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岸和田市の公民館で講演(家庭教育学級)。熱心に聴いてもらえ、質問も出て、めずらしく時間を延長して話してしまった。岸和田には縁があって、何度も講演に行っている。台風のことが気になっていたが雨も止み、電車の中から遠くに虹が見えた。写真を撮りたかったのだが電車からは当然できないので残念に思っていたが、帰り突然雨が降り出し、思いがけず再び虹を見ることができた。今度はためらわらず次の駅で降りて、写真を撮った。虹はすぐに消えてしまった。『星の王子さま』でも使われていたephemere(はかない)という言葉を思い出した。 電車の中で、森有正の日記などを訳した二宮正之の『私の中のシャルトル』(ちくま学芸文庫)を読み返す(2003年9月17日の日記にもこの本について触れた)。二宮が健康をそこないパリの病院に入院していた時、忙しいはずの森が連日のように見舞いにやってきた。そして自分が演奏したバッハのオルガン曲のカセットを持ってきて静かに病室に流した。「人間はどんな情況に居たって自由でいられるんです。リールケなら牢屋の中でも自由だったでしょう」。そういって寝ている二宮を慰めた。「詩人が言葉をうしなうとき」というエッセイは森が頚動脈に変調をきたし、言葉を失って以後の森の最後の日々を綴ったものである。「今度は病床にある森さんのためにそのテープをかけながら、私は、肉体という牢獄の中で苦しめられていても、森さんが自由であってくれるようにと願っていた。寝ている森さんにもパリの空は見えた」(p.197) 脳梗塞で身動きがとれなくなった母が手鏡を使って外の景色を黙って見ていた光景を思い出した。
2004年09月30日
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台風の被害が出ているようで心が痛む。前の家に住んでいた時はこれだけの雨風だと家が揺れ、雨がもれたり大変だった。マンションだと窓を閉めていると気配もわからないが、台風がくるたびに毎年のように浸水していた頃のことを今でも思い出さないわけにはいかない。 朝方まで眠れなかった。今日はカウンセリングの予約などが入ってなかったので、通勤に4時間かかったと考えて、その分、休もうと決心してゆっくりすることにした。またいつものように身体が熱くなって目が覚めたのだが。夕方頃、ようやく机に向かう気になった。 星の王子さまははたして自分の星に戻れたのか、あの薔薇と再会しただろうか。薔薇は素直に思いをあらわせるようになれただろうか、と浅い眠りの中で考えていた。 眠れなかったのは一つは本の構想を練っていたからである。森有正が書簡体の本を書いているが、四部作の(になるはずだった)中の一冊である『砂漠に向かって』について、「わたくしは全体の不統一をまだうまく消し去れないので、この本にはかなり不満である」と書いている(『アリアンヌへの手紙』書簡45)。しかし書簡体だと最初から統一というようなことは無理なのではないか、と考え始めてしまった。どうしたら統一ができるのか、そもそも初めからそんなことを考えないほうがいいのではないか。森は《潜在的な》構造を《ねり上げる》仕事という表現をしているが、これなら少しわかるような気がする。膨大な原稿を前に途方にくれている。後は、個人的な心配事。いつも心配ばかりしている。 辻邦生が、私が書くのは自分の思念を正確に表現するためで名文を書くためではない。できる限り、文章を透明にし、私が考えたこと、感じたことが、じかに、あたかも文章なぞ仲介になっていないかのように、相手に伝わっていくようにしたい、といっている(『パリの手記』1、p.7)ことを思い出した(前にも日記の中で引いた)。文章を透明にするなど今の僕にはできないし、自分の文体を意識しているように思う(思うように書けないことを意識するという意味だが)。「各人の辿る道は、実際、予見不可能である」という森の言葉を引いたが、予見不可能であるし、道を辿っていくことは、他の人が代わることができない。予見不可能であるから怖い。なんとなく決められた道を歩くというのではないのである。導きがあっても(それはありがたいことである)なお歩むのは自分でしかありえないという現実は変えられない。
2004年09月29日
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結局3時過ぎまで起きていて、朝早く講義に出かける。教育心理学の講義は今週も学生の発表。こういう機会に慣れていないと思うのに、どの学生も臆することなく、わかりやすい講義なので学ぶところが多々ある。 帰宅後すぐに原稿に向かおうとしたが、眠くて少し横になることにした。二時間ほど寝た後、身体がひどく熱くなって目が覚めた。非常に不快。気を取り直して仕事をしようとしたが、うまくいかなかった。でも仕事に関してはいい方向に向かいつつある。この夏は本当によく頑張ってインプットしたので、インプットしたものをアウトプットしていきたいと思う。 森有正が仕事についてこんなことをいっている。「僕はこの頃よく変わった考えをするようになった。それは仕事は延ばせば延ばすほどよい、ということだ。今までは仕事がなかなか纏まらないという焦燥のような気持ちが時々起ったが、今は逆になり、仕事そのものの方が息が続かずに早く纏まるものが不安になってきた」(『城門のかたわらにて』全集2、p.26) 締め切りのある仕事はなかなかこんなわけにいかないこともあるが、ずっと温め続けることは大事なことだと思う。前著の中の原稿には本当に古いものがあって、修士論文くらいまでさかのぼれるものもある。焦らないで質の高い仕事がしたい。「各人の辿る道は、実際、予見不可能である。しかし、怪物ミノタウロスを退治したテセウスをアリアーヌの糸が導くというあの伝説、そうなのだ、あの伝説がわたくしの心を打つ。錯綜した迷路の中で、アリアーヌの糸がテセウスを…目標に導く。わたくしは、わたくしのアリアーヌ或はアリアンヌの糸を熱を帯びた手で辿る…」(『アリアンヌへの手紙』書簡33)
2004年09月28日
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今日は診療所でカウンセリング。ずっと予約がつまっていた上、雑誌の取材もあって、その後ようやく診察を受けることができた。血圧の薬は半分に減らすことができそうだ。熱については、低いのがむしろ異常なので、僕くらいの熱なら問題はない、とのこと。でも、時折ふいに高くなるとつらいのだが。夜もカウンセリング。疲労困憊。昨日、メールの中で僕の仕事は時間は自由になるということを書いたのだが、今日のような一日だと、以前、京都の精神科に勤務していた頃と変わらない。ようやく今になって自分の時間をもてる。でも、またすぐに朝早く出勤するという繰り返し。僕にはそんな生活を長く続けることができなかった。 書く材料がかなりそろってきたので少しずつ書き始めた原稿がある。一体、どんなふうになるのか。森有正が、書簡体、あるいは日記体の一連の作品(『バビロンの流れのほとりにて』『城門のかたわらにて』『砂漠に向かって』、四冊目はとうとう書かれることはなかった)について、全体の構造が形作られ、次第次第に詩的な形をとること、ますます音楽の形になることを期待していると書いている。そしてそんな作品に適する形としては散文詩しかないのではないか、と書いている。心動かされるのだが、僕にはそんな力はない。でも、全体の構造を形作っていくといっていることは興味深く、そんなふうな本を書けたらと思ってしまう。 疲れているはずなのに、全然眠りが訪れない。昨日は(もう日付が変わってしまった)必死で話し続けた。自分が話したことや、クライエントさんたちが話されたことが思い出される。一日に7人も8人もカウンセリングをしていた頃(精神科に勤務していたのである)、ミルトン・エリクソンが一日に一人とか二人の診察しかしないという話を呼んでうらやましいと思った。退職したら、僕もそんなふうにして生きたいと思った。もちろん、これだけでは生計を立てるわけにはいかないのだが、ほぼそんなふうにゆっくりとカウンセリングをする生活を実現することはできた。それなのに、昨日のようにカウンセリングが集中してしまうと、苦しい。もちろん、カウンセリングにこられる一人一人にはそんな事情は何も関係のないことなので、そんなふうに見せないで話すことはできたはずなのだが。作家だけでは食べていけないので、会社勤めしている人の話をふと思いだした。カウンセリングもしないで、学校でも教えないで、一日中、翻訳をしたり本の原稿を書き進めたりできたら、と思うことがある。要はいつまでも足ることを知らないということなのかもしれない。 森有正のついに書かれることのなかった本の題名は『荒野に水湧きて』となるはずだった。「私の書物は段々複雑になって来たようにみえるかも知れない。しかし私の生活はますます単純になって来た。「砂漠」とそこに「湧く水」(オアシス)、それだけが私にとって人生である、と感ずるようになって来た。この二つは私の中でいよいよ鋭く対比するようになって来ている。それを私は書きたいと思う」
2004年09月27日
