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週刊ポストのインタビュー記事を私なりに「再構成」したもので、これは編集でも捏造でもありません(笑)。あえていうなら「蛇足」。 記事を読んだ上でないと理解できないかも知れませんが、それは週刊誌とネットの「コラボ」ということで・・・そうですね。「出版と通信の融合(笑)」 あるいは「有料と無料の結合(笑)」 です。■ソーシャルメディアと思考停止を読み解く背景考察1)対立構造で解読 「対立構造」で情報を読み解く傾向が強くあり、黒か白か、有罪、無罪といった善悪二元論で灰色も推定無罪もありません。 対立構造で事実は単純化され理解は容易になりますが「思索」する訓練から遠ざかり、読解力ではなく反射神経が判断を司り、これが繰り返されることで「脊髄反射」のレベルに達し、思考する必然性がなくなります。 そして、これがネット世論がいまだに「世論」と乖離する一因です。 実際の日本人は「ちゅうぐらい」が好きなのです。2)匿名が普及させた日本ネット社会 ネットは匿名。ということも日本のネット普及に一役買ったことを忘れてはなりません。「個人」として脆弱・・・もとい、控えめな日本人でも「誰か」になることで、イメージする「誰か(アバター)」になることができるのです。リアルにおいては「課長」や「部長」もそのひとつ。「役職」になりきろうとするのです。 そして「村社会」が匿名を助けました。日本では「知らない人」、異邦人がいるということにリアリティを感じません。だから匿名であっても「たぶん日本人」「なんとなく日本人」と漠然と考え、例えが悪いのですがこの反証となるのが「2ちゃんねる」などで、考えが違う人間を近隣外国人の侮蔑用語で呼ぶ背景です。 その「匿名」が対立構造を加速させます。本来、黒か白かと断ずることが苦手な日本人でも「匿名というアバター」が心理的抵抗を減らすのです。 一方、移民国家米国で「匿名」の発言を楽しむ人はいても、信じる人は希です。匿名の誰かがアメリカ人どころか、米国と敵対する国家の人間である可能性もあるからです。また、自説が優れている信じての発言なら、「アメリカンドリーム」のまつ社会にて匿名で語るデメリットは大きすぎます。3)多数決を絶対視する性向 多数決は民主主義の意思決定のひとつのプロセスに過ぎないのですが、学校教育(いまやその教育を受けた家庭でも同じ)の中で「多数決」ですべてを決定しています。これがネット世論、あるいは多様な言論があるはずの空間を「一色」に染めます。 とくに確たる意見を持たないときに「多数派」に染まるのはこれまた「村社会」の生活の知恵でもあるのですが、多数決が拍車をかけ「日本人らしい意思決定プロセス」 という思考停止を招いています。3)アマチュア崇拝カルト ネットの世界の価値観に「アマチュア崇拝カルト」があります。 突きつめて言えば「商業主義」のプロフェッショナルを向こう側に置いた「対立構造」としてのアマチュアの優位性を礼賛するものです。4)舶来信仰 日本の舶来信仰は「IT業界」でも同じく、米国発のサービスを疑いもせず礼賛します。特に「エバンジェリスト」達は、ミクシィやヤフージャパンをあまり評価せず、フェースブックやグーグルを盲目的に持ち上げます。 これは「単語」にもあらわれ、「エバンジェリスト」も福音派の伝道師のことで、事実関係で翻訳すれば「啓蒙家」、あるいは「宣伝マン」が正しいでしょう。「キャズム」も「閾値」や「一定数」「普及期」などなど適切な日本語を使うのは私ぐらいです。あとは「レイヤー」。「次元」「階層」「属性(これの英語はアトリビュートですが、文脈から属性と解されるものでも「レイヤー」として表記されるのは珍しくありません)」と、状況にピッタリな日本語をなぜか使いません。 私にはこの光景が「おフランス」と連呼したイヤミに見えて微苦笑してしまいます。5)エコシステム 本来は生態系の意味ですが、特定業界でのビジネスの循環をこう呼ぶトレンドがあり、IT業界はすぐに飛びついたのは「舶来信仰」ゆえでしょう。 ツイッターをはじめとする「声」があつまることでCGM(消費者生成メディア)となり、社会的影響を与えることでリアルビジネスに浸透し、さらなるツイートを呼び込み、循環しエコシステムが完成する。 上記は私が作った「ツイッターというエコシステム」という解釈で、もちろん言葉を弄した詭弁です。 しかし、IT業界を知る上で、この概念はとても重要で、つまり一方的に捕食されるミジンコやゾウリムシを一般人のツイートとして、それらを集めてビジネスする連中の存在を暗にほのめかしており、俯瞰してみればタチの悪いブラックユーモアです。 エバンジェリスト達は、エコシステムの頂点におり、生態系で言えば「捕食者」で、海洋生態系ならばシャチや鯨に位置します。つまり、アジや鯖の群れが増えれば、彼らは得する仕組みになっており、派手な啓蒙を続けるのは「養殖」といっても過言ではありません。 それが証拠に、ツイッターの啓蒙者達の名前に「セミナー」「講演会」「ミーティング」 などとつけ検索すると、彼らの「食事風景」に辿り着きます。 もちろん書籍も彼らのお腹を満たします。6)関心空間のなかの遊泳 古代ローマの英雄カエサルは「欲する現実しか見えない」といったとされますが、リアルでは嫌なもの、興味のないものでも視界に入り、耳に届きますが、ネットは自分の興味ある世界で満たされ、欲しないものに触れることはありません。 そのため、嗜好や情報が偏り、しかしそれをおかしいと感じる感覚は、知的好奇心が満たされる歓びがかき消します。多くの人間にとって「今感じている幸せ」を疑うことは困難なのです。 拡散せよ! に代表されるリツイートが広がるのはこの反動で自分の欲求を満たしてくれる快適な関心空間を穢す輩を成敗するのは正義の心と寝起きを起こされた不機嫌さによります。 または恋という熱病にかかった女性に「あの男はやめておきなさい」 という指摘が恋の炎に油を注ぐように。関心空間の住民になると関心のある世界の外には「盲目」になります。7)克己のない世界では馬鹿は加速していく 上記の関心空間に通じますが、己を磨くことがなければ馬鹿は加速するのは当然のことです。馬鹿の表現が悪ければ思考停止としてもよいでしょう。以下の一例がネットでは恒常的におこっています。 偏差値50の人が50の本を読みます。 これはその人の能力をフルに活用すれば全てを理解できるという状態です。 同じ人が偏差値45の本を読んだとします。 今度は9割の力で理解することができます。 更に偏差値40なら8割で大丈夫です。 つまり「楽な状態」に慣れた人間が、能力を活用することは難しく、すると理解できるレベルの文献や意見に迎合していくということです。 さらにネットの中は関心を満たしてくれる世界で、それが「全能感」を与えてくれます。これが「自分は特別」という意識を芽生えさせ、自分の理解を超える意見にこう向き合います。「俺が分からないということは、こいつの説明が悪い」 以上、蛇足終了。
Apr 28, 2010
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ネット通販必勝マニュアル・・・的なものを最近見かけない理由は簡単。そんなものはないからです。 かつてはありました。ITバブルやネットの爆発的普及期には、ネットショップをだすだけでボロ儲けした人がいるのは事実です。 ところがそれは時代の狂い咲きで、恒常的に使えるノウハウではないのです。ネットショッピングモールでのノウハウも同じです。 ネット通販を啓蒙する側の人間が知っていてもセミナーで絶対にくちにしない台詞を紹介します。「リアルで売れないものはネットでも売れないよね」 事実です。これは「リアルで売れるものならネットでも売れる」 の証左。そしてそのためにはまず「始める」こと。 ネット通販を始めるには「敷居」を下げることが大切なのです。■心得其の165「宅急便では北海道へ届かない? 通販をはじめる前に其の2」http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2010/04/28/7807
Apr 28, 2010
