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レトリックというと、修辞学です。 修辞学というと、一般には、単なる言葉の遊びにすぎないという誤解がありますが、実は人と人との関係を知的に構築するための方法なのです。 なぜ修辞学があるかというと、世の中には真理かどうか分からないこと、正しいとか間違っているとか客観的にはっきりしないことがあって、それを相手に対して説得する時には論理ではない修辞を使って納得させるしか方法がないからです。「私の人生観、歴史観」 渡部昇一 PHP
2015年07月31日
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G・オーウエルの作品を好んで読んだことがある。 そして彼が英国や英国人を語る時、よくわが日本を反省させられた。 彼曰く、最近数十年に於けるイギリス生活の支配的な事実の一は、支配階級の能力の低下ということである。 特に一九二〇年から四〇年にかけては、それが化学反応の様な速さで起りつつあった。 何故か支配階級は堕落した。 能力を、勇敢さを、遂には強情さまで失って、外見だけで根性の無い人物が立派な才幹を待った人物として立てる様になった。 ――けれども一九三〇年代からして起った帝国主義の一般的衰頽、又ある程度までイギリス人の士気そのものも衰頽したことは、帝国の沈滞が生んだ副産物の左翼インテリ層の所為であった。 現在忘れてならないのは、何らかの意味で左翼でないインテリは居ないということである。 彼等の精神構造は各種の週刊月刊の雑誌を見ればよくわかる。 それらのすぐ目につく特徴は一貫して否定的な、文句ばかり並べて、建設的な示唆が全く無いことである。 料理はパリから、思想はモスクワからの輸入である。 彼等は考え方を異にする一種の島をなしている。 インテリが自分の国籍を恥ぢているという国は大国の中ではイギリスだけかも知れない。 国旗を冷笑し、勇敢を野蛮視する。 こんな滑稽な習慣が永続できないことは言うまでもない。 等々各方面にわたって公平辛辣に観察しながら、最後はイギリスがそれとわからぬくらいに変っても、やはりイギリスはイギリスとして残るであろうと論じている。(England Your England) 日本をまざまざと反省せしめられる。 日本解脱の一公案である。「活学 第三編」 安岡正篤 全国師友協会
2015年07月30日
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「テクストとは『織り上げられたもの』という意味だ。 これまで人々はこの織物を製造されたもの、その背後に何か隠された意味(真理)を潜ませている作られた遮断幕のようなものだと思い込んできた。 今後、私たちはこの織物は生成的なものであるという考え方を強調しようと思う。 すなわちテクストは終わることのない絡み合いを通じて、自らを生成し、自らを織り上げてゆくという考え方である。 この織物――このテクスチェア――のうちに呑み込まれて、主体は解体する。 おのれの巣を作る分泌物の中に溶解してしまう蜘蛛のように。」(『テクストの快楽』:ロラン・バルト) この「蜘妹の巣」(ウェブ)の比喩は、現にウェブ上をゆきかうさまざまな情報とその発信者の関係を期せずしてみごとに言い当てています。 私たちはインターネット・テクストを読むとき、それが「もともと誰が発信したものか」ということにほとんど興味を持ちません。 誰が最初に発信したのであろうと、それはインターネット上でコピー&ペーストされ、リンクされているあいだに変容と増殖を遂げており、もはや「もともと誰が?」という問いははとんど無意味になっています。 問題は、それを私が読むか読まないか、読んだあと自分のサイトにペーストしたり、発信元のサイトにリンクを張ったりするか、という読み手の判断に委ねられています。 これはバルトの言う「作者の死」とかなり近い考え方です。「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2015年07月29日
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死んだ形態を認識する方法は数学的法則である。 生きた形態を理解する方法は類推である。 この方法によって世界の両極性と周期性とが区別される。 世界史の出現形態の数が限られていて、時代、新紀元、位置、人物が類型にしたがって繰り返されるという考えはいつでもあったしまたあるのである。 ナポレオンの出現は、カエサルとアレキサンドロスとを同時に考えないではほとんど取り扱われなかった。 この比較のうち前者は、後で述べるが、形態学的にいって許されないが、後者は正しい。 ナポレオン自身、自分の位置とシャルルマーニュの位置との似ていることを知っていた。 フランス国民議会がカルタゴといった時には、それはイギリスを意味していた。 そうしてジャコバン党員は自分をローマ人と称した。 当たっていたか、いなかったかは別としてフィレンツェはアテナイに、仏陀はキリストに、原始キリスト教は近代社会主義に、カエサル時代のローマ富豪はヤンキーのそれに比較された。「西欧の没落」第一巻 O・シュペングラー 五月書房
