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恩師の藤澤令夫先生が亡くなった。先生には長年にわたってギリシア哲学の指導をしていただいた。不肖の弟子であるけれども、来し方を振り返っていたら眠れなくなって、明け方に訃報の第一報をメールで送ったらすぐに返事があって驚いた。研究室からは離れてしまっていたので先生と長く会っていなかったのである。会う勇気がなかった。まだまだ哲学を究めていかなければならないのに、そんなことをしていていいのか、と叱責を受けるかもしれない、と思っていたからである。博士課程を終えてからアドラー心理学の研究を始め、かれこれ15年も経過してしまった。 しかし、今度『不幸の心理 幸福の哲学』を上梓したのを機会に先生に本を送ろうと思った。これは哲学書であるという自負があったからである。すると先生から「いつのまにかこれだけの文章を考え書いて蓄積していたとは驚き感心しました」という返信があった。「蓄積」という表現は、今度の本が原稿の執筆そのものは数か月だったが、著作の形をなすまでには研究の「蓄積」があったことをわかってもらえ、ギリシア哲学から離れずに今日までこられてよかった、と思った。葉書には入院している、と書いてあったので、見舞いに行った方がいいのではないか、といってくれる人も会った。それなのにすぐに退院されるから、と思ってぐずぐずしているうちに先生の訃音に接してしまった。先生の訃音に接することになった。これでやっと先生に会えると思っていた矢先だったというのに。 毎日新聞の取材を受けることになったがキャンセルの電話があった。鳥インフルエンザの影響で忙しいということだった。次の予定を入れる時、明日(月曜)は僕が駄目なのです、といったところ、「藤澤先生のお葬式ですか?」とたずねられた。「そうなんですが、でもどうして?」「実は私が藤澤先生の訃報の記事を書いたのですが、藤澤先生のことをインターネットで検索したら、先生(僕のこと)のホームページが出てきて、それで(僕が先生に学んでいたことを)知ったのです」。思いがけない話で驚いた。 お通夜の後、先生の棺の前に門下生が集まった。僕も末席に加えていただいた。久しぶりに昔の仲間と会って、先生のことなどを遅くまで話すことができた。悲しくて涙があふれそうになってしまったが、僕は人前では泣けない。でもふと見ると助教授をしている僕が畏敬する若い友人は泣いていた。 先生は最後まであきらめることなく、生きる方向で、「自然に」病と闘った、と最後の日々に会った人たちはいっていた。でも、23日に会った人に聞くと、その日、先生は、本当に悲しそうだった、という。もはや話すこともかなわなったようだ。 今日はこれ以上書けないのでまた改めて。
2004年02月29日
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堺の西陶器保育所で講演。保護者向け講演と職員研修。前半の方の講演への保護者の参加が少なく、こちらにもほとんどの保育士が参加された。保育士(教師)が研修に参加する時、自分も親の立場で(あるいは親と関わる子どもの立場で)話を聞くと雰囲気はよくなるように感じている。教師サイドに立って育児、教育について考えると、いわば自分を棚に上げ、子どもの問題を見ていく傾向があるように見えるが、親の立場で考えるとそんなに簡単に子どもと関わることができないことがわかり、子どもの問題というよりは親子の関係の問題、もっといえば私の問題へと重点がシフトする。そのことによって初めて、子どもの分析というよりは、この私が何ができるか、を見ていくことができるのである。職員研修もこの流れでいい雰囲気の中で学ぶことが多々あった(僕が、ということであるが、参加された保育士さんたちもそう思ってもらえたらうれしい)。 駅まで車で送ってもらったのだが途中でコートを忘れたことに気づき、引き返してもらわなければならなかった。たぶん講演の帰りに忘れ物をしたのは初めてである。講演後もずっと考え続けていたに違いない。エヴィアンの750mlのボトルを三本帰りにいただく。息子に見せると大いに笑われたのだが。 この数日来、問題にしてきた自己完結タイプについて、依存タイプ、自立タイプと対比してまとめられるかもしれない。タイプ別がねらいではない。このことについてはどの本に書いてあるのかたずねられた。どこにも書いてない。「では、誰の言葉?」「僕の言葉」「どうしてそんなことを思いついたのか?」「依存と自立についてはこれまでも問題にしてきたが、その二つの類型に当てはまらないタイプがあることに思い至った。きっかけは『不幸の心理 幸福の哲学』で”他者”について考察したことから(p.32以下など)」「では自己完結タイプの人とはどうつきあっていけばいいか」「それは…ま、そんなに急がずにゆっくりと考えていきましょう」 この問題を恋愛に引きつけて考えられないかと思っているが、特に新しいことをいっているわけでもない。自分が世界の一部であるということを知ることと、自分は注目の中心でなければならない、と考えることでは大きな違いがある。自分が中心でなければならないと考える人が自己完結タイプと仮に名づけた人に相当する。これについてもまた少しずつ。 そう、失恋の話も書かないといけなかった。あなたは私にとって他者であるが、本当はあなただけが他者ではないので、あなたがさよならといった時に世界は終わったわけではないのである(The world did not end when you said good-bye)。でも、それなら、あなたは他の人に置き換えられることになりはしないか。「恋愛においては、相手に代わりはない。他の人が代わりになりうるなら、そういうのは恋愛とはいわない」(p.139)と書いてある、と指摘する人があるかもしれない。さあ、どうするか…
2004年02月28日
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昼から金子書房の菊地さんと天満さんと会う。天満さんは付箋がたくさんついた僕の本を持ってこられていた。初対面だったのでこんな本を書いていると見てもらおうと思って手元にある本を用意していたので驚いた。 松本智津夫(麻原彰晃)被告に対する死刑判決が出た。小泉首相が、死刑は当然というコメントをしたが、三権分立の原則から確定前の判決について評価を述べるのは避けるのが通例なのだが。 前にも書いたが「当然」は当然ではないかもしれないので、感情に流されず考えないといけない問題がある。判決のニュースを見ていた娘がどうしてこんなに裁判に時間がかかるのか、と不思議がっていたが、裁判が慎重でありすぎることはない。裁かれる人が誰であるかということとは離れて考えないといけないこともある。死刑制度そのものについて考えることも必要である。「愛する人が死ぬと、見慣れた風景すらも色あせてしまう」(南木佳士『ふいに吹く風』p.99)。母が亡くなった時にこのことを強く思った。 もう二度と見ることなしとあきらめし母の目ある日忽と開けり 脳圧が高いので意識が戻らないのだろうということで手術をした。脳梗塞で長く意識を失っていた母は目にまで浮腫ができていた。ところがこの手術の後、母の目が開いた。主治医を初め、母に関わっていた看護師たちが病室にきてくれた。あの時、母の目には何が映っていたのだろうか、と今も時々思う。「共にある」(etre avec)が本来的なあり方だとすれば、失恋は自分の完全さを失うことでもある。太陽は何故輝きつづけるの波は何故岸に押し寄せるの世界が終わったことを知らないのだって君は僕のことをもう愛してないのだから この曲は(Arthur Kent, Sylia Dee)「アリーmyラブ」の中で流れていた。「あなたがgoodbyeといった時」世界は終わってしまったのである。さて、どうしたらいいのか?
2004年02月27日
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鍼の日。受付に中根先生がすわっているのでどうしたか、と思ったら、藤木さんが病気でお休みだとのこと。僕はいつも一人でカウンセリングをしているが、先生は一人では大変だろう。週に一度、何も考えないで過ごせる時間なので毎週欠かさず通い始めてもう長い。よくなっていますように。 南木佳士の『山中静夫氏の尊厳死』(文春文庫)。末期の癌患者の最後を看取るという仕事を続けた医師自身が心労のためにうつ状態になる。死に慣れればこんなことにはならないのかもしれないが、僕にはきっと勤まらないだろう。クランケはやすらかに逝く権利があるといっていた医師の友人のことを思い出した。 主人公の医師が息子の一人に語りかける場面がある。「おまえ、よく眠れるか」「うん」「夢なんか見ないか」「見ないよ」次男は小さなため息をついて食器を持って立った。「また、わけの分からないことを言って。少しは子供とちゃんとした話をして下さい」妻はスプーンを中空で止めたまにらんだ。父親が家族の中でも孤立しているように見える。 小説家志望の長男とは少し関係が違う。「人生の悲劇の第一幕は親子になったことに始まっている」こう語る長男の言葉を聞き思わず声に出して笑ってしまった。「誰の言葉だ。やっぱり芥川か」「そうだよ。『侏儒の言葉』だよ」長男はうれしそうに白い歯を見せた。「なに、なにがそんなに面白いの」台所で洗い物を終えた妻が茶の間に入って来ると、また三人の男たちは黙ってテレビに観入ってしまった。ここでは妻が孤立しているように見える。 文部科学省は26日、大学入試センター試験の問題作成者の氏名を、2年の任期終了後、原則として公表する方針を決めたという報道が注意を引いた。今年の「世界史」の設問に「強制連行」という表現が使われたことに反発した自民党議員グループが出題者の公表を強く求めたため、任期終了後の公表には応じざるをえないと判断したということだが、これでは問題の作成を引き受ける人はいなくなるのではないか。政治が学問にこんな形で介入することに驚く。 ソクラテスにとっては関心事は真実を語っているかどうかだけだった、と昨日書いたが、真理であれば説得力はあるだろうが、説得力があっても真理だとは限らない。今日的にいえば、感覚に訴える映像なども要注意である。 帰り、本屋で。南木佳士の『ふいに吹く風』(文春文庫)、森鴎外全集1(ちくま文庫)。南木のエッセイは初めて。「別れる」というエッセイ。別れはつらいものではなく、新しい人と会えるのだから、新しい希望への旅立ちなのだというように簡単に割り切ってもらっては困る。「また会える程度のやつとは別れたってつらくなどない。もう人生で二度と会えないだろうな、と思うような個性と別れるのがつらいのである」(p.232)「別れはふいにやってくる。医者になってから学んだ事実といえばこれだけのような気がする」(p.233)だからこそ、今この瞬間、切に愛したい。
2004年02月26日
