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診療所でカウンセリング。話している間、外は時折、激しい雨が降る。雨の中、濡れてはいないだろうか、と気になった。医師の紹介で、僕のことを知らずにこられる人が多いので、初回は緊張してしまう。 上官ではないが、上司の指示にノーといえなくて後悔したことが一度あった。その詳細はここには書くことができないが、自分の考えをしっかりと示すべきだったと思う。そうすればその後に起こったことは、あるいは回避できたかもしれない。僕の考えは認められなかったかもしれないのだが。自信がなかった。 あらゆるものを徹底的に疑う。自分以外のものだけではなく自分をも否定する。一部の否定ではなく、全部の否定である。しかしそのような懐疑の後に何が起こるだろう。三木清は『語られざる哲学』の中で次のようにいう(三節)。「懐疑の完成は使徒パウロが「われもはや生けるにあらず、キリストわれに於て生けるなり」と云ったところに於て見出されるのである」。自己は否定がこの境地においては別の次元での自己の肯定につながる。
2004年05月31日
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『それでも私は戦争に反対します。』(日本ペンクラブ編、平凡社)は、創作、評論、エッセイ、手紙などの形で戦争への思いが語られる。 吉岡忍の「綿の木の嘘」は、言葉だけで戦争の悲惨さを強く印象づける。ベトナム戦争の時のソンミ村の大虐殺のことが取り上げられている。カーターという名の兵士は同僚が無差別虐殺を始めるのを見て、自分の銃で自分の左足を撃ち抜いた。この作戦には加わらない、と決めたからである。「自分が狂った機械になる前に、自分で自分を壊した男が、あのとき一人だけいた」(p.106)。上官からの命令に背くことがこのような状況でできることなのか。 阿刀田高「神々は笑う」。昭和十年生まれの「私」が九十歳になった今、過去を回想する。自衛隊は本物の軍隊になり、人道支援、テロ撲滅といって世界中どこへでも兵器を持って軍隊を送れるようになった。しかし戦場で死者が出るようになると、公募で兵士を集める軍隊には限界が生じるようになり、徴兵制度が導入された…というような話(p.40)。近未来の予言としてはまったく荒唐無稽なものといいきれないところが怖い。憲法をものともしないでなし崩し的に、派兵を決めてしまったのがこれから起こるであろうことの原点になったと後になってふりかえることになるだろう、とは多くの人の指摘するところである。 先に紹介した「生きているのはもはや私(=パウロ)ではない。キリストが私の中に生きている」(『ガラテヤの信徒への手紙』2-20)の言葉について西田幾多郎は次のように書いている。我々の自己が相対的で有限であることを知れば、絶対無限の力に合一しようとして永遠の真生命を得ようと欲する。「パウロがすでに「我生きるにあらずキリスト我にありて生きるなり」といったように、肉的生命のすべてを十字架に釘づけおわりてひとり神によりて生きんとするの情である」(『善の研究』第四編、第一章)。親鸞が法然にこのような思いを持ったことも知られているが、宗教ではこのような関係は当然のことであろう。しかし一般の対人関係でこのようなことはないわけではない。人を知ればもはや以前の自分のままでいることはできないといっていい。「新生」である。
2004年05月30日
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これだけのことが起こっているのに、そして今回のことが自衛隊の派遣とは関係のないところで起こっていることとは思えないのに、問題にされているようには見えない。政府の対応も危機感がないように見える。自己責任論というようなこともいわれない。自衛隊の多国籍軍参加を検討するということを安倍晋三幹事長は事件前表明していた。「日本はまだ多国籍軍に参加したことはないが、憲法の許す範囲で、イラク特措法の許す範囲で、責任を果たすことは当然だ」という。今の状況を常識的に見て(もちろん、政府は常識では見ないのだが)サマワが非戦闘地域ではないとは到底思えないし、憲法はこのようなことを許していない。不幸な事件をきっかけに考えていかなければならない問題である。 ルノワールが師のグレールに「君は自分を楽しませるだけのために絵を描いているようだね」と問われた時、こう答えた。「もちろんです。もし絵が楽しくなかったら、絶対に描いていません」。僕が学生の頃に壁に貼っていたイレーヌ・カーン・ダンヴェルズの肖像は、イレーヌの溢れるような生命、そのイレーヌを見つめ描くルノワールの生きる喜びが伝え、見る者の心もはなやぐ。僕は絵は描けないが、ルノワールのような喜びを伝えられるような本を書いてみたいものだと思っている。
2004年05月29日
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イラクで日本人記者が襲撃された事件に驚く。二人はサマワの陸上自衛隊の宿営地を訪れ、取材のための宿営地立ち入り証を受け取った後、宿営地を後にしてバグダッドに向かった。これだけのことが起こっているのに、やはりというべきか、政府はサマワの治安情勢とは直接関係がないとして、自衛隊の活動への影響はない、という。「以前からイラクには入らないで下さいと勧告していたので残念です」と小泉首相はいうが、一体、それでは誰がイラクのことを、サマワのことを報道するのか。川口外相が強調するように「いかなる理由があろうともイラクに滞在、入国することを控えていただきたい」ということと、自衛隊が二人に取材のための宿営地立ち入り証を出したことの間に整合性はあるのか。今回も二人は自己責任ということでバッシングされるのだろうか。 金曜は聖カタリナ女子高校での講義。今日も「悩み相談箱」にはたくさんの質問が入っていた。質問に答えることにこのところ終始しているので体系的な講義はできないでいるが、生徒が聞きたいことを聞けるのは悪くないかとは思う。答えながら生徒たちは気がついてないかもしれないが、教科書(僕が書いた本)は先の方まで進んでいる。口頭でも質問してくれる学生がいるのはありがたい。 昨日、芭蕉の句を引いたが、その際、花と一体になる(to be at one)という表現がされているのを見た。新約聖書の次のような表現を思い出した。「生きているのはもはや私(=パウロ)ではない。キリストが私の中に生きている」(『ガラテヤの信徒への手紙』2-20)。私はキリストを「持つ」わけではなく、キリストが私の中に「ある」のである。あなたと私が一体になった時、森有正が使う表現を使うならば、レゾナンス(私の内部の共鳴)が起こるのである。私は自分をなくしてあなたに合わせるのではない。あなたが私の中で共鳴する(vice versa)。 共鳴ということで思い出すのは、前に書いたのだが、ルー・サロメは誰かある男と情熱的に接すると、九ヶ月後にその男は一冊の本を生んだというエピソードである。アリストテレスが神を定義して「不動の動者」といっている。自らは動かないで他の者を動かすという意味である。先のパウロの言葉の中のキリストを、サロメや神に置き換えてみればいい。
2004年05月28日
