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平常の自警、別に条件有り。 一身の病痛固(もと)より百千を数ふ。 然れども、 已上(いじょう)の数項最も切なるのみ。 大病今に依然として未だ除かず。 故に此れを書して以て自ら警(いまし)む。 但(ただ)我れの見識、 所謂(いわゆる)道学のみに非ず。 所謂文儒のみに非ず。 所謂英雄のみに非ず。(余甚だ英雄を愛す、其の作為に至つては自ら別有り。) 所謂宇宙間の千流万家のみに非ず。 乃(すなわ)ち 開闢(かいびゃく)以来の第一人のみ。「東洋人物学」 安岡正篤 致知出版
2016年06月30日
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武力が政府の政策としてとりあげられた。 それもはじめは平和手段が見込みの ないことが分つたときの 最後の手段としてであつたが、 ついにこれが直線的な方針となつた。 軍人は満洲事變を計畫して起した。 その後の政府はこの軍の機能に反對していた。 しかし、曖昧な役を演じた軍部大臣により、 軍人の威嚇により、 もつとも有力な平和主義者の暗殺によつて、 相ついで力を失つた。 このころの日本の政治家は、 國内に暗殺や革命によつてその目的を達しよう としている勢力があることを、 考慮しなくてはならなかつた。 證據は、全期間を通じて 内乱と革命の危険が切迫していたことを 示している。 木戸が、満洲事變の軍人の行為に封して 天皇が反對意向を表明しないようにとすすめ、 西園寺公の生命を心配して 東京から離しておくべきだと判断したころから、 最後に終戦決定を憤慨する近衛兵の叛亂をさけて 石渡宮相と共に地下室にかくれたときまで、 この危険が存したことを認めることができる。 日本の政治家は ただ外國からの壓力に對處するだけではなくて、 國内からの壓力にも對處しなくてはならなかつた。 軍人の認可なくしては何事もなされえなかつた。 かくて、すくなくとも外見から見れば、 すべての政治家は軍人の希望に合致して 行動したこととなつた。「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2016年06月29日
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伝統は宿命ではない、と記した。 もちろんすべての民族はその伝統の上におり、 それを離れての「抽象的人間」などは 現実には存在していない。 ただ人間は、 自らの伝統を知識として再把握することによって、 その呪縛から脱して これを批判研究の対象とすることができ、 それによって、伝統から新しい将来へと 踏み出すことができるのである。 これが、 「人間は未来に対して後向きで進んで行く」 という状態であり、 これができるのは人間だけであって、 そして進歩とは実は、 その一歩一歩の積み重ねにすぎない。 このことはもちろん、 未来計画を否定することではない。 しかしその計画が単なる空想なら別だが、 現実性あるものであり得るには、あくまでも、 知識化して再把握した伝統を基とすべき であることは言うまでもない。 時代を変革した思想とはすべて このようにして形成され、 この点では、マルクスとて例外ではない。 もちろんその思想を体系化して 世に提供することは、 例外者の仕事であったろう。 しかしそのことは、 以上の視点を各人がもつ必要がない ということではない。 思想とは元来、各人のうちにあるものであり、 それが新しい変革を招来するのであって、 それを体系化して世に提供しうるか否かの 問題ではないからである。「受容と排除の軌跡」 山本 七平 主婦の友社
2016年06月28日
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わたしたちは誰でも、 社会のしきたりにのっとって仕事をし、 (家)を築き、安定した立場を踏み固めようとするが (それは(死)の不安の打ち消しを意味する)、 一方で娯楽や気ばらしなしにはやっていけない と感じている。 ところでこの娯楽や気ばらしの欲望は、 どこかで必ず「美」や「エロス」や「ロマン」に かかわっていることがわかる。 これは、わたしたちはじつは、 生きるのに必要な条件を満たしたのち、 余った力をただ「美」「エロス」「ロマン」のために 消費(浪費)しているということである。 これは普遍的な事実でないだろうか。 なぜ人間は、より美しいもの、 より魅惑的なもののために、言い換えれば、 単に生の条件を整えるという点では 意味のないもののために消費するのだろうか。 その理由は、人間の欲望が単に 「孤独」や「絶望」の打ち消し として存在するだけではなく、 むしろそれを超え出ようとする可能性のうちに エロス性を求めるものとして存在するからだ、 と言うことができよう。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2016年06月27日
