馬』(朝日出版社)。脳の記憶の仕方が可塑性があるということについて。粘土のようにぎゅっと押すと手を話しても形は変わらないが、脳にも同じことが起こっているという(p.118-9)。蛇は恐いという記憶があると、これをなくすことはできない。蛇は恐いという回路はずっと残る。この回路の上から蛇は恐くないという回路を作る。このことがどういう問題をはらんでいるかまでは池谷は注意を払っていないように見える。 先の引用に続いて次のようにいう。「つまり、ある時に突然また怖くなってしまう危険性もある」。トラウマもそうだ、と池谷はいう。しかしこのように考えると人はトラウマになりうるような出来事の影響を必ず受け(回路が形成される)、必ずトラウマを受けることになる。たとえトラウマを否定する別の回路がつながったとしてもいつ何時古い回路に接続されるかわからない。トラウマを否定するような回路を作るか、あるいは、その回路から元の回路に戻ることがあるとしてもそれらはすべて私が決めると考えないと治療的には困ったことになるだろう。 本の別のところでは脳の見たいものしか見ないということを明らかにしている個所との一貫性がないように思う。脳は見たいものしか見ないことについて池谷は「非常に主観的で不自由な性質」といっているが(p.106)、僕はむしろこのことは自由な性質であると考えたい。
2003年10月10日
コメント(29)
朝7時に出て、帰ったのが11時前(もちろん夜の)。帰ってから一気に疲れが押し寄せる感じだったが、前に精神科の医院に勤務していた時はこんな日が何日も続いたことを思い出した。 朝は岸和田の家庭教育学級で講演。前の講演から少し日があいたのか、講義は毎週してきたが、講演は久しぶりのような気がした。岸和田の人は控えめながらも反応はよくて話しやすかった。 夜は尼崎での研修会。さて昼に終わって夜までどう過ごしたものか迷ったが、喫茶店をはしごしたり本屋をのぞいているうちに時間が経った。岸和田から南海本線で難波まで出たので、なんとなく人の流れに乗ってnamba PARKSに行ってみたが、あまりに人が多く早々に退散した。一人で行ってもあまりおもしろいところではなさそうだ。 研修で、過程を大事にするというのは日本的な発想であるという話が出たが、この考えとは違って、過程ではなくて結果こそ大事だという考えがこれと対極にある。過程に注目するのは勇気づけの際に必要なことだが、これは他者についてであって、自分については結果を求める厳しさが必要になってくる。教育は(という話をしたのだが)結果がすぐに出てこないところが危険である。十年以上経ってから成果が見えるとうことがある。そこまで見据えて(その場限りの対応をしないということである)教育をしなければならない。個人の魂に関わることであるから教師の責任は重要である。 ひどく疲れて気分までまいってしまっていたが今少し復活。Mac OS を10.2.8にアップデート中。昨日は辻邦生の『パリの手記』を少し読み進む。Aの話。森有正に会ってお茶を飲む。「別れるとき、森先生が、あなたに八時間勉強するように云って下さいよといったから、八時間ねてますって答えたら、まだ十六時間残ってますよっていってらした」(p.155)。 勉強せねば。
2003年10月09日
コメント(9)
朝まで校正。カウンセリングの予約が入っていたので早く寝ようと思ったのだが、きりのいいところまでは止められなかった。1995年にアドラーの『個人心理学講義』の索引を作った時には言葉の並べ替えまで手動でしたものだから時間がかかってしまったが、今回はその時の苦労が信じられないほど作業が早く進む。前に「索引」について書いたが、機械的な作業なのにどの言葉を選ぶか、その言葉がどんな文脈で使われているかを見るとおもしろいし発見が多い。構成を変えたので初出の言葉なのに説明がないことに気づいた言葉もある。これは問題なので訂正しないといけない。 9日は(もう今日なのだが)朝、岸和田で講演。定員は50人なのだが90人申し込みがあったと聞いている。夜は尼崎で研修会。その間をどこでどう過ごすかが問題。校正の続きをすることははっきりしているのだが。 父が昔、妹、妻、兄を亡くした(僕のおば、母、おじ)。皆、若かかった。だから次はいよいよ自分の番だと思った。おばが癌になった時、父はある突然東京に行くといって出かけた。