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明治東洋医学院で講義。教育心理学IIが終わったので、昼からの2コマだけ。教育心理学のレポートの締切を今日に設定したので、レポートを入れた厚い封筒を持ち帰ることになった。講義中に発表したテーマについて今度はレポートにまとめてもらったわけだが、はたして口頭での発表がすぐれていた学生が書くことにおいてもそうなのか。僕自身についていえば、話す方が圧倒的に得意である。書くのは苦手かもしれないと、修士論文を書いた頃から思っている。 今日の講義では、目的論について哲学史を振り返りながら考察し、脳や臓器の生理生化学的な状態や変化は心身症の質量因であるが、目的論の立場では、これがただちに症状を引き起こす(cause)というわけではないというような話。また、過去は現在のあり方は意味づけによって実際に変わるのであるという話などなど。前夜、忠告をしてもらっていたのに、中途で声が出なくなってしまった。今はもう大丈夫なのだが、水を持ち込んだ方がいいかもしれない。講演だと必ずペットボトルが演壇に用意されるのだが、講義の時は水のことなど考えたことはなかった。しかも2コマも続けて話をするというのに。 講義後、学生の質問(質問内容を具体的には書けないが)。過去における判断を悔やむ人にはどういえばいいのか。その時点では未来について知りようがなかったのであり、(今となっては過去となった)未来を知っているのでその時の判断が誤っていたと思うけれども、その時点ではなしうる最善の判断をした、と僕ならいうだろう、と答えた(哲学的にはいろいろ問題があって、僕自身でも自分が書いたことにすぐに反論できるのだが、それは他日)。 今、書きながら思い出したのだが、母が脳梗塞で倒れた時、ただちに脳神経外科のある病院に入院させるべきだったという後悔の念に捉われていた。しかし、これは結果論であって、もしも母が予後がよくて短期の入院の後、退院できていたらこんなふうには思わなかったはずなのである。生きることは後悔の連続といっていいくらいだが、後ろを振り返ってばかりいては少しも前に進むことはできない。 山形で講演することになりそうである。学会で仙台に行ったことはあるが、東京以北での講演は初めて。
2004年11月30日
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午前中はここでカウンセリングをし、午後は診療所へ。急に予約が入り、僕のつもりとしては終わっている時間にカウンセリングを始めた頃には、かなり疲れているのが自分でもわかった。 僕自身もカウンセリングの後、診察を受けた。最近は量を半分にしているのだが、急に止めるのは不安であるといったら、同じ薬をさらに一月分に処方された。診察の前、血圧を測ったらいつもよりかなり高かった。10時からずっと話し続けたことによる疲労というよりは、父のことが心配で昨夜一睡もできなかったからだと思う。 父についての心配はしばらくの間手放していたのに(父がどんな状態かはここにはか書けないのだが)、一気に心配が浮上した。僕は心配性で、病気に限らず心配する時は本当に心配する。小さな子どもに対するような心配までしてあきれられてしまうくらいである。 子どもの頃、父に「お父ちゃん」と呼びかけた。すると父はいった。「そんな子どもみたいないいかたはやめろ」ええ、僕、子どもやん…と困惑したのだが、その後、今日まで父親をどんな呼び方であれ呼んだことがないように思う。 こんなエピソードからわかるように愛の薄い親子だった。父のことは本の中でも書いたのだが(『不幸の心理 幸福の哲学』)、「お前のカウンセリングというのを受けたい」といい出した頃から関係は変わったと思う。通常、関係が近すぎるとカウンセリングはむずかしいのだが、距離があったことがむしろ幸いしたかもしれない。僕は妹と違って父に会ってないので余計に心配しているのかもしれないが、医療の世界にいるのであまり楽観できないでいる。医学的なことだけでなくカウンセリング適用ケースかもしれないと思っている。もちろん、僕がカウンセリングするわけだが。
2004年11月29日
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父がこの数日弱っていて気がかり。電話で少し話し込む。声もよく出ないようで、長い時間話していいのかわからないので、とりあえず診察を受けて、その結果で考えようということしかいえなかったのだが。 遅くまで電話した後、翻訳の前半部を読み直した。まだ解決できない箇所があって付箋が山のようについている。これを一つ一つ解決していく作業にはまだしばらくかかるけれども、僕の頭の中には既にこの本の完成したイメージがある。そして、その本にサインとともに書き込む言葉も。 僕はそんなふうには見えないかもしれないがむずかしいところもあって、心をかたくなにして自分の殻の中に閉じこもってしまうことが多かったように思う。人との関係はたえずリアルタイムで変わっていくので、互いの印象はその時々で微妙に、あるいは、かなり変わっていくはずだが、もしも僕が最初の頃と今とであまり変わってないように見えるとしたら、警戒しないで仮面を外していたからだろう。そんなふうに思わせる場(χωρα)の中に僕は生きていた。そんなことを夜、僕は考えていた。 辻邦生はある時「永遠」の感覚を経験したという(『森有正』p.147)。辻は南太平洋のランギロア環礁で、椰子の葉の傾く波打ち際に一羽の鳥が片足をあげて立っているのを見ていた。落日が海を金色に染めていた。「私はその鳥を眺め、いつまでたっても飽きることはなかった。私はたしかに自分がそこにいることに満たされていたし、海も風も鳥も椰子も、それについて無限に語れるような充実した何かに変っていた。私はただ生きていることで、これほど満たされたことがあっただろうかと考えた。私は目的もなく、野心もなく、何かを望むということもなかった。ただそうして落日を浴び鳥を見ているだけで、もう十分だった。いつか星の燦然と輝く夜となったが、私は、このような地上の奇跡が与えられていることが何か信じ難い気持ちになったのであった」(pp.147-8) 僕はしばしばこのような感覚を経験する。時間の流れの外にあって、いつまでも飽きることなく語り続けてしまう。もう何もいらない、と思う。でも、ずっとこのままでいられたら、と思う時、「何かを望む」自分がいる。何も望まなければ、何も求めなければいいのだろうが、僕は未熟なのでそんな境地に立つことはできないでいる。
2004年11月28日