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十に曰く、こころのいかり〈忿〉を絶ち、 おもてのいかり(瞋)を棄てて、 人の違うことを怒らざれ。 人みな心あり。 心おのおの執るところあり。 かれ是(ぜ)とすれば、われは非とす。 われ是とすれば、かれは非とす。 われかならずしも聖にあらず。 かれかならずしも愚にあらず。 ともにこれ凡夫のみ。 是非の理、誰かよく定むべけんや。 あいともに賢愚なること、 鎖の端なきがごとし。 ここをもって、かの人は限るといえども、 かえってわが失(あやまち)を恐れよ。 われひとり得たりといえども、 衆に従いて同じく挙(おこな)え。「聖徳太子」日本の名著 第2巻 中央公論社
2016年06月24日
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この海戦について ブローデルは次のようにいっている。 西欧側の《レパント海戦の勝利は、 その後につけ、それ以前につけ、 ある悲惨の終りを告げている。 つまりキリスト教世界がもっていた トルコ(やイスラム世界)への劣等感に 終止符が打たれ、 その優位が逆転したということなのだ。 キリスト教国側の勝利は、 大いに暗くなりそうな 未来の道を断ち切ったのだ》と。 ここには歴史家として、 ヨーロッパに加担する態度が はっきりしている。 トルコが勝っては、未来が暗くなるのだ。 この勝利によって、 イスラム支配の悲惨が終りを告げた と述べる姿勢には、この意味を無視した 十八世紀の啓蒙思想家ヴオルテールよりも、 ヨーロッパ主義者を任じていることが はっきりしている。「歴史のかたち 日本の美」 田中 英道 徳間書店
2016年06月23日
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余固(も)と言辞を慎まず。 人と言ふに必ず我が底蘊(ていうん)を道(い)ふ。 秘匿を顧慮する所無し。 多く機事を泄(もら)す。 且つ疑怒を惹(ひ)く。 自今波言せず。多談せず。 豁達(かったつ)洞徹の中、 必ず患を防ぎ終を慮(おもんばか)るの意有り。 且つ胸中の磊塊(らいかい:わだかまり)、 人に向つて吐く所の者は、宇宙間二三人に過ぎず。 容易に凡流の与(ため)に吐出する勿れ。 家に在つては簡黙寡言、 妻児奴婢(ぬひ)と雖も浪言すべからず。 戯謔(ぎぎゃく)する勿れ。 大言する勿れ。 非笑する勿れ然れども亦た或は其の時有り。 切に之を漫為(まんい)すべからず。 人の短を談ずる勿れ。 他邦人及び古人と雖も、 亦た容易に訾(し)議侮笑すべからず。 此の一項甚だ緊要なり。 平常工夫を下すも、未だ行ひ得ず。 須(すべから)く進修克治、 溺(でき)を拯(すく)ひ 焚(ふん)を救ふが如くなるべし。 寛慢なるべからず。(古賀穀堂)「東洋人物学」 安岡正篤 致知出版
2016年06月22日
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「フロー」は、情報化社会の哲学として 決定的な意味をもつことになろう。 いわば稀少的な価値をもつ文化財ですら、 いったん情報化され、記号化されたときには、 一瞬にして万人の共有物になりうるわけである。 その意味で、「フロー」の極限的状態は、 記号化された情報の最高速度での流通である といえよう。 注意しなくてはならないのは、 情報はとかく蓄積ないし在庫という モチーフで考えられがちだが、 それはまちがいであって、 情報はとどまるところを知らない急速な流れ として考えられなくてはならない、 ということである。 感覚としていえば、 「ストック」は 永遠性、耐久性、権威性を示唆するし、 「フロー」のほうは 消耗性、短命性、大衆性を示唆するようである。 人間の性としていえば 「ストック」感覚のほうが自然であって、 「フロー」のほうは不経済で、不安定で、 不毛であるかのように思われがちである。 しかし経済的には「フロー」のほうが はるかに生産性に富んでいる点が とかく見逃されやすいのはなぜだろうか。 そしてなによりも、 人びとを自由にするのは 「フロー」のほうなのである。「フローの文明・ストックの文明」 矢野暢 PHP
2016年06月21日