なんのためにいったかいわなかったがなぜかわかってしまった。医学書や医学関係の雑誌が枕元に置かれ次々と読んだようである。手術は成功したが二年後再発し、今度は帰らぬ人になった。おじはある日倒れた。その日、僕は朝方まで起きていた。地震があった。でもそれは普通の地震ではないと思ったので時間をすぐにメモした。夜が明けてからおじが亡くなったという電話があった。僕が地震を感じた時間だった。きっと挨拶にこられたんだと思う、といったら父はそうか、と頷いた。それから二十年が経ったが父は身体のあちらこちらがよくないが元気にしている。 先日、高校の同窓会の案内のはがきが届いた。残念ながら学会の日に重なって出ることができない。「人生マラソンも、折り返し点を過ぎ、後半生をどのように生きるかが、問われます」と書いてあったので実は驚いた。ひょっとしらずいぶん前に折り返し点を過ぎているかもしれないと思うからである。
2003年10月08日
コメント(13)
朝まで講義の準備と校正。朝早く出ないといけないので緊張してしまう。5時くらいに横になったがすぐに起きて出かけた。講義は3コマ。午前の講義と昼からの講義の間に2時間空き時間があるが校正の続きと再試験の作成。帰りの電車はすわれたので途中一度乗り換えたがそれ以外の時は意識をなくしたといっていいくらい寝てしまった。何時間も寝たかのよう。それでも疲れは取れず、帰ってからも食事をした後も寝てしまう。まだぼんやりしている… 午前中の講義では前の週に引き続きアドラーがウィーンで1928年に教師に向けて行った講演を紹介しながら教師の役割について考察。子どもが学校で勇気をくじかれることがないようにすること、就学以前に既に勇気をくじかれた子どもたちの自信を回復することが教師のもっとも重要な仕事(ほとんど聖なる義務であるとまでいっている)であるといい、子どもを罰すれば自分が学校に所属していないという感覚を確固たるものにするだけである、と罰に強く反対している。 父の検査は無事に終わった。すぐにでも病院に行きたいのに時間がない。年老いた親のことはいつも気掛かりだ。前は父のことを考えたこともなかったのに。 必要があってずっとジッハー(Lydia Sicher、1890-1962)というアドラーのウィーンでの仕事を引き継いだ医師の書いた論文を読んでいる。校正を読みながら強い影響を受けているのがよくわかる。ジッハーは世界の一部という表現を使う。これは晩年のプラトンの対話篇でも使われる表現である。自分が世界の一部である、また、世界に所属していることを知ることは重要なことである、と。しかし、世界の一部であるということと世界の中心にいるということは別のことである。自分を中心に世界が動いている、まわりの人は私のために生きていると考え、しかも当然のことながらまわりの人が自分の期待する通りに自分のために動いてくれなければ攻撃的になるというようなことはよく見られる。 「ジッハーは熱狂的なアドレリアンだった。アドラーより慎重だった。自分自身にも他の人にも非常に厳格だった。100パーセント、アドレリアンでないことは何であろうと認めようとしなかった」Danica-Deutsch)。 ジッハーアドラーの思想的側面を独自の切り口で明らかにしており、アドラーの思想が誤解されることに警鐘を鳴らしている。17歳の時にアドラーの著作に初めて関心を持った。フロイトが、どのように人が苦境に陥ったかを語ることはできてもそこから抜け出す方法を教えないのに対して、アドラーは問題から自分を解放するために取り得る方法を教えたと違いを強調するが、このことを知ってしまうとアドラーの研究に入ってもはや後戻りはできないようになったであろうことが想像できる。 パリで学んだ森有正はフロイトと自分の考えが違うことに気づき、違和感を持ちながらもユングも熱心に学んでいるのにアドラーのことは知っていたとは思えない。僕は三十代の最初にアドラーを知りその後の人生が大きく変わってしまった。森と比較するのはどうかと思うが、森がパリに行って学位論文を仕上げてすぐに帰ってくるはずだったがとうとう帰ってこられなかったのと同じような大きな転機だった。今、校正中の本は前著の『アドラー心理学入門』よりはもう少し自由に僕の思想的遍歴の後を記すことができた。どれだけ成功しているかはわからないのだけれど。
2003年10月07日
