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斜めからインドネシアを眺めよう 623KUCHING KOTAKINABALU BRUNEIからのバスが来ていた。マレーシア領まで近いところは300Kmくらいです。一番近いマレーシアの町はクチンと言います。多くの欧米人観光客はコタキナバルとクチンをセットで訪れるそうです。私は時間が無くて国境を超えることはしなかった。 最終日、ポンティアナックの町を縦横に流れているカプアス川から街の様子を観光しようと思っていたが、生憎の大雨、屋根付きの大型ボートを見つけることができずに断念した。フェリーボートの発着場所はそこかしこにあるし、大型の貨物船が横付けされる港も沢山ある。観光船の港は少ない、そこへ行くアクセス道がまた目立たない狭い。地元の人が遊覧船や納涼船を楽しむという習慣は内容で、場所も船も少ないから外部からの観光客もその機会を探すことが難しいようです。在りそうな岸辺に行ってそこら辺の人に聞いても、あるかないか、あってもどこなのか知らない人がほとんどである。市内観光をすることにしたが、それも、美術館や博物館もなく、車を使って巡るところもないときき、することが無くなってしまった。ショッピンギセンターでも行ってみるかと思ったが、時間が早く、開店していない。そこで、その辺りにある土産物の店を見て回ることにした。アロエ関係の飲み物やお菓子、薬、が氾濫していた。アロエの形が似ているのでしょう。リダー、ビヤワッといって、トカゲの舌、という意味です。その他はインドドネシアならどこにでもあるクルプック(上げ煎餅)、乾燥魚、乾燥果物などが並んでいる。煎じ薬の元になる植物や木を乾燥したものも売っている。蜂蜜もどこでも売っている。私が求める土産物というか記念品はTシャツです。その土地の名前が入っていて、その町の有名な建造物の写真がプリントされている物を必ず手に入れることにしている。今回は、赤道を表すモニュメントとポンティアナックが印刷されている物を買った。三万から五万Rpが相場です。サイズや生地の厚さで値段が変わるようです。Tシャツは何枚たまったでしょうか、数えたことが無いので沢山だということだけです。今回の旅は、気分転換と新しいひらめきを求めようとしていて、旅そのものは殆ど上の空だった。こんな旅は初めてであった。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/それでも、ゴムの木から採取したゴムを板状にして天日干しにし、ある程度水分を抜いてからゴム工場に出荷するということを、道端に広げて、天日干しをしていた人から聞いた。得も言われぬ臭さで二度とかぎたくない臭さだった。イカンサルジュといってまっ白い肉の淡水魚、価格はこれで1500円くらいする。かなり高い。15Cmくらいの厚さで胴体を輪切りにしてホットプレートのような状態で出てきた。タイを柔らかく似たような感じで皮の内側にこってりと脂が乗っていて、大変おいしかった。綺麗に平らげた。このポンティアナックのカプアス川にしかいないという魚。20:00に家に戻っている。
2010.05.31
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斜めからインドネシアを眺めよう 622ポンティアナック市内にとどまる。旅の疲れと睡眠不足で、体が自分の間のではないように、筋肉がぴくぴく勝手に動くし、脳の中のここかしこで、クラックラとなにかが動いている、眠りにつくのか、意識を失うのか自分では判断できない変な状態になって,はっとして正気になるのか、目が覚めてしまうのか、これも分からずに自分に戻る。こんな状態を一日中繰り返しながら、何ヵ所か、めぼしいところを訪問した。夢の中で一日が過ぎたような気がするが、今は、正気に戻って書いている。 東へ向かって内陸に入るとイスラムの影は薄くなってクリスチャンの雰囲気になってくる。ルマーパンジャンといって長屋の伝統的な家屋が多くなってくる。完全にダヤック族の集団家屋で、私が訪問した家屋はそこの長のような人が出迎えて、説明してくれたが、200年前から6世代が住み続けているという、この長屋には250人住んでいて、結婚もこの中同志で結ばれると言う。全員が親戚関係になっているという。近親結婚で弊害は無いのでしょうか。その長屋の道を挟んで向かい側に一戸建てや二三軒がくっついた家があるが、これらの家の人たちも親戚関係らしい。本当に、山の中の部落というより、孤立した集団の長屋で、住む家が足りなくなれば継ぎ足していったという。緩やかな坂道に沿って立っているので、どこから立て始めたのか知らないが、高床式の床の高さが殆どないところから、3mくらいまでの高さまである。弥生時代の遺跡の高床式倉庫の丸木をくり抜いて作った梯子と同じ梯子で家の前の廊下のような処へ上るとそこは下が見える隙間が空いている板敷きの道のようになっていてどこの梯子を上ってもその家の前の廊下を通ってどの家にも行ける。長屋の入口がいくつもあって、どこでも入ると、また、3mくらいの廊下がある、其の廊下に各家の人が出てきていて、あちらこちらで話をしている。そこから、各家々の扉が等間隔であるのが見える。 その端の部屋が図書館と民芸品の展示場所になっていてそこに案内された。子供たちがぞろぞろ付いてくる。こういう現象は、昔のままの家を訪問するとどこでも同じである。誰もが人懐こい。同じダヤックでもマハカム川沿いの、観光省の援助を受けて近年作り返したロングハウスに比べると本当に何の観光援助もなく自分たちだけで作ったようで、 本当に200年過ぎているとはこんな貧弱な建物で、とても思えない、せいぜい5~60年だと思う、また、釘が使われていた。外の廊下は、朽ちかけていて、怖くて歩けなかった。これらの多くは数年も使い続けられないと思うが、最近修復したような新しい材料を使っている場所も見当たらなかったのが不思議である。こういう場所を訪問すると、自分の生活や仕事や人との係わりあいは何の意味があるのかと考えさせられる。生き方を考えさせられる。10年くらい前からの訪問者の記帳を見せてもらったが、日本人は一人も来ていない。ここの責任者も日本人に初めて会ったと言っていた。観光ツアーなどあるはずがない場所です。 Sehaという峠の茶屋の風景。ロングハウスの外の廊下と家の中の廊下
2010.05.30
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斜めからインドネシアを眺めよう 621 今どこにいるかというと、西カリマンタンのポンティアナックにいる。朝、03:00起きでスカルノハッタに向かい、05:00着06:00出発のはずが、07:15発になってしまった。バタビアでした。インドネシアでは、どの会社でも同じこと、一時間や二時間の遅れは常識の範囲内です。いちいち、腹を立てていたら、インドネシアでは暮らせません。 何の事前調査もしていなかった、だだ、まだ、行ったことがなかったので来てみた。何がどこにあるのか全く知らないで、行きあたりばったり立ったが、一応、空港の観光案内所でパンフレットを貰った。09:30に到着、すぐに北に向かいシンカワンへ行った。何もないところで、西の海岸を見ただけで、ポンティアナックへ戻った。この地帯も、雨季になれば至る所が水浸しになるのでしょう、どの家も、30Cm以上床を地面から上げていて、所要道路までその高さの板敷きの橋が渡してある。 Sn.Kapuasカプアスという100m以上の幅がある川が街を縦横無尽に流れている。典型的な扇状地というのでしょうか、いくつもの川に次から次へと出会い、それを渡って移動した。その川の名前が全て、カプアスと言うらしい。何々カプアスという言い方をしている。ホテルも、カプアスの名前が付いているものが多いが、やはり、カプアス何々という名前になっている。ドライバーにカプアスホテルといっただけではどこか分からないようだ。 思いもよらず、不思議な場所に出会った。またこの町の北に赤道の記念塔というか、北半球と南半球をまたがるようにムニュメントが作られている。北と南にまたがって西に向かい、左足は南、右足が北半球という状態で写真を撮った。こんな経験ははじめてだった。赤道の通過は数え切れないほどしているが、飛行機で通り過ぎていることが殆どで、地上で超えたのは多分初めてだと思うし、もし、今まであったとしても、川を船で通過したか、車で、街の中ではなく、森や林や田舎の道を通過している時で、気がつくことは無いし、それを、意識したこともなかった。今回は大都市の郊外ということで、立派な記念碑があり、名所にもなっている。欧米人も何人か来ていた。地元のデートスポットになっているようだ。 ジャワでは今でも毎日、スコールがある。異常気象で雨季が終わっていない感じがするが、ここは、完全に乾季になっているようで、入道雲が低い位置を覆っていて、流石に赤道直下、頭の真上からじりじりと太陽光が暑い。パラボラアンテナが完全に真上を向いている。 http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/ 仕事のことが頭から抜けない、心からエンジョイ出来ない。それを、見ていたら、閃いた。月曜日に早速やってみることが二つ浮んだ。 Singkawangへ行く途中の海岸で。
2010.05.29
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斜めからインドネシアを眺めよう 620 ぎりぎりの最終日、明日から三連休、どうしても、今日、完成させなければならない物があった。気持ちの上で、この二ヶ月間、ストレスが増える一方、睡眠不足も続いた。日本なら、こんなことにはならなかったはず、いまさら、不平を言っても仕方が無いが、日本にあって、インドネシアにはないものが多く、それを使えば簡単に出来ることでも、こちらでは、出来ないことが多く、悩みが増すばかりであった。 その上、ISOだ5Sだと、安全衛生だと、会社設立段階の準備をしている最中でも有り、技術や試作とは関係が無い話で、時間を潰されたり、そちらの方をやらなければならなったり、いちいち、私のサインが必要であったり、私のお客さんではないのにミーティングに呼ばれたり、工場を案内したり、余計な任務が多すぎる。試作に専念できないし、中断させられる。全く!!。 まだ満足するものは出来ていないが、一先ず、サンプルを持って行った。駄目だとおもう。明日から、金型屋が三連休になるので、修正したいところがまだ沢山あるが月曜日にしかできない。もう、じたばたしても仕方が無いので、三連休は息抜きと、先入観を捨てるために、旅に出る。ひらめきが出ることを期待する。 どんな仕事かって?それは書けない。秘密だからではない、こんな簡単に見えるものができないのがみっともないと思うからである。てな訳で、ぎりぎりまで追い込まれてしまった。体重もここ二カ月で5Kg落ちた。ダイエットと言えば聞こえはいいが、望んでいない状態でただ痩せた。70から65Kgになってしまった。 いずれも、運転しながら前を行く車を撮った写真、一つは、パトカーに先導されて高速道路の中央をはしている中途半端に重要人物の車の後ろを付いて行っている。渋滞に遭遇した時に一番、賢い方法である。もう一つは、インドネシアで一番飲まれている飲み物テーソスロの配達トラック。断食の時の飲み物はこれしかない、満喫するには他に変わるものは無い。と書いてある。ぎりぎり 思いつき ひらめき
2010.05.28
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斜めからインドネシアを眺めよう 620 ぎりぎりの最終日、明日から三連休、どうしても、今日、完成させなければならない物があった。気持ちの上で、この二ヶ月間、ストレスが増える一方、睡眠不足も続いた。日本なら、こんなことにはならなかったはず、いまさら、不平を言っても仕方が無いが、日本にあって、インドネシアにはないものが多く、それを使えば簡単に出来ることでも、こちらでは、出来ないことが多く、悩みが増すばかりであった。 その上、ISOだ5Sだと、安全衛生だと、会社設立段階の準備をしている最中でも有り、技術や試作とは関係が無い話で、時間を潰されたり、そちらの方をやらなければならなったり、いちいち、私のサインが必要であったり、私のお客さんではないのにミーティングに呼ばれたり、工場を案内したり、余計な任務が多すぎる。試作に専念できないし、中断させられる。全く!!。 まだ満足するものは出来ていないが、一先ず、サンプルを持って行った。駄目だとおもう。明日から、金型屋が三連休になるので、修正したいところがまだ沢山あるが月曜日にしかできない。もう、じたばたしても仕方が無いので、三連休は息抜きと、先入観を捨てるために、旅に出る。ひらめきが出ることを期待する。 どんな仕事かって?それは書けない。秘密だからではない、こんな簡単に見えるものができないのがみっともないと思うからである。てな訳で、ぎりぎりまで追い込まれてしまった。体重もここ二カ月で5Kg落ちた。ダイエットと言えば聞こえはいいが、望んでいない状態でただ痩せた。70から65Kgになってしまった。 いずれも、運転しながら前を行く車を撮った写真、一つは、パトカーに先導されて高速道路の中央をはしている中途半端に重要人物の車の後ろを付いて行っている。渋滞に遭遇した時に一番、賢い方法である。もう一つは、インドネシアで一番飲まれている飲み物テーソスロの配達トラック。断食の時の飲み物はこれしかない、満喫するには他に変わるものは無い。と書いてある。
