全19件 (19件中 1-19件目)
1

アーサー・ミラーの『セ-ルスマンの死』というドラマにおいて、父親のウィリイ・ローマンは、成功したセールスマンに人間の価値のモデルを置いており、それを息子のビフに押しつける。 このドラマの悲劇は、能力のないセールスマンが、それにもかかわらず、あくまで資本主義的能力に人間の価値像を見つづけていることから来ている。 父親がその価値観を捨てれば、家族たちは和解できるのだが、彼は決してそれを捨てようとしない。 ここでは、彼の現実の存在と、彼の価値慣が大きな確執を生じているのである。 こういうことは、およそ現在社会にあって人間の生き難さの普遍的な由来になっている。 それは社会が人間の生一般に与えている基本的な条件でもある。 思想は、人間が自分のうちに抱え込んでいる一般的な(世界像)に対する違和の意識から発し、この(世界像)や価値観に対する意識的な抗いの行為である。 彼は自分の中で、社会に重く蓄積されたこの(世界像)を編み変えようとすることを通じて、自分自身の生き難さを支える。 だからわたしたちは、優れた思想のうちに、必ず、ひとりの人間が、与えられた生の条件の中をどのように生きようとしたかという、個人の生の痕跡をも見るのである。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2015年12月25日
コメント(2)

社会のいちばん基本的な形は、交換のシステムである。 その交換は、利害や必要にもとづくのではなく、純粋な動機(交換のための交換)にもとづくものだ。 交換のシステムのなかでは、女性や、物財や、言葉が、「価値」あるものになる。 しかし、それらが、その「価値」ゆえに交換されるとか、利害動機や機能的な必要にもとづいて交換されるとか考えるわけにはいかない。 あくまでも、交換のための交換が基本であり、それが特殊に変化・発達していった場合にだけ、いわゆる経済(利害にもとづいた交換)が現れるにすぎない。 このような見解は、デュルケームの考え方に修正を迫るものだ。 歴史は進歩の過程である、という十九世紀以来の発想にも打撃を与える。 交換のシステムは機能の観点からとらえきれないというのだから、機能主義人類学にも批判をつきつけたかたちになっている。 また、経済(下部構造)が文化や精神世界(上部構造)を規定するというマルクス主義の基本的な考え方にも、まっこうから対立するものだった。 人びとの利害なんか、そもそも交換の動機になっていない、と言うわけだから。「はじめての構造主義」 橋爪 大二郎 講談社現代新書
2015年12月23日
コメント(0)

われわれが「超過労働」と呼んでいるもの、つまり労働量が多すぎることを日本人は「残業」、すなわちやるべき仕事がまだ残っている、という。 アメリカ人やヨーロッパ人でも、仕事の種類によっては予定より時間がかかれば、こういうかもしれない。 例えば自分の庭に水まきする時や、自分の食器を洗う場合などだ。 つまりこれらの仕事は自由時間内のものだ。 しかし日本人は、主人の庭であっても、勤め先のホテルの食器であっても、ある程度は「自分の」庭、「自分の」食器とみなすのだ。 なぜならこれらは.「自分の」会社家族のものだからであり、会社家族の盛衰と彼は結びついており、一体化しているからである。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2015年12月23日
コメント(0)

「チンパンジーはもともと言語を使う能力があるが、 人間ほどうまく話せないだけであるという説は、 人間はもともと空を飛ぶ能力があるが、 鳥ほどうまく飛べないだけである というのと同じである」。 さらに、チョムスキーは次のように述べている。 「どこかの島に、飛べない鳥の種があったとして、 どうやって飛ぶかを教えてくれる人間を待っている ことがあるだろうか。 類人猿が言語の能力を持っていること を証明しようとするのは、 それと同じことである」 そもそも、 言語が何かの必要性から生まれた と考えるのは誤りである。 この点は、進化の議論によくある落とし穴だ。 鳥の翼は飛ぶために必要なものだが、 飛ぶ必要性から翼が進化したわけではない。 進化の遺伝的メカニズムには、 今西錦司(一九〇二~九二)が唱えた進化論のような、 「なるべくしてなる」という合目的性は存在しない。 鳥は、翼が進化したから飛べるようになったのである。 同様にして、人間は脳が進化したから 言語を使えるようになったのである。「言語の脳科学」 酒井 邦嘉 中公新書
2015年12月22日
コメント(2)

