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今日は気力なく仕事はかどらず。まぶたが腫れ上がっている。嫌な夢ばかり見る。 朝日新聞の夕刊のコラム「素粒子」に桶狭間奇襲の信長もその後は大軍で制圧の戦術を採ったことを引いて、「兵力の逐次投入は日本軍が太平洋戦争で犯した間違いの一つだ。いま米軍が愚を繰り返すのか」とあった。僕の読み間違いでなければ米軍が大軍でイラクを制圧すべしといっているようにしか読めないのだが。 同じ素粒子氏は北海道知事選に9人、札幌市長選に人が同時立候補したことについて、「無関心も困るが数出りゃいいというものでもないだろ」と。事前に調整して候補者を絞れ(政党の相乗り)ということ? 続いて、「転職先として四年間の4年間の安定は魅力よ、愚妻」 このコメント内容自体が政治を軽視しているように僕には思えるし、「愚妻」という言い方もどうかと思う。きっと今頃この記事を見た素粒子氏の妻は怒り心頭に発している? 昨日、書いたイラク難民支援の政府専用機がアンマンに着いた。僕はasahi.comで読んだのだが昨日読んだ記事は朝日新聞ではあまり大きく扱われていなかった。インターネット上で読むとどの記事も同じ大きさの見出しなので内容の重要なものかという判断がにわかにできないのが難点ともいえるが、新聞のように編集がされていないので(スペース、活字の大きさなど)かえって情報を見逃さないという利点があるともいえる。 今日の記事には、テントはヨルダンやトルコで買ったほうが安い、なぜ日本から高い輸送費をかけて運ぶのかという疑問の声が上がっていること、それについて駐ヨルダン大使が「たとえ経済的に高くついたとしても日本の難民支援に対する姿勢を示すことも考えねばならない」というコメントが書いてある。 キャンプには難民はいなくて大部分のテントはアンマン近郊の倉庫に保管される。見栄で動かれては困る。防衛庁幹部は「日の丸を掲げることに意味がある」といったことは昨日書いたとおり。なぜテントを運ぶのに自衛隊を派遣するのか。見栄以上のねらいがあるわけである。
2003年03月31日
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イラク難民救助活動のために政府専用機がアンマンに向けて出発した。PKO協力法に基づいて政府専用機が物資輸送に使われるのは初めてのことである。始まってしまったのだから武力行使をしない日本は「緊急」「人道」支援をするということなのだろうが、こういうことはどういう手続きを経て決められるのか。この国では前例がなくても一度でも既成事実を作ってしまえば、前例が慣例になり通例になってしまう。イラク周辺国には目下難民はわずかしか確認されていない。アンマンでは民間航空会社の運行も続いている。この専用機には航空自衛隊員が50人同乗した。防衛庁幹部は「日の丸を掲げることに意味がある」としているという。何か大きな勘違いがあるのではないか。 日本はアメリカのイラク攻撃を支持すると小泉首相は表明したが、これも国会の決議はいらなかったのか。必要なかったのかもしれないし、国家で採決を取っても支持するという結果になったのかもしれないのだが、首相にこんな大きな権限があったのかと驚いてしまった。『アドラー心理学入門』の第5章に次のように書いた。 私がアドラーから学んだことは、政治的なスローガンとしてではなく、実質的な意味での民主主義の重要性です。かつてナチスは近代の民主主義憲法の典型であるとされるワイマール憲法のもとで合法的に誕生しました。民主主義は、このように、民主的な手続きを経て自殺することができるのです。どうすればこのような愚行を繰り返さないですむでしょうか… 民主主義は手続きでしかないのであって、それ自体としては中身があるわけではないのです。従って皆が誤るということはありえます。共通感覚(コモンセンス)が全面的に誤っているということはあり得ます。私たちは民主主義が自殺することがないように絶えず気を配っていかなければなりません。そのために誰かに強制されたり、あるいは、与えられたものを正しいものとして無条件に受け入れるということなく、自分で考えて正しい判断をしていかなければなりません。さもなければ衆愚政治という言葉があるように、民主主義は質の悪いものになってしまいます。 皆が誤るということがありえると書いたのは小泉首相の「世論に従って政治をすると間違う場合もある」という言葉を想起していやなのだが、就任当初絶大な支持を得た同じ首相が国を危機に陥れようとしている。統一地方選ではどんな結果が出るのだろうか。 今日はカウンセリング3件。『戦争報道』(武田徹、ちくま新書)、『非戦の哲学』(小林正弥、ちくま新書)を読み始める。息子は京都のピースウォークに参加。
2003年03月30日
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渡辺えり子が「この夏に新作の舞台が予定されているというのに、私はいま戯曲を一行も書けない状態になっている」(朝日新聞、2003年3月29日朝刊)と書いている気持ちはよくわかる。戦争で大勢の人が死んでいるこの時に、いったい何を書けばいいのか、と渡辺はいう。日記に戦争のことに触れなくていい日がきますように。祈っているだけだけはだめなのでこうやって反戦の言論を張っているのだが。 戦争を支持していた人もこのところの報道によってまちがっていたことに気づいてほしい。支持していない人でも当初の大規模な空爆がされずにフセインの殺害をねらった作戦に切り替わった時にすぐに戦争が終わると思った人もあるかもしれない。参戦している兵士たちも短気で終わるのなら、といいきかせて死ぬかもしれないイラクへ赴いたかもしれない。 しかし戦争は長期化の様相を呈し、民間人も含めて死傷者の数はますます膨れ上がる。アメリカ軍はイギリス兵を「誤射」で殺し(逆のケースがないのは不思議)、住宅地などに「誤爆」する。誤爆といえば許されるといわんばかり(正爆があるとも思えないが)。作戦が失敗しているようにしか見えなくてもすべて織り込みずみなどという。前線への補給の遅れが深刻化しているという。これから一体何人の人が殺されることになるのか。ビートルズの"A Day in the Life"を聴く時に感じるように気が変になりそう。息子は明日、京都であるピースウォークに参加するという。政治に関心をこれまで持ってなかった人も今回の戦争のことをきっかけに人任せにしておいたら大変なことになることを学んでほしい。 三重で講演。直前まで内容がわかってなくて前日に連絡があって六時過ぎに家を出て三時間かけて講演会場へ。驚くほど参加者が少なかったが、講演の途中も参加者とやりとりしながら午前、午後の二回の講演をした。少ないからといって力を抜くことはありえない。話しながら、教育が重要であることにあらためて強く思い当たった。幼いライフスタイルの為政者によって国や地球が存続の危機の中にあるのだから。
2003年03月29日
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田中美知太郎は前に引いた『時代と私』(文藝春秋)の中で「「死ぬのはいや」といふやうな戦争反対論」とか「甘つたれた戦争反対論のムード」という言葉を使って僕の神経を逆撫でするのだが、鶴見俊輔は「殺されたくない」ということに戦争反対の根拠を見る。今のイラク反戦デモは三十八年前のベトナム戦争反対のデモ行進とは違う、と鶴見は指摘する。鶴見の関わるピース・ウォークに最初に参加した男性(数でいえば女性の半分)には共通の性格があった。彼らは「女にひっぱられる男だった」。もう少し踏み込んでいえば「女にひっぱられて生きる役割をよろこんで受けいれる男たちのようだった」 男と女という区別はどうかと思うが、先に引いた田中の言葉を使うならば「甘ったれた戦争反対論」がこれからの時代は大手を振って認められる時代になってほしい。昨日、引いたボーカス議員が「女にひっぱられる男」(言葉があまり適切だと思えないので、女性の言葉に真摯に耳を向ける男)であれば世の中は変わるだろうに。「我々夫婦はお互いの意見を尊重する」というきれいごとをいいつつ、結局のところ、初めから受けいれるつもりはないので、何も聞いていないのだ。そんなふうだから武力による民主化などというそもそもありえないナンセンスのきわみである形容矛盾を問題なく受けいれたりするのであろう。 戦争反対のデモができるというのはそのような自由を認める体制があるからなのだが、ノーベル平和賞を受賞したメアリー・マグワイヤらが逮捕されたとか、ニューヨークのロックフェラーセンター周辺でイラク攻撃に反対するために路上に横たわった百五十人が逮捕されたというニュースを読むと言論の自由が危うくなってきているのではないか、と思ってしまう。東京・銀座では二十一~二十三日まで日祝日恒例の歩行者天国が中止された。警視庁交通部のあげる中止の理由の一つとして「突発的なデモなどで混乱が起きると困るため」というのがあがっていたが、このようなことは危険な兆候であるように僕には思える。 このことは人の側にも問題はあるので、今後戦争が長期化したら次第に報道が少なくなり関心が薄れるということがあってはならないと思う。ワイドショーなどを見ているとトップの話題が四十五歳で自殺した俳優のことだったりして驚いてしまう。ある「モーニング」の最新号に風刺漫画があった。タマちゃんの捕獲騒動が報じられたが、タマちゃんの鳴き声を人間の言葉に翻訳する機械が作られた。はたして北の海に帰りたいと思っているかわかると期待して皆は機械のディスプレイに表示された文字を見て愕然とした。「イラクの人々に平安が訪れますように」…
