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いやぁ、ほんまびっくりしたわ。 ここまでやるか、っちゅうかんじやね。 ほんでも、ふだん関西弁使てるもんからしたら、 こっちの方が、めっちゃリアルで、ビンビンくるわ。 何の話かゆうたら、『進撃の巨人(17)の限定版』に 9枚組クリアしおりと一緒に付いとった『関西弁版(1)』のこっちゃ。 話しのスジは、全然変わっとらんのに、 喋ってる言葉は、ものの見事に関西弁になっとるがな。 「関西人」と書いてあるんやけど、ルビふって「じんるい」と読ませたり、「超大型巨人」と書いてあるんやけど「めっさでっかいおっさん」と読ませたりしてる。途中の「まぁなぁ…たしかにそうかもせん」のとこだけは、ちょっとよう分からんかったけどな……まぁ、関西弁も色々あるし。「出現」を「ノリ」、「対応」を「ツッコミ」、「突然」を「いきなし」とか、ほんま、よう言葉選んで、使てるのが分かる。何より、ミカサの「堪忍な…」なんか、ほんまにかわいいし、「現在公開可能な情報」のページも完璧やで!!さらに、ジャンはなぜか「川藤幸三」になっとるし、「エレン」は「ヘレン」に言い間違われてるし、「ウォール・ウメダ」に「ウォール・ナンバ」「ウォール・テンノウジ」「新喜劇」「NSC」に「痛快エブリデイ」ときたらたまらんわ。みんな『関西弁版(2)』が出ること、首を長ご~して待っとること、間違いなしや。
2015.09.26
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上巻では災難続きで、騙されっぱなしだった陽子ですが、 下巻に入ると、ようやく信じることのできる存在に出会います。 それは、普段ネズミの姿をしている半獣の楽俊。 でもしばらくの間、陽子は彼を信用することができませんでした。 そりゃ、そうでしょう。 あれだけ、散々な目に会い続けていたら、人間(?)不信になっても仕方ない。 でも、そんな陽子の態度にもかかわらず、親身になって接してくれる彼に、 やっと、陽子の方からも、心を開く時がやってきたのです。そして、彼と旅をする中で、陽子は、自分をこの世界に引きずり込んだケイキの正体と、自分が、この世界でどんな存在なのかを知ることになります。さらに、この世界では、名君として知られる延王にまで会うことに。そして次やりとりは、延王の麒麟である延麒と、陽子とのもの。 延麒は顔を顰めて笑った。 「尚隆は胎果の王に増えて欲しいんだ。気にしてやることはない。 何しろ、いままで一人だったからな」 「いま現在、一人?」 「いま現在、一人だな。過去に何人かいたようだけど、そんなに数は多くない」 「延麒も胎果なんでしょう?」 「そう。おれと尚隆と泰麒と。陽子で四人目だな」 「泰麒、ということは、戴国の麒麟?」 「そう。戴極国の雛さ」 「雛、って」 「成獣じゃなかった」 「延麒は?」 「おれは成獣だよ。麒麟は成獣すると外見の成長が止まる」(中略) 「泰麒は死んだ。少なくとも死んだと伝えられている。 いま戴国は争乱の渦中だ。泰麒も泰王も行方が知れない」(p.220)何やら意味不明の言葉が飛び交っていますが、ここまで読み進めてくれば、おおよそ話の内容は理解できるようになってます。(逆に、いきなりこの文章を読んでも、理解するのは到底不可能)注目すべきは「泰麒」という言葉。そうです、『魔性の子』で登場したタイキです!でも、『魔性の子』と『月の影 影の海』との、時間関係は明確には示されていないけれど、多分、延王がお迎えに出かけたのは、このお話しの後のような気がします。まぁ、とにかく、陽子は自分の運命を、自ら決め、歩んでいくことになるのです。
2015.09.26
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『十二国記』シリーズ本編の第一作。 序章である『魔性の子』とは、お話しとして直接はつながっていない模様。 こちらの方も、まず高校の教室風景が描かれます。 登場するのは、学級委員長の中嶋陽子。 学級では、不本意ながら、クラスメイトのいじめにも同調し、 家庭では、不本意ながら、父親の言葉に従いながら過ごす日々。 しかし、それが一変、突然現れた巨鳥や妖魔によって襲われると、 ケイキと呼ばれる不思議な金髪の男に、別の世界へと導かれてしまいます。ケイキが陽子に憑依させた「ジョウユウ」の力で剣を扱いながら、数々の困難や妖魔たちを退けていきますが、女郎宿に売られそうになったり、荷物を奪われたりと散々な目に遭い続け、元の世界に戻る糸口は全く掴めないまま。そして、今にも生命の火が消えてしまいそうになったところで、本巻は終了。妖魔とのあいだに繰り広げられる戦闘シーンも、もちろんハードですが、自分の周囲の人たちが、自分のことを本当はどう思っているのかを知るシーンは、それ以上にハードなものでした。
