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図書館で『潜水艦のメカニズム完全ガイド』という本を、手にしたのです。メインテーマの潜水艦メカニズムもさることながら・・・大使には潜水艦乗りの人間模様とか艦内勤務が興味深いのです。【潜水艦のメカニズム完全ガイド】佐野正著、秀和システム、2016年刊<「BOOK」データベース>よりなぜ、日本の潜水艦は世界最高水準と言われるのか?秘密は、緻密・精密・静粛。海の忍者を解剖する。日本の潜水艦と潜水艇の仕組みと技術がわかる。潜水艦で働く人々の使命と仕事と生活がわかる。潜水艦の設計・建造・メンテナンスまでわかる。<読む前の大使寸評>メインテーマの潜水艦メカニズムもさることながら・・・大使には潜水艦乗りの人間模様とか艦内勤務が興味深いのです。rakuten潜水艦のメカニズム完全ガイドそうりゅう型配置人間模様とか艦内勤務を見てみましょう。p210 <人間模様> 閉鎖空間で長期間の共同生活、例えば日本からハワイまで(約3500マイル)潜行したままで航行すると約3週間程度かかります。この間は太陽を見ることはなく、昼間と夜間の区別は照明の昼光灯と赤色灯だけですし、曜日の感覚は金曜日の昼食に出るカレーだけです。この間は、携帯電話は使えないし、酒やタバコも禁止です。おまけに男だけで女性と接することもありあせん。こんな生活を想像できますか? これが潜水艦の生活であり職場環境です。 潜水艦の乗員である士官や一般の乗員共に、入隊したときから厳しい訓練を通じて、その適性が検査されます。もちろん閉所恐怖症の人は不適格ですし、やはり忍耐力と協調性が求められます。 また、行動中にトラブルや故障が起きても、極力自力で修復する知識と器用さも必要です。実にチームワークのとれたすさまじいプロ根性集団と言えます。 艦長が任務を全うするための重要な仕事に「和の醸造」があります。実施には、「先任海曹」と呼ばれる下士官が、一般乗員の面倒を見て、不満や提案があれば艦長や士官に進言する重要な役割を担っています。 どうしても個人的に合わない人間同士がいれば、配置転換もやむなしというところでしょうか。一人の異分子も許容されないモノトーンの世界とも言えます。p140~141 <ベッド> 潜水艦の乗員にとって唯一のプライベート空間がベッドスペースです。ただし、省スペース化のために「ホットベッド」と言って、直(個人個人の業務パターン)が重ならない複数の乗員が一つのベッドを共有するシステムが、多くの国で採用されています。 まさに寝ていた人の体温でベッドがまだ温もり(ホット)がある間に次の人が寝るわけです。これは、かなり個人の犠牲が伴うと言わざるを得ません。 なお、日本ではホットベッドは採用されていません。その理由は、行動中は3直体制が多く、この場合は3人で2台のベッドを使うことになりスペース削減効果が限定的であること、そして日本人としてのアイデンティティが背景にあるようです。 いずれにしても7~80人分のベッドを狭い潜水艦の中に確保するのは設計上容易ではありません。 乗員のベッドスペースは、艦尾のエンジンなどの機械スペースを避けて艦中央から艦首に配置します。ただし、ビジネスホテルのように廊下があって部屋のドアがあるわけではなく、機能性を重視して配置された装備品に囲まれた空きスペースに可能な限りベッド(多くは3段ベッド)を配置しただけです。そのため、各ベッドはプライバシー保護のカーテンで仕切られている程度です。各ベッドには、ベッド台をうまく利用した「私物収納棚」やスポット照明、空調の吹き出し口程度です。 ベッドは多段ベッドが一般的で上下のベッドとベッドの間が数10cmしかないので、目が覚めて飛び起きるのはご法度です。上のベッドに頭をぶつけて怪我をします。潜水艦の低騒音技術は軍事機密に当たるので、その全てが開示されることはないのだが、許される範囲で、著者は次のように述べています。p174 <雑音低減設計> 潜水艦の設計の重要アイテムに雑音低減設計があります。そもそも雑音といっても個体伝播雑音、流体雑音(フローノイズやプロペラ雑音)、空気音(騒音)があり、それぞれについて個別の機器対策、構造対策、擬装対策など多岐に亘っています。これらの解説については、5-1項「潜水艦では何が秘密なのか?」でも触れているように、体系的な記述が秘密に当たるため本書では、その記述を差し控えていますが、ごく大雑把なことだけ示します。 個体伝播雑音は、機器の振動が構造を伝播して耐圧殻を振動させて海中へ雑音として放射されるもので、フローノイズは船体周囲の流れが乱されて渦ができ、これが雑音になるものです。プロペラ雑音はプロペラが海中で回転することにより発生する雑音で5-5項に記述しています。空気音は艦内の機器騒音が耐圧殻を透過して海中雑音になるもので、人の話し声やドアの開け閉め、シャワーの音などもこれに含まれます。 考えられるすべての対策を徹底的に実施しようとすると、コスト、重量、スペースがかかり過ぎて潜水艦として成立しません。そこで、様々な運用状況とそこで使われる機器の運転状況を想定して、その状況でトータルの雑音を問題ないレベルに収まるようにこれまでの技術ノウハウを駆使して優先順位をつけて設計します。(中略) このあたりの設計、建造、品質保証に亘る緻密な取り組みが日本における潜水艦の伝統であり、世界のトップクラスの静粛性を誇る潜水艦の源泉といえます。ウン 著者は元・潜水艦設計部長のエンジニアであるが・・・この本の文章からも、その職業、人柄が表れているように思います♪この本も潜水艦の世界R1に収めるものとします。
2017.04.30
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「関連性なし」でしょうか♪<大学図書館>・アイネクライネナハトムジーク・つげ義春1968・潜水艦のメカニズム完全ガイド<市立図書館>・砂の海・日本の「運命」について語ろう図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【アイネクライネナハトムジーク】伊坂幸太郎著、幻冬舎、2014年刊<「BOOK」データベース>よりここにヒーローはいない。さあ、君の出番だ。奥さんに愛想を尽かされたサラリーマン、他力本願で恋をしようとする青年、元いじめっこへの復讐を企てるOL…。情けないけど、愛おしい。そんな登場人物たちが作り出す、数々のサプライズ。<読む前の大使寸評>伊坂さんの小説で最近読んだ『火星に住むつもりかい?』が怖すぎたので、今回は軽いタッチのこの短編集を選んだのです。rakutenアイネクライネナハトムジーク************************************************************【つげ義春1968】高野慎三著、摩書房、2002年刊<「BOOK」データベース>よりマンガ史上の名作「ねじ式」。1968年発表直後の世間の反応は意外にも冷やかなものだった。著者は雑誌『ガロ』の編集者として、その創作プロセスをつぶさに見とどけている。構想されながらも、陽の目を見なかった幻の作品のこと、つげ義春をめぐるさまざまな人々の交流など、1968年という時代に生まれた傑作とそれを生んだ時代の熱気をいきいきと伝える。<読む前の大使寸評>著者の高野さんは、青林堂に入社し『ガロ』の編集を手掛けたそうで、とにかくつげ作品の第一番目の読者であったというのが・・・ええでぇ♪rakutenつげ義春1968************************************************************【潜水艦のメカニズム完全ガイド】佐野正著、秀和システム、2016年刊<「BOOK」データベース>よりなぜ、日本の潜水艦は世界最高水準と言われるのか?秘密は、緻密・精密・静粛。海の忍者を解剖する。日本の潜水艦と潜水艇の仕組みと技術がわかる。潜水艦で働く人々の使命と仕事と生活がわかる。潜水艦の設計・建造・メンテナンスまでわかる。<読む前の大使寸評>メインテーマの潜水艦メカニズムもさることながら・・・大使には潜水艦乗りの人間模様とか艦内勤務が興味深いのです。rakuten潜水艦のメカニズム完全ガイド************************************************************【砂の海】椎名誠著、新潮社、2000年刊<「BOOK」データベース>より目的地は、探検家ヘディンが「さまよえる湖」と名づけたロプノールと2000年前の幻の王国・楼蘭。太陽のコノヤロ光線、岩山も刻む砂嵐の中、“あやしい探検隊”隊長は、“正しい探検隊”である日中共同探検隊と、ずんがずんがと砂漠を突き進む。金属味の缶詰料理に辟易し、激しく車に揺られながら、著者が最終地点で目撃したものは?ハードな旅をユーモアで描く、シルクロード紀行。<読む前の大使寸評>ちょっと古い本ではあるが、砂漠、西域は大使のツボでもあるし、シーナの紀行とあれば期待できそうやでぇ♪借りたのは、1998年刊のハードカバーです。amazon砂の海************************************************************【日本の「運命」について語ろう】浅田次郎著、幻冬舎、2015年刊<「BOOK」データベース>より衆より個の利益を、未来より現在を大切にする今の日本。150年で起きたこの国の「変容」を、知の巨人が深い洞察力と明快な論理で解き明かす。驚きと発見に満ちた、白眉の日本人論。【目次】第1章 なぜ歴史を学ぶのか/第2章 父の時代・祖父の時代/第3章 中国大陸の近代史/第4章 明治維新が目指した未来とは/第5章 参勤交代から覗く「江戸時代のかたち」<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、中国に関する記事が多いが・・・浅田さんといえば、『蒼穹の昴』を著わしたように、中国の歴史に関して造詣の深い作家だったなぁ♪rakuten日本の「運命」について語ろう************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き213
2017.04.30
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「共謀罪」法案の国会審議が19日から始まったが・・・こんな危険な法律は廃案にするしかないのだ!デジタル朝日でも19日から『問う「共謀罪」表現者から』というコラムがスタートしたのでフォローしています。大使のブログでも映画や小説で取り上げた著名人が、声を挙げています。(表現者シリーズはこれで終わりとなり、次は刑事司法シリーズとのことです)・落合恵子・周防正行・平野啓一郎R1:落合恵子を追加2017-04-27「異質」切り捨て、加速する懸念:落合恵子より■市民運動の現場には、「分断」への懸念が広がっている。 ◇ 「共謀罪」法案の国会審議を見ていると、無理に通そうとしているのがありあり。法務大臣でさえ答弁が危ういから法務省の刑事局長に答弁させる。テロ防止とは別問題なのに、東京五輪を引き合いに出す。国民に対するフェアな姿勢ではない。 人間にとって何を考えるかは基本的な権利だ。共謀罪の問題点は「心の内」さえ処罰すること。「一般の人には適用されない」と言うが、信じられない。 30年ほど前、戦時中に軍事機密を漏らしたとして、北海道帝国大学(当時)の学生が逮捕された冤罪事件を取材した。学生の妹や弁護士に話を聴いたが、「スパイ」がぬれぎぬだと明らかになった後も、周囲からの偏見は消えなかったと感じた。 共謀罪によって警察の動きが強まるのは間違いない。さらに恐ろしいのは、国民がその影響を受けることだ。私は長い間、市民運動にかかわってきたが、「運動は危ない」「近づくな」となりかねない。共謀罪には、ある人たちを「異質だ」と切り捨てる風潮を加速させる効果もあるのではないか。 安倍政権は高い支持率なので法案を止めることは難しいという声もあるが、それでも反対していきたい。本当に話を聞いてほしいのは、抗議集会などに足を運ばない人たちだ。声高な「闘いの言葉」ではなく、関心のない人にも届く言葉で今後も問題点を伝えたい。(聞き手・岩崎生之助)2017-04-19心の内、絶えず監視される社会に:周防正行より■自由を奪われることで社会は安全になるのだろうか ◇ 冤罪をテーマにした映画を撮影したことがきっかけで、大阪地検特捜部の証拠改ざん事件が2010年に発覚した後、刑事司法制度の改革を議論するための国の会議の一員になった。警察官や検察官、裁判官と話して感じたのは、法律とは怖いもので、解釈と運用により、どうにでも使われてしまうことだ。 今回の法案は解釈の幅が広い。政府は否定するだろうが、権力に都合の悪い主張をする人を立件する武器を手に入れることになる。時の政権に声を上げることがはばかられる社会になるだろう。表現をする立場には確実に影響が出る。 権力は、新設する罪を使って有罪にしなくてもいい。「話を少し聞きたい」と任意の捜査をするだけで、萎縮効果は抜群だ。「私たちが何を考えているのか」を国家が絶えず監視する社会になる。政府は「一般人は対象ではない」とも言う。では、そもそも「一般人」とはどんな人か。誰でも犯罪をする可能性があり、誰でも「犯罪をした」と疑われる可能性がある。 捜査機関に対しては裁判官がチェックするシステムだと政府は言う。だが、裁判官は人権を守る最後の砦ではなく、国家権力を守る最後の砦と化している。権力が新たな制度をつくろうとするとき、私たちは声をあげ、抑制をかけなければならない。民主主義の成熟度が問われている。(聞き手・金子元希)2017-04-20監視されるかも、気にする社会恐ろしい:平野啓一郎より 「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織的犯罪処罰法改正案が国会で議論されている。政府は「テロ対策に必要」との立場だが、捜査当局による乱用や「表現の自由」などの侵害を危惧する声もある。 中東で過激派組織ISILに殺害されたジャーナリスト・後藤健二さんと交流があったという作家・平野啓一郎さんはこの法律をどう考えるのか。■こんなことを言ったら警察に目を付けられるかも、といちいち気にする社会でいいのか。 何かが起きる前に、いかに予防するか。典型的な分野は医療だが、そんなリスク管理型の考え方に社会が移りつつあるなか、テロは未然に防ぐべきだとの意見に多くの人が同意するのは理解できる。ぼくも当然そう思う。ただ、その方法が問題だ。 すでにあるテロ対策の法律ではなぜだめなのか、政府から十分な説明はない。テロ等準備罪の「等」も広範すぎる。捜査機関に膨大な権限を与え、国民を監視し、抑止する手法は、国民一人ひとりの自由を萎縮させる。 「法令違反をしないように」ではなく、「監視すべき人間と見なされないように」と、日常的に意識しなければならなくなる。目を付けられやすいのは、政府批判だろう。接触を持つだけで捜査、監視の対象になるのではと、関係を持つことさえためらう空気が生まれないか。 かつて「友達の友達はアルカイダ」と言った政治家がいた。フェイスブックなどのSNSが発達したいま、「友達の友達」は時にとんでもないところまでつながっていく。捜査側はここからが容疑者で、ここからが一般人だと、区別できるのか。犯罪を漠然としたリスクとして「予防」しようとすると、捜査機関の監視は歯止めがなくなる。誰にでも知られたくない秘密はあり、また世間の目もある。逮捕や家宅捜索だけでも、十分な抑圧効果があるだろう。 本には人と人とを結び付ける作用がある。小説を書く時は色々な人に取材するし、ぼくの本が、誰かの何かの原動力になることもある。それが政府批判的な運動かもしれない。読者とのコンタクトもある。本を書く限り、いつ自分が関わるかわからない点に懸念を感じる。「組織」としての出版界に、自主検閲が広がらないか、心配だ。 ギタリストの男性と通信社記者の女性との恋愛を描いた「マチネの終わりに」の執筆にあたり、ジャーナリストの故後藤健二さんに話を聞いた。 イスラム国に拘束された後藤さんは、取材の過程で様々な人たちに接触していた。「行くな」と言われても、人道や民主主義のために命がけで取材する姿があった。 民主主義を健全に機能させるには、少なくとも事実に基づき何かを判断していかなければいけない。政府に都合のいい発表だけが伝われば、戦中の日本のように道を大きく誤ることになる。取材活動の自由が保障されるかどうかも危惧している。 個人が自由に、生き生きと活動する社会こそが、望ましいと思っている。その時々の政府は、国民にとって、必ずしも常に望ましいものとは限らない。批判や反対は必要。そんな時、目を付けられるかもしれないといちいち感じないといけない社会は恐ろしい。非常に危険な法案で、強く反対している。(聞き手・山本亮介)平野さんは『ドーン』という小説でも近未来の監視社会を描いていたが、捜査当局によるでっち上げを描いたということでは伊坂幸太郎の『火星に住むつもりかい?』いちばん怖かったでぇ。