2010.05.27
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斜めからインドネシアを眺めよう 619 私は全く酒類、アルコール類とは無縁です。66年に来てビールを何リットル飲んだでしょうか、酒を何リットル飲んだでしょうか。おそらく、いずれも、100Lも飲んでいないと思う。それ以上のんでいると思うが、殆ど吐き出してしまっているので、胃から下に下がったものは100L以下だと思う。ということで、インドネシアでも酒は一滴も飲んでいない。ビールも全く飲んでいません。アルコール類はゼロです。ですから、最近15年は飲んでいない。 インドネシアのアルコール事情は殆ど知らない。しかし、アルコールをこよなく愛する人たちからの話を聞くと、日本系スーパーマーケットが輸入許可の問題を巡って問題が発生し、輸入を出来る食品が以上に少なくなってしまったことに始まって、ここ、二年ほど前から、酒類の入手が大変困難になっているし、手に入れても非常に高いという話が多い。日系のスーパーマーケットには置いてないという。置いても、すぐ無くなってしまうほど少量しか手に入らないらしい。日系のレストランでも入手には苦労しているらしい。多分、許せる範囲であの手この手を使って手に入れていると思う。 ウイスキーやワインは比較的、普通のルートで手に入っているようです。先日、ある人から、酒飲みの方々に大変、喜ばれそうな情報を受けた。バリと言えば、最近密造酒を飲んだ人が集団で亡くなるという事件が立て続けに起きている。そのバリから安い、アルコール度の高い焼酎を簡単に入手できるということでした。 バリワインは有名で、空港の免税店やバリの免税店に大量に置いてある。ワイン好きの人に土産として買ったことがある。 その情報が確かかどうか、確認するために、仲介の人に三日ほど前に頼んでおいて、今日、その酒を入手した。ルートは極秘です。確認できた。私が飲むわけがないし、鑑賞する気もない、これを、酒に飢えている人にプレゼントしようという考えです。めちゃくちゃ、喜ばれるはずです。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/ インドネシア人にとっては大変有名なお酒で、イスラムの人たちの間でも飲む人にとっては魅力あるお酒のようです。Arak Baliという焼酎でしょうか、よくわかりません。アルコール40%です。価格は680ML12本で一万五千円でした。一本千二百円ちょっと、高いか安いか私には分かりません。酒類を殆ど買ったことが無いし、買ったことがあっても、値段を覚えていないし、他人が、これはどこでいくらだったとかいう話をしていても、全く、聞く必要が無いからです。電話で頼んで三日後に手に入りました。オレンジジュースで割って飲むとおいしいと書いてある。アラックとはお酒という意味でそうです。バリのお酒という意味です。 勿論、私は写真を取っただけで、飲んでいません。どんな味だか知りたくもありません。ただ単に水にしか見えないほど、無色透明の液体です。片側交互通行の道でもバイクはドンドン対向車線を走って行ってします。待つことを知らない。対向車の邪魔になっていることで結局、全体の流れを遅らせる原因になっているとは思わないのです。
2010.05.27
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斜めからインドネシアを眺めよう 618またまた、レクサスをリコールした、某車生産の超大企業のT社のT社長は知っているのでしょうか。日本や他の外国のことは知りませんが、インドネシアの業界のことは知っています。車やさんだけに限ったことではないと思うが、車屋さんやバイク屋さんの規模が多きい最終組み立て屋(大企業)さんの品質管理担当者が、欠陥を追及するのに、日系の一次、二次の下請けの表面的状況を厳しく監査するだけで、奥の秘密については目をつぶっているのか、本当に知らないのか、チェックをしていない状況です。見積もりや品質については、日系企業からの資料をもとにしている。そして、監査があった時も、其の日系企業からの品物を基礎にして製品を作っているという資料しか見せない。下請け日系企業は隠れ蓑に使われているのです。 感心させられた製品の購入の仕方があった。製品のサプライヤーに原材料を支給する(売る)その価格は、それは明らかにしないが、入手した価格の30%増しの価格で支給する。原料を売って利益を上げるのです。その原料価格を元に製品の見積もりを出させる。利益率は10%以内に抑える指し値を最終的にのませる。処だ、それが最終にならない。原料の価格が上がったと言って、原料価格を例えば20%上げる。そして、利益の金額をそそままにし原料価格だけ上げた見積もりを出させる。当然利益率は下がる。製品発注側は原料を売って利益を上げ、製品価格は実質値下げをさせたことになる。うまいやり方である。その会社は、最終組み立て会社に出す価格は、原料が上がったと言って、定期的値下げ依頼を断ることができる。自分が売った原料価格分、実際に仕入れ価格が上がっているからです。ちなみに、私が取引している会社はそんなことはしません。無償支給で、出来ただけの数量を加工賃で引き取ってもらています。 中間はそういうことをしないと、最終組みたて会社からの値下げ要求を飲めないのです。苛められるのは中小零細の日系企業です。それでも、コンスタントに仕事があるということで、そういうカラクリを知りながら、引受けているのです。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/もう一つの方法は、前にも、書きましたが、ローカル企業から、どんな原料でも構わないので、一応使える製品を調達し、その、比率を増やすのです。原材料の品質を確認しません。とにかく安ければいいのです。原料証明もISOも要求しません。監査にも入りません。それを要求するのは日系の下請けです。そこから出る資料を最終組み立て会社に出すために、その会社から、若干高くても、少しの比率だけ製品を購入するのです。日系企業はそういうところでも、うまく、利用されているのです。監査も、値下げ要求も定期的に来ます。 最終組み立て会社(大企業)の担当者は当然知っていると思うが、それは、暗黙の了解ということになり、今回のようなかなり厳しいリコール問題が発生した時にも、同じです。ローカル企業までは調査や要求はしません。問題を起こした部品だけ交換して終わりです。大騒ぎをして見せるだけで実態は何も変わりません。ほとぼりが冷めるのを待つだけです。 MM2100工業団地の入り口ゲートと押出工場のオフィスの私の場所から現場を見ることができる。
2010.05.26
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斜めからインドネシアを眺めよう 617 インドネシアのガソリンスタンドはポンパ ベンシン(Pompa Bensin)と言います。ベンシンはガソリンです。プレミュウムというのが一般のレギュラーガソリンです。ソーラル(Solar)が軽油です。どちらも値段は4500Rp(45円)/Lです。原油の上げ下げで変動することはほとんどありません。国が補助金でその価格を保証しているのです。日本の三分の一くらいでしょうか。感覚としてはタダ同然に安いと感じる。ポンパベンシンは至る所にある。ジャワ島ならどんな山の中でも、車が通る道があれば、ポンパベンシンもある。多分、離れていても10Km以内にあると思う。だから、安心です。国営のプルタミナという会社が独占していると言っていい。シェルなど外資系のガスステーションもあるが、ジャカルタ近郊にしかないし、店の数もプルタミナに比べれば十分の一もない。 ガソリンを入れるのに満タンという人はほとんどいません。何リーッターという人もいません。金額を言うのが普通です。大変合理的だと思う。細かい金額を言う人はいない。一万Rp単位でいう。私は、15万Rpということが多い。スタンドの人が、金額をセットし、金額がゼロになっていることを確認させてから、給油を始める。その金額になれば自動的にストップする。その間にお釣りやら領収書を受け取ることができる。日本のようなサービスは一切なし。給油口を開けるのも閉めるのも客である。車の給油は5万Rpが一般的です。満タンにする人は、日本人の運転手くらいなものです。 バイクが多いので、数年前辺りから新しく作られたガソリンスタンドはバイク専用のポンプがあって、一般車両の列に並ばないで、そちらの方に並ぶようになっている。バイクの給油量の様子はやはり金額でいうが、1万Rpが殆どで2Lちょっとということになる。数年以上前のガソリンスタンドはその区別が無いので、バイクがどんどん割り込んでくる。危なくて仕方が無いし、車の給油が後回しにされることになってイライラさせられることがある。工業団地内のガソリンスタンドは区別が無い上に車だけでも数代以上並ぶことがある。30分くらい待たされることがあるので、私は、そこでは入れない。私が住んでいる住宅地のガソリンスタンドを使う。ほとんど、行列は無いので、待つことは無いし、バイクは別のポンプになっている。 ガソリンの販売は自由である、許可を取って売っているとは思えない道端の売店が沢山ある。二リットル一瓶で一万~一万二千Rpで売っている。ガソリンスタンドでポリタンクに入れてもらって買ってくる、それをビン詰めにして売るのです。主要道路からわき道に入った、車は通れない、バイクは通れるという道端で売っているのです。プルタミナのミニですから、これを私はプルタミニと言っています。これはガソリンスタンドの10倍以上に店があると思う。便利なものです。日本では全く考えられない。必ずトイレとイスラムのお祈り部屋がある。給油しなくてもお祈りやトイレに寄る人は多い。私は、昔はモスジッドに寄ってトイレを借りていたが、最近はその必要はなくガソリンスタンドに寄ることにしている。トイレで困ることは全くなくなった。それに、大概、掃除をする人がいて、綺麗になっている、チップは千Rpが普通である。女性は特に助かるようだ。ムディック(レバランの帰省)の時は特に重要だ。日本人は、車を使っていない時に運転手がガソリンを満タン近くに入れておくので、ガソリンスタンドに寄ることは無い。どんな様子か知っている人はほとんどいない。カンクンと豚肉を炒めたもの。ポンパベンシンの給油係員は女性が多い。
2010.05.25