2015.09.23
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ワールドカップでも大活躍したINAC神戸の鮫島選手が、 自身のブログで『十二国記』を紹介していたので、読んでみました。 本著は、『十二国記』の序章に当たる一冊ですが、 最初は、高校を舞台としたお話が、フツーに展開していきます。 登場するのは、教育実習生として母校に戻ってきた広瀬と、 彼の恩師である理科教師・後藤や、化学準備室に屯する生徒たち、 そして、広瀬の担当クラスで、一際変わった雰囲気を漂わす高里。 彼は、幼少時に神隠しに遭ったという、アンタッチャブルな存在。お話しの途中途中に挟み込まれるお話しは、とても幻想的なもので、このお話しが、謎に満ちたものになっていくことを予感させます。そして実際、次第次第に常識では考えられない出来事が起こり始め、高里の気分を損ねた者は、次々に報復されていきます。そのレベルは、最初は小さなもので済んでいましたが、時を経るにつれ、甚大な被害を出すようになっていきます。そんな中、高里は自分がなにものであるのかを、遂に思い出し、迎えにやって来た延王と共に、故国へと帰っていったのです。 ***本著だけでは、まだその世界観を、明確に掴むには至りませんでしたので、引き続き、シリーズ本編・第1作の『月の影 影の海』を読むことにします。
2015.09.23
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「限界集落」という言葉は、 先日最終回が放映された「ナポレオンの村」でキーワードとなっていたもので、 自由主義・競争主義を軸とした、効率性・経済性・合理性を追求する立場と、 暮らしの「安心・安全・安定」を追及する伝統的立場の鬩ぎ合いも描かれていた。 大野晃氏の限界集落論では、65歳以上の高齢者が集落の半数を超え、 独居老人世帯が増加すると社会的共同生活の維持が困難な「限界集落」となり、 この状態がやがて限界を超えると、 人口・戸数ゼロの集落消滅に至るとされている。(p.042)しかしこの問題を解決するためには、高齢者向けの対策だけでは終われないのに、そういった集落に残っているのは、実際に高齢者ばかりになっているため、地域社会を継承するために、どうやって人を呼び戻すのか、また、どうやって人を呼び込むのかという対策が、遅れてしまっている。 2010年代は、世代の観点から見たときに、大きな分岐点となる。 というのも、これまで過疎地の中心を担ってきた昭和一桁生まれ世代が80歳代を超え、 平均寿命を突破し始めるからである。 既に現場では、長い間元気で地域を担ってきた人々が亡くなり、 リーダー不在に陥るケースも現れてきている。(中略) 戦前生まれ世代、中でも戦前の教育を受け、 それ以前の社会形態を引き継いできた最後の世代・昭和一桁生まれが、 ついに地域社会から姿を消し始めている。 これに対し、それ以降の世代は、 彼らに地域を託してすでに多くが都会へと出てしまっているわけだ。(p.119)まさに、現在進行形の大問題がこれである。世代交代が上手く行われているところは、残念ながら少ないのではなかろうか。そう、引き継ぐべき人が、既にそこにはいないのだから。じゃあ、呼び戻す、呼び込むしかない。 2000年代に次々に行われた学校統合。 むろん、統合された学校へはスクールバスが出るから、 子供たちが学校に行く機会が奪われるわけではない。 しかし、学校の行事がなくなり、地域の人が集まる機会が減ると、人のつながりが薄くなる。 まして子供たちは集落に住んでいても、 学校があるときは他の地域に出かけているわけだから、 統合によって、子供の姿は日中、集落の中で見かけることがなくなってしまう。 とはいえ、子供がいないから学校を閉鎖せざるをえない面もあるわけだ。 先生たちからすれば、数名などという少人数の教育は、 子供たちの将来の人間関係づくりを考えれば、避けてあげたいのも道理だ。 しかし、子供の消えた集落は、将来への不安を内在することになる。 次世代を継ぐ人間がいなくなる可能性が出て来るからだ。(p.227)上記に示されるように、学校の存在は地域にとってかけがえのないものである。それを失うことは、地域消失に直結してしまうことになる。本著は、単なる高齢者対策や、地域おこしというレベルを超えた、地域社会や文化の継承について、深く考えさせられるものであった。