コメント(2)
ようやく待ちに待った校正刷が届いた。本文233ページ分で思いの他ずっしりと重みがあって驚いた。土曜日配達指定で送られたものなのに月曜日の午前中に届いた。業者の名前をここで書きたいくらいである。失われた二日をどう取り戻せばいいのか。脱稿したのは一月前なので自分で書いたものではないような気がする。スケジュール表を見てため息をついてしまうがやりとげるしかない。索引を作るのに時間がかかると思っていたが(索引にあげる言葉にラインマーカーを引けばいいといわれていたのだが、機械的に処理できないところがある)カウンセリングにこられて人に話をしたところ、索引作成のプログラムを組んでもらった。ありがたい。 昨日、引いた辻邦生が書くことについてこんなふうにいっている。私が書くのは自分の思念を正確に表現するためで名文を書くためではない。できる限り、文章を透明にし、私が考えたこと、感じたことが、じかに、あたかも文章なぞ仲介になっていないかのように、相手に伝わっていくようにしたい、と(『パリの手記』1、p.7)。今日届いたゲラを読みながら、これはなかなか至難の業であると思わないわけにいかない。透明どころが自分を強く主張している。読みながらひっかかるので文章を読んでいるということを意識しないどころではない。高校生の時、バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』を読んだ。初めて英語で読み通した本格的な哲学書だったが、僕の語学力を棚にあげていうと、ラッセルの文体は透明で、英語を読んでいるのではなく、辻のいう「思念」が直接伝わってきているように思った。文章が透明にならないとすれば思念そのものがまだ充分練り上げられていないのだろう。 ゲラを読みながらあらためて思ったことがもう一つ。誰に向けて書いているかという問題である。辻はこういった。「もちろんこの「書く」行為のなかには、読者はまったく想定されていなかった。したがって、まず自分に納得できる事柄が、文章の形で、外に出されれば、それでこの行為の目的は達せられたことになる。しかし同時に、自分を納得させることは、自分の内部にいる普遍的な人間をも納得させることでなければならない」(p.10) 自分だけがわかればいいということならノートに記号とか何かで書き留めても箇条書きにしても(試験の答案が箇条書きだったりすると僕は驚いてしまう)いいではないかということになるが、自分の中にある普遍的部分にかかわるためにはきちんと説得的に書かなければならない。インターネット上で日記を書くのはこのことを容易にするように思う。日記なので手紙とは違って特定の読者を想定していないが、自分も含めたあらゆるこの日記を読む人のなかの普遍的な部分に訴えるように書いているわけである。今、校正中の原稿も基本的に同じだと思う。
2003年10月06日
コメント(18)
前の家の書斎から、辻邦生の『パリの手記』(河出文庫、全5冊)。1957年10月から1961年2月に辻はパリに滞在する。手記はパリ到着前の一か月の航海の時のことも詳細に記されている。「私が「絶えず書く」ということを自分に課したのはいつ頃からであったがか、いまは正確に記憶はない。ともあれピアニストが絶えずピアノをひくように、自分は絶えず書かなければならない―かつて私はそう考えそれを実践していたのであった」(手記1、p.6) 辻はパリに行った時、関谷さん(妹)からの言伝を託されていたので、渡仏後の勉強の相談もあってまず森に会うつもりでいた。ところが、アポイントメントを取る前に、偶然、辻夫妻が滞在していたホテルの側を通りかかる森に出会い、シャトレの中華料理店でご馳走になったことが著書の中に書いてある(『森有正』pp.11-2)。ところが日記は10月15日から23日は何も書いてなくて、ただ「私のAとのパリでの生活」とフランス語で書いてあるだけある。Aは辻佐保子さんのことである。森に会った日のことは、後に「Aがついて三日目に、森先生と会って、シャトレの中華料理店でおそくまで話した」と書いてあるだけである(p.146)。 1958年の1月23日の日記には(手記1、p.170)、森が七年間住んでいたアパルトマンから引っ越す時の様子が記されている。引っ越しの間じゅう、パリに向かっている娘のことしか頭にないようだった、と辻は記している。