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現代人は効率や簡単・便利を大切にする考え方が大好きです。そして、色々な機械を使うことで、家事や仕事や子育てなど、生活の様々な場面で効率化、簡単・便利化が進みました。問題は、じゃあそれで人間は幸せになってきたのか、楽になったのか、生活すること、仕事をすること、生きて行くこと、子育てなどを楽しめるようになったのかと言うと、実際にはその逆のような気がします。現代人はみんな時間に追い立てられています。「楽しむための時間」まで奪われてしまったからです。また、作業を機械に依存するようになることで作業を通して学ぶことも出来なくなりました。機械は賢くなりましたが、体験を通して学ぶ機会を失ってしまった人間はますます愚かになってきました。でも、機械のおかげでちゃんと出来てしまうので、自分が愚かになってしまっていることに気付かないのです。裸の王様状態です。でも、そのような状態の子どもや大人を、機械が使えない状況の中に連れて行くと、その愚かさが露呈します。日ごろ、部屋の中でおもちゃやゲームなどで遊んでばかりいる子を、遊具もオモチャもゲームもない森や自然の中に連れて行っても何も出来ません。ただ退屈するばかりです。親子キャンプで色々な家族でキャンプに行った時は、お父さんたちに火おこしをお願いします。でも、普段からキャンプに行ったり、野外活動をしているようなお父さんなら問題はないのですが、簡単で便利な機械に囲まれた生活しかしていないようなお父さんは「冗談でやっているとしか思えないような方法」で火を起こそうとします。以前、見て笑ってしまったのは、まず薪をそのままの状態で並べ、その上に束になったままの新聞紙をボンと起き、バーナーで火をつけようとしたお父さんたちを見た時です。新聞紙の上の方は燃えます。それを見てお父さんたちは「火が付いた」と喜んでいましたが、あっという間に消えました。で、またバーナーで火をつけてということを繰り返しているのです。でもそれではご飯も焚けないし、お風呂にも入れないので途中で私が助け舟を出しましたが、簡単で便利な機械に囲まれた生活は、私たち人間の知性の原点である「感じ、考え、工夫する能力の育ち」を阻害してしまっているのです。子育てでも同じです。何回言っても無駄、何回やっても無駄ということが分かっているのに、毎日毎日同じことを繰り返しているお母さんがいっぱいいます。思考が停止してしまっているのでしょう。エンデが書いた「モモ」という小説に出て来る「時間泥棒」にみんな「自分の時間」を奪われてしまっているのです。「自分の時間」が奪われているのに、「簡単になった」、「便利になった」と喜んでいるのです。それは入り口を入ったらすぐに出口から出てくることが出来るような状態です。中身がないのです。でも、「学び」は「自分の時間」の中でしか起きないのです。私は時々「ソロキャンプ」に出かけますが、キャンプでは鋳鉄で作った小さなお釜でご飯を炊いています。自分の感覚でお水を量り、自分の感覚で火加減を調節し、自分の感覚で炊きあがりを判断します。でも、そうやって美味しいご飯が炊けるとすごく満足した気持ちになるのです。「レトルトご飯」を使うこともありますが、味気ないです。簡単ではありますが、何の気付きも学びもありません。タモリのように山登りが嫌いな人は、「苦労して登って降りてくるだけなのに何が楽しいんだ」と言いますが、山登りはその、「苦労して登って降りてくる過程」が楽しいのです。ですから、車で上って、車で降りてくるだけでは「山登りの楽しさ」を知ることは出来ないのです。「山」の体験が出来ないですからね。「山登りは苦労して登って降りてくるだけ」と言うのなら、人生は「生まれて死ぬだけ」のことです。生まれてから死ぬまでの過程には価値がないことになります。現代人は結果を急いで「過程」を排除しようとします。でも、その「過程」こそが「中身」なんです。そのため、簡単で便利な機械を使ってその過程を省いてしまうと、外見は立派でも中身が空っぽになってしまうのです。これは子育てや教育でも同じです。タブレットや様々な便利な機械を使って勉強させれば効率はいいかも知れません。最近では実験ですら、映像を見せるだけのところも多いそうです。でも、そのように簡単・便利に学んだことは身につかないのです。そして学んだことが身につかないのなら、教育としては意味がないのです。子育てや教育の目的は子どもの成長をサポートすることです。テストで良い成績を取らせることじゃありません。そこは間違えない方がいいです。
2024.11.26
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毎年この時期になると、多くの家庭で「サンタクロース」の話題が出るようになります。教室の子ども達の話しにも「サンタクロース」が登場するようになりました。9歳前後の子どもは少し疑い始めて、「ねえ、サンタさんているんだよね」とお母さんに聞いてくる子もいます。中には幼稚園頃から「サンタなんかいないんだよ」と言っている子どももいます。親がそう言っているのでしょう。教室の子どもにも時々聞かれます。「サンタクロースがプレゼントを持ってくるという都市伝説を作ったのはオモチャ業界だ」という人もいます。実際、「バレンタインデー」が普及したのはチョコレート業界の陰謀です。日本は本来仏教国ですから、キリスト教文化が入ってくるまでは、当然「サンタクロース」はやってきませんでした。「サンタさんは世界中の子どもたちにプレゼントを配っている」と言われますが、これは間違いです。基本的にはキリスト教を信じている国や親の元にしかやってきません。キリスト教を信じてもいないのにサンタさんがやってくる日本は例外です。日本の場合はオモチャ業界が裏で手を回しているのでしょう。そのため、日本ではクリスマスが「子どもがプレゼントをもらう日」になっています。そして、多くの子ども達がそれ以上のことを知りません。そして、そのプレゼントは基本的にお店で買ったものでなければなりません。「手作りオモチャ」では今時の子どもは喜びません。また、親も作れません。「ゲーム機が欲しい」と言われても、そんなもの親には作れません。でも、本来サンタクロースは「手作りオモチャ」を持って来ていたのです。その「手作りオモチャ」は、サンタクロースの仲間が「子ども達の幸せ」を願いながら心を込めて作ったものです。現代のような「オモチャ業界」が生まれる前から、サンタクロースは子どもたちにプレゼントを配っていたのですから、「手作り」なのは当然のことです。また、今ではクリスマスは「子どもがプレゼントをもらう日」になってしまっていますが、元々の欧米文化では、サンタさんからもらうだけでなく、自分からも「友だちや親にプレゼントを渡す日」でもあったようです。そして、それは今でもそうなのでしょう。子どもも仲間やお母さんにプレゼントをあげていたのです。日本でも時々「プレゼント交換」という形で「それ」を行うことはありますが、「それ」に感謝の気持ちが込められているかどうかは不明です。また、最近では、クリスマスが「イエスキリストが生まれた日」だということを知らない子も多いです。単に「プレゼントをもらう日」になってしまっているのです。でもよく考えたら不思議ではありませんか。サンタクロースなどという「会ったこともない人からのプレゼント」として渡さなくても、「お母さんやお父さんから」と言って渡してもいいはずですよね。実際にそうやっている人も多いですから。またその方が子どもに感謝されるかも知れません。また、「ちゃんと勉強しないとプレゼントあげないよ」などと、色々な駆け引きの道具としても使えます。でも、それを「サンタクロースからのプレゼント」にしてしまうと、感謝は「そのプレゼントを用意した親」ではなく、「どこの誰だか分からないサンタクロース」に与えられてしまうのです。また「駆け引きの道具」としても使えません。でも、子どもの視点で考えると、同じプレゼントをもらっても、受け取るものが全く違うのです。親からもらうのは「物」に過ぎません。でも、サンタクロースからもらうのは「物以上のもの」なんです。それは「見返りを求めない無私の愛」と「自分は一人ではない」という気付きです。「遠くからいつも自分を見守り、自分のためにプレゼントを運んできてくれる人がいるんだ」という気付きです。そしてそれこそが「サンタクロース」の正体なんです。サンタクロースは「見返りを求めない無私の愛」の象徴なんです。だからこそ匿名なんです。本来は、その「無私の愛」を思い起こしながらお互いにプレゼントを渡し合ったのだと思います。もちろん手作りプレゼントです。そのプレゼントの中で一番楽しみにしていたのが「匿名のサンタクロースからのプレゼント」だったのです。うちの子どもたちが小さいときはサンタさんからのプレゼントを待つだけでなく、友達にもプレゼントをあげていました。「これは○○ちゃんに」と言いながらプレゼントを作っていました。確かに、プレゼントを貰うのも嬉しいですが、プレゼントを自分の手で作りあげるのはもっと嬉しいものなんです。「子育て」でも同じです。利害損得ばかりで物事を考えるようになってしまった現代人には思いもよらないことでしょうが、本来「無償の愛に基づく子どもを育てる行為」は喜びそのものだったのです。でも、現代の親は子どもに自分の努力の見返りを求めます。すると急に子育てが辛いものになります。子どもは受け取るばかりで何にも返してくれないからです。でも自分もそうやって育てられてきたのです。ちなみに、「サンタクロースの起源」はウィキペディアに以下のように書かれていました。4世紀頃の東ローマ帝国・小アジアのミラの司教(主教)、教父聖ニコラオス(ニコラウス)の伝説が起源である。「ニコラオス」の名はギリシア語表記。ラテン語ではニコラウス。イタリア語、スペイン語、フランス語ではサン・ニコラ。イタリア語ではニコラオとも。ロシア語ではニコライ。「ある時ニコラウスは、貧しさのあまり三人の娘を身売りしなければならなくなる家族の存在を知った。ニコラウスは真夜中にその家を訪れ、窓から金貨を投げ入れた。このとき暖炉には靴下が下げられていており、金貨はその靴下の中に入ったという。この金貨のおかげで家族は娘の身売りを避けられた」という逸話が残されている。この逸話が由来となり、「夜中に家に入って、靴下の中にプレゼントを入れる」という[3]、今日におけるサンタクロースの伝承が生まれている。また、ニコラウスの遺骸はイタリア南部の都市であるバーリに移されたとも言われている。ちなみに私は「プレゼント」という言葉よりも「贈りもの」という言葉の方が、「物」よりも「心」の方が強く表されている気がして好きです。
2024.11.25
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コンピュータと同じように、人間も「ハード」と「ソフト」という二つの側面があります。「ハード」の部分がなければ「ソフト」は動きません。「ソフト」がなければ、潜在的にどんなに高い能力を秘めた「ハード」でもただの置物と同じです。人間において、その「ハード」は「肉体」です。この「肉体」には脳も、神経系も、内臓も、骨も、皮膚もすべて含みます。人間の赤ちゃんは、このハードが整った状態で産まれてきます。まだまだ、未熟な状態ではありますが、一通り機能する状態にはなっています。そうでなければ生きることが出来ませんから。そして、そのハードが機能するために必要な最低限のソフトも働いています。また、成長に必要なためのソフトも働いています。赤ちゃんは、それらのソフトがハードに組み込まれた状態で生まれてくるのです。その「成長に必要なためのソフト」は、見たり、聞いたり、学んだり、体験したりしたことを吸収し、自分のハードの中に組み込む作業をしています。「知性」や「心」や「人格」のようなソフトは、この「成長に必要なためのソフト」を使って生まれた後から育って行きます。そして、ハードの中に組み込まれる形で定着していきます。これらは「物質的な状態」としては確認することが出来ないソフト的なものではあるのですが、肉体という「ハード」の中に組み込まれることで機能するように出来ているのです。そのため、病気や老化などによって「ハード」の機能が低下すると、「知性」や「心」や「人格」にもその影響は表れます。分かりやすいのはアルコールや麻薬や向精神薬のような薬です。これらは物資的なものですから、「知性」や「心」や「人格」といったソフト的なものに直接働きかけることは出来ません。これらが作用するのは「肉体」というハードに対してだけです。でも、「ソフト」の働きは「ハード」の働きに支えられているので、結果としてアルコールや麻薬や向精神薬のようなものが、「知性」や「心」や「人格」の状態にも影響を与えることになるのです。また、「知性」や「心」や「人格」などを育てる時にも肉体的な体験が必要になります。一日中「優しくしなさい」と言い続けても優しい子には育ちません。「賢くなりなさい」といい続けても無駄です。でも、多くのお母さんたちが、この「無駄なこと」をやり続けています。そして、逆効果の結果に悩み苦しんでいます。学校の道徳教育など無意味などころか有害です。「知性」が育つためには「知性を必要とするような体験」が必要なんです。知性が育っていない子にいくらいっぱい勉強を教えても、ただ暗記するだけなのでその「学んだこと」が子どもの成長につながらないのです。そしてゲームなどの遊びは、サルや3,4才のまだ知性がそれほど育っていない状態の子でも遊ぶことが出来ます。それはつまり「ゲーム」などは「知性を必要とするような体験」ではないということです。中には知性を必要とするようなゲームもあるかも知れませんが、幼いときから知性を必要としないゲームで遊んで育った子は、大きくなってもそのようなゲームには手を出さないのではないかと思います。また、「学校の成績」と「知性の育ち」には関係がありません。ペーパーテストなんかで「知性の育ち」を調べることなんか出来ません。また、子どもを椅子に座らせたて、言葉だけで勉強を教えても無駄なのはそのためです。多くの大人が子どもの成績には関心があっても、知性の育ちには関心がありません。でも、「知性の育ち」は子どもの「自立能力」とつながっているので、この違いは子どもが思春期を迎えるころになって表れて来るのです。「心」が育つためには「心の育ちを促すような体験」が必要になります。それは「心ある大人との、心の働きを通したつながり」の体験です。「心」は「人と人をつなぐために必要な文化の一つ」なので、「心」が育つためには、その文化の体験が必要になるのです。それはつまり、「その国の人たちの文化」は、「その国の人たちの心の現われ」でもあるということでもあります。そうですよね。まただから、「異なった文化」を持っている人たちは「異なった心の状態」を持っているのです。「言葉」も文化です。ですから「言葉の体験」も、子どもの心の育ちに大きな影響を与えています。「否定的な言葉」「暴力的な言葉」を聞いて育った子と、「肯定的な言葉」「優しい差を感じる言葉」を聞いて育った子とでは「心の状態」が違ってきます。「子音」が多い言葉で育った子と、日本語のように「母音」を響かせるような特徴を持った言葉で育った子とでは「心の状態」が違うのです。家庭の中にも、その家庭固有の文化があります。そして、その「家庭の中の文化」が子どもの心の育ちに一番大きな影響を与えています。また、様々な文化との出会いが、子どもの心を豊かに育ててくれます。それはつまり、子どもを狭い世界に閉じ込めていたら、心が育たなくなってしまうということでもあります。「人格」が育つためには「その子が憧れるような人格を持った人との出会い」が必要になります。知性や心が育つためには「体験」が必要でしたが、人格が育つためには「出会い」が必要になるのです。また、「心」や「知性」が育つためには時間も必要です。体験には時間がかかるからです。でも、「出会い」に時間は必要ありません。実際、一瞬の出会いが、その子の人格の形成に大きな影響を与えてしまうこともあるのです。時にそれは「感動」という形でやってきます。でも、同じ人と出会っても何も感じない子もいます。それ故に、人格の成長はその子の生まれた時からの運命と大きく関係しているような気がするのです。気質も関係しています。
