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普遍文法の原理はある一定のパラメータをもっており、これらのパラメータは、経験によりある値に決められるのです。 言語機能は、二つの状態のうちからどちらかを選ぶことのできるスイッチの列からなるスイッチボックスとつながっている、複雑で精巧なネットワークのようなものとして考えることができます。 これらのスイッチの値をどちらかに決めない限りシステムは動きません。 スイッチが許される値のうち一つに決まると、その性質に従ってシステムが動きます。 が、その動き方はスイッチの設定の仕方によって変わってきます。 スイッチの値の決まったネットワークが普遍文法の原理の体系であり、ここにおけるスイッチは、経験によって値が設定されるパラメータなのです。 これらのスイッチの値をどちらかに決めるためには、言語を習得しようとしている子どもに提示されているデータだけで十分でなければなりません。 これらのスイッチの値が決まると、子どもは、ある個別言語を使うことができ、その言語に関する事実を知っていることになります。 つまり、ある特定の表現がある特定の意味をもつ、等々の事実です。 それぞれのスイッチの値の一連の可能な組合せによって、個別言語が導かれます。 言語の習得は、部分的には、与えられたデータに基づいてこれらのスイッチをどちらかの値にセットするという過程つまり、パラメータの値を決める過程なのです。「言語と知識」 ノーム・チョムスキー 産業図書
2015年03月31日
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国際社会の中にあって、日本は軍事的な意味ももっていないし、外交政策もかなり受身で消極的だから、世界政治の面からみれば大した働きはしていない。 六〇年ほど前、ヴェルサイユ講和会議に英仏伊米に次いで世界第五番目の強国としてつらなった時とは大分趣きを異にしている。 けれども国際経済の局面からみれば、世界経済取引、貿易、金融、通貨問題などあらゆる点においてヨーロッパのどの国にもひけをとらない。 しかし、それがゆえにこそ、日本は西側諸国から共感をもたれるどころか、ねたみ、そねみを買っているのだ。 底を割ってしまえば、共同体の中でそれぞれのエゴイズムがのさばっているだけなのだが。 西側の諸国が日本を敵とみなしているのは、彼らが経済競争で日本に負けをとり、ずっと健全な社会組織をもっている日本に世界の市場を奪われてしまうからだ。 例えばイタリアのさる企業家などは、「自分たちの自動車の売上げが伸びないのは日本のせいだ」と公言してはばからない。 アメリカやヨーロッパの共同体は、西側の非合理的なやり方に合せるようにと日本に無理じいをし続けている。 限度を知らぬ過剰消費と過度な国家的社会保障によって生産を超える消費をしい、輸出をしのぐ輸入と、バランスのとれぬ生活、通貨市場の崩壊にまでも導くほどの国際的に「見合った」「認容できる」インフレ率を、人工的手段を使ってまでも作りださせようとしているのだ。 こんなやり方によって、日本に(西ドイツと並んで)世界の工業国仲間の「機関車」の役目を押しっけられると考えているのだ。 しかもアメリカやヨーロッパの諸国は、日本は当然この役をひきうけるべきだと考えているから、日本人がこの連帯に加わらないなら、早速輸出妨害という刑で罰してやろうとまちかまえているのである。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2015年03月30日
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ひとつの言葉は、「さわり」「しこり」「もやもや」「つかえ」「虫」というような言葉で言い表すしかしかたがないような未分化な「前触覚」や「触覚」に発し、すでに外部に存在する音韻と文字への的中に至り、言葉として発せられるという気の遠くなるような深みをもっている。 別の言い方をすれば、すべての言葉が沈黙や吃音(きつおん)、語調や逆説を孕んでいると言えるのだ。 この発語の深みをふまえた上で、言語学者や文字学者達は言葉や文字の問題を考察し、語彙論も文法論も組み立てねばならない。 この発語の構造を視野に収めずに、辞書に登載されたような語彙と意義を前提にして言語論を展開してみても、それは単なる学者による学者のための学問にすぎず、いわば彪大な文化的ゴミが量産されるだけのことである。 この言葉の深みから言えば、文字は言葉の内側の出来事であり、言葉に内在的な出来事である。 とりわけ日本語においてはそうである。 我々が日常的に経験している例で言えば、会話の途中に、会話をさえぎってまで、「それどう書くの?」と訊(き)き返すことがあるが、この時、我々は、「文字を話し」「文字を聞い」ている。 そのため、誤解を生まぬように前もって「監事」を「サラカンジ」、「幹事」を「ミキカンジ」、あるいは「川」を「サンボンガワ」、「河」を「サンズイ(ノ)カワ」と言うことさえある。 会話において文字による註釈が必要となる事態を言語にとって異常な事態であると考えるのは、西欧言語学の偏見にすぎない。 日本語に生じる言語現象を正しく位置づけられない言語学は、特殊な「西欧言語学」ではありえても普遍的な言語学ではありえない。「二重言語国家・日本」 石川九楊 NHKブックス
