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ぴかぴかの高層ビルが並ぶオフィス街は、何もかも人工的すぎて息がつまりそう。会社を出て、社員証のついた首輪…ではなくストラップをはずし(この瞬間は本当にきもちいい)、腕にまとわりつくジャケットをがばりと脱ぎ、ノースリーブ一枚でメトロに乗って、前から行ってみたかった公園へ。太陽の光。緑と土の匂い。飛び交うモンシロチョウ。木の根元で眠るねこ。はー。やっと息ができるようになった。公園をふらふらしていたら「水上バス」の矢印を発見。おもしろそうなのでたどっていったら、船着き場が!美人で無愛想な切符もぎのお姉さんに聞いたら、お台場へ行く便は終わっちゃったけど、浅草行きの最終便がもうすぐ出るという。上等上等。720円の切符を買って、東京湾船の旅へ。東京湾の、そこに流れ込む隅田川の水は汚い。どぶの匂いがする。江戸の昔から、人はこの水で米をとぎ洗濯をしトイレをすませ、工業用水を垂れ流してきた。川のせいじゃない。川が汚れてるんじゃない。川は、ただひとの生活をそのまま映して見せているだけ。ホームレスのテントが並ぶその対岸では、高校生が夕日をバックにキスをしている。おお、セーヌのようだ。…東京って、案外おもしろいかも。きれいなビル。汚い建物。ごちゃごちゃした人の営み。やさしい混沌。それを見つめながらただ流れる川と、すべてを包む聖なる光。わたし、今までこの街の何を見ていたんだろう?浅草寺で、賽銭に50円を奮発して祈ったのは、明日もわたしと、わたしが愛するすべての人たちが、この美しい、汚い世界で平々凡々、一日を過ごせること。仲見世で可憐な音のする風鈴と、涼しげな金魚もようのしおりを買って結びあわせ、わたし好みの柄にしてみました。今度の休みが晴れだったら、夕方に窓を開けて、風鈴の音を聞きながらそうめんを茹でて食べよう。夏。たった一度しか来ない、今年の。
2006.06.29
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「嫌われ松子の一生」を見てきました。お台場で。すごかった。脚本も、演出も、歌も、中谷美紀も、何もかも。松子の人生は、最悪だ。人の小さな罪をかぶったためにすべてを失い、社会の底辺にたたき落とされ、殴られ、蹴られ、裏切られ、騙され、捨てられ、人まで殺し、「傷」なんて甘っちょろい言葉では言い表せないほどずたずたに傷つき、ぼろぼろになって殺される。松子は純粋で、歌がうまくて、ファザコンで、ひどい寂しがりで、惚れっぽくて、馬鹿で、妙なところで努力家で、弱くて、立ち上がれないほど打ちのめされ、「もうこれで人生が終わった」と何度思っても生への執着を捨てられず、男を愛することをやめられず、恋をするたび永遠の愛を信じ、ささやかな幸せを夢見て男を信じ、この世のものとは思えないほど美しく輝き、恋が終わるたび別人のように憔悴する。「殴られても、ひとりよりはまし」のせりふは圧巻。…やだなあ。わたしにそっくりじゃないか(笑握りしめたハンカチがずぶ濡れになって、トイレで絞ったらぼとぼと水がこぼれるほど、エンドロールでは嗚咽を抑えられないほど泣いたのは、同情したからじゃない。そんな甘えた涙をゆるす映画じゃない。殴られれれば殴られるほど、裏切られれば裏切られるほど、傷つけば傷ついた数だけ、松子の心は澄んで、澄んで、透き通ってきれいになって、とうとう神さまみたいになってゆく。誰にも、どんな悪意も欲望も、松子を殺した犯人さえも、彼女の魂を汚すことはできない。そうだ。女なら誰でも、心のなかに小さな松子を棲ませている。愛して、信じて、裏切られて、でも、また愛して。何度裏切られても、どんな目に遭わされても、たとえ殺されても、誰かの魂や愛を汚すことだけは、誰にも、本当に誰にもできない。それがわかって、すごく救われたから、泣いたのだ。映画としては、ラース・フォン・トリアー監督の「奇跡の海」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の影響を、少なからず受けていると思われ。どどーんと落ち込む場面で突然お花畑が出てきて、松子が歌いながら踊り出しちゃうし。ストーリーだけ取り出すとものすごく悲惨なのに、コミカルで全然重いきもちにならない。中谷美紀は演技…というより、ほとんど取り憑かれたように松子になりきっていて、それだけでも見る価値あり。松子が愛するだめ男たちも、みんな純粋で、単純で、傷つきやすくて壊れやすくて、愛されたくて、とってもいとおしい。だからわたしは…じゃなかった、松子は恋がやめられないんだな。…とは言えこの映画、恋人と観にゆくことだけは避けた方がいいかと。わたしが見かけたカップルは、みんな微妙な雰囲気になっていたので(笑できれば女ひとり、背すじを伸ばして歩きたい夜におすすめします。お台場の海は、午後の光を受けてきらきらと輝き、パンプスを脱いで波打ち際に裸足で立ったら、心まで返す波と一緒に洗われるみたいでした。好きなんだよなあ、海。わたしも松子に負けずおとらずおばかちゃんなので、海で口説かれると99.9%、1、2、3秒で陥落。おめめがハートマークになって、何が何だかわからなくなってしまう。だから、今年の夏は、大好きなふわふわレースのスカートに、お気に入りのナラ・カミーチェのブラウスを合わせ、都会にしか似合わないようなヒールの高いミュールを履いて、ひとりで海を見にゆこうと思うのです。
2006.06.28
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会社の行き帰りに前を通るたび、足を止めて見上げる空色のフレンチレストラン。わたしが引っ越してきたときには、もう、シャッターが下りたままになっていました。夜毎たくさんのお客が集まり、音楽が演奏され、肉料理の大皿を載せた銀のトレイがホールを行き交い、あたたかな喧噪が店の中を満たしていたかもしれない…と想像するのは愉しくて、明日の朝もたぶん、わたしは傘のふちを持ち上げて、劇場という名のレストランを見上げるのです。わたしが人生だと思っているこの時間の流れが劇場でないと、誰に言いきれるだろう。だとしたら、たとえばわたしが愛だと思っているこのきもちは、なんだ?文化的上司さまと、ランチデート。温泉と、旅の話でおおいに盛り上がる。草津温泉の公衆浴場、地蔵湯がさらさらしていて草津のお湯にしては肌にやさしい。とか。四万温泉に行く途中の道にある、蔵を改造した小さい蕎麦屋がものすごくおいしい。とか。彼が学生のころ岩手を旅していて、「吉里吉里」という集落に出会ったこととか。ふたり同時に皿うどんを食べる手を止めて、「井上ひさし!」と声が揃って笑ったり。吉里吉里って井上ひさしがつくりだした架空の地名だと思ってた。感動。浜辺でテントを張って眠っていたら、漁師のおじいさんが、みそと穫れたての魚、岩手で3番目においしいという水を汲んで持ってきてくれたこと。うふふ。楽しい。うれしい。こういう時間が、後で人生の宝になる。だからわたしは全身をスポンジにして、いまこのときを胸に刻む。もう見失わないように。どこにいても、誰と一緒でも、自分にとって大切なものを守り抜けるように。強くなりたい。もっと、もっと。
2006.06.26