2003年03月28日
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戦争は長期化する様子だが戦争に対する感覚を鈍らせてはいけない。兵士であれ民間人であれ人が人が一人死ぬということはたいへんなこである。劣化ウラン弾をなぜ使う? 戦争が終わっても人間の身体、環境に影響を残すというのに。「戦争はどんな形であれ、残酷だと思います」と小泉首相はいうがそれなら戦争を支持してはいけないと思う。福田官房長官は「(米英軍は)極力そういうこと(民間人が犠牲になること)を避けるよう注意しながらやっているが、注意をしても避けられないことはあり得る。イラクのミサイルが、一般住宅の近くに配置されているという事情もある」と述べ、ある程度の被害はやむを得ないとの考えを示したという。ひどい話ではないか。 米民主党保守派のマックス・ボーカス上院議員(モンタナ州選出)のワシントン市内の自宅の窓に、「平和こそ愛国的」と書いた反戦ポスターが掲げられたという(asahi.com)。妻のワンダさんの「仕業」。「イラクが大量破壊兵器を持っている証拠はなく、米国に他国を先制攻撃したり指導者を暗殺したりする権利はない」とブッシュ政権と夫の主張を一刀両断にした。ボーカス議員は「我々夫婦はお互いの意見を尊重する。だから夫婦の結びつきも強いのだ」というが、先日紹介した土岐善麿の歌を想起した。土岐は妻との思想の違いを正直に見据えた。鶴見俊輔は、「敗戦後の歌人としての一歩をふみだした土岐善麿は立派である」という。ボーカス議員はどうなることか。 個人的な話。『人はなぜ神経症になるのか』が増刷になった(三刷)。うれしい。 また書店に並びますように。この本はアドラーの著作の中では症例が多く比較的読みやすい。神経症についての僕の解説が巻末にある。なぜか書店では一群のアドラー心理学関係の本とは同じ棚には並んでいないことがある。
2003年03月27日
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戦争が早く終わってほしいではなく、終わらせねばと思う。アメリカの勝利を期待しているのではない。即停戦である。言葉を失ってしまいそうである。現状認識が甘かった。もっともっと早くから反対を唱えるべきだった。クラスター爆弾、劣化ウラン爆弾の使用などとんでもない。 公文教育研究研究会の彦根事務局で指導者対象の講演。子どものやる気を起こさせるという言い方は少し違っていて、子どもがやる気を起こすのを援助するというべきだろうという話から始めた。理想的に従順な子どもばかりなら問題はないだろうが、実際には学習に取り組まない子どももいる。そのような行動の目的の分析と対処法を具体的な事例に即して考察してみた。強い反応があり講演の後の質疑応答も活発で予定していた時間を延長して話すことになった。自分で判断できる子どもになってほしいという話をした時今回の戦争のことを思わないわけにはいかなかった。人の判断を仰いでばかりいる政治家は国を危機に陥れる。 教え子からメール。母子で学んでいた人で二人とも国家試験に合格した、と。僕はわずか十二回臨床心理学の講義をしただけで試験には何も貢献していないが、忘れずに結果を報告してもらってうれしかった。暗い日々が続く中の明るい話。
2003年03月26日
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朝までよく眠れなかった。午前中一件カウンセリング。夜は昨日書いたように急な講師依頼があったので学校まで面接へ。初対面の人と会うのはいつも緊張する。給与は何をもって決められるのかと率直にたずねてみたが、今の段階では履歴書すら出してないので今後どのようにして僕の力が認められるのかいささか不安。昇給及び講義数が増える可能性を示唆されたのはよかった。これまでいろいろなところで教えてきたが概して非常勤講師の給与は信じがたいほど低い。昇給のない学校もあれば、ただ年数だけによって(わずかずつ)上がっていくところもある。こういうことはあまり口に出したことはなかったがいえるような雰囲気があったのでたずねてみた。もちろん僕の講義は(講演も同じ)報酬がいくらだからと手を抜くわけではなく常に全力投球なのだが。きっとこの学校のことが気に入ったのだと思う。 帰りに本屋によって『戦争倫理学』(加藤尚武、ちくま新書)を買う。同じ著者の『子育ての倫理学』(丸善ライブラリー)では少年犯罪の根本的原因が乳幼児期の子育てに求められていて反論したいと二年前の三月九日に日記に書いたが果たせてない。そういう先入見があって購入をためらったがup-to-dateなトピックなので買うことにした。 ここでいう戦争倫理学は戦争のルールという意味である。戦争には倫理はないのだから、戦争倫理学という言葉は自己矛盾ではないかという僕も最初題名を見て思ったのと同じ疑問にも著者は答えている。著者は連続テロに対する報復戦争の国際法的な正当性は成り立たない、と主張する。感想は後日。 鶴見俊輔の「「殺されたくない」を根拠に」(朝日新聞、2003年3月24日夕刊)。この中で引かれている土岐善麿の歌が印象的である。あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ 土岐は明治から大正にかけては戦争に反対したがやがて新聞人として昭和に入ってから戦争に肩入れした演説をした。その間家にあって台所で料理をととのえていた妻は乏しい材料から別の現状認識を持ち続けた、と鶴見はいう。一九四五年八月十五日の家の中の出来事を歌った一首である。「敗戦当夜、食事をする気力もなくなった多くいた。しかし、夕食をととのえない女性がいただろうか。他の日とおなじく、女性は、食事をととのえた。この無言の姿勢の中に、平和運動の根がある」「理論は、戦争反対の姿勢を長期間にわたって支えるものではない。それは自分の生活の中に根を持っていないからである」 鶴見とは別の視点から生活の中に根を持った平和運動として、日常生活における力ではなく言葉によるコミュニケーションの重要性を強調したい。 FA18戦闘攻撃機パイロットの言葉がasashi.comにあった。軍側はピンポイント攻撃を強調し標的がはっきりしない場合は爆弾を投下しない命令を出しているが、このパイロット、ゲーリー・ショーマン中佐は爆撃後の感想を聞かれて表情を変えず淡々と答えた。「もし人がいたとしても悪いやつらだ。問題はない」問題おおあり! ブッシュ大統領の認識もこれと大差ないのかもしれない。クラスター爆弾のどこがピンポイント攻撃なのか。巻き添えを食う民間人は悪い人なのか。
2003年03月25日
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朝方、息子が部屋にやってきてあやうく僕の布団の中で寝てしまいそうになったことについてはもう一つの日記のほうに書いたが、今しも寝入りそうな息子の顔は幼い頃と同じに見えた。今回、ニュージーランドに行く時に長旅なので本を持っていったが、最初に選んだのが、戦争で殺された学生の手記である「きけわだつみのこえ」だった。そのことに触れた息子のレポートを読んだ後だったのでなんとかして戦争のない世界を創って行かなければ、と強く思った。愛する人を守りたい。しかしそれは戦争という手段では決して達成できない。「力が支配した石器時代」(マハティール首相、マレーシア)に戻ることでは達成できない。 ニュージーランドで学んでいる姫の今日の日記、「日々是混乱。」を読んで深く共感した。戦争が始まったので何ともならないというような悲観論にも、何とかなるだろうという楽天論にも与したくない。何かできることから着手していくしかない(僕の『アドラー心理学入門』では二匹の蛙のエピソードを引いて「楽観主義」という言葉を使った)。 昨日こんな発想をする人がいるとは驚きじゃないか、と書いたが、池澤夏樹のメルマガのバックナンバーを読んでいたら、集中的な大量破壊でイラク側の戦意喪失を図るこの戦略のことを「アメリカの軍事関係者」(おそらく昨日僕が引いた人と同じ人だろう)は「ヒロシマ効果」と呼んだという。池澤はいう。「日本としてはこれは聞き流せることではないはずです。アメリカの軍人は今もヒロシマを成功した戦略と見なしている。10万人の死者のことも、あとあとまで残った放射能障害のことも、まるで念頭にない」 小泉首相は「世論に従って政治をすると間違う場合もある」と豪語した。歴史はこの言葉の真偽をほどなく明らかにするだろう。反戦の声を無視して強行された今回の軍事侵略(以外にどう呼べばいいのだ)。辺見庸が「思えば、私たちの内面もまた米英軍に爆撃されているのであり、胸のうちは戦車や軍靴により蹂躙されているのだ」というのは正しい(「私たちの内面をも蹂躙」朝日新聞、2003年3月22日)。 大阪のある学校から講師依頼があった。かつて教えた学生が就職した学校でその学生が推してくれたようだ。明日、面接。
