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かつて日本は大きな戦争を起して敗けたが、このとき多くのひとびとにとって、戦争は避け難い厄災のように訪れた。 なぜ戦争が起るのかという問題は、ひとびとにとってほぼ日常の努力を超えたもののように現われていたからである。 だがそういう事態が生活にとって耐え難いものとしてやってくるとき、当然人間は、この大きな苦しみの原因となっているものを思い描き、そのことによって以後それを避けようと努力するはずだ。 人間は、生活のうちでの耐え難い苦しみが、日常を超えた大きな社会の枠組からもたらされていると感じるとき、この社会の枠組を改変してゆこうと努力する。 そのとき社会の全体像を思い描き、その仕組をなんらかの形でとらえようとする。 この場合、思い描かれた全体像が客観的に正しいかどうかはさしあたり問題ではない。 ひとはともかく実験として大きな矛盾の原因と結果を思い描き、その原因に働きかけてみる。 こういった思い描きを欠くならば、社会に対して実践的な関係をとるということそれ自身がそもそも不可能だからである。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2015年10月30日
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私が『共産主義的人間』で最も感動したのは、「ちぬらざる革命」(一九四九年発表)です。 ソ連が東ヨーロッパに武力で革命を輸出するわけですが、そこを見事に、実に短い文章ですけれども、書いている。 スターリンが東ヨーロッパを戦車、軍事力によって共産化した、そのことによって世界中のほとんどの共産主義者は全部堕落した、と。 つまり、己の能力で、己の苦労で革命を起こさなくても、大きな共産主義国家に進駐してもらったらいいわけです。 だから日本の共産主義者は、全員が、東ヨーロッパ方式を明らかに脳裏に置きましたね。 そして、スターリンの軍隊と毛沢東の軍隊が日本列島にやって釆てくれれば、それですべては「プロレタリアートの天国」になるわけです。 そのために「ヤンキー・ゴー・ホーム」。 戦後、日本左翼の行動様式の発想の根源はすべて東ヨーロッパの問題にあると、そこまで林さんははっきりと言うてませんけれども、私は分かりました。「「名著」の解読学」 谷沢永一 中川八洋 徳間書店
2015年10月29日
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英語のfreedomの訳語である「自由」という日本語は、どちらかというと「勝手気まま」の意味が強く、欧米言語でのように「依存と従属からの自由」「市民としての自由」が第一義ではない。 個人としてまったく孤立し、他の何者にも護られることも属することもなく、己れ一人のみを頼みとして生きる、という考えは、日本人にとって決して喜ばしいものではなく、かえって恐ろしいことなのだ。 だから孤独とか、疎外とか、拒絶などの言葉はマイナスの意味をこめて表現される。 子供っぼい「甘え」の依存のうちに、気ままにしてよいという自由は、欧米の理想である「自由」と正反対のものだ。 今日の日本人は自由という言葉を欧米直輸入の自由の概念にも使ってはいる(例えば自由主義的、教養雑誌の表題として)。 しかし大部分の人びとは危険な「勝手気まま」の意味に近いものとして受け取っている。 民主主義を教えたアメリカ人たちの考えたのはまったく違ったものだったし、彼らは責任ある成人としての人間像を思い描いていたのだ。 日本人の感情的願望は、一人立ちできない子供でありたいということだ。 彼らにしてみればグループに属しているのは、制限を受けるとはいえ、現実としての生きる拠(よ)りどころだから、自由な個人として自己正当化しつつ生きてゆくというあり方は魅力的な空想の遊びでしかない。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2015年10月28日
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ソシュール以前の言語学は、歴史的研究(すなわち、言語のあれこれの特徴が、どういう順序で変化してきたか、という研究)に目を奪われてしまっていた。 これに対してソシュールは、ことばが意味をもつ(言語として機能する)のに、歴史など関係ないではないか、と言う。 ふつうにことばを話すのに、そのことばが過去どのように用いられてきたか、いちいち知らなくても平気だ。 ある時点で、ある範囲の人びとに規則が分けもたれていれば、それで十分である。 つまり、言語の機能を知るのに、その歴史を捨象する(わざと考えないようにする)ことができる。 歴史を捨象して、ある時点に釘付けにした言語の秩序を、共時態という。(それに対して、共時態からつぎの共時態へ、変化していく言語の姿を、適時態という。) 言語学はまず第一に、共時態を研究対象とすべし、とソシュールは言った。 これだけでは、限定がまだ不十分である。 そこで彼は、こう続ける。共時態のなかでも、人びとに共通に分けもたれている規則的な部分(ラング)を、まず対象にしよう。 そして、個々人にゆだねられている部分(バロール)について考えるのは、あと回しにしよう。 これでだいぶ、研究対象が限定された。「はじめての構造主義」 橋爪 大二郎 講談社現代新書