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いまさらで、さらに「フラット化する世界 下巻」ですがオススメです。はっきりいえば愛国主義者でネットユートピアを信じる陽気なアメリカ人のタワゴト・・・もとい仮説について、都合の良い事実を並べているともいえる本書です。フラット化によりインド人がインドにいながら高給を取れるようになったことを肯定的に捉え、世界がフラットになり、貧困が解消されたかのような記述は、日経新聞のように企業寄りな記述の報道機関を見るだけでも違和感に気がつきます。一部に富が投下されれば、地域全体で格差が広がるのは市場原理をあげるまでもなく当然の話です。また、キャッチアップしていく中国はフラット化だけで為し得たモノではなく、中国共産党の国家経営戦略の方向転換によるモノで、あの国の体制はフラットとは縁遠い構造です。などなど。しかし、忘れてはならないのが、著者が愛国主義者である以上、米国を中心とした価値観で綴られるのは当然のことだということで、これを差し引きして本書は読まなければなりません。ところが日本のネット屋さんや識者はこれをひかずに礼賛します。あるいは脅迫しました。「世界はフラットになった」これは持論ですがここに「世界市民」という幻想と、日教組教育の影が重なります。そして日本ネット屋さんが引用するのは「上巻」からが殆どです。なぜなら「下巻」はフラット化により顕著になった米国の危機について、愛国主義者らしく警鐘を発します。愛国主義者とは美辞麗句をならべて事実を歪めるばかりではないのです。この1点において私は著者を信用することにしました。もちろん、陽気なアメリカンよろしく、その不安にも希望を持って接しているのですが。フラット化する世界 下巻。現代日本はいままさに陽気な愛国主義者であるアメリカ人の警鐘を越えて、対策に乗り出さなければならない状態になっていると背中に寒いモノを感じた一冊です。■フラット化する世界 下巻http://www.as-mode.com/check.cgi?Code=4532312809
Apr 28, 2010
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明日の昭和の日を皮切りにゴールデンウィークがやってきます。 なんでも明後日の4月30日と、来週の5月6日と7日の木金を休めば11連休になる人もいるようです? 誰でしょう? 製造業の工場などでは中途半端に機械を動かすより、まとめて休んだほうが効率がよいのでという話しを耳にします。しかし、多くの場合、他の土曜日や、繁忙期は休日出勤しているということで「代休」の意味合いが強いといえるでしょう。 それでは誰か? 公務員? これも・・・大声で言えませんが、「団体職員」 と俗に言われる方々ともなると、若手に出勤させておいて(と、いってもカレンダー上は祝日でも日曜日でもありませんが)、偉いさんは理由をつけて長期連休をとるという話しを当事者から聞いたことがありますが、公務員だからと全員が有給休暇をとれるわけでもなくステレオタイプにあげつらうのはフェアではありません。 では・・・と、突きつめていき、浮かぶ仮説は「幻想」です。 理論上は3日間の有給で11日連休となり、また、実際に取得する人も少なからずいるでしょうが、日頃、しっかりと週休二日でかつ、残業もそこそこにゴールデンウィークも休める。 という労働者の憧れが生んだ「幻想」ではないかと。 我が子の寝顔しか見られない平日に、土曜日は持ち帰りのサービス残業。油がしみこんだ手のひらで弁当を流し込む日曜日の工場。 こうした「前提」があっての「11連休」とするならば、うらやましさも、妬むこともありません。が、「華」がない。 そこで事実関係には触れずに「休み」だけをクローズアップすることで生まれた「幻想」。 もっとも、前述の「団体職員」のような「労働貴族階級」 がいることも事実なのですが。 しかし「土曜日休みじゃないし」。 この前提に立てば、今週は明日の昭和の日以降は2日間の労働日があり、来週は木金土と3日間の労働日が待っています。 そして思うのです。「休みの経済効果って本当なの?」 明後日の4月30日を休みにする「社会実験」を民主党・・・もとい政府が促します。今年は一部地域ですが、休日分散化という取り組みの一環です。 なんども「社会実験」が登場するのは「理系首相」の面目躍如といったところでしょうか。ただ学者が3人集まると結論が出ないという慣用句もあるのが気になるところです。 さて、昨年の秋の大型連休のように、カレンダーの並びによってレジャー需要が喚起されることは確かでしょう。また、1000円高速や各種割引により消費は刺激されます。 ただし刺激は永遠ではありません。端的に述べれば「慣れる」、続けて「飽きる」ものです。 思い出してください。 「ハッピーマンデー」が導入された時のことを。 土日にプラスして月曜日を祝日にすることで三連休になる。 その休みに観光地やレジャー産業が賑わい、移動や宿泊といった関連産業も潤い経済が活性化するといわれたことをです。 いまから10年前に施行されたハッピーマンデーを推進した「祝日三連休化推進会議」より意義を以下に抜粋。○ゆとりある生活スタイルの実現 余暇活動の機会が増えるとともに、新しい生活スタイルの実現がより容易となり、心身のリフレッシュ、自己実現、生活の楽しさ、豊かさを増すことにつながります。○休暇の分散による混雑・渋滞の緩和 年末、年始、ゴールデンウイーク及びお盆の時期に集中する旅行や帰省、さまざまな活動が他の時期に分散し、行楽地や交通機関の極端な混雑や道路渋滞の緩和が期待されます。○地域の活性化及び経済波及効果 旅行などさまざまな活動が活発となり、地域の活性化に貢献します。また、関連する多くの産業への経済波及効果も期待できます。○祝日本来の意義の浸透 祝日の趣旨を反映した行事や活動を三連休時に行うことが可能となり、祝日の意義がより国民に浸透します。 はて10年ひとむかし。いや一区切り。 なにがどうかわったでしょうか? ゆとりの見直し・・・は、教育界の話しですが、社会はギスギスとして自己実現ができていないことが自己啓発セミナーの跳梁跋扈を許しています。鬱病の増加も見逃せません。 混雑の渋滞はいわずもがな、経済効果などは論外。祝日の意義については議論にもなりません。 もちろんこれは自民党連立政権による政策です。 さて、現政権の観光庁長官 溝畑宏氏の発言。「旅行の埋蔵需要が引き出され、結果的にプラスの経済効果が大きい」 この方、前原大臣の幼なじみで、民間から登用といえなくもありませんが、ご出自は自治省のお役人様。 いま、沢尻エリカ嬢と小沢検察問題ですっかり支持率アップという目論見の外れた「事業仕分け」 ですが、政治屋さんの本文は「法律」を作ること。 ならば、連休分散化の「社会実験」のまえに、やるべきことは「ハッピーマンデーという社会実験の仕分け」 でしょうが。 なにかつっこまれると「旧政権が」 と逃げ口上をうちながら、「政治と金」「ばらまき」そして「連休をながくする」 とこれまた自民党と同じ政策を打ち出すのは如何なものか。 政権交代で閉塞感が打破される。これが「幻想」であることはもうご存じですよね。 そして社会実験に振り回される地域の皆様。ご愁傷様です。 これも「国民の意思」の一部ですので、話のタネになるとご協力いただければ。「国民の意思」とはもちろん民主党に政権を預けたことです。
Apr 28, 2010
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狡いか賢いか? 自分で作ったNPO法人の理事に納まり、自分の関係したサイトを推薦し賞を取り実績とする。あるいは仲間内でイベントを企画し、そこで表彰される。 実はよくあることです。 ところが賞や表彰は独り歩きします。 理由は簡単。賞や表彰の「裏付け」を調べる暇人はそう多くなく、さらに謙虚な日本人的にみれば「自作自演」での権威など恥ずべき行為で、真っ当な人ならやらないだろうという共通認識があるからです。 だから狡いか賢いか。活用する人は沢山います。 多くは先生と呼ばれます。■中小企業庁長官賞に輝く権威0.2。先生に平伏す日本人(マイコミジャーナル)http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/060/index.html
Apr 27, 2010
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ここまで流行ると・・・と、いうのにも違和感を覚えるのはいまだに周辺調査での利用率が異常に低く、かつての何度もおこったネットサービスバブルでは「セカンドライフ」に比肩します・・・まぁ経営者のなかには「やってみなきゃ」と乗り出す人がいます。 そして定点観測している「ネタもと」の社長さんもはじめており私は溜息をつきます。それじゃあダメだって。 かつてブログはこういわれました。「なんでもない日常が親近感を生むんだ」 もちろん。ただし、その人を知っている前提。あるいは好意的に解釈しているという条件下において。タレントやスポーツ選手のブログが人気になったのはふたつの成功要因が揃っていたから。 IT業界の幇間・・・コホン、スポークスマンはいつでも「誰でもできる」 を強調します。思い出すのはホームページすら、こういわれていたことです。「プログラムのような高度な知識不用で(誰でも)作れる」 HTMLの仕様をみた私はなるほどと頷きましたが、私は「C言語」を操り月給を頂いていたこともあり、BASICをかじったのは小学生の頃。プログラムと比較すれば確かに簡単ですが、英数字と記号の羅列に拒否反応を起こす日本人がマジョリティであることを語るものがいないことに、当時から不思議に思ったものです。 その後「BBS」「メルマガ」「ブログ」「SNS」ときて今の「ツイッター」。投稿するだけなら簡単です。 しかし「活用」するには、IT業界の啓蒙家達が黙して語らない原則が必要です。本稿は「ツイッター」と題していますが、メルマガでもブログでもSNSでも使えます。 つきつめれば本稿だけで充分です。■社長ツイッターで絶対にやってはならないこと(通販支援ブログ)http://blog.scroll360.jp/ec/keiei/post-495.html
