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京都は朝から雪が降っていた。見る見る間に積もってしまった。書斎で僕はオイルヒーターを使っているが、とてもそれでは暖房は追いつかず一日寒かった。ずっと原稿を書き続けていた。 編集者から校正原稿が届いていた。28日に投函されたものが今日着いた。この原稿を出して今年の仕事を終えられたのだろう。目下、140ページまで訂正は済んでいるとのことだから、半分弱というところ。その直しの過程で疑問になった箇所について再伺いのチェックの入った原稿コピーがこのところ週に一度くらいのペースで届いていたが、今年はもうこないかと思っていたら大晦日に届き、僕としては気持ちを引き締めなおして一年を終えることになりそうである。まだこれから著者の日本語版序文の訳と、解説原稿を仕上げなければならないので、道のりは遠いが、春には出版できればいいのだが。 日記を欠かさず書き続けることができたことは嬉しい。読んでもらえたことありがたく思う。リアルタイムで考えていることをこんな形で公表するのは、実のところ、恥ずかしいのだが、音楽家がアルバムの発売を待たずに各種のメディアで曲を歌うのに似ているかもしれない。僕の扱うテーマは必ずしも伝達に緊急を要するものではないけれども、本を出版するといっても、年単位での作業が必要なので、その間、情報発信しないというのでは、時代についていけない気がしないわけではない。今年は前年ほど政治向きのテーマは取り上げなかったが、問題意識は一貫して変わっていない。何らかの問題意識を刺激することができたとしたら望外の喜びである。 よいお年をお迎えください。
2004年12月31日
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神谷美恵子の訳したマルクス・アウレリウスの『自省録』にはこんなことが書いてある。僕は欄外に鉛筆で○と書いてあるので印象に残ったのだろう。神谷は医師として主婦として多忙な生活の中でこの訳業を成し遂げた(岸見一郎『不幸の心理 幸福の哲学』p.3)。マルクスの言葉は、神谷の支えになったのではないか、と思う。「他人の魂の中に何が起こっているか気をつけていないからといって、そのために不幸になる人はそうたやすく見られるものではない。しかし自分自身の魂のうごきを注意深く見守っていない人は必ず不幸になる」(p.23) たしかにそのとおりなのだと思う。哲学や心理学を学ぶと人のことが見えてくる。でもそうではなくて、自分のことこそ見ていかないといけないと常々思っている。他の人の心を読むなどというようなことをしてはいけないし、失礼なことだと思うからしないでおこうと思っている。したくない、というべきか。 自分のことを見るのはたしかにむずかしい。しかしだからといって自分のことを知る努力を怠っていいということにはならない。汝自身を知れ、そのことは、しかし、むずかしいのだけならいいのだが、つらいものがある。自分の至らなさばかり思い当たり、目を覆いたくなる。煩悩が108では足りない。 アドラーは、「人間の本性について大いなる理解をしたソクラテスの言葉「自分自身を知ることはなんと困難なことであろう」という言葉が、数千年の間、私たちの耳に鳴り響いている」といっている(『子どもの教育』p.31)。ここでアドラーはソクラテスに言及しているが、プラトンの対話篇の中で、ソクラテスは「ぼくは、あのデルポイの社の銘が命じている、われ自らを知るということがいまだにできないといっている」といっている(『パイドロス』229e、藤澤令夫訳)。そんなに簡単に自分のことを知ることはできないということであるが、先に書いたように、自分のことだけは知りたくないということはあるだろう、と思っている。
2004年12月30日
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朝、冷たいみぞれが降っていた。やがて雪に変わった。昨日、届いた手紙が心に残り、なかなか寝つけず、結果、遅くまで仕事をしていた。2月に亡くなった恩師のことがしきりに思い出された。お世話になりながら不義理を重ねてしまったことを改めて悔いた。 目下、(複数の)原稿を書き進めているが、こんなことを考えていたことと重なってしまった形で、ギリシアの墓標のことを書こうとしていた。亡き人が目の前にいながら視線は遠くに向けられている。そのことを記した本(澤柳大五郎『ギリシアの美術』)にリルケの『ドゥイノの悲歌』が引かれているのを思い出した。 そこで、今、手元に本がなかったので、その本に引かれている箇所を教えてもらい、読んでみた。そこには、古代のギリシア人たちが、我々とは違って自制的でつつましいものだったことが書かれている。力を加えるのではなく(これは神がなすことである)、そっと触れ合うことが人の定めである、とリルケは、自制できない自分にいい聞かせるかのように詠っている。
2004年12月29日
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地震の報道に接するたびに、人類は戦争をしている場合ではないだろう、と思ってしまう。 今日はフロイトの伝記を読むなどしていろいろと調べもの。ルー・サロメがウィーン精神分析学協会の集まりに出席していたことはよく知られている。ニーチェやリルケと親交のあったサロメを、フロイトは愛情をこめて「詩神」(ミューズ、ムーサ)と呼んでいた(ピーター・ゲイ『フロイト』p.326)。サロメは、精神分析学協会の分裂と、まだ発達途上だったアドラーの個人心理学の誕生の現場に居合わせることになった。結局、サロメはフロイトの方に残ることになるけれども、その際、アドラーの高い知性が彼女に影響を与えたことには気づかなかった、と指摘する伝記作家もいる(Rattner, Josef, "Alfred Adler", S.29)。アドラーとフロイトとではサロメへの接し方もずいぶんと違うものだったのだろう。 昨日、マンションに引っ越して4年と書いたが、まちがいでもうすぐ6年になろうとする。年末、年始は毎年、変わることなく、仕事をしている。2000年の暮れから2001年の年明けにかけて集中的にアドラーの『人はなぜ神経症になるのか』を訳した。そして3月の終わりに出版にこぎつけた。あの日々のようなことは今後もないと思うが、余裕なく、外にもほとんど出ることもなく、空も見上げず、嘆息ばかりつきながら、辛い日々を過ごしたことをふと思い出した。今年も翻訳の出版を年越ししてしまうことになった。
2004年12月28日