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夜、眠りにくくて、仏文で短いメールを書いてみたり、訳稿のチェックを少ししたら(といっても根を詰めたわけではないのだが)眠れなくなってしまった。最近は夜に眠れる日が続いていたのだが。夜明けにようやく眠りにつく。それでも、朝に薬を飲まないといけないので、起きたのはいつもより少し遅めの時間だった。 何かの演奏会に出る夢。ところが僕は遅刻してしまう。ようやく会場に着いた時、「待っていたんだ」と声をかけられる。僕はいつも待つことはあっても、僕のことを待っている人がいるものなのだ、などと少しひねくれたことを考えていた。 今日は仕事に時間を費やすことができると朝からはりきったのだが、昼過ぎ、また熱が出てしまった。こんな場合、冷やすのがいいのかわからないが、眠ることも、本を読むこともできないまま、じっと時間が経つのを待っていた。 熱が引いてから、森有正の『アリアンヌへの手紙』を再読(原文はフランス語、二宮正之訳)。アリアンヌへ宛てた46通の手紙から成るこの本を今回読み返して見て発見が多かった。アリアンヌは有正のアリと、森の宇宙に彗星のごとく現われた女性の名前を組み合わせたものであるが、ギリシア神話のアリアーヌの名前も重ねられている。また、リルケがサロメに宛てて書いた書簡体の日記である『フィレンツェだより』にもつながっている(森自身の翻訳がある)。 書簡の三で、いきなり過去相に生きるという話がでてくる。これは後に(書簡十三)次のように説明されている。「過去とは既に終り我々の手に及ばぬ何物かである。そこでは凡てが決定的なかたちを帯びている。今の一瞬が決定的なものであるかのように生きること、否、かのようにではない、端的に決定的なものとして生きるのである」 このような生を自由に生きるのだという。 「こうしてわれわれは自分自身の運命を生きているのである。これは運命論者ということになるだろう。しかし、自由な、自らに根元をおく運命論者であり、これはニーチェが「永遠回帰」とよびキルケゴールが「反復」と言ったものである」 しばらくこの森がいっていることの意味を考えてみようと思う。 森がアリアンヌに、どうしてあなたは私に会いたいのか、電話をかけたいのかたずねられた、と書いているところは注意を引いた。こんなことをたずねられたら大いに困惑するだろう。あるいは、答えは簡単この上ないか、どちらかである。 この書簡が実際に書かれたものであるならば、森は毎日書く厖大な日記の他に長文の書簡を毎日のように書き続けているというのは驚きである。書簡二十一はこんな書き出しで始まる。「親しいアリアンヌ 骨の髄まで疲れ果てて、今帰宅したところである。そしてわたくしはすぐにタイプライターに向う。あなたに手紙を書くことによって、一日中わたくしに禁じられていた人間らしい心の一片なりとも取り戻せたらと思うからである」 この気持ちは僕にはよくわかる。しかしこんなふうに思って書いた手紙が相手にどう受け取られるかは、また次元の違う問題であるだろうが。
2004年09月26日
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カウンセリングの日。朝から不調で熱。身体が熱を出すことを必要としているという説明を主治医から受けたが苦しい。カウンセリングとカウンセリングの間に、熱を必死でさます。ぼんやりとした頭で、数日来、とりあげている『星の王子さま』のことを考えていた。 王子さまは、遠い星に残してきた薔薇と同じ薔薇がたくさんあるのを知って泣いてしまうのだが、見たところ同じような薔薇に向かっていう。君たちのために死ぬことはできない(On ne peut pas mourir pour vous)。あの薔薇のためには死ぬことができるという意味なので、なんとなく読み過ごすことができない。王子さまにとって、薔薇を大切にするということ(faire ma rose si importante)は、これくらいの覚悟があるということである。人類一般を愛することも、全人類のために死ぬこともきっとできないが、他ならぬあなたのためなら死ねるだろうか。でも、あなたのために(pour toi)などといわれたら、大いに迷惑がられるかもしれない…などなど。京都の植物園で見たバオバブの木のことも頭に浮かんだ。 フランソワーズ・サガンが心臓病で死去。24歳の時に書いた『ブラームスはお好き』を最近読み返したばかりだった。訳者の朝吹登水子は、「まだ日ざしの強い東京の九月のある日、四畳半の書斎でこの本を読んだ時、私は突然、たまらなくパリに郷愁を感じた」と書いている。自分よりもかなり年上の女性の気持ちを見事に描いていることに驚嘆する。 日記の話。日記を読み返す僕は、その後の自分の人生の流れを知っているので、書いた時点で、当然のことながらこれから起こることについて何も知らないで書いていることに驚く。一度目は筋もわからぬままに読み、二度目は結末も知った上で安心して読む小説とは違って、他ならぬ自分の人生なのでそんなふうには読むことはできない。そんなふうにすべきではなかったのだ、と王子さまのような言葉をつぶやかないといけないこともある(Je n'aurais du...)。その時の決断は最善のものだったと信じたいけれども。
2004年09月25日
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朝から不調で起き上がれず、夕方まで横になって過ごした。かろうじて横になって、これまで書いてきた日記を読み返していた。今書こうとしているものを書簡体か日記の形でまとめられないかと検討していたのである。イメージとしては森有正の『バビロンの流れのほとりにて』のような形で書けないか、と。どうもむずかしいとずっと読み返して思ったことだが、そのこととは別に読み返しているといろいろと発見があった。 先に起こるであろうことを予見しているような記述がよく見られる。僕は運命論者ではないので、未来が決まっているとは考えていないのだが。 例えば、2002年の11月14日に、奈良女子大学でのギリシア語の講義について触れ、来週からプラトンの『ソクラテスの弁明』を読むが、「奈良女子大学からギリシア語の講座がなくならない限り、毎年続けていければと考えている」と書いている。この年は『ソクラテスの弁明』を読み始めて二年目だった。僕はこれを書いた時点で、二週間後、ギリシア語が大学の独立法人化に向けて経費削減のために不開講になることを知っていたとは思わない。しかし、受講生が少ないことはたしかに気にはしていたのだと思う。 次の日の日記にはこんなことを書いている。「京都駅でポケットに入っていた紙を捨てた、これはもう必要はない、と決然と。見たくなかったから。でも後で気づいた。もう一枚入っていた捨ててはいけない書類を捨ててしまったことに。前日のことを思い出して、めずらしくひどくいらいらしていた」僕のことをよく知っている人は、僕は怒ることはないね、というと、いつもこのギリシア語が不開講になった時にひどく怒っていたことを指摘する。本当に怒っていたと思う。 年が明けた1月30日の日記。「大学で講義。昼過ぎだったので大方溶けていたのだが、氷の固まりに見える雪があちらこちらに残っていた。写真の建物の屋根は光っているのではなくて雪である(注、奈良女の記念館の写真を携帯のカメラで撮影し、HPに掲載したのである)。寒いというより冷たくて今日は一日手が冷たかった。もう後数度しか大学にくることはないので、しっかり記憶に刻むべく学内を歩いた」 この間、二ヶ月が経っている。こうして書いてしまうと一瞬のことなのに。『バビロンの流れのほとりにて』は森有正が書いた書簡集である(1953年の10月から56年の翌年9月までの36信(途中ブランクあり)。さすがに一瞬で読めるわけもないが、その気になれば一日で読めないわけでもない。リアルタイムで進行する時間はなかなか進まないが、日記であれ手紙であれ、まとめて読むと、そこに展開する時間の流れは速い。速すぎる。
2004年09月24日
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昨夜はいつもより早い時間に眠りについた。朝もなかなか起き上がることができなかったのだが、翻訳の原稿が速達で届いてからは仕事にとりかかった。修正提案の箇所が思いがけず少なく、大体のところは直せたが、その後、別の仕事にかかったら気分が優れず、苦しい時間を過ごすことになった。 今日も『星の王子さま』の続き。昨日引いた王子さまが、言葉ではなくて、行いによって判断すべきだったということは、僕にもよく理解できるのだが、この発言の前に、薔薇の花のいうことを聞くべきではなかったといっているのは、僕は解せないのである。人間は花のいうことを聞いてはいけない、花はながめるものであり、においをかぐものである、つまりは言葉を聞き、それによって判断してはいけないということになる。 この物語が王子さまと薔薇の花の関係を例として、愛することはどういうことなのかを伝えることをねらいとしているのならば、今書いたことは人間と花の関係にはあてはめて考えることを作者は意図しているのかもしれないが、人と人との関係には決してあてはめることはできないだろう。誰かがながめられるものとして生きているとは考えられない。関係は相互的であり、カントの言葉を引くまでもなく、人が誰かを手段として見なし、そのようなものとして関わることは許されないであろう。 花であっても人間の都合で咲いているわけではないと思う。王子さまが実業家の星を訪れた時、こんなことをいっている。「もしも僕が花を持っていたら、花を摘んで持っていくことができる」。フロムが芭蕉の俳句を引いているのをすぐに僕は思い出す。「よく見ればなずな花咲く垣根かな」。芭蕉はなずなを摘むことを望まない。手を触れさえしない。