2015年10月27日
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冠位十二階の順序が、徳がまず上ですけれど、それから仁・礼・信・義・智となっていることにもあらわれています。 普通は、五常というのは仁・義・礼・智・信の順序ですね。 その順が狂っているわけですが、そのわけは、いわゆる五行思想によって、五行の木・火・土-金・水にあてはめると、仁・礼・信・義・智という順になるのだという説がある。 同時に、これは聖徳太子の理想を表明したものなので、やはり仁のつぎに礼を太子は重んじたのだ。 太子は「群卿百寮礼をもって本(もと)とせよ」と『十七条憲法』にも言われているとおり、礼をたいへん重視された。 また「信は義の本」とも憲法に言われて、信をつぎに重んじられた。 だから五常の普通の順序ならば信は仁・義・礼・智・信と最後になりますが、それを信を上にもってきて、仁・礼・信・義・智と智を最後にしています。 これが聖徳太子の理想なのだという説と両方あるのです。 わたしは五行思想の順序にしたがったのだけれど、同時に聖徳太子の理想にもかなっていたから採用したのだろうと、こう思うわけです。「聖徳太子」日本の名著 第2巻
2015年10月26日
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「未開人の思考」と「文明人の思考」の違いは発展段階の差ではなく、そもそも「別の思考」なのであり、比較して優劣を論じること自体無意味である、ということでした。 『野生の思考』の冒頭に、ある人類学のフィールドワーカーが現地で雑草を摘んで「これは何という草ですか?」と現地の人に訊ねたら大笑いされた、というエピソードが引かれています。 何の役にも立たない雑草に名があるはずもないのに、それを訊ねる学者の愚行が笑われたのです。 ソシュールの用語で言えば、この雑草はこの部族では「記号」としては認知されていなかったのです。 それは彼らに植物学的な知識がなかったという意味ではありません。 それぞれの社会集団はそれぞれの実利的関心に基づいて世界を切り取ります。 漁労を主とする部族では水生動物についての語彙が豊かであり、狩猟民族では野獣の生態にかかわる語彙が豊かです。 「用語の抽象性の差異は知的能力によるのではなく、個々の社会が世界に対して抱く関心の 深さや細かさはそれぞれ違うということによるのである。」(『野生の思考』)「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2015年10月23日
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「兵は凶器」であるが、「知識もまた凶器」たりうるものだ。 はっきり言えば、「生きているものは、すべて凶器」たりうる可能性をもっている。 そのことを、目をそらさず直視するところから戦争学は考察されるべきだろう。 まして、「人間の集団」は、ほっておけばかならず無用の戦争をひき起こす習性をもつという事実を認識し、それを防止する万全の策をかねて講じておくこと、ひとたび、そのような事態になったときは、「理由のいかんをとわずかならず勝つ」という準備を物心両面でととのえておくべきである。 戦いには断じて負けてはならないのである。「悪の戦争学」 倉前盛通 太陽企画出版
2015年10月22日
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人間がこの社会で生きてゆくことは、そのむこう側にひろがっている世の中の、直接には目に見えない関係の網の目に、大なり小なり自分を関わらせることを含んでいる。 学問するにしてもなんらかの仕事をするにしても、ひとはこの目に見えない網の目(社会の関係)を知識や情報のかたちでひとびとと共有することによって、はじめて社会的な共同生活を営むことができる。 教育が果しているのはまさしくそういう役割であって、現代社会において人間は、必ず誰でも自分の具体的な日常世界のほかに、概念の網の目としての(社会)といういわば“言葉の国”を持っているのである。 わたしたちは、この社会に生きるうち、さまざまなものに成る(自己実現をとげる)。 そのことによってこの社会の関係の中に編み込まれるが、それを実質的に支えているのは、驚くべきことに、あの概念(言葉)の網の目にほかならない。 誰もが、自分の脳裡に知らず知らず編み上げている(世界像)に媒介されて、はじめて多くの見知らぬ人々と関係を結んでいるからである。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2015年10月21日