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今週からできるだけ昼間に仕事をしようと思うのだが、カウンセリングをするとひどく疲れてしまい、翻訳の仕事が後回しになってしまって、埋め合わせをするべく夜遅くまで起きる日が続いた。カウンセリングの予約を入れなかった今日は、朝いつもの時間に(七時)起きられなかった。今週は火曜日が祝日だったので学校に行かなくてよかったので、振り返れば今週は診療所に行ったきり、夕食の買い出しに行く以外は、どこにも出かけなかった。起きれば、すぐに仕事にとりかかり(そういうことは容易にできるのである)、疲れたら横になり、楽になるとまた仕事にとりかかるという実に単調な生活が続いた。 僕はまだどこにこの記述があるか確かめてないのだが、森有正の『バビロンの流れのほとりにて』の中には誤植があって、「すべての余事を忘れて」というところが、「すべての食事を忘れて」になっていたという(辻邦生『森有正』p.31)。森有正は、「いくら何でもこれはひどいですね。これは食事じゃなくて、余事ですよ」と憤慨した。しかし、そういう時の森は声を出して笑っていた。生きることを大切にし、それを愛した森は、大食で、何でもおいしそうに食べたという。そんな森にとっては、この「すべての食事を忘れて」という表現がふさわしいのかもしれない。僕はどうなんだろう、と考えこんでしまった。生きることを大切にし、愛せているのか。 昨日はCDを求めた後で(何軒もまわらないといけないかと思っていたが、最初に行った近くの店にあったのは幸運だった)、ふと思いついて、いつも通りかかるだけで中に入ったことがなかった店に立ち寄った。ここであるものを手に入れ(それが何かはここには書けないのだが)、週末に間に合わせるべく宅急便で送った。こんなことが僕の生活の中の「遊び」であるが、そのためにこそ生きているといえないこともない。東京で講演した時、すべては無駄に終わるかもしれないが、それでもいいのだという話をした。講演全体の基調は逆説的で、無駄なことなど何一つないと考えているのだが、思えば、こんなことも、それに仕事だって、さらに、そもそも生きることだって無駄といえないことはない。しかし、まさにこれこそ人生であって、無駄なく効率的に生きることなど何の意味もないだろう。こんなことを書いていたら、前のパッセージで僕はどうなんだろう、と考えこんだ自分に返答できる。生きることを大切にし、愛せているではないか、と。
2004年11月27日
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今日こそは早く寝ようと思って横になったが、三時半くらいに目が覚め仕事に戻る。夏のように夜はなかなか明けないので、また六時ごろに寝たのだが。今日は朝からずっとカウンセリング。 精神科に勤務していたのは三年に満たなかったのだが、足を捻挫したことをきっかけに退職したことは何度か書いてきたが、あの時、何が一番こたえたかというと、僕がいなくても医院は何の支障もないということに気づいたことだった。 後に退職してから、コンピュータのハードディスクがクラッシュしたという電話を受けた時、それは大変ですね、と冷たく答えてみたものの(僕は毎日最後に帰る時にデータのバックアップを取っていたのに、と思った)、気になって一度医院を訪ねたはずである。 講演の時に「受付の仕事はおもしろくはなかったですか」という質問を受けた。カウンセラーとして雇われたと思っていたら朝からずっと受付に入らないといけないことを不本意に思っていたが、やがてその仕事をおもしろいと思えるようになったので、この質問に対してはおもしろかったと答えればよかったのだが、ただし院長が認めてくれていたら、と言い添えた。本当は、認められようが認められまいが、仕事の満足は自己完結的ではなかったのかと思うと、恥ずかしくてそんな自分のことを否定したくなった。講演の前の日、いつまでもこのことを考えていた。誰に認められなくてもいいではないか… こんな時間になっても誰も帰ってこないので、僕は今日手に入れたBank Band(Vocal&G:櫻井和寿、Keyboard:小林武史、Sax:山本拓夫、Bass:美久月千晴、Drum:古川昌義)の『沿志奏逢』を聴いていた。「これは最後の一枚ですよ」と店の人にいわれた。「優しい歌」 「HERO」のセルフカバーを含む全11曲はすべてカバー曲。僕はほとんど元の曲を知らないのだが、大貫妙子の「突然の贈りもの」を聴く限り、原曲に劣ることなく、櫻井独自の味わいが出ていて、どちらがいいというようなことはいえないと思った。『非戦』以来一貫して櫻井にあるメッセージが伝わってくる。12曲目は僕のは浜田省吾の「僕と彼女の週末に」が入っていた。この曲は、「いつか子どもたちにこの時代を伝えたい」というメッセージソングでもあると同時に、ただ一人の君を守りたいというラブソングでもある。このアルバムにふさわしい曲であると思えた。
2004年11月26日
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今日も遠方からカウンセリングにこられる。翻訳の校正原稿の最終分が届く。出版社への原稿の返送は、できるだけ早くという返事をした。もうほとんどチェックを終えているのだが、まだなお細々とした、しかしむずかしい個所について手つかずのところがあって、思うような訳文が浮かばなくて苦しんでいる。最近、よく眠れていたのに、また突如として眠りがこなくて徹夜してしまった。かなり勤勉に仕事をしているはずなのに、どこにも行かないでいると、通勤のための身体の疲れがない分、楽をしてしまっているような気がして少し心が痛む。 忙しいかどうか、とたずねられたら、忙しくないと答えてしまう。仕事はいくらでもあるので忙しくないということはないのだが、時々たまらなく時の経つのを忘れて話したいと思う。そのことで精神の均衡がとれているように思うのだが、僕のように時間が自由になるわけではないからなかなかかなわない。 父が電話をしてきて、いくつになったかとたずねる。満年齢でいうと母が亡くなったのと同い年になった。あっという間に電話を切ってしまうので、どうしているともたずねることができなかった。時々ふと思い出しては心配になるが、大体は思い出していない。母のことのほうを思い出しているくらいである。いつも意識の片隅にあって心配している人があるというのに。アドラーは、自分のことも、個人心理学(アドラーが創始した心理学のことをアドラー存命時はそのように呼んだ)のことも忘れられてもいい、といった。僕はそんなふうに思えない。ずっと忘れずにいてほしいと思ってしまう。
2004年11月25日
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とりあえず夜寝るのがどんなに遅くても、朝は7時ごろには起きることにしている。この数ヶ月は薬を朝食後に飲まないといけなくて、そのためにも起きているのだが、その後、夜まで眠くならないですごすのはなかなか至難の業である。今週から気持ちを新たにしっかり昼間に仕事をするように頑張っている。 今日も遠方よりカウンセリングにこられる。何度もこられないだろうから、何かをつかんで帰ってほしいと思うと、緊張してしまう。 東京での講演を聴き直してみたのだが、僕は傾向として直感的なところがあって、時に論理の飛躍があることに気づいてしまう。こうして日記を書いていても、よく書き間違うことがあって、なぜそんな間違いをしたか後から振り返ると、何かについて、自分の中ですべてを一度に理解してしまっていて、それを書くために、言葉で再現していく時に、必要な言葉を飛ばしてしまうことがあるようだ。僕がよく話し教えてもらう人は、僕とは違っていて、緻密に論理を組み立て、諄々と説いていく。僕もそんなふうに話せたら、といつも憧れている。 東京では、僕の講演を聴いてほしいのにその機会がこれまであまりなかった人が、黙ってすわって聴いていると思って話した。そのために、話題も、話し方も前年の大阪での講演とは微妙に(あるいはかなり)違ったものになったように思う。講演についてこんなことをいうと、特異なことに思えるかもしれないが、本の原稿を書いている時であれば、不思議ではないように思う。一人でキーボードを打つ時、今この場で僕とともにいない読者にむけて話しかけるつもりで書いているのだが、他の人はどうなのだろう。一般的な人を対象に書くのは僕にはむずかしいので、特定の人(たち)に向けて書くことがあるが、しかし、書かれたものは多くの人に書かれたものになる。
2004年11月24日