Apr 27, 2010
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本日発売の「週刊ポスト」に、ミヤワキのインタビュー記事が掲載されています。 今回の記事の主題は「ソーシャルメディア」 ビジネスと関連しますのでご注意を。 これはザックリと述べれば誰もが発信でき、発信に対して発言でき、同じく受信できるブログやツイッター、ミクシィなどをまとめて「メディア」とする・・・祭りです。少なくとも日本においては。 日本のネット界ではテレビの情報、ネットのニュース速報を「ネタもと」として言説が飛び交います。マスゴミと批判しながら、それをネタ元にして反射的な批判がなされます。 そこに「ツイッター」が登場し、状況はより刹那的になりました。 最たる機能が「リツイート」。 誰かの意見を「転載」するもので、性善説に立てば、有益な情報や共有すべき事実を「伝染」させていく素晴らしい機能でしょう。ところが現実は残酷です。 「悪意」の伝染力のほうが強力なのです。 特にツイッターに実在する無形のヒエラルキー(社会的階層)上位者、ネット著名人やジャーナリストなどいわゆる「セレブ」の発言は検証されることなく「リツイート」され、独り歩きし数時間後には「検証不能な情報」が「事実」として論じられます。 ある週刊誌記事について「捏造疑惑」があがったときのツイートを約一週間追いかけてみました。 当初は捏造と告発する情報へ懐疑的な声もありました。 仮に捏造であるならば、しかるべき手段を講じるべきで、行き違いがあっただけではと見る向きも。ところが、ある著名ブロガーがこれをリツイートしたことで、状況は一変します。 リツイートは誰がリツイートしたかわかるようにできるので、「あの●●●さんが」 とこのブロガーのフォロワーがリツイートしていきます。 さらにこの「事件」をジャーナリストに「報告」する、彼のフォロワーがいました。するとジャーナリストは「よくあること」と回答し、今度はこれがリツイートされていきました。 ジャーナリストの発言から事実確認をした様子は見られませんが、ブロガーのリツイートが事件を拡散し、ジャーナリストがお墨付きを与えた形で広まりました。 このころになると捏造疑惑そのものへの懐疑的な意見を見つけるのは困難で、マスゴミ批判、あるいは個人攻撃ばかりです。 さてここで冷静になって考えてください。 この「捏造疑惑」に「続報」はありません。 不手際、ましてや「捏造」ともなれば、他誌にとっては「美味しいネタ」 ある意味、みな「スネに傷」を持つ身ながらも、ライバルのスネにできた生傷に塩を塗り込む「報道魂」がそれを制止することなどさせません。 ところがどこも書かないのはなぜでしょう? マスコミはみんなお友達だから? 既得権益村の住民だから? ・・・答えはあえてだしません。しかし、他紙の失敗は蜜の味です。 しかし、「拡散」されたリツイートにより、刻まれた歴史は捏造となります。検証されず、論拠が無くとも。 私の記事の見出しは「リツイート信者」たちが社会を歪める リードは思考停止の暴力的言説が跋扈している! です。 そしてこれらが「ビジネスを変える」ことはありません。 冷静に述べれば「広報・広告ツール」がひとつ増えたこと。 もっとも、「ツイッターは最高!」と啓蒙している特定の方々の「ビジネス」は変えたでしょうが。実際、「世界を変える」 と題した書籍の最後には「自分の世界観が変わった」 とあり、嘘ではないけどなんだかなぁという事例がツイッター・・・もとい、ネット業界には溢れています。 それはもう「マスゴミ」以上に。 全国、書店、コンビニ、キオスクで発売中。週刊ポストhttp://www.weeklypost.com/
Apr 26, 2010
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法律が完璧であるというのは幻想です。「後付」となるのは法律の弱点であり、人間社会による共同作品という解釈もできます。 本来、すべてが「善人」ならば規制も法律も不用です。しかし待ってください。「善人」という定義はなんでしょうか。 ある雑誌に載っていたアフガン住民の声です。「俺たちに爆弾を落としているオバマがノーベル平和賞だって? 笑えないジョークだな」 米国には米国の正義があるように、地域には地域の、個人にもそれぞれの思いがあります。 本稿は表現の自由へのテーゼ。そして企業Web担当者に一枚のカードを渡す狙いのもの。表現の自由という枠組みで守られたものに、自由を奪い取るという情熱と自意識があるのかへの疑問を隠し味として。 反対運動するのも表現の自由ですから、どうぞご自由に。■心得其の164「表現の自由に十字架マドンナというタブー」http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2010/04/21/7766
Apr 21, 2010
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まいにち「レタス」食べてますか? 八百屋を営む岳父は「野菜離れ」を嘆きます。レタスが売れなくなっただけでなく、ネギでもキャベツでも「安値」でなくなるとピタリと売れなくなりました。 不景気だから・・・とは短絡に過ぎる理由です。かつての昭和は振り返れば良い想い出に溢れていますが、インフレ経済とは物価高を庶民に強いるもので、現代のように「欲しいものがない」ではなく「欲しくても買えない」 ことは日常茶飯事でした。商品がなかったり高すぎたり。 そして野菜の高値安値はお天道様次第で、豊作不作は農耕が始まったころからの人類の課題です。かつては「高いわね」といいながらも野菜は買われていました。 食生活の変化も理由のひとつです。ただし、これだけでは見落としてしまいます。もっと根深い「日本の変化」も関係しています。 日本の変化といえば最近のヒット作は何を言っても「政権交代」 でしょう。水に落ちた犬を叩く趣味はないので、やいのやいのと囃し立てはしませんが、民主党政権が誕生する以前からの私の指摘・・・いや「予言」が当たりすぎることに、「足立区のまたいとこ」 でも名乗りながら占い師に転業しようと妄想するほどです。 赤松農林水産大臣がかましてくれます。昨今の野菜価格の高騰に「できるだけ早出しをしてもらって、前倒しをして、少しでも値段が 安定するように。できる範囲で努めていきたい」 と農協経由で農家へ「要請」しました。 私は農家ではありませんが、率直な感想を2点。 ひとつは「人気取り」。野菜の高値を政府の、いや「民主党の力」 で下げたというアピール狙いで、さすが「ガソリン値下げ隊」という学芸会をやった政党ですが、野党ならいざ知らず、政権与党の大臣の台詞ではありません。 安くなればいいジャン。には断固ノーと叫ぶ、その理由が二つ目の感想です。「野菜が安値で値崩れしても政府は助けてくれない」 ちょっと前、「白菜」が豊作過ぎて値崩れを起こしていた時政府は何をしたでしょうか。論ずるまでもありません。放置です。 デフレ対策を片方で論じ、野菜の豊作によるデフレを放置することを批難するつもりはありません。お天道様の恵みを得る産業について廻る宿命で、これを政府が管理、援助するとなれば「配給」 あるいは「計画経済」 しかなくなり、事実上はいざ知らず、日本は「まだ」、社会主義国家とは認めていないのですから。あ、イヤミです。赤松大臣は元社会党(現在は民主党)ですので。 日本国民とは野菜を買う側の人間だけではありません。 農家も当然過ぎる話しですが日本国民です。 そして念のため、加えれば野菜が高騰しても農家がボロ儲けすることはありません。そもそもの収穫量が減少しており、高値による買い控えも起こり厳しいのです。さらに、天候が回復して「収穫アップ」すれば値崩れします。 この箇所を書くのに逡巡したほど「当たり前」のことです。 それを政権交代の末に誕生した赤松農林水産大臣はご存じないか、あるいは本当に臥薪嘗胆、面従腹背の末に「社会主義革命」 を狙っているのか存じませんが、こうした大臣が存在することも日本の変化のひとつです。 