全16件 (16件中 1-16件目)
1
![]()
全体で175ページ。 しかも、1ページ当たり13行、 そして、1行当たりでは39文字。 あっという間に、読めてしまう一冊。 来年3月に和田中の校長職を退任し、 後を民間人出身の若手に引く継ぐことが決まった藤原校長。 そんな藤原さんの、現時点における、 教育に関する、様々な考えを知ることができます。 ***「ケータイ」で繋がっている安心感から、自分自身の人生の仕切り感覚を失ってしまい分かりやすい「2項対立」を得意とする「テレビ教」の妄信者となり、それぞれのステイタスを示すはずの「ブランド」を、みんなで一緒に着回している。この「ケータイ・テレビ・ブランド教」からの脱却を、藤原さんは提言しています。そして、「学力問題」における「ゆとり教育」への批判を痛烈に批判。今、必要とされるのは「情報処理力」より「情報編集力」であるとし、「正解主義」から脱し、「納得解」を求めるチカラを育て、「情報編集力」を身につけるさせるため、「よのなか科を!」と宣伝。「超コンビニ化社会」を目指してきた現代は、平和でものに溢れ、人生は長くなった。そこでは、時間のかかる面倒なことは、どんどん減っていき、何のために生きるのかが、逆に見えにくくなっている。それが故に、「生きやす過ぎる」時代「生きにくい」時代でもあると、藤原さん。「いじめは、学校だけでなく、どの世界にも必ず発生する」とも、本著の中で、述べています。けれど、こんな当たり前で、誰もが気づいているはずのことを、どうして、きちんと発言する人が、とっても少ないのでしょう?そして、藤原さんは、いじめのレベルを3段階に分けて捉えようとします。藤原さんが言うように、レベル2が、最も対応が難しい。その複雑さは、テレビが得意とする「2項対立」などでは、とても表現できません。と言うより、当事者の立場ですら、その実体を把握しきることは難しいでしょう。だからこそ、この種の問題解決は、「スッキリ」いくことが皆無なのです。本著は、読みやすく、ボリュームは控えめであるものの、子どもたちが読むことを期待して、書かれた著作ではないでしょう。最後を飾る、第4章「新しい道徳観」は、「エッセイ」としての本著に、ピッタリのタッチで書かれています。
2007.12.31
コメント(0)
![]()
予想していた内容とは、かなり違っていました。 もっと「2ちゃんねる」というものの存在について、 その「社会的価値」を正面から問うような内容の著作だと思っていましたが、 そんなところには全く拘らない、もっと高度な(?)次元を表現したものでした。 私自身、ちょっとはコンピュータとか、 インターネットの世界に、通じている方だと思っていましたが、 それは、単なる思い上がりにすぎないことが、よく分かりました。 本著に描かれている世界は、私のイメージを遙かに超えた奥深いものでした。「Web2.0」という言葉が、実は、どれほどあやふやなものであるかに始まり、「ミクシィ」や「YouTube」等の、インターネットにおける最新動向、「2ちゃんねる」や「ウィニー」等の、インターネット関連裁判まで、裏事情まで含めて、よ~く分かります。本著の最後を締めくくる、小飼弾氏と西村博之氏の対談は圧巻。プログラマー同士のお話なので、ハード面・ソフト面ともに、飛び出してくる言葉や内容は、その全てを理解するのは、素人には難しいでしょう。それでもなお、伝わってくるものは、とても多い……。「それを言っちゃあ、お終いよ」的な、「身も蓋もない」発想と言動。それが、ひろゆき氏ということになるのでしょう。そして、彼が管理する「2ちゃんねる」が、なぜ潰れないと言えるのか、その秘密が、確かに、この一冊の本の中に描かれています。
2007.12.31
コメント(0)
![]()
『デスノートを』読んだ者だからこそ、 その世界にどっぷりと浸って楽しめる。 そして、『デスノート』を読んだ者だからこそ、 著者が施した巧妙なトリックの罠に陥ってしまう。 『デスノート』を読んだことのない人が、 この本を読んでも、多分、あまり楽しめないと思います。 「L」が、どんなキャラクターの人物であるかをよく知り、 「L」のことを、好ましく思っていることが、この本の読者としての最低条件。謎解きは、どれも、なかなかにレベルが高く、読んでいる途中で、そのトリックを見破るのは至難の業。最後に判明する「藁人形の謎」は、比較的単純なものであるのに、そこに至るまでの「アルファベット」や「数字」に隠された秘密は難解。犯人「B」については、「13」や、それに関連する「2」や「4」という数字より、その生い立ちを知ることの方が、実は、より重要。だからこそ、この作品のストーリーテラーは、「ミハエル・ケール」。著者が、この作品タイトルを、実は『Lにメロメロ!』にしたかったのも頷ける。この作品において、「南空ナオミ」という存在は、別に、「南空ナオミ」でなければならないというほどの必然性はないように思われる。ただ、南空が、最後に謎解きに成功する場面において、「L」が、実は、どのように関わり、南空を、そこへと導いたのかを、私は読み取ることができない。そこに至るまでが、とてもスリリングで、心地よい「?」の連続だっただけに、最後に、この「モヤッと」感を持ったまま、読了となってしまったことが、本当に残念で悔しい……。