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いつもより二時間ほど早く寝たら、朝までの時間がずいぶんと長く感じられた。このところ細切れの睡眠しかとってなかった。予定が入ってなかったので、どこにも出かけなかった。金子書房の岩城さんから、僕が今回『児童心理』に書いた記事に読者から参考になったというメールが届いたという報告のメールがあったこと、『人はなぜ神経症になるのか』の重版が決まった(六月下旬)というFAXがあったことが、仕事に関連してうれしいことだった。 フロムは「持つ」ことの「ある」ことの違いをイギリスの詩人テニソンと芭蕉の俳句を引いて説明している。ひび割れた壁に咲く花よ私はお前を割れ目から摘み取る私はお前をこのように、根ごと手に取る小さな花よ?もしも私に理解できたらお前が何であるのか、根ばかりでなく、お前のすべてを?その時私は神が何か、人間が何かを知るだろう テニソンは、花を持つことを望んでいる。人や自然を理解するために花を所有しなければならない。しかし、芭蕉の花への反応はまったく違う。よく見ればなずな花咲く垣根かなWhen I look carefullyI see the nazuna bloomingBy the hedge! 花を摘むことを望まない。芭蕉が望むのは見ることである。ただ眺めるだけではなく、一体化すること、自分自身を一にする、そして花を生かすことである。 眉村卓氏は闘病する妻に一日も欠かさず1778話を書いた(『妻に捧げた1778話』新潮選書)。病む人にできる唯一のことが話を書くことであれば僕もそうするだろう、と思った。メールを毎日書き続けるだろう。拒まれたらどうするのかという問題は残るが。母が病床にあった時、僕は学生だったので毎日病院に通うことは無理なことではなかった。父や妹にとっては容易なことではなかったはずである。そのことで母から何かを返してもらおうとは思わなかった。元気になってほしいと誰もが思っていたが、結果的にそうならなかったが、誰がそのことで母を責めたであろう。
2004年05月27日
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今日は中根先生のところに鍼に行っていた。知らずして身体に無理を強いているので(あまり無理をすると「鍼だけでは治せません」と先生に叱られることになる)この頃、忙しくて前のような頻度ではいけなくなったが大事にしたい時間である。 帰り、『それでも私は戦争に反対します。』(日本ペンクラブ編、平凡社)。一度、自衛隊の派兵が決まってしまうと、それに反対する声も、国際貢献である、人道支援に行っているという声が大きく響き、「それでも…」となかなかいえないような雰囲気が作り出されてしまう。アメリカやイギリスなどで問題になっている戦争の正当性をめぐる論議はこの国にはまったく関係がないかのようである。数時間の視察でサマワは安全だと認定されて派兵されるまでに長い時間がかからなかったが、今、サマワは安全とはいえない状況だとは思えないのだが、今、かの地で自衛隊の人たちは何をしているのだろう、と思う。どんな思いで日々過ごしているのだろう、と思う。 昨日、持っていた茶碗まで捨てたディオゲネスの話を書いた。もしも子どもに負けたからといって持つのをあきらめるというのでは、「持つ」から「ある」へ移行したことにはならないだろう。捨てるのは惜しいというのではない。また、与えることは持っているものをなくすということではない。自己犠牲でももちろんなく、与えることが(その同じものが返ってくるわけではないが)受けることであり、喜びであるというような逆説が成り立つような対人関係をフロムは考えているように思う。
2004年05月26日
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今日も朝方まで仕事。仕事を終えるタイミングがなかなかつかめない。夜明けを待たずに眠れるようになったのは進歩ではある。あきらめて部屋の電気を消し、メールを読んでいると羊を数える間もなく深い眠りに陥る。ひとたび眠ると今度は起きられない。携帯のアラームが鳴り続けてもいっこうに起きられない。明治東洋医学院のヒペリカム・カリシナムは先週よりもたくさん咲いていた。こんな美しい花に今まで気がつかなかったのが不思議である。 持つことに執着することをやめればどんなに楽だろうと思う。生命を所有できるものではないと思えば、それは持てるものではないのだから、失う恐れもない。ソクラテスの流れをくむ犬儒派と呼ばれる哲学者の一人、ディオゲネスは、何も持たず酒樽の中で暮らしていた。それでも水を飲むために茶碗を持っていたのだが、ある日、子どもが川の水を素手ですくって飲んでいるのを見て「私はこの子に負けた」と、その茶碗まで捨ててしまった。僕は母が亡くなった時、名誉も何もかも捨ててしまったはずなのだが。 今の仕事、出口まで到達した。でもまだこれから煩瑣な仕事が待っている。
2004年05月25日
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てらのうち診療所内の女性健康センター(5.23日付けの朝日新聞に記事が掲載された)で四月からカウンセリングをしている。最近、僕よりも年輩の方のカウンセリングをすることが多い。僕の父や母と同い年くらいであったりする。僕は人生の先輩を前にしてどぎまぎする。母が生きていたらこんな感じで話をしているのだろうか、とふと思ったりする。 持つ様式は敵意と争いをもたらすが、個人にあてはまることは国家間にも相当することをフロムは指摘する(p.100)。持つことと貪欲を主たる動機づけとする人々が国家を構成している限り、戦争をしないわけにはいかない。「彼らは必ず他の国家が持っているものを切望し、戦争や、経済制裁や、おどしによって、ほしいものを得ようと試みる…国家が戦争をするのは経済的に苦しんでいるからではなく、より多くを持ち、制服しようという欲求が、社会的性格の中に深くしみ込んでいるからである」。国交正常化といっても敵意を隠しもしていないようではとても望めないように思う。握手をする時も決して両手を差し出さない、ハグしない、笑わないというようなことが事前に取り決めてあったという記事を読み驚いた(別のことだが、日本にきた人の中で、日本にくることを拒んだ人もあったようだ。しかし「命令」によってこの願いは聞き入れなかった)。 フロムは愛について、それは何よりも与えることである、という(『愛するということ』紀伊國屋書店、p.43)。基本的に非生産的な性格の人は、与えることは貧しくなることだと思う。喜んで与えることがあるが、見返りがある時だけである。これに対して、生産的な性格の人にとっては、与えることは自分の持てる力のもっとも高度な表現であり、力が漲り、生き生きとし、心がはなやぎ、喜びを覚える。与えることは自分の生命力の表現である。このような意味で愛するためには、性格が生産的な段階に達していなければならない(p.48)。また、これまで見てきたような「ある」様式において経験される時だけで与えるという意味で愛することができる。このようなあり方に「愛」という名をつけているので、「愛」という実体が与えるという行為に先行してあるわけではない。このように名づけられた中身は一般的に使われている愛とは違うことはありうる。
2004年05月24日
