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朝からの仕事がなかったので、なかなか起きられなかった。それほど早く寝たわけではないので、これでよかったのかもしれないのだが。カウンセリングの他、哲学の講義の準備と翻訳校正原稿のチェックなどをして過ごす。カウンセリングはひどく疲れてしまった。 香田さんが遺体で見つかったというニュースは衝撃的。銃で撃たれた後はなく、死因は頭部切断ということだが、殺されるまでの恐怖はいかばかりのものだったかと想像することさえ辛い。犯行声明が出た時、早々に自衛隊は撤退しないと表明した小泉首相は、人の命などなんとも思ってなかったのだろう。香田さんのご家族が民間人が政府のやることにとやかくいうことはできない、と語ってられるのを知り、それは違うだろう、と思った。適切な対処が迅速になされていたら、殺されなかったかもしれない命が消えた。一体、いつになったら無辜の人を巻き込む愚かな戦争が、世の中からなくなるのか。ずっと気が晴れなかった。 昨日、仕事が終わってから長く電話で話をしていて、自分のことを好きになれそうな気がした。僕はいつも自分を評価して、自分を追い込むようなところがあるのだが、もうそんなことは止めようと思った。自分を責めても何も始まらない。 話をしていて、僕もいつもカウンセリングをしている時相談にこられる人が、これくらい洞察があって癒されていたらいいのに、と思った。そして、この人のいうことなら受け入れよう、と思った。もちろん、納得できるからそう思うのであるが、誰がいっても受け入れられるということはないだろう。自分のことは自分でははなかなか見えない。
2004年10月31日
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堺の英彰保育所で講演。去年、別の保育所の所長だった羽柴先生が新しい赴任先に招いてくださった。熱心に話を聞いてもらえ、講演の途中も僕の質問に積極的に答えてもらえあっという間の一時間だった(通常、最低、二時間は講演の時間をとってもらえるので、時間が短かったのは残念だった。当然、多くのことを話さないことになった)。 大阪の保育所の保育士が、男児の頭を平手で数回叩いたら、弾みでロッカーに頭をぶつけ、額に切り傷を負ったという記事を読み心を痛める。給食時に子どもがなかなか席に着かず、ふざけていたのを注意しようとしたということだが、長年、保育所での研修をしてきている僕としては自分の非力を感じないわけにいかない。しかし、講演にこられる人が少なくても、僕の話を聴くことで、それまでとは子どもとの接し方を変えようという決心をする人が一人でもあれば、僕はどこへでも講演に行こう、と思いを新たにした。 講演の帰り、駅の売店に香田証生さんの消息の伝える新聞があるので胸が騒いだ。発見された遺体はどうやら別の人のものということだが、政府が民間人を見捨てたりしないことを強く願う。朝日新聞にまで、なぜこの時期に旅行を、というような記事があって、そういう問題ではないと僕は思った。 最近、遠くまで講演に行く時気分が落ち込む時がある。気合いを入れなければ、と自分を鼓舞しなければならなかった。 帰宅後、カウンセリング。ひどく疲れてしまったが、その後、嬉しいことがあって元気を快復することができた。幸せな気持ちで満たされている。人生を複雑にするのを止めようと思った。
2004年10月30日
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夜、風邪になりそうな気配がして、仕事を途中で放り出して横になることにした。横になっても眠ることはできずあれやこれや考えごとをしていたのだが。暗闇の中で携帯電話に届いた膨大なメールを過去にさかのぼって読み返してみる。そこに語られている出来事は今は消えているのに、観念として蘇えり、あるいは、観念であっても、今、リアルに経験できることの不思議を思うと、時間について深入りして考え始めてしまい、いよいよ眠れなくなってしまう。 何時ごろだったか、娘が僕を起こしにきた。「どうしたの?」「小田和正とかいう人がテレビに出てはるんやけど」何という番組かもわからなかったのだが、小田が自分の音楽史を振り返り、トークを交え歌っていた。しばらく娘と一緒に見ていた。人の曲をコピーしていた時代があったということで、英語の曲を何曲も歌っていた。僕は娘のために歌詞を日本語に訳した。番組が終わる頃、娘は目を閉じた。テレビ消そうか? うん…僕は再び一人暗闇の中に取り残された。 中島義道は未来は現在の観念であると考え、未来の実在を認めない。現在における予期でしかなく、予期はどんなことがあっても未来に触れることはない(どんなに明日のことをリアルに思い描いても、決してその予想通りになることはない)。よくわかるのだが、僕は、この頃、祈りについて頻りに考えている。祈りは明らかに未来に属する。未来の実在を信じなければ、祈りはそもそも意味がないように思う。ミンコフスキーは、祈る時、人は希望し、期待する以上のことをするという(『生きられた時間』p.144)。ただ希望し、待つだけではない。希望は期待を越え、それよりも遠く未来にいく。あまりに遠くに、「果てまで」(jusqu'au bout)行くのだ。弊えし君の快復を祈り、試練を前にした君の運命の開かれんことを祈る。
2004年10月29日
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ゆっくり休んだので気を取り直して朝方まで仕事。朝、市役所から浸水の見舞金をもってこられる。災害ゴミの件(持ち込めば無料にするが、さもなければ有料になるという件)とについて話してみたが、私は見舞金を持ってきただけで、と話にならなかった。 同情することは意味がないが、人の痛みをわが痛みとして感じられることは必要なことであると思う。今、起こっていることは、自分のことと無関係ではなく、責任があると考えなければ、(政治についていえば)知らぬ間にこの国が戦争に巻き込まれるということは大いにありうるという現実がある。たしかにできることとできないことはあるけれども、無関心であってはならない。「私」とは何か、時間とは…とこのところずっと考え続けている。枕元には判読不可能なメモが重ねられていく。机に向かっている時は、思いつかないのに、疲れて横になったとたんにいろいろな想が思い浮かび、書き留めないといけないことになる。 森有正が日記の中でこんなことを書いている。誰が運命の仮借なき力に抗して身を持することができようか、と。「これは、極めて辛い、むつかしい作業だ。しかし、ぴたりと身を寄せて、耐えおおせねばならない。本当にそうなのだ。何となれば、砂漠に水が湧き、孤独の中に流れの迸り出る時が来るであろうから」(全集13、p.110)。どんな時も希望を失うことなく、できることをした上で耐えおおせること。いつも近くにいて力になりたい。
2004年10月28日
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今日は朝からの予定がなかったのと、新潟の学会に参加していた頃からの緊張する日々に一旦区切りをつけることができたからか、気が緩んで、一度起きたのに(薬を飲むために起きた)翻訳の校正原稿を9時に受け取った後(朝からいなくて不在通知を夕方に見て、連絡して受け取ることがこのところ多かった)、また寝てしまった。途中、一度メールを書いたが、またそのまま寝てしまい、日がとっぷりと暮れて起きた時は何日分もまとめて寝てしまったことになる。寝ている間に届いていた講演依頼やカウンセリングの予約のメールへの返事が遅くなってしまった。 土砂に埋もれたワゴン車から男児が救出される様子が中継される一方で、イラクでの日本人の人質への政府の対応は、テロを許さない、自衛隊は撤退させないというものである。人の命は同じはずなのにこの違いは何なのか、と思ってしまう。台風、地震が続く今も、政治のことにも忘れず目を向けていきたい。母の死をやがて伝えられるであろう子どもの心中はいかばかりであろう。強く生きていってほしいと思う。
