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夜、台風の影響で強い風が吹いていた。廊下に面した僕の書斎はことのほか風の音がよく聞こえるのだが、電話の声がよく聞こえるようにクーラーを消し、窓を閉めたら、それまで聞こえていた風の音が消え、静寂が訪れた。 プラトンは触れたり見たりすることのできるものだけが真実だと思っている人がいる、という(『パイドン』81b)。しかしこの世界は、見えないものがある。プラトンならそれをいわば精神の目にしか見えないイデアであるというであろうが、心や気持ちもそれらは本来見えはしないし、触れることもできない。言葉も見えないが、見えないはずの言葉が心に残り、重くのしかかり、不安になることがある。もちろん逆のこともあるし、そののことのほうがはるかに僕は多いのだが。後になってある時のやりとりを思い出して心が高揚する。目に見えるものだけがこの世で存在するものなのかどうか。経験の中で手に触れ見えるものだけが実在なのではないだろう。目に見えるものはいつか滅びても、無に帰すということではないだろう。ずっと前に亡くなったはずの人の言葉が生きた言葉として自分の中にあるではないか…そんなことを考えているうちに、プラトンを学ぶことになった。1979年の10月のことである。 翻訳の修正原稿が少しずつ届いている。枚数が多いのでチェックするのも一度に届くと大変なので少しずつ送ってもらうことにしているのである。うまくいえないのだが、内村鑑三ではないが、生きた証を残したいと強く思っている。公刊されるものという意味では必ずしもないのだが。
2004年07月31日
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昨日で講義が終わったので、カウンセリングの予約もいれなかった今日は出かけなくてすんだ。おかげで朝まで、いろいろと考えたり、原稿の整理などをしていた。心穏やかな夜だった。力が漲った。 必要があって哲学史をふりかえっている。大学院の試験を受けた時に集中的に学んだ時のことを思い出す。必要があってその頃のノートやレポートや論文などを読み返すと、今と同じことを考え、粘り強く何度も書いている。去年出した本で論じたことは、既に高校生の頃から二十歳代の初めの頃にすべて見てしまっているような思いがする。あまり成長していないということでもあるわけだが、哲学が古代ギリシアで始まって以来、人類もそれほど進歩しているとは思えないのだが、これはこれでいいのだろう。日記に記された出来事ではなく、書かれている思想によって自己の同一性を強く感じる。 ある年僕はライプニッツのモナドロジー(単子論)について長々と書いている(1974.2.8)。この考えによると我々は、ちょうど同じ都市を違った場所から違った角度で眺めるように、この宇宙をそれぞれの仕方で表出しているけれども、自分以外の他の人の存在は必ずしも考えることはないのではないか、というようなことを書いている。私だけが存在しているという意味での独我論からの脱却を試みている。 ずっと後には(1977.10.14)、「人間存在は深く他者によって規定されている。自己が主体であることは、他者が客体であることを意味するのではなく、他者もまた主体であることを意味する」。そして、当時教えを受けていたマルティン・ブーバーの第一人者の平石善司先生の講義を筆記したノートを引いている。「人間存在は、その存在根拠を自己以外の者に負っている。このように自己は他者によって生かしめられているということを、人格の新しい意味で用い、これを対話的主体という。ここにおいて初めて、共存性、あるいは、社会性を見出すことができる」(1976.4.26、僕のノートはどれもこんなふうにまとめてあるので、試験前などには貸してほしいと求められた)。「自分自身を他人格からきりはなすことはエゴイズムであり(八木誠一『イエスキリストの探求』p.17)、聖書はエゴイズムの克服を説くと考えられる(p.71)。後にアドラー心理学を学んで、自己への執着(Ichgebundenheit)から脱することについて学んだが、早い時期から問題意識としてあったことがよくわかった。
2004年07月30日
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明治東洋医学院の講義の最終日。次回は九月。外に出れば暑さでもう何も考えられない。帰りの京都駅までの電車では寝てしまった。音楽を聴いていても、終わったらふと目が覚め、次の曲が始まっているな、と思っているうちに意識が薄れ、次は何の曲だろう、と思う間もなく眠ってしまっていた。京都駅が終点の普通電車は、きっと乗り過ごさないという安心感があるからか、心なしか反対方向への電車よりも寝ている人が多いように思う。京都駅に着いても気がつかない若い人も見かけた。 フロムはエピクロスを引いている。「死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである」(『エピクロス?教説と手紙』岩波文庫、p.67)。今、現に死がないということは認めることはできても、死んだ後に、われわれが存在しないというような保証はどこにもないと思うからである。また、もしも死がこのようなものであるならば、死と共に自分だけでなく世界も消滅してしまうのならば、後は野となれ山となれ(après moi déluge)、で、これでは、残された世界(の人々)への責任が放棄しているように聞こえなくはない。今、生きているこの時も、他の人は自分にとって自分の人生の舞台に登場する人物ではないし、自分の死と共に、すべてが終わるわけではない。今でも、自分は他者の他者として存在を与えられるような私なのである。他者が自分をどう見るかは大きな問題である(cf.岸見『不幸の心理 幸福の哲学』pp.33-4) フロムは死の恐れは、持っているものを失う恐れだというが、フロムがあげる他のものについては持たないでいられるようになるかもしれないが(むずかしいが)同一性(identity)についてはどうだろう。考えてみないといけない(書いてから気がついたのだが、私が「ある」のであれば、誰も同一性の感覚を奪うことはできない、とフロムはいっている。私は何かを持っているから私であるわけではなく、持っているものをなくすことで、あるいは、今何かを持ってないからといって、自分が自分ではなくなるというわけではないわけである)
2004年07月29日
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明治東洋医学院で今日も講義。クーラーが入っていても暑く、昼からの講義は話す方も聴く方も大変であるが、粘り強く聴いてくれる学生がいるので話し続けることができる。後、一日。教務の人に、昨日はお疲れではなかったですか、と声をかけられた。朝早く出かけたので十分眠れてなかったのである。 中島らもが亡くなったという記事を読むと、人はいかにあっけなく死ぬものか、と驚いてしまう。エロイーズがアベラールにこんなことを書き送っている(『アベラールとエロイーズ』pp.101-2)。私にひどい悲しみを与える死は、もしもそれがどうしても避けられない事柄であれば、突然起こる方が望ましい、と。僕はこの考えに与することはできない。長く患った後に逝った母のことを思うと、たしかに長い間に心の準備ができたともいえないことはないが、突然、亡くなっていたらその悲しみは大変なものだったであろう、と想像するのは難くない。 アベラールの真意は、もちろん、エロイーズの死を願っているわけでは当然なくて、次のようにいう。「しかしそうは申しても、あなたを失ってしまったら、何の望むところが私に残るでしょう。またそうなったら、この世の旅をつづけて行く何の理由がございましょう。この世にはあなた以外のどんな慰めも持たない私ですのに。しかも、その慰めというのも、ただあなたが生きていらっしゃるという思いだけなのです」 フロムは死について比較的簡単に論じている。死ぬことを恐れを克服するのは、生命に執着しないこと、生命を所有として経験しないことである、と。しかし、注の中で、議論を死ぬことの恐れそのものに限定していて、死が我々を愛する人に及ぼすであろう苦しみを想像するという苦痛という解決しがたい問題の論議には入らない、といっている。愛する人を残す者も、残される者にとっても死は容易な問題ではありえないのである。 石川啄木のこと。なぜローマ字で書いたか。一つは読まれたくないということがあったかもしれない。しかし他の、おそらくより大きな理由はローマ字に新しい表現の可能性を見出したということがあるだろう。ローマ字で書き出してから、啄木の日記は急に描写が精密になり、心理分析も深くなったことを桑原武夫は指摘する(p.251)。あまり精密すぎて辟易するといってもいいくらいである。 昔の日記を読んでいたら二十歳の頃、ローマ字論者のラテン語の先生に学んでいたことがわりあい細かく書いてあった。当時ですらローマ字で表記するというような考えは時代錯誤に思えたが、ローマ字で表記することで日本語そのものの改革をめざしたことが先生の論文を読むことでわかった。啄木も、むつかしい雅語や漢字の表現から脱却することが可能、あるいは不可避になったであろう(桑原、p.253)。 当時の日記を読むと、その頃学んでいた外国語で書いている。もちろん、わずかではあるのだが。例えばラテン語を学んでいた頃は、Inter multas curas librum legere non possumというような具合(心配事がこうなくさんあっては、本も読めない)。もしラテン語がもっと書けたら、全部の記述をラテン語に切り換えたかもしれない。---(テスト)παίζοντά ἐστιν διαβιωτέον τινὰς δὴ παιδίας(Plato, Lg.803e)
2004年07月28日