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斜めからインドネシアを眺めよう 616表面的には明るく楽しく見えるが、実態を知ると寂しくなる。ゴルフのキャディーの給料は、一般的に固定給は無しである。彼女達の収入は、誰かの手伝いをすればキャディーフィーとして一人当たり4万Rpを貰える、毎月月末に纏めてもらえる。ユニフォームやボーシは支給されたものを使う、これはタバコや電話会社などのスポンサーが支給するもので、ゴルフ場の負担にはなていない。その他靴など身につけるものは自分で負担する、物によってはゴルフ場から指定されたものを指定された業者から買わなければならない。これらは、月末支給されるキャディーフィーから天引きされる。交通費や保険など一切、ゴルフ場はキャディーの手伝いはしない。そして、1週間に1日休むことができるが、勤務時間は指定される。その時間は、キャディーの仕事が無くても、控えていなければならない。1か月に五日休んだり変更をしようとすれば、もう来なくていいということになる。ですから、どこのゴルフ場のキャディーも収入の大半は客から貰うチップである。ゴルフ場から貰うキャディーフィーが10人手伝って40万Rpでも一人当たり平均10万Rpチップを貰えば100万Rpになる。これで、大体、インドネシアのジャカルタm付近の最低賃金になる。税金はチップからは引かれないという、だから、申告はしない。メンバーで決まって指名してくれるお客さんを掴めば、そして、必ず、指名されたときに手伝えば一回15万とか20万Rpを受け取ることができる。そういう人を早く見つけることができれば安定した収入を得ることができるし、緊張しないで楽しく手伝いができるので、皆さん、そういう人を獲得しようとしている。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/カラオケの女性と似た処がある。カラオケの場合は一般的に20時間のアワーチャージを店に払えば女性を連れ出すことができる、女性はその60%を貰える。キャディーの場合も、特にインドネシア人の公務員やある程度名の知れた会社の地位の高い人たちは、キャディーを指名し、プレーの後食事に誘ったり、その後の相手もさせたりする。ゴルフ場のキャディーマスターにある程度のお金を渡し、キャディーマスターから本人に、其の人の手伝いをするように、と、言い渡してもらい、本人には断ればキャディーを続けられなくなると脅かしを掛ける。そういう、犠牲になっているキャディーも多いとい。高卒でキャディーになったばかりの子が犠牲になるようだ。インドネシア人のスケベオヤジどもが虎視眈々とそういうことを考えながら、ゴルフ場に来ていると思うと、情けなくなる。それで、キャディーを辞めてしまう子もいれば、割り切って、其の通りにしてある程度の収入を得る子も多いという。私が気に入って指名してやろうと思っても、拒否されることがある。インドネシア人の手伝いをする必要が無い日は私の手伝いをするが、今日はキャディーマスターから他の人の手伝いを頼まれているから断れないので、手伝いを出来ないと言われる。可哀そうになるが、どうしようもない。ゴルフ場の外から垣根越しに商売をしている売店。ジャバベカゴルフは品質が良い中古のゴルフボールを安く手に入れることができると言う評判で、ボールを大量に仕入れるプレーヤーも多い。ゴルフ場経営の売店より30%は安いが、外のスーパーで買うより30%高い。日本なら沈下橋と言ってちょっとした名所になるところですが、インドネシアなら全国至る所にあるから珍しくもなんともない、というより、安く簡単にできる橋です。一般的な橋です。そばにトイレ兼水浴場があるがこれも至る所にあるし、そのそばで野菜や食器を洗うし、洗濯もする。
2010.05.24
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斜めからインドネシアを眺めよう 615昼食の時にスイカやメロンをナイフで薄く切ったデザートがありますが、流石の私も時々、食べないことがあります。汚い板の上で、男の子の汚れた手で掴んで、飲んではいけないと言われている水道水で洗った切れないナイフで切ってくれるのです。其の一切れ、一切れをその汚い手で摘まんで、皿に盛ってくれるのです。クルプックといって煎餅に一種が大きなプラスチックの箱に用意してある、それと、同じようにサンバルも同じような箱に一杯用意されている。その二種類は取りたいだけ取ればいいのです。サンバルはこれでもかというくらいに皆さん大サジで取ります。私は見向きもしません。おかずは野菜のてんぷらや鶏肉のから揚げやテンペゴレン、野菜スープなどですが、いずれも、皆さんは沢山のサンバル(辛子)を掛けたり、塗ったりして食べる。本当の味は皆さんにわ分からないと思う。何でもかんでも激辛で食べるのです。味など分かるはずが無い、臭いも彼らには分からないと思う。タダタダ、ひたすらに辛くして、おいしいと言って食べているのです。これには二つの効果あると思います。一つは消毒、滅菌効果だと思う。少々腐っているとか、少々の雑菌はこの辛子で消滅してしまうのでしょう。もう一つは味や臭いを感じさせない効果です。臭いとか、洗剤の臭いがするとか、焦げ臭いとか、腐ったにおいとか、ドブ臭いにおいとか、苦いような味など全部を消すと思う。彼らはそして何の不満もなく大量に食べているのです。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/私は辛いものはからっきしダメですから、辛くして何もかも消して食べるということはできません。ですから、そのものの味や臭いを感じます。油の臭いも色々です。それを皆さんに言っても分かりません。私は、味や臭いを純粋に感じながら食べています。決しておいしいとは思わないし、また、石鹸の臭いも時々感じます。灯油のような臭いも感じるが、そんなにまずいとも思わない。こんなものだろうなと思って食べている。皆さんに取っては、日本人が一人一緒に食べているということが、一つの安心感につながっているようですし、仲間意識も感じてくれているようだ。無理をしているのではない、私は、自然に皆さんと一緒の食事をしたいと思っているだけです。こんな不潔で危険が一杯のような食事でも私自身はこれを食べたからお腹を壊したということは一度もないので、一緒に食べて大丈夫だと思っている。ただし、これも、他の日本人にはお勧めしません。ただ、現実を見てほしいと思うだけです。タイヤ二つと三角に支える足が付いて人が引っ張ってきて適当な道端で色々な食べ物を売る移動ミニ食堂です。カキリマ(kaki lima)五つの足、と言います。会社の装置のクローズアップ。着々と準備は進んでいるが、いつ本格的に稼働を始めるかまだ定かではない。
2010.05.23
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斜めからインドネシアを眺めよう 614ブンバワンソロBengawan Soloの作詞作曲をしたグサンさんが亡くなった。私が小学校の頃“ブンガワ~ンソロ、清き流れ”と音楽の教科書の載っていてよく歌ったものでした。インドネシアへ来て仕事をするようになり、従業員の皆さんと食事会やレクレーションの会で、私が歌うと皆さんから拍手喝さいでした。“可愛いあの子は誰のもの”という“ノーナマニスヤンプーニャン”という歌も、小学校の時に習った歌でした。 インドネシアについての知識はラルレシアとこの歌でした。いずれも、現地を訪れて確認をしました、その後、何回もいってきました。 ブンガワン・ソロという歌は、その流域に伝わる伝説を詩にした歌ですが、この、クロンチョンという音楽のメロディーが何とも言えない哀感と共にリズム感がある独時な貴重な印象を与えてくれる。インドネシアには色々な民族の色々な地方独特のメロディーがありますが、私はクロンチョンが大好きです。以下、ジャカルタ新聞からの抜粋です。グサンさんは一九一七年十月一日、ソロ(現地名スラカルタ、中部ジャワのジョクジャカルタの東北に位置し、車で一時間ほどの距離、)生まれ。演劇や歌を披露する楽団に参加し、第二次大戦中は日本軍の慰問団としてジャワ、スマトラ島各地で歌った。日本軍政下、故郷から東ジャワへと流れるソロ川(ブンガワン・ソロ)を歌った「ブンガワン・ソロ」が日本兵の心をとらえた。戦後、松田トシ(敏江)が日本語訳で吹き込んだレコードが大ヒット。南国歌謡ブームを巻き起こし、日本で最もよく知られる東南アジアの流行歌となった。これまでに演歌、ジャズ、ロック、ポップス歌手らが取り上げ、日本をはじめ海外で最も有名なインドネシアの歌として親しまれている。 ブンガワン・ソロはジャワ島最長の川。雨期は氾らんし、乾期には枯渇する川の雄大さと、そこに生きる人々の様子を歌にした。ポルトガル起源の伝統的なクロンチョンではなく、欧米のポップスの影響を受けた新しいスタイルのクロンチョン。 ほかにも、スラバヤ市内の橋で去って行った恋人を待つ心境を歌う「ジュンバタン・メラ(赤い橋)」、思い出の人を回想する「サプタンガン(ハンカチ)」など、戦争当時の男女の離別を歌った作品が多い。Lagu Bengawan Solo, ciptaan Gesang :Bengawan Solo, riwayatmu ini sedari dulu jadi perhatian insani musim kemarau, tak seberapa airmu di musim hujan air meluap sampai jauh … mata airmu dari Solo terkurung gunung seribu air mengalir sampai jauh akhirnya ke laut … itu perahu, riwayatmu dulu kaum pedagang s’lalu naik itu perahu はっきりってブンガワンソロ自体は観光として行くような場所ではない、汚れた茶色い水が滔々と流れているだけで、音楽の時間で習って知っているので、訪れる日本人も多いようですが、皆さん、来なければよかった、という印象が強いようです。私もそういう印象でした。写真を取る対象も殆どなかったので、あまり、写真を取っていません。
2010.05.22
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内容はガラッと変わります。グルメです。典型的な道端の食堂、不法出店です。ここのメニューにも垂れ幕に書いてあるようにソプブントゥットゥSop bentutがあります。70円位でしょう。女性が下ごしらえをしています。普通のレストランでソプブントゥットゥとなると600円以上になる。高級ホテルのレストランではオックステール スープ2000円以上になります。私はピンキリまで食べたことがありますが、味は同じです。量は日本のラーメンどんぶりに一杯くらいです。骨付きの肉の厚さは2cm位で、三つ入っています。骨のまわりの肉付き量も牛の尻尾ですからそんなに変わらない。 場所代、人件費、材料費、容器費などの違いで値段が変わると思うが、もともとの牛の種類や病気などの管理をしているか、していないかでも尻尾の仕入れ値が違うのかもしれないし、高給レストランの長期保存で処分したい肉を引き取って使うのかもしれない。インドネシアですから、そういう、腐りかけている肉を扱うシンジケートがあっても自然だと思う。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/Bakso(バソ)という、日本でいう、肉団子がある。色はグレーである。見た目は魚のミンチを丸くしたように見える。どう見ても、挽肉を丸めたものより、もっと、練りこんであって中も両面のデコボコ感は全くない。これの値段がやはりピンキリで、ミーバソも50円から7~800円の違いがある。人に聞くと、ヒドイ物は鼠の肉を大量に混ぜているとか、犬を大量に使っているとか、もっとひどい話で、肉ならならなんでもいいとばかり、ゴキブリや毛虫やムカデなども混ぜてしまっているという話もある。鳥フルで焼却処分されたはずの鶏肉が使われているとか。インドネシアですから、本当の話のような気もする。見た目では何の肉が使われているか誰にも分からない。DNAの分析をすれば分かるでしょうが、流通の百万分の一もチェックはできない。我が社の社員食堂の昼食用のご飯です。中に杓文字が見えますが、各自、この杓文字を使って、自分の皿に好きな量だけ盛ります。全員がこの容器の中に上から手を入れて掬うのです。手や袖に着いている埃は全部この容器の中に落ちます。其の杓文字はご飯の上に置いてあります。それを掴むとき手がご飯に触ります。杓文字に着いた汚れがご飯に触っています。何十人と同じ事を繰り返すのです。これは一例で、その他にも指摘する処は沢山あり過ぎて不潔さは目を覆いたくなりますが、私は皆さんと同じようにこれを食べています。他の日本人は、この食堂に近づきません。もし、私以外の日本人がここの食事を一緒にしたら、たちまち、下痢や腹痛に見舞われるでしょう。そして、この様子を批判するでしょう。しかし、この様子を全く知りません。 “未だに示されていない就業規則“の案に会社は従業員の安全と衛生に関して常に考慮するということが明記してありますが、この状況で、十分、考慮しているというのでしょね、きっと。
2010.05.21
