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マルクスによれば、 資本が自らを増殖させてゆく根本の原理は、 労働に対してそれが産み出す価値より 少ない対価を支払うことによって(搾取)である。 しかし機械などの生産手段が能率を上げると、 資本が剰余価値をひき出す源泉である 人間の労働の比率(剰余価値率)は どんどん低くなる。 剰余価値率が低下する一方で、 個別の資本は自らが生き残るために、 ますます機械の能率(生産性)を上げようとする。 そこに、 社会の中で人間が必要とする諸価値のありようと、 資本による商品の生産のありようとの、 著しい不均衡が生み出される。 これが貨幣の価値という場面で矛盾を霹呈し、 資本主義経済の破綻を 恐慌というかたちで引き起こす、とされる。 だが誰でも知っているように、 現在高度資本主義は、 マルクスが予測したような 破綻を引き起こすことなく、 増々強固な基盤を保っているように見える。 このことは原理的には、 資本主義が今見たような危機を なんらかの形で処理し 乗り超えているということである。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2016年02月29日
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「三に日く、 詔(みことのり)を承りては かならず謹(つつし)め。 君をば天とす。 臣をは地とす。 天は覆(おお)い、地は載(の)す。 四時(しいじ)順(したが)い行ないて、 万気通うことな得(う)。 地、天を覆わんとするときは、 壊(やぶ)るることを致さん。 ここをもって、 君言(のたま)うときは(しん)臣承る。 上行なうときは下(しも)靡(なび)く。 ゆえに詔を承りてはかならず慎め。 謹まずば、おのずから敗れん。」 天皇の詔を承ったたときには、 かならずそれを謹んで受けよ。 君は天のようなものであり、 臣民たちは地のようなものである。 天は覆い、地は載せる。 そのように分の守りがあるから、 春・夏・秋・冬の四季が順調に移り行き、 万物がそれぞれに発展するのである。 もしも地が天を覆うようなことがあれば、 破壊が起こるだけである。 こういうわけだから、 君が命ずれば臣民はそれを承って実行し、 上の人が行なうことに 下の人々が追随するのである。 だから天皇の詔を承ったならば、 かならず謹んで奉ぜよ。 もしも謹んで奉じないならば、 おのずから事は失敗してしまうであろう。「聖徳太子」日本の名著 第2巻
2016年02月26日
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私には、あの歴史の全時期を通じて、 その地位の上から もつとも大きな責任を問われるべき人が、 三人いたと思われる。 第一には、 三月事件や十月事件を、 たとえそれが未遂に終つたからとて、 いいかげんに揉み消してしまつた當局者である。 甘粕大尉や河本大佐の處置は、 まだしも どこの軍隊にもおこりがちな悪ともいえようが、 この両事件は軍による國政轉覆の計畫である。 このような事件に関係した人が その後も依然として軍人政治家として活躍した。 これを處置しなかつたのには、 軍の威信という團體の名譽問題もあつたろうし、 事自體があまり大きく 手におえかねたこともあつたろうし、 個人的な利害もあつたろうし、 そのほかさまざまな原因があつたのだろう。 昭和六年の陸相は、四月まで宇垣、 十二月まで南、以後荒木だつた。 荒木将軍は両事件の関係者を滴洲に追つたが、 それ以上は當時の情勢から あるいは不可能だつたのかもしれない。 第二には、満洲事變勃發當時の南陸相である。 この人は軍人の獨立した政治軍事行動を默認、 ほとんど奨励した。 どうもこの人が いちばん罪が重かつたのではないだろうか? 第三には、支那事變勃發當時の杉山陸相である。 この二人とも、 いわゆる東洋的な茫漠とした風格の人で 大ボスだつたが、 思考にはいちじるしく精密度を缺いていて、 國務と軍務の一致というようなことは 念頭になかつた。 國が多元化しつつ重大な對外抗争に入れば、 その結果がどうなるということまでは 思い及ばなかつた。 共に政黨に對して はげしい不信憎悪をいだいていたことは、 演説や挿話によつて分るが、 かれらはこの情念のために 他の大切なことを考えなかつたらしい。「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2016年02月25日