2003年03月24日
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恐怖は兵士だけが感じるのか? 戦争について外国のメディアからの間接的な情報しかなく、~らしい、~ようだ、ばかりでイライラする。 アメリカ、イギリスの大規模空爆の戦略を提案したというハーラン・ウルマンは孫子の兵法を参考にしたという記事を読んだ。「孫子がいったように、戦わずに勝つことを考えた」「衝撃と恐怖は的の石を制御する。衝撃は一瞬のうちに心に傷を与え、恐怖は長期的に選択肢はもうないと相手にわからせる」 衝撃と恐怖は民間人を避けて兵士だけに与えられるものではないだろうに。ウルマンはこんなことまでいう。衝撃と恐怖が有効であった例として広島と長崎の原爆を例にあげる。「二発の原子爆弾で日本人は自殺的抵抗からみじめな降伏へと一変した。驚きじゃないか」 こんな発想をする人がいるとは驚きじゃないか。それでも私はノーといわない… 小泉首相は「我が国のかけがえのない同盟国のアメリカ」を支持するのは同盟国として当然だといい(防衛大学の卒業式で)、アメリカが各国に対してイラク大使の国外追放と大使館の一時閉鎖を要請したことについて川口首相は「コメントしません。なぜコメントしないかも申し上げません」といった。外交関係のある国の大使を国外追放するなど考えられないが、日本は追放しかねない。そもそもアメリカが他国に対して第三国の大使追放を求めるとは驚きじゃないか。ふ~。 戦争に目を奪われて見落としてはいけないニュースもたくさんある。中央教育審が教育基本法改正を答申したこと(二十日)、偵察衛星の打ち上げ(二十一日)。そして肺炎のニュース。 夜、町内の組長をしているので最後の会合に出席。自治会として府会議員の某氏(二人)を推薦した、事後承諾になるが、と。市会議員選挙の時に僕がクレームをつけたからか。どんな人かもわからないのに。こういう時に異議を唱えないで黙っていると後に大事になるわけである。悪女(わる) 深見じゅんの『悪女(わる)』いよいよ最終巻(十九巻)へ。読み終わるのが惜しい。まあこれだけいやなやつがいるものだと思う人たちが次から次へと麻里鈴(まりりん)をいじめぬく。しかしどうやらそれをいじめだとは思っていない。本当はあんな人ではない、と無邪気といっていいほど楽観的なまりりんは悪女(悪男)にぶつかっていく。 仕事をする時選ぶことができる。いやだいやだと思ってするか、楽しくするか。まりりんは後者の典型。楽しめた。はたしてどんなエンディングか。
2003年03月23日
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戦争に明け暮れる日々… ウムカスルの新港を確保した米海兵隊が一時、イラク国旗に代えて星条旗を掲げたという報道について、フーンイギリス国防相は「激しい戦闘の末にその成功を示したいという気持ちからだろうが、米側には注意を喚起したい」と語ったという。大きな勘違いをしているように見えるが、アメリカの本音を表しているとも見える。 ローマ法王庁のラツィンガー枢機卿が、ブッシュ、フセインの演説の中で神の名を引き合いに出して戦争を正当化していることを「まさに悲しむべきこと」と批判した。 僕の先生筋にあたる田中美知太郎の『時代と私』(文藝春秋)を少し読み返していた。「戦時の精神的雰囲気」という章には、こんなことが書いてあった。「民主政治といへども、劣悪者を指導者や執行部に選ぶなら、たちまち最悪の独裁政治に転化してしまふだらう。そしてこの独裁政治においては、組織の末端において愚劣さは倍加されるから、国民の難儀はますますひどいことになってしまふ。だから、わたしの立場は、このやうな愚かしい国内政治を容認し得なかつたために、それの不始末としての戦争にも反対だつたといふことになるだらう」 今の状況にそのまま通用するであろう。いつの時代にも愚行は繰り返される。 同じ田中が一九四一年に書いた(出版社が掲載を見合わせたので未発表)「サルディス陥落」という小論には、「一般にわが国の教養のうちには、いろいろな報道を吟味し、批判する教育が欠けていはしないだろうか」とある。今日いうところのメディア・リテラシーである。毎日戦争のニュースに触れ、情報がありすぎるほどあるように見えるが、どんなに情報を集めてもそれだけでは正しく処理はできない。この論文が書かれた時代を反映してこんなふうにいわれている。「今日の統制されたニュースは、史料分析の練習問題としては好適であるとも言える」。正しく情報を処理できなかったら「その結果は状況判断を誤り、国政を危くするようようなことにもなるからである」。「いろいろな報告を批判的に取り扱う方法というものは、何よりもまず為政者に必要なのである」。出版社の自主検閲にかかったのもわからないわけではない。イラク報道もかなり報道統制されているのではないか。死傷者の数があまりに少ない(それならもちろんいいわけだが)。 国政を危うくする為政者から身を守るにはただ感情的に反発しても始まらない。ネット上で行われているらしいアメリカ製品の不買運動は高価なフランスワインを流すのと同じくらいポイントレスのように思う。
2003年03月22日
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お彼岸 父が墓参りのためにやってきた。どうなの、とたずねると「身体の調子がよくない。フランスに行く話があったのだが、医者に聞くとなんともいえないといわれたので、そこまでいわれて行くわけにもいかないし」と残念そうだった。ニュージーランドから帰ってきた息子は父がきたのと入れ違いに学校へ。父に買ってきたおみやげを手渡してあわただしく出かけていった。写真は墓参りに行った時に撮ったもの。風のない暖かい日だった。やむをえない、のか 小泉首相がアメリカの決定を支持するといった際の「やむをえない」という言葉はドイツでの報道では訳されなかったという。ドイツ在住のshatzky☆さんはこのことについて、このやむをえないというのは単なるいいわけにすぎなかったからドイツのテレビ局は切ってしまったのだろうと分析されているのはそうかもしれないと思った。「やむを得ない、仕方ないという言葉は、魔法の呪文であり、ある種の免罪符的効果を持つ」との指摘はそのとおりである。プラトンは正義について考察する際、国家レベルで考察することを提案したが、プラトンのアプローチとは逆に国家間で今起こっていることを個人レベルで見直すといろいろなことが見えてくる。 ついかっとしてあなたを叩いて(あるいは、殺して…)しまったけれどやむをえなかったのよ、などとは決していえない。無関心ではなくて 宇多田ヒカルが日記を書くとたちまちニュースになる。三月二十日付けの日記では、戦争に、賛成する人も、無関心な人も、好きじゃないな。賛成する人も、無関心な人も、同罪」と書いている。何かできるかといえば何もできないかもしれないけれど、あるいはイラク攻撃支持であれ、無関心が一番危ないだろう。 戦争が始まったけれど池澤夏樹がいうように、だからといって戦争に反対する理由がなくなったわけではない。池澤の最新のメルマガの言葉を引くと、「むしろ逆なのです。これから本当にたくさんの人が死にます。早く止めさせるにはやはり戦争反対の意思表示をしてゆくしかない」
2003年03月21日
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イラク戦争始まる とうとう戦争が始まった。短期で終わるという予想もあるようだが何も今の時点で予想できない。日本は石油の備蓄は百七十日分あるから大丈夫というような報道を聞いたが、それまでに終わるかどうかわからない。前日配信されたメールマガジンですら直近未来を読めてないのでたちまち色あせて見える。 いうまでもなく僕には限られた、しかも確かめようがない情報によってしか判断できないのでもともとの情報が誤っているとお手上げである。見ているものが真実とは限らない クウェートにイラク軍からミサイルが撃ち込まれた。これが射程三百キロのスカッドミサイルならイラクは射程百五十キロを超えるミサイルを禁じた国連決議に違反して保有していたことになるが、イラクのサハフ情報相は「保有していないものを撃てるはずがない」と否定した。 湾岸戦争の時、バグダッドがアメリカのミサイル攻撃を受け、子どもを失った主婦が泣き叫ぶ映像が送られてきた。アメリカの非人道的な攻撃を印象づける映像だったが、後にわかったことにはこの母親は外務省の報道担当官だったという。フセインの命令で演技していたというわけである。 柳田邦男が『人生がちょっと変わる』の中で紹介しているこの話とて確かめようがない。ただ柳田が次のようにいうのはそのとおりだと思う。「確かに画面に映っているのは事実なんですが、しかし同時に、その中にはわれわれが誤解してしまうもの、あるいは理解を妨げるものも入っている。それをいつも見ていないといけない」(p.272)戦争で解決したい人がいる 田中宇の国際ニュース解説に書かれていた次の言葉はそのとおりだと思う。「戦争は不必要で悪いことに決まっている。世の中に「戦争でしか解決できない問題』などありえない。「戦争で解決したいと思っている人がいる問題」があるだけである。「正義の戦争」という言い方は、全くの欺瞞である」再び喧騒の日々 息子がニュージーランドから帰って三日目。今夜は娘の泣き叫ぶ声が家中に響いた。どうやらチャンネル争いらしい。息子はBSでBBCの生中継を見たい。娘はモー娘。が出演する番組を見たい。娘にとって平和な日々は終わったのである。それにしてもティッシュペーパーをいっぱい引っ張り出してきて泣きながら叫ぶ娘の迫力は相当なもの。画面を分割して息子がヘッドホンを聴くということでなんとか事は収まったのだが。 ホームステイ先では毎晩皿洗いをしていたらしく帰ってからもやっているのには笑ってしまった。 娘は今日、小学校の卒業式。式から帰ってきた娘は中学校の制服を着ていた。どうして私服だったらいけないのだろう。ワンポイント(というのか)の靴下でも目をつけられるって雑誌に書いてあった、と友達と話しているのを小耳に挟んだがなんだか窮屈そう。