2007.12.31
コメント(0)
![]()
「さよなら!モラル教育」 これは、本著の帯に、デカデカと書かれているコピー。 「子どもは教育サービスの消費者である」 これは、本著の表紙カバーの概説冒頭に書かれている言葉。 なかなか刺激的な言葉が、次々に並んでいます。 学校で学ぶ児童や生徒を、「消費者」として捉えようとするこの本、 諏訪哲二さんなら、どうコメントするのかな? でも、本著の参考資料に、『なぜ勉強させるのか?』は、ちゃんと入っています。 教育の効果をあげるには、子どもに自ら進んで勉強してもらうしかないのである。まさに、その通りだと思います。馬を水辺まで連れて行くことはできても、馬にその水を飲ませることはできません。(あくまでも例えです。子どもが馬と同じだと言ってるのではありません。念のため。)いかにして、子どもを「その気にさせる」かが、学校教育最大の課題です。 強制されなければ勉強できない状態にしたのは親や教師を含む大人の責任である。潜在的に、子どもには知的探求心があるから、それが消失したとしたら、大人の責任なんだそうです。でも、誰もが、どんなことに対しても、同じように、知的探求心を発揮し続けることができるものなのでしょうか? 学習意欲を向上させるには、勉強がすぐにでも役立つということを教える必要がある。 そのときもっとも有効と考えられるのが 「消費者になるための教育」というキーワードである。「賢い消費者」を育てることに成功すれば、児童・生徒が、学校で「教育サービス」を、正しく消費できるようになるかもしれません。ひょっとすると、そのことによって、今、学校が直面している様々な問題を一気に解決していくこができるかもしれません。そうなると、問題なのは、「賢い消費者」とは、どういうものなのかということになってきます。どんな場面で、どんな行動ができるのが「賢い消費者」なのか?学校という場所で、「教育サービス」を提供する教員たちに「賢い消費者」として、児童・生徒たちが、どんな行動をとればOKなのかということです。 ***著者は、経済学的なものの考え方を、教育に取り入れようとしています。コストやリスク等、損得勘定でものごとを見る目を養うべきだとしています。確かにこれは重要な視点であり、大人も含めて人間というものは、それらを元に、判断・行動していることが、かなり多いように思われます。しかし、消費者も、いつも損得勘定だけで、自らの行動を決定しているわけではないでしょう。自分にとって、リスクが低く、コストパフォーマンスが高いものを選択するのが定石でしょうが、それとは食い違うものを、何らかの事情で選択せざるを得ないこともあるでしょう。「損得」で教えようとするのならば、その部分まで含めて、教えていかねばならないでしょう。ところで、音楽や美術において、歌を歌ったり、絵を描いたりするだけでなく、「どうやって楽しむか」を教えることが大切だという記述には、目から鱗が落ちる思いでした。確かに、現在、音楽や美術といった教科では、生産側からのアプローチ中心で、消費側からのアプローチは、極めて少ないように感じます。しかしながら、第3章の「すべての学科は役に立つ」については、紙面の関係からか、やや突っ込みが甘い気がします。教科書等から得た知見だけに基づいて書かれた様子なので、やむを得ないのでしょうが、教室における授業の深さがどれ程のものなのか、機会をつくって、色んな現場を、覗いてみられることをお勧めします。著者が提案されていることがらの多くは、すでにあちこちの教室で、当たり前のように、転がっており、それらは、著者が思い描いていたものより、案外深いものがあるかもしれません。
2007.12.24
コメント(0)
![]()
『交渉人』を読んで、すっかり五十嵐さんのファンになってしまった私。 そして、彼の作品を読む2冊目に選んだのが、この『Fake』。 ボリュームは相当なもので、解説の最後のページのナンバリングは「577」。 先日読んだ『チーム・バチスタの栄光』の上下巻を合わせたページ数を上回ります。 まぁ、海堂さんの『チーム・バチスタ……』の方も、 元々1冊だった作品を、文庫化した際に2冊に分けたものですが、 それ分、手に取ったときに、軽くて納まりがよく、とても扱いやすい。 ただし、その分、価格は割高になってしまっていますが……。それに比べると、『Fake』の方は、分厚くて、手に取るとズッシリ重い。その外見と重量は、読む側にとって、大きな威圧感を与えることに。