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スマトラ沖の地震のことを思うと、胸が痛む。タイに住む友人の日下部さんの報告を読んでほしい。明日からプーケットに行くとのこと。 診療所に行く日だったが、予約が入ってないという連絡があり、出かけずに仕事。講演依頼が二件。講演は僕のライフワークの一つなので、求められたらどこへでも行きたいと思っているが、今日は二月の分について引き受けるのをかなりためらってしまった。日程を調整できるか自信がなかったのである。同じ日に違うところで話すように組めばいけるはずなのだが。いつも忙しいわけではないのだから(外で仕事をすることに限ってのことだが)こんな日があってもいいのかもしれない。それにしても自分を見失わないようにしなければならない。 精神科に勤務していた頃に、『子どもの教育』を出版できたのは奇跡のように思ってしまう。常勤だったが、講演活動(もっぱら休みの日にしていた)と大学の講義もしていたから、休みなしの日が続いていた。『人はなぜ神経症になるのか』の翻訳もよく電車の中でこつこつとしていた。マンションに移って3月の終わりで4年になるが、この間に翻訳は『人はなぜ神経症になるのか』、著書は『アドラー心理学入門』『不幸の心理 幸福の哲学』。頑張ったと思う。他の人と比べることはないだろう。 こんな話をした。現実を受け止められないのはしかたない。しかし、現実を受け止められないという現実は受け止めよう、と。 書いて見た絵があって構想はできているのだが、時間と技術がない。ことに後者は致命的だが。アリストテレスがいう四つの原因のうち、形相因(どんな絵を描くかというイメージ)、素材因(画材など)、目的因(何のためにかくのか)はそろっていても、作用因(描く人、技術)が欠けている。人を援助する時に感じるもどかしさと似ているかもしれない。僕自身が代わるわけにはいかないからである。
2004年12月27日
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今日も朝から仕事。薬を飲むためでもあるが(下のほうの血圧がなかなか下がらずつらいことがある)、朝は早く起きている。ただそこからはよくなくて、カウンセリングや講義などの予定があると、気合いを入れてしっかり仕事に打ち込めるが、原稿を書いたり、翻訳をするという仕事はなかなか着手できない。助走が長すぎるように思う。そして、長い助走を終え、いよいよ飛び立とうとすると疲れ果てていることが多い。 でもこれを僕のペースというふうに思えばいいわけである。時間はかかるが、これでもたくさん(か、どうかは評価が分かれるかもしれないが)仕事をなしとげてきたのだから。できることから始めるしかない、と朝のメールに書いたが、否定的な意味合いで書いたのではなかった。 書くことは苦しいが、傑作意識から脱却し、とにもかくにも書くこと。もう、きっと何度か引用していると思うが、辻邦生の言葉を思い出す。同趣旨のことはギリシア哲学の田中美知太郎も書いていた。辻はいう。「「私が「絶えず書く」ということを自分に課したのはいつ頃からであったがか、いまは正確に記憶はない。ともあれピアニストが絶えずピアノをひくように、自分は絶えず書かなければならない?かつて私はそう考えそれを実践していたのであった」(『パリの手記1』、p.6)毎日日記を書くために生きているような気がしないわけでもないが、生活そのものはきわめて単調である。「灰色の沈欝な日々」(森有正)とまでは思わないが(と数日前に書いたばかりである)、そんな日の中で書き続けたことをもとに、本を書いて見たいという思いは強い。 焦らないこと。日々の課題をこなしていけば、必ずどこかに(これがわからないから不安なのだが)到達するはずである。到達することは結果であって、そこに至るプロセスも楽しみたいと思っている。頑張ろう。
2004年12月26日
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今日は昼間の悲しいカウンセリングを引きずって、その後何をする気になれずにいた。僕が過ごす時間まで響かないようにといつも思うのだが、カウンセリングの際、話したことからいろいろなことを思い出したり、考え始めてしまう。 神谷美恵子の生きがいについて』執筆日記」の続きを読む。書き始めから出版(1966年)まで七年もかかっていることにあらためて驚く。最初から出版が決まっていたわけではなかったことも今回知った。書く喜び、苦悩について語られる言葉に僕は全面的に共感してしまう。 僕とは違ってたいへんな多忙さの中で、寝る時間も書く時間も意のままにならない神谷はこんなふうに書いている。「ああしかし書くことが使命ならそのための時間も体力もきっとどうにかそなえられるだろう。たとえぎりぎりの形ででも」(1960年9月30日)「今までの毎日の歩みがいわばその本を書いていたとも云えるので、これまで完成がのばされたことにもイミがあるのだろう」(1961年1月3日) 生きることと書くことは切り離せない。「もう今なら死んでも大丈夫という気がする」(1961年9月7日) 構格ができた時の神谷の言葉。僕も去年、日記の中にこんなことを書いた記憶がある。今、とりかかっている仕事を思うと、今は生きたい。強くそう思う。仕事のために仕事をしているだけではないのでよけいにそう思う。
2004年12月25日
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朝方まで仕事。風邪の具合がよくなると、あいもかわらずよく眠れないが、気分はそれほど悪いというわけではなかった。今年の仕事はまだまだ続くが、火曜日で学校の講義が終わり、少しほっとしている。わがままなことをいっていることはわかっているが、なかなかまとまった時間がとれず、考えが中断してばかりだったので、講義から離れている間に、まとまって書いてみようと思っている。 神谷美恵子コレクションが新しく出て、その中の『生きがいについて』(みすず書房)を手に入れた。巻末に「『生きがいについて』執筆日記」があって興味深い。読んだことのない日記もある。神谷は忙しい日々を送っているので、「追われない生活」を送ることがなかなか許されない。医院に勤務していた頃のことを思い出す。次のような記述は喜びに溢れている。「過去の経験も勉強もみな生かして統一できるということはなんと感動だろう。毎日それを考え、考えるたびに深い喜びにみたされている」(1960年1月14日)「医局時代の日記をよみ直してみたら今書こう勉強しようと考えている題目と全く同じ事をあの頃からもう考えている事を知って驚く」(同1月21日) 僕は長く哲学から離れていたのに、哲学の本をまとめた時、神谷と同じように感じた。途中ブランクの時期があったが、「あの時代と今とが直接につながっているような感じだ」(同上)。 前に一度引いた森有正の言葉を思い出した(1967年3月28日、『砂漠に向かって』全集2,p.317)。「灰色の陰鬱な日々に耐えることが出来なくてはならない。というのは、価値ある事が発酵し、結晶するのは、こういう単調な時間を忍耐強く辛抱することを通してなのだから」。 よい作品が書けるのは、熱情や霊感によるのではないことを森は注意する。今が必ずしも「灰色の陰鬱な日々」だとは思わないが、たとえそんなふうに感じられたとしてもも、追われる日々は無駄にはならないし、人生の途上におけるブランクというわけでもないだろう。頑張ろう。
2004年12月24日
