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インディオの見方で、インディオ自身のことも、ヨーロッパ世界のことも、ずっと考えていけるじやないか。 現地に入ると誰でもいったんは、こういう心境になりかかるらしい。 レヴィ=ストロースがちょっと違うのは、それを帰国後もずっと自分の方法にしてしまったことである。 いうなれば、複眼思考だ。 片方の頭では、ヨーロッパの見方で、原住民をとらえる。 もう片方の頭では、原住民の見方で、ヨーロッパをとらえる。 これを両方やり続けることが、人類学者の使命だ、と実感したわけだ。 つまり、近代ヨーロッパ世界も、インディオの世界も、まったく同じ土俵のうえでとらえないといけない。「はじめての構造主義」 橋爪 大二郎 講談社現代新書
2015年11月30日
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「用兵の道は心を攻むるを上と為す。 城を攻むるを下と為す。 心戦を上と為す。 兵戦を下と為す。」(三国志・蜀志.馬謖伝) すなわち戦略というものは攻城兵戦にあるのではない。 武器をもって戦うのではない。 そういうものは下策であって、上策は相手の心を攻めるのだ。 心戦をやるのだ。 いいかえれぱ、思想戦、謀略戦、心理戦、冷戦である。 どうも日本は近来中ソから盛んに心を攻められ、心戦に追いまわされたといっても少しも誤りでない。「新憂樂志」 安岡 正篤 明徳出版
2015年11月27日
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「米國戦略爆撃調査團」の報告に 「一九三七年の華北進出は、大戦争になるという豫想なしに行われたのであつて、これは、本調査團の行つた多數の日本将校の訊問によつて確認された。 常時、国策の遂行に責任のあつた者たちがかたく信じていたことは、中国政府はただちに日本の要求に屈して、日本の傀儡の地位にみずからを調整してゆくであろうということだつた。 中国全土を占領することは、必要とも、望ましいとも、考えたことはなかつた。 ……全面的な軍事的努力は、一度も計畫されたことがなかつた」 しかも、パル刑事が判斷しているように、おそらく盧溝か永定河をもつて本格的な全面戦争ははじまつたのだつたろう。 そして日本は、このときすでにアメリカとは部分的戦争に入つていたのだつたろう。 自分ではそれを自覚しないながらに。「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2015年11月26日
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誰でも自分の子どもがあるグループによく適応し、そのグループの一員であり、同年代の友人たちに人気があり、ほめられ、愛されることを望む。 我々の大きな疑問は「どのグループに適応しているのか?」ということである。 ナチのグループか、犯罪者のグループか、不良のグループか、それとも麻薬常用者のグループなのか? また、誰に人気があるのか? 誰にほめたたえられるのか? ということである。 H・G・ウェルズのすぐれた短編に”The valley of the Blind” というのがあるが、そこではすべての人が盲目で、目の見える人は環境に適応していないのである。 適応とは自らの文化、外的環境に、自らを受け身的に形成することを意味する。 適応は、能動的というよりむしろ受動的な過程である。 その典型は牛や奴隷や、他の誰でも個性なしに幸福でありうる者たち、たとえばよく適応している狂人や囚人にさえも見られる。 この極端な環境主義は、人間の無限の順応性と柔軟性と現実の不変性を意味している。 それ故、現実の姿を言い当てているが、この環境主義は宿命論的であるといえる。 しかし、これもまた真実ではない。 人間は無限に順応するものではなく、また現実は変えうるものである。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2015年11月25日
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誰もはじめは、すでに成立している一般的な(世界像)や価値観の中に生み落される。 そしてまさしくそのことによって、この世の中を生きる現実的、具体的な理由を見出してゆく。 したがってこの(世界像)や価値観は、ひとびとが互いに関係し合って生きてゆくその基本のかたちを与えているのである。 だが、ひとは、生活のなかで、この(世界像)や価値観が自分の生を生き難くし、大きな苦しみをもたらしていると感じるような場面にほぼ例外なく出合うことになる。 たとえば勉強も出来ず、スポーツも得意でない人間にとっては、教育制度が形成する価値観は、抑圧的なものと感じられる。 むろんこの一般的価値観に対する違和感や抑圧感は、まだ、その人間固有のものであるにすぎない。 しかし、その違和感や抑圧感が、自分一人のものでなく多くの人間にとって普遍的に現われているという感受があるときに、ひとびとは、いわば社会の“矛盾”を直観することになる。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2015年11月24日