ただ「見る」のだ。 幸い(というべきか)さらに話を読み進めると、王子さまは薔薇の花のことを大切に思い、世話をし、話を聞いた、といっている(話を聞くべきではなかったとはいっていない)。なぜなら僕の薔薇だから(Puisque c'est ma rose)、と。「僕の薔薇」というのは、一般的な花ではなくて、僕との関係の中にある、他ならぬ<この>花という意味であると僕は解するのだが、内藤濯が「ぼくのものになった花なんだからね」と訳しているのは間違いだと思う。 しかし僕がこういう意味であってほしいと思って読んでいるだけかもしれない。まだ僕の中ではよくわからない。 昨日も最後に少し触れたのだが、内藤訳では「あんたが、あんたのバラの花をとてもたいせつに思っているのはね、そのバラの花のために、ひまつぶしをしたからだよ」となっているところがある。ここの意味は僕にはわからない。王子さまはキツネの言葉を忘れないために復唱する。僕が僕の薔薇のために失ったのは僕の時間である、と…やはりわからない。世話をしたり(どうも人間との関係ではこの言葉は気にかかるのだが)あるいは、共に過ごす時間は、無駄どころではないと思うからである。たしかに世間的な価値観から見れば無駄に見えないことはないかもしれない。どんなに忙しくて時間がなくても、最優先で大切に思っている人のために動くことを、無駄と見る人はないわけではないかもしれない。しかし、本人にとっては当然そんなことはないわけであり、そんなふうにして費やされる(というニュートラルな表現であればいいのに)時間は至福の時間なのだから。
2004年09月23日
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臨床心理学の最終講義。試験のことを念頭におきつつ、最後に伝えたいことを話してみたが、伝わったかどうか。試験がすむと、また新しいクラスでの講義が始まる。電車の中でぼんやりしていたら、乗り換えの駅で降りられず乗り過ごしあせった。大事な講義に遅刻するわけにいかなかったので。12回無事講義ができたことは暑かったこの夏のこと、僕の体調を思うと奇蹟といっていいかもしれない、とちょっとおおげさなことを思ってしまった。『星の王子さま』の続き。王子さまは薔薇の花に大いに困惑したけれども(tout confus)世話をした。この花はずいぶん気難しい(compliquée)、複雑だと思った(ここは主語は複数形になっている。Les fleurs sont si contradictores!)。耐えられなくなった(のだと思う)王子さまは、薔薇を愛していたのに、もう二度と帰ってこないつもりで、星を後にした。 しかし、後に王子さまはいう。「僕は逃げるべきではなかったんだ」。言葉ではなくて、行いによって判断すべきだった。彼女は僕をいい匂いで満たし、僕を輝かせていた。彼女が優しいことを見抜くべきだった。でも、僕はあまりに若かったから、愛することがどういうことかわからなかった。 王子さまがこのような自分の気持ちに気づいたのは星を後にしてからだった。そして話は先に書いたキツネの話に続く。仲良くなったら、もう互いに離れてはいられなくなる。王子さまは、あの薔薇が世の中にたった一つしかないことを知ったのである。 そう思った途端、薔薇への思いはすっかり変わったのだろう。水をかけ、覆いガラスもかけた。でも今やそういう世話をしたのは、命じられたからではなかったと思い始めたのかもしれない。キツネはいった。君が君の薔薇を大切に思っているのは、時間を費やしたからだ(内藤訳のように、ひまつぶしをした、と訳すのが正しいのかもしれない。pedre le tempsという表現がされているが<時間を無駄にする?>どうなんだろう)。めんどうをみた相手にはいつまでも責任があるのだ(responsable)(めんどうをみる、という言葉の原語はapprivoiser、飼いならすという意味。王子さまがこの言葉の意味を問うた時、キツネは、これは「仲良くなる」という意味だと説明している。この訳語についてはもう少し説明しないといけないことがあるけれど、今日はここまで。久しぶりにフランス語を読もうとしたら思うように読めなかった)。
2004年09月22日
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今年の夏は暑い。朝から強い日差しを浴びて学校へ。午前中の教育心理学は、学生の発表。いずれも発表のレベルは高く、僕としては最小限のコメントをするだけである。個人的におもしろいと思ったのは、スポーツの選手のメンタルトレーニングについての有田さんの発表が興味を引いた。優れたプレーヤーは(過去ではなくて)今、(他者、他のものではなくて)自分に意識を向けるという。イチローを例にして、彼は首位打者が誰かは問題にしない。なぜなら、これは他者、過去のことであり、また打率も問題にしない。なぜならこれは自分のことではあっても過去のことだからである。発表の最後に「今、自分に何ができるかということに意識を向けて生きていきたい」というまとめは深く納得した。 昼からの臨床心理学は11回目。明日が最終講義になる。講義中寝ていたり、外に出ていってしまうこともある学生二人が何度も質問をしてくれたのが思いがけないことで嬉しかった。 昨日の続き。キツネは王子さまにいう。同じ時間にきてくれるのがいい。例えば、四時にやってくるとすれば、三時には幸福になり始めるだろう。四時にはおちおちしていられなくなて、幸福のありがたさを身にしみて思う。でも、いつでもかまわずにくるのなら、いつ待つ気になっていいかわからない…このキツネの気持ちはよくわかるが、不意の訪れやメールの着信も僕は嬉しく思う。一日待ち続けるということもあるだろう。そのことを苦痛に思うか、心待ちにできるかは、その時の関係による。苦痛ではなくても、不安ということもあるだろう。関係をはかるバロメータになる。 読んだばかりで感想はまだ書けないが、『ブラックジャック』の一番新しい巻(もう発売されて時間が経つ)は精神科篇で、僕が以前、非常勤、常勤として勤務していた精神科医院のことを思い出した。講義の中で少し言及した。
2004年09月21日
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去年の12月に本を上梓した後、長く放心状態のようになっていたことがあるのだが、2月から生活のあり方は変わった。昨日はふいに気が緩んだのか、ひどく疲れてしまって、メールの返事を書き、日記を書いてから、何ヶ月ぶりかで日が変わる前に寝てしまった。書斎(カウンセリング室)の電話が鳴り響いていたが、相談の電話はもうこの時間はごめんなさい、と夢うつつで思っていた。朝もなかなか起き上がることができなかった。今もふいに高くなる熱を冷やしたら少し楽になった。 昼前に父が母の墓参りにきた。会う度に老いていく父を見るのは悲しい。それでも長く話をし、帰る頃には元気そうに見えたのはよかった。新しい携帯を買っていて驚いた。受け取ったメールを削除してしまったようだ、と落ち込んでいたりはしていたが、新しいことに挑戦していることには安堵した。 枕元に読むつもりで置いていたサン=テグジュペリの『星の王子さま』を読んだ。いつか話の中に出てきて、その時、書棚から持ち出していたのである。キツネの話。仲良くなるというのはどういうことか、とキツネは語る。君はまだ今は他の十万もの男の子と、別に変わりはない。だから君がいなくなってもいい。君もやはり僕がいなくたっていいのだ。でも、仲良くなったら、もうお互いにはなれてはいられなくなる。君は僕にとってこの世でたったひとりのひとになるし、僕は君にとってかけがえのないものになるんだ。もし仲良くしてくれたら、金色の麦をみると、君を思い出す、麦を吹く風の音にもうれしくなる、とキツネはいう。王子さまは遠い星に残してきた薔薇の花を思い出す。「星があんなに美しいのも、目に見えない花が一つあるからなんだよ…」一番大切なものは目に見えない。
2004年09月20日
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最近は編集者の厳しいチェックの入った翻訳原稿が少しずつ返ってきていて、根を詰めて直しの作業に没頭している。すぐには解決できない個所に付箋をつけるのだが、増えこそすれ減りはしない。 久しぶりに電話。自分では見えないことをいくつも指摘された。自分のことになるとかくも見えないことに驚いてしまう。物事を複雑に考えてしまう自分に思い当たると、一度徹底的に自分を解体しないといけないのではないか、と思う。しかしこんなふうにいうと、自分に厳しいというよりは、(かくあるべき自分へと)自分を縛りつけているという指摘を受けるのだろう。話したいことを飲み込んでしまう癖をいったいいつ身に着けてしまったのだろう、と思う。きっと嫌われることを怖れるからなのだが。この間、出かけようとしていた時に、(仕事の)電話がかかってきたが、今は駄目です、と断ってしまった。僕としてはこんなことは普段めったにしないことなので、後でそんな自分に驚いてしまった。同じことをされたら、立ち上がれないほどのダメージを受けるかもしれない。 大学院生の時、ギリシア哲学の田中美知太郎先生の家を訪ねたことがあった。今でも夢の中の一コマのような気がする。『プラトン』(岩波書店)という著作の校正作業を手伝ったのだが、当時、目が不自由だった先生に代わって原稿を読み上げるというのが僕の仕事だった。必要があると書棚にある本を参照されるのだが、その本の場所はもとより、本のどこに必要な文があるかまで知ってられて驚いたものである。今は記憶容量の大きなメディアがあって、データが保存されているので、昔のようにどこに何が書いてあるかを知っていることだけでは学者になれないという指摘がされることがあるが、先生は前に書いた日記の言葉を使うならば、先生の記憶は「持つ」様式ではなく、「ある」様式のものだったのだろう、と思う。発想は自由で、今の学者がコンピュータで自由にデータを検索できたとしても、先生のような論文、本を書くことはできないだろう。