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第一に、これらの諸欲求と諸能力を阻害すると、 精神病理的状態が生じる。 すなわち、人々を病気にする。 第二に、神経症的な欲求の満足は 健康な人格を育てないが、 これらの諸欲求や諸能力の満足は 健康な人格を育てるものである。 すなわち、人々をより健康にし、より良くする。 第三に、それらは自由な状況のもとでは、 自発的にそれら自体を種々の選択物として示す。 第四に、それらは相対的に健康な人々を 直接的に研究することによって明らかにされうる。 もし、基本的なものとそうでないものとを 区別しょうとするならば、 意識的な諸欲求を内省したり、 無意識的な諸欲求の叙述でさえ、 それらの考察だけですませることはできない。 というのは、現象学的には神経症的諸欲求と、 本来の諸欲求は すべて同じように感じられるからである。 それらは等しく満足を強要し意識を集中せしめ、 そしてそれら内省された当の資質は 互いにそれほど異なっていないので、 観察者はそれらを区別しえないのである。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2016年06月20日
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国際裁判の判決文を讀んで もつともおどろくのは、 全面的共同謀議があつたという断定と、 「ソビエット聯邦に對する日本の侵略」という章である。 前者についてはもはや問題にする必要すらないと思う。 そして、ソビエット聯邦に對する日本の侵略 - ? この部分はソ聯判事が書いたものかと思われるが、 音にきくソ聯の裁判とはまさに このようなものなのだろうか? ここには侵略の事實があつたことは立證されていない。 そんなものはなかつた。 ただ侵略の意圖があつたことが、 あれこれと断片的にかきあつめて主張されている。 ハサン湖やノモンハンなどの 正式の外交交渉によつて結着がついた事件までが もちだされている。 ソ聯は日本を侵略したが、 日本はソ聯を侵略したことはなかつた。 ソ聯は最後にはあのような戦争をしかけてきたのだから、 そのような事をなしうる國に封しては、 どんなに平和を愛する國でも 平素から備えをつけているのがあたりまえだろう。 もし日ソのあいだに戦犯ということがあるなら、 それは十年も抑留されている人々ではなくて、 ああいう挑發によらざる攻撃戦争を決定した スターリンかモロトフがその第一號であろうと思われる。「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2016年06月17日
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一方の種類の絶望は、 無限なもののなかに落ち込んで 自己自身を失うのであるが、 これにたいして、 他方の種類の絶望は、 いわば自分の自己を 「他の人々」に騙(かた)り取らせるのである。 そのような人間は、 自分の周囲にいるたくさんの人間を見ているうちに、 さまざまな世間の俗事に忙しくしているうちに、 世の習いを知って世故にたけてくるにつれて、 自己自身を忘却してしまい、 自分が神的な意味において どういう名前のものであるのかも忘れ、 あえて自己自身を信じょうとせず、 自己自身であろうなどとはだいそれたことで、 他の人々と同じようにしているほうが、 猿真似(さるまね)をしているほうが、 数のひとつとなって群集のなかにまじっているほうが、 はるかに気楽で安全だと思ってしまうのである。「死に至る病」 世界の名著 第40巻 キルケゴール 中央公論社
2016年06月16日
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九に曰く、信はこれ義の本なり。 事ごとに信あるべし。 それ善悪成敗はかならず信にあり。 群臣ともに信あるときは、何事か成らざらん。 群臣信なきときは、万事ことごとくに敗れん。 まこと〈信〉は人の道〈義〉の根本である。 何ごとをなすにあたっても、 まごころをもってすべきである。 善いことも悪いことも、 成功するのも失敗するのも、 かならずこのまごころがあるかどうかに かかっているのである。 人びとがたがいに まごころをもって事にあたったならは、 どんなことでも成しとげられないことはない。 これに反して 人びとにまごころがなければ、 あらゆることがらがみな失敗してしまうであろう。「聖徳太子」日本の名著 第2巻 中央公論社
2016年06月15日