2015年07月28日
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皆が本当に正しいと信ずることだけを発言することによって、おのずから客観的妥当性のある国民的合意もでき、その中にこそ真のデモクラシーによる歯止めもできるのでしょう。 「本当はこうなのだが、それを言うと世論がつっ走ってしまう」あるいは「世論がソ連をおそれてフィンランド化する」、だから「この程度を言っておこう」という「バランス感覚」は民衆の判断力に対する不信であって、デモクラシーの原則に反します。 故椎名悦三郎氏が口癖に言っておられた「それ民は賢にして愚、愚にして賢」であって、大衆の良識というものは無視できないものがあります。 「自分はインテリだから大丈夫だが、他の人はすぐ右傾する」というエリート意識で独善的に情報操作をすると、かえって大局を誤るおそれがあります。「戦略的思考とは何か」 岡崎久彦 中公新書
2015年07月27日
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『神道指令』は、神道の禁止だけを目的としたものではありませんでした。 『神道指令』が日本および日本人に命じた事柄は三つありました。 それは、神道に加え、皇室の伝統、そして歴史教育を全面否定することでした。 ですから、今日でも、かつて占領軍を「解放軍」と見た左系のマスコミや政治家は、「神道」「皇室」「歴史教育」の問題となると、常軌を逸した攻撃・批判をしようとするのです。 しかし考えてみると、この三つはいずれも日本という国について日本人が考えようとするときの核心にあたるものではないでしょうか。 どこの国でも大切にするはずの「国としての核心」を、この国では何としても「忘れさせようとする力」がいまだに強く残っているのです。「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」 中西輝政 PHP新書
2015年07月24日
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あらゆる悪弊の本を抜き源を塞がねば、世は到底救われるものではない。 しからばその諸悪の本源は何か。 相衿るに知を以てし、相軋るに勢を以てし、相争うに利を以てし、相高ぶるに技能を以てし、相取るに声誉を以てし、財政経済を処理する者は軍事刑罰の権まで兼ねようとし、文化を典どる者は人事行政にまで関与しょうとし、地方官は中央にあこがれ、監察官は大臣になりたがり、そのために百方その手段を講ずる結果、折角の思想学術が要するに悪を長じ、偽を飾るに役立って、口では皆天下国家のためと言うけれども、その実、それでなければ自分が成功しないという腹である。「古典を読む」 安岡 正篤 明徳出版社
2015年07月23日
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「ことばづかい」が「エクリチュール」です。 エクリチュールとステイル(文体)は違います。 ステイルはあくまで個人的な好みですが、エクリチュールは、集団的に選択され、実践される「好み」です。 例えば、中学生の男の子が、ある日思い立って、一人称を「ぼく」から「おれ」に変更したとします。 この語り口の変更は彼が自主的に行ったものです。 しかし、選ばれた「語り口」そのものは、少年の発明ではなく、ある社会集団がすでに集合的に採用しているものです。 それを少年はまるごと借り受けることになります。 さて、この「ぼく」から「おれ」への人称の変化はそこにとどまらず、たちまち彼のことばつかいの全域に影響を及ぼします。 発声も語彙もイントネーションも字体も、みな変化します。 それどころか、髪型、服装、晴好品から生活習慣、身体連用にいたるまで、少年は「おれ」という一人称に相応しいものに統制する無形の圧力を感じずにはいられません。(「熊ちゃんのパジャマ」のようなものを着て寝るわけにはゆかなくなるのです。)「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2015年07月22日