2003年03月20日
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朝起きるともう息子は学校に行って、いなかった。昼過ぎ帰ってきた息子はラーメンを作り始めた。僕は傍らでうどんを作った。いざ食べようとする時、うどんが食べたいというので交換することに。逆ホームシックだそうでなんで日本にいるんだろう、と何度もいう。 不在の間のイラク情勢について息子に説明する。アメリカを支持するかどうかは「その場の雰囲気」と首相がいったことに一番驚いていた。外相もブッシュのスピーチを聞いてからでないと何もいえないと強調していたが、自分で判断できないで人の顔色をうかがい気にいられようとするのは神経症的である。自国を守るのに他国の了承はいらないといってのけたブッシュも幼い自己中心的ライフスタイルの持ち主である。息子がいうには、「ブッシュを初めとする閣僚の多くはベトナム戦争時になんだかんだと理由をつけて戦争に行ってない。戦争を知らない」小泉首相も知らない。彼らは自らが戦争に行くという可能性は少ないかもしれないが息子の世代はそうではない。日本はアメリカを支持すると首相がいうところの日本に所属したくない気持ちで今はいっぱい。不信感を持っているのに愛国も何もあったものではない。『心のノート』を配付したらいいというものではないだろう。 初めから戦争をしようと決めていたブッシュは苦渋の決断をしたわけではない。安全な場所はないといわれるバグダッドに残っている市民は明日はどうなるのか。へらへら笑いながら話しているコメンテーターといわれる人を見ていると戦争につきものの「感情喪失」状態に陥っているのではないか、と思う。このような状態でなければ兵士は残虐な行為をすることはできないだろうし、そもそも戦争で傷つき殺されるであろう人たちの顔を思い浮かべては戦闘行為は不可能である。 湾岸戦争が終わってから何年もしてからのことだが、ある日乗った満員電車に空いた席があった。疲れていた僕はすわったがすぐにその席が空いていたわけがわかった。隣に一人で大きな声で話している老人がすわっていたからだ。「湾岸戦争、怖かったなあ」とその人は僕に話しかけた。僕は「怖かったですね」と答えたが、この人の感覚こそ正常ではなかったか、と今は思う。「でも終わってよかったですね」と答えたけれども、またも戦争が始まろうとしているのである。あの人は今頃どこかで戦争のことを聞いているだろうか。 今日は誕生日。覚えている人はほとんどいないけれども日記だから書いておこう。
2003年03月19日
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アメリカのイラクへの最後通告とフセインの亡命拒否宣言で早期開戦の可能性が高まった。池澤夏樹は国連の査察団の撤収はないという見方をしていたが(査察団の活動は一種の人間の盾を形成するのでアメリカは攻撃に踏み切れない、と)査察団はキプロスへ退避することになった。この決定は現状を鑑みるとやむをえないと思う(日本がアメリカの武力行使を支持することは「やむをえぬ決断」ではない)。バグダッドで安全なところはないとアメリカはいうが、退避できないイラクの民間人はどうなるというのか。 息子が帰ってきた。「わざわざ帰ってきてやったんだぞ」と。疲れていたがテンションが高い息子の「講義』を久しぶりに聞いた。帰る前に二度も電話をかけてきたりするものだから心配になって、このまま会えなくなったりしたらどうしようと思ってしまったが、また会えてよかった。 ホームステイ先は夜十時になると家中真っ暗になって朝は七時まで「おばあちゃん」は起きてこなかった、だから毎日九時間寝ていた。滞在先のおばあちゃんは一人暮らしなのだが、近くの同じ高校生を引き受けていたやはり一人暮らしのおばあさんとそこに滞在する高校生と夜の食事などは一緒にしていた。食事が住んでからは四人でボードゲームをしたり昼間通っていた語学学校に車でもう一人の生徒ともども送ってもらっていたとのことだった。「同じクラスの人?」「いやあ全然知らなかった」(全部で四クラス)「同じクラスの人じゃなかったんだ」「おお」「家事は手伝ってたの?」「ああ、毎晩食器を洗ってた」 この件については異様に言葉が少ないのですぐわかってしまったのだが、もう一人は女子生徒だった。はりきって皿洗いをするわけだ。 また洗濯物が明日から増える。毎日洗濯してもらっていたようで思っていたほどには多くはなかったのだが。
2003年03月18日
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四日市で講演 四日市で講演。小さな子どもさんのお母さん方が多いように見受けられた。三時間の講演のうち、後半の一時間強を質疑応答に充てた。一度に三人ほどの手が上がることがあってどぎまぎした。これだけの時間では十分話せたとは思えないが、少しでも育児の負担が軽くなるお手伝いができたら、と思う。講演の受付の列に並んだ。どちらさまでしょうか、と問われたので「岸見です」と答えたが、僕の名前は聞き取りにくいみたいで再び問われもう一度いった時点で隣にいた人がわかってくださった。きっと講演者(なんなんだ!)には見えなかったのだろう(別に試したつもりはありませんので悪しからず)。 よほど意識していないと子どもに罰になるような言葉をかけている。子どもに言葉をかけるのはなんと難しいことか、と講演を聴いて思った人は正しく理解されたわけである。ニュージーランドの息子から電話 朝八時に息子から電話があった。「ひょうじけんがい」という表示が出たのですぐにわかった。どうやらホームステイ先からホテルに移動して最後の夜を過ごすようだ。「はい…今日帰るみたいなこといってたと思うけど、明日やし」僕は何も聞いてないって。 夜、再び電話(NZは十時半)。疲れ果てた感じ。眠そうだった。「明日は五時起き。帰るのは(関空が)七時半くらい。もう三ドル二十セントしか残ってない」「迎えに行こうか?」「車じゃないと意味ないから」「はいはい、じゃ僕はパスね。気をつけて帰っておいで」誰がコロンブスを発見したか コロンブスがアメリカにきた時コロンブスは「新しい進んだ文明を教えてあげよう」といった。インディアンの首長はいった。「何を生意気いうか。われわれはここに何百年も生活して平和に暮らしている。あなたたちの世話になる気はない」 ブッシュのことを思った。なんともひどい状況になってきた。
2003年03月17日
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電車の中で疲れて寝てしまった。寝入る直前電車の中で知っている人が近くの席にすわっているのを見た。それがいけなかったのか(僕のことに気づいてもらえると思ったのかもしれない)ふと気づいたら降りる駅だった。その人は僕に声をかけてくれた。「車で送ってやるから」と。駅からそんなに遠くはないのだが歩いて帰ったらびしょ濡れになっていただろう。「しかし見事なもんだな。寝てるからどうなるかと思ってたら駅に着いたら目が覚めるんだ」と感心されたのだがそんないいものではない。戦争を望んでいる乗組員はいない キティホークの艦長が戦争を望んでいる乗組員は一人もいないと語ったという記事をasahi.comで読んだ。戦争が回避できる可能性は意外に高いのではないか、という池澤氏ほど楽観的ではないが何とかならないかと日々思う。息子は十八日に帰国予定なので何とかトラブルには巻き込まれることなく帰れる様子。ニュージーランドでは第二次世界大戦時のニュージーランドの様子をインタビューすることを計画しているがたくさんの人に聞けたのかどうか。インタビューの原稿を出発直前に見せてもらったのでインタビューのことは知っているがそれ以外のことは何も知らない。人と国の区別 ナショナリズムは感情に流されやすいので、あるいは、感情に訴えるので北朝鮮の拉致事件があるとたちまちナショナリズムを支持する人たちに利用される。文部科学省が大学入学資格をインターナショナルスクールの卒業生には認めるが、朝鮮学校などの民族学校にはこれまで通り認めないというのは理不尽である。背景には北朝鮮の拉致事件があるという。朝鮮初中級学校に通う生徒が背中を突き飛ばされたり、石を投げられたことがあったが、個人は国家と区別しなければならない。イラクの人に何の憎しみはない。ブッシュ大統領のやり方は疑問に思うがアメリカに住む人に憎しみはない。金城一紀『GO』(講談社)。話を聞くということ 柳田邦男が日野原重明からシンポジウムで聞いたという話(『人生がちょっと変わる』新潮文庫)。心不全を起こしては病院に救急入院してくる主婦がいた。若い医師はリウマチ性の心臓病なので心電図を取って心不全の状態を調べ投薬による治療をして帰宅させていたが、ある日、日野原がこの患者を診ることになった。丁寧な問診により、エレベータのないアパートの五階に住んでいることがわかった。ごみを出すにも買物に行くにも五階の階段を上り下りをしていた。これがリウマチ性の心臓病にいいはずはない。生命の危険さえある。日野原は問題点を説明し、一階に移させた。その後、この患者の心不全で駆けこんでくることはなくなった。「第一に必要なのは薬ではなかったのだ」(p.120)。 自分の常識を当てはめて話を聞くと聞き逃してしまう。わかったと思わないで先入見なしに聞くことはむずかしい。