2017.04.29
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図書館に予約していた『漂うままに島に着き』という本を、待つこと半年でゲットしたのです。Ⅰターン先としての小豆島・・・いいんじゃないでしょうか。内沢さんは癌治療中の身であり、また身辺整理の思いもあって小豆島に移住したそうだが・・・癌で胃を全摘した大使にとって、内沢さんの生き方には切実な関心があるわけです。【漂うままに島に着き】内沢旬子著、朝日新聞出版、2016年刊<商品説明>より乳がん治療の果てに、離婚をし、一人暮らしを始めた著者。しかし、東京のせまいマンション暮らしが我慢できなくなり、地方移住を検討し始める。香川県の小豆島に移住を決め、引っ越しを終えてからの折々の心境の変化をつづった地方移住顛末記。<読む前の大使寸評>Ⅰターン先としての小豆島・・・いいんじゃないでしょうか。内沢さんは癌治療中の身であり、また身辺整理の思いもあって小豆島に移住したそうだが・・・癌で胃を全摘した大使にとって、内沢さんの生き方には切実な関心があるわけです。<図書館予約:(10/27予約、4/25受取)>rakuten漂うままに島に着きこのエッセイの冒頭あたりを、見てみましょう。p7~12 <ムリかも、東京> 癌体験の経緯は『身体のいいなり』として書き、その後なにもかもを捨てたくなって、身の回りに後生大事に貯め込んだものを捨てていく詳しい経緯を、『捨てる女』に書いた。この本では、その後東京を出て小豆島に移り住むことを書き継いでいきたい。 すっからかんの、何もない、静かな部屋で暮らしたい。癌を抑えるためのホルモン治療中に起きた副作用をきっかけとして、狭い場所や騒音が苦手となり、自分の居住空間のゆとり部分を広げるべく、蔵書を半分以上処分し、仕事で描いてきたイラスト原画や収集してきた古書も手放した。 別居を経て離婚して配偶者に去っていただき、その他生活夾雑物をどんどん捨てまくって仕事部屋と住居を兼ねた新しい部屋に移ったのが2012年5月のこと。 荷物をほどき、部屋に合わせた収納を整え、少しずつ計画通りのゆとりが室内に見え始めたのが、夏頃だろうか。そもそも私は整理整頓が大の苦手だ。捨てられない体質から一転、捨てまくる体質に変わったとはいえ、整理整頓は、まるで別次元の能力。部屋の動線とゆとりを確保しつつ、収納空間を無駄なくぴっちり作るノウハウは会得できたものの、いまだに原稿一枚書くのに何分かかるのかすら予測できない私には、そこに使いやすくモノを収めていく技が、どう頑張っても備わらなかった。遅い仕事の合間にウダウダぐちゃぐちゃとやっていれば、あっという間に夏になるというわけだ。 段ボールがなくなって、これ以上はもう床の見える面積は増えないという状況になって、「やっぱり狭苦しい」となった。都会に暮らす大金持ち以外の大部分の人たちから、バカ言ってんじゃねえ!とどやされることを承知で言おう。当時の部屋は6畳三つ。2DKの48平米。一人で住むには決して狭い環境ではない。 とはいえ都心の古くて小さな賃貸用鉄筋集合住宅というものは、6畳といっても微妙に小さく、収納スペースの奥行きも浅く、天井も低く、ほとんどの柱が室内に出っ張っているのである。すべてにおいてみみっちくできている。捨てたとはいえ、今後の仕事に必用な本や資料を捨て去ることはできず、どんなにがんばったとて本棚はかるく9架。こんな量では蔵書家のうちにも入らないけれど、ミニマムな住空間を圧迫するには十分な物量だ。なんとか念願のベッドを導入することはできたが、ソファも食器棚も置く余裕なし。 これが新築や築浅物件ならばまた話は別なのかもしれないが、文京区内で同じ広さで新築なんぞ選ぼうものなら、家賃がさらに高騰してしまう。ならば文京区外に住めばよかろうというご意見もあろう。ごもっともである。文京区近辺に多少の愛着はあれども、強いこだわりがあったわけでもない。(中略) 東京を出て、家賃が安くて広い場所のある地方に移る。この閉塞状況を打破するためには、それしかない。都内を細かく取材する仕事はできなくなるけれど、そもそもそういう仕事をメインにしたいわけでもない。友達にも会いにくくなるけれど、都内にいたところで忙しくて1年に1回くらいのペースでしか、誰かと会っていない。ウーム 物書きの住空間とは、ぎりぎりに削ってもけっこうな広さが必用なんですね。先日読んだ『捨てる女』という本を紹介します。【捨てる女】内澤旬子、本の雑誌社、2013年刊<「BOOK」データベース>より突然あたしは何もない部屋に住みたくなった。生活道具や家具などから自ら長年蒐集してきたお宝本や書き続けてきたイラストまで大放出する捨て暮らしエッセイ。<読む前の大使寸評>断捨離のエッセイかと思いきや、パラパラとめくると著者の収集癖がすご~い♪rakuten捨てる女
2017.04.29
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図書館で『日中再逆転』という本を、手にしたのです。中国通による著書であり、嫌中本には当たらないと思うのだが・・・この種の本を読んでガス抜きしないと精神衛生上、良くないと思うのです。【日中再逆転】近藤大介著、講談社、2013年刊【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 大連ダボス会議ー日中逆転の確信/第2章 中国にとっての凶ー習近平の超・軽量政権/第3章 中国バブル完全崩壊ーシャドー・バンキングの罠/第4章 極左・習近平vs.極右・李克強ー迫り来る最終闘争/第5章 世界が絶賛する日本経済ー弱点だらけの中国ビジネス/第6章 日本が中国に勝つ四つの理由ー日中のセブンーイレブンは別物<読む前の大使寸評>中国通による著書であり、嫌中本には当たらないと思うのだが・・・この種の本を読んでガス抜きしないと精神衛生上、良くないと思うのです。rakuten日中再逆転2013年9月、ロシアG20サミットでの面白いエピソードを、見てみましょう。p272~275 <安倍首相の前で緊張のあまり習近平は> そんな中で開かれたロシアG20サミットは、日本には「追い風」、中国にとっては「向かい風」となったのである。安倍首相はこうした順風を受けて、9月5日の首脳会合の前の控え室で、習近平主席に初対面の「挨拶」に行き、数分間の立ち話を行った。このときの経緯について、前述の安倍政権の高官が明かす。 「このときの『立ち話』は、偶然を装っているが、実は用意周到に練られた計画だった。最大の目的は、日本が中国に対して敵対していないことを同盟国のアメリカに見せつけて、安心させることにあった。 当初は、首脳会合の際の席順が、就任日順に円卓に座るという習慣があるので、安倍首相(2012年12月就任)、朴・韓国大統領(2013年2月就任)、習近平・中国国家主席(同3月就任)が隣同士になるはずだった。そのため、着席する際に、中韓トップに握手を求めに行こうと考えていた。 ところが、安倍首相は非国家元首であり、習主席、朴大統領は国家元首なので、席順が変わるという。そこで次に、参加国首脳が中庭に出て記念撮影する場で握手を求めて行く作戦を立てた。だが記念撮影も、まず非国家元首が後ろ側に立ち並び、その後、国家元首が前側に並ぶということが分かり、習主席への挨拶は難しそうだと判明した。 そんなわけで、残った唯一のチャンスが、首脳会合の前の控え室だった。このときもまず、非国家元首である安倍首相が控え室に入り、国家元首たちの到着を待つ。控え室では奥側に案内されたが、安倍首相はあえて控え室入口に陣取って、習主席の到着を待った。そして習主席が控え室に足を踏み入れたとたんに、直撃したのだ。 まず安倍首相が『ナイス・ツー・ミート・ユー、ミスター・シージンピン!』と声をかけて右手を差し出した。安倍首相はロシアへ向かう政府専用機の中の打合せで、『習近平は英語で何と発音するんだ?』と聞いてきた。それで、何度も『シージンピン、シージンピン・・・』と反復し、挨拶の練習をしていた。 ところが、当の習近平主席は、安倍首相との対面をまったく予期していなかったようで、安倍首相から握手を求められて目が点になった。だが、他の18ヶ国首脳の面前で握手を拒否するわけにもいかない。そこで渋々、右手を差し出し、二人は握手したのだ。 安倍首相は、『2006年に自分が胡錦濤主席と結んだ戦略的互恵関係に基き、両国の首脳外交を復活させ、健全な関係を築いていきたい』と述べた。これを安倍首相の英語通訳が英訳し、今度は習主席の英語通訳が中国語訳した。 それに対して習主席は、『両国には解決しなければならない問題(尖閣諸島問題)が横たわっており、良好な環境を醸成することが必要だ』と返した。だがその間、習主席は緊張のあまり、右手を硬直させていて、話し終わっても安倍首相の手を放さなかったのだ」 この日本政府高官は、「そこに習主席という政治家の限界を見たような気がした」と結んだ。 このときの安倍首相は「二泊六日」の強行日程で、ロシアから、2020年のオリンピック会場を決めるIOC総会が開かれるアルゼンチンへと飛んだ。そこで周知のように、オリンピックを「ゲットした」のだった。 続いて9月下旬には、カナダとアメリカを訪問した。カナダでは、カナダ産シェールガスの輸入に関して、大きな前進があった。安いエネルギーは、日本の復活に欠かせないものだ。アメリカ産に加えてカナダ産の安価なシェールガスが数年のうちに輸入されるようになれば、日本経済を一変させることになる。ウーム このときの安倍さんは華々しかったなあ。外交・経済には見るべきものがあるのだが・・・政治手法が嘘っぽい(フェイクというべきか)のが難点でしょうか。『日中再逆転』1
2017.04.28
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図書館で『日中再逆転』という本を、手にしたのです。中国通による著書であり、嫌中本には当たらないと思うのだが・・・この種の本を読んでガス抜きしないと精神衛生上、良くないと思うのです。【日中再逆転】近藤大介著、講談社、2013年刊【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 大連ダボス会議ー日中逆転の確信/第2章 中国にとっての凶ー習近平の超・軽量政権/第3章 中国バブル完全崩壊ーシャドー・バンキングの罠/第4章 極左・習近平vs.極右・李克強ー迫り来る最終闘争/第5章 世界が絶賛する日本経済ー弱点だらけの中国ビジネス/第6章 日本が中国に勝つ四つの理由ー日中のセブンーイレブンは別物<読む前の大使寸評>中国通による著書であり、嫌中本には当たらないと思うのだが・・・この種の本を読んでガス抜きしないと精神衛生上、良くないと思うのです。rakuten日中再逆転中華4千年の統治について著者が概観しているので、見てみましょう。p99~101 <時代にふさわしくない指導者・習近平> 始皇帝は韓非子を始めとする「法家思想」に心酔していたが、中国における法治の概念は、現在の国際社会の法治とは、似て非なるものである。中国における法治とは、一言で言えば、「皇帝以外はみな、法律に従う」ということだ。そして皇帝の命令は法律の上に君臨する。 毛沢東は、「社会主義」の名のもとにこの始皇帝の政治手法を真似たのだ。すなわち、「現代の皇帝様」として絶対的な権力を振るい、資本家の富を没収し、「自分以外は全員平等」という社会を築いた。毛沢東は、統治にあたっては、始皇帝が李斯という名宰相を用いたように、周恩来という名宰相とコンビを組んだ。 毛沢東は対外的には、万里の長城を建設する代わりに、一時は600万人にも膨れ上がった世界最大規模の人民解放軍によって、14ヶ国と接した国境警備に当たった。そしてソ連のスターリン元帥に絶対忠誠を誓って、東西冷戦時代に東側の一員となる道を選択した。1961年には、米ソ英仏に続いて5番目の核保有国となった。こうした独裁体制と東西冷戦による均衡によって、国民は安寧を得ることができたのである。 始皇帝は国民に安寧をもたらしたが、同時に過酷な苦役をも強いたため、その死後に国家の大乱を招いた。そしてまもなく秦は項羽率いる楚軍によって滅亡し、続いて漢の劉邦が天下を統一していく。だが、前後400年続いた漢帝国の制度や政策は、そのほとんどが秦時代の換骨奪胎である。だから中国では、この時代を「秦漢時代」とひと括りにしている。秦が定め、漢が発展させたという意味だ。 現代中国史も、これとよく似た展開を見せている。始皇帝的な毛沢東は、国防建設や国家的大事業、それに自身を偶像崇拝させることは得意だったが、湖南省の農村出身で、並外れた経済オンチだった。そのため経済は、ソ連共産党式の計画経済と集団農業を、そのまま踏襲したが、経済発展には程遠い状況だった。 1950年代末には「15年でイギリスの鉄鋼生産を追い越す」との目標を掲げ、無謀な大躍進運動を主導した。その結果、5000万人が餓死したとも言われる三年大飢饉を招き、毛沢東は国家主席を辞任した。 1960年代に入ると、中国国民は、貧困からの脱出を望むようになった。また、1950年代後半の反右派闘争で打撃を受けた元資本家やインテリ層が、毛沢東指導部を突き上げた。 このとき、「巡り合わせ論」で言えば、もしあと十数年早くトウ小平が実権を掌握していれば、中国の運命は別な展開になっていたはずだ。すなわち、それから半世紀を経た時点で、中国はアメリカを抜き去って、世界一の経済大国として君臨していたかもしれないのだ。 だが、中国現代史は悲劇の方向へと向かった。毛沢東は、ナンバー2で人望の厚い劉少奇国家主席らを打倒するため、「革命を継続せよ!」と大号令をかけたのである。加えて、嫌悪していた全国の元資本家やインテリ層にも徹底的に迫害を加えた。それが、始皇帝が断行した悪名高き焚書坑儒の現代版とも言える文化大革命(1966~76年)だった。ここで再び、5000万人の中国人が犠牲になったと言われる。 始皇帝は、暴政を敷いたため、漢の張良や燕のケイカといった刺客によって暗殺されかけた。同様にこのような暴政を敷いた毛沢東も、晩年の1971年秋には、ナンバー2の林彪によって暗殺されかけた。毛沢東式の「革命的国家運営」は、限界点を迎えていたのである。ウン 非常に簡明な歴史認識ですね。勉強になりました♪(特に経済オンチの毛沢東あたりが)この本も中華関連書籍(R5)に収めておきます。
2017.04.28