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ヨーロッパ世界では、真理に、二種類ある。 第一は、啓示による真理。 啓示とは、人間が神から教えられること。 たとえば、聖書に書いてあることなどが、 そうだ。 啓示による真理は、なぜ正しいのか。 神が決めたから正しい。 神は正しさの規準である。 人間には、これを確認する手立てがない。 ただ神を信ずればいいのだ。 第二は、理性による真理。 たとえば、数学のようなものである。 これは、その正しさを、 理性(数学や論理の手続き)によって 確認できる。 理性は人間に与えられた能力だから、 この真理は、人間の活動と相関的である。 つまり、 人間が努力して成長するなら、 真理もよりよいものになり、 量も増えて、蓄積されていくはずだ。 「はじめての構造主義」 橋爪 大二郎 講談社現代新書
2016年02月24日
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医学的-臨床的習慣があるが、 ここでは正常という言葉を障害、病気、目立った不調 がないという時に用いる。 内科医は徹底的検査の後で、 何か身体的に具合の悪いところを見い出せない時には、 たとえ患者がなおも痛みを訴えていても 患者に正常であるというだろう。 彼の意味しているのは、 「私の技術では、あなたのどこが悪いのか見い出せない」 ということなのである。 なんらかの心理学的訓練を受けた医者、 いわゆる精神身体医学者は、 もっと患者をよく診るであろうし、 正常という言葉もそんなには使わないであろう。 実際、 多くの精神分析者たちは 全く疾患をもっていないという意味で 正常な人は誰もいないとさえ言っている。 すなわち、 欠陥のない者はないということである。 これは確かに真理であるが、 しかし倫理の追究にはそれほど役立たない。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2016年02月23日
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チョムスキー以前の言語学では、 文法とは言語データから帰納的に導かれた 規則にすぎなかった。 ところが、 チョムスキーが提唱した生成文法とは、 演繹的にあらゆる文を生成することができる 規則の集まりである。 生成文法は、 話し手や聞き手のモデルではなく、 実際の言語使用の基礎を与えるような、 「言語知識」に関するモデルである。 つまり、 完壁な母語の使用者がいて、 文法的に正しいかどうかを判断できるという 理想化を行う。 現実に言い間違いをしない人はいないだろうが、 それは問題ではない。「言語の脳科学」 酒井 邦嘉 中公新書
2016年02月22日
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デリダが言うように形而上学は、つねに世界の全体(現実の「ありのまま」)を言葉によって正しく言い当てられるという確信を持ちつづけてきた。 しかし、いったい(現実)とは、そもそも言葉によって言い尽すことのできるようなものだろうかとわたしたちは問うてみよう。 このときわたしたちは、(現実)という言葉が含んでいる陰影によく注意する必要がある。 人間は、じつはある意味では言葉によって捉えられたかたちでしか(現実)というものを把握していない。 (客観)とか理念とかいう言葉は、捉えられ決定されたものとしての(現実)を意味しているのである。 だが、わたしたちにとって世界は、どれほどそれを言葉で限定しようと、決して捉え尽せず、常に予断を許さない新しい相を持って現われてくるもの、という性格を失うことなく持っている。 そしてわたしたちは、まさしくそういった世界の性格を(現実)と呼んでいるのではないだろうか。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2016年02月19日
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『国家と革命』において、レーニンが 「国家がある限り自由は存在しない。 自由のあるところには国家は存在しないだろう」 と主張していることでもわかるように、 彼は自分自身の信念として、 マルクス主義とアナーキズムには類似性がある と認めるところまでいっていた。 そして、 国家の代わりに実務のみの社会を考えていた。 人間の社会において処理しなければならない 実際上の仕事がたくさんある。 その実務を処理するのが社会の機能だ と考えたのである。 権力を持たない実務運営のための組織 ということだから、一言で言えば、 村長のいない村役場みたいなものである。 あるいは、人間の善意のみで運営される バザールのようなものである。 これは、極端な復古主義である。 古代ギリシア、ローマ以来、 あるいはシナの孔子、孟子以来、 あらゆる政治論には復古主義のにおいがある。 要するに、人間が複雑な組織を持たなかった 原始的な時代が最も願わしいものであった という考え方である。 こうした考え方は、 プラトン以下の思想家すべてにある。 こうした傾向からすると、 もともと政治論とは、 きたるべきものを予想したり予見したりする 能力は持たないものかもしれない。 常に古代(いにしえ)をモデルとした 復古主義への憧れが、政治論の根幹 となっているのかもしれない。「嘘ばっかり」で七十年 谷沢永一 講談社