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04.7.27 今日から三日、明治東洋医学院に通う。今日は教育心理学と臨床心理学の2コマ。明日からは臨床心理学を1コマずつ。これで次は9月まで休み。昼からの講義の時、出席をとった後、一人の学生が教壇のほうにくるので何事だろうと思ったら、一番前に空いている席があって、そこに移動したい、というのである。「集中して講義を聴きたいから」実際、一生懸命聴いてくれた。前にくるとあてられるのだが。他の学生も熱心に聴いているように見えた。 実は先週、一度、私語をしている学生が二人いて、僕は講義をやめた。すると、そのうちの一人の声が教室に響いた。僕は「聴かないのなら、出ていってくれてもいいから」といったら、以後、誰も話をしなくなりました。あまり、冷静にはいえなかった。去年も聖カタリナ女子高でそんなことがあった。生徒に注意をした。すると次の週には僕は一年生を教えているのだが、前の年に教えた二年生にまで話が伝わっていて驚いたものである。まだまだだめである。講義の後に、熱心に鋭い質問をする学生が何人かいてありがたい。目下、講義に時間をとられて質疑応答の時間をとれないのは問題だが。 昨日、前の家の書斎で母親の直筆メモを見つけた。ドイツ語を一緒に勉強していて、僕がテキストをタイプライターで打ったものに、母が語釈などを書き加えているのである。この紙の存在すらすっかり失念していたので驚いた。『アドラー心理学入門』にこんなことを書いた(p.148)。母の病気は脳梗塞だった。「やがて、ベッドでほとんど身動きが取れなくなったとき突然母は昔学んだドイツ語の勉強を最初からしたい、といいだしました。アルファベットからもう一度私が教えました」。だからこれはきっと「昔」教えた時の資料なのである。では、病床にあった時僕はどんなテキストを使ったのだろう、と今、押し入れ(書棚に並べ切れない)を探すと出てきた。関口存男の『新ドイツ語文法教程』(三省堂)である。ところが…発行年を見ると、母が亡くなった後なのである。ついこの間のことなのに(と僕は感じている)もう記憶が曖昧になっているのか。たしかに母に教える時に使ったのは、この本だったのだが。可能性としては、同じ本を後に僕は買い直したということはあるだろう。では、原本は? 母の棺の中に入れた? これはあり得ないことではない。でもやはりわからない。気になって入院している間に丹念につけたノートを見たが、ドイツ語を教えたのは転院する前であり、ノートには転院後の記録しか残ってなかった。 では「昔」ドイツ語を教えたのはいつなのか、知りたくて大学時代の日記を引っ張り出してきたが、母のことなど少しも書いてないのである。それはそうだろうな、と納得もする。 思わず、日記を読みふけってしまったが、ここに出てくる僕は自分ではないように思ってしまう。本を読んで考えたことについては、たしかに今と連続性はある。 一つだけ。石川啄木の『ローマ字日記』(岩波文庫)に、Hi ni nankwai to nakuという記述があって、桑原武夫はこれを、文脈から判断して「日に何回となく」と漢字ひらかなに変えているのだが、僕は、反論を試みている。たぶん、桑原が正しいのだが、当時の僕の心境の反映かもしれない。僕の解釈だと日に何回<も>泣くとでないとおかしいだろう。1979.9.19 啄木のローマ字日記。Hi ni nankwai to naku(p.10)は、日に何回と泣く、でなければならない。
2004年07月27日
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診療所でカウンセリング。どの方も僕より年輩の方ばかりで緊張する。僕の父くらいの年齢の方はあまりの暑さにいつになく疲労の色が濃く、しばらくお休みしたい、次は10月くらいに、といわれるので心配。僕に対して実に丁寧に敬語を使って話されるので恐縮してしまう。 別の人の時にはノートを開けて、図示しながら話をした。書いてもらえるとよくわかります、といってもらえた。他の人が自分について好意的な評価をしても、たった一人、否定的な評価をしたら、その評価がすべてを決めてしまうのが不合理だという話。樽の絵を描いて、リービッヒの最小律(植物にとって必要なもののうちもっとも不足しているものが成長量を決める)について話した(『不幸の心理 幸福の哲学』p.111)。 しかし、先の話は、必ずしも質的な観点から見ていないともいえる。たくさんの人が評価したからといって、それが正当な評価であるかは本当はわからないからである。もしも正当な評価を下せる人が、他の多くの人と違って否定的な評価をしたならば、やはり認めなければならないのではないか。 この話はしなかったのだが、話は少数派をめぐってのことになって、そんなこと(対人関係には縦ではなく横の関係があること)を知った人は少数派ではないでしょうかという問いに、僕はスタンダールの言葉を思い出して話した。でもね、少数派だけれど幸福なのですよ、と。小説の最後に英語でこんなふうに書いている。To the happy few.「少数の幸福な人たちのために」という意味である。 ホームページに外国語のアクセントや特殊文字を表記できるか、調べていた。J'ai veillé jusqu'à une heure avancée de la nuit.Ich will Ihnen danken für sein großes und liebes Vertrauen.(ドイツ語の方は、リルケの手紙である)。
2004年07月26日
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今日は出かけなかった。夜はあまりよく眠れなかった。講演の行き帰りの電車の中で二時間くらいすることがあるのだが(当然、目的地まではあっという間に着いてしまう)、昨日はそんなことはなかった。だから睡眠が足りていたわけではない。そんな日もある。 フロムは集中力を身につけるためには自分に敏感でなければならない、という(p.171)。自分に対して敏感になることについてこんなふうにいっている。「たとえば、疲れを感じたり、気分が滅入ったりしていたら、それに屈したり、つい陥りがちな後ろ向きの考えにとらわれてそういう気分を助長したりしないで、「何が起きたんだろう」と自問するのだ。どうして私は気分が滅入るのだろうか、と」(p.172)。自分の内なる声に耳を傾けたら、たいてい、なぜ憂鬱なのか、いらいらするのか、わかる、とフロムはいう。 とはいえ、身体に対する感受性よりも、はるかにわかりにくい。身体だと少しの変調でも気づく。微熱(最近、悩まされている)でも、日頃の最良の状態を知っているからこそ、ちょっとした変化で自分がいつもとは違うことがわかるわけである。 それと同様、自分自身に対して敏感になるためには、「完成された健康な人間の精神というのがどういうものか知らなければならない」(pp.173-4)。僕の理解では、アドラー心理学は、このことについて明瞭なイメージを持っている。だからこそ(というべきか)、人は自分のことについては知ることはむずかしいといわれるけれども、実のところ、自分について嫌になるくらい見えることがある。psychological clairvoyant(clairvoyant psychologique, 心理的千里眼者と訳すのか、はっきり見える人ということである)というのは困ったものだ。感度を下げたほうがいいと思うことがよくある。 フロムが父親の愛は母親の愛とは違って条件つきであるといっていることについては先に少し触れたのが、父との関係を振り返ってみてあまり思い当たらない。「私はおまえを愛するのは、おまえが私の期待にこたえ、自分の義務を果たし、私に似ているからだ」(p.71)。たしかに僕は父の期待にはこたえてこなかった。期待にこたえなければその愛を失うが、父の愛を失うことは恐れたことはなかった。父親の愛の肯定的な側面は、条件つきなので、(何もしなくても愛されるのではなく)それを得るために努力するというところである。 母親的とか父親的というふうにラベルをはるのは僕は賛成できないが、自分の中に二つの側面があるというのはフロムがいうとおりかもしれない。母親的良心はいう、「おまえがどんな過ちや罪を犯しても、私の愛はなくならないし、おまえの人生と幸福にたいする私の願いもなくならない」。父親的良心はいう、「おまえは間違ったことをした。その責任を取らなければならない。何よりも、私に好かれたかったから、生き方を変えなければならない」(p.73)。おそらく、僕は人には前者であり、自分に対しては後者なのだろう。自分へは要求水準が高い。ありのままの自分を認めることができない。人には無批判にそのままのあなたを受け入れることができるというのに。
2004年07月25日