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朝早く起きたつもりだが、もう誰もいなかった。ダイニングにやさしい日の光が差し込んでいたのでiBookを持ち込んで、カウンセリングが始まる夕方まで仕事をすることにした。時間はたっぷりあったはずなのに、あまりはかどらなかった。あっという間に夕方。そして朝方まで仕事。毎日、こんなことの繰り返しである。 昨日書いた自己完結の話の続き。「…それで試すつもりで、メールを出さなかったり電話をしなかったりするの」「でもメールもこないし、電話もない」「そう」 自己完結型の人は、メールがなくても電話がなくても充足していられるのだろう。 僕はメールを書きたくて書きたくて、電話でもかけられるものならかけてみたくてしかたない方だが、これでは依存なのかもしれない。会ってなくても不安ではなく、ずっと安心感がある。会ってない時も会っている時と同じくらい気持ちは安定している。しかもその上でなおできるものなら話がしたい。できなくても平気だけれど話ができたらうれしい。なぜなら「共にいられる」時(quand ju puis etre avec toi)、自分は完全でいられるから…苦しくて耐える恋にはあらずして心潤ふを願ふと君は 日記に何度も書いているが、ソクラテスにとっては説得力があるとか、美辞麗句で飾られているということは問題にならず、関心事はただ一つ真実を語っているかどうかだけだった。プラトンの『ソクラテスの弁明』の冒頭は、こうである。「アテナイ人諸君、諸君が私を告発した人からどんな印象を受けたかはわからない。しかしこの私はといえば話を聞いていてもう少しで私自身を忘れるところだった。それほどまでに説得力をもって彼らは話していた。しかし真理はといえばほとんど何一ついわなかったのである」(17a) これこれということは当然ではないか、とか、誰の目にも明らかである、というような言葉、また感情に訴えるような言葉にとらわれないでいたい。『文藝春秋』三月号を読み始めた。
2004年02月25日
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講演と学校の講義がないと、カウンセリングはあるけれど、朝ゆっくり寝られるので仕事を終わる時間が遅くなる。寝るのが惜しいという気がすることもあるが、無理をすると次の日にさしつかえるので無理矢理眠ることになる。八時に起きるという話をある時したら(早く起きているという意味で)、それは普通の人にとっては少しも早くはないといわれたことがある。たしかに医院に勤務していた頃は八時に起きていては間に合わなかった。仕事をする時間など一切誰にも何にも縛られないがそれだけに厳しいといえば厳しい。 息子のことで昨年取材にこられた毎日新聞の林さんが取材にきたい、と。本の紹介だけではなく、哲学の道に進んだ経緯を含め、人物紹介ふうの記事にしたいといわれる。前の取材の時も楽しかったので、今回も楽しみにしている。 英語を長年学んでいるが思うようには身につかない。今読んでいる文献の英語はむずかしいので投げ出したくなってしまうことがある。オーストリアからアメリカに活動の拠点を移そうとしていた五十代半ばのアドラーは英語の壁にぶつかった。英語の学校に通って勉強するということもしている。しかし困難に屈することなく勉強し、今日残っている後にアメリカに渡ってからは車の免許も取っていることに驚く。アドラーの英語でのスピーチを聴くことができる。文字に直したのがあって紹介しようとしていながらまだできていない。これは近日中に。 僕の大学の教え子でギリシア語もラテン語も読める若い友人がどうやら英語に苦手意識を持っているようで驚いたが、格変化がめんどうだったり動詞変化が複雑だということはないのに(あるいは、ないから)英語がむずかしい理由をたくさん説明した。文法の不規則性と語彙が豊富であることが大きな理由である。もう長く勉強しているのに、辞書を引かないで英文を読めない。困ったことである。 人間は本質的に<…と共にある(etre avec…)>という在り方をしていてもともと他者と共にある」のだから、自己は他者と共にあって初めて完全であることができるということを書いてきたが、失恋すると自己の基盤が危うくなってしまうわけである。 他者と共にあることで人は完全であると僕は考えているのだが、自己完結的な人は多いように思う。自己完結している人は、相手と共にいることが自分のあり方に何の影響も与えない。私は相手を本質的に必要としていないわけだから、相手からのアプローチがあればそれを受けるけれどもこちらからは動かない。相手が自分に興味を持てば自分の話はするが、相手のことには興味がないのでこちらからはたずねない。恋愛において相手に依存するのではなく自立していることはたしかに必要ではあるが、こんなふうだとそもそも恋愛はその人にとっては必ずしも必要ではないのかもしれない。人間の在り方は、本質的に<…と共にある(etre avec…)>という時、もちろん恋愛に限るわけではない。
2004年02月24日
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思うように仕事が進まず気ばかりあせる。自分の力を越えるような仕事が与えられることはない、といつも自分に言い聞かせてこれまで何とか乗り切ってきたのだが。 昨日、森有正の次の言葉を引いた。「かれは本質的に他との関係を自ら意識しながら生きる人間である。かれはすべてを自分を中心として考え、自己が見事に動く姿を点出する。他のすべての人物は自己の活動を引きたてる背景としての意味しかもたない」(『ドストエフスキー覚書』pp.107-8) プラトンの『饗宴』に登場するアルキビアデスはこんなふうに思う。いまだわが身に多くのものを欠きながら、それでいて、自分自身のことはそっちのけにして、アテナイの国事に携わっていることをソクラテスは否応なく認めさせるに違いないと恐れ、いっそのことソクラテスがこの世にいなくなったのを見れば、その時はどんなにうれしいだろう、と。もとよりこれはもちろん本当の気持ちとは裏腹のものである。アルキビアデスに語らせるこのような気持ちは若いプラトン自身のものだったと思われる。後に実際にソクラテスが処刑されこの世からいなくなった時のプラトンの気持ちはいかなるものだったか。プラトン二十八歳の時のことだった。 問題は、イリューシャの病床でコーリャが話す時に、コーリャはアリョーシャの一挙一動がなぜか気がかりでならなかったように、いつも「すべてを自分を中心として考え」ているところだろう。「コーリャは気取っていい、ちらっとアリョーシャを見た。この席で彼の意見だけを恐れていたからだ」 アリョーシャは終始、沈黙しており、その沈黙を、コーリャは、軽蔑のしるしかも知れない、と考えていた。いつも自分がどう思われているかを気にしていても、実のところまわりの人は自分が思っているほど気にかけてないかもしれないのである。気にかけてもいいかもしれないが、せめて肯定的に評価されていると見ていけない理由はない。おめでたいといわれることになるかもしれないが。大方は自分のことを否定的に見られている、と思うのである。 実際には、アリョーシャはコーリャを軽蔑していたのではなかった。むしろ、アリョーシャはコーリャのことを「ゆがめられてこそいるけれど、素晴らしい天性の持主」として賛美した。コーリャはそんなふうに思われているとは夢にも思っていなかっただろう。人から自分について肯定的にいわれていることを受け入れることは、人生が変わる大きなきっかけになるかもしれない。そのためには勇気がいるだろうし、そんなことをいい、かつ、その言葉を受け入れることができるような他者との「邂逅」が必要である。 早熟で生意気なコーリャは、アリョーシャとの邂逅によって、次のようなことをいうようになる。それ以前のコーリャには考えられないことである。 「このニコライ・クラソートキンに命令できる存在は、全世界に一人きりしかいないんです、それがこの人ですよ」そういうと、彼はアリョーシャを指差した。「この人には服従するんです」 対人関係の支配、被支配関係のことが意図されているわけではなく、命令に服従するといっていいくらい、自分ではない他者の存在を肯定し、そのことで自己中心性から脱却できたということである。 そうなると、コーリャは自分を「えらいやつ」に見せようとする必要はもはやない。これまでのことを正直に告白し、その際、アリョーシャが自分のことを軽蔑しているであろう、と憎しみさえ覚えた、という苦しい告白をしたコーリャは忽然としてアリョーシャに邂逅したのである。コーリャはいう。「あのね、カラマーゾフさん、僕らのこの話し合いは、なんだか恋の告白みたいですね」 恋愛において人は他者と「邂逅」する。 2003年3月25日の日記に土岐善麿の歌を取り上げたが、今日の朝日新聞の夕刊に歌人の篠弘氏が土岐の歌の次の歌を取り上げている。 遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし1940年に出た歌集『六月』の代表歌で、中国のセンチから、朝日新聞の論説委員室に送られてきた写真を見ながら、敵味方を問わず、若い命の痛ましい死を悼んで詠んだ歌だが、「死体」という言葉を使っていることから(敵には「死体」「むくろ」であり、味方には「かばね」「亡骸」という言葉を使わなければならなかった)、この歌は愛敵思想であり、非国家的行為と見なされ非難されたという。 アナン国連事務総長の発言は不可解である。
2004年02月23日
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今しも雨が降り出しそうな天気だったが、娘が出かける時間にはまだ振り出さなかった。自転車だと途中で雨に降られたら困るということで、車で送ってもらうことになったようだ。しばらくして娘が帰ってきた。「携帯電話を取ってくれる?」と娘。いつもは友達と出かける時は携帯を持っていかないのだが、帰る時に電話をしないといけないので必要だということである。娘にとって携帯は親が娘の居所を突き止めるためのものではなく、友達と話したりメールのやりとりをしたりするものであるから、その当の友達と一緒にいる時は携帯はいらないという娘の理屈はよくわかる。恋人同士なら離れている時はいるが、一緒にいる時には携帯はいらない。一緒にいる時の携帯の着信は二人の関係を険悪なものにするかもしれない。 苦手な確定申告の準備。一体後何日かかるのだろう。毎日日記を書くような感じで、毎日きちんと記録していれば今になって慌てる必要はないのに毎年こんなことになってしまう。 以下に書いたことの要旨: 人は本来他者と共にある存在であり、他者との邂逅(出逢い)によって、世界は自分を中心にめぐっているという考えを脱却することができる。==== 木田元の『偶然性と運命』(岩波新書)の第四章を読む。この本については8月2日の日記で触れた。偶然の出会いが後に必然のもの、運命的なものに思えるとしたら、後になって出会いが自分にとって意味のあるものになったのでそう思えるので、その出会いが何ももたらさなかったらただ忘れ去られるかもしれない。木田は「過去の再構築化」という言葉を使っている。 この章は「二つの出逢い」と題され、ドストエフスキーの作品から出逢いの物語が採り上げられ、偶然の出逢いがどのようにして運命に転ずるか、その時、人の内面で何が起こるかが考察される。このうち、『カラマーゾフの兄弟』の中のコーリャ・クラソートキンとイリューシャ(および、イリューシャを介してのアリョーシャ)の出逢いの方について少し感想を書いてみる。『カラマーゾフの兄弟』には三男のアリョーシャと一群の少年たちが織りなすささやかなドラマがある。この本はストーリーが多重的に進むのだが、このドラマだけを取り出しても十分面白い作品になるだろう。 木田は予想通り、森有正の『ドストエフスキー覚書』を採り上げている(『森有正全集』第8巻所収)。木田は二十歳の頃、森の「珠玉のような評論」(p.177)を読んで鮮烈な印象を受けたという。僕も同じで「「邂逅」するということ」という短いエッセイを若い頃書いたことがある。HPには一部だけ引用した。邂逅という言葉を僕は高校生の時に初めて聞いた。こんな言葉を知らないだろう、と宗教の先生に教えてもらった。森は、「邂逅」を他の人とは置き換えることができない、無二の存在として会うという意味で使っている。 (ストーリーを紹介する余裕は今はないのだが)木田はコーリャは、観念的な自我との関わりに囚われていた自己閉鎖を打ち破られ、他者との生きいきとした関わりに引き出されたようだ、といっている(p.191)。