2016年02月18日
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日本の封建制度で 決定的役割を果したのはサムライであり、 武士道倫理であって、 二つの古典的な言葉「わび」と「さび」 によって表現されるような簡潔の理想、 また個人的な名声や栄光の断念、 禅仏教における深い「そのもの」へ個我を捨て去り、 無私において奉仕する精神である。 したがってヨーロッパにおける封建制とは正反対に、 謙虚に生き、自己を他と「同じように」して 目立つことなく皆と同じ列に立つことが、 日本の封建制の伝統である。 立居振舞にせよ、生活の習慣、衣服にせよ、 それどころか自己の社会的評価にいたるまでの 画一性があるために、 外国の日本研究者だけでなく日本の社会科学著さえも 「マス文化」という言葉を使いたがる。 しかし本質的には エリート文化であるものが大衆化した という意味での 「マス文化」なら、 日本の社会にはあてはまらない。 日本の文化は逆に、 国民文化ともいうべきもので、 エリートたちはその地盤から輩出しているので、 外形においてはほとんど差異をみせていない。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2016年02月17日
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用兵の道は 敵彊(つよ)ければ智を用ひ、 敵弱ければ勢を用ふ。 この故に大を以て小を事とするは 猶ほ狼の豚を食ふがごときなり。 (十六国春秋・前燕録) 「用兵の道は敵が彊けれは智を用ひ」、 すなわち智略でよい。 相手が弱ければ勢を用う。 かさにかかって圧倒する。 この故に 大を以て小を事とするは、 すなわち大国が小国を自由にするのは 「猶ほ狼の豚を食ふがごときなり」。 相手が小国でも、 彊いとみれば、謀略をもってあざむくし、 相手が弱いとみれはどこまでも威圧していく。 実に情容赦もない。 日本はこの通りやられてきたわけである。「新憂樂志」 安岡 正篤 明徳出版
2016年02月16日
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言語の多様性という謎に 初めて一つの説明を与えたのは、 チョムスキーの生成文法理論であった。 『種の起原』から百年後のことである。 チョムスキーは、 単語ではなく文の構造に着目した。 そして、 人間の言葉には、 文の構造に一定の文法規則があり、 それが多様に変形されうることを 明らかにした。 多様性の中から本質を見抜く力は、 偉大な科学者に与えられた天分である。 多様性の中に規則性を発見したという意味で、 チョムスキーはダーウィンと同じくらいに 決定的な革命を、 しかもダーウィンとは違った意味において 成し遂げたのである。「言語の脳科学」 酒井 邦嘉 中公新書
2016年02月15日
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ニーチェの思想の最も重要な特質は、 それが近代哲学(=近代形而上学)の 基本の考えに対する徹底的な アンチ・テーゼとして存在するという点である。 この場合、 近代形而上学とは、キリスト教から続く、 デカルトの〈意識〉(主体)主義、 カントの道徳思想、 ヘーゲルの歴史哲学、 ルソー以後の民主主義、 そして社会主義思想までをも含む。 ニーチェは、 これら西欧の形而上学の思想全体を 「ヨーロッパの理想」として一括し、 それに対して、 これら全てヨーロッパに現われた”理想”は、 じつはその土台にニヒリスティックな性格 (生への否定)を本質的に持っている、 という大変興味深い批判を投げかけたのである。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2016年02月12日