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疲れすぎてよく眠れなかった。部屋のオイルヒーターではこの寒さは追いつかなかった。僕が行方不明になる夢。自分でどこにいるかを推理していた。場所は比叡山。山頂から少し降りたところの尾根道。琵琶湖を見下ろすところ、と。いつもより起きる時間は遅くなった。 精神科医の岩井寛が「「精神療法の治療者というものは、非常に恵まれており、被治療者にこうこうだと指摘するところは、全部自分を納得させるための言葉として戻ってくる。したがって、常に、自己治療、自己治癒が行われているのである」といっている。講演をする時、カウンセリングをしている時、この言葉を思い出すことがある。講演を何度も聴かれる人もあるわけだが、通常は一回きりである。僕はところが年がら年中話しているわけだから、その度に自分に語りかけているわけである。この話をしている当の自分は話していることを実践できているか、と問うているわけでもある。自分でも納得できないような言葉は決して語ってはいけないと思う。これは僕にとってはなかなか厳しいことである。自己治癒が行なわれたどうかははなはだ心もとないが、そんなことでは講演などをする資格はないだろう。
2004年12月23日
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聚楽保育所で講演。前回、六月に講演した時は、足を痛めて治ったか治りかけていて、正座をするのがいささかつらかったのだが、今日は足には意識が向かなかった。講演後に、足のことを指摘され気づいた。身体が復調すると、いつものように、話している時は、魂だけになるらしい(というのも妙な表現だが)。咳も出なかったし、声も出なくなることはなかった。 話しながら考えていたのだが、勇気づけるというのは、後ろから肩を一突きすることですらないのかもしれない。自らは何もしないのだが、相手が自分で何かの課題に向かっていく気になる援助をすること。それとて、援助を求められたらという条件がつくかもしれない。僕はよく勇み足になることがあるので気をつけないといけない。このところ何かにつけて自信がなくて、よくないことをいったりしてばかりいるような気がする。
2004年12月22日
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明治東洋医学院で講義。今年最後。年明けに二回あるのだが、十回目の今日、これまえの講義のまとめをしてみた。まとめといいながらも、これまで触れてなかった項目があり、説明する。まとめという講義内容のせいかもしれないがA組もB組も熱心で、講義が終わってからも、教壇のところで五人ほどの学生に取り囲まれる。例年は年明けに数回あってもう次は四月までないのだが、もう一回集中講義(鍼灸科二年)がある。二月に二十四コマ講義をするのだが、こんなに短い期間に講義をしないといけないとは思っていなかったので、既に入っている講演の予定とどう調整するかが問題である。午前中講演するとしても、一時に間に合いそうもなかったりして、頭を痛めることになる。 森有正は『バビロンの流れのほとりにて』の中で母を描写している。夢の中で「お母様」を訪ねている。「僕の母は、学習院では、学問がよくできて、テニスが得意だった。そのやせすぎな上品な顔には、いつも一抹の淋しさが流れている、高貴で正直な方である。母を考えると頭が狂いそうになつかしさでいっぱいになる」(全集1、p.107)。『カラマーゾフの兄弟』の最初の方にアリョーシャの母親の記憶の話がある。アリョーシャは、母が亡くなった時、わずかかぞえ年四つだったのに、終生、母の顔立ちや愛撫を「まるで生ある母が目の前に立っているように」覚えている。母親の顔は狂おしくこそあったが、思い出せるかぎりの点から判断しても美しかった、とアリョーシャはいっている(原卓也訳、新潮文庫、上、pp.34-5)。 母の病床で『カラマーゾフの兄弟』の最初の方を読んでいると、たまらなくつらくなった。子どもには伺い知ることができないことだが、今でも父と母はあまり仲が良くなかったのではないか、と思うことがある。父親のことについて非難する描写は、まるで母自身が書いたものを読み上げているかのようだった(しかし、今読み返したら、そんな印象を持つかどうかわからない)。 今日、学校までの道を歩いていたら、たまらなく悲しかった。学生の一人がレポートを出していなくて、その学生の処遇をめぐって相談しないといけないことがあって、いつもよりも早く出かけた。風は冷たかった。遠くの空には飛行機が着陸態勢に入るのが見えた。これということが何かあるわけではないのだが、ふとこの人生のことについて何も知らなかったらよかったのかもしれないと思うことがある。人生を深く知れば知るほど、喜びは増すかもしれないが、それとともに、悲しみ、苦しみも増す。人生の早い時期に、それを引き受けようと思ったのだから、今さら元には戻れない。 今の思いを聞いてもらえるのなら、僕は無理難題をいって困らせることになるかもしれない。でも、きっと実際にはそんなことはしないのだろう。そのこともよくわかっているのだ。
2004年12月21日
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今日は、診療所でカウンセリング。診療所を後にした頃から雨が降り始め、駅を降りた頃には強い雨が降っていた。最初は小走りに濡れないように走ってみたり、軒下に入ったりしていたが、そのうち急いでも濡れるのだからと思って抵抗することはやめにした。ひどく濡れてしまった。以前、精神科で勤務していた頃とは違って数人の方と、自分のペースでゆっくりカウンセリングできるので、あの頃のようなはなはだしい疲れ方をするわけではないのに、仕事を終えて帰ると、何も考えられないほど疲れていた。少し眠ったら人心地がついたのだが。 朝から勤勉に励んでいる人は、いつもこんなふうなのだろう、と思った。僕はカウンセリングをしていない時は、考えに考え、それを言葉にうつすのが仕事なのだが、苦しいとはいえ、差し迫った締切がある時でなければ(そんな時もあるわけで、そのような時は細切れにしか眠れないほど忙しい)、休むことだってできるわけだから、その基準で他の人の生活を見てはいけない。 しかし、自分で仕事のペースを整えられるようになったことはありがたいことである。人と比べることなく、僕にしかできない仕事を頑張ろうと今日はあらためて思った。
2004年12月20日