何によってか。「邂逅」によってである。 13歳のコーリャは独立した対等の人間であることをアリョーシャに示さなければならない、と思う。しかし、背が低いことをひどく気にかけて入る。その気にかけようはかつての僕を見ているようでもあり興味を引いた(岸見『不幸の心理 幸福の哲学』p.112, 114)。森はこんなふうにいう。「かれは本質的に他との関係を自ら意識しながら生きる人間である。かれはすべてを自分を中心として考え、自己が見事に動く姿を点出する。他のすべての人物は自己の活動を引きたてる背景としての意味しかもたない」(『ドストエフスキー覚書』pp.107-8)。 そんなコーリャが邂逅によって自己閉鎖、あるいは自己中心性を打ち破られる。生き方の方向がはっきりと変わり、邂逅が運命になった。邂逅が自己閉鎖を打ち破り、コーリャは回心することができたのである(木田、pp.192-3)。 木田は次に森の「パスカルにおける愛の構造」という論文を引きながら次のようにいっている。人間は本質的に<…と共にある(etre avec…)>という在り方をしている。「人間はそれぞれが孤立して存在しており、その上でやはり孤立した他者と出逢い、共存の関係に入るというのではなく、もともと他者と共にあるのである」(p.195)。人間は「もともと他者と共にある」のだから、自己は他者と共にあって初めて完全であることができる。それなのに、「意識に投影された観念的な自己が、本来<他者と共にある>その存在の<他者>にとって代わり、<自己―自己>という構造が形成され、他者はこの<自己―自己>にとっての客体の位置へ押しやられてしまう」(pp.198-9)。しかし、邂逅はこのような自己閉鎖を打ち破る。<自己―自己>の構造を打ちこわし、再び<自己―他者>の構造、<他者と共にある>本来的な存在が回復される。アドラーが「自分への執着」(Ichgebundenheit)を問題にするのは同じ問題意識によるのだろう(岸見『不幸の心理 幸福の哲学』p.125)。
2004年02月22日
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午前中のカウンセリングの予約がキャンセルになったので安心して遅くまで仕事をしたていたら案の定朝起きられなかった。一度だけ必ず目が覚めるがその後の眠りは深い。夢を見ているようだが目が覚めた時何も覚えていないし、朝起きた時ふと感じる陰鬱な気分はなくなった。生活がまた仕事を中心にめぐるようになったことは大きいかもしれない。 iBlogの日記に「知の飛び火」という題で「わかる」とか「知る」ことについて少し書いてみた。「突如として」知が「飛び火」(プラトン)のように飛び込んできて、なるほどそういうことがわかるということがある。プラトンの師であるソクラテスは言葉で対話することを重視したので意外な感じがしないわけではないが何かの拍子にふとわかるという感じはよくわかる。 本の原稿を書いている時はよくあることである。翻訳の仕事だと初めからゴールが見えていて、原著の最終ページまで訳さないと終わらない。ところが本を書く時は違う。もちろん原稿用紙にして300枚くらい書かないといけないわけだから一日や二日では当然書き上げることはできないが、何日も何日も一行も書けないままに苦しい日を続けていると、ある日、ふいにすべてが見えてしまう。その後もそれほど簡単にはことはすまないけれども、わかったという思える瞬間が訪れないといつまでも書き終えることはできない。締め切りがあれば多少はこのような瞬間が早く訪れることもあるが、締め切りが過ぎても書けないことはありうる。締め切りを守らないと社会的生命を抹殺されるからそんなことは許されないのだが。 ではわかったと思えたらそれで終わりかといえばそうではない。わかったことを書く必要がある。プラトンは(前にどこかに書いたが)知と無知の間に「正しい思わく」を設定する。これは例えば、道を聞かれた時にわかっているけれども言葉で説明できないようなものである。道を知っているから過たずその場所に他の人を案内することはできても、言葉で説明できなければ、真に知っていることにはならない、とプラトンはいう。「説明する」という言葉はギリシア語ではλογον διδοναι(logon didonai)という。「言葉」(λογοs ロゴス)を与える、という意味である。言語のロゴスは、理性という意味もある。書けなければわかっていることにはならない。わかっていることだけが書ける(しかし、逆に、書けてもわかっていないことはある)。 友人と話している中でこんな話になったことがある。私は感情移入が激しすぎる、だから映画を観てもひどく疲れる、と。「では、カウンセリングとかは無理かも」といったのだが、アドラーであれば相手の立場に身を置くということはそんなに簡単なことではない。覚めた人なら映画を観て泣く人を他人事なのにと笑うかもしれないが、感情移入する人は冷静には観られない。カウンセリングの場合は、しかし、あまりに感情移入が激しいと冷静な判断はできなくなるかもしれない。僕はもともと哲学を学んできたからあまり感情的にならないかもしれない、と話を聞いていて思った。そう思いながらけっこうこたえることがあって、僕を殺すには刃物はいらないな、と思うことがよくある。 掲示板で愛と恋愛について話題になっているが、ソクラテスならそれぞれの言葉の意味を最初にはっきりさせようとするだろう。愛についていえば、愛といわれる様々なケースを通じて同一のものを見て取らなければならない。ソクラテスが登場するプラトンの対話篇を読んでおもしろいと思うのは、このような定義を求める試みが必ずしも成功しないということである。最後には定義を求めたけれどもその試みは失敗して終わる。ではそれまでの対話がすべて無意味だったかといえばそうではない。このような対話を通じて、わかる、わからないは、経験の有無には関係しない。経験があることは理解の助けにはなるかもしれないが、経験があるからわかるわけではない。大拙と美穂子さんが年齢があれほど違っても語り合え、また、僕が恋愛の経験が貧しくとも恋愛について語れる所以である。
2004年02月21日
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「MOKU」に掲載される原稿の校正を遅くまでしていたので、午前中カウンセリングがなかったこともあって起きるのが遅くなってしまった。原稿はインタビューを纏めたものだが、『不幸の心理 幸福の哲学』に書いたことを元に、書くのとは違って肩に力を入れないで気がつけば三時間以上話していたことが、よくまとめてあって僕は満足している。できれば多くの人の目に止まればいいのだが。 今度の本に高校生の時に倫理社会の蒲池先生に出会い、強い影響を受けたことを書いた(p.59以下)。もとより鈴木大拙と岡村さんとの関係とは違うのだが、強い影響を与える先生に邂逅したことがその後の人生を決定的に変えてしまったであろうことは想像できるように思う。先生はお前の方を見て授業をしている、と同級生にいわれたりもした。思いがけず早く亡くなった先生からは高校を卒業した後学ぶことはできなかったが、今に至るまで先生の言葉が生きた力になって働いているというのは驚くべきである。もっともっと哲学のことを教えてほしかった。 11月24日の日記に先生が戦後、公職追放になったということを書いた。先生は、西田幾多郎や田辺元らの講義に出ていたはずだが、その頃の京都大学の哲学科のことを口にすることはなかった。しかし、公職追放については、公務員として上司の命令をきくことは絶対であった、我々よりも上の役職にあったものは公職追放を免れた、とめずらしく声を強めて話したことを覚えている。今日の情勢を見た時、先生なら何というだろう、とよく思う。サマワの付近で劣化ウラン弾と思われる砲弾が見つかっていたことが明らかになり、福田官房長官は「陸上自衛隊の活動には影響はない」としているが、12月の段階でわかっていた情報が今になって明らかになることが不思議であるということはおいておくとしても(この件については森住卓氏が12月に報告されている)、このことが明らかになっても被爆を怖れて帰国することは許されないのだろう。 去年の12月8日の日記に井原西鶴の『武道伝来記』について少し書いた。巻八第三の「播州の浦波皆返り討ち」というのを読んでみた。この話の中に織り込まれるサイドストーリーがなかなかおもしろく興味を引いた。 簡単にまとめると、牛俣弥二郎に嫁いだ樗木工弥(おうちもくや)の娘は自分も弟たちと同じく親(=木弥)の敵を討つ決心をする。夫に離縁を乞うが、夫も敵討ちに協力することを申し出、まずは居所も知れない敵を討つのには資金が要るだろう、と一生懸命働くが、思うようにたまらず妻がある日不満をぶつけた。 妻は夫にこういった。私が男に生まれていたら今までこんなふうにいつまでも働いてないで本望を遂げることだってできたはずである。そうしないのは私の親は所詮他人なので敵討をしようという気持ちが薄いのだろう、性根のすわった人に今こそいてほしい云々。それはないだろう、と僕は思ってしまうが、悪口をいわれたことに腹を立てた夫が妻と娘を刺し殺し自害したというのもなかなかすさまじい。女性の方が現実的ということかもしれないし、目標(つまり敵討)を見失ったらこんなふうな悲劇的な結末を迎えることになるということかもしれない。 サイドストーリーながらこの話の冒頭にある「人は地道なるこそよけれ」という言葉からすると、西鶴自身はこの夫を賞賛しているように見える。敵討には大変な経費がかかることがわかると、身を落としてまでも資金を工面するために仕事に励んだ。しかし思うように金がたまらないことに我慢できない妻は夫をないがしろにする悪口をいい、そのために二人の六歳の娘までも巻き添えにして一家心中をすることになったが、もしも地道(じどう、と読むようだ)であればこのような結末を回避できただろうといっているのかもしれない。
2004年02月20日
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いくかの締切のある仕事が重なり、少し追いつめられた感じがする。一番、早い締切があって、しかも、仕事の結果が一番早く出るのは、前にも日記に触れた「MOKU」三月号の記事。定期購読者のみに配布されるので書店では手に入らないのは残念だが、それでも僕の感覚では多くの人の目に触れるので、僕の新刊の『不幸の心理 幸福の哲学』に興味を持つ人があればうれしい。今日、「幸福と不幸を分ける「私自身」」という題の原稿が届いた。先日の三時間余りのインタビューをまとめたものである。原稿もメモもなしに話したものが文章になっているので、はたして論理的に話せているか気になる。原稿用紙(四百字詰め)に換算して三十枚くらい。 昨日、書いたサンドバッグについて反響があったので少し付け加えておくと、カウンセリングの時は決してこんなふうにはならない。あくまでもプライベートでの話である。在る意味で信頼関係があることは必要で、僕自身は人に感情的になってぶつかるとか、今自分が話している相手を、今関わっていてうまくいかない当の人のいわば身代わりとして見て、代理喧嘩のようなことは決してしないが、相手がそんなふうに思って僕にぶつかってきても受けることはある。 鈴木大拙の『禅と日本文化』(岩波新書)が本棚にあった。1971年発行の第31刷である。この年に買ったのかはわからないが、1971年なら15歳の時である。あちらこちらに書き込みがある。それらを見ると、どうやら禅のモットーである「言葉に頼るな」(不立文字)に興味を持ったようだ(p.7)。今は、この立場とは対極のところにいるのだが。この本を読んだ後かなりしてからギリシア哲学に学んだ結果である。今読み返したら高校生の頃とはまったく違った理解をすることになるだろう。 稀に、月を指さした時に、指の先を見てはいけない、その指が示す月を見ないと、という話をすることがある。この話は『禅と日本文化』にあった記憶があるが違うかもしれない。言葉を離れて思考することはできないが、言葉に囚われてしまうと本質を見失うということはあるだろう。だからといって一気に言葉はいらないということにはならないのだが。 昼から中根先生のところで鍼。疲れてますね、と今日もいわれてしまった。81歳の大拙と15歳の美穂子さんとの邂逅の話を先生としていたら、「それは恋愛というより愛ですね」と先生。そこで話は終わったけれど、僕は帰る時、考えていた。今の僕の年で80歳を超えた自分を想像することはできないけれど、身体はともかく精神的にはその年になっても今とそう変わってないのではないか。もし、今、僕が若い人に恋愛感情を持つことがあるとしたら、大拙くらいの年に若い人に恋愛感情を持つとしても少しも不思議ではないだろう、と。あるいは、大拙のような人であれば、若い時から、中根先生がいうような「愛」で人に接していたということは考えられる。それならば恋愛と愛を区別するのはあまり意味がないかもしれない、等々。 iBlogの日記に「愛と所持、あるいは所有との関係について」少し書いてみた。
