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人間は、誤って作られた動物ではなく、 間違って教育された動物にすぎないのである。 すなわち今日の誤った教育は、 現実、物質、身体、世界から切り離されて、 理念化され、言語化された 知的なコンピューターを人間たちに備えつけている。 ところが、それとは反対に、もともと人間の頭脳は、 その動物的な脳の部分に より多く、より良く、反応するように 作られているものである (脳の働きの基礎は、 感覚的なイメージによって作られている)。 心身一如の意志をもった脳の働き、 あるいは、脳のセルフ・コントロールは、 確かに、ホモサピエンス(人類)の特権としての 前頭葉の複雑なチャンネルによるものである。 これは抑圧、または、放縦とは反対の 希望の知恵を生む器官であり、昇華の器官である。 すなわち、 平衡(脳のバランス)の法則にしたがって、 個人的に、社会的に正しく生き、かつ愛し合えるように、 生のエネルギーとしてのエロスを、 人間的に高める器官である。「セルフ・コントロールと禅」 池見酉次郎 弟子丸泰仙
2016年05月31日
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「力への意志」はひとつの根本的仮説である。 だがいったい何がこの仮説の真を検証するのか。 ここにはおよそ仮説を立てるということに関する かつて決して解きほぐされなかった 重要な問題が横たわっている。 人間は、もしも大きな現実、 つまり人間の生を支えている条件に まったく手を触れられない (その可能性を持てない)ならば、 必ず自由な生の意識を失うような存在である。 そして人間が現実を動かそうと試みる限り、 なんらかの仮説を必ず立てなくてはならないことは 明らかだ。 このとき、およそ仮説というものの「ほんとう」を 検証する手掛りがもしも全くないなら、 現実を動かそうとする試みそれ自体が 無意味になってしまう。 仮説の「ほんとうさ」「リアルさ」を、 人間は一般にどういうところからうけとっているのか、 つまりそれはどこに根拠を持っているのか。 このことが、 次にわたしたちが向うべきもっとも肝要な問題になる。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2016年05月30日
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七に曰く、人おのおの任あり。 掌(つかさど)ること、濫(みだ)れざるべし。 それ賢哲、官に任ずるときは、 頌(ほ)むる音(こえ)すなわち起こり、 皯者(かんじゃ)、官を有(たも)つときは、 禍乱すなわち繁(しげ)し。 世に、生まれながら知るひと少なし。 よく念(おも)いて聖(せい)となる。 事、大少となく、人を得てかならず治まる。 時、急緩となく、賢に遇(あ)いて おのずから寛(ゆたか)なり。 これによりて、国家永久にして、 社稷(しゃしょく)危うからず、 故に、古の聖王、官のために人を求む。 人のために官を求めず。 人には、おのおのその任務がある。 職務に関して乱脈にならないようにせよ。 賢明な人格者が官にあるときには、 ほめる声が起こり、 よこしまな者が官にあるときには、 災禍や乱れがしばしば起こるものである。 世の中には、 生まれながらにして聡明な者は少ない。 よく道理に心がけるならば、 聖者のようになる。 およそ、ことがらの大小にかかわらず、 適任者を得たならば、 世の中はかならず治まるものである。 時代の動きが激しいときでも、 ゆるやかなときでも、 賢明な人を用いることができたならば、 世の中はおのずからゆたかに のびのびとなってくる。 これによって国家は永久に栄え、 危うくなることはない。 ゆえに、いにしえの聖王は 官職のために人を求めたのであり、 人のために官職を設けることは しなかったのである。「聖徳太子」日本の名著 第2巻 中央公論社
2016年05月27日
