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2003年10月31日
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カテゴリ: カテゴリ未分類
ペルセウス・デジタル・ライブラリ



 僕が寄り道して今日ようやくできたのは、 Perseus Digital Library に保存されているギリシアの文献をギリシア語で表示させることである。こんなことはすぐにできるだろうと思っていたのに、思いがけずつまづいてしまい長らくほうっておいたのだが、ここはギリシア、ラテン語の文献の宝庫であり、ギリシア語の研究には欠かせないギリシア語の辞典も入っている。フォントをインストールしなくても、unicode greekを使えば表示はできることはわかっていたが、今回、Mac(僕はiBookを使っている)、OS X、Safariという組み合わせで成功した。Internet Explorerでは表示できない。

青空の中の星

 もう一つ今日驚いたことがあった(僕にとっては、ということだが)。『心を生みだす脳のシステム』(茂木健一郎、NHKブックス)という本を読み始めたら、まえがきのところに柳田国男の『故郷七十年』という本からの引用があった。僕は前にこの本を読んだのに誰の何という本かもわからないでいた。今回、読んで、見事に僕の記憶が歪められていたことがわかった。わりと最近も古井戸を見た時(蓋がしてあって中を覗くこことはできなかった)、思い出していた。僕の記憶では、深い井戸を覗くと昼までもそこに星が映るということだったのが…

 柳田によるとある家にその家の先代のおばあさんを祀った石の祠があった。十四歳の柳田はこの石の祠の中がどうなっているかあけてみたくてしかたなかった。春のある日、恐る恐る誰もいない時を見計らって開けてみた。すると中には一握りくらいの大きさの、きれいな蝋石の珠が一つ納まっていた。亡くなったおばあさんが中風で寝てからその珠をしょっちゅう撫でまわしていたので、おばあさんを記念するにはこの珠が一番いいということで孫にあたる人が祠の中に収めたのである。以下、柳田の美しい日本語をまとめるのは惜しいのでそのまま引用する。

「その美しい珠をそうっと覗いたとき、フーッと興奮してしまって、なんともいえない妙な気持ちになって、どうしてそうしたのか今でもわからないが、私はしゃがんだまま、よく晴れた青い空を見上げたのだった。するとお星様が見えるのだ。今も鮮やかに覚えているが、じつに澄み切った青い空で、そこに確かに数十の星を見たのである。昼間見えないはずだがと思って、子供心にいろいろ考えてみた。そのころ少しばかり天文の事を知っていたので、今ごろ見えるとしたら自分らの知っている星じゃないんだから、別に探し回る必要はないという心持を取り戻した。
 今考えてみても、あれは確かに異常心理だったと思う。誰もいないところで、御幣か鏡が入っているのだろうと思ってあけたところ、そんなきれいな珠があったので、非常に強く感動したものらしい。そんなぼんやりした気分になっているその時に、突然高い空でヒヨドリがピーッと鳴いて通った。そしたらその表紙に身がギュッと引きしまって、初めて人心地がついたのだった。あのときにヒヨドリが鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたのではないかと思うのである。」

 僕の記憶とは違ったが、ずっと気にかかっていたので心のつかえが取れたかのようである。「あのときにヒヨドリが鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたのではないかと思うのである」というあたり、思い当たることがあって、なかなか怖い。

子どもを罰しないということ

 アドラーは罰したり叱ったりすることを否定し、また子どもに恥をかかせたり、面目を、面目を失わせたりすることで行動を改善するよう影響を及ぼすことができるとは決しては信じてはならない、罰すること、説教することでは何も得ることはできない、といっている(『個人心理学講義』p.81、岸見『アドラー心理学入門』p.58)。



 また、罰したり叱ったり批判すれば、関係が悪くなる。子どもを援助しなければならない場面は出てくるだろうが、関係が遠ければ子どもを援助することはできないし、助言をしようにも、聞き入れてはくれないことになる。

 第三に、罰の効果は一時的であり、罰する人がいなければ不適切な行動は続く。不適切な行動をしないまでも、積極的に適切な行動をするようにはならないだろう。子どもたちが大人の顔色をうかがうというのは問題だと思う。よく僕を講演に招いてくれる人がある幼稚園に講演のチラシを持っていった。ところが、うちではこれを貼るわけにはいかない、と断られた。その幼稚園では保育士が全員竹刀を持って保育している。親はそういう方針の園であることを知って入園させているのだから親から文句をつけられることはないだろう。きっと子どもたちは保育士に従順に従うだろう(従わないわけにいかないというべきか)。しかしこんな環境で育った子どもたちが小学校に上がった時、何が起こるか目に見えるようである。

 ではこのような方法に代わる教育、育児の方法はあるかといえばもちろんある(数行では書けないが)。





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最終更新日  2003年10月31日 22時29分51秒
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