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図書館に予約していた『シュヴァンクマイエルの博物館』という本を、待つこと6日でゲットしたのです。パラパラとめくると、多彩な作品がすごい♪ 先日見た『不思議の国のアリス』の画像は、その多彩な技法の一つだったようです。【シュヴァンクマイエルの博物館】ヤン・シュヴァンクマイエル著、国書刊行会、2001年刊<「BOOK」データベース>より『ファウスト』『悦楽共犯者』『対話の可能性』など、コマ撮りを駆使した特異な映像で知られるチェコのシュルレアリストが自ら構成した、世界初の造形作品集。本邦初公開の図版をカラーで収録。【目次】フロッタージュ、ドローイング/セラミック/コラージュ/触覚主義/オブジェ/解説・資料<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、多彩な作品がすごい♪ 先日見た『不思議の国のアリス』の画像は、その多彩な技法の一つだったようです。<図書館予約:(4/14予約、4/25受取)>rakutenシュヴァンクマイエルの博物館シュヴァンクマイエルの多彩な造形芸術作品を、見てみましょう。p154~156 <幼稚な待ち切れなさ:フランチシェク・ドリエ> 造形芸術家、人形作家、世界的に有名な映画監督及び脚本家であるヤン・シュヴァンクマイエルは、その創造活動を、当時、大概は非公式であったチェコスロヴァキアの美術界で優勢だった多義的な「アンフォルメル」として知られる構成主義とアサンブラージュの作家として活動を開始する。 それは実に独創的な美術様式で、攻撃的かつ叙情的な抽象芸術であった。これは後に、世界で、とりわけアメリカで有名になるポップアートの出現を色々な面で先駆けるものでもあった。 なお、アンフォルメルは、ミクラーシュ・メデックやヨゼフ・イストレルのような画家による傑作をもたらした。興味深いことに、両人は元々チェコのシュルレアリスムのいわゆる第二世代の極めて重要な代表者とされていた。アンフォルメルは当地の芸術状況において、1930年代以来君臨していたシュルレアリスムに対する、ある反動として生まれたが、これらの作家はそれに先立つ時代、間違いなくチェコの最も重要なシュルレアリストであるシュテルスキーとトワイヤンが、人工主義という独特な造形芸術的抽象を見出し展開させていた1920年代に、戻ることを望んでいるように見えた。(中略) シュヴァンクマイエルが最近作っている造形芸術作品を記述する際も、前述の特徴に立ち戻ることが可能である。この作品はメディウムドローイング(霊媒的なドローイング)の自発的な敷衍であり、すなわち専門外の画家による、全く自動的で自然のままの、本人自身にとって理解不能な、あるトランスに陥った際に作られた作品である。シュヴァンクマイエル本人はその最近の強迫観念について次のように述べている。「メディウムドローイングは私に、(異世界から)ふいに現れたような印象を与えた。こうしたものが、私を熱中させるのは初めてではない。このような激しい情熱(すなわちメイエルホルド、クレー、ポー、アルチンボルド並びにルドルフ2世のマニエリスム、人形劇、エヴァ、シュルレアリスム、博物学的百科事典の挿絵のエッチング、骨董家具、貝殻、石・・・そして今はこれらにメディウムドローイングが加わった)は私を一生虜にする。(中略)似たような要求不満に苛まれ、私は『メディウムドローイング』を創作しはじめた。これはまさに、ある種の待ち切れなさ・・・幼稚な待ち切れなさだった。これが今すぐ欲しいのだ!」ネットを巡ってシュヴァンクマイエルの画像を探してみました。『シュヴァンクマイエルの博物館』の画像 『不思議の国のアリス』
2017.04.27
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図書館で『アンドリュー・ワイエス水彩・素描展』という本を、手にしたのです。ワイエスの水彩・素描の習作を集めた、わりと地味な本であるが・・・ええでぇ♪この本の画像をネットで探したけれど見つからなかったので、ワイエスの絵を添えることにしました。【アンドリュー・ワイエス水彩・素描展】常葉美術館編、印象社、2006年刊<「BOOK」データベース>よりデータなし。<読む前の大使寸評>ワイエスの水彩・素描の習作を集めた、わりと地味な本であるが・・・ええでぇ♪ci.nii.アンドリュー・ワイエス水彩・素描展アメリカン・リアリズムのあたりを、もういちど見てみましょう。p106~107 <アメリカン・リアリズムの位置付け:金原宏行>■日本人の写生観 このように日本人にもいろいろな写生観があるが、ワイエスの写生は、日本の言葉でいえば、写生、それは中国の画にいう「気韻生動」とパラレルの関係にあり、ワイエスの画面にはそこに寂寥というものが入っていることが大きな違いではないかと思う。そこに生きているものの美を画面に定着させ、生きる意味を問うドラマがあるといえる。画面からそんな思いがするのである。 東洋の美意識は、対象に向けて「筆あり、墨あり、これを画と言う。韻あり、赴きあり、これを筆という」(『画冊論画』)として、筆致が重視されることに帰着するであろうが、一方でワイエスは、思想的に詩人ソローやホイットマンの考え方に影響を受け、東洋でいう道教の教え、無為自然に依拠しているといえよう。My truth behind the fact(事実の背後に私の真実がある)という言葉は、その如実な反映であろう。 このように東西の写生を少し比較してみると、ワイエスの作品には、絵というものは、人の営みや自然とともにヒューマニティを豊かにする可能性を秘めている東洋画とも共通するところがある。そんなことを考えさせるself documentであり、そのため共感の芸術といえる。それが、われわれに語りかけるメッセージが多く、日本にファン、理解者が多い理由であり、日本人に親しい水彩技法によっているからなおさらである。 水彩画の本流は、いうまでもなく英国であった。ロンドンの南西にイースト・サセックスの真珠と呼ばれる村がある。アンバレー村で、ここは水彩画家の聖地といわれ、明治の画家丸山晩霞には水彩による《アンバレー村》がある。 ワイエスのドライブラッシュは、自然の風景の背後に人間の死や生きることの難しさを蔵した作風であり、これらが単なるイラストレーションと異なって、画面の深みとなり、詩魂と写実とが画面に見事に融合している。■おわりに 現代の画壇にあって画家を持って任ずる人は、アメリカにも日本にも数多い。ただが檀という狭い世界に引籠もり、そこでの立ち振る舞いに忙しいのであるが、それに対してワイエスという孤独な画家は、いわゆる画壇とは没交渉であることで生きてきたようにみえる。 しかしワイエスの絵画には、見るものに直ちに響いてくるものがあって、連作ヘルガにも若さと輝きがあり、体臭がある。時にはそこには女の誇りのようなものすら感じられ、少しも卑しくはない。 ワイエスは89歳の現在も溌剌としたエスプリで発言し、テンペラ、ドライブラッシュ(水彩)の卓越した技術によって強く訴えかけてくる。絵画に、があるとすると、ワイエスの絵は、まさしく後者であろう。『アンドリュー・ワイエス水彩・素描展』1『アンドリュー・ワイエス水彩・素描展』2『アンドリュー・ワイエス水彩・素描展』3アンドリュー・ワイエス水彩・素描展画像
2017.04.27
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図書館で『アンドリュー・ワイエス水彩・素描展』という本を、手にしたのです。ワイエスの水彩・素描の習作を集めた、わりと地味な本であるが・・・ええでぇ♪この本の画像をネットで探したけれど見つからなかったので、ワイエスの絵を添えることにしました。【アンドリュー・ワイエス水彩・素描展】常葉美術館編、印象社、2006年刊<「BOOK」データベース>よりデータなし。<読む前の大使寸評>ワイエスの水彩・素描の習作を集めた、わりと地味な本であるが・・・ええでぇ♪ci.nii.アンドリュー・ワイエス水彩・素描展ワイエスその人と彼が描いたを、見てみましょう。p10~11 <アンドリュー・ワイエスを描いた人:海野康男>1.ワイエスはどんな画家か。 初期の画集「クリスティーナの世界」のほとんどの作品は、メイン州の海辺に「座礁して風雨にさらされた船のように」立っているオルソン家の、普通ではとても画題にはならないような一画とそこにある「もの」をかいている。例えば、破れた窓ガラスから出入りしている燕が飛ぶ納屋の天井、穀物袋が置かれている台所の片隅、種子用のトウモロコシの吊り下げられている寝室などである。p50,51 2番目の画集「カーナー農場」に描かれているものも同じようなものである。ワイエスの作品を多く所蔵している生地チャッズ・フォードにあるブランディワインリバー美術館の館長ジェイムズ・H・ダフは、「(人々にとって)アンドリューはであり、多くの愛好者たちは、アンドリューは壊れた門や窓を見つけたら、絵にしないではいられないだろうと言う」と述べている。 ワイエス自身も、著名なイラストレーターであった父N.C.ワイエスが、「私の絵があまりに色彩に乏しいので、画家としての将来を心配していた」と言う。絵が売れないだろうという意味であった。 しかし、ワイエスの絵は売れた。彼の最初の個展、1937年、20歳のとき、ニューヨークのマクベス・ギャラリーにおける「第1回アンドリュー・ワイエス水彩画展」でメイン州を描いた水彩画は好評で、全作品が1日で完売となった。この伝説的な成功の後、ワイエスは全米の美術商や美術館キュレーターから追い回される存在となった。 そして、ワイエスの作品の中で最も有名な「クリスティーナの世界」・・・ピンクのワンピースを着た、身体に障害のある女性が草原をはるか彼方に自分の家に向かって這って行く後ろ姿を描いたもの・・・が成立した31歳の1948年頃、それは一つの頂点に達した。以後、ワイエスの作品はアメリカ国内において常に歓迎され、アメリカ人の、アメリカのを描く国民的な画家として名声を博している。 彼は、1961年ケネディ大統領から「メダル・オブ・フリーダム」を、1988年にレーガン大統領から「ゴールドメダル大統領賞」を受賞した。美術大衆の人気を背景にした社会的評価だと言う向きもあるが、現代アメリカにおけるワイエスの地位を推し量ることができよう。(中略) もちろん、ワイエスの類まれな、「写真のごとき明瞭な視覚性」とも言われるリアリズムの技法のすごさが彼の絵の魅力を大きく支えている。しかし、彼は事物や風景の現実のままの再現を目指すような単純な具象の画家ではない。ワイエスにとって技術は本質的なものではない。どのように描くかは、具象のリアリズム以外の・・・もちろん彼はこの手法しかとらない・・・画面の構成、組合せ、消去、暗喩、象徴などの表現の工夫において意味をもつものであり、もっとも重要なのは何を描くかということである。 彼が描いた「もの」や「人」が、また「風景」や「光景」が、ワイエスが感じていたものとほとんど変わらない濃さで絵を見る人々の内面に共感を呼び起こすのは何故か。それはリアリズムという武器の効果であるとともに、ワイエスが描いたものが、人間にとってあるをもっているからである。『アンドリュー・ワイエス水彩・素描展』1『アンドリュー・ワイエス水彩・素描展』2アンドリュー・ワイエス水彩・素描展画像
2017.04.27
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「予約本」でしょうか♪<市立図書館>・シュヴァンクマイエルの博物館・漂うままに島に着き・西加奈子「i」・日中再逆転・そうはいかない<大学図書館>(今回はパス)図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【シュヴァンクマイエルの博物館】ヤン・シュヴァンクマイエル著、国書刊行会、2001年刊<「BOOK」データベース>より『ファウスト』『悦楽共犯者』『対話の可能性』など、コマ撮りを駆使した特異な映像で知られるチェコのシュルレアリストが自ら構成した、世界初の造形作品集。本邦初公開の図版をカラーで収録。【目次】フロッタージュ、ドローイング/セラミック/コラージュ/触覚主義/オブジェ/解説・資料<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、多彩な作品がすごい♪ 先日見た『不思議の国のアリス』の画像は、その多彩な技法の一つだったようです。<図書館予約:(4/14予約、4/25受取)>rakutenシュヴァンクマイエルの博物館************************************************************【漂うままに島に着き】内沢旬子著、朝日新聞出版、2016年刊<商品説明>より乳がん治療の果てに、離婚をし、一人暮らしを始めた著者。しかし、東京のせまいマンション暮らしが我慢できなくなり、地方移住を検討し始める。香川県の小豆島に移住を決め、引っ越しを終えてからの折々の心境の変化をつづった地方移住顛末記。<読む前の大使寸評>Ⅰターン先としての小豆島・・・いいんじゃないでしょうか。<図書館予約:(10/27予約、4/25受取)>rakuten漂うままに島に着き************************************************************【i】西加奈子著、ポプラ社、2016年刊<「BOOK」データベース>より「この世界にアイは存在しません。」入学式の翌日、数学教師は言った。ひとりだけ、え、と声を出した。ワイルド曽田アイ。その言葉は、アイに衝撃を与え、彼女の胸に居座り続けることになる。ある「奇跡」が起こるまではー。「想うこと」で生まれる圧倒的な強さと優しさー直木賞作家・西加奈子の渾身の「叫び」に心揺さぶられる傑作長編!<読む前の大使寸評>今でも本屋の店頭で平積みされている小説であり、これは期待できそうやでぇ♪<図書館予約:(1/06予約、4/26受取)>rakuteni************************************************************【日中再逆転】近藤大介著、講談社、2013年刊【目次】(「BOOK」データベースより)第1章 大連ダボス会議ー日中逆転の確信/第2章 中国にとっての凶ー習近平の超・軽量政権/第3章 中国バブル完全崩壊ーシャドー・バンキングの罠/第4章 極左・習近平vs.極右・李克強ー迫り来る最終闘争/第5章 世界が絶賛する日本経済ー弱点だらけの中国ビジネス/第6章 日本が中国に勝つ四つの理由ー日中のセブンーイレブンは別物<読む前の大使寸評>中国通による著書であり、嫌中本には当たらないと思うのだが・・・この種の本を読んでガス抜きしないと精神衛生上、良くないと思うのです。rakuten日中再逆転************************************************************【そうはいかない】佐野洋子、小学館、2010年刊<「BOOK」データベース>よりこの本は、見事な「変愛小説集」だ。といってもフィクションとエッセーの間を行ったり来たりする不思議な作品ぞろい。これを物語エッセーと名づけることにしよう。母と息子、母親と私、見栄っぱりの女友だち、離婚した美女、イタリアの女たらし、ニューヨークの日本人夫婦…自らの周りにいる愛すべき変人奇人たちを、独特の文体で活写した傑作33篇。イラストレーションも多数収録。<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、他のエッセイ集よりも挿絵がわりと多くてええ感じやでぇ♪rakutenそうはいかない************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き212
2017.04.26