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ひさしぶりに晴れたので、ヨーガの帰りみち、カメラを持って近所をお散歩してきました。あじさい、きれい。大通りはチェーンの飲食店が並び、どこにでもある東京の街ですが、一歩路地を入ると、どきどきするようなすてきなものがたくさんあるのです。お花。建物。ねこ。川。橋。犬。ゆったりした人の暮らしと、それにともなうざわめき。もっとたくさん写真を撮ったので、毎日少しずつのせたいと思います。散歩の途中で、ずっと入ってみたかった、あたたかい感じのする珈琲屋さんへ入って、サンドイッチとコーヒーを頼みました。ヨーガを始めたころは、終わるとおなかがぺこぺこだったけど、最近はクラスが終わるとおなかいっぱいになって、終わった後は1日、何も食べなくてもいいくらい。それで体調がわるくなるとか、めまいがするということもない。なんだろう?まさか空気中のプラーナを取り込んで栄養素にできるようになった…というほど修行の道をきわめたはずはないので、体調のせいかもしれない。それでもあんまりやせて胸がちっちゃくなるといやなので、牛乳だけはせっせと飲んでます。午後4時すぎ、今日初めての食事。大きいカメラが恥ずかしくて、携帯でこっそり撮ったのであんまりいい写真じゃなくてごめんなさい。ブレンドコーヒーがびっくりするほどおいしくて、最近はカフェインがだめなのでもっぱらハーブコーヒー(タンポポよりチコリーの方が、苦くておいしいかも)、どうしてもというときも半分以上ミルクを入れたカフェオレをのんでいるわたしが、ブラックで全部のみほしてしまいました。たぶんイタリアあたりの、アコーディオンの音楽がゆっくり流れていて、店員さんたちもきちんとお店を愛して働いているので、にこにこして、ていねいで、コーヒーカップなんかもひとつずつ大切に扱っていて、見ているだけでほっとする。どうやら、ただものではないお店みたいです。聞き耳をたてると、お店の隅に10人くらいのひとが集まって「…円を描くようにお湯を…」「…真ん中に白っぽい泡が…」「うわあ、うちで入れるのとぜんぜん甘みがちがう!」などと楽しくてたまらない雰囲気で話している。店員さんに聞いてみたら、月1回おいしいコーヒーの入れかた教室を開いているのだそうです。(いま、村山由佳、と思った方、かなり好きですね? ふふふ…)来月、申し込んで行ってみようかな。ホームページのアドレスを教えてもらったので帰ってきてから調べたら、「東京カフェマニア」にも紹介されている有名なお店でした。まさか家から5分のところにそんなお店があると思わなくて、びっくり。有名なお店だということを知らずに、自分で発見したのもうれしい。とっても居心地がよくて、書きものもはかどりそうなので、しばらく通いつめます。うふふ。うれしいな。アドレスをここに載せると住んでる場所が一発でわかっちゃうので、行ってみたいなーと思われた方は私書箱にメールをください♪
2006.06.24
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畠山美由紀さんのライブ「リフレクション」ツアーファイナルに行ってきました!金曜の夜を、ひとりコンサートホールで過ごす至福。天国。Bunkamuraオーチャードホールは、いい意味でフラットな場所です。ものすごくいい気が満ちているというわけでもないけれど、きちんと調整されバランスのとれた空間。どんな種類のコンサートにでも、これならさらっと馴染むだろうな。畠山さんのライブは、今日が初めて。CDで聴く透明な歌声と繊細な詞から、ストイックでまじめな感じの人なのかと思っていたら、真っ赤なドレスに身を包んだ、からっと明るいすてきな姉さんでした。歌声も、CDで聴くよりうんとパワフルで、子守唄のように心地よく揺らぎ、お腹の底にずんずん響いてくる。一曲目は大好きな「愛にメロディ」。ワンフレーズでぞくそくっとして、ぶわっと泣きました。例によって。以降、鼻すすりながら、2時間あまり号泣しっぱなし。のどがからからに乾くくらい泣きました。隣のひとがびっくりしてちらちらこっちを見ているが、溢れてくるものは仕方ないじゃん!畠山さんの声とともに、これまで生きてきた25年間で見た、うつくしい景色や純粋なきもちが、宝箱をひっくり返したようによみがえってくるのです。音が。音が身体の中に入ってきて、全身の血管を流れていく。一方で、歌詞は日本語フェチのわたしの脳髄を根っこから揺さぶる。すごいなあ。歌うことが楽しくてたまらず、それが職業でもあり、しかもその歌が大勢の人を幸せにするんだもんなあ。もちろん、楽しいことや華やかなことばかりではないだろうけれど。わたしもいつか、誰かを、いえ、これを読んでくれているあなたを幸せにする物書きになりますよー。いや、「いつか」はもうやめて、「今夜から」にしよう。もう、いつか来るかもしれない、来ないかもしれない幸せのために今を犠牲にするのはやめ。それにしても最近、毎日何かしら泣いてる気がするなぁ。悲しくて、ではなく、本物に触れたときに溢れてくる浄化のなみだ。ただいいことがつづいているだけなら幸せだけれど、「ひょっとして躁転したか?」という一抹の不安もある。躁がA面ならB面は鬱。必ずセットになっているので、どちらもあんまり好ましくない。多幸感が強く、長いほど、鬱も重く、長引く。明日はヨーガで、頭に上がった気を腹に下げてこよう。そして今日は、もうひとつ、すばらしいギフトが!大学時代に出会った大好きな、大切なお友達に、なんと畠山さんのコンサートで会ったのです。約束していたわけでも、畠山さんの話をしたことさえないのに。ふたりで手を取り合って再会(?)を喜び、彼女の紹介で松濤の小さな料理屋さんに行きました。偶然にしては、ふたりともお互いに聞いてほしいことがありすぎて、向かい合って座ったとたん堰を切ったようにコトバがあふれ、お店が閉まるまでひたすら食べ、しゃべりつづける。恋のこと。愛のこと。仕事のこと。女性であるということ。これはどうやら偶然ではなく、いま必要だから、わたしたちはここで会ったのではないかと。それくらいすてきな、中身のぎっしりつまった夜でした。そして考えました。わたしはいつも、人と本気で関わろうとすると、あっという間に服を脱いでしまう。(あ、いえ、本物の洋服ではなく、感情のヴェールのことです。念のため)文章を書いて、それを誰かに見せることに至っては、心情的には、自分のヌード写真を並べてみせることとほとんど変わりがない。その生き方でいろいろ傷ついてきたし、これからも傷つくだろう。そのこと自体には、まあ後悔もこだわりもない。ただ、あまりにも傷つくと、寿命までしつこく生き、死ぬときに「まあわりと楽しい人生だったな」としわくちゃの顔でほほ笑んで死ぬ。という最終目標が達成できなくなってしまう。しかし、このやり方はもうわたしという存在の中核なので、今さら変えられないし、変えたくもない。だから、これからは、自分の周りの世界を、わたしの方法に合わせていこうと思う。仕事や、遊びや、趣味や、暮らしや、付き合うひとや、受け入れる感情や。わたしにとって不要なものは、それが世間でどんなに価値のある、立派だと言われているものでも、容赦なくシャットアウトしていく。それは、わたしが本当にこの人生で見きわめるべきこと、やり遂げるべき宿題をきっちり終わらせるためにぜったい必要なので、誰がなんと言おうとそうしよう。ああ。彼女に会うと、今の自分の本当のきもち、本当の姿が、鏡に映したようにはっきりと見えるなあ。今夜は本当にありがとう。また、近いうちに会って、今度は、もう少しゆっくりごはんを食べよう!