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今日は朝から重い心を抱いて過ごすことになった。体調が復したので、あまり無理しないように気をつけながら、少し遅くまで起きていた。朝はいつもの時間(七時)に目が覚めたのだが、起き上がられなかった。きっと考える暇もないくらい(精神科に勤務していた頃のように、と書いてしまう)忙しければ、疲労困憊して何も思い煩わずに一日を終え、また新しい一日が始まるということになるのだろう。今週は不調な身体に意識が向いていたのに、身体がよくなると、心は、考えたり、悩んだりして忙しくなる。風邪を引いたかもしれない、と書いてちょうど一週間である。九時過ぎに起きて、その後、翻訳の解説原稿を書くための調べ物など。気を取り直して新しい週を迎えたい。 森有正が十四、五歳の頃にある夏浜辺で見かけた「どこか冷たさと淋しさが流れていた」少女のことを書いている(『バビロンの流れのほとりにて』全集1、p.74)。「かの女が海辺に現れると、僕の全関心はかの女に奪われた」。しかし、彼女との関係はそれだけのことで終わり、以後一度も会うことはなかった。名前などもちろん知らない。「それはかえってそれでよかったのだと思う。というのは、この恋情は僕の中で全く主観的に、対象との直接の接触なしに、一つの理想像を築いてしまったのだから。それは相手に対する何の顧慮も、打算もなしに、僕の中に、愛の一つの原型が出来てしまったことを意味する。それはもうかの女ではなく、僕だけの原型なのだ」(p.75)。憧れだけに終われば、何のもめごともないことになるだろう。しかし、実際には「対象」との接触があり、それに伴って理想ではなく、現実の人に触れることになる。そのことがどんな結果をもたらすかはわからないが、憧れだけに終わるよりははるかに望ましい、と僕は思う。
2004年12月19日
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今週はひどく長かったような気がする。風邪が思いがけず長引いたことは大きい。努めて無理をしないようにはしていたが、少し気分がいい時にコンピュータに向かうものの思うように言葉をつかまえることができず、離陸しないで滑走路を走り続ける飛行機のようだった。 去年、書いた本は八月に脱稿した時よりも短くなっている。その頃の日記に僕は「もうこれだけ削りに削ったのだからこの上書き加えようと思わないこと。何を書くかより何を書かないかで思い悩む」と書いているのだが、出版後一年経った今はたして何を削ったか思い出せなくなっている。「今ここに生きるといってもあせってはいけない。そうすることは結局、直線的に人生をとらえることだから」(キューブラー・ロス『ライフレッスン』) このロスの言葉は僕は本の中に引いていない。ロスのこの言葉がどんな文脈で語られたものかも実はわからなくなってしまっているのだが、この言葉からアリストテレスのエネルゲイアの話を引っ張ってこようとしたらしいことは思い出せる。前に書いた日記を読み返していて、ロスの言葉を見つけた。これは、まさに今の僕ではないか、と思った。まるで電車の中で走るようなことをしている。体調をしっかり整えたほうが結局は質量ともにいい仕事ができると助言をもらったが本当にその通りだと思い、養生に努めた一週間だった。「なぜ僕は君に手紙を書き続けているのだろう。そしてなぜ僕の思索のすべてが、この手紙の中に流れこもうとしているのだろう。僕はこのことを大切に思う」(森有正『バビロンの流れのほとりにて』全集1、p.319) そして僕の思索のすべては一つのことに帰着する。
2004年12月18日
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一度も咳き込むことなく朝まで眠ることができた。今日も出かけずに養生に努めた。横になるとまだ少し辛いのと、それでも寝てしまうかもしれないので、本を読んだり、本の構想を練っていたらたちまち夕方に。その間にあった一本の電話で動揺。内容はここでは書けないが、長かった七年の歳月に終止符を打つことになった。いつも心にかけていたわけではないが、折りに触れて思い出していたからだが、もうこれからはそんなふうに思い出すこと必要はなくなった。電話をかけてきた人にとっては、終止符はたしかに打てても、鎮まりかけていた心が再びかき乱されることになったのは疑いない。 昨日は余裕がなくて、一度外に出かけた時雨に降られたのだが、その時の雨の降り方を思えば、虹を見られたかもしれないのに、ただ雨に濡れることを怖れて慌てて帰った。今年は何度か虹の写真を撮ることができた。天気の様子から虹が出ることを予想できそうなものだが、いつも待ちかまえて撮ったわけではない。気がついたら空に大きなアーチが出ていたのである。虹が見え始まる瞬間を見た人はないのではないか。 人との出会いも同じだろう。出会おうと思って出会ったわけではない。それでも、虹を見つけることができたのと同じように人との出会いは嬉しい。どこまでも空が晴れ渡っていた、初めて会ったあの日のことを覚えている。しかし、その日だけではなく、会う度に虹を見る時のような喜びを感じたい。いつも初めて会った時のような心の震えを感じたい。いつも思っていることだが、今日はことのほか強くそう思う。
2004年12月17日
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今日は昨日よりはよくなっている。夜、二時間ほど眠ったのだが、苦しくなって、深夜に書斎に戻った。今、この時期になしとげないといけない仕事があるのだから、一刻の猶予も許されないのに、いつまでも手付かずにできないでいることが何件かある。追い詰められないと仕事に着手できない。頑張れる力がほしい。 こんな時、大学院に入った年のことをよく思い出す。毎日毎日ギリシア語のテキストを読んで過ごしたあの頃のことを。大学の近くに下宿していた。いつもそこにいたわけではなくて、読書会で帰りが遅くなると泊まったのだったが。駅から30分くらい歩いたように覚えている。部屋には炬燵以外の暖房はなく、深夜に帰ってからすぐに次の日のための勉強を始めなければならなかった。あの時のような頑張りがあれば、今だって何でもできるはずなのだが。 いや、今だってかなり仕事をしているのである。それなのに、朝早くから勤勉に頑張っている人のことを思うと、たしかに時間はないけれど時間を自由に使える僕は、メールを書こうと思えばいくらでも書けるものだから、まだまだ頑張りが足らず、気ままに時間を過ごしているのではないか、とふと思うことがある。今は受けるべき試験があるわけではないのだが、本を書いた時、それが世に受け入れられるかどうかというのは、僕にとって一種の試験と見ていい。試験勉強に終わりがないように、僕の仕事(これをいつも僕は勉強と思っている)に終わりはない。今日はよく頑張ったという満足感もないまま、不充足感をもったまま眠りにつくことが多い。 今日は、一件だけ入っていたカウンセリングのキャンセルの連絡があったので、それだけでも気持ちは楽になり、午前中、穏やかに過ごすことができた。近くの郵便局まで封書を出しに出かけた。不安定な天候でたちまち雨に降られた。 昨日、書いた二月の奈良での講演会のタイトルは「今、子どもたちに伝えたいこと」にした。副題をつけてもいい、と担当者にいわれたのだが、さてどうしたものか。~世界は危険か~と副題をつけてもいいのだが、話にもう少し広く幅を持たせたいので迷っている。アドラーはこの世をよりよいものにしたい、と思った。それに近い使命感のようなものが僕にもある。 眠らないわけにいかないので横になり眠りがおとずれるまで、森有正の『バビロンの流れのほとりにて』をあちらこちら読んでいた。名前を知るのと知らないのとでは大きな違いがあることに思い当たる。個人的なことでここではこれ以上書けないのだが。