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レヴィ=ストロースが私たちに示してくれるのは、 人間の心の中にある 「自然な感情」や「普遍的な価値観」 ではありません。 そうではなくて、 社会集団ごとに「感情」や「価値観」は 驚くほど多様であるが、 それらが社会の中で機能している仕方は ただ一つだ、ということです。 人間が他者と共生してゆくためには、 時代と場所を問わず、 あらゆる集団に妥当するルールがあります。 それは 「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」 と 「私たちが欲するものは、 まず他者に与えなければならない」 という二つのルールです。 これはよく考えると不思議なルールです。 私たちは人間の本性は同一の状態にとどまることだ と思っていますし、 ものを手に入れるいちばん合理的な方法は 自分で独占して、 誰にも与えないことだと思っています。 しかし、 人間社会はそういう静止的、利己的な生き方を 許容しません。 仲間たちと共同的に生きてゆきたいと望むなら、 このルールを守らなければなりません。 それがこれまで存在してきた すべての社会集団に共通する暗黙のルールなのです。 このルールを守らなかった集団は おそらく「歴史」が書かれるよりはるか以前に 滅亡してしまったのでしょう。「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2016年02月10日
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猪木正道は『共産主義の系譜』の中で、 次のように述べている。 「ここに最も注目すべきことは、 マルクスがまず革命を考え、 この担当者を模索した結果 プロレタリアートをいわば発見したのであって、 けっしてこの逆ではなかったことである。 すなわちマルクスは――エンゲルスも同様―― 眼前に苦悩するプロレタリア階級を 救済もしくは解放しょうとして 革命を帰結したのではなかった。 換言すれば革命の緊迫性が 原始マルクス主義の根本前提をなしている」 つまり、困っている人々、虐げられている 人々の救済ではなく、 マルクスの支配欲、権力欲が 先にあったということだ。「嘘ばっかり」で七十年 谷沢永一 講談社
2016年02月09日
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「分析は もしそれが総合的能力を圧倒すると 危険である。」 (アミエルの日記) 創造ということのない分析は危険である。 近代の学問は、 ほとんど分析に基づくところの、 いろいろの観察、概念、論理、 そういうときに立てる知識である。 分析主義である。 近代の百年、二百年、 ずっと主流をなしてきておる 人間の思想的傾向というものは 分析主義である。 それが総合能力を圧倒すると 危険きわまりないというのであります。「東洋人物学」 安岡正篤 致知出版
2016年02月08日
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朝日新聞は、 日本が社会主義国になっても、 『プラウダ』『イズベスチヤ』のような形での 存続を狙っているという 穿(うが)った見方もある。 これも全くあり得ないことではなく、 遠い将来において、 ソ連の侵入という可能性も 絶無とは断言できない。 しかし私は、 朝日新聞の意図が奈辺(なへん)にあれ、 その意図とは逆に、 皮肉にもわが国民を有効に教育してくれていると、 感謝している。 中国に「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」 という言葉がある。 現状に満足しきった国民、国家は、 急速にその活力を失う。 常に現状不満を煽(あお)り、 国民の勤労意欲を叱咤(しつた)し、 経済効率の低さ、資源効率の乏しさを がなり立ててくれるものが必要なのである。 その役目を日本では、 朝日新聞が演じてくれているわけだ。 築地本社の意図に反し、 こうしてわが国民を激励してくれていることに、 私は心より御礼を申し上げたい。 こうした傾向は朝日新聞に限らず、 日本のマスコミ、出版界の特徴でもあり、 現状不満を煽れば煽るほど、 わが国民は「鼓腹撃壌」に陥(おちい)らないという、 逆効果をあげてくれているのである。 その代表が朝日新聞であり、 その象徴ともいうべきものが、 現在の『天声人語』に他(ほか)ならない。『「正義の味方」の嘘八百』 谷沢永一 講談社文庫
2016年02月05日
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「時計をお持ちですか」 と言われて、文字通りの意味なのか、 「今、何時かわかりますか」 という意味で言ったのか、 という二通りの解釈ができる。 もちろん、 一般的には後者の方が自然であるが、 相手によっては不確定となる。 信原幸弘氏は、 発話傾向の個人差に着目して、 似たような発話傾向を持つ文 に翻訳するしか方法がないために、 翻訳の不確定性が生ずる と明快に述べている。 このように考えると、 文章の理解とは、 発話傾向を手がかりとしながら、 他人の言わんとすることのモデルを 自分の心の中に作ることである。 他人の心の状態を推測し、 その推論に基づいて他人の行動を解釈したり、 予測したりする能力は、 「心の理論(theory of mind)」と呼ばれる。 従って、 意味論の本質的な問題は、 心の理論に帰着するだろう。「言語の脳科学」 酒井 邦嘉 中公新書