2015.09.23
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著者の井上先生は、公立学校共済組合の直営病院である 近畿中央病院に、十数年勤務している臨床心理士。 全国に8ヵ所ある公立学校共済組合直営の病院の中でも、 最初に常勤臨床心理士となったパイオニアです。 心が折れてしまった教員のメンタルヘルスケアに取り組み続け、 これまで、数多くの教員の職場復帰をサポートしてこられました。 「プレ・リワーク」や「リワーク支援プログラム」「フォローアッププログラム」等々、 教員のメンタルヘルスケアの実際について、これほど記した書物は他にないでしょう。また、豊富な臨床経験から、さまざまな事例を紹介すると共に、心が折れてしまい、何をどうしていいのか分からなくなってしまった教員に対して、どこに向かって一歩を踏み出していけばいいのかを、井上先生らしい暖かい言葉で、指し示してくれています。 ***井上先生は、児童相談所勤務を経て、大阪の総合病院で勤務し、その後、近畿中央病院の非常勤臨床心理士として着任されました。また、井上先生のお母さんは、教頭として退職された方だそうです。本著で、これらのことを初めて知り、「なるほどなぁ」と思いました。また、小野田教授とも一緒にお仕事をされていたことも知り、これも「なるほどなぁ」と思いました。付録の「保護者対応のポイント」は、その辺りの経験から生まれたものだと思いますが、「話を聞くこと」のプロの臨床心理士としての視点が、とても参考になります。
2015.09.23
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著者は『デフレの正体』の藻谷浩介さんとNHK広島取材班。 よく売れた本だけに、なかなか面白かった。 バイオマス発電、木質ペレット、エコストーブ、オーストリア、森林マイスター、 木造高層建築、志援金、耕作放棄地等々、キーワードも目白押し。 カスタマーレビューの評価もとても高いが、 ウェブ上には、批判的な意見も結構見られる。 それでも、山の持つ力というものは、やはりあるようで、 使わないと、どんどん弱っていくようだ。 *** 「行政が補助金を県や国からもらうとき、広島や東京にどう言うかと言うと、 『うちの町はいい町だから、何かください』ではなく、 『うちの町はこんなに困っている』と言うのです。 本心だったかどうかは別として、自分の町を貶めることによって補助金をもらってくる。 で、補助金で造るのは、東京や広島など、都市部にあるものの二番煎じか三番煎じばかり。 私は、これではいつまでたってもビリだと思いました。(後略)」(p.55)広島県庄原市で里山暮らしを現代風にアレンジし、真の「豊かな暮らし」として広めようとしている和田さんの言葉。確かに、自分の住んでいる地域に誇りを持てないというのは厳しく、哀しい。そんな場所に住み続けたい、新たに住んでみたいと思う人は、少ないだろう。 「ニューノーマル」とは、リーマンショックを機に、 アメリカ・マンハッタンの金融街を中心に唱えられるようになった新たな概念だ。(中略) これを、若者たちの消費動向に結びつけて捉えたのが、「ニューノーマル消費」である。 自分のための消費(ブランド品や高級品)を求めるのではなく、 つながり消費(家族や地域、社会とのつながりを確認できるもの)を求め、 新しいものをどう手に入れるかという所有価値でなく、 今あるものをどう使うかという使用価値への重心が置かれるようになっている。 そして、それは一過性ではなく、長期的、持続的な変化であり、 後戻りできない消費傾向だと捉えられている。(p.169)価値観の問題だけに、とても難しいと思う。現状の日本は、どう見ても「自分のための消費」「新しいものの入手」最優先だから。「いや、そうじゃないよ。」そんな声が、本当に若者たちのあいだから聞こえてくるのなら、凄いのだけど。 しかし、田舎にはハンデがある。働く場所が少ないというハンデだ。 