2004年12月16日
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今日は外に出かける用事はなかった。一日中ひどい咳。息ができない。すわっているほうが楽なようなので、仕事をしていたが咳のためにエネルギーを使う。おそらく外にいれば咳をしないように気を張り、咳も少なくなるのだろうが、独りで部屋にいると抑制がきかない。一度出始めた咳は止まらない。 二月に奈良で講演をするのだが、公報に掲載する演題を提出する締切が迫っている。さて、何にしたものか。誘拐事件がその頃どうなっているかということを考えてしまう。一つようやく思いついたが、もう少し考えてみることにする。いつになくナーヴァスになっている。 ペーター・ゲイの『フロイト1』(鈴木晶訳、みすず書房、1997年)を最初から読み返す。フロイトとアドラーの訣別が語られる第5章「精神分析の政治」は僕にはおもしろい。今年になって、『フロイト2』が出版されたようだが、まだ手に入れられていない。今週になって二度本屋に行こうと思っていたのに、仕事が終わる頃には疲れていて、次にしようと思ってしまった。こんな生活の中にあっても、これだけは他の何をさしおいてでもするということを決めておかないと、日々流されてしまうような気がしてしまう。
2004年12月15日
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風邪の調子がよくなくて、咳が止まらず、今日の講義はかなり苦しかった。それなのに、二人の女子学生が前と後ろの席で話をする。他の誰も話していないのに、話し続ける無神経を疑ったが、講義するのがやっとの僕はすぐに注意しなかったら、本当に聴きたい学生が講義を聴けない、と、講義後何人もの学生に怒られてしまった。話があるのなら、外でしてください、と声をかけたら話をするのをすぐにやめてくれたのだが。全12回のうちの9回目。 昨日、引いたプラトンの詩だが、田中美知太郎は、プラトンの真作であることを疑っている(『プラトンI』、p.44-8)。プラトンが自作の悲劇作品をたずさえてコンクールに参加しようとしていたが、ディオニソスの劇場の前でソクラテスの説く言葉を聞いて、作品を火中に投じ、「ヘパイストス(火の神)よ、来ませ、いまプラトンには御身が必要である」といって、以後ソクラテスの弟子になったという話なども芝居じみていて信じられないという。しかし、「若いプラトンに対するソクラテスの影響は決定的なものであったということだけは本当であろう」(pp.46-7)。 ソクラテスが直接二十歳のプラトンに悲劇の出品をやめるようにというような声をかけ、プラトンがそれに従ったとは思わないのだが、この話を思う度に、人が人に影響を与えるということについていつも考える。人の一生をも変えうるような影響を与えることがあるわけである。実際、僕は先生方からそんな影響を受け、劇的なものではないが、生き方を大きく変えることになった。しかしこの僕が他の人にそんな影響を与えてきたとは思えない。そんなことがあるとしたら怖いと思う。 これほどの影響を与えることでなくても、何かについて、こうしたら、と僕が提案し、その提案が却下された時、そういわないで、と反論し、翻意を促すほど強く働きかけたことはなかったかもしれない。このことで一つひどく後悔していることがある。反論することから生じたかもしれない感情的ぶつかりを回避しようとしただけかもしれないと思うからである。
2004年12月14日
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診療所でカウンセリング。主治医の澤田先生に捕まり(捕まえ、かも)血圧のことをたずねることができた。服薬について指示してもらう。下の数値が思うほどには下がらなかったが、なんとか落ち着いてきたようである。 帰ってから調べものをしていたら、プラトンの詩が目にとまった。ディオゲネス・ラテルティウスの『哲学者列伝』には、若きプラトンの作とされる詩がいくつか引かれている。次の詩に出てくるアステールはプラトンの愛する人の名前。試みに訳してみた。二つの眼ではとても君の美しさを眺めるのには間に合わない、とプラトンの詩人としての才能は、無味乾燥な哲学論文ではなく、対話篇という独自の形式の中で開花する。星々を見やる我がアステール我が身この夜の空ならばよろずの星のまなこにて飽かず君を眺むるものを この詩はギリシア語の練習問題の中にもあってなつかしい(練習29.2)。教室では、もっと散文的に訳したはずである(よけいな言葉が付け加わっていることがわかると思う)。 器用ではないので、なかなか同時にいくつかの仕事ができない。最近も同じようなことを書いた。時間を区切ったスケジュール表でも作ればいいのかもしれないが、何かについて考え始めると、それにばかり意識が向いてしまう。頑張れる力がほしい。ソクラテスやプラトンのあの溢れるばかりのエネルギーはどこから出てくるのか。今日は、これから講義。
2004年12月13日
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風邪をひいてしまったのかもしれない。不覚。昼間に一通メールを出してから昏々と眠り続けた。長い夢を二篇。後の方のは、何年ぶりかで大学の演習に出ようとする夢。大学院の時の仲間三人とずっと話し続ける。「今は何を読んでるんだろう」「よく考えたらわかるから」それにしても演習に出る機会はあったのに長く離れてしまった、と思った途端、藤澤先生はもう亡くなられていることに気づいて目が覚めた。 昨日、西田幾多郎の日記を引いた。二日(木)少し書いたこと面白からず、書き改めねばならぬ。一日そのため苦悶[昭和十四年十一月] 西田は銀閣寺から若王子へと至る疏水べりの道を歩くことを好んだ。この道は哲学の道といわれる。四月、藤澤先生と池田晶子さんが哲学の道で写っている写真を見て、どこで撮られたか探したことがあった。亡くなった人たちはどこにいったのだろう。 西田は、思索に行き詰まって、一日そのため苦悶と書いている。僕にはこの感じはよくわかるのだが、その苦闘の後を論文に書かれたりすると、読者は困ってしまうだろう。徹底的に考え抜いて、シンプルになったところを書いてみたいものだと思うのだが、そうなると、いつまでたっても何も書けなくなってしまう。結論だけ書けばいいというものでもないだろうし、問いの継承こそ哲学では大切であると僕は考えているのだから、そうなると途中の経過を書かないわけにはいかない。数学の答案のように部分点などもらえないだろうが。 掲示板に、僕の講義を聴いている学生のモチベーションが低いことが問題と書いている人があった。しかし多分に僕の側の問題もあるだろう、と思う。普段はあまり考えないことかもしれないが、考えるに値する、あるいは、考えないといけない問題であるという方向に興味を持ってもらえないような講義をしているかもしれないからである。