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遅く届いたメールを読みながらいろいろなことを考えていたら4時くらいになった。今日は休みだったので、目覚ましをしっかり止めて昼近くまで眠り続けた。夢の中で前の家(この間の台風で浸水した家)で寝ていた。何もない部屋で寝ていたらこの部屋であったことがいろいろと思い出された。 母の名前の中の一文字は「水のしずく」という意味のようだ。脳梗塞で倒れた母はある日いった。「あくびをすると右側に琵琶湖の水の音が聞こえる」。当時、僕はこの言葉を聞いて動揺した。宇治の病院にいてこんなことはありえないと思ったからである。でも、今思えば、琵琶湖畔にあった妹の家のことを思い出していたのかもしれない。母は何度も訪ねていた。 母は、結婚してから、僕が夢の中で眠っていた部屋で暮らしていた。その部屋の横には農業用の用水路があった。体調を崩した母は祖母が作った食事を食べられずに、部屋から食事を流していた。肋膜だった。ところが、僕を妊娠していることに気づいた母は、一気に快復した。こんなに苦しんでいる場合ではないと思ったといっていた。 子どもの頃、僕はこの部屋で母にひざまくらをしてもらっていた。貝を耳にあてた。音が聞こえた。その時聞こえたのは、母が聞いた琵琶湖の水の音だったかもしれない。 食事の前に「過去は幻か」という大森荘蔵と中島義道の対談を読んだ(『哲学者のいない国』洋泉社、所収)。過去のリアリティも自明ではない。そうなんだろうか…直接面識はないのに亡くなった人の思い出をあなたと共有できる不思議。同じ経験を共有でき、忘れていたことを思い出させてもらえ、たしかにそういうことがあったと認識できる不思議。 日曜に近くの本屋で俵万智の『考える短歌』(新潮新書)を手に入れる。溢れる思いをどんな手段で表現するかが今の僕の課題である。
2004年11月23日
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遅くまで電話していたが、電話を切って横になったらすぐに寝てしまったようだ。こんなことは最近なかった。八時すぎに仕事開始。昼からは、診療所でカウンセリング。「心配してもらえるのはうれしいけれど、心配のあまり夜も寝られないといわれたらうれしくないでしょう?」と話しながら、僕がよくこんなことをいっていることに思い当たる。(電話での話題になったことをそのまま話した)。カウンセリングをした日は本当はたくさん書きたいことがあるが、ここでは何も書くわけにいかない。いつも自分にいいきかせるようにして話している。 昨日の地雷の比喩は少し無理がある。人はいわば地雷を踏みつけていて、そこから足を離したら爆発する。はたして過って(と昨日書いた)踏みつけたのか。そうではあるまい。踏んでない人もいるのではなく、必ず踏みつけているといったほうが適切である。母の病床にいた僕はこんなふうに書いている。(そのうち爆発するだろうが)「しかし、もしも、思い切ってここから飛べば、むろん、死は免れないとしても、身体がばらばらになるということはあるまい」。そうなんだろうか。飛んだ瞬間に身体は吹き飛ぶのではないか。どうしてこんなふうに考えたか今となってはよくわからない。 母の病床で書いていたノートを今日も読み返していた。(1981.12.2)Sさんが詰所で賛美歌を歌ってる。「エスさま…」(12.7)「あなたがたがあった試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたが耐えられないような試練にあわせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(『コリント人への第一の手紙』10.13)(12.12)「私たちは、いったいどこから来たのか。この世で何をするのか。私たちは、いったいどこへ行くのか。哲学がもし、本当にこれらの非常に重大な問題に対して何も答えられないとすれば、哲学というものは一時間の労苦にも値しないものだといってもさしつかえないことになります」(ベルグソン『心と身体』)(12.13)(病院を抜け出して)しばらく歩いているうちに、いつか見た風景の中を歩いていることに気がついた。ここは高校の時の恩師の蒲池先生の御宅のあるところである。一度だけきたことがある。前に近くまできた時にはさがしあてることができなかった。それが今日は忽然と昔の記憶を取り戻し、それにしたがって導かれるように歩いていると、先生の御宅の前に佇んでいた。こんなことを考えた。先生はもう何年も前に亡くなられた。しかし先生はたしかにいきておられ、僕を守ってくださるのだ、と。しかしこのようなことは荒唐無稽に聞こえるかもしれない。(12.16)(原文英語)一月は長かったように思う。僕とIさんが母の胸の動きを見ている時に、Iさんがいった言葉を思い出す(その時、母の呼吸はひどく乱れていたのだ)。「ものすごく貴重な時間が流れている気がするね」。日常の生活で、こんなふうに感じることはめったにない。(引用終わり) たしかにあの頃、貴重な時間が流れていた。あれから何年も経っているのについこの間のような気がする。母と妹の名前が一字違いであることを指摘してもらった。ひょっとしたら僕はこのことに初めて思い当たったのかもしれない。きっとそうだ。
2004年11月22日
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今日は翻訳のチェック。まだ細かいところで疑問点を残したり、編集者を説得(というと少しおおげさだが)しないといけない個所が残っているのだが、もう最後まで到達してしまうので、頑張らないといけない。編集者から送られてきたプリントアウトされたWord文書は300ページを超えた。カウンセリングの予約は入れないつもりだったが、夜、一件。プライベートなら突然の電話でも、しかも何時間でも平気であるし、楽しいのだが。時間が経つのが残念なくらいである。 母が病床にあった時に書いていたノートには、こんなことが書いてある。「人は単に生きているのではなく、死なずに生きているのである。そこで哲学者は常に死の問題を考えている…親しい人の危機に遭遇して、あわてふためくようであれば、日頃の勉強の仕方に問題があるか、あるいは、獲得した知がいかに無用なものであるかをあらわにしてしまう…哲学者は、それのために生き、かつ死ぬことのできるような真理(aletheia)を探求しているのである」。続いて、昨日、引いた森先生にこんなことをいわれた、と書いている。先生にしばらくギリシア語の読書会に行けない、と電話をしたら、「こんな時に役に立つのが哲学だ」といわれた。およそ哲学は役に立たないと世間でいわれることが多い中、『役に立つ」という言葉は思いがけないもので、強い印象を残したのを覚えている。 人間は死なずに生きていることについて、ノートには次のようなことを書いている。ちょうど地雷を踏みつけている状態である。地雷は足をそこから話した瞬間に爆発するらしい。過って地雷を踏みつけたとする。足を離せば爆発する。しかし時間が経てば疲れてくる。その場合もやがて結局のところ爆発する。そこで考える…ノートには続きが書いてあるのだが、さて今の僕ならどう考えるだろうか、少し考えてみることにする。
2004年11月21日