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昔から人間は万物の霊長である、というふうにいわれていますけれども、その最も身近な意味は現に眼の前にあるものに対して先ず「これはどこから・どうしてここに置かれるようになったのであろうか」というようなことを反省し吟味して、十分納得した上でなければ手出しをしない、というのが人間の人間たるゆえんである、という意味であろうと思われます。 どんな未開人でも必ず何がしかの神話や伝説なもっていますが、神話や伝説というものは、もともと、そういう反省あるいは疑問に答えて納得させる役割を果すものなのであります。 つまり、自分たちはどうして・どういうふうにして現に今ここにこうして住んでいるようなことになったのであろうか、自分たちの祖先はいったいどういう人たちだったのであろうか、又この土地・この川.あの山はどうして出来たのであろうか、――これらの疑問に答えようとするものが神話や伝説にほかならないのでありますから、人間の生きているところ、必ず神話や伝説が見出されるというわけなのであります。「青年と思想」 淡野 安太郎 文教書院
2015年10月20日
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そもそも明治以前には、仏教、キリスト教という用語も使われておらず、仏教は「仏法」として、キリスト教は「耶蘇(やそ)」あるいは「伴天連(ばてれん)」として、儒教(じゅきよう)は「儒学(じゆがく)」という言葉で呼ばれていた。 内容も日本なりに変質(へんしつ)をしてしまい、吸収されていったのだが、では、世界的に普及(ふきゆう)しているイスラム教、またインドで大きな勢力を持っているヒンドゥー教はどうだったか。 非常に不思議(ふしぎ)なことに、あれほど宗教的に優(すぐ)れているイスラム教は、中国や東南アジアまでは来ているのに、日本には入って来なかった。 この驚(おどろ)くべき事実は、極(きわ)めて重要なことのはずだが、誰(だれ)も研究(けんきゆう)していないのも、これまた不思議(ふしぎ)。 ヒンドゥー教は、あまり知られてはいないことだが、実質的(じつしつ)には日本にずいぶん入って来ている。 こういうと、日本人はみんな驚嘆(きようたん)する。 ヒンドゥー寺院(じいん)なんて見たことないし、信者(しんじや)も知らないのになぜなのかと。 実は、日本に伝わっている仏教説話(せつわ)のなかには、ヒンドゥー教の話がたくさん混(ま)じっているのである。 仏教の章で詳(くわ)しく説明するが、輪廻転生(リんねてんせい)も、もともとヒンドゥー教をはじめとするインド古代思想(しそう)の発想で、日本人が抱(いだ)いている輪廻転生(りんねてんせい)のイメージというのは、仏教よりもむしろヒンドゥー教のそれに近い。 そのうえ、十二支(じゆうにし)、七夕(たなばた)なども古代インド宗教のものだが、日本人でそうと意識(いしき)している人はほとんどいない。「日本人のための宗教原論」小室直樹 徳間書店
2015年10月19日
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この書物は、私の思うに、ひとつの時代の終わりを告げるものだった。 フランス人の多くが無意識に感じはじめていた、ある時代の終わりを、はっきり宣言するものだった。 ヨーロッパを中心とする時代の終わり。 帝国主義と植民地支配の崩壊。 あるいは、西欧中心主義、理性万能主義がついに行き詰まって、解体に瀕(ひん)していること。 それでもなければ、むかしマルクス主義の掲げた希望が、よれよれの紙くずとなり果ててしまったこと。 そんなことを、はるか辺境の、未開の地からようやく帰りついたしょぼくれ人類学者が宣告するのである。 ユダヤ人の、遅れてきた青年。 彼のもの言いは、露骨なものではなかったが、それだけに、心ある人の胸にはずしりと響くのだった。「はじめての構造主義」 橋爪 大二郎 講談社現代新書
2015年10月16日
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カントという哲学者は、そもそも思想とは何かということについて、面白い言い方をしている。 彼は、およそ人間がものごとを思想的に考えるいろんなかたちは、うんとつきつめると結局次の三つのことに大別されてしまうと言う(『純粋理性批判』)。 一、自分について。 二、世界(宇宙)について。 三、神について。 このうち、「神について」という項目は、現在にはうまく当てはまらないかも知れないが、わたしなりに翻案すると、「理想」や「美」についてということになる。 さて、「自分について」と「世界について」という項目は、現在においても思想上のもっとも大きな問題であることに変りがない。 しかも、この一と二は、(私)と(社会)というかたちで、切り離すことのできない密接な相関性を持っている。 だがあえて言うと、現代思想の主流は、二の「世界について」という項目に重点がかかっている。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2015年10月15日