2024.11.24
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本当のことを知ろうとするときに私がやっている方法は、「要素に分けてみる」ということと「視点を変えてみる」ということです。この世界にあるものは全て「つながり」の中で生まれ、「つながり」の中で存在し、「つながり」の中で変化し、「つながり」の中で消えていきます。「生」も「死」も同じです。死んだからといって全てが消えるわけではありません。ただ「自分という存在を支えてくれていた求心力」が消えることで、肉体が、もともとつながっていた「つながりの世界」の中に拡散していくだけのことです。それはつまり、「生まれる前にいたつながりの中に戻っていく」というだけのことです。その「自分という存在を支えてくれていた求心力」を「魂」と呼ぶのかも知れません。それを「命」と呼ぶ人もいますが、「命あるもの」と「命がないもの」の境界は曖昧です。実際、「ご臨終です」と宣言された後でも肉体は生き続けることもありますから。科学的には物質と生命は連続している現象なんです。でも、魂が肉体から抜けてしまったら、もう人間でいることは出来ないのです。そして、その肉体から離れた「魂」がその後どうなるのか、ということにも興味があります。「そのまま消えてしまう」と考える人もいますが、「新しい霊的なつながりの中で霊的なからだを得て霊的な世界で生き続ける」と考える人もいます。まあこれも死んでみれば分かることです。そのような私たちを支えている「つながり」は空気のようなものなので、そのままでは自覚することが困難です。その「つながり」を知るための方法として、私は「要素に分けてみる」ということと「視点を変えてみる」という方法を使っているのです。例えば、皆さんがいつも使っている「湯飲み」を考えてみましょう。陶器製の湯飲みは粘土で作られています。そしてその粘土は、粘土が取れた場所の地質的な個性とつながっています。信楽焼の土と、小鹿田焼(おんたやき)の土は違います。そのため、同じ形状の湯飲みを作り、同じ温度で焼いても同じ風情にはなりません。ちなみに、去年、小鹿田焼(おんたやき)の里まで行ってきたので、名前を挙げさせて頂きました。益子焼きでも、有田焼でも同じです。同じ土を使い同じ窯で焼いても、釉薬や窯の中での置く位置が異なれば同じ風情にはなりません。焼くときに使う薪の種類や、焼く季節も関係してくるでしょう。そして、その土の違いはその土が取れた場所の地質学的な歴史とつながっています。それはつまり、地球の歴史とつながっていると言うことです。皆さんが毎日使っている湯飲みを要素に分けてたどっていくと、地球の歴史や人類の歴史にまでつながっていくのです。面白いでしょ。
2024.11.23
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私は子どもの頃から色々なことに興味を持ち、色々なことをやってきましたが、私の気持ちの中ではみんな同じものです。私はただ「本当のこと」が知りたいだけなんです。物理学に興味を持ったのも、物理学を学ぶと「宇宙の本当のこと」が分かると思ったからです。スピリチャル的なことにも興味がありますが、それは「見えない世界における本当のこと」を知りたいからです。「気質」に興味を持ったのも、「気質」という考え方に「本当のこと」を知る手掛かりがあると感じたからです。高校生の時にデッサンや絵を描くことにはまって「世の中にこんなにも面白いものがあるのか」と感じたのも、そこに、それまで知らなかった「本当のことを見る見方」があったからです。デッサンでまず学んだのは「空間」の捉え方です。それまで「空間」などというものを意識したことなんかありませんでした。もちろん「空間」という言葉は知っていました。これは皆さんも同じでしょう。でも、デッサンではその「三次元世界の空間」をどう認識して、「二次元世界」の中でどう表現するのかということをするのです。でもこれが難しいのです。そもそも、「物」は見えても、その「物」が存在している「器としての空間」は目では見えないですからね。デッサンではその「目には見えないもの」を「目で見えるもの」に変換するのです。テレビなどで見ていると、ただ写真のようにそっくりに描くことが流行りのようですが、あれは単なる「技術」の問題であって「認識」の問題ではありません。そっくりに描くだけなら機械にだって出来てしまいます。というか写真を撮ればいいだけのことです。わざわざ、人間が描く必要も感じません。私が中学生の頃に出会って感動した「相対性理論」も空間を扱っています。そして、空間と一体のものとして時間もあります。物理学は「物の理(ことわり)」と書きますが、実際には「空間と時間の理」だったんです。目に見えている「物」は、目では見ることが出来ない「空間と時間」の一状態に過ぎないのです。それは、般若心経で言われている「色即是空 空即是色」の世界そのままです。相対性理論における有名な「E=mc2(二乗)」という式を見た時にはびっくりしました。Eはエネルギーです。mは質量でcは光の速度です。物質はエネルギーに変換出来るということです。しかも、なんでかそこに光速が関係しているのです。面白いですよね。そしてこの原理を元にして原子爆弾が作られました。「本当のこと」を知るために仏教やキリスト教のことも学びました。中でも仏教における認識論には強く惹かれました。私たちが生きている世界は、私たちとは無関係に存在しているものではなく、私たちの認識が創り出しているというのですから。維摩経というお経があるのですが、これがまた面白いのです。AIは以下のように解説しています。AI による概要詳細大乗仏教経典の『維摩経』には、認識論に関する思想が説かれています。維摩経の認識論思想相反する概念は別々のものではなく、ひとつのものの部分であると説く「不二法門」内容善と悪、生と死、我と無我など二項対立によるものの見方を解体し、ものごとの本質を捉える主張世俗社会で生きながらもそれに執着しないこと、すべては関係性によって成立しており、実体はない、自らの修行の完成ばかりを目指さず、社会性や他者性を重視せよ私がいつも書いているようなことが書かれていますよね。また、気質が違えば物事の認識の仕方も違います。ですから、物理的には同じ場所にいて、同じ体験をしても、本人の意識の中では異なった場所にいて、異なった体験をしているのです。面白いですよね。シュタイナー教育に惹かれたのも「ここには本当のことがある」と感じたからです。これは私の考えですが、シュタイナー教育を知識や方法論として学んでしまったら本質が失われてしまうような気がします。私は、R.シュタイナーは、宇宙の見方、人間の見方、命の見方、成長の見方、見えない世界の見方を提示しようとしたように感じるからです。私にとっては、R.シュタイナーは一つの認識論を提示したように思えるのです。ですから、彼の言葉を「科学的ではない」と言って否定しても意味がないのです。科学は「認識によって生じたもの」を扱うことは出来ますが、「認識そのもの」は扱うことが出来ないからです。それはつまり、この宇宙に「人間とは異なった認識能力」を持った宇宙人がいたら、私たちが知っている科学とは異なった科学を創り出している可能性があるということです。ワクワクしませんか。
2024.11.22
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NHKの「こころ旅」という番組でいつも見ていた火野正平さんが亡くなりました。まだ75才です。テレビで見ていて「元気な人だな」と思っていた人だけに驚きでした。先日、西田 敏行さんも亡くなりました。76才です。西田さんも元気で、亡くなった当日も仕事が入っていたそうです。テレビでは「人生100年」などと言っていますが、私の周辺には100歳まで生きた人はいません。ただ単に、「日本人全体で見たら100歳まで生きる人も珍しくなくなった」というだけのことであって、「100歳まで生きるのが一般的になった」というわけではありません。そして私は火野正平さんや西田 敏行さんの年齢に近い73才です。子ども達には3000才と言っていますが、現世における人間界では73才です。もういつ死んでもおかしくない年齢になってきたわけです。それで、「自分がやりたいこと」を悔いなくやりきるために、少しずつ仕事を減らしています。10年以上続いてきた外遊びの会を去年〆させていただきました。そして、来年の3月で30年くらい続いてきた外遊びの会からも抜けさせていただきます。始めたころには幼児だった子が今では大人に、そして親になっています。ただし、お母さんたちの勉強会は継続します。これもまた「やりたいこと」の一つだからです。私は人が成長していくのを見るのが好きなんです。そんな私は、若い頃から「やりたいことを諦めない生き方」をしてきました。中学生の頃「相対性理論」と出会って感激し「物理学者になりたい」と思いました。そして、高校生の頃も物理学者を目指して勉強していましたが、なぜか高校3年の時に「絵」と出会ってしまい、受験生なのにデッサン教室に通い始めました。その時に感じたのが「世の中にこんなに面白いものがあったんだ」という驚きです。「絵描き」というそれまでに会ったことがない人種との出会いも衝撃的でした。それで短絡的な私は「とりあえずは物理学科に行くけど、卒業したら絵描きになりたい」と決めてしまったのです。そして、大学では卒業に必要な最低単位だけを取るようにして、美術研究所に通いつめました。で、卒業が近くなった時、両親に「ぼくは絵描きになるから就職はしない」と言ったのですが、「せめて5年でいいからボーナスの出るところに勤めてくれ」と母親に懇願され、絵の勉強のために行きたかったヨーロッパに行くためのお金を稼ぐ必要もあったので、そのまま大学の事務職として就職しました。最終的には6年勤め、同僚からは「なんでそんな馬鹿なことをするんだ」と言われ、人事部の部長からは「このままいれば出世するよ」と言われながら退職し、リュック一つを背負って1年間の海外の旅に出たわけです。スペインでは半年間、美術学校に通ったり、絵を描き続けました。そのあと、ヨーロッパの南の方をウロウロしてインドに渡りました。インドで「人間について」学びたいと思っていたからです。ちなみにスペインを選んだのは当時、ご自宅まで通って絵を教えてもらっていた里見勝蔵という絵描きの影響です。里見先生はブラマンクの弟子で佐伯祐三の友人です。たまたまそのお弟子さんの展覧会を見て感激し、「先生は誰ですか?」と聞いたら里見勝蔵だというので、連絡先を教えてもらい押しかけて通うようになったわけです。インドに行きたいと思ったのは藤原 新也という人の「インド放浪」という写真集を見たからです。「この現場を見に行かなければ」と思ったのです。ここから先もまた長い話になるのでこれくらいでやめておきますが、このように私は「やいたいこと」を諦めない生き方をしてきました。子どもと遊ぶのも、シュタイナーや気質の勉強も、造形も、太極拳、操体法、野口整体、野口体操、古武術、システマ(ロシアの格闘技)なども「からだの学び」も「やりたいこと」だったから始めた活動です。ですから、自分の人生に後悔はありません。でも、まだまだやりたいことがいっぱいあります。昔は「年を取ったら暇になる」と思っていたのですが、なぜか若い頃よりも忙しいのです。それはそれでありがたいことなんですが、もう少し「自分がやりたいことをやるための時間」も欲しくて、少しずつ仕事を減らしています。ご迷惑をおかけする人もいますが、申し訳ないです。
2024.11.21
