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朝日新聞の四月三十日付けの「私の視点」への上野千鶴子さんの投稿は心動かされた。イラクでの人質事件に触れ「「戦争」のなかで事件が起きた」という。「武装勢力は市民を人質に、日本という国家と交渉した。国家は早々に、交渉に応じることを拒否した。にもかかわらず、武装勢力は市民と国家を区別し、人質を解放した。血で血を洗う戦闘状態のなか、多くの人々の関与で、これほどまでに理性的な判断が成立したことが、事件でなくてなんだろうか」。 拉致問題を解決するために北朝鮮への経済制裁を求めるデモがあったという記事を読んだが、経済制裁をしても困るのは市民であって国家ではない。イラクへの経済制裁も同じだった。テロは、市民を巻き込んでも国家はびくともしない。テロに屈しないという一点張りだから。「タカ派と呼んでほしい」という自民党の安倍晋三幹事長は「サダム・フセインが大量破壊兵器を持っていたと疑うのは極めて合理的。小泉首相のイラク戦争支持は国益上、当然だ」とアメリカン・エンタープライズ公共政策研究所で講演している。国益になっても、市民の益にはならない。日本人というだけで、市民への危険は増すことになる。 アントニオ・タブッキの『供述によるとベレイラは……』に出てくる日刊紙の記者ペレイラは、いつのまにか政治運動に巻き込まれていた。思いがけずペレイラは勇気ある行為に出る。政治的中立(あるいは無関心)でいることは、「市民として」選択できない選択肢だったというところ、訳者の須賀敦子は、「国民としてではない」と強調していることを思い出した(岸見『不幸の心理 幸福の哲学』pp.158-9)。 朝方まで仕事をする日々がもう長く続く。この頃は夜が明けるのが早い。昨日、図書館に行ってヴァレリーの全集があれば借りようと思ったら思いがけず休みだった。祝日であることを失念していた。そこであらためて出かけたら金曜日も休みだった。当然、昨日、この連休の開館日の案内がどこかに掲示されていたはずなのに見ていなかったことに気がついた。こんな無駄なことをよくしているように思う。本当に無駄かはまた別問題であるが(自宅のコンピュータで図書館の蔵書検索だったできた…)。
2004年04月30日
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BBCのホームページをこのところよく見るようになった。なかなか情報の得られないファルージャの情勢を知りたくてニュースを聴いていた。ブッシュ大統領がファルージャをsecure(守る、安全にする…)ための闘いだというような発言、ブレア首相の支持、はたまた高島外務報道官がファルージャの空爆をやむをえないする発言などを読むと失望してしまう。政治家にはファルージャを初めとする人が殺されているというイラクの現実は念頭にないのだろう。サマワで迫撃弾が着弾しても、自衛隊員が壕やコンテナに避難しても、政治家はこの現実を見ようとせず、隊員の命をものともせず、サマワは安全である、人道復興支援をしているといい続けるのだろうか。 旧聞に属するが自己責任という言葉を聞いて思い出したのは、石破防衛庁長官が一月に自衛隊員が地元住民らを誤射した場合の責任問題について、「誤射というのは過失犯だろう。過失の場合の行為が殺人罪、殺人未遂、傷害、傷害致死罪に当たる場合は我が国の刑法が適用される。隊員の責任が問われることはあり得る」と発言したことである。これは今も同じなのだろうか。今の状況で自衛隊だけが他国の軍と違ってイラクの人との交戦の可能性がないとはいえないと思うのが。撤退を考える時期ではないのか(と、もう何度も書いている)。 三木清の書いたものでは『幼き者の為に』というエッセイが心に残っている。七歳で母親を亡くした娘に宛てた手紙という形式になっている。この中で三木は「因縁というものについて深く考えるようになった」ということを書いているが、他の三木の哲学の論文を読むと意外な気がしないではない。年齢に関わらず、人生のあらゆることに準備されていることを真の教養という、とか、悲しみを見つめた者には心の落ち着きがあるという言葉は文脈を離れても、思い当たる。「倶会一処」(ぐえいっしょ)という言葉を僕はこのエッセイで知った。阿弥陀の浄土に往生して、一つの処でともに会するという意味である。私には浄土真宗がありがたい、おそらく私はその信仰によって死んでいくのではないか、と三木が書いているエッセイがあり、獄死後、疎開先から「親鸞」と題するノートが発見されている。
2004年04月29日
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先週、金曜日に徳島で講演したのでそのふりかえで今日は聖カタリナ女子高校へ。朝まで仕事をしていてあまり寝ていなかったが、七時三十分に出て、駅から山道を歩く。タクシーでくるようにといわれていたのだが、冷たい雨が降ったり肌寒い日ではあったが気分がよく、頂上(これはかなり大げさ)に着いた時も息切れすることもなかった。前回、質問紙を予め配っておいたところ、教壇には質問を記入した紙が入った箱が置いてあった。箱には「悩み相談箱」と書いてあった…今年のクラスは口頭でも質問が出るので今後の展開を楽しみにしている。 ファルージャの爆撃。アメリカ側が武装軍団が停戦を破ったことによる自衛のための攻撃だというが、民間人が犠牲になっている。アメリカ軍がクラスター爆弾を使っているという記事も読んだ。ファルージャから脱出した住民は家に戻ることはできず、市街で厳しい状況かで生きることを余儀なくされている。こんな戦争のどこに正当性があるのか。戦争は日本では対岸の火事のようであり、何があっても戦争では自民党が勝ち、多くの国がイラクからの撤退を始める中、陸上自衛隊の第二次部隊に派遣命令が出た。世界の中の辺境の地に住んでいるような気がする。 本に書いたのだが、昨日日記に書いたことから思い出した(p.191)。シュバイツァーが突然アフリカに行く決心をした。アフリカの人を助けるために、もう三十代になっていたが、医学部に入学した。医学的な興味というより、人道的見地からだった。どうして先生は止めなかったのですが、とシュバイツァーの相弟子がビドル先生(オルガンの先生)にいったら、先生は両手を開いていった。「神さまが呼んでいるらしい。神さまが呼んでいるというのに、私は何をすることができるか」。こんな仕事のことを天職という。英語、ドイツ語ではcalling, Beruf.神に呼ばれるとか、呼び出されるという意味である。
2004年04月28日
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明治東洋医学院の講義。まだ三回目であることに驚く。忙しい時はあっという間に一週間が過ぎるように感じられることがあるが、充実した、密度の濃い日々を送ってきているので時間の経つのが遅く感じられる。生のエネルギーが漲っているといえばいいか。 鬼畜米英という言葉について瀬戸内寂聴、ドナルド・キーン、鶴見俊輔の鼎談『同時代を生きて』(岩波書店)に誰かが(おそらく鶴見)発言していたと思って探したが見当たらなかった。戦争する相手国の人を憎むことを強制することが可能なのかどうか、考えていた。 別のところに書いたのだが、この本に三國連太郎の話が紹介されている。三國は兵役を拒否し、逃げ回っている時に母親に密告された。母親だから大丈夫だと思って葉書を書いたらそれを警察に持っていかれたのである。密告をしなければいけないような圧迫がまわりからも警察からもあったのだろう、と瀬戸内は母親を弁護しているが、親が子どもに代わって謝罪するという光景を今回見て、今も昔もあまり変わりがないのではないか、と思った。 同じ本の中で鶴見俊輔がある文脈の中で「重大な決断の底には必ず深いものがあって、知的な命題に換えられないんです」(p.50)といっているのが注意を引いた。傍から見れば無謀であったり無思慮に映るようなことも、本人にとってはきっと深い意味がある。僕が哲学を専攻するといった時父は反対し母に止めさせるようにといった。母は父の言葉を聞いて答えた。「あの子がすることはすべて正しい。だから見守ろう」(『不幸の心理 幸福の哲学』pp.129-30)。僕は母の期待に反してそれまでもその後も正しくないことをたくさんしてきたが、僕の決断を止めても無駄なことを母は知っていたのかもしれない。どうしてイラクに行くのを止めなかったのか、と家族が責められているのを今回見てふと思い出した。