2003年03月16日
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このところ土曜日はずっと講演などで出かけていたが久々に講演の予定がなく朝から夜までカウンセリング。 ブッシュ大統領の父親(Mr Bush Sr)がアメリカ単独のイラク侵攻に反対を表明したというTimes Onlineの記事を読んだ。もしもイラクとの戦争が国際協調によって支援されなければ中東和平の希望は打ち砕かれるだろう、と息子に語ったという。ブッシュ大統領は父親のアドバイスに従うことで知られているそうだがはたしてどうか。この数日親子の問題を取り上げてきたので政治的なこと以外の視点からも僕の興味をひいた。 子どもが親といさかったものの引っ込みがつかないということはあるようだ(逆のケースももちろんありうるだろう)。そんな時なんらかのきっかけがなければ平行線のまま折り合いがつかないことがある。プライドを傷つけずに今いるところから撤退できるきっかけをつくらないといけないこともあるだろうし、負けるように見えても譲らなければならないこともあるだろう。結局のところどちらが正しいかどうかということは大きな問題にはならない。正義に固執することがいかに危険かは今の国際情勢を見ればわかる。池澤夏樹は、「実際の話、戦争が回避できる可能性は意外に高いのではないかとぼくは思います」と楽観的だが、ブッシュがいかに撤退できるかにかかっていると思う。 子どもとの話し合いについて今日助言したこと。話し合いの目標を明確にする。いきなり最終的な目標を達成しようというような遠大な計画を立てない。一回の話し合いで決着をつけようと思わない。思春期の子どもであれば大きな声を出されたりしたら親といえども怖いこともあるだろうが、親が対峙できなくて誰が対峙できようか。親子という近い関係ならこちらが怖いと思うならば子どもも怖いと思っているのではないか。怖れは実在しない。人が相手との関係の中で創り出しているのである。
2003年03月15日
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吉川英治の『宮本武蔵』の中で又八(武蔵の幼友達)の母親であるお杉ばばが「父母恩重経」(ぶもおんじゅうきょう)を写経するという話が出てくる。お杉ばばが留守の間逗留先の男の一人がこれを読み、他のものがこれを聞く。お経なので最初は意味がうまく理解できないが少しずつこの父母の恩の広大さを説くお経の言葉が心に染み渡り、皆が泣き出す。小説の話の流れとは独立して長々と引用されているので作者の特別な意図が感じられるのだが読んでいてふと亡くなった母の言葉を思い出した。 僕の卒業した高校ではよくお経を皆で唱える機会があった。毎月一回ある弘法大師の忌日法会である御影供(みえいく、みえく)では四弘誓願(しぐぜいがん)を唱えたりした。この日は校長の法話を聴くだけで授業はなかった。こんな日があるのなら七時間授業(今どきはめずらしくないのかもしれないが当時は毎日七時間授業があるというと驚かれた)する意味はないのでは、と罰当たりな僕は考えたものだが、母がある日「父母恩重経」の話をしたのをふと思い出したのである。今はどうなのか知らないが僕の頃は成績表は生徒には渡されず親がもらいにいくことになっていた。生徒を信頼していないんだな、と僕は思っていたが、それはともかく、受け取りに行く日には御影供の時のように親が講堂に集まり「父母恩重経」を唱えるとふと母が話したのを思い出した。どんなお経なのかも聞いたような気がする。でも今となっては記憶間違いかもしれない。『宮本武蔵』によれば、子どもがどんなふうに親の恩を受けて生まれ育つかを描写するこのお経は子どもにこそふさわしく親向けではないようにも思う。「父に慈恩あり 母に悲恩あり そのゆえは 人のこの世に生るるは 宿業を因とし 父母を縁とせり…」 後の方にはこんなことも書いてあるので親が唱えたわけもわからないわけではない。「父は子に衣を索(もと)め 母は子の髪を梳(くしけず)ずり 己(おの)が美好はみな子に捧げ尽くし 自らは故(ふる)を着、弊(やぶ)れたるを纏(まと)う」先に紹介した親の自己犠牲的な愛(とんでもない…)が説かれているわけである。 母の話はこれっきりだったが母は一体何を思っていたかはわからない。その頃の僕が後に育児や教育について講演することになろうとは夢にも思っていなかったが、母が聞いていたのとはずいぶん違う親子関係のあり方を僕は話しているので母がもし僕の講演を聞けばどんな反応をしただろうかと思う。 母はちょうど僕と二回り年上で、同じ干支、僕と母は同じ日に生まれている。そうすると僕が高校生の時は母は四十歳から四十二歳だったわけで、今の僕よりも若かったわけだ。 今日夕方娘の友達が大挙して押し寄せた。先生に卒業式に渡す(娘は小学校を卒業する)色紙を書くために集まったようなのだが、僕を見て「おっちゃんですか?」という。他に言い方があるだろうと思ったりもするのだが、僕が彼らくらいの時同級生の親を見ていたように僕のことも映っているだろうか、とふと思った。僕の父も母も僕の年齢の頃はもっと「大人」だったような気がする。この年になってもまだ幼いように思ってしまう。母は四十九歳で亡くなったが、もうすぐその年を追い越しそうになっているというのに距離はいっこうに縮まりそうにない。
2003年03月14日
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めずらしくカウンセリングが立て込んでいて朝から3件。いずれも急に予約が入ったカウンセリング。その後尼崎で研修会。すっかりエネルギーが枯渇した感じがする。精神科に勤務していた頃、毎晩こんな感じだった。医院を後にするのが一番最後だったことがよくあったが、まれに他のスタッフが帰った後院長と僕とだけが残っていて、やり残した仕事を中断して玄関の灰皿のところで煙草を吸いながらあれこれ話をしたことがあった。心を許しあえた一時だった。最終かその前の電車で帰り、駅から十分ほどの人通りのほとんどない田んぼのない道を歩いた。その頃、まだ息子は小学生だったがまだ起きていた。ある時煙草臭いぞ、と一言いわれ、それでそのまま煙草を止めてしまった。あの頃いつも僕を見張っていた息子は僕の妻のような役割を果たしていた。 思春期の子どものことで親がカウンセリングにくるというケースで、子どもたちが小さかった頃と違って同じ年頃になったので親の気持ちがよくわかる。親の子どもを思う気持ちは切なるものがあるが伝え方が上手でないので子どもとぶつかる。親がいうことが正論であればあるほど子どもたちは反発する。親のいう通りだと思っても素直に認められなくて感情的に反発する。僕の子どもたちも時にひどいいいかたをすることがあってどきまぎすることがある。それでも何もいわないで黙っているよりははるかに望ましいように思う。この親なら話せると思ってもらえたのならうれしい。僕は父親には何も話せなかった。ひどい話で、初めから話にならないと思っていたふしはある。何年か経った時に、あんなことがあった、と懐かしく振り返れる日がきますから、と話すことがあるが、親子共々どうしていいかわからないという現状にあってどこか突破口を見つけて直面する問題の解決に向けて動き出せる力になれたら、と思う。結局のところ僕には子どもを助ける力があるわけではない。
2003年03月13日