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音韻論は種々の社会科学に対して、 たとえば核物理学が精密科学の全体に対して演じたのと 同じ革新的な役割を演ぜずにはいないのである。 この革命的な変化は、 そのもっとも一般的な含みにおいて考えるとき、 いかなる点にあるのだろうか。 この問いに対する答えを提供するのは、 音韻論の大家N・トルーペツコイの言葉である。 音韻論のプログラムを述べたある雑誌論文の中で、 彼はこの学問の方法を ほぼ四つの基本的なやり方に帰着させている。 まず第一に、音韻論は意識的言語現象の研究から その無意識的な下部構造の研究へと移行する。 それはまた項を独立した実体として扱うのを拒絶し、 項と項との関係を分析の基礎とする。 第三に、それは体系の概念を導入する。 「現代の音韻論は 音素がつねにある体系の要素であることを 明言するにとどまらず、 具体的な音素体系を明示してその構造を明らかにする」 のである。 最後に音韻論は一般的法則の発見を目的とする。 これらの法則は時には帰納によって発見されるが、 「時には論理的に演繹され、 そのことがそれらに絶対的な性格を与える。」「構造人類学」 クロード・レヴィ=ストロース みすず書房
2016年06月14日
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思想は元(もと)は何か一つの初め(知識)がある。 そうしてそれから次に出た人がその上の事を考える。 これを加上の説といい、ヘーゲルの「論理学」より六十年も前に富永仲基が「出定後語」で述べています。 こうして知識はネズミ算式に増大します。 われわれが家庭の中や、友人の間や、その他の日常的な生活や日常の諸関係において獲得した知識の場合、誤りはすぐに結果として表れるので早く発見されます。 しかし活字的知識の場合、すぐに結果が検証されるわけではないので、誤りや迷信が訂正されにくいという欠点があります。 近代になって科学的方法と通信技術が発達してきました。 その結果、洗練された観察と検証の下に、世界の認識を絶えず修正する事によってより正確な知識の増大をおこなうという科学革命がもたらされました。 こうした知識の蓄積により、非常に複雑なシステムについても誤りのない真の知識を獲得できます。「知識の拡大」 阿部匡宏 日日出版
2016年06月13日
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色を弁じて起き、夜分にして寝(い)ぬ。 此れは是れ終身の大謀。 倦労酔飽を以て廃すべからず。 若(も)し疾病及び游行同宿有れば、 亦た此の限りに在らず。 然らば必ず厳密謹慎、奮激勇往、 仮令(たとえ)目倦(う)み意疲るゝも、 則ち端厳静坐して工夫を作し、 或は四史五更に至るも、亦た其の意に従つて 決して初更二更を以て寝ぬべからず。 若し寝ぬれば則ち必ず其の故を書す。 但し精カを暴使すべからず。 亦た必ず優游饜(えん)飫(よ)、 精を嗇(おし)み神を養ひ、病苦を生ずる勿れ、 身体を傷(そこな)ふ勿れ。(古賀穀堂)「東洋人物学」 安岡正篤 致知出版
2016年06月10日
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「保守の構え」とは、伝統という名の (歴史の試練をくぐり抜けたという意味での) 多数性に依拠しようとすることである。 その構えを欠いた知識人は世論という名の (現在の流行となっているという意味での) 多数性に依存せざるをえなくなるわけだ。 なぜ流行としての世論は、 たとえばヒューマニズムといったような、 凡庸に流れるのであろうか。 答えはわかり切っている。 それが単純性という性格を持っているからである。 「わかりやすさ」、それが世論の必須条件である。 わかりやすさの前に拝脆(はいき)する単純な人間が 近現代の表舞台に大挙して登場してきたのであり、 彼らによって世論という凡庸な言説の群れが 休みなく繁殖させられる仕儀(しぎ)となる。 西欧の用語法では、 「世論に従って言動する人間」のことを 大衆人(マスマン)とよぶのであり、だから、 「世論の支配」もしくは「多数派の専制」は 近現代が大衆社会(マス・ソサイアティ)としての姿を 露(あら)わにしてくるにつれて必然の現象なのである。「知性の構造」 西部 邁 角川春樹事務所
2016年06月08日
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ハイデガーによれば、 現存在(人間)が存在するいちばん基本の事実は、 「気遣い(ゾルゲ)」という術語で呼ばれる。 人間は要するに、 いろんなレベルでいろんなものごとに関心を向け、 興味をもち、欲望し、可能性を見出て生きている。 こういう「気遣い」として人間が存在しているから、 事物は人間にとって(開示)してくる。 飲みたいとか食べたいという欲望があるから、 水や食べ物、働いて金を稼ぎ、物を買うという 日常生活の秩序が呼びよせられ、 それが日常(世界)を組み立てている。 あらかじめ日常世界の秩序があって、 その中に人間は投げ入れられ その秩序を認識するのではない。 ところで人間は、 さしあたってはそういう自分の欲望や 「気遣い」のかたちを はっきり自覚しているわけではない。 