2004年10月27日
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今日は明治東洋医学院での講義。前回、講義に差し障るほど騒がしいクラスがあって注意しなければならなかったのだが、今日は思いがけずといいたくなるほど静かで、快適に講義をすることができた。別のクラスでは前回マイクの調子がよくなくて苦労したのだが、学生が使い方について助言してくれたので、問題なく講義をすることができた。こんなふうに助けられてばかりである。 ミルトン・エリクソンがこんなことをいっている。「私は、人は生まれたその日が死に始める日だと、心に留め置くべきだと思っています。少数の人は、死ぬことにそれほど多くの時間を費やさず人生を有効に生きているのに比べて、多くの人は死ぬことを長々とまっています」(『私の声はあなたとともに』p.175)。エリクソンの言葉は必ずしも死に目を向けないで生きることを勧めているわけではないだろう。むしろ、死は誰も避けられぬことであり、そのことを知った上でなお、死が怖れや不安を引き起こすべきではない、人生は生きるためのものであることをいおうとしているのであろう。カウンセリングの帰り際にある人が唐突に「生きるのは苦しいですね」といわれた。人生に苦しみは避けられない。しかしどんな苦境の中にあっても、人生を楽しみたい、楽しみつくしたい。 講演のタイトルにギリシア哲学と書いてあるからか、ギリシア哲学は難解で理解するのは無理かもしれないという感想を持つ人があることを聞き困惑した。ソクラテスにいわせれば、それは知らないことを知っていると思っていることである、ということになるだろう。可能な限り、平易な言葉で語りたい。言葉のレベルでむずかしいと思われたとしたら僕の非力である。僕には哲学よりも経済学のほうがよほどむずかしいと思うのだが(これとて僕の偏見であることは明らかである)、こと哲学については最初からむずかしいと敬遠される傾向があるように思う。 僕は今日いつになく緊張していた。自分は何もできなくて、ただ待つことしかできないのはつらいことであるが、今日は不安に思うことなく待つことができた。いつも時計代わりにしている携帯電話のメール着信ランプが講義中に光った。無事を知らせるその光が僕の心の隅々まで浄めた。
2004年10月26日
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今日は診療所でカウンセリング。4時に終わって帰ろうとした時に、今日は診察ですよ、と受付の人に声をかけられた。診察を忘れるほど体調がよくなってきたということかもしれない。時折、不調の日があるけれども、眠れない夜もあるけれども、あの暑かった夏の日の苦しさは峠を越えたように思う。眠れない日もあるが、眠らない日もある。昨夜は遅くまで起きていた。電話で話しながら、今ここにこうして生きていることの不思議を強く思った。 11月7日、東京アドラーギルドでの講演が決まった。哲学の話ができるのはうれしい。三十代の頃とは違って「"someone said"の哲学」(三木清『語られざる哲学』、全集18、p.25)ではない(誰々がこんなことをいっている…)話をするようになったが、まだまだ僕にはむずかしい。ミッテラン大統領が余命後半年と告知され、翌年(1995年)、当時93歳の哲学者ジャン・ギトンを訪ねたという話を前に紹介したことがあるが、死について(ということは生についてということでもあるのだが)人がたずねにくるような哲学者になりたいし、そんな哲学を語りたい。 先週の土曜日に講演に行こうとしたら、バス停で中学生がこのバスに乗ったら阪急の駅に行けるかとたずねたことをふと今思い出した。僕も同じ駅に向かうつもりだったので乗るべきバスを教えた。バスを降りる時、次のバス停で降りたらいいのですか、とまたたずねられた。降りたら、駅は近くですか、と。結局、阪急電車の中で電車を降りるまで話すことになったのだが、僕はこんなふうに人に何かについてたずねたり、人の援助を乞うということをしてこなかったことに思い当たった。実際には、助けられて今ここにこうしているのだが。そんなふうにできることをうらやましく思う。
2004年10月25日
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新聞で台風の記事も地震の記事を読んでも胸がいっぱいになる。神戸の地震のことを思い出す。その頃僕は、今回浸水した家に住んでいた。古い家なので倒壊するのではないかと思うほどの大きな揺れを感じた。余震の恐怖も忘れない。本が本箱から床に散乱したのに、長く元に戻す気にならなかった。 朝、自治会長さんから電話。軽トラックがあるので(浸水して濡らしてしまった)畳を処理場に搬入しようといってくださった。罹災したのに、粗大ごみを個人で搬入しなければならないことは理不尽だと思うのだが、それはそれとして、この申し出はありがたかった。シールを買って(有料)取りにきてもらおうと思っていたからである。その上で、市に抗議をするつもりだった。トラックに畳を乗せて、ついこの間台風がきたとは思えない晴天の中、山道を走った。新潟に親戚があって水を送ったという話をうかがう。苦手な人だと思っていたが、僕の思い込みだったかもしれない、と思った。 昨日引いた三木清が豊多摩拘置所で獄死したのは1945年9月26日で、8月15日が敗戦の日なので、その日から一ヶ月以上経ってからのことだったことは前に紹介したことがある。この一月の間に三木は疥癬が悪化し、独房で誰一人看取るものもなく、寝床から転がり落ちて絶命した。四十九歳だった。 その三木の遺稿の一つにデカルトの『省察』(Meditationes)の訳稿があった(岩波文庫の一冊として後に出版された)。三木はこのラテン文の翻訳にまだこれから手を入れるつもりであったらしく完成稿ではなかったが、原稿用紙に丹念に浄書してあった。三木の直筆の写真を見たことがあるが、一度見たら忘れられないといわれることのある独特の書体で、書いたというより、刻みつけたというのがふさわしい。落合太郎が後記の中で、死後遺稿がどこからどうして出ていたかを知っているが、それについて語るのは見合わせたいといっている。誤りを伝えたくないということだが、三木の死をめぐる憤激は明らかに語られている(もっと早く釈放されていたら獄死は免れていたであろう)。 三木に刺激されたのかもしれないが、久しぶりに原稿用紙に文字を書きつけ、迷惑をかけりみず、FAXで送り付けてしまった。字に劣等感をもたずに書くことを可能にしたコンピュータをありがたいと思った。 人が一人亡くなるということでもたいへんなことである。つい今し方まで地震にあうことなど誰も想像していなかったであろうに、まして犠牲になるとは誰も思ってもいなかったであろうに、痛ましい限りである。
2004年10月24日
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台風に続き、今度は新潟の地震。一週間前、僕は学会で越後湯沢に滞在していたのである。わが家は浸水したけれども、ただ浸水しただけであって決して流されたわけでもない。不幸中の幸いを喜ばねばならない。今の世の中、無事に生きることだけでも大変なことである。こんなことを忘れ、こうあってほしい、と求めてしまうけれども、地震などの災害のニュースを聞くと、生きているという事実がありがたいと思う。 三木清がこんなことを書いている(『親鸞』全集18、p.438)「人生の経験において我々の心を打つものは無常である。世の中のものは移り変わって、常のものといっては何ひとつない。すべては時の流れに現われては過ぎてゆく。この事実が無常と呼ばれる」 災禍に見舞われ、病気になり、近親の死に会する。このようなことを経験をして無常を感じる。「この無常感はひとを仏教に入らせる動機である」と三木はいう。しかし、これは仏教以前の基礎体験といっていい。三木は晩年(といっても若いのだが)、このような基礎体験を思想にまで高めた仏教に、さらに浄土真宗に惹かれていった。 今日は長岡京市で講演した。全三回のうち二回目。講演が始まる前に近くの長岡天満宮を訪ねた。前回、講演をしている時に、視界に入ってくる美しい森が気になっていたのだが、後で調べたら長岡天満宮であることを知った。そこで、早めに出かけることにしたのである。Dieu aidant、すべてがうまくいきますように、と祈念した。 講演では(今日は二回目だったので、最初15分話をし、後は全部質疑応答にした)たまたま地震の話をしたのを思い出した。朝、「おはよう」という。このおはようを決してリップサービスにしてはいけないという話。おはようも、ただいまも、お帰りも、今日この日にいう一度きりのものなのだから、軽々にいうべきものではないのである。