望ましい人生とは失敗や迷いのない人生ではなく、どんな困難にあっても、せめて自分を欺かずに、誠実に、自己を大切に生きていく人生である。 なにもかも知り尽くしている自己の前に、ひれ伏せるような尊い自己を持つ人生である。 これは、いかにうまく立ち回るかといことではなく、笑われてもそしられても、いかに悠然と素朴のままで清らかに生き抜くかということである。 あくまでも、この自己を大切にしよう。 この尊厳を知る者のみが、真に他人を尊敬し、他尊に徹しうるのである。「燃える青春」 平澤興 関西師友協会
2015年12月21日
コメント(0)

歴史はあまたの複雑な動因によつてうごくから、結果として生れたものをもつてこれがはじめからの所期されたものであつたとすることは、多くの場合にあやまつた判断となる。 別の似たような例をもつていえば、日本が「アジア解放」の懸聲をもつて無謀な戦争をつづけた後に、結果としてはアジア諸國が獨立することになつたが、これは日本の意圖からよりもむしろ歴史の成行からそうなつたにちがいない。 赤謀略説も、日本による現在のアジア解放説も、共にやはりある一つの觀點によつて歴史の仝體を體制化しようとしたものではないのだろうか? すくなくとも軍人は、やがて當初のイデオロギーによる國内變革はなげうつて、ひたすら戦争遂行の戦時體制の中に没頭してしまつたように思われる。 統制経済や生産擴大や「アジア解放」も、すべてその必要から生れたので、これが前述の企畫院事件の被告の説のような意味において、赤への手がかりとしてそこに「進歩的意義」を見いだされたものではなかつたろうか? そして、内外の「赤」はこの形勢を利用しうるかぎり利用した、ということではないのだろうか?「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2015年12月18日
コメント(0)

一般的価値観に対する違和感や抑圧感は、まだ、その人間固有のものであるにすぎない。 しかし、その違和感や抑圧感が、自分一人のものでなく多くの人間にとって普遍的に現われているという感受があるときに、ひとびとは、いわば社会の”矛盾”を直観することになる。そしてそのことは正当な理由をもっているのである。 なぜなら、一般的な(世界像)や価値観は、ある意味ではひとびとが生きる上での現実的な理由を構成しているものだが、それがまた多くのひとびとにとって抑圧的なものと感じられるとき、そのことは、人間の生に形式を与えているこの(世界像)(つまり共通の了解事項)が、矛盾を孕み普遍性を失っていることを意味しているからである。 そしてこういう場面で、ひとびとはこの(世界像)を編み変えてゆくべき現実的な動機を与えられるのである。 一般的に、「世界について」考える”思想”の動機は、こういう場面から発している。 どんな思想も、そういった人間の現実の場面から立ち上り、時代の中で(世界像)の新しい普遍性をめざす。 それはしたがって最終的に、ある社会的本質を持っている。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2015年12月17日
コメント(0)

科学者とはそのようなものだ、太陽と呼ばれるもののまわりを回りながら自転している地球というアイディアの場合のように、たとえ最終的な描像が驚くほど単純でも、山ほどもあるその細部の大部分はたいへん退屈で、ときには私たちが理解したいと努めている描像と全然かかわりがないように見えることもある。 いずれにしてもそのアイディアはもっともらしく見えるので、退屈な細部にわざわざ掛かり合う必要を認めないと感じる人たちもいるかもしれないね。 しかし、本当の懐疑主義者は抜け穴がありはしないかと、隅々まで調べたいと望むだろうが。「心の影」1 ロジャー・ペンローズ みすず書房
2015年12月16日
コメント(0)