2006.06.23
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あさ、目がさめたら、きのうまでとちょっと違っていた。 こころがざらっとしない。 すーっとフラットだ。 ヨーガのおかげだ、きっと。 ベッドから出たら、まずいちばんにローズマリーのオイルを焚き、ゆったりした音楽を流して瞑想。 呼吸が深まってきたらヨーガ。 いまやすっかり習慣です。 ところで、土曜日Yちゃんにいただいたハーブティーが、とってもよい。自然療法の先生のところで、調合してもらってくれたお茶なんだって! 今までのんでた「味と香り重視」の市販のものとちがって、心の不調にもろに語りかけてくる感じ。 毎日会社に持っていってたくさんのんでいます。 もらった分がなくなったら、教えてもらった先生のところへ行ってみようかな。昨日の分までばりばりと仕事をこなし、昔の上司にうまーいうなぎをごちそうしてもらう。わたしより年上の、女性の先輩たちも紹介してもらう。きりっとやさしく、からりと明るい、働く女たちだった。かっこいいなあ。 平安寿子さん「明日、月の上で」を、スタバで、2時間くらいで一気に読む。彼女自身もあとがきに記している通り、若書きだし(平さんがまだ若いころ、いまのわたしと同じくらいの年に書いた作品なので)、筆が走りすぎていて、決して上手な小説ではない。だけど、「とんがりトビ子」の勢いが心地よくて、つい引き込まれる。そうそう。小説って、これでいいんだよな。流れるような、美しい文体の小説もあれば、ごつごつとんがって、でもきらきら魅力的な小説もある。わたしは、わたしにしか書けないものを、淡々と書いていけばいい。
2006.06.21
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すごくこわーい夢をみて、眠りも浅かったらしく、朝、ベッドから身体がはがれない。えーい、こういうときは思い切って遅刻だ! と心を決めて、会社に連絡。 上司からは「一日休んでもいいですよ」とやさしいお返事。 ついでにバイオリンもお休みしちゃおうっと。 遅刻すると決めたら急におなかが空いたので、ごはんを炊き、最近お気に入りの「ごまの香りの塩むすび(ごま油と塩を別々の皿にとって手につけ、炊きたてごはんを握るだけ)」を作ってたくさん食べる。これ、すっごいおいしいです。 だまされたと思って食べてみて。 銀座のアフタヌーンティーで見つけたフランスのお香も焚いてみる。 何種類かあったのですが、選んだのはは「BONIFACIO」の香り。 ボニファシオと言えば、大学時代に旅したフランス・コルシカ島のリゾートです。 (青豆ちゃん、コルシカだよっっ!!)懐かしくて焚いてみたら、ほんとに夏の海の香りがして、ほうっと息がつけるようになりました。 午後から出社し、少しだけ仕事をして会社を出(こんなわがままな働きかたを許してくれる上司に、ただただ感謝なのです)、パンのおいしいレストランで遅めのランチを食べたら眠くて死にそうでしたが、「このまま帰って昼寝して、また夜眠れなくなるのはいや~」と思い、ヨーガに行ってきました。 綿本彰先生の本にはまり、綿本先生の名前を冠した教室に入会しておきながら、チキンなわたしは、今までほかの先生のクラスにしか行ったことがなかったのです。 だって、綿本先生のクラスすごい人気なんだもん! スタジオにマットが並びきれないくらい。 ほかの先生たちも、一般の会員に混じってレッスンを受けに来ているほどだから、集まってくる人も、ヨーガ歴長い人が多いだろうし。 ラージャヨーガというゆっくりした精神面重視のヨーガと、身体をどんどん使うパワーヨーガがあるのですが、いまのわたしにはラージャヨーガがちょうどいいみたい。 で、どきどきしながら柔軟していたら綿本先生(思っていたよりずっと背が高いよー!)が入ってきて、ぎゅうぎゅうづめのスタジオでレッスンが始まる。 綿本先生、やっぱすごい。 頭の上からふわーっとなんか出てます。 自分の身体と、自由自在に会話を楽しむ方法を知っているみたい。 声にも張りがあって、しぜんと背すじがのびる。呼吸が深くなる。 絶妙のタイミングで「首に力入ってませんかー」「肩の力抜いてー」などと声がかかるのもすごい。 姿勢を直してもらうとき、触られてないのに手からあったかい気が出ていて、すっと自分の首が持ち上がった。びっくり。 今日のテーマは胸の第4チャクラの解放。 ついこの間、某所で「ハートチャクラが壊れているから、マイナスの感情も遮断できない」と指摘されたばかりのわたしには、まさにぴったりのレッスン。 全然激しい動きじゃないのに汗がぽたぽた流れる。 エネルギーの流れがよくなってるんだな。 大地に根を張ってエネルギーを吸い取り、胸のあたりに蓮の花を咲かせてエネルギーを解放する。 うわあきもちいい!あんまりきもちよくて子供みたいに笑いだしそうになる。 鋤のポーズはすっと腰が上がるときとそうでないときがあって、今日は上がらない日だったけど、それは身体さんが決めることなのでむりせず従う。 だんだん上がるときの方が多くなってきているから、そのうち慣れるでしょう。 ポーズと瞑想を終えて身体を起こしてみたら、絲山秋子ふうに言うと「静電気みたいにぴりぴりしていた」神経が、すうっと穏やかな一本線になっていた。 景色の見え方もぜんぜんちがう。 こうやって少しずつ身体と対話できるようになって、ヨーガを終えたときのこの穏やかな状態を、いつでも取り出せるようになったら、うつなんてどっかいっちゃうだろうな。 うん。楽しんでつづけよう。 そして、持ち上げることもつらかった左腕の筋肉のしこりを、1時間もかからずにほぐしてくれたマッサージ師さんにも感謝。 おかげで、こうやってヨーガができる。 ナマステナマステ。
2006.06.20
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降りつづいていた雨がやみ、夕暮れ、雨上がりの町はあたたかな静けさに満ちている。週末、実家でごはんを食べてひとりの部屋に帰ってくる道のりは、いつも、少しだけ心ぼそい。これから数年後には、わたしは誰かと新しい家族をつくり、それからの数十年を同じ屋根の下で暮らすだろう。とすると、完全にひとりで気ままに暮らす、いまはごく限られた大切な時期ということ。誰かと一緒に暮らそうがひとりで住もうが、人はみなひとりだもの。ひとりで社会とかかわりを持ってゆくことも変わりがない。両手を広げて、この孤独を愛そう。逃れようとするから、追われているような錯覚に陥るんだ。お母さんの作ってくれたごはんはおいしかった。炊きたてのごはんに、わたしが我が家にレシピを持ち込んだうまい豚汁。今日は父の日なので、近くのお寺の仲見世で、お父さんの好きなお芋のお菓子と京都のお漬物(長芋とオクラ、みょうがとしそ)を買う。お父さんは猫が好きだから、お寺さんに手を合わせてから、お守り売り場で招き猫の根付も買った。