2004年09月19日
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夢を見ていた。直下型の大きな地震があった。当然のことながら自分が無事であることはわかるので、無事を確かめるために電話をかけようとした。着信歴を表示させリダイヤルしようとしたところで目が覚めた。正確には目が覚めたように思った。僕は携帯電話をいつも枕元においているので、実際に電話をかけようとしていたように思った。夢の中でも恐怖で震えていたが、目が覚めても震えは止まなかった。あの揺れは本当にあったのではなかったか…僕は確かめることができなかった。近くに誰かがいたら、今地震があったか問うことができただろう。また、近くにいた人が、今の地震は怖かったといったとしたら、やっぱり本当に地震はあったのだと信じたであろう。 地震の怖れは、持つものを失うことの怖れである。最近の日記で、学校の帰りバス停で待っている間、悲しい思いにとらわれたことを書いた。今、ここまで生きてきたのに僕が何も持ってないことに思い至ったのである。 しかし、僕が何も持っていなかったら、怖れることはなかったはずなのである。フロムはこんなことをいっている。「もし私が私の持っているものであるとして、もし持っているものが失われたとしたら、その時の私は何者なのだろう…私は持っているものを失うことがありうるので、必然的に、持っているものを失うだろう、とたえず思いわずらう」(『生きるということ』p.153)。知識ですら「持っている」と思えば、失うことを怖れることになるだろう。また、持っている知識を教えることができなければ、自分はもはや自分ではない、と思うことになるだろう。 しかし、持っているものを怖れる不安や心配は、「ある」様式には存在しない、とフロムはいう。「もし私が、私があるところの人物であって、持つところのものでないならば、だれも私の安心感と同一性の感覚を奪ったり、脅かしたりはできない」(p.154)。 フロムが次のようにいっていることが僕の注意を引いた。「持つことは、何か使えば減るものに基づいているが、あることは実践によって成長する」(ibid.)。燃えてもなくならない「燃えるしば」は、聖書におけるこの逆説の象徴である。モーセが神の山ホレブにくると、ヤハウェの使いが、めらめらと燃えている柴の中でモーセに現れた。よく見ると不思議なことに、火が柴をなめているのに、柴は燃え尽きなかったのである(『出エジプト記』3.1)。「理性の、愛の、芸術的、知的創造の力、すべての本質的な力は、表現される過程において成長する」(ibid.)。愛は愛されることではなく、愛することであり、また、得ることではなく与えることである、とフロムが考える所以である。愛は燃え尽きない。
2004年09月18日
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今日は講義がなかったので、朝からカウンセリング。予約の時間を余裕をもって組んだので、合間の時間は仕事に充てることができた。が、少し身体がだるくて、時々横にならなければならなかった。まだ本調子ではないのか、と思うと少し気が滅入る。昨日、学校からの帰り、タクシーに乗った。僕が利用しているバスは本数が少なくて、その時間帯は一時間に二本しかない。講義の後、学生の質問を受けていたら遅くなってしまった。それでもいつもバスは遅れてくるから大丈夫かと思っていたら、昨日に限って(二十分遅れたことがあったことは前に書いた)定時にきたようで、バスは僕の目の前を通過していってしまった。僕は次のバスを待てなくてタクシーに乗ったのだが、途中二度も急ブレーキがかかり、肝を冷やした。何かあった時のために、このHPのパスワードを教えておかないといけない、とその瞬間、思った。生きているのは瞬間瞬間が奇蹟である、とも。 記憶と想起について少し。何かを記憶したり、想起するというのはどういうことか。このことについてプラトンが鳩小屋の比喩を使って説明していることは前にも少し触れたことがあるが、その比喩を少し紹介すると、記憶するというのは、鳩を捕まえてきて、その鳩を鳩小屋の中に放つようなものである。日本語では「所持」と「所有」は意味が異なる。今、この手に持っていることは「所持」であるが、手から離しても、そのあるものが自分のものなら「所持」はしていなくても「所有」はしているといえる。何かを記憶する時、最初は所持していても、一度にたくさんのものを所持できないから、ちょうど捕まえてきた鳩を小屋の中に放つように、所持された記憶を所有された記憶に変えなければならない。 問題はここからで、一度記憶したら終わりではなく、記憶されたことを想起しなければならない。鳩小屋の中とはいえ、飛び回っている鳩を捕まえるのは至難の業であろう。どうすればこのことが可能か。試験を受けるとすれば、これは重大問題である。長い時間をかけて覚えても、想起できなければ意味がないからである。 ある日の夜、電話をしている時、あなたの言葉をメモしようと思い立ったとする。ところが電話の後、その紙をなくしてしまう。そのとたん記憶をなくしてしまうことになる。記憶する代わりに紙に書き留めたということもできる。メモすること、ノートに書き留めることはたしかに記憶と想起を助けるけれども、記憶力を弱めるように思う。 そのようにするのではなく、メモに頼ることなく、記憶したい。そして記憶されたことを自由自在に想起したい。どうしたらそのようなことが可能か。フロムが「持つ」様式と「ある」様式を区別したことについては何度も書いてきたが、ある様式においては、一つの言葉と次の言葉との結びつきは、機械的でもなければ、純粋に論理的でもなく、生きた結合である。いわゆる丸暗記は「持つ」様式の記憶であるといえるだろう。本に書いてあったことを時には理解することもしないでそのまま覚えようとするから、たとえ記憶されてもそこに書かれたこと以外のことは想起できない。 しかし、生きた結びつきがなされる記憶と想起においては、僕の経験では強い関心に裏付けられるので、ことさら記憶と想起の努力がいらないように思えることがある。会って話したり、電話で話したりする時、あなたの言葉はことさら記憶しようと思わなくても覚えることができる。後になっても思い出せる。強い関心があるから、ことさら覚えようとしなくてもいいからである。 勉強の場合は、このような仕方で記憶するためには、僕の場合は、まる暗記ではなく、ある程度のまとまった文章を読んで理解したり、ある事柄や人物についてのエピソードを知るというようなことが必要になってくる。こうして一度覚えてしまえば、ふいに思い出すことができる。この感じはうまく言葉で表現できない。ある言葉が思い出せない時、関連のことを思い出しているうちに言葉が出てくることもある。こんな時、記憶を所持していたのではなかったと思う。飛び回る鳩には試験の時にはできたらその間だけでも飛び回らないで、じっと止まっていたいものだと思ったりするのだが。
2004年09月17日
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今週は三日、講義のために通ったが、予想以上に疲れてしまった。三日でわずか4コマしか講義していないのに、と考えるともうだめである。自分を責めてしまう。これくらいのことで音を上げていたらいけないと思うから。今朝は学校に行く前にカウンセリングをした。その後、少し時間があるので、いつものように机に向かったのだが、力が入らず、原稿を書こうにも一行も書けなかった。少し、思い当たることはあるのだが、自分ではあまり認めたくはない。でもきっとあたっているだろう。気を取り直して、翻訳の原稿の束とドイツ語の辞書を鞄に詰め込んで出かけた。もっとも電車は満員で原稿を広げることはできなかったのだが。 夕方、あれこれ考えていた。記憶されているはずだが、想起されないことについて。また、過去はいったいどこに行ったのかということ。また、ここから先は論理的に考えたわけではなくて詩的な妄想の類なのだが、その過去はひょっとしたら時系列に起こったのではないかもしれないというようなことを考えていた。母が亡くなった日のことも、大学で教えていたある日ある時のことも同じくらい鮮やかに今思い出すことができることの不思議。記憶されていて想起されないだけかもしれないのだが、記憶の闇に沈んでしまっている多くの出来事もあるに違いない。そういったことは、他日、想起されるのだろうか…等々。 夕闇が迫ってきても暗くなり始めた部屋でぼんやりとこんなことを考えていたら、母が入院していた頃のことを思い出した。その頃、週日はずっと僕が夜病院に泊まりこんでいて、週末は家に帰っていた。でも週末は父は病院に行っていたので、家には誰もいなかった。晩年の母はずっと家にいたので、帰った時に誰もいないということはなかった。そんなことに慣れていたので、茫然として一人で電気もつけないですわっていると、ついこの間までいた家族が誰もいなくなってしまったことに思い当たり、寂しくてたまらなかった。でも、いくら泣いても、誰にもその声が届くことはなかった。『古今集』の序で紀貫之が歌について「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせる」といっているが、そんな知があるならばほしいものだ、とケインズの伝記(吉川洋『ケインズ-時代と経済学』ちくま新書)を読んでいて思った。きっと母が倒れるまでの僕は自分のためだけに知を探求していたのではなかったかと思う。それなのに、意識のない母の見ていたら、そんなことがすべて空しくなってしまった。一月に母が逝き、母とともに病院を後にした時、僕も世界もすっかり変わってしまった。こんなことを経験していなかったら、今頃、どんな人生を送ることになっていたのだろう、と何度も何度も思ったものだ。