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今日はカウンセリングの予約はなく、仕事モード。今取りかかっている仕事に着手して三ヶ月。ようやく出口が少し見えてきた。もうずいぶん前から同じことをいっているような気がするが、息切れして倒れないよう頑張りたい。ドイツ語の本を読むことが多く、少し読めるようになったのは思いもかけない喜び。 時を忘れて話せる人がいる。時計などというものがなければ夜が明け日が昇りまた日が沈んでしまうかもしれない。そんなふうに思え、話していて時を超えられると思えるにはいくつか理由を考えることができるが、一つは話の中であるデータを契機として想起する内容が機械的ではなく、必ずしも論理的でもなく、自在に連想が拡がっていくという経験ができるということがある。写真を見て「あの人だ」とか「ここは前に行ったところだ」というようなことを思い出すのはあまりに当たり前すぎる。そうではなくて、一つのデータから思いもかけない連想が働く時、他のデータとの結びつきは「生きた」(alive)ものである、とフロムはいう(p.20)。そのような生きた想起が共同作業によってなされ、思いもかけない話の展開に驚く時、会話は時を超えた永遠の中でなされ果てしない旅になる。「時間」を持つことはできない。時間はただ今ここで(here and now, hic et nunc)経験されるだけである。しかしそれならば過去は次々に消えていってしまうだけであるはずなのに、過去の経験を今ありありと追体験するということはたしかにある。もしも時間がフロムのいう「持つ」ではなく「ある」様式の中で経験される、あるいは、時を超えた永遠の中で経験されるのであれば、過去の経験も何かをきっかけに「今ここ」に現前する。 フロムはこんなふうにいう。「愛すること、喜び、真理を把握することは「時」の中ではなく、「今ここ」で経験される。この「今ここ」は永遠である」(p.114)。この永遠は時の延長ではない。 絵画と彫刻、また著作との関連で「今ここ」についてiBlogの方で考えてみた(「時を超えた創造」)。次に音楽について考察することになる。「今ここ」にしか存在し得ない音楽の実在を疑う人はないだろう。音は現れ、たちまち消えていく。
2004年05月23日
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拉致被害者の家族が帰ってこられた。今回の交渉結果については今後議論がされているのだろうが、僕として今考えているのは、二つ。 一つは、5月9日の日記にも関連の書いたのだが、食糧25万トンなどの人道支援を行うというが、これが拉致問題の解決のために持ち出されたのであれば「人道」支援という言葉を使うことは適切だとは思えない。これだけの援助を申し出たのに(屈辱的と語っていた人があった)、これだけの成果しか得られなかったという批判が出ているようだが、人道支援は政治交渉とは何の関係もないところで行われるものではないか。次に、これは政治的なことではないのだが、子どもの立場で日本に行く、行かないということを決めることは自分の意志でなされたのかということがある。ジェンキンスさんは帰国を拒み、子どもたち二人も帰国しなかったが、子どもの立場で、国家、母親、父親の思いの狭間で自由に決断できていたらいいのに、と思った。 フロムの続き。私はもしも持っているものであれば、あらゆるものを持とうとするであろうし、持った(と思った)ものを失うことは自分が自分でなくなることを意味することになるだろう。母は身体が麻痺した状態で病床にあった時、母ではなくなったのか。もしもフロムのいうもう一つの存在様式である「ある」ということを考えれば、違った見方ができる。生きる喜びについてさらに考えてみたい。
2004年05月22日
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聖カタリナ女子高校での講義。今日も学生が名づけた「悩み相談箱」には質問紙が入っていて、90分かけて答えた。先生は興味があるようでどんな質問がありますか、と問われるが答えるわけにはいかない。どうぞ講義にきてください、とお誘いするのだが。今年の特色は恋愛関係の質問が少ないことである。 昨日、見たモネの睡蓮の絵が蘇る。最晩年に描かれた一連の睡蓮の作品は目を患った前後のものであり、タッチは荒らしく睡蓮も、それと同じ質感で描かれた水面に映っている枝垂れ柳も、説明がなければ画面一杯に色が乱舞している。後にアメリカの抽象表現主義に影響を与えたとされるが、それの先駆としてのカンディンスキーがモネから影響を受けたことは知られている。ガラス越しではなく直接モネの筆致を見ることができ、絵を見ただけなのにまだ興奮が覚め遣らぬ状態である。 フロムはこれまで見てきたように、人間が生きているうえでの二つの基本的な存在の仕方、すなわち、「持つ」ことと「ある」ことを区別している。母が脳梗塞で倒れた時、僕が思ったのはフロムの言葉を借りるとこんなことだった。こんなふうに動けなくなった時に、名誉もお金も「持って」いても何も意味もないではないか、と僕は思った。「もしも私が持っているものであるとして、そして私が持っているものが失われたら、その時、私は何ものなのか」(p.96)。しかし、とフロムはいう。「ある」様式においては持っているものを失う心配も不安もない。なぜなら私は持っているものではなく、「ある」ところのものだから。「持つ」ことは減るものにもとづいているが、「ある」ことは実践によって成長する。費やされるのに失われない。フロムが「燃えるしば」に言及しているのは興味深い。燃える柴は燃えてもなくならない。「見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない」(『出エジプト記』3.3)。愛も知も失われることはない。
2004年05月21日
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高遠さんの会見の言葉。イラクの子どもたちに「絶対にあなたたちを見捨てません。必要なことは戦争を恨むことより、人を愛することだと思う」。人を愛することがどういうことか知り、実践することは、戦争をなくすために必要なことである。アドラーの伝記を読むと、今、世界はかつて起こったことを追体験しているような感覚を覚える。1930年代の話を読むと現代史なのではないか、と思える。アドラー自身は知らないのだが、1937年に亡くなるのである。伝記を読むと、読者が知っている事実を当人が知らないことに不思議な感覚を覚える。いわば神の視点から人生を見ているように思う。娘のことで心労で眠れなくなったアドラーははたして自分の死を少しでも予想していたのだろうか、と思う。 朝方まで仕事をした後、今日は久しぶりにオフにすることにした。決心しないとオフの日はとれない。京都市美術館で開かれている(23日まで)パリマルモッタン美術館展。印象派のコレクションとしてはルーブルやオルセーよりも人気があるといわれるマルモッタン美術館の所蔵作品から、モネ、モリゾらの作品が展示されていた。パリに行った時はこのブーローニュの森の近くの住宅街の中にある美術館には行く機会がなかった。モネの睡蓮の連作がみごたえがあったが、今回初めて見たベルト・モリゾの作品は思いがけずよくて時が経つのも忘れて見入ってしまった。桜の季節に行った岡崎辺りの光景はすっかり変わっていた。雨足は次第に強くなってきたが、台風のくるのも忘れて美しさに魅せられ、雨の中を歩いた。
2004年05月20日
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アメリカ陸軍のカミロ・メヒア軍曹の良心的兵役拒否者を宣言したというニュースが注意を引いた。朝日新聞の取材に「イラクの経験は悪夢だった。罪のない市民が周りでたくさん死んだ。我々はこの場にいるべきではないと感じた」といっている。誰かがイラク戦争の真実を話すべきだと思ったというこの決心はどんなふうに見られるのだろう。勇気、臆病、卑怯? 陸軍の公報はいう。「テロとの闘いはまだ続いており、兵士はイラクの自由と解放のため全力を尽くしている。メヒア軍曹とは違った意見の兵士が大勢いるのは間違いない」と。アメリカ軍による(組織的問題だと思う)捕虜虐待問題が明らかになっている今「イラクの自由と解放」という言葉は空しく響く。「誰かがイラク戦争の真実を話すべきだと思った」というメヒア軍曹の言葉は重い。その「誰か」は私以外ではないのだから。そんなことが日常の場面でも多々あるのに勇気がない自分に気がつく。アドラーははっきりといっている。「あなたが始めるべきだ」(岸見一郎『アドラー心理学入門』p.115) 先日来の話の続き。愛は活動であり過程であるから「持つ」ことはできない。それなのに、愛が何か人が「持つ」もの、所有物になった時、人はもはや愛すべき人にはなろうとする努力も、愛を生み出そうとする努力もしなくなる。そんなふうに思ってしまった時、おそらく二人の間に流れる時間は「生きられた時間」ではなくなる。そうではなくて不断に愛し続けるのである。終わりはない。