2015年03月27日
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本は勝手に一人歩きをすると前に記した。 それをどう読もうと読者の勝手であるとも記した。 思想も、思想の演ずる劇も同じであろう。 それは一人歩きをはじめる。 それはもう、それを生み出した人間には如何ともしがたいことではないか。 宣長に、お前は結果に於いて超国家主義を生み出し、それが日本を悲劇のどん底に落したと言っても何になるであろう。 彼は「古学の眼」で「上代人」の中に入って行って、共に語ることによって、それを上代人の位置から徳川時代の人びとに語ろうとしただけではないのか。 それがどうなって行くかは、小林秀雄のいう「歴史の必然」であろう。 それは安直な反省などでどうもなることではあるまい。 ましてそれが、言霊の話し言葉の国に漢字がきたという「歴史の必然」に基づいているならば同じことがいえるであろう。 明治から、そして戦後に圧倒的な欧米文明が来たのだ。 ドストエフスキーもモォツアルトもゴッホも来たのだ。 それと小林秀雄が語り、その世界に入ってしまった。 もっとも伝統の方が彼を手放さなかったのだが、まるで上代人が漢字の世界に入っていったように、入って行ってしまった。 その入り方がどれくらい完壁であったかは、「引用」が示している。 小林秀雄を読んでつくづく驚くのは、その引用の完壁さである。「小林秀雄の流儀」 山本七平 新潮社
2015年03月26日
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もし彼がはげしい要求をもつていると、彼はこの現實像をただ要求にしたがつて構成して、それをなまの現實とつき合せて検討することを忘れてしまう。 かくて、いわば「第二現實」とでもいつたようなものが成立する。 これは映畫に似ている。 すなわち、ある特定の立場から材料を取捨選擇してモンタージュしてでき上つたものであり、現實を寫しながら現實とは別なものである。 この映畫は、それ自身の中に因果の法則をもち、筋書をもち、昂奮させ陶酔させる。 前述のような論理によつて組み立てられた歴史像も、やはりこのような「第二現實」というタイトルの映畫である。 かくて、人間は外の封象を自分がつくりあげたイメージによつてとらえるから、同じものに接しても人によつて反應がちがう。 たとえば、むごたらしい屍を見ても、ある者は面を反けるだろうし、ある者はよろこんで踏みつけるだろうし、ある者はそれを抱いて哭くであろう。 貧困な人も、これがあたりまえと思つていれは、それに安住する。 貧困でない人も、ヒューマニズムや怨恨意識をもつていれば、反抗する。 人間はつねにひろい意味での要求をもつていて、これが大きくはたらいて知覚を左右し、これによつて外界像が構成され、これにしたがつて行動がおこる。「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2015年03月25日
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ある心的過程を意識することが苦痛なので、それについて考えないようにすること、単純に言えば、それが抑圧です。 フロイトはこのメカニズムを「二つの部屋」とそのあいだの敷居にいる「番人」という卓抜な比喩で語りました。 「無意識の部屋」は広い部屋でさまざまな心的な動きがひしめいています。 もう一つの「意識の部屋」はそれより狭く、ずっと秩序立っていて、汚いものや危ないものは周到に排除されており、客を迎えることができるサロンのようになっています。 そして、「二つの部屋の敷居のところには、番人が一人職務を司っていて、個々の心的興奮を検査し検閲して、気に入らないことをしでかすとサロンに入れないようにします。」 (『精神分析入門』) フロイトはこの番人の機能を「抑圧」と名づけました。「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2015年03月24日