2004年09月16日
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今日も明示東洋医学院で講義。連日の講義は学生にとっては大変だと思う。9回目が終了。今週はもう明日もう一度講義、次週2回で終わり。午前中に、試験問題を作成し、教務にメールで送っておいたら1時に出勤した時には、もう試験問題を作成してもらっていて、すぐに校正をすますことができた。一度の試験で全員合格してほしい。 講義はよい対人関係について(『不幸の心理 幸福の哲学』でいうとpp.70-86)。信頼ということには二つの意味があって、その一つの意味として、あなたには課題を解決する力があると信じることという話をした。例として話したのは、本にも書いた母のことで、僕が主治医から聞かされたことを、母に告げることができなかったことである。母には真実を受け止めることができないと僕が思い込んだからだが、その判断は今も間違っていたと思う。その話をしながら、最近の出来事がオーバーラップしてしまった。 もう一つは、あなたの言動にはよい意図があると信じるという意味だが、こんなことに思い当たった。僕は自分が書いたことがどう受け取られるかということを気にかけてばかりいるということである。考えられる限り、自分が書いたことを悪く解釈して、そのような意味で受け取られるのではないか、と思ってしまうことがある。立場を変えて、僕がメッセージを受け取ったならば、決してそんな読み方をしないというのに。それなのに、相手が僕のような読み方をすることはないと思うとすれば、十分信頼できていないということではないか。話しながら胸が痛んだ。 久しぶりに妹と電話で話した。出かける前でそんなに時間はなかったのだが、妹は仕事が休みだったので思いがけず朝なのに連絡がついた。 時々思うのだが、僕は目下自由と時間だけはいくらでもあって、それがかえってよくないのでは。自由がないのは困るからそれは確保するとしても、7月の最初くらいまでの精神的な圧迫(などと書くと担当編集者が気にされるので表現は適切ではないが)から今少し解放されている。今の間にしておかないといけないことはいくらでもあるのだが。悩む余裕もないほど忙しかった医院時代に戻ろうとは少しも思わないのだが、堂々巡りのつまらない思いに囚われてよくないことがある。高遠菜穂子さんがアンマンからレポートされている(イラク・ホープ・ダイアリー)。オリンピックに目を奪われていた間も、今も、イラクでは問題は何も解決していない。自分のことだけに目を向けていてはいけないのだ。
2004年09月15日
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教育心理学(教員養成科)は今日から学生に発表してもらうことにした。今年は例年になく学生が多くて一人30分の枠しかないのが少し残念なのだが、今日の発表は、僕が予想していたよりははるかにすぐれたもので、これからも楽しみである。テーマを各自選んでもらい20分発表、残り10分を質疑応答にあて、僕も講評するという形である。おととしの学生のレポートを一部登録してあるので(メインのHP)関心のある方に見てもらえるとうれしい。 朝方までなかなか寝つけなかった。僕は自分が必要とされているかどうかいつも強く気にしていることに思い当たった。仕事のことについては最近、書いているとおりである。長年、勉強を続けてきたが(主治医に今も学生のよう、といわれたが、そのとおりかもしれない。大学院の頃と同じように、今も仕事をしているというより、勉強をしている)、今、貢献できているのかということが気になって仕方がない。プライベートでも同じようなことを感じている、自分が必要とされているか、力になれているかどうか…朝方、届いたメールを読んでいたら不覚にも涙が出た。 帰宅後、宅間死刑囚の死刑執行の記事を読み、たまらない脱力感がした。池田の小学校の事件については、午後からの講義でも取り上げたのだが、その時点では知らなかった。通常、死刑執行の記事は新聞では目に触れないくらい小さくしか扱われないのだが、夕刊の一面になるのは異例であろう。僕の立場は以前から何度も書いているのだが、死刑には抑止効果はないということ、そのような効果を期待するのであれば、無期懲役の方があるだろうということである。被害者の家族が納得しないということがあるのかもしれないが、実際のところはどうなのか。朝日新聞の夕刊に載っていた家族の談話からは今回の死刑の執行を納得しているというふうには読めなかったのだが。応報刑という考えは今は支持されているのか。プラトンの最晩年の未完の対話篇には、細かに刑法が規定されているが、基本は教育刑主義の立場である。プラトンは、刑罰の目的は応報ではなく、犯罪者の教育、改善であると考えている。当然、死刑では犯罪者の更生できない。『死刑執行人の苦悩』(大塚公子、創出版)という本のことを前に紹介したことがある。この本の中に、死刑囚の教誨師を務めていたある住職の話が紹介されている。この人は嵐の日も雪の日も死刑囚のところへと通った。「おれのために、おれみたいなやつのために、先生、来てくれたのかよう」 三十過ぎのこの死刑囚は泣きながら切れ切れにいった。 住職はいった。「おまえに会いたいから来たんや。わしはおまえのために来てやったんやない。わしがお前に会いとうて来たんや」「おれ、こんなに親切にされたのは、生まれてはじめてだよ」そういっていつまでも泣き続けた。
2004年09月14日
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診療所でカウンセリング。その後、診察を受ける。目下、血圧を下げる薬を飲んでいるが、薬をそのうち飲まないでよくなろうといわれた。ただしそのためには生活のあり方を変えるように、と時間をかけて説明を受けた。いつもはカウンセリングをする方なので、話を聞いてもらえることはあまりなく、慣れなくて緊張してしまった。ずいぶん長く話したような気がしたのに、ふと見たら先生の腕には時計ははめられてなく、時計も近くになくて、次の予約もあるだろうに、と気になってしまった。 最初、生活習慣の話などをしていたが(夜、眠れないというような話)、仕事のことまで聞いてもらえた。ふだんだと先生はきっとここから先はカウンセリングを受けてみたらと勧めるのだろう、と思った。生活の習慣を変えるといっても、そんなに簡単なことではないし、そもそも今のような生活をするようになったのにはわけがあるわけで、そんなところまで触れてもらえたのはありがたかった。 仕事柄、相談に与るのは当然のことだが、こと自分のことになると見えないことが多く、僕こそカウンセリングを受ける必要があるのではないか、と長く思っていた。今は幸い相談にのってもらえる人がいて、自分のことがよく見えるようになった。僕もカウンセリングの時にそんなふうにいうだろうと思うことも、自分に向かっていわれると新鮮に聞こえるし、僕が思いもよらない見方を教えてもらえると本当に驚嘆してしまう。おかげで精神の均衡を保つことができている。
2004年09月13日
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今日もカウンセリング。主治医に休みの日を作りなさいといわれたが、そんなふうなことは考えたことがなくて、空いていれば予約を入れてしまう。その代わり、平日でも空いていれば気分転換の日を作り出かけることはあるのだが。最近は忙しくしていて回数が減ってしまった。 8日に三人の兄弟の話を書いた後、一つ思い出した話がある。プロディコスという人の書いた『ヘラクレス』の中に「徳」が、「見た目にうるわしく、ものごしも上品で、身体の清潔、眼のはじらい、容姿のつつましやかなことなどが、そのまま身のかざりともなっている白衣の女性」として描かれている。この『ヘラクレス』の要約が、クセノポンの『ソクラテスの思い出』の中に書いてある(第2巻第1章21-34節)。 青年ヘラクレスがこれからの一生をどう生きるかについて迷っていたときに、「徳」と「悪徳」が、それぞれ清らかな女性と魅惑的な女性の姿をして現われ、説得あるいは誘惑を試みるのである。「悪徳」は、私を選ぶならば、もっとも楽しいもっとも楽な道に案内し、あらゆる愉楽を一つ余さず味わい、辛苦は何ひとつ経験することなしに一生を過ごさせてあげよう、という。 それに対して「徳」は、世の中の善にして美なるものは労せず努めることなしには何一つ与えられないというのが神の定めである、と説く。ヘラクレスはあえて苦難の生き方を選んだ。この話を知った僕は激しく迷った。しかし、迷うためには、二つの選択肢が同じくらい実現の可能性がなければならない。その意味では答えは最初から自明だったのかもしれない。辛苦のない人生などありえないことを今はよく知っている。辛いことは多々経験してきたので、可能ならば、これ以上辛いことがないように、と願う気持ちは強いのだが。