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今度の戦争の誘因の一つは、ルーズベルト大統領によってはじめられた経済制裁をおそれたことにあったのである。 その当否はともかく、日本は経済制裁によって日本の産業がマヒすることになれば、国内革命が起こりかねないと感じ、日本の産業帝国を維持するための基地を手に入れていわゆる“大東亜共栄圏“を永久に確保しようと考えたのである。「マッカーサー回想記」 下 ダグラス・マッカーサー 朝日新聞社
2015年11月20日
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女性の身体をいくらじっくり比べてみたって、「姉妹」(結婚不可能な女性)と「妻」(結婚可能な女性)で特に違うところがあるわけじやあない。 物理的・生理的存在としてなら、区別できないはずだ。 問題は、社会関係の違いなんだから。 これは、音素のときとよく似ている。 音声学は、音素をなんとか区別できないか、一所懸命やったけれども、成功しなかった。 音素と音素の対立は、物理現象のなかに根拠のない、恣意的な対立なのである。 これと同じで、ごしゃごしゃと暮らしている大勢のなかで、どういう範囲の女性が「姉妹」となり、どういう範囲の女性が「妻」となるかは、多分に恣意的な問題なのだ。 ここでモースの考え方を、思い出してみよう。 彼によると、“価値があるから交換する”じゃなくて、“交換するから価値がある”だった。 その伝でいくと、“タブーだから交換する”じゃなくて、“交換するから、タブーである”(あるいは、交換とタブーはメダルの裏表である)となる。 社会や親族を生きることを離れて、タブーもないわけだ。 社会関係を切り離して、インセスト・タブーを心理的な実体みたいに考えてしまってはいけない、ということがわかる。「はじめての構造主義」 橋爪 大二郎 講談社現代新書
2015年11月19日
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わけのわからない戦争が怪奇な様相をもって無限に擴大されていつまでも打切られず、ために兩國は消耗し、ついに中國は赤化され、中立を守っていたソ聯は最後になって日本の北を併呑し、日本國内は左翼のために動揺をつづけている。 もしこれがはじめからの企圖だったのなら、いかなるプログラムもこれ以上成功することはあるまいと思われるほどである。 三田村武夫氏の「戦争と共産主義」という本は、著者の警保局そのほかの閲歴から普通には知られなかつた豊富な資料によつて、あの歴史に踊つた人々の行動は自作自演ではなかつた、すべては自ら知らずして蔭の演出の筋書によつていたのだ、と説明してある。 奇矯のようだけれども、讀んでいて、すくなくともこれがかなり大きな部分的真理であつたことは説得される。「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2015年11月18日
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模倣は独創の母である。 唯(ただ)一人のほんとうの母親である。 二人を引離して了(しま)ったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。 模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。 僕は他人の歌を模倣する。 他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。 してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするはど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る。「モオツァルト・無常という事」 小林秀雄 新潮文庫
2015年11月17日
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日本社会党の党員の三分の一以上は、本来なら自民党から立候補したかったが、各選挙区には自民党のボスや既得権者がいるため公認がもらえず、それで社会党へ走ったと言われる。 要するに、かなりの人にとって、国会の赤い絨毯(じゅうたん)を踏むためには、自民党へ入る道もあれば、社会党へ入る道もある、どちらでもよかった。それが戦後の姿であった。 何らかの経緯でたまたま社会党に入った者は、社会主義者というお面を被り、社会党という筋書きの狂言を演じなければならなかった。 社会党というのは芝居の演(だ)し物で、見てくれる人がいる限り上演し続ける。 しかし、世の中の流れが変わって、その演目に人気がなくなれば、それまでの面を脱ぎ、別の面につけ替えて、別の狂言を演じる。 お面のつけ替えだけだから、簡単に転換することができる。「嘘ばっかり」で七十年 谷沢永一 講談社
2015年11月16日