2004年04月27日
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月曜は診療所でカウンセリング。ここにこられる人は、僕の個人的なつてでこられる人とは違って高齢の方も多い。父くらいの年齢の人から私はどうやって生きていけばいいでしょうか、とたずねられたりすると、どぎまぎしてしまう。僕の言葉に耳を傾けてもらえ頷きながら僕の話を聞いてもらえると恐縮してしまうのだが、僕の話すことで抱えている負担が少しでも楽になる援助ができたらと思う。 大文字の国民という表現をたびたびしてきた。イラクの人が嫌いになれない、と解放直後、高遠さんは語っていた。ブッシュ大統領のやり方には賛成できないけれど、そのことでアメリカ人の友人と絶交するつもりはもちろんない。所属する国が違うというだけで敵、味方と分かれて殺し合わなければならない戦争の理不尽さを思う。 昨日、引いたアルフレッド・アドラーの言葉「私たちは皆仲間です」は僕の注意を引く。仲間という言葉はドイツ語ではMitmenschenという。文字通りには、人と人が結びついている(mit)しているあり方をいう。これを名詞化したMitmenschlichkeitという考え(人と人が対立しているのではなく結びついているという考え)は第一次世界大戦から帰還したアドラーの鍵概念になる。悲惨な戦争の現実を目の当たりにしながらなおこの考えを持つに至ったのはなぜか。このようなことを考えてアドラーの生をたどっている。 仕事の場所が違うだけなのにまだ慣れないのか帰るとひどく疲れていた。倒れ込むようにして数秒後には深い眠りについた。二時間くらい眠り、今この時間になってようやく人心地がついた。時々、帰れば仕事を忘れていられるようであればいいのにと思ったりするが、そんな生活は僕にはどうやら許されないようだ。ある作家が(僕と比べるのもどうかと思うが)長編小説を書いている間はほとんど無収入であると書いていたが、いつまでもこんな生活が続くのだろう。日々の生活の変化だけは十分あって楽しいのだが。
2004年04月26日
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午前、午後に二人の方がカウンセリングにこられる。この頃、ずっと朝方まで仕事をしている。夜が明けるのが早くなってきているので、うかうかしていると外は明るくなってしまっている。もうこのまま眠れないのではないか、と思っていても、部屋を暗くしてメールを読み始めるとあっという間に深い眠りに入る。 フィリス・ボトムというイギリスの作家がアルフレッド・アドラーについてこんなことを書いている。アドラーは軍医として第一次世界大戦に参加しているのだが、医師としての戦時の経験をたずねられた時、あらゆる戦争が意味はなく不毛である、として戦争を始めたオーストリアの政治家を痛烈に批判した。するとそのアドラーの話を聞いていたウィーンの女性がイギリス人の前で故国を批判したことでアドラーを非難した。戦時中、イギリスはオーストリアの敵だったのである。アドラーは穏やかにいった。「私たちは皆仲間です。どの国の人であってもコモンセンスのある人なら同じように感じました。この戦争は私たちの仲間に対する組織的な殺人と拷問である、と。どうしてそんな戦争を望まないことがいけないことでしょう?」続けて自分が医師として目撃した恐怖と苦しみについて、また、オーストリア政府が市民が戦争を継続するのを支持し続けるために繰り返しいった嘘について話した。 昨日、書いた三木清の話の続きだが、彼がいち早く釈放されていたら命を落とすことはなかったかもしれないのである。家族が病気になった時もなんとか命を救いたいと思う。それが人間の力ではどうすることができない不治の病であることを知らされていてもである。戦争によって死ぬこと(英語なら直截に殺されると表現するところ)が運命であるとは思えない。戦争さえなければ死なずにすんだからである。三木は若い頃、立身出世は望めないかもしれないし、むしろ「特殊な運命が私を待っているように思う」とまるで自分の最後を知っていたかのように思えるようないい方をしているのだが(『三木清全集』19巻、p.112)。 ふいに三木清のことを思い出して前の家から全集の中の一冊だけを持ってきた。49歳で亡くなった三木が20巻の全集を残しているのは驚きである。こちらには置く場所もないし、目下、読む時間も限られているので、詩と短歌の収められている巻だけを選んだ。桝田啓三郎が「後記」の中でこう書いている。「すべて真にすぐれた哲学は深い詩情を底にたたえているといえるが、著者がその哲学と詩とを渾然と調和せしめるにいたらずして斃れねばならなかったことが、いまさらのように惜しまれるのである」(p.867)。若い頃、三木の影響を受け、頭の優れた哲学者ではなく、魂の優れた哲学者になりたい、と思った。そんなことが当時の僕の日記に書いてあるはずである。
2004年04月25日
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三木清という西田幾多郎の弟子筋にあたる哲学者がいたが、三木が豊多摩拘置所で獄死したのは1945年9月26日だった。8月15日が敗戦の日なので、その日から一ヶ月以上経っている。この一月の間に三木は疥癬が悪化し、独房で誰一人看取るものもなく、寝床から転がり落ちて絶命した。四十九歳だった。 なぜ三木の釈放が送れたか。戦争を批判していた政治犯だったからである。政府は連合軍にはやむをえず降服を認めたが、最大の責任を持つ自国民には戦争責任をできるだけ負わないでおこうとした。八月十七日に成立した東久迩宮内閣は、戦争責任があるとすれば国民全部だという一億総懺悔論論を振りかざした。それどころか、内務大臣、山崎巌は、国体を批判する左翼勢力は戦争中と同じく厳しく取り締まり続けると公言した。三木がただちに釈放されなかったのは、以上のようなことが背景としてあったのである。もちろんこのようなことは三木だけのことではない。同じような思想的運命を辿らされた人は決して少なくないはずだ。こんな歴史が繰り返されることがあってはならない。 イラクで何が起きても、あるいはこの戦争についての大義が疑問にされても、日本の政府にはまったくよそ事であるように見える。デンマークではイエンスビュ国防相が辞任を表明した。開戦前に発表したイラクの大量破壊兵器問題をめぐる報告書の内容が、証拠がなく誤りだった、と批判を浴びていたからである。アメリカでもイギリスでも問題になっているこの問題について日本では厳しい追求がされないのはなぜか。大義のない戦争をいち早く支持した首相の責任はないのか。イラクでのNGOの活動が危なくなったのは自衛隊の派遣によるものと僕は考えているが、自己責任にすりかえられ、政府の責任はあいまいにされてしまう。 息子を去年殺されたジェーン・ブライトさんは「若い人たちの死を隠すのを止めさせなければなりません。彼らの死をオープンにしなければなりません」といっている。イラク人の犠牲者の数は公表すらされていない。数えられてもいない。
2004年04月24日