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正常という言葉はしばしば、伝統とか習慣とか因習などの類語として、無意識的に用いられている。 そして通常、その伝統を全く承認するということを意味する。 私は大学時代、女子学生の喫煙に関する騒ぎがあったことを覚えている。 女子学生の喫煙は正常ではないと女性の学生部長は言い、それを禁じた。 その当時は、女子学生にとってはスラックスをはくことも、人前で親愛の情を示して手をにぎりあうことも正常ではなかった。 もちろん、学生部長の意味したのは「これは伝統的なことではない」ということであり、それは全く正しい。 しかし、それに加えて「これは異常であり、病的であり、本質的に病理的である」という意味も暗に含むのであるが、これは全く誤りである。 数年後、伝統は変わり、彼女は免職させられたが、これはその時には彼女のやり方が「正常」ではなくなったからである。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2015年07月21日
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代議士同士が腕力闘争まで繰り広げることもある――当然のことながら、弱い方の野党が強い方の与党に喧嘩を売るのである。 それでも彼らは全体として一家族であることに変りはない。 野党がどんなに「甘え」を悪用しても、である。 与党がここで絶対多数の権力を押し通し、採決にもちこむことは日本人の気質に合わない。 会社の中でボスが命令しないのと同じく、政府もまた与党案の政策を一般に承認されたという調和の状態にまでもってゆかねばならないのだ。 日本の憲法は欧米の民主主義精神を基としてつくられているし、議会は多数決による政党政治が行なわれているから、選出された国民代表が全員一致の理想をまっとうすることはあり得ない。 欧米の民主主義ではごく当然のことになっているが、どこかで必ずなんらかの「暴力」をふるわないことには日本の議会といえどもやってゆけない。 少数派の意見が踏みにじられ、支配する「父親」の専制に頭を下げざるを得ない。 これはやっぱり心苦しいことだ。 だから総会でも委員会でも、大衆やジャーナリズムに向けて、舞台の上では目立つように、楽屋裏では日立たぬように、できるだけ多くの反対者と了解がつくように腐心するのだ。 政府側はぎりぎり一杯の妥協をする一方、可能な限り世論を動かし、少数派に対しては繰り返し「黄金のかけ橋」を用意する。 これらはほとんどの場合成功しないし、成功する見込みさえない。 それでもいちおう最後まで演じ通さなくてはならないのだ。 というのは、調和の理想に向って少なくとも政治的または経済的理由からこれ以上引き延しができないという時点まで最大の努力をし、必要な限りの敬意を表さなければ民衆はもとより代議士さえも、耐えがたい冷酷なシニスムスと感じとるからである。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2015年07月17日
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日本の知識の問題については、佐和隆光氏のすぐれた論考で解き明かされているように、フローとしての知識とストックとしての知識との相剋を、いまの日本はもて余しはじめている(佐和隆光『文化としての技術-ソフト化社会の政治経済学』岩波書店 一九八七年一三六ページ以下参照)。 現代の日本においては、佐和氏がいうように、「ストックとしての知識にかわって有効性をいや増すのが、ほかでもないフローの知識である。 ビジネスマンは他人に先んじてフローとしての知識を獲得することにやっきとなる半面、ストックとしての知識にたいしては、さしたる敬意を払わなくなるであろう」。 このような知識社会学的状況は、世界との対話を困難なものにしているのである。 なぜなら、異質な社会同士は、「ストック」としての普遍的な知識の在庫を確認しあう共通の作業を介して相互の対話を重ねるほかはないからである。「フローの文明・ストックの文明」 矢野暢 PHP
2015年07月16日
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群吏朋党し、各々親しむ所を進め、姦枉を招き挙げ、仁賢を抑へ挫き、公に背き、私を立て、同位相訕(そし)る。 これを乱源と謂ふ。 「群吏朋党し」、多くの役人が徒党を作って、「各々親しむ所を進め」、自分の親しい人間だけを推薦して、「姦枉を招き挙げ」、姦、すなわち悪がしこい、枉は曲がっておる。 悪がしこくて、曲がっておる人間を招き挙げ、「仁賢を抑へ挫き、公に背き、私を立て」、同じ地位にあるものを相そしる。 これを乱の源と謂う。「新憂樂志」 安岡 正篤 明徳出版
2015年07月15日