2004年02月19日
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複数の仕事に同時進行でかかり始めたので(そんなことは当たり前のことなのかもしれないが)あせらないように気をつけている。 この数日、『救急精神病棟』(野村進、講談社)という本を読んでいる。患者さんとのトラブルは多いことが報告されているが、スタッフは油断をした自分のほうが悪い、とか、患者さんのせいじゃない、患者さんが罹っている病気のせいなんだ、と自らに言い聞かせるという話があって、ふと母が晩年、ひどく感情的になってよく怒っていたことを思いだした。 母が怒り出すと、僕としてはそんなに怒られるようなことをいったつもりはなかったので困惑するばかりだったが、ほどなく母が脳梗塞で倒れてから、温厚だった母があんなふうになったのは病気の影響があったのだろう、と思い当たった。ごはんのお代わりをして茶碗を母に差し出すと、母は必ず他の家族に茶碗を返した。それを見て笑ったりしていたものだが、時折、激しい頭痛で寝込み始めたのもこの頃だった。その頃、受診していたら死なずにすんだかもしれないと思ったが、病院に行くことを極度に拒んでいた母を説得できたかはわからない。 僕自身は、自分の不機嫌を身体的なもののせいにするつもりはないけれども自分のコントロールができなくなる時がこないとは限らない。他の人が不機嫌だったり怒ったりしても寛容でいたいと思っている。電話の後で「さっきはあたってごめん」というメールがくるとかえって驚くくらい心は乱されない。サンドバッグになるのは慣れている。
2004年02月18日
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眠り 寒い一日。カウンセリングに来られる人は、皆、寒かった、と。夜、よく眠れなかった。この頃の大きな変化は部屋の電気を消して寝ること。前は横になって本を読んでいていつのまにか意識を失っていたが、今は本を読むのを止め、電気を消す。ほぼ瞬間的に眠りにつくようだ。妙な夢を見て目が覚めた時、咽がひどく乾いていることに気づき水を飲んで再び眠りについた。 眠りといえば、鈴木大拙は、毎日、一日中働きづめで、あまり眠らなかったが「そのかわり、お疲れになりますと、いつでもちょっと椅子によりかかって、しばらく眠ってしまわれます」(岡村美穂子『鈴木大拙とは誰か』p.2)「猫が眠る。大拙先生も眠る。猫の眠りが大拙を眠らしめ、大拙の眠りが猫を眠らしめる。猫は大拙先生を眠り、大拙先生は猫を眠る。ソファーも眠り、机も眠る…」 哲学者の田中美知太郎は、眠りについてこんなふうにいっている。「ふと夜中に目をさまして、胸に心臓の鼓動を聞く時、自分が死の間近に眠っていたことを感じたりする。われわれの意識的な生の底には眠りがあり、この眠りの底には死がある」(『田中美知太郎全集』7巻、p.92)心を通わせる言葉 古い日記(2002年6月20日)に、鶴見俊輔が、鈴木大拙が、アメリカ人に禅の公案について質問を受けるとゆっくりと考えて返事をしたことに言及し、「ものすごくゆっくりだけど相手がはっと思うようなことを話す。彼の英語はとても立派でした」といっていることを紹介したことがあったのを思い出した。 大拙は妻のビアトリスとは最後まで始終英語で話した。既に十年を超えるアメリカの生活で英語は外国語ではなくなっていたが、ビアトリスとの生活で「英語は単に仕事の言葉ではなく、生活の言葉、しかも単に生活の言葉ではなく、心を通わせる言葉になった」(上田閑照「鈴木ビアトリス婦人」『鈴木大拙とは誰か』所収、p.230)。 ビアトリスが亡くなったのは1939年、61歳だった。この時、大拙は69歳。その後、大拙は27年生き延びる。ニューヨークで彗星の如く、岡村美穂子と出会うのは1951年。二人も終始英語で話したという。この二人の英語も心を通わせる言葉だったのだろう。
2004年02月17日
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京都市内の家庭教育学級で講演。先週の金曜日に講演の案内のチラシが配られたらしく参加者が少なかったとのことだが、熱心に聴いてもらえた。心理学の話なので難しいと思っていたがそんなことはなかったという感想をいただいたが、講演の案内の中の講師プロフィールにアドラー心理学研究者とあったのがいけなかったのだろう。間違いではないけれど、今日は思春期の子どもを持つ親として話をしたいと最初に断らなければならなかった。 講演の題は僕の本を読まれたPTAの会長さんが僕の本から見つけた「優しくきっぱりと」というものだ。特急に無賃乗車した客に車掌が毅然とした態度で注意したという話(毅然とした態度と威圧的な態度は違うという話の連関で出したエピソード)を受けて、制服を着ていかない子どもにも毅然といわないといけないかという質問があって、少し答えに窮してしまった。学校の先生も聞いてられるからなのだが、無賃乗車と制服の着用は同じ次元では論じられないと答えた。これについては今日触れられなかった領域に踏み込んで話をしないといけない。 講演後、校長室に招かれたが、部屋に入るまで僕の前を無言で歩かれる校長先生の後ろ姿を見て不安になった。部屋に入ってしばらく先生と話した。心配は無用だった。先生方には耳の痛い話が多くてどうかと思ったが、よく理解してもらって安堵した。 帰宅後、息子と講演の話を長くした。めずらしく聞いてくれて、的確なコメントをしてくれた。教師はわかる授業をしないといけないというと、生徒は他の何よりも教師の授業を見るものだ、と。生活指導以前の問題がある。 岡村美穂子はいう。「先生は、あたかも本来いなかった人のように、どこにも跡を残すことなく、消え去られました」(『鈴木大拙とは誰か』p.33)。服にも愛用の文具にも、写真、本にも。しかし外に出た時わかった。「ふと、そばにある松の枝が風に吹かれるのを見た瞬間、「ははあ、これだ。先生は」と本物に再会できた気持ちになれたのです。それ以来、心静かにしていると、あそこにもここにも、道ばたに転がる丸太にさえも先生の姿を見つけられるようになったのです」(pp.33-4)。 帰り聞いていた曲の中のaikoの「今度までには」の歌詞。「凍える夜は震えてないかって心配だけど眠れないけどそんなことはあなたは知らなくってあたしの思いもあたしの涙も幻なのか」。何も求めない。これでいい。
2004年02月16日
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寒い日だったが今日も外へ。ギターの楽譜を手に入れたが僕の手には負えないものがほとんどで、歯が立たない。「Summer」(『菊次郎の夏』テーマ曲)は難易度Cになっている。 風邪が家中で蔓延。僕と娘は平気だが。娘は体温計を脇に挟み何度も計っているが思うように上がらなくて残念がっている。「ねえ、どう思う?」「どうしたの?」「熱、下がってしまった」。 昨日、手に入れた『鈴木大拙とは誰か』(上田閑照・岡村美智子編、岩波現代文庫)を読み進む(iBlog版日記に少し書いた)。 鈴木大拙(1870-1966)が晩年住んでいた松岡文庫は東慶寺の門をくぐり、庭を通り抜け、百三十段の石段を登らなければならなかった。大拙を訪ねる脚は大抵途中で息を切らしてひと休みして登ってこなければならなかった。ある新聞記者が尋ねた。「先生はお出かけの度にあの石段を上って帰られるのですか」。九十歳を超えていた大拙は答えた。「一歩一歩上るとなんでもないんだ。いつの間にか上っているんだ」 晩年の大拙の秘書として世話をした岡村美穂子はいう。「ゆっくり、ゆっくりというのではなく、一歩一歩です。現実を確実に一歩一歩というのが身についておられたように思います。大拙先生があわてて急ぐお姿は思い出せません」(p.281) 一歩は速度の問題ではなく、今ここに完全に立つことである。そこからすべてが始まり終わっている。一歩一歩は大拙の生き方そのものだった。 岡村がある時悩んでぐずぐずしている様子を見て大拙はいった。「美穂子さん、一歩先に進むんだ」。「たしかに一歩先にゆくことで思いも寄らなかった新たな光景が開かれているくることを体験しました。先生が普段から言っておられた、「道はまだ遠いんだ。さっさと先へゆくんだ」というお声が聞こえてまいります」(pp.283-4) 大拙の主治医は日野原重明だった。血圧が異常に高いことに驚いた日野原はいった。「大拙先生の場合、血圧の高いということが、お仕事ができるということなのか。お仕事をされるから高くなるのか、どちらなのか判断しかねます。不思議ですね」(p.192) 岡村はこれを聞いて、日頃の様子から、ある種のバランスがとれているのではないか、と感じた、といっている(p.192)。230はあまりに高いように思うが。働きづめの一日、睡眠は六時間足らずだった。 岡村が大拙に初めて会ったのは十五歳の時。大拙は八十一歳だった。「早熟で生意気な子ども」(p.27)だった岡村は「大人のどこが偉いんだ。どれ聞いてみるか」とコロンビア大学で開かれた講演を聴いたのである。華厳哲学についての話は理解できなかったが、講演に臨む大拙の様子は十五歳の少女の目に鮮烈な印象を伴って焼き付いた。 この後も講演の聴いた岡村は、少しでも先生の関心を引きたいと思って、休憩時間に質問をした(この時の質問についてはまた機会があれば別の時に)。大拙は翌日の三時に滞在先にくるように誘った。岡村は日頃の悩みや不満を大拙にぶつけた。「人が信じられないのです。生きているのが空しいのです」。大拙は一言「そうか」と頷き、「手を出してごらん」といった。そして手を広げながらいった。「きれいな手じゃないか、美穂子さん。よく見てごらん。仏の手だぞ」。そういって大拙は涙を浮かべた。
2004年02月15日