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今日は朝、急にカウンセリングを頼まれ引き受けた。その後は今日は予定はなかったので、午後に届いた翻訳の校正原稿のチェックをしたりして過ごした。アレルギーがひどかったので、昨日皮膚科に行ってもらってきた薬が功を奏したのか、ずいぶん楽になった。心が身体に影響を与えるが、倒れたりするというようなことは幸いない。 母が最初入院した病院から転院したのがちょうど今頃で、肺炎を併発したのが十九日のことだった。この後急激に意識のレベルが低下し、意識の疎通が取れなくなった。東京講演の録音をずっと聴いていたのだが、その中で僕は、文字盤(五十音表を書き、指さしてもらおうとした)を使って母のいわんとしていることを理解しようとしたことを話していた。病床でつけたノートにもこのことを書いているかと思ったが見つからなかった。今でも母が最後に何をいおうとしたのか気にかかる。指さされた文字を頭の中で再構成しても意味はつかめなかった。「ごめん、どうしてもわからない」というしかなかった。 危機的な状況なのに、なお僕は自分のことを考えていた。大学に早く戻りたかったのである。当時、お世話になっていた森先生には「勉強はいつでもできるのだから、しっかり看病してあげなさい」といわれていたのに。大学に出かける用事があって病院をぬけた日に、「一日も早く大学に復帰したいと思う。今の状態は決して長くは続かないと信じている。だからこそ、頑張って看病しているのである(ただすわっているだけだが)」と書いている。その日僕は百万遍にある円居というレストランで夕食をとった(そして、また病院に戻ったのかもしれない)。ベートーベンのチェロソナタがかかっていた。ここは、よく土曜日の昼間、プロティノスの演習が終わった後、種山先生らと食事をしたところである。その種山先生も亡くなられて久しい。 自分のことを考えるのをやめたいと思っている。giveしすぎ、といわれるけれども、giveされることを望んでいる自分がある。必要とされたいと思うというのは、そういうことだろうか、と講演を聴きながらずっと考えていた。 しかしこんなふうに書くと、僕はgiveされていないというふうにことになってしまう。明らかに、僕はgiveされているのである。若い頃、母からすら僕は愛されていないと思い込んでいたが、そんなことはない。giveされて、giveする。しかし、giveされているがゆえにgiveするのではない。このあたりなかなか微妙ではあるが違う。与えられているだけではなくて、返したいといつも思う。
2004年11月20日
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今日は出かけずにカウンセリング。このところ講演、講義が続き、カウンセリングはわずかに月曜(診療所)と金曜日しかしていない。明日とかあさってといわれても対処できない。プライベートで会ったり、電話で話すのなら可能なのだが、カウンセリングはかなりの覚悟がいる。 中島義道の本の中にこんなことが書いてあった。たしかにそのとおりだと思った。格別に独自の考えというわけではないけれども。「どんな嫌な過去でも私の(私の、に傍点)過去であるというそれだけの理由で、私はそれを失いたくないのです」(『哲学の教科書』p.203)。何をもって「嫌な」というかは簡単ではないが、失敗したり嫌な思い出をすべて楽しい思い出に取り換えられるとしたら、何を思い出しても楽しいものばかりであるとしたらどうだろう。過去は後悔の集大成のようなところがあるが(僕の場合ということだが、後悔することなど一つも思い出せないとしたらどうだろう。もちろん、親しい人と別れること(死別であれ、生別であれ)は辛いことであるし、それを思うと、この問いにたいしてただちに答えることはできないけれども。長いつきあいがあって、それほど親しくなかった時もあり、近くなったこともあり、些細なことで気まずい思いをしたこともある。そんなこともなにもかもあって今がある。 今日は妹夫婦の厚意に涙してしまった。 息子の誕生日。こんな時間になってもいないので、特別なことをするわけでもないのだが。
2004年11月19日
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なかなか眠れず、一度時計を見たら四時だったので、後はもう見ないことにした。いつもは七時に起きるのに起き上がれなかったが、今日も翻訳の校正原稿が届き、八時半に受け取った。もう残りわずかになり、返送用の封筒が入っていた。身が引き締まる思いである。 今日は明治東洋医学院で講義。新しいところには進まず、質問を受けたが、講演会でのようには思うように質問が出ない。それでも、質問する学生にとっては切実な問いであることはよくわかるので、関心なさそうに聞いている学生もいたが、質問をもとに講義を進めた。 出かける頃から冷たい雨が降り出した。帰る頃には本格的な雨になった。奈良で小学校一年生の女の子が誘拐、殺害された。最近、この近くで講演したばかりなので動揺してしまった。 昼過ぎ、講義の前に受けた知らせのことをずっと心に持ち続けていたが、帰った途端、我慢していた感情が切れた。覚悟していた以上にこたえた。「凍えるように息を吹いた君が見える」(宮沢和史)。 このところ過食ぎみでさぞかし体重が増えているだろう、と思って、体重計にのったら思いがけず数キロ減っていた。
2004年11月18日
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今日も一日待つことになった。もちろん、何もしていないわけではなくて、今日も朝一番に翻訳の校正原稿が届いた。僕の部屋は北に面しているので、これからの季節は寒く、日の光が入ってこないので、気分を変えるために、強い光の差し込むダイニングのテーブルで仕事をすることにしたのだが、はかばかしく仕事は進まなかった。僕は待つことはよくあるので、慣れているつもりだったのだが、時が歩みを止めてしまったように思ってしまった。時計を見て、今夜はもう連絡がないかもしれない、と思うと、がっかりして、でも、待っていてもしかたないので、寝ようと思っても、その頃には眠気はどこかに去ってしまったということはよくあった。 昨日、引いたリルケの「もしご自分の日常が貧しく見えるならば、日常を非難しないで、ご自分を非難しなさい」という言葉の続きはこうだ。「自分は十分な詩人ではないから、日常の豊かさを呼び出すことができないのだ、と自白しなさい」暖かい日の射す春のある日のことを思い出していた。鴉が川の中州で水浴びをしていた。川面は優しく光っていた。十分な詩人ではないけれども、あの日感じたような生きる喜びを思い出す時、ただこの現実の世界にだけ生きているわけではないことを知る。今は春の日では「ない」のに、その日のことが想起できる。まだ肌寒くもあったその日、桜も咲いてなかったし、もちろん、紅葉もしていなかったのに、今は咲いて「ない」、紅葉してい「ない」日に、桜が咲く日のこと、木々が紅葉する日のことを思い浮かべることができたのである。 目を政治に向けると、気が沈むことばかりである。自民党の憲法改正草案の中身はとんでもないものであるし、小泉首相が手放しで指示したファルージャで米軍がしたことの非道さはあまりである。
2004年11月17日