そこで私は冒頭の質問を投げかけます。「レタス食べてますか?」 昨年の毎日新聞の報道によれば、長野県川上村の特産レタスは国内需要の頭打ちに台湾へと輸出しているとあります。 一方、大手スーパーマーケットが野菜の特売を始めました。 PR効果も期待できるので「損して得取れ」というのが一般的で、実際にそうしている「八百屋系スーパー(もともと八百屋だった企業が取扱品目を増やしてスーパーマーケットになったところや、仲買が余り野菜を売り出して発展したところなど)」も知っています。 しかし、こんな舞台裏も知っています。「買いたたき」 原価ゼロです! などとスーパーマーケットの担当者が言ったとすれば確かに損して得取れでしょうが、その仕入れ値を叩いていることもあります。取引高の高い「お得意様」の要請を断るのは難しく、公取委に見つかれば「優越的地位の濫用」 にあたる取引も「お願い」という人間関係で処理されれば発覚することはありません。 それともうひとつ。「買い占め」 高値でも商品供給のために資本力のある企業が買い占めをするのです。企業からすれば「全店舗にキャベツを」となり真っ当な営業努力でしょうが、地場の八百屋は「買い負け」し店頭にキャベツが並ばず、同時に「納め」と呼ぶ、店舗や団体への納品ができず「客離れ」を起こすこともあります。 なかには市場(いちば)が品切れで大手スーパーマーケットで買い入れて赤字で「納品」する八百屋もあります。 かつては「なければない」が通用し、消費者も我慢し、八百屋の苦境をおもんばかったものです。しかし、便利は当然となり、不便は社会悪となりました。なにより資本力のある大企業はどんなときでも便利を提供します。 これをもって「自由競争」とするのか。 ここで私見を。私は市場原理主義的な素養を持つものですが同時に「多様性の確保」は競争による市場の健全化を担保する大切な要素と考えます。 だから今こそ「目を光らせる」べきは大企業による市場の買い占め・・・と考えております。規制せよではなく、目を光らせるというのがポイント。 レタスとキャベツが箱積みされるスーパーマーケットと二級品以下しか買い付けできない八百屋。これも日本の変化の現実です。 野菜とは季節により収穫も代わり、今、短期的に葉物野菜が不作でも通年でみれば豊作であることもあります。もちろん農家によっては被害は甚大でしょうが、消費者側に立てば、いまひとときの我慢で大騒ぎするべきことではない・・・ことが多いのは事実で、16~7年前の「米不足」を思い出すまでもないでしょう。 季節感がなくなったことも日本の変化で、それは学校教育の現場にも通じます。いつもの日教組攻撃ではなく、今回は「給食室」 よりのリポートです。「春キャベツ」というのは「巻き」が弱く、ふわっとしています。 柔らかくサラダなどには最適ですが、「ロールキャベツ」のような葉っぱの面積を必要とするものにはあまり向きません。家庭用として数枚つかうなら、柔らかな食感で美味しいのですが大量に作るとなると、見合ったキャベツを探すのが大変です。 小学校の給食にロールキャベツの文字が並んだのは今年の4月。 給食室のある学校へは地元の業者が納品することが多く、この小学校へも近所の八百屋が納品します。 納品されたキャベツを見た「給食のおばさん(職員)」は不満を隠そうとせずにこういいました。「ロールキャベツ向きのキャベツを持ってきてください」 返品です。八百屋はどうにか「向き」のキャベツを手配しましたが、その手配へのコストはゼロです。 一事が万事です。給食に向いた食材、それが「季節感」を無視したものであっても要求し、価格は「旬の食材価格」が要求されます。 本人達は意識していないのでしょうが「下請けイジメ」の構図は日本全国に浸透し、変化したことすら気がつきません。 便利であることが当たり前になったことはいいことでしょう。 しかし、便利な状態とは努力と幸運の上に成り立っているものであり、永遠に保存され、恒常的に供給されるものではありません。 という「当たり前」を口にする人が減ったことも日本の変化。 そして野菜が不足する度に大騒ぎします。日頃は食べない人まで。 ついには大臣まで大騒ぎするようになりました。
Apr 21, 2010
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「客が殺到するツイッター10の秘策」「コストゼロで集客するツイッター活用術」「ツイッターで会社は生まれ変わる」 ・・・来年の今頃、こうしたセミナーが都心から外れた近郊都市で行われているのではないでしょうか。 さすがにというか渋谷、中央、千代田、港、新宿といった都心、そしてIT業者や出版業者が多く生息する地域ではすぐに「バブル」がはじけて、いつまでも同じネタにぶら下がっていることはありませんが、都心をちょっと離れ「ドサ」なら時代遅れのネタでも小銭を稼ぐことができます。 いまは「SEO」「ブログ」「SNS」。 私がIT業界を冷静に眺めることができるのは、都心から遠い足立区にいることも大きな理由です。ネットから、業界の最新情報を得ることは簡単です。そして「フラット」な世界が西海岸の最新ノウハウを東京の北限を流れる「毛長川」のほとりにたたずむ弊社で入手することができます。だからいつも思うのは「どうして日本のIT業者って六本木や渋谷に集中するんだろ?」 理由は知っていますが、これは本題とずれるので内緒。 で、都心の喧噪をよそにぼちぼち仕事をしていると、さきほどの「時代遅れ」 も耳にします。 そして自然と冷静に業界を見る習性が身につきました。■詐欺と商売の構造的な境界線「SEO 0.2」(マイコミジャーナル)http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/059/index.html
Apr 20, 2010
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週刊ポストに限らず「取材」を受ける際の「大人」の作法を。 もちろん、タレントさんや、同様の営業施策をとっている識者は「露出」することに価値があるのでこんなことは不用ですが、ポリシーや立場があるのなら覚えておいて損はしないかと。 ・・・ここまで書いて、これは「Web担当者Forum」でのネタにすることにしたので、今回は「予告編」として、週刊ポストからの取材依頼への私の返信メールを紹介します。「個人情報」に類するところと、あからさまな誤字脱字の類は「編集」している点はご勘弁を。■これより 取材内容についていくつか私見を。 まず「ブーム」の定義が私には疑問で、非IT、非メディア業界においての認知度はようやく最近になって高まってきましたが、それは既存メディアの影響が大で、それでは「やる」かといえば、見知らぬ誰かとのコミュニケーションを楽しむのは日本人的な感性に馴染まず知り合いの主婦の台詞にすべてが集約されているように感じます。「何が楽しいの」 一方で、「はまる主婦(とは限りませんが)」の報道もありますがこれは「BBS」「チャット」「ブログ」と新しいネットツールが登場する度に「はまる」人間がフィーチャーされてきたことの焼き直しです。 そして●●さんからの取材企画の冒頭にあった「従来のビジネスモデルを変えるツール」 というのはIT業界の「悪弊」で、ウィンドウズブームからこのかたずっと言われてきたことです。それぞれ、「グーグル」「web2.0」「ブログ」「セカンドライフ」「SNS(ミクシィ)」と主語を変えるだけで「ツイッター」でもそのまま使えます。 理由を端的に述べればこうです。「一般人はそんなに暇じゃない」 ツイッターはタイムラインに「流れる」文字を刹那に追わなければならず過ぎ去った文字は気にしなくてもいいという「お約束」がありますが、日本人的に「仲間の会話」は気になるもので、つい過去のタイムラインを追いかけてしまいます。しかし、これを「毎日」つづけるのは不可能です。 そして私が定義する「一般人」とは、24時間365日(に近いほど)タイムラインと睨めっこできる職種、職業の人間ではありません。 トラックドライバーも保母さんも土方も外回りの営業マンも無理です。 商談中に「商談なう」「クライアントに怒られたなう」 とやって、ニコニコ笑う取引先は皆無でしょう。 依存についても・・・どのツールでも同じですが、私がざっくりと追いかけたところ新聞記者、雑誌編集者にその傾向が強いですね。 どちらかといえば「裏方」だった人が、その素性をちらりと晒すことで多くのフォロワーと励ましのリツイートが寄せられ、リアルから現実逃避するかのようにツイートをくりかえし、こう締めくくります。「原稿が上がらない」 ・・・呟く暇があるなら・・・と突っ込みをいれないのはネットの中の暖かくも無責任な「つながり」からです。 