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フランクリン・ルーズベルトは妻の叔父で、大統領として最も尊敬したセオドア・ルーズベルトがかって海軍次官補だったことをハーバードの学生時代から意識してきた。 一九一三年、三十一歳の若さでウッドロー・ウィルソン政権の海軍次官補に任命されたとき、ルーズベルトはセオドアと同じ椅子に座り、「もう一人のルーズベルトがかってここで何をしたか覚えてますか」と、うれしそうに新聞記者に問いかけている。 セオドアはスペインとの戦争を発動したことで知られ、フランクリンはそれを意識していた(ジェフリー・ウォード薯『フランクリン・ルーズベルトの登場』)。 この年、カリフォルニア州は日本人移民の農地所有を禁じる法律を制定したことから再び日本政府の抗議を受け、ウィルソン大統領は国務長官を派遣して何とか法律を言葉の上だけでも和らげている。 しかし、それをきっかけに西海岸ではウォー・スケア(戦争騒ぎ)が高まっており、日本軍が攻めてくるのではないかと病的な危機感に覆われていた。 海軍次官補のルーズベルトは一九一四年、その西海岸を訪問し、『サクソンの日』という本を贈呈されている。 西海岸では著名な元中国軍顧問、ホーマー・リーが書いたこの本は、英国がアジア系民族によって存亡の危機に遭遇すると予言しているが、その刺激的な内容についてルーズベルトがどう反応したかはわからない。「ルーズベルト秘録」上 前田徹 産経新聞社
2015年03月23日
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どうも文字というものに対して、誤解がある。 「言語と書とは二つの分明な記号体系である。 後者の唯一の存在理由は、前者を表記することだ」 というのは、西欧の言語学者・ソシュールの『一般言語学講義』の中の言葉だが、「書=書字=文字は言語を表記するものだ」というようなことには、少なくとも日本語においては、なりはしない。 ソシュールの言語論にせよ、チョムスキーの「生成文法論」にせよ、あるいはその影響下にある日本の言語学にせよ、コンピュータソフトの開発には役立っても、その学問がいっこうに人間や社会の現実を解き明かすことにならぬのは、意識と言葉の深みへの考察を欠いているからである。 とりあえず、ここで引用したソシュールの言について言っておくならば、ソシュールは、文字を単なる言葉の表記つまり音写にすぎないものとして、貧困なものとしてしかとらえておらず、したがって、言葉自体もまた、ずいぶんと貧困なものとしてしかとらえられてはいない。 我々はほとんど深い自覚もなしに言葉を用いている。 だが、それは、慣れっこになっているから気づかぬだけであって、わずか一語であっても、言葉を発すること、つまり発語は人類史を垂直に立てた底知れぬ深みを宿している。「二重言語国家・日本」 石川九楊 NHKブックス
2015年03月20日
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餓え疲れた人間、病める人間をご覧なさい。 呼吸も整いません。手足も自由に動きません。 舌もうまく廻りません。 身心が統一を失って、少なくとも弛んでしまって、力が出ないのであります。 こういうたるんだり、ばらばらになつている部分部分をぴんと引緊めて、きびきびした活気の中に自分自身を置く機能・動態を意気というのであります。 動態としては気概という語が更によく当ります。 年頭に当って、よしやるぞ! という意気、まずこれが大切です。「新憂樂志」 安岡 正篤 明徳出版
2015年03月19日
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「続鳩翁道話」に次のような話がのっている。 ある、子供がない呉服屋夫婦があった。 いくら養子をもらっても誰もつづかない。 両親が偏屈すぎ、ロやかましいと来ているからである。 物好きな人間はどこにもいるもので、一人の若者が人生修業と、それを望んで養子になった。 しかし、さすがのこの男もどうにも我慢ができなかった。 とうとうとび出そうと決心したとき、新しい障子を入れに大工がやって来た。 仲々うまく行かない。 障子の上をけずっては鴨居に、下をけずっては閾(しきい)にはめ、障子に弓をはって、ゆがんだ柱に合せ、とうとう、するする、ぴたりとうごくようにした。 ぼんやり見ていた養子は、煙管をとり落し思わず横手をうって悟った。 鴨居や閾をけずる大工はいない。 自分をこのように削ってあわせねば駄目なのだと。 とうとう息子は立派にこの家を相続し終えた。 日本の場合のこの自己否定とは、このような「あわせ」に外ならない。 自分の本質を変える必要はない。 障子という自分の本質をドアに変えることはもちろん、寸分もその形を変える必要もないのだ。 武者小路公秀氏が指摘したように、この「あわせ」ることこそ日本文化の一つの特質に外ならない。 あわせることさえできればすべてが解決するという考えである。「ヨーロッパ・ヒューマニズムの限界」 会田雄二 新潮社