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斜めからインドネシアを眺めよう 612 高校二年から三年の春休みに修学旅行があった。屋島の旅館で友達と一緒に撮ってもらった写真に初めて私がメガネを掛けた姿が映っている。メガネをかけ始めて、やはり、50年。メガネとの付き合いは長い。コンタクトレンズは考えたこともなかった。当時はメガネを掛けている子は余りいなかった。メガネの価格が今よりも高かったことと、メガネを掛けること自体が、ガリ勉の印象があったからだ。女性でメガネを掛けている子はほとんどいなかった。だから、私も、本当はメガネを掛けたくなかったが、書いたように、卓球の球が二つも三つも見えていては試合をしにくくてしょうがなかったことが最大で、不都合が多くなりすぎて、やむ負えず、親に頼んで買ってもらった。掛けて世間が急にはっきり見えるようになり、今まで全ての女性がピンボケ美人だったのが、急に、美人ではない人が多くなった事を意識した覚えがある。呉服町一丁目の老舗のHメガネ店だった。静岡に当時はそのメガネ店しかなかったように思う。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/必要に迫られて使い始めたが、現在は完全に老眼になってしまっている。近いところ、50cm以内はまったくピンボケ状態である。焦点を自動的に合わせる能力が無くなってしまっている。メガネを使わなくても、新聞が読めるという老人を私のような状態になった人には信じられないでしょう。老眼メガネは必携になっている。近くや手元を見る場合は必ず使わなければ見えない、読めないから仕方がない。近いところが見えるように老眼メガネを使わなければならない。相手がいる場合は特に必要で、読めない、見えないでは話にならず、相手に失礼になってしまう。また、現場にいる時も欠かせない。製品についても装置についても、ピンボケでは何も言えない。傷や異物や寸法の違いはインドネシア人の若者より早く正確に見つけて、指摘しなければならないからです。インドネシア人にこれはどうですかと聞かれて、見えないから、問題ないと返事をしてしまっては、インドネシア人から、その後聞かれなくなってしまう恐れがある。老眼鏡を掛けないで、見えるふりをする必要は無いし、見栄を張る必要もない。この歳になれば当然のことで、周りの人も、歳だからな、と思うだけである。住んでいる住宅地から高速道路にはいる道、07:00頃ですが、朝靄がまだ漂っている。従業員の集団健康診断に使われたレントゲン車、私がよくお世話になっているルマーサキッ ハラパンクルアルガの所有。写真容量の少ない無料ブログの写真は古いものから消去せざるをえません。もし、よろしければ、保存をお勧めします。
2010.05.20
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斜めからインドネシアを眺めよう 611何の、心配もなかった。不満、不平を思うことは何もなかった。悩みは無かった。望むことはあったが、回りを見回して、その望みがかなわなくても、気を落とすことは無かった。本人はどちらも中途半端で、どちらの力にも不満だったが、周りの目は運動と勉強を両立させている模範と移っていたようで、まだまだだよ,と言える雰囲気ではなかった。将来、もし、落ちぶれた人生になっていたら、「あの人がね、今は、どうなってしまったのでしょうか」、と、言われてしまうだろうなと、変な、プレッシャーを感じていた。本人、努力も頑張りもしていないのだから、この程度でいいと思った。 自分で望んだ道だが、まさか、インドネシアで強烈なパワハラの対象にされる人生が待っているとは思わなかったし、私の技術を自己中の乱暴な人に与えてしまうことになるとは想像していなかった。 http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/ 高校二年の頃、なんとなく、目が悪くなってきたことを意識し始めた。英和という女学校の体育館の脇を通って高校に通っていたが、すれ違う女学生が全員、ピンボケで綺麗に見えた。中に、知り合いの女性がいて、遠くから私を見つけて、会釈したり、手を振ったりしてくれているが、私の方からはその距離では誰なのか確認できず、なんとなく手を振り返して置いて、近くになって、なんだ、と思うことを繰り返した。 黒板の文字が見にくくなって、前の席に移動した。卓球のボールが相手側にある時に、二つに見えた。そんなことで、高校三年から近眼用のメガネをかけることになってしまった。それから、ずっと、メガネのお世話になっている。時は流れて、青春から何十年後の近い過去。ところが、50歳を過ぎるころ、明らかに目の事情が違ってきた。近いところがメガネのままでは見えなくなってきた。メガネを外せば近くが見えた。老眼鏡は必要なかった。60を過ぎると、今度は、近いところは老眼メガネが欠かせなくなった。製品のチェックをするのに必ず老眼鏡がいるようになった。逆に近眼のメガネは必要なくなった。ゴルフボールの行き先を裸眼で追うことができる。近眼になった当時の事を思い出すと、隔世の感がある。今は、ゴルフをするときにメガネをはずしている。グリーンの読みも、はずしていた方が分かりやすい。何かを読むとき、コンピューターに向かう時、必ず老眼鏡をかけることになっている。パスポートや運転免許証の写真はメガネをかけていない。 それプラス、目が乾くようになってきた。潤いを増すための目薬を離せなくなった。こちらの目薬は、目に刺激が無い。ただの水ではないかと思うくらい、スットするわけでもないし、臭いも全くない。インドネシア製のロート目薬も売っているが、刺激やすっきり系は売っていない。運転中、特に何時間も長時間運転する場合は、目が痛くなるくらい乾くようになって、目ヤニが溜まってしまう。こういうことを感じてくると、やはり、年だなと思う。目の衰えを最近特に感じる。バンドン近くスバンの茶畑、茶摘み風景です。生まれも育ちも静岡の私としとしては、たいへん懐かしく感じる風景です。インドネシアでも、プンチャックやレンバンの茶畑の中を何度も歩いたことがあります。と、突然、本場スイスのエーデルワイズです、この花は本当に奥ゆかしく質素でなごやかな感じがします。
2010.05.19
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斜めからインドネシアを眺めよう 610 今は、知らないが、当時、卓球の試合の団体戦は、シングル、シングル、ダブルス、シングル、シングルという順の5ゲームで三勝を挙げた方が勝ちという形式だった。四人で団体戦組み、その中の実力一二の二人がダブルスを組む。順番は、作戦で、相手のNo,1とこちらのNo,4が当たるように考えるとか、No,1同士をぶっつけようかと考える。一般的には、No1、No3 ダブルス、No2、No5にするチームが多いので、こちらの誰をそれにぶっつけるかを考える。相手の一人一人の大多数は中学校の当時からの知り合いが多いので、大体の実力は分かっていた。他の学校は、顧問のコーチが決めていたようだが、私にチームにはコーチはいないので、キャプテンが主に決めていたが、メンバー全員で、相手の誰と当たりたいとか、当たりたくないとか言い合って決めていた。それは、それでいいのだが、高校二年の時、静岡県中部大会団体戦の準決勝で、私はその時、自チームのNo3として、ダブルスの後、4ゲーム目にエントリーしてあった。本当の作戦は、三試合で、二勝一敗で来て、私は捨て石で負けてもいいように相手のNo1にぶつけ、二勝二敗でチームのNo1が最期の相手のNo4に勝って、三勝二敗で勝利する作戦だった。処が、作戦に反し、負けてはいけないダブルスで負け、そこまで、一勝二敗になってしまい、私が負ければ終わりだった。私は中学の時にその相手と二回試合をしているが、簡単に負けてしまっていた。自分のチームの全員が、もう、だめだと、あきらめてしまい、ヒドイことに、試合場所の周りで応援するはずの自分の学校のメンバーが誰もいなくなってしまった。私の次に出場するはずのNo1でキャプテンもいなくなっていた。何だこりゃと思った。相手の学校の応援団は強制的だろう、大勢来て大声をあげていた。 試合が始まった。私が簡単に負けるはずだったが、最初から、どうも様子が変だった。私のサービスを相手はことごとくリターン出来なかったし、相手のサービスは簡単にいきなりスマッシュを決める事ができてしまった。相手は、そんなはずではなかったという焦りが、もっと、緊張を膨らませ、がちがちになっているのが分かった、試合をしていて相手が気の毒になってしまった。相手のコーチがいろいろ指導したが、空回りだったのでしょう、最期まで、ペースをつかむことができなかったし、打つ手を変えようともしなった、ずるずると、私が勝ってしまった。自分でビックリだった。 回りを見ると、他校の女学校の中学校当時から知り合いの友達が大勢、私を応援してくれていた。中に、私が片思いで、それに気がついてくれず、本人は友達と思っている女性も応援してくれていた。勇気百倍だった。自分のチームのメンバーの応援など必要なかった。もう、夢見心地で、アイドルになったような気分だった。 勝って、5ゲーム目に出るはずのキャプテンはどこにいたかというと、着替えてしまって帰り仕度をして、自転車でグラウンドをぐるぐる回りながら私が着替えて出てくるのを待っていてくれた。帰ってしまわなかったのが救いだった。急いで着替え直し、会場に戻って、試合に臨み、簡単に勝って決勝戦まで進んだ。決勝では私が5番目になったが、私までまわって来ないで負けてしまった。こんな、チームでしたが、先輩も後輩もなく、和気あいあいだし、キャプテンとは小学校からの一年上の兄さんのような付き合いだったし、練習が終わって、自転車の後ろに乗せてもらい、二人乗りで、帰宅する機会も多かった。高校まで同じで、大学は違ったが、国公立選手権の会場や私が郷里に帰った時に静大の卓球部で先輩にお世話になったこともあった。 静岡県庁の事務長を長期で勤め、長い間、県知事の補佐をしていた。卓球部のOB会で数年前に会って其の当時の話をしたら、覚えていた。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/スマトラ島のトバ湖の西の端にあるシピソピソの滝、高さは、一見しても、那智の滝の倍はありそうだ。 中部ジャワのブンガワンソロ(インドネシア一の大河)の渡し船。清き流れは嘘、茶色く濁っていて、流れ来るゴミの量は半端じゃない。
2010.05.18
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斜めからインドネシアを眺めよう 609二年になって、下級生が入ってきた、やはり50人くらい。私の役目は、彼らを辞めさせることだった。処が、その中の四人、小学校の時から卓球場で鍛えてきていた。私より上手い。結局、その四人以外は全員辞めてしまったが、彼らが残ったのだから、四人増えて、やはり、私がいちばん下手だった。そこで、二年の時もレギュラーになれず、中途半端な、いてもいなくてもいい、どちらかというと、下級生の四人に気を遣わせる邪魔な存在だと意識していた。いまさら、やめて、他の体育系の部に行くことも出来ない。辛抱するしかなかった。 個人戦でも、静岡市で、優勝したり、10位以内に4~5人入っていたと思うが、私は32番目位だった。 二年の新人戦になるころ、四番手になっていた。上三人は、卓球場でならしてきた連中で、後輩の卓球場で練習してきた連中の何人かは私が抜いていた。市の新人戦で、四番手か五番手で、交代で団体戦に出ることができ、私の力ではないが優勝メンバーの一人になっていた。三年の本大会ではやはり市で優勝し、個人ではベスト8に入った。 県大会は全く印象に残っていない。しかし、この頃から、中学の時でも浜松や沼津の有力校へ遠征して他流試合をすることが楽しみになっていた。静岡市でトップの力を持っていたから、それができたのだと思う。うまい連中がいたので、私も釣られて腕が上がったと思う。補欠が多くてなかなか、レギュラーにはなれなかったが、後々に割合努力しなくてもレギュラーになれたのは、この時の環境と部員に恵まれていたからだったと思う。 三年の時は静岡市で優勝し県大会でもベスト4に入ったが。やはり、私は補欠だった。私が高校へ入って、私より上手かった後輩の連中が県大会で優勝した。そのメンバーは私が高校の二年の時に他校の選手として対戦したが、其の時は私の方が圧倒的に強くなっていて、静岡県の中部大会の団体で二番手として団体戦に個人とダブルスで出て準優勝、個人戦ではベスト8に入っていた。若い時は、やはり、環境に寄ることが多いと思った。中学の時一年からレギュラーに入っていた同級生は高校に入ってから、名前を聞かなくなってしまった。もっとも、高校の同級生では私より上手い奴がいて彼は準優勝をした。他の中学からきた中学時代から個人戦では上位にいた人でした。顧問の先生はいないと同じだったので彼がキャプテン、私がマーネージャーとして卓球部を運営していた。 余計なことだが、其の時に予算の多額獲得の手段を知った。年度末にはお金を使い切ること、安く買って、領収書は定価で買ったようにしてもらったり。合宿の前後に先輩を招待して卓球大会をして寄付を募ったり、繁華街や市役所県庁へ行って、遠征費の寄付をお願いしたりした。とにかく学校名でかなりそういう動きは世間に認められていたように感じていた。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/ 大学では一年の時からトップ。最初からレギュラー、何の努力も頑張りもしなかった。女性部員と和やかに練習をしていたし、先輩の女性部員からは良く持てた、というより、やさしく打ち返してやるので彼女達の練習相手として手頃だったと思う。良く、指名され、可愛がられたものでした。自然に二年の後半からキャプテンになっていた。囲碁部や書道部にも入って学生時代を満喫した。合宿も男女混合でやったので、普段練習に来ない部員まで参加した。スキーやアイススケートも学生時代に部で主催し、部員をあちこちへ連れて行った。この時も、急に部員が増えた。こんなにいたの?というくらい。 中学の時の同級の女性や高校の時の他校の女性や大学の時の同じ体育館で一緒だった女性の話など、この十年間の話はきりがない。この期間のエピソードはきりがない。 見にくい名盤、正面からしか読めない、15度以上横からでは光ってしまって、全く、何が書いてあるか分からない、というより、何も書いてなくただのステンレス板にしか見えない。インドネシアのゴルフ場の代表的な風景。