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徳島の板野郡教育委員会の研修会、総会で講演をしてきた。京都駅からバスが出ていて二時間半くらい。バス停を降りてからタクシーでさらに三十分くらいのところに講演会場はあった。一時間十分講演をした後、またすぐに帰った。移動の時間の方がはるかに長かったわけだが、幸い、講演は好評だったようでよかった。 講演の前、楽屋で板野中学校の石井先生と話をすることができた。通常、アドラー心理学のことは知られていなくて一から説明しないといけないのだが、本質的なことをよくわかってられるのでたずねてみたところ、本を読まれたからというより、養護教諭の坂東先生の学校での教育実践を見て、アドラー心理学に興味を持たれたということだった。理論はそれ自体では説得力がない。理論を実践している人を見て、学んでみようと思うものである。事情は、哲学でも同じである。肘掛け椅子の哲学者であってはいけないと思う。先生が、これまでのことはともあれ、これからどうするか、教師が目の前にいるこの生徒とどう関わって行くかを考えていけないといわれることに僕も同感だった。子どもの問題を家族や社会のせいにしてはいけないし、そんなことをしても何ら解決には結びつかない、といわれる。僕の講演は楽屋での先生との話を受けたものになった。自分のことを認めてくれる人が世の中に一人でもいれば、その子は必ず救われる。それこそ教師の仕事である、と。 イラクで死亡したアメリカ兵の遺体を納めた棺の写真をインターネット上で見ることができる。反戦世論を刺激しないか、とブッシュ政権はメディアに取材を禁じているというが、これが戦争の真実である、と思う。アメリカ兵の十倍ものイラクの人が犠牲になっていることも忘れてはなるまい(実際には民間人の犠牲はもっと多いだろう)。ファルージャではイラク人が600人以上が死亡したと伝えられている。このような戦争に正当性があるとはとても思えない。政府は軽々にこの戦争を支持したことが恥ずかしい。いくら人道復興支援をしても、いわばそれは下流での掃除なのであり、上流でこんな無法なことをするのを認めていたら、善意を認めてもらうことは至難の技ではないか。
2004年04月23日
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イラクの日本人人質事件で家族らが待機場所に使った道東京事務所などの経費負担問題について高橋はるみ北海道知事は、「(職員は)業務として(事件に)対処した。家族に職員の残業代や庁舎管理費を求めるつもりはない」といったという記事。 一般の対人関係のことを考えていた。よきサマリア人のたとえを過日紹介した。高校に倫理社会の教育実習に行った時に、キリスト教について教えることになって僕はこのたとえを使ったことを思い出した。当時は八木誠一の本をたくさん読んで影響を受けていたように思う。 話は次のようである(『ルカ福音書』10:25-37)。サマリア人はユダヤ人とは仲が悪かった。あるユダヤ人が強盗に襲われ倒れていた。そこを通りかかった祭司や人々は見て見ぬふりをして通り過ぎた。ところが、あるサマリア人だけは、彼を介抱し、宿屋に運んで宿代まで負担したという話である。イエスはいった。「行って、あなたも同じようにしなさい」 敵味方の区別なく、あるいは思想、信条の違いの区別なく、傷ついた人を助ける行為は賞賛に値する。ところでもしもこのサマリア人が感謝を要求するとしたらどうだろう。助けられたユダヤ人は当然サマリア人に感謝するだろうが、たとえ感謝されなくてもサマリア人は救うという行為はそれ自体で完結しているので、感謝されないからといって不満に思うようであれば、感謝されることが行為の目的になってしまっておかしいことになってしまう。 サマワのオランダ軍宿営地へ迫撃砲による攻撃があり、自衛隊は一時避難したが、福田官房長官は、サマワの治安情勢について、まったく問題がないというわけではないが、「非戦闘地域」であるという要件は現在も満たしている」といっている。本当に満たしているのだろうか。防衛庁はこれとは違う認識で、先崎一陸上幕僚長は、サマワの治安はイラク全土から見れば比較的安定しているが、油断できない状況にある、といい、守屋武昌防衛事務次官は、サマワ周辺でテロなどが発生する恐れはある、といっている。かなり認識が違うようだ。
2004年04月22日
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中学生の息子さんをおもちの方と話していたのだが、子どもが徴兵にとられるような時代になったらどうしよう、と泣きそうになってられたのを見て、この感覚は、子どもが人質になったことがわかった時家族が救ってほしいと訴えたのと同じく、きわめて普通で自然であり、これを別の論理で押し込めてしまわければならないことがあるとしたら時代は既に危ないところにさしかかっていると思う。思想や信条が違ってもこのあたりは共通したものがあるのではないかと思うのだが。 民間人をまきこむ戦争はテロ以外の何ものでもない。戦闘に参加する兵士にも無事の帰還を待ち望む家族がいる。大量破壊兵器が見つからず戦争の正当性が問題にされているアメリカやイギリスと違って、戦争を支持した政府の責任は問われない。他国が軍をイラクから撤退してもそれぞれの国の事情があるから、と他人事のようにしか扱われない。人道復興支援にいっているのだからと繰り返しても、今は無事な自衛隊に何かことが起こればそのことの責任は政府は取れるのだろうか。人道復興支援でいっているのであれば、なおさら今はその時期ではないと民間人に退避勧告を出したのと同じ理由で撤退していけないという理由はないように思うのだが…そうできない理由があるのだろう。 バスラでの爆弾テロの報道。バスラに駐留するイギリス軍の司令官が「バスラのシーア派住民の最高責任者であるサイード・ムサウイ師が占領軍はもう出て行ってくれと言い出したら、われわれは撤退して帰国せざるを得ないだろう」といっていることを田中宇氏は紹介している。こんな状況下でなお自衛隊は撤退しないといえるのかどうか。 疲れて長い時間眠る。夢をいくつか。某国に何も持たないで出かけるという夢。財布も持たずポケットに硬貨がいくらか。眠る前に枕元に出して置いたのと同じだけの硬貨を持っていた。携帯は? 持ってなかった。これは致命的。でもこの国で携帯が通じるのかは不明。電車に乗って降りる時になぜか左手に持っていた210円(日本じゃないのに。これは吹田駅から学校に通う時に乗るバスの運賃)ではなく、右手に持っていた数百円の小銭の方を全部運賃箱に入れてしまい途方に暮れる。今の僕の状況のようだ。
2004年04月21日
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ここに日記を書き始めてちょうどまる2年になる。一日も欠かしていない。これはわれながら驚き。昨日、アット・ニフティからメール。入会して4月20日で17年たったという内容だった。当時、NIFTY-Serveといわれていたパソコン通信のネットワーク上に外国語フォーラムを開いたのはもうそんなに前のことだったのだと驚く。これを始めなければ今僕がこうして生きていることにつながる多くの人に出会うことはなかったのである。その後、事情があって僕はsysop(今もこんなふうに呼んでいるのだろうか)をしりぞいたが、東京にフォーラムを開設したいという電話をした日のことをよく覚えている。あの電話をしなかったらその後の人生はずいぶんと変わっていたと思う。ここにはきっといない。きっとまちがった決断ではなかったのだろう、と今は思える。 明治東洋医学院で講義。いつも朝まで仕事をしているので8時に出るのはかなり厳しい。電車は当然、満員ですわれない。ページをあまりめくらなくていいような本がこんな時はいいので、ヴァレリーの『ユーパリノス』を読み進める。そんなに簡単に意味がとれないからでもあるが、まるで歌集か詩集を読むかのようにゆっくり味わいながら読み進めた。ソクラテスとパイドロスが冥界で対話をしているこの対話篇を僕は自分で訳してみたいと思ったことがあったのだが。 パイドロスが伝える建築家のユーパリノスの言葉にこのようなのがある。ヘルメスのために神殿を建てたのだが、それが僕にとってどんな意味のものかわからないだろう。四本の円柱と簡素な形式の神殿。「だがぼくはそれにぼくの生涯のある明るい一日の思い出をこめた」。ユーパリノスが嬉しい恋をしたコリントの娘の数学的な形象、その娘の独得のプロポーションを忠実に再現しているという。過日、京都のギリシアローマ美術館で見たエンタシス(上方が細くなる円柱の中ほどにつけたわずかなふくらみ)のある柱を思い出した。 他の国の人でイラクで人質にあった人たちは国に帰った時に高遠さんらのようにバッシングされるというようなことがあるのだろうか、と思った。自衛隊隊員が日本に帰還すれば当然歓迎されるだろう。自由意志で行くのはいけないようだ。スペイン軍は撤退することになったが、米軍がスペイン軍が駐留しているナジャフに突入すれば撤退が間に合うかどうか、と思ったと田中宇氏がメルマガに書いているのを読んだ。事態は切迫したものであることをあらためて思った。自衛隊も撤退の時期なのではないか。