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彼らは今でも伝統的文化こそ”文化”のすべてである といった風をするのが好きだ、 自然法則などというものは存在しないかのように。 自然法則の探求などということは、 それ自身も、その結果も何の興味もないかのように。 また物質世界の科学の大系が その知的な深さ、複雑さ、明確さにおいて 人間の心のもっとも美しい、驚嘆すべき 協力的な仕事でないかのように。 それでいながら大多数の非科学者は、 この大系についてなんの概念ももっていない。 彼らがもとうとしても、できないことでもあろう。 広汎な知的な体験の世界で、このグループの人たちは ツンボであったといってもよいであろう。 しかしながらこのツンボは生まれつきのものでなく、 あるいは訓練によってなったものだったり、 あるいは訓練を欠いたためになったものでもあること をつけ加えておこう。 ツンボであるばかりか、 彼らは自分が失っているものについても 気がついていない。 英国文学の大作も読んでいないような 科学者たちのニュースを聞いて、 彼らはかわいそうにといった含み笑いを浮べる。 彼らは科学者を無知な専門家としてしりぞける。 だが彼らの無知と特殊性といったら驚くべきものだ。 私はよく(伝統文化のレベルからいって) 教育の高い人たちの会合に出席したが、 彼らは科学者の無学について不信を表明することに たいへん趣味をもっていた。 どうにもこらえきれなくなった私は、 彼らのうち何人が、熱力学の第二法則 (熱現象の非可逆性を言っている法則で、 いろいろな形で表現されているが、 「熱はそれだけでは 低温の物体から高温の物体には移らない」 などというのもその一つの表現であり、 この法則はまた「エントロピー増大の原理」 ともいわれている)について説明できるかを訊ねた。 答えは冷やかなものであり、否定的でもあった。 私は「あなたはシェークスピアのものを 何か読んだことがあるか」というのと同等な 科学上の質問をしたわけである。 もっと簡単な質問「質量、加速度とは何か」 (これは「君は読むことができるか」 というのと科学的に同等である)をしたら、 その教養の高い人びとの十人中の幾人かは 私が彼らと同じことばを語っていると感じたろうと、 現在、思っている。 このように現代の物理学の偉大な体系は進んでいて、 西欧のもっとも賢明な人びとの多くは 物理学にたいしていわば新石器時代の祖先なみの洞察 しかもっていないのである。「二つの文化と科学革命」 C・P・スノー みすず書房
2016年05月26日
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青年将校たちがした暗殺は、 イデオロギーによる直接行動だつた。 そして、そのイデオロギーとは、 ブルジョアジー體制を仆して 国家社會主義をたてようという、 一九二〇年三〇年代の世界に共通の現代的なものだつた。 日本は世界の近代史の中で、 はなはだ特殊な地位にあつて、 はげしい變化轉身をした。 われわれの経験した歴史の過程は、 その特別な國の一囘限りのもので、 これを硬い類型的な圖式の中におしこむことはできない。 體制化・圖式化は、 それによつて「自分は理解しえた」という 自信を生むための、安易な方法である。 現代をうごかすものは つねに現代的な契機だと思うが、 それがここではきわめて複雑な経緯をたどつた。 これを「封建制の温存」でわりきるのは、 複雑な事象の中からある一つの要因のみを抽出して、 これによつて安易な様式化をしていることである。 日本では社會科學が その限界を出て森羅萬象を説明しつくす 全體的世界観と考えられ、 この三十年ほど社會科學がほぼ宗教の役目をつとめた。 多くのあやまりはここから生れていると思われる。「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2016年05月25日
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他の貴富栄利を看(み)るも健羨(けんせん)を生ぜず、 趨付(すうふ)を作(な)さず。 他の落魄(落魄)不遇を看るも軽慢を生ぜず、 厭棄(えんき)を作(な)さず。(古賀穀堂) 「自警の三」は他人のことを むやみに羨(うらや)むようなことをしないということ。 落塊は、「らくはく」「らくたく」、どちらでもよい。 落ちぶれるという意味だが、 ただそれだけでは中学生的な答案である。 人間の精神には魂(こん)と魄(はく)とがある。 魂は陽性、魄は陰性である。 陽と陰では陰が本体で、陽が発動、発現である。 だからわれわれの精神作用のうち、 外にいろいろと発動するものは魂です。 「あっ、しまった」とか「ああ、悲しい」 とかいうのを「消魂」といいます。 魂を消す、魂消(たまげ)る。 しかし、魄はもっと根の深い陰性、 もうここまできたら浮かばれない、 「俺はもう駄目だ」と参ってしまうことを落魄という。 月でいえば夜明けの月、暁の月、 そういうのを残月とか月白(つきしろ)というが、 人間は消魂しても、決して落魄してはいかん。 だから、落魄(おちぷ)れて、性も根も尽きた、 意地も張りもなく参った状態をいう。 そういうわけだが、 「他の落魄不遇を看るも軽慢を生ぜず。厭棄を作さず」、 これは人間にとって非常に大切なことです。「東洋人物学」 安岡正篤 致知出版