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今日はカウンセリングがあって暖かい日だとは知らなかった。メールの中に、出掛けてもマフラーが必要なかったと書いてあって、そうか今日は暖かいのだ、と思った。夕方、出かけようと思って外を見たら雨が降っていた。別にどうしても今日でないといけないわけではなかったが、この街では比較的大きな本屋に行った。掲示板に今夜『ラブレター』(岩井俊二監督)という映画が放送されると書いてあって、調べてみたら角川文庫に原作本があることがわかったので探しに行くことにしたのである。 本は手に入れたが、本は読まないで映画を観た。 脈絡なくいろいろなことを考えた。「忘れられない人がいる。どうしても会いたくてまたここへくる、想い出の場所へ。その人のために今は何もできない。どんな小さなことも、あんなふうに」(小田和正「緑の街」) 映画では同じ男性の想い出を共有する二人の女性が出てくる。映画の筋とは関係なくふと母のことを思い出した。母が亡くなってから十年、二十年経っても母のことを覚えているという人にふいに出会った。その人の語る母のことを僕は知らなかった。 中学校時代の彼についての挿話は、二年前に亡くなった恋人のことを忘れられない博子にとって知らないことばかりである。当時のアルバムの中に博子は恋人の姿を見つける。そして彼の初恋の女性の姿も。その彼女が自分に似ているか、と博子は義母(恋人の母)にたずねる。「似てたら……許せないですよ」。そういって涙を懸命に飲み込んだ。無意識かもしれないが、一目惚れと思っていても、初恋の人の面影を今の恋人の中に見ようとしているということはあるかもしれない、と思った。だからといって初恋の人に嫉妬しなければならない理由はないと思うのだが。 映画の後、監督の岩井俊二がこんなことをいっていた。(恋する)相手を自分のものだと思っていても、相手は自分の知らない世界をもっている、と。
2004年02月14日
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『不幸の心理 幸福の哲学』の中に、神に呼び出されるという意味での「仕事」(Beruf, calling)について書いた(p.191,193)。芹沢光治良は留学先のフランスで結核になり長く療養生活を送った。その間に神の求めにしたがって作家になる決心をした。芹沢にとって作家は、まさに天職だった。 帰国後、農商務省への復職は認められず、中央大学に勤めたが、小説家になる夢は捨てられなかった。そこで『ブルジョア』という小説を書き、総合雑誌「改造」の懸賞小説に応募したところ、一等に当選した。ところが昭和初期の日本で小説家は、今とは違って、社会的に認められていなかった。父は「フランスの生活なんて、夢か、あの世のこととして、みんな忘れちまえ」とまでいう。 やがて朝日新聞に小説が連載されると、中央大学の学長は芹沢を呼び出し、近い将来、教授になることを約束された芹沢が小説を書くことを認めない。「君、日本では文学や小説が、社会に害悪を流していることが、常識だよ。ペンネームであれ、本名であれ、その張本人が、当大学の教授であることは許されんのだ。この際、君には当大学をとるか、何れか、はっきりしてもらいますよ」。そういわれた芹沢はためらうことなく、文学の道を選んだ。「やむを得ません。それなら文学の道を選びましょう。ただ、学生への責任上、現に講義している貨幣論は二、三回で終わるので、学年試験をして、採点を終ってから、身を退きましょう」。 読みながら、僕は精神科の医院を辞めた時のことを思い出した。本を読むこともむずかしいほど多忙を極めた。しかしどうしても翻訳をしたり(まだその頃は著書はなかったが)本を書くことを諦めたくはなかった。そこで、二月に足を捻挫して三週間休職した後、退職することにした。一緒にはやっていけないと院長にいわれたのである。「それなら僕が辞めましょう。ただ、カウンセリングをしていますから、三月の終わりまでは勤めさせてください」。本を書いてほしいという電話が面識がなかった編集者からあったのは三月の末のことだった。 昨日、書いた「勉強しないと駄目よ、狭い意味での勉強だけじゃ駄目、無駄に見えるようなことでも何でも吸収しなくては」と僕を励ました精神科医はある日僕が勤務している医院に開業するので見学したい、とこられた。院長が診察中僕が応対した。話をしている時に突然十年前のことを思い出した。初対面ではなかったのである。僕の先生の八ケ岳の別荘で一度会っていた。その頃、三十代だったその人が発心して京大の医学部に入学したという話は僕に強い印象を残したのだが、その後、ずっと忘れていた。あの人だったのだ、と思い出した途端、この十年の間に僕の方も哲学から少し離れ心理学の勉強をし、とうとう精神科に勤務するまでになったことを思った。八ヶ岳であった時にはそんなふうになるとは全然思ってもいなかった。 こんなふうに進路を変えることについて最初に僕に知ったのは、僕の中学校の時の家庭教師の先生だった(『不幸の心理 幸福の哲学』p.129)。工学部を卒業して企業に就職したのに辞めて文学部で仏教を勉強していた。後に僕は大学の構内で偶然先生と出会った。僕はギリシア哲学を専攻していた。先生は別の大学の(たしか)助教授だったが、僕の学ぶ大学にその年からチベット語を教えにきていた。中学生の時は一度も仏教のことも哲学のことも話したことがなかったからこんなところで会うとは思いもよらないことだったと思う。 人生の途上で進路を変えることは大変だが、本当に自分がしたいことをしないで生きて、人生の終わりに(それがいつくるかは誰にもわからない)悔やみたくない。途中で違う人生を歩む勇気を僕はもっていたが、それでも時々本当にこれでよかったのか、とふと思うことは皆無ではない。
2004年02月13日
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尼崎保育士研修会。絶え間なく子どもたちに声をかける必要はない。声をかけないけれども、子どもたちがしていることは見ていないといけない。ところが往々にして子どもたちの様子を見ないで、しきりに声をかけることがあるという話。現場で長年保育している保育士さんたちから学ぶことは多い。 昨日、書いたアトピーに関連してのストレスの話の続き。ストレスがアトピーにはよくないということがわかっていても、アルコール依存症の場合と何が違うかといえば、断酒すれば依存症から脱却できるというのと同じわけにはいかないということである。断酒すればというのも、もちろん簡単なことであるはずはなく、下戸の僕には想像もできない苦しみがあるに違いないのだが。生きることはストレスであるといっていいくらいなので、ストレスをなくすということは生きることをやめよというに等しい。 医院に勤務していた頃、二ヶ月に一度、精神科医、ケースワーカー、看護師、カウンセラーらが集まる勉強会に参加していたことがあった。いつも強い刺激を受けた。「勉強しないと駄目よ、狭い意味での勉強だけじゃ駄目、無駄に見えるようなことでも何でも吸収しなくては」とある先生に最初の集まりの時にいわれ、大いに発奮した。毎日あまりに忙しくて「広い意味での勉強」が二の次三の次になってしまっていたからである。それでも次に何をするか考えないでただすわることができないほど忙しい日々に、翻訳を一冊出版できたのはよかった。院長にはいい顔をされなかったが。 こんなことを助言する先生はさぞかし寸暇を惜しんで勉強する人かと思っていたら、実際そのとおりなのだが、その先生が実は午前の診察と午後の診察の間に必ず昼寝をすると聞いて驚いた。 リチャード・カールソンは『小さいことにくよくよするな!』で、ストレスに強い人はストレスに弱い、といっている。ストレスに強いと思っている人には、強いストレスがかかるまで我慢してしまう。僕は決して頑健ではないが、わりあい無理がきくので、つい度を越してしまう。徹夜をすることもしばしばである。医院を退職する前に身体を壊したのは、ストレスに強いと思っていて、相当強いストレスがかかってもなお仕事をやめようとしなかった。ストレスに弱ければ、最初から強いストレスがかかることを避けるだろうから、そもそもストレスがかからない。 この説明は興味深いが、なおストレスは避けるべきであると考えられているように見える。ストレスは必ず避けなければならないものではない。例えば、自然環境のいいところに住むというように、まったくストレッサーがない状況があるとしたら、たしかにストレスがなくなるかもしれないが、深海に生きる魚の目が光がないので退化しているように、適度な刺激がなければ人の精神機能は退化することになるように思う。恋愛しなければストレスはかからない、といって人を好きになることを断念するようなものである。失恋するのはたしかにできたら避けたいことではあるが。 芹沢光治良の『神の微笑』が新潮文庫として発刊された。単行本は友人に譲って今は手元にないので、久しぶりに読み始めた。 インフルエンザで臥していた息子は今日から学校に復帰。登校前に診察を受け、診断書を書いてもらったらしい。僕が研修から帰る少し前に帰っていたようで、テンションが高く話し続けていた。元気になってよかった。
2004年02月12日
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今日はアドラー心理学会の近畿地方会があって大阪へ。アトピー、糖尿病、アルコール依存症について、専門の医師が心と身体の両面から説明した。 糖尿病についてはとりわけ知らないことが多かったので勉強になった。糖尿病の治療は合併症の予防であるということ。母がICUに長く入っていた頃、隣のベッドに入ってきたおばあさんは元気に見えたのに、きっと家族は知ってられたのだろう、ある日、心筋梗塞で突然(と思えた)亡くなられた。糖尿病だったことを後で知らされた。病気は治らないが(このことを受け止めるのはむずかしいだろう)あたかも病気ではないかのような血糖値の動きを手に入れることができるという話。目下、フリーで仕事をしていて、健康診断を受けていないので少し不安になった。 個人的にはアトピーがひどいのでどんな話になるか、期待して話を聞いた。アトピーの語源は、ギリシア語のατοποs(アトポス)、文字通りには、場所(トポス、昨日の日記に取り上げた)がない、したがって、めったにない、奇妙という意味。ひどい命名だと思う。12歳で90%が治るということだったが、四十歳を超えてもなお治らないというのは、僕はアトピーのエリートというところか。 振り返ると、ずっと悪かったわけではなく、十八歳のある日突如として悪くなった。その後、二十歳代は悪く週に一度の皮膚科の通院を欠かすわけにはいかなかった。三十代になってよくなった。この頃、子どもが生まれ、保育園の朝夕の送り迎えを毎日していた。ドラッグフリーの幸福な時代が続いた。四十歳になって常勤の仕事に就いた。激務の日が続き、三年目の夏に発症。やがて退職したがアトピーはそれ以来よくなく、今に至っている。「なぜ」ある時期はよくて、ある時期は悪くなったのかという(『不幸の心理 幸福の哲学』の174ページ以下で心臓発作について論じたような)目的論の見地に立った説明を期待していたのだが。ストレスがかかるとアトピーが増悪するというのはある意味でわかりきった話で、生きること自体がストレスであるならば、僕の場合、生きるのをやめなければアトピーは治癒しないことになるだろう。以下、ストレスについて書く。 ストレスを引き起こす刺激、つまりストレッサーがあって、それによって、一定のパターンの心理的・生理的ストレス反応が起きる、と考えるのは、ストレスについての古典的なモデルであり、このような原因論的モデルは今は古くて、対処(コーピング)を重視するのが最近のモデルである。 すなわち、ストレッサーがあるから必ずストレスがかかるわけではない、と考える。直接のストレッサーがない場合でも、知識と経験によってストレスがかかることがある。受け手がストレッサーにどう対処するかが、受けるストレスの程度を大きく左右する。