…なんだかささやかなプレゼントですが、だってだって、誕生日や記念日に贈ったちょっと値段のはるネクタイやワイングラス、「もったいなくてとても使えない」ってちっとも使ってくれないんだもの!でも今日の思いつきは喜んでもらえたみたい。根付はさっそく携帯に結んでいた。何年か前わたしがプレゼントした、ポール・スミスのしましまの犬と一緒に。お漬け物も喜んでたくさん食べてくれた。うれしい。お父さん、ずいぶん年とったねえ。それにしても、仲見世はお線香のいい匂いがして、お経を上げるお坊さんの声もして、すごくいい気が満ちていた。ここと、隣の大きな神社がパワフルだから、わたしの住んでいるマンションまでちゃんと守られているのだ。これからはときどき、お礼を言いに来よう。お父さんの好きな猫グッズのたくさんあるお店も見つけたので、ときどき見に来よう。恋人と連絡がとれた。うれしい。メール何往復かの短いやりとりだけれど、ちゃんと、心がつながったのがわかった。ああ、そうだー。いつも忘れちゃう。「あれもしてくれない、これもしてくれない」で心がいっぱい、いっぱいになって、すぐに忘れそうになる。何かしてもらおうと思ってるうちは、一生満たされない。大事なのは、わたしが、大好きな男の子に、いま何をあげられるか。それしかないのに。寂しいのも、不安なのも、孤独なのも、わたしひとりじゃない。…しかし、メール1行で一週間がんばる。とか、昔のわたしだったらあり得なかった。相手への要求水準がどんどん下がっていることだけはまちがいない。
2006.06.18
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10歳のときからお友達のYちゃんと、数年ぶりの銀座デート♪お店は、青豆ちゃんにおすすめしてもらった洋食屋さん「キャンドル」。青豆ちゃん、ほんとにすてきなお店でした。ありがとう!チリのさっぱりしたワインを味わいつつ、サラダとクレソンのフライ(絶品!)、世界一のチキンバスケットと、オムライスをいただく。おいしいー!こじんまりしたお店の雰囲気もすてき。最近のわたしにしては結構のんだのに、会話の楽しさとお料理のおいしさのおかげで、ちっとも酔っぱらわず幸せな晩餐を味わいました。それにしても、何年も会ってないとは思えないほど、細かいところまで話が通じ合うのでびっくりしました。「1」話すだけで、「10」まで全部伝わっちゃうんだなー。10歳だろうが20歳だろうが、そのとき「ともだち」になって手をつなぐ相手は、やっぱりトクベツで、それは何年経っても変わりがないんだよなあ。団地の真ん中にある、小さな小学校を卒業したあの日から、傷ついたり悩んだり笑ったりしながら別々の場所で一生けんめい生きてきて、いま、こうして互いの歩いてきたきれいごとだけじゃない道のりを、おいしいごはんと一緒に受け入れ合えることの奇跡。ヨーガのこと、ハーブのこと、オトコ社会の不条理、仕事そのものよりはるかに煩わしい会社の人間関係、何回やってもうまくいかない恋愛、それでも生きていてよかったと思うできごとなどについて、夢中で話し、あっという間に夜が更ける。またたくさんの夜を、旨いものたくさん食べて、おいしいお酒のんで、一緒に過ごそう。今日はありがとう。東京に帰ってきて、あなたに会えて、本当に、よかった。
2006.06.17
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木場の現代美術館へ。話題のカルティエ現代美術財団コレクション展を見てきたのです。高山なおみさんの「フランス日記」にもあった川内倫子さんの写真展示(高山さんはパリでみたのですが)と、いしいしんじさんが「ごはん日記」に書いていた狩人とシャーマンの映像展示。このふたつだけで、一見どころか二見も三見もする価値があります。狩人の方は、まるでドン・ファンのように、植物の幻覚作用を使いこなす男たちが主人公。上半身裸で、羽根を身にまとった彼らの、筋肉と汗。鼻から粉を吸って、「はー」とか「うー」とか「ぷはー」とかため息を漏らす。そうこうするうちに彼らはどんどん興奮し、野生の雄叫びをあげてトランス状態になり、病気とおぼしき男を治療する儀式を始める。半裸でぼんやりとハンモックに横たわる女たちや、その足元をうろうろする犬、ボールを蹴る子供たちの映像と、儀式の様子があまりに対照的で、目が離せなくなります。そして倫子さんの写真。どうやら、川内家の生と死を撮ったものらしい。おじいさんのお葬式、亡くなったおじいさんの顔まで映していて、ちょっとどきっとしたが、全然いやな感じはなく、とても自然だった。倫子さんにとって写真を撮ることは、わたしたちがまばたきをする刹那に風景や表情を記憶に焼き付けるのと同じ営みなのだ。それにしても、どこのおばあちゃんの家にもある何気ないモノや風景が、なぜ倫子さんの視線をに通すとあんなにも生命力を持つんだろう。思わず今回の展示写真をおさめた写真集「Cui Cui」を買いました。展覧会そのものもすばらしかったので、図録とどちらにしようか迷ったのですが、倫子さんのインパクトが強烈すぎて、今日はこちら。おもしろいなと思ったのは、子供向けに、写真入りでわかりやすく代表的な作品を解説した「ピクニックカード」を、チケットと一緒に渡されたこと。前のイサム・ノグチ展のときも、同じようなものが配られたが、すばらしい思いつきだと思う。子供だけじゃなく、わたしみたいに専門知識のない大人にも、現代美術がうんと近くなる。難しいことを考えず「うわあでかい」「わーこれはきもちわるい」「なんだか好きだなあ」「あーこれはキライ」と子供の心で自由に見られる展覧会です。しかし、作品数は少ないのにとにかく見ごたえがあって、不便な立地にもかかわらずとても混んでいるので、かなりパワーを使う。1回では思う存分見られなかったので、会期中にもう一度行ってきます。
2006.06.14
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バイオリンのレッスンへ行く電車の中です。最近は、降ってくるコトバを書きとめる時間が全然足りなくて、電車の中で、携帯で文章を書いています。あの、部活の合間に携帯で小説を書いて新人賞を穫った「りはめ」の高校生の男の子みたいだ。「携帯でブンガクがやれるか」なんて思ってたけど、書けない自分への言い訳、負け惜しみだったな。そば屋の箸ぶくろに書こうが、収容所の壁に刻もうが、女の子の背中に入れ墨で彫ろうが、携帯のメールで送ろうが、文学は文学だ。会社の帰りみちではだるくて、帰ったら昼寝してからレッスンに行くつもりだったのだけれど。スタバのカフェミストをテイクアウトして、部屋で飲みながらバイオリンのお話を書きはじめたらすっごく乗ってきて、昼寝どころか夕飯も食べず、バイオリン弾く時間ももったいなくて夢中で書いた。どきどき。筆が迷ったら、すっと考えるのをやめる。耳を澄ませる。そうすると、ふわって降りてくる。手に文章が!そうだそうだ。