2004年12月12日
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今日は昨日よりもずいぶんよくなった。目覚ましもならない前、いつもどおり七時に目が覚めた。目覚める直前、夢。大晦日だった。毎日、しっかりと生きようと思っているので、二十日ほど時間がワープしてしまったことに深い悲しみを覚えた。少し眠気を残したまま、昼まで仕事をし、昼からはカウンセリング。すわっていられるほど、よくなった。 朝、メールに書いた言葉。μηδεν αγαν. ソロンの言葉だと伝えられている。「汝自身を知れ」とともに、デルポイのアポロン神殿の柱に刻まれていた。「何事にも、度を過ごすなかれ」という意味。 西田幾多郎の日記。二日(日)和辻、落合、天野と貴船神社まで行く。 渓流水清山深し。萩帰郷。[昭和四年五月]二日(金)嵯峨に行く。先ず天竜寺に至る、滴水和尚の墓に礼す。 それより野々宮にゆき、落柿舎にゆく、去来の墓を訪う。 それより二尊院にゆく、仁斎、東涯の墓に礼す。[昭和十二年七月] 自分でも訪れたことのある寺社の名を見ると、何も感想が記されていないのに、西田の経験に重ねて、僕が訪ねた日の喜びを深く身にしみて感じる。
2004年12月11日
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昨日来不調で、頭痛と吐き気で、夜も眠れずつらかった。このところ問題のなかったのに、血圧がにわかに高くなったためだと思われる。薬は一日一錠ということになっているので夜にかってに飲むわけにもいかず(下がりすぎることもあるらしい)、闇の中でじっとしていた。 明け方、僕は母のことを思い出した。いつもは元気な母が、ひどい頭痛で起き上がれずに臥せっていたことがあった。あの頃の母と同じではないか、と思った。母は自分を待ち受けていることを知らずに病院に行くことを拒んでいた。僕は夏に調子を崩して以来、定期的に診察を受けているけれども、このまま母のように倒れてしまうようなことがあったらどうなるのか。死にいく準備など何もできていないではないか。考え始めたらどこまでも悲観的になった。仕事の後、横になっていたら今は少し落ち着いたのだが、注意しているようで、悪くなる時はいきなりこんなふうになってしまう。長距離走なので、時々、自分で決めて立ち止まらなければ。ヘロドトスの『歴史』にはこんなことが書いてある。弓は使う時には引き絞るが、使わない時は緩めておくものだ。人間の心も、緊張の糸を遊ばせてやらないと肝心の時に切れてしまう。そのとおりだと思う。 今、考えていることの具体的な事例をここでは書けないのだが、このところよくカウンセリングの中などで話すのは、特殊を一般化しないということ。タクシーに乗って近距離の場所を行った時、暴言を吐かれたり、急発進されたことが、まれにではあったが、かつてあった。そんな経験をしたことがありますか、とたずねると、あると答える人は多い。実際にはそんなことをする人はわずかな運転手だけであって、大抵の人は何もいわない。それなのに、タクシーの運転手はみんなそんな人だと思ってしまい、しかも、そんな態度をとられるのは私が悪い(近場なのにタクシーに乗ったのが悪い)と思ってしまう人がいる。 タクシーであれば、何度も乗る機会があるので、そのような思い込みが間違っていたことに気がつくことは可能であるともいえる。ところが、親やパートナーであれば、通常、たくさんの親がいるわけではないので、自分の親が親一般に思え、さらには、その親から異性や同性についてのイメージを固定化してしまうことがある。たとえ、自分が知っている異性像には合致しない人が現れても、例外だと思ってしまう。僕は何としてもこの思い込みから脱却してほしいと思ってカウンセリングや講演の時などに話すのだが、これが存外むずかしいのである。 僕は何か一つのことをし始めたり、考え始めたりすると、他のことが目に入らなくなることがあることに前から気がついている。精神科に勤務していた頃は、朝早く夜遅く、休みなしの生活が続き(大学で講義することや講演活動は認めてもらっていたのである)、それまで友人からたくさんメールがきていたのに、返事を出さないものだからやがて誰からもこなくなってしまった。ふと思い出した。
2004年12月10日
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尼崎の保育士研修会。毎回、書いていることだが、ベテランの保育士さんたちに教わることが多い。 京都駅の書店で『ハリール・ジブラーンの詩』(神谷美恵子、角川文庫)を手に入れる。一つひとつの詩に神谷がコメントをつけている。ジブラーンが英語で書いたものも、アラビア語からの重訳のものもあるが、いずれもよくできた翻訳である、と思う。少しずつ紹介できると思う。抄訳のものもあって、神谷がコメントの中で補っている詩もある。「与えることについて」という詩。少しだけ持ちながら、全部を与える者がある。彼らは生命(いのち)と生命の恵みを信じているからその金庫が空になることはない。よろこびをもって与える者がある。彼らにはそのよろこびが報いなのだ。 受ける側の人間は、感謝を重荷に思うことはない、と神谷は訳されていない部分の詩を紹介している。「感謝を重荷とせず、与える者とともに、あたかも翼に乗るように、恩恵(めぐみ)の上に乗って高く昇れ」 他方、次のような者に、ジブラーンは厳しい。「多くを持ちながら少しだけ与える者がある。それは人にみとめられるためで、その隠れた願いが、施しを不健全なものにする」 トルストイの『人はなぜ生きるのか?』(名越陽子訳、GAKKEN)。貧しい靴職人夫婦と天使ミハイルの物語。「人には何があるか」「人は何が与えられてないか」「人は何で生きるか」が問われている。
2004年12月09日
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南勢町で講演。朝、夜が明ける前に家を出た。5時半の電車に乗ったが、この時間でも乗客は多い。京都駅からは近鉄の急行と特急に乗り継いで(二回乗り換え)行く。乗り換えに失敗しないように気をつけたり、途中、通勤の時間帯になり、すわれなかったり、京都駅から直通で行くのとは違って、緊張を強いられた。天気のいい日で、窓から見えた海は光り輝いていた。海を見る度に、一度、途中で降りてみたいと思うのだが、いつも仕事できているのでもちろんそんなことはできない。早く起きる自信がなかったので一睡もできなかった。こんな時でも眠れたらと思う。 私はどうしてあの人ではないのだろうか、と問う人があった。僕は、答えた、あの人もあなたにはなれないのだ、と。自分は自分であって、他の人に置き換えることができない。このことを思い知るまでに、どれだけ長い時間がかかったか。ひょっとしたら、今でも諦められていないかもしれない。もっと豊かな才能がほしいというようなことを考えてしまう自分がいる。でも、ずっとこれからもこの自分と付き合っていかなければならないのは明らかである。疲れてしまったからか、今日は悲観的なことばかり考えてしまった。僕はここまで生きてきたけれど、大きな仕事をなしとげることもなかったな、というようなことである。若い頃から堅実に働くということもなかったな、とか。 でも、そんなことを思う一方で、今日は若くして亡くなった人たちのことを思い出していた。直接知らない人のことであっても、その人が生きたという事実がそれだけで僕が生きていく時の励みになっていることに思い当たった。そんなふうに自分のことも考えることができればいいのだ、と思った。でも、次の瞬間、僕のことを忘れないでいてもらえたらということだな、と思ってしまった。少し疲れているのだと思う。