「娘はいまべールートを飛んでますね。どんな顔をして窓から外を見ているかな。東京と松本しか知りませんからね、きっとびっくりしていますよ。黒い人や西洋人や、いろんな人が乗って来たりしてね」。辻は『森有正』の中でこの日のことを書いている(p.15)。「この引っ越しのときも、先生は窓際に坐ってほとんど動こうとはされなかった。新聞雑誌の山を片付け、乱雑に重ねられた書物を整理したのは哲学者の所雄章氏であり、それを運び出したのが私たちであった」(p.15-6)。このことを辻が非難がましく書いてないのは前年、辻の妻がパリに向かっていた時のことが思い出されたからであろう。「Aはいま飛行機に乗っているはずだ。どの辺をとんでいるだろうか。午前九時に乗ったとしたら、いまどこだろう。夜中の飛行場でコカコラでも飲んでいるだろうか……。(中略)午後は本を読むが、いっこうに頭に入らない。Aのことが気になる。酔ったりしなければいいがと思う。気持のいい旅行ができているんだろうか。食事にうんざりするとみんなが云っているが、果たして大丈夫だろうか?」(pp.142-3) 明日から父が検査入院する。検査はあさって。僕はその日専門学校の講義がある日でつきそえなくて妹が面倒を見てくれる。定期的な検査ということもあるが心配はしていない。辻だったら「不安になって、時折お祈りしたくなってくる」ところなのだろうが。飼っている海水魚と熱帯魚を入院中、世話ができないので、近所の人に譲ったなどという話を聞くと心配でないというと嘘になる。
2003年10月05日
コメント(9)
ゲラが届いてないかとばかり思っているので眠っている時も気にしている。一本電話をかけたらすむことなのに。まだ、あとがきを書くことなど仕事が残っているので、着く前にやっておこうと思うから、今日も連絡しなかった。それでも気になって一度ポストを見に行った。今はマンションなので一階まで降りていかないといけない。まるでラブレターへの返事がくるのを毎日心待ちにしているようだ。今はメールは瞬時に届くから待つということがなくなってきたように思う。リアルタイムに連絡がつくから待つということがなくなって想像が起こる余地がなくなり、心のふくらみ、縮みがなくなり相手への思いまでもフラットになるという鷲田清一の指摘には賛成できないが(『哲学クリニック』)、たしかに物理的時間についていえば待つことがなくなったというのは本当である。ただし心理的に待つことがなくなったとは思わない。むしろ返事が届かないからといっても手紙に比べれば短い時間を凝縮して待つといえるかもしれないし、ネガティブな思いは今の方がいっそう膨らみやすいかもしれない。脱稿してから校正ができあがるまで今回待つ苦しみを久々に経験したように思う。 母の夢を見なくなって久しい。母は脳梗塞で最後二か月は意識がなかった。その間、コミュニケーションをとることはできなかった。脳神経外科のある病院に移ってしばらくの間は少しは話すことができた。しかし次第に意識が低下していったので、五十音の文字盤を作って、それを指さすことでいいたいことを伝えてもらおうと思った。ところが一生懸命何かを伝えようとするのだが、僕にはできなかった。ごめん、悪いけど、どうしてもわからないんだ、と僕は母にいわなければならなかった。 関谷綾子の『一本の樫の木』に母親が亡くなる少し前のことが書いてある。軽い脳障害で右半身不随の日々が長く続き、ある日突然全身不随になり、一年八か月の病床生活の後、静かに眠るように永眠された。死の前日、そばにすわっていると、ふと誰にいうともなくかぼそい声でつぶやいた。「わたしは一生、不しあわせだった」(p.158)母がもしも最後にこのような言葉を僕に伝えようとしていたとしたらどんなふうに応じられただろう、と想像した。きっと何も答えられなかっただろう。ふと母がそんなことをいうように思ったのでこの記述が注意を引いた。母が読んでほしいと頼んだ『カラマーゾフの兄弟』の最初のところを読んでいた時も同じことを思ったことを今思い出した。 関谷は「わたしは一生、ふしあわせだった」という言葉に反論することはできなかった。「一人の人間の魂の底から語られた真実な気持ちとして受けとれたからである」。さらに「わたしなおるでしょうか?」と問う。関谷は自分でその答えを知っていることを聞いていると感じた、といっている。