一般人につきまして「楽しむ程度」ならご自由にですが、あまり語られないのがツイッターは「ネットリテラシー」と「メディアリテラシー」を要求されるツールだと言うことに注意が必要です。 返信不用、過去は追わないという「ツイッター」のひとつのルールがありますが、実際に興味が湧けば追いたくなるもので、その時にすべての話題を追うには「ネットリテラシー」が不可欠になります。 まだツイッターを「ソーシャルフィルター」として、特定のキーワードの頻出具合や、参考意見を拝聴したい著名人をフォローすることで、新聞やテレビを越えるなどと喧伝するものもいますが、メディアリテラシーがあってコソの話しで大変危険です。 私も著名ジャーナリストの「つぶやき」を追っていますが、彼らの主張は検察批判や陰謀論がどこかに匂ういつもの論調ですが、それらの「根拠」や「論拠」が示されることは希で、穿った見方をすれば「思いこみ」 の可能性も捨てきれない(これは彼らの「批判」を信じるのならば論拠の示されない彼らの話も批判精神を以て聞くべきだという逆説的な証明)ことを、一般の方がどこまで「自己責任」として理解しているかが棚上げにされているのです。 長々となってしまい申し訳ございません。 ツイッターは道具のひとつで、「発信チャネル」がひとつ増えたに過ぎないのですが、あまりの無責任な「礼賛」に閉口しています。 ちなみにネットの著名通販企業はみな乗り出しており、それは「発信チャネル」としてみたときに大正解です。 ところで「Iza!」のブログからお越し頂いたようですが、どの記事をお読みいただき、ご興味をお持ちいただいたのでしょうか。(※筆者注:アクセス解析で判明) お手すきのときにでも教えていただければ幸いです。■以上 と、互いの時間を無駄にしないように、企画意図に合っているかを確認します。全く無名のどこかの馬の骨以前のころからこうしています。 商売柄「企画屋」という視点でみる習性でしょうかね。 だからメール後に断られることもあり、先日もテレビ朝日の某番組からオファーがありましたが「企画意図」を推察するにちょっと違うのではと考え、映像を自主的にケータイで撮影して、ユーチューブに投げて確認してもらったところ、「どうも違うようなので」 となりました。 いい大人が時間を割くわけですから。マスコミだってお仕事ですから、同じく「仕事人」の立場に立てば、協力できること、無駄なことの「仕分け」 は取材を受ける側にも必要・・・と、私は考えます。
Apr 16, 2010
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河野武氏が週刊ポストの取材を受けて、自身のブログで私の記事にあった一節を“とんちんかん”と評していたので、その言葉をそっくりそのままお返しします。河野武氏のブログはこちらhttp://smashmedia.jp/blog/2010/04/003387.html下記、わたくしミヤワキへの言及のみを転載<それにしても宮脇氏の「デルのTwitterでの売上が全体の0.002%しかない」という指摘はとんちんかんだよなあ。300万ドルは300万ドルであって、そこにいくら人件費がかかったとかROIベースで比較するのはまだわかるけど、なんで総売上と割り算するのか意味不明。もし寝てても年間3億儲かるなら最高じゃんね。> 「300万ドルは300万ドル」とはこの文脈からして「すごい」を指すと推測しますが比較対象がなければ「すごい」は主観に過ぎず、幼稚園児が大人を見上げて「大きい人」と表現するのと同じです。 河野武氏が提示する「ROI」にしても同じ。 人件費割りで比較できればそうしたでしょうが、成功例を伝えるデルのブログにそれは明示されておらず不可能です。そして正確を期すなら、デルのカスタマセンター、あるいはマーケティング担当者、または専任担当者の何人がツイッターに関与しその述べ時間が何時間で総人件費はいくらか、そして販売した商品に含まれるアウトレットと新製品の割合、またアウトレットにかかった返品から工場での商品チェックまでの各種経費が分からなければ「ROI」、つまり「投下資本利益率(いくら使ってどれだけ儲かったか)」ははじき出せず、これをもっての比較しか理解できないというのは商売の「現場感覚」からは“とんちんかん”としか評価のしようがありません。セミナーコンサルタントや学者はこういう「理想論」を好みますが。 ちなみに私が経営者でも広報担当でもかかった人件費を積極的に公開することはないでしょう。高ければ「ROI」が悪化しますし、低ければ「そんなに儲けやがって」と、ひがむ客が発生するリスクをわざわざ高めることはそれこそ“とんちんかん”です。 総売上と比較したのは、その数字が公開情報でなにより経営の概略を見る時の代表的指標ということも意味不明でしょうか。 ちなみに利益率は経営方針や業種により異なり、網羅的に議論することなど不可能です。もちろん、先ほどの「ROI」を算出するためのすべての数字が出揃うなら可能ですが。 そして転載部分、もっとも“とんちんかん”な箇所がここ。「もし寝てても年間3億儲かるなら最高じゃんね」 論が飛躍どころか、脱線というか議論にならない“とんちんかん”です。 誰がどこでそんなことを書いているのか、私は週刊ポストを28回読み返しましたが、どこにも「寝てる」などとは書いていません。自分のインタビューが「編集」されたからといって、私に矛先を向けるのは大迷惑です。 いや、私は結構。しかし、デルに失礼です。ツイッターという新しいツールを活用する方法を模索し、「300万ドルは300万ドル」もの売り上げを上げた企業努力を無視して「寝てても」とは。 私は飛び込み営業の経験があり、こうした営業努力をないがしろにする経営者に属する人を好ましく思えません。 そしてこれは転載部分の前段にかかってくるのですが、週刊ポストのインタビューを受けた河野武氏以外、私を含めた3人の名を挙げ、「普段から同じような批判をしている」 とするのなら、この記事も読んでいたのでしょうか。■ツイッター成功事例の裏を読む。デルの成功事例はたった2千円http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2010/03/10/7513 ポストの記事での指摘は初出ではなく、すでにおこなっている「指摘」です。まぁそこまで「ヒマじゃない」と、ネット議論にありがちな答弁をされるかも知れませんが、批判ではなく指摘で「寝てても」に思うところがあるのが、こう記しているからです。<もちろん「2,000円の売り上げ増加にも取り組む営業姿勢」は注目すべきですが> ポストのインタビューでも同じく答えたのですが、「編集」されて掲載されなかったのは、議論がぶれると読者が混乱するからと私は理解しています。 ポストの記事では<ツイッターによるマーケティングの成功事例として、真っ先に 語られるパソコンの通販で有名な米デルです。ツイッター経由 で2年間に300万ドルを売り上げたと話題なのですが、 少し冷静になってほしい> と、デルの事例にはいるまえに提起しています。 そして総売上からの比較をして<年商1億円の中小企業なら年間2千円ちょっとの売り上げに しかならない> と続けています。先ほどのROIではありませんが、従業員ひとりが「つぶやき」に要する時間を分子として、すべての従業員の労働時間の総和を分母にした割合は従業員数の少ない中小企業のほうが負担が重くなります。 つまり高らかに謳われる成功事例が中小企業ベースに置き換え、メリットがどれくらいに相当し、果たしてそれがメリットとなるか否かを見極めなければならないが「冷静になって欲しい」に込められています。「文字として表現されていなければわからない」 と仮にいうのであれば残念。限られた紙面という制約のなかでは「行間」を読むのが昭和の頃の日本語の作法で私は是に準じてゲラ(入校前の確認原稿)にOKをだしています。 そして「ROI」でいうならシンプルな結論を。「年間2000円の売り上げアップなら商談のついでに取引先に “助けると思って買ってください”とお願いするほうが ツイッターでつぶやくよりROIは高い」 恒常的な売り上げ増加ではなく単発なら、お願いを聞いてくれる人は多いので。あ、これは理想論やマーケティング理論などではなく営業現場の経験則から。 週刊ポスト編集部と河野武氏とのやり取りを私は知りません。 そして基本的に反対意見や、否定論にも「そういう見方もあるのか」 と考えます。しかし、“とんちんかん”という指摘自体が“とんちんかん”と思う以上、反論しておかなければ河野武氏の主張が「流通」するのがネット社会の常識。 だからそっくりそのまま河野武氏にお返しします。
Apr 15, 2010