外界のストレッサーによって引き起こされるストレス反応は、ストレッサーの種類や強さなどの客観的な特性によって決まるのではなく、その人がストレッサーをどう評価して、どのように対処するかによって決まる部分が大きいのである。 一つ例をあげる。夏休みというのは、子どもたちには楽しいものである反面、宿題があって、ことに八月の終わりになると、心に重くのしかかることがある。もちろん、このような状況下で必ずストレスがかかるかといえばそういうわけではない。平気で宿題を持って行かずに学校に行ける勇気ある子どももいる。ある子どもは、毎年八月三十一日になると、喘息の大発作を起こした。ひきがねは、いつも母親の言葉だった。夏休み中、机に向かわなかった子どもに母親はいう。「ところであなた宿題は?」ほどなく発作が起こり、そのために次の日宿題を学校に持っていくことを免除された。 ストレスの要因には三種類ある。まず「素因」。ライフスタイル(性格)や気質である。一般に、生真面目な性格の人はストレスがかかりやすいといわれている。次に、「誘因」(身近なストレッサーになる出来事)。何かストレスを引き起こすことになる出来事などである。しかし、誘因は必ずストレスを引き起こすわけではない。誘因がストレスを引き起こす、と考えるのは、原因論的である。第三の要因は「持続因」である。ストレスがかかることに何らかのメリットがある場合がある。このような時にはストレスがかかるといっても、そこから逃れるようとしない。 上の事例に即していえば、この子どもの喘息体質が素因である。誘因は、子どもが宿題をしないで夏休みを過ごした後で母親が子どもにかける言葉である。では、この二つの要因があれば、必ず子どもが喘息の発作を起こすかといえばそうではない。第三の持続因があることは明らかである。喘息の発作を起こすことで、少なくともその日は宿題をすることを免除されるからである。実際、彼の発作は毎年続いた。 ひどい咳で困っている友人がいた。その時読んでいた本の一節を紹介した。「必要な時にはノーと言い、やりたい時にはイエスと言った方が良いのです。したくないことを断われずにいると、病気になることがよくあります。なぜなら、病気になるのは、より「受け入れやすい」ノーという方法だからです。なぜなら、自分の体が「ノー」とあなたの代わりに言っているのですから、断るしかなくなるのです。自分の気持ちをはっきり言う方が、ずっと健康的です」(ブライアン・L・ワイス『魂の療法』PHP) 概して真面目な人は断わることが苦手である。症状があって初めて相手も自分も納得できるのである。「でもすごく苦しいのよ!」というのはその意味で当然ということができる。苦しくなければだめなのである。 しかし、これは思いこみなのであって、言葉を使って断わることができるはずである。「ストレスとは、心がノーと言ってるのに、口が勝手に開いてイエスと言っている時のことです」とワイスはいっている。口は勝手に開くわけではないが、このストレスの定義はまずまず当たっている、と思う。 以上三つの要因のうち、一番、対処しやすいのは、第三の要因、持続因である。他の二つを変えることはむずかしい。生真面目な性格を変えることも、起こってしまったことを元に戻すこともむずかしい。しかし、持続因を変えることはさしてむずかしいことではない。 今の場合の母親は宿題をしない子どもに夏休みが終わるまでは何も対応していない。しかし、「ところであなた宿題は?」という問いかけは、子どもの宿題をしないという行動に対する反応である。つまり、宿題をしないという子どもの行動は、母親からのそのような応答を引き出すという意味で、対人関係的なものであり、相手役である親から何らかの応答を引き出したいと考えている、と見ることができる。子どもの問題行動があって、それに対して親の解決行動がある。しかし、親の行動によって子どもが宿題をすればその行動は有効であったと考えられるが、この場合、この子どもは喘息の発作を起こして宿題をしないわけだから、親の解決行動は、実は「偽の」解決行動である。問題行動があり、それに対して偽の解決行動がある。問題は止むことなくさらに続くことになる。ここに悪循環のループができあがることになる。 なんとかしてこのループを断ち切りたい。そのためには、親の働きかけを止めてもらうのが一番の近道であろう。宿題をする、しないは子どもの課題であるから、親といえども原則としては子どもの課題に介入することはできないのである。 治療の実際としては、ストレス状況を変えられる場合は親と話し合った上で環境調整をする。家族が来院する場合は、このようなお願いをすることができる。 しかし、このような働きかけが困難な場合がある。親の子どもへの対応がストレッサーである場合はこのような働きかけがむずかしいことが多い。そこで、その子ども自身を援助する。 今のケースでは、母親の言葉がけに対して子どもは喘息の発作を起こしている。しかし別にこのような対応をする必要はない。「ところであなた宿題は?」「できてない。まだだよ」「だって明日から新学期でしょう」「そうね」「そうね、って今からじゃ間に合わないでしょう」「たぶん」「たぶん、ってそんなのんきなこといってないでさっさとしなさい」「まあ、僕の課題だからほっておいてちょうだい」といえるようなら症状は使わなくてもすむだろう。 このやりとりに見られるように、普通の親は子どものこのような答えを聞くと怒るかもしれない。しかし親が怒ったとしてもそれは親の課題なのであり、親の課題を引き受けることはないというような説明をすることになる。 ただし、他方、子どもは自分の行動(宿題をしなかったこと)の責任を引き受けなければならない。喘息の発作を起こすのは、このような責任を逃れようとする行為である。このようなことはクライエント自身は気がついていないことが多い。 帰ると、『児童心理』(金子書房)から執筆依頼が届いていた。今回は引き受けることができる。
2004年02月11日
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前夜よく眠れなかったので、今日は夕方少し寝てしまった。インフルエンザで臥せっている息子を見て、息子の幼かった頃のことを考えていたからか、夢の中で息子や娘を送り迎えしていた保育園が出てきた。二人の保育士が現れたが、もう昔のことなのでその人たちが僕が知っていた保育士かどうか確信が持てなかった。枕元の携帯電話が鳴った時、一つの時代が終わったという感覚とともに目が覚めた。日曜、月曜とひたすら眠り続けていた息子は今日は新聞を手から離さない。本も読み始めた。回復は近い。 最近、日本語では「場所」「場」と訳される”トポス”の概念に関心があって、あれこれ考えている。この語は多義的であり、詳細な議論はまた別の機会に譲るが、「根拠的なものとしての場所」という意味で語られる「場」について少し書いてみたい。 ここでいわれる時「根拠」とは、存在の根拠、あるいは基礎のことである。あらゆる存在、とりわけ人間存在は、できるだけ他のものに依存することなく自立しようとする。そのために自己根拠づけを行うが、その行きすぎがかえって人間の生存を突き崩すことが次第に明らかになった。デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」というように意識的自我・主体を内実とする人間の内実が疑われるようになったのである(中村雄二郎『共通感覚論』岩波書店、p.276以下に負う)。 そこで意識的自我の隠れた存在根拠をなすものとして「共同体」や「無意識」が問題にされるようになった。これらは空間的な場所を形づくるものではないが、意識的自我・主体がそこにおいて成り立つ場、あるいは、場所を形作っている。いいかえれば、意識的自我・主体の基体としての場である。人間は、このような基体としての場から離れて、抽象的、あるいは、絶対的に存在しているのではなく、具体的な場所に相対的な関係において存在している。 中村はトポスという言葉の意味について以上のような考察をした後で、主体と場所について、ギリシア悲劇におけるヒーロー(劇的行動者、主役)とコロス(舞唱隊)を引き合いに出して、次のようにいっている。 ヒーローとコロスのうちで、基盤になっているのは、共同体を前提とする人間集団であるコロスである。中村の説明によれば(前掲書、p.277)、ギリシア悲劇は最初はヒーローはなく、全員がコロスであった。後にコロスの中からコロスの長が分化し、コロスの他のメンバーと掛け合いをするようになる。この一人がコロスからはっきりと離れ、二人になり三人になる時、それらがヒーローになった。ヒーローはこのようにコロスから分化し自立したものではあるが、十全な存在はコロスなしには成り立たない。自分の存在の基盤、自分がそこから発生した基盤を自覚しつつ、かつ自立することが求められる。意識的自我もそれ自体で存在するのではなく、共同体の無意識を基体として始めて存在している。 このような意味での共同体について目下、関心を持っている。共同体は社会という言葉に重なるわけではなく、私とあなたがいれば、共同体は成立する(岸見一郎『不幸の心理 幸福の哲学』pp.132-3)。あなたを前にした私はもはや私だけの私ではない。あなたがいなくなった時、私はもはやあなたといた時の私ではない。君のこといかでか我が心から消し去らむと思えど空し
2004年02月10日
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MOKU出版の前田さんがインタビューに東京から。『MOKU』という月刊紙の3月号に記事が掲載される予定である。前田さんは本屋でたまたま『不幸の心理 幸福の哲学』を読んで取材を申し込んでこられた。綿密に読み込んでこられ鋭い質問をぶつける前田さんと3時間余り話をすることになった。数百人を前に講演するのも、一人と話をするのも使うエネルギーに変わりはないので、相当疲れたのは本当だが、終わってから僕がうれしそうにしているのを見て、「何かいいことがあったの」と家人にたずねられた。僕の考えをよく理解してもらえることほどうれしいことはない。 息子が高熱を出して学校を休んだ。インフルエンザかもしれない、という微妙な診断なのだが、病気で学校を休むということがなかったので落ち着かない。寝ていると思っていたら咳が聞こえてくる。僕が保育園に送り迎えしていた頃は、時折休むことがあった。ぐったりしている子どもを見ると、普段は無理なことをいって困らされても、まだしもそのほうがいいと思った。元気になるとたちまちこの思いを忘れてしまうのだが。そんな小さかった頃のことに思いを馳せていると、憔悴した大きな息子がマスクをして部屋から出てきて驚いた。いつの間にか大きくなったものだ。 自衛隊のイラク派遣が参議院の本会議で可決された。野党は、陸上自衛隊本隊の派遣命令など命令が出るたびに個別承認を諮るよう求めたが、政府はこれを拒否し、今回の承認で一括承認を得た、と今年12月までの基本計画の期間を延長する場合も新たな承認は不要としている。前にも書いたが、派遣命令が先にあって後に承認という順序である。そして承認される前に自衛隊は派遣されてしまっていた。 吉野家の牛丼を食べた。もうこれが最後だろう。生活のいろいろなことが変わり始めている。これから一体どうなっていくことか。
2004年02月09日