2004年05月19日
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火曜日は明治東洋医学院での講義の日。先週、黄色い花が咲いていることに気づいた「ヒペリカム・カリシナム」は一週間経ってもまだ開花の状況はほとんど変わりがない。美央柳(びょうやなぎ)というらしい。何年も通っているのだから満開の時を知っていると思うのに思い出せないのはなぜなのか、と今週も思ってしまった。前に住んでいた家の前に拡がる麦畑はすっかり色が変わっていたので驚いた。初夏になると、刈り取りが間近い麦畑は黄金色に輝く。これを麦秋(ばくしゅう)という(高橋健司『空の名前』光琳社出版、p.157)。麦が刈り取られるとその後には向日葵の種が蒔かれるはずである。 昨日、フロムの本を手にしたので、その流れで同じフロムの『愛するということ』(紀伊国屋書店)に少し目を通す。誰かに「あなたを愛している」ということができたら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身を愛している」といえるはずだ、とフロムはいう。ただし、愛する対象の種類によって(誰を愛するか)愛にもさまざまな種類があるという事実が否定されるわけではない、として(p.77)、兄弟愛、母性愛、異性愛、自己愛、神への愛が分析される。 宇多田ヒカルのSINGLE COLLECTION volume1の歌詞の冊子(なんというのか知らないのだが)に「思春期」という宇多田の直筆(だと思う)が印刷してある。なんていっていいのかわからないがこの筆跡にはひどく驚いた。 世の中の人が「私はこの人に何ができるだろうか」と思って生き始めればきっと世の中は変わるだろう。世の中の人が「私は自分ができることはできるだけ自分でやる。しかし他の人が援助を求めてくることがあれば可能な限り引き受けよう」と思って生き始めればきっと世の中は変わるだろう。実際には人は一人では生きられないし、何でも自分の力でできるわけもなく他者の援助を乞わないといけない。だからできないことについて援助を乞うことは恥ずかしくもないし、必要なことである。僕も力を必要とすることがある。前よりも援助を求めることができるようになった。僕が力になれるとしたら、それは僕にとって喜び。
2004年05月18日
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今日は最近めったにこんなことはないのだが朝から夜まで四人のカウンセリング。昼の二人は診療所で。雨が上がり青空が見えカウンセリングをしている部屋に日の光が射し込んだ。そこへ一人の女性の姿が部屋の外に見えた。「カウンセリングされているのですか?」「ええ、そうですが」「部屋に置いてある拡声器を持ち出したいのですが」「ええ、それは何も問題ないと思いますが」実は大きな問題があって、この人は雨が上がったので診療所の前で街頭演説を始めた。カウンセリングをしているといったはずなのに。僕の声がかき消されそうだった。帰り、西の空にきれいな夕焼けが。この色を何というのか。僕の語彙では表現できない。「遠い町で気づいていてくれますように」(宮沢和史「遠い町で」) エーリッヒ・フロムの"To Have or To Be"を本棚から持ち出して電車の中で少し読んでみた。西洋の言語において、動詞よりも名詞が使われるようになったことの一つの例として、「愛」という名詞は、愛するという活動を抽象したものにしかすぎないのに、人間から切り離されて、実体化された、とフロムは指摘する。活動や過程を「持つ」ことはできない。それらは、ただ経験されるだけである。愛を持つというようなことはなく、愛を経験するだけである。その経験は不断にいわば流れるものであり、刻々に変化する。一度この人への愛を持てばその人への愛は成就するというわけではない。いつもリアルタイムで変化していくものであるから、常に愛を(正確には愛というプロセスを)更新していく努力が必要である。それは苦痛の努力ではなく、相手とのいい関係を築くを目標とするのだから、喜びとして努力である。この努力が生きる喜びになる。「ふと幸せになる瞬間がある あなたといると」(古内東子「歩き続けよう」)このような瞬間、いいコミュニケーションができているという瞬間、あなたのことが好きになるのである。 明らかに(といっていいと思うのに)サマワは「非戦闘地域」らしいい。戦闘行為を政府は「國または国に準じる者による組織的、計画的なもの」と定義しているので、テロはこれに該当しないということらしい。現実よりも定義が先行することの奇妙さ。人の命がかかっているのだが、政治家は自らは命の危険はないから、サドル支持派が国に準じる者かどうかについて、「今後いろいろな情報を総合的に収集、分析」してみなければならない、という。今後、というような状況ではなくもっと逼迫しているように思うのだが。
2004年05月17日
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まっすぐな道があって、目標がはっきりしているのに歩いていても少しも目標に近づかないように見えた。はっきりしていることは歩き続けさえすれば目的地に到達するわけだから歩くのをやめないのがいい。 もう一つの考えとしては(『不幸の心理 幸福の哲学』の第五章で書いたのだが)目的地に到達することを第一義的な目標にしないということである。途上を楽しむ。そうするとただひたすら目的地を目指して歩いていた時に見えなかったものが見えてくる。そもそも歩くというような効率の悪いことをしなかったかもしれないのだから、そうなるといよいよ見落としていたものが見え始める。途上を楽しむのを第一義的な目標にする。 さらに、場合によっては最初の目的地を目指すことを止めることすら可能である。少なくとも目的地に到達する前に過程を楽しめる。到達しなくてもいいくらいである。 目標が見えない時もある。ある時、修学院の鷺森神社に行きたいと思ったことがあった。ところが地図で見てもわからないし、標識まであったのに、それが指す方向には民家しかない。あきらめるのも(他にも行くところがあれば)一つの方法であるが、今いるところまで引き返せるのであれば、前(ではないかもしれないが)へ進んでみるのは悪くはない選択肢である。迷うのもまた楽しいと思えたらいいのだが。もとのところに一度戻ればいいだけだから深刻になることもない。 迷ってはいけないのは時間の制約がある時。講演会場に向かう時になんのためらいもなくある方向に向かっていたのに十五分くらい歩いた時点でひょっとしたら迷っているかもしれないと思い始めて、実際立ち止まって冷静に考えたらどうやら反対の方向に向かっていることに気がついたことがある。この時は駅まで戻って、そこからタクシーに乗ることになったが、最初の十五分もそんなに無駄になったとは思えないようにはなった。 向かうところがはっきりしていても、すぐには見えない時も、さらに迷っている時でも、心に余裕があり楽しめたらいいのだが。目下、僕の人生は世間的には先はまったく見えないが、身体は時にひどく疲れているが、気持ちとしては大いに力が漲っていていい感じである。 昨日、引いたBBCのニュースのタイトルは「連合軍は”イラクから撤退するかもしれない”」となっていて、「アメリカ、イギリス、イタリア、日本はもしも新しいイラク政府に求められたら軍隊をイラクから撤退するだろう、といっている」と記事は続く。こんなふうに一括されてしまうと、日本側の特殊事情は世界には伝わらない。おそらくイラクの人にも。石破防衛庁長官は、イラクへの主権委譲後も国連決議で多国籍軍が派遣される場合、多国籍軍だから日本は参加できないとはっきりいいきれるものではない、といっている。日本は憲法九条があるから参加できない、とはっきりいうべきである。あるいは憲法を変えるまえでは参加できないというべきである。サマワの治安が悪化しているというニュースが伝えられているが、派遣を中止あるいは延期するというわけでもない。十四日以降、自衛隊の屋外での活動は見えないという。