人間の言語を特徴づけるものは、一言で言えば、「文法」である。 文法の規則に基づいて単語の組合せを変えることで、ほとんど無限に近い数の文を創り出せることが、言語の本質である。 言語が持つ文法そのものを明らかにするのが言語学の仕事だとすれば、なぜ脳が文法を決めることができるのか、という理由を明らかにするのが脳科学の役割である。 脳が言語を創ること、それが言語の問題の核心である。 そこで、言語を次のように定義してみよう。 「言語とは、心の一部として人間に備わった生得的な能力であって、文法規則の一定の順序に従って言語要素(音声・手話・文字など)を並べることで意味を表現し伝達できるシステムである」 従って、言語の研究は、人間の心の探究に他ならない。 さまざまな言語にふれるときに、その違いや共通性について考えてみるならば、きっと心の世界を広くかつ深く理解できるようになるだろう。「言語の脳科学」 酒井 邦嘉 中公新書
2015年12月15日
コメント(0)

わが国においては、外来思想に対して、その思想の価値、効用、役割を大づかみに判定するということをしない。 すぐにそれを非常に細かく読み込んで、細密に解釈する。 そこでは、外来思想を尊崇すべきものとする理念だけが先に立っている。 外来思想に対して、その全体像、構造を分析したのは、日本ではあとにも先にも富永仲基(なかもと)ただ一人である。 江戸時代中期の儒仏学者・富永仲基は、儒学思想や仏教思想について、その由来、発達経過等を批判的、分析的に解き明かした。 宗教や思想ができ上がっていくプロセスを方法論的に分析したのは、世界でも富永仲基ぐらいのものではないかと思う。 もちろん富永は例外中の例外で、概して日本人は外来思想を何でも無批判に取り入れてきたし、この性向は今でも変わるところがない。「嘘ばっかり」で七十年 谷沢永一 講談社
2015年12月14日
コメント(0)

原田日記にも西園寺公が昭和十一年につぎのようにいつたと記してある。 「何か現在軍に中心があれは大變都合がいいが……。 どうも現在どこに中心があるか判らない。 各種各所に中堅があるけれども、軍全體としての中心がほとんどないやうな状態になつてゐる。 嘗て斎藤前総理が來た時に、やはりいろんな陸軍の話が出て、『今の陸軍の中心はどこだ』と言つたところが、その常時から『どうも中心といふやうなものがないんで因つてをる』といふやうな話であつた。 それで斎藤も、『中心さへあればまたそれをどうにでもできるんだけれども、まことに困ります』と言つてをつた」 軍事と外交がばらばらで統一した國家意志がなく、強力な非有機體と化した軍隊が無限の大陸で戦争したのだから、國はまさに亡びるべくして亡びた、というべきであろう。「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2015年12月11日
コメント(0)

親族の基本構造は二つの二項対立から成ります。 つまり、どの世代をとっても、そこにはプラスの関係とマイナスの関係が対になって存在しているということです。 いったいなぜ、世界中のすべての社会集団にこの構造があるのでしょうか。 レヴィ=ストロースはこう答えます。 「この構造は考えうる限り、存在しうる限り最も単純な親族構造である。 まさしくこれが親族の基本単位なのである。 親族構造が存在するためには、人間社会につねに存在する三種類の家族関係――共通の父を持つ関係、婚姻関係、生んだものと生まれたものの関係――言い換えれば、兄弟姉妹、夫婦、親子――がそこに含まれていなければならない。」(『構造人類学』) 世界中のすべての言語音が十二ビットで表現できるように、世界中どこでも親族の基本構造は二ビットで表現できる、これがレヴィ=ストロースの仮説です。 この大胆な仮説によってレヴィ=ストロースが私たちに教えてくれることは二つあります。 一つは、人間は二項対立の組み合わせだけで複雑な情報を表現するということ。 もう一つは、私たちが自然で内発的だと信じている感情(親子、夫婦、兄弟姉妹のあいだの親しみの感情)が実は、社会システム上の「役割演技」に他ならず、社会システムが違うところでは、親族間に育つべき標準的な感情が違う、ということです。 夫婦は決して人前で親しさを示さないことや、父子は口をきかないのが「正しい」親族関係の表現であるとされている社会集団が現に存在するのです。「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2015年12月10日
コメント(2)