2004年10月23日
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奈良での講演二日目。今日は昨日よりも参加者は多く、八十人ほどの方がこられた。反応が違うので、大筋は同じだとしても話の中身は変わってくる。講義後、担当の方と昼食。その後、京都に戻ってから、久しぶりに再会した人と長く話す。帰宅すると今日も翻訳の校正原稿が届いていた。朝方までチェックしていたのだが、追いつかないかもしれない。浸水の被害のほうは、畳の件を除けば、昨日中に片付いた。後は乾くのを待つだけだが、こちらはこの季節だと長くかかるかもしれない。 人との出会いは、縁や運命としかいえないところがある。三木清が「因縁というものについて深く考えるようになった」と書いているのをかつて読んで、哲学者がこのようなことをいうことを不思議に思ったことがあるが、三木が獄死した歳に近づいたからか、僕も同じように考えるようになった。わずかに触れ合う人もいれば、深く関わる人もいる。「なぜ」会ったかと考えてもわからない。「いかに」関係をよくするかということしか考えても意味はないのであろう。僕は今日は学ぶところが多々あったのだが、まだまとめられないでいる。
2004年10月22日
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前に住んでいた家は床上浸水していた。昨日、日記を書いていた頃、気にはなっていたが行かなかった。結果論だが、行っていたら、戻ってこられてなかっただろう。家までの道が冠水(かなり激しい流れ)してしまっていたが、きっとかなり早いペースで増水したのではないか、と思う。その後、夜、遅くまで電話をしていたのだが、雨風が少し弱まったので、見に行こうとしたが、通行止めになっていて家に近づくことはできなかった。 朝から奈良で講演があるのに、線路が冠水し不通になっていたJRが動くかどうかもわからず、それなら早起きしないといけないと思っていたら眠ることができず、一時間ほど眠っただけで出かけることになった。 講演は好評だった。息子が幼い頃は学校を休むことも稀にあったけれど、高校に入ってからは皆勤賞を毎年もらっているという話をした時に、ふいにその息子が今日は後片付けのために学校を休んでくれたことに思い当たったら、ぐっとこみあげるものがあって、講演の途中であやうく言葉を失いそうになってしまった。 今回、住んでいたら決してこんなことにはならなかったのだが、畳を濡らしてしまった。いつもなら浸水前に畳もその下の床板も全部外してしまうのである。 この濡れた畳を廃棄処分しようと思って、役所に行ったところ、総務課の人と激しいやり取りをすることになってしまった。減免申請書を提出すれば、無料で水害によって生じた大型ごみを処分してもらえるのだが、そのごみを処理場に持ち込むのが条件だというのである。「持ち込まなかったら?」「有料になります」「持ち込む術がないのですが」「それなら有料になります」「ちょっと待ってください。災害にあったのですよ。自分の都合で大型ごみを出すというわけではないのに、有料とはおかしくはないですか?」「これは規則ですから、おたくだけを特別に認めるわけにはいかないのです。業者に委託していますが、取りに行くわけにはいきません」…以下、延々と話してみたが、話にならず残念である。火災の場合でも、持ち込まないといけないのだそうだ。「隣の家が燃えて、類焼してもですか」「そうです。その場合も持ち込んでもらったら無料にできます」。今回のような水害の場合、家が倒壊しても、持ち込めなければ(トラックか何かを使うのだろう)有料になるらしい。規則なのです、例えば、ごみの分別収集が規則としてあるのに、私はそんなことはしたくないというのと同じです、というようなこともいわれた。同じではないと思うのだが、それ以上、窓口で談判するにはあまりに疲れすぎた。 こんなこともあったけれども、無事生きていることができたのはありがたい。前の家には、たくさんの本もあるけれども、たとえそれらが失われたとしても、大きなショックを受けることはないだろう、とまだ被害の状況がわからない夜明け前に思った。強く執着することはたしかにあるけれども、本も含めてものに対しては執着はないことに思い当たった。
2004年10月21日
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時折強い風が吹く。きっと前の家にいれば、恐怖に震えていたかもしれない。家はずっと揺れ続けているはずである。ひょっとしたら川は警戒水位を超え、浸水しているかもしれないが、この雨風では出かけるのは危険なので、その時はその時ということで今夜は動かないでおこうと思う。今朝は電車が動いていなかった。講演の日だったら大変なことになっていただろう。もっとも今日であれば中止になっていた可能性は高いのだが。 中島義道の書いたものを読むといつもたまらない不快感が残るのだが、「私」について考察した本(『「私」の秘密』、時間論(『「時間」を哲学する』)などからは大いに啓発されるところがある。順を追ってきちんと読んでいくとよく理解できるけれども、例えば、未来はいかなる意味でも「ない」という結論にいたることが一体どんな意味があるのかということを考え始めるとむずかしくてなかなか解けない。学生の一人が過日の発表の中で、少年犯罪の原因は幼少期における(親との)コミュニケーションの欠如である、といった時、そのような理論を立てることの意味が僕にはよくわかったのだが(だから僕は反論しないわけにはいかなかったし、そうすることができた)、時間論についてはそこまでの理解にいたらないでいる。理論的に「ない」という結論を出せるとしても、それなら、本質的に未来に向けられる「祈り」にはどんな意味があるのか。人は祈りによって何を神や仏に求めるのか…未来は決まっていないかもしれないが、「ある」からこそ祈るのではないか、また、未来が決まっていたら祈る意味はないけれども、その場合でも、未来はやはり「ある」のではないか…もちろん、こんなことを祈りの場面で考えたりはしないのであるが、僕は考えないわけにはいかない。 力になりたいのに、何もできることがないのはつらいが、今日は、できることがあって、自分が必要とされていると感じられたので(そうだったらいいのだが)生きる喜びを強く感じることができた。うれしかった。
2004年10月20日