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めずらしく息子が高熱を出して寝込んでいる。高校に入ってまだ一日も休んだことはないのだが、明日はどうなることか。保育園に送り迎えをしていた時も、病気で休むことはほとんどなかったことを思い出した。 自衛隊の派遣命令が国会承認を待つことなく出された。衆議院では与党の単独採決で通過。参議院での審議を待つことなく、重武装した陸上自衛隊本隊先発隊の第1陣は、サマワの宿営地に到着した。国会は何のためにあるのか。陸上自衛隊先遣隊の調査報告前に防衛庁運用課と外務省安全保障政策課が原案を用意していたことを示す内部文書が明らかにされた問題について、石破防衛庁長官は、両課の間で何らかの文書をファクスでやりとりしていた事実は認めたものの、「ファクスには送信内容を記録する機能はない。指摘の文書を送信したか否かは確認できない」と、文書の真偽の確認は避けた。この問題を追求してもしなくても、もう自衛隊はイラクに入ってしまっている。国会無視、この国の民主主義はもはや死に絶えたのか。 市川拓司の『いま、会いにゆきます』(小学館)。そんなに早く読み通すことはできなかった。「全ての挿話(エピソード)が喜びに満ちているわけではない。悲しい挿話もある。悲しい挿話の多くは、別離にまつわる話で出来ている。ぼくはいまだに別離のない出会いの話を聞いた事がない」(p.317)。 人と人が出会い別れる。永遠に一緒にいられることはない。 ぼくは澪に手紙を書く。「のっぴきならない事情により、これから先きみへの手紙を書くことができなくなりそうです。ごめんなさい。さよなら」 澪はその短い手紙を何度も読み返す。そして、そのたびに泣いた。「そんな私にできることは、ただあなたに手紙を書き続けることだけでした。口の端にのぼった問いかけを飲み込み、あなたからの拒絶に気付かないふりをして、当たり障りのない日常を書き綴って送ること。まるで遠い星に呼びかけているような孤独な作業でした」(p.355) 昔、作った歌を思い出した。さよならの文よこせしを忘れるや深夜の電話われ驚かす
2004年02月08日
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津で「学校に行く、行かない・・・誰が決めるの?」=アドラー心理学に基づいて教育、不登校を考える=というタイトルの講演。1時間半の講演の後、休憩を挟んで質疑応答。後日、今日の講演はDVDで発売されるとのこと。早く寝たが4時くらいに電話があって目が覚めた。しばらく眠れなかった。電話に関係した夢をたくさん見た。自分で夢を解釈できるというのはあまりうれしいことではない。 不登校の解決は学校への復帰では必ずしもなく、学校に行かないということも一つの選択肢として認めてもいいのではないか。ただしその際、親からの注目を得るためではなく、また教師への復讐ということを目的として不登校を選択するのではなく、いわば積極的な不登校を認めたい。ただしこれは今の社会では容易なことではないということも知っていなければならない。 親がカウンセリングにこられる時、この子を学校に行かせたいということはカウンセリングの目標にならない。学校に行く、行かないのは誰が決めるのか。親で教師でもない。子ども自身しか決めることはできない。親とのカウンセリングでは、どうすれば親子関係をよくすることができるかということなら、相談にのれる。どんな関係がよい関係といえるのか…この話の中で、最近の朝日新聞の「こころ元気ですか」という記事を取り上げた(倉光修、朝日新聞、1月31日)。(子どもが学校に行かない時)「しばらく様子を見ませんか」「放っておくのですか」「いえいえ。本当に様子を見るのです。そして、子供の気持ちを想像して、子供が親がしてやってもよいと思うことはする」 僕が疑問に思うのは、なぜ「想像」するのか、ということである。想像することで子どもの気持ちを正しく推測できればいいが、本当にそんなことができるのか。はたしてこのカウンセラーと親との対話はどんなふうになるのか、と思って読み進むと…「それはやっているつもりです。朝も何度も起こしています」子どもが親に起こしてほしいと思っていると想像するのだろうか。しかもそれは親ができることだから、やってみる。すると…「B君は喜んでいますか」「それが『うるさい!』と」 想像したらまちがう。だから、子どもが望んでいるかどうかは、想像するまでもなく、たずねてみればいいのである。見方を変えれば、このような話ができる関係を親子で作りたい。この子は何を考えているのでしょうか、とたずねられても困ることがある。本人に直接たずねてみたらどうでしょう、といいたい。もちろん、子どもが何を望んでいるか、何を嫌がるかは推測はできる。子どもが自分で親に、朝起こしてほしいというのでなければ、親に起こされることを嫌がるであろうことは容易に想像できる。朝起きるか起きないか、起きるとすれば何時に起きるかは、子どもが決めることであって、親は決められないのである。その上、このように子どもを朝起こすことで最終的には子どもを学校に行かせようと思わないことである。親は子どもを学校に行かせることはできない。もしも望むのであれば、子どもが学校に行くのを援助することはできるだろうが。(今日の講演では話さなかったが)親はあきらめなければない。親ができることとできないことを「あきらかにみる」ことを「あきらめ」という。しかし、親は「あきらめる」ことができないのである。
2004年02月07日
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よしもとばななの『王国 その2 痛み、失われたものの影、そして魔法』(新潮社)。主人公の雫石は山小屋に暮らしていたが、ふもとの開発が原因で山を降りなければならなかった。山での暮らしをなかなか忘れることができない。目が覚め一日を始めてしまえば、なんとかなり、楽しいこともないわけではなかったが、「目が覚めた直後だけが、どうにもならないほどつらい」(p.9)。山での暮らしのように「なくすことでますます強固になるというのがある」(p.39)。 しかし、占い師・楓についてこんなふうにいわれている。「楓の声は私を現在という瞬間に引き戻した。そしてしっかりと碇をおろした。今、私はここにいる、それが確かなものになった。楓の魔法は、そういう魔法だ」(p.109)。彼の声は今のこの瞬間に落ち着かせ、自分のことやこれからのことを考えることができるようにさせる。いつまでも失われたものの影に囚われていては生きていけない。ふりほどくのはあまりに悲しいのだが。「Cabiネット」2.01号に石破防衛庁長官のインタビュー記事が掲載されている。「自衛隊が何だかすごい雇用を生み出してくれるらしいという、現地の過度の期待は間違いであって、われわれは一度もそんなことを言ったことはありません」(p.13) 自衛隊は「自己完結能力」を持っている。泊まるところも、食べ物も、水も、電気も、人の世話にもならないということである。「自衛隊そのものが雇用創出するというのがそもそも二律背反の話なのです」(ibid.) この先、ODAを使ったりして雇用を創出するということもあるだろうが、自衛隊は、汚れた水、不足する医療、壊れた学校、これら最も基礎となる部分を直すのが自衛隊であって、日本のやっていく支援のきっかけ、先駆けである、と石破氏は説明する。このインタビューは1月7日に行われたものであるが、自衛隊宿営地周辺の護衛について周辺部族などが協力を申し出ていることは、自衛隊にとっては本来必要がないということなのか。公的な形で雇用創出と治安強化につながるとされる保安部隊の雇用案は、サマワの「過度の期待」を無視できない結果なのか。このようなことをしても、本質的には自衛隊はサマワの人が期待する雇用創出はしないということなのだからはたして期待を裏切ることで問題が生じなければいいのだが。個人の対人関係でもそうだが、そんなつもりではなかったといっても、あまりかいがない。相手がこちらのつもりを誤解したからといって誤解した方がいけないといえないことがあるように思う。 同じインタビューで石破氏が日本がイラク復興支援について協力する理由のひとつとして「国益」のためである、といっているのは気にかかる。わが国の国益と率直にいうべきである、という。「国益とは何かといえば、わが国は石油資源のほとんど、9割近くをイラクを含む中東地域に依存しています。そのような国は、世界中どこにもありません。ですから、中東地域が大量破壊兵器を有する独裁政権によって極めて不安定化することは、わが国の国益を大きく損なうわけです」(p.11)。 「大量破壊兵器を有する独裁政権」というところは現時点では、要再検討課題になっている。 石破氏は、なんだ石油のために行くのか、という批判があるが、日本が経済的に繁栄し、国民生活が豊かであるのも、石油の安定供給が可能にしていることを私たちは正面から認めるべきだと思う、という。不法な戦争を支持したこと、中東地域は日本にとって所詮石油の供給源でしかないのだという感情はかえって石破氏のいうところの国益を損なうことになりはしないか。1973年の石油危機の際、アラブ諸国は日本のイスラエル寄りの姿勢を批判して石油の対日禁輸を打ち出したのであった(天木直人『さらば外務省!』pp.42-3)。石油のためなら戦争を支持し、破壊した上で復興するという意味か。
2004年02月06日
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高校生の署名運動の続き。小泉首相は、「先生方が、自衛隊は戦争に行くんです、武力行使です、憲法違反ですと言ったら問題だ」といったが、政治家が教育に介入しようとするのは問題である。さらに、「先生は政治活動より生徒の教育に精を出してほしい」というが、政府の立場とは違うことを教えることは「政治活動」なのか。 小泉首相は高校生の嘆願書を読まずに批判した。駐レバノン特命全権大使だった天木直人は、政府がイラク戦争を支持することに反対して総理、官房長官宛に公電を送ったが、無視されたという。辞職勧告を受け、外務省を辞めた天木は『さらば外務省! 私は小泉首相と売国官僚を許さない』(講談社)を書いた。外務省の腐敗を突く本書はおもしろいのだが、外務官僚、政治家の個人名をあげて批判する第三章はただの暴露本のように見える。もう少し違う書き方があったのではないか、と思う。 金原ひとみの『蛇にピアス』(集英社)。ピアスの拡張にハマっていたルイは、「スプリットタン」という二つに分かれた舌を持つ男アマとの出会うというところから話は始まる。文字で読んで想像される痛みは現実の痛みではもちろんないが、思いがけずリアルに感じられる。ストーリーというほどのストーリーもないが、一気に読み終えた。芥川賞受賞作ということだけで比較するというのもどうかと思うが、綿矢りさの『蹴りたい背中』もはるかに面白かった。綿矢のは中途で何度も読むのを止めた。二人ともまだ寡作なのに芥川賞を受賞したことを問題にする人もいるが、彼女たちはこれからの作品に期待されることをプレッシャーに感じることはないかもしれない。 安倍晋三幹事長の学歴が問題にされている。「今」の政治家として資質は問われるだろうが。若い頃、数年どこの学校で学んだかということがその後の人生にどれほど大きな意味を持つか疑わしい。その後はるかに長い人生を生きる時、研鑚を重ねなければ身につけた知識は消えてしまうだろう。学生の頃の専門とは違った関心を持つようになることも当然ありうる。昔取った杵柄に固執できるには世の中の変化はあまりに激しい。
2004年02月05日