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図書館で『アンドリュー・ワイエス水彩・素描展』という本を、手にしたのです。ワイエスの水彩・素描の習作を集めた、わりと地味な本であるが・・・ええでぇ♪この本の画像をネットで探したけれど見つからなかったので、ワイエスの絵を添えることにしました。【アンドリュー・ワイエス水彩・素描展】常葉美術館編、印象社、2006年刊<「BOOK」データベース>よりデータなし。<読む前の大使寸評>ワイエスの水彩・素描の習作を集めた、わりと地味な本であるが・・・ええでぇ♪ci.nii.アンドリュー・ワイエス水彩・素描展「丸沼芸術の森」とは何か、見てみましょう。p108~109 <丸沼芸術の森とワイエスコレクション:中村音代> 1.はじめに 1996年11月丸沼芸術の森は、「縁」あってアメリカの画家アンドリュー・ワイエスの作品を所蔵することになった。あれから10年、丸沼芸術の森ワイエスコレクションは日本を縦断し、多くの人々に感動を与え、静かながらワイエスブームが起こりつつあるのが感じられる。アメリカ絵画の巨匠の水彩・素描238点という信じ難い数量を所蔵する「丸沼芸術の森」とは一体どんなところで、何のためにこれだけのものを所有するに至ったのか。 2.丸沼芸術の森について オーナーの須崎勝茂氏は埼玉県朝霞市で倉庫業を営む傍ら、母上の故須崎はな氏と共に若手芸術家を育てようと1985年に「丸沼芸術の森」と名付けてアトリエ村を作った。ここで須崎氏は大変ユニークな芸術支援活動を展開している。 このアトリエ村は、朝霞市の郊外上内間木に広大な竹林を整地して出来た。周辺には田園が広がり、今も雑木林が残り自然に恵まれている。なるほど、この地なら芸術家たちが、光、風、大気を肌で感じ、木々や竹林のざわめき、鳥のさえずりを聞きながら、時間の許す限り制作に没頭できそうだ。 4.ワイエスコレクションとの出会い ここで須崎氏がワイエスの作品を持つようになった経緯について触れておきたい。 須崎氏によると、1993年知人の画商からワイエスの水彩・素描(オルソン・ハウス・シリーズ)238点の打診があった。その少し前にワイエスのという水彩画を入手しており、それをとても気に入っていたので心が動いた。しかしこの時は予想を上回る高額だったため諦めざるを得なかった。 ところが3年後、再び同じシリーズ購入の話が舞い込んだ。「まるで私のところへ戻ってきたように思われた。これは何らかの「縁」があるものの確信し、今度は迷わずサインすることが出来た。1963年、ジョンソン大統領から平和と文化の功労者に贈られる最高の勲章『メダル・オブ・フリーダム』を授与されたという水彩画の巨匠アンドリュー・ワイエス、その素晴らしい画家の素描は日本の若い作家にきっと役立つに違いない。彼らにその創作過程を見てもらいたい」・・・須崎氏の並々ならぬ意気込みが十分想像できる。 そのような切実な願いを胸に、須崎氏は実作品を事前に確認するため丸沼芸術の森の画家と彫刻家を伴い渡米した。「ニューヨークのギャラリーで初めて見る大量の作品、一点一点の繊細さと力強さに圧倒された。素描はどれも画家の筆が猛烈な勢いで紙の上をダッシュしている。驚きと感動の声が飛び交う。ワイエスは自身の素描について『わたしは、素描を単なるスケッチだとは決して思わない。鉛筆と筆で思考しているのだ』と語っているが、その意図が十分伝わってくるものだった」と須崎氏は振り返る。 素晴らしい作品群に魅せられた須崎氏は、画家に会いたい気持が昂じ、『オルソン・ハウス・シリーズ』の生まれた地であるメイン州クッシングへと足を延ばした。訪れたのは10月下旬で、ワイエスはそろそろメインを離れようとしていた頃に違いない。晩秋から春にかけては、生まれ故郷のペンシルヴェニアで過ごすからだ。人生でも芸術でも、表に出ようとしないタイプの人物だと聞いていたが、幸運にもオルソン・ハウスで面会することができた。p44,45 二人の若い芸術家が同伴していたこともワイエスに強いインパクトを与えたのであろう。「アルヴァロとクリスティーナのいなくなったオルソン・ハウスを描く気にはなれない」というワイエスは、このとき夫人のベッツイを伴い26年振りにここを訪れたという。丸沼芸術の森HPによると、常設展示は行っていないので、展覧会予定は「イベント」ページを見てほしいとのことです。『アンドリュー・ワイエス水彩・素描展』1
2017.04.26
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<『ひとりでは生きられないのも芸のうち』>図書館で『ひとりでは生きられないのも芸のうち』という本を手にしたのです。内田先生のエッセイ集を適当な箇所でパッと開いて、読みふけるのは為になるし・・・ええでぇ♪【ひとりでは生きられないのも芸のうち】内田樹著、文藝春秋、2008年刊<「BOOK」データベース>より社会のあらゆる場面で“孤立化”が進むいま、私たちはどう生きるべきか?「自己決定・自己責任」の呪縛を解く。【目次】1 非婚・少子化時代に/2 働くということ/3 メディアの語り口/4 グローバル化時代のひずみ/5 共同体の作法/6 死と愛をめぐる考察<読む前の大使寸評>内田先生のエッセイ集を適当な箇所でパッと開いて、読みふけるのは為になるし・・・ええでぇ♪rakutenひとりでは生きられないのも芸のうち言語に対するおせっかいな制限を、見てみましょう。p140~143 <配架の愉しみと語彙について> 子どもの語彙の貧困は、その子どもの生活圏でゆきかう言語の貧困をそのまま映し出している。 それは子ども自身の責任ではない。 日本語が痩せているということが全ての問題の底流にある。 それはメディアに執筆しているときに痛感することである。 私の原稿はしばしば「むずかしい漢字が使ってある」とか「なじみのない外来語が使ってある」という理由で書き直しを命じられる。 私は原則として修正に応じない。 読者に読めない漢字があってはメディアとしては困るんですと言うけれど、そのロジックを受け容れてしまうと、メディアはその読者のうち最低のリテラシーを持つものの水準に合わせて使用言語を絶えず下方修正しなければならなくなるからである。 現にそうやって戦後日本のメディア言語は痩せ細ってきた。 例えば、「語彙」という言葉を使わせてくれないメディアがある。 これは「語い」と書かなければならない。 私は「語い」とか「範ちゅう」とか「破たん」というような表記を見ると、肌に粟を生じる。 そういう文字を見ても「平気」というような言語感覚の人間が使用文字について公的な決定件を持っている。 以前に「はなもひっかけない」と表記した原稿を「身体部位の欠陥にかかわる表記はやめてください」と差し戻されたことがあった。「はなもひっかけない」というのを「鼻が低いので、ものがひっかからない」という意味だと解釈したらしい。 「はな」は「鼻」ではなく「洟」である。 「はなみずもひっかけてもらえないくらいに、てんで相手にされない」という意味である。 その程度の国語力の人間が言語表記について適否の任に当たってよろしいのであろうか。 「片手落ち」という表記も「身体障害者差別になるから」と拒否されたことがあった。「短見」も「耳を聾する」も「障害者差別になるから」という理由でいずれ拒否されるであろう。 「狂人」や「白痴」や「気違い」などの語はそもそもATOKに登録されていない。 「政治的に正しい言葉づかい」をメディアや文科省は久しく唱道してきた。 そのこと自体に文句はない。 けれども、それはただ「使える言葉をひたすら減らす」というかたちでしか行われてこなかった。 「美しい言葉」「響きの良い言葉」「意味の深みをたたえた言葉」を増やすという方向には、戦後日本のメディアも教育もほとんど何のアイディアも持たなかった。 日本語の痩弱に歯止めがかからないのは、「言葉なんかいくら使用制限しても日常生活に少しも不便はない」という「生活言語」の全能への信仰が現代社会に瀰漫しているからである。 これもおそらく新聞に投稿したら「び漫」と直されてしまうのであろう。 けれども、「瀰漫」は「蔓延」や「波及」や「一般化」とはニュアンスが違う。 どのような他の語をもってしても「瀰漫」の語のはなつ「瘴気」に類したことは表すことはできない。 この「瘴気」だってそうだ。 「毒気」では言い換えることができない。 これを「しょう気」と書き直されたとき、誰がその原義にたどりつけるであろうか。 だが、現にそのようにして、メディアは日本語の語彙を減らすことに全力を尽くしている。 それは「最もリテラシーの低い読者」の読解力に合わせて無制限に下方修正を繰り返すということを意味している。
2017.04.25
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「共謀罪」法案の国会審議が19日から始まったが・・・こんな危険な法律は廃案にするしかないのだ!デジタル朝日でも19日から『問う「共謀罪」表現者から』というコラムがスタートしたのでフォローしています。大使のブログでも映画や小説で取り上げた著名人が、声を挙げています。・周防正行・平野啓一郎2017-04-19心の内、絶えず監視される社会に:周防正行より■自由を奪われることで社会は安全になるのだろうか ◇ 冤罪をテーマにした映画を撮影したことがきっかけで、大阪地検特捜部の証拠改ざん事件が2010年に発覚した後、刑事司法制度の改革を議論するための国の会議の一員になった。警察官や検察官、裁判官と話して感じたのは、法律とは怖いもので、解釈と運用により、どうにでも使われてしまうことだ。 今回の法案は解釈の幅が広い。政府は否定するだろうが、権力に都合の悪い主張をする人を立件する武器を手に入れることになる。時の政権に声を上げることがはばかられる社会になるだろう。表現をする立場には確実に影響が出る。 権力は、新設する罪を使って有罪にしなくてもいい。「話を少し聞きたい」と任意の捜査をするだけで、萎縮効果は抜群だ。「私たちが何を考えているのか」を国家が絶えず監視する社会になる。政府は「一般人は対象ではない」とも言う。では、そもそも「一般人」とはどんな人か。誰でも犯罪をする可能性があり、誰でも「犯罪をした」と疑われる可能性がある。 捜査機関に対しては裁判官がチェックするシステムだと政府は言う。だが、裁判官は人権を守る最後の砦ではなく、国家権力を守る最後の砦と化している。権力が新たな制度をつくろうとするとき、私たちは声をあげ、抑制をかけなければならない。民主主義の成熟度が問われている。(聞き手・金子元希)2017-04-20監視されるかも、気にする社会恐ろしい:平野啓一郎より 「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織的犯罪処罰法改正案が国会で議論されている。政府は「テロ対策に必要」との立場だが、捜査当局による乱用や「表現の自由」などの侵害を危惧する声もある。 中東で過激派組織ISILに殺害されたジャーナリスト・後藤健二さんと交流があったという作家・平野啓一郎さんはこの法律をどう考えるのか。■こんなことを言ったら警察に目を付けられるかも、といちいち気にする社会でいいのか。 何かが起きる前に、いかに予防するか。典型的な分野は医療だが、そんなリスク管理型の考え方に社会が移りつつあるなか、テロは未然に防ぐべきだとの意見に多くの人が同意するのは理解できる。ぼくも当然そう思う。ただ、その方法が問題だ。 すでにあるテロ対策の法律ではなぜだめなのか、政府から十分な説明はない。テロ等準備罪の「等」も広範すぎる。捜査機関に膨大な権限を与え、国民を監視し、抑止する手法は、国民一人ひとりの自由を萎縮させる。 「法令違反をしないように」ではなく、「監視すべき人間と見なされないように」と、日常的に意識しなければならなくなる。目を付けられやすいのは、政府批判だろう。接触を持つだけで捜査、監視の対象になるのではと、関係を持つことさえためらう空気が生まれないか。 かつて「友達の友達はアルカイダ」と言った政治家がいた。フェイスブックなどのSNSが発達したいま、「友達の友達」は時にとんでもないところまでつながっていく。捜査側はここからが容疑者で、ここからが一般人だと、区別できるのか。犯罪を漠然としたリスクとして「予防」しようとすると、捜査機関の監視は歯止めがなくなる。誰にでも知られたくない秘密はあり、また世間の目もある。逮捕や家宅捜索だけでも、十分な抑圧効果があるだろう。 本には人と人とを結び付ける作用がある。小説を書く時は色々な人に取材するし、ぼくの本が、誰かの何かの原動力になることもある。それが政府批判的な運動かもしれない。読者とのコンタクトもある。本を書く限り、いつ自分が関わるかわからない点に懸念を感じる。「組織」としての出版界に、自主検閲が広がらないか、心配だ。 ギタリストの男性と通信社記者の女性との恋愛を描いた「マチネの終わりに」の執筆にあたり、ジャーナリストの故後藤健二さんに話を聞いた。 イスラム国に拘束された後藤さんは、取材の過程で様々な人たちに接触していた。「行くな」と言われても、人道や民主主義のために命がけで取材する姿があった。 民主主義を健全に機能させるには、少なくとも事実に基づき何かを判断していかなければいけない。政府に都合のいい発表だけが伝われば、戦中の日本のように道を大きく誤ることになる。取材活動の自由が保障されるかどうかも危惧している。 個人が自由に、生き生きと活動する社会こそが、望ましいと思っている。その時々の政府は、国民にとって、必ずしも常に望ましいものとは限らない。批判や反対は必要。そんな時、目を付けられるかもしれないといちいち感じないといけない社会は恐ろしい。非常に危険な法案で、強く反対している。(聞き手・山本亮介)平野さんは『ドーン』という小説でも近未来の監視社会を描いていたが、捜査当局によるでっち上げを描いたということでは伊坂幸太郎の『火星に住むつもりかい?』いちばん怖かったでぇ。
2017.04.25
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図書館で『日焼け読書の旅かばん』という本を手にしたが・・・・なんか一度読んだような本であるが、内容には記憶がないので借りたわけです。帰って調べてみたら5年前に借りていたのです。やっぱり。【日焼け読書の旅かばん】 椎名誠著、 本の雑誌社、2001年刊<「MARC」データベース>より普通小説、私小説、SF、エッセイ、対談集、絵本、写真集、評論などを20年書いている著者が、1999年に実際に読んだ本や10+1年間で面白かった本などについて紹介する。『本の雑誌』連載を単行本化。<読む前の大使寸評>なんか一度読んだような本であるが、内容には記憶がないので借りたわけです。帰って調べてみたら5年前に借りていたのです。やっぱり。Amazon日焼け読書の旅かばんこの本のメインテーマは面白い本(ノンフィクション)の紹介にあるわけで・・・・大使の気になった本を、見てみましょう。p71~73 <食物むむむ事情もの>・『トウガラシの文化誌』アマール・ナージ(晶文社)・『ショウガは効く』スティーブン・フルダー(晶文社) 一つの事象を集中してとらまえていく文化誌のようなものがとても好きなのだが、今年読んだ本ではその名もずばり、『トウガラシの文化誌』が圧巻だった。とにかく全篇トウガラシのことだけが研究分析されている。 しかし、とはいっても学術書ではなく面白興味の本なので、そんなに苦労せずに世界におけるトウガラシの勢力図、人類におけるトウガラシの意味などといったことがずんずんストレートに吸収できる。トウガラシが持っている底力に大いにうなづくとともに、何かやたらと辛いものを食べたくて仕方がなくなる。同時に連鎖反応的にビールが飲みたくなるのである。なんとっも困ったヒハヒハ本だが、それでも1冊読むとなにかずいぶん物知り博士になったような気がして嬉しくなるのである。 スティーブン・フルダー『ショウガは効く』も同じように、ショウガについての徹底こだわり本だ。両方とも晶文社が出していて、この出版社もこうしてよく一点集中のこだわり本を出してくれるからいつも注意していなければならない。トウガラシもショウガもぼくは好きなので、今度はこれを読んでトウガラシと同じようにショウガについて徹底的に詳しくなった。タイトルのいうようにショウガはとにかく体にいいんだということがよくわかるのである。 書き忘れたが、さっきの『トウガラシの文化誌』の中でトウガラシの中毒性のことについて触れてあるところが面白かった。世界にはトウガラシ中毒と言われるような人が驚くほどたくさんいるという。トウガラシマニアはエスカレートしていき、どんどん辛いものを求めるようになる。もう普通の人では耐えられないような辛いものを口にし、涙を流し鼻水をたらし、その辛さにあえぎながら恍惚とした表情になっていく。これはいったいなぜなのかということを解説しているのだ。 トウガラシの中に含まれているカプサイシンという化学物質がどうやらその秘密らしい。トウガラシを食べると、この辛さの中にある痛みの伝達物質が、やけどを知覚したかのような信号を脳に送るらしい。カプサイシンによってもたらされた偽のやけどの通信によって脳は反射行動としてカプサイシンを取り除こうとするために、心臓の鼓動を速くし、唾液や鼻水を流し、消化器官の働きを強め、頭や顔から滝のような汗を流させる。これはそういう反応によって必死に体の痛みを知覚する能力を和らげようとしていることらしい。ウン 辛い料理にかけては椎名さんの豪快な味覚を信頼しているので・・・この『トウガラシの文化誌』という本は期待できそうである♪椎名さんの『からいはうまい』という本を紹介します。【からいはうまい】椎名誠著、小学館、2001年刊<「BOOK」データベース>より“からいはうまい、うまいはえらい”と辛味食材にこだわる作家シーナの初の激辛追跡紀行。トウガラシ大国・韓国に渡り辛味の真髄を味わい尽くす旅は二千キロに及び、世界の屋根・チベットの激辛食に挑む。さらに、わが日本の名だたる辛味、ワサビを追い、はたまたブームの辛味大根を食す。追えば追うほど奥が深いのが辛味の世界。人はなぜこれほどまでに辛味にこだわるのかを大テーマに走り回った類い稀なる食味紀行だ。食味学の大家・小泉武夫・東京農業大学教授の「辛味食文化初級入門塾」を付して贈るシーナファン待望の丸ごと一冊極辛本。<大使寸評>辛味大好きの椎名軍団の韓国レポートが美味しいのである♪小泉武夫教授によると、インド、韓国そして東南アジアが辛味絶対圏であり、世界最辛国はミャンマーなんだそうです。大使もチャガルチ市場のエネルギッシュな魚料理が好みであるが、この本でもそのあたりが伝わってきます。2001年刊行のハードカバーと同じ表紙図柄の文庫本が2004年に刊行されています。Amazonからいはうまい『日焼け読書の旅かばん』1