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神道を国家から分離した理由は、神道の教義が世界平和に敵意あるものであり、日本の超国家主義、軍国主義および侵略主義も国家神道のカルトに根づいており、それによって精神が汚染されているという連合国軍指導者たちの理解によるものであった。 連合国軍の指導者たちは、右翼過激派が国民を洗脳し、天皇を制御する権力を獲得し、法律を支配し、教育を統制し、宗教を管理し、日本国を全面的崩壊の淵に追いやったのは、現津神(あきつかみ)たる天皇、神国、神の地などの概念を中心に作られた国家神道のカルトによったと考えたのである。 「神道指令」の第一節において、宗教課長ウィリアム・K・バンス博士は、このカルトを「神道ノ教理並二信仰ヲ歪曲シテ日本国民ヲ欺キ侵略戦争へ誘導スルタメニ意図サルタ軍国主義的並二過激ナル国家主義的宣伝二利用」したものと呼んでいる。 連合軍は、平和主義的で民主主義的な日本を作るためには、他の手段とあわせて神道を国家から分離することが必要だと考えていたのである。「天皇と神道」 ウィリアム・P・ウッダード サイマル出版
2015年10月14日
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欧米の「システム」にせよ、日本のそれにせよ、人間がそれぞれの社会の枠の中で個々の人間として、また人間相互の関係においてどのような大人に成長してゆくかに大きな差があるのは明白だ。 土居健郎はアメリカ滞在の初めの頃の体験を書いているが、彼は、例えば夕刻に招待された折などに、人びとが互いにひっきりなしに喋ってばかりいて、言葉以前の、いわゆる無言のうちのコミュニケーションというものがまったく欠けていることに気づいてたいへん驚いた、というのである。 私は土居ともども友人宅に夕食に招かれたことがあったが、その時にも彼が著書の中で書いていたこの個所を思い返していた。 話の合間合間に、客と主人夫婦の間に言葉には表れない真の心の通い合いがあるのを私も認めざるを得なかったからである。 深い人間的なつながり、人情のあるところ、つまり話のたっぷり半分くらいを占める敬語やら椀曲謙譲表現やらのさまざまの美辞麗句の類の飾り物を使わなくてもよい場合には、日本人はわれわれヨーロッパ人やアメリカ人に比べてずっと言葉少なになる。 多くのことははっきり結論されないままに終り、必ずしも知性や論理の照明をあてられない場所で、いわゆる「行間を読む」行為がなされる。 この空間の充実は日本の文学や絵画にみられるものと同じである。 われわれ欧米人は明確な意識をもった個人として頭から頭へのコミュニケーションをすることに慣れている。 これは感情を抑えて意見の交換をするための条件だとみなされているからだ。 日本人は高度のインテリたちの間でさえ、言葉によって補われ刺激されはするものの、決して抑圧されたり固定化されたりすることのない「腹から腹」の交流をするのだ。 彼らは相互に論証し合うということをしない。 なぜなら大切なことは、個人としてそれぞれが自分の意見を主張することではなく、相互に感覚的に理解し合い、相手を受け入れることだからである。 内面からの光はいわゆる主義主張より重みをもっているのだ。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2015年10月13日
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キリスト教の「愛(アガペー)」は、真(まこと)に驚(おどろ)くべき教義(きようぎ)である。 それは、何千年ものイスラエルの宗教がのぼりつめた「苦難(くなん)の僕(しもべ)」の教説から発生した。 そして、全世界を包み込むほどのエクスタシーを発散し、資本(しほん)主義とデモクラシーと近代法を生んだ。 仏教の「空(くう)」は、人類が到達した最深、最高の哲理(てつり)であろう。 それは、形式論理学(ろんりがく)、記号論理学(ろんりがく)をも超越している論理を駆使(くし)していることが、最近明らかにされてきた。 「空」は、最近の社会科学、自然科学を比喩(ひゆ)として用いるとき、初めて鮮明(せんめい)に理解(りかい)されるであろう。 イスラム教は、キリスト教が未発達のまま残した不完全な教義(きようぎ)を補って完全なものとした。 イスラム教では、仏教、儒教(じゆきよう)、キリスト教とは違って、ユダヤ教徒と共に宗教的戒律(かいりつ)、社会規範(きはん)、国家の法律(ほうりつ)とが全く同一である。 このことは、最高の連帯(ソリダリテ)は何(なん)であるか、アノミーを防ぐためには如何(いか)にすればよいかを教えてくれる。 しかも、この完璧(かんぺき)性こそが近代化を阻(はば)んだ。 近代化への疑問が噴出(ふんしゆつ)している昨今、イスラム教の二面性は大きな示唆(しさ)を与えることになろう。 儒教が本当に日本に入ってきたのは、戦後、特に昭和三〇年代以降である。 科挙(かきよ)と同型の受験地獄によって日本の教育は崩壊(ほうかい)し、官僚制は腐朽(ふきゆう)して、日本は滅亡の劈頭(へきとう:先端)に立っている。 これもすべて、法治(ほうち)であるべき官僚(かんりよう)制が人治(じんち)に堕(だ)したからである。 儒教(じゆきよう)の誤解によって、ことここに至(いた)った。「日本人のための宗教原論」小室直樹 徳間書店