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今日は八尾の曙川東小学校で講演。十分質疑応答の時間を取れなくて残念だったが、講演の後すぐに何人かの方が質問してくださった。講演の前後には校長先生、教頭先生とも話をすることができた。講演の途中、泣いている方があった。悲しい話をしたわけではない。 今日はずっとある知らせの届くのを待っていた。結局、今日は届かないことがわかるまでに、悠久の時が流れるような気がした。今日のこの日は待ち遠しくもあり、不安でもあったが、昨日、僕が二条駅で夕日の沈むのを眺めていた時には、その時未来であった今日はどこにもなかった。太陽は山の端へ向かって沈んでいったが、未来がどこかからくるわけではなかった。それなのに、あれから一日が経った。なぜ時間が経つのだろう…こんなことを考え始めると頭がくらくらしてしまう。さらに僕は一日待つことになる。だいぶ覚悟がすわってきた。 僕はどこにも出かけないで仕事をしていることが多く、そんな日は日記に何を書いたものか困ることがある。読んだ本のことを書けばいいのだが、本も読まないで考えごとをしていると、それすらかなわない。リルケはこんなことをいっている。「もしご自分の日常が貧しく見えるならば、日常を非難しないで、ご自分を非難しなさい」と(『若い詩人への手紙』佐藤晃一訳、p.12)。たとえ牢獄につながれていて、牢獄の壁が世の中のざわめきを少しも伝えないとしても、「あなたにはやはりあなたの幼年時代という、この貴重な、王者のような富、この思い出の宝庫があるではありませんか」(p.13)。 地震の一週間前に越後湯沢から送った小千谷のおそばが手に入らないか、と思って調べていたら、目下、ガスが止まっているので、復旧したら発送業務を再開する、と老舗の店のホームページに書いてあるのを見て、思いがけず地震を近く感じた。一週間後に起きる地震のことをもちろん僕は何も知らなかった。
2004年11月16日
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今日は診療所でカウンセリング。遠方からこられた人があったので、別の用事があったのですか、とたずねたら、このカウンセリングのためにだけきました、という答えが返ってきて驚いた。カウンセリングの前と後で人生が変わる、そんなカウンセリングをしたいし、しなければならない。 夕方、診療所を後にした時は雨はあがり、晴れてきた。交差点で信号が変わるのを待っている時、ふと僕が前によく見ていた夢を思い出した。歩いているうちにどんどん足が重くなってきて、ついに歩けなくなってしまうという夢である。実際に足を痛めて歩けなくなったことがあった。そんなつらかったことがあったことも忘れてしまえるほど、この世界が祝福(Segen)で満たされますように。 話を聞くのはむずかしい、といつも思う。自分の見方で話を聞いてしまうので、思い込みをもって聞いていることに気づいていないことすらある。ものわかりの悪いカウンセラーになれ、と教えられたことをいつも思い出す。話がよくわかると思って聞いている時は、実はわかっていないのである。一体、どんな意味なのだろう、と思って話を聞こうと思っている。わからなければたずねる。それしかない。人の強い思い込みを指摘するのは時に疲れるので、せめて自分は思い込みにとらわれることがないように努めようと思うのがなかなかむずかしいものである。 もっともプライベートの時は会話を時の経つのも忘れてただひたすら楽しむ。そんな時間があるので精神の均衡を保つことができているように思う。
2004年11月15日
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東京で講演(とその後、カウンセリング)。東京は人が多くて疲れてしまう。先週と同じくらいの人がこられたが、話し始めてすぐに求められていることが、違うことに気づいた。話の展開はまったく違ったものになった。去年もこられた人が多く、また来年の再会を約して講演を終えたが、さて来年何をしているのだろうか、と行く末を思うと、少し不安になった。去年も身体が悪いといってられましたね、といわれた。たしかにこの時期、本を書き終えたばかりで体調を崩していたかもしれない。今年は長く暑かった夏に体調がよくなかったことを語ったが、今は幸いずいぶんよくなってうれしい。 遅くまで電話で話す。僕らしくあれ、という言葉に、また少し自分のことが好きになれるように思った。いろいろなことを教えてきたつもりが、今は逆に教えられてばかりである。 ある部族の話。ここでは青年はライオン狩りをして自分が勇敢であることを示すことが成人式の儀式になっている。青年は、その日勇敢であったかどうかを報告する者と一緒に二日かけて狩りの場所へ出かけ狩りをし、また二日かけて帰ってくる。その間、酋長は青年が勇敢に闘うよう祈って踊り続ける。興味深いのは、酋長は、後の二日、つまり青年が狩りから帰還の途についている間も祈って踊り続けることである。なぜ? もうこの時、結果は出ているというのに? 僕もきっと祈り続けるだろう。
2004年11月14日
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寒い一日。もっとも今日はどこにも出かける用事はなかったのだが。朝に翻訳の校正原稿が届く。翻訳も著書も多くの人の尽力によって世に出て行く。誰の助力もなしに生きることなどありえない。今の翻訳にしても、出版社に原稿を送る前に既に、僕一人の力では決して仕上げることはできなかったと思っている。あまり勤勉とはいえない僕はさだめしわがままをいっていたように思う。今、編集者の厳しいチェックを検討しながら、苦しい、苦しい、といいながら来る日も来る日も翻訳を進めた初春から初夏の日々をいつも思い出す。 タブロイド紙の特集記事監修の依頼。引き受けられたらと思うのだが、監修の仕事ではかつて少し問題があったことがあり慎重でありたいと思っている。原稿を自分では書かなくていいのだが、自分で実際に書くよりもたいへんだったので、もう少し条件などたずねてみたいと思う。僕が学んでいるアドラー心理学に興味をもってもらえたことはありがたいことだと思っている。 夢の中に「私」は出てこないというようなことがある本に書いてあって、本当なのだろうか、と思って眠ると、夢の中なのに一生懸命考えていて、疲れてしまう。夢の中では、「私」はなく、目覚めた後で、「私」が語らっていたと想起するということだが、たしかに夢の中で「私」があなたと語らっていたと僕は思うのだが。 このところドイツ語の勉強を仕事の合間にしていたので、本棚にあったカール・ヤスパースの自叙伝("Schicksal und Wille")を取り出して、少しあちらこちら読んで見た。「私の人生のどれだけの時間、退屈することなしに海をじっとながめて過ごしたことか。同じ波は一つとしてない。動き、光、色は絶え間なく変わる」。盆地に住んでいる僕はめったに海を見ることはない。今年見た海は神戸、鳴門、伊勢志摩…寒くなってきたら、なんだか心さびしくなってしまった。
2004年11月13日