2017.04.24
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<『日焼け読書の旅かばん』>図書館で『日焼け読書の旅かばん』という本を手にしたが・・・・なんか一度読んだような本であるが、内容には記憶がないので借りたわけです。帰って調べてみたら5年前に借りていたのです。やっぱり。【日焼け読書の旅かばん】 椎名誠著、 本の雑誌社、2001年刊<「MARC」データベース>より普通小説、私小説、SF、エッセイ、対談集、絵本、写真集、評論などを20年書いている著者が、1999年に実際に読んだ本や10+1年間で面白かった本などについて紹介する。『本の雑誌』連載を単行本化。<読む前の大使寸評>なんか一度読んだような本であるが、内容には記憶がないので借りたわけです。帰って調べてみたら5年前に借りていたのです。やっぱり。Amazon日焼け読書の旅かばんキャンプできたえた椎名さんの得意料理を、見てみましょう。冷凍に詳しいなど、わりと家庭的なところが意外です。p31~34 <わが愛しの包丁> ぼくが出来る唯一の料理仕事というと麺料理なのだが、近頃はうどんに凝っている。そこで、うどんで何か工夫しようということになった。 また妻が考えてくれたのだが、きつねうどんのアブラアゲを家で煮てくれて、それを一食分ずつやはり冷凍パックし、解凍してうどんの上にのせるという作戦をとることにした。これもなかなかうまくいった。しかし仕事の合間というのはどうもそれも面倒くさい。仕事場のスタッフに頼み、麺つゆの出来合いのものを買ってきてもらうことにした。 結構いろんなものがある。出来合いの麺つゆというのは、濃縮されたものを水で薄めるというものを連想していたが、今はグルメ時代になっているから、有名なお蕎麦屋さんやうどん屋さんのおいしい麺つゆをそのまま一色分缶や瓶に入れているなどということも知った。これもまた簡単であった。 まあしょっちゅうきつねばかりというのも侘しいので、お手伝いさんにテンプラのかきあげを作ってもらってそれを冷凍して使うなどというのも研究した。あるとき寿司屋で鯛が出た。食べきれないので、それを持ち帰りうどんの上にのせたら、これがまことにおいしい鯛うどんになった。そういうバリエーションの高度化というのもなかなか嬉しいことで、ますます気分は明るくなった。 それまでネギは、乾燥ワケギというのを使っていた。これは麺が出来上がる前にバサバサバサッとふりかければあっという間にいい状態になるのだが、しかし乾燥ネギは香りもとんでいるし、味も希薄だ。やはり本当のネギがいい。ネギは新聞紙にくるんで冷蔵庫に入れておくと結構保存がきくということを教えてもらった。 そんな折にこの包丁を貰ったのである。嬉しいことだ。さっそく翌日ネギを手に入れてきて、それをザクザク切った。大量のネギをうどんの上にのせ、この間韓国から買ってきたヴィンテージものの高級甘辛トウガラシを大量にふりかける。ただのかけうどんであっても、これはまさに至福の味であった。 こうなってくると、その包丁でさらにいろんなものを切りたくなってくる。しかし、ネギ以外とりあえず何か切って食生活に役立つものというのはあまり頭に浮かばない。実演販売人がぼくの前でやってくれたトマトの薄切りというのがどうしても頭にちらつく。その人はトマトを1ミリぐらいの厚さにどんどん切っていったのだ。そいつを自分でもやってみたい、と思い、ある日原稿が一段落したときに近所のスーパーに行ってトマトを買ってきた。(中略) そこで思い出したのだが、昔息子が小さかったころ、スパゲッティでよくトマトのソースを作ったことがある。もうそんなことをしなくなって15、6年たっているから、手順をすっかり忘れている。一つ一つ思い出し、そうだタマネギがいるのだ。そうだベースとしてはアサリの缶詰を使ったのだ、ということを思い出し、また翌日スーパーに行ってそれらを買ってきた。さらに事務所のスタッフに頼み、フライパンを買ってきてもらった。 そうして見事に昔取った杵柄とでも言うべき、ボンゴレトマトソースをこしらえた。これをほどよく茹でたうどんの上にのせて食べたときの充足感といったらない。しかし、割合としてはあまりにたくさんのトマトソースを作ってしまったので、それをどうするかという問題になった。そこでさっそくそのトマトソースを小さな袋に分けて冷凍した。われながら首尾一貫した大きな進歩だと思った。ウン ボンゴレトマトソースを乗せたうどんなんか独創的であり・・・いけるかも♪
2017.04.24
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図書館で『アンドリュー・ワイエス水彩・素描展』という本を、手にしたのです。ワイエスの水彩・素描の習作を集めた、わりと地味な本であるが・・・ええでぇ♪この本の画像をネットで探したけれど見つからなかったので、ワイエスの絵を添えることにしました。【アンドリュー・ワイエス水彩・素描展】常葉美術館編、印象社、2006年刊<「BOOK」データベース>よりデータなし。<読む前の大使寸評>ワイエスの水彩・素描の習作を集めた、わりと地味な本であるが・・・ええでぇ♪ci.nii.アンドリュー・ワイエス水彩・素描展大使の好きなアメリカン・リアリズムのあたりを見てみましょう。p103~106 <アメリカン・リアリズムの位置付け:金原宏行>■はじめに アンドリュー・ワイエスとエドワード・ホッパーという二人の画家は、私の一番気にかかってきた現代アメリカの画家である。今回、1938年から始まったオルソンシリーズのワイエスの水彩素描115点(丸沼芸術の森コレクション)が展示されるので、それぞれの描かれた場面の意味がより理解できると思われるが、ワイエスの作風の生成をアメリカ絵画の歴史に位置づけながら、時にはホッパーと比べ、アメリカン・リアリズムを今日的な視点から考えてみたい。■ワイエスの作風 オルソン時代(1940-1969)のワイエスの作品には、生きていることの尊さ、美しさを定着させるべきだという哲学がうかがわれる。それは、下絵(水彩・素描)に生きた命を刻んだ作品が多いことからも理解できる。 これらは一貫して水彩であるが、瞑想的、内省的な画家であったコールに影響され、1952年頃よりドライブラッシュ(水彩テンペラ)技法を生かした作品へと変貌していく。 代表作1945年の《クリスティーナの世界》や《豆入れの桶》(1966)は、われわれのイメージに上り、その絵の印象が深く脳裏に刻まれているが、前者は、地平線を画面上部に取り、現実の坂よりも急に感じられる大地の表現などワイエスの絵画特有のマジックリアリズムによって対象の内面に切り込む深さがある。 その修作を見ると、いかに構成に苦心したか理解できる。《クリスティーナの世界》は、抽象に進む一派を除いて、一時否定的に見られたが、ワイエスは体に障害がありながら、大地に這いつくばり、小さな体に魂の輝きを見せるクリスティーナという命を表現し得ている。クリスティーナ ワイエスは、自分の内面と向き合いながら、立ち上がってくるオルソンでの生活から生まれたイメージを大事にして、アメリカに続いていた伝統的な細密模写、リアリズムを強固に守りながら、1960年代から今日にかけてさわやかな感動を呼び寄せることに成功したといえる。こうして作品は好評を博し、高く評価されることになり、東京国立近代美術館でワイエス展が1974年開催されて、日本にも紹介されるようになった。■ワイエスとホッパー ワイエスは、フランス印象派の色彩解放については良き恩恵を受けているといえる。テオドール・ドライザーが「アメリカを発見することは素晴らしいことだ。しかしアメリカを失うことは、もっと素晴らしいことだ」と記したことを思い出させる。それを地で行ったのが、ニューヨークに住みながら、1930年以降は、ニューイングランドコッド岬に1年の半分を過ごしたエドワード・ホッパー(1882-1967)である。 海辺や田園の田舎を描いたホッパーの絵画は、ヨーロッパの風景画のように画面の中の人間の表情が、自然を支配していない人物となっているのが特徴である。ここでは、まさしく人物はあくまでも添え物なのである。孤独なアメリカの人物が、がらんどうのスペースに投げ出され、映画の1カットのように哀愁と悲哀を醸し出す。何をしているのか分からないが、自然が人間を脅かしているようにも見える。 新大陸にやって来た開拓者たちが抱いた、月並みな情景のなかの倦怠、寂寥、孤独、疎外、アンニュイ、そうした負にあたるものすべてを表現しようとしている。自然の多様性こそが、大切であると言っているかのようである。ナイトホークス これに対して、ワイエスは最低限の生活を満たすために、そこで生活する大切にしてきた品々、生活用品、例えばバケツなどを描きだし、それらをつなぎ合わせながら、身近な生活を様々なモティーフで彩る。日常を豊かにしてきたアメリカンキルトのような側面が、彼の絵のなかにある。生活に必須なもの、生かされてきたものを描いて、ひいては、それらがアメリカの郷愁につながるのである。 ホッパーは、アメリカ小都会の特有の空間の広がりのある場面を、空虚で乾いた技法で描き、孤愁の陰りある感情がよく出て、そこに詩的な独特の空間を作り出す。■アメリカン・リアリズムの背景 1823年モンロー主義がはじまって、欧米両大陸の相互不干渉の主張から端を発し、次にはアジアからも目を背け、目を国内へと向けることとなった。それがリージョニズム(地方主義)の起こりである。1920年代から30年代にかけて、アメリカでは一方で抽象に向かう動きは活発化し、都市化を背景に20年代に急速に抽象主義は進み、それと平行してアメリカの孤立主義が始まった。 そこに1929年のニューヨークウォール街を襲った株の暴落による世界大恐慌が起きた。アメリカが孤立主義に陥って以降ずっとこの事実が影を引いており、1930年代に盛んになった地方主義は、画家チャールス・シーラーなどに代表されるが、彼らは合衆国の工場などを細密に描き、それらを一般の人々に再確認させることになった。 小市民的な幸福の儚さを人間同士の関係で描かず、自然の野性的な崇高さを都市風景のそれに置き換えたアメリカン・リアリズムは、画面が大地や建物のなかにあってペーソスを奏でている。「自然について感応した最も内密な印象を、可能な限り忠実にとらえること」を身上ににしたワイエスのスタイルをその代表としてよいであろう。ワイエスの繊細な感性が日本人の心の琴線に触れることが多い理由である。 ワイエスの絵画は、ヨーロッパの人間中心主義(エゴイズム)が見られず、その絵画は自立的な芸術といってよかろう。それには「自分は絵を売るために描くことをしないで済んだ」と語っているように経済的に恵まれていたことと、それを支えた妻ベッツイがマネージャーとしての役割を果たしていたことも大きい。アメリカン・リアリズムがいいな~アンドリュー・ワイエス水彩・素描展画像
2017.04.23
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今回借りた6冊です。(受取り予定2冊をふくむ)だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「美術」でしょうか♪<大学図書館>・アンドリュー・ワイエス水彩・素描展・ジャポニスム<市立図書館>・ひとりでは生きられないのも芸のうち・日焼け読書の旅かばん・シュヴァンクマイエルの博物館・漂うままに島に着き図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【アンドリュー・ワイエス水彩・素描展】常葉美術館編、印象社、2006年刊<「BOOK」データベース>よりデータなし。<読む前の大使寸評>ワイエスの水彩・素描の習作を集めた、わりと地味な本であるが・・・ええでぇ♪ci.nii.アンドリュー・ワイエス水彩・素描展************************************************************【ジャポニスム】平凡社編、日本アイ・ビー・エム、1988年刊<ブログ「いつも旅の途中」>より1988年11月発行で、発行元は日本アイ・ビー・エム株式会社。なぜ日本アイ・ビー・エムが美術の本かということは、最初のページの「ごあいさつ」に書いてあります。同社は1979年以来、毎年、テレビ番組「IBM美術スペシャル」を提供していて、この年には、「ドガとロートレック~モンマルトルのジャポニスム~」を放送。その記念として、この本が出版されたとのことです。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、日本アイ・ビー・エム社の記念出版となっているが・・・内容が充実していればいいのです♪日本アイ・ビー・エム美術スペシャル記念出版「ジャポニスム」************************************************************【ひとりでは生きられないのも芸のうち】内田樹著、文藝春秋、2008年刊<「BOOK」データベース>より社会のあらゆる場面で“孤立化”が進むいま、私たちはどう生きるべきか?「自己決定・自己責任」の呪縛を解く。【目次】1 非婚・少子化時代に/2 働くということ/3 メディアの語り口/4 グローバル化時代のひずみ/5 共同体の作法/6 死と愛をめぐる考察<読む前の大使寸評>追って記入rakutenひとりでは生きられないのも芸のうち************************************************************【日焼け読書の旅かばん】 椎名誠著、 本の雑誌社、2001年刊<「MARC」データベース>より普通小説、私小説、SF、エッセイ、対談集、絵本、写真集、評論などを20年書いている著者が、1999年に実際に読んだ本や10+1年間で面白かった本などについて紹介する。『本の雑誌』連載を単行本化。<読む前の大使寸評>なんか一度読んだような本であるが、内容には記憶がないので借りたわけです。帰って調べてみたら5年前に借りていたのです。やっぱり。Amazon日焼け読書の旅かばん************************************************************【シュヴァンクマイエルの博物館】ヤン・シュヴァンクマイエル著、国書刊行会、2001年刊<「BOOK」データベース>より『ファウスト』『悦楽共犯者』『対話の可能性』など、コマ撮りを駆使した特異な映像で知られるチェコのシュルレアリストが自ら構成した、世界初の造形作品集。本邦初公開の図版をカラーで収録。【目次】フロッタージュ、ドローイング/セラミック/コラージュ/触覚主義/オブジェ/解説・資料<読む前の大使寸評>受取図書館が蔵書整理期間中なので、4/25以降に受取予定となります。<図書館予約:(4/14予約、4/25受取予定)>rakutenシュヴァンクマイエルの博物館************************************************************【漂うままに島に着き】内沢旬子著、朝日新聞出版、2016年刊<商品説明>より乳がん治療の果てに、離婚をし、一人暮らしを始めた著者。しかし、東京のせまいマンション暮らしが我慢できなくなり、地方移住を検討し始める。香川県の小豆島に移住を決め、引っ越しを終えてからの折々の心境の変化をつづった地方移住顛末記。<読む前の大使寸評>Ⅰターン先としての小豆島・・・いいんじゃないでしょうか。<図書館予約:(10/27予約、4/25受取予定)>rakuten漂うままに島に着き************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き211