ほとんどの場合、そのハンデにぶちあたった時点で、 田舎は声をあげることをあきらめてしまう。 しかし、都会にも大きなハンデがあるのだ。 働きたくても子どもを預ける保育所がないというハンデ。(中略) 職場の隣に保育園をつくることで克服される、地方の母親のハンデ。 熊原さんはこの装置で、それ以外にもいくつものハンデを、 オセロゲームの絶妙の一手のように黒から白へひっくり返していく。 その一つが、田舎のお年寄りが結構苦労している、 楽しくランチをする場所がないというハンデだ。(p.218)お年寄り達が集まってランチのできるお店を作り、そこで働く人たちのために、隣りに保育所を作り、ランチに集まったお年寄り達が、保育所の子どもたちとふれあう機会も作る。何もかもが上手くいく、ということなのだが、そんなに上手くいくものなのか……。 人に当てはめれば、こういうことになる。 みんながみんな世界と戦う戦士を目指さなくてもよい。 そういう人も必要だし、日本を背負う精鋭は「優秀な勇者」でなければならない。 しかし、その一方で地域のつながりに汗を流す人、 人間と自然が力を合わせて作り上げた里山を守る人もいてもいいし、いなければならない。 そうした環境でこそ、人は増えていくのであり、 次の世代の勇者がまたそこから育っていくのである。 そうして日本というシステム全体が、持続可能なものとなっていくのだ。(p.249)これが、本著で一番良いところ。特に2行目から5行目の部分。「里山」を「地域」に置き換えれば、私が、今思っていることに、とても近い。
2015.09.14
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本著は『地ブランド』に書かれていた事柄でいうと、 「モノに着目する特産品ブランド」に特化して書かれている感じの一冊。 例えば「イチゴ」についての記述などには、 『ローマ法王に米を食べさせた男』と共通するものが。 それは、一般的な流通経路だと、地元の農協から経済連や全農を経て 卸売市場、スーパーなどの小売店で「400円で売られるイチゴ」だと、 農家の取り分は、せいぜい「130円程度」のものらしいのに、 やりようによっては、次のようになるという部分。 イチゴを農家が自ら運営する直売所で販売すれば、 400円のイチゴは、直売所の販売手数料の15~20パーセントを引かれるだけで、 手取りは、340円から380円となる。 それを、イチゴのムース、イチゴ大福などにして直営店やレストランなどで販売すれば、 さらに大きな付加価値が生まれる。 そして、それらの活動に地域の人たちがかかわれば、 地域の経済を活性化することもできる。(p.69)そして、「なるほど」と納得させられたのは次の部分。 「普通のもの」を観光資源として再発見するには、 「外の視点」に切り替えて地元を見つめ直すということが不可欠である。(p.24)確かに、外部の人たちが、自分たちの地域をどう評価するかが「問題」なのだから、当然といえば当然の指摘なのだが、これが結構難しい。「灯台下暗し」と言うように、自分のことは自分では、なかなか気づきにくいもの。とすれば、いかに外部人材とつながるかが、ポイントになるということだろうか。 ***さて、本著では、地域おこしについて、「発見力」「ものづくり力」「ブランドデザイン力」「食文化力」「環境力」の5つの観点から述べている。そして、それぞれの観点について述べた後には、各章ごとに、まとめを載せてくれているので、読後に読み返すとき分かりやすい。そして、それぞれの「まとめ」は、次の通り。 「発見力」 ・「地域の独自性(=パーソナリティー)はなにか」、とことん考える ・「よそ者」、特に都会も海外も知っている若者や女性の視点で見つめ直す ・都会やよその地域を安易にまねしない。「ものづくり力」 ・地域の特性に合ったものを栽培し、加工する。 ・地域の環境や豊かさを大切にする。 ・国内外の視察で得た学びを地域特性に合うようアレンジする。 ・商品開発には、食感度の高い女性を巻き込む。「ブランドデザイン力」 ・ソフトと人材の開発にお金を使う。 ・ものづくりを核に、体験メニューで消費者を巻き込む。 ・徹底的に「田舎」の物語を織り込んで売る。 ・長期的視野で地域全体をデザインする。 ・地域同士、賢い田舎同士、知恵をつないでますます発展する。「食文化力」 ・特産品を売りたいなら、まずは地域の食文化、その背景を学ぶ。 ・誰もが学習できるテキストと、体験できるワークショップを効果的に組み合わせる。 ・アンテナショップやラボなど、文化を伝える「場」を作る。 ・食を売り込む戦略で、次世代の「味覚と健康」を守る。「環境力」 ・地域の農家や加工業者など伝統的な生産者や作り手を表に出す。 ・「環境のため」が、地域規模が持続可能のポイント。 ・伝統的な建造物を大切にする。 ・景観保護のために町全体のデザインに配慮する。