2004年09月12日
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昼からカウンセリングの予約が入っていたが、急いで本が必要になって買いに行くことにした。大きな書店でないと手に入らないので、京都市内まで出かけたが、目的の本を手に入れるとすぐに帰らなければならなかった。手に入れた本ですら最善のものか判断ができない。自分が専門の分野を離れてしまうとたちまちわからなくなる。友人が多い人ならたちどころに教えてくれる人がいるのだろうが、僕には友人はいない。今に始まったことではないが。 2001年の9月11日、僕はロンドンから帰ってきた。アメリカに行っていたわけではないのだが、たくさんの人に心配をかけてしまった。あの日、その後起こることを予見できたとは思わない。ブッシュ政権がイラク侵攻のプランを立て始めたのは、この日の同時多発テロよりもずっと前、大統領が就任して間もなくだったという証言もあった。あのような出来事があって心動かされない人はないだろう。しかしだからといって、その後ブッシュ政権が行ったこと、小泉首相が戦争を支持したことを正しいとは考えない。テロで犠牲になった人たちが作るSeptember Eleventh Families For Peaceful Tomorrowsという組織を紹介したことがあった。テロに対して暴力で対抗するのではなく非暴力的な解決法を求めようとしている。当然、戦争に反対する。 朝日新聞の夕刊に池田明子さんの「「死」はどこにあるのか」というエッセイが載っていた。死は死体にはない。死体をどう切り刻んでもこれが死だと取り出して見せられるものなど何もない。なぜか。「決まっている。死は無だからである。死は、無いものだから、無いのである」「(多くの人は)死体と死とを同じものだと思っているが、死体と死とは、実は同じものではないのである」そうなんだろうか。死体と死を同じと思っているのだろうか。死は無だから、ない、という論理はそのとおりだとしても、そのことに思い当たって死を恐れることがなくなるのだろうか…
2004年09月11日
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今週、初めて出かけなかった。勤めていた頃は当然毎日出かけていたわけで、こんなふうに書くことすらなかったわけだが、学校が始まるとたちまち自分の思うようには時間を使うことができず、気ばかりあせる日が続いた。やり残している仕事が山積しているのに、今日は少しも手につかず、夕方、疲れ果てて深い眠りについた。 久しぶりに長い夢を見た。あまりにプライベートな内容なのでここには書けないけれど。亡くなった母と会った。若くして亡くなった祖父の子どもがいて、その人が亡くなったので父が養子として今の家にきたわけだが、母はその人の供養をしてあげてと話していた。生前の母はこんなことはいわない人だったと思っているうちに(こんな思ったということは、その時、僕は母がこの世の人ではないことを知ってしまっているわけだ)母の姿は消えてしまった。 今のこんな人生を送らせてもらえるきっかけを与えてくれたのが母であることは疑いようもない。このことは本やあちらこちらに何度も書いたのだが、母が僕に全幅の信頼を寄せてくれていて、何をするのにも反対しなかったことはありがたかった。もちろん親の意に沿わなくてもいいし、反対されてでも自分の人生なのだから、と自分の人生を貫くという生き方もありえたのだが、普通ではない人生を送ることに少なくとも積極的に反対されることはなかった。もうあれから何年経つのだろう。僕は自分が学んだきたことを返していきたいと思っているのに、まだまだ知らないことばかりであることも思い知っている。でも、これからもしっかり学び続けていく一方で、アウトプットもしていきたいと思っている。はやる気持ちはあるのに、自信をなくし、心が揺れる日も多いのだが。
2004年09月10日
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講義をした後、尼崎で研修会。講義が終わるのは2時半で、研修の始まる6時まで時間があったので、しばらく学校の教員の控え室にいた後、梅田まで出て、書店で2冊本を買い、時間はあったが尼崎に向かった。 経済学の本を読んでいるとすぐに時間が経つ。『読書術』(岩波現代文庫)で加藤周一は本にはいろいろな読み方があって、そのうち精読する本の例として教科書をあげている。今読んでいる(あるいは、読もうとしているというべきか)本は教科書といっていいのだろう、外国語の本でもこんなに時間をかけて読んだりしない。数ページ読むのに何時間時間をかけているかと思うと気が遠くなってしまう。あまりわからないので、カウンセリングでは決していうはずもないことを考えてしまう。しかし幸い、霧が晴れてきたように思う。考えてみれば哲学にはこんな教科書はないのではないか。たしかに哲学入門という題の本は多々あるのだが、くり返し精読するといっても試験に出るので覚えるために読むというようなことはない。大学院の試験に哲学史があったので、たしかにその準備のために時間をかけて同じ本を丹念に線を引きながら読んだけれども、哲学の本を試験のために読んだことはないし、書かれている内容を暗記しようと思ったこともない。思うに暗記する必要がないところが僕にとって哲学の魅力の必要だったのかもしれない。 昨日の続きだが、考えてみれば、誰にでも勧めるわけではないけれど、この人ならと思う人には山頂まで登ることを勧める。僕がこの人生を悔やんでいたらそんなことをするはずもないのである。いずれにしても、「すべて」を手に入れるわけにはいかないとして、何かを選ばないといけないとしたら(ということは何かを断念しないといけないとしたらということだが。こんな発想をするのは経済学の本を読んでいるからだろう)世界を遠くまで見られることを僕は選ぶ。それは僕の理解では知を愛することである。くるべきところに僕はきてしまったわけある。 ここまで書いて僕は研修に行き、その後、なんとか無事帰ってくることができた。電車ではうまい具合にすわれたので、ほとんど寝ていたのだが(この頃、細切れにしか眠れない。ひどく疲れているのに、タイミングを逸して寝そびれてしまったりする)、意識の片隅で考え事をしていた。僕は山の頂にい続けてはいけないのだったことを。ふいに高校の宗教の時間に読んだ教科書に、田中美知太郎の「死すべきもの」という一文があったことを思い出した。その頃、読もうとしていた西田幾多郎や三木清といった哲学者の書いたものとは全然違った文体の田中の書いたものは僕に強い印象を与えた。ギリシア哲学を専攻するようになるとはつゆ思っていなかった頃である。「ふと夜中に目をさまして、胸に心臓の鼓動を聞く時、じぶんが死の間近に眠っていたことを感じたりする」(全集7、p.92)。今は引用するために本を出してきたが、言葉はやさしいのに思索についていくことはきわめてむずかしいこのギリシア哲学の碩学のエッセイの中のこのような表現が気に入って覚えこむほど読んだ。 最後の方に、「「十年孤独を愛して倦まなかった」と言われる人物」に言及されている。高校生の僕はそれが誰のことかわからなかった。それがツァラトゥストラであることを後に知ったのだが(あるいは、宗教の先生にその場で教えてもらったのかもしれない)、彼は三十歳になった時、故郷と故郷の湖を捨て山に入ったのである。「そこでかれはおのが精神の世界に遊び、孤独をたのしんで、十年間倦むことがなかった」(手塚富雄訳)。これは『ツァラトゥストラ』の冒頭からの引用だが、初めて読んだ時、僕は思った。孤独を楽しむことは決してできないだろう、と。そのツァラトゥストラの心についに変化が起きた。荒蕪の山を下る決心をしたのだ…こんなことを思い出した。
2004年09月09日
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今日から集中講義。といっても一日も何コマもあるわけではないのだが。質問紙を学生に配った。回収した紙には、質問ではなくて、ほとんどが授業への注文、苦情だった。けっこうへこむものである。7月まで教えていた聖カタリナ女子高校では同じように質問紙を配っても、質問しかなかったのだが。要望に応えられるよう頑張りたい。 帰り、バスを待った。一時間に二本しかない時間帯だった。少し余裕をもってバス停に着き、バスのくるのを待ったそれなのにいつまでもこない。日陰がなくて、さすがに盛夏ほどのことはないとはいえ、溶けてしまうようだった。待っている間に、村上春樹の『アフターダーク』にあった次のようなエピソードを思い出したら、ひどく悲しい気持ちになってしまった。 ハワイのある島に流れ着いた三人の兄弟の話である。彼らはある日、漁に出たが、嵐にあって誰もいない島の海岸に流れ着いてしまった。その島の真ん中には高い山が聳えていた。その夜、神様が三人の夢の中に現れていった。もう少し先の海岸に三つの大きな丸い岩がある。それを好きなところに転がして行きなさい。岩を転がし終えたところが、おまえたちそれぞれが生きるべき場所だ。高い場所に行けば行くほど世界を遠くまで見渡すことができるけれど、どこまで行くかは各人の自由である、と。岩は大きくて重く、転がすのは大変だった。一番下の弟が最初に音を上げた。