2004年05月16日
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今日はあまり早く起きられなかったが、その後、外出、カウンセリングの予定がなかったので、ずっと仕事。十代の頃は学校の勉強や試験のための勉強。二十歳代は来る日も来る日もギリシア語の辞書を引いてプラトンのテキストと格闘した。その頃が一番勉強したように思う。その後はその時ほど勉強していないかもしれないが、質的には40歳以降はかなり充実している。精神科の医院に就職する前に一冊翻訳を出版した。在職中に二冊目の翻訳。退職後、著書を二冊、翻訳を一冊。どんなに頑張っても、藤澤先生にはかなわないといつも思っていた。 BBC NEWSによると、六月のG8サミットの準備のための外相会合で、もしも主権譲渡後にイラクの新しい政府が軍を撤退することを要求したら、アメリカ、イギリス、イタリア、日本は撤退すると表明したという。そんなことはありそうもないことだとパウエル国務長官はいうのだが、日本も名を連ねているところは少し(かなり)意外に思った。僕は自衛隊は人道支援にきているので、今後も活動を続けるというようなことをいうのかと思ったがそうではなかった。対外的な自衛隊の位置づけがこの記事で見えるように思った。 田辺元と野上弥生子の往復書簡は、1961年1月3日の野上の手紙で終わっている。元旦に田辺が脳梗塞で倒れたのである。意識はあって軽い言語障害が認められたくらいだが、経過はよくなく、翌年4月29日に亡くなっている。77歳だった。二人は同い年で、その後、野上は99歳で亡くなった。田辺が亡くなってから23年、長生きをするわけである。毎年欠かさず田辺との最後の歳月を過ごした北軽井沢に滞在し、執筆を続けた野上はどんな思いで過ごしたのだろう、と想像した。若い人たちのように心変わりして離れていくことなど決してないような安定感が二人の関係にはあるが、死別の可能性は若い人よりも高いのは本当である。考えてみれば本当は年齢は関係のないことなのだが。二人がどんな状況でいつ邂逅するかは誰にもわからない。その日から始めて切に生き愛するだけである。
2004年05月15日
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金曜日なのでカタリナ女子高校へ。8時45分からの授業なのだが、わりあい近くなので7時49分の電車に乗ると8時20分には着いてしまっている。去年までは駅を降りてから朝学生と同じ道を歩いたのだが、今年からタクシーを利用していいことになったのでよけいに早い。 この学校はカトリックの学校なので始業前に生徒たちは賛美歌を歌う。実際にはその光景を見たわけではなく、職員に放送が流れるので知っているだけである。その後、主の祈り(『マタイによる福音書』6.9以下)。講義の用意をしたりしているのだが、この時だけは手を休めて、僕もお祈りをする。職員室に残っている先生は起立して祈られているが、僕は恥ずかしいので気づかれないように、すわったままただ頭を下げているだけである。 この時、個人的なことも祈るわけだが、御心が行われますように、というところでは、まさにそのとおりになってほしいと思う。自分のことはこのくだりでは考えない。今の世界のあり方は御心が行われているとは思えない。何が神の御心なのか。もしも戦争のない世界になることが御心ならば、信仰のない僕も祈りたい。でも、それだけで十分だとは思わないのは、信仰がないからかもしれないが、そのためには何ができるかを考えなければない、と思う。 授業はまだ3回目。話し始めようとしたら生徒が「悩み相談箱」を持ってくる。中には質問紙が入っているのである。90分の講義のほとんどを質問に答えるのに充てた。質問紙を使っての質問の他にも、口頭で質問する学生がいてありがたい。対人関係をめぐる質問が多い。去年までのクラスとは違って恋愛の相談はそんなに多くはない。 有事関連法7法案は今国会での成立が確実になった。
2004年05月14日
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尼崎で保育研修会。午前午後で二人のカウンセリング。夕方に出かけ講演(研修)をする日が二日続いた。目下、それ以外の時間もほとんどコンピュータに向かっているので、目下余裕なく、辻褄合わせの睡眠でなんとかしのいでいるが、移動中の電車の中ではなぜか寝ることがなくなった。本もあまり広げることもなくなった。いろいろと考えごとをしているか、歌をつくっている。 国家の場合も個人と同じで、何かをする(あるいはしない)と決めたら、後はその理由づけは何でもいいといっていいくらいである。自衛隊の派遣は明確に憲法違反だと僕は理解しているが、そのための理由づけは後からされる。現状がどんなに変わっても、サマワは非戦闘地域であり続けなければならない。戦争の大義は必要なのだが、その根拠がなくなっても、無視するか(他国の軍隊がイラクからの撤退を考えていても日本の政府はそんなことはまったく知らないかのように見える)信仰に走るかどちらかである(私は今でも大量破壊兵器があると信じている、というふうに)。誰かのことを嫌いな時はきっと理由がいる。理由なく嫌いなことはあると思うのだが、理由なしでは具合が悪いとなれば理由を作り出すだろう。しかし、その理由は他ならずこの人を嫌いな理由ではなく、一般的な理由でしかない。あるいは、どんなことも嫌いであることの理由になるということもできる。他方、好きな時は本当は理由はないといっていいくらいである。ただ好きだから。でも理由が必要と思うこともあるだろう。しかし、究極的にはあなたがあなただからとしかいうことはできないだろう。同じような条件の人がいれば、その他の人が好きになるかというとそんなことはいえない。代わりの人はいない(『不幸の心理 幸福の科学』p.137) 金子書房から『児童心理』の六月号が届く。「「早く早く」の代わりに子どもにかける言葉の工夫」という題で書いた(これは出版社から与えられた題である)。わずか3ページ(残念)しか書くことが許されなかったので、十分意を尽くせたとは思えない。
2004年05月13日