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多くの法律家が、ニュルンベルグ裁判で法が遡及して適用されたことを指摘している。 少なくとも私は、ニュルンベルグで断罪を受けたフォン・リッペントロープが、誰もが知っている事実、すなわち共産主義者の恐るべき残虐行為について知っていたことを、知っている。 それは、一万二千人のポーランド軍士官(捕虜)の殺害のみならず、三万八千人の赤軍将校の虐殺や数百万のロシア人の残忍な粛清とについてである。 もちろん、強制収容所などで、無実の人々を殺したようなドイツ人たちは、彼らの野蛮な行為に対し、当然有罪を宣告されるべきである。 しかし、私は、ロバート・タフトと同じく、常々、外務大臣や、陸・海軍の首脳を彼らの権限外の残虐行為で責任を問うことの合法性に対し疑いを持っている。 それではマーシャル元帥やアイゼンハワ一大将、あるいはハル国務長官は、ドレスデン空襲で死んだ十五万人のドイツ人の死に対し責任があり、トルーマン大統領と彼の補佐官たちが、長崎・広島に対する厚爆投下により死んだ十二万人の日本人の死に責任があるということになる。 もちろん、各個人は、おのおのの戦争犯罪に対し責任を問われねばならない。 しかし、もしニュルンベルグ裁判の目的が、侵略や戦争犯罪、そして残虐行為に対する何か確固とした基準を確立することにあったとすれば、一九三九年に、ナチのポーランド侵攻の二週間後にポーランドへ侵入したソ連の裁判への参加は、裁判を正義に対するはなはだしい茶番劇としてしまったのだった。「日米・開戦の悲劇」 ハミルトン・フィッシュ PHP
2015年07月14日
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人間は巨大な外界の中にいて、みずからもその一部分である。 しかし、人間はこの外界の事實の動きにただ機械的にしたがつているのではない。 それに順應したり反撥したりして、意欲し行動する。 これによつて外の事實にあたらしい展開がおこり、そのあたらしい展開に對し.てさらに人間は反應する。 「科學的」解釋は、歴史の中に人間の主體的意思を認めず、この事實には目をふさいで上のような交互作用による各段階の展開ということを考えない。 それは硬い圖式を擬制して、人間はあらゆる段階においてつねに同じ目的のために意欲し行動して、この圖式を完成するとしている。 複雑な現象の中からただ一つの要素のみをとりだして、これによつて固定した世界像を組みたてている。 しかし、自分のはじめからの圖式を完成しうる者はいない。 歴史は意外な展開をする。 行きすぎ、過誤、外國の反撃とそれへの對抗、勢い、偶然…‥などがからみあつて、しまいにはヒョウタンから駒が出たような結果になつてしまう。 昭和十年ころには、誰が、對米・英・彿・蘭……ソ戦を豫想していたろう! 誰がその準備をしていたろう!「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2015年07月13日
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私たちは「エクリチュールの囚人」です。 バルトが言うとおり、「エクリチュールが自由であるのは、ただ選択の行為においてのみであり、ひとたび持続したときには、エクリチュールはもはや自由ではなくなっている」のです。 ここでバルトが警告しているのは、あまりに広く受け容れられたせいで、特に「どの集団固有のエクリチュール」とも特定しがたくなった語法の持つ危険性です。 「無徴候的なことばづかい」、それが「覇権を握った語法」です。その語法はその社会における「客観的なことばづかい」です。 つまり、何らかの主観的な意見を述べたり、個人的な印象を語ったりするのではなく、客観的に、私情を交えずに、価値中立的に語っているつもりでいるときに使うことばづかいがそれです。 バルトは、そのような一見価値中立的に見える語法が含んでいる「予断」や「偏見」に注意を促しています。 「価値中立的な語法」のうちにこそ、その社会集団の全員が無意識のうちに共有しているイデオロギーがひそんでいる「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2015年07月10日