2004年04月20日
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月曜日、てらのうち診療所へ。カウンセリングの合間に、取材にこられていた朝日新聞の取材を受ける。帰り、強い雨。よきサマリア人のたとえを思い出す。サマリア人はユダヤ人とは仲が悪かった。『ルカ福音書』(10:25-37)。あるユダヤ人が強盗に襲われ倒れていた。そこを通りかかった祭司や人々は見て見ぬふりをして通り過ぎた。ところが、あるサマリア人だけは、彼を介抱し、宿屋に運んで宿代まで負担したという話である。イエスはいった。「行って、あなたも同じようにしなさい」 福田官房長官の「自衛隊の人道復興支援をイラク国民がなぜ拒否するのかは非常にわかりにくい」という発言。むしろ非常にわかりやすいのではないだろうか。「もし分からない人がいれば説明が必要だ」。説明してほしい。「しかし、イラク国民の中で日本への信頼感が非常に高いことをよく考え、復興支援に携わる責任がある」。民間のボランティアやジャーナリストが日本への信頼感を築いてくれたのではないかと思う。解放された安田さんは「私は銃を持っていなかったので助かった。殺害された人質はみな銃を持っていたようだ」と語っている。安田さん、渡辺さんは「米軍の攻撃でイラク人がおおぜい死傷している状況をリポートしようと思った」「イラクの人々のためにやってきていても、自衛隊を派遣しているだけで同じ日本人とみられ、こういう目に遭うのは複雑な気持ちだ」と渡辺さん。自衛隊の撤退を考えない政府の今後の方針いかんでは、国内でのテロが起こり得る。テロに注意しましょう、といわれても注意しようがない。自己責任ということになるのだろうか(ならないだろう)。 自治会の集まりに行ってきた。自治会に入る人が少ないということが話題になっていて、聞くともなしに聞いていたのだが、こんな話だった。「○○町に引っ越してきたということはこの町が気にいったからだろう。それなら自治会に入るのは当然だし、会費を払うのも当然だ。入らないのなら、○○川の河原に住めばいい」云々。ここでいわれる町を国家に置き換えたらどうなのだろう、と考えていた。この国が気にいったからこの国に住んでいるといえるのか…実際問題として住む国を選べなかった。これからも気に入らないからといって国を変えることもむずかしいだろう。自治会に入らないのなら町に住むなという考えは、政府の方針に異を唱えたら人質解放の条件として自衛隊撤退があがっていても、一顧だにしてもらえないのに似ているように思う。日本には思想信条の自由がないのだろうか。自衛隊の派遣に反対していれば、家族が助けてほしいといってはいけないのだろうか。小泉首相に面会を要求してはいけないのだろうか。税金は払っている…
2004年04月19日
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高遠さん、今井さん、郡山さんが無事記憶。家族代理人の弁護士十人が連盟で書いた要請書にある「三人は死の危険にさらされた誘拐、拘束事件の被害者です」という言葉は、日本で報道されていないナイフを首に突きつけられた際の絶叫を聞けば、本当にそのとおりだと思う。安静と休養をじゅうぶんに取れることを願う。札幌市は週刊新潮四月二十二日号の広告が三人のプライバシーを侵害する恐れがあるとして市営地下鉄の中吊り広告の一部に目隠しシールを張る処置を講じた。asahi.comには、これに対する新潮社側の抗議のメッセージが載っていたが、今見たら削除されていた。不快なコメントだったのだが。 今回、無事だったから小泉首相の言葉どおり「よかった」わけだが、イタリアでは国軍のイラク駐留継続に賛成する人が急減しているという。犠牲になった人の遺族は政府がイタリア軍は撤退しないと明言しあたことを批判し、「政府はまず、武装勢力との交渉を進めるべきだった。強さをアピールするために人々の命をもてあそんでいるようだ」と話したという。事情は今回のケースでもあまり変わらないように思う。今後国内でテロがあれば、もはや自己責任というようなことはいえなくなるだろう。 ポール・ヴァレリーの『ユーパリノス』という本のことを思い出した。リルケはこの作品を読んでこんなふうに語っている。「私は孤独でした。私は待っていました。私の全作品が待っていたのです。ある日私はヴァレリーを読みました。そして私は、もう待つことは終わったと思ったのです」リルケはこの作品の翻訳に取りかかる。翻訳原稿は、死後、筐底に残されているのが見つかった。 ヴァレリーも手紙の中で書いている。「一人の著者にとって、一人のすぐれた読者の注目以外に真の報酬はない」「これこそ、ものを書くという奇妙な行為を正当化するにたる十分な目的であろう」そのような読者としてヴァレリーはリルケを念頭に置いているのだろう。そんな本をこれからも書いていきたい、と思った。
2004年04月18日
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残る二人のジャーナリストも解放された知らせを聞き、安堵。 今回イラクで人質になった人たちへのバッシングが激しく、雑誌記事にも個人攻撃としか思えない誹謗中傷記事が出ていることを新聞の広告で知る。彼らを叩くのは政府だけではないことに深い悲しみを覚える。 人質になった三人を擁護する記事(Japon:l'etan humanitaire)がLe Mondeに掲載された。今度の出来事は、日本の若者を動かす利他的な価値観を明らかにしているとして、利他主義に生き甲斐(supplement d'ame)を見出す若者がいることを指摘している。 あっという間に削除されてしまって驚いたが、朝日新聞の夕刊(4/17)にパウエル国務長官のインタビューについての記事が掲載されていた。「より良い目的のため、みずから危険を冒した日本人たちがいたことを私はうれしく思う」。日本では、人質になった人は自分の行動に責任を持つべきだと言う人がいるが、とたずねられ、パウエル長官は、「彼らや、危険を承知でイラクに派遣された兵士がいることを、日本の人々は誇りに思うべきだ」と反論した。高遠さんらを「イラクに派遣された兵士」と同列に論じていいかは疑問だが、このパウエル長官の異論がasahi.comですぐに削除されていたことに(記事そのものは残っていたがこの部分だけ削除されていた)驚いた。これも自主規制なのか。何を、あるいは、誰を怖れているのか。 国内で今回のようなことが起こったとしたらすぐにPTSD、心のケアというようなことがいわれると思うのだが(この件自体には異論があるのだが今はおいておく)、そんなことはいわれていないようである。それどころかチャーター便の費用の一部とドバイでの健康診断の費用について外務省は自己負担を求めるという。彼らは被害者ではないのか。問題の本質を、自己責任という言葉で感情的に訴えて責任転嫁することで見えなくさせているように僕には思える。
2004年04月17日