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ニック・バーグ(Nick Berg)さんの殺害のニュース(映像も、ただし、もちろん殺害の場面はカット)をBBSニュースで最初に見て動揺した。マクレラン大統領報道官は「犯人を捜し出して裁きにかかる」といっているが、この発言の前の「彼らは無実の男性、女性、子どもたちの命を重んじていない」という言葉はアメリカ政府にそのまま返したい思いだ。武装グループを擁護しているわけではないのだが。暴力の連鎖にならないことを祈るばかりだ。愚かな戦争、もう止めようよ。 夜、もみじ保育園で研修。一年ぶり四回目。初めて僕の話を聴かれた新しい保育士さんが僕の話をどう受け止められたかは気掛かりである。 最近、僕のいろいろな感覚が研ぎ澄まされていっているように思う。昔、大阪の枚方にあった森進一先生の家まで毎週プラトンの読書会に通っていたことがあった。十年以上通った読書会も解散した。後に先生は引っ越しをすることになり、ついては少し蔵書を処分したいという電話があった。ほしい本があれば譲るということだった。たくさんの本を段ボール箱に詰めていたところ、ふと、金木犀の匂いがした。どこから匂ってくるのだろう、と思って見回したら、家の前に金木犀の木があった。十年以上通ったのに、まったくその存在に気がつかなかった。何か大切なものをひょっとして見失っていたのではないか、と来し方に思いを馳せた。 今はいろいろなものが目に映り聞こえてくる。風に揺らぐ桜、萌え出ずる若葉、せせらぎの音…花や、土、また水の匂いを感じられる。人生は喜びに満ちている。
2004年05月12日
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サマワで駐留するオランダ軍に手投げ弾による攻撃があってオランダ兵が一人亡くなっている。これを受け、小泉首相は、自衛隊派遣の前提となっている、サマワが非戦闘地域という認定については「変わりない」と語っている(小泉首相の談話はasahi.comで読んだが、朝日新聞には掲載されなかった)。何が起こっても変わりはない。情報を収集中、とか、状況を確認中という言葉はこのようなことが起こった時にたびたび使われるが、言葉通り受け取ることは僕にはできない。 サマワに派遣されている陸上自衛隊員の日記を興味深く読んだ。4月5日 《ムサンナ県内の治安の悪化により(作業が)中止に。正直、ほっとした。自分には家族がいる。無事で帰ってくることを条件にイラクに来たのだから、RPG―7(人員携行ロケット・ランチャー)の餌食になるわけにはいかない》 上野千鶴子が「学生は、教師が何をやっているかでは見ないんですよ。どんな姿勢でやっているかしか見ないんです」といっている(『戦争が遺したもの』鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二、新曜社、p.388)。たしかに。その姿勢をよしとしたので、僕はこの先生についていこうと思った。今は遠く離れてしまったように見えるかもしれないが。 明治東洋医学院で講義。遠いので一コマだけの講義ではロスが大きいのだが、やがて集中講義が始まると三コマ教えることになることを思うと、これも今はいいのかも、と思う。遅い昼食を京都駅で食べて帰ろうかと思ったが、そのまま帰ったらおかげで今日はいいことがあった。直観を信じるのもいいかもしれない、と思った。もっとも反対のことが起こったらこんなことをいってられないのだが。
2004年05月11日
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アメリカ軍によるイラク人虐待事件は、日本では川口外相がジュネーブ条約に違反する疑いがあるという認識を示し、アメリカ大使館を通してアメリカ政府に遺憾の意を伝えたということはニュースになっているが、年金問題の影になっているのかそれ以上のことが伝わってこない。大量破壊兵器の未発見と同じくらい、政府が戦争を支持したことの是非に関わる重要な問題だと思うのだが。虐待の写真はデジカメで撮られた個人的な写真であることが多く、今後いくらでも出てくるであろうが、戦争というものの愚かさをはっきり示していて、虐待の記事に接するたびに怒りというよりは悲しくなる。 月曜は診療所でカウンセリング。もう長くこの仕事をしてきていろいろ家庭に関わってきた。いつも力になれることを願っている。『戦争が遺したもの』(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二、新曜社)読了。最後の方で印象的だった記述をいくつか。「ナロードニキの一部がテロに走ったときに、ロシアの大公を殺すところまでいったけど、大公のそばに子どもがいたんで中止したという話があるでしょう。私はそのナロードニキの決断というのは、たいへん重要だと思う。自分が殺そうとする相手を、ただの人数としてしか見ないという立場じゃなくて、殺す相手をよく見る。そうして、殺さないことにする。人間と人間との関係がそこに成立しているんだ」(鶴見の発言、p.353)。こんな判断、決断が今のイラク戦争で行われているのだろうか。「大義というような抽象的なものによって、決断をすべきじゃない。人間にはそんなことを判断する能力はないんだ。誰となら、一緒に行動していいか。それをよく見るべきだ」(鶴見、p.354)。大義のためには死ねない。 いつも人の気持ちのことを考え、こんなふうにいったらその言葉を相手はどう受け止めるかということにあまりに心を配りすぎると(『不幸の心理 幸福の哲学』p.120)時に何も話せなくなる。相手への全幅の信頼感があれば、こんな恐れは必要でないといえる。そのことに甘えてはいけないと思うが。間違ったことをいうことがあっても、互いにそれを必要があれば修正したり謝ったり、あるいは、誤解(もしもあれば)を解くという作業をしていくしかないだろう。そんなことができる関係はいい関係だといえる。
2004年05月10日
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政府は北朝鮮による拉致被害者家族8人の帰国が確約されれば、人道支援を再開する方針を固めたという。単純に考えているのかもしれないのだが、こういうのは「人道」支援とはいわないのではないか。これとの裏返しの経済制裁にしても、結局のところ、市民が困るだけである。 藤澤みほ子さんから藤澤令夫先生の会葬のお礼状が届く。最後の日々のことが書いてあった。癌が見つかったが、その現実を自然体で受け入れ、不安や怖れや嘆きを一度も口にすることなく、体調が戻れば、明るく毎日仕事を続けていたという話を読み、僕にはそんなふうにはできる自信がない、と想った。死そのものを怖いとは思わないが、この生で愛した人と別れるのは辛いだろう、と思う。しかし、先のことを意味はない。今を生き切り、今、切に愛するだけである。今、先生の書斎には、一日も早く退院して、書き続けたいと願ってられた草稿と万年筆が残されている。 昨日、表現について少し書いたが、先日来読み進めている『戦争が遺したもの』(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二、新曜社)を読んでいたら、上野千鶴子の俳句集『黄金郷(エルドラド)』に話が及んでいた。ここでは「短歌に行かずに俳句に行くっていうのは、詠いたいのに詠えないかわそうな魂」(p.269)と上野はいっているが、別のところでは(『國文学』7年1月号、p.6)「私自身いろんな表現の中で最後に辿り着いた、ただ一つ捨てきれなかったものが短詩型文学、それも短歌ではなく俳句だった」と書いている。自由律で書いてきた俳人だった。僕はまだ俳句は5首しか詠んでない。僕にはあまりに短すぎるのである。
2004年05月09日