2010.05.17
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斜めからインドネシアを眺めよう 608ゴルフは予定に入れてなかったし、仕事は金型待ちなので、何もすることが無く、久しぶりに何もしないでくつろぐことができた。子どもの頃の運動について書く。腕力が異常に無く、懸垂が全く、一回も出来なかった。未だに、一回も出来たことが無い。これは自慢である。こんな人は多分いないでしょう。だから、逆上がりも出来たことが無い。100%劣等人間でした。だれにも馬鹿にされたし、先生にもさんざん言われた。高校一年の時の一学期「逆上がりができない奴評価は10点中の1にすると言われた。その通り、通信簿に赤で1と書かれていた。後にも先にも赤1はこれ一回きりであった。体育の通信簿はいつも最高の5か10だった。この時も二学期には10になっていた。というのは、鉄棒で足掛け上がりや、蹴上がりは反動を使うから出来るのです。ただ腕力と腹筋だけの逆上がりができても、テクニックを使う蹴上がりができない人がはるかに多かった。私は車輪も出来た。体育は足も速かったし、水泳も普通以上だった、クラスに中で一番ではなかったが5番以内にいた。クラス対抗リレーでも二三番手で選ばれていた。卓球は、腕力が無くても器用さと動きで、相手をごまかせば有る程度は出来るだろう。横着してもレギューラーメンバーになれるだろうと思って中学一年から、始めた。野球やバスケットボールをやってみたいと思っていたが、いかにも運動神経が発達していそうで体も大きい連中が入部していたので、自分は向かないと思った。野球は守備や走塁ではソフトボールの遊びで、負けないと思っていたが、打つことは全く駄目だった。どんないいあたりでも、ホームランなどは夢の話で、流し打ちでライト前に落とすしかなかった。引っ張っても仕方がなかった。バスケットは、ボールが重かった。ジャンプシュートができない。何より、選手同士のぶつかりあいができなかった。卓球なら、手首をくるくる返せば、どっちの方向へも打てるし、人とのぶっつかりは無い。処が、考えが甘かった。入って見て、先輩は5人だけだったが新入人数が50人以上いて、卓球台は三台だけ、まず、人数を少なくするためのトレーニングが始まった。ラケットは持たずにランニングとストレッチ、学校の周り一周が1500mほどあったが、毎日、5周回らされた。一か月で、10人以下になった。ラケットを持ったはいいが次は素振りが加わっただけ、壁に向かって、一に、一に、と素振り7月の夏休みに入る前に3人になっていた。そのうちの一人は小学校の時から、家の近くに卓球場があったので、飛びぬけて上手だった。二年の先輩も彼にはかなわなかったので、当然、直ぐ、団体戦のレギュラーに抜擢された。しかし、私と、もう一人は、完全に球広いで、なかなか、ピンポン球を台について打たせてもらえなかった。夏の本戦は早く会場へ行って、選手が練習する卓球台を確保することだった。先輩の成績は芳しくなかった、順位がどこだったか覚えていない。新人戦も出場機会なし、やっとそのころ、三年がいなくなって、部員数が8人ほどになり、卓球台で練習させてもらうことができた。しかし、何も経験が無い私は一番の荷物、先輩連中も私とは練習をしたがらないし、親切に手ほどきをするような人もいなかった。後に、高校の先輩にもなる其の人も、全く私には興味は無かったようで、一人卓球場で練習していてうまかった同級生を相手にしていた。壁に向かって球を打つことが日課だった。座って、突っつきの練習や立って左右に動きながらフォアーやバックハンドの練習を一人でしていた。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/一年生の終わりでは、やはり一番下手だった。短粒米の包装、富士光の袋は印刷が裏返しである。カリフルシア米で シンガポール経由でインドネシアへ入ったものです。POP MIEのミーゴレンです。焼きそばカップヌードゥルです。 誤字、脱字、変換間違い、が多々あることをお許しください。自分が書いたものを、殆ど、チェックしていません。ごめんなさい。
2010.05.16
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斜めからインドネシアを眺めよう 607三連休になったが、今回はどこへ行く予定もない。出勤である。 というのも、従業員が慣れれていない新しい仕事をするので、迷いや間違いが無いように監督しなければならないからでした。13;00に終わったので、これも、久しぶりにリッポチカランのハイパーモールへ行って、切れてしまって久しい、ジャポニカ米(短粒米)富士光と苦に国寶の二種類を買った。各五キロ1500円前後、一キロ三百円ということになる。それだけでは、もったいないので、インドネシア米を5キロ買って、混ぜて使うことにする。こちらの価格は5キロで六百円、一キロ百二十円である。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/これが、ジャカルタの日系スーパーでコシヒカリやキララなどは五キロで三千五百円から五千円で売っている。一キロ、七百円から千円である。それでも、売れているのです。ちなみに私は日系スーパーで米を買ったことが無い。もっとも、日本でも、一番安いとい事が購入する条件です。新潟魚沼産コシヒカリなどというものは食べたことが無い。ちなみに、私が一番おいしかったお米は宇都宮の旅館で食べたものでした。種類は分からない、きらきら光っていたし、甘くておいしかった。その旅館は、関東ブロ、と言って関東甲信越の国公立大学の各種運動部の選手権でした。毎年、各県が持ち回りで主催しその大学へ行って試合をするのです。私は卓球でこれに参加していた。ちなみに中学、高校、大学と10年間卓球部に属していた。中学の時は四番か五番手でしたが、チームとしては、静岡市で新人戦、夏大会で優勝していた。高校の時は学年で二番手でしたが、一年の時は全体で四番手だったので団体戦ではチームの面倍になっていた。二年の時静岡県の中部で準優勝、三年の時は三位でした。中学の時の同級のメンバーの中では私が一番手になっていました。大学の時は、一年、入部した時方四年生より上で、一番でした。ですから、一年の時から、レギューラーで、個人戦でも、全国国公立選手権ではベストエイトに入っていた。卒業と同時に卓球部という形ではやらなかったが、就職した東洋プラスチック精工の一年目に健康保険組合の静岡県東部の選手権があった、会社の総務から出て見ないかと言われて、個人で出て見たら、いきなり、準優勝してしまった。団体対戦も在ったが、私の会社では卓球部は無いし、出場したのは私だけだったので、団体戦には出なかった。その何週間あとの問題を起こすことになるとはその時全く予想していなかった。個人戦で四位までが県大会に出場する権利が与えられた。義務とは受け取っていなかった。すっぽかしても構わないと思っていた。県大会のことなどどうでもよかった。三島近くに住んでいたし、静岡まで卓球をするために行くことなど全く、頭から消えていた。当日は横浜で、間もなく結婚する妻とデートをすることになっていて、山下公園や氷川丸、中華街とお決まりのコースを満喫していた。勿論、他のことは頭になった。 月曜日会社へ入ったら、いきなり、総務から呼び出された。何のことか全く心当たりが無い。いきなり、「太田君の困るじゃないの、すっぽかして」と言われた。良く良く聞くと、静岡県大会の団体戦は個人戦で四位までの人が団体戦のメンバーとして出場する義務が有ったのでした。一人足りない状態でやったという。散々な結果だったし、相手に失礼をしたという。そんなことは全く知らされていないので、個人戦だけなら欠場しても問題ないと思い込んでいたのです。実際、事前に知らされていないし、大会の直前に確認の知らせや電話もなかった。話は、とんでもない方に曲がってしまった。明日はこの続きになる。MM2100ルコの中にあるバイキング式のレストラン、これば三百円。道端のお墓売り。
2010.05.15
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斜めからインドネシアを眺めよう 606 A社の押出成形部門のトップというより、工場長をしているW君から突然電話が入った。何事かと思ったら、POMの予備乾燥条件を教えてください、と言ってきた。この会社の社長さんN氏はこのことを知っているのでしょうか。可愛い私の生徒の一人ですから、条件は教えてあげた。120℃で最低3時間だよと。乾燥機も私が買ってやったものです。その時、聞きもしないし、知っていることですが、W君、某ハイテックス社向けのチューブの試作をすると言っていた。この会社の内部の状態は全て筒抜けである。どんなクレームが発生しているとか、何が忙しくて、何が忙しくないとか、Nは、相変わらず怒鳴りまくっているとか、私に頼っているインドネシア従業員が多いのですから、当然です。しかし、今日の情報ではうまくできていないとか。私がその会社にいる間に、一度、作って見せたものですから、彼らは成形方法を覚えていると思う。成功すれば、インドネシアで初のPOMチューブを作れる会社になる。私の会社では勿論やろうと思えばいつでもできる。A社が手に負えなければ私が売り込むことになるシロモノです。N社長さんはこういうことを知らないから、インドネシア人技術者を評価出来ない。従業員が気の毒である。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/雨季は終わって乾季になっているはずだが、昼過ぎにかなりきつい雨が降ってきた。この辺り一帯、広い範囲で、この雨に見舞われたと思う。祭日で会社が休みで、ゴルフをしていた人も多かったと思う。確実のグリーンは水浸しで、プレーを続行する状態ではなくなり、中止した人達も多かったと思う。仕事をしていた私としては、若干気持ちがいい。 処で、何とかしなければならない仕事が、今日もうまくいかず、修正中である。このような日が一か月以上続いている。睡眠不足と栄養不足、ストレスが増加。一日一日が短く、あっという間に終わってしまう。逃げられない。解放されるときは完成品を客先に納入し始める時である。6月初めには、解放されることを望む。クリスチャンの祭日、ナチョナルホリデーだが、我が社は出勤、明日と入れ替えて、三連休である。処が、明日も、出勤しなければならない。従業員にオーバータイムは頼むのだが、私も、彼らと付き合わなければならない。私が判断しなければ、彼らでは責任を背負えない,公差ギリギリの製品しかできない物を彼らに作ってもらわなければならないからです。 一年半ぶりにMM2100内の日本食レストランへ行って食事をしてみた。最近、栄養が偏っているようなのが気になって、肉入り野菜炒め(飛鳥で一番安いメニュー)でも食べようかと思って、仕事から抜け出して19:00頃行ってみた。入り口に、今日のスペシャルというセットメニューのサンプルが置いてある。それを見て、野菜と肉が多いようなので、気持ちが変わって、それを頼んでしまった。肉野菜炒め定食は6百円位ということは知っていたが、特別メニューの値段は知らなかった。その日の定食といったメニューは、安いものときめて8百円くらいだろうと思っていた。何と、千二百円だったのです。しまったと思ったが遅かった。再び一人で行くことは無いでしょう。工場の中。
2010.05.14