2015年03月18日
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英国が、コメ、石油、ゴムその他の必要物資を購入するという日本の権利を奪ったままで、同時に香港、シンガポール、北ボルネオその他の極東における英国領を維持しうるなどと言うのは、完全に論外である。 日本は、それなしには第一級の国家として存立できないコメおよび石油の購入を平和的に保証されたならば、どのような条約にでも署名し、南方に対するいかなる侵略も停止したであろう。 確かに日本は、宣戦布告のないまま四年間にわたり中国と戦争状態にあったが、同時にソビエト・ロシアがフィンランド、ポーランド、およびバルト諸国を侵略していたのも事実である。 アメリカは、このソビエトの行動に対しては何ら対処しないばかりか、その後、同国と同盟を結ぶに至った。 しかしながら、その一方で日本は、自国軍の中国(満州を除く)およびベトナムからの撤退を約束し、南下をしないことに合意する用意があった。 日本のような強力な国家に対し、米国はこれ以上何を要求できると言うのか。 天皇および近衛首相は、平和を維持するために、信じられないほどの譲歩をするつもりでいたのである。 日本は、面積がカリフォルニアにも満たない人口八千万人の比較的小国であった。 天然資源はほとんど保有せず、また冷酷な隣国であるソビエトの脅威に常に直面していた。 天皇は、名誉と平和を重んじる人物であり、側近の攻撃的な軍国主義者を制止するために、できるかぎりのことを行なった。「日米・開戦の悲劇」 ハミルトン・フィッシュ PHP
2015年03月17日
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自己同一性を確定した主体がまずあって、それが次々と他の人々と関係しつつ「自己実現する」のではありません。 ネットワークの中に投げ込まれたものが、そこで「作り出した」意味や価値によって、おのれが誰であるかを回顧的に知る。 主体性の起源は、主体の「存在」にではなく、主体の「行動」のうちにある。 これが構造主義のいちばん根本にあり、すべての構造主義者に共有されている考え方です。 それは見たとおり、ヘーゲルとマルクスから二〇世紀の思考が継承したものなのです。 ネットワークの中心に主権的・自己決定的な主体がいて、それがおのれの意思に基づいて全体を統御しているのではなく、ネットワークの「効果」として、さまざまのリンクの結び目として、主体が「何ものであるか」は決定される、というこの考え方は、「脱-中心化」あるいは「非-中枢化」とも呼ばれます。 中枢に固定的・静止的な主体がおり、それが判断したり決定したり表現したりする、という「天動説」的な人間観から、中心を持たないネットワーク形成運動があり、そのリンクの「絡み合い」として主体は規定されるという「地動説」的な人間観への移行、それが二〇世紀の思想の根本的な趨勢である、と言ってよいだろうと思います。「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2015年03月16日
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日本語が、語彙的には、もともとは中国語であった漢語と孤島に生れた和語の二重言語であり、構造的には漢語を主とする詞を和語の辞(テニヲハ)が支えるというように、中国語寄りの日本語と、和語寄りの日本語に内部で分裂しているところに生じる異和である。 「雨=あめ」にまつわる言葉だけでも、「春雨・秋雨・牒雨・冷雨.豪雨・穀雨・梅雨・霖雨……」の中国語に連なる漢語「雨(う)」の系譜と、「はるさめ.こさめ・ひさめ・こぬかあめ……」などの「あめ」のいわゆる和語の系譜がある。 一概には言えないが、一般的に言えば「雨」の系譜は、多少遠景にあり、また温感は少し冷たく、輪郭は明瞭である。対する「あめ」の系譜は近景にあり、温感は暖かいが、輪郭はいくぶんぼやけている。 しかも、「わらう」など和語の動詞においては、嗤(あざわら)うも談笑することも微笑することもその語によっては区別せず、言葉の領域の厳密さと漢字=漢語のような造語力に欠ける。 また、「降雨」とも換言できる「雨が降る」は、「雨」や「降る」などの詞を、「が」などの辞が支えるという文法構造をもっており、詞の多くは漢語であることから、詞たる漢語に辞たる和語が結合し、支えている。 このように日本語は、二重に分裂した言語の統一体=二重言語であり、そこにすっきりした単一の原理を見つけることは難しい。「二重言語国家・日本」 石川九楊 NHKブックス
2015年03月13日