僕はここでいいよ、ここなら海岸にも近いし、魚もとれる。そんなに遠くまで世界が見られなくてもいい。他の二人はなお先まで進んで行った。山の中腹辺りで次男が音を上げた。僕はここでいいよ。ここなら果実も豊富に実っているし、十分生活していくことができる。そんなに遠くまで世界が見られなくてもいい。一番上の兄はなおも坂道を歩み続けた。道は狭く険しくなっていったが、世界を少しでも遠くまで見たいと思った。そして何ヶ月もかけて山の頂まで岩を押し上げることができた。「彼はそこで止まり、世界を眺めた。今では誰よりも遠くの世界まで見渡すことができた。そこが彼の住む場所だった。草も生えないし、鳥も飛ばないような場所だった。水分といえば氷と霜を舐めるしかなかったし、食べ物と言えば、苔をかじるしかなかった。でも後悔はしなかった。彼には世界を見渡すことができたからだ」(p.25) 後悔しなかったというが本当なんだろうか、と思った。むしろ後悔してはいけないと思ったのではないか。なにしろこんなに努力してここまできたのだから…自分とこの一番上の兄を重ねてしまった。ずいぶん遠くまできたのに本当にこれでよかったのか。この兄と同様、世界を見渡すために多くのことを犠牲にしてしまったのではないか。何事もなく普通の人生を選んでいたら今頃どうなっていたのだろう。もっと豊かな人生を送れたのではなかったか。 そんなことを思う一方で、自分の生き方に自負心がないわけではない。今こそ豊かな人生なので、世界を遠くまで見えることこそ、哲学を学ぶと決めた時の目標だったのである。しかし現実はそれにしてはあまりに不安定きわまりない生活ではある。この上、何も失うものはないけれど、これから先どうするのか…山頂であっても、あるいは、苦労して到達した山頂にこそ永遠に輝く貝があると考えていけないことはないのではないか… 結局、バスは二十分も遅れてきた。バスには三人しか乗っていなかった。きっとみんなバスを待たなかったのだろう。いや忍耐強く待った人こそ、少数の幸福者ではないのか。心が揺れた日だった。
2004年09月08日
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今日から明治東洋医学院での講義が再開。教育心理学IIは学生に発表してもらうことになった。僕が講義をしてもいいのだが、ただしそうなると難解な講義をすると(もちろん、「難解」というようなことはありえないのだが)いっていたからかもしれない。教員養成科ではあっても、教壇で話す経験もあまりないようで、来年になると模擬授業もしないといけないので、そのためのトレーニングという意味でも役に立てばいいのだが。柔整学科の集中講義も明日から再開する。夏休みをはさんでしまうと7月の終わりに話したことの記憶があやふやになってしまう。明日はもう一度これまでの5回の講義を振り返るところから始めることになるだろう。 本の中で経済学や政治学の抽象性を問題にしたことがあった(『不幸の心理 幸福の哲学』p.149-50)。昨日の議論でも、ただし、この際、利子はつかないものとするというような説明があって、ということは条件を外すとたしかにシンプルにはなるけれど、現実はもっと複雑なのだろう、と思う。しかしそのことによってあることの意味がはっきりとうきだたせることができるとすれば、有効な方法なので、抽象されていることさえはっきりとわかっていさえすれば、まったく抽象論で何の役にも立たないということはないのだろうと思った。 経済学は大学の時にたしかにとったが、ほとんど理解できず、かろうじて通ったくらいだったので、学校の帰り、『ミクロ経済学』(西村和雄、岩波書店)という本を買ってきた。練習問題が各章ごとにあって、国家公務員や地方公務員の試験問題がある。僕はここにあがっているような試験を受けることはなかったが、僕に解けるのだろうか。あの頃は解けなかったとは思うのだが。 村上春樹の『アフターダーク』(講談社)の発売日が今日であることは覚えていて、忘れず手に入れたのだが、しばらく読めないかもしれない。
2004年09月07日
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月曜日は診療所。このところ僕自身の診察も入っていたので緊迫した日々が続いていたので、今日は受診の必要もなく、それだけでもありがたかった。来週は受診しないといけないのだが…ちょっとしたことで幸せな気持ちになれるのに、反対にちょっとしたことで気分が落ち込むのは困ったことだ。夕方、大事な書類が見つからなくて気になってしかたがなかった。よく考えれば、それを探すよりも先にしないといけないこともあるし、今なくても困るわけではないのに。だから本当は書類が見つからない<ので>気分が落ち込んだわけではなくて、それはきっかけにしかすぎす、先に落ちこむことを決めていたと考えるほうがよく理解できるように思う。思いもよらないところから書類は見つかり、一件落着だったはずなのに、まだ気分がすぐれないのだから…そして困ったことに自分で何もかもわかっている…たぶん…。 経済学の本を思うところがあって読んでいた。昨日の昼間、本を読もうと横になったとたん、寝てしまったのは、『高校生のための経済学入門』(小塩隆士、ちくま新書)。寝てしまったのはもちろんこの本ではない。高校生のための、と銘打ってある割には、やさしくはないのが、通読してみて、経済のしくみなどについてよくわかった。大学生の頃、背伸びして、サミュエルソンの『経済学』などという分厚い本を読もうとしたが、こんな本があったら経済学は僕にとって親しめる学問になりえたと思うのだが。 最後の方で(pp.199-203)公共投資の話がある(道路や港湾を整備する、公共の施設を建設するなど)。公共投資をすると乗数効果があるという。例えば、一兆円の公共投資を増やせば、それ以上のGDP(国内総生産)が生み出されるということである。公共投資を請け負った建設会社がそれだけの見返りに一兆円を政府を受け取る。その会社で働いた人たちは、公共投資のために働いて得たお金で、例えばレストランで食事をするとしたら、その分は消費としてGDPに加わる。レストランで働いた人の給料が増えれば、その人たちもどこかで買い物をするだろう… 問題はここから。政府の公共投資のための財源をどこから調達するか。通常は、一兆円分の国債を発行し、民間から借りることになる。しかしこの一兆円は将来、国債を買った人に返さなければならない。では、そのお金を政府はどうやって調達するのか。将来時点での増税である。そうすると、人々が増税を的確に予想したとしたら、消費にはまわさないで一兆円だけ貯蓄するはずである。そうすると、先の話とは違って、一兆円の公共投資を行っても、GDPは一兆円しか増えないことになる。 少しめんどうな(僕にとってということだが)議論の後、著者が次のような指摘をしているのがおもしろいと思った。「経済学は人々が合理的に行動することを前提にしてロジックを組み立てていく学問です。しかし、人々が合理的であるほど、公共投資の乗数効果は小さくなります。そして、人々が将来の負担の増加をあまり真剣に考えず、現在のことだけを考えて行動するほど、公共投資の乗数効果は大きくなります」(p.203)。 これは皮肉な話だと著者はいう。「公共投資の乗数効果に期待する経済学者は、人々が非経済学的に行動することを想定していることになるからです」(ibid.)。 経済学という学問が、僕が学ぶ哲学とはずいぶんと方法論が違うのがわかった。合理的に行動することを前提にロジックを組み立ててはいけないのではないか。非合理的に行動することを出発点に見ないといけないのではないか。しかし、それを出発点にするならばともかく、人間というものはそんなものだという議論を組み立ててしまえば、哲学にはならないだろう、等々、考えるきっかけになったが、まだまとまってはいない。僕はあまり合理的に生きてはいないようだ。
2004年09月06日
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朝、カウンセリング。その後は予定はなくいつものように仕事。特記事項なしと書いてしまいそうな日が続く。それでもそんな中、体調を崩して、診察、検査を受けることがあったり、この夏は例年にない特別な年であったといえないことはない。まだ出張の疲れを引きずっていて、誰もいなくて静かな部屋に本を持ち込んで横になったとたん深い眠りに落ちた。夢の中で携帯のメールを読んだり、返事を書いていた。あたりが暗くなった頃、目を覚まし、ぼんやりしていた。今度は本当にメールの返事を書いていたら大きな地震。思いがけず長く続く地震に心も揺れた。メールを書くのを中断し、電話をかけることにした。すぐには通じなかったが、無事を確かめることができた。よしもとばななが「奇蹟」という言葉を小説の中で使っていたのを思い出した。お互いがちゃんと生きているということ。そのことのありがたさをいつも忘れないでおこうと思った。 朝、カウンセリング。その後は予定はなくいつものように仕事。特記事項なしと書いてしまいそうな日が続く。それでもそんな中、体調を崩して、診察、検査を受けることがあったり、この夏は例年にない特別な年であったといえないことはない。まだ出張の疲れを引きずっていて、誰もいなくて静かな部屋に本を持ち込んで横になったとたん深い眠りに落ちた。夢の中で携帯のメールを読んだり、返事を書いていた。あたりが暗くなった頃、目を覚まし、ぼんやりしていた。今度は本当にメールの返事を書いていたら大きな地震。思いがけず長く続く地震に心も揺れた。メールを書くのを中断し、電話をかけることにした。すぐには通じなかったが、無事を確かめることができた。よしもとばななが「奇蹟」という言葉を小説の中で使っていたのを思い出した。お互いがちゃんと生きているということ。そのことのありがたさをいつも忘れないでおこうと思った。 その後、日が変わる頃に大きな地震があった。いつもは冷静で取り乱したりしないのに地震の時だけはそうはいかないのは自分でも不思議である。長すぎた昼寝は夜に眠りをもたらさなかったが、心地よい夜を僕に与えてくれた。今週から専門学校の集中講義が始まるなどするので、この一月のように過ごせないのかもしれないのだが、前にも書いたようにあせらないでおこうと思う。たった一月の休みだったのに、一体、朝何時に起きて、何時の電車に乗るのかすら覚えていない。 よしもとばななの『海のふた』の題名は、原マスミの同名の歌からとられている。最後の人が海のふたを閉めずにそのまま帰ったので、あれからずっと海のふたはあいたままであるという意味の歌詞で始まる。その後の歌詞は悲しい。「サクラ、ダリア、ケイトウ/ヒマワリ、ヒナギク、ヒナゲシ/くり返し くり返し/なぜまた咲くのか/君のいない この世界に」(/は改行)僕はこの世界にいられそうだ…いたい、というべきか。