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今日は阿児町の保育士研修会で講演をしてきた。京都駅から片道約3時間という距離はなかなかハードなのだが、楽しみにしてくださっている人もあって、実際、今回の講演が初めてではないという方に何人も声をかけてもらった。今日はここまでは話を十分にできなかったが、生きていくにあたって避けることができない人生の課題は安直に解決することはできないので、地道で忍耐して努力してしかなしとげることができない。それでもそのことがあなたにはできるという自信を持てる援助をしたいと思う。講演後、すぐに京都行きの特急があるので駅まで送ってもらった。乗り換えなしの直通なので安心して眠ってもよかったのだが、最近、考えることが多く、たくさん持っていった本を鞄から出して読むこともなく、今日は行きも帰りも過ごした。 本を読まないというのは実は僕にとっては至難の技である。フロムが技術の習得の要件の一つとして「集中」をあげているが(pp.163-4)、集中の欠如をいちばんよく示しているのが、一人でいられないということである、と指摘し、「ほとんどの人が、おしゃべりもせず、タバコも吸わず、本も読まず、酒も飲まずに、じっとすわっていることができない」といっている。タバコ、酒は飲まないし、おしゃべりをしないでもいられるが(もちろん、恒常的に話ができないというのでは耐えられないだろう。たまらなく話したくなることがある)、本を読まないというのはできなかった。いつも出かける時はたくさん本を持ち出す。今もあまり変わらないともいえるが、最近は、今日のように本を読まないで過ごすこともできるようになったのには自分でも驚く。携帯電話を使える環境であれば、メールを書けるし、そこに歌を詠むこともできる。広辞苑を携帯で使えるようにしているから、言葉が思いつかなかったり、確認する時に重宝している。 フロムがここで技術の習得について語る時、念頭に置いているのは「愛の技術」の習得であるから、このことに関連して次のようにいっている。「集中できるということは、一人きりでいられるということであり、一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件である」(p.167)。依存ではなく自立した愛の関係とである。しかし実際にはこのことは容易ではない。フロムもいってるのだが、そわそわとし落ち着かなくなったり、不安をおぼえたりする。 二人でいる時も集中が必要である。「集中するとは、いまここで、全身で現在を生きることである」(p.171)。フロムが、「いうまでもなく、いちばん集中力を身につけなければならないのは、愛しあっている者たちだ」(ibid.)という時、そうなのかな、と思う。一緒にいられるのに、他の人やことに関心を奪われていては、たしかに集中していないということであろう。
2004年07月24日
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今日は外出する必要がなかったが、身体がだるくて思う時間に起きることができなかった。カウンセリングに二人こられる。聖カタリナ女子高校から試験の答案が送られてきた。すぐに返送しなくてもいいので、ゆっくり読もうと思っている。授業の感想を欄外に書いてあったりする。 藤澤先生が二月に亡くなってから、母のことをよく思い出すようになった。もちろんそれまで思い出さなかったということではないのだが。実際、本の中にも母のことは書いた。索引に「母」という見出しを立てることができなかったのだが、かなりの多くのページをあげることができるはずである。 フロムが、母親の愛についてこんなことを書いているのを読み、母のことを思った。私は母親の子どもだから愛される。無力だから愛される。「私は今のような私だから愛される…私が私だから愛される」(p.66)。その愛は無条件であり、愛されるためにしなければならないことは何もない。しなければならないことといえば、生きていることだけである、そうフロムはいう。 それなのに、僕はこの母親から愛されているというふうに意識していなかった。三十代の初めの頃、あることがあって、そのことに思い当たり、今さらながら母がいないことに思い当たり、数少ない僕の味方を失ったという強い喪失感におそわれた。 父親の愛はこれとは違うという点については異論があって、今日は書けない。父親は母親とは違って条件をつけるというのである。僕は教師をしていても、あまりこの意味で父親的ではなかったかもしれない。できないからといって(そんな学生がいたとしての話だが)見捨てるなどということはなかった。しかし、他でもないこの学生にこそ、自分の考えを伝えたいと思うことは、たしかにあるので断言はできない。 フロムのいうことを何気なく読むとそうかと読み過ごしてしまいそうだが、そしてフロムは触れていないのだが、子どもがしなければならないことといえば、生きていることだけであるということになれば、親よりも先に亡くなる、あるいは、この世に生まれる前、あるいは直後に亡くなる子どもは親不孝ということになってしまうだろう。 しかしそんな状況に置かれた親とて子どもをそんなふうには見ないだろう。僕には生まれてすぐに亡くなった弟がいたが、母が泣き暮らしていたことはよく覚えている。 哲学者の西田幾多郎が、子どもを亡くした時に詠んだ歌がある。すこやかに二十三まで過ごし来て夢の如くに消え失せし彼 この歌を読んだ時、涙を抑えることができなかった。僕が中学校二年生の時、交通事故にあった。バイクと正面衝突したのである。その事故のことを母が職場の父に電話で告げた時、父は最初の母の声を聞いて僕が死んだと思ったと後に語ってくれた。母が弟(僕の叔父)を亡くした時、母は父に電話をした。その時、僕は隣にいたのでよく覚えているが、…(名前)が、といっただけで後は言葉にならなかった。 生きているというのはいつもこんなぎりぎりのところで考えていかなければならない。亡くなった人を不孝者とは決していわないだろうし、まして、生きているのであれば、条件などつけることはないだろう。生きているということですでにどんなにありがたいことなのかと思う。だからこそ、いっそう、生きていることを(と文字で書くと大仰に見えるかもしれないが)確認して生きたいと思うわけであるが、こんなことを忘れては、それ以上のことを求めてしまっている。
2004年07月23日
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今週は三日連続で明治東洋医学院に通った。吹田駅から12時台には一本しかない京阪バスに乗り、御旅町というバス停で降りる。そこから神崎川に沿って学校まで歩くのだが、影がなくて本当に辛い。去年の夏はこんなに暑くはなかったように思う。その前の年はこの時期集中講義に通っていて、日に3~4コマ、夜間のクラスまで教えていたこともあって苦しかったので暑かったように思うが記憶はあまり定かではない。今年は1~2コマを教え、すぐに退散している。 アーミテージ国防副長官が、「憲法の問題は日本人自身が決めること」としながら「憲法9条が日米同盟関係の妨げの一つになっているという認識がある」といったと述べ、憲法9条を見直すよう促したという記事を朝日新聞で読んだが、仮にこのようなアメリカ側の圧力によって改憲をしたとしたら、あれほど現憲法は自主憲法ではないから、と批判してきたことは一体どうなるのか、と思ってしまう。 今日もフロムの続きを電車の中で読み進んだ。いくつか興味深く思える論点があったのだが、一つあげると、愛があれば対立は起きないと信じられているが、これはしばしば見受けられる誤りであるという指摘はおもしろいと思った(p.153)。些細な表面的な事柄ではなく、二人の人間の間で起きる真の対立は、決して破壊的ではなく、必ずや解決し、カタルシスをもたらし、それによって二人はより豊かな知識と能力を得る、とフロムはいっている(pp.153-4)。 対立(conflict)という表現がすでに否定的な意味合いを持っているのでこれが適切であるかは問題であるようにも思うが、少なくとも、二人の間で意見、考えの違いが<ない>ということはありえないだろう。あるいは、どれほど親しくても、互いの考えが一致し、すべてを理解しているということはありえないだろう。対立ではなくても違いがあった時にどのように調整していき協力していくかが問題である。僕はこれまでは対立することは回避したいと思ってきてように思う。なんとかして解決してでも関係をよくしようと思うということがなかったというのが本当のところかもしれない。今は違う。
2004年07月22日
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今日から柔整学科で集中講義。集中といっても一日に何コマもあるわけではなく、今月中に5回(全12回)講義があるということだが、学生にしてみればハードかもしれない。男子学生がほとんどで、よろしくお願いします、と大きな声をかけられ、慣れないことで僕はどぎまぎしてしまった。関心をもってもらえる講義ができればいいのだが。 サマワでは陸上自衛隊の安全を確保するために、迫撃砲対策として無尽偵察ヘリの派遣が検討されている。これだけ危険になっているのであれば、もう撤退のことを考えなければならないと思うのだが、第3次派遣部隊は約30人が増員され500人になるという。防衛庁は、現地で復興支援業への要望が強まっているとのことだが、そうなのだろうか。立花隆の『イラクの運命 日本の運命 小泉の運命』(講談社)を読むと、そんな要望があるようには書いてないのだが。要注目。asahi.comの記事を読んだが、これらの記事には一切コメントは書かれてない。読者に判断を任せるということなのかもしれないが、ジャーナリストが「中立」ということを前面に出して価値判断をしないことは、真実を伝えないことになるという意味で危険なことではないか(『不幸の心理 幸福の哲学』pp.155-6)。ほんとうに現地で復興支援業への要望が強まっているか、取材して伝えてほしいのである。 フロムの続き。子どもは母親に愛されるが、母親の子どもへの愛は無条件であるから、子どもの側は愛されるためにしなければならないことは何もない。この経験は受動的なものである。このことの否定的な側面は、愛されるに資格はいらないが、それを獲得しよう、作り出そうと思ってもできるものでもないということである(pp.66-7)。 やがて、自分自身の活動によって愛を生み出すという新しい感覚が生まれる。何かを贈ったり、詩や絵を作り出すことを思いつく。「生まれてはじめて、愛という観念は、愛されることから、愛することへ、すなわち愛を生み出すことへと変わる」(pp.67-8) さらに思春期になると、愛されるために、小さく、無力で、また病気であったり、良い子であったりするというのではなく、愛することを通じて、愛を生み出す能力を自分のなかに感じる。フロムは次のようにいう。「幼稚な愛は「愛されるから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。未成熟な愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う」(p.68) いうまでもなく、ある年齢に達したからといって成熟するわけではない。そのことが引き起こす問題もある。フロムの仔細な分析は興味深いが自分の未熟さに思い当たって、落ち込んでしまう。