2017.04.23
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図書館で『ジャポニスム』という大型本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、日本アイ・ビー・エム社の記念出版となっているが・・・企業メセナであろうが、内容が充実していればいいのです♪【ジャポニスム】平凡社編、日本アイ・ビー・エム、1988年刊<ブログ「いつも旅の途中」>より1988年11月発行で、発行元は日本アイ・ビー・エム株式会社。なぜ日本アイ・ビー・エムが美術の本かということは、最初のページの「ごあいさつ」に書いてあります。同社は1979年以来、毎年、テレビ番組「IBM美術スペシャル」を提供していて、この年には、「ドガとロートレック~モンマルトルのジャポニスム~」を放送。その記念として、この本が出版されたとのことです。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、日本アイ・ビー・エム社の記念出版となっているが・・・企業メセナであろうが、内容が充実していればいいのです♪日本アイ・ビー・エム美術スペシャル記念出版「ジャポニスム」多くの著名人が「ジャポニスム」を語っているが、そのなかで横尾さんのコメントを見てみましょう。p56 <浮世絵の抽象性とゴーギャン:横尾忠則> ぼくは時々ゴーギャンのような絵を描いてみちという衝動に突き動かされることがある。つまりありとあらゆる様式が統合された作品ということである。 ゴーギャンはゴッホ、セザンヌ、ドガ、ムンク、ベルナール、ラファエル、アングル、そしてエジプト、ジャワ、ギリシャ、中国、日本といった文化からの影響を隠そうとしない。実にしたたかである。説教のあとの幻影・ヤコブと天子の格闘 ゴーギャンの作品にある種の魔力があるとすればあの有名な綜合主義の登場となった「説教のあとの幻影・ヤコブと天子の格闘」の現実空間と超自然空間の併置から発生されるものだけではなく、古今東西の複合的イメージの働きに負うところも大きいと思う。 ところでゴーギャンの作品を最も特徴づけているのは画面の平面性である。西洋の伝統絵画には見られないこの平面性は完全に日本の浮世絵を意識したものであることもすぐわかる。平面性の性質上画面はどうしても装飾性を帯びざるを得ない。 ところが日本の近代絵画は先ずこの平面性を否定するところから出発した。日本の近代絵画にとって平面性の否定は発見でもなんでもないが、ヨーロッパ絵画にとっては平面性は伝統の否定であると同時に革命的な発見だったわけである。 ゴーギャンは浮世絵の平面性だけでなく、モチーフ、構図、フォルム、色彩とありとあらゆる要素を実に巧みに引用、借用している。勿論日本の儀式だけではない、まるで子供の純粋な要求そのままが多国籍、多重人格的に一大植民地文化を形成しているようだ。結局、天才的才能というものは子供のように欲しいものを全て手に入れることに異常なほど執着する精神をいうのかもしれない。 ぼくはここでふと重要なことを思いついた。ゴーギャンは浮世絵を他の印象派の画家達が受入れた視点とはかなり違った見方をしていたのではないかと思うのである。それは例えばゴッホやマネは自分の絵の中に浮世絵を風景として描き込んでいるが、ゴーギャンはそんな直接的なことには全く興味がなかったのだ。 つまりゴーギャンは浮世絵を抽象絵画として見ていたのである。彼は絵画のために自然をあまり模倣してはいけない、というのは芸術は抽象であるからだと常にいい続けていた。また絵具を厚く塗りたくったりすることを嫌い、色と形を分割しながら線はまるでステンドグラスのように描くべきだ、とこのようにもいっていることからどうも浮世絵をまるで抽象絵画のように考えていたとしか思えないのだ。 「ゴーギャンの戯画的肖像」という作品など見ているとマチスの一連の色面絵画を彷彿させる。ゴーギャンの謎めいた捕らえがたい魔力こそ彼の絵画における抽象性のなせる技という一言を最後につけ加えておく必要がでてきた。『ジャポニスム』1 『ジャポニスム』2ジャポニスムに関して『ジャポニスム』あれこれとして、集めてみました。
2017.04.22
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図書館で『ジャポニスム』という大型本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、日本アイ・ビー・エム社の記念出版となっているが・・・企業メセナであろうが、内容が充実していればいいのです♪【ジャポニスム】平凡社編、日本アイ・ビー・エム、1988年刊<ブログ「いつも旅の途中」>より1988年11月発行で、発行元は日本アイ・ビー・エム株式会社。なぜ日本アイ・ビー・エムが美術の本かということは、最初のページの「ごあいさつ」に書いてあります。同社は1979年以来、毎年、テレビ番組「IBM美術スペシャル」を提供していて、この年には、「ドガとロートレック~モンマルトルのジャポニスム~」を放送。その記念として、この本が出版されたとのことです。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、日本アイ・ビー・エム社の記念出版となっているが・・・企業メセナであろうが、内容が充実していればいいのです♪日本アイ・ビー・エム美術スペシャル記念出版「ジャポニスム」浮世絵の影響をドガとロートレックに、見てみましょう。p120~122 <ドガとロートレック:粟津則雄>アプサント 1877年の『アプサント』は、場末のカフェの一情景を描いた有名な作品だが、男女二人の客を画面の右上隅に寄せ、その前にテーブルをくの字形に並べた構図にも、明らかに浮世絵の構図法の影響を見てとることが出来る。このようにくの字ないしは対角線的構図は、たとえば広重の風景画などにおいていくらも見られるものだが、ドガはそれを風景ではなくさまざまな室内情景のなかで見事に生かしている。(中略) ドガの80年代以降の重要な主題は裸婦である。彼は、あるいは身体を洗い、あるいは浴槽をまたぎ、あるいは髪をすくさまざまな裸婦の一瞬の姿を残酷に描き出している。彼は或るとき、アトリエを訪れた客にその裸婦図を見せながら「裸婦は、これまでいつも、あとでそれを見る人があることを予想したポーズで描かれていたんですが、私が描いたこれらの女たちは、自分の肉体的状態に含まれた事柄以外には、何の関心もない、正直で単純な人間なのです。ほら、これもそうです。彼女は足を洗っているのですが、まるで鍵穴からのぞいたようでしょう」と語ったということだ。(中略) 一方、トウールーズ=ロートレックは、1864年の生まれだから、ドガよりちょうど30歳年下ということになるのだが、彼にとってもっとも重要な先輩画家はドガであり、ドガと同様、浮世絵に強い興味を示していた。それどころか、彼は、ドガとともに、浮世絵をもっとも本質的なかたちで受入れた画家にほかならぬ。 彼は、ポルティエ画廊やおさな友達ジョワイヤンがつとめていたグーピル商会などで、早くから浮世絵に接していたが、1889年のパリ万国博に数多くの浮世絵が出品され、翌90年には美術学校で大浮世絵展が開かれたというようなこともあって、浮世絵の魅力に強くとらえられるに到ったようだ。 彼は、気に入った浮世絵を買いこみ、時には1枚ものの版画と自分の油絵を交換したということだ。彼のアトリエは、浮世絵ばかりでなく、箱につめた日本の小さな骨董品にあふれていたということだ。『ジャポニスム』1
2017.04.22
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図書館で『ジャポニスム』という大型本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、日本アイ・ビー・エム社の記念出版となっているが・・・企業メセナであろうが、内容が充実していればいいのです♪【ジャポニスム】平凡社編、日本アイ・ビー・エム、1988年刊<ブログ「いつも旅の途中」>より1988年11月発行で、発行元は日本アイ・ビー・エム株式会社。なぜ日本アイ・ビー・エムが美術の本かということは、最初のページの「ごあいさつ」に書いてあります。同社は1979年以来、毎年、テレビ番組「IBM美術スペシャル」を提供していて、この年には、「ドガとロートレック~モンマルトルのジャポニスム~」を放送。その記念として、この本が出版されたとのことです。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、日本アイ・ビー・エム社の記念出版となっているが・・・企業メセナであろうが、内容が充実していればいいのです♪日本アイ・ビー・エム美術スペシャル記念出版「ジャポニスム」イントロダクションあたりを、見てみましょう。p6~8 <ジャポニスムの意味:高階秀爾> 「ジャポニスム」という言葉は、まだ一般にそれほど馴染み深いものとは言えないかもしれない。本家のフランスにおいてさえ、そうである。今回の「ジャポニスム」展を準備していた頃、私の出会ったあるフランス人は、それを、浮世絵、根付、印籠など、もっぺら西欧人の好んだ日本の美術品が展示される展覧会だと考えていた。 たしかに、ペルシャの絨毯やアラビアの水煙管など、東方世界(オリエント)の珍しい品物に興味を惹かれて異国的香りの高い東方渡来の珍品を集める趣味を「オリエンタリスム」と呼ぶなら「ジャポニスム」は日本の美術工芸に対する「日本趣味」という意味で用いられても、不思議ではない。 だが現在使われている「ジャポニスム」は、そのような日本趣味をも当然含みながら、もう少し幅広い、そして深い内容を持っている。というのは、「オリエンタリスム」の場合と違って、「ジャポニスム」は単なる異国趣味の段階にとどまらず、さらに進んで、西欧芸術の歴史の上での新しい造形表現、ないしは近代美術の革新と密接にかかわっているからである。 したがって「ジャポニスム」と言えば、好事家の異国趣味から前衛的創造活動への刺戟にいたるまで、広い範囲にわたって西欧に対する日本の影響全体を指すのが、今ではほぼ定着した意味である。 このような日本の影響が明確なかたちで表れて来るのは、およそ19世紀の中頃からのことである。それ以前に日本の美術が西洋に知られていなかったわけではない。1543年、種子島にポルトガル人が漂着して以来、日本と西欧とのあいだには、さまざまの交流、交渉、影響があった。 桃山時代から江戸時代の初めにかけて、いわゆる南蛮文化の盛期には、蒔絵や螺鈿で飾られた聖〇や聖餅箱など、キリスト教のための祭具がかなりの数日本で作られて、ヨーロッパに運ばれて行った。鎖国時代においてさえ、日本の蘭学者たちがわずかな輸入品を手がかりに西欧の新知識を吸収したように、長崎を通じてのオランダ貿易によって、漆器、焼物、金工品などの日本の工芸品が、ある程度まで西欧に流れ込んで行った筈である。 18世紀の末に三度にわたって長崎出島のオランダ商館長を勤めたイサーク・ティチングは、日本の置物、根付、陶器など、7百点以上にのぼるコレクションを持ち帰っている。その他にも、絵草紙や版画なども集められていたから、そのような個人のコレクションによっても、日本の美術が知られる機会はあった。 幕末に長崎に住んでいたオランダ人シーボルトが、美術品だけにかぎらず、日用の道具、什器類も含めて、大量の収集品を集めていたことはよく知られているだろう。そのシーボルトをはじめ、シーボルトより百年以上も前にオランダ船の船医として日本にやって来たドイツ人、エンゲルベルト・ケンペルやその他の西欧人の紀行文や日本紹介の本も、この極東の国をヨーロッパの人びとに知らせるのに大いに役立っていた。 しかしながら、この時期の日本への趣味は、やはり基本的には、まだかぎられた範囲の異国趣味にとどまっていたと言うべきであろう。部分的には、例えば陶磁器の分野において、日本の有田焼の彩色がドレスデン磁器の振興をもたらしたといったような事例がないわけではないが、日本の美術が西欧絵画の流れを変えると言ったような決定的な影響は、まったく見られなかった。(中略) しかし、「ジャポニスム」の場合は違う。日本の美術は、エキゾティックな世界に対する興味を燃え上がらせると同時に、絵画や工芸やさらには建築、デザイン、写真の分野においても、ある決定的な変化を西欧の芸術にもたらしたのである。 そのことは、1860年代頃から、西欧の美術のなかに急速に日本が浸透して行ったという事実によって示される。それはまず、初めのうちは、「オリエンタリスム」の場合と同じような異国的なものに対する興味となって表れた。 マネは、1868年に描いた友人の小説家「エミール・ゾラの肖像」の背景に、日本の花鳥風月屏風を置いたり、壁に相撲の力士を描いた浮世絵を書き込んだりしている。 浮世絵の熱心な愛好者であったゴッホは、広重の「名所江戸百景」のなかの「亀戸梅屋舗」や「大はしあたけの夕立」などの図をわざわざ油絵で模写しているし、ゴーギャンは、背景に浮世絵の武者絵のある静物画を残している。(中略)エミール・ゾラの肖像 しかし、このように日本的モティーフや日本特有の表現形式を取り入れるといういわば外面的な影響は、ただちに、絵画様式そのものを大きく変える革新的な表現へとつながって行った。印象派の仲間の一人であったドガは、着物とか団扇といったような日本的モティーフはほとんど何ひとつ描いていないが、例えば自分の友人を描いた肖像画で思い切って高い視点から見下したような大胆な構図を試みたり、パリの街角を描くのに、わざと左右のバランスを崩した画面構成を用いたりしている。
2017.04.22