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聖カタリナ女子高校での今年初めての講義。年を重ねるにつれて高校時の実習以外の臨床経験がほとんどない若い人が増えてきて、今年は18歳の学生がほとんど。ついこの間まで高校生の時は45分の授業だったのにいきなり90分の講義になったことに慣れないように見える。初回はお互いに手探り状態。来週は徳島で講演なので次回は28日。去年まで毎回、帰る時に駅まで車で送っていただいたりお世話になった先生が亡くなられたことを知って驚いた。主任の先生は退職され、新しく看護科長が赴任され、生徒が入学し、すべてが新たに出発する。これが四月。 一般の対人関係の中でいえば逆ぎれと呼ばれるような政府の対応に驚く。目下の状況でイラクにいることを批判する声は大きいが、イラクの人を救援したり、真実を伝えようとする仕事をしている解放された三人、なお所在すら確認が取れない二人がそもそもそのような活動を必要とするような状況を生み出したのは、戦争を支持したことに端を発したのではなかったかということを思い起こしたい。何度も書いてきたが、戦争によって破壊しなければ復興も必要はなかった。破壊しておいた上で人道という言葉を使うことは適切とは思わない。自衛隊しか復興支援はできないという発言も報道されていたが、これも疑問に思う。イラクの人の信用を落とし、日本人であるというだけで攻撃の対象になるかもしれない状況を彼らは信用を回復するのに貢献しているといえるのではないか。安田さん、渡辺さんの無事が確認されていないのに、再び発言に力のはいってきたように思える小泉首相の発言を聞いていると、積極的に救出へ向けての努力がされていないのではないか、と思えるが、まさかそんなことはあるまい。今回のことはイラクで起こったので自己責任という言葉が聞かれるが、政府の対応いかんによっては今後は国内でも起こり得ると危惧する。
2004年04月16日
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高遠さん、今井さん、郡山さんが無事解放されて本当によかった。安田さん、渡辺さんについては依然安否がつかめていないことが気がかり。自衛隊の派遣、イラク戦争を支持したことについて、考え直してほしい。同じことがこれ以上起こらないように。昨日書いたように、イスラム宗教者委員会の聖職者によると、武装グループの声明文には、日本国内で自衛隊のイラク撤退を求める動きが高まったことが解放を決断する理由になったと書いてあるという。テロに屈しない、自衛隊は撤退しない、と声高にいっていてはいけない状況ではないか。昨日書いたように、イスラム宗教者委員会も自衛隊の派遣には反対しているのである。 一週間、メールのやりとりの中でも今回の事件が話題にならない日はなかった。他人事とは思えなかった。依然、心配は続く。何よりもイラクでアメリカ軍によって多くの民間人が犠牲になっていることに胸を痛める。 今日は前日の天気とは一転、快晴。京都ギリシアローマ美術館を訪ねる。蜷川明、岸子さんが四十年にわたって収集されたコレクションを一般公開した美術館で驚くほど充実したコレクションがあり驚く。80歳になられたという蜷川岸子さんから丁寧な解説をしていただいた。僕を見てどこかでお会いしたことがある、といわれるのだが、どこでかは僕にはわからない。古代に思いを馳せ、貸し切り状態で、静かな、悠久の時の中、あるいは無時間の中で過ごした。
2004年04月15日
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イスラム宗教者委員会の理事、アブドルサタル・アブドルジャバル師が朝日新聞の改憲に応じている。人質拘束などの戦術を取るグループへ、イスラム法の観点から規範を示すなどの影響力を行使している。気にかかったのは、師が日本の自衛隊派遣について「イラクの意向をまったく無視し、占領軍と日本の間で勝手に合意したこと」と強く非難していること。「日本には友情と信頼を感じていたのに、占領統治下で軍隊を送られてショックを受けた。たとえ人道援助活動とはいえ、部隊は部隊である」といっている。陸上自衛隊がサマワの小学校で子どもたちにバッジやジュースを贈ってもかいはないように思う(ここまで書いたところで、サマワで外国軍駐留に反対するデモがあり、自衛隊が言及されていたというニュースを読んだ)。 報道機関にも退避勧告が出ている。イラク情勢の報道は今後どうなるのか。フィリピンのアロヨ大統領は、イラクに派遣している人道支援部隊の撤退を検討していることを明らかにした。「イラク人民を支援することを決意しているが、我々の派遣部隊の安全が確保されるかどうかが最大の関心事だ」オーストラリアのハワード首相は、イラクにいるオーストラリア人は国外に避難しなくていい、といっている。asahi.comの報道によれば、ブッシュアメリカ政権寄りで知られるハワード首相は、アメリカによるイラク占領統治への支持を示そうとしたと受け止められているという。「事態は次第にむずかしくなっているが、屈服するような状況ではない」日本は民間人に退避勧告を出す一方で(それほどイラクは危険なところであるという認識)、他方、サマワの治安は安定してきているとして活動を再開し、新たな航空自衛隊の部隊を派遣したのだが、一貫性がないように思う。 今井紀明さんの父親が「息子を誇りに思っている」と日本外国特派員協会での記者会見で。今の状況でなかなかいえない言葉だと思った。 野上弥生子と田辺元の往復書簡の続き。日本では古稀を過ぎては過ぎては小説は書けないという評論を読み、そんなふうに決めてかかることを野上は情けないことだと思ったという。「少なくとも私はそんな仲間にはなり度はございません。生きてゐるという事は、自分の道を歩りく事でございますもの。その道を捨てたとすれば、死んでゐると等しいのですから、生きてもそれは屍でございます」(p.387)「命を賭しての覚悟」とはこのようなことをいう。
2004年04月14日
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今日から明治東洋医学院専門学校で講義。しばらくは教員養成科での教育心理学。今年は学生が多く、例年とは違って大きな教室で講義をするので勝手が違う。講義の途中でも質問があったり、例年になく積極的に講義に参加してもらえありがたい。このクラスは24回講義をすることになっている。 朝から日差しが強かった。影にいると風が心地よかった。しかし解決しないイラクの事件のことを思ったら心はたちまち曇った。囚われの身になっている三人の様子が連日放送されているが、あれがすべてではなく、刃物を首に突きつけられているところなど相当逼迫しているのがわかる。規制されているのではなく自主規制がされているようだが、カットされた場面があるのとないのとでは受け取る印象が違ってくる。 サマワの陸上自衛隊が宿営地外での活動の一部を再開した。現地の治安が安定してきているからだというが、まだ人質事件が解決しておらず、自衛隊の撤退を犯行グループが要求しているというのに、配慮が足りないのではないか。 去年書いたことを思い出した。司馬遼太郎が敗戦前、上陸した米軍を迎え撃つ戦車兵士として栃木にいた。近所で遊ぶ子どもたちの将来のためにと死ぬ理由を思い定めようとしていた。司馬は考えた。いざ出動の時、街道は北上する避難民であふれるだろう、と。「交通整理はあるのですか」と大本営からきた参謀にたずねたら答えはこうだった。「ひき殺していけ」(『有事法制批判』岩波新書、pp.72-3)。 沖縄の地上戦でも日本軍は沖縄の人を守らなかった。戦争になった時、民間人がどんな運命に曝されるかは今回のことではっきりしたように思ってしまうが、思い過ごしであればいいとは思う。早い解決と三人の無事を祈る。
2004年04月13日