2004年07月21日
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明治東洋医学院で講義。朝の講義は辛い。しかし何度も書いているが、毎日、こんな生活をしているわけではないので贅沢なことをいっているのはよくわかっている。医院に勤務していた頃のことをいつも思う。薄給だったが使う暇もなかった。 福井県の豪雨の記事も胸が痛む。一方で猛暑の日々が続いているのに、先日来の豪雨というのも異常気象なのだろう。僕の家は浸水したのであって、氾濫した川に家が押し流されというようなことはなかったのだが、深夜に(昼間ということがなかったのが不思議である)水かさが増してきて、いよいよもうだめだとわかると、おおいそぎで家具やたたみ(濡らすわけにはいかない)を二階に運んだ。僕の記憶ではその二階まで浸水したことがある。その時は近くのビルに避難したが、家が流れていくのを見たのをよく覚えている。 このように家が浸水した時に何が一番必要かといえば、他でもない、水で、飲み水としても必要なことはいうまでもないが、物を運んだ時に手が汚れてもそれを洗う水すらないというのでは困るので、水の確保は重大問題だった。とはいえ、当時、井戸水に頼っていたわが家はポンプが使えなくなるので容易なことではなかった。 このようなことがあると、本当に必要なものは、お金ではないのだ、と痛感したものである。子どもの頃のことで僕のライフスタイル(性格)の形成に影響を与えたことの一つかもしれない。お金も、名誉も重要なことではないのだということはその後の僕の人生では母が病気で倒れた時に、もう一度強く思い当たることになる。『アドラー心理学入門』に、「母は亡くなり、看病のために数ヶ月大学に行けませんでしたが、やがて私は復学しました。しかしもはや以前の私ではありませんでした」と書いたのは誇張ではない。 それからか、あるいはそれ以前からだったのかもしれないが、物の所有にはあまりこだわらなくなった。本とコンピュータはどうなのか、といわれると少し返答に窮するかもしれないが、コレクションをしているわけではないのである。フロムはこんなふうにいっている。「ひたすら貯めこみ、何か一つでも失うことを恐れている人は、どんなにたくさんの物を所有していようと、心理学的にいえば、貧しい人である」(『愛するということ』p.45)。しかし、貧困がある程度を超えると、与えることができなくなる。与える喜びを奪うことになる、とフロムは指摘する。そういうことはあるかもしれない。 しかし、与えることのもっとも重要な部分は、物ではなく、人間的な領域にある。物ではなく何を与えるのか。「自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ」(p.46)。生命を犠牲にするという意味ではなく、自分の中で息づいているものを与えるということである。「自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ」(ibid.)。何気なく書かれている「悲しみ」という言葉に僕は注目した。「このように自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を高める」。与えられる立場に立った時よくわかるのだが、与えられる時(それが悲しみであれ)どんなに自分が苦しんでいても、力が漲る思いがする。だから逆の立場の時は、フロムがいう意味で僕の生命、僕の中で息づいているものを与えたいと思う。こんなふうに相互的であれば、といつも思っている。
2004年07月20日
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月曜は診療所に行くのだが、今日は祝日で休み。月曜しか行ってないのと、一週間飛ばすと次回以降の予約がつまってきて大変なのだが、僕のところでしているカウンセリングだと日曜日も祝日も予約を入れるのに、診療所が休診ならどうしようもないし、こられる方にも納得してもらえる。そこで今日も一歩も外に出ないで仕事。 アベラールについて昨日は少し否定的に書いてしまったが、論敵からの迫害や、エロイーズとの恋愛を罪として悔いていたことから、エロイーズが期待するような対応はできなかったということはあるのだろう。一夜の奇禍によって閹人(えんじん)になったということが彼に何らの影響を与えなかったとも思えない(この点を過度に強調するのはまちがっていると思うが)。エロイーズの求めによって書かれた書簡は、その一つが著作といっていいほどのものであることは驚きである。エロイーズなしには成し遂げることはできなかったことである。ヴァレリーが手紙の中で「一人の著者にとって、一人のすぐれた読者の注目以外に真の報酬はない」と書いていることは前に紹介したことがあるが、公刊さえることがたとえないとしても、そのような読者を得られたら十分満足である。 今のことと矛盾するようにも見えることもある。哲学者のアベラールは詩作と作曲の才能があった(第二書簡、p.82以下)。彼の歌は人々に歌われた。エロイーズは次のようにいっている。「これらの歌の大部分は、私たちの愛を歌っていましたので、私は短時日の間に多くの地方に知れわたり、沢山の女性の嫉妬心をそそり立てました」。もちろん、エロイーズも望んだことなのだろうが。 フロムのいう愛の要素の話の続き。責任について。「責任とは、他の人間が、表に出すにせよ、出さないにせよ、何かを求めてきたときの、私の対応である。「責任がある」ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意があるということである」(p.50)。責任が応答する能力であることについては、僕も本の中で書いた(『不幸の心理 幸福の哲学』pp.176-7)。自分の課題を前に、逃げないで、私はここにいます、私のすべきことはします、という意味である。フロムは、責任を愛についても考える。「愛する心をもつ人は求めに応じる…愛する人は、自分自身に責任を感じるのと同じように、同胞にも責任を感じる」(pp.50-1)
2004年07月19日
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ファルージャの空爆で11人が殺されたという記事。いつも犠牲になるのは民間人である。アラウィ首相が米軍からの攻撃許可を求められ承認していたという。今も街が破壊され、人が殺される。高遠さんは「武装勢力による自爆テロは報道されても、もう一方の真実はほとんど知らされていない」と語る。 最近、前の家の書斎から持ち帰った本の一冊に『アベラールとエロイーズ―愛と修道の手紙』がある(岩波文庫)。二十歳の頃に読んだ本で、この頃、僕はユダヤ教、キリスト教関係の本をずいぶんたくさん読んでいた。アベラールは中世哲学の高峰。その名はフランス中に知られ、多くの人が彼の講義を聴きに集まった。ラテン語の他に、ギリシア語、ヘブライ語まで解したというエロイーズとは、この全盛の頃、知ったといわれる。二人はやがて恋愛関係にになり、このことがきっかけでそれぞれ別の修道院へ遁世しなければならないことになった。 この本は、そんな二人の間でかわされた往復書簡だが、今回、途中まで読み返して気づいたのは、エロイーズが情熱的な女性であるということである。修道院に入った後、長くアベラールはエロイーズに手紙すら出さなかった。愛は「世の常ならぬもの」に変わったけれども(第二書簡、p.79)、修道院に入ったのは、信仰によるのではなく、ただあなたが命じたからなのに(p.84)、なぜこんなにまであなたは私をなおざりにし、私を忘れてしまわれたのですか、と激しく責める(p.83)。「私は、他人にではなく、あなた御自身に慰められたいのです。あなたが悲しみを惹き起こした唯一の方なら、慰めを与える唯一の方もあなたでなくてはなりません。事実、あなたは私を悲しませ、私を喜ばせ、私を慰めることのできるただ一人の方なのです」(p.79)。 これに対するアベラールの答えは、あなたには、励ましや慰めは必要だとは思っていなかったというそっけないものだが(第三書簡、p.88)、続くエロイーズの第四書簡は、さらに激しい愛の言葉に満ちている。「お願いです、どうぞ私を買いかぶらないで下さい。私は絶えず祈りによってあなたから助けていただかなければなりません」(p.110)とエロイーズはいう。与えるというより、強く求めるエロイーズは、自分は健やかではないし、強い女でもない、という(ibid.)。この書簡を受け取ったアベラールは何と返答したか(ここまで読んだ。この第四書簡などを聖カタリナ女子高で学生に紹介したら、ひょっとしたらシスターに叱られるのではないか、と思えるような大胆な表現があって驚いた)。フロムのいう「与える」どころではないではないエロイーズだが、彼女の立場に自分が置かれたら、と思うと共感できる。 引き続き、フロムの著作を読んでいる。Ora et labora(祈り、そして働け)。
2004年07月18日