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今日はカウンセリングだけで、外に出かける用事はなかった。時間に追われない僕は、いまだに僕は社会人とはいえないのではないか、といって、社会人でないということはないといわれるのだが。講演などの仕事で、朝や夕方(夜)の満員電車に乗る時、精神科に勤務していた頃のような朝早くから深夜まで拘束される生活から解放されてもう長いことに気づく。 僕は話すことにも書くことにも慎重でありたいと思っている。気に障ることを書いたのではないか、と心配でならないことがある。何度も書いたものを読み直す。 リアルタイムで関係が変わっていくことを怖いと思わないで、そのことを喜びと感じたい。どこにもいくことがない、安定した変わることのない関係に憧れたことがあった。でもそんな関係はありえないことに気がつくのには時間はかからなかった。東京で講演した時、ヘラクレイトスの言葉を引いた。同じ川に二度入ることはできない。万物は流転する。しかし、移ろえるこの世の中にあってなお時を忘れて、あるいは時を超えて、永遠を垣間見て生きていければ、と思う。「そもそも哲学は素人の学問だと思う。素人であることを大切にし、偏見を持たず、常に疑問を発して問題状況を作り出すのが役割。古典を読み解くことも必要ですが、問題意識を広げ、深める情熱が大事です」(上山春平、「風韻」朝日新聞2004.11.12夕刊) かつて影響を受けた哲学者の一人である上山春平の名前を久しぶりに見る。ここに書いてあることはあたりまえのことのように思えるかもしれないが、常に疑問を発するということだけでも簡単なことではない。何ら疑問を持つことすらなく生きていることがあるように思う。考え始めたら生きていけないということだってあるかもしれない。上山は「情熱」という言葉を使っている。問題をつきつめていくには情熱が必要である。そのためのエネルギーを枯渇させてはいけない。
2004年11月12日
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今日は、尼崎市保育士自主研修会。先月、会場の都合などで休みにしたので、二ヶ月ぶりだった。参加する保育士さんたちはベテランで、いつも教えられてばかりである。何をする時にも泣き叫ぶ一歳の子どもに、そんなに泣かなくていいからね、といったら、ちゃんと泣きやんでくれるというような話は興味深く、僕は聴き入ってしまう。子どもは何歳頃から過去形を使えるかというようなことも話題になった。 出かける時に強い雨。出かける時に鞄にいれた辻邦生の『パリの手記』に、ヘミングウェイの『武器よさらば』のことが書いてあった。辻はこの本の仏訳を買った。「それがなくては、なにか、ひどくさびしいような気がしたからだ」(I,p.139)。雨が降っても私を愛してくれますか。雨が怖い。雨の中で倒れて死んでいる自分を見るから…(V, pp.260-3)。ずいぶん前に読んだのに覚えていない。辻が引いているフランス語訳で読むと味わいが違うように思う。研修を終えて帰る頃には、雨はあがっていた。 帰りの電車の中で眠り込まないように、僕は一生懸命メールを書いていた。ありがたいことに、すぐに返事が届き、半ば夢の中にあった僕は現実に戻ることができた。そんなにふうに疲労困憊して帰ってきたのに、ある時間を超えると眠れなくなる。でも、眠れなくても、今夜は不安や心配から解放され、安堵感に満たされているからこれでいい。======= 14日(日)1時から3時まで
2004年11月11日
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今日は予定がなかったので身体を休めることができた。8時半に届いた翻訳の校正原稿を受け取った後、再び眠りにつく。無事を伝えるメールが届く。読み終わると再び安心して眠る。起きたら部屋は闇につつまれていた。引き込んでしまったと思っていた風邪の具合もよくなっていた。 長い夢を見ていた。家まで送っていこうとしていた。途中、道が大きな石で塞がれていて、ここからは無理だといわれたが、超えていった。たしかに、客観的に無理ということはあるかもしれない。浸水してしまっているかもしれない家に近づこうにも、道が冠水していて行けなかった。あきらめるしかなかった。修士論文の口頭試問の一週間前、骨折した。医師に試験があるといったら、それは無理だからあきらめなさい、といわれた。でも、あきらめなかった。博士課程に進学できた。最終的にどうなるかはわからなくても、人事をつくしたい。そんなことを考えていて見たこの夢は意味があるように思った。 最終講義の時、学生に先生の夢は何ですか、とたずねられた。夢はある。あの時答えたのもたしかに本当だが、学生にはいえない夢はあった。遠大な夢。 ファルージャではアメリカ軍が水道、電気を止めている。病院を制圧し、診療所が空爆を受けて(自分たちがすることはジュネーブ条約違反であるとは考えていないようだ)、民間人の死傷者が出ている。民間人の犠牲者について、アメリカ軍は市街戦にそなえて十分な訓練を受けているとか、精密誘導兵器を使うことで最小に抑えられる、といわれている。最小に抑えられたらいいというものではあるまい。精密誘導兵器を使っても起きる犠牲は、付帯的犠牲(collateral damage)といわれるのだろう。こんな犠牲を払っても、ザルアウィ幹部はファルージャ封鎖以前に逃亡した可能性があるという。掃討作戦は、かくてイラク全土へ広がる。ついには世界中へ広がるだろう。足のある大量破壊兵器の誕生である。アメリカは世界中のどこの都市も攻撃することが可能になるだろう。こんな非道なファルージャ攻撃を小泉首相は支持したのだ。
2004年11月10日
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今日は朝から明治東洋医学院で3コマの講義をした後、夜は箕面の東保育所の所内研修。 朝、起きられなくていつもより一本遅い電車に乗ったら、濃霧で遅れていた。なんとか間に合った教育心理学IIは今日で最終講義だった。講義後疲れて教員の控室のソファで仮眠。昼、お茶を持ってきてもらった時、「寝てられましたね」といわれ少し恥ずかしかった。昼食を食べる間もなく、昼からの2コマの臨床心理学。夕方頃にはすっかり体力も気力も失せかけていたのだが、保育所での研修は、熱心な質疑応答になり疲れを忘れてしまった。帰り着いた頃には元気になってしまい(なっていけないという意味ではないが)、また夜、寝つけないのだろう。満員電車の中で、辻邦生の『パリの手記』を少し読み進み、ドイツ語を思い出すべく、会話の本で練習。待っているメールが届かず、心配。 米軍のファルージャ総攻撃を小泉首相が支持していることに落胆。書きたいことは多々あるのに、頭がまわらない。
2004年11月09日
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東京から帰った頃には、すっかり元気になっていたが、夜、予想通り(というべきか)眠れなかった。日曜から再開したドイツ語の勉強をし、それでもなお眠りがこないので、最近書き続けている原稿(本のための原稿ではないのだが)を先に進めていたら、たまらなく眠くなって何を書いているかわからなくなったが、そのままメールした。きちんと理解してもらえていたらいいのだが。 イラクに非常事態宣言が出されたのに、小泉首相はサマワは非戦闘地域である、といっているという記事を読み驚く。対人関係なら、一見、よくないように見えても、うまくいっているところを努めて見ていきたいし、そうすることは報われると思うのだが。 今日は診療所は休み。予約が入っていなかった。喜んでいいとは思わないのだが、疲れていたのでありがたったというのは、本当である。夕方、市役所へ。(台風23号の)罹災証明を発行してもらう必要があった。前に問題にしていたこととは別件で減免申請書を提出しなければならず、そのためには罹災証明書が必要という連絡があったのである。やはりもめてしまったが、今は書かない。闘う元気がなかった。 人生を計画することの無意味さ、少なくとも困難さについて昨日話した。今を次の生の準備段階だと見る必要はない、今のこの生を完成したものとして生きたい、と。しかし、このようにいうことは、現実一辺倒でいいという意味では必ずしもない。計画できると思えるような、僕たちのこれからの人生は、現実の延長としての将来でしかない。それは必ず現実によって覆されるといってもいいくらいである。そう思うほど、僕の人生はこれまで順風満帆のものではなかった。しかし、必ずしもこのことを否定的に考えることはないだろう。むしろ現実の今を生きながら、同時に現実を超えていけるためには、(将来ではなくて)未来は絶えず今を否定していかなければならない。人生とはこんなものだと初めからあきらめかかっていれば、何となく先が見えそうであるが、不断に未来を創造するような気迫で生きる時、一歩前の道すら見えないように思える。しかし、そういうのが人生で、気がつけば、ずいぶん遠いところまできてしまった。そんなふうに思う。(プラトニストの僕は理想主義者でもある)。