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掲示板の書き込みで気がついたのだが、息子が日曜日にニュージーランドへ旅立ってから夜遅くまで起きていることがなく日が変ってすぐに寝てしまっている。もっとも朝まで寝ることはなく何度か(困ったもの…)目が覚めるのだが。毎晩、三時くらいまで勉強している息子の気配がないとどうも調子が狂う。毎日洗濯物を干しているが息子がいないと楽。洗濯物の量が極度に少ないのである。彼は一体一日に何度着替えをするのか。 頼藤和寛の『人みな骨になるならば』(時事通信社)を少し。「約束してほしい。これからしばらくは、イヤなものだから目を塞ぐといった認識上の怯懦や我が儘を振り捨てて、イヤなもの・おぞましいこと・忘れていたい現実を直視していくという難行苦行につきあってくれることを」(p.20) 怯懦は「きょうだ」、臆病で意志の弱いこと、という意味である。カウンセリングというものがどんなものか知らないのですが、とカウンセリングにこられる人は多い。もとより慎重に言葉を選ぶなどの配慮はするけれども、『楽になりました」というふうにはならないことが多い。だからといって他方ただただ怖いものではない。知らなかった自分を知ることで生き直しができるからである。初めてのカウンセリングで、次どうするか考えさせてほしいといわれると複雑な気持ちになる。親から勧められても自分で選んでほしいので待つことにしている。今日は、力になりたい、と強く思った。「今、会ったばかりなのにまたすぐに会いたくなることってない?」「あるよ。送っていくからと彼女の家まで送っていって、家に着くと今度は彼女が彼を送っていく、彼の家に着くとまた彼女を送って…と夜の間に何度も行き来した人を知ってる」「離れてると不安なのかなあ?」「そうじゃなくて、今日の楽しかった一日を思い出して、一緒にいた時に戻りたい、って思うんだろうね」「そういう感じはわかる。でももし離れている時に不安になったり苦しんだりするとしたら…?」「会っていても会ってなくても心が穏やかでいられたらいいのにね」「別れたから次に会う約束をしてなかったことに気づくことってある」「<次>のことを考えないほど充実した時を過ごせたんだね」
2003年03月12日
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朝からしっかり仕事。今日はギリシア語とドイツ語。ドイツ語はヘッセ『デミアン』の続き。二章になってようやくデミアンが登場し、『創世記』のカインとアベルの話をデミアンが独自の解釈をする。「他立」について昨日書いたら思いがけず反響があった。息子が小学生の頃、正月に父(息子にとっては祖父)の家に泊まりに行ったことがあった。それまでは親から離れて一人で泊まりに行くというようなことはなかったがこの頃から一人で泊まってくるようになった。電車にも一人で乗れるようになった。父の家に泊まりに行く時の息子の言葉を僕は聞き逃さなかった。「こんなふうにして僕はおかあさんから離れていくんだ…」母であって父でないところにはきっと息子には何か意味があるのだと思うが僕にはわからない。保育園の頃、送り迎えをもっぱら僕がしていたけれども密着感は母親との方が強かったということかもしれない。「離れていくんだ」という宣言はまだ自立していないということの証左でもあるがそれからもう何年も経っているから精神的には自立しているはず。ニュージーランドでホームシックなどということはありえない。僕の方は片思いの恋人みたいで、常は少しも思っていないのに離れると心配していてもちっとも連絡をしてはこない息子のことを思っている自分に驚いている。 夕方、生命保険会社の外交員が集金に。もうかれこれ二十年も払い続けている。満期の時はXX円が返ってきますということなので、その満期というのはいつのことですか、と問うと五十六歳の時とのこと。一体全体それまで生きているのかも疑わしい。少しこんな悲観的な気分になっているのは、読み始めた頼藤和寛の『人みな骨になるならば』(時事通信社)の影響かもしれない。 外交員に新しい保険を勧められたが毎月払い続けるには僕の収入はあまりに少ない。例年、確定申告時に税金を納めていたが(それでなくても源泉徴収でたくさん払っているのに)今年は思いがけず返ってきそうなのでうれしい。
2003年03月11日
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今日はカウンセリングの予約をいれてなかったので昼くらいまでぼんやりと過ごした。『言葉の流星群』(池澤夏樹、角川書店)を少し。伝記的なことにあまり触れずにテキストだけを読んでいくという方針で書かれた池澤のケンジさんの詩解釈はおもしろい。 ゆっくり過ごせたがメールの返信はできなかった。参加した方の多くは月曜から出勤のはずなのでどうだったかなと思った。講義を聴いた夜もどしたという人や(ずいぶん厳しいことを話すからである、後でじわじわ腹が立つという)、中には子どもを叱ろうとしたら僕が光と共に現れたなどという人があったことをふと思い出した。なんだか怖い話ではある。 昨日、紹介したオハンロンの本に書かれたエピソードのねらいは、いうまでもなくIQが高い生徒がたくさんいることが「素晴らしいクラス」であるというような意味ではない。教師がいわば負の先入見なしに生徒と関わることで生徒の側も問題のあるクラスの生徒と見られている時と同じでいることができないということである。家庭でも子どもを信頼し尊敬して子どもと接したい。たとえ子どもが暴言をはいても(めずらしいことではない)動じないで、できていること、長所を見つけていきたい。できていないこと、短所、欠点、問題行動、異常行動をさがすことは造作なくできる。武蔵は弟子の伊織(十二歳)の利発さに驚嘆する。教える子に教えられたように思い涙する。 朝方、息子の夢を見て驚く。いきなり部屋にきて僕がその時使っていたコンピュータ(かどうかははっきりしない)を見て、なんでこんなもの買うんだ、と責められる夢。当然のことながら息子からは何の連絡もないが気にしているのかも。息子は本のことや英語のことなどで援助を依頼してくることはあるが経済的なことは別としてすっかり自立している。講義の中で思いもしない仕方で自立した子どもを見て病気になった母親の話をしたが、子どもが自立させるのではなく(それは自立ではなく「他立」という)親ができるのは子どもが自立するのを援助することだけである。自立して離れていくわけである。親という仕事は報われないことになっているのである。
2003年03月10日
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二日間の講座を終える。二日で十二時間の講義はいつもながらかなりハードで何度やっても終わってからのエネルギーの消耗が激しい。こわれるままに知っていることを話し続ける間は平気だが(休み時間も今日は調子がよかったので話し続けてたような)終わると軽いうつ状態になるという感じ。講義中まれに話の筋を見失うことがあるのだが(「えっと僕は何を話そうと思ってこの話をしたのでしょうか」と僕以外の誰もわからないことを聞いてみたくなることがある)今回はなかった(一度だけ少し危なかったのだが、息継ぎをしたら元に戻れた。聞いている人にはわからなかったと思うが)。あんなに話し続けたのに今夜は日記も書けない。ニュージーランドに旅だった息子の話をしていたら涙が出た。恥ずかし。 ビル・オハンロンの『考え方と生き方を変える10の法則』(主婦の友社)読了。エピソードがたくさん書いてあって楽しめた。 アメリカのある学校の話。問題の多いクラスがあって、二人の教師が続けて担任をおりるという事件があった。そこでその年の採用試験で不採用になった教師に電話をしてこのクラスを学年末まで受け持ってくれたら翌年は専任講師として採用するという話をもちかけた。もちろんその教師はこの話を受けた。 校長はこのクラスのことをわざと話さなかった。一ヶ月が過ぎた頃、校長がこのクラスの見学をした。校長は生徒が人が変ったように勉強に打ち込んでいることに驚いた。授業の後担任にねぎらいの言葉をかけた。するとお礼をいいたいのは私の方ですという返事が返ってきた。新任の私にこんな素晴らしいクラスを受け持たせてもらえたのですかあ、と。礼をいわれる資格は私にはないんだ…「ああ、校長先生が私に隠していた小さな秘密のことなら最初に日に私は見つけてしまったんですよ。引き出しの中をのぞいたら生徒のIQのリストがあったのです。正直大変なことになったと思いました。こんなに頭がよくて活発な子どもを授業に引きつけておくには相当頑張らないといけないといけませんから」引き出しをあけるとそのリストがあった。それには生徒の名前の横に136,127,128…と数字を書いてあった。それを見て校長は叫んだ。「これはIQなんかじゃない。生徒のロッカー番号だよ」 オハンロンは次のようにいっている。「だが、時すでに遅し。この新任教師は生徒が優秀だと思い込み、生徒も彼女の積極的な働きかけと期待に精一杯答えたのだ」(p.133)
2003年03月09日