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先日、「ゆずり葉学舎」(群馬県富岡市にあるオルタナティブスクール)という所で、「竹であれこれ楽器を作ろう」というワークをして来ました。現地は竹林が傍にあるので、竹は必要に応じてすぐに集めることが出来ます。広いし、周りは山や畑だし、多少大きな音を出しても周囲から苦情が来るようなことはありません。ものすごく恵まれた環境です。そんなにも恵まれた環境なのに、それまでは、竹を使った楽器作りや工作をあまりして来なかったようです。竹には非常に大きな可能性があります。楽器だって何十という種類の楽器を作ることが出来ます。(正確に言うと、「音楽を演奏するためのもの」ではなく、「つながりを創り出す音を生み出すもの」ですけど。)オモチャだって何十と作ることが出来ます。もったいないことです。もっと言えば、「土」にも、「水」にも、「火」にも、「風」にも大きな可能性があります。実際、オモチャやゲームもなく、相手をしてくれる大人もいなくて、自然や仲間しか遊ぶ相手がいなかった昔の子ども達は「草木」や、「土」や、「水」や、「火」や、「風」や、「生き物たち」を相手に遊んでいました。それは、見方を変えると「遊びを通してそういうものたちの可能性を探っていた」ということでもあります。それはまた「自分自身の可能性」に気付き、拡げる体験でもありました。今でも昔と同じように草木も、土も、水も、風も普通にあります。火だけは子どもから遠ざけられ、虫は減ってしまいましたが、その他のものは家から出てちょっと歩けば子どもの生活空間の中にいっぱいあります。でも、最近の子はそういうものを相手にして遊ぼうとはしません。大人もまたそういう遊びを伝えないし、そもそも知りません。もったいないことです。最近の子ども達のオモチャやゲームなどの「遊び相手」は、最初から「子どもの遊び相手」として作られているものなので、「遊び方」を自分たちで工夫したり発見したりする必要がありません。便利になったものです。でもその結果、子ども達は「自分自身の可能性に気付き、拡げる体験」をすることが出来なくなりました。もったいないことです。ちなみに「もったいない」という言葉の本来の意味は以下のようなものです。私もこの意味で使っています。<AI による概要>「もったいない」という言葉の本来の意味は、仏教用語の「勿体(物体)」に否定の言葉である「ない」が合わさったもので、「ものが持つ本来の価値をなくしてしまうことが惜しい」という意味です。「勿体」には「重々しい」「威厳」という意味があり、仏教の教えである「すべての物事は互いに関係し合って成り立っており、存在することが当たり前ではない」という思想が込められています。この思想から、日本にはものを尊敬し感謝する精神が根付き、ものを大切にし、無駄にしないという「もったいない」の文化が生まれました。私が茅ヶ崎でやっている、親子で遊び「ポランの広場」(4月以降も参加できる生徒募集中です)という活動では、しょっちゅうお母さんたちに無茶ぶりをしています。いきなり、「歌って」とか「踊って」などと言うこともあります。昨日は、子どもとお母さんが自分たちで作ったものを売り買いして遊ぶ「お店屋さんごっこ」だったんですが、今の時代「自分で工夫して工作をする」という体験がないお母さんの方が多いので、最初はみんな戸惑います。でも、いざ、ちゃんと取り組んでみるとみんな出来てしまうのです。「即興劇なんか出来ない」とうじうじしていたお母さんが素敵な即興劇をやって見せてくれることもあります。やったことがないから「出来ない」と思い込んでいるだけの人が凄く多いのです。子どもも同じです。私は「この子なら出来る」と思うから「やってみない」と誘うのですが、「やったことがないから出来ない」と言って手を出さない子が多いのです。もったいないことです。「人生」とは「自分に与えられた時間」のことです。そして、その「時間」には「やったことがないこと」しか存在していません。毎朝目覚める朝は、みんな「始めての朝」です、「初めての一日」です。そこには可能性がいっぱい溢れているはずなのに、新しいことに挑戦せず、昨日と同じような毎日を過ごすことだけに夢中になっているのはもったいないことです。何もしなくても一生はあっという間に過ぎてしまいます。たとえ失敗しても、色々なことにチャレンジしてみれば色々な発見と、色々な学びと、沢山のつながりを得ることが出来ます。現代人は、子ども達も含めてみんな失敗を恐れていますが、失敗することが問題なのではなく、失敗から学ぼうとしないのが問題なんです。自分の時間、自分の命、自分の一生を無駄にしたくないのなら、やりたいと思ったらチャレンジしてみて下さい。「やりたい」と思ったときがベストチャンスなんですから。
2024.11.20
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昔の人は「失敗は成功の母」というようなことを言いました。それは人間は試行錯誤を通して成長する生き物だからです。ロボットを作る時にはその動かし方において二種類の方法があります。一つは予め必要とされるデータを全て記録しておき、何らかの出来事と遭遇した時にはそのデータ中から適合するデータを選択し、さらにそのデータを元に予めプログラミングされた動きを行うというタイプのものです。このようなロボットの場合は一対一対応で、同じ状況ではいつでも同じ行動をします。そして、全体的な状況を判断することが出来ません。人が前に来たら「こんにちは」と言って握手するようにプログラミングされたロボットは、その相手が握手を拒否しても同じ行動をします。相手や状況に合わせて自分の行動を変化させるということができないのです。ですから同じ間違いを何回も繰り返します。間違いから学習することが出来ないのです。このようなロボットには絶対的な「正解」があり、その正解以外の反応は出来ません。その「正解」以外の行動をするようになった時には、そのロボットは「壊れた」と判断されます。人間でも、時々それに似た状態の人がいます。その「正解」はプログラムを作った人が決めた正解です。そのプログラムを作った人はそのロボットが遭遇するであろう状況を予め想定してプログラムを作ります。でも、どんなに優秀なプログラマーであろうと、そのロボットが遭遇するであろう全ての出来事を正確に予想するなどと言うことは出来ません。それが出来たら神様です。ですから、予めロボットの活動に制限を加えることでそのような不測の事態を避けようとします。それでも万が一、予測不能な出来事が起きたら事故が起きてしまう可能性があるので、すぐに動きを止めます。そのため、ロボットの動きから目を離すことができません。それでいつでも「モニター」をすることになります。工場などで働いているロボットなどにはこのタイプのロボットが多いようです。工場はいつも同じ出来事の繰り返しで動いているわけですから、このタイプのロボットが丁度いいのです。むしろ、ちゃんと同じことをやってくれないと困るのです。お役所の人はよく「前例がありません」という言葉を使うようですが、お役所の人もこのタイプのロボットと似ています。でもそれは、生きている人間を相手にするやり方ではありません。人間を相手にするロボットはこれでは困まるのです。人間の場合は相手がどんな反応をするのか予測が出来ないからです。ですから、人間を相手にするロボットには、相手の状況に合わせて自分の動きを変えていく柔軟さが必要になります。それを「学習型のロボット」といいます。その時に必要なデータは「予めプログラマーが作り与えたデータ」ではなく「自ら学んだデータ」です。その際「失敗」は非常に大切なデータになります。その失敗から学ぶことで、より自由度と精度を上げることが出来るからです。ロボットに卵をつかんで持ち上げさせるという動きをさせるとします。でも、最初は石を持つようにつかんでしまい、割ってしまうでしょう。でも、卵が割れてしまったらロボットはその状態をフィードバックさせて、自分の動きを変えて再挑戦します。それを何回か繰り返して、適切な力加減を学んでいきます。そうすると、もう卵を割らないで持ち上げることが出来るようになります。このタイプのロボットにおいては、「失敗」はデータを集めるために欠かせない大切な行為なんです。そして、失敗から学ぶことで、様々な状況において柔軟に能力を発揮することが出来るようになるのです。でも、予めプログラミングされているロボットの場合は、プログラマーがそのような状況を想定してプログラムを作っているのなら最初から失敗せずに卵を持ち上げることが出来ます。でも、卵以外のものには対処することが出来ません。この両者のタイプのロボットに一つの制限を加えます。それは「失敗を許さない」という制限です。人間の場合なら、「失敗は罪だ」「失敗したらダメな子だ」という価値観を植え込むことでこの制限を掛けることが出来るようになります。そのダメ度度合いを調べるのに最適な方法が「減点法」という方法です。日本の教育では一般的なあれです。すると、失敗の繰り返しによって学んでいる「学習型」のロボットは何にも出来なくなり、無能なままになります。潜在的な能力はあるのですが、その能力が開発されないままになってしまうのです。それに対して、行動パターンが予めプログラミングされているロボットの場合は、失敗しないのでその能力を発揮することが出来ます。ですから、このような制限のある状態ではプログラマーの指示通りに動くロボットが「良いロボット」ということになります。でももし、全てのロボットが最終的にはプログラマーの管理から離れなければならないように運命づけられているのだとしたら、どういうことになるのでしょうか。そして、人間の子どもはみんな親や、先生や、学校から離れて生きていかなければなりません。そんな時、失敗が許されない子育てや教育を受けた子は、身動きが取れなくなってしまうのではないでしょうか。「親ガチャ」という言葉は「失敗が許されない社会」だからこそ生まれた言葉だと思います。失敗が許されない社会では、初期値で結果が決まってしまうのです。
2024.11.19
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人が成長するためには「気付き」が必要です。どんなに多くの知識を学んでも、そこに「気付き」がなければ人は成長しません。逆に、ありふれた日常生活の中ででも「気付き」を得ることが出来る人は成長します。子育てを通して、子どもや、命や、自分や、自然や、社会に対して色々な気付きを得ることが出来る人はどんどん成長していきます。「気付く」ということは「分かっていないということ」を発見するということでもあります。またそれは、「気付いていなかった自分」を発見するということでもあります。そこに発生するのが「問い」であり、そこから思考が始まるのです。もしその人が、実際には何にも知らなくても「全てを知っている」と思い込んでいるのなら、思考は目覚めないのです。そして、人間としての成長も始まりません。それはまた「0(ゼロ)の発見」とつながっています。「存在していないもの」を発見するのです。でもその「0」の発見がなければコンピュータも生まれなかったのです。犬や猿も、そしてコンピュータも、「知らない世界」のことは知りません。唯一人間だけが「知らない世界」が存在していることを知っているのです。だから色々と想像したり、科学という方法を創り出したりしたのです。人類が人間としての思考を始めたのは、そのように「自分たちには知らないことがある」と気付いたからなのです。そして、子どもが人間らしく成長するためにも「自分には知らないことがある」と気付くことが必要なのです。道具を作るための思考力は人間以外の動物も持っています。でも、知らない世界のことを考えるための思考力は人間にしかないのです。ちなみに、簡単な計算なら動物にだって出来ます。暗記も機械の操作も出来ます。だからそういうものは人間を特徴づけるものではないのです。子どもたちは、「知らない世界」が存在していることを知るから、世界の広さを知り、そこから探求が始まるのです。だから子ども達は「自然」や「言葉の世界」と出会う必要があるのです。「自然の不思議」「言葉の世界の不思議」と出会う事で、子ども達は「自分が生まれてきた世界の不思議」と出会う事が出来るのです。気付きが目覚めるのもその結果です。最近の子ども達は「自然」や「言葉の世界」との出会いよりも「映像」との出会いの方が多いです。でも、映像は「不思議」を与えてはくれないのです。ゲームの世界にも不思議は存在していません。そもそも、人間が創り出した世界に不思議は存在していないのです。今この時期の紅葉に満ちた山の中を歩くと沢山の「不思議」と出会う事が出来ます。でも、映像でそのような景色を見ても「不思議」は感じません。当然、気付きも生まれません。なぜかというと、映像では身体感覚に響かないからです。実は、不思議を感じるのは「頭の働き」ではなく「身体感覚」なんです。これは説明が難しいのですが、私が何らかの不思議を感じるときは「からだに響く何か」があるのです。「からだ」というよりも「生命感覚」なのかも知れませんけど。命の不思議、花が咲く不思議、夕日を見て美しいと感じる不思議、赤ちゃんの笑顔に幸せを感じる不思議、こういうものは知識によって生まれるのではなく「身体感覚」や「生命感覚」によって生まれているのです。ですから、「身体感覚」や「生命感覚」が萎えてしまっている人は、そのようなものに触れても不思議を感じないでしょう。そして、「自然」や「言葉の世界」との出会いが、子どもの「身体感覚」や「生命感覚」を目覚めさせてくれるのです。
2024.11.18
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私は子どもの育ちにおける「言葉の学び」の意味と重要性を強く感じています。でも、簡単で便利な生活に浸りきっている現代の子ども達は、ますます「言葉」を失ってしまっています。というか、社会全体から「言葉」が消えつつあるので、子ども達は大人よりも早くその変化に順応しているだけなのだろうと思います。そして、これは日本だけでなく世界中で起きている現象でもあります。そんな現代人は「言葉」より「映像」の方に価値を感じます。「百聞は一見にしかず」ということわざがありますが、「まどろっこしい言葉でダラダラ説明しても、実際に見せてしまった方が話が早い」ということなのでしょう。そしてその方が「手っ取り早い」ことを重視する現代人の感性にも合っているのでしょう。名作をダイジェストで読むだけで満足する人達ですから。確かに、映像で見ると分かりやすいです。でも実はそこに非常に大きな落とし穴があるのです。「映像」は「事実」を見せることによって、単に「分かった気」にさせてくれるだけだからです。でも、現実の世界は、「見て分かる」ほど単純なものではないのです。実際、同じ「事実」を見ても、「その事実から何を読み取ることが出来るのか」ということは、その人の「言葉力」によって全く異なっているのです。「言葉」をしっかりと学んだ人は、「見える世界の裏側」を知っているので、「映像」からも多くを知ることが出来るでしょう。でも、「映像」ばかりを見て育った人は、ただ、面白いか面白くないかだけでその映像を判断してしまうのです。図や言葉だけで「ノコギリの使い方」を理解するのはなかなか困難です。でも、映像で見せてしまえば簡単に伝えることが出来ます。そして、子どもはすぐに「分かった気」になります。「やり方動画」を見ただけで自分も出来るようになったと勘違いしてしまう子もいます。でも、「分かった気」になることと、「実際に出来る」ということとは全く別問題です。私は、そういう実例をしょっちゅう見ています。情報を知り、分かった気になるだけでもテストではいい点数をとることができますが、造形などの実際の現場ではそんなもの役に立たないのです。このような時、「知らない」ということを自覚している子は説明に耳を傾けてくれますが、知ったつもりになっている子は耳を傾けてくれません。実際の現場では、ノコギリをひくときの抵抗、自分の手首の緊張、からだの使い方、呼吸など映像化することが出来ない様々な問題が複雑に絡んでいるのです。それらは言葉では説明できますが、映像では映せないのです。おいしいお料理の味も、言葉で説明する以外には伝えようがありません。映像から分かるのは「おいしそう」というだけのことであって、実際の味ではありません。私たちが生きている世界は、「言葉」を使わないことには伝えることも、理解することも出来ない事に満ちているのです。「人の心」もまた然りです。「他の人の心」を理解するためには、「その人の言葉」を聞く以外にないのです。それは決して映像化できないのです。人類は、自分が「生きている世界」を理解するために、言葉を使って哲学や、文学や、科学や、宗教や、様々な学問を創り出してきました。科学実験の映像を見ても、そこには必ず「言葉による解説」がついています。映像だけ見せても、何のことか分からないからです。子ども達は「実験」が好きですが、でも、言葉を失った子ども達は「説明の言葉」には耳を傾けません。だから、科学への興味も理解も深まらないのです。そこにあるのは、「真理を探求するための実験」ではなく、「へーすごい」という面白さを求める「アトラクション」のようなものに過ぎません。でも、「言葉による理解」を得た子は、わざわざ実験などしなくても、日常的な自然現象の中に「不思議」を見ることが出来ます。わざわざ、実験室で「落下の実験」など行わなくても、そんなもの家の中でも森の中でも簡単に見ることが出来るのです。「言葉」で「真理」を語ることは出来ますが、「映像」で真理を語ることは出来ないのです。「映像」はただ「事実」を見せてくれるだけです。そして、そこから「真理」を抽出するためには「言葉」が必要になるのです。毎日、ニュースで世界中の映像を見ていても、その背景にある真理を知るためには「言葉」が必要になるのです。その「言葉」を持たない人達は、「映像」によって簡単にだまされます。今日に話題と関係している記事を見つけました。忍耐力のないクレーマー、モノの価値がわからない客が増加中…いま「お客さんの劣化」が進む「深刻なワケ」こういう現象の背景にも、言葉の劣化の問題があるのです。説明を聞いても「その説明の意味」を理解することが出来ないのです。そのため自分で判断できないのです。