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ツイッターを疑え。 と、見出しがつき、新聞広告に電車の中吊りと、写真付きで掲載されました。そして予想通り「大反響」の週刊ポスト。 特に「ツイッター」のなかで。 これまた予想通りですが、記事を読まずに意見を述べる人の多いこと多いこと。せめて中吊りや新聞広告をみての引用ならば、まだしも、誰かのツイート(ツイッターでの発言・投稿)をそのまま咀嚼もせずにはき出します。 ずいぶんな「ソーシャルメディア」です。もちろん、提唱した真意は別の所にあるのでしょうが、日本の「ネット世界」において誰かの発言という論拠も根拠も示されていない「空気」のようなものに従うのは「作法」といっても過言ではないでしょう。これをもってメディアというのであれば、日本は江戸期より最先端の民間ジャーナリズムを持っていたことになります。その名も「井戸端会議」 上下水道の発達で、井戸がなくなった今も、街角で、スーパーの精肉コーナーの一角で伝承されています。 一般の方が息抜きで楽しんでいるものにつっこむのは野暮というものですが、名前があり、名前を出し活動している人まで、井戸端的な空気を弄びます。 他人はともかく、検証可能なケースを挙げれば、わたしの記事への批判で、こんなのがありました。「日頃からこういうことをいっている」 ・・・う~ん。少なくとも週刊ポストに語ったことで「初出」は幾つかあり、それは別の媒体で発表しようと溜めていたもので、「日頃」からはいっていません。 凄いですね。ネットの世界にはエスパーがいるようです。 それとも「知ったかちゃん」? 私はその昔、リアルのつながりで霊や龍神様が見える人と出会ったことがあり(この話、結構すごいです、いずれ機会があれば)ますが、残念ながらエスパーとお会いしたことはなく、しかし「知ったかちゃん」は掃いて捨てるほどあいます。特に商売を始めてから、本当に出会う多く彼らを遠ざけるのは「ビジネス必勝法」として大変有効な方法です。 それは「知ったかちゃん」と嘘つきはほぼ同義だからです。 また今回の記事で面白いのが「メディア批判の底の浅さ」。 ステレオタイプです。そりゃあそうです。読まずに批判するのですから。それでいて原文に当たらず批判を平気で垂れ流す厚顔さは、偏向報道を厭わないマスコミのそれと同じで、ムジナの共同住宅を覗いているようで愉快です。 今回の「ツイッターを疑え」にしてもそう。「結論ありき」 という「批判」が多数。記事を読みこめば、そこにツイッターが内包する課題に気がつく示唆も沢山あるのですが、脊髄反射かアナフィラキシーショックのような批判言説がここに集約されます。 ・・・と、いうかそもそも読んでおらず、あるいは「礼賛派」のツイートやブログをもとに自説とするのですから、当然の帰結なのですが、それにすら気づかず「自分の意見」と錯覚していることも今回のテーマである「文明退化」の一例ですが、今回はここは深掘りしません。 現象を精査し、情報を解釈するとき角度を変えて見るのはとても有効な方法です。 仮に週刊ポストの記事を「結論ありき」とします(こう書き方で怖いのは、この一文の“仮に”がカットされてコピペされることでネット言論界(笑)ではよくあることです)。 その、結論を「企画」に置き換えれば書籍も同じ。 ツイッター礼賛本にも通じる自縄自縛です。もちろんグーグル礼賛でもWeb2.0、セカンドライフ、SNSでも以下同文。 先日、試しに礼賛本にポストイットを貼り、突っ込みをしてみるとあまりの「我田引水」ぶりに途中で投げ出してしまいました。書籍は商品で「企画」へと落とし込むために構成されます。私はこれを批難しているのではありません。 「結論ありき」というマスコミ批判は健全な批判精神の発露です。 しかし、一方で「ツイッター礼賛」という結論ありきの書籍に批判の刃が向かないことを「恋は盲目」というのでしょうか。この一方的な熱情がコピペにより拡散することで、ニュートラル(と、いうかさして興味のない人)を「そういうものか」と思考停止に陥らせることに危機感を覚えるのです。 それはネットで俎上に上がる「マスコミ」の手法と同じです。 余談ですが、私の知り合いの団塊世代の社長の歴史観と外交感覚は愛読している朝日新聞の主張そのものです。 ここで偏向報道、結論ありきについて重ねて私見を述べておきます。 週刊ポストの編集部員ではなく、依頼され「私見」を述べたに過ぎないので、本企画について言及する立場にありませんが、物書きとして、ホームページ屋として、広告屋として、そして企画屋として、なにより「大人」 として、取材を受ける際は「企画」を訊ね、慎重に言葉を選んで発言し「ゲラ」を確認し、自説が歪められているのであれば断りをいれます。 つまり公開されているものは某かの「許可」をだしているものというのが私の考えです。 仮に公開された内容が意図しないもの、例えばゲラ(完成直前の原稿)と180度違う内容が出版されたのであれば「裁判」で戦うべきです。 費用がかかったとしてもそれは「言論」を守る戦いで、ネットで募金を募ってもやるべきではないでしょうか。 本題に踏み込みます。 文明は退化する習性を持っています。 このテーマは何度か取り上げましたが、今回はITを軸に検証してみます。 ツイッター。これ自体を否定するものではありません。 しかし、140文字で伝えることには限界がありますが、刹那の速報性やフォロワーに絡み得られる連帯感は、論を組み立てるという面倒な作業を「中抜き」してネットの醍醐味であるコミュニケーションという果実を与えてくれます。 ブログだったころ。人に見て貰う、訪問者を増やすには一定の文章クオリティが求められました。文章力だけではなく、企画力や発想力なども試されました。 もちろん駄文でも独りよがりでも結構ですが、それでは人が集まらずコメント欄を通じたコミュニケーションが発生しなければ、海辺で砂粒を投げるような虚しさに支配されます。 つまり鑑賞に堪えられる水準のブログがネットコミュニケーションを謳歌する条件だったのです。 リアルの知人にブログを見て貰う分には、ここまで要求されませんでしたが、知人が見てくれるのは最初だけで、つまらないブログに付き合ってくれる奇特な友人がいたとしたら、生涯の友を見つけたと大切にすべきです。 ブログとツイッターの中間に位置するのがミクシィなどの「SNS」。 知人、友人限定(当初は)なので駄文でも内輪受けのネタでもOK。 もちろん文章の品質もそこまで要求されません。 そしてツイッター。論の構成より瞬発力、反射神経が問われ、短文ゆえの気軽さから、誰でも気軽に自分の意見を発言できるようになりました。 文章の訓練を受けておらず、特段の感性を持たずとも誰もが自由に発言でき、公に発表することができる。平等な世界です。 これはいいこと、と現代的価値観ではいわれます。特に市民革命を願い権力階層を公立小学校の授業中に攻撃して、日教組に所属した私の恩師などは手を叩いて喜ぶかも知れません。 私は思い出します。かつて「アイドル」が量産された時代、彼ら彼女らがバラエティ番組や連続ドラマに登場し、こういわれたことを。「身近なスターの時代」 目を見張るほどの美人ではなく、音程は若干フラット気味で、ダンスはぎこちないボックスを踏むだけ、演技をさせれば棒読みでも、それがいいと。 同時にこういう声もありました。「お遊戯だ」 「芸」がないことへの指摘です。 いまの「お笑い」はこの系譜にあります。 話芸よりインパクト。30分座を持たせる漫才よりも、30秒で一回クスッとさせることが求められます。 そして話芸や技倆をもった芸人と、はしゃぐこと、大声をだすことしかできない「出演者」が同列で扱われます。かつてならば、芸を持つ芸人のために割かれた時間も、平等に30秒のずつ割り当てられ視聴者に両者の違いは分からなくなります。それより、司会者や番組企画に「沿ったリアクション」をする出演者が重宝されます。テレビにおいて芸の有無は問われなくなりました。 ITに話を戻します。 今後も作品や批評、論文、すべてを含めて「文章」に自己投影し、情念を委ねる人は、それがツイッターであってもブログでも、メルマガかもしれませんが「作品」として取り組み、才能を開花させ世に出ることでしょう。 一方で「作品」と向き合う苦痛(ですよ。こんな軽い文体のメルマガでも自分と社会と対峙して書いています)を拒否して、他人の意見をコピペするだけ楽しみ、分かったふりができるツールが次々と登場していくのは、「利用者の利便性」から考えれば当然のことです。 客を楽しませようとすればするほど、客から考えるという負担を排除するのはすべての産業に通じることです。 そして思考は停止します。 脊髄反射の批判はお断ります。「全員」 というほど私は幼くありません。しかし「マス=大衆」は娯楽に弱いものであることは古代ローマ時代からの真理で、為政者の仕事が「パンとサーカス」 と呼ばれる理由です。 「マス」の思考停止すれば、革新的でも複雑な真理を唱える表現者の言葉は馬の耳に響き渡るマントラ。 商業主義は客を中心に論理を組み立てる性向があ、結果、思考停止してもわかるものだけが「文化」として後生に残されていきます。 なにもかもを嘆くペシミストではありません。 どららかといえば私は楽観主義者です。 週刊ポスト「ツイッターを疑え」により、「アウェイ」と化したツイッターで呟き続けるのは、ITへの希望や期待が誰よりも強いからかも知れません。 しかしその先に待っているリスクへの警句を発するのは「大人」としての責務。 とくに「便利」とはかなり慎重に取り扱うべきもので、退化への係数を高めることは昭和、平成と生きてきた歴史から明らかです。 分かり易い例では電卓の登場でかけ算が怪しくなり、ワープロの普及で漢字を忘れ、ケータイを所持することで電話番号を覚えなくなり、インターネットコミュニティの普及が孤独に耐える精神性を脆くさせています。 このシリーズは不定期に続けます。