しかしながら、一冊にまとまっている分だけ、価格の方は割安。そして、読み始めると、その威圧感は全く気にならないほど、お話に引き込まれてしまいます。幕開けは、センター入試を舞台にした「カンニング」。最新技術を駆使したその手口は、「これなら、本当にできるのかも……」と思わされてしまうほど。情景描写は鮮明で、まるで映像を見ているような、緊迫感を味わえます。しかし、緊張感が高まる中、「もう一歩で成功!」というところで、お縄に……。そして、この失敗のリベンジに乗り出す、普通ならあり得ないような組み合わせの4人。この時も、勝利まであと一歩と迫るのですが……そ、そんな……。それでも、それぞれが持つ能力が、やがて最後の大逆転へと結びついていきます。敵を、そして見方までも鮮やかに欺くその様に、映画館で『オーシャンズ』シリーズを見たときのワクワク感を味わい、さらに、ポーカーで敵と対峙する場面での緊張感に、韓国ドラマ『オールイン』を見たときの、心臓を締め付けられるような気分を思い出しました。『交渉人』とは、テーマも人物設定も大きく異なるこの作品。しかしながら、流れるような文章の中で(だから、とても読みやすい)、周囲に広がる光景や、人々の心の内を、鮮やかに描き出していくその技量は、『交渉人』同様、五十嵐貴久という作家のスゴさを、改めて教えてくれました。
2007.12.24
コメント(0)
![]()
下巻では、いきなりの新キャラクター登場。 その名を白鳥圭輔。コードネーム(あだ名?)は、火喰い鳥。 厚生労働省大臣官房秘書課付技官、そして、これは、後に判明するのだけれど、 医療過誤死関連中立的第三者機関設置推進準備室室長。 医学部卒の、ロジカル・モンスター(論理怪獣)。 そして、素敵な服を下品に着こなす男。 紺の背広(アルマーニ?)に、黄色いカラーシャツ、深紅のネクタイ。 この下品さを表すための、著者の表現が、とってもイカしてる。 それは、某プロ野球球団がトレードで 他の全球団の四番バッターを集めて組んだ打線と同じくらいの下品さだ。今なら、打線のことだけでなく、「他球団から、最多勝投手に押さえのエースまで引き抜き集めた投手陣」についても、言及しなけりゃ、いけなくなっちゃいましたね。今流行の「品格」とは、対極に位置するものです。さて、パッシヴ(受動的)・フェーズに長けた田口医師とアクティヴ(能動的)・フェーズを得意とする白鳥技官。この絶妙の組み合わせが、連続術中死の謎を解き明かしていきます。その、スリリングさと言ったら、もうたまらない!中でも、白鳥技官の破天荒さは、際立っています。しかも、それが、どうやら計算尽くらしい(?)ところがスゴイ。映画では、阿部寛さんが演じるそうですが、小太りじゃないところを除いては、イメージはピッタリかも。ところで、この作品では、登場する場面がなかった白鳥さんの部下である「氷姫」こと姫宮さんに、私は、とても興味を持っています。『ナイチンゲールの沈黙』や『ジェネラル・ルージュの凱旋』では、ひょっとして、彼女も登場し、活躍しているのでしょうか?
2007.12.23
コメント(0)
![]()
今回は、お話が一気に流れ始めました。 まずは、懸案だった「傲慢(プライド)」の正体が明らかに。 「始まりの人造人間(ホムンクルス)」と名乗るその人物は、意外!? しかし、この緊張の場面でも、さすがにホークアイさん、格好いい! そして、一方のマスタングさん。 リザに別件で電話したんだけど、 どれくらいのことを、その限られた会話の中から感じ取ったのか? ま、マスタングさんですからね、大丈夫のハズです。今巻は、ウインリーも良かった。さすがに、ロックベルの血を引く者。そして、スカーとマイルズ少佐のやりとりもグッド!イシュヴァールの新たな歴史の始まりとなるか?さて、巻末の次号予告ページにある「フラスコの中の小人(ホムンクルス)」の記事も気になる。「冥き闇(くらきやみ)最初に生まれたのは…!?」のコピーから、いよいよ、次号では、その謎について、かなり解明されると期待できそう。
2007.12.23
コメント(0)
![]()
今巻の主役は何と言っても、ウソップ君。 ペローナの繰り出す「ネガティブ・ホロウ」に、誰もが苦戦する中、 攻撃を全く寄せ付けないウソップ君。 その生来のネガティブさには、誰もが脱帽! さらに、そげキングに変身すると、 想像を超える粘り腰で、ペローナのトリックを見破り、 「衝撃(インパクト)」、「必殺、黒光り星」の連続攻撃。 そして、とどめは、ウソ・はったりの「ゴールデンパウンド」。サンジが、怪人アブサロムを倒し、ゾロが、侍・リューマを倒し、チョッパーが、怪人ホグバックを倒しかけたけれど、圧倒的パワーと敏捷性を合わせ持つオーズ登場。ルフィーは、オーズにどう立ち向かうのか?モリアとの決着は、どうつけるのか?そして、シンドリーちゃんの笑顔は、何を意味するのか?いよいよ、今シリーズも面白くなってきました!