2024.11.17
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人の「心」は「言葉」で出来ています。ですから、「言葉」が育っていない子は喜怒哀楽などの感情は持っていても「人間らしい心」は未熟なままです。そして、自分の欲望や、目先の損得勘定だけで行動します。「こういうことをしたら、こういう結果になる」というような「原因と結果」を想像する能力も低いです。そして、闇バイトやカスハラなどの様々なニュースを見ていると、そのような状態の人がどんどん増えてきているようです。そのような人に倫理や道徳や善悪を説いても無駄です。それらの概念を理解するための「言葉」が育っていないのですから。罪を犯した人を捕まえて罰則を与えても無駄です。反省するためには自分との対話が必要になるのですが、言葉が育っていない人にはその対話が出来ないのですから。そのような人に罰を与えても逆恨みしたり、「次は捕まらないように気を付けよう」と考えるだけです。ですから、そのような状態の人が「困ったこと」や「犯罪」を繰り返さないようにするためには、「罰」を与えるのではなく「教育」を与える必要があるのです。特に「言葉の教育」です。逆に言えば、そのような状態の人が増えてきたのは、現代人が「言葉の育ち」を大切にしていないからでもあるのです。子育てでは、子どもに対して「お母さんの言うこと」に素直に従うように求めている人が多いです。そのような人は子どもに指示や命令を出しますが、子どもの言葉には耳を傾けません。でもそれは、言葉を持たないペットなどを調教する時に使う方法です。教育でも知識を覚えさせるだけで言葉を育てようとはしていません。そもそも、子どもを椅子に座らせて、講義を聞かせるだけでは「言葉」は育たないのです。そのような状態でも学ぶことが出来るのは「すでに言葉が育っている子」だけです。でも、そのような「言葉が育っている子」にとっては、知識を覚えるように求められるだけの授業は苦痛です。あの授業形態は「子どもの都合」に合わせたものではなく、「大人の都合」に合わせたものなんでしょう。「言葉」は「体験」とセットにして学ぶものです。「言葉」だけでは教えようがないのです。「本」を見せもせず、触れさせもせず、読ませもしないで「本」という言葉を伝えることは出来ないのです。それでも、大人が「ホン」という言葉を使っていれば、「ホン」という「音」は覚えることが出来ます。そして、大人と同じようにその言葉を使うことも出来ます。そのため、「言葉の本質」を知らない大人たちは、それで子どもが「本」を理解したと思い込んでしまうのです。<続きます>
2024.11.16
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私は、よく「物語の大切さ」を書いていますが、その「物語の大切さ」に気付いている人はそれほど多くないように感じています。子どもの育ちには「体験」と「仲間」が必要です。そのことを知っている人は多いです。ですから、それを与えるために活動している人もいっぱいいます。でも、その「体験」と「仲間」が子どもの心とからだの中に吸収され、子どもの心とからだの育ちに肯定的に働きかけるためには、子どもを体験や仲間とつなげるための「物語」が必要になるのです。子どもと世界をつなぐためにも、子どもと自然をつなぐためにも、子どもと命の世界をつなぐためにも「物語」が必要なんです。体験や仲間を与えるだけでは不十分なんです。でも、今の子ども達にはこの「物語」が足りません。今の子ども達の多くは「物語」ではなく「物」だけの世界に生きています。子どもの育ちにおける「時間」「空間」「仲間」という「さんま(三間)」の重要性を説く人は多いですが、それらのものと子どもとをつなぐ「物語」が存在しなければ、時間」も、「空間」も、「仲間」もその意味を失ってしまうのです。犬や猿のような社会性を持った動物たちは、その育ちに「体験」と「仲間」が必要になります。その点では人間と同じです。でも、その育ちに「物語」が必要なのは人間だけです。なぜなら、人間だけが「本能」ではなく「心」で「つながり」を作る生き物だからです。人間は「物語」を介在させないことにはつながり合うことが出来ないのです。私たちの社会では、「お金」や、「宗教」や、「民族」や、「国」や、「思想」や、「遊び」や、「言葉」といった様々なものが「人と人をつなぐもの」として働いていますが、でも、実際には、それらのもの自体には「つなぐ力」はありません。そこに「物語」が介在して初めてそれらが「つなぐもの」として機能するのです。「お金」は「お金の物語」とセットになって、初めてその意味を発揮するのです。実際、その物語を知らない幼い子どもにお金を渡してもオモチャにしかならないですよね。人と人が「お金」でつながり合うためには「お金の物語」が必要になるのです。その「お金の物語」を共有し合うことで「お金」を通してつながり合うことが出来るようになるのです。ですから、「お金が欲しい人」と「お金が欲しくない人」では、「お金」を通してつながり合うことは出来ません。でも、ドングリや小石のような些細なものでも、その「物語」を共有することが出来れば、それらが「つなぐもの」として機能するのです。「物語が人と人をつなぐ」というのはそういうことです。お金だけでなく、他の全てのものにおいても同じです。ドングリやお金は「見えるもの」ですが、「物語」は「見えないもの」であり、目に見えない空気のように存在しているので、気付く人が少ないのです。また、「言葉」が通じるのも「物語」を共有しているからです。「木」という言葉が通じるためには、お互いが同じ「木の物語」を共有している必要があります。「木」を「森や生命の物語」とつなげて理解している人と、「紙や材木の資源としての物語」とつなげて理解している人とでは、「木」という言葉でつながりあうことは出来ないのです。「木を大切にしよう」という言葉の意味も全く異なったものになるでしょう。前者の人は「出来るだけ木を切らないようにしたい」と思うのに対して、後者の人は「切った分だけ植林すれば同じでしょ」と思います。そしてお互いに「こいつは何を言っているんだ」と思うでしょう。大人が子ども達にどんなに「生命を大切にしよう」と訴えても、それは大人の価値観の押し付けに過ぎません。ですから、その価値観でつながり合うことも出来ません。もし本気で、「生命を大切にする子ども達」を育てたいのなら、子ども達に「生命の物語」を伝えるしかないのです。「価値観の押し付け」は逆の結果をもたらすだけです。ただ、誤解されると困るのは、ここで言う「生命の物語を伝える」というのは、「そのような知識を教える」ということではありませんからね。自分たちで種を植え、世話をして、花を咲かせ、また種を収穫して、翌年に育てる。そのような体験とセットにして、子ども達に「生命は繰り返してつながっていくものだという物語」を伝えるのです。生き物を可愛がるだけでなく、死ぬまでちゃんと世話をしてあげる。「ペットが死ぬと子どもがかわいそうだから飼わない」という人が時々いますが、そのような人は子どもに「生命の物語」を伝えることが出来ないでしょう。「死の体験」は、「生命の物語」の根幹です。この事実と向き合わせないままで「生命の物語」を伝えることは出来ません。また、ザリガニや金魚が死んだとき、生ゴミとして捨ててしまうのも避けた方がいいと思います。子どもがこのような体験を通して「生命」と出会ったときに、大人が「生命の物語」を語ってあげることで、子どもはその「生命の物語」に気付き、自分自身の「命の物語」も考えるようになるのです。そして「自分の命」を大切なものとして感じるようになるのです。
2024.11.15
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最初にちょっと告知を入れさせてもらいます。茅ヶ崎で気質と子育ての話をさせていただきます。場所は里山公園で、駅からはちょっと遠くて不便ですが、ご興味のある方は是非どうぞ。詳細は以下のリンク先で見ることが出来ます。https://www.facebook.com/events/508234968746548****************幼い子ども達は「今」「ここ」「自分中心」の世界に生きています。それは「0次元の世界」と言えるかもしれません。やがて、成長と共に「昨日」「今日」「明日」という時間感覚が目覚めます。でも、最初は「明日」と「明後日」や「何日後」の区別がつきません。明日も、一週間後も、一年後も同じです。過去に関しても同じです。違いが分かるのは「今」を基準にして前か後かということだけです。やがて、「一週間前」とか「一週間後」ということも分かるようになりますが、「自分の時間」しか分からないのであれば、それは「点」(0次元)が「線」(一次元)になっただけで、大人が生きている次元には遠く及びません。そんな「自分だけの時間」に生きている子どもには、大人の時間、幼稚園の時間、バスの時間が分からないので、お母さんに「幼稚園バスが来てしまうから速くしなさい」と言われても、お母さんが言っている言葉の意味を理解することが出来ません。大人でもパニックになったり、苦しみに閉じ込められたりしてしまうと、この状態に戻ってしまうことがあります。幼い子どもと同じように「今」「ここ」しか分からなくなってしまうのです。そのため、「そっちへ行ったら危険だよ」という方向にも平気で進んで行ってしまいます。自殺を選んでしまうのも、前後のことが分からなくなってしまうからです。でもさらに成長すると、「自分が生きている時間は自分だけの時間だが、他の人もみんなそれぞれ自分の時間を生きているんだ」ということが分かるようになります。そして「自分の時間」と「他の人の時間」をすり合わせて考えることが出来るようになると、とりあえずは社会生活が営めるようになります。でもこれだけでは二次元です。自分とは直接関わりがない、「今、ここにいない人の時間」も理解出来るようになるとさらに思考の次元が上がります。そのような時間を知るためには「物語との出会い」が必要になります。「ここ」に関しても同じです。幼い子どもには「ここ」しかありません。子どもの姿が見えなくなった時、お母さんが「○○ちゃん、どこにいるの?」と叫ぶと、子どもは「ここだよ」と答えます。それでお母さんは「ここってどこ?」と聞き返すのですが、幼い子どもにはその問いの意味が分かりません。「ここ」はここ以外のどこでもないからです。迷子になった時も、大人は「子どもがどこかに行った」と思いますが、子どもは「自分はズーッとここにいたのに、お母さんがどこかに行った」と思います。また、迷子になったときも自分基準でしか方向を理解していないので、お母さんを探すことが出来ません。子どもが理解出来る方角は「自分の前」「自分の後ろ」「自分の横」という、「自分を基準にした方角」だけです。東西南北や、公園の地図や、太陽の位置などを基準にして方角を理解することが出来ないのです。そして子どもは、常に自分の前方にお母さんを探そうとします。子どもの意識の中には、「自分の目で見えない世界」は存在していないのですから。そのため、後ろに戻ったりはしないのです。だから、とんでもないところに行ってしまうのです。自分の位置を正しく知るためには、「今」「ここ」が分かるだけではダメなんです。その「今」「ここ」と全体の関係を知る必要があるのです。逆に、全体が分かっても「今」「ここ」が分からなければ、自分の位置は分かりません。子どもの成長を考えるときには、「肉体の成長」だけでなくこのような「認識能力の成長」も考える必要があるのです。そしてこれは、リアルな体験を通して身につく感覚なので、その体験をすっ飛ばしていくらお勉強をしても「今」「ここ」の世界からは抜け出せないのです。そのような体験がないまま育った子は、大きくなっても幼い子どものように自分勝手に考え、行動するようになるでしょう。でも、自分勝手にやっているということを自覚することが出来ません。そのため、周囲の大人が叱っても、他の子に文句を言われても「僕は何にもしていないのにみんなが僕のことをいじめる」などとお母さんに訴えたりするのです。教室にもそういう子がいました。みんなから嫌がられ、文句を言われても当然の行動をしているのに、周囲の子がそれに対して文句を言ったり、自分を守るためにその子を排除しようとすると、「僕は何も悪いことをしていないのに」と言い立てるのです。自分の無自覚や不注意でトラブルに遭っても、「自分のせい」とは考えないのです。それは迷子になってしまった子が、「迷子になったのは自分が勝手に歩いたせいではなく、お母さんが自分を置いてどっかに行ってしまったからだ」と考えるのと同じです。また、「今自分がどこにいるのか」が分からないので、叱られても、「叱られた理由」が分かりません。また、「どうしたらいいのか」も分かりません。そのため、自分が悪いのに、叱られたことで逆恨みしてしまうこともあります。