2016年05月24日
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ある学者がその持てるあらゆる力量を傾けて、 未知の領分や将来起こり得る出来事について 推測し、予言する。 社会科学でいえば、いまの時代はこうだから、 これから先はこうなるはずだ、 というような予言を行う。 しかもその予言が、 学問的な根拠でもって きちんと裏付けられている。 そして、その予言がみごとに的中した、 と謂う場合なのです。 こういうばあいには、 ほかの学者たちが どんなに努力しても及ばないほどの業績を、 ある学者個人が達成した、 その主張が正しかったのだということを 確認できるのです。 そしてこの人の業績が、 その時代の正統な学問のなるのです。「小室直樹の学問と思想」 橋爪大三郎 副島隆彦 弓立社
2016年05月23日
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ニーチェの思想は、一般には 現代思想の大きな源流となった とされているにもかかわらず、 むしろ現代思想のいちばん重要な盲点を 見事についているということである。 現代思想のニヒリズムは、 それがマルクス主義の 一貫した社会変革の展望を棄て去ったこと に由来しているのではなく、 むしろその展望の底にある本質的な視線 (人間の関係本質を実現するような〈社会〉を 見出すべきである)を引きついでいることに 由来しているのである。 ニーチェの考えからわたしたちが つぐべきものがあるとすれば、 それは次のようなことであるはずだ。 まずわたしたちは、思い切って、 理想的な〈社会〉が実現されるべきであり、 そうでなければ人間は一切の可能性を失うという、 近代思想以来の〈社会〉思想の根本的理念を 棄て去るべきなのである。 そうではなくて、 〈社会〉は完全な理想には決して到達し得ない かもしれないが、それにもかかわらず、 人間は、 自己の関係本質を実現し得る「可能性」を持っているし、 また一方で人間が 〈社会〉を永続的に改変してゆこうとする努力には、 はっきりした意味も根拠もある、 とわたしには思えるのである。 こういう立場に立ったとき、 わたしたちははじめて、 現代思想が、現在課題とすべき具体的な問題を、 明瞭なかたちで設定することが 可能になるはずなのである。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2016年05月20日
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六に日く、悪を懲(こ)らし善を勧むるは、 古(いにしえ)の良き典(のり)なり。 ここをもって、人の善を匿(かく)すことなく、 悪を見てはかならず匡(ただ)せ。 それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、 国家を覆(くつがえ)す利器なり。 人民を絶つ鋒剣(ほうけん)なり。 また佞(かだ)み媚(こ)ぶる者は、 上に対しては好みて下の過(あやまち)を説き、 下に逢いては上の失(あやまち)を誹諮(そし)る。 それ、これらの人は、みな君に忠なく、民に仁なし。 これ大乱の本なり。 悪を懲らし善を勧めるということは、 昔からの良いしきたりである。 だから他人のなした善は、これをかくさないで顕わし、 また他人が悪をなしたのを見れば、 かならずそれをやめさせて、正しくしてやれ。 諂ったり詐ったりする者は、 国家を覆し亡ばす鋭利な武器であり、 人民を絶ち切る鋭い刃のある剣である。 また、おもねり媚びる者は、 上の人びとに対しては 好んで目下の人びとの過失を告げ口し、 また部下の人びとに出会うと 上役の過失をそしるのが常である。 このような人は、みな主君に対しては忠心なく、 人民に対しては仁徳がない。 これは世の中が大いに乱れる根本なのである。「聖徳太子」日本の名著 第2巻 中央公論社
2016年05月19日