こうやって書くんだった文章って。楽しいなぁ!こんなに楽しいんだから、人の目なんて構わずひたすら書けばいいのだ。好きなように。好きなように?ちがうか。神さまの言う通りに。人がなんと言うか知らないが、小説の泉にストローを差して吸い上げてみたらそう書いてあるんだから仕方ない。わたしはただ導管に徹するのみだ。しかし導管と言えども大切でパワーのいるお仕事なので、コンディションを整える必要はある。美術館。映画館。コンサートホール。ライブハウス。芝居小屋。劇場。森。海。ヨーガ教室。バイオリン教室。このみの雑貨屋さん。本屋さん。たばこの煙のない喫茶店。オーガニックレストラン。それらの場所に足をはこび、あるいはさまざまな本を浴びるように読んで、流れをよくする努力が大切だ。そしてバイオリン。先週に引き続き重音地獄です。音が2つ、3つ重なると、ドレミを初めて教わる小学生のように音がとれないが、きびしくしごかれるのも、また愉し。この、音に集中する時間はすごく大切。来るまではいつもおそろしく面倒だが、レッスン受けるとああ!来てよかったって思う。上手になるのなんて少しずつでいいから、楽しく楽しく弾くのだ。音に心をひらいて。
2006.06.13
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最近読んだ、あるいは読んでいる本の覚え書き。森茉莉「父の帽子」。さいきん、自分のなかで森茉莉ブーム再燃なのです。行間に流れる潔さ、こまやかな目線は、敬愛する幸田文と似ている。おふたりとも大文豪の娘さんだからなあ。感性が鋭くならざるを得なかったんだろう。森茉莉の文章は文字通り耽美的で、美の中に躊躇なく全身どっぷり浸かって書いているのが、いっそ爽快。幸田文や樋口一葉の文章には隙がないけれど、森茉莉の文章はあちこちにふっと我に返る瞬間のため息が挟み込まれていて、どこかあやういのも、現代の「乙女」たちに人気がある秘密だろう。ダン・ブラウン「ダ・ヴィンチ・コード」。まだ上巻。ミステリーと推理小説は、ひとりで読むとこわいので、週末、実家に帰るときに読むようにしている。冒頭からいきなり追いつめられる主人公。いちばんの見せ場で場面を転換し、新しい登場人物を繰り出してくる手法。アメリカらしい、よくできた推理小説です。絵画や宗教の知識もいっぱい盛り込まれていて、こりゃあベストセラーになっちゃうよなあ。映画にもするだろう。という感じ。ついのめり込んでしまい、頭の芯が冴えて眠れなくなる。しかし、幼少期に体験したアルセーヌ・ルパンへの慕情が強すぎて、いまだに彼以外のどんな悪党にも正義漢にも感情移入できない。ミステリーが好きだったら、人生が1割増しくらいで楽しくなるとわかってはいるのですが。言わずと知れたほしよりこの猫村さん。猫村さんは、猫なのに家政婦なのです。得意料理はネコムライス。野菜を1円でも安く買うのはお手のもの。人情ものの刑事ドラマや探偵ものを、毎週楽しみに見ています。つらいことがあると、みかん箱でがりがり爪を研いじゃいます。猫なので。前の飼い主だった、大好きな「坊ちゃん」に会うため、毎日仕事に精を出す猫村さんですが、彼女の奉公先には秘密の扉が…というようなまんがです。脱力した鉛筆の線で描かれた猫村さんを、だらだらせんべいをかじりながら読んでいると、なんだか力が抜けて、「まあ、いっか~」とつぶやきたくなります。川田順造「母の声、川の匂い」。会社の文化的上司さまに薦めてもらったのです。川田順造さんは、わたしの住む下町で生まれ育った、アフリカ文化が専門の文化人類学者。一度は「脱出」し、遠く離れたはずのふるさとに、年月を経て吸い寄せられ、研究者としてひとりの人間として、再び戻ってくる心の動きが描かれていて、学術論文というより、等身大の自分史として読める。川べりに暮らす江戸っ子たちの「粋」が、生々しい息づかいと一緒に行間から立ち上がってくるのも、江戸好きにはたまらない。人買いに子をさらわれた母親が、「桜の花びらを「面白う」すくってみせれば子の居所を教えよう」と船頭に言われ、髪を振り乱して、川に降りかかる花びらを一心にすくう場面が、この本のもうひとつのテーマ。繰り返し、繰り返し文章のなかに現れる。切なくも美しく、艶かしいその論考もまた読み応えがあります。
2006.06.12
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朝、寝ぼうしてむくむくと起き出したら、母がホットケーキを焼いてくれていました。実家っていいなあ!きのうは両親と3人で焼き肉。ふたりのあいだに挟まれてバスの座席に座りながら、守られてるっていいなあ、と思ったり。今度こそ、わたしは本当に自立しようとしているみたいです。最近聴いている音楽。畠山美由紀さんの「リフレクション」。とてもピュアな曲。詞。歌声。心が透明になります。「ある晴れた日に君は似てる」の歌詞がとてもすてき。原田郁子ちゃんが作詞し、ハナレグミの永積タカシさんが作曲した「愛にメロディ」も心がぎゅっとなる。高田漣さんのワインゼンボーン、スティールギターも、畠山さんの声に切なく寄り添う。23日には、Bunkamuraでコンサートがあるので行ってきます。楽しみ。ジェシー・ハリスの「ミネラル」。日曜の午後、カフェオレでも飲みながら聴きたい音楽。ジェシー・ハリスは、「Don’t know why」を作曲し、ノラ・ジョーンズを世に送り出したことであまりに有名ですが、彼のギターは本当にやさしく、語りかけるように心に染みてきます。ヒラリー・ハーンが弾く、ブラームスのバイオリン協奏曲。グラミー賞を受賞した天才バイオリニストの彼女は、わたしと同じ25歳。重厚なブラームスを、若々しく女性らしくきらきらと弾いています。すてき。カデンツァはヨアヒムのものを採用していて、思うさま「間」をとってうたっているので、聴いていて心地よいです。いま書いている小説で、若い女性バイオリニストがこの曲を弾くので、念入りに聴いています。巨匠ハイフェッツのレコードもこれから聴きます。さあ、音痴なこのわたしの耳にちがいがわかるか?明日は最近読んでいる本のことを書こうと思います。
2006.06.11