2004年12月08日
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明治東洋医学院での講義。全12回のうち8回が終了。これで最低限伝えることは話し終えたので、後は可能な限り質疑応答をしたいと思っているが、学生側の反応だけが問題である。僕の本を読みました、と見せにきてくれる学生がいて、特に強く勧めたわけではなかったので、うれしかった。僕が講義を受けていたらきっと本を求めて読むと思うのだが、そこまでしてくれる学生はあまりいなくて残念に思っている。 昨日送った翻訳の原稿は無事出版社に届いた。いつも利用している宅急便なので問題なく届くとは思っていたが、届いたという連絡を受けるまでは心配だった。それというのも、原稿があまりに多く、コピーしないで送ったからである。僕がこの作業をすれば途方もない時間もかかったであろうが、コンビニに大事な原稿を持ち出す気になれなかった。紛失しても困るわけである。ともあれ、これで翻訳の工程は第2ステージを終えたというところか。まだこれからが大変なので、手放しで喜べないのは昨日書いたとおりである。「もの」なら代わりがあると思われるのかもしれないが、訂正を書き込んだ原稿には代わりはない。本でも、もはや手に入れられないのであれば、代わりはない。僕は、本には執着があるほうだが、僕が本を譲るとすれば、こんなことも考えているが、手に入らなくなることがわかっていても、惜しくはない人にしか譲ったりはしない。人に代わりはないことはいうまでもない。同じようなことを他の人が語っていてもだめなのである。息子には師事したい先生がいて、その先生が教えている大学を目下目指している。僕もそうだった。弟子は師を選ぶ。しかし師も弟子を選ぶのである。かくてかけがえのない人との邂逅が双方において起こる。親子も互いに相手を選んだのかもしれない。時々ふとそんなことを思う。 明日は三重の南勢町で講演をする。朝、10時から2時間の講演なのだが、5時半の電車に乗らないといけない。行き帰りの時間のほうが当然講演そのものより長いのだが、話を聞きたいという人があればどこへでも行きたい。
2004年12月07日
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今日は診療所でカウンセリング。昨日、読み通せなかった訳稿の残り三分の二を読み終えたら朝になっていた。返送用の封筒を送ってもらってあったので、朝、ずしりと重い原稿を入れて封をしたら、少しうれしかった。少し、というのは、この先待ちかまえている作業が大変であることがわかっているから、今の時点で手放しでは喜べないということであるが。梱包した後、少し眠った。 ハリール・ジブラーンは、「私が存在しなかったならば、」あなたは存在しなかっただろう」と書いているが、当然、私もあなたが存在しなかったら存在しなかったのである。私とあなたの邂逅はいつも相互的である。リルケはサロメと邂逅することで「我」になり、我になったリルケがサロメを「汝」と呼んだのである。「生命の誕生は母胎に始まらず、その終わりも死にあるのではない。年々歳々、すべて永遠の中の一瞬ではないか」 永遠の中の一瞬かもしれないが、あるいは一瞬だからこそ、私があなたに会ったことは貴いことである。かけがえのないあなたに私は邂逅したのだ。願わくば、私のこともあなたにとってかけがえのないと思われんことを。
2004年12月06日
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ラストスパートだと思っていたのに、2時頃急に気分が悪くなり、闇の中でじっと息を潜めていた。あまり無理をしないといつもいっているのに、自己管理ができてなくて恥ずかしい。今日は、仕事を終えてから訳稿を通読していたが、途中で挫折。深い眠りに陥ってしまった。今は復調(と思う)。 昨日、感性について書いたからか、ふと思いついて、AQUASH(スケッチ水彩)というのを取り出してきた。使い方に慣れるために少し試しに色を塗ってみたけれど、絵を描くのはずいぶん久しぶりでうまくいかなかった。AQUASHというのは、色鉛筆なのだが、水に溶けるので、使い方によってはおもしろい絵が描けそうなのだが。学生の頃、小さなスケッチ帳を持ち歩いていたことを思い出した。 神谷美恵子がハリール・ジブラーンの詩を訳していることを僕は知らなかった。この詩人の書いた「おお地球よ」という詩は、「なんと美しく尊いものであることか、地球よ」という言葉で始まる地球の美しさを賛美したものだが、最後は次のようである。「あなたは「私」なのだ、地球よ。私が存在しなかったならば、あなたは存在しなかっただろう」 私が美しいから地球は美しい、といっているのだ。 あなたは私の憧れ、私の内なる永遠の命。
2004年12月05日
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朝まで原稿のチェック。夜明け前、いよいよ残された付箋が一枚になった。その時点で仕事を止めたのが、なんとこの一枚の付箋はまだ夜になっても外すことができないでいる。今夜はこの一枚だけかと思うと、気が楽というか、力が抜けてしまったというか。きっと元の英語が間違っているのだと思うので、このまま返送して後から解決案を送ることになるかもしれない(編集者と相談していないのだが)。『神谷美恵子の世界』(みすず書房)を少し読む。たまらなくまたギリシア語を読みたくなった。でも今はその日がくるのを待とう。大学で教えなくなって久しいが、単語の一つすら辞書を引いて調べる喜びを僕は学生に教わった。それは、生きる喜びですらある。 神谷のある詩の後に、「昭和十八年三月十二日着想 昭和十九年七月廿七日完了」と書いてあって、詩を書いたことのない僕は少し驚いたのだが、前に日記の中で「風のうなりの中に声を聞いたリルケが『ドゥイノの悲歌』を完成させるには、なお十年の歳月を要した」と書いたことを思い出した。「思索のためには哲学、感性のためには詩」(1943.8.21)という神谷にとって詩は重要な位置づけがされていた。僕の感性のためには何があるのだろう。「こんばんは」の一言で、僕の疲れた心が癒されることがある。どんな時も楽しい。そんなふうに思ってもらえるような人に僕もなりたい。
2004年12月04日