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あのように優秀な飛行機や軍事工学技術を生み出した力が日本国のどこかにあるのだと、そしてオランダの戦争政治宣伝はその点に関して自国民に嘘を告げていたのだと、私はしかるべく認識したのだった。 後になって私が日本国について知るようになった事柄についても、わが国の戦争宣伝はまったくちがったことを教えていた――このことから学び取ったことは、これからは宣伝というもの決して信じないし、その語調や論じ方で、すぐにそれと分かるようになったことである。 日本人読者諸氏よ、日本人は宣伝に耳を貸さないというのは私の思いちがいだろうか? 恥じないですむように自国の過去をできるだけ美化し、少しでも耐えうるものにしようとするのは世界的傾向である。 だが、これは虚言なくしては到達できない。 恥じるくらいなら嘘のほうがまし、とする態度は日本にばかりでなく、オランダにもある。 「ますます多くの人びとが、ほんとうのことから偏り、事実と虚構の境をぼかす映画、テレビなどのマスメディアを通して自己の歴史認識を得ている。 事実の出来事は、劇的効果に、または”政治的に正しい”という観点に合わせて変えられ再生される」。「西欧の植民地喪失と日本」 ルディ・カウスブルック 草思社
2015年03月12日
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物理学、経済学、心理学を、「先進」的な学問だと考える。 そこから、有益な概念セットや理論化のアイデアを持ち込んで、社会学の急速なレベルアップを図る。 そのためには、優秀な才能と超人的なエネルギーを集中的に投下することだ――これが小室氏の作戦である。 いかにも戦後復興期の、傾斜生産方式(資源を鉄鋼と石炭産業に集中させ、経済の急速な成長をはかるやり方)にそっくりではないか。 小室氏が念願してやまない、社会科学の「ブレークスルー」(=突破:ニュートンやアインシュタインみたいな、画期的な理論展望が開けること)が、先進的な学問を総合しさえすれば即、約束されるものかどうか、それは知らない。 だがそれが、飛躍の必要条件であろうことは確かだ。 学問に王道なし。 オーソドックスに学問を身につけ、そのうえで、つねに問題の根本に立ちかえって、ものごとを解明していくこと。 そういう原則的で科学的な態度を、小室氏は誰よりも強調し、自分でも体現している。「危機の構造」 小室直樹 中公文庫
2015年03月11日
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加上の原則というものは、元なにか一つ初めがある、そうしてそれからつぎに出た人がその上のことを考える。 またそのつぎに出た者がその上のことを考える。 だんだん前の説がつまらないとして、後の説、自分の考えたことを良いとするために、だんだん上に、上のほうへ上のほうへと考えてゆく。 それでつまらなかった最初の説が元にあって、それからだんだんそのえらい話は後から発展していったのであると、こういうことを考えた。「先哲の学問」 内藤湖南 日本の名著 中央公論社
2015年03月10日
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日本語は、言葉の中央に文字=書字が位置する書字=文字中心言語である。 ところが、日本語の文字には、西欧アルファベットのような音素文字ではないが、仮名という音節文字つまり一般には表音文字と呼ばれる音写文字が存在する。 音写文字を含む日本語においては、中国語のように文字はそのまま言葉であるということにはならず、文字と言葉との間に、いくぶんかのずれ(あそび)をつくる。 ここに、東アジア漢字文化圏に属する書字=文字中心言語であるにもかかわらず、発語の際に、言葉との間の齟齬(そご)と異和が恒常的に再生産されることになる。 言葉に対して、「言の葉にすぎぬ」というような齟齬、もっと言えば、俺が言いたいことは、ほんとうは言葉にはなりえないのだという不足感につきまとわれるのである。「二重言語国家・日本」 石川九楊 NHKブックス
2015年03月09日
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気概とは、その人の生き方の証であり、その人の哲学の反映でもあるでしょう。それは自分のアイデンティティーの裏返しでもあるのです。 よく、人は自分の顔に責任を持てと言われますが、それはとりもなおさず気概がそこはかとなく表面にしみ出てくることを言っているのです。 こう考えますと、人生とは、自己実現を一つ一つ図りながら、自分の内なるものを高め、気概を作り上げていく過程と言えるのではないでしょうか。 言い換えれば、精神を創造していく道程なのです。 そして、時折、自分を省みて、気概がどの程度まで向上してきたかを確認し、さらに高めていくことが必要なのではないでしょうか。 その時に、自分の人生という背骨を、熟すれば溶けてしまうようなロウや、押されればボキッと折れてしまうプラスチック、ましてや、どこかから借りてきた骨で形づくるのではなく、まさしく内面から熟成されて結晶した気骨で作り上げていくことが、深みのある人生を築き上げるのでしょう。「私の人生観、歴史観」 渡部昇一 PHP