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図書館に予約していた『南米「棄民」政策の実像』という本を、待つこと6日でゲットしたのです。垣根涼介の『ワイルド・ソウル』という小説を読んだ後、南米移民がトゲのように気になっていたので、この本を図書館に予約したのです。【南米「棄民」政策の実像】遠藤十亜希著、岩波書店、2016年刊<「BOOK」データベース>より19世紀末から20世紀半ばにかけて、新天地を求め未知の地である中南米に移住した約三一万人の日本人。その多くは、日本政府が奨励・支援した「国策移民」だった。これまで、人口増加や貧困への対策とされてきた日本の移民政策が、「不要な人々」を国内から排除したうえで、移住先の現地において再び「国民」として統合し、利用するためのものであったことを明らかにする。<読む前の大使寸評>垣根涼介の『ワイルド・ソウル』という小説を読んだ後、南米移民がトゲのように気になっていたので、この本を図書館に予約したのです。<図書館予約:(4/07予約、4/13受取)>rakuten南米「棄民」政策の実像日系農家が関わったブラジル産大豆の輸出入拡大状況を見てみましょう。p187~189 <移植民と資源戦略> 移民と資源戦略を組み合わせた日本の政策は戦後も踏襲された。ブラジル中・西部における大豆産業開発がその代表例である。 ブラジルでは元来、大豆は家畜飼料として消費されるだけの「低い身分」の農産物だった。それが、農産物輸出全体における大豆のシェアは21.7%(2005年)を占めていることからも分かるように、げんざいでは国の最大輸出農作物となっている。かつてはブラジルの最大輸出産品だったコーヒー豆の王座を奪った大豆は、まさに「豆の大様」なのである。 国際大豆市場においても、ブラジルはアメリカに次ぐ世界第二の輸出大国で、市場シェアは26.75を占める。大豆生産の国内最大の拠点は、中西部(地元ではセラードとして知られる)のサバンナ地帯、マト・グロッソ州の州都クアイバー市である。 一方、大豆消費大国である日本では、和食には欠かせない大豆が遠く離れたブラジルから来ていることはあまり知られていない。日本にとって、ブラジルはアメリカに次ぐ大豆供給国なのである。さらに知られていないのは、ブラジル産大豆がクアイバー市の日本人「同胞」たちによって始められた歴史である。 ブラジルの土に日系人の手で最初に大豆の苗が植えられたのは1920年代のことだ。以来、日系人農家は、自家消費や地域の市場に出荷するため、片手間的に大豆の栽培をしていた。 そこに一大転機が訪れる。1973年、アメリカのニクソン政権が大豆の海外輸出禁止令を発動した時のことである。日本へのアメリカ産大豆の輸出が突如として2ヶ月間も停止され、日本は一時パニックに陥ったのだったが、日本政府はすぐさま、大豆版「ニクソン・ショック」からの救済の道を見出した。ブラジル産大豆である。田中角栄首相は、74年9月に訪伯し、大豆などの農産物の二国間貿易についてエルネスト・ゲイゼル大統領と話し合った。首相は、「広大な国土と豊かな資源のブラジルとの提携を深め、資源の長期的・安定的供給を確保」すべく、資源豊富なブラジルとの経済関係を強化したいとの意向を伝えた。田中首相の資源外交が奏功し、1973年以降、日本のブラジル産大豆輸入は、量、イェアともに拡大し始めたのだ。72年0.04%程度だったブラジル産大豆のシェアが、73年には5.9%に急拡大、以降着実にシェアを伸ばしていった。 ブラジルの大豆生産・輸出の底力を確信した日本は、以後、ODAの形でブラジルの大豆産業を資金・技術援助していく方針を打ち出した。国際協力事業団(JICA)とブラジル政府が協力して、同国の中西部七州に大豆を始めとする一大農業センターを作る計画(セラード計画)が79年に開始された。セラード計画には、前述のコチア産業組合が加わり、大豆の生産、貯蔵、現地市場調査や、農業訓練所の設立などを指導した。(中略) さらに最近では、世界の資源価格が異常高騰し、農業輸出品の買付けをめぐって、中国など新興国と熾烈な競争が繰り広げられているが、こうした中、ブラジルやアルゼンチン、パラグアアイの日系農家は安定した、信頼できる供給元として、日本の商社や農協の間で注目されている。大豆など既存の農作物以外にも、買付けが難しくなっている家畜飼料用とうもろこしの生産を日系農家に依頼するケースも増えた。食糧・資源の需給構造がグローバルな規模で地殻変動を起こしている今、日本と南米の日系農家の連帯も新たな発展の時期に差し掛かっているようである。ウーム この本ではアマゾンの熱帯雨林減少にセラード計画が悪影響していうことに触れていないのがちょっと気になるのです。でも、日本が主導したブラジル産大豆貿易は、穀物メジャーを擁するアメリカの牙城にいささかなりとも打撃を与えたわけで・・・反米の大使としては高く評価するのです♪『南米「棄民」政策の実像』1『南米「棄民」政策の実像』2
2017.04.21
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図書館に予約していた『南米「棄民」政策の実像』という本を、待つこと6日でゲットしたのです。垣根涼介の『ワイルド・ソウル』という小説を読んだ後、南米移民がトゲのように気になっていたので、この本を図書館に予約したのです。【南米「棄民」政策の実像】遠藤十亜希著、岩波書店、2016年刊<「BOOK」データベース>より19世紀末から20世紀半ばにかけて、新天地を求め未知の地である中南米に移住した約三一万人の日本人。その多くは、日本政府が奨励・支援した「国策移民」だった。これまで、人口増加や貧困への対策とされてきた日本の移民政策が、「不要な人々」を国内から排除したうえで、移住先の現地において再び「国民」として統合し、利用するためのものであったことを明らかにする。<読む前の大使寸評>垣根涼介の『ワイルド・ソウル』という小説を読んだ後、南米移民がトゲのように気になっていたので、この本を図書館に予約したのです。<図書館予約:(4/07予約、4/13受取)>rakuten南米「棄民」政策の実像各地で見られる南米「デカセギ」労働者を見てみましょう。リーマンショック後は減りつつあったが、最近になって下げ止まりに転じているとのこと。p209~212 <終章> 1970年代初頭まで移民「送出国」だった日本が移民「受入国」に転身したのは1980年代後半のことである。ときはバブル経済絶頂期。社会が未曾有の投資・消費ブームに沸くなか、建設・製造・サービス部門などでは、いわゆる「3K(きつい、汚い、危険)」の労働を担う人口が不足していた。そこにペルー人やブラジル人が出稼ぎ労働を目的にやって来たのである。 これらの南米「デカセギ」労働者のほとんどは日本人を先祖に持つ日系人二、三世で、特別に「在留資格」を有する「定住外国人」として入国し、自動車産業や機械産業の製造部品組立て工場に契約社員として雇用された。その後、日本国内の日系人労働者とその家族は急増し、最盛期の2007年には、日系ブラジル人だけで30万人に達した。これは、戦前・戦後の南米移民合計数にほぼ匹敵する。大泉市(群馬県)や大和市(神奈川県)、浜松市(静岡県)、名古屋市港区など、それまで外国人居住者があまりいなかった中規模都市が、多様な言語・文化をもった「ニューカマー」たちを迎え、国際都市に変貌した。 当時、強い円や豊かな経済に魅せられて、日本での就労を希望していた外国人は世界中にいただろうに、日本の移民政策はなぜ南米の日系人をあえて「外国人労働者」として最恵待遇したのか。日本語を解し教育レベルも高いゲストワーカーということであれば、バングラデシュ人や中国人などもいた。また、「国際協力・開発援助」という援助目的ならば、南米以外の開発途上国でもよかったはずである。それでも日本政府があえて南米日系人を選んだのは、彼らの祖先が日本人だという血統上あるいは文化的理由からだろう。 日本社会は1980年代以後、急速に「国際化」していった。ヒトや企業が観光・留学・直接投資の形で海外進出する、外に向けての「国際化」を日本は大いに歓迎した。それに対し、国内の過度の国際化(非欧米人人口や不法就労外国人の急増)には警戒心を強めた。 外国人がらみの犯罪事件はとりわけ大々的に報道され、移民排斥主義者たちは、日本が世界でも屈指の安全社会であるのは、単一民族性・単一文化性を保っているからだとして、これ以上の「内なる国際化」は社会の安定と調和を脅かすとまことしやかに唱えた。 「移民性悪説」のような極論ではないにせよ、不特定多数の国から外国人が大量に入ってくることで、風紀・治安が乱れることは政府の懸念でもあった。労働力を外国に求めざるをえない経済の現実と、社会が多民族化され調和が乱れることへの恐怖。このジレンマの解消策として、国籍こそ違え、日本人を直接の祖先とする、生物学的「」が高い南米日系人に白羽の矢が立ったのは想像に難くない。 たとえ日本語を解さず日本の歴史の知識が乏しくても、日本通のバングラデシュ人や中国人より好まれたのは、血縁的近縁性のゆえだったろう。言語や文化といった後天的特性は、すくなくとも日系人労働者導入が決定した時点では問題視されなかったようだ。 しかし、日系人ニューカマーの人口が増え、家族やコミュニティが形成されるに従い、言語、生活習慣、社会マナー、価値観などの違いから、仕事場や生活の場で日本人との間に誤解や軋轢を生んだ。見た目は同じなのに行動規範やふるまいがどこか「日本人らしくない」日系人に雇用主や地元の人々は当惑し、幻滅した。 日本人のこうした一方的な期待や幻滅は日系人の心を傷つけもした。ある日系ブラジル人青年は、「日本人と認めてもらうには、日本人らしい顔をしているとか、ハシでものが食べられるといったことだけでは不十分で、日本人のように考え、ふるまい、話さなければいけない」のだと、日本社会に溶け込むことの難しさを吐露している。 日系人の在留期間が長期化するに従い、社会保障・教育・医療・福祉面でのニーズも出てきた。これは、彼らが単なる「労働力」でなく、「人間」として日本で生活していくのに必要最低限のサービスであり、人道的見地からも生存権の保障として国籍を問わず行使されるべき権利である。 しかし、政府は定住外国人の生活に関わる行政を自治体や民間団体に任せる放任主義に甘んじてきた。政府が日系人という「定住外国人」に対し、長期的見地に立った法律・行政制度の整備を渋るのは、日系人が日本に帰化しない以上、いずれは帰国すると想定しているためと思われる。一方、財政赤字に苦しむ自治体では、手の行き届いたケアがますます困難になっている。ネット情報によれば・・・村田製作所のように世界的に強い企業の城下町では、ブラジル人が急増中とのことです。2017-04-20何のご縁?出雲でブラジル人急増中 全国的に減少なのにより 出雲大社で知られる島根県出雲市で、ブラジル人住民が急増している。この3年で倍増し、2千人に達した。全国的にはリーマン・ショックから減り、ようやく下げ止まったところ。人口17万人の山陰の街で何が起きているのか。 ポルトガル語が響き、煮込んだ豆をご飯にかけたブラジル料理が皿に盛られていく。出雲市東部の工業団地の一角にある出雲村田製作所の食堂はにぎやかだ。電子部品を作る村田製作所(京都府)の子会社で、敷地は甲子園球場6個分。市内に住むブラジル人の大半が、ここで働く従業員と家族だ。 山内エミリオ・マサハルさん(58)もその一人。両親は熊本出身の日系2世。ブラジルで農業を営んでいたが、稼げる仕事を求めて8年前に来日した。妻子と4人暮らし。「体はまだまだ大丈夫。子どもの教育を考えると、このまま出雲で暮らそうと思う」 ブラジル人従業員約1500人は、請負契約を結ぶ派遣会社2社の社員。うち1社、愛知県でブラジル人雇用を続けるアバンセコーポレーションが約20年前、村田製作所に営業をかけ、出雲で雇用が始まった。給料は日本人と同水準。出雲村田の人事担当者は「辞めてしまう割合が少なく、出勤日数も多い。近年の労働者不足の中で欠かせない存在だ」と言う。 村田製作所は、携帯電話などに使われるセラミックコンデンサーのシェア世界一。その生産を担う出雲村田は世界的な需要を受け、昨年から新生産棟を稼働。工場用地も買い、急拡大したブラジル人の雇用をさらに増やす方針だ。 アバンセ社は通訳ができる社員約20人を出雲に置き、住宅あっせんや、送迎、病院の付き添い、ごみの分別指導までする。それでも、地域住民からごみ出しや騒音の苦情がくることも。林隆春社長(66)は「地域との摩擦をどう防ぐか、常に悩んでます」。 市のブラジル人の人口は景気の波に翻弄されてきた。2000年のITバブル崩壊、08年のリーマン・ショックの際は半減。林社長によると、「アパートの空き部屋が増えて困る」といった不満の声も地元からあがったという。 国内全体では07年の31万人から16年には18万人まで減った。 地元はどう対応しているのか。市立小、中学校で日本語指導が必要な子は昨年末111人(ブラジル78人)で、27人だった13年の4倍。市教委は昨年度、各校派遣の日本語指導員を6人から12人に増やした。外国出身児童が65人(ブラジル49人)いる市中心部の塩冶小(児童829人)には日本語担当の教員が10人いるが、個別指導のためには先生も教室も足りない。 来日3年の6年生の女児(11)は当初、言葉がわからず誰にも話しかけられなかった。すると、同級生が日本語とポルトガル語を窓に貼って話そうとしてくれた。「今は日本人の友達の方が多いよ」 市は昨年、全国でも珍しい外国人定住の数値目標を策定。15年3月に市内に住む外国人住民の3割が5年以上住み続けることを目指す。住宅を安くあっせんする計画も検討。地元のNPOは子らの放課後教室を続ける。代表の住職、堀西雅亮さん(46)は「街がコンパクトで行政、企業、市民がうまく連携できている」と話す。 市役所近くの「MK BAR(バー)」は、ブラジル人の憩いの場だ。店主の北沢幸子さん(23)は、夫が出雲村田で働く日系3世。店ではブラジル料理を出す。「いろんな場所から出雲に来た人のご縁がつながれば」。「縁結び」で知られる出雲大社になぞらえ、そう願う。(玉置太郎)『南米「棄民」政策の実像』1
2017.04.21
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図書館で『『Shall weダンス?』アメリカを行く』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、日米の映画産業事情とか、アメリカ人の人間模様が出ていて面白そうである。【『Shall weダンス?』アメリカを行く】周防正行著、太田出版、1998年刊<「BOOK」データベース>より日本映画界の野茂英雄になる-の決意も固く、映画先進国アメリカに乗り込んだ周防監督。ハリウッド流儀を蹴散らし、契約至上主義ビジネスの罠をかいくぐり、米国アカデミー賞に異議を申し立て、前代見聞、満身創痍の悪戦苦闘の末に勝ち取ったのは、「中年の危機」に悩めるアメリカ人の大喝采と、日本映画初の全米大ヒット。強いアメリカに押されっぱなしの日本人のうっぷんを晴らす、痛快ノンフィクション。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、日米の映画産業事情とか、アメリカ人の人間模様が出ていて面白そうである。amazon『Shall weダンス?』アメリカを行く封切り興行成績が出たので、見てみましょう。p351~354 <封切り興行成績、『ニュー・シネマ・パラダイス』を抜く> 7月13日(日)。昼にカンザスシティへ向けて出発。僕たちを迎えてくれたのは領事館の篠本薫子さん。とにかく彼女にはお世話になった。カンザスシティはデトロイトに比べれば本当に小さな街だった。だからこそ逆に彼女一人でやらなければならないことが多く、相当苦労したようだ。(中略) 7月14日(月)。ミラマックスから11日(金)の封切り週末3日間の興行成績が送られてきた。それによると、ニューヨーク2館、ロス3館のトータルで8万8106ドル。1館あたりの平均1万7621ドルという数字は『イル・ポスティーノ』よりも『コーリア』よりも『ニュー・シネマ・パラダイス』よりも『赤い薔薇ソースの伝説』よりも高いそうで。わざわざ「素晴らしい成績」と書き添えられていた。 そして僕の目を引いたのは興行成績ばかりではなく、各映画館で取れれたアンケート結果だった。どの映画館も「エクセレント」が80パーセントに迫っており、「ベリー・グッド」を合わせれば90パーセントを越える評判のよさなのだ。そして驚いたのは、観客の年齢層の高さだった。50歳以上がどの映画館でも一番多かった。すぐに思い当たる節があった。 質疑応答でもそうだったし、批評記事でも必ずそうだった。つまりこの映画には「セックスも暴力もない」ということが必ずいわれるのである。だから誰でもが安心して観ることができる。最近では珍しい映画なのだ、という評判が立っていた。 電話をかけてきたシンシアは、年齢層が高いと、若い人ほど口コミがきかないのでそこが心配であるといった。そのためにこれからのパブリシティはもう少し若者にターゲットを絞った方がいいだろうと結論づけ、だからというわけではなかろうが、伊良部を知っているかと聞いてきた。伊良部は先週、見事なデビューを飾り、ニューヨークっ子を狂喜乱舞させていた。野茂の次は伊良部か。 シンシアは説明した。 「実をいうと野茂は、あまり感情を表に出さないから、アメリカ人にとってはちょっと不気味なの。