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まず、最も重要なことは、人間は自分自身の本性、 すなわちある輪郭をもった精神構造をもっていること (その精神構造は、 肉体的な構造と煩似のものと考えられ、 論議されるものであるが)、 また人間は部分的には生まれながらのもの と考えられる諸欲求、諸能力、諸傾向をもっていること、 それらのいくつかは全人煩、すべての文化に 共通した特徴であり、また他のいくつかは 個々人に特有のものであるということへの 強い確信である。 二番目に、完全な健康や正常で望ましい発達は、 この本性を実現するところに、 またこれらの潜在諸能力を満たすところに、 そして成熟に向かって発適し続けるところに 存在するという概念が含まれているのである。 そして成熟は、この隠された、ひそやかな、 おぼろげに見える本性が指図するものである。 三番日に、今やはとんどの精神病埋は、 人間の本性の拒絶または阻害、または歪曲に 起因することは現在では明白である。 この概念によれば、何がよいのであろうか? 人間の内にある本性の実現の方向において、 この望ましい発達をもたらすものならば 何でもがよいものである。「人間性の心理学」 A・H・マズロー 産業能率大学出版部
2016年05月18日
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屈辱、坎壈(かんらん)、薄命、数奇、千幸万苦、 皆天命に任す。 恬煕楽易(てんきらくい)、従容(しょうよう)自得し、 分に安んじて困窮し、心広く体胖(ゆたか)に、 縲緤鞭笞(るいせつべんち)も 辱(はじ)と為すに足らず。 絶食無衣、其の楽しみ余り有り。 然りと雖も、宇宙を包括し天地を震動するの心、 未だ嘗(かっ)て頃刻(けいこく)も忘れず。 (古賀穀堂)「東洋人物学」 安岡正篤 致知出版
2016年05月17日
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軍隊が獨立した意志をもつてそれを強行すれば、 いかなる制度もそれを制することはできない。 統帥權がどこにあろうと、それは問題ではない。 最近にドイツで国防軍をつくるにあたつて、 統帥權の所属が問題になつている。 それを大統領においても、首相においても、 議會においても、軍部においても、 ヒットラーの再出規をふせぐきめ手はない。 軍隊を思想的にリードする者が出れば、 それが勝つにきまつている。 いまの自衛隊とて、 もしそれが左右いずれかのイデオロギーに染まれば、 それが國を引きずることになろう。 総力戦時代の現代では、 戦闘力のための統帥権ということを擴張解釋すれば、 どこまでも擴張できた。 統帥權の獨立をもつて、 ただちに舊體制がファッショだつた ということはできない。 もし軍があのように政治化しなかつたら、 たとえ統帥權が獨立していようとも、 またいかに軍部大臣の資格が制限されていようとも、 問題はなかつたろう。 しかし、軍があのような團體精神に憑かれた以上は、 たとえ統帥權がどこにあろうとも、 また軍部大臣が文官であつたとしても、 ああなるほかはなかつたであろう。 統帥權の問題が日本の命取りとなつたのは、 それが原因だつたのではなく、 むしろ結果だつた。 決定的だつたものは、 制度という前提條件ではなくて、 そこにはたらいた意志だつた。「昭和の精神史」 竹山道雄 新潮叢書
2016年05月16日
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「優れた芸術家は模倣するが、 偉大な芸術家は盗む」(パブロ・ピカソ) すでに確立された市場では、 その市場のフチに沿って再発明された製品が 成功する。 これはハードウェアとソフトウェアの どちらにも言えることだ。 普通、すでにある製品と同じような コンピュータやプログラムを作るだけでは 十分ではない。 新しい製品には、少なくとも一点は ズバ抜けて優れた特徴が必要なのだ。 再発明された製品は、 競合製品のなかですでに成功しているものより 安いか、処理能力が優れているか、小さいか、 あるいは多くの機能をもっていなくてはならない。 これらはすべて、市場のフチの例である。 安くもなければ、速くもなく、 用途もかぎられている製品、 言い換えれば市場のフチにない製品を発売しても、 ユーザーにとっては、 現在使っているベストセラー製品から 乗り換える理由が何もないのである。「コンピュータ帝国の興亡」 ロバート・X・クリンジー アスキー
2016年05月13日