生活というものは、 いわばやみくもに生きているうち、 いろんな可能性が 現われたり消えたりするものだから、 現われた可能性をつかもうとしたり 失敗したりすることの繰り返しが 生活の節目を作りあげている。 そのとき人間は 自分の存在の意味やかたちを それほどじっくり考えているわけではない。 重要なのは、 ふつう人間は 生活上のいろんな関心(その対象)のかたちから 自分というものを理解(了解)しているということだ。 これは自分が存在しているその本質的なありようから (世界)を理解するということと 全く逆むきになっているのである。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2016年06月07日
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八に曰く、群卿百寮、 早く朝(まい)りて晏(おそ)く退(まか)でよ。 公事盬(いとま)なし。 終日(ひねもす)にも尽くしがたし。 ここをもって、 遅く朝(まい)るときは急なることに逮(およ)ばず。 早く退(まか)るときはかならず事尽くさず。 もろもろの官吏は、 朝は早く役所に出勤し、夕はおそく退出せよ。 公の仕事は、うっかりしている暇がない。 終日つとめてもなし終えがたいものである。 したがって、 遅く出仕したのでは緊急の事に間に合わないし、 また早く退出したのでは、必ず 仕事を十分になしとげないことになるのである。「聖徳太子」日本の名著 第2巻 中央公論社
2016年06月06日
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「裸かの王様」を見た人々は、個人としては 「王様は裸かである」というにちがいない。 しかし、社會人としては社會的知覚にしたがつて 「王様は着物をきている」という。 個人の知覚とは離れた社會的集合的知覚が 厳然とした事實としてあつて、 社會人としての目には 着物をきた王様が見えているのである。 「やあ、あの王様は裸かでいる!」 と叫んだ少年は、まだこの 社會的知覚の能力をもつていなかつたのである。 そして日本人は、おそらく ドイツの學間の影響でもあろうか (いまのドイツの学問はもうそれをしないが)、 いつからか事實から出發して考えることをやめて、 むしろ ある體系にあてはめて事實を判断する習性をえたので、 それがこういう傾向をよけいに助長したように思われる。 そして、 この事實からはなれた架空の映像の中での絶叫は、 現在までもつづいている。「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2016年06月03日
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書を看るに太雑の病、未だ除かず。 此れは是れ大病根。 須(すべから)く深沈緒密、専一精確なるべし。 群書を雑看する勿れ。 閑看する勿れ。 疾看する勿れ。 倦看(けんかん)する勿れ。 浪看する勿れ。 貪看する勿れ。 道理を窮究して必ず十分の処に到る。 昼尋ね、夜思ひ、 諸(これ)を心に真得して後 已(や)まんことを期す。 言辞を審定し、和緩精詳、条理昭晰(せき)、 疾(と)きこと勿れ。 慢(ゆるや)かなること勿れ。(古賀穀堂)
2016年06月02日
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我々がアリストテレスから得たもう一つの利点は、 自己実現は知性や理性のみによっては得られない ということを学んだことである。 アリストテレスが、 人間の諸能力はヒエラルキー構造をもっており、 そのなかで理性が最高位を占めている と考えたのを思い起こされるであろう。 これによって、理性は 人間の情緒的.本能的な性質とは著しく異なり、 相争い、反目し合う という観念が必然的に生じたのである。 しかし、我々は精神病理学と心理療法の研究から、 心理学的有機体の像を、理性も感情も、 我々の性質の意欲的・願望的・動因的な側面も 同等に尊重することによって、 かなり修正しなければならないことを学んだ。 さらに、健康な人間についての経験的な研究から、 これらが互いに反日しあうものではけっしてないこと、 人間性のこれらの面は必ずしも敵対しあうものではなく、 協同し相互に作用しあうものであることを学んだ。 健康な人間とは、一部分がすべてであるような 統合された人間であるといえよう。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2016年06月01日
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