つまり東洋的な神秘さが彼にはある。だけど伊良部はアメリカ人にも理解できる。感情表現があるから、絶対彼の方が人気は出るわ」 残念ながら、伊良部の存在は知っていても、個人的にはまったく知らない。そこで伊良部と会って何かやるんだったら、僕を当てにしないでくれといった。まあ、結果的にはその後の伊良部の叩かれようを見れば正解だったわけだが、個人的には伊良部にはアメリカのマスコミだけでなく日本のマスコミをも驚愕させるほどの活躍を来期は期待したい。がんばれ、伊良部! 絶対勝てる。 しかし、ミラマックスのマーケティングというのは、この最初の結果を見ての対応だけで判断しても、日本よりはるかにしつこかった。日本では映画館での初日のアンケート結果や観客動員でその後の宣伝方法を変えて、しつこく宣伝していくなどということはまずしない。つまり宣伝は封切るまでで、後は野となれ山となれという体制が普通なのだ。 さて、ケネディ、薫子さんと、とにもかくにも映画の好調なスタートを祝いながら、今日最初のお仕事はカンザスシティ・フィルムオフィス訪問。ここでまたまた、ぜひカンザスで映画を撮ってくれと、お土産グッズをたくさんもらった。車から見るカンザスのダウンタウンは日本人にはちょうどいい街という広さで、歩いてどこにでも行けるような感じだ。ところがビルも何も新しくて綺麗なのに誰も歩いていない。これだけ小さくてもやっぱり車社会だということか。 ウン 興行成績が『ニュー・シネマ・パラダイス』より良かったということで、大使にもそのすごさが分かるのです♪この本をここまで読んできたが、ことの発端は爆弾ヤンキー娘ことエイミーが『Shall weダンス?』を発見し、ぜひ彼女の会社ミラマックスで海外配給しようとしたガッツでしたね♪。インディー系のミラマックスはハリウッド映画とは一線を隔しているとはいえ、その凄まじいマーケティングには日米文化摩擦を見るようでした。『Shall weダンス?』アメリカを行く1『Shall weダンス?』アメリカを行く2『Shall weダンス?』アメリカを行く3『Shall weダンス?』アメリカを行く4『Shall weダンス?』アメリカを行く5『Shall weダンス?』アメリカを行く6『Shall weダンス?』アメリカを行く7『Shall weダンス?』アメリカを行く8是枝監督が次のように語っています。「ハリウッドの劇場公開作品は、世界中をマーケットにしなくてはいけなくなって、どの国の人が観ても子どもが観ても、英語が理解できない人が観ても理解できる映画を志向せざるをえなくなっています。そこから逆算して企画が立てられるから、作家性の強い監督ほど離脱していく。日本でも最近、「やりたいことはWOWWOWの連ドラで」という監督が増えていて、テレビに出戻っている。現象としては面白いですね」・・・日本はハリウッド作品とは別の国産映画を志向すべきなんでしょうね。インドや日本は国産映画がペイできる特殊な国なんだし。
2017.04.20
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図書館で『『Shall weダンス?』アメリカを行く』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、日米の映画産業事情とか、アメリカ人の人間模様が出ていて面白そうである。【『Shall weダンス?』アメリカを行く】周防正行著、太田出版、1998年刊<「BOOK」データベース>より日本映画界の野茂英雄になる-の決意も固く、映画先進国アメリカに乗り込んだ周防監督。ハリウッド流儀を蹴散らし、契約至上主義ビジネスの罠をかいくぐり、米国アカデミー賞に異議を申し立て、前代見聞、満身創痍の悪戦苦闘の末に勝ち取ったのは、「中年の危機」に悩めるアメリカ人の大喝采と、日本映画初の全米大ヒット。強いアメリカに押されっぱなしの日本人のうっぷんを晴らす、痛快ノンフィクション。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、日米の映画産業事情とか、アメリカ人の人間模様が出ていて面白そうである。amazon『Shall weダンス?』アメリカを行く地獄のスケジュールは、ダラスからヒューストンに移ります。p131~133 <テキサスはアメリカからの独立を考えています> 午後7時半から試写会。すり鉢状になった美術館の映写室は広くて観やすいく立派で観客も多かったが、上映中はさすがに旅の疲れがでたのか、僕と草刈と二見は初めて熟睡してしまった。 上映終了後はスタンディング・オベイション。美術館の試写室という場所柄なのか、告知をした観客層の違いなのか、ダラスと異なり熱心な映画ファンが多く、製作費など日本における映画作りの状況、今回のキャスティング、バレエと社交ダンスの踊った時の違いを含めて草刈のバレエのキャリアに対する質問、日本における社交ダンスの状況、夫婦の関係など、真剣な質問も多かった。 大体どこでも地元の映画ファン、ダンス関係者、日本人会などが観客の中心になっているようなのだが、土地によって微妙な違いがあった。最後に日本人の観客から、日本アカデミー賞の全部門で受賞したことの感想を求められた。感想の前に、全部門ではなく14部門のうちの13部門で受賞し、逃した1部門は外国語映画賞であると伝えると大きな拍手と笑い声が沸き起こった。 「全ての賞をいただいて、実は困ったと思いました。なぜならここ数年、確かに日本映画は面白くなっていて、色々なタイプの映画があり、そのそれぞれにいいところがあるので、独占してしまうのはなんだか申し訳ないと思ったからです。とにかくこの映画が日本映画の全てではありません」 ヘアメイクのメリッサが、奥さんと庭で踊った時は涙が出てきたといった。 「でもどうして、最後のパーティに奥さんはこなかったの。きて欲しかった・・・」 「日本人の女性は、そこまで出しゃばらないんだ」 分かってくれただろうか。 翌日、4月11日(金)、朝8時からラジオの生番組に出演。これは中国語放送で、パーソナリティが中国語で喋ってから英語で渡邊さんに話し、僕と草刈が日本語で答え、再び渡邊さんが英語に訳すと彼女は中国語で聴取者に話す。なんともまどろっこしいが、さすが人種の坩堝アメリカである。 その後、アメリカではよくあることだが、テレビと新聞のインタビューが1件ずつ中止となり、草刈はこれにて終了で、ホテルに戻ってパッキング、帰国となった。僕の方はホテルで彼女を見送った後、地元の小さなコミュニティのインタビューを三つ受け、昼までに今日の仕事を完了。 アメリカ人は土曜、日曜は働かないので、ヒューストンで週末を迎えた僕は必然的に休日を楽しむことになったが、結局草刈はアメリカにきてから1日の休みもなく日本へ帰ってしまった。 彼女が帰った金曜の夜、僕は二見と二人でアイスホッケーのゲームを楽しんだ。なにしろミラマックスは僕のスポーツ好きを知り、行く先々でスポーツ見せときゃ忙しくたって文句はいわないだろうとスケジュールに組み込んでいたのだ。(中略) 「ヒューストン・アエローズ」と「サン・アントニオ・ドラゴンズ」の一戦。弱いチーム同士の試合らしいのだが、僕はゲームそのものよりハーフタイムショーに苦笑させられた。なんと相撲レスラーの着ぐるみを着てちょんまげのカツラを被ったスケーターが二人現れて、無様に転びながらアイスホッケーをするというパフォーマンスを繰り広げたのだ。観客はやんやの喝采だが、僕としては何とも複雑な思いに捕らわれる。 つまり、日本人ていうのはこの程度の扱われ方をしているのである。まあ、今さら嘆いてもしかたないか。白人がアジア人を差別していることくらい十分承知しているのだから。『SHALL WE DANCE?』が成功したら『シコふんじゃった』も公開するらしいのだが、アメリカ人はどんな反応を示すのだろうか。外国で相撲が取り上げられるのはほとんどの場合、日本を揶揄中傷する場合であることは分かっているのだが。『Shall weダンス?』アメリカを行く1『Shall weダンス?』アメリカを行く2『Shall weダンス?』アメリカを行く3『Shall weダンス?』アメリカを行く4『Shall weダンス?』アメリカを行く5
2017.04.20
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図書館で『『Shall weダンス?』アメリカを行く』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、日米の映画産業事情とか、アメリカ人の人間模様が出ていて面白そうである。【『Shall weダンス?』アメリカを行く】周防正行著、太田出版、1998年刊<「BOOK」データベース>より日本映画界の野茂英雄になる-の決意も固く、映画先進国アメリカに乗り込んだ周防監督。ハリウッド流儀を蹴散らし、契約至上主義ビジネスの罠をかいくぐり、米国アカデミー賞に異議を申し立て、前代見聞、満身創痍の悪戦苦闘の末に勝ち取ったのは、「中年の危機」に悩めるアメリカ人の大喝采と、日本映画初の全米大ヒット。強いアメリカに押されっぱなしの日本人のうっぷんを晴らす、痛快ノンフィクション。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、日米の映画産業事情とか、アメリカ人の人間模様が出ていて面白そうである。amazon『Shall weダンス?』アメリカを行くアメリカの映画作り、マーケティングを、見てみましょう。p15~17 <アンケートが映画を変える!?> 1996年7月9日、僕は『Shall weダンス?』の初めてのミラマックスでのスクリーニング(試写)に立ち会うため、ニューヨークに向かった。同行したのはアルタミラピクチャーズのプロデューサーで年齢不詳、性別不詳の「白髪の怪人」こと桝井省志と、エイミーを僕に紹介した大映の「清楚な仕事人」こと森吉治予嬢。 そしてニューヨークで落ち合ったのが、イギリス人で日本に8年暮らし、今はロサンゼルスで映画監督になるべく勉強している「人柄抜群、だけど一歩間違えばデーブ・スペクター」こと、ダジャレの達人ケネディ・テイラー。 ケネディは映画『Shall weダンス?』のイギリスでの撮影コーディネーターを探している時に、桝井がNHKの人から紹介されて知り合ったのだが、結局彼はスケジュールの都合で映画撮影には参加してもらえなかった。しかし今回はオリジナル映画に付けられた、大映が僕に何の相談もなく作った字幕を再考する必要があるし、ミラマックスのいい分を正確に把握する必要もあったので、映画のことをよく知っているケネディに映画専門の通訳者として、新たな字幕制作者として参加してもらうことにしたのだ。 アメリカで公開されるほとんどの映画は、もちろんアメリカ映画であっても、スクリーニングでのアンケート結果をもとに編集のやり直しや宣伝方法が決められていく。だからこそ、そのスクリーニングの分析にある程度の信憑性がなければ監督は納得できるものではない。まあ、信憑性があろうとも監督だったら誰も納得しないだろうけど。 なにしろアンケートでラストシーンがよくないという結果が出たらラストシーンが変わってしまうことも珍しくないのだ。現にアメリカの多くの監督もそのやり方が気に入らないから、実績のある監督になればなるほど編集権が欲しくて自らがプロデュースすることになる。 僕だって、僕の知らないところで、こんなアンケート結果が出て、お客さんはこんなこといってましたから、こんな風に再編集しました、なんて後で知らされたら頭にくることは間違いない。そこでミラマックスはスクリーニングに監督を立ち合わせることで、その結果にある程度納得してもらおうと、いや全て公平に行われた調査の結果で、ミラマックスはあなたの映画に手を入れるのだということを納得してもらおうと、僕をスクリーニングに呼んだのだった。 契約には僕なんか関係ないことは、この時点で十分認識していたと思うのだが、一応監督の了解を取ろうというのは、意外にも紳士的で、やはり作り手を尊重しようという考えがある会社なのだと、少しだけほっとした。 僕にとっては初めての経験だった。日本でも何度も試写に立ち会ってはいるが、その結果によって自分の映画の内容が変えられるなどいう試写の経験はない。(中略) だからこそ、こんなに嫌な試写はない。初めてアメリカのお客さんが観る場所に自分がいて、その反応を目の前で確認するのである。そして反応が悪ければ、どうやったら「売れる映画」になるのかをアメリカのスタッフと相談しなければならないのだ。監督にとってこんなに酷いことはない。 日本公開のオリジナルバージョンは自分の中でこれ以上はない、という形に仕上がっているのである。別にアメリカ人のために作った映画でもない。僕の頭の中にあった観客は、少なくとも自分の母であり、映画のスタッフの一人一人であった。その結果、日本ではとても多くの人の共感を得て、今だロングランを続けている最中なのだ。それを今さら、ああでもない、こうでもない、といじられるのは御免被りたい。 しかし、外国でのことでもあり、逆に彼らがこの映画を観て何をどう感じるのか、それを知ることは作り手としてもとても楽しみだったのも事実だ。ウーム マーケティングに長けたハリウッド流に周防さんもタジタジの様子ですね。でも、肝心なのはコンテンツですよ♪『Shall weダンス?』アメリカを行く1
2017.04.19
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図書館で『『Shall weダンス?』アメリカを行く』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、日米の映画産業事情とか、アメリカ人の人間模様が出ていて面白そうである。【『Shall weダンス?』アメリカを行く】周防正行著、太田出版、1998年刊<「BOOK」データベース>より日本映画界の野茂英雄になる-の決意も固く、映画先進国アメリカに乗り込んだ周防監督。ハリウッド流儀を蹴散らし、契約至上主義ビジネスの罠をかいくぐり、米国アカデミー賞に異議を申し立て、前代見聞、満身創痍の悪戦苦闘の末に勝ち取ったのは、「中年の危機」に悩めるアメリカ人の大喝采と、日本映画初の全米大ヒット。強いアメリカに押されっぱなしの日本人のうっぷんを晴らす、痛快ノンフィクション。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、日米の映画産業事情とか、アメリカ人の人間模様が出ていて面白そうである。amazon『Shall weダンス?』アメリカを行く『Shall weダンス?』が海外配給されることになった発端を見てみましょう。p9~13 <爆弾ヤンキー娘、現る> こっちとしては『Shall weダンス?』が海外でどういう状況にあるのか分からず、ましてや僕自身に映画を売る権利がない以上会ってどうする、一体何の話があるのだ、という感じだった。 多分ここで説明しておかなければならないことがある。僕は映画『Shall weダンス?』の原作者であり、脚本家であり、監督であるにもかかわらず、一切の商業的な権利を持っていないのである。なぜなら僕は原作者であり、脚本家であり、監督ではあるけれども、一銭の金も出資していないからだ。この金を出した者だけが一切の権利を持つという、奇怪な原則こそ、日本映画が後生大事にしているルールなのだ。 『Shall weダンス?』の例をあげよう。この映画の出資者は大映、日本テレビ、博報堂、日本出版販売の四社で、その窓口に大映がなっている。企画・制作は僕自身が所属しているアルタミラピクチャーズという会社が担当した。つまり、企画から作品完成までのあらゆる実務的責任をアルタミラピクチャーズは負っているわけだ。しかし、僕を含めてアルタミラピクチャーズは、金を出資していないから、何の権利もない。 繰り返すが、日本映画界の場合、アイデアに権利や価値を認めてくれることはほとんどない。権利は金を出した者にある。それなら監督自身にあらゆる権利が残るように契約をすればいいんじゃないのといわれそうだが、『Shall weダンス?』