2004年09月05日
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5時くらいまで仕事。別に枕が変わったら眠れないというようなことはなく、出張もよく(今回はしかし久しぶり)あるのだが、5時くらいまで起きていた。部屋に朝食を運んできてもらえるのは少し驚いたが(というより困る…)ホテル内で食事ができなくて空腹だったのでおいしく食べることができたのはありがたかった。ゆっくりする間もなく、京都に帰り、昼からカウンセリング。帰りの電車の中でもコンピュータを出して仕事。 たった一泊といっても旅のための身支度は少しはした。最近はコンピュータを持っていかないこともあるのだが、今回はこれを持っていくことを中心に持っていくものを考えた。本は減らした。それなのに、京都駅に早く行き、近くの書店に寄って本を買ったので鞄が膨らんだ。重い鞄を今回いろいろとお世話してくださった西尾先生が持ってくださった。年齢はもちろんずっと若いのに夕食の時、父と話しているような気がした。もうすぐ始まる講演のことはあまり話さず、マラソンの野口さんのことや、店の水槽に飼われていたレッド・アロワナの話をした。鞄を持ちましょう、といわれるのを断れなかった。きっとそんなふうにいったことを後悔されたのではないかと思うほど鞄は重かった。 帰ってから思い出した。電車に乗る前に買って、でも読まなかった本があったことを。よしもとばななの『海のふた』(Rockin'on)。仕事をやめてしばらく読みふけった。近年はよしもとばななの本は出る度に必ず買っている。ストーリーというほどのものもないので安心して味わって読める。心に残る言葉を必ず見つけることができる。あなたといっしょにいると、ひとりでも感じていたことがもっと大きくおおらかに感じられるようになる。私の好きなものをいっしょに見てくれる。それだけで何もかも失っていいと思ってしまう。美しすぎて息ができなくなりそうになる。生涯に一度しかないこの夏をあなたのためにだけ使っていいと思った… 教育関係の人も多い講演会は緊張してしまうのだが、いいたいことはいいたいという思いがある。書き下ろしの依頼があったのだが、出版社の求めていることと僕が書ける(書きたい)ことの折り合いがつかず、振出しにもどってしまった。これは講演でも話したことに関連しているのだが、子どもを心理学の知識を使って変えるという発想に立ってはいけないと思うのである。講演でも子どもの問題の分析というよりは、この子どもとどう関わっていくかということを考えるしかないという話をした。変えられるのは自分であり、自分だけでは変えられる。その結果ではなく、そのことに伴って、子どもが変わるかもしれないし、変わらないかもしれない(おそらく変わらないだろう?)この子を変えるために私が変わるというのはまちがっている。きっとそんな意図があって親が変わろうとしていたら子どもはそのことを見抜くだろう。一般の対人関係でも同じである。心理学の知識を人を変えるために使ってほしくないし、そのための本を書きたくない…というようなことを編集者とやりとりしたのだが、さてこの話どうなるかわからない。書き下ろしについてはこれとは別内容で先約もあるわけで。9月になってまた忙しくなる気配。あせらないこと。
2004年09月04日
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阿児町で講演。夜の7時からだったので今日は帰れず、こちらに泊まっている。電波状況はよくなくて、繋がらないかもしれない。部屋の中で電波を捕まえるべく右往左往している。言葉を捕まえるのならいいのだけれど。ロンドンに滞在していた頃、部屋から繋げなくてインターネットカフェに通っていたことを思い出した。すぐに帰るし、携帯のメールは繋がるからいいのだけど。でもなんか泣きそう。 講演会場に行く前に、賢島大橋を渡った。その時ふと目に入った景色がきれいで夕日の写真を撮れたらといったら、驚いたことに思いがけず車を止め、バックして橋まで戻ってもらえた。車を降りて英虞湾に沈む夕日の写真を撮ることができた。いつもは仕事だと脇目もふらず仕事だけに集中するのだが、この夕日は忘れないでいたいと思った。 阿児町はもうすぐ合併するので、阿児町という歴史のある街の名前はなくなるのである。先月、別の研修会で阿児町にきた時もこの話が出た。講演の最後に挨拶された町長の言葉から寂しさがしみじみと伝わってきた。
2004年09月03日
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夜、原稿を書いていたら気持ちよくて、そのまま朝を迎えてしまった。僕の部屋には窓枠に取り付けるクーラーがついていて、そのため窓をほんの少ししか開けられないのではないか、と長年思い込んでいたのに、ふと、思い当たって試してみたら、大きく開け放つことができ驚いた。心地よい風が部屋に吹き込んできた。 これまで気付かなかったことを今悔やんでもしかたない。今、気付いたことが大切なので、これからはクーラーを使わない季節に窓を十分開けられないと歎くことがなくなることを喜びたい。 人との出会いのことを思った。もっと早く会っていたらよかったなと思うことがある。でも、きっとそういう巡り合わせだったのだろう。でも、出会わなかったのではなく、今この生で出会えたのなら、そのことを喜びたいし、その出会いをこれから最善のものにしたいと思う。 過去に起こったことが原因となって今の自分が不幸である、と考える時、過去の出来事と今のあり方には因果関係がないのに(少なくとも、ないかもしれないのに)、あえてそのように見ることがあることを指摘したことがある(『不幸の心理 幸福の哲学』p.28)。 同じことは過去のみならず、未来にもあてはまるかもしれない。例えば、死について考えてみるならば、死は怖いものであり、必ず人を不幸にする災いであると決めてしまうとすれば、今後起こることはすべて不幸なことでしかありえないことになってしまう。幸福な邂逅ですらやがて別れなければならない悲しみになってしまう。しかし、実際に死が怖いものかは誰にもわからないのである。それにもかかわらず、死をそのようなものとして捉えるのはなぜか(続く、かもしれない)。
2004年09月02日
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昨日の続きになるが、僕の場合はシュヴァイツァーよりももう少し長く学問の世界にいて、その後、心理学を学び始め「直接、人に奉仕する道」に進もう、と決心したのは33歳の時だった。もっとも『不幸の心理 幸福の哲学』のあとがきで書いたように(p.226)、粗雑な世界解釈にもとづいた心理学を受け入れるわけにはいかないので、今も哲学者として(学者という意味ではない、哲学学徒)わりあい理論面での仕事をしているのだが。 小学校の時に教えを受けた山崎先生から宮沢賢治のことを教えてもらった。残念ながらその後あまり読めてはいないのだが、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」(『農民芸術論綱要』)という宮沢の言葉はずっと残っていた。 高校は今はわりと名を知られている進学校だが、社会に献身せよ、と菩薩の精神を教えられた。今、この学校がどうなっているのか気になっている。数年前に高校で講演をしたことはあったのだが。 このような様々な影響を受け、研究だけの生活にいつからか満足できなくなってしまったのかもしれない。しかし、哲学を専攻するようになってから教えを受けた藤澤先生の影響を受け、臨床家になりきれない自分がある。今も専門はと問われたら、哲学とこたえるのをためらわない。 歌を詠むようになったのは(ほとんど発表していないが)、山崎先生の影響だろう。前にどこかで書いたが、朝学校に行くと黒板に自作の詩が書いてあって一時間目の国語は、それを読んで話し合いをした。小学生の時に石川啄木の歌を読みたくて、(適切だったのかわからないが)古語辞典を買ったこともあった。概して、どうも僕は影響を受けやすい人で、子どもの頃も今も変わらない。
2004年09月01日
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