2015年10月09日
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文化的相対性もまた、正常なとか、望ましいとか、好ましいとか、健康なといった言葉の定義の源としては陳腐なものと考えられよう。 人類学者たちはもちろん、民族的優越感の思想に気づかせることに当初大いに貢献した。 ズボンをはくとか、犬を食べないで牛を食べるというようなあらゆる種額の地域的文化的な習慣を一つの文化として絶対的で人類に広く通用する規準に高めてきている。 より広範囲にわたって人種学的に洗練され、これらの諸概念の多くは追い払われ、民族的優越感の思想は非常に危険なものであることが一般的に認識されている。 今や、文化人類学について何かを知っていたり、少なくとも一〇や二〇の諸文化について知っているのでなければ、そしてそれ故、自分の文化のうえに立ち、また自分自身の文化から一歩離れ、そうして人類を一つの種として判断し、近隣の一群として判断しないようにならなけれは、すべての人類について語ることは誰にもできない。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2015年10月08日
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乱臣を養うてこれを迷はし、美女淫声を進めてこれを惑はし、良犬馬を遺つてこれを労(ねぎ)らひ、時に大勢を与へてこれを誘ひ、上察して天下と与にこれを図る。 「乱臣を養うてこれを迷はし」、その国を乱すような人物にひそかに手を入れて、ワイロを使ってこれを養い、「美女淫声を進めてこれを惑はし」、淫声というのはみだらな音楽、それから「良犬馬」、犬や馬、艮犬馬を使ってこれらを労らい、つまり相手方にいろいろのワイロを使って、懐柔する事である。 ここまではまだあたりまえの事で、この次に、なるほどという事を論じておる。 「時に大勢を与へてこれを誘ひ」、これが大切な事で、ワイロをやったり、いろいろ腐敗させる政策をやったりしても、時に人間だから反省するが、そこで、一方大勢を与える。 これは例えば、今日のソ連、中共も、世界史の進行は必然的に資本主義社会を行きづまらせて、社会主義社会を作る、最後に歴史の必然は共産主義社会になるのだ、すなわちわれわれの天下になるのだ。 われわれはそいつを少しでも早く埋葬してやるのだ、と。 これが今の「大勢を与へる」ことである。 こういうふうに時の勢というものがある。 お前たち、ぐづぐづしたらバスに乗り遅れるぞ、という事を教えてやる。 誘惑する。「新憂樂志」 安岡 正篤 明徳出版
2015年10月07日
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書物の世界に入り込み、そこに書かれていることを理解してゆくということ。 これはよく考えてみると、じつに奇妙な体験だと思えてくる。 書かれた言葉(エクリチュール)によって、わたしたちは、それまで全く知らなかった、概念の世界というものに足を踏み入れる。 自分もまた、それにならって言葉を組み立ててみる。 すると、鏡の国の中に入り込んだアリスがそこでさまざまなものに出逢い交渉するように、この言葉の世界の中で、わたしたちもまた現実に生きて動き出すのである。 思想の世界は、この鏡の中の国に似ている。 わたしたちは、日常世界という自分の部屋から、この部屋の中では決して体験できない“むこう側”の世界に入ってゆく。 だがたいていの場合、鏡の中の世界にずっと住み続けることはできずに自分の部屋に戻ってくる。 そのときになってはじめて、その世界の奇妙な意味合いに思い惑うことになるのだ。 思想を考えるうえでむずかしいのは、この不思議の国の奥深さや神秘さを究めることではない。 それはどれほど複雑に見えても人間が作ったものにすぎないから。 むしろ、いちばん困難なのはわたしたちが自分の部屋に戻ってきたときに感じる、あのとまどいの意味をうまくつかむことのほうなのである。 わたしたちは、一冊の書物を開けば、どこからでも言葉の国に入ってゆくことができる。 そういう意味で、それはたしかにわたしたちの日常世界の内側に実在しているのだが、しかし、その世界は、日常とは全く異った現実性と秩序を持って存在している。 たとえばわたしは普通のひとに較べれば、多少はこの思想の世界について多く知っているのだが、そもそもそれはどういうものか、わたしたちの日常に対してどういう意味を持っているのかと問うてみると、たちまち答えに窮してしまう。 思想の世界について多くを知っていることと、それがいったいなんであるかを考えて見ることは、全く別のことなのである。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2015年10月06日