Apr 14, 2010
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時間消費型のビジネスは「イス取りゲーム」に準えることがあります。 しかし、インターネットにおいての私の考察は「とられゲーム」。 以前は「とりゲーム」だったのですが、ひとつのネットサービスやツールがはやると、すぐに同種のサービスが複製され、本家と遜色がないどころか、逆に優秀なものまで登場します。 裏事情を話せば「オープン化」の功罪。開発言語も、開発支援ツールもオープン化により「共有」されているのですから、発想とサービスがわかれば簡単に複製できます。 そして「とられゲーム」になりました。 主導権は消費者。抗うためにイスを増やします。 ツイッターもメルマガもブログもBBSもSNSもNBAもPBXも同じです(※一部混信のため無関係の単語がお手元に届いた場合はお許し下さい)。 だからツイッターを始めたという相談には「どうぞ」。 ブログも「どうぞ」。メルマガも「どんどんおやりなさい」。 そしてこの「とられゲーム」はひとつの会場(ネットツール)に集中することはありません。なぜならこれもオープン化により、各種サービスの開発速度が一般人の許容範囲を超えているため、最新トレンドを追う人から見れば、「いまさら」 というサービスを嬉々として利用する人が必ずいますので。 いまでいうと「ツイッター」が隆盛の中、メーリングリストでの情報交換もいまだに健在で、彼らがツイッターに移行したとしてもその頃には別の何かが喧伝されていることでしょう。■心得其の163「ネットビジネスの本質は大量投下のイスとられゲーム」http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2010/04/14/7721
Apr 14, 2010
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ツイッターを疑え。へのツイッターでの各ツイートを興味深く拝読。 懐かしい流行語でいえば「想定の範囲内」。散見して微苦笑したのが「目新しいものはない」 記事への言及のようですが・・・これ、ネットでの他者批判の常套句です。 それだけご見識が豊かであるなら、他の「言葉」や「達見」をお持ちかと思いきや、残念ながら140文字の壁のためか言葉が続きません。 それともうひとつ。「自説の殻に綴じ込もり思考停止」。養老孟司さんの「バカの壁」で定義する「原理主義」と置き換えてもいいでしょう。 ツイッター(を象徴にネット社会、IT礼賛)に優位な情報しか目にしない姿勢は清々しくもありますが議論にはなりません。その理由は本稿の最初に述べる「カラスが空を飛んでいるぐらい当たり前の話」に重なり、一番最後に述べる「豪栄道」の件はカエサル(ジュリアス・シーザー)の残した「見たい現実しか見えない人」 で、現実を未来に置き換えてもまったく同じです。 そしてSNS。これもまた「みたい現実」だけをみていると、足下をすくわれます。これはしつこいほど繰り返していることですがネットツールを使用するのは「人」で、そこには感情やエゴ、愚かさが重要なファクターとなることをIT業界人には見えない現実のようです。■いよいよグーグル落城か!? 飛ぶ鳥を落とす勢いのSNS 0.2(マイコミジャーナル)http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/058/index.html
Apr 13, 2010
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で近所のファミマで週刊ポストを自腹でゲット。 自分の発言を金を出して読むことの滑稽さもまた人生の楽しさではありますが、中川淳一郎さんと岸博幸さんの発言は一読者として気になるので、自分が絡んでいなくても購入していました。 すかっとしますね。詳細はポストを手にとって欲しいのですが、中川淳一郎さんの「断罪すべきはツイッターのエバンジェリスト」 ザッツライト。これは日本の「IT業界」の構造的問題で「日本にグーグルが生まれない理由」 と重なります。論の骨子は同じですが、ポストの編集者と増田晶文さんとのインタビューで私が指摘したことを蛇足ながらここに記載しますとこうなります。「プレイヤーではなくコメンテーターが権威になっている」 IT系の「著名人」の来歴を追えば、技術者や開発者、それに経営者(コンサル会社を除く)が少ないことに呆れるでしょう。 いうなれば「前田忠明」の語る芸能と、IT業界のエバンジェリストの発言は相似形です。 ツイッターに「何か」を期待する人は、ポストのこの中川淳一郎さんの指摘は必読です。 つづいて私の発言となりますが、手前味噌ですので省略。 私はそこまで「自己顕示欲」は強くないので。この理由は本文をご参照ください。 で、岸博幸さんの「米ネット帝国主義の下僕となりはてるのか?」 という指摘は、いまさら読み返している「フラット化する世界」 に照らすと唸ります。上巻はまさしく「The米国」といえるオプティミズムに溢れた陽気な帝国主義に溢れておりそれを野放しに礼賛する日本IT業界の著名人(中川淳一郎さんの発言にあるエヴァンゲリオン・・・もといエバンジェリスト)の幼さは、マッカーサーが指摘した日本人とダブります。 そして「下巻」こそが、あの書の真意なのでしょうが、引用する日本の~(省略)連中は、下巻に言及しているものが少なく、幼さの裏書きとなるのですが、同時に、この記事で岸博幸さんの危惧と符号しているところに因縁を感じます。 最後にWebデザイナーの河野武さんの「作法」はいわばネットサービスを活用する上での「基本」。 ところが・・・ね。パソ通まで遡り、ネット掲示板(BBS)、メーリングリスト、メルマガ、ブログ、SNS,セカンドライフ。 ずっと同じことが繰り返し指摘されてもできなかた高いハードルが「基本」。 この河野武さんの指摘する「基本」をみて、いま気がついたのですが、中川淳一郎さんがあげた「エバンジェリスト」って凄いなぁと。 彼らもまた同じ内容を「主語」だけ変えて言い続けているのですから。街角の社会人として生きてきたものとしてはこうつぶやくことを止めることはできません。「一般社会なら・・・もう、だれも信用しなくなるのにね」 それはまるでフジテレビ開局50周年番組「わが家の歴史」に登場した「高田純次(西田敏行演じた八女家のとうちゃんも同罪)」 のようで。「軍曹殿、つぎはウェッブ2.0が美味しいらしいでげすよ」「軍曹殿、つぎはセカンドライフが美味しいらしいでげすよ」「軍曹殿、つぎはSNSが美味しいらしいでげすよ」 そして「軍曹殿、今度はツイッターが」 ・・・ドラマの中の高田純次さんは、失敗を共有してつまずきますが、IT業界は「いい逃げ」ができて儲けることができる。 これこそ一般ユーザーに「問う」べきことだったりします。
Apr 12, 2010
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ゼロからチラシ作りを覚えました。 最初は模倣から。すぐに忙しくなり、経験者として雇ったデザイナーの心に林檎が刺さったようで、出社拒否を噛ましてくれ、制作総指揮兼デザイナー補助だった私が、メインの席に座ります。 そして取り組んだのが「標準化」です。 どんな仕事でも一定のプロセスで再現できるように、ひとつひとつを作業しながら検証していきノウハウを積み上げました。 そのひとつが今回紹介した「電卓式レイアウト法」です。 感性を否定して、ロジックで組み立てます。 この方法の凄さは、繰り返すごとに生産性が高くなることで、その最大の利点は「DTP」というデジタルデータにおいて、よりパワフルに活かされてくることです。 最初は電卓を叩くより「感覚」のほうが楽だと感じることでしょう。 しかし、10件、20件と繰り返すごとに「差」がでます。 これはプログラマあがりの私の脳みその手柄と自慢しています。■心得其の162「センスがなくてもチラシを組み立てられる電卓式レイアウト法」http://web-tan.forum.impressrd.jp/e/2010/04/07/7663