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今日は明治東洋医学院での講義の日。朝は教員養成科の講義の後、昼からの鍼灸科の講義まで二時間あっていつもは控室で寝てしまったりするのだが、用事があって気がつけば昼になってしまっていた。学内の食堂に行くと学生たちが声をかけてくれる。講義以外で学生と話すことがあまりないことに思い当たった。 昼からの講義では学生の私語が気になり(今日は二回目)注意しなければならなかった。僕の講義の時だけではないと学生が後で教えてくれたのだが。昼からは同じ講義を別のクラスで二度することになっているが、学生の反応が異なるので違う話になってしまう。 次回どうなるかわからないのだが、すべてのクラスでこんなことが起こるわけではないが、最初の頃に問題になることがある。僕としては、興味のない学生をも引きつける講義をすることしかないと考えているが、他にも工夫の余地があるかもしれない。例えば、中井久夫は、教壇を降り、学生の机の間の通路を歩いて学生一人一人の顔を見て話したという(『清陰星雨』)。中井はマイクも使わない。マイクを使うと、声が頭の上や背中のほうからふってくるので、視覚と(教壇のほうを見る)聴覚の集中方向が別々なので教壇を見なくなるのかもしれないといっている。一度試してみようと思って日記で紹介して二年になるが、まだ試したことはない。ノートがなくても話せるので、できるはずなのだが。 学会に数日行っただけなのに体調が元に戻らない。夜、眠れない。今日は6時半にアラームをセットしたのに、なぜ鳴っているのか理解できず、何度ももみ消そうとしていた。4時には寝たはずなのだが。ふとこの頃、あまり積極的に仕事をしていないことに気づく。講演の宣伝をしてください、とメールがきていたのに、そういえば積極的に広報活動をしていないことに気づく。翻訳や原稿を書くことは力を抜いていない。 努力をしていれば必ず報われるのであればいいのに、とこの頃強く思う。自分を超えるところで働く力が、努力が報われる方へと向かうことを阻止することがよくあったからである。それだけに、努力が報われるように見えることがあると(自分のことでなくても)、ひどく緊張してしまう。首尾よく難局を乗り切れますように。
2004年10月19日
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今日は昼から診療所でカウンセリング。予約が少なく、終わってから診療所の近くにある北野天満宮へ。前に参ったのは六月なので、もうあれからずいぶん経つ。 朝、妹から電話があって話す。父が今日誕生日であることを僕は失念していた。 昨年の末、本を出版して以来、外的には何も業績はないけれども、密度の濃い人生を送っているという実感がある。毎日、一生懸命生きているといってもいいかもしれない。 中島義道の『どうせ死んでしまう……私は哲学病』(角川書店)を少し読み進む。しょせん人生はどう転んでも不幸に決まっているという著者の考えをどうしても肯定できない。一生懸命生きることが空しくなってしまう。 もしも人生を知る深さという言葉が適切ならば、人生を深く知れば知るほど、喜びは増すかもしれないが、それとともに、悲しみ、苦しみも増すのかもしれない。それでも、人生の皮相のところだけを見つめて、人生はこんなものだと見たりしたくはない。現実がどんなものかわかってないのだ、とわかったようなことはいいたくはない。前に引いた三木清の言葉を思い出した。「しかしながら何故に彼等が、自分の心の奥で味うこともなく単に便宜的に観念してかかったもののみが、人生や現実やの如実の姿としてひとり妥当する権利をもち得るかは私には分からないことだ。寧ろ本当に生きようとする人が体験するところのものが人生であり現実であるのではなかろうか」(三木清『哲学と人生』講談社文庫、p.94)「決まっている」という言葉は使わないでおこうと思っている。何も決まっているわけではないから。人生は不幸だと決めた人には、人生は不幸であろうが。幸福であると決まっているわけでもないというのも本当である。
2004年10月18日
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学会は午前中のシンポジウムの後閉会。湯沢での最後の夜は、朝まで眠れないで過ごすことになった。今回の学会で学んだことは多々あるが、消化するには時間はかかりそうだ。臨床家仲間が朝食の時いっていたことが印象的だった。「こうして、私は、少しだけ回心して帰る」。僕は研究発表を聞き、シンポジウムで発表を聞き、仲間と語らうことを通じて、仕事のことや自分のことについて振り返ることができた。そんな感じをその人は表しているのだろう、と思ったのだが、回心といえば、天からの光に照らされイエスの声を聞いたパウロのことを思い出すので、<少しだけの>回心というのは本当はないのかもしれない、とも思ってみた。回心は、ギリシア語であればペリアゴーゲー、つまり、身体全体の向きを変えることなのだから。僕はいつも我が強いのか、変われないし、きっと変わろうとしない。成長しないでいつまでも同じところに踏みとどまっていることに学会のたびに思い当たる。帰りは時間がないのと体力の問題があって、結局、東京に出て新幹線で帰った。ビュッフェ形式の食事ばかりしていたのでさぞかし体重が増えただろうと思っていたが全然そんなことはなかった(このところ体重の減少に歯止めがかからない)。血圧はしっかり高くなっていた。
2004年10月17日
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越後湯沢での学会二日目。午前中の分科会、午後からのシンポジウム。その後、早稲田大学の喜多明人先生の講演(「子どもの権利条約と日本の子ども」)とすわりづめでいささか疲れた。 朝、早く起きて外に出てみた。水色の空は美しく、刷毛でひいたような雲が刻々と形を変えていくのにしばらく見とれていた。届いた喜ばしき知らせは、今日僕の心を高揚させた。 気持ちに余裕なく、今夜も身辺のことだけしか書けないが、京都に帰ればまた前のように書き続けたいので、読者の寛恕を乞いたい。 今回、三冊だけ本を持ってきた。いずれも前に読んだ本ばかりなのだが。『「私」の秘密』(中島義道、講談社)、『時と永遠』(波多野精一、岩波書店)、『人生論風に』(田中美知太郎、新潮社)。最後の田中の本は題から受けるイメージとは違って、かなりむずかしい。言葉は平易なのだが、言葉のやさしさは内容のやさしさを保証しない。いわゆる人生論は人生論だけで完結できるものではない、と田中はいうが、高度の哲学的な内容に深入りしたというあとがきの言葉は僕は納得できる。しかしそれでもなおなんとか僕が本を書く時には可能な限り理解できるものにしたいと強く思う。去年の学会の時にある人と話していて、僕の本はむずかしいからな、といわれて、大いにショックを受けたのを今日ふと思い出した。そんなふうに一言で片づけられたら僕としては返す言葉がない。そんなふうに思われない本を書いてみたい。
2004年10月16日
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越後湯沢で日曜まで日本アドラー心理学会。京都から東京に出て、そこから上越新幹線で越後湯沢まで。Maxときという二階建ての特急に乗った。一階席だったからか、線路の両側の防音壁のためにほとんど景色が見えなかった。やがて前方に高い山並みが見え始めると、トンネルに入る。長いトンネルを抜けて越後湯沢に着くと、雨が降っていた。気温も低い。学会が開催されるホテルは冬場はスキーで賑わうようである。駅から送迎バスでホテルにきたが、一旦ここに入ってしまうと二度と外界に出ていけない。観光にきたわけではないからこれでいいのだが、閉塞感が強い。拒食症とアディクションに関する二つの宿題発表は、僕も関わることがあるので、啓発的だった。夕食後、議論。僕は常に誰かとともにいなければならない(物理的な意味では必ずしもないが、etre avec)。それが人の本来のあり方ではないか、というような話。そのこととアドラーがいう『仲間」(Mitmenschen)との関係など。遠い町にきてしまったことを強く後悔もしたが、疲れて部屋に戻ると嬉しい知らせがあり、元気を取り戻すことができた。
2004年10月15日