2024.11.14
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幼い子どもは「自分」のことしか分かりません。でも、様々な体験や学びを通して、次第に「相手」のことも分かるようになってきます。これは「肉体の成長」に伴う「生理的な成長」の結果です。そんな時、虐待などを受けているような子は「自分の視点」ではなく「相手(一般的にはお母さん)の視点」を推測して、物事を感じ、考え、行動するようになります。「自分」が「相手」に飲み込まれてしまうのです。そうして子どもは自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で行動することが出来なくなっていきます。この「自分」から「お母さんへ」という視点の変化(視点の移動)は「変化」であって「成長」ではありません。「生理的な成長」の結果、「お母さんの視点」が分かるようになったのですが、「自分の視点」が「お母さんの視点」に飲み込まれてしまうのは「人間としての成長」ではないのです。「自分の視点」も「お母さんの視点」も同時に大切にした上で「さてどうするのか」ということを考えることが出来るようになるのが「人間としての成長」なんです。「自分」を見失ってしまったら「人間としての成長」は止まってしまうのです。そして、それが可能になるためには「視点の上昇」が必要になるのです。それは、「私だけ」という一次元で考えていたのを「私とあなた」という二次元でも考えることが出来るようになるということです。地表にいて見ていた世界を気球などに乗って上から見てみるというようなことです。子育てに苦しんでいるお母さんの多くが、「子どもの幸せのために自分を犠牲にするか」それとも「自分の幸せのために子どもを犠牲にするか」という二者択一で悩んでいます。でも、「自分の幸せ」と「子どもの幸せ」を両立させる方法もあるのです。でも、そのことに気付くためには「人間としての成長」が必要になります。まただから、多くのお母さんが子育てを通して成長していくことが出来るのです。人間として成長して第三の選択肢を見つけ出さないことには、「子ども」か「自分」のどちらかが犠牲になるだけですから。さらに生理的に成長すると9才を過ぎたころから「社会の視点」ということも分かるようになってきます。すると今度は「自分の視点」を捨てて「社会の視点」に合わせて生きるようになる人もいます。そのような人は、テレビや、政治家や、周囲の人たちの意見に洗脳されやすいです。第二次世界大戦が始まり、国が「鬼畜米英」と言ったとき、それまでお手本にしてきた欧米を急に「鬼」と罵るようになった人がいっぱいいましたが、そういう人は「自分の視点」を国や社会に簡単に明け渡してしまったのです。幼いときから「自分の視点」を大切にするような育てられ方をしてこなかった子は、簡単に「視点」を乗っ取られてしまうのです。あなたがもし「子どもの心」に対して、「変化」ではなく「成長」を求めるのなら、子どもが「自分の視点」をしっかりと持つことが出来るように関わる必要があるのです。そのためには、「子どもが感じていること」「子どもが考えていること」「子どもがやりたいこと」を大切にしてあげる必要があります。でも、ただほったらかしておくだけではダメです。色々なことを感じることが出来、色々なことを考えることが出来、色々なやり方を知りそれを試して見ることが出来るような自由な場と、それを共有する仲間が必要になるのです。ゲームしか知らない子に「何をして遊びたい?」と聞いても無意味ですよね。「ここ」しか知らない子に「どっか行きたいところがある?」と聞いても無意味ですよね。そして、そういうことを子どもに問いかける大人との関わりも必要になります。人は問いかけられることで自覚が目覚めるのですから。皆さんは何を感じ、何を考え、自分の人生で何をしたいのですか?その自覚が目覚めないことには「移動」は起きても「成長」は起きないのです。
2024.11.13
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人は皆、「子ども」という状態から人生をはじめます。皆さんも昔は「子ども」でしたよね。「子どものことが理解できない」「子どもなんて嫌いです」などと言っている人は多いですが、そのような人も昔は子どもだったはずです。でも、大人になって子育てを始める時、「子どものことが理解できない」「子どもなんて嫌いです」という状態のままでは、子育てが困難になってしまうのです。それで、子育てのワークでは「自分の子ども時代のことを想い出してみよう」というワークをします。自分の子ども時代に対して肯定的な感情を持っている人は、自分の子どもに対しても肯定的な感情を持ちやすいからです。でも、そのワークをするようになって驚いたのは、なぜか「自分が子どもだった時のこと」を覚えていない人がいっぱいいるのです。単純に覚えていないだけの人もいれば、「思い出そうとすると苦しくなってしまうので、想い出したくありません」と言った人もいます。でも、「自分の中の子ども」を否定している人が、「目の前の子ども」を肯定できるはずがないのです。そのような人は、見かけや実年齢は大人になっていても、「心の中の自分」はまだ「子ども」のままなんです。子どもの時に、「子どもとしての要求」が満たされていないので、心が「大人」へと成長することが出来ていないのです。そのような状態の人を「アダルトチルドレン」と呼ぶようですが、最近はその「アダルトチルドレン」状態の人が多いのです。そのような人にとっては自分の子どもは「ライバル」です。ですから「自分が与えてもらえなかったもの」を子どもに与えようとはしません。むしろ、「自分が受けた苦しみ」と同じものを、子どもにも与えようとします。そのような人は、見かけ上「大人」に変化しただけで、中身が「大人」に成長したわけではないのです。だから、利害を争って子どもと対立してしまうのです。「過去」の上に「今」があり、「今」の上に未来が築かれます。それが「成長」ということです。自然と共に暮らしている人たちの所に行ってそれまでの過去を否定し、いきなり村のインフラを整え、様々な近代的な機器やスマホを与え、近代的な生活が出来るように整えてあげても、それは「変化」であって「成長」ではありませんよね。それと同じです。自己肯定感が低い人は自分の過去を否定しています。そして「違う自分になりたい」と願っています。そして、様々な方法を使って「違う自分」を演じようとします。整形もその方法の一つです。でも、そこで起きていることも「変化」であって「成長」ではありません。もし本当に成長を願うのなら「過去の自分」と「今の自分」を肯定し、受け入れることから始めるしかないのです。「過去の自分」の延長上にしか「未来の自分」を築くことは出来ないのですから。子育てでも、本当に「子どもの成長」を願うのなら、いきなり簡単で便利なおもちゃや電子機器を与えるのではなく、もっと泥や火や仲間や自然と触れあうような原始的な体験を充分に与えるところから始める必要があるのです。文明との出会いは年令に合わせて段階的でいいのです。そしてそれが成長につながるのです。自分の人生をそのような体験から始めることが出来た子は、自分の成長を実感することが出来ます。そして、「成長する喜び」を知り、未来に向かって成長する事が出来るでしょう。それに対して、幼いうちから、簡単で便利なおもちゃや電子機器を与えてもらった子は、「成長する必要」と出会う事が出来ません。その結果、「成長する喜び」ではなく「与えてもらう喜び」だけを求めるようになってしまうのではないかと思うのです。そのような子は変化は求めても成長は求めないのではないかと思うのです。まあ、私の勝手な思い込みかも知れませんけど。
2024.11.12
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「肉体の成長」は外側から見える部分も大きいので、ある程度なら多くの人が認識しています。でも「運動能力」や「からだの使い方」などの成長に関しては、外から見ただけでは分かりません。それを見る能力がある人が見れば、「歩き方」や、「日常の動作」や「からだの使い方」を見ればある程度は分かりますが、そのような能力がない人はそういうものを見ても気づきません。説明されても理解できません。それでも、スポーツや様々な身体的な活動をやらせてみると、その発達状態を知ることが出来ます。でも、「肉体の内側」に隠されている「感覚の成長」や「心の成長」となるとさらに難しくなります。そのため、それを気にする人は多くありません。シュタイナー教育ではそのような成長を大切にしていますが、普通の教育においては、「学力の成長」や「社会性の成長」にのみ力を注いでいます。でも、「感覚」や「心」もまた肉体と同じように成長しているのです。だから「子どもの心」と「大人の心」は違うのです。だから、大人たちは「子どもの言葉の意味」、「やっていることの意味」が分からないのです。ただ、「感覚の成長」の仕方と「心の成長の仕方」は同じではありません。子どものうちは「苦いもの」が苦手です。「うまみ」よりも「あまみ」の方を好みます。でも、成長と共にそういうものを美味しく感じるようになるのです。これは「肉体の成長」に伴う「感覚の変化」です。また「心の育ち」によって目覚める「感覚の成長」もあります。それは「真・善・美」を感じる感覚能力の成長です。これは「変化」ではなく「成長」です。でも、「肉体の成長」は誰にでも起きますが、「心の成長」の方は個人差が大きいので、「真・善・美」の感じ方においても個人差が大きいです。そんなもの感じていないように見える人もいっぱいいます。「心の成長」においても「変化」はあります。「異性に対する意識」「社会に対する意識」などは「肉体の成長」に伴って変化していきます。それに伴い「子どもの心」から「大人の心」へと変化していきます。ただ、その「変化」が単なる「変化」(置き換わり)だけで終わってしまうのか、それとも「成長」につながるのかは人それぞれです。幼い子ども達は「自分のこと」だけを考えています。でもそれは自己中だからではなく、まだ意識の働きが「自分のことしか見えない状態」だからです。でもやがて「他の人」のことも見えるようになってきます。その変化は段階的に訪れ「七・五・三」や九才、14才といった成長の節目ごとに変化していきます。1,2歳の頃は「お母さん」が全てです。でも、3,4歳の頃からそこに「お父さん」が加わります。5,6歳の頃からは「仲間」が加わります。そして、9、10才くらいになると「社会的につながっている人たち」も見えるようになってきます。14才ごろになると、時代や地域に囚われないで古今東西の人たちのことも見えるようになってきます。でも、9,10才以降の「心の成長」は個人差が大きいです。「仲間」だけで終わってしまって「古今東西の人」まで意識できるようになる子は少ないです。意識の視点が水平移動しているだけの子は、自分の感覚で直接体験できる範囲までしか認識できないのです。それはどういうことかと言うと、「お母さん」が「お父さん」に置き換わり、「お母さん」や「お父さん」が「仲間」に置き換わるような変化です。そのような成長をする子にとっては、「お母さん」「お父さん」「仲間」が別個の存在なんです。そのような成長状態の子は、成長しても「お母さん」だけを選んだり、「お父さん」だけを選んだり、「仲間」だけを選んだりします。これは成長というよりも変化に過ぎません。でも、「お母さん」が「お母さんとお父さん」へと変化し、さらに「お母さんとお父さんと仲間達」へと変化する子もいます。「世界」が移動するのではなく広がっていくのです。(表現が難しくて申し訳ありません。)このような成長をしている子は「つながり」を認識することが出来ます。というか、「つながり」の中で育てられているから、このような成長が起きるのでしょう。<明日に続きます>
2024.11.11
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子ども達は日々成長しています。大人になると肉体的な成長は止まりますが、自ら成長を望み、日々努力している人の心は死ぬまで成長することができます。子どもの成長と大人の成長の違いは、「子どもの成長」は「生理的、生物学的なもの」なのでどの子でも自然に発生しますが、「大人の成長」は、「個人の意識の現われとしての精神的なもの」なので、個人差が非常に大きいです。また、大人になっても成長できるかどうかは、子どもの時に自分の成長を実感し、喜ぶことが出来たかどうかにかかっています。でもそのためには、日々の活動を「言われたから」ではなく「自分の意思」で行っている必要があります。「自分の意思」で行ったことだから、成功しても、失敗しても、その結果を自分の成長につなげることが出来るのです。言われたやっているだけなら、それが成功すれば「スキルのアップ」にはつながるかも知れませんが、「心の成長」にはつながらないのです。子どもでも大人でも、「成長することが出来る人」は「(成功しても失敗しても)自分の体験から学ぶことが出来る人」でもあるのです。そして子ども達は、「群れて遊ぶ場」でこのような能力を育てています。でもさらに成長するためには、「他の人の体験」からも学ぶ必要があります。これが出来る子は「自分の体験を超えた学び」をすることが出来るのでいつまでも成長することが出来ます。そのような子は積極的に、他の子や大人がやっていることを観察しようとします。また、本などを読んで学ぼうともします。でもそれが可能になるためには、子どもが「人と人のつながり」の中で生活している必要があります。でもただ「子どもの周囲に大人がいればいい」ということではありません。関わりの質と量が大きく関係しているからです。子どもの周囲に一人しか子どもと関わってくれる大人がいなくても、関わり方次第では素敵な学びをすることが出来ます。でも、いっぱい人がいても、かえってそのことで「自分を守る事」ばかりに熱心になってしまい、成長する意欲が育たなくなってしまう場合もあります。ちなみに子どもは、「自分の言葉に耳を傾けてくれる大人」の言葉には耳を傾けようとしますが、「一方的に言葉を押しつけてくる人」の言葉は拒否しようとします。それは大人でも同じですよね。また、「子どもから学ぼうとしている大人」からは学ぼうとしますが、子どもを否定し、大人と同じように感じ考え、行動することを強制してくる大人からは、逃げようとするばかりで学ぼうとしません。そう思いませんか。皆さんはどちらの子育てをしていますか?