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斜めからインドネシアを眺めよう 605 今日、何とかと書いたが、今日もまた、これから何とかしなければならない状態が続いている。なさけなくなってきた。この状況で、天使たちも家へ押しかけてくることができない状態でいる。このことは良いことである。という状況の中で、生産計画表を作って提出した。私が一番嫌っている類の予定表です。計画や予測はするが、それに対して、責任を問われても困る。普通に、こうなるだろうとの予測には一応、理由があるが、その理由通りに行くことは殆どゼロに近い。大きな会社になればなるほど、自分の目でいちいち隅から隅まで確認できないので、報告を待つしかないことは分かるし、受け取る方も、的中しないからと言って、責任を追及するつもりは無く、目安として、全体の状況を知りたいし、近未来の状況を知りたいだけだと思う。トップに近い方はそういう考えだと思う。しかし、そういう人ばかりではなく、大勢の中の何人かは、言ったじゃないか、と、思う人は必ずいるものです。そういう人は、製造や営業、販売に関係していない人達で、数字を纏めて報告する人に多い。自分の責任ではないのに、自分が追及されると思っているのです。ですから、この種の予測や計画は苦手だし、嫌いです。会社勤めをするとこういうことをしなければならないので、会社勤めも嫌いだし、性格に合わないと信じ切っている。ノルマを課せられるというのが一番嫌いで、予測や計画はノルマと同じ意味を持つと思っているからです。そういうこともあるので、私の会社は大きくしたくなかった理由の一つでした。売り上げ予測や、利益予測は、自分の目で確かめる事ができる規模にしておきたかったし、それは、従業員に、計画や予測を出させる必要をなくすことだし、予測外れを追及されるというストレスを感じる必要が無いことである。追求しなくていいし、追求されなくていい。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/今 私の机の周りの四人の若者がいる、ワルちゃん、プジちゃん、ババイ君、チャイリー君、平均年齢、30歳くらいだと思う。あちこちからの寄せ集めであるが、それぞれが一応、得意な仕事の分野を持っているので、私がチームとして使っている。彼らによって、PT.NANBUの品質保証システムが確立されるはずであり、彼らの始動によって、各部署の各種ドキュメントも決まってくるはずである。同時のISOの収得も済ませてしまう。各客先ごとのファイルも纏めてもらう。この状態が、近い将来、大々的に始まるであろう、射出成型部門に自然に移行拡大してゆく、彼らは、そのころから、私のチームではなくなり、会社全体を照らすチームになるはずである。 私が、個人的に与えたラップトップを使って、各種ドキュメンを作っている。時々、四人で、うるさいくらいの声を出し合って、何やら、検討をしている。インドネシアにも、こういくことができるような若者が増えてきていることを感じて、気持ちがいい。 日本人は首を突っ込む幕はまったくない。余計な口出しをしないで任せた方がいい。出来る日本人、分かっている日本人なら、任せて、肝心なことだけ報告させるでしょう。
2010.05.13
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斜めからインドネシアを眺めよう 604花粉症の話の続きをちょっと書く。会社は静岡と焼津の境目の大崩海岸の近くで、駿河湾が目の前に広がっているが、振り向けば、険しい崖が有る山。杉の木が大変多い。花粉も出来たて新鮮の地場物が飛んでくる。花粉症の人にとっては、一番つらい場所に在った。お客さんで花粉症の人は、ひどくなって帰って行った。話をしているうちの次第に症状がひどくなってゆくのが分かる。笑っちゃいけないが、帰った後、つい笑ってしまっていた。大きく、作り直した金型が出来上がってきた。これで、全アイテムの良品サンプルが整うことになる。今も試作中である。明日,朝一にサンプルを提出して、出来れば、承認を得て、量産に入りたい。今週末、三連休になるが、皆さんには出勤してもらって生産続行すれば、なんとか、客先の組み立て開始までに間に合わせることができるようにしなければならない。 ノコ歯の自動カッターが二台搬入された。これで、七ラインが運転可能になった。そのうちの三ラインが一社に独占されることになる。また、一ライン半はもう一社用に使う。また、一ラインは一社用になる。空きは、一ライン半だが、今日見えて、オーディットしていった会社が半ライン使う。また、連休明けにオーディットに来る会社用に半ライン使うことになっている。自社製品の試作、開発に一ライン使うので、可能性として、来月半ばには、新規の仕事を入れられなくなる。 そうなることは分かっているので、一か月に一ラインずつ、運転ができるようにしていって、8月末には十ライン運転可能とする。再生ペレットの製造も6月初めから開始するよう、客先から、再生対象品のサンプルが持ち込まれている。インドネシアに再生ペレット屋は掃いて捨てるほど有るが、ナンブは難しい、再生を手掛ける。再生できなくて、山積みになっている廃棄プラスチックを対象とする。 この仕事の関係ではマフィアが仕切っていることは承知している。新規参入は難しいし、日系企業ならなお難しい。しかし、変ですが、私自身は、その連中たちとも知り合いが多いので、話はMAKUTAの時から継続している。NANBUとしてどうするかは、私には判断できない。風邪は治ったので、一人でいても心配無いと言っているのに、小遣い稼ぎに押し掛けて来てしまっている。マリアさんが戻るまで、入れ替わり立ち替わり誰かが来てしまうのではないかと心配になる。てな訳で、ピンボケですが、本当に来てくれている天使たちの内の一人の証拠。ジャカルタはスディルマン通りのラトプラザGフロアーの中華レストラン“ライスボウル”で食べたイフミー(カタ焼きそば)三百八十円。普通はパリパリしているのだが、ここのは、ミーが汁に浸ってしまっているので、柔らかい。 http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
2010.05.12
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斜めからインドネシアを眺めよう 603日曜日から月曜に掛けて久しぶりに途中目が覚めないで朝6時までぐっすり眠れた。今なぜかと言うと、思いついたから書く。風邪ではなく花粉症(小、中、高、大学のころその名前はなかった)だった私は、小学校の時から、二月三月は必ず激しいクシャミと鼻水に襲われていた。ノドや頭が痛いわけではない、熱が高いわけでもない。だから、自分は風邪を引いていないと思っていたが、回りや両親は風邪だとしか思わなかった。お前は、体が弱い、直ぐ風邪を引くと言われていた。親から、学校の先生にもそういう報告をしてあったようだ。日本にいた間、53歳まで、花粉症は友達だった。毎年、トイレットペーパーを5本以上使いきっていた。小学校5年の終わりの時、送辞を読んだ。その時も鼻水タラタラ、涙がポロポロ、クシャミをこらえながら、読んだ、多分、卒業して行く皆さんは感激し、印象深かったと思う。年度末テスト、卒業式、入学試験この時期なので、大学を卒業するまで、集中力が無く、満足な状態ではなかった。テストは、いつも、皆さんに迷惑をかけるので、半分くらいの時間で、提出し、先生の許可を得て、外に出て、一人で、校庭をふら付いていた。一日に何科目かが有る時は一々、途中で外にでた。答案用紙を見返すことはなかった。だから、一問目や二問目の簡単な場所で、早とちりの間違いが多かった。最期近くになればなるほど、難しくなるので、間違うことや分からないことはなかった。30歳、社長になってからも、同じである。その頃になると、花粉症が認知されてきた。効く薬が有るとか、あそこの医者が打ってくれる注射はよく効くとか、こうすれば体質が変わって花粉症が治るとか、色々な人が色々なことを言ってくれる。しかし、私は、子供のころから、色々やっていて、いずれも、効果がなかった事を知っていると思う人はいない。結局、症状を一次和らげる方法は有っても、完全に治す方法は未だに無いのです。 厳重なマスクをし、ゴーグルを掛けても、なるのです。軽かったか、そうでなかったかは、対策を取っていない時と比較できないので、効果のほどは分からないことになる。私は酒をまったく飲めないのと同じで、色々試しても無駄だということが分かっているので、なにも、しない。 サクラのころにすっと症状が無くなってしまうのです。後で、思い返して、何日から無くなったかを確認できないほど、なんとなく自然に治ってしまっているのでした。風邪を引いたくらいで会社や学校を休むなよ。というのが私の精神でした。今も、風邪で会社を休み事は無い。休日でも、やっておきたいことが思い浮かべば、会社へ行く。火傷や切り傷もそうだが、風邪くらいで、同情はしない。もう一人休めば学級閉鎖になるという常態になって、友達から、お前も休めよと言われても、私は休まない。インドネシアに杉の木は無いと思う。インドネシアへ来て、一番うれしかったことは、この花粉症と決別できたことだった。パニック障害になって、一年半、日本にいた時、やはり、ひどき、花粉症の症状が出た。その時は、20日間ほど、インドネシアに逃げた。ドラッグでは有りません。私が処方された薬です。何に効果が有るのか書いてある、食前食後などのタイミングや一日何回何錠などとも書いてある。次第に、客先に見せられるような状態になりつつある。
2010.05.11
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斜めからインドネシアを眺めよう 602 痰が溜まってきて最終段階に入った。すっかり、快方に向かって、まだ生きていると思った。それほど、今回の風邪は、自分が自分で無いよな、夢遊状態で仕事をしていたし、運転もしていた。人に頼めないことばかりなので、なんでもかんでも、行動するしかなかった。夜中に何度も気を失いそうになった。その時目が覚めてしまうのです。何度も目が覚めた。多くの人の何倍も色々経験したし、多くの人を助けた。生きていればそれを継続するが、死んでしまっても良いと思っている。 特別、長く生きたとしても、残り、2~30年でしょう。そんなに長く生きる必要はない。どうせ、死ぬのだから。 ただ、願わくば、眠っているうちに息を引き取りたい。てな訳で、今回のような風邪でも病気にかかって、苦しみたくない。ゴルフを楽しんだが、他の皆さんも風邪を引いていたと話していた。彼らは皆、タケノコ病院へ行って、点滴を受けたという。あの先生は、何でもかんでも点滴、という先生で、それを、期待してゆき。そのとおりの点滴を受けて一時間半ほど横になって、安心する日本人が多いようです。とにかく、待ってました、とばかり点滴をするという評判です。皆さん、診察、治療、薬代は払わなくてもいいので、よく利用するらしい。先ほどまで、昨日とは別のキャディーが家に来ていた。昨日来た、彼女達は都合が悪いからと言って、頼んだのだそうだ。昨日のキャディーよりCantikどころで、ソトアヤムとサテカンビンを途中で買ってきてくれて、一緒にご馳走になったり、先ほど汗まみれになって臭い服などの洗濯をしてくれたりした。残りのドリアンとアイスクリームを平らげてくれた。彼女達の目的は小遣い稼ぎと承知している。同情や親切ではないことも分かっている。私は、ゴルフ場でも人畜無害の話が面白くて、インドネシアのテレビ番組を良く知っていることで、キャディーの皆さんに知られている。そして、指名をして一人のキャディーしか使わない、という事はない、それも、知っているので、来る気になるのだ思う。何より、一般道を使って、バイクで15分か20分の距離の近さが、来る理由である。小遣いは、洗濯、食器洗い、食事の支度、簡単な床掃除をしてもらって、一緒にテレビを見て雑談で時間つぶしをして、何人来ても、1500円(15万Rp)渡し、分けてもらう。日本人の中にはドリアンを食べたことがない人が多いと思う。私も、インドネシアへ赴任するまで食べたことも見たこともなかった。ドリアンの季節は雨季の後半ですから、1,2,3月ごろである。この時期、他にも、沢山の種類の果物が旬になる。ですから、今は、道端にそれらの果物を売っている風景は見られない。今のドリアンはタイからの輸入である。インドネシアのドリアンの倍以上の大きさ、重さである。そして、当たり外れがない。ドリアンの食べ頃は短い。熟れていないと硬くてたべにくく、味は何もない、匂いだけ一人前、熟れすぎると、腐っているのと同じ、摘まんで食べる事できないほど、とろとろ状態になってしまう。味は苦味が多くなって、食べたら危ないと思わされる臭いになる。タイのドリアンは、食べ頃の期間が長いと思う。写真は縦に綺麗に割ることができる食べ頃です。手で摘まんで実を取るだけです。
2010.05.10