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今日も進展なくいよいよ心配。自衛隊の撤退を一つの選択肢として残すことすらしないで、救出の交渉がうまく進むのか。それどころか、航空自衛隊の派遣隊員第二陣がクウェートに向けて出発したという記事を読み、驚く(驚いてばかりだ)。まだ人質事件が解決しておらず、治安もさらに悪化しているというのに、せめて延期するというような配慮はなかったのか。自衛隊の撤退が要求されているというのに、撤退どころか、あらたに派遣することがどう受け止められるかというようなことは考えないのだろうか。 体調不良を訴えていたアメリカ軍のサマワからの帰還兵の尿から劣化ウランが検出されていた、と元アメリカ陸軍軍医のアサフ・ドラコビッチ博士が報告している。自衛隊員の被爆の可能性も極めて高いということである。 生や死は哲学の中心的なテーマだが、基本は身の回りの(イラクでも心理的には近い)出来事から切り離して考えることはできない。 THE BOOMに「釣りに行こう」という曲がある。この曲は矢野顕子ヴァージョンがあるが、宮沢和史が学生時代から矢野との共演を願っていて、「祈るような気持ちで」共演を申し込んだところ快諾されたというもの。宮沢は矢野との共演を想定してこの曲を書いたという。 宮沢の最新のアルバム『SPIRITEK』所収の「何もいらない」で宮沢は矢野と共演している。矢野はピアノを弾いている。ピアノの音色が僕を誘った。二人の個性がうまく歩み寄った時に、ぱっと花開くようなテイクが取れる。その後はいくらやっても同じものは録れない、そんなふうに宮沢は語っている。プロデューサーの吉野金次氏は、力一杯歌う宮沢に矢野が素早い反応を見せたというが、矢野は宮沢が私のピアノをよく聞きながら歌っていたという。共演というのはこういうのをいうのか、と思った。矢野はいう。「宮沢さんが、わたしのピアノをよーく聞きながら歌っている時、それは特別な空間を二人でつくっている時なのです。そこには誰も入れてあげません。意地が悪いのです、わたしは。だって、誰にもこれを邪魔されたり、壊されたくないんですもの」このような一回きりの特別な経験は何にも代え難い。このような時、人はミンコフスキーのいう「生きられる時間」(Le Temps vecu)の中にあり、加藤周一のいう「美しい時間」の中にいる。そのような時間を奪う戦争に反対する。
2004年04月12日
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人質が解放されるという速報を早朝に見て喜んだのに進展がなく気掛かり。これで自衛隊を撤退しなくてすんだという思いが伝われば、犯行グループが態度を硬化するということはあるかもしれない。声明文には正直驚いた。市民の生命を軽視する日本政府の姿勢、日本の政治家は国民の意思を反映していない、など本当にそのとおりだと思って読んだ。撤退する気はありません、という首相の発言、家族には会わないという姿勢などはグループには「高慢」と映っている。僕も同じように感じた。いい方向で問題が解決するように。解決した後も、しかし、問題はこれで終わったわけではない。イラク特措法に鑑みて、もはやイラクは戦闘地帯であることは疑いないと思うのだが、現状にあっても自衛隊を撤退しないのであれば、その目的が(やはり)人道復興支援ではなかったことが明らかになることになると思う。 何度も書くが、戦争は想像力の不足、あるいは欠如が引き起こす(『不幸の心理 幸福の哲学』p.1151)。人一般が傷つき死ぬわけではない。この人あの人が傷つき死ぬかもしれない。それは家族かもしれない、愛する人かもしれない。イラクではこれまでにたくさんの人が殺されてきて、そのたびに悲しみにくれる人たちが必ずいるのである。そういうことに思いを馳せると一瞬たりとも安閑としていられない。11:02 AM 依然、事態の進展がない。asahi.comに、サマワ市民は自衛隊が復興支援のためにきていることを理解しているという一人の市民の声を引用し、見出しにサマワ市民の声というふうに掲げていて驚いたが、後に見出しが変えられた。宮内勝典氏は、日記の中で、僕の立場よりもっと徹底した立場で自衛隊撤退を訴えている。驚いた。安倍幹事長が今回の事件に関連して「(憲法が禁止していると解釈されている)自衛隊による海外での邦人救出を可能にしなければならない。邦人の救出はいわゆる武力行使とは違う」と発言しているという記事をMainichi Interactiveで読む。驚いた。PM 18:35 ジャーナリストの広河隆一氏のホームページ(「広河隆一通信」)から、イラクで拘束されている三人の全映像の一部を見ることができる。全体で7分ほどあり、日本で報道されているのはそのうち差し障りのない場面だけであることを知り驚いた。事態が一刻も早く改善するように願う。
2004年04月11日
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人質事件のことが気がかり。知らない人に起こった他人事だとはとても思えない。家族との面会を小泉首相が拒否したというニュースをFM放送で聞いたが、インターネット上でのニュースではまだ確認できていない。今、読んだasahi.comによると、アハメド・ヤシン軍団を名乗るイラクの武装組織が、日本人を含む外国人30人を人質として拘束しているという。暗澹たる思い。こういうやり方は卑怯ではないか、といわれればたしかにそそうだが、池澤夏樹が書いていたが、では劣化ウラン弾を使うのは卑怯ではないのか、遠くから巡航ミサイルでバグダッドを破壊するのは卑怯ではないのか、という話になってくる。戦争の愚かさを思う。 哲学者の西田幾多郎は、晩年ギリシア哲学に興味を持ったがギリシア語を学ぼうと思っても、「あの煩瑣な文法を有ったギリシャ語は、見ただけでも肩を聳さざるを得なかった」と書いている(『続思索と体験』岩波文庫、p.213)。その西田をしてギリシア語を学ぼうという気にさせたのは、ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』の中にある次のような言葉であった。夏のある日、子どもの時に学校で読んだクセノポンの『アナバシス』を取り出してきて、読み始めた。これを読んだ少年の頃の思い出が亡霊のように心の中にうごめいた。数日後には読み上げた。「たとえこれ(『アナバシス』)がギリシア語で書かれた唯一の現存する作品だとしても、それをよむためにだけでもギリシア語の勉強をする値打ちは大いにあろう」(岩波文庫、平井正穂訳、p.103)。 僕は実のところこの作品をそれほどおもしろいとは思ったことはなかったのだが、ギッシングが引いている個所はたしかに心を動かされる。例えば、第四巻にはこんな話がある。二人の男が捕虜になった。これから進むべき道筋についての情報が必要なのでこの二人は殺されることなく生け捕りにされた。「そこで直ぐにその二人を連れてこさせて、今見えている道のほかに、別の道を知らぬかどうか、別々に尋問した。その一人は、さまざまな威嚇を加えられながらも、知らぬと言った。その男は何一つ役立つことを言わぬので、もう一人の男の面前で惨殺された。もう一人の捕虜の言うところでは、先の男には行く先の土地に嫁いで、夫と暮らしている娘があるために、知らぬと言ったのだという」(松平千秋訳、『アナバシス』筑摩書房、p.112)。ギッシングは、このわずかな言葉の中に含まれている以上の哀感を表現することはなかなかたやすいことではない、と書いている。ギッシングは「あらゆる時代の人々の感動をさそう、人間の愛情と犠牲のすがたが輝く」といっているが、戦争というものがもたらす悲劇を思って言葉が出なくなる。 前の家に行き、本やCDなどを大量に持ってきた。澤柳大五郎の『ギリシアの美術』(岩波新書)を見つけた。『イリッソス河畔の墓碑』の写真を見たかったのだ。死者の遠在、目の前にありながら既にこの世を去った人であることがわかる。視線はこの世で愛したであろう人の前にいるにもかかわらず、あらぬ方に向けられている。夢に見た亡き母もいつもそうだった。悲しい。
2004年04月10日