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構造上の安定性は、形式が硬直することにもなりかねないし、形式感覚がまた安定性を高めるに一役買うことにもなる。 ヨーロッパでは、各王家や、諸民族、各宗教が長期にわたつて権力や国境の闘争を繰り広げてきたから、このような安定性はごく例外でしかない。 しかし日本では、これは秩序を保ってゆく上の不可欠の要素であり、将軍でさえも(そして今日では大会社の社長といえども)、これに沿ってやってゆかないことには自己の存在を危うくするばかりなのである。 もちろん日本の歴史の中には動乱もあったし、権力闘争も、領主とその一族の間の内乱も、寺社内部の派閥争いもあった。 しかし、これらの波乱も、近東や地中海、ヨーロッパ内で起った諸事件と比較する時、これを歴史の安定性と名づけてもさしつかえないであろう。 しかも二五〇年にわたる徳川の絶対統治下では、あらゆる動乱も影をひそめてしまった。 民族移動や遊牧民族の流浪、または祖国からの一種族すべての追放もしくは完全従属、もっとひどい時には一種族の撲滅運動や他種族支配など、ヨーロッパ内のこれらの動乱を日本は一度たりとも経験していないのである。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2015年11月13日
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「彼らのうちであれ、私たちのうちであれ、人間性のすべては、人間の取りうるさまざまな 歴史的あるいは地理的な存在様態のうちのただ一つのもののうちに集約されていると信じ込むためには、かなりの自己中心性と愚鈍さが必要だろう。 私は曇りない目でものを見ている という手前勝手な前提から出発するものは、もはやそこから踏み出すことができない。」(『野生の思考』) サルトルはまさに「その『我思う』の虜囚」としてレヴィ=ストロースに筆誅(ひっちゅう)を加えられることになります。 サルトルは「歴史」を窮極の審級とみなします。 それは未開から文明へ、停滞から革命へと進む、単線的な歴史プロセスの上ですべての人間的営みの「正否」を判定するということです。 しかし、レヴィ=ストロースによれば、サルトルが「歴史」という「物差し」をあてがって「歴史的に正しい決断をする人間」と「歴史的に誤りを犯す人間」を峻別しているのは、「メラネシアの野蛮人」が、彼ら独自の「物差し」を使って、「自分たち」と「よそもの」を区別しているのと本質的にはまったく同じふるまいなのです。 「サルトルが世界と人間に向けているまなざしは、『閉じられた社会』とこれまで呼ばれてきたものに固有の狭隘さを示している。」「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2015年11月12日
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近衛公は舊勢力と新勢力のあいだにあって、政治家とインテリの苦悩を味わった人らしいが、戦争末期にいたって、すべては赤に引きずられた、その思うとおりになった、と述懐している。 梅津將軍まであやしかった、といつている。 次に引用する「高松官への上奏文」もそういう感想の一つである。 「抑々満洲事變、支那事變を起し、之を擴大して遂に大東亜戦争にまで導き來れるは、是等軍部一味の意識的計畫なりしこと今や明瞭なりと存じ候。 満州事變常時、彼等が事變の目的は國内革新にありと公言せるは有名なる事賓に御座候。 支那事變常時も、『事變は長引くがよろし。事變解決せば國内革新は出来なくなる』と公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。 是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は國體の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意圖を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存じ候。 此の事は過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思ひ當る節頗る多きを感ずる次第に御座候」「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2015年11月11日
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人と生まれては、高きも賤(いや)しきもせねばならぬものは学問なり。 学問をせねば吾が身は生まれ付いたる善あることも得知らずして、他の人の徳あるもなきも弁(わきま)へず、又昔を盛んなりとも今を衰へたりとも知らず、いたずらに五穀を食ひて、前むきてあゆむばかりのわざにては、犬猫といはんも同じ事なり。 (「何傷録(かしょうろく)」 真木和泉(まきいずみ))「東洋人物学」 安岡正篤 致知出版
2015年11月10日
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「世界について」なんらかの像を持つということは、じつは人間が現代社会で生きるうえで基本的な事実であり、人間はまさしくそのことによってのみ、(社会)という目に見えないもの(日常のむこうの世界)と自分とを関係づけているのである。 だから(世界像)とは、じつは個々の人間のうちにあって、しかも個々の人間を社会的な存在として関係づけている根本の原理なのである。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2015年11月09日