2016年02月04日
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初期の日本共産党は謙虚な集団であった。 当時の党員たちは、 自分たちは至らざる者であると任ずるところの、 まことに謙虚なる気持ちの持ち主であった。 例えば坂東地方、 筑波山の山懐に小さなお寺があったとして、 そのお寺で地元の檀家衆のために信仰書をつくつた場合、 それを一度、京都の総本山に持っていって、 承認をもらわなければならないだろう。 つまり、 日本共産党の創立者たちは末寺のお坊さんたちで、 自分たちでつくつた信仰要領の私案を持って、 共産教の総本山であるモスクワ山コミンテルン寺に 承認を求めにいった。 当時の党員たちは、 そうした手続きを何ら不自然だとは考えなかった。 ところが、 総本山管長のブハーリン(コミンテルン執行委貞長)は、 「福本イズム」とも言われる日本共産党の私案を 歯牙(しが)にもかけず、 「お前らのは駄目だ。こっちにしなさい」と言って、 総本山がつくったまったく新しいテーゼを 下賜(かし)した。 それを唯々諾々、 伏して項戴し、 持ち帰ったのが、 言われるところの「二七年テーゼ」である。 このときの状況を一言で表現するなら、 まさに『西遊記』の世界――。 当時シナには、すでに莫大な仏典が伝来していた。 ところが、 それらのお経は途中でたくさんの地域を経るうち、 いろいろな解釈が施され、 中には間違って伝えられた部分もあり、 原本とはかなり違ったものになっていると思われた。 それに対して、 仏教の発祥の地であるインドへ行けば、 本物の純粋なお経があるはずだ。 そのお経に従わなければ、 本当の仏教ではない。「 よし、インドへ行こう」ということで、 三蔵法師たちは苦労して仏教のふる里へ赴いた。 初期の日本共産党のリーダーたちは、 さしずめ三蔵法師であった。 孫悟空や猪八戒(ちよはつかい)はいなかっただろうが、 そのようにして極東の地から わざわざ本物の教典をいただきに モスクワまで行ったのである。 三蔵法師が持って帰ったお経はシナでは大歓迎され、 尊崇されて、 シナ語への翻訳のやり直し作業が開始された。 これと同じことが 日本共産党でも行われれるべきであったろうが、 日共の幹部たちが 「二七年テーゼ」を細かに読解注釈しようと 努めた痕跡はない。 ひたすら礼拝し叩頭(こうとう)するのみであった。「嘘ばっかり」で七十年 谷沢永一 講談社
2016年02月03日
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第一次世界大戦の直後、 一九一九年、戦争の惨禍のなかで、 人間としての人間にかかわることにまで われわれを高めるような或るできごとがおこった。 南半球て日食があったとき、 英国の主唱による派遣隊は 技術的に困難な観測をやってのけた。 彼らの測定の結果、 それまでは空想的なものとして 人々の関心をひいていたドイツの科学者 アインシュタインの予言の正しさが立証された。 それと同時に、 宇宙は三次元の空間ではなく歪んだ空間であり、 無限ではなく有限であると、 いう見解に達したアインシュタインの理論が、 部分的には正しいということが立証されたのである。「哲学の学校」 カール・ヤスパース 河出書房
2016年02月02日
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ラカンは、 人間の意識-無意識の“構造”は、 生理-本能-意識となだらかにつながっている 動物のそれとは 全く違った構造を持っている、 というところから出発する。 動物が本能によって欲望の方向性が あらかじめ決定されているのに反して、 人間の欲望は、 いわば本能が壊れているために、 自己のエネルギーをどこへ向けるぺきか わからないような状態で生まれてくる(想像界)。 だが人間は社会の中で生きてゆくため、 この四方八方に広がっていこうとする欲望を、 父や母という家族関係(オイディプス関係)の中で 一定の方向に秩序づけてゆく。 この秩序づけのプロセスは 人間の無意識の中で行なわれるが、 そのことによって人間は自己のうちに いわば社会的な言葉の秩序(象徴界) を織り上げることになる。 ラカンの理論も、 またそのままで現象学に対する強い批判になっている。 なぜなら、 現象学では、(意識)とは、 言葉によって自分を自覚的に捉え直すことと ほぼ重なり合っているが、 ラカンの考え方では、 人間が言葉によって自分を捉え直すことそれ自体が、 すでに無意識の構造の中に組み込まれているからである。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2016年02月01日
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