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聖カタリナ女子高校で昨年お世話になった先生が交通事故で亡くなったということを前にここに書いたのだが、四月に講義にきた時最初にその話を聞かされた時、すぐにはその先生の不在を死と結びつけて感じることはできなかった。講義の後、駅までほんの数分しかかからないのだが、ふと父と話しているかのような(もちろん、父よりはるかに若いのだが)感じがしたこと、学生の様子を心配そうにたずねられたことなどを思い出すと、その先生の死が悲しく感じられるようになった。その先生の後、香川からシスターが転勤してこられた。この学校では朝、賛美歌と主の祈りが流れ、僕もアーメンと唱えたものだが、いつかこのシスターにたずねてみたいことがあったのだが、とうとう聞けないままに講義を終えてしまった。 新潟、福島の大雨の被害のニュースは胸が痛む。僕が前に住んでいた家は毎年といっていいほど浸水した。雨の間も大変だが、後が大変で、数ヶ月は浸水した部屋は使えなかった。僕の部屋は高校二年生までは一階にあった。その頃までには本が増え、本を二階に運ぶだけでも大変なことになり、一階に本を置くことを断念しなければならなくなった。大抵夜に浸水し、翌日は台風一過で晴れの天気になった。直接の被害の当事者でなければ、台風のことはこの時もう頭から離れてしまう。それなのに、何ヶ月も家の下の土が乾くまで元の生活に戻ることはできなかった。この大変さは他の人にはわかってもらえないだろう、といつも思っていた。共感するのはむずかしい。しかし、自分のことに共感してもらえないことを嘆くことはできない。ただ、可能な限り、他の人に共感したいと思うことだけができる。それとてどこまで可能かはむずかしいが。 フロムのいう愛の要素のうち尊敬については昨日書いた。フロムは配慮を一つの要素としてあげている。「もしある女性が花を好きだといっても、彼女が花に水をやることを忘れるのを見てしまったら、私たちは花にたいする彼女の「愛」を信じることはできないだろう。愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない」(p.49) フロムは旧約聖書の『ヨナ書』を引き、こう説明する。ヨナは神が太陽の光からヨナを守ってやろうとして生やした木陰でほっと一息をついた。しかし、神はその木を枯らしてしまった。ヨナは落胆し怒って神に不平をいう。神はいう。「おまえは、自分で苦労して育てたわけでもない、一夜にして生え、一夜にして枯れたトウゴマの木のことを嘆いている。それならばどうしてこの私が、右も左もわきまえぬ十二万以上の人と無数の家畜のいる大いなるニネベを惜しまずにはいられようか」。この神の答えは象徴的に解釈しなければならない、とフロムはいう。神はヨナにこう説明しているのである、と。「愛の本質は、何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。愛と労働とは分かちがたいものである。人は、何かのために働いたらその何かを愛し、また、愛するもののために働くのである」(p.50)(ヨナについては、アドラー『個人心理学講義』p.12、注(4)参照)
2004年07月17日
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聖カタリナ女子高校の最終講義。後は試験だけで昨日作った問題を提出してきた。教科書を最後まで見終え、質問を受けた後の最後の話は「永遠」について。永遠は無限に引き伸ばされた時間ではない。フロムが適切に表現している言葉を借りると次のようである。「愛すること、喜び、真理を把握することの経験は時間の中に起こるのではなく、今ここ(here and now)で起こる。今ここは永遠である。すなわち、無時間性(時を超越すること、timelessness)である(Fromm, "To Have or to Be?", p.114)。 フロムはこんなことをいっている。画家は色、キャンバス、絵筆と取り組まなければならないが、何を書くかというヴィジョンは、時を超越する。一瞬のうちに見えるのであり、そのビジョンにおいては時は経験されない。既に見てしまったものを、時間の中で描いていくわけである。思想家も同じで、思想を書き留めることは時間の中で起こるが、思想を心の中に抱くことは、永遠の中で起こる。もうずいぶん前のことになるが、今度書こうと思うことのヴィジョンが見えたことをメールの中で書いたのをよく覚えている。なんとか形にしたいと思っている。 フロムが「尊敬」について、その語源から論じて次のようにいっている(『愛するということ』鈴木晶訳、p.51)。「尊敬とは、その語源(respicere=見る)からもわかるように、人間のありのままの姿をみて、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。尊敬とは、他人がその人らしく成長発展してゆくように気づかうことである。したがって尊敬には、人を利用するという意味はまったくない」 尊敬は愛の要素の一つである、とされている。愛に尊敬が欠けていると、容易に支配や所有へと堕落してしまう。高校生の頃の日記には、カントを引きながら、人を手段ではなく目的として見るということを何度も書いている。ずいぶん前からの僕のテーマの一つであるわけである。言葉を理解するほど実際には容易ではないことも身にしみてわかっているのだが。
2004年07月16日
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手元から訳稿がなくなり(もちろんHDに残っているわけだが)喪失感が強い。編集者の厳しいチェックが入ってやがて戻ってくるわけだが、20章(プラス、プロローグ、エピローグ)が一度に戻ってきても大変なので、少しずつチェックが終わった分から送ってもらうようにお願いした。まだなお調べることなどがあって遅くまで仕事をしている。うまく眠れなくて元気がない。 フランソワーズ・サガンの『ブラームスはお好き』の主人公はポールという室内装飾家の女性だが、弁護士の助手をしているシモンという若い男性に惹かれていく。シモンは、街を歩いている時に花屋の前を通りかかると、すかさず中に入って薔薇の花を買い求めるというようなことをする(これは小説に書いてあるわけではないが)。「おひるに電話するわね」といわれたら、ずっと待つが、一時になってもかからないと、電話局に電話をして、故障してないか問い合わせをするような青年である。これはやさしさでもあるが、ポールの我慢ならぬところでもある。彼は一日中彼女の帰りを待ち続けているのである。「シモン、こんなことをつづけていくわけにはいかないわ。もうこんなことを言うのは、これが最後よ。とにかくあなたは、働かなければいけないわ。だってあなたは、あたしにかくれてまで飲むようになったんですもの」昨日引いた『狭き門』を引けば、愛よりも大切なことがあるだろうに、他の何も手につかないというようでは問題であるということになる。「あるがままの心の傾き」が何も手につかないようにさせるという感じはわからないわけではないが、愛と使命が両立しないとは思わないので、だから(と、唐突だが)僕は必死で勉強し、仕事をしてきている。 訳の話だが、堀口大学がこんなことを書いているのを面白いと思った。改訳の機会を得て「加朱訂正完膚ないほどの改訳を試みた」。帰ってきた初稿をこんなふうにしたら叱られるだろう(しないけれど)。
2004年07月15日
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強い雨が降ったというのに、カウンセリングをしていたからか、仕事をしていたからか、ぼんやりしていたからか、全然気づかなかった。『狭き門』のアリサとジェロームのすれ違いは、幸福の位置づけにあった。ジェロームは、魂は幸福以上に何を求めるのかというのに対して、アリサは「じつは、わたしたちは、幸福になるために生まれて来たのではない」という(p.146、山内義雄訳)。そして徳をこそ最上位に置き、ジェロームがアリサを愛することで幸福になるという愛すらも徳より上位にくることはない。アリサは日記の中でこう記す。「わたしにはときどき、悲しいかな、徳とはただ愛にたいする抵抗だというようにさえ思われてくる! あろうことか! あるがままの心の傾きを、あえて《徳》と呼ぼうというのだろうか!」(p.194)。この本を読んだのは高校生のことで、当時の日記にこの本についての記述があるかわからないのだが、たびたび僕が日記に引いていたカントなら、「あるがままの心の傾き」を傾向性(Neigung)といっただろう。放っておいても坂道を石が転がり落ちていくようなのは徳ではないというわけである。 村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』ではこんなふうにいわれている(講談社文庫、上、p.163)。「どうしてそんなことをしたんだろう?」「わからないね」「でも、たぶんそれはどうしようもないことだったんだろうね。何か宿命のようなものさ。なんというか、うまい言葉が思いつかないけど……」「傾向」と僕は言ってみた。 しかし、と今の僕はいうだろう。愛にアリサがいうような「あるがままの心の傾き」を見ないのであれば、そんなものは愛といえるのかと。 ジッドの『一粒の麦もし死なずば』は、ジッドの生い立ちの記であり、自分の欠点や悪癖をも公表しているが、それによって人が投げかける非難も承知の上で、この文章の存在理由は、真実以外にはない、贖罪のために書いている、とジッドはいう。訳者の堀口大学が「私は訳稿を進めながら、これを書きつづけるジッドの心中を察し、思わず目がしらを熱くすることが幾度もあった」と、あとがきで書いている。ジッドは『狭き門』におけるアリサに惹かれながらも、ジェロームに与していたのではないか、と考えた。まだ『一粒の麦もし死なずば』は読んでない。これも高校生の時に読んだようだ。一体、あの頃の僕と今が同じ僕なのかと思うこともある。
2004年07月14日