2007.12.23
コメント(0)
![]()
世間知らずの私は、このお話のことを、 「バチスタ」というタイトルだけから、 てっきり、TVドラマでやっていた『医龍』の原作だと思っていました。 『医龍』の原作は、マンガだったんですね(最近の定番)……。 ドラマの方は、第1シリーズの最終回あたりを、チラッと見ただけで、 全体のお話は、ほとんど掴めていない状況。 しかも、第2シリーズに至っては、全く見ていなかったため、 この誤認は、本著を読み終える直前まで、訂正されなかったわけです。しかしながら、そんな誤った認識のなかで読み始めた本作品は、期待を遙かに上回る、素晴らしい出来映えのものでした。早速、映画化されたのも、当然のことと感じられます。でも、田口さん、映画では女性なんですね……かなり違和感……。と言うのも、本作は、主人公である田口医師が、「俺」という一人称で語りながら、ストーリーを展開させていきます。最初、この「俺」という言葉遣いに、少なからぬ衝撃を受けた私としては、「田口さんは、やっぱり男じゃないとなぁ……」と感じたわけです。そんな、自分のことを「俺」と言うような田口医師。しかも、大学病院では、かなりのアウトサイダー的存在。しかし、臨床医師として、愚痴外来で患者に接する様子や、病院長からの無理難題応え、誠実に行動する様など、実はかなりイイ人と思われます。そして、私が前述の理由で、本当の主人公と勘違いしていた桐生助教授。バチスタと呼ばれる心臓外科手術の世界的権威であり、圧倒的な存在感。そんな彼が、自分の目で選んだ精鋭たちで編成したのが、チーム・バチスタ。ところが、このチームで、原因不明の連続術死が発生してしまう。この連続死の謎を解明すべく、院長の命を受け、田口医師が内部調査を開始。その聞き取り調査の中で、チーム・バチスタのメンバーや、大学病院の中の人間模様が、次第に明らかにされていく様は、見事。しかし、そんな中、さらなる術死が発生して、上巻は終了です。
2007.12.23
コメント(0)
![]()
思わず一気読みしてしまった。 たいへん読みやすく、そしてお話としても面白い。 書いてある内容は、物語のなかでゾウの姿をした神様が語っている通り、 そのへんのビジネス書に、いくらでも書いてありそうなことばかりなのに。 主人公は、いわゆるダメキャラ。 グータラで、「何とかしなきゃ」と思いつつも、 実際に行動を起こす、遙か手前で立ち止まっている、 いや、寝っ転がっているような、目立たぬ存在。一方、ゾウの姿をした神様であるガネーシャは、強烈な個性を持つ、極めて破天荒な存在。一般的な神のイメージからは、ほど遠く、関西弁であんみつを要求しながら、わがままいっぱいに振る舞う。「自己実現」を扱ったビジネス書であれば、金科玉条を披露するが如く、かしこまって書かれている様々なノウハウが、強烈な個性を持つ二人のキャラクターにより、ストーリーとして再現され、その様相は、スピーディーなドタバタギャグのコントや漫才を見るかのよう。「成功したい」「自分を変えたい」と望む主人公に対し、色々な課題を与え、そのノウハウを伝えてきたガネーシャ。そんなゾウの姿をした神様が、ダメキャラを脱しつつある主人公に、最後に残していった言葉が、たいへん印象的。 「成功だけが人生やないし、理想の自分あきらめるのも人生やない。 ぎょうさん笑うて、バカみたいに泣いて、 死ぬほど幸福な日も、笑えるくらい不幸な日も、 世界を閉じたくなるようなつらい日も、涙が出るような美しい景色も、 全部全部、自分らが味わえるために、この世界創ったんやからな」 そして、ガネーシャは言った。 「世界を楽しんでや。心ゆくまで」
2007.12.23
コメント(0)
![]()
以前、内田さんの書いた『下流志向』を読ませてもらい、 『子どもは判ってくれない』というタイトルを見かけたものだから、 てっきり、子どもを取り巻く諸々の事柄について述べた本だと思って購入すると、 予想していたものとは、かなり違う内容のものでした。 大学教授を務める内田さんは、フランス現代思想や武道に精通しておられる方。 本著でも、いきなりオルテガというスペインの哲学者の著作を引き合いに、 「敵とともに生き、反対者とともに統治する」という市民の基本的な構えが、 今の私たちの社会にもっとも欠けているのではないかと指摘しています。こんな感じで、色んな思想家や哲学者の言葉が引用されたり、それらを元に、お話が進められていくので、書かれている内容をきちんと理解しながら、読み進めていこうとするならば、なかなか骨の折れる作業になってしまいます。 ***「あとがき」で読んで、始めて知ったことなのですが、内田さんの出版物の中には、内田さんがウェブサイト上で公開している日記風エッセイをまとめたものがいくつかあり、本著もその中の一冊です。と言うことは、この本は買わなくても、ウェブ上で読むことができる……。試しに、インターネットで検索にかけてみると、確かに、「内田樹の研究室」という、とても充実したサイトが存在し、そこには、本著に掲載されている記事も見受けられます(全てではありませんが)。