2015年03月06日
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セオドア・ルーズベルトの了解の下に一九〇六年、海軍省戦争研究所で始められた対日戦争計画「オレンジ」は日本人移民をめぐる日米の軋轢(あつれき)が生じるたびに見直され、具体的な戦争シミュレーションが例年のように実施されたのだった(『戦争計画オレンジ』)。 《米国は仮想敵国を色で分け、英国はレッド、日本はオレンジだった。 一八八二年に実施した中国人排斥は中国側の抗議もなく、日本人排斥に限って日本の干渉で阻止されたことが米国を刺激した。 米商務省統計によると、一八九〇年の日本人移民は約二千人だったが、一九一〇年には六万四千人にのぼっている》「ルーズベルト秘録」上 前田徹 産経新聞社
2015年03月05日
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人間の中心に「人間そのもの」――普遍的人間性――というものが宿っているとすれば、それはその人がどんな身分に生まれようと、どんな社会的立場にいようと、男であろうと女であろうと、大人であろうと子どもであろうと、変わることばないはずです。 マルクスはそのような伝統的な人間観を退けました。 人間の個別性をかたちづくるのは、その人が「何ものであるか」ではなく、「何ごとをなすか」によって決定される、マルクスはそう考えました。 「何ものであるか」というのは、「存在する」ことに軸足を置いた人間の見方であり、「何ごとをなすか」というのは「行動すること」に軸足を置いた人間の見方である、というふうに言い換えることができるかも知れません。 「存在すること」とは、与えられた状況の中でじっと静止しており、自然的、事物的な存在者という立場に甘んじることです。 静止していることは「堕落すること、禽獣(きんじゅう)となることである」という考え方、これをマルクスはヘーゲルから受け継ぎました。 たいせつなのは「自分のありのままにある」に満足することではなく、「命かけの跳躍」を試みて、「自分がそうありたいと願うものになること」である。 煎じ詰めれば、ヘーゲルの人間学とはそういうものでした。(このヘーゲルの人間理解は、マルクス主義から実存主義を経由して構造主義に至るまで、ヨーロッパ思想に一貫して伏流しています。)「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2015年03月04日
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さて物事には「機」というもの、おり―しお―はずみなどというものがありまして、これをつかまねば活き活きとやるわけにはまいりません。 のべつ幕なしではだめなものであります。 何かの「おり」何かの「しお」何かの「きっかけ」何かの「はずみ」をつかまえて、始めてきびきびやれるのであります。 年月というものは少しも止むことがありませんが、そこに正月や元日を立てるのは、この意味において非常に貴重なことで、この機を逃さず、われわれはまず好い加減に放ってあった自分自身に対して、はっきり挨拶せねばなりません。 他家をお年賀に廻る人は多いが、自分自身に改めて年賀を言う人はいかに少ないことでありましょう。「新憂樂志」 安岡 正篤 明徳出版
2015年03月03日
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戦前と戦後とは、まったく性質の異なった社会だ――そのように、戦後の知識人たちは主張してきた。 敗戦を境に、日本社会は過去を払拭して、新しい段階に入った、と。 人びともそう信じたいと思った。 戦後の思想界は、ずうっと、戦前/戦後の断絶史観に立っていたのである。 ところが小室氏は日本社会の構造が戦前とちっとも違っていないと指摘する。 たとえば、商社マンの行動・思想は、帝国陸軍と瓜二つではないか。 戦前社会が、坂道を転げるように破滅への道を突っ走ったのなら、戦後社会も、同じ構造的な危機を免れないはずだ。 戦後思想の虚妄を明快に語ったという点で、『危機の構造』の登場は、八〇年代のポスト・モダンの台頭(戦後知識人の凋落)に先がけたものと言えよう。「危機の構造」 小室直樹 中公文庫
2015年03月02日
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