2004年11月08日
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東京で講演。朝方まで講義ノートを何度も読み直していた。一体何時に眠ったのかはわからない。直前までノートをチェックして講演にのぞんだが、すぐにノートにとらわれると話せないことがすぐにわかった。一度、休憩を挟んでからは、言葉が溢れ出し始めた。1時から5時までの講演だったが、途中、二回しか休憩を入れなったことに後で気がついた。質疑応答もとぎれることなく(僕はいつも直接に質問してもらうことにしている)最初一時間講義をしたが、後は、前に(11月2日)日記で書いたように、講義ではなく対話をした(しようとしたという意味であるが)。講演後、講演にもこられていた金子書房の天満さんと仕事の打ち合わせをし、11時くらいに帰宅。遠方(大阪、京都、函館、群馬、千葉…)からもきていただくことができてありがたかった。 すべてのことは無駄になるかもしれない、何をしても無駄かもしれない、それでもそんなふうに覚悟して生きたいという話。しかし、そういいながら、無駄から無駄ではないかといえば、無駄なことは何一つないといえるかもしれない、と話した。なぜなら、(アリストテレスのエネルゲイアの話の流れで)今、我々は生き、かつ生きてしまっているので、後になって(たとえば、死の間際になって)初めて人生が無駄であったか、あるいは、有用であったかわかるというふうに考えてなくていいだろうからである。生を今この瞬間に完成させることはできる。今を次の生の準備段階だと見る必要はない。来世という意味ではなく、たとえば、世に出ることがなくても、今は雌伏の時期だと考える必要はないということである。「次」はないかもしれない。それでも生がこの瞬間に完成していれば、次はなくても、道なかばで倒れたということにはならない。いつもそんなふうに思えるように生きたい…こんな話をする時、僕にはいろいろなことが頭の中でかけめぐった。そのことについても次々に話した。途中、気づいていた人もあったと思うのだが、何度か涙を流しかけた。言葉がつまってしまうのである。僕は感情的になることを怖れるのでこらえてしまったが、こらえなかったらどうなっていたのだろうか、と思う。恩師のことや、若くして亡くなった人のこと、僕に生きる喜びを感じさせる人のことなどなど。今夜は眠る前に、自分の話などに何度も頭の中でリフレインさせることになるだろう。 バロック音楽さんが、講演の感想を書いてくだっている。
2004年11月07日
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午前中、長岡京で講演。三回シリーズの最終回。今日も早く着いたので(バスが早くきたので前回よりもさらに早く)公民館の近くにある長岡天満宮にお参りに行く。 今日は、最初に30分講義をした後は質疑応答にあてた。三回目ともなると、同時に数人が手を挙げられることがあって、譲り合ってもらわないといけない。回を重ねるにつれて、最初、話を聴いて理解できたと思った段階を超えて、疑問も深まってくるように思う。 日曜の講演の準備はもう止めようと思っていたのに、考えることはいろいろあって、なかなか寝つくことができなかった。講演の後、アポイントメント。楽しみにしていたので、講演のためにあてなければならない時間を割いているのではないかと心配をかけてしまったけれども、大丈夫。長く話しているうちに、一年数か月ぶりに哲学の話をすることへの不安や怖れを手放すことができたことをありがたく思っている とはいえ、扱う問題は古来哲学者が取り組んできたものであり、僕がそのすべてを解決できたとは思わない。哲学においては問いの継承こそが大切だといえば聞こえはいいが、いつまで経っても、決定的な答えが出ない哲学について明日講演を聴く人はどう思われることか。ギリシア哲学の話にアドラー心理学の話をからめていかないといけないので、去年の7月に大阪で話したことを思い出している。7月の講演の後、『不幸の心理 幸福の哲学』の原稿を書き上げたが、この本にはその講演で話したことがたくさん書いてある。
2004年11月06日
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今日は朝からカウンセリング。9時から始め、3時に終わったが、少し疲れてしまった。講演の準備を昨日の夜も遅くまでしていたが、論文の口頭試問の前のような心境である。たぶん、何でも話せるのに、気になってあれこれ本を取り出してきて読んでいるのだが、もう止めておこうかと思っている。 森鴎外の書簡と、娘のために作った手製の教科書などが見つかったという記事が、今日の朝日新聞の一面トップだった。僕が高校の時に学んだ山崎國紀先生がコメントされていた。「冷たい印象をもたれがちな鴎外の、子供たちへの愛情と、男女分けへだてない教育熱心さがうかがえる」。教科書は、娘の小堀杏奴さんが随筆の中に「父は私のために歴史と地理の本を全部抜書して、解りやすくしてくれた」と書いているものである。大変な熱のいれようだが、きっと杏奴さんが父の思いに応える人であり、こんなことをしてもつまらないな、と思わせたりしない人だったのだろう。感謝されようと思ってこんなことをしたのではないだろう。これだけのことを書くだけのエネルギーと時間があれば、小説を書けるのに、と思う人には鴎外の情熱はわからないだろう。僕はわかる。晩年は体力の衰えが目立っていた。そんな中で赴任先から毎日手紙やはがきを送ったり、教科書を書いたり、歌の添削をしていた。「改めて底知れぬエネルギーの持ち主だったと感嘆させられる」(山崎同上談話)。 山崎先生が後に高校を去って大学の教授になったことは風の便りに聞いたことがあった。やがて書店で先生の著書を見つけ、高校の現代国語での先生の話を思い出した。先生、今日は鴎外の話をしてください、と僕たちがリクエストすると、しかたないなあ、というふうに楽しそうに雄弁に、鴎外について話された。そんな時、学ぶというのはなんと楽しいことかと思ったが、日頃の授業はあまり楽しそうには見えなかった。
2004年11月05日