2024.11.10
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子どもは何万年も前と変わらない状態で生まれてくる普遍的な存在です。どんなに社会が変化しても、それは変わりません。それはつまり、子どもの心とからだの成長に必要なものも、基本的には何万年前と変わっていないということです。そしてそれはまた、社会が変化したからといって、簡単に「子どもに求めるもの」、「子どもに与えるも」のを変えてはいけないということでもあります。特に、7才前の子どもは「人間社会」に属しているのではなく、人間の命を生み出している「自然」に属しています。そして、自然や神話と共に生きていた古代人と同じような心と、からだと、感覚世界を生きています。だから大人から見たら「訳の分からない存在」なのです。ちなみに、大人でも心やからだは「自然」に属しています。「社会」に属しているのは「意識」や「知識」などの「頭の中味」だけです。その「頭の中味」を支えている「器」の方は「自然」に属しています。そのことを忘れ、「中味」だけを大切にして、「器」をないがしろにすると、「中味」もまた壊れてしまうのです。そしてそれが、現代人が直面している問題です。でも、その問題に気付いている人は多くありません。そんな現代人は、「自然」を「資源」としてしか認識していません。でも、自然の本質的な働きは「生命を育てる」ということなんです。木々も虫たちも動物も人間も自然の働きによって生まれ、自然の働きによって育てられて来ました。それが歴史的な真実です。そのため、人間が自然の働きを否定し破壊してしまったら、その自然によって支えられ、育てられてきた全ての生き物の生命が絶滅の危機にさらされてしまいます。もちろん、その中には「人間」も含まれています。7才までの子どもの成長を支えているのもまたその「自然の働き」です。心の成長も、からだの成長も、感覚の成長も、「人間のからだの中に組み込まれた自然の働き」の結果なのです。そして、その「人間のからだの中に組み込まれた自然の働き」は何万年も前から変わっていません。だからこそ、どんなに社会が効率やスピードを求めても、妊娠期間が短くなったり、3才、5才、7才、9才という成長の節目を早くすることは出来ないのです。また、早くしようとしてもいけないのです。でも、自然から切り離され、自然を感じる力を失ってしまった現代人は、「子どものからだの中で働いている自然の働き」も感じることが出来なくなってしまっています。そして、人工的に管理した状態で、もっと効率的に、もっと早く子どもを育てようとしています。また、現代社会は基本的に大人向けに作られていますから、その社会の中で子ども達が子どもらしく生きることは非常に困難です。家の中でも、家の外でも、子どもが子どもらしく走り回っただけで周囲の大人から苦情が来てしまうことさえあります。その結果、現代の子ども達は「7才まで」という「自然に属する時期」を充実させることが出来ないまま、社会へと押し出されることになってしまっています。でもそれは、子ども達が充分に人間としての心や、からだや、感覚を育てる事が出来なくなってしまっているということを意味しているのです。心や、からだや、感覚は「自然」に属するものだからです。そして、その上に「人間性」というものが育つのです。確かに、現代の子ども達は多くの知識や高い能力を持っています。でもその一方で、「自分の生命を支えている心やからだや感覚の働き」は非常に不安定です。そのため、不安が強く、自己肯定感も低くなり、「一人の自立した人間」として生きるのが困難な状態になってしまっています。子ども達が「自然」に属している時期には、子ども達を無理やり大人の価値観に合わせるように強制してはいけないのです。そうではなく、大人の意識や、社会や、子育ての方を子どもの状態に合わせなければならないのです。そうしないと、「子どもの内側で子どもの成長を支えている自然の働き」が萎えてしまい、子どもは「生きる力」や「成長する意欲」を失ってしまうのです。「子どもに合わせる子育て」をしているなら、発達障害の子も自分の能力に合わせて発達することが出来ます。そんなに慌てなくても、7才を過ぎ、9才を過ぎ、思春期が近くなると子ども達は「社会」というものに興味を持ち始め、自ら大人の価値観を取り入れるようになるのです。それが「子どもの成長を支えている自然の働き」でもあるのです。だから、慌てず、追い立てず、その成長に寄り添って待ってあげることが必要なのです。
2024.11.09
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闇バイトのニュースを見ていても、造形の場で子ども達と接していても、子育ての勉強会などでお母さんたちの話を聞いていても、最近の子ども達や大人たちの「想像力の低下」を強く感じます。(コロナ騒動の時も強く感じました。)そしてその「想像力の低下」は「思考力の低下」や「理解力の低下」とつながっています。そのため、ちょっと考えれば分かるようなことが分からなくなってしまっているのです。というか「考え方」そのものが分からない人も多くなってきました。A>Cで、B>Aなら、B>Cですよね。これを理解するために必要なのは知識ではなく体験なんです。この結果を覚えるだけでも試験には対応できるかも知れませんが、理解できていなければ応用することが出来ません。「どんぐり」という算数の学習法では、絵を描くことでこの体験をさせようとしているようです。「1+1=2」を、実際のミカンや物を使って説明することがありますが、実際の「物」は抽象化できないので、物を使って理解した子は、少数や分数や虚数が出てきた時に戸惑います。それに対して「絵」はそれ自体がもう抽象化されたものなので、算数との相性がいいのです。例えば、1時間+1時間は2時間ですよね。でもこれを「物」を使って説明することは出来ませんよね。「時間」を「物」に置き換えることは出来ないからです。でも、「絵」ならこれが可能になるのです。ちなみに、シュタイナー教育では絵とは異なった方法で体験させようとしています。いずれにしても、体験を通して想像力や思考力や理解力を育てようとしているのです。まただから、シュタイナー教育の授業は遊んでいるように見えるのです。実際、「シュタイナー教育では遊んでばかりいる」と非難する人もいるみたいです。私がやっている様々なワークショップも同じです。言葉で説明するだけでも知識としてなら伝えることが出来ます。でも、いくらいっぱい知識を詰め込んでも、体験が伴っていなければ理解することも、応用することも出来ないのです。でも、多くの人が「勉強とは知識を覚えることだ」と思い込んでしまっています。ワークショップの場でも、私が言った言葉をメモしようとする人がいます。自分自身がそういう学びしかしてこなかったからなのでしょう。でも、知識では子育てが出来ないのです。何十冊、何百冊と子育て書を暗記しても、実際の子育ての場では役に立たないのです。でも、子育て書なんか読んでいなくても、「道具に依存しない遊びが上手な人」は「子育て」も上手なんです。応用力もあります。想像力、思考力、理解力といったようなものが育つためには、「机上の知識」ではなく、「実際の体験」が必要なんです。だからといって、「体験なら何でもいい」ということではありません。「体験の偏り」は想像力や、思考力や、理解力の偏りを生み出してしまうからです。「子ども達の自由意思に基づく、自然の中での仲間と一緒に群れて遊ぶ遊び」では、子どもたちは「バランスの取れた体験」をすることが出来ます。それが、バランスが取れた想像力や、思考力や、理解力の育ちを支えてくれるのです。でも、大人の指導による「○○教室」と呼ばれるような所での「大人によって企画された体験」の場合は、偏っていることが多いです。手取り足取り丁寧に教えてくれればお母さんや子どもの評判はよくなるでしょうが、必然的に体験は偏ります。それは想像力や、思考力や、理解力の偏りとして残っていきます。小さい時からサッカー体験しかない子は、「サッカー思考」をするようになるでしょう。サッカーに関する想像力は育つでしょうが、他のことに対する想像力は育ちません。ゲーム体験しかない子は、「ゲーム思考」をするようになるでしょう。ゲーム的に考え、ゲーム的に理解するようになるでしょう。「闇バイト」に簡単に引っかかってしまうような子も「ゲーム思考」になってしまっているのかもしれません。会社体験しかない男性は、お母さんたちが日常的にどのように生活しているのか、子育てをしているのかを想像することが出来ません。そのため「主婦は三食昼寝付きで楽だな」などと考える男性も多いです。自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で行動したことがない子は、そういうことをしている子を見ても「何をしているのか」理解することが出来ません。「やらされる体験」はしていても「自分の意志でやる体験」はしていないからです。大人のために作られた「簡単で便利な生活の体験」しかない子の想像力や、思考力や、理解力も偏っています。それは「大人のために作られた社会」の中では通用しますが、子育てや、自然や、自分の心やからだと向き合う時には通用しません。でも、そのこと自体が理解できないので、思い通りに行かないと「子どもが悪い」「自然が悪い」「からだが悪い」と判断して、一方的に叱ったり、強制したりしようとします。からだの具合が悪くなると薬でなんとかしようとします。そして、さらに状態がこじれます。
2024.11.08
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子どもの育ちには「体験」が不可欠です。その体験とは「自分と出会う体験」「他者と出会う体験」「自然と出会う体験」の三つです。「野球体験」でも、「サッカー体験」でも、「ピアノ体験」でもありません。実際、そのようなものをやったことがない人や、そのようなものがない時代、地域でも、人間として素晴らしい人はいっぱいいるのですから。逆に、そのような能力に優れている人でも人間的には問題を抱えている人もいっぱいいます。「子どもの育ちを支える」という視点で野球や、サッカーや、ピアノを教えている指導者なら、これらの体験をうまくその指導の中に織り込んでいるかも知れませんが、ただ、「勝つための野球」「勝つためのサッカー」「上手になるためのピアノ」にしか興味のない指導者なら、かえって子どもの成長を阻害するような体験しか与えることが出来ないでしょう。そういう点から、「五輪やパラリンピックに出場経験があるアスリートを、学校の教員として採用を促進する」という文科省の方針には反対です。学校は「子どもの成長を支える場」であって、「アスリート養成所」ではないのですから。子育てや教育のことに関して言えば、政治家の発想は的外れのことが多いです。政治家には「競争に勝つことを目的とするような教育」を受けて育った人が多いのでしょうか。それとも、政治家になりたいと思うような人は、もともと「勝ち負け」にしか興味がないのでしょうか。「体験」が子どもの成長を支える働きをするためには、その体験の中に「フィードバック」が存在している必要があります。何かを体験しても、そこに「フィードバック」が存在していないのなら、その体験は「子どもの育ちを支える力」にはならないのです。「高い所から飛び降りてケガをする」、「他の子が嫌がることをして殴られる」などということはよくあることですが、その体験が「子どもの育ちを支える働き」をするためには、「自分が受けた結果は自分がやった事の結果だということに気付く必要がある」ということです。それが、私が言っている「フィードバック」という言葉の意味です。AIもまた、この「フィードバック」を使って学習しています。AIはフィードバック」を通して自分の能力を高めることが出来る能力を持っているシステムなんです。そしてこれは人間のやり方を模倣させたものです。そのため、自分の想い通りに行かないことがあると、簡単に「人のせい」や「何かのせい」にしてしまうような子は、どんな体験を与えても成長することが出来ません。自分の不運や不幸を「○○」のせいにして、「○○ガチャ」と言ってしまうような人も同じです。でも、そのような感覚の人たちが増えてきています。上手く行っても、上手く行かなくても、その結果とどう向き合うのか、その結果から何を学ぶことが出来るのかということが重要なんです。それが「自分体験」ということでもあります。そして、子どもの自由意思に基づく自由な遊びの場ではそういう学びが自然に起きているのです。でも、指示や命令で動かされているばかりの子にとっては、上手く行っても、上手く行かなくても、それは自分の責任ではありません。上手く行けば「指導者ガチャが良かった」、上手く行かなければ「指導者ガチャが悪かった」というだけのことです。ですから、子どもの成長と支えたいと思うのなら、子どもが何かを失敗した時でも一方的に叱ってはいけないのです。「どうして失敗したんだと思う?」と、問いかけた方がいいのです。子どもが成績が悪くて悩んでいるのなら、勉強に追い立てるのではなく、「どうして成績が悪いんだろうね?」と問いかけるだけでいいのです。ただし、成績が悪くても悩んでいない子にはこの問いかけは無意味です。無理やり勉強させても逃げるだけです。そのような子に勉強させたいと思うのなら、「勉強する目的」を見つける手助けをしてあげることです。その時に必要になるのが「他者体験」です。子どもは他者と出会い、つながることで「自分の生き方」を見つけることが出来るのです。自分の部屋にこもって一人でゲームばかりしていたら、「自分体験」も「他者体験」も「自然体験」も出来ないのです。そういう子が「ガチャ」という発想をするのではないかと思います。