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午前中カウンセリングの後、午後から大阪でアドラー心理学基礎講座。カウンセリングにもう何度も通ってこられる母親の表情が和み、優しく穏やかにいくのがよくわかる。子どもへの恐れは自分が創り出してきたという気づき。きっと子どもがまだ幼い頃一緒に食事ができたように、この数ヶ月持ち続けた恐れから脱却し並んで食事する母子の姿を想像すると僕までがうれしい気持ちになった。ただこんなことなのですけど喜べるようになったのですよ、と。「ただ、こんなこと」を喜べるか否かは大きな違いがあるように思う。 基礎講座は今日は「勇気づけ」と「上手な自己主張」。講演とは違って時間がたくさんあるのでゆっくりと多方面から考察できる。思いの他出席者が少なかったのだが質問をじっくり受けられてよかった。 帰り、茨木駅での人身事故の影響で列車が遅れる。八時に講座を終わって帰ったのは十時半をまわっていた。疲労困憊。 昨日の夜は疲れてまだやり残したことはたくさんあったがともかく寝ようと思って寝た。朝早く息子に起こされた。今日からニュージーランドへ旅立つのだ。今すぐ添削してほしいと何やらプリントアウトした英文を持ってくる。ニュージーランドで会う人にインタビューするための質問事項が書いてあった。急いで目を通して必要な訂正をした。同じ電車で出かけた。途中少しスーツケースを運ぶのを代わる。もう長く二人で行動することがなかったのでなんだか息子が保育園に通っていた頃送り迎えしていた時のことを思い出してしまった。電車に乗っても隣にはすわらせてくれない。「散ろうや」離れた席にすわった。関空には学校から行くらしく途中の駅で息子は降りていった。降りる時ちらっと顔が合って手を振る。声はかけなかった。息子がいないと寂しいと思った。
2003年03月08日
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強い雨風の中、娘の中学校の制服と靴を買いに小学校に行った。7時40分から8時半という時間設定は働く親への配慮なのか。娘は小柄で同級生の女の子がお姉さんに見える。どうも僕の中でも彼女は幼い時のイメージが残っているのかもしれない。中学生になるということがまだうまく納得できていない気がする。一歳の時、保育園に朝送っていって自転車からおそろうと抱き上げたら「あ~がと~」といったあの娘のイメージが強い。 過日取り上げた「世論」について(小泉首相が。「世論に従って政治をすると間違う場合もある。それは歴史の事実が証明するところだ」といったこと)天声人語氏が「世論が間違っていると思えば、指導者の役割は説得することだ。たとえばイラク戦争反対の世論が間違っていると思えば、いかに戦争がやむをえないか、あるいは必要かを説得すべきだろう」(3月7日朝日新聞朝刊)といっているのはそのとおりだと思う。武力攻撃が必要だという合理的な説明はなされていないように思う。合理的ということは情緒に訴えるような説明ではだめということである。ナショナリズムは情緒に訴えるが合理的ではない。 ビル・オハンロンの『考え方と生き方を変える10の法則』(主婦の友社)。オハンロンの提唱する解決志向のアプローチでは問題の原因分析ではなく問題の解決方法を教える。風邪を引いた時内科の医師のところにいって風邪を引いた原因をいくら聞かされても意味はない。どうしたら風邪が治るかを教えてほしいし必要があればそのための薬を処方してほしいと思うのと同じである。コメントは後日。 今日から二日、アドラー心理学基礎講座。二日で12時間という講義時間数は他のどの講義、講演より長いがやりがいがあっていつも楽しみにしている。
2003年03月07日
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今朝はずいぶん遅くまで寝てしまった。一度電話があってしばらく話をしているとすっかり目が覚めたように思ったがまた横になったら眠ることができた。もう一度ふと目が覚めたのでHPを見たら掲示板に書き込みがあったので返事を書いた。そしてまた寝てしまった。 今朝は驚いたことに息子に起こされた。書留で送られてきた新しい保険者証を受け取ってくれて部屋に持ってきてくれたのである。何やらもうすぐ行くニュージーランド研修の用意をしていた。コースリーダーか何かをしているらしい。アメリカに行くかどうかを決めなければならなかった時も情報収集して生徒側の意見をまとめる仕事をしていた。僕とは違ってリーダーシップがあるようだ。アメリカに行くのではないが、ニュージーランドへ9日に出発なのでイラク情勢が予断を許さない今、心配。 掲示板で自己犠牲的な行動についてのやりとりが続いた。ある時、大学の講師控室にいた。ちょうど昼休みにあたっていた。この時間は使ってない部屋の電気は消すということが決まったようでトイレも講師の控室も人がいなければ電気が消されるようになった。 その日はいつものように講義の前に控室に立ちよって出勤簿にハンコを押して講義の準備をしていた。僕しかいなかった。すると突然部屋のドアが少し開いて、電気のスイッチに手が伸びた。予想もしていないことだったので驚いた僕が何やら音をさせたのだろう、僕がいることに気づいたその”手”は電気を消すことなくドアの外に消え、ドアは閉まった。 電気を消すことになっていたのでこの行為に問題があるわけではもちろんないのだが、こんなふうに消し忘れがないか絶えずチェックしている人があることに僕は驚いたのだった。 そこからの連想で、こうするべきだ、こうすべきでないという「道徳」が強調され、人が自分のではなくて他の人の行いに厳しく目を光らせている社会になったらずいぶん生きづらいだろう、と思った。今日は違反者を○名捕まえました、とか… 使ってない部屋はと先に書いたが、よく思い返したら学生課や厚生課でも照明が落とされているのを見て(そこには職員もいた)異様に思ったものだ。 そういえばある県の市役所で講演した時のことだがその日は土曜日だったので暖房が入ってなかった。雨の降る寒い日だったが規則をまげるわけにいかなかったようで僕は講演中はどんな状態でも平気なのだが聴いていた人が寒かったといっているのを耳にした。節電に協力することにやぶさかではないが、あまりに杓子定規だと何かと問題が起こってくるように思う。これくらいの権利の制限はやむなしと納得できるような規則なら守ろうと思えるだろうが現実にはずいぶんと不合理な規則も多いように思う。
2003年03月06日
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小泉首相が参院予算委員会で、さまざまな世論調査でイラクへの武力行使に反対する声が多いことについて、「世論の動向に左右されて正しいかというのは、歴史の事実をみればそうでない場合も多々ある。イラクは圧力をかけると今まで協力してなかった部分を小出しにする。そういうこともよく判断しないといけない」と述べ、米英などの路線を支持する姿勢を示した、と報じられている。 たしかに世論が誤ることはあるかもしれない。多数者の考えが真理であるとは限らない。しかし世論の動向を考慮しないで自分の方針を貫くことは民主主義国家のリーダーのすることではない。世論に与さないのであれば世論が誤っていることをきちんと説明するのでなければ独裁国家のリーダーと同じであるといわなければならない。そのようなリーダーであっても手続き的には民主的に選ばれたのであり、かつてこの首相は圧倒的に支持されていたのであるが。 今日僕はタクシーに乗った。京都の街は寒く雪が舞っていた。比叡山には雪が積もり、いつもよりも山は近くに感じられた。異常に気づいたのはまもなくのことだった。直進すればいいはずの車がふいに車線を外れ、またすぐにもとの車線に戻ったりする。バックミラーに映る運転手を見て驚いた。居眠りしているのである。命の危険を感じた。 愚かなリーダーが一国の宰相を務めるというのはこんな感じだろう。リーダーの判断ミスが致命的な事故を引き起こす。後ろに乗る乗客である国民が何をする術もなければ致命的な事故に巻き込まれることになる。 運転手の居眠りに相当するような何か問題が起こった場合、乗客つまり国民がその問題を指摘できなければならない。大きな声をかけ目覚めてもらい必要があれば運転手を交代してもらう。あるいは休息を取ってもらわなければならない。タクシーを降りた後見たらこの運転中に居眠りをした運転者は道に車を止め仮眠を取っていた。幸い事故にはならなかったが運転できないほど疲れる前に手を打つべきだった。 運転のプロである人ですら誤ることがある。それならば乗客が注意を促すしかない。なのに小泉首相のような運転手は乗客(国民)の声に耳を傾けようとはしない。あるいは、ロンドンのタクシーが乗客の声が運転手には聞こえないようになっているように(もちろん、これは乗客のプライバシーを守るためなのだが)声は運転手に届かない。かくて国家という車は破滅へと突き進むことになる。
2003年03月05日
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めずらしく朝の目覚めがよかった。すぐには起きられなかったのだがまとまって長い時間、寝たので十分休息したと感じられた。いつもこんな感じだといいのに、と思ったが、続くかどうかわからない。こんなふうに寝られたのには、ちょっとわけがあった。夕方、電話の側に娘のメモがあるのを見つけたのである。「電話しろだって しつこいな ○○会計事務所 06-*****」すいません、急いで電話をした。確定申告の方まだ数日余裕があることが判明し(無理やり頼み込んだのだが)、途端にはりつめていた緊張が解かれてしまったのだ。『デミアン』続き。ようやく第一章を読み終わる。デミアンは二章になってようやく登場する。シンクレールはクローマーに脅されている。お金を持ってこい、と。ところが彼の自由になるお金はない。一部だけ持っていくがクローマーは受け取らない。あさっての午後口笛を吹くからその時にはなんとかしろといってクローマーは立ち去る。今日なおクローマーの口笛を突然聞いたら驚くだろう、とシンクレールはいう。何度も口笛を聞き、いつもたえず聞こえるように思えた。口笛の聞こえない遊びも勉強も考えもなかった。口笛は「私の依存的にし、今や私の運命となった」(S.26)。依存的と訳したabhaengigを何と訳していいかわからないが、離れられないという感じであろう。よくカウンセリングで話題になるのだが、そんなにその人のことがいやだったら別れたらというしかないように思える関係において人はその人に依存し独立することができないことがあることに思い当たった。この頃の状態は一種の精神錯乱の状態だったと書いてあるが描写はかなりリアルである。何かおかしいと思って同情する母親には信頼にこたえられず、同情はかえって苦しめることになった。また詰問する父親には口をつぐみ冷ややかに内に閉じこもるしかなかった。苦悩からの救いはまったく予期しないところからきた、と第二章が始まる。