僕の母が自分が近く死ぬかもしれないということを知っていたかは今となってはわからない。関谷は母親の問いに「なおらないかもしれないわね」といった(p.159)。その言葉を聞いて静かにうなずき、今までに見たこともないほどの安らかさが、顔一面に見えた。僕は思った。信仰があるからではないか、と。「天国は近いところにあるのでしょうね。みんながそこにいるのね、お父様も、和ちゃんも」。僕はこんなふうには信じられない。信じていてももしも死に行く人がこのことを信じていなければどんな言葉をかければいいのか。今度の本(ともう何度書いたことだろう)でも死の問題を避けることはできなかった。
2003年10月04日
コメント(11)

べねっせの「みんなおおきくなあれ!」十月号が届く。特集記事の監修をしたのだが、取材を受けたのは六月だったので、はたして掲載されるのか心配だった。特集は「「ほめる子育て」って本当なの?」というタイトルがついていて、これだけでずいぶんとチャンレンジングだと思うが、本文の方は子細に読むと編集者の意向と僕の主張との鬩ぎ合いのようなところがあって、今さらながらこの仕事がむずかしいものだったということに思い出す。 本のゲラは今日も届かなかった。索引をつけてほしいということをお願いしている。『個人心理学講義』に詳細な索引をつけたのだが、僕の本にもつけてみたいのである。実現すればいいのだが。僕が索引という時、辻邦生が『プラトン全集』(岩波書店)の月報に書いた「『プラトン総索引』の周囲」というエッセイを念頭においている(後に「先生とプラトンと索引と」と改題されて『森有正 感覚のめざすもの』に所収)。森は『バビロンの流れのほとりにて』に索引を付けるつもりだった。「ええ、索引です。たとえば<経験>という項目を引くと、ぼくがあの本のなかで触れた<経験>のさまざまな形が、はっきりと浮かびあがるわけだし、<海>とか<嵐>とか、何気なく使ったものでも、そうやって項目として纏めて見てゆくと、それとぼくとの関係も鮮明になってくると思います」(p.35) 森のいう索引は、本文全体を読む労をはぶき、直接目指す情報に達する手段ではないのである。「もちろん人名索引も入れますよ。たとえばツキディデスとトルストイのあいだに、辻さんの名前が並んでいたりすると愉快ですね」(pp.35-6) 写真は僕の前の家からマンションをめざしての田んぼの中の道。毎朝、毎夕、シェパードのアニーと一緒に散歩をしていた。
2003年10月03日
コメント(8)

朝から採点。明日が締め切りなのでなんとしても夕方までに終わらせないといけなかった。今日は他の予定を入れないようにしていたのだが、どうしても今日カウンセリングをしてもらえないかという電話があって引き受けた。無事、採点は終了したが、数人の学生に不可をつけないわけにはいかず残念だった。講義を聴いてなかったのならそれはそれで講義に出ていた人にノートを借りるなり、シラバスにあげてある僕の本を読むとか、しかるべく試験の準備はできると思うのだが。再試験を作ることになった。 郵便局の帰り、そのまま前の家まで行った。しばらく行ってなかった。15冊ほど本を持ち帰ったが、狭いマンションの書斎の本棚にはもう置くスペースがない。森有正の妹の関谷綾子の『一本の樫の木』(日本基督教団出版局)、辻邦生『森有正 感覚のめざすもの』など。関谷の本は森の著作からは知り得ないエピソードが載っていて興味深い。 前に掲示板で、森のパリでの食生活のことをたずねられた時にすぐに思いついたエピソードはこの本に載っていた。森はパリでゆで玉子ばかり食べていた。ゆで玉子は失敗することがないからということだが、ゆで玉子ばかり食べていたら眉毛の下にコレステロールがたまってかあたまりになり手術して取ってもらったという(p.240)。このような食生活が晩年の病気への引き金になったであろうことが想像されるが、もう一つこの話が伝えるのは経済的にはかなり苦しかったであろうということである。パンだけ買って、公園に行って水を飲んでいたという森の言葉を関谷は伝えている。 そんな森の晩年の仕事の手伝いをしていたというフランスの女性から、母親を失い遺産のことで兄妹が対立し苦境に陥った時、森がどれほど気づかってくれたかという話を森が病に倒れたという知らせを受けパリに行った時関谷は聞かされた。