2015.09.13
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とても売れた本です。 カスタマーレビューの評価もとても高い。 青年と哲人との対話形式で進むお話しは、とても読みやすいものです (舞台を見るようで、やや大仰ですが)。 私も、フロイドやユングは読んでいても、 アドラーは読んだことがないという者の一人。 そして、本著が青年と哲人の対話形式で書かれていること自体が、 アドラーを体現しているのだなと感じました。 *** 自らの不幸を武器に、相手を支配しようとする。 自分がいかに不幸で、いかに苦しんでいるかを訴えることによって、 周囲の人々-たとえば家族や友人-を心配させ、 その言動を束縛し、支配しようとしている。(中略) アドラーは「わたしたちの文化においては、弱さは非常に強くて権威がある」 と指摘しているほどです。(p.89)これは、現代のグローバル社会において、しばしば見受けられる光景。もちろん、真逆の状況も数え切れないほどあり、日本の社会においても同様。 およそあらゆる人間関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと -あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること- によって引き起こされます。 課題の分離ができるだけで、対人関係は激変するでしょう。(p.140) 誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。 「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」 を考えてください。(p.141)この「課題の分離」と共に本著で頻出するのが、「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」。 哲人の主張をまとめると、こういうことだった。 人は「わたしは誰かの役に立てている」と思えたときにだけ、 自らの価値を実感することができる。 しかしそこでの貢献は、目に見えるかたちでなくてもかまわない。 誰かの役に立てているという主観的な感覚、 つまり「貢献感」があればそれでいい。 そして哲人はこう結論づける。 すなわち、幸福とは「貢献感」のことなのだ、と。(p.255)まぁ、その他にも色々書いてあるわけですが、ラカンよりは取っ付きやすいけれど、その述べるところは決して平易なものではありません。心理学というよりは、哲学寄りの感じがします。なぜ、この本がこんなにも売れたのか……、流行って面白いですね。
2015.09.06
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先日読んだ『精神科治療の覚書 』と同じく、中井久夫氏による一冊。 2005年6月から2006年10月まで、兵庫県の有馬病院で行われた 「医師・看護師合同研修会」での講義内容をまとめたもの。 なので、かなり専門的かつ実践的内容です。 しかし、そこがなかなか面白い。 中井氏は、統合失調症(精神分裂病)の治療法を専門分野とする精神科医で、 日本の精神病理学第2世代を代表する人物。 それ故、普通ではなかなか聞けない現場のお話を知ることが出来ます。 *** まず、精神科受診の体験が初めての場合です。 そのときの患者さんは、あんがい自分は平気だ、大丈夫だ、普通だと思っています。 したがって私が患者さんに最初に出す情報は、 「あなたは一生に何度かしかない、とても重要なときにいると私は判断する」 ということです。 これにはうなずく方が多かったですね。(p.009)確かに、自分自身では、そんなに重要なポイントにいることに、気が付いていないことが多いのだろうと思います。そのことを確認しておくか、確認しないまま通り過ぎてしまうのかとでは、その後の展開は、ずいぶん変わってくるであろうことは、容易に想像がつきます。 