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今週は水曜日以降、日曜までずっと出かけないで仕事をしている。来週は、と考えると、月曜から木曜まで毎日違う所に出かけることになる。一時、僕が常勤の仕事をしていた頃と違って、通勤に慣れるということはない。知らないところへ行き、初めてお会いする人たちと話すのは、毎回、緊張と驚きの連続である。朝方まで仕事。翻訳の校正原稿につけた付箋の数は劇的に少なくなった。もう数えられるほどである。決断しなければ少しも先に進まない。優柔不断の僕にはいいトレーニングになる。もっともこんなふうに決断することで、いい訳になるかは別問題であるが。 辻邦生が森有正について語っていることを最近何度も引いてきたのだが、こんなことをいっている(『森有正』p.29)「いつか先生は「辻さんは不機嫌になったことがありませんね?」と言われたことがある。 もちろん私だっていつも上機嫌というわけにゆかない。しかし先生のそばにいると、どんなときにも、楽しかった。私は心底先生のなかにあるこの子供っぽさが好きだった。私は笑ってばかりいたのだ」 僕がいつも一緒にいたいと思う人は、辻が描いているような森有正のような人だ、と思い当たった。僕自身もそんな人になれたらと思う。僕はいつも上機嫌というわけではないが、大体気分は安定しているのではないか、と思っている。僕だけがそう思っているだけかもしれないが。
2004年12月03日
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出かける用事がないのに(ないからかもしれないが)夜遅くまで仕事をしてしまった。もう何日もこんな日が続く。月曜に診察を受けた時、主治医にたずねられた。それで最近は夜は眠れてますか? ええ、この頃は昼間に仕事をするようにしていますから。でも、昼はカウンセリングや講義がありますからどうしても(他の)仕事は夜にまわすことになって。で、寝るのは一時? 二時? 僕は返事ができなかった。先生の顔が曇った。カウンセリングの予約を入れてなかったので、少し休むことができたのに、思っていただけ仕事を進めることができず、少し自罰的な気分。 山形での講演を引き受けた。連絡をしてくださた山形大学の先生は、僕の本(『アドラー心理学入門』)を副読本として使ってくださっていると聞いて驚く。学生があの本から生きることについても学んでいるとも聞いた。僕は本に書いたことを若い頃知らなかった。もし知っていたら、僕の人生はずいぶん違ったものになっていたかもしれないと思うが、まったく知らなかったとしたら、その後、僕が影響を受ける考えに出会った時惹かれることはなかったであろう。 哲学者の西田幾多郎や三木清はたくさん歌を残していて、僕もそんなふうに詠んでみたいと思うことがある。西田は数学に入るよう勧められたが、乾燥無味な数学を一生学ぶ気にならず、能力があるか自信はなかったが、論理的能力のみならず、詩人的空想力を必要とする哲学に入ったといっている(『続思索と体験』)。数学を学んでいる人にとって、数学についての西だの批評があたっていると思われるかはわからないのだが。西田にとってはどんな問題も、ただ論理の問題として考察されたわけではないだろう。 僕が前に家で使っていた机は巨大で、少しくらい本を置いても大丈夫だったのに、今のマンションに引っ越してからは、コンピュータを置いていることもあるが狭くて、ほとんど本を置くことができない。辻邦生が報告する森有正の書斎では、机を本の山が占領し、当然、本段にも書物はあふれ、再度・テーブルまで書物が積まれていたので、お茶を入れるときには、その本を移動しなければならなかったという(『森有正』p.19)。ほぼ似たような状況である。カウンセリングをこの部屋でしているので、時折掃除をすることで、なんとかまだ本に占拠されずにすんでいるのだが。 心というのも時々掃除しないと混沌とした状態になるのだろうか、と思ったことがあった。それならもう大変なことになってしまっているに違いない。でも、混沌としているのも悪くはない。学者の部屋がいつも整頓されきれいであるようでは、それはひょっとしたら仕事をしていないということかもしれないからである。読みさしの本があちらこちらに置かれていて、キーボードを置くだけの空間をやっと確保し、原稿を書いていたら、ある意味、このひどい状態はいたしかたないのではと開き直ってみたりする。地震があったりすると困る。前はこの書斎で寝ていたのだが、さすがに命の危険を感じて最近は別の部屋で寝るようにしているのだが。
2004年12月02日
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今日は外出の予定、カウンセリングの予約がなかったこともあって、遅くまで仕事をしていた。ある時間を越えてしまうと、眠れなくなってしまう。いつもどおり起き、眠たさをかかえながら、仕事を進めたがはかばかしく進まなかった。 昨日の講義では神経症について話したのだが、学生の一人が、神経症ではないが、かなり神経症的であるとわかったと講義後話しかけてきた。かくいう僕だってそうだ、とその時思ったのだが、何か課題があっても、何かと理由をつけて、逃げようとしている。今、もっぱら取り組んでいる翻訳は7月の最初に手放したはずなのに今また手元にあって、日夜僕を苦しめる。付箋をつけた未解決な箇所を一つひとつ解決していっているのだが、適切な訳が見つからず大きくため息をつき、だめだ休憩、と時間を過ごしてしまう。アドラーは、ある一人で課題を前に直面しないで逃げ出そうとする人について、できるだけ時間を無駄に過ごしたと書いていて、これはまさしく今の僕ではないだろうか、と思った。愚かなことをして「暇をつぶす」というふうにもアドラーはいっている。 しかし、こんなふうに自分を責めても、そのことが仕事を回避することに貢献してしまうので、考えを変えたほうがいいかもしれない。適度に気分転換をしているとか、今自分が走っている(仕事をしている)と思ったら、立ち止まろうと決めてもいいし、実際、自分で決めて立ち止まっているのだと考えることにした。解決した箇所の付箋は捨てないで机の隅に置いてある。少しずつではあるが、いつのまにかずいぶんたくさん増えてきて、達成感がある。頑張ろう。 昨日の続きを少しだけ。後になってある判断が誤っていたと思う時、あるいは実際に誤っていたことが判明した時、その判断は、昨日書いたこととは違って、その時点における最善どころか最悪だったかもしれないのである。ただその時点においての判断は、自分にとって善(これは道徳的な意味での善ではなくて、自分にとってためになるという意味)であると思えたはずである。後になってその判断が誤っていたと認識するだけではなく、たとえば後悔の念を伴うとすれば、たとえ、その時点で、他の選択肢をとることは事実上ありえなかったように思えていたとしても、他の選択肢をとりえたと思えるからこそ後悔するのであって、すべてが決まっていたとしたら後悔するということもなかったであろう。
2004年12月01日
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