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福田官房長官の辞任は年金問題もさることながら今まさに問題のさなかにある自衛隊の派遣問題など重要な問題があるのに、それらをすべて途中で放り出しての辞任のように見える。朝日新聞の社説には好意的に取り上げてあって驚いた。福田氏は自衛隊の派遣に慎重な姿勢を取るなど、政権の行き過ぎにしばしばブレーキをかけてきたが、これから、その役を担う人がいるのか、と。僕の印象ではそんなふうに見えなかったのだが。国内の騒ぎの中、陸上自衛隊の第二陣の最初の部隊140人がイラクに向け出発した。自衛隊の派遣は既成事実となり、イラクの情勢の変化は問題にされたようにも見えず、当然の如く、決められた通りにすべては振興する。小泉首相は「厳しい訓練で鍛え抜かれた能力を遺憾なく発揮していただきたい」という言葉をかけたが、これははたして人道復興支援に向かうとされる自衛隊員への言葉なのかと一瞬思ってしまった。 最近、思うこと。言葉によってしか自分の思いを表現できないのに、なかなか思うように言葉をつかまえることができない。うまくつかまえられた時には雲散霧消しないようメールで送ったりする。 好きでよく聴いている大貫妙子、宮沢和史の詩、また、最近注目し始めた桜井和寿の詩は同時代人ゆえに意識するのか的確に僕がつかまえたかった言葉を彼(女)が使っているのを見るとくやしい思いがすることもある。学ぶところは多い。「あなたを思うといつも嬉しい心が見える 運命に感謝しよう 出会ったことに 今」(大貫妙子「あなたを思うと」) 言葉が実体をうまく表現できないことがもどかしい。ある言葉の一般的な意味が強ければ、言葉で表した途端に思いは一般化され、僕の思いから遠く離れてしまう。原稿用紙を300枚も費やさなくても短い言葉で伝えたいものだ。
2004年05月08日
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年金問題で福田官房長官が辞めたが菅よ、どうだまいったか、にならないことを願う。ワシントンの桜伝説をよく思い出す。桜を切ったことを父は正直な子である、とほめたというが、初めから桜の木を切ってはいけないのである。米軍がカルバラに進撃したとのこと。米軍は礼拝日に配慮してサドル師の移動への攻撃を控えたというが、まさかこのような配慮が人道的ということにはならないだろう。 英気を十分養った完全オフの翌日は力が漲っていてはりきって講義に行ったのに今日ではなかった。ずいぶん間抜けた話なのだが、先週の金曜日も休みだったので、まさか二週続きであるとは思いもよらず日程表を確認もせず出かけたのが失敗だった。 詩仙堂の前にはタクシーが何台も止まっていた。帰り、門を出ると、「車空いてますよ、どうですか?」と声をかけられた。京都駅まで戻るつもりだったので、もよりの地下鉄の駅までタクシーを利用するのは悪くはない案ではあったが、急ぐ旅でもなかったので運転手さんの誘いをふりきった。しかし何か断ったのがいかにも悪いというような感じでいやな気がしないわけではなかった。親切だけれどおせっかいというべきか。歩いているとタクシーがスピードを落として通り過ぎる。もちろん乗ったりはしない。次のお寺に急いで行くこともなく、道に迷っても途中の景色を楽しみたいから。
2004年05月07日
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ナジャフでアメリカ軍とシーア派の民兵との間で激しい戦闘が始まった。この戦争はこれからどうなるのか、暗澹たる思いである。 1950年10月にアメリカ軍は38度線のはるか北に位置する元山に上陸作戦をやろうとして、そのあたりの海域の機雷を一掃するために日本の掃海艇を動員した。太平洋戦争中に日本の海一円にばらまかれていた機雷を取り除く作業に従事していた掃海艇が行き先も漠然としか知らされないで下関の唐戸桟橋に呼び集められた。この時、一隻の掃海艇が元山沖で機雷に触れて爆沈し一人が亡くなった。これを機会に「能勢隊」という一隊の人たちは現場で会議を開いた。そしてこんなふうにいった。「俺たちは公務員であって軍人ではない。だから戦争には参加すべきではない」。事実上の戦線離脱宣言だった(藤田省三『精神史的考察』平凡社ライブラリー、pp.240-1)。こんな時代もあったことを知って驚く。 オフの日。京都市内を散策。一年分くらい歩いたように思う。新緑がこんなに美しいとは知らなかった。曼殊院、詩仙堂など。
2004年05月06日
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皆既月食が見られるかと思って朝まで起きていたが(もともと仕事で起きていたわけだが)、空は厚い雲が立ちこめていた。 ブッシュ大統領はイラク人虐待事件で苦境に立たされているが、責任者の訴追などの対応くらいではイラクでの反米感情は抑えきれないように見える。私的な虐待、殺人ももとより問題だが(戦争の初期の頃、捕虜となったアメリカ兵の扱いについて抗議をしたのではなかったか)、公的な虐待、殺人といっていい戦争そのものこそ問題にしなければならないと思う。ファルージャの攻撃などひどい話で、民間人の犠牲を最小限に抑えるなどとよくいう、と驚いた。こんなことがイラクで起こっていても日本にはあまり影響がないように見える。政府はこんな戦争を支持したのである。サマワのことは相変わらず伝わってこない。商店街で爆発があったというが。 母の病床日誌を読み返していた。大島病院に転院したのが1981年の11月16日。この病院には見覚えがあって、僕が中学生の時交通事故で入院、その後、退院したが、念のため精密検査を受けた方がいいといわれ、この病院にきたことがあった。母がそのことを教えてくれたとノートには書いてある。ノートは転院する日から始まる。したがって、それ以前の地元の病院でのことは記録に残っていない。「一ヶ月ぶりに外に出る。青空をどんな気持ちで見ていたことか」。この時のことを2000年に僕はこんなふうに歌に詠んだ。茜さす日に目を細め我が母は帰れぬ運命(さだめ)知らず家を発(た)つもちろんこれは後からの思いが入っているわけで、この時は僕とて回復することを信じて疑わなかったのである。この日母がいった言葉が記録してある。「あくびをすると右側に琵琶湖の水の音が聞こえる」。当時、僕はこの言葉を聞いて動揺した。こんなことはありえないことなので、精神に異常をきたしたのではないか、と思ってしまったからである。でも、今ならそんなこともありうると思えるし、きっと母には聞こえていたのだと思えるのだが。
2004年05月05日
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憲法についてはいつも思うのだが、守る努力もしないでなし崩し的に骨抜きにした上で実情にそぐわないから変えなければならないという議論はずいぶんと乱暴である。こんなことならルールというもはいらないのと同じである。成立のいきさつに問題があるという議論もあるが、与えられた(押しつけられた)のであれ何であれ内容こそが問題にされるべきだと思う。生まれた子どもの価値は、子どもが生まれることになった親たちの事情には何ら関係ないだろう。 iBlogの方で名前に言及したフランスの哲学者のジャン・ギトンの『私の哲学的遺言』(新評論)を少し読んでみた。私(というのはギトン自身のこと)が死んだ夜、パリの私のアパルトマンで不思議なことが起きる。静かに死を迎えようとしたいた私は100歳。枕辺にパスカルやソクラテスらが現れる…『神を信じる者と信じない者』(ジャン・ギトン、ジャック・ランズマン)は信条をまったく異にする二人の対話。かみ合わないところがおもしろいともいえる。ギトンはひるまない。私の目からみれば、あなたは子どもです、というギトンは当時92歳、ランズマンは68歳。「私くらいの年齢の人間は、皆もう死んでいるか…あるいは疲れています。私は疲れていませんがね」(p.14)。ランズマンは、正しい人間は若くして死ぬといってギトンにからむが、僕もこのメナンドロスの言葉を想起させるランズマンの言葉にすぐには納得することはできない。また読みたい本が増えたが、今は思うように読めない。そんなことをいっていたらいつまでも読めないのだが。 弟が生まれて間もなく亡くなり、その時母が悲しんでいた姿を思い出した。母は僕に「地蔵和讃」の話をしてくれた。僕は八歳くらいだったのではないか。長く臥せっていた母はいつも泣いていた。その姿が、晩年やはり同じように、今度はひどい頭痛で起き上がれずに臥せっていた姿にそのまま置き変わって僕の中に留まっている。母は自分の人生を生きたのだろうか。