米ソの軋轢は、天皇が八月十四日に無条件降伏を受諾した後も続いた。 ソ連軍の満州、樺太への侵攻は、止まることなく継続された。 スターリンが千島(クリール)・北海道への攻撃を命令したのは、天皇のポツダム宣言受諾の後であることはあまり知られていないが、重要な事実である。 八月十五日から九月二日のミズーリ号での降伏文書調印にいたるまで、日本政府が戦争終結のための準備をしているその期間、スターリンとトルーマンのあいだでは、戦後の極東でいかに自己の立場を強めるかの駆引きが行われていた。「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」 長谷川 毅
2015年12月09日
コメント(0)

ひとは、自分が現にある社会の枠組の中で、それなりに目標と意味を見出して生きる限り、あえていままで自分が持っている(世界像)を一から考え直してみる必要はない。 ひとが深い意味で思想を問題とせざるを得なくなるのは、自らが抱えている一般的な(世界像)やその価値観そのものが、どうしても自分にとって和解し難いものと感じられるような場面においてである。 たとえば、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』というドラマにおいて、父親のウィリイ・ローマンは、成功したセールスマンに人間の価値のモデルを置いており、それを息子のビラに押しつける。 このドラマの悲劇は、能力のないセールスマンが、それにもかかわらず、あくまで資本主義的能力に人間の価値像を見つづけていることから来ている。 父親がその価値観を捨てれば、家族たちは和解できるのだが、彼は決してそれを捨てようとしない。 ここでは、彼の現実の存在と、彼の価値観が大きな確執を生じているのである。 こういうことは、およそ現在社会にあって人間の生き難さの普遍的な由来になっている。 それは社会が人間の生一般に与えている基本的な条件でもある。 思想は、人間が自分のうちに抱え込んでいる一般的な(世界像)に対する違和の意識から発し、この(世界像)や価値観に対する意識的な抗いの行為である。 彼は自分の中で、社会に重く蓄積されたこの(世界像)を編み変えようとすることを通じて、自分自身の生き難さを支える。 だからわたしたちは、優れた思想のうちに、必ず、ひとりの人間が、与えられた生の条件の中をどのように生きようとしたかという、個人の生の痕跡をも見るのである。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2015年12月08日
コメント(0)

それぞれの土地が地理的条件によって拡散性を帯びていないことも影響して、人びとはみずからの住む土地に対し深い、持続性のある愛着を持つことになった。 誕生から死にいたるまでの道が安定しており、自己の存在の是非をかけての移植の危険がなかったのは、単に個々の人間ばかりではない。 その土地に生れ死んでいった祖先たちは、精神的にはそこに生き続け、生のリズムを保ち続けて、近くの、また遠い、いずれは祖先としてまつられる子孫たちと深く結びついている。 だから現在生きている人びとの本質は、祖先のそれと密着しているのだ。 人びとは自然の無限の去来をごく身近なものとして受けとめ、自然の裡にあってその一部として生き、また死んでゆく。 家の背後にある竹薮や、稲田に注ぐ谷間の流れのそばの石や、そこに影を落す形よく老いた松などは、おばあさんも子供の時分に毎日見ていたものだし、今の子供たちが老人となった日には目を丸くしている孫たちに語ってきかせることなのである。 生を授け、護り、また破壊する力がここを支配している。 現れ方によっては謎でもあり美しい形式でもあるこの力を、人間は神聖なものとして受けとめる。 よきにつけ悪しきにつけ、人間はこの力に依存しており、自己の裡の自然性によってこの力と結びついているのだ。 これは神道の根底に横たわる生活感情である。 自然的なものはすべて(人間的なものであるか否かは明確に区別しない)肯定されるのであって、恐怖の対象ではない。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2015年12月07日
コメント(0)