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今日もさえなかった。暑かったり寒かったり、頭の両側で、蛇が鎌首を揚げて飛びかかるようなシュッシュという音がする。その音がうるさくて眠れない。22:00に寝て、00:35に目が覚めてしまった。それから、眠れない、寒気で体がガタガタ震えるし、シュッシュとい音は相変わらずで、おまけに、両こめかみがずきずき痛んだ。どうしようもなかった。その中で、仕事の事を考えていた。02:30には寝ていてもしょうがないので、起きてしまった。それから、夜明けまでが長かった。病院へ行かないと決めていてが、この調子では明日のゴルフができなくなるし、耐えているのもつらいので、病院へ行くことに決めた。06:00頃、ご飯とみそ汁食べた。全て食べた処で、吐き気が生じた。それととともに、お腹が痛くなってしまった。食べたばかりのものを全部吐いてしまった。仏滅三隣亡である。目は回るし、一遍に五つも六つもつらい症状が来てしまった。 07:00に家を出た。仕事のことで思いついたことを実行するために会社へ行った。口を半開きにして、前後左右の車を見ているのか、見ていないのか、何も考えないで、時に注意もしないで運転しているなと、運転しながら思った。ちょうど通勤時間でバイクが車の回り溢れかえっていたが、そんなことを気にする頭の状態ではなかった。金型の何点かを車に乗せて、金型鉄工場(ベンケルサンジャヤ)へ行って、修正を頼んだ。太田さん、どこか悪いの?顔色が悪いよ、と言われた。重い風邪にかかってしまったと答えた。水を持っていなかったので、そこの冷蔵庫からアクアのボトルを一本もらって口の渇きを潤した。08:15でした。 そこを出て、ふらふら運転しながら、ジャカルタの病院へ行くか、ジャバベカにするか迷った。この時間にジャカルタへ向かうと09:00に着いてしまう。スリーインワンの関係で、行こうと思っている病院へは行けない。会社に戻って一時間、時間つぶしをするしかない。ということで、直ぐにジャバベカのハラパンクルアルガへ行くことにした。09:00前に病院へ着いた。ドクトル ウムウムに掛った。症状を全部言った。熱は下がっていて36.3度、血圧は問題なし、診断の結果が、食中りということになってしまった。おいおいと、思ったが、直すというより症状を和らげる、あるいは無くす薬を処方してくれたので、病名は何でも良かった。診察料、薬四種類三日分で約900円、領収書をとっておいて、いつか、保険会社に請求しようと思う金額ではない。これが、ジャカルタの日本人医師に掛ったら一万円以上になるでしょう。 途中、果物屋へ寄って、リンゴとナシとドリアンを仕入れた。 家に戻ったのが、11:00ごろ、リンゴとナシを食べた後薬を飲んだ。12:00過ぎにはお腹の調子は回復した。後は頭だけである。ふらふらは治らない。なにをすること出来ないから、テレビを見ながら横になっていた。 16:00頃、ジャバベカゴルフのキャディーから電話がかかってきて、明日は何時スタートか聞いてきた。その時、私の状態をいったら、19;00に三人のキャディーCantikどころが家へ来た。ダギンサピとソプブントゥッツを途中で買ってきてくれて、私がおいしいおいしと食べている間に洗濯やアイロンかけや汚れた食器を洗ってくれて、21:30に出て行った。彼女達は明日05:00出勤である。お陰さまで明日はゴルフができそうだ。ボゴール方面の山、多分,グヌン プトゥリか。
2010.05.09
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斜めからインドネシアを眺めよう 600せっかくの600号というのに、さえないタイトルである。今回はひどい風邪をひいて参っている。今がピークだと思うが、喉は痛いし、鼻水たらたら、クシャミも激しく、熱も高いと思う。頭がふらふらしている。それでも、出勤して走り回っている。走り回らないと、目前の仕事がかたづかない。緊急の依頼で、どうしても私でなければ対応できないし、インドネシア人に責任を押し付けられない。 新型インフルエンザではないし、鳥でも豚でもないと思う。薬を飲んでも無駄なので、飲んでいない。医者にかかっても、行程を経なければ治らないことは分かっている。ただただ、耐えて、時が過ぎるのを待つしかない。もう、五日で治るはずですから。他人に移さないようにできるだけ、他人のそばに近づかないようにするのが、一番、気を使うところです。特に日本人には近づかないようにしている。それでなくても、皆さん、まだ、インドネシアのビールスやアメーバに対して免疫はないし、インドネシアの風邪に対しても免疫が無い。ちょっとしたことで、下痢や腹痛をおこしがちである。どこかで、前にも書いたと思うが、私は、インドネシアの方が日本にいた時より風邪にかかり安い。日本では、冬に一回風邪を引けば、次の年の冬までかかることはなかった。一回の冬で二回引くことは全くなかった。インドネシアは、風邪を引いて、治って、これで新しい免疫ができたから、一年ぐらいはかからないと思いたいが、そうはいかない。治っても油断するとそう日をおかずにまたかかってしまう。今回がその例だ。違う風邪のビールスが沢山あるのだと推測する。それと、部屋の中の冷房の効かせ具合と、外との温度差。エアコンの温度設定を25度以上にしておいても、寒い。風邪が直接来ればもっと寒い。そこに出たり入ったりするのですから、大変つらい。長袖のシャツを常時持っていて、事務所に入ったときには着るようにしているが、それでも、寒い。寒い寒いと思うと、また、直ぐ風邪を引く。皮膚のセンサーがインドネシア人と同じようになってしまっているのでしょうか。インドネシア人は雨季乾季の交代の時期に風邪を引く、しかし、温度差は、10度もない。5℃くらいだと思う。それでも、体調を壊しやすいし、風邪を引きやすい。ホテルやレストランへ行くときは分かっていれば、厚手のメリヤスの長袖の下着と長袖のシャツを着て行く。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
2010.05.08
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斜めからインドネシアを眺めよう 599 やっと、車の点検とオイル交換などなどを済ませた。26万Km約7年である。色々な、アクシデントが有ったが、よくぞ、使える状態でいてくれると思う。点検修理はいつもMM2100の中のファミリーという会社を使う。K社からも今のN社からも500位の位置にある。K社、A社、M社そしてN社の4社目になるが、最初からそこを使っているので、私の車の処方箋が残されている。どこの会社のだれが持ち込んでも、太田さんの車ということは直ぐ分る。私自身も何回も点検依頼にいているので皆さん顔見知りになっている。右前がちょっとというか大きくというかえぐられたような傷がある。一目瞭然である。太田さん、いつ直すの?と聞かれる。直すには全塗装もしてもらうつもりなので、1週間くらいはかかる、私が日本など外国へ1週間以上出かけた時に頼むことになると返事をしている。8月の終わりくらいにドイツへ行こうとひそかに?計画をしている。そで、出来れば、其の時に、新品同様に車にしたいともくろんでいる。それにしても、私の車、良く持っている。まるで、トヨタのために走行テストをしてやっているようなもの、ブレーキオイルやトランスミッションオイルが空っぽになってしまって、どうもおかしいと思いながら何100キロ走ったし、メインシャフトのユニバーサルジョイントにガタがきて、アクセルを踏むたびにガツガツと音がしているのにロンボク島のリンジャニ山を2合目まで登って、帰りに、バニュワンギでついにジョイントが外れて、シャフトがアスファトに落ちてしまい、大きな音と共に車がガクッと動かなくなってしまったり、その都度その都度、大過なく切りぬけた。聞けば、其の近所に修理屋があるもので、皆さん、親切に最優先で直してくれる。今回も、ラジエーターに穴があって、水が無くなってしまい、オーバーヒートの寸前まで行っていた。その、穴をふさいでもらった。1か月ほど前に高速を出た処で、エンジンストップ、そして、かからない、明らかにオーバーヒート。料金所から水をもらって、事なきを得た、ということが有ったばかりだった。並みの日本人では、とても対処できない。ですから、自分で運転をしてはいけないと思う。どんなアクシデントに巻き込まれるか予想、想定ができない。13日から16日までの連休は出勤になるだろう。旅行はもともと、計画をしていなかった。今日こそはと、試作に取り組んだ。片側だけならどちらの面でも綺麗にできるが両面きれいにすることはできなかった。大型の金型を待つしかないが、来週火曜日(11日)になるそうだ。ぎりぎり、何とかなると確信する。日本や中国、フィリピンのN社の方々、ぜひ、皆さんに読んでいただきたい。夕方、6時ちょっと前の、会社入り口付近から、サンセット。ヤシの木がインドネシアらしい。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/
2010.05.07
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斜めからインドネシアを眺めよう 598 風邪が治ったばかりなのに、マタ風邪を引いてしまった。今回の方が重い。熱が高い。マリアさんがいないので精神的にもつらい。早く寝るので、22時頃の投稿はできない。日本なら、目には青葉、山ほととぎす初ガツオ、私の季節です。毎年、この時期にそう思っていた。インドネシアが無いが、二季がある。雨季と乾季です。四月が過渡期で五月は殆ど完全な乾季になる。日本の春夏が乾季、秋冬が雨季と考えてよい。やらねばならないことが山ほどあるが、各社からのオーディットの受け入れ態勢も整えなければならない。試作品がOKになっても、その後、必ず客先のQC関連担当者が監査に入る。そのための書類を整えておかなければならない。ISO担当者は、ながら、ながら、が、多くて大変である。来週は二社からオーディットを受ける。草むしりやペンキ塗りをしている新入社員をもったいないので勉強を兼ねて手伝ってもらうことにした。PT.KITAGAWAの後に、二か月以内に、買った会社の人が入場します。期限は6月末です。それまでに入らないとまた、いつになってしまうか分からなくなります。もと、K社のインドネシア人GMが訪ねてくる。この会社のはまだ、インドネシア人全員を仕切るインドネシア人がいない。わけのわからない日本人では、インドネシア人の反発を買うだけなので、そういう、インドネシア人がいて、その日本人を従えるような役割をしてもらいたい物です。そんな話を社長と話をしていたら、タイミング良く、Sさんから電話が入った。以前、マクタの時にこちらから誘ったことがあっただ、其の時は契約の仕事が会って、直ぐに他の会社というわけにはいかなかったが、今回は、其の仕事が終わったので新たに仕事を探さなければならないらしい。そこで、私に電話をしてきたのでした。タイミングが良いので、早速、明日、社長と面接をしてもらうことにした。彼のような人が、インドネシア人のトップで日本人との間に入ってもらえばおお助かりだと思う。ぜひ、採用してほしい。こういう人が採用されなければ、この会社の将来は暗い。一人の日本人は自動的に必要無くなる。インドネシアの額縁写真2枚
2010.05.06
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斜めからインドネシアを眺めよう 597故郷で身内関連の催しがあるト言って、ブリタールへ帰って行った。15日まで、私一人の生活になる。気楽と言えば気楽だが、やはり、不安である。だからと言って、早く帰ってこいとは言えない。年間カレンダーがやっと、決められた。その意味を誰も知らなかったというのが驚きである。また、チュティブルサマといっても、全員が何のこと?と思っているのも驚きだった。私より長い間インドネシアで仕事をしている人も、知らなかった。どういう人?年休の買い取り制度がどうして、従業員への有利になるのでしょうか、会社にとって不利と、どうして言えるのでしょうか。他の会社に買い取り制度が無いというのも、信じられない。私がいた二社にはあった。その方が会社にとって有利だという考え方からです。これらを含めて、私の考えと、他の日本人の考え方が違うようだし、インドネシア関連の知識にも大きな開きがあり、知らないので、私の考えを理解してもらうことは、難しいというより、出来ない。私の考えを採用するということは、理解できないが、私がそこまで言うなら、そうしましょうという程度のものである。トイレも治したという、十分使えるという。私から見ても、インドネシア人から見ても、どこをどう直したの?と首を傾げるしかない。そのことを二回指摘したら、やっと、確認しに行った。そして、専門業者に頼むしかないと言っていた。当り前の話である。専門業者ではない、だれに頼んでどう直してもらったのでしょうか、そして、その結果を見ないで、もう治っているので、使えるようになっていると、全員に説明した。私は、其の時に、既に、なお使える状態になっていないというより、まだ、ひどい状態だと言うことを知っていた。もう一つ、大きく困ったことは、インドネシア人から嫌われ、敬遠されていることである。当然だと思う。インドネシア人は相手にしたくないと思っているが、本人がそれを怒る。だから、話が通じなくても、話をしたりお願いしたりするしかない。そして、なお重要なことは、このような、事を私が書いても、絶対読むことができないのです。インターネットで検索して調べるということをしたことが無いし、手段を知らないし、思いもつかないのです。パソコンの知識もない。本当は、本人に読んでもらって反発してもらいたいが、読めないでしょう。仕事を始めて丸四カ月過ぎた、私が初めて紹介されて3カ月半過ぎた。初めて会った時、三月一日から押出のメンバーが従業員になる。それまでに会社規則を作っておいてください、改正をいつでもできるので、どこかの会社の規則をそのままもってきて、この会社に則するように一部帰るだけでいいから一週間もあればできますね。ト言っておいたが、現在、それから、3カ月半過ぎたが、未だに、案もできていない。どうするつもりでいるのでしょうか。