ちなみに、2007.12.12の記事は「19回目の断筆宣言」という、気になるタイトル。 ***さて、本著を読んで、私が「なるほど」と思った箇所を、いくつか挙げておきます。 今、私たちの社会はそのような 「具体性を欠き、誰に向かって言っているのかよく分からない」けれど、 文句のつけようのないほど「正しい意見」に充満している。 新聞の社説からニュース解説から大臣や官僚の国会答弁からテレビ人生相談まで、 そんなのばかりだ。(p.20) 大切なのは、「言葉そのものが、発話者において首尾一貫しており、 論理的に厳正である」ことよりも、 「その言葉が聞き手に届いて、そこから何かが始まる」ことである。(p.17)このブログも、誰に向かって、何を言おうとしているのか、ハッキリしないなぁ……。しかも、「正しい」とか「首尾一貫」という部分も、かなり怪しいし……。 職業選択というのは「好きなことをやる」のではなく、 「できないこと」「やりたくないこと」を消去していったはてに 「残ったことをやる」ものだと私は考えている。 つまり、はたから見て「好きなことをやっている」ように見える人間は、 「好きなこと」がはっきりしている人間ではなく、 「嫌いなこと」「できないこと」がはっきりしている人間なのである。(p.114)これには、目から鱗が落ちました。「嫌いなこと」「できないこと」を、金儲けのためだけに延々とやり続けるのは、確かに、とってもとっても辛いことでしょう。そう思えば、とりあえずは、「嫌いじゃない」「できないでもない」ことを職業としている人は、結構、幸せってことで、周囲からも、そう見えるのかもしれません。 「誰にも迷惑をかけてないんだから、ほっといてくれよ」と言って、 買春したり、ドラッグをやったり、 コンビニの前の道路にへたりこんでいる若者たちがいる。 彼らは「人に迷惑をかけない」というのが、「社会人として最低のライン」であり、 それだけクリアーすれば、それで文句はないだろうというロジックをよく使う。 なるほど、それもいいかもしれない。 でも、自分自身に「社会人として最低のライン」しか要求しない人間は、 当然だけれど、他人からも「社会人として最低の扱い」しか受けることができない。 そのことはわきまえておいた方がいいと思う。(p.125)でも、それをわきまえていない人が、とっても多いんですよね……。困ったもんだ……。 自分の身体の発する身体信号を感知できない人は、 他人の身体の発する身体信号をも感知できない。 自分の身体を道具的に利用することをためらわない人は、 他人の身体を道具的に利用することもためらわない。(p.128)身体毀損を「快楽」として享受するのは、自己中心的な臓器である「脳」というところが、ポイントです。よろしければ『騙される脳』も、お読みください。 「自分の主張は間違っている可能性もある」という前提に立つことのできる知性は、 自説を無限に修正する可能性に開かれている。 それは「今ここ」において付け入る隙なく「正しい」議論を展開する人よりも、 将来的には高い知的達成にたどりつく可能性が高い。(p.176)ソクラテスの「無知の知」に通ずるところかな。 多くの人が勘違いしているが、 人間の価値は、その人にどれほどの能力があるかで査定されているのではない。 その人の「替え」がどれほど得難いかを基準に査定されているのである。(p.304)「存在感」ということですかね。 いつまでもアメリカ国民を 「メイフラワー号」とジョージ・ワシントンで統合することはできまい。 だが、アメリカにはそれに代わる統合軸が存在しない。 だから、遠からず国民国家としては解体するだろう。 それは、もうあまり遠い先のことではないように私には思われる。(p.314)この部分に至る前段の、アメリカが、あと数十年で「白人の国」でなくなるとの記述も、目から鱗でした。 平和憲法下の六十年間は日本人を「動物園の草食動物」のような へなへなとしたものに変えてしまった。 学力低下もニートも引きこもりもリストカットも解離症状も 少子化も非婚化も少年犯罪も……これらはすべてある意味で「平和の代償」である。 「動物園症候群」と申し上げてもよろしいかと思う。(p.320)でも、内田さんは「動物園症候群」を悪いものとして捕らえているわけではありません。改憲して「サバンナのシマウマ」になるよりも、平和ぼけしたままの「動物園のシマウマ」の方が、100倍ハッピーだと確信している、そんな考えの方です。
2007.12.16
コメント(0)
![]()