「一に曰(いわ)く、和をもって貴(とうと)しとし、忤(さから)ことなきを宗(むね)とせよ。 人みな党(たむら)あり。 また達(さと)れる者少なし。 ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず。 また隣里に違(たが)う。 しかれども、上和(かみやわら)ぎ、下睦(しもむつ)びて、事を、論(あげつら)うに諧(かな)うときは、事理(じり)おのずから通ず。 何事か成らざらん。」 おたがいの心が和らいで協力することが貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。 それが根本的態度でなければならぬ。 ところが人にはそれぞれ党派心があり、大局を見通している者は少ない。 だから主君や父に従わず、あるいは近隣の人びとと争いを起こすようになる。 しかしながら、人びとが上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらはおのずから道理にかない、何ごとも成しとげられないことはない。「聖徳太子」日本の名著 第2巻 中央公論社
2015年12月04日
コメント(0)

國際關係や戦争には不幸な物理的法則というものがあって、叟方とも欲しないのに、その意思をはなれた勢いのせりあいがはじまる。 こちらが手段を講ずれば、相手もそれに對抗する手段を講ずる。 それに對してこちらもさらに對抗する手段を講ずる・・・…。 この「せりあい」がはじまると、もう後へは退けない。 退けば敗北である。 第一次、第二次ヨーロッパの戦争も大東亜戦争も、その原因にはこの法則が大きくはたらいた。 事實あの支那事變のあいだ、侵略をしていた日本人は、主觀的には侵略をしているとは感ぜずに防禦をしていると感じていた。 もし勝たなかったら亡國だ、という恐怖と焦燥をもっていた。 この聖戦を完遂しなければこれまでの成果は全部空しくなる。 今までたくさんの人々が英霊になり國帑を費やしたのに、いまさらどうしてその犠牲をむなしくすることができよう……! それは致命的な悪循環だった。「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2015年12月03日
コメント(2)

猪木は、その著『共産主義の系譜』(著作集1・力富書房)の中で、次のように書いている。 「従来わが国においては、何がマルクス主義であるかについてまじめに論議されたことすらない」 蓋(けだ)し名言、多くの共産主義理論研究の中で、このことをズバリと言い放ったのは、きわめて珍しい例である。 日本において、マルクス主義を紹介し、マルクス主義を研究し、マルクス主義を適用してマルクス主義者になろうとした人間は山ほどいた。 しかし、マルクス主義とは何か、それが果たして論理として成立するものかどうか、それに妥当性があるのかどうかを、初発にさかのぼって根本的に考えた人が、果たしてどれほどいたであろうか。 私の知る限りでも、ほとんど絶無と言ってもいい。 これは猪木正道の実に重要な指摘である。「嘘ばっかり」で七十年 谷沢永一 講談社
2015年12月02日
コメント(0)

わたしたちは誰も知らず知らずのうちに「世界について」考え、その全体像を思い描いているのだが、じつはこの(世界像)は自分自身で考えられ作り上げられたものというわけではない。 つまり注意すべきなのは、どんな人間にとってもたいていは、彼の(世界像)はすでに社会の中に存在している一定の(世界像)の中から選びとられるにすぎない、という点なのである。 これはどういうことだろうか。 (世界像)の本質は、それが個人を(社会)に関係づけ、彼を社会的存在として生かしめるという点にある。 これを(社会)の側からみれば、(社会)は、いわば(世界像)という装置によって、ひとびとが個的な日常を離れて社会に参入し、社会の秩序を、維持、発展させてゆくような回路を作りあげている、ということになる。 だがそのために必要なのは、(世界像)がなるべく一定のものであること、またそれがつねに社会の本質を守ってゆくようなものとして形成されることである。 こういう場面で(世界像)は、いわばイデオロギーの機能を果たすことになるのである。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2015年12月01日
コメント(0)
全19件 (19件中 1-19件目)
1
![]()