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ヨーガ教室。ひとつ上のレベルのクラスに行くかどうか迷ったが、牡牛座のんびり屋(そしてヨガウェアがおしゃれ!)なK先生のつくりだすshanti(サンスクリット語で「平和」という意味。わたしのとっているクラスでは、レッスンの最後にみんなで唱和します)な空間に身を置きたくて、いつものクラスへ。スタジオに入るまではいつもちょっと面倒なんだけど、いったん始まると、もうとにかくきもちいい。だいぶK先生のペースに慣れてきたので、目を閉じて周りを気にせず集中できるようになった。ちょっとしんどいけど、がんばってお腹を空かせているのも、集中力に影響している気がする。どんどん深まる瞑想。自分のからだが、自分のものじゃないみたいに柔らかくなる。動くはずのない筋肉が、関節が、ぐにゃりと動き、するりと入る。ハトのポーズで、右手と左手つながっちゃったし。前屈もろくにできなかった、からだカチカチ山のこのわたしが!!すごい快感。世界とつながってる一体感。途中で「エクスタシー!」みたいになった(笑)これ麻薬だよ。合法的で健康的で心身にプラスの作用しかもたらさない麻薬。ヨーガ究めたら、食欲とか睡眠欲とか性欲とかなくなっちゃうというその感覚が少しわかった。深い集中。静まる心。雑念がどんどん浮かんでは、みるみる流れ去ってゆく。流すことってすごく大事なんだなあ。ヨーガやるといつも思う。逆らわない。ひきとめない。どんどん流す。自我を消す。全身が超敏感になり、教室に来る前のだるさは雨雲がさーっと晴れるように消え、心身が5月の空みたいにからりときもちよく晴れ上がっている。銀座の景色が、きれいなものも汚いものもニュートラルに見える。最近買ったYoginiの別冊「ゆんらりと優しさにつつまれるヨーガ」についていたDVDのヨーガも、すごくいい。孤独や不安にさいなまれて眠れない夜などは、部屋の灯りを消してアロマランプをつけ、フランキンセンスのオイルを焚く。そして、「クリムゾン」シリーズのCD(意識の底に入ってきて心地よくいやしてくれるマントラソング。すっきりしない寝覚めにも、眠れない夜にも、失恋の悲しみにも、幸せをかみしめたい夜にも、とにかく何にでも効く音楽の特効薬)をかけながら、三浦徒志郎先生のこのヨーガをゆーっくりやると、心がフラットな状態を取り戻す。さらにさらに、ヨーガ時間をより楽しみたくて、suriaでヨガウェアを揃えてみた。やわらかいパイル地のピンクTシャツと、肌触りすべすべの若草色ヨガカプリ。うう。かわいい。早くヨーガ教室に行きたい。マットもラグもみんな教室で借りられるのだけど、こうなってくるとマイマットが欲しいなあ!…写真は、我が同居人の植物ちゃんたちと、妹にプレゼントしてもらったアロマランプです。いつもありがとう♪
2006.06.10
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「The ROSE」という映画を観ました。リンク先のみゅりえさんに教えていただいたのです(みゅりえさん、ありがとう!)。1979年に封切られたアメリカ映画で、カリスマロックシンガー「ROSE」の燃え尽きるような生き様を描いた作品。主演のベット・ミドラーのライブシーンと演技力がものすごく、ちょっと鬼気迫るほどで、ローズは実在しないのに、最後はノンフィクションを観るようなきもちで感情移入していました。エンドクレジットと共に「The ROSE」のテーマ曲が流れ出すころには、もう号泣。愛は花。あなたはその種子。とても有名な曲ですが、この映画を観てから聴くと、その奥ぶかさが胸にしみて、周りの人や、世界に対する感謝で胸がいっぱいになります。このところ読んでいる、ジュリア・キャメロンの「あなたも作家になろう」(前著の「今からでも間に合う大人のための才能開花術」と合わせて、「アーティスト指南本」の中では異色の、ずば抜けて実践に役立つ本です。何かをつくりたい、表現したいけれど一歩を踏み出せずにいる方には、とてもおすすめです)に書いてあるのですが、歌をうたうこと、楽器を演奏すること、絵を描くこと、小説を書くこと、ダンスをすること、それらはすべて、自分の中から何かを作り出すというより、心身の状態を整え、どこか高いところにある「創造の泉」のようなところにパイプをつないで、自分が芸術の「導管」になる行為なのだそうです。昔、1本の木から仏像を彫り上げる仏師たちが、「木の中に仏さまの姿が浮かび上がって見えるので、自分はそれを見える通りに彫り出しただけだ」と言ったように。そうやって生まれた芸術は、ときに、そのアーティストの意図を超越して、思いもかけない崇高な力を持ったり、普遍的なメッセージを伝えたり、多くの人の救いになったり、していく気がするのです。そしてローズもまた、神さまの導管になる方法を知っていたのではないかとわたしは思います。ドラッグとセックスとロックンロールに溺れ、身も心もぼろぼろに擦り減らし、自分の心も人生も、何ひとつ自分でコントロールできなくなっていく彼女の私生活と、アーティストとしての純粋な才能は、ほとんど何も関係がない。映画、絵画、小説、音楽。それらはすべて、作家の手を離れた瞬間から、彼らの人生とは無関係に、永遠に輝きつづける。なぜなら、それは、創造の神さまのものだから。才能が消費の対象となり、繊細な感受性を持ったアーティストが緩慢に殺されていく。というのは70-80年代アメリカ的なごくわかりやすい構図で、同じ名前のトレイシー・ローズを思い出したり、ホテル・ニューハンプシャー(上巻)のラストが頭をよぎったりしました。創造的な行為にかかわる人間は、ひとりの男性として、女性としては幸せになれない。…という一般的なイメージは、たとえばローズの時代、アーティストたちを取り巻いていた環境のためにつくられた幻想で、いまはそれが確実に変化しつつある時代です。幸せのために歌う。踊る。描く。そう決意すること。富や名声のようなわかりやすいものから、もっと複雑でわかりにくいものまで、かりそめの光に幻惑されないようにすること。注意ぶかくあれば、アーティストは幸せを感じて日々を暮らすかどうかを、自分の意思で決めることができるのだと思います。映画の話からちょっと逸れてしまいましたが、最近ずっと考えているテーマだったので、思ったことを書いてみました。仕事になるかどうか、誰かに読まれるかどうかに関係なく、わたしはもう一生、毎日書いていくだろうと思うので。この世界がどんなにうつくしいか。泥の底から茎をのばして咲く花の、見惚れるような鮮やかな赤。井戸の底から見あげる空の蒼や、外に出て深呼吸した空気の甘さ。誰かを愛するときの世界の輝き。そういうことを、しわくちゃのおばあちゃんになってもずっとずっと、書いていられたら幸せ。相棒のmacちゃんの近影↓ラヴ。
2006.06.09
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夕食の食材を買うためスーパーへ入ったら、青梅が並んでいました。そうだ、梅酒漬けよう!梅の実1キロを一晩水につけおき、翌朝、竹串でていねいにへたを取ります。この時点で既に梅のやさしい香りが。水気を切り、ふきんでふいた梅の実と、氷砂糖500グラムを、交互に瓶へ入れていきます。お砂糖の量はお好みですが、わたしはあんまり甘すぎるのが好きじゃないので。そして最後に、ホワイトリカー1.7リットルをどぼどぼ注ぎ、しっかりふたを閉めたら準備完了。3ヶ月待てば、疲労回復、食欲増進、夏バテ防止、肝機能活性化、お通じをよくしお肌の調子も整える(すごいなしかし)、おいしい梅酒の出来上がりです。梅の実を洗うとき「おいしくなれ~」と魔法をかけましたが、さて、おいしくできるでしょうか。乞うご期待!