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人質事件は進展しない。こちらはそんなつもりではなかったということは通用しないということをよくカウンセリングなどで話をすることがある。大事なことは相手がどう受け止めるかで、たとえ相手のためを思ってしたことでも相手がそうはとらなかったら相手の判断の方が優先される。今回の事件でまず思ったのはこのことだった。人道支援のために自衛隊を派遣したといっても、残念ながらそうはとらない人がいるというのはまぎれもない事実である。今後も同じような事件は繰り返されるように思う。自衛隊の撤退以外にできることは今はないように僕は思う。今回の事件のみならず、これからも起こり得る事件を防止するために。 NGOに任せれば年間1億円以下の予算で10万人分の水が供給できるのに、自衛隊が300億円を超える予算で1万6000人分の水しか供給できない。しかも自衛隊がいればNGOの活動は進まない。平和のための活動家というより、イラクに軍を送りこんだ国の国民と見なされてしまったのである。国内でテロがもしも起こったとしても同じである。我々も同じように見なされることは必至である。 当初の情勢とは違ってサマワは安全なところではない。ロケット弾が撃ち込まれたり、サマワにいる日本人記者に対して宿営地内に参集するようにという呼びかけがされた。情勢が変わったのであればそれに応じて対応を変えていけない理由はない。最初の決定に固執することが最善ではないことは日常の場面でもいくらでもあることだと思う。もしも人道支援の派遣だというのであれば、少なくとも今は自衛隊による支援は不可能、もしくは困難であるのであるから時期を待つということも必要なことではないか。撤退を決めることがテロに屈することになるというのであれば、今回の事件とは別の次元ですればいい。撤退するのも勇気である。 戦争について考える時に、「具体的に」考えることを余儀なくされている。小泉氏も同じだと思う。人一般が傷つき殺されるという次元ではなく、映像に写っている他ならぬこの人たちの命が危ういのである。
2004年04月09日
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日本人三人が拘束されたというニュースを帰宅後見て驚く。福田官房長官は、「そもそも自衛隊はイラクの人たちのための人道復興支援を行っている。自衛隊が撤退する理由がない」といっている。見殺しにするつもりなのか。撤退以外に道はないと思うのだが。人質になっている高遠菜穂子さんの弟の修一氏は、「肉親を拘束されている家族としては『撤退する理由がない』とはどういうことか問いたい」と訴えている。この訴えにどう答えるのか。高遠さんは自衛隊の派遣に反対していた。現地で一緒に活動した友人の中島淳史氏は「武器を持たずに支援に向かった人に被害が及ぶのは、自衛隊を派遣したからだ。撤退させるべきだ」という。他に方法があれば教えてほしい。国家の正義のために三人の命などとるにたらないとでもいうのだろうか。自衛隊に何かがあっても、国内でテロがあっても、政府はテロに屈してはいけないの一点張りで、国民の命を守ろうとはしないのではないか。 尼崎市で保育士研修会。忙しい時期のようで一様に疲れた、と。そんな中参加してもらえてうれしい。 寺山修司の『ロング・グッド・バイ』(講談社文芸文庫)を手に入れる。短歌や俳句を書いていたことを最近知った。若く亡くなったのは知っていたが、気がつけば僕はもう寺山の歳を越していた。「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」
2004年04月08日
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予定が空いたのでどうしたものかと思っていたが、結局、いつものように朝方まで仕事をして昼頃に起きる。昼間も真っ暗で誰にも邪魔されない部屋で寝ると目覚ましがなければいつまでも寝てしまいそうである。起きてからまたしばらく仕事に戻る。前にも書いたが、いつでも仕事ができるようにコンピュータを常に起動してあり、本も広げたまま。すわると(たぶん)10秒以内に仕事モードになる。ただしこんなことをずっと続けられるわけもなく、仕事の合間に本をあれこれ読んだりする。昨夜は久しぶりに長電話。 その時も少し話したのだが、単語や思い出はどこに記憶されるのか。昨日の日記にも名前を言及したが、精神の中にあるというベルクソンの説明が気にいっていて、この話を続けると、心は身体より生きながらえるかという話になったはずである。personalな不死についてこのところずっと考えている。パリで買ってきたベルクソンのLa pensee et le mouvant(『思想と動いているもの』)を書棚から取り出してきた。 (ベルクソンの直観のことについて書こうとしたがうまく書けないので他日。intuitionはin tueor内から見ること、というところから始めて書こうとした) 野上弥生子がこんなことを田辺宛の手紙の中に書いている(pp.282-3)。「昨日は帰って参って時計を見てびつくり致しました。御散歩の時間までお失はせ申あげましたこと、どうぞ御許し下さいませ」時計はいらない。こんなふうに過ごせることの幸せを思う。
2004年04月07日
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朝まで根を詰めて仕事。苦しいけれど頑張れる。仕事の合間に少しずつ田辺元と野上弥生子の書簡集を読み進めている(手紙なので急いで読む必要はないだろう)。二人が実に勤勉に仕事をしているのがわかるのではずかしい。二人は共に軽井沢にいる時は五日目毎に会って、田辺は野上に浅間山を眺めながら差し向かいの哲学の講義をする。野上が帰ると、田辺は厳しい北軽井沢の自然の中、弥生子のことを想い、その想念をエラン・ヴィタル(l'elan vital、生の飛躍)にしている。 図書館に行って、先週読めないままに返してしまった本を再び借りてきた。そのまま書架に残っていてよかった。でもきっと他の誰かが読むとは思えないのだが。『若い詩人の肖像』(伊藤整)『フランドルの冬』(加賀乙彦)『上田三四二全歌集』 エラン・ヴィタルはフランスの哲学者ベルクソンの言葉だが、九鬼周造がベルクソンに会った時のことを伝えている(「回想のアンリ・ベルクソン」『九鬼周造随筆集』岩波文庫)。九鬼がたずねた時、お嬢さんが出てこられた。三十歳くらいで、障害があってベルクソンとは手話で話していた。ベルクソンの晩年の思想傾向に内面的に関係があるという人もあるようだ。芹沢光治良がどこかでベルクソンの哲学がわかりやすいのは(言葉の点でという意味である)、娘にわかる言葉で語ろうとしたからであるということを書いていたと記憶する。僕はいつも心がけているが、まだまだである。 サドル派の反米暴動について息子にコメントを求めたが、ソマリアの二の舞いだという答え。それ以上の説明は拒まれた。ニュースについていけてない。 イラクのニュースと比べたら注目の度合いは低いかもしれないが、塾に行かないことに腹を立て口論になり、母親が7歳の子どもを絞殺したというニュースは心が痛む。どこの家庭にも起こり得る。こんな時どう対応するかについてたずねられるので、僕はよく講演やカウンセリングで話す。
2004年04月06日