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起きがけが少し辛かったが、カウンセリングの時は、思いがけず、絶好調みたいですね、といわれた。不思議にそういってもらえると元気になれる。これとは反対のことがいわれ自分でも不調だと思っていたら、いよいよよくなくなる。 講演や講義の時は、その前にどんなに疲れていても気が漲る。終わると途端に疲れ果ててしまうとしても。話しているとまれに疲れが出てしまうことがある。あらかじめ話をしている相手にいっておいたほうがいいようだ。あなたとの話に退屈したからでも、機嫌が悪くなったからでもなく、ただ疲れるだけだ、と。自分ではわりあい気分は安定していると思っているのだが、相手がどう受け取るかはこちらでは決められないので、あらかじめいっておいたほうがいいだろう。今日は機嫌が悪いように見えるかもしれないけれど、怒っているわけではないというふうにいうこともできる。 この頃は、新聞を読んでいると、眉間に眉間にしわが刻まれていると思う。 陸上自衛隊がイラク南部のサマワに造る宿営地に、大規模な厚生センターが設けられる。イラク全土でテロ攻撃が続いているので、私的な外出は認められず、地元との交流も大幅に制限され、このような施設が必要とされるということであろう。昨日あげた議員のいうような交流は、イラクの今の情勢では、実現しないように思う。 宮崎の高校生の署名に関して小泉首相がいったように、自衛隊は国際貢献に行くのである、それがいかに意義ある活動であり、危険な任務を引き受ける自衛隊員がいかに勇気あるか、ということが繰り返し語られメディアを通じて伝えられるとどうなるか。立花隆はこのようにして「ゲッベルス以来の大量宣伝による大衆洗脳が、いままさに目の前で現実化しつつあるのだ」と指摘する(「イラク派兵の大義を問う」「月刊現代」3月号p.30)。 立花は、万一自衛隊にテロの犠牲者が出たらどうなるのか、を考える。今後自衛隊は一年にわたってイラクに駐留する予定なので、日本人の血が一滴も流れないですむと予測するのはむずかしい。その際、派遣を中止し、撤退するべきだと考える人が多いことは、新聞各紙の世論調査が示しているが、実際に、何が起こるかは起きてみないと予測することは事前にはむずかしい、と立花はいう。小泉人気ががた落ちになるという予測がある一方、逆に上がることもあるという予測シナリオもある。その時に起こるであろう感情的な反応はナショナリズムの火を点けるというのである。 あなた方の死を無駄にはしない、こここでひいてはならない、ここで撤退することは彼らの意志を無にすることである、どんなにつらくてもテロに屈することなく我々に国際社会から託された任務を果たそうではないか、云々。そのように語る首相の言葉が繰り返し報道されると、なんとなくそのほうが正しいのではないかと思うようになり、イラク派兵は続く、というシナリオである。 犠牲者が現れてもこのシナリオでクリアされ、イラク派兵が成功すれば、次にくるのは、これだけ大きな犠牲を払って国のために尽くしてくれる自衛隊を法的に認知し、国際貢献活動をどんどんやってもらうために憲法は改正すべきである、という主張が共感され、「憲法改正、自衛隊完全認知、日本の軍事力行使の容認という方向に一挙につき進んでいきかねないだろうと思う」(p.25)と立花はいう。 自衛隊員が任務を勇敢に果たそうとしていることについてとやかくいうつもりは毛頭ない。ただこの問題については努めて感情的な反応を抑え、今度の戦争がはたして合法的なものだったのかということから始め、冷静に考えていかなければならないと思う。
2004年02月04日
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陸上自衛隊本隊の先発隊は国会の審議が終わっていないのにクウェートに向けて出発してしまった。浜田靖一防衛副長官が「準備は万全と確信している。武士道の国の自衛官の意気を示してもらいたい」といっているが「武士道の国の自衛官の意気」とは何だろう。「人道復興支援」に行くのではなかったのか。 昨日の高校生の嘆願書の話の続き。今度は小泉首相の発言を受けて、河村文部科学相は「自衛隊は武力行使に行くわけではないということを丁寧に教えなければならない」といった。高校の公民の学習指導要領で日本の安全保障の問題を理解させるよう明記されていることなどを挙げ、「自衛隊が何の目的で行くのかを高校生なりに理解してもらう必要がある。(派遣の)法的な根拠もあり、事実に基づいてきちっと教えてもらいたい」と述べた。「高校生なりに」という表現は高校生への蔑視のように聞こえるが(高校生にはこの問題については本当には理解できないだろうという含みがあるように聞こえる)、それはともかく、高校で教師がこの問題を取り上げて話していいということである。「自衛隊は国際貢献に行くのであって、武力行使に行くわけではない、と小泉首相はいっています」と教える。高校生はその話を聞いて、なるほどと先生の話をうのみにしたりはしないだろう。政治への関心がない生徒がいれば関心を喚起するきっかけになるだろう。 チョムスキーは、アイロニカルに、軍事行使に「病的な拒否反応」を示させてはいけない、と考える支配者について論じている。このような拒否反応を克服するためにメディアが使われ、歴史が捏造されてきたことを指摘するが、「事実」を批判的に検討する能力を養ってほしい。そのためには、昨日書いたように、自衛隊はイラクの人に貢献するのだから、自衛隊の派遣に反対するのは間違っている、と、感情的に派遣反対の考えを排除するのではなく、あらゆる場合について論理的に考察しなければならない。これは教育の場面では必要なことであり、河村文部科学相のいう「きちっと」教えることだ、と僕は考える。 自民党の大仁田厚、後藤博子両参院議員がイラクでの自衛隊の活動を視察するため、国会議員による訪問団を派遣するよう提言、同党所属の全参院議員に賛同を呼びかけた。大仁田氏は「首相がイラクに行く際の先遣隊になりたい」といい、現地ではイラク人との交流を重視、「『おれはプロレスラーだ』といって、子どもたちと交流したい」とも語ったという。コメントもしたくないほど、力が抜ける思いである。この議員がイラク特措法が強行採決された時、何をしたか忘れない。日本の政治では論理は通用しない。当然防弾チョッキを着用しないのでしょうね、と皮肉をいってみたくなる。今、自衛隊が送り込まれるイラクではゲリラ戦の様相を呈し始め生命の危険に曝される事態が進んでいるのである。 風邪を引いたようで力が出ない。目が覚めてしばらくがよくない。綿谷りさの『蹴りたい背中』を半分ほど。娘が学校を休んだ。カウンセリングを終える頃、起き出してきて、二人で遅い昼食。昨日のスカートのことは聞けなかった。
2004年02月03日
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娘が帰ってきて、クラブの先輩のお通夜に行く、という。父親が亡くなられたそうだが、気にしていた。僕よりも若い人かもしれない。通夜がどういうものか知らないので驚いた。帰ってからも焼香の仕方がわからなかったとも。憤慨しているのでどうしたのかと思っていると、スカートの丈をクラブの先輩に注意されたのだという。制服を着て皆で出かけたので先輩が服装のことを気にかけたということだろうが、丈を短くしたのではないか(実際にはしていない)、といわれて気分を害したようだ。背が高くなったので短くしたように見えたのだろうが、いきなり注意をするあたり、先生の生活指導を真似ているように思える。短くしている先輩もいるのに、と不満そうだったが、娘が来年になって同じことを後輩にしなければいいのだが。 自衛隊のイラク派遣承認案が可決されないままに明日陸上自衛隊の本隊がイラクに向け出発するようではこの国の政治は終わりだと思う。 小泉首相が宮崎県の高校3年生の今村歩さんが、武力に頼らないイラク復興支援を求める5358人の署名と嘆願書を提出したことについて次のようにいった。「よくイラクの事情を説明して、なかなか国際政治、複雑だなあという点を、先生がもっと生徒に教えるべきですね」。記者団が署名を読んだか、と問うたところ、「いや、読んでません」と答え、「読む考えは」と聞かれ、次のようにいった。「自衛隊は平和的貢献するんですよ。学校の先生も、よく生徒さんに話さないと。いい勉強になると思いますよ。この世の中、善意の人間だけで成り立っているわけじゃない。なぜ、警察官が必要か、なぜ軍隊が各国で必要か」。自衛隊派遣を認める立場から、教育現場に対応について苦言を呈する発言は問題があるように思う。「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いが注目を集めた。人を殺すのは悪いことに決まっているのだからわざわざ「なぜ」とたずねる必要はないという考えもある。しかし、人を殺してはいけない理由をあげるのはむずかしいかもしれないが、問いを圧殺してはいけない。そういう問いを立てるからといって、殺人を肯定しているということにはならない。感情ではなく論理の問題である。自衛隊はイラクの人に貢献するのだから、自衛隊の派遣に反対するのは間違っている、と、感情的に反対の考えを排除するのではなく、あらゆる場合について論理的に考察しなければならない、と思う。小泉首相のように、そもそも読みもしないで批判することは反教育的である。
2004年02月02日
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僕の鍼の先生の中根さんのホームページが完成したのでリンクしたところ、僕のページの掲示板にも書き込みをしてもらえた。「知らない場所で、知らない誰かと繋がっていく。不思議だけど、エキサイティングな経験ですね」と書いてられるのは本当にそのとおりだと思う。Baghdad Burningというブロッグをリンクしたのだが、イラクが今どうなっているかよくわかる。戦争前はほとんど眠れなかった。夜はずっと爆弾が落ちる。飛行機と爆弾の音を聞きながら、ずっと起きていて部屋の中で丸くなっていた。今は略奪のために眠れない…という話。また停電が毎日長時間もあり、洗濯機を使えないので手で洗う話とか、アメリカがバックアップするイラク統合評議会が女性の権利を抑圧する法律を作ろうとしている話などが語られている。もとより書いている人がどんな人か知らないのだが、遠く離れたイラクの女性の生の声が直接届いてくる。こんな経験をすると、一人の力は意外に大きいかもしれないと思う。 大阪府知事選で太田房江氏が再選を果たした。いつも思うのだが、あまりに早く「当選確実」が報じられると、投票に行ったかいがないと思ってしまう。 国会の審議とは関わりなく、陸上自衛隊の本隊に対する隊旗授与式が行われた。この式に間に合わせるべく、派遣承認案の採決を強行したものと思われる。3日に派遣されるというのだが、どうなることか。 自民党の中川秀直国対委員長は今回の自衛隊派遣に絡んで「現行憲法との乖離が目を覆わんばかりだということがはっきりした。憲法改正の議論の大きなきっかけになったことは間違いない」といった。「目を覆わんばかり」とはよくいったものだ。誰がそんなことをしたのか。 さらに、憲法改正の具体的な手続きを定める国民投票法案の今国会提出に改めて意欲を示したというが、国民投票法案がどういうものか調べなければならない。憲法は国の最高法規であって、その改正については憲法自身が厳格な要件を定めている。憲法第96条は第1項で「この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする」と規定し、第2項で「憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体をなすものとして、直ちにこれを公布する」と規定している。 何度も繰り返して書くが、99条にはこう書いてある。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」。軽々に首相らが憲法改正を口にする、昨今の状況は目を覆わんばかりである。
2004年02月01日
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