2006.06.08
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恵比寿にあるeccoのショップへ。エコーはデンマークの靴メーカーで、すごーく足にやさしい革靴をつくっている。記者をしていたとき、ヒールのある靴だと足がぼろぼろになってしまうので、とにかく足にやさしい靴を探していて、見つけたのがエコーのドライビングシューズ(黒)でした。以来すっかり気に入って、黒の靴はもう何度も履きつぶすたびに買い替えて履いてきたのです。いまの仕事は内勤なので、毎日かわいいミュールやヒールのある靴を履いていたら、あっという間に腰痛が…元来、女の子らしい華奢なファッションに馴染まないタイプなのです。マッサージ師さんも、「あー、この腰の凝りと脚の張りはヒールですね」と。やはり敵はヒールであったか!月2回のマッサージ代を考えると、もうぜったいに靴を買った方が安いに決まっているので(この歳で腰いためたくないし)、会社を出てまっすぐエコーへ。新作のドライビングシューズは前のデザインよりうんとかわいく、色も豊富。白とオレンジと迷い、大好きなオレンジを履いてみる。「うわっ。軽い。そしてやさしい!すごい楽ですねこれ。ああ。きもちいい…もうエコーの靴履いたらほかの靴履けませんね。そのまま履いて帰ります。おいくらですか?」とひとりで店員さんの分までしゃべりまくり、一瞬で購入を決意。以前よりデザイン性がアップして、ヒールつきのミュールなどもありました。試し履きしたらそれも持って帰ってしまいそうだったので我慢しましたが、きっと履き心地いいんだろうなぁ。じゅる!
2006.06.07
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バイオリンレッスンの日。今日から、いちばん遅い時間に変えてもらったので、次の人を気にせずゆっくり稽古をつけてもらえるのです。カイザーも、ガボットも、ここのとこずっと、重音地獄。「bisさんは重音が苦手だからね。これだけ練習すれば、どんな和音も不協和音もこわくなくなるわよ」と先生。うう。拷問です。それにしても、全弓で思うさま情感をこめて力いっぱい弾くだけがとりえだったわたし。消音器を使って練習しているおかげで、すっかり弓の使い方が小さくなってしまった。いっそバイオリンと一緒に草原にでも出かけて、2泊3日くらいで弾きまくるか。「よく弾けてるんだけど、ときどき音程やリズムが「ん?」ていうときがあるのよねえ」「そうなんです。楽譜がよめないので、たまに作曲しちゃうんです」「あら、いいじゃない。のだめみたいで。独創性があって。のだめ知ってる?」しばし、「のだめカンタービレ」話で盛り上がる。千秋真一くんが指揮するR☆SオケのCDが出てることを教えてあげたら、「ええーっ!」とすごくびっくりしていた。「それより、のだめの作曲した、なんだっけあれ…」「もじゃもじゃ組曲!ですね」「そうそう。あの曲が聴きたいわよね」と先生。さすが。プロの方です。目の付けどころがちがう。帰り道も、「そうかあ。わたし、のだめみたいなんだ」とすっかり気分をよくしてうきうきしていたわたし。もしかしてひょっとして、「のだめみたい」なのは「楽譜がよめなくて初見が全然だめ」というところで、すぐれた音楽性の部分は全然考えてないんじゃ…という気もしなくはないけれど、ま、気にしない気にしない!ところでこの日記を書いている12日には、マングースぬいぐるみ(おなかを押すとぎゃぼっと鳴くのです!)つき15巻を既に手にしています。まんが本体の4倍くらい金のかかるおまけってどうよ?ま、いいんですけどね。オタクだから。ふふふふふー。のだめ大好き。千秋先輩大好き。パリ編もいいけれど、音大のすみっこでヘンタイやってたときの方がおもしろかったなあ。個人的には。また最初から読み返してみようっと。
2006.06.06
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午前中に家事を片づけてスープを煮込み、午後は青豆ちゃんと銀座デート。新しくできたお店で冷麺を食べ、ニールズヤードでアロマの香りに癒やされ、gentenでやさしい色合いのかばんを手に取って騒ぎ、アフタヌーンティーでお茶をのみ、教文館の教会用品店?エインカレムへ。たくさん話して、銀座の街にも癒やされ、元気をたくさんもらいました。ありがとう、青豆ちゃん。銀座は街そのものも気の流れがいいけど、あちこちのカフェやお店に別世界のような空間があって、そこに行くだけで心身の中身が浄化される感じがする。病気をして、回復してくる過程で、場の雰囲気とか、気の流れとかそういうものにだんだん敏感になった。もともと人の感情や雰囲気に影響されやすいタイプではあるけれど、「ここは安心」とか「ここには誰かのいやな感情があるな」とか、その場所に入った瞬間にわかるようになってしまった。やれやれ。おもしろいような、ややこしいような。
2006.06.04
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おおはた雄一さんのライブ&トークイベント@渋谷CAFE&DINERスタジオ。会場は小さなカフェで、お客さんは20人ほど。しかもたまたま空いてた席がおおはたさんの目の前。50センチくらいの至近距離にあのギターが!ワイゼンボーンが!もうそれだけで卒倒寸前なのであります。キネマのときはものすごい人で遠くから眺めることしかできなかったので、今日こそは!と意を決して話しかけてきました。手帳の裏表紙にしているサインを見せて、「これ、覚えてらっしゃいますか?」と聞いたら、「あっ、覚えてるよ。手帳に入れてくれてるんだね。そうかぁ。君が…」とうれしいお返事。「あれから、君の先輩にメールもらったよ。サイン見て、駅のホームで泣いてくれたんだって?元気になったんだね。いまは東京で働いてるの?本当によかった」とにこにこ。「彼女がキネマに行くからよろしくって彼のメールに書いてあったけど…」とおおはたさん。「そうなんです。キネマ、ものすごくよくて、お話できたらと思ったんですけど、すごい人で…」と舞い上がってしどろもどろになるわたし。「そうだよね。でも、やっと会えたね。本当に、よかった」とおおはたさん。じーん。あ、やばい泣く。でも恥ずかしいので必死にがまんする。「あの、もういっこサインもらってもいいですか?もうほんとに、いつもすっごく元気をもらっているんです」と涙目で見上げるわたし。25歳独身…おおはたさんは快く「ふたつの朝」のジャケットにサインしてくれました。わたしの名前の漢字が、ちょっと珍しいのもちゃんと覚えてくれてた!作る音楽と寸分たがわぬあたたかいお人柄です。で、ライブ。ハリケーン・ドロシー。あの子の居場所。おだやかな暮らし。ホーボーへ。ふたりの音楽。グッドナイト、アイリーン。「もう生でいいよね。部屋で弾いてるみたいに。後ろの方のひと、聴こえなかったら前に来たっていいんだよ」と言いながらギターのアンプをべりべりと引きはがし、マイクを外すおおはたさん。目の前で、生音生声を聞きました。言葉も出ない。なんて贅沢な!魔法のように動く指。「おだやかな暮らし」は案の定涙止められず。このひとがギターを弾いてうたうのを、一生ここで見ていたい…と泣きながら夢想するほどすばらしかった。全部の曲が終わり、おおはたさんが何気なくかき鳴らした「Cancion Mixteca」も一音一音、全身が浄化されていく感じ。