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私たちはみな固有の歴史的状況に「投げ込まれて」います。 例えば私は日本人ですので、そのことだけを理由に旧植民地の人から「戦争責任」を追及されることがあります。 私自身が戦争に行ったわけではないのですが、私の生まれたこの国が半世紀前に犯した行為に、私は私の意思とかかわりなく「結びつけられて」おり、それについて謝罪するのか居直るのか無視するのか、はっきりしろとあちこちで迫られます。 「私は知らない、私は関係ない、私は中立がいい」と泣きごとを言って責任を逃れることは私には許されていません。 これが「参加(アンガージュマン)」(engagement原義は「拘束されること」)という事態です。 私の置かれている歴史的状況は、非中立的で、「待ったなし」で私に決断を求めてきます。 いったい何が起こりつつあるのか、自分はどう決断するのがいちばん「正しい」のか、それについて百パーセント客観的で正確な情報が私に提供されるということはありませんから、こちらとしては、断片的なデータと、直観を頼りに決断を下すしかありません。 「正解」を知らぬままに決断を下すのですから、判断を誤ることもあるかも知れませんが、「よく分からないままに決断したのだから」という理由で責任を回避することば許されません。 このいささかパセティックな決断が「参加する」(s’engager原義は「自分を拘束する」)と呼ばれます。「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2015年10月05日
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今(こ)の代(よ)にし 楽(たぬ)しくあらば 来(こ)む生(よ)には 蟲(むし)にも鳥(とり)にも 吾(われ)はなりなむ 大伴旅人(おおとものたびと) (万葉集) この歌をきいて、外国人はみんな吃驚仰天(ぴつくりぎようてん)する。 朝鮮・韓国人も中国人も、南の国々の人々も中近東(ちゆうきんとう)の人々も、欧米人も、死生観(しせいかん)は宗教が決める。 来世(らいせ)に、尖鋭(せんえい)な関心をもたない人は、まずいない。 日本人だけが例外である。 だから、日本は無宗教国になったのか。 世界は一つになったといわれるが、宗教を理解(りかい)しないと世界の人々と付き合っていけない。 宗教によって行(おこな)いが決まる。 宗教が違えば、当然(とうぜん)、行いが違ってくる。 しかし、宗教が違っても人間はみんな同じであると思い込んでいる日本人には、ここのところがピンとこない。 何(なに)も考えないで、どこまでも日本流で押し通すから、外国人はすぐさま面食(めんく)らって、日本人は奇妙奇天烈(きみようきてれつ)な人種だから付き合いきれないと思う。 日本人は世界で孤立(こりつ)して交流も取引も困難になる。 世界の人々は、この世がどんなに苦しくとも、来世(らいせ)でよいところにゆくために努(つと)める。 しかし、日本人に限って、この世が一番よくて来世(らいせ)なんかどうでもよいと独(ひと)り合点(がてん)しているのである。「日本人のための宗教原論」小室直樹 徳間書店
2015年10月02日
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木の五衰といって、植木栽培の哲学がある。 幸田露伴も「洗心廣録」という本の中で面白く説いておりますが、木の衰える原因を五つ挙げて警(いまし)めておるわけです。 先づ衰えの始りは懐(ふところ)の蒸れ。 枝葉が繁茂すると、日当りや風通しが悪くなって、懐が蒸れる。 懐が蒸れると、どうしても虫がつく。 そうして木が弱って伸びが止まる。 これを梢(うら)止まりという。 伸びが止まると、やがて根上がり、裾上がりといって根が地表へ出て来る。 そうなると必ずてっぺんから枯れ始める。 所謂梢枯(うらが)れというものです。 これが五衰でありますが、中でも根上がり、裾上がりが一番いけない。 そこで土をかけたりして、出来るだけ根が深くなるようにしてやるわけです。 この現象は花の咲く木も、実の成る木もみな同じことでありますが、特に人間から言って名木というような木ほど陥り易いものである。「活学 第三編」 安岡正篤 全国師友協会
2015年10月01日
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