2010.05.05
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斜めからインドネシアを眺めよう 596 5月3日 4日が何の日か忘れてしまった。今日も、あちこち往復、金型の修正やらモーターのコイルの巻き替えやら、不足部品の買い物やらで、走り回った。車の定期点検の日が二カ月以上過ぎてしまっているし、走行距離1万kmごとの点検も2千キロ以上過ぎていて、早く点検に出したいのだが5~6時間かかるので、なかなかできないでいる。裏(表?)の会社の売り先が決まったのは先週末でしたが、今日、その会社の税務経理責任者とばったりMM2100のルコで出会った。にこにこしながら、良いところで私を見つけたとばかりに声を掛けてきた。彼曰く、「税関との関係であるEPTEはすでに解消した。残りは、税務署との関係で、税金を要求された通りに払えば、撤退できるところまで来ている。そして、その税金は、決まった売り先に、今週中に請求書をだし、それに元付く送金があれば、そのお金を使って税金を払うことになっている。買い手が払うのも、この会社が税金を払うのも6月末が期限だそうです。その期限を待たずに、支払いを早く受ければ、早く税金を払って、早く出て行けて、買い手も早く入場できることになっている。そこまで来ている」そうです。付け加えて、彼曰く、「太田さんに会ってよかった。太田さんの会社で使ってほしい。妻も太田さんに頼めと言っていた」、と余計なことまでいう。「会計責任者まではいかなくても、税務署担当ということでもいいし、給料はK社の時の半分でいい」といていた。 どうなるか分からないが、とにかく、6月末で確実に用ナシになるので、再就職先を探さなければならない。「就職申請用の書類を整えて、いつでも、出せるように準備しておいた方がいいよ」と、とは、言っておいたが、あなたを必ず採用すると約束はできない立場でもあることを付け加えた。 仕事ができるのかできないのか分からないような新しい人たちが次々と入ってきているので、何の担当なのか私には分からない人ばかりである。だから、私が頼まれても、会社が今どんな人間をまだ、増やしたいと思っているのか、分からないので、なお、約束できない。 処で、彼が今一年近く働いている条件は、キジャン(13年前購入、私が半年だけ使っていたジーゼル、40万Km以上走っている)を一台もらったのと、2万円の報酬だそうです。ほとんど、何も仕事はないが、毎日出勤しなければならない。その2万円は、貰った車の維持費で消えてしまって、無給と同じらしい。今は、全く仕事が無いという。早く、抜けたいが、6月末まで、その条件でいくしかないらしい。 畳むだけの仕事で、一年以上インドネシアにいた責任者も間もなく確実にインドネシアにいなくて良いことになる。6年もいた普通の日本人なら、インドネシアにまたきっと戻ってくるよと、言われるし、本人も、チャンスがあれば戻りたいと思う。しかし、中には、戻ってくるでしょうと言われないし、本人も戻りたくないと思っている人も、稀にはいる。 交通事故による大渋滞の高速道路の中央車線の、もっと中央をサイレンとともに通り過ぎるハイウェーパトロール、橋の上でゴルフをしている人を捕まえに行くのではなく、事故現場へ急ぐ。路肩は塞がっているので、こうなる。
2010.05.04
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斜めからインドネシアを眺めよう 595呑気な、たわいない話である。久しぶりの土日連チャンで疲れた。しかし、気持ち良く楽しんだ。特に今日のキャディーは楽しかった。私に着いたキャディーはエラさんという名前で、18歳、まだ、半年ほどしかキャディーをしていない新人でした。まだ、決まって手伝いをするプレーヤーがいないそうで、私に、次から指名してほしいと頼んでいた。だいたい、ゴルフ場のメンバーになっている人は、月に5回以上はプレーするので、いつの間にやら、決まったキャディーがつくようになる、というより、気に入ったキャディーにあたった時に、他に決まった人がいなければ、次回から、自分の手伝いをするように頼むのが普通です。携帯の番号を聞き出して、プレーする日をあらかじめ連絡しておいたり、到着した時にタグに、手伝ってほしいキャディーの名前を書いたりします。逆に積極的なキャディーはメンバーで良く来るのに決まったキャディーがいないプレーヤーに積極的にアプローチする子もいる。予約表をチェックし、その人が来る日を知っておいて、バッグが来たら、それは、私のものよとばかり、いち早く、確保してしまうのです。そのキャディーを気に入っているならいいが、逆の場合は、プレーヤーにとって迷惑な話になる。そういうときは誰でもいいから、他の人の名前を書いて、その子が、バッグを確保しないようにするしかない。そして、プレーヤーとキャディーのコンビが決まってくるのです。その関係を解消するのは大変難しいし、キャディー仲が揉めるもとになので、やめない限り、途中で嫌になって、他のキャディーに変えたいと思っても、変えてはならないことになっているようです。私は何年も決まったキャディーを使っていない、気にいった子はいても、その子は他のお客さんが、専属にしているが,その人がその日は来ないということで、私に着いただけということが多い。処で、今日のキャディー、写真の後ろの子が、指名してほしいと、HPの番号を私のHPに入れて、私のHPから彼女自身のHPにミスコールをした。これで、双方が、お互いのHP番号を知ったことになる。おまけにメールアドレスもSMSで送ってきたFacebookで友達になってくださいと、書いてあった。かなり積極的に、スポンサーを求めていることが分かる。出身はSubanといっても、Cikampekに近い。聞かないのにそんな話も、してきた。 キャディーとしてはどうかというと、はっきりって、話が楽しいだけであって、グリーンの読みは、積極的に教えてくれるが右か左の当たりは50%程度、上り下りの当たりは70%だから、両方当たる確率は35%ということになる。彼女が、専属キャディーになったら、自分読みは全体で50%位だから、殆ど自分の読みに頼るしかない。
2010.05.03
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斜めからインドネシアを眺めよう 594時は流れ 再入場を果たすのは真近になった。インドネシア人を含めた私の関係者は誰もが大歓迎のはずです。世界的にメーデー。ベトナムは国民祝祭日で休みらしいが、土曜の休日と重なったために振替で月曜日も休みの三連休らしい。それを利用して、ベトナムへ赴任したばかりの日本人が、インドネシアへ戻ってゴルフを楽しんでいる。明日もその方と一緒にプレーする予定です。その他の方々を含めて、皆さん、言いたいことを言い合って、色々な情報を提供しあって、楽しい、気楽な仲間たちです。いつまでもいつまでも続いたらいいと思う。コンペではないので会費はいらないし、寄付や罰金などの趣旨もない、単なる仲間同士のゴルフなので、なお気楽に参加できる。それにしても、まとめ役のKさんには敬服をしている。ありがとうございます。我が社は現在ISOの収得に向けて、トレーニングを進めている。インポールライセンスの申請が終了し、ベアチュカイバンドゥンの審査も終了、書類がジャカルタのベアチュカイに送られて、一週間以内にライセンスを受けることができる状態に進んでいる。EPTE(外国と同じ扱いの保税会社の権利)の申請もプロセスに入った。一人、K社時代のEPTE BEA CUKAI関係の仕事で先頭に立っていた人が、この会社でも、活躍してくれているので、書類関係は彼女にお任せ、彼女の要求通りの書類を会社が彼女に渡せば、すべて、彼女が勧めてくれる。勿論、金額も、事務的な金額で、特に裏金が必要ない。監査や審査に入ったときのガソリン代や食事費用についても彼女が幾らくらいと実費だけ言ってくれるので、会社はその金額を彼女に渡すだけで済む。ところで、EPTEになると会社の出入り口は一か所でなければならない、という、規則がある。囲い塀の高さは2m以上という規定もあるし、ベッドやエアコン、テレビなどを備えた税関職員の居住小屋も入口付近に作らなければならない。というような、彼女がすることではなく、会社が準備しなければならないことが、審査に間に合うようにできるかどうかの方が心配である。ということで、そういうことがクリアーされれば、8月初旬にはISOもEPTEも取れると言う当初の予定通り進んでいる。 背中合わせの会社を一つの会社の第二工場にした場合、裏に出入り口を作って、直接行き来できるようにすることができるのだろうか、出来ないとできるとでは、多周りをしなければならないので、ちょこっと歩いてとか自転車でというわけにいかない距離になってしまう。申請すれば特例でもう一か所出入り口を作ることができると言う話もある。多分、お金次第でしょう。 Sedana(スダナ)の18番とクラブハウス、ここの特徴はカートでフェアウエーに入ることができるので、ボールの近くまでカートで行けることです。 納税番号カード(NPWP)エヌペーウェーペーです。以前がペラペラな青い線が入った紙きれでしたが、今回受け取ったものは、金色のプラスチックのカードでした。これを持っていなければ国外に出るとき、Fiskal(フィスカル)という出国税を約3万円支払わなければなりません。実際は、コピーを持って行ってそれを、免税窓口で渡せば、ボーヂングパス(搭乗券)に免税のスタンプを押してもらえます。それを出国カウンターで見せれば済みます。
2010.05.02
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斜めからインドネシアを眺めよう 593 昨日は20:00時前にバタンキュウで眠ってしまった。その寝心地の良かったこと、朝、5:00マリアさんのけたたましい目覚ましで起こされるまで、熟睡してしまった。ですから、真夜中の投稿ができなかった。中には、一人や二人、どうしてしまったかと思った方がいたかもしれませんが、単なる睡眠不足でした。パニック障害の薬も最近は飲んでいません、飲むときは、そろそろ、飲んでおこうかと思うときだけで、一週間以上忘れていることもある。薬はいつも携帯して、いつでもどこでも飲める状態になっているし、他人にももし万が一ひっくり返ってもバッグを開けてもらえば、インドネシア語で書いてあるので、誰かが飲ませてくれるだろう、など、安心感がまた、飲まなくでも大丈夫という気持ちの手伝いになっているとおもう。今回のちょっとハードな仕事でも何の症状も現れなかったし、現れるかもしれないという不安もなかった。パニック障害が殆ど治ってきているという確認にもなった。しかし、薬は常に、携帯することは忘れない。去年末に三カ月分処方していただいて、四か月以上経過しているが毎日飲むとすれば30日分残っている。だから、三日に一回なら三か月分残っていることになる。残っているということが安心感を与えてくれる。\(^o^)/Akhirnya datang juga!! 急転直下というか、ご近所付き合いというか、大変急な情報で、流石というか、大丈夫かな、本当かなと思うが、信じていいのかな、と思うような情報がもたらされた。私自身が積極的に動ける状態ではなく、むしろ、影に回って、頼まれたことだけをやってきた。知らず知らずに、重要な役回りをしてしまっているのだなと思うし、それが、無駄ではなかったことが確認できて、たいへん、気持ちがいい。しかし、まだ、確定ではなく、仮契約なので障害があることは感じている。その障害が早く無くなれば、私はもっと嬉しいのだが、どうでしょうか。6月末?本当かな、眉に唾をつけています。昨日今日と珍しく19:00過ぎに第二応接室に電気がついていて、何かの打合せをしているのか、今どき帳簿のチェックしているのでしょうか、ブラインドは上げたままで、外から、内の様子がはっきり見える状態にしてあった。(―_―)!!大丈夫でしょうか。一喜一憂も、どうかなと思うが、砂竿で金の長い難しい10点パットが入った時の様にガッツポーズをしたい気持ちです。 これは別の話で日本のHさんに大変心配をかけております。今日、また、途中経過を報告させていただきましたが、来週中にも全アイテム完成させることができる見通しが着きました。(-_-;) リッポチカランへ行くときにはこの道を通る。牛追いの青年。インド洋側、水田とヤシの木と海。この景色は延々と続いていれば素晴らしいと思うが、ほんの100mほどです。
2010.05.01
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