帰りぎわ、エレベーターに乗ろうとしたわたしに、おおはたさんが手を差し出して「今日はありがとう」と固く握手してくれました。指の長い、大きな手。さっきまでギターを弾いていたあたたかい手。言いたいことがたくさんあり過ぎると、感謝のきもちが多すぎると、人は何も話せなくなる。俯いて、小さな声でお礼を言うことしかできなかった。記者だったくせに!根が小心者なんだな。もっと、もっと伝えなきゃならないことがたくさんあったのに。エレベーターのドアが閉まるとき、おおはたさんが「がんばって」と手を振ってくれた。「がんばれ」という言葉がこんなにあたたかく響くのを、本当にひさしぶりに聞いたなあ。病気になってから、いろんな人に「がんばれ」と言われるのがつらくて、いやで仕方なかった。なのに今日はとってもうれしくて。うれしくて…ああ。またぼーぼーと涙が。センター街の真ん中だっていうのに。人前では泣かないことを信条にしていたはずの、わたしの涙腺はどうなっちゃったんだまったく。神さまはずるい。ずるいぞこんな小技を使うのは。あした起きたら、朝いちばんに先輩にメールを書こう。こんな大きな贈りものに、一体どうやったらお返しができるのか、ほんと、途方に暮れちゃうなあ。。
2006.06.03
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※今日は女性の月のもののお話です。ちょっぴり生々しい表現もあるので、苦手な方は読み飛ばしてくださいね。 はたちを過ぎるころから、生理が重く、生理痛もひどい。頭はがんがんするし、おなかは重く、身体じゅうがだるくて気分が落ち込む。寝ても寝ても眠くて仕方がない。何とかしたいなぁと思っていろいろ調べていたとき、布ナプキンのことを知った。布ナプキンは、文字通り布製のナプキン。一般的に使われている紙ナプキンのように使い捨てず、洗って何度も使う。紙ナプキンのように石油原料の化学物質や漂白剤が使われていないので、女性の体にやさしい。大量のゴミが出ないので、地球にもやさしい。使っている人の感想には、生理痛が軽くなったり、期間が短くなったり、不妊が解消したりすることもあると書いてある。何より「毎月の生理が楽しみになりました!」と多くの人が書いている。あの憂うつな生理が楽しみになるなんて。まさか!むかしむかし、布ナプキンを使っていた経験もある母に聞いてみたら「うーん、少なくともお母さんの時代は、紙ナプキンがないから仕方なく使っていたっていう感じで、あんまりよくないわよー。洗濯面倒だし。なんとなく不潔っぽいし」とのお答え。そうかあ。やっぱり洗濯たいへんなのかな?衛生面はだいじょうぶなのか?だいたい、布なんて漏れちゃうのでは?などと半信半疑で、さらにいろいろ調べてみる。ネット情報によれば、アルカリウォッシュという弱アルカリ性の洗剤を入れたバケツにつけておくと、一晩できれいに落ちるので、その後はふつうの洗濯物と一緒に洗えるらしい。洗濯はそうたいへんじゃなさそうだな。別に不潔でもないわけだ。布ナプキンとひとくちに言っても、防水加工してあるものやスナップで止めるタイプ、四角い布を折って使うタイプなどいろいろあり、上手に使い分けたり重ねたりすれば、案外漏れないらしい。ふうん。なかなかよさそうじゃないか。嫌いだった生理が少しでも好きになれたら…というきもちで、昼用と夜用、ひとセットずつ買ってみた。布ナプキンのメーカーはいくつかあるのだけど、今回選んだのは、天然素材にこだわった完全手作りの「はっぴ~む~ん」。スナップのついた本体に、経血の量に合わせた枚数のパットをはさみこんで使う。で、肝心の使いごこちですが、これ、めちゃくちゃきもちいいです。つけてること忘れちゃうくらい。肌ざわりのやわらかさ、やさしさに、いたわられてる実感がこみ上げて軽く感動。痛みと不快感がいちばんひどいはずの1日目、まったく生理痛なしに一晩ぐっすり眠れました。しかし使い方や換えるタイミングに慣れないので、多い日はまだちょっぴり不安。なので、2日目3日目の出勤は紙ナプで。布から紙に取り替えてわずか30分ほどでいつもの生理痛に見舞われ、あまりのことに笑ってしまった。多い日や夜こそ使いたいので、さっそく「メイド・イン・アース」の夜用セットとパットも買い足しました。お洗濯は、水かぬるま湯を張ったふたつきバケツにアルカリウォッシュを入れて、使ったナプをぽんぽん放り込んでいきます。ティートゥリーの精油を一滴落としておけば匂いもしないし雑菌も繁殖しない。ちょちょっと手洗いするだけで、きれいに落ちる。洗った水は、食紅を溶かしたみたいに透き通ってきれい。生理はきたないものというイメージがくつがえります。植物にあげてもいいというのでおそるおそるあげてみたら、葉っぱの赤ちゃんがにょきにょき伸びてきて大喜びしていた。そうかあ。赤ちゃんのベッドになるはずのものだったんだもんね。考えてみたら、汚いわけないんだ。慣れてきたら、四角い布を工夫して折るタイプの「月のやさしさ」も使ってみるつもりです。わくわく。あれ?いつの間にか生理楽しみになってるよ?!
2006.06.02
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マンダラ塗り絵というのは、白い厚手の紙に黒い線でさまざまなマンダラが書かれている本で、自分の好きな画材を使ってそのマンダラを塗っていくことで、いまの自分のこころの状態がわかったり、波だった心が穏やかになったりする、オトナのための塗り絵なのです。マンダラに限らず、最近は本屋さんに行くと、オトナのための塗り絵がたくさん並んでいますねー。会社帰りに本とカラーペンを買い、夕食の仕度もそこそこにぬりぬりぬりぬり…はっと気づいたら、あっという間に1時間以上経っていた。予想以上に楽しいものです、これ。癒やしというより、塗っているあいだ、マンダラとそこに塗りたい色のことだけにすっと意識が集中し、一種の瞑想状態になる。塗り終わった後、本に書いてあった通り、5メートルくらい離れた場所から眺めてみる。おお!なんてきれいなんだ。自分でも思いがけない模様が出来上がっていて、いつまでも眺めていたい感じ。これは確かに、バランスを崩したり、気力を失ったり、不安や恐怖にさいなまれたりしているこころに効くことでしょう。これからもちょくちょく時間を作ってぬりぬりしよう。話が前後しますが、お昼は文化的上司とランチデート。本社ビルがあるこの若い街には、オフィスビルが乱立し、たて横だけじゃなく上下のつくりも複雑で、いつの間にか迷ってしまうという話になる。「立体的な街は、意識の流れを遮断する」と上司。古い江戸の街は、人びとが暮らしやすいように少しずつ広がっていくので、すっと風が通り、「なんとなく」の感覚で目的地に着けるんだって。おいしいおそばをいただきながら、本を紹介してもらったり、昔取材した写真家や作家のお話を聞く。お店の天井が高いという話になったとき、「空間の圧迫感というか、そういうものにすごく敏感になったでしょう?」と言われた。それが「病気になって」という意味だとわかるまでに、少し時間がかかった。この方はとても奥ゆかしく、思いやりのある言葉の使いかたをする。お話することのできる一分一秒が、宝物のようだ。
2006.06.01
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