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朝まで眠れず、仕事。起きているのが辛くてもう寝ようかと思うのに、思い直して仕事に戻るとそのまま眠れなくなるというような日が続いている。焦っているわけではない、と思いたいのだが。神谷美恵子が忙しくて、書くといえば、何かに追われているように、「鬼のいない間に生命の洗濯」でもしているようにあわてて、数行書きなぐっているような自分がつくづくいじらくしく、いとおしくなった、と日記に書いている(『神谷美恵子日記』p.69)。「もっとのびのびと、永遠に書いているような気持ちで書け、思う存分心にあることをみんなゆるゆると書け。誰もお前をいじめてはいない」。横になってもすぐに起こされる。暗闇の中では書けないので、光を求めて書斎に入る。もうそのまま朝まで眠れない。僕の魂は鬼に操られているようだ。 明日から越後湯沢で学会があるので、昼から少し準備した。二泊なので本を持っていくことを断念さえすれば荷物もそんなに多いわけではない。コンピュータは持っていく。 先日、講演のために久しぶりに京大の構内を歩いた。まだ僕が野心をもってがむしゃらに勉強していた頃のことを思い出した。久しぶりに大学の夢を見た。いつも同じである。卒業に必要な単位が取れてなくて、本当は卒業できていないという夢。「野心は不安です。天職は期待です。野心は恐れです。天職は喜びです。野心は計算し、失敗します、そして成功は、野心のすべての失敗の中で最も華々しいものです。天職は自然のままに身をゆだね、すべてが彼に与えられます」(ギトン『私の哲学的遺言』p.311) 僕のは野心なのか、天職なのか…
2004年10月14日
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ソクラテスのような強靭な体力がないので、今日は疲れてしまって朝早く起きられなかった。昨日の夜は、帰宅後、茫然としていた。二時ごろ、ようやく少し元気を取り戻し、そのまま眠れぬまま朝を迎えた。ソクラテスは一晩飲み明かしても、次の日いつもどおり過ごしたということが『饗宴』の中に書いてあるが、そんなことは僕にはとうてい真似ができない。書類を書いたり、講演のレジュメとプロフィールを書いて送ったり、他にもすぐに返事が書けないでいたメールの返事を今日はたくさん書いた。週末、新潟で学会があるが、チケットはまだ取れていない。 ジャン・ギトンが、自分以外には何事にも興味がなかったと書いているのを読んで考え込んでしまった(『私の哲学的遺言』p.227)。どうしようもない利己主義者だった、といっている。自分もそうかもしれない、と思った。わき目もふらず、勉強ばかりしていた頃がたしかにあった。まわりの人をまきこんで。「私は情熱的な人間じゃないんだ」「あなたは情熱をもっていたわ、哲学よ。何も後悔する必要はないわ」(p.232) 寛大な僕の先生方は、いってくださるかもしれない。「誰にどういうことが起こっても、それでもその人間が少しでもよくなってゆくのなら、それはそれでいいのだ」(森進一『雲の評定』)。僕は少しでもよくなったのだろうか。あんなによくしてもらったのに、僕は一人離れていってしまった。
2004年10月13日
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今夜は、「これからの教育を考える会」(座長:京都大学西村和雄教授)で講演。場所は当初の予定とは違って、京大の経済研究所だった。授業の後、茨木からかけつけた高校の先生方にはお疲れの様子ではあったが熱心に聴いていただけありがたかった。西村先生は会の座長とはいえ、多忙な先生なのではたして出席されるのかと思っていたら、熱心に聴いていただき、たくさん質問もいただいた。講演終了後、出版社の方と西村先生と食事に行く。もうこんなふうに講演後食事に行くというようなことは何年もなかったのではないか、と思う。ここでもいろいろな話を伺い啓発された。 この会は、向陽台高等学校(茨木市)が主催するもので、学校とは本来子どもたちのためのもの、という観点から引きこもりなどの理由で学校に行けなくなる子どもたちをどのように捉えて、どのように手助けしていくのか、という点について二ヶ月に一度研究者を招き、現場の教員が一緒に考えていこう、という趣旨で結成された。四月から僕が四人目と聞いた。質問を通じて語られる先生方の話には生徒への並々ならぬ情熱が感じられ、講師の僕としては、目下の教育の現状のどこに改善の余地があり、どうすればいいのか、を語ることになった。西村先生はアドラー心理学のことをよくご存知で会が始まる前から(僕は平気だが)過激なことを話され、また質問されるので、いつになく大きな刺激を受けることになった。 数日来引いているギトンの本は対話篇になっている。対話篇といえば、プラトンが書いたものがよく知られているが、実際に書いてみようと思っても簡単に書けるものではない。「君はなぜこんなに遅く僕の人生の中に現われたのだろう」「あなたの成熟を待たなければならなかったから。革命を志す人は、樹木のように、成熟するのに時間がかかるのよ」「君は僕が生涯で一番苦しんでいる時にやってきたことになる」「いえ、私はそうは思わない」… 僕は僕の本を書こう、と昨日、夜遅く決心した。
2004年10月12日
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遅くまで原稿を書いていた。あまり進まなかった。自分で書いた話なのに悲しくなってつらかった。でもこの悲しさに終始しないように書き進められるか、と考えながら眠りについた。 森有正の1967年3月28日の日記(『砂漠に向かって』全集2,p.317)にこんなことが書いてある。「灰色の陰鬱な日々に耐えることが出来なくてはならない。というのは、価値ある事が発酵し、結晶するのは、こういう単調な時間を忍耐強く辛抱することを通してなのだから」。 よい作品が書けるのは、熱情や霊感によるのではないことを森は注意する。僕は熱情や霊感も必要である、と思う。霊感を与えてくれる人も。それでも、書くのは僕なのだから忍耐の日々が続く。決して「灰色の陰鬱な日々」だと思わないでいられるのは幸いである。 あまり無理しないようになったが(あまり無理をしないで、といってもらえるのは僕にとっては現実的でうれしい)、なお身体が思うようにならなくて、焦ってしまう。森有正が、人間はどんな情況にいても自由でいられるといっていることを、昨日、デュプレについて書いた時、思い出した。 昨日、引いたギトンの本の続き。「では、自分が老いていると感じている人は?」「たぶん、彼らは永遠を信じていないのでしょう」(『哲学的遺言』p.219) この世界にいてこの世界を超え、永遠(あるいは彼岸)を目指していると信じられなければ、<形>にはならない仕事をしようという気にはならないだろう。 リルケが若い詩人のカプスに宛てた手紙の一節を前に訳したことがあった。「そこでは時間で計るということはなく、一年でも計ることはできません。十年でもだめです。芸術家であるというのは、計算しないで、数えないで、木のように成熟するということです。木は樹液を無理に押し出しません。春の嵐の中で平然として、夏はこないのではないか、と不安に思ったりしないで立っています。しかし、夏はかならずきます。あたかも目の前には永遠があるかの如く、静かにゆったり構えている忍耐強い人のところには」
2004年10月11日