2004年05月04日
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前の家の書斎の整理をしていたら「藤澤令夫先生還暦祝賀会」という冊子が出てきた。1985年7月15日の日付がある。まだ当時使っている人が多かったとはいえないワープロを使って僕が作ったものである。還暦を祝うことを皆で計画していたのだが、5月の恒例の新入生歓迎コンパの席上、先生は自らの還暦を祝って乾杯の音頭を取り、これで一切おしまいで、他には何もする必要はないというコメントが続き困惑してしまった。僕はこんなふうにこの冊子にこんなふうに書いた。「機先を制されたわけです。しかし、そのことに私たちが怯まなかったことは、今日ここに還暦祝賀会を開催できましたことでおわかりかと思います」。ついこの間のことのように思い出される。 イラク人の虐待問題についての報道が続いているが、BBCの記事を読むとasahi.comなどで報じられているよりもはるかに(虐待というよりは)辱め(humiliation)が行われたことがわかり驚く。僕がここに書くのもはばかれるので、新聞などには書かれないのかもしれないが、根底にイラクの人への差別意識があるように思えてならない。戦争が人を追い込むという面もあるだろうが。 三木清の『語られざる哲学』についてさらに書いてみたいのだが、若い時に読んだ時次のような記述にも共感した。「人生に於いて大切なことは「何を」経験するかに存せずして、それを「如何に」経験するかに存するという云うことを真に知れる人はまことに哲学的に恵まれた人である」(p.57)。三木が、悲しみを見つめた者には心の落ち着きがある、といっていることは前に紹介したが、これとて厳密にいえば、悲しい経験に遭うことだけでは、心の落ち着きを得ることができるというわけではない。アリストテレスがいうように、一羽の燕が春をもちきたすのではない(『ニコマコス倫理学』第1巻8章1098a)。経験自体が人を賢くするわけではなのである。若い日、三木の書いたものを読み、経験が足りなくてもいいのだと思ったが、はたして歳だけは重ねた今はどうなのか、と自問すると内心忸怩たるものがある。
2004年05月03日
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仕事が休みになるわけではないのだが、学校や診療所が休みになるので気持ちに少し余裕ができて、久しぶりにiBlogの方の更新をしたりして過ごした。 ファルージャの海兵隊が周辺部へ撤退した。「部隊の再配置」(原語を目下調べているところ)とこの撤退は呼ばれたという記事を呼んだ。名前を変えても実体は変わらないであろうに。鶴見俊輔は徹底的唯名論の立場に立つ。「だいたい日本では、名前がそのまま実体だと思う傾向が強すぎるんだよ。戦争中にある小学校に電話をかけたら、「そんな学校はありません」と言うんだ。何回も言い直させた上で、「こちらは××国民学校です」って言うんだよ。看板をかけかえたら、もう実体も変わったと思っているんだ」(『戦争が遺したもの』p.30)。 三木清の『語られざる哲学』を再読。23歳の時に三木が書いたこの本に思いの外に影響を受けているのに気がついた。僕はおそらくもっと若い頃に読んでいて日記にもたびたび引用しているはず。 例えば、この世界をこんなものだと決めてかかっている人がいる。そんな人は自分の生活があたりまえだと思っているからそれ以外の生き方をしようとする人があれば不思議に思いながら嘲笑する。「彼等が本当に自分自身に生きようとする人、生命の源に立ち返って人生を味おうとする人が悩み、悲しみ、夢みつつあるのを見るとき、彼等は合点が出来ないと云わぬばかりの顔をして大人振った口の利き方をしながら云う、「君達はまだ人生を知らないのだ。現実がどんなものだか分かっていないのだ。」僕は自分がこんなふうにいう人間にこの歳になってもなっていないことを誇りに思う。三木の次の言葉に当時深く納得したものだ。「しかしながら何故に彼等が、自分の心の奥で味うこともなく単に便宜的に観念してかかったもののみが、人生や現実やの如実の姿としてひとり妥当する権利をもち得るかは私には分からないことだ。寧ろ本当に生きようとする人が体験するところのものが人生であり現実であるのではなかろうか」(三木清『哲学と人生』講談社文庫、p.94)
2004年05月02日
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イラクの人質事件の会見の中で、郡山さんがドバイで受けた警視庁の事情聴取について「被害者か加害者かわからなかった」といっている。昨日引いた上野さんの投稿には、東亜日報に「手錠をしていないだけで、彼らの様子は海外から移送された犯罪人と変わりがなかった」と紹介してあった。森住卓さんによると、会見に欠席した高遠さんは「自分がイラクでやってきたことがすべて否定されたと感じて自信を喪失している状態」だという。上野さんが「私たちはあなたたちのような勇気のある市民を持ったことを、誇りに思う」と書いているが、この声が高遠さんに届けばいいのに、と思った。 イラクのアメリが軍兵士がバグダッド郊外の監獄に拘置されているイラク人に虐待をしている写真がテレビで放映され、写真を僕はBBCのホームページで見たが、ブッシュ大統領は「こうした扱いはアメリカ人の本性を反映したものではない」といっていると朝日新聞には報じてある。BBCでは、このような虐待をした人は「我々が海外に派遣した男性と女性の本性を反映していない」と書いてある。いずれにせよ、こういう行為が少数の人が犯した特別のケースであると釈明しているわけだが、記事を読みながらどんなことであればブッシュ大統領は、アメリカ人の本性を反映しているというのだろうか、と思った。報復のために民間人を巻き込んだ形でファルージャを攻撃することは? 昨日書いた国家と市民の区別の必要を感じる。 先週、鍼に行けてなかったので、予約の電話を入れていってきた。「調子いいですね。自分でもわかりますか」といわれうれしかった。連休だというのに(世間的にはということだが)仕事は休めなくてハードな日々が続いているのに。 帰り、書店で『戦争が遺したもの』(鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二、新曜社)。先日来引いている三木清については、1945年9月の獄死がきっかけで、アメリカ占領軍が政治犯の釈放を日本政府に命令したということが書いてある(p.132)。日本はイラクとは違って降服から占領軍がくるまでに若干のタイムラグがあり、その間は特高警察も憲兵隊も活躍していて、内務大臣は政治犯を処罰し、釈放するつもりはなかったという(pp.133-4)。歴史から学ぶことは多い。
2004年05月01日
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