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日本方式が確実に成功しているのは、なにも魔術によっているわけではない。 今日ヨーロッパやアメリカではチームワークや労働者の経営参加などの問題について理論化したり、イデオロギー化したりする試みがかなり苦心しながら行なわれている。 しかし必ずといっていいほど嫉妬深い人間の強い自己顕示欲や、支配欲の権化のような連中の命令癖、労資の間に深く根ざした不信感がこのような試みを失敗に終らせている。 しかも今日企業体の多くは非常に複合した組織になつているので、ただ一人の人間ではすべてを見通すことができないのが実状である。 テクノロジーの問題、市場および消費者心理、納入会社や購買会社の複雑な分岐的実状、さらに為替問題による国際的相互依存関係など、いかにすぐれたボスといえども有能な専門家、協力者の助けなしにはやってゆけないし、彼らを無視して「孤独な支配者」たらんとすれば、結果は惨憺たるものになってしまうだろう。 だからボスが自己栄誉心が強く専制的であればあるほど、彼の部下たちはご機嫌を損ねまいとの考えと権力に対する恐怖から、ボスに口を合せることしかしなくなるだろう。 しかもその下の部署でのやり方も、まったく同じ危険にさらされるわけである。 日本人のやり方はまったく異なっている。 彼らの果てしない会議は時間を浪費しようとしてやっているのではない。 各階層内と各階層間で軋轢のないようにうまくチームワークをとってゆくようコントロールしているのだ。 と同時に、彼らは、明確には制度化はされていないものの一種の労働者の経営参加を実現しているのであり、問題によっては企業内の労働組合の代表者も仲間に入れるのである。 長い時間をかけてゆくうちに統一体としての意思が徐々に形成されてゆき、たとえ無関心であったり、敵愾心をもっている個々の人間が下の層にいたとしても、それらにまさった経営方針がうちだされるのだ。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2015年07月09日
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日本はあの戦争について、開戦の時期、戦線の規模はおろか、そもそも開戦するか否かさへも選ぶことができなかつたのである。 大本営参謀本部が開戦を決意したのは、米国の対日石油全面禁輸によつてであり、米国が禁輸にふみ切つたのは、米国側がほぼ開戦の準備をととのへ終つたからであつた。 すなはち、開戦の決定を実質的に下したのは、大本営でも天皇陛下でもない。 米国政府だつたのである。 実際のところ、われわれは、次々に駒をすすめてくる米国に、後手後手の対応をするのが精一杯といふ有様であつた。 自ら企画した「大東亜戦争」を青写真の通りにおしすすめるどころか、その青写真をまともに作り上げる暇さへ与へられなかつたのである。 われわれがアジアの人々を、いはば向う岸においたまま戦はねばならなかつたのは、かへすがへすも無念なことであつた。 しかし、われわれの「大東亜戦争」は本当に潰えたのだらうか? 戦場となつた旧植民地はすべて戦中、戦後、独立をとげ、再び白人の手に落ちたものはなかつた-この事実をどう考へるべきであるか? 戦後われわれはこれを「あの忌はしい戦争の偶然の副産物」と習つて来た。 つまりどういふことかと言へば、たしかに昭和十八年の「大東亜共同宣言」は「大東亜を米英の桎梏より解放してその自存自衛を全うし」とうたつてゐる。 また実際に戦つた人々に聞いてみても、当時はこれは「大東亜聖戦」でアジア解放の戦ひと思ふて戦つとりましたが、と言ふ。 そして現にアジアは解放された。 しかし前者と後者の間には何の因果関係も見出してはならぬ、と言つてゐるのである。 奇妙な論理である。「からごころ」 長谷川三千子 中公文庫
2015年07月08日
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ルーズベルトの政策は、鳥が巣とひなを敵の攻撃からそらすために、翼が折れたふりをしているようなもので、自分は平和を愛し、戦争を憎むと宣言しながら、心の中では戦争を考えていたのである。 つまり彼は公然とごまかしを行なっていたのだった。 「戦いは彼の心の中にあった。彼の言葉は油よりもなめらかであったが、剣は抜かれた」(旧約詩篇55・21)。 もしルーズベルトがアメリカの参戦をちらつかせて英仏をけしかけて欧州情勢に干渉したりしなかったならば、ダンチヒ問題は平和的に解決され、破滅的戦争は回避されたであろうし、その結果、両国の植民地権益も守られたであろう。 アメリカ国民は、ナチズムを嫌悪はしていたが、メーメルやダンチヒの領有権や他のベルサイユ条約によって獲得された領土のために、自分たちの子供を戦争に送り出すことには反対であったし、共産主義とソビエトを守るために子供たちが虐殺されることにも、また英仏の植民地権益を守ることにも反対であった。 史上最も専制的な国家であるソビエトと英仏が同盟しているということからして、このヨーロッパでの戦争は自由と民主主義のために戦われたのではなく、世界の覇権と植民地帝国維持のための戦いであった。「日米・開戦の悲劇」 ハミルトン・フィッシュ PHP
2015年07月07日