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翻訳原稿のチェックをした後、朝方まで原稿を書き続ける。いくらでも話し続けることはできても、書き続けるのは至難の業である。夏とは違ってなかなか夜が明けない。今日は無事を伝えるメールが届き、緊張が一気に解けた。心配してもどうしようもないというのは理屈でしかない。 ある種の虫は獲物を襲う時、殺さず麻痺させる。ある日数の間に動かず生かせ続けることで新鮮な食物を得ることができる。例えば、セトニアの幼虫を襲うツチバチは一点しか刺さない。その一点には運動神経節が、しかもその神経節だけが集中している。他の神経節をあれこれ刺せば、死んで腐敗してしまうことになる。獲物を死に至らしめることなく、麻痺させるためにどこを刺すかということをはたして手探りで経験的に学んだとは思えない(ベルクソン『創造的進化』岩波文庫、上、p.213-4)。解剖学的構造が、寄生する昆虫の中に正確にコード化されているのであろうが、偶然にこんなふうになったとはとても思えない。 人間は自分を超えようとする。僕は今書いている原稿の中では、人は、(1)(前著にも詳細に論じたが)私を超えるということ、(2)現実を超えるということを明らかにしたい。決定的な飛躍を試みるのである。そのことによってどんなふうに生き方が変わるか。「人間はいつまでも若いままなのだろうか?」「そうです、自分の前に永遠があると考える限り」(ジャン・ギトン『哲学的遺言』p.218) ジャクリーヌ・デュプレについては本の中で取り上げた(『不幸の心理 幸福の哲学』pp.136-7)。28歳で多発性硬化症に倒れ、腕と指の感覚を失った彼女はチェリストとしての活動を断念した。本の中ではその後42歳でなくなるまでの若すぎる晩年をどんなふうに生きたかを紹介したが、その後、精神科医のレイン(R.D.Laing)の自伝を読んでいたら、デュプレについて触れてあるのを知った。日記でも二年ほど前に一度取り上げたことがある。デュプレは発症一年後には両腕の共同作業能力を永久に失ったかのように見えた。ところがある朝目覚めたら奇跡的にも両腕とも使えることに気がついた。この回復は四日続いた。その間、何曲か記念すべき録音演奏(ショパンとフォーレのチェロソナタ)をやり遂げた。長くチェロの練習をしていなかったにもかかわらずである(『レイン わが半生』岩波現代文庫、p.266)。 レインは気質性の損壊は逆転不能(もとの状態まで回復することができない)と考えられていることの反証としてデュプレのケースを提示しているのだが、僕はレインとは違う面に注目する。おそらくデュプレは、自分が回復することを予期してはいなかったであろう。ある朝、両腕の昨日が回復していることに気づいたとしても、その回復が何日続くかすらわからなかったに違いない。結果的には四日続いたということでしかない。それなのに、この機会を逃すことなく、レコーディングをしたという話に僕は驚かないわけにいかない。これはデュプレの生きる姿勢そのものである。
2004年10月10日
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講演が中止になったので思いがけないオフの日にはなったが、心配事をかかえながら、(構想中の本の)原稿を書いたり、本を読んだりしていた。森有正の表現を借りるならば、《潜在的な》構造を《ねり上げる》ことを試みているが、むずかしい。実際に書いたメールを使うことになるかもしれないが、その場合は対信者の許可が必要かもしれない。 夕方、出版社から翻訳原稿の続きが届く。午前中の配達が指定してあったのだが、台風の影響で遅れたとのことだった。仕事は待つまでもなく、仕事のほうから追いかけてくる。ひどく緊張していて、どうにかなりそうだ。 昨日の日記へのコメントとして書いたことは、僕の中で大きな問題でずっと考え続けている。 しばらく読まないでいたジャン・ギトンの『私の哲学的遺言』(新評論)の続きを少し読み進める。ギトンが死んだ夜、パリのアパルトマンで不思議なことが起きる。静かに死を迎えようとしたいたギトンは100歳。枕辺にパスカルやソクラテスらが現れるという話。今日読んだところでは、ベルクソンがギトンのもとを訪れる。 ベルクソンは、ある日、娘がノックもしないで部屋に入ってきた時のことを語る。部屋にいたら、光が見えたの。光の中に何かが見えたの。あんなきれいなもの一度も見たことがない。長々と安堵の吐息をもらしたベルクソンは娘にいった。いい子だ、そのことは一言もお母さんにいってはいけない。あの人にはわからないだろうから。でも僕は君のいうことを信じるから。なぜって、僕も同じものを見たばかりなのだから…わかる人にしか話をしてはいけないというベルクソンの思いは僕にはわかる。ベルクソンは、その後、神秘主義的な現象は精神病理学に還元できない、と精密な研究を始めた。この日の出来事が、『道徳と宗教の二源泉』を書くきっかけとなった(pp.70-2)。 ギトンは思いがけず合理的でベルクソンに抵抗する。「私には、永遠なるイデアの世界を観照する、知性を備えた非人格的な霊魂の永遠性が、かろうじてやっと理解できる程度です。だから、個人の魂の不滅など、とても…」(p.89)。ここではギトンはプラトンに言及していると考えられるが、魂の不死についてギトンは僕と同じ理解をしているようである。「非人格的」な魂の不死が問題にされているのである。しかし、僕はギトンは理解できないというが、「個人の魂の不滅」について考えてみたいのだ。しかも信仰のレベルではなく。この条件をつけるとたちまち難しいことになるのは必至ではあるが。
2004年10月09日
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明日は長岡京市の公民館で三回シリーズの講演の二回目が予定されていたのだが、台風のために中止になった。この分をどうするかを相談した。三回の予定を二回にすることもできるわけである。僕が、というよりは受講されている人の希望を聞かないといけないのではないでしょうか、というと、僕が電話した時点で、中止の連絡がすんでいてその際、全員が別の日の開講を希望されたとのこと。この時期の土曜日は忙しいのだが、空いている日があってよかった。 午前中、松原市の公民館で講演。もう二回目、三回目の方もおられた。講演後すぐにアンケートに答えてもらい見せてもらう。好評だったようで安堵した。 講演をしながら考えていた。例えば、「勇気」(あるいは、掲示板で質問を受けた「共同体感覚」についてでもいいのだが)について講演で伝えたいと思う。しかし、どうしたらそれができるのか、と。定義をすればいいという考えもあるだろうが、実際の講演では簡単ではない。講演やカウンセリングの場合は、言葉によるしか勇気について定義できないのだが、言葉は勇気そのものではないのである。話を聞く側も僕が定義をしたとして、その定義を覚えたとしても何の役にも立たない。どうしたら僕は勇気についてそれが何かを伝えることができるか… ずっと考えているのは、結局、このためにはエピソードを語るしかないのではないか、ということ。そうすれば、そのエピソードを聞いたり読んだ人の心の中に共鳴が起こり、あのことが(だから言葉の意味を理解するというのとは違う)勇気というのだというような理解ができるのではないか。しかし、エピソードを伝えるだけではただ体験を伝えるだけになってしまうかもしれない。それでは僕の思いは伝わらない。書くことや話すことについて考えている。プラトンがなぜ論文ではなく、対話篇を著述の形式として選んだかというようなことまで考えた。 二月頃に日記に書いたことがあるのだが、aikoの「今度までには」の歌詞が今日は頻りに思い出された。「凍える夜は震えてないかって心配だけど眠れないけどそんなことはあなたは知らなくってあたしの思いもあたしの涙も幻なのか」。「そんなことはあなたは知らなくって」と歌われているが、僕は心配していることを伝えてしまう…
2004年10月08日