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欧米でみられる能力崇拝は、 物質的成功をもって 人間的価値の尺度としてしまった。 ために、あまり勤勉でない人や、 大した成功を収めない人びとは、 価値少ない人間と みなされるようになってしまった。 病人、虚弱な者、身障者、老人などだ。 これらの人びとを ただ単に落ちぶれさせないために、 まず私的な援助や教会組織がその任に当り、 後には社会的集団問題として主に国の 福祉活動に委ねられたのである。 グループに対する忠誠の倫理のない社会では これが不可避であったが、 それが理想そのものである、 というわけではない。 国家的な官僚主義による福祉というものは、 自然な共同体による援助より 経済的にずっと高くつくし、 過度な租税は 経済をその限界にまで托迫する (例えばスウェーデンをみよ)。 しかしそれだけではない。 このやり方は、 助けを必要としている人びとに、 非人間的なあり方でしか対処しないし、 物質的な面での援助はするが、 個人的な、同胞、友人による精神的な援助と 慰安への要求はほとんど満されることがない。「心の社会・日本」 ロレンツ・ストウッキ サイマル出版会
2016年05月12日
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キルケゴール的な(実存)は、わたしたちに、 人間の生のとり換えのきかない「絶対性」 という重要な性格を示し、 ヘーゲルやマルクスの思想は、 人間の生をとり囲んでいる大きな条件の実在や、 その改変の可能性への信ということを示している。 そしてそれぞれは互いに 一方へ還元し切れないような意味を持っているのだ。 思想におけるこういう二つの契機の対立は、 じつは後にマルクス主義の運動が 世界規模で広がっていったとき、 ほとんど和解しがたいような 鋭い対立として露呈してきた。 これをどのように解きほぐすかは、 依然として思想上の最も枢要な問題なのである。「現代思想の冒險」 竹田 青嗣 毎日新聞社
2016年05月11日
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五に日く、あじわいのむさぼり〈餐〉を絶ち、 たからのほしみ〈欲〉を棄てて、 明らかに訴訟(うつたえ)を弁(さだ)めよ。 それ百姓の訟は、一日に千事あり。 一日すらなお爾(しか)るを、 いわんや歳(とし)を累(かさ)ねてをや。 このごろ訟を治むる者、利を得るを常とし、 賄(まいない)を見てはことわりもうす〈讞〉を聴く。 すなわち財あるものの訟は、 石をもって水に投ぐるがごとし。 乏しきものの訴は、水をもって石に投ぐるに似たり。 ここをもって、貧しき民は所由(せんすべ)を知らず。 臣道またここに闕(か)く。 役人たちは飲み食いの貪(むさぼ)りをやめ、 物質的な欲をすてて、 人民の訴訟を明白に裁かなければならない。 人民のなす訴えは、 1日に千件にも及ぶほど多くあるものである。 一日でさえそうであるのに、 まして一年なり二年なりと、年を重ねてゆくならば、 その数は測り知れないほど多くなる。 このごろのありさまを見ると、 訴訟を取り扱う役人たちは 私利私欲を図(はか)るのがあたりまえとなって、 賄賂(わいろ)を取って当事者の言い分をきいて、 裁きをつけてしまう。 だから財産のある人の訴えは、 石を水の中に投げ入れるようにたやすく目的を達成し、 反対に貧乏な人の訴えは、 水を石に投げかけるように、とても聴き入れられない。 こういうわけであるから、 貧乏人は、何をたよりにしてよいのか、 さっばりわからなくなってしまう。 こんなことでは、 君に仕える官吏たる者の道が欠けてくるのである。「聖徳太子」日本の名著 第2巻 中央公論社
2016年05月10日
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ラカンの考え方によれば、 人間はその人生で二度 大きな「詐術」を経験することによって 「正常な大人」になります。 一度目は鏡像段階において、 「私ではないもの」を「私」だと思い込むこと によって「私」を基礎づけること。 二度目はエディプスにおいて、 おのれの無力と無能を 「父」による威嚇(いかく)的介入の結果 として「説明」することです。 みもふたもない言い方をすれば、 「正常な大人」あるいは「人間」とは、 この二度の自己欺瞞を うまくやりおおせたものの別名です。「寝ながら学べる構造主義」 内田樹 文春新書
2016年05月09日
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