人間は社会的動物である。 ならば、その社会的動物であるという資質や能力は、 どのようにして形成されるのか。 この疑問に答えるべく、教育社会学の専門家が書き表したのが本著である。 本著では、「社会性」という言葉が、 既にある社会に個人として適応する側面に重きを置く概念であることに対し、 「社会力」という言葉を、 一つの社会を作り、その社会を維持・運営していく力、という意味で用いている。そして、著者は、「社会力」が、本来の機能を発揮するためには、その下地として、十分な他者意識や他者への共感能力が備わっていることが、必要であるとする。しかし、わが国の現状は、「社会的凝集力」が、衰弱しきってしまっている。 人々は互いに無関心の度合いを深めているし、 その結果として、社会に対する関心をなくしており、 さらには、わが子が使う言葉を親が理解できず、 先生のいう言葉の意味が生徒に伝わらず、 自分が行動している場所がどんなところかに頓着せずに振る舞い、 周りにいる人がどこで何をしようと「われ関せず」でかかわろうとせず、 社会がどんな状態であろうと 「好きな人が何とかすれば」といっこうに関心を示さない、 といった事態が進行している。(p.70)急速に進んだ新生児の研究により、ヒトの声を聞き分けたり、大人の顔を見分けたり、大人を真似たり等々、ヒトの子は、驚くほどの高度な能力を先天的に備えていることが、次々に明らかにされてきている。そして、ヒトの子の「社会力」は、生まれた直後からの<ひと>環境と、頻繁な相互作用の継続によって形成されていく。ところが、家族のサイズが小さくなり、家庭のホテル化と家族の分断が進んでいる。家庭内での共同作業の機会は、めっきり少なくなってしまった。また、都市化が進むなか、都市に移った新住民たちは、コミニュティを作ることはしなかった。そのため、「地域」はあっても、「コミュニティ」なしというという状況。学校も、経験主義的カリキュラムが放逐され、偏差値が仲間意識を切断してしまった。子どもたちの主要な生活空間である、家庭も、地域も、学校も、人と人とが交流し、共同体験をし、互いに協力しあう場とは、ほど遠いところになってしまっている。そこへ持ってきて、人との直接的な関わりを切断する情報機器の隆盛。「教育」によって子どもは育つか(p.158~)の部分は、圧巻。この部分を読むためだけにでも、本著を購入する価値がある。次は、その一部である。 ヒトの子は、それほど簡単に、着色の仕方によって、 赤色になったり青色になったりする動物なのであろうか。 入れた器の形によってどんな形にも変形させることができる生き物なのであろうか。 もちろん、答えは否である。 むしろ、教育というのは、社会的人間として それ相当の資質や能力が育った段階で行ってこそ効果を発揮するのであって、 社会力の基礎的資質ができていいない人間に無理強いしても 効果は逆になると考えた方がいい。(中略) 教育で云々という前に、私たちは、まずもって、 子どもを、社会力のある人間に育てなければならないのであり、 そのために、他者との相互行為を豊かにし、 他者と共同で行う実体験を豊富にする必要があるのである。そのために、大人は応答しなければならない。家庭でも地域でも、子どもへの応答が求められる。そのことで、子どもたちの社会力を高めていかなければならない。父親たちは、生活態度を変え、子どもに関わることを喜びとし、学校や地域に積極的に関与していく必要がある。また、地域は、ハード、ソフトの両面から、「子どものための地域づくり」を進めていく必要がある。地域に住む多様な人々が、子どもたちと積極的に交流し、共同体験を活発にしていく仕掛けが必要である。
2007.12.15
コメント(0)
![]()
大学教授が書いた著作であり、 しかも、新書という形態で発行されているのだから、 ちゃんとした研究に裏付けられた、学術書に違いないと思って読み始めたら、 そういう部分も、感じられないではないけれど、 私が思うに、多分、これは単なるエッセイです。 『女は男のどこを見ているか』について、様々な角度から述べられていますが、 様々なデータから、客観的事実を掴み、それを披露しているというものではなく、 あくまでも、著者の経験に基づく、主観的な個人の意見主張に留まっています。ですから、単なる「読み物」として読めば、なかなかに面白いし、「そういうこともあるかな」と、共感できる部分も多いです。とは言え、著者はどう頑張っても、男性ですから、本当のところ、女性が、男性のどこに目を向け、何を求めているかについては、男性である著者の経験(著者が接した女性たちの口にしたこと)だけに基づく、主観的なアプローチからだけでは、広く、一般的な女性の感覚には、近づいては行けない気がしますけれど……。小雨がぱらつく年末の晩、小さなお地蔵さんに手を合わせている著者に、一人の年配の女性が声をかけたというエピソードが、本著で紹介されていますが、私も、その女性と同じ言葉を、著者に贈りたいと思います。「ふーん、がんばってね!」
2007.12.15
コメント(0)
![]()