なによりも大切なのは「希望を処方する」ということです。 私は、予後については「医療と家族とあなたとの三者の呼吸が合うかどうかによって これからどうなるかは大いに変わる」ということだけ申します。 つまり「幅がある」「可塑性がある」「変わりうる」ということです。 まず私は医者としてはへりくだります。安請け合いはしません。 たとえば「私が間違ったら、治るものも治らないからね」というふうに表現します。 私は「治る」と言っているわけではなくて、 「治るものも治らない」という言い方をします。(p.010)この「希望を処方する」というのは、とても大切なことだと思います。それは、精神科だけに限らず、他のどの科においても同じですね。 これについて思いあわせるのは重役室や教授室に置いてあるソファです。 かならずホスト側は両ひじ掛けのある椅子が二つ並んでおり、 ゲスト側は長椅子で三人座るようになっています。 ひじ掛けの有無、やわらかさの違いもさることながら、 三人かけのまん中に座る人は、左右の人の微妙な動きに対して たえず微調整をしなければなりません。 そのため議論は必ずホスト側が勝つ。(p.095)これは、三ベッドの中央のベッドの人が治りが悪い、それは、左右両方のベッドの人に対して気遣いしなければならない、あるいは両方のベッドから苦情を受けるからという話から展開した言葉ですが、「なるほどなぁ」と感心させられました。 私はがんの手術をしてから三年になりますが、 「まだ去年はがんの影響があった」ということは、 今年になってみないとわからないですね。(中略) 異常はそこを抜け出してから振り返らないとわからないんです。 「あれは、がんの影響だったなあ」というように。 軽いうつなんかも、きっとそうでしょう。(p.131)これは、実感としてよく分かります。たしかに、その時には分からないことで、そこを抜け出して、振り返った時に、初めて気付くことが出来るものです。一年後の自分は、今の自分をどのように分析するのかな? 繰り返しますが、患者が医者に多くを与えた場合、 その患者の長期予後はよくない。 それはブランケンブルクのアンネの症例を例に出すまでもないでしょう。(中略) すごく精密に病状を教えてくれると私はどうしてもそれをノートしてしまうし、 膝を乗り出して聴くのでしょう。患者のほうもそれに応えてくれる。 しかしそういうことを中心にしますと、 患者の人生はだんだん病気中心になってしまいます。病的体験中心の人生になる。 医者も、患者すらそれを正しいことだと思ってしまうし、家族だってそう思うのですね。 だからこれを修正するのはとてもむずかしいことです。 むずかしいことですけれども、ぜひとも直さなければいけません。(p.135)これは、本著の中でも特に私の心に響いた部分です。凄いなと思いました。 山を下りるというのは山登りよりもエネルギーが必要なのです。 そして上ったときの疲労は残っているし、 目的を果たした、あるいは果たしそこなったという目的喪失がある。 山岳事故は下山のほうが圧倒的に多いのです。(中略) 回復にはいろいろな段階があります。 山の山頂は精神運動性興奮状態。コントロールができない状態です。(中略) じつはいちばん上の精神運動性興奮の時期が、 エネルギーがもっとも低い時期じゃないかと私は思います。 まとまった行動ができなくて、ただ興奮するというのは、 まとめるエネルギーがないというか要らないということです。 自分の”知情意”をまとめていく回復途中のほうが大きなエネルギーが必要なんですね。 それに比べれば、そのへんの物を壊すようなエネルギーはたいしたことないと思いませんか。 (p.146)これも、とても興味深い指摘でした。エネルギーがないから、暴れることしかできないということなんですね。 よくみると皆にかわいそうと言われ、憐れまれ、やっかい扱いさえされている患者さんが、 じつは家族がバラバラになることを防ぐ キーパーソンの役を演じていることが少なくありません。 そして当の患者さんは、そのことを重々知っていることが少なくないのです。 「だから安心して治れない」と。 自分が病気であるあいだは両親が離婚しないと考えて 耐えている患者は決して少なくありません。これは、目から鱗でした。よく考えてみると、確かに思い当たるケースが、あちこちに……。
2015.09.06
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