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ブッシュ氏再選の報。これからの世界がどうなるのか、と暗澹たる思いがする。今朝は夏であればとっくに夜が明けている時間まで電話をしていたのだが、その後、熟睡、朝起きた時、出かけようとしていた息子を捕まえ(最近、あまり話をしていない)大統領選についてコメントを求めたが、急いでいた彼は、わずかに10月29日にアルジャジーラを通じて流されたウサマ・ビン・ラディンの声明に言及しただけだった。 知識や経験の有無について考えていたのだが、昨日も引いた田中美知太郎の『ロゴスとイデア』のあとがきにこんなことが書いてある。この本の初版は1947年に出ている。その頃のこの国の哲学は「私の幼稚な問題を受けつけてくれるには、あまりに狭く、単色に専門化されていたのである」(p.341)。しかし、と田中はいう。「初歩的な問題こそ、真に哲学的な問題であり、哲学の歴史を根本的に規定したソクラテスは、つねに自己を素人の立場においたのである」。 僕が対話の相手として期待するのは、知識ではない。哲学の原義は、知を愛することであるから、知を所有していることとは関係がない。ソクラテスは自分は何も知らないといったのである。「自己を素人の立場におく」というのは、こういう意味である。ソクラテスの対話の相手は、知者であることを誇っていても、自分が何も知らないことに気づかされる。田中はこんなふうにいっている。「私はいわゆる哲学青年の如き者を、読者として少しも歓迎しない」。ではどんな人ならいいのか。「私の求める読者は、ただ学を好み、正義を愛する人だったら、どんなに仕合わせであろうと思うだけである」。「学」は学ぶことの謂である。知識と経験がないというけれど、そして、それは重要なことであるというけれど、学を好み、「普通の判断力と良識」があれば十分であるし、それ以外の一体何を求めようか。静かな気迫で少しずつ僕の議論の足らないところを指摘し、ついには、僕が自分が最初出した論点を訂正し、斥けることになるような話をすることを僕は好む。きっとソクラテスはディオティマ(『饗宴』76d)の前ではこんなふうではなかったろうか。僕は幸せである。
2004年11月04日
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昨日は(僕としては)講義がたくさんあったので、帰った頃にはひどく疲れていたが、夜遅くまで寝つけなかった。無事を伝えるメールは僕の心を高揚させ、自分の疲れを忘れさせる。 この頃、ずっと集中的に考えて続けていて、このことによる疲れの方が身体の疲れよりはるかにはなはだしい。もっとも苦しいわけではない。すぐには解けない問題を時間をかけて考えて続けているのであり、寝食を忘れ、という状態になってしまう。僕は哲学を学んできているので、こんなことを考えなくても生きていけるであろうことばかり考えてしまう。 夕方、部屋の壁が夕日で赤く染まっていた。たまらなく悲しくなった。この悲しみは、しかし、僕の中にはない。悲しみは、世界の側にあって、そこに立ち現れている…しかし、夕日に照らされた壁を知覚して悲しみを覚えた時と、後になって、悲しかったことを想起することは、別のことではないか…こんなことを明けても暮れても考えているわけである(哲学の問題は離れて、夕日を見ると、宮沢和史の「遠い町で」を思い出してしまうのである)。 しかし、こんな問題を考えることは、今の僕にとっては論文を書くためでも学会で発表するためのものではない。田中美知太郎が「文献学的な研究に没頭する精神の、気づかれぬ片隅の奥深いところから、いろいろな思考をせまる、数多くの問題が湧き出して来るのを経験しなければならなかった」といっている(『ロゴスとイデア』あとがき、p.336)。それは一貫して、善と真実在の問題であった。これは哲学の根本問題であり、プラトン哲学の第一義的なものである。これこそが、哲学者が関心とすべき第一義的なことであり、オリジナルということは、思想のもの珍しさにあるのではなく、自己自身の胸底から溢れ出てきたことをいうだけである、と田中はいう。「私は人々がとうに卒業してしまったと考えている古人プラトンの亜流であり、旧式なプラトン主義者である(cum Platone malo errare)として嗤われることをむしろ誇りとする」(p.340)。僕もそうありたい。
2004年11月03日
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今日は明治東洋医学院で講義。午前中は教育心理学IIで、10月来ずっと学生に発表してもらっているのだが、今日で学生の発表は終わり。次回は(そして最終講義は)僕が話すことになっている。どうやら学生たちは僕の講義が来週で終わることを知らなかったようである。惜しまれて(だったらいいのだが)やめるのがいいのかもしれない。 昼からは、鍼灸科の一年生2クラスに臨床心理学の講義。講義も熱心に聴いてもらえるし、今日は、講義中に質問を受けたり、また、講義と講義の間(A組とB組で二回同じ講義をすることになっている)、あるいは、講義の後に質問にくる学生たちと話すのが、講義そのものよりもおもしろいと思った。本当は、個人的に質問を受けるのではなく、講義の間に質問してもらえたら、他の学生にもシェアーできてありがたいのだが、個人的な質問も多いのでやむをえないかもしれない。 もうすぐ東京で哲学の講義をすることになっているが、講義をやめて最初から質疑応答にするのは、ひょっとしたら哲学の本来のあり方かもしれないと今、考えていた。何も知らないというソクラテスは、アテナイの街でソフィストのように講義をしていたわけではなく、知者といわれている人に問答をふっかけては困らせていたようだ。プラトンの対話篇を読むと、ソクラテスがごく普通の言葉で哲学を語っているのがわかる。それなのに、ソクラテスの流れをくむ哲学者の僕は、大学で教えていた時のぬけがたい癖で、講義をしないといけないと思い込んでいる。去年の七月に大阪でしたように、きっと講義をするのだろうが、工夫の余地はありそうである。 朝、夕冷え込む。今日は比較的暖かくて、電車の中は暑いくらいだった。よく晴れ渡っていて、青い空に月が浮かんでいた。それでも夕方日が落ちると寒くなり、京都駅まで帰り着いた時には日はすっかり暮れていた。心配事をひとつ抱えていたが、ひどく疲れてしまっていて、電車が遅れていることを幸いに長い時間、眠ってしまった。精神科に勤務していた頃のことを思うと問題にならないが、火曜日は僕にとって長い一日である。
2004年11月02日
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月曜は、診療所でカウンセリング。朝まで予約の状況がわからないのだが、一人入院されてキャンセルという人があって心配である。ここでカウンセリングをしている人は前にも書いたことがあるが、大体は僕よりも年輩の方が多い。暑かった夏の日に、こんなに暑くては死んでしまう、涼しくなったらまたカウンセリングにくる、といっていた僕の父くらいの年輩の人のことを思った。朝夕だけでなく昼間も寒かった今日は、もう11月であることに気がついた。 帰り、平野神社まで足をのばす。前に六月にきた時は、人形(ひとがた)がおいてあって名前を書いて健康の祈願をした。身体のことは気をつけていてもどうにもならないことはあるが、試験などの日に病気にならないことをこれまで何度祈ってきたことか。今日は祈ったのは自分のことではなかった。 サマワの自衛隊の宿営地内にロケット弾が撃ち込まれ、施設の一部が壊れたという。もはや(というより初めからそうだったのだが)サマワは安全なところではなく、今回の香田さんも自衛隊のメンバーを拉致したという声明が出されていた。安全が確保できる夜明けを待って捜索にあたる、ということだが、当然、安全が確保されない夜に狙われるわけである。もう(というより初めからだのだが)自衛隊は撤退する時期にきている、と思う。駅などで見る「テロ警戒中」という張り紙は一体誰に向けられたものなのか、とふと思った。いわば下流をどんなに警戒しても、上流で何があっても自衛隊は撤退しない、といっているようでは、これからも同じことが続くのではないか、と危惧する。
2004年11月01日
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