『下流志向』を読むために『オレ様化する子どもたち』を読み、 その後、『学校のモンスター』を読んで、本著に至りました。 内田樹さんの著作がきっかけとなって、 最近は、諏訪哲二さんの書いたものを読む機会が多くなっています。 本著も今年の2月に刊行されたものなので、 『学校のモンスター』同様、最近の新しい動向が盛り込まれ、 教育に関わる様々なものの、現在のリアルな実態が伝わってきます。 まぁ、刊行後、安倍政権が崩壊したため、多少の変化はありますが。本著の全体を通じて、諏訪さんは、現在の子どもたちの姿を分析し、勉強をする場としての学校の役割は何か、そこで教師の果たすべき役割は何か、そのために、子ども(生徒)や家庭・地域は、どうすればよいのかについて述べ、子どもたちに「なぜ、勉強させるのか?」を、明らかにしようとしています。まず、子ども(生徒)については、 勉強をしなくなったことと比較をしなくなったことは、まったく同じ体質から出ている。 「自分」がまだ未熟であるとか、 もっと修行して立派な人にならなくてはなどと思わないとすれば、 無理して勉強する馬力は生じない。 「自分」が絶対化した感覚に閉じ籠もれば、ほかにも無数の「自分」がいて、 「自分」はその無数の「私」のうちの一人にすぎないと気づくことはできない。 おとなになれない。(p.48)そして、学校における教師と生徒の関係については、 家庭での養育のはじめに、慈しみと同時に子ども(赤ん坊)の動きを規制し、 秩序づけるしつけがあるように、 学校における教育のはじめにはさまざまの身体的な訓練が組み込まれている。 まず、導く者としての教師が子ども(生徒)たちに 理屈抜きに受容されなければならない。 教師は、すぐれているから、子ども(生徒)たちに受け入れられるのではない。 「教師はすぐれている」と思い込まないと、生徒になれないのである。 本当にその先生の優劣がわかる生徒は、もう教育を受ける必要はない。 これは身体的訓練の一種なのである。(p.117)さらに、学校の果たすべき役割については、『論座』(2005年12月号)における、藤原和博さんの発言がとりあげられています。 学校って生活指導という部分が絶対に欠かせない。 学習に向かう態度みたいなものをきちっとさせたうえでないと、 基礎学力も応用力もつかない。 子供たちは自分に関係する人からしか学ばないです。 関係が深い人から多く学ぶというシンプルな原則で動く。 あるいは、体育大会とか学芸発表会とか、行事を通じていろんな人間関係のとり方を学ぶ。 好きなやつとばっかりじゃなくて、嫌いなやつとどうつきあっていくのか。 そういう距離感みたいなものを学んでいる。 僕は塾を否定しませんが、そこは、塾にはない。 学校の非常に大きな機能だと思っています。(p.104)次に、教師の役割と家庭・地域の姿勢については、 実際の生活指導においては、必ずしも教師が道徳的人間である必要はない。 教師はすぐれている人間の理念的な代理を務めればいいのである。 子ども(生徒)が教師を(約束事として) すぐれている人間の代理をしている人と見なしてくれればいいのである。 そこに教育的契機が生じる。 子どもが知的・人間的に成長するためには、 とりわけ、すっと勉強に入って行けない子どもたちが学べるようになるには、 やはりまず親が学校を信頼していなければならない。 そのことが子どもに伝わらなければならない。 そして、地域や社会が子どもたちに「学校で学ぶこと」が大切であるという 暗示をかけられるような姿勢や仕組みが力量が必要であろう。(p.117) 指導論としては、カリスマ教師・蔭山さんについて言及し、 教師は生徒(子ども)の対応の仕方によって、 自分の立ち居振る舞いや指導を変えなければならない。 世の人たちはカリスマ教師・蔭山さんはどこへ行っても すぐれた教師として通用するものと思っていよう。 しかしながら、若い教師はいざ知らず、 経験のある教師はそうならないことを肌身で知っている。 今日教室で上手くいったいったことが、 明日はもう通用しなくなることを知っている。(p.124)さらに、「親力」ブームに対しては、 最近よく格差社会ということが言われて、 裕福なお家の子女が学習塾へ行けるので不平等だという議論がなされるが、 実は家庭の経済的(お金)な差よりも、文化的(知的)な差が 教育的不平等を生み出していると社会学的常識では考えられている。 日本も明治以来あらゆる階層から人材(能力)を発見するような 教育的鋤き返しがなされてきたが、 1970年代後半に、ほぼ全員が高校に進学するようになり、もう鋤き返す余地がなくなった。 そして、大学全入は、ほぼ達成されつつある。大学というブランドは虚名化しつつある。 もう自分たちに階層的上昇の可能性はなくなったことに気づいてか、 子ども(生徒)たちはおしなべて勉強しなくなった。(p.194)そして、最後は、次のように締めくくっています。 したがって、勉強することには、覚悟がいります。 まず、自分の「ありのまま」を投げ出して、 外部の「知」や文化の体系の中に入り込まなければならないからです。 自分の「ありのまま」を投げ出せない人は、 どんなに机に向かっていても、知的身体になれません。(p.254)本著は、日本の学校教育システムについて、もう一度原点に返り、考え直してみる必要があることを、私に教えてくれました。その意味で、大いに感謝!!