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それ主将の法は務めて英雄の心を攬(と)り、有功を賞禄し、志を衆に通ず。 人の上に立って多勢を使う者の心得というものはこの二言につきると申してよい。 「主将の法は英雄の心」つまり雑輩を相手にしてもつまらない。 えらい奴の心をぐつと握るという事が大事である。 つまらない人間のご気嫌を取って空人気をしめた所で何にもならない。 しっつかりしたえらい奴の心を握って、そして「有功を賞禄し」、手柄のある者におしげもなく褒美をくれてやって、それと同時になさんと欲するところ、つまり志である。 なさんとする志を多勢の者に通ずる。 「通」というこの一字が字眼で、大事である。 如何に衆に志を通ぜしめるか、わがなさんとする志を衆に通ずるか、これを単にP・Rと考えるのはだめ、いくらP・Rしたって通じはしないのであって、通ずるにはやはり、自からそれだけの道がある。 それは具体的な問題として、とにかく通じなければ――えらい奴の心をとるだけではいけない。 同時に、衆に通じなければいけない。「新憂樂志」 安岡 正篤 明徳出版
2015年07月06日
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多くのグループ内では、はっきりしたタテ組織があり、親と子の関係になぞらえて、「親分」「子分」に分れている。 その中間に位置する者は、親分より低く、子分よりは高い。同じ職場のサラリーマンや労働者仲間でも、年齢と職歴年齢(両者はたいていの場合同じだ)に応じて、敬意を表する度合が異なる傾向がある。 欧米でみられるように、下の者が上の者に対して下僕が主人に対するのと同じような関係、つまり上層部が支配的な強い権限を有しているのであれば、このような上下関係による秩序は社会を固定化するし、社会の機構を麻痺させる。 しかし日本では年長者も上役も支配することをしない。 彼らの関係はちょうど親子のそれと同じだから、下に立つ者が依存しているのは上の者のもつ権力に対してでなく、「愛情」になのだ。 だから下に立つ者、弱者は相手を頼りにしてよいわけである。 「タテ社会」の二面性は特に夫婦の間で顕著にみることができる。 妻たちは外面的には夫たちに依存している召使のようにみえる。 ところが実際には、夫はかつて母親に甘えていたのと同じように妻に甘え、彼女の「奉仕」に対して自己を「依存する者」にしてしまう。 「上」と「下」は相互の依存関係だが、「母としての愛」と「子としての孝」の関係は相互に制限する機能をももつ。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2015年07月03日
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「権力」ということばを単純に、「国家権力」とか、それがコントロールしている各種の「イデオロギー装置」という実体めいたものとしてとらえてはならないということです。 「権力」とは、あらゆる水準の人間的活動を、分類し、命名し、標準化し、公共の文化財として知のカタログに登録しようとする、「ストック趨向(すうこう)性」のことなのです。 ですから、たとえ「権力批判」論であっても、それが「権力とはどのようなものであり、どのように機能するか」を実定的に列挙し、それを「カタログ化し、一覧的に位置づけ」ることを方法として選ぶ限り、その営(いとな)みそのものがすでに「権力」と化していることになります。 フーコーは「権力批判」の理説を立てた、というふうに要約することはフーコーのほんとうの企図を逸することになります。 フーコーが指摘したのは、あらゆる知の営みは、それが世界の成り立ちや人間のあり方についての情報を取りまとめて「ストック」しようという欲望によって駆動されている限り、必ず「権力」的に機能するということです。「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2015年07月02日
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「いいかね小倉君、住友と言うと君は単なる企業に過ぎんと思うかも知れんが、住友の精神は、ただ儲ければそれでよいという、いわゆる商業主義とはいささか違っておる。 住友は、社会国家のため役立つ事でありながら、ふつうの事業家が乗り出せないような困難な仕事をするためにこそあるのだ。 だからいくら儲かっても、社会国家の役に立たぬ事なら一切手をつけぬだけの誇りを持っておる。 そこで住友の資本力と組織力を、社会国家のために役立つ事業に捧げたい。 しかも、それで社業が栄えたなら、こんな結構なことはない。 これが住友なんだよ」「逆命利君」 佐高信 講談社
2015年07月01日
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