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昨日は疲れていったん寝てしまったが夜中に目が覚めた。日記を書かずに寝ると、寝ていても気になる。仕事をしようかと思っていたが、メールの返事を書いたら、安心してまた眠りについた。 土曜、日曜のアドラー心理学基礎講座応用編の講師を1991年からしている。去年で閉講すると聞いていたので今年度は(今年は僕の担当はこれが最後)思いがけず開かれることになってうれしかった。ふと『アドラー心理学入門』のあとがきに書いたことを思い出した。 僕はウィーンのオッペンハイムのことを引いた。彼は、アドラーの学校教育グループのメンバーであると共に、大学ではギリシア語を教えていた。オッペンハイムに教えを受けた人の証言によれば、ただギリシア語を教えていただけではなく、その講義はソクラテスやプラトンの精神を体現するものだったといわれている。後にユダヤ人であるオッペンハイムは収容所に送られ殺される。 初めてオッペンハイムのことを聞いた時、僕も奈良女子大学でギリシア語を教えていたので、自分と重ねて考えた。その頃、哲学とアドラー心理学を自分のうちでどんなふうに位置づければいいか迷っていた。あとがきにこんなふうに僕は書いている。「しかし、オッペンハイムの人生を知り、迷いが吹っ切れたような気がして、以後、自分にできることは、アドラー心理学を初めて学ぶ人たちに教えることである、と決心することができました」(p.186)。かくて、僕は、アドラー心理学も、また、ギリシア語もいってみれば永遠の初学者である。毎年、αβから教え始めるが学生はすぐに僕に追いつき、追い越し、僕があれほど苦労して読んだギリシア文を容易に読みこなせるようになる。アドラー心理学も同じである。僕は最初少し後押しをするだけ。そういう役割は気にいっている。ただこの最初の後押しが功を奏するために勉強しないといけないのはいうまでもない。喩えてみれば(恐れ多いことだが)法然上人が万巻の書を読んで南無阿弥陀仏という言葉に一切を集約したように。 相手の関心に関心をもつという話をした時にこんなことを考えていた。同じ本を読んだり、同じ歌を読む時、どこに興味があって読んだのか、と気になる。きっと僕とは違うところが違うふうに興味を引いたに違いないが。同じ感じ方、見方であったことがわかるとうれしいし、違っていたら僕の世界は広がる。 午後からてらのうち診療所でカウンセリング。
2004年04月05日
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二日にわたる講義を終了。後半は講師が変わるので僕は今回のグループの人たちには会えない。生涯に一回きりのグループだったわけである。帰ってからコーヒーを飲もうとして一口にした途端に寝てしまったようで、今頃起き出して日記を書いている。 年齢やバックグラウンドが様々なので話の焦点を定めるのは簡単ではないのだが、終わってみて思ったのは、私がどう生きるのかという話をたくさんしたということ。この私がこの私のことだけを考えるのではなく(自己執着Ichgebundenheitを脱する)他者のことを考える、他者から与えられ、かつ与え、今ここの関係をいかによくするかというような話である。また、人生の周辺部で闘う(battle on a sideline)のはやめよう、そうではなくて、言葉で主張しようという話などなど。 東京からこられた人が帰り際握手を求めてこられて、「これが始まりです」といわれたのは印象的だった。始まりのきっかけを作れたとしたらうれしい。後は僕の力を借りなくても前に(かどうかわからないが)進んで行かれるだろう。
2004年04月04日
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大阪でアドラー心理学基礎講座一日目。2時から8時まで話し続ける。明日も6時間話す。とはいえ、双方向的な講義なので、講義の途中でも質問が入るので実質的に話している時間はそれほどではないかも。でも聴いている人にたずねてみないとわからない。かなり話しているかもしれない。二日目は講義の時間をもう少し短くできそうである。帰り、脳が酸欠状態になったのではないかと思うほど疲れて、持っていた紙袋を三回も落としてしまった。今は、帰る途中の疲れがどこかにいって覚醒状態にある。こんなので寝られるのだろうか。 いつものことだが講義の初めはずいぶん緊張する。ところが、と受講された人が指摘されたことには、僕は、緊張からリラックスへの切り替えの時間が早い。どうしたらそんなふうにできるかという質問が出たのだが、ふと答えながら、どんな状態が緊張ではなく理ラックしているといえるのかということを考えていた。「気が合う」というような言い方をすることがある。僕は実は人と話をする時ひどく緊張するのである。目を見ることも顔を見ることもできないことがある。それなのにある時、話していて、少しも緊張していない自分に気がついた。何も怖れずに思ったことを口にする。話し終わると、話し終わったよという感じで目が合って、一呼吸あって今度は相手から言葉が返ってくる。何時間でも話し続けられると思った。会話の間が心地よかったのである。今日もこの時の感じをイメージして話してみようと思う。
2004年04月03日
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西田の歌碑を見たので書棚から西田の歌を収めた本があるのを思い出して読んでみた。前にも読んでいるはずだが、今回は共感する歌をたくさん見出した。西田の痛み、悲しみが強く伝わっている。 森山良子の『さとうきび畑』を聴く。十一番まであるオリジナルの歌なので、これまで聴いたことがない歌詞があった。「父の声をさがしながらたどる畑の道」カウンセリングの間の時間なのに聴いていたら不覚にも涙が出た。西田は二十三歳の息子を亡くしている。病気であっても悲しみは癒えないのに、戦争であればいよいよ悲しみは深いだろう。最近亡くなられたこの曲を作った寺島さんの思いのことを考えた。「風に涙はかわいてもこの悲しみは消えない」 過日、岸和田市の公民館で講演会を二度したが、担当の杉山さんから手紙をいただく。受講者の反響が大きかったとのこと。 カウンセリングに二人こられる。話のあるところで同じ話をしているのに気づいた。すべてを他人のせいにしてはいけないが、すべてが自分のせいだと考えることもないという話。この世界のあり方や自分に起こっていることについてその責任は通常考えられているよりもあるのは本当だが、責任を認めることと自責的になるということは必ずしも同じではない。私が悪いのだ、と自分を責めてみても、そのことでは直面する問題を解決することはできないだろう。
2004年04月02日
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快晴の一日。いつものように遅くまで仕事。京都、東山の哲学の道を訪ねた。JRの情報だとまだ咲き初めということだったが、インターネットで調べたところ、一日には満開だとあったので矢も盾もたまらなくなった。桜の花もさることながら、池田晶子さんの『2001年宇宙の旅』に池田さんと藤澤令夫先生が哲学の道で並んで写っている写真があって、これがどこなのかつきとめてみたいと思った。南禅寺から銀閣寺の方に向けて歩いたが、なかなか見つからなかったのに、もうすぐこの琵琶湖疎水に沿った道が終わろうとする直前に写真通りの場所を見つけることができた。 西田幾多郎の歌碑を見つけた。何度も通った道なので初めてではないはずだが。「人は人吾は吾なりとにかくに吾行く道を吾は行くなり」 これは昭和九年に詠まれた歌である。家庭生活では不幸が続いた西田の歌は深い悲しみの響きがこもったものが多い。他にもっと優れた歌はあるが、この歌は、今の僕の心境を表しているように思えた。 先月の終わりから京都のてらのうち診療所で働くことになった。もちろん非常勤で、今後まだどんなふうになるかわからないのだが、所長の澤田先生が僕のことをよく理解して大切にしてくださるので僕はありがたい。結局、去年教えていた学校の一つとは契約の更新ができず(非常勤というのはいつも突然の解雇の危険に曝されている)四月を迎えてしまった。転勤、退職、卒業、婚約など、僕のまわりの人たちの状況は四月で大きく変わったが、僕も今年は診療所で働くことになったり、新しい学校で教えることになったり身辺の変化は著しい。どちらかというと保守的な僕としては変化は苦手だが、新しい場所でも自分が必要とされていることを感じられたら、と思う。 宮沢和史のアルバムが出ていることをカウンセリングにこられている人に教えてもらっていたのに仕事に心を奪われていて手に入れないでいた。『SPIRITEK』は宮沢が他のアーティストに提供した歌を自分で歌っている曲が収めてある。「何もいらない」は矢野顕子がピアノを弾いていて、とりわけ気にいっている。「いつからだろう、思い出よりも今日一日が愛しく思う」
2004年04月01日
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