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今日から教育心理学IIを開講。朝、一時間目なので早い時間に出ないといけないのがつらい。早いといってもその時間、電車は満員で、通勤している人にとっては早いわけではないのだが。朝、早かったでしょう、といってくれる学生もいる一方で、初回なのに休んでいる学生がいてがっかりする。同じ非常勤の先生の相談に少しのる。教師の方も学生とどう関わっていくかはむずかしい問題である。 フィリンピンノアンゲロ・デラクルスさんがイラクで人質に取られている事件で、フィリピン政府は武装集団の要求に応じて人道支援部隊をできる限り早くイラクから撤退させるという意向を表明したという記事を読み、このような決断もありうることに驚いた。 前の家の書斎はあまりに荒廃していたので時間をかけて本を整理したり、不要な書類などを処分したので以前よりは見られるのだが、いざカメラ(携帯電話の)を構えると、そこに写ったのは、30歳代前半くらいまで取り組んでいたプラトンやアリストテレスの原書や注釈書の類いが収められた本箱だった。一部は今の書斎に運んできていて時折参照するのだが、ここに残っている本はもう長く触れることもないままのものが多い。それというのも僕がもしも研究者としての人生を歩むことを止めなければ、ここにある本はまず一番に今の書斎に運ばなければならなかったはずの本なのである。その後も精神科の医院に勤め、またそこを辞め、といつになっても、はたから見れば落ち着きのない人生を生きていて、僕としては今が最善だという自負はもとよりあるのだが(これは強調していえる)、ふと昔抱いていた夢を自分の手でふいにしてしまったのではないか、と思うとたまらなくつらい気持ちになることがある。夢はもう過去のこととして、今のこの現実を失いたくない。 ジッドの『狭き門』を読んでいたら苦しくなった。高校生の時に読んだきりで、見事に何もかも忘れていた。原稿を入稿したので気が晴れるかと思っていたらそうでもなくて、一段落したら手がけようと思ったこともできないまま、まだ積み残していることを調べたりして、遅くまで仕事をしている。
2004年07月13日
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朝、原稿を入稿。受け取ったという連絡があり、印刷したら原稿の厚さが5センチにもなったという。初めての翻訳した時は担当編集者が電子メールを使っていなくてフロッピーで入稿した。初めての著書の時はメールで送ったような気がするが(もう記憶があいまい)、今も手元に担当編集者とやりとりした膨大なFAX用紙が残されているところを見ると、メールをあまり使わなかったようである。前回の時は担当編集者(二人)とのやりとりのほとんどをネット上のクローズドフォーラムで行った。とはいえ、ゲラができてからはFAXでのやりとりもあった。ともあれ年々便利になっていくものであり、何ヶ月も(一番、最初に訳した頃から数えると気が遠くなるほど昔)こつこつ訳した原稿が一瞬(といっていいくらい)にして送られていくのを複雑な気持ちで眺めた。 昼から診療所でカウンセリング。前日の選挙での敗北を反映してか静かだった。自衛隊の多国籍軍の参加の問題などは遠い世界での話ということになるのだろうか。日本人がイラクで拘束されたり、殺害されたことはついこの間のことなのに。民主党が躍進しても、政府は自衛隊の撤退には応じないということであれば、二大政党制という言葉も空しく響くのだが。民衆党が圧勝したわけではなく、自民党が大敗したわけではなく、ただただ共産党の敗北が目につく。「「まだ絶望ではない」と大きな声で言ってみるのはいいことである。もう一度「まだ絶望ではない」と。しかし、それが役にたつだろうか」(リルケ『マルテの手記』望月市恵訳、p.46) まだ何も起こったわけではないくらいの意味なのだが、ただ大きな声でいうだけではだめでも、絶望するより絶望しない方がいいし、絶望しない限り、少なくとも今と同じ位置に止まるということはないだろう。 帰り、前の家によって、『現代フランス文法』(J・E・マンション)とランボーの『地獄の季節』を持ち帰る。前者は400ページほどある文法書だが、ところどころ鉛筆で書き込みがしてあって読んだ形跡があるのに驚く。書斎の写真を撮ろうと思ったが、ふいに強い悲しみにとらわれて止めてしまった。なぜそんなふうに感じたかはわからないのだけど。
2004年07月12日
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選挙の結果をニュースなどで追っていたが、世界にこれだけのことがあっても、この国の政治は大きく変わらないし、改憲を阻むことをうたった政党が大きく敗北していることはこれからの政治を考えると不安要因になる。選挙権を持って以来、一度も僕が思うような方向に政治が動いたことがないといってもいいすぎではない。今回も投票率は高いとはいえない。テレビを見ると、おそらくは僕の投じた票はカウントされぬまま早々と当選確実の報が入る。がっかりしてしまう。しかし、がっかりするのは選挙の結果ではあって、政治そのものに絶望してしまっては、いよいよこの先、この国の将来は危険である。愛国者とはいえないが憂国者であるかもしれない。この国がどうなっていいとは思っていないからである。 翻訳は後少し手を入れて、第一稿を朝に送ろうと思っている。732キロバイトになった。僕にとってはここまでがずいぶんと険しい道だったが、去年の本のことを思うと、これはゴールどころから出発点でしかない。エネルギーが漲ってきているのを感じる。こんなことを書く一方で、去年ふと思ったことを思い出した。とりあえず原稿を送れば、もしもここで僕が倒れても、本になるかも、というようなことを思ってしまったのである。実際には幸い元気で生き長らえたし、去年の本の場合は初稿が最終的に大きく形を変えてしまったのであり、僕の手が入らなければ出版にはこぎつけることはなかっただろう、と思う。だから今回もそんなことを少しも考えてはいけない。これまで生きてきて辛いことも多々あったが、生きる喜び、感動をもてるようになった。明確な目的地があって、そこに向かって努力することももとより必要なことだが、そこに至るプロセス、途上こそが楽しいということもあることを実感してきている。だから昨日、書いたようなネガティブなことを時々思っては少しため息をついてみたりするけれども、精一杯(深刻にではなく)真剣に日々を生きていきたい、と原稿を前にして思いを新たにしている。
2004年07月11日
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フランス文学者の生島僚一が、ある冬帰省する時、列車に乗ったところ、隣の席にすわった同じ大学の学生がこんなことをいうのを聞いて心からうらやましいと思ったといううことをエッセイに書いているのを読んだことがある。やっと冬休み。帰ったら思いっきり本を読むぞ、と。この話を本の中では、須賀篤子が「本を脳の筋肉(そんなものがあるとすれば)でただ噛み砕いているにすぎないような若い頃」と書いていることを引いた個所の前に書くはずであった(『不幸の心理 幸福の哲学』p.193)。 書きながら、大学院の入試の前に、平凡社の哲学辞典を赤鉛筆を片手に読んだことを思い出した。本文だけで1500ページもある。そんなことが必要な時期も人生にはあるということではある。外国語でも単語を覚えることも必要であるし、ギリシア語やフランス語を読もうと思ったら複雑な動詞の活用を覚えなければならないのと同じといえるかもしれない。 ふとこのページの前を見れば、昨日引いた不眠症のケースが引いてあって驚いた。この話を読み当時の(というのは大学院生の頃ということだが)自分に似ている、と書いていて(p.192)、母の入院をきっかけにそんな生活に終止符を打った、と書いているのである。時折、ふいに頭をもたげてくる昔の自分があるように思う。 今は、翻訳の仕事を早く完遂し、また去年のように本を書きたいと強く思っている。しかし、その余裕もない。それなのに、時々、煩瑣な仕事を中断して、純粋に楽しいことに没頭することがある。最近はフランス語を書くこと。かつて一年だけ学校の講義で学んだだけで、正式に学んでないという思いが強かったが、忘れていただけで実は自分で学んでいたことを思い出した。ささやかな、しかし今の僕には大切なこと。これは「勉強」ではない。 一日一日をしっかり生きていくことしか今はできないしよくわかっているが、時々ひどく不安になる。
2004年07月10日
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朝、聖カタリナ女子高校で講義。後、来週一回講義をしたら終わりである。いつもの箱に質問紙が入ってなかったのでがっかりしていたら、講義をする間に続々と質問紙が教壇のところまで送られてきたので、いつもくらいの質問が集まった。真摯な質問が多い(というより、どれも)。これからどういう生きていくかについての問いも多い。数週間前、席替えになったのだが、前の方に席が替わったからか、授業に積極的に取り組む学生(複数)がいるのに気づいている。 今日も翻訳。四百字詰原稿用紙に換算して千枚を超える。通読するだけでも相当時間がかかる。追い込み。仕事を終えるタイミングを見つけられなくて寝そびれることが最近多い。身体が疲れているのに、遅く寝て早く目覚めてしまう。もうずいぶん前に引いたケースを思い出す(アドラー『個人心理学講義』pp.176-8)。 ある不眠を訴える男性のケースだが、教師一人に認められたのはよかったのだが、そして実際才能を伸ばし始めたのだが、「しかし、いつも後ろから押されているかのよう」だった。「自分が優れているとは本当には信じられず、一日中、夜も遅くまで勉強」した。この男性の気持ちは二年前の日記に書いた時も、今もよくわかってしまう。誰も後ろから押しているわけでもないのに、そう思い込んでいるわけである。努力するのを止めたら、その時点でだめになってしまうとも思っていた。 もっともどんなことも「勉強」していたわけではない。この「勉強」という字をつらつら見るといかにも学ぶことは辛いことであり、無理してでも自分を強いることなしにできないことであるかの印象が強いが、たしかに楽しくて学んだことは多かった。外国語の勉強はそのようなことの一つだった。かつて大学でギリシア語を教えていた人にギリシア語は勉強ではなかったという話を聞いて、あれほど勤勉に学んだ学生はいなかったと思うのに、そんな言葉を聞いてうれしく思ったものである。知らないことを学ぶこと、語学の場合だと意味のないと見えた文字の羅列が次第に意味を伴って見えるようになることは、本当に楽しい。試験勉強をしている時はなかなかそんなふうに思える余裕はないし、論文を書いたりする時も本を研究のために読んだりすると楽しみはかなり減ってしまうが、本質的なことは忘れてはいけないのだろう、といつも思っている。