2007.12.02
コメント(0)
![]()
『16歳から……』とありますが、決して侮るべからず。 これまで、私が読んできたビジネス書の中でも 最も感銘を受けた一冊にしてもいいほどの、衝撃の一冊。 「経営」や「組織」を考える上でのポイントを、実に明快に示してくれています。 この一冊を読めば、セブンーイレブンの強さの秘密が分かります。 OFC(店舗経営相談員)が、各店舗の店長が、そしてアルバイトやパートまでが、 自分の持ち場全体を見つめ、何をすべきかを考え、自らの意志で動いている。 この、意志を持った人々の組織的な動きが生み出すパワーは、計り知れません。より多く売れる商品を揃えるために必要な「仮説力」。それは、「顧客のために」ではなく、「顧客の立場で」考えること。「顧客とはこういうもの」「顧客はこうあるべき」という過去の経験に縛られず、自分の中にもある、顧客の真理を呼び起こし発想することで、変化に対応していく。より多くお客さんに買ってもらうための「売り込む力」。それには「接客」と、そこから生まれる「顧客ロイヤルティ」が重要。ここで私が感じたのは、セブンーイレブンがやろうとしているのは、昔の商店街でよく見られた、売り手と買い手の関係づくりじゃないかということ。ヒット商品を生み出す「商品開発力」。MD(マーチャンダイザー)が、メーカー・卸とチームを組み、職務を遂行する。「本物」にこだわりながら、「不可能」を「可能」に変えていく。互いに思いを共有しながら、数値目標で具体的な行動を引き出していく。人によりよく働いてもらうための「マネジメントする力」。セブンーイレブンでは、全OFCを毎週、東京の本部に集めFC会議を行う。ダイレクトに語り、「暗黙知」を共有するために。 鈴木さんは、こんな例を挙げる。なぜ、学生は学校に通うのか。 単に情報を受け取るだけならインターネットを使うこともできる。 しかし、それだけではなく、 先生やクラスの仲間と互いに触れ合いながら学び、話し、遊ぶことで さまざまなものを身につけ、人間としての力を高めていく。 だから、ダイレクト・コミュニケーションが大切なのだと。「ポリスマン」ではなく「対話をともなったティーチャー」として相手の目線を外に向けさせ、そこにある新たなニーズに気付き、新しいことに挑戦させていく。言葉で動かすのではなく、自分の口でいわせて行動させる。 最初から手取足取りで教えることもできます。 でも、それではぼくの“クローン”をつくるだけで、発注分担の意味がないと思うのです。 そうではなくて、どのアルバイトもパートも、まず、自分で考えることから始めてもらう。 それが仕事の第一歩です。そして、トップになったら何をすればいいのか?それは、働いている人たちが「ここにいてよかった」と思える会社をつくること。 企業理念とか、企業ビジョンというと難しく聞こえるが、 要は、その会社にとって何を「あたりまえ」と考え、 そこで働く人たちが何を「あたりまえ」と感じて仕事をするかということなのだろう。 そして、誰もがあたりまえのことをあたりまえにできたとき、 「この会社にいてよかったな」と実感できる。さらに、トップに必要とされる力として、「決める力」「過去を否定する力」「徹底させる力」そして、「伝える力」「未来型の発想力」が挙げられている。これらの力こそ、鈴木敏文さんが持つ、卓越した力なのでしょう。
2007.12.02
コメント(0)
![]()
「交渉人」「ネゴシエーター」という言葉も、 随分広く、世間で知られるようになってきました。 その上で大きな役割を果たしたのは、 『踊る大捜査線』のスピンオフ作品『交渉人真下正義 』かも知れません。 私の場合、それ以前から「ネゴシエーター」には興味を持っており、 関連本を読んで、ブログに記事も書いていました。 そして、ある時、新聞広告で見つけたのが『交渉人遠野麻衣子・最後の事件』。 女性の交渉人も面白そうだと、とても興味を持ちました。けれど、『最後の……』とあるからには、この遠野麻衣子さんという交渉人、きっと他の作品にも登場しているはずと思い、色々と調べてみたところ、本著に辿り着いたというわけです。そして、読み始めると、もう止まらない……一気読みしてしまいました。犯人と交渉人との駆け引きはもちろん、上司である男性と、部下である女性の微妙な関係、『踊る大捜査線』でも見られる警察内部の葛藤等、色んな要素が盛り込まれ、読んでいる者を、どんどん引きつけます。顔中に包帯を巻いた長身の男が登場した当たりでは、「やっぱり、何かおかしいな」と感じていましたが、まさか、こういう結末を迎えるとは……。立て籠もりの現場が、なぜ、病院だったのかという謎が解明されます。『白い巨塔』をも連想させるテーマを、こんなスピード感とスリル溢れるサスペンス作品に仕立て上げた五十嵐さんという作家の力量は、本当にスゴイです!『パパとムスメの7日間』もTVドラマで見たけど、面白かった。『交渉人遠野麻衣子・最後の事件』だけでなく、『1985年の奇跡』『2005年のロケットボーイズ』や『安政五年の大脱走』も読んでみたいな。当分の間、五十嵐貴久作品を楽しめそうです。
2007.12.02
コメント(0)
全16件 (16件中 1-16件目)
1

![]()
![]()