私にできることがあればいってください、といってくれたことがどんなに自分を力づけたか知れない、と。 昨日、森の東洋医学についての見解を紹介したが、ある年の夏、身体の調子がよくないので帰国したら整体操法の個人指導を受けたいから頼むという電話があった。野口整体の創始者の野口晴哉と懇意だったのである。ところが思いがけず野口は森のこの電話の直後に亡くなった。どうやってどんなふうに亡くなったのかという森の問いに関谷は答えた。生き切って、静かに、まるで燈火が燃えつくすようにして、と。「驚くべき静かな声が返って来た。「ああ、そうなの」とはるか遠い異国の都で、互いに多くは語らず、しかも識り得た一人の畏友の死に瞑目する想いを電話を通して受けとった。そして二か月もたたぬうちに、彼は自分もまたそのままパリで倒れたのであった」(p.254)。 『プレジデント』の僕の記事のイラストを担当した牛尾篤氏の『憧れのウィーン便り』(トラベルジャーナル)も持ち帰った。ウィーンで学ばれた時のエピソード満載のウィーン案内で、エッチング(銅版画)が40枚収めてある。あの記事を見た時、これは前に見たことがあるという思いがずっとあった。インターネットで検索してこの本のことを思い出した。またウィーンに行けたらいいのに、と改めてエッチングを見て思ったが、もう行く機会はこの先ないかも知れない。昔、よく散歩していた川沿いの道を歩きながら帰った。
2003年10月02日
コメント(24)
今日は鍼。たぶんこれまでで一番軽やかな鍼で、中根先生によると鍼への緊張が取れた、と。このまま身体の調子がよくなってくれたら、と思う。今日は脈に取り、初めて肝ですね、といわれた。ストレスがかかっているということらしいが、ストレスならいつもあるわけで、この脈は初めてといわれると一体身体に何が起こっているのか、と思う。思い当たることは多々あるのだが。 先週の木曜日に大型ゴミとして出したソファが突如火曜日の朝、戻ってきた。プリペイドシール(1500円)も貼られたままだった。電話をしてたずねたら、当日回収に行ったがなかったので引き上げたという報告があるのでおそらく誰かが持ち去ったのだろう、と。長年使い込んだ結果、相当痛んでいて使えないことがわかったから持ち去った人は再利用を断念したのだろうが、そのあたりに放置されなかったことはよかった。再び回収にきてもらうことになったが、思い余って山に捨てた犬が疲れ果てて帰ってきたかのようである。娘が生まれる二ヶ月前に買ったソファである。 友人にiMacを譲っていただき、娘が使うことになった。インターネットに繋がらないとうちには意味はないんですけど、というので、明日にでも設定しようと思うが、娘の部屋はLANの圏外(というのかどうかわからないが)なのでそのあたりから考えないといけない。喜んでいる(実は僕も)。 森有正は、経験はたとえどれだけ深くても、そこに凝固すると体験になる、一種の経験の過去化が起こる。経験は、未来へ向かって開かれていなければならないという。その説明をする時に例として東洋医学、漢方医学、鍼灸医学を例にあげている。ある病気に対してこれらが有効であることはたしかである。「しかし、その基礎になっている経路、つまりすじみちということになると、どこまでそれが確実なものかわからない。わからないけれども、ある一つの過去の経験をそこに定着させたもので、そこからすべてを説明していこうとするわけです」(『生きることと考えること』p.97) 前に読んだ時は鍼灸の学校に勤めていなかったのでこの言葉に注意を払わなかったが一度専門家に意見をたずねてみよう。森は今の例は有効だからいいが同時に非常に危険を伴ってい、という。「というのは、そのために新しく出てくるすべてのものを閉ざしてしまうということもありうるからです」(ibid.) ここであげられている東洋医学に限らず、育児でも教育でも同じ危険は起こり得る。こうしたらこんなふうになったと経験を過去化し、単なる経験則として学んでしまえば、その知識は普遍的なものにはならず、変則的な事態が起こった時に適切な対応ができなくなる。また、有効であればいいというものでもない(子どもがいうことをきいたからいいではないかというふうに)。今度の本で扱った主観的普遍性の問題に関係してくる。
2003年10月01日
コメント(8)
全31件 (31件中 1-31件目)
1
![]()
![]()