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朝方まで眠れなかった。午前中カウンセリングの後、試験の採点の最終チェックをした後、点数を記入し、郵送。今回は全員に合格点をつけることができたので、再試験の必要はなくなった。 実感できないことは何一つ書かないでおこうと思う。この日記も、メールも、論文も、本も。実感という場合の「感」は感覚の謂である。そう考えると書くスタイルが自ずから変わらないわけにはいかない。 感覚は自分でないものとの接触である、と森有正はいっている(『バビロンの流れのほとりにて』全集1、p.189)。感覚は自分そのものでありながら、しかも自分を超える。自分を超えるものに身を委ねるようになって人生が変わってきたように思う。美しいものや人との邂逅があった(注)。 この夏、二十歳代に書いた論文を何篇か読み返す機会があった。論理を積み上げて書いてはいるけれど、書いていることと生きることとがすぐには結びついていないように思えた。森が東大の助教授だった時に講師を務めていた中村真一郎が、森が渡仏後書くようになった「あの思いがけない叙情的な、そして心理的にきめ細かい、旅行気風の哲学的考察の文章」について、「魂の内奥に至るまでの全面的組みかえという操作」と形容している(「仏文教室の森さん」全集1所収、森有正をめぐるノート1)。僕にもきっとこのような操作が必要なのだろう。小川国夫は、森の文章に行きわたっている「叙情」について「想像するに、それは女性の影響のように思えた」と書いている(前掲ノート)。森の書いたものを読むと、たしかにその通りだと僕も思う。 最近の僕の気がかりは、気を許して気に障ることをいってしまうことである。余裕がない時もこんなことをしてしまう。僕もまちがったことをいうかもしれないけれど許してください、というような合意があれば、あるいは、こんなことがあってもトラブルにはならずにすむのかもしれないのだが、甘えてはいけない。気をつけなければ。もっと怖いのは知らない間に気に障ったり傷つけることをいっていることがないといいきれないということである。(注)「美しい」という言葉には注釈がいるかもしれない。「僕の若い日の熱情は、学問と音楽と、そして、美しい人と一緒にいて話をしたり信頼し合うことだった」(全集1,p.61)。この美しい人は女性のこともあれば、男性のこともあった、と森はいう。池田晶子は、藤澤令夫について、「学問と人格とが、その覚悟において完全に合致した氏の姿は、本当に美しかった」といっている。
2004年10月07日
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今日は予約を入れてなかったのだが、連絡があって急遽一人だけカウンセリングをした。後は、プリントアウトした原稿に手を入れていた。うまく緊張をほぐすことができず、夜、思うように眠ることができない。この頃、夜、起きていることが辛くて、できるだけ昼間に仕事をしようと思うのだが、昼間は講義や講演があって、原稿を書いたり、翻訳の仕事を進めることができないので、どうしても夜に取り組むことになってしまう。こんなことを主治医に話せば、頭を抱え込ますことになるだろう。 僕の中で苦しさが発酵している。そんな時、僕は弱音を吐いてしまう。いつだったか、僕が人に弱音を吐かないといったら、弱音を吐くことは恥ずかしいことではないし、気持ちの通気口であり、苦しい気持ちの出口である、といっていたことをふと思い出した。でも、僕は甘えてはいけない、と思う。そう、自分にいい聞かせているというだけかもしれない。出口を求めているのだから。 僕は毎日のように人の相談を受けているから、もしも今日記を書いている椅子を離れてカウンセリングにこられる人がすわる椅子にこの僕がすわれば、たちどころに僕がどんな話をするかはわかっている。その話だけはよしてくれ、といいたくなる。自分が自分に治療抵抗している。 夕方、横になったら少し眠ることができたので、陰鬱な気分はいくぶんましになった。「頑張る」という題名でたくさんメールを書いた頃のことを時々思い出すことがある。尊敬していた藤澤先生が亡くなり意気消沈していたが、また頑張ろうと思えるようになったあの頃のことを。
2004年10月06日
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今日から鍼灸科で講義を始める。午前中の教員養成科の講義と合わせて3コマ。午後は2クラスある鍼灸科の一年生に講義をするが、同じ講義にはならない。講義の後、質問を募ったところ数名の学生が質問してくれる。「先生、運命は変えられますか?」この質問だけ取り出せば、一体、どんな講義をしたのかと思われるかもしれないが、講義の流れに沿わない質問ではない。外部から降りかかる出来事はどうすることもできないかもしれないが、それをどう解釈し、どう対処するかは決められる。過去の出来事も今の自分を縛らない。 死以外は待たない、と森有正がどこかで書いていたのを思い出した。今の僕は死だけは待ちたくない。他に待つことがあるから。誰の歌だったろう。時計ばかりを眺めては、君の時間を追いかける…さすがにこれでは生きていけないので、がむしゃらに仕事に打ち込もうと思った。でもきっとこれはいい方法ではないだろう。ジャン・カルヴァンの言葉にこんなのがある。"oblivio voluntaria" 訳せば、意識して忘れること…という意味なのだが、この言葉の感じはよくわかる。僕はこのカルヴァンの言葉がどんな文脈で使われているか知らないのだが、意識する以上、忘れることは本来できないのではないか。だから意識した「結果」忘れてしまうという意味ではなくて、意識したまま忘れること(だから一種の形容矛盾ということになる)という意味ではないか、と考えた。そんなことならできるかもしれない。いずれにしても忘れないということだ。
2004年10月05日
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遅くまで試験の採点。その後、眠れなくなってしまった。試験は一通り答案に目を通したので、もう一度読んで今度は点数をつける。前にも書いたとおり5問から1問を選択する形式にしたが、思いがけずその中の次の問題に答える学生が多かった。以前、僕が『プレジデント』に書いた記事の中から引用したものである。 あるビジネスマンは、まだ入社2年目にもかかわらず、仕事が退屈でたまりません。難関の国立大学を卒業し、超優良企業といわれるメーカーに就職したのですが、通勤時に、満員電車の窓に映る自分の顔を眺めていると、「定年までこの生活が続くのか」という気持ちに襲われるといいます。この人にはどんなことを助言しますか? 学生の答案をここに書くわけにはいかないが、僕が考えていなかった視点から論じた答案が多かった。 今日は診療所でカウンセリング。昨日、日記に書いたことを少し意識しながら話しているのに気づいた。「思う」(penser, think etc.)は一人称にしか使えないということ。私は思う、とはいえても、あなたは思う、とはいえないということである。そうなるとカウンセリングにおいて、「あなたは~とお考えですね」というようないい方はできないことになる。「もしも僕があなたの立場なら~と考えるでしょう」ならいえるだろう。相手も同じように考えるのであれば「私も~と思います」という反応がかえってくる。あなたは~と考えてますね、いやそんなことはない、そんなふうには思っていない、いいえ、あなたは自分ではわかってないだけで、本当は~と考えている…というようなやり取りは成立しない(『不幸の心理 幸福の哲学』p.82)。私はそうは思わないと相手がいえばそれで終わりなのである。人の心は読めない。 この頃、些細なことで怒ってしまうことがある。まったく不毛であることがわかっているというのに。某社からおたくの回線はISDNだがADSLに変更しないか、という電話がかかってきた。そんなことがどうしてわかるのですか、とたずねたらNTTの電話帳に載っているという(番号しか書いてないと思うのだが…)。もうADSLを引いているのでいりませんから、というと、変ですね(この電話番号は公開していないのである)、その回線はNTTの…ですか、「あなたには関係ないでしょ」。がしゃん。というような会話。個人情報が漏れているらしいこと、それをもとに電話で勧誘しているようである。疲れてしまう。 また、別の時、本の中に誤植を見つけてしまった。校正の過程で、漢字で書かれた副詞をひらかなにひらいていくことになったのだが、「然ることながら」が(おそらく機械的に)「しかることながら」と直されているのを見つけ落ち込む。僕も目を通したわけだから見つけられなかったことの責任は僕にもあるのだろうが、読者が僕の国語力を疑ったのではないか、と思うと愉快でない… こまごまとしたことに目が向いてしまって大事なことを見失ってしまいそうである。まあたいしたことではないではないか、と流せない。怒りを感じてしまった自分も許せない。「僕は殆どすべての友人を喪ってしまった。しかしそれはそれでよい、僕は後悔しない。そんなことは人間の本当の価値とは何の関係もないことなのだ」(森有正『バビロンの流れのほとりにて』全集1、p.105) 一人でも自分のことをわかってくれる人がいればいい。