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五五年体制における社会党の基本的政策なるものは、執って譲らざる絶対の主張ではなく、「ただ、そう言ってみただけ」のことであったにすぎないのではないか。 これを称して、「うどん屋の釜」と言う。 うどん屋の釜の中には、麹を湯掻(ゆが)くためのお揚しか入っていない。 元来、釜というのは、調理すべき米などを炊くためのものだが、うどん屋の釜に限っては、入っているのは湯うだけ=「言うだけ」。 つまり、ただ言うことだけに意味があるという意味の酒落言葉である。 今の時流の中では、そう言っておくことが自分たちにとっては有利である――社全党のこれまでの主張は、この考え方に基づいたものであったとしか考えられないのである。「嘘ばっかり」で七十年 谷沢永一 講談社
2015年11月06日
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世界のあり方は、言語と無関係でなく、どうしても言語に依存してしまうのである。 われわれはつい、言語と無関係に、世界ははじめから個々の事物(言語の指示対象)に区分されているもの、と思いこみがちだ。 ところが、そんなことはないので、言語が異なれば、世界の区切り方も当然異なるのだ。 ある言葉が指すものは、世界のなかにある実物ではない。 その言語が世界から勝手に切り取ったものである。 また、言葉がなにを指すかも、社会的.文化的に決まっているだけである(自然現象のなかに根拠がない)。 別なふうでも(たとえば、水を「湯」とよび湯を「水」とよんでも)、ちっとも構わなかったのである。 こういう特徴をソシュールは、言語の「恣意性(しいせい)」とよんだ。 (もつとも、言語や記号のなかには、このいみで必ずしも「恣意的」といえないものもまじっている。 たとえば、自然の音をまねした擬音語であるとか、毒薬の壜(びん)に貼るドクロの記号など。 これらは、指示するものとのあいだに実質的なつながりがあって、恣意的でないから「有縁的」という。)「はじめての構造主義」 橋爪 大二郎 講談社現代新書
2015年11月05日
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ソ聯が東西において資本主義国同士を戦わせて、その疲労消耗に乗じて赤い地域をひろげることを欲していたことは疑えないし、そういう事態に導くべく手を盡したことも疑えないし、また事實その思う壷の結果にもなつた。 日本の国内にも、尾崎秀實のような有力な地位にあつてこの目的のためにはたらいた人もいて、国家の最高方針をモスコ一に通じていた。 「私はこの第二次世界大戦の過程を通じて世界共産主義革命が完全に成就しない迄も決定的な段階に達することを確信するものであります」。 この人の戦争についての見透しはじつに正確だつたが、その口供書には眞におどろくべきことがのべられてある。 「私の立場から言へば、日本なり獨逸なりが簡単に崩れ去つて英米の全勝に終るのでは甚だ好もしくないのであります。 (大體両陣営の抗戦は長期化するであらうとの見透しでありますが)萬一かかる場合になつた時には英米の全勝に終らしめないためにも、日本は社會的體制の轉換を以てソ聯、支那と結び別の角度から英米に對抗する姿勢を採るべきであると考へました。 此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑壓せられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考へたのでありまして、私は従来とても南方民族の解放を『東亜新秩序』創建の絶封要件であるといふことをしきりに主張して居りましたのはかかる含みを籠めてのことであります。 この點は日本の国粋的南進主義者の主張とも殆んど矛盾することなく主張される點であります」 この「含み」は、まさに的を射たのだつた。 さらに、企畫院事件について讀むと、その被告の官吏たちは、戦争の長期化と國の戦時體制化に「進歩的意議」を認めていた。 「一、 日支事變が東亜民族をして、英米佛等の民族的搾取から解放せんことを重要目的として居た戦争に進歩的意義を發見し、 二、 叉前述の如き高度の體制を採ることは同時に次期の共産主義社會機構の基礎的體制を整備するものであつて社會發展の歴史的方向に向つて居ること 三、 戦時體制の強行は生産力の發展を阻害しっつあつた半封建的生産関係を除去する過程を履まざるを得ないこと 等の進歩的性格に魅力を持つて居りました」「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2015年11月04日
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竜の巻にこういう事をいっておる。 「敵に勝つには無形に勝つ。 上戦は与に戦ふなし」。 本当の勝利というものは無形に勝つものである。 最上の戦略は決して正面衝突をやるものではない。 すなわち「与に戦ふ」事はない。 いかにして戦わずして勝つかという事が竜の巻の所説である。「新憂樂志」 安岡 正篤 明徳出版
2015年11月02日
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