Apr 7, 2010
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週刊ポストの取材を受けました。「ツイッター」について。 ツイッターとは140文字以内で投稿ができるミニブログ、ただ話題となるのはこのブログは上下左右、東西南北、自由自在に他人の意見を参照しながら意見を述べることができること。互いの面識は無関係で、参照の参照に発言することもできます。 またタレントや著名人が身分を晒して参加しており、彼らにメッセージを投げかけることもできますし、フォローといって、彼らの発言を眺め続けることもできます。ここから、海外では「セレブの追っかけ」 と呼ばれ、パリスヒルトンは155万人の追っかけをもちます。 このイメージを伝えにくいのは事実ですが、ツイッター礼賛派はこれをもって「やってみないとわからない」といいますし、何より「物書き」としてベストセラーを連発している連中、もとい方々までこう宣うのは物書きとしての職場放棄と、私は挑戦します。「ナンパ目的のチャット状態」 ・・・誰でもいいからひっかけようと、手当たり次第に異性とおぼしき人に声をかけるナンパ師もいれば、自己主張だけを延々と繰り返すものもいるあの世界です。もちろん、自己啓発系の誘惑も後を絶ちません。 もちろんツイッターの一面に過ぎません。あるいはこういう表現はどうでしょうか。「おばちゃんたちの巨大な井戸端会議」 論拠も根拠もなくダラダラといいたいことだけが繰り返される井戸端会議です。人の話を聞くお母さんもいれば、無視して自説を展開するおばちゃん、ただ頷くだけのおっかさんもいるあの風景です。 これにも異論が出るかも知れません。ならばこれはどうでしょう。「公開されているインスタントメッセンジャー」 短文でやり取りされる内容がすべて公開されているイメージです。 説明が難しくなるのはツイッターはシンプルな機能しか持たず、利用者が「工夫」して、自分、自分たち好みに使いこなしているからで、しかし、裏返せば「ブログ」でも「掲示板」でも、工夫次第で「ツイッター風」の使い方は可能です。例えば、女子高生のブログ「リアル」は、本来は一定であるプロフィール欄を書き換えることで、「リアルタイム」の状況を伝える「機能」を彼女たちは与えています。 そして私がツイッターを説明する際にもっともお気に入りの説明はこれです。「自由自在にスレッドを行き来でき、自分でスレッドを立てることが できる2ちゃんねるのようなツール」 ツイッターの「リアルタイム中継(tsudaる、津田大介氏がツイッターではじめたことから、そう呼ばれるようになり、あるネット解説では一般動詞となったあるが、これは一部の人間の“符丁”、あるいは“業界用語”と呼ぶべきもの)」は、2ちゃんねるの「実況中継板」で、「ハッシュタグ(#???と投稿に添えることで、???というテーマに沿った内容をまとめて閲覧することができる)」とは「スレッド」と同等の役割を果たすことができます。 両者の類似性を指摘すると大半の人が頷きます。ところが、各種「著名人」がこれに触れることはありません。それはまるで演歌歌手や芸能人がヤクザ屋さんの親分の誕生日会に出席したことを隠すかのようです。 しかし、日本の芸能史とあちらのご職業の方のつながりは古く深く、マイナス面はともかく、まつりとなれば浮かれてはしゃぎ、はみ出すお調子者に睨みをきかすことで、「仕切り」ができていた面もあり、また興行主としては、きっちりチケットを「捌く」ことで出演者に余計な負担をかけずにすんだという面もありました。 あちら側のご職業を礼賛するつもりはござんせん。が、しかし、一方的に全てを否定するほど私は純粋ではなく、無知でもなく特に昭和史を冷静に見る上で、こうした視点を欠いてしまうと見えなくなるものがあるというのは事実なのです。 そして日本のネットコミュニティのなかで「2ちゃんねる」の果たした役割大きく、それは功罪のどちらであっても歴史に刻む必要があります。「フォロー」は2ちゃんねるにないだろうという突っ込みもあるかも知れませんが、それは「RSS」をフィルタリングすれば済むことですし、なにより「同じ」といっているわけではありません。 文章でサービスの概要を伝えるチャレンジをした理由はもうひとつあります。それは日本のツイッターの礼賛者がそれを「突然変異」 のように伝えようとしていることへのアンチテーゼです。 歴史文脈にないから伝える言葉を持たないという含みを私は感じるのです。確かに歴史において数百年に一度の天才が突然変異のように現れます。あるいは「オーパーツ」や「ミッシングリング」のように、文脈を持たない歴史的遺物も実在します。 しかし「ツイッター」はそれではありません。 これは開発者も答えていることで、すでに使っていたツールをより便利にするというアイデアから生まれたものです。 歴史が証明している人間の業にこんなものがあります。「周辺ほど過激化する」 宗教で言えば、開祖や真理を説いたものや、直弟子よりも孫弟子や弟子から教義だけを授かったもののほうが、それらを絶対視して過激な活動にでるというものです。 日本でのツイッターへの「過剰期待」はこれです。 私はツイッターを嫌いではありません。なかなか面白いとも思っています。ただし、これでビジネスが変わることがないことを知っているだけです。 だって私がインターネットに関わってから、米国からの新しいサービスが輸入される度に同じことが繰り返されてきたにも関わらず、あまり変わってこなかったからです。 いつも楽しむためのツールに過剰なビジネスの期待を投影し腰砕けのように撤退してきたのが、日本のインターネット史といっても過言ではありません。それは「バブル崩壊」後、政治と共に迷走を続けた日本がすがった「藁」なのかもしれません。 藁は藁でしかなく、救命具にはなり得ないのです。 またビジネスの最前線は想像以上に泥臭く、文化・習慣・風俗と切り離すことはできず、米国の常識を日本に押しつけても、イエスと素直になるのは難しすぎます。これをもって「だから日本は」 という人は是非、米国に行ってください。もっともこういう卑下の仕方はとても「日本人的」で微苦笑を禁じ得ないのですが。 歴史は昨日と今日の延長線上にあり、しかし、昨日と同じ明日ではありません。だから、ツイッターが過去のネットツールと違う役割を果たす可能性もあります。 しかし、「ブログ」や「SNS(ミクシィなど)」の時ほど地盤が持ち上がるような、静かで、しかし力強い脈動を「ツイッター」から感じることはありません。 ・・・どこでかというと、ご近所、周辺から。周辺調査からは「RSSリーダー」 の時に酷似しております。 ちなみにこの「RSS」でもビジネスが変わるといっていた人も沢山いたなぁと目を細めてしまいます。 そして来週発売の週刊ポストにて「ツイッター」について語り倒しました。 記事はアスリートからお笑いまで、丹念な取材と軽やかに読ませる言葉選びと、文章構成が見事なルポライターの増田晶文さんが仕上げてくれるとのこと。楽しみです。 なげかけられる質問が誘い水となり、つらつらと語り、1時間の予定が1時間45分に。 と、実はここまでが壮大な前置き。ここからが本番だったのですが、書き出してから気がついたのが扱うテーマの大きさで、前後編にわけて、続きは次週に。大事件でも起きない限り続きます。
Apr 7, 2010
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昨年の新書大将を受賞した「日本辺境論」を読んで数ページ。 どうしてここまで「卑屈」なんだろうと憤慨しました。 憤りはこう。「俺は違うぜ」 他人との評価の中で自己の存在を確認し、舶来ものをうやうやしく取り扱い、同時に国内の下々を粗末に扱う。 確かに順位は気にならなくもありませんが、所詮、我と彼は違う人間で、目指すところも求めるものも、能力も違うのですから自ずとアプローチも結論は異なるはず。そんなに周りのことばかりみて生きていたって面倒・・・って、あっそうか。とここで気づきます。 立場を変えてみます。「自分」を中心に読み解くのではなく、周辺の日本人の行動原理に当てはめながら読んでみると・・・なるほど。 そして今の「ツイッター礼賛」や「クラウド万歳」の図式と重なり、丁度読んでいた「竜馬が行く」の時代の幕府の右往左往と本稿の主人公が重なりました。ツイッターやクラウドも幕末から進化していない「クロフネ0.2」http://journal.mycom.co.jp/column/itshacho/057/index.html
Apr 6, 2010
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