2024.11.07
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昔は「遊びの場」や「生活の場」で無料で手に入った「体験」が、今では「○○教室」などという形で有料で買うものになってしまいました。「体験」が有料になったせいで、経済格差がそのまま体験格差につながるようになってしまったのです。その体験格差がまた、「自己肯定感」や「人間関係を築く能力」や「社会とのつながり方」の違いとしても現れるので、「体験格差」は「子どもの自立能力」の育ちにも大きな影響を与えてしまいます。学校から帰ったら「一人で自分の部屋でゲームばかりして育った子」と、「○○教室で色々な大人や仲間と関わりながら育った子」とでは「自立能力の育ち」に大きな違いが出るのは当たり前のことです。なぜなら、「自立」は「他者とのつながり」の中で実現するものだからです。周囲に人がいない状況の中で育っていたら「自立」する必要自体がないのです。でもだからといって「お金で買う体験をいっぱい与えれば子どもはちゃんと育つのか」というと、そういうことでもありません。「お金で買う体験」には「体験の偏り」があるからです。「遊びの場での体験」や「生活の場での体験」のような「汎用性」がないのです。そして、その「体験の偏り」がその「○○教室」のウリでもあります。特殊化され偏っている体験だからこそ商品として売ることが出来るのです。それに対して、「遊びの場での体験」や「生活の場での体験」には汎用性があります。でも、汎用性があるがゆえに「何の役に立つのか」が分からないのです。「サッカー教室」に行けばサッカーが上手になります。「ピアノ教室」に行けばピアノが上手になります。「水泳教室」に行けば水泳が上手になります。そして、その対価としてお金を払っているのです。でも、自然の中で自由に仲間と一日中遊んでいても、「社会的に価値がある特別な能力」が育つわけではありません。そのため、お金を出してまで「遊び」を体験させようとする親は少数です。だから、「遊びの大切さ」を知っている人の多くがボランティアで活動しているのです。でも、「遊びの場や生活の場での自由な体験」を通して、子ども達は「偏ったこと」を「偏った形」で教えている「○○教室」では育てることが難しい、より基本的で根底的な能力を育てているのです。それは「人間関係の作り方」、「コミュニケーション能力」、「助け合う能力」、「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で行動する能力」などです。また、後から色々なことを学ぶようになった時に、その学習能力の違いとしても現れます。小さい時からお勉強をいっぱいやらされてきた子よりも、小さい時は自然の中で、仲間と一緒に、心やからだを思いっきり使って遊んできた子の方が、中学生以降の学習においては学習能力が高いのです。ただし、学習能力が高いからといって成績がいいとは限りません。「生活の場」や「遊びの場」で育った学習能力は、自分が興味を感じたものにしか発揮されない可能性が高いからです。まただから、お母さんたちの多くが遊ばせるよりも勉強をさせようとするのでしょう。でも、子どもが「自分がやりたいこと」を見つけ、自分らしく生きようとするときには、子どもの頃に生活や遊びの場で育てた能力が役に立つのです。ただし、子どもの頃いっぱい遊んだ子でも、「自分がやりたいこと」を見つけることが出来なかった場合、その能力は発揮されません。ですから、10才ごろから「遊び」とは異なった体験が必要になるのです。それは「自分が生きている世界との出会い」という体験です。
2024.11.06
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昔は、子ども達の周りに普通にあった「お手伝い」や、「群れ遊び」や、「地域活動」や、「自然の中での遊び」といった「体験の場」が、あっという間に消えてしまいました。私は昭和26年生まれですが、子どもの頃はまだこのような「体験の場」が残っていました。でも、高度経済成長と共に急速に消えて行きました。「遊ぶ場」も「一緒に遊ぶ仲間」も消えました、「お手伝い」よりも「お勉強」を求められるようになりました。地域のつながりも弱くなり地域活動も少なくなりました。子ども達が自由に入って遊べる自然も減りましたが、簡単で、便利で、清潔で、強い刺激に満ちた遊び場が増え、そのような遊びの場での遊びに慣れてしまった子どもたち自身が自然の中で遊ぶことを好まなくなりました。また、一人で遊ぶことに慣れてしまった子どもたちは、助け合って一緒に遊ぶということが苦手です。昨日は、娘と仲間たちが「自然の中で自由に遊ぶ場」を企画して、私が民族楽器担当ということでかり出されたのですが、その場に集まった子どもたちはみんなで自由に遊んでいました。でも、そこに集まったのは、お休みの日に「お金をかけて遊ぶ施設」ではなく「自然の中で遊ぶこと」を選ぶようなお母さんやお父さんに育てられている子ども達です。実際、知り合いがいっぱいいました。そんな、「体験の場」が失われた社会でも、子ども達は「体験」を求めます。「体験が自分の成長につながる」ということを本能的に知っているからなのでしょう。親もまた、子どもに色々な体験をしてもらいたいと思っています。そこで、生活の中にあった「体験の場」が消えると共に、それを補うように「○○教室」なるものがいっぱい出来ました。無料だった体験が有料になったのです。私がやっている造形教室もその一つです。私が造形教室を始めたのは、当時5才と3才だった長女と長男に「作る楽しさ」を伝えたいと思ったからです。でも、作るにしても、歌うにしても、踊るにしても、それが楽しい活動になるためには「仲間」が必要になります。そして、周囲にそういう場がなかったので、自分で始めてしまったわけです。三番目の娘が生まれた時は「作る体験だけではだめだ、みんなで群れて遊ぶ体験もさせたい」ということで、「ポランの広場」という親子で一緒に遊ぶ活動を始めました。まだその頃は、私と同じようにそういう場を求めている人が多かったので、いっぱい生徒が集まりました。3月の時点で定員より溢れてしまい、4月以降の生徒の募集を締め切るほどでした。でも、最近では、子どもがまだ小さいうちから保育園を選ぶ人が増えてきたせいか、年々生徒が減ってきています。コロナの頃から特にその傾向が強くなっています。ここ数年は毎年「来年も継続出来るかな・・・」と手伝ってくれている人と話している状態です。(生徒募集中です)その保育園にも色々とあって、うちの活動と似た、子どもの遊びや群れや様々な自然体験を重視している活動をしている所もありますが、新しくできた都市型の保育園では、大人の管理の元、「子どもの自由な体験」よりも「安全の方を重視した活動」をしているところの方が多いような気がします。子どもに自由な体験を与えようと思ったら、当然、危険も増えます。うちの教室でもしょっちゅうノコギリやナイフや彫刻刀でケガをする子がいます。でも、うちの教室に子どもを通わせてくれているお母さんたちはそのことを了解してくれています。でも今、一般的にはそういうお母さんは少ないように感じます。今どきのお母さんの多くは、「自由な体験」よりも「安全」の方を大切にしているような気がします。実際、自由な体験をさせてくれる幼稚園や保育園よりも、安全で、しかも色々なことを教えてくれる保育園や幼稚園の方が人気があるみたいです。子ども達の生活の中から「子ども自身の意志に基づく自由な体験の場」が消えると共に、子ども自身も「子ども自身の意志に基づく自由な体験」を求めなくなりました。最近「教えてもらって当たり前」「手伝ってもらって当たり前」という感覚の子が増えて来ました。うちの教室でもすぐに「先生やって」「先生教えて」と言ってきます。それでも、出来るだけ自分でやらせるようにはしているのですが、どうしても無理なような場合は手伝います。でもそんな時でも、私にやらせるだけで子どもはそれを見て学ぼうとしません。私がやっている間どっかに行ってしまうのです。あと、気になるのは「何を作ったらいいの?」「何をしたらいいの?」といちいち聞いてくる子が多いことです。それで「自分が作りたいものを作りな」と言うのですが、それがないのです。そのような子のために造形関係の本を山のように揃えてあるのですが、最近の子は本を見ようとしません。「何か簡単に出来るものない?」と聞いてくる子も多いです。「ノコギリは疲れるからいやだ」とか、「ホットボンドは火傷するからいやだ」と言うくせに「木工用ボンドはすぐにくっつかないから嫌だ」などとも言います。昔は何週間もかけて大作を作る子が結構いましたが、今では全く少数です。箱や椅子のような立体的なものを作る時には構造を理解しなければならならないのですが、「考える」ということを面倒くさがる子も多いです。というか「考える」ということ自体がどういうことなのか分からないような子が多いのです。体験によって育つはずの想像力が育っていないのでしょう。昨今、闇バイトのニュースがいっぱい流れていますが、捕まっているのは20代の若者ばかりです。そういう若者が増えたのも当然のような気がします。そういう想像力が欠如した若者達に善悪や、倫理や、論理を説いても無駄なのではないかと思うのです。
2024.11.05
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子ども達は「見て」学び、「やって」学び、「聞いて」学びます。見なければやってみたいと思いません。やってみなければ聞きたいと思いません。そして、聞きたいと思ったことでないと、いくらいっぱい聞かされても身に付きません。子どもを育てる働きもしません。それが「子どもの育ちには多様な体験が必要だ」という理由でもあります。多様な体験が「学びに対する必要性」を与えてくれるのです。でも、現代の子ども達は「見る機会」を奪われてしまっています。「やってみる機会」も与えられていません。だから聞きたいと思わないのですが、大人たちはそんな子どもたちを椅子に座らせ、いっぱい話を聞かせ、それを覚えるように強制しています。そして、テストで、ちゃんと覚えたかどうかのチェックをしています。大人たちはその結果で子どもを叱ったり褒めたりしています。子ども同士を比較し、競争させ、覚えることに追い立てています。だから子どもたちは仕方なくそれを覚えるのですが、当然のことながら、自分自身の体験や必要性とは全く関係がない「試験のためだけに覚えた知識」には「子どもの心やからだや知性を育てる力」がありません。年齢が上がれば「器としての肉体」の方は成長するのですが、肝心のその「中味」が成長しないのです。それが現代の子ども達が置かれて状況です。それに対して、昔の子ども達には家庭の中や、仲間の中や、地域の中に「人と人とのつながりに支えられた学校以外の居場所」がありました。そして子どもたちは、そこで色々なものを見て、色々なことをやって、色々なことを体験することが出来ました。聞けば教えてくれる先輩や大人もいました。だから「学ぶ理由」や「学ぶ必要性」を感じることが出来たし、学んだことが子どもの成長につながったのです。でも今、そういう「人と人とのつながりに支えられた学校以外の居場所」に恵まれている子は少ないです。家族同士のつながりでさえも希薄になってしまいました。昔は「お手伝い」という「体験の場」がありましたが、最近の子にはそれすらありません。多くの子は学校で先生の指示に従って「みんな一緒」、「みんな同じ」を強要されるばかりで「つながりの中での自由な体験」は与えられていません。学校から帰ったら一人で遊んでいます。一人で遊んでいたら当然「好きなこと」や「出来ること」しかしません。そのため意識も、心の世界も、出来る事も、好奇心も、知識も広がりません。