2003年03月04日
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今日はずっと確定申告の書類作り。その前に追試の採点も。こちらはいつもながら大いに悩んでしまった。7問から5問を選ぶ形式にした。誰も選ばない問題があった。他方、人気があった(というのかどうか)問題があった。「駅のホームに立っていたら酔客がホームから転落するのを見ました。あなたならどうしますか?」僕が試験を受けるとしたら出題者のねらいを考えるのだけど(それがいいかどうかは別として)そういうことは学生たちはあまり考えなかったらしい。3~4行のスペースしかないので長々と論じることはできない。ポイントが押さえてあれば20点。が、大体の答案は見事に外れていて出題者の意図は伝わってなかった。残念。ともあれ最後に大きな決心をして成績を書いて郵便局に行ってきた。 その後はずっと確定申告。今年も各地でした講演の一つ一つのことが思い出された。僕は当日会場に行って話すだけだが何ヶ月も前から講演に向けて準備する人たちのおかげで講演ができることにあらためて思い当たった。 掲示板で少し触れたが公共の場所で静かにするということは生得の能力ではないのでトレーニングしないといけない。静かにすることがむずかしそうに見える子どももいるが、なおさらトレーニングはいるだろう。個人的には電車の中での子どもたちに大人はもっと寛容であったもいいように思うこともあるのだが。ロンドンで電車に乗っていた時子どもがぐずっていた場面に遭遇したが見事に誰も顔もあげなかった。ウィーンから帰りの飛行機の中で母親に連れられた4歳前後の男の子二人は12時間の間一度もぐずったりしなかった。そういうことがいつも頭に思い浮かぶ。
2003年03月03日
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締切のある仕事がいくつかあって気ぜわしい。逃れられない仕事なので早く着手すればいいのになかなか動き出せない。 今日は午前中にカウンセリング1ケース。何ヶ月ぶりかの人だったが、しばらくカウンセリングが途切れることはある。次まで待つことになるが、こちらからは積極的に例えば電話をかけてそろそろきませんかというような勧誘(というのかどうかわからないが)はしない。また必要を感じてこられたらその時またカウンセリングは再開するが大抵その時はあらたな課題が生じている。 医院を辞める時、独立したら患者さんは減るものよ、といわれた。僕のカウンセリングを受けにくるのではなく医院にきた人がたまたま僕のカウンセリングを受けるだけであって、医院から離れたら無名の僕のところにカウンセリングにくる人はないということだとその時思ったのだが、今はたしかにあの頃のようにカウンセリングをしていない。その代わり当時は常勤だったのでほとんどできなかった講演活動は多くなった。医院の仕事として講演をしたことも最初はあったが後にはなくなった。医院の広告塔になれたらと思ったりしたこともあったがそのことが望まれてないことがわかったし、在職中出版した翻訳に医院勤務と略歴に書いても常勤としての仕事以外の余計なことをしているように思われているようでやがて何も話さなくなってしまった。でもこれらはみな僕の勝手な思い込みだったのかもしれないと今は思う。宮仕えにはどうやら向いていないようで医院を辞めてしまった。今はお金がなくなったが自由だけはある。 最近どんな時に眠くなるかわかってきた。大体不眠傾向にあるのだがうまく眠れることがある。一つは当たり前のことだが前日ほとんど寝ていない時。昨日の夜、日記を書きながら強い睡魔に襲われ椅子にすわったまま一時間近く寝てしまった。午前中に講演があったので緊張して前の晩ほとんど寝てなかった。次に、締切のある仕事があってかつその仕事をしたくない時。このケースだと前日普通に寝ていても簡単に眠くなる。あまり精神的に健康とはいえない。逃げているからである。 こんなふうに考えると僕が眠れないのは精神的に健康な時である。寝たくないようなことがある時は眠くならない、もう寝なくてはいけないと横になるけれども。 医院時代は誰もがそうしているように通勤電車に乗って朝早く家を出ていた。変則的なシフトで昼から出勤の日もあったのだがその日は非常勤の仕事を終えてからの出勤だったので朝が早いのは変りはなかった。帰宅後でないと(大抵10時、11時だった)できない仕事があるので帰ってから少しやってみようとするのだがもうくたくたに疲れていてだめだった。寝なくてはいけない、朝早いのだから、と思うと寝られなかった。もちろん睡眠が足りないとたちまち仕事に差し支えた。カウンセリングにきていた若い患者さんに僕が治ったとしても先生みたいにはなりたくないといわれてショックを受けたことがあった。ひどいワーカホリックだったわけだ。
2003年03月02日
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朝から雨。五時に目が覚めてしまいそのまま眠れぬままに(おかげで遅刻する恐れがなくよかったのだが)講演先の松原市へ。自分の気づきを伝えたい!」という演題で、「男女共同参画セミナー 『何でやろ! 女と男』」という企画の中の一回の公開講演だった。去年の家庭教育学級での講演を聴かれた人や堺で講演を以前聴かれた人の参加があった。関係がよくなければどんなことも伝えることはできないというところからまずは関係がよいといわれるためにどんな要件がそろっていなければならないかという話から初めて具体的にコミュニケーションのあり方について話してみた。 アドラーは既に一九二〇年代に、二世代後には女性は男性との間に真の平等性を獲得するだろう、と予言している。アドラーがすべての人間は平等であることに積極的に関与した一つの証拠は、ティラ・ボルドセンが作った女性の参政権獲得を記念する彫刻である。デンマークの彫刻家で初期の女性解放運動家であるボルドセンは、多くの女性と一人の男性で構成される彫刻を設計した。その彫刻の中の唯一の男性が、アドラーなのである。 はたしてアドラーの予言が当たっているかといえば残念ながらまだまだ真の平等性は獲得されていないように見える。ましていわんや子どもが大人と対等であるという意識は希薄であり、子どもたちはいわれなき差別を受けている。時代はなかなかアドラーに追いつかない。 松原市での講演の後、弁天町へ移動。思いがけず天王寺まで出るのに時間がかかったのと、天王寺で乗り換えた時に降りるべき駅を一つ乗り過ごして難波まで行ってしまうという失敗が重なって昼食は十分ですまさなければならなかった。吉川英治の『宮本武蔵』を読んでいたのがいけなかった。一乗寺での決闘を前にようやくお通が武蔵と再会する場面。この期に及んで武蔵が私は恋のためには死ねないが剣のためなら死ねるなどとお通にいったりするものだからそれはあんまりだろう、などとぶつぶついっていたら(声に出したわけではないが…)乗り過ごした。きっと最初から乗るべき電車も間違っていたのだろう。 弁天町の市民セミナーは五回目で最終回。私が人生の主人公であって決して脇役ではない。今がもう本番なのでリハーサルではない。もし~になったら(「~」には人によっていろいろなことが該当するだろう)しあわせになれるというのではなく~の実現を待たなくても今この瞬間に幸せになれるし今幸せにならなければ一体いつ幸せになれるのかという話。また、私は他の人の期待を満たすために生きているのではない(だから嫌われることもあるだろう)が、同じ権利は他の人にも認めないといけない。つまり他の人も私の期待を満たすために生きているのではない。だからまわりの人が私の期待通り動いてくれなくても怒るいわれはないという話。後半を質疑応答に充てた。質問に答えながら講座のまとめ。(これだけ書くだけなのに早起きしたのでもう眠くて一時間もすわったまま寝てしまっていた) 五回連続のセミナーはめずらしく、回を重ねるにつれて顔なじみになって安心して話せるようになった。なのにもう終わってしまって残念。熱心に参加してくださった皆さん、講演を企画、担当された津本さんに感謝したい。
2003年03月01日
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