2004年07月09日
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尼崎の保育士研修会へ。夕方出かけたが、外に出た途端、暑さのため何も考えられなくなるほどだった。忙しい時期なのか、参加者が少なくて残念だったが、多岐にわたるテーマについて話をすることができた。保育の現場で培った保育士さんたちの知見はすぐれていて、毎回、僕が教わることのほうが多いと思う。 金子書房の天満さんから電話。進行状況を問われる。もう少し締め切りなので、後少し頑張ります、と答えたのだが、目下、プリントアウトした原稿にはまだたくさん付箋がついている(解決すべき個所に付箋がつけてある)。 最近、医院に勤めていた頃のことをよく思い出す。今夜のように疲れて遅く帰る毎日が続いた。それでも帰ってからすぐに寝るというようなことはなくて、本を読んだり、翻訳の仕事をしていた。やっと常勤の仕事に就いたのだから、もう後はこの先の人生、安定したものになる、とは思えなかった。早い時期にここでずっと働き続けることはないことはわかっていたのに、辞めるタイミングをつかめなかった。一生懸命働いたし、有給休暇を取ろうとも思わなかった。しかし、何かをしないでは一日を終えられなかったのは、仕事を辞める日がくることを知っていたからということができるかもしれない。アドラーの『個人心理学講義』が出版されたのが一九九六年の四月。この月、僕は医院に就職した。『子どもの教育』は一九九八年の四月。これは在職中の業績だった。結局、翌年の三月に退職し、退職後、九月に初めての著書『アドラー心理学入門』を出版、在職中にこつこつ訳していた『人はなぜ神経症になるのか』は、二〇〇一年の四月の出版(しばらく間があくが、出版社を見つけるのに手間取ったからである)。在職中は講演も、また京都府医師会看護専門学校での講義、さらに、奈良女子大学でも講義をしていたが(いずれも就職時の契約による)、肝心の医院での仕事に全力を尽くしていないと見られていたのかもしれない。僕は僕しかできない仕事をすることで認められ、自分が必要とされていると思っていたが、僕でなくてもできる仕事(そういうものがあれば、ということだが)すらできないようではだめだという判断が雇用者側にあったのかもしれない。そして実際疲れが蓄積し、心が弱ってくると、僕は自分しかできないと自負していた仕事すら本当はできていないのかもしれない、と自罰的になり、そうこうするうちに病気になり、やがてこれが遠因で医院を辞めることになった。退職後、すぐに本の執筆の依頼があったので、何も考える余裕もないうちに仕事に向かうことができたのは僕にとってはよかったことなのかもしれない。これから仕事に就く人には本当に自分がこの仕事をしたいのか、本質的なところで考えてほしいと思っている。常勤の仕事に就けるとあせってしまったことを思うと今も胸が痛むことがある。
2004年07月08日
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昨日は暑い中、移動したせいか、今朝はなかなか起き上がることができず、携帯のアラームを二時間も五分毎にかけたが、ことごとく消してしまっていた。午前、午後の二人のカウンセリングの後、翻訳の続き。 前にマリアとマリアの話を紹介したことがあった。この二人の兄はラザロという。このラザロが亡くなって四日経った時、イエスが姉妹のところに行く。この時もイエスを迎えたのはマルタであり、マリアは家の中にすわっていた。イエスは、あなたの兄弟は復活するといった。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(『ヨハネによる福音書』11.25-6)。このイエスの言葉に対して、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(11.27)と答えたのは、マルタだった。遠藤周作が、月日が流れ兄のラザロが死んだ時、「キリストの前で最も崇高な言葉」(『聖書のなかの女性たち』p.64)を口にだしたのは他ならぬマルタだったという時、上に引いたマルコの言葉のことを指しているのだろう。 ラザロの病気のことをイエスが最初に聞いた時、イエスはいった。この病は死には至らず、と(11.4)。それにもかかわらず、ラザロは死んだ。しかし、われらの友、ラザロは眠っているのだ、とイエスはいった。「聖なる眠りを眠れり」というカリマコスのエピグラムを思い出す。イエスが、ラザロ、出で来たれ、と叫ぶと、ラザロは復活した。病気も、死そのものも死に至るものではなかった。しかし、とキルケゴールはいった。絶望だけは死に至る、と。絶望は人間が真の自己になることを拒み、神の前に出ることを拒む。絶望は死に至る病(Krankenheit zum Tode)である。 学生の頃の知人が亡くなったという知らせを受け取った。前後のことを何も記憶していないが、バイオリンを胸にかかえたまま寝入ってしまったその人の姿をふと思い出した。聖なる眠りというのはこんなのをいうのか。「死んでゆく時には彼女は殆ど人間的完成に達成していたと信じる。人々の心に若い美しい像を最後として刻み付けてこの世を去ったのは彼女が神に特別に愛されているからであろう」(三木清「幼き者の為に」p.450)。
2004年07月07日
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明治東洋医学院の教員養成科の試験(教育心理学)。三問の中から一問を選択するという形式で、一時間半の制限時間を設けたが、最後の学生が帰ったのは十二時くらいだった。試験は教えたことがうまく伝わっているかどうか、つまりは教え方をチェックするという目的があるので、成績が悪いとしても学生のせいにはできない。試験後、すぐに尼崎の南杭瀬保育所に行く。忙しい時間帯であろうに、研修に他の保育所から(ブロックに分かれているようでそのうち一つのブロックの保育所から)も参加してもらえた。暑い日だったが風が時折吹くと、あざみ(かわからないのだが)の綿毛が風の中を舞っていた。 昨日書いたことを考えていた。今はある目標を達成するための準備期間としてだけ意味があるのではなく、今が既に完成した時であると考えて地道に真摯に生きていくということを書いたが、学校を卒業してもうずいぶんになるのに、いつも途上にあって(auf dem Wege sein)もしも命が続くのなら、未完成のままでい続けるように思うことがある。意識して、「今が既に完成した時」と思わないといけないことがある。大体心が弱っている時で、そんな時は、未来のことを、まだきていないというのに、思っては、強い不安にとらわれることがある。ある意味で今のまま努力していれば、どんなことでもかなうのだと思えたら楽なのかもしれないが。 辻邦生のエッセイを読んでいたら、自作の『回廊にて』についてこんなことが書いてあるのをおもしろいと思った(『微光の道』p.225)。第二版が出たのは、初版から五年たっていたが、辻はその第二版を「パリの仮寓」で読んだ。アンドレはこの小説の中に登場する女性である。「アンドレが亡くなる個所では涙がとまらなくなった。自分の小説になくはずはないから、これは何か私ならぬものが私に書かせた小説であったのかもしれない」。「私ならぬものが私に書かせた」と思えるような本を書きたいものだが、たしかにこんな感じはまったくわからないわけではない。
2004年07月06日
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深夜に先日来とりかかっている煩瑣な作業の二つ目を完了した。午前中、一人カウンセリング。午後からの診療所でのカウンセリングの予約は一週間前には入ってなかったのでどうかと思っていたら予約が入っていたので出かけることに。帰ってから明日の試験問題を作る。複数の仕事を並行して進めるのは苦手だが、そんなこともいってられない。どれもきちんと成し遂げたい。 ただ生きるのではなく、善く生きることを意識的に選び取り、何気なく日々を過ごすのではなく、また、今はある目標を達成するための準備期間としてだけ意味があるのではなく、今が既に完成した時であると考えて地道に真摯に生きていけば、そうでない生き方を採るよりも、年齢に関わりなく、人生の真実が見えてくると思う。しかし、その上で、なお、リルケや森有正は、樹木が成長するような成熟、変容を問題にする。 前に引いたリルケの手紙を今一度引用する。「そこでは時間で計るということはなく、一年でも計ることはできません。十年でもだめです。芸術家であるというのは、計算しないで、数えないで、木のように成熟するということです。木は樹液を無理に押し出しません。春の嵐の中で平然として、夏はこないのではないか、と不安に思ったりしないで立っています。しかし、夏はかならずきます。あたかも目の前には永遠があるかの如く、静かにゆったり構えている忍耐強い人のところには」 時間で計れないということは、ただ歳を重ねてもだめだということである。時間を超えた時、永遠(Ewigkeit)は時間の延長ではなくなる。 カウンセリングにこられる人に、中学生や高校生の頃の一年というのは実に重みがあって、何らかの事情で一年遅れるということは取り返しがつかないくらい大変なことに思えることがあるという話をすることがある。しかしその後の人生を思えば、一年が経ち、二年が経つことは何ということもなくなる、だからそんなに急ぐことはないではないかというような話である。しかし、考えてみれば、一年一年に重みがあって、一年をふいにすることが取り返しがつかないことであるかのように(そんなことはないという含みがあるわけだが)生きることは、この今の時期に来年の正月のことを考えてしまうような生き方よりもはるかに美しいといえるのではないか。 メールや日記は読み返すと、忘れていた会話のすみずみまで思い出せ、過去が鮮やかに現前する。そのような目的のためにも日々書き続けたいが、書くことが生きることであり、生きることが書くことであるといえるまでに、書くことは生の証となりそのことによって、うかうかと日が過ぎないようにすることができるように思う。