youtubeやネットの中では「自分が知らないこと」と出会うことが出来ますが、見たいものしか見ようとしません。また見ることは出来ても体験をすることが出来ません。そんな状況の中で育っている子ども達に、「学校や家庭ではできない体験」を与えてくれるのが「○○教室」という習い事です。学校とは異なった色々な人間体験も出来ます。「みんな一緒」「みんな同じ」を求められている学校で「仲間」を作るのはなかなか困難だと思いますが、最初から趣味や目的を共有して活動している「○○教室」では「仲間づくり」もしやすいでしょう。特に、スポーツ系の習い事では子どもだけでなく親同士のつながりも生まれやすいです。「お休みの日に一緒にバーベキューでもしようか」などという流れにもつながることがあります。また、自分で選んだ「○○教室」なら、自分の意思で見ようともするし、やりたいとも思うし、分からない所は聞きたいとも思うでしょう。またそのことが、子ども自身の心とからだの育ちにも肯定的に働きかけるでしょう。だから、「○○教室」に通っている子と、そうでない子との間に「体験格差」なるものが生まれ、それが「子どもの生きる力の違い」にも影響してくることがあると思います。また、体験の多い子の方が自己肯定感も高くなるのではないかと思います。ただし、「○○教室」に通うためには「お金」が必要になります。そのため「経済格差」がそのまま「体験格差」につながりやすいのです。それが、「体験格差」という本の中で今井悠介が言いたかったことのようです。ただし、学校でも「○○教室」でも同じなんですが、その指導が子どもの育ちに肯定的に働きかけるか、否定的に働きかけるかは、その指導者次第です。問題が多い指導者に指導されたら、○○教室に通うことでかえって子どもの成長が阻害されてしまう可能性すらあります。それが「肯定的な体験」なら子どもの肯定的な側面が育つのですが、「否定的な体験」なら否定的な側面が育ってしまうのです。ですから、ただ「体験が多ければいい」という単純な話しではないのです。また、お金がかかるが故に、親もまた、子どもに対してその投資に対する見返りや成果を求めます。高い月謝を払っているのに、子どもがちゃんと練習していないとイライラします。親子の関係にも影響してきます。親は「お金」を払うことで「親としての役割」を果たしているかのような錯覚に陥りやすいです。そのため、親と子をつなぐものが「お金」だけになってしまう可能性もあります。それに対して、昔の家庭の中や、仲間の中や、地域の中にあった「人と人とのつながりに支えられた学校以外の居場所」には、先輩や仲間はいましたが「行動を強制するような指導者」はいませんでした。やるのもやらないのも自分の意思で決めることが出来たのです。また、自分で「自分に合った体験」を選ぶことも出来ました。「木登り教室」に通ったら木登りしか出来ませんが、遊びの場では、木登りでも、コマ回しでも、「自分がやりたいこと」を自由に体験することが出来たのです。どういう体験が出来るのか出来ないのかを決めるのは「お金」ではなく「自分自身の意志」だったのです。そういう場が消えてしまったので「○○教室に」という話しになるのでしょうが、でも、「○○教室」では偏った体験しか出来ないのです。
2024.11.04
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あるお母さんから、今井悠介という人が書いた「体験格差」という本を読んだのですが、篠先生も「体験格差」について書いて下さい。という要望スが来たので「体験格差」に対する私の考えを書かせて頂きます。ただ、今、家内と「八丁の湯」というとんでもない秘境の湯に来ているのと、空気が変わったせいかいつもより喘息が強く出ているので、頭があまり働きません。(クリの吸引でなんとか誤魔化して動いていますけど)ということで、今日は予告編だけにさせて頂きます。私はこの本を知ってはいましたが、読んではいませんでした。それで急遽Kindle版を買いまいたが、序文を読んだら大体の内容は分かりました。Googleでその序文を検索したら、以下のように出てきました。AI による概要今井悠介著の『体験格差』の序文には、次のような内容が記載されています。「体験」は子どもの成長に大きな影響を与えるため、その格差は「もうひとつの貧困」ともいえる日本社会には、子どもたちがしたいと思えば自由にできる「体験」と、できない「体験」の大きな格差があるこの格差は、直接的には「生まれ」に、特に親の経済的な状況に関係している年齢を重ねるにつれ、低所得家庭の子どもたちは、してみたいと思ったことをそのまままっすぐには言えなくなっていく私は本書で考えたい「体験格差」というテーマが、あるシングルマザーから聞いた息子のお話を聞いて、凝縮しているように思えた『体験格差』は、講談社現代新書として出版されており、体験格差の実態や、体験格差に抗うための方法などが書かれています。ということなので、明日、この続きを書かせて頂きます。
2024.11.03
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桜を育てる時には、桜の特性を知り、その特性に合わせる必要があります。人間の都合に合わせるのではなく、育てようとする桜の特性に合わせるのです。そうでないと、どんなに立派な桜の木を育てようとしても失敗します。これは「育てる」ということにおける大原則です。草や木だけでなく、犬や猫や象などを育てる時も同じです。そして当然、人間を育てる時も同じです。でもみんな、人間を育てる時にはこの原則を無視してしまいます。そして、親の都合、社会の都合に合わせて子どもを育てようとしています。それは多分、子どもと大人は違う感覚、違う思考、違う意識、違うからだを持った別の生き物だということに気付かないからなのでしょう。「違っていること」は分かっているのですが、それは単に「子どもがまだ未熟だからだ」というように理解してしまっているのです。「同じ人間だし、自分も昔子どもだったので何でも分かっている」と思い込んでしまっているのでしょう。人はみな自分を物差しにして外の世界のことを見て判断しています。でも、その「自分という物差しを測る物差し」は持っていません。そのため、成長に伴う「自分から見た世界の変化」は分かっても、「自分自身の変化」は分からないのです。そのため、「子どもと大人の違い」を、「質の違い」ではなく、「量の違い」として理解してしまっているのでしょう。確かに、「量の違い」だけなら、「まだ子どもが知らないこと」をいっぱい覚えさせれば大人と同じようになるでしょう。風船が小さいのなら、空気を入れるだけで大きくなります。でも、人間の場合はそうはならないのです。子どもはその成長の過程において成長に必要なもの、見たいこと、やりたいことも変化しています。3才児と5才児とでは、「成長に必要なもの、見たいこと、やりたいこと」が異なるのです。5才児と7才児も、7才児と9才児も異なります。だから、子育てや子どもの教育においても、その年齢に合わせて、「子どもの成長に必要なもの」を与えてあげる必要があるのです。大人の都合に合わせて子育てや教育をするのではなく、子どもの都合に合わせて子育てや教育をするのです。でも、そんな事を言うと「そんなことをしたら子どもに振り回されてしまう」と言う人もいるかも知れませんが、それは大丈夫なんです。子どもの各年齢の特性に合わせて、環境を整え、大人と子どもが一緒に生活をして、子どもと子どもが一緒に遊んでいれば、子どもは自分の成長状態に合わせて、自分で勝手に「自分の成長に必要なもの」を吸収していくからです。子どもも大人も同じ人間であるからこそそういう仕組みが働くのです。人間が象を育てる時には象の特性をよく調べなくてはいけません。でも、象が象を育てる時にはそんなことする必要はないのです。他の象との関わり合いさえ保っていれば、子どもの成長に任せているだけで小象はちゃんと大人の象になるからです。でも、人間は、自ら手本を見せることなく、大人の都合、社会に都合に合わせて子どもを育て、教育しようとしています。「大人と子どものつながり」を作ろうとせず、「子どもと子どものつながり」も消してしまいました。だから子どもはその成長において迷子になってしまっているのです。
2024.11.02
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小学校の低学年ぐらいまでなら、子どもの勉強に付き合っているお母さんは多いですよね。幼稚園ごろから子どもの知育教育に熱心なお母さんも結構いますよね。でも、お母さんは勉強を教えない方がいいですよ。「勉強が出来る子」に育てたいのでしょうが、結果は「勉強が嫌いな子」に育つだけですから。そして、「勉強が嫌いな子」は中学生頃から急に失速し始めます。また、勉強を教えようとするお母さんは、当然、子どもよりも自分の方がよく分かっている、自分の方が賢いと思い込んでいます。そのため、常に「上から目線」で教えようとします。子どもがなかなか理解出来ないと「なんでこんなことも分からないの」などとイライラしたり、叱ったりもします。そして「親子の関係」も悪くなります。そもそも、「子どもよりもお母さんの方が賢い」というのは大きな勘違いなんです。お母さんはただ「正解を知っているだけ」だからです。「どうしてそうなるのか」を理解しているわけではないのです。(もちろん全員がそうだというわけではありませんが、そういうお母さんの方が圧倒的に多いです。)「1+1=2」ということを知っているから、「そんなの当たり前でしょ」と言うのです。そして、子どもがなかなか分からないと、ミカンなどを持ってきて実際にやって見せて教えようとします。でも、「1+1=2」を理解しているお母さんはそんなこと言わないと思います。でもそのようなお母さんは少ないです。数学的な「1」と、「ミカン1個」は全く別のものです。これが同じものだと思い込んでしまった子は、分数や、小数点や、虚数が出て来ると途方にくれます。お母さんは、自分が知識として知っていることを子どもにも覚えさせようとします。でも子どもは「覚えようとする」のではなく「理解しようとしている」のです。お母さんは「1+1=2」を覚えさせようとしますが、子どもは「1+1=2」を理解しようとしているのです。だから手間がかかるのだし、お母さんと話が合わないのです。実は、お母さんよりも子どもの方がズーッと頭を使っているのです。そのことは知っておいた方がいいと思います。子どもが生きているファンタジーの世界も、子どもが自分の頭で自分が生まれてきた世界を理解しようとした結果です。ですから、大人がやっている空想とは全く別のものです。子ども達がお話しや、物語や、絵本が大好きなのは、そのような物語を聞くことが、「自分が生まれてきた世界」を理解する手助けになるからです。その際、ネコが長靴を履いていても、ウサギが人間の言葉を話していてもそれは大した問題ではありません。大事なのはそのようなお話しを通して、自分が生まれてきた世界が「つながり」によって支えられていることを知ることだからです。でも、頭を使わなくなって久しいお母さんはそのことに気付きません。そして、覚えるように強制するだけで、理解する手出すけを与えようとはしません。その結果、子どもは「考える楽しさ」「理解する楽しさ」「知る楽しさ」「想像する楽しさ」を体験することなく、暗記だけで対応するようになります。確かに、小学校のうちは「暗記に頼った勉強法」が有効です。暗記するだけで簡単に成績を上げることが出来ます。そのため、この勉強法の問題点に気づかないのでしょう。でも、暗記は楽しくありません。ただの作業です。いくらいっぱい覚えても、子どもの成長を支える働きもしません。また、知識をいくらいっぱい覚えても、理解する能力が育っていない子は、その知識を使いこなすことが出来ません。何か問題が起きても、ネットなどで知識を探すばかりで、自分の頭で考えようとしなくなります。こういう状態の子は闇バイトなどでもすぐに騙されてしまうでしょうね。また、子育てでも苦労します。子育ては、どんなにいっぱい知識を持っていても、ほとんど役に立たないからです。「1+1=2」を知っていても子育てには役に立ちませんが、「1+1=2」を理解している人はそれを子育てにも応用できるのです。子どもが何か問題行動をした時、子どもの立場に立って「なんでだろう?」と考えることが出来る人は、子育てを楽しむことが出来ます。でも、ネットなどですぐに対処法を探すような人は子育てを楽しむことが出来ません。子どもが「1+1=2」が分からない時、知識を教えるのではなく、子どもの視点に立って一緒に考えることが出来る人は、子どもの学びを支えることが出来ます。<続きます>
2024.11.01
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