2004年10月04日
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遅くまで翻訳の原稿のチェック。もう今夜は止めようと思いながらいつまでも手を入れ続けた。自分の日本語の癖を思い知らされる。 疲れていたのか、予定のなかったので夕方まで寝てしまった。メールを一通送ったが、その後、また寝てしまった。虹の夢。僕が見たもの、読んだもの、すべてを伝えたい、と思っていた。 自分の言葉で書きたい。 penser(思う)という動詞は一人称にしか使えない(Je pense. <私は>思う)ということを森有正が日記の中で書いていたのを思い出した。他の人称については、すべて類推、想像でしかない。自分ならこう思うから、あなた(彼、彼女)もこう思っているであろう、と(私は)思うけれども、当たっているとは限らない。だからこそ、この限界を知った上で、可能なかぎり、自分の考えを言葉をつくして伝えたいし、あなたの言葉を理解したいと思う。 昨日、講演で父の話をした。その後、しばらく父のことを思っていたら、僕がまだ小学生だった時のことを思い出した。何かの拍子に鼻血を出した。怖くなるほど大量に出血した。いつまでも止まる気配がなかった。その時、ふいに父が現れ(いつも父はそんな現われ方をした)、「大丈夫。心配しなくていいから」といった。その言葉が僕にとって大いに慰めだった。そんなに頑張らなくてもいい、と僕はいってほしいのかもしれない。仕事の生産量は減ったかもしれないが前ほどは無理をすることがなくなった。
2004年10月03日
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長岡京市の公民館で講演。これは三回連続のものであり、参加者には事前にアンケートを取るなど、事前に問題意識をはっきりとさせてもらったこともあって、初回の概論的講義の後の質疑応答は活発で、数人が同時に手を挙げて譲り合うという場面が見られ、講演者としてはうれしく思った。次回以降は講義はそれほど時間を取らずとも、質疑応答だけに終始できるのではないか、と思う。 週末、翻訳の原稿と試験の答案が届く。5問から選択してもらう形式にし、そのうち第5問は、問題を自分で作ってもいいということにしたところ、何人かの学生がこれを選んでいた。楽しみである。目下、多忙なので(というよりあいかわらずあまり無理がきかない)一月くらい採点のための時間がほしいところだが、そんなことは許されない。来週からはまた新しいクラス(今度は2クラス)で講義を始めることになっている。 講演をする機会が多く、その都度、担当者と事前の打ち合わせをする。大抵は担当者の尽力によって成功裏に終わるのだが、稀にトラブルがないわけではない。僕は講演をしに行くわけだから、ただそのことだけを考え、体調、気持ちともども準備万端にして講演にのぞめばいいわけだが、どうしても気にかかることがあって、口出ししてしまうことがある。結果として失敗を攻め立てるようなことになって申し訳ない気持ちで一杯になってしまう。でもいわなければたちまち僕が困ってしまい、担当者もただ気づいていないというだけのことだから、そんなふうに思う必要はないのだろうが。気づいていない人にどうして傷つけることなく伝えるかが僕の課題になっている。 そういうやり取りが心労になることがあって、講演そのものではそんなに疲れないのだが(それでも講演後、体重が減るのである。ただ話していると思われるかもしれないが)、担当者とのやりとりで疲れ果ててしまったことがかつてあった。 本の執筆や雑誌記事の執筆依頼でも同じことが起こる。僕など本当は依頼を断わるなどとんでもないのだが、やむをえず断わったこともある。また新たな執筆依頼があると安堵するが、そのまま何もいってこられなくなると気になってしかたがない。時間もエネルギーも無限にあるわけではないのだから、とそんなふうに思わないでおこうとは考え直すのだが。 森有正が死んでしまえば、その後には、何もない、と信じていたとは思えない。僕はこの点に関しては微妙な立場である。しかし、哲学的には無に帰するが、道徳的には、何もないという立場を否定するというわけにはいかないように思う。前著では、死んだ後どうなるにせよ、今ここにおいて幸福に生きるためにどう考えればいいか論じてみたのだが、もっとこの問題に踏み込めればと考えている。目下、複数の仕事を同時進行で進めているので少しパニックになりそうである。翌日仕事があるのがわかっているのに、頭だけが冴え冴えとして遅くまで原稿を書く日が続いたので少し疲れてしまった。
2004年10月02日
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朝からカウンセリング。心配事があってなかなか寝つけなかったので、起きた時、まだ眠かった。虹の写真が届いたという嬉しいメール。 ある日タクシーに乗ったら運転手さんが話しかけてこられた。「むかつくんですよね、歩きながら携帯のメール打ってるやつ」「はあ」(いいではない、僕もよくしてるし)「電話ならいいんですよ、まだしも前を向いて歩いているから、でもメールを打ってるやつは前を見ない(それはたしかにそうだ)どうせ、つまらん内容ですよ(そうでもないかも…)」僕はこんなことは少しも気にならないのだが、運転している時に事故につながったりすると死活問題なのだろう。 たしかにその人がいっていたことには一理はある。前を向いていなければ何かにぶつかるかもしれないし、つまずくこともあるだろう。僕が「今ここに」生きるということをいう時、必ずしも足元だけ見つめるということを意図していない。たしかに先には見えないのである。見えないのに見えているかのように進むというのもずいぶんと危うい。 それでも前にある一点を凝視したい。それは目先にある、これやあの目標ではない。僕の本から引用すると、絶壁から離れていっていると信じているのに実際には絶壁に向かっているということを回避するためにはどうすればいいか。「一つは目標に焦点を当て、常に目標を見定めていることである。自分が本当に成し遂げたいことは何なのか。このことがはっきりしてさえしていれば、いつでも一つの道に固執することなく、必要があれば撤退して別の道に進むことができる」(『不幸の心理 幸福の哲学』p.198)。他方、「目標にフォーカスできているからこそ目先のことにじっくり集中して取り組むことができるともいえる」(p.199)。僕はあえてこの文脈では、この目標が何かについては書いていない(他の個所では明言しているということである)。よかったら考えてみてほしい。 二宮正之が「森さんが書いたもっとも美しい表現の一つ」(『私のシャルトル』p.191)として「日に照らされた悲しみ」という言葉をあげているのを読んで、どこで使っているのか気になっていた。1971年12月9日の日記の中に見つけた。「「死んでしまえば、その後には、何もない。」そうなのだ、その時、僕は《日に照らされた》悲しみで一杯だった。そうなのだ、砂漠に水は湧いていたのだ」(全集14,p.359)。 すぐには意味が判然としないが、この言葉についてはまた書くかもしれない。
2004年10月01日
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