2004年07月05日
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一日部屋にこもって仕事。休憩するタイミングがなかなかつかめなくて、いつまでも根を詰めて仕事をしてしまう。 昨日はリルケの言葉を引いて、詩は感情ではなく、経験であり、一行の詩を書くためには多くの経験を重ねていかなければならない、と書いた。詩が感情ではなく経験であるという論の運びの中では、このようにリルケがいうことは理解できるが、ただちに反論できないわけではない。 前に三木清の『語られざる哲学』を引いて次のように書いた。「人生に於いて大切なことは「何を」経験するかに存せずして、それを「如何に」経験するかに存するという云うことを真に知れる人はまことに哲学的に恵まれた人である」(p.57、講談社文庫、六節)。三木は、別のところで、悲しみを見つめた者には心の落ち着きがある、といっているが(『幼き者の為に』p.449)、これとて厳密にいえば、悲しい経験に遭えば、必ず落ち着きを得ることができるというわけではない。 アリストテレスは、一羽の燕、ある一日が春をもちきたすのではない、といっている『ニコマコス倫理学』第1巻7章1098a)。アリストテレスは、この次にこんなふうにいう。「同様に至福な人、幸福な人も、一日で作られるわけではない」。では、何日で作られるか、というような問題ではもちろんないだろう。 経験自体が人を賢くするわけではないし、経験し、経験を受け止め、そこから学ぶことができる人生への態度こそが必要である。毎年咲いている花ですら目に止まらない時は止まらない。若くして亡くなった人が、人間として完成しているということはある。その人の歳を過ぎて生きてもその人を超えることはできない。超えようと思わなくてもいいのだろう。
2004年07月04日
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朝まで起きていた。夜明け前の時間が好きで、この数ヶ月一体幾晩徹夜したことか。疲れているので寝ようと思っていながら(たぶん横になったら眠れる)、寝そびれてしまいそのまま朝を迎えることもあるが、大体は仕事をしている。そんなにたくさんの仕事をしているわけではないから、これくらいの仕事の量で弱音をはくこともできないのだが(それでも最近、弱音をよくはく自分に気づく)いつになっても締切に追われている。 毎週出講している高校に行くために乗り降りする駅で凌霄花(のうぜんかずら)を見つけた。名前を失念していた。この橙赤色の花を目にしたのに、その花と、僕の短歌ノート(といってもコンピュータに保存してあるのだが)に、一言「凌霄花」と書いた花とすぐには結びつかなかった。「凌霄花」としか詠めないこの歌は、僕の高校時代の恩師が、亡くなった時、庭に咲き誇っていた凌霄花を先生が好きだったというので出棺間際に一輪お棺の中にいれられた情景を詠むはずの歌なのだが、もう長く詠めないでいる。ある意味で、これで完成しているということもできないわけではない。 この花の色だけが記憶に鮮やかに残っていた。先生はちょうど今ごろの季節、毎日、遅くまで職員で行う研究発表会の準備に専念していたが、そのことが心臓に大きな負担になったのだろう、発表の最中に心筋梗塞で倒れられた。その夏、僕は毎日ラテン語の集中講義に出ていた。最近暑い日が続くが、あの時も毎日暑くて、あまりの暑さに倒れそうになるような日を過ごしていたことが思い出される。講義は夕方からだったので、講義の始まる前に葬儀に出ることができた。僕が二十歳の時のことである。お世話になった先生に精進を誓ったが、今の僕を見たら何といわれるか、と時々思う。 おそらくその頃に僕はリルケの『マルテの手記』を読んでたのではないか、と思う。「詩は、人が思うように、感情でない(感情ならどんなに若くても持つことができる)。感情ではなくて、経験(Erfahrungen)なのだ」一行の詩を書くために多くの経験を重ねていかなければならない。しかし、思い出だけでも十分ではない。「それが我々の中で血となり、眼差しになり、表情になり、名前を失い、もはや我々と区別がなくなった時、その時初めて、稀なる時間に一行の詩の最初の言葉が、思い出の中に現れ浮かび上がるのである」。詩を書くというのは大変な営みである。風のうなりの中に声を聞いたリルケが『ドゥイノの悲歌』を完成させるには、なお十年の歳月を要したのである。 先生が歌を残していることに昨日初めて知った。『回想記』の中に僕も書かせてもらったのだが、ある方が先生の歌に言及し、歌が引いてあったのである。自分が詠むようになって初めてこんなふうに注意が向く。ということは、なんとか毎日生きていても、たくさんのことを見逃しているということではある。できることなら毎日真摯に生き、大事な瞬間をうかうか過ごさないで生きたい。
2004年07月03日
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聖カタリナ女子高校で講義。話の中で僕がホルンを吹くという話になって、なぜこの楽器を選んだかというと、とその理由を説明した時、僕は他の楽器について否定的なことをいってしまった。そこで、僕は「今の話を聞いて気を悪くした人がいたらごめんなさい」と謝ったら、すかさず、先生って人に嫌われるのが嫌なのですね、とつっこまれてしまった。この頃、自分がいっていることに自信が持てなくて、謝ってばかりいるように思う。講義が終わりに近づくにつれて、質問紙による質問もだが、直接口頭でたずねる学生も増えてきた。「でも、先生、そやけど、あんな…」というような調子で話しかけてくるが、僕は全然気にならない。 ジッドの『田園交響楽』を読んだ。おそらく本筋のところではないのかもしれないが、目が不自由だったジェルトリュードが手術に成功し、視力を回復した時、こんなことをいう場面は驚いてしまった。ジャックというのは牧師の息子であり、彼もまた牧師と同様ジェルトリュードを愛していた。「牧師さま…ジャックさんを一目見たとき、あたしはたちまち、自分がお慕いしていたのはあなたじゃなくて、あの方だったことを悟りました。あのかたは、あなたにそっくりの顔をしてらしたのです。というのは、つまり、あたしが胸に描いていたあなたのお顔に、そっくりだったのです」言葉を交わし、彼女は牧師に心を寄せていたのではなかったか。それなのに目が見えるようになったとたん、こんなふうにいわれたら牧師は(牧師の彼女への思いにも問題はあったわけだが)大いに困惑したであろう、と思う。 今市子の『百鬼夜行抄』に「鬼の居処」という作品があるのを思い出した。主人公の律の祖父、飯島伶(りょう)の若き日の話である。伶のいとこの飯島武志はよく本屋で見かける吉池清乃に恋をする。武志は彼女にラブレターを書くが、伶に心を寄せていた清乃はその手紙を伶からのものだと思い込む。「和製シラノ・ド・ベルジュラックだよ俺は…!」と武志は清乃が病気で亡くなった時に嘆く。彼女が好きだったのは自分ではなく、伶の方だった、と。「俺はそれでもいいと思って…おまえのふりをしてた あの人は最後までおまえからの手紙だと信じて死んでったんだ」彼女が本屋で見たのは伶だった。手紙は武志が書いたものだった。はたして彼女は手紙の内容で伶に惹かれたのか、それとも、顔を見て惹かれたのか。もちろん、両方だという答えもあるだろうが、手紙を書いたのは伶ではなく武志だった。若い頃の僕は武志のようなことをやりかねなかったかも(そんなこと、もちろん、したことはないが)。
2004年07月02日
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今日も外出しないで、午前中、カウンセリング、その後は翻訳。 人と人が出会う(邂逅については何度も書いてきた)以前の私の、あるいは、あなたの世界とは何か、と考えていた。あなたの世界に僕は存在しないし、僕の世界にもあなたは存在しない…そんな世界のことを。あなたが私の世界に現れた途端、世界は変わる。この変化は不可逆的である。夢を見ている時、ふいにこれが夢であることに気づいた途端、もはや夢に戻れないような感じというべきか。しかし、この比喩では、目覚めることはよくないことにとられるが、邂逅後の世界に生き始めることは喜ばしきことである。『ドゥイノの悲歌』について辻邦生が書いているものを読むと、やはり『マルテの手記』に戻らないといけないことがわかった。その中に「愛される女ではなく愛する女であった君」という表現が第一部の終わりの方にあるのだが、初めて読んだ時この言葉に注意が向くことはなかった。「自己を忘れ、対象すら超え、ただ愛する情熱にのみ生きる存在」(p.85)と辻は説明しているが、主体(私)がなければ愛はあり得ないし、「対象すら超え」といっても、インパーソナルに愛することは僕にはできない。初めて読んだ十八歳の僕はこのあたりわかっていたとは思わない。 メールを読み返していたら忘れていた会話のすみずみまで思い出せるのが不思議である。過去が鮮やかに現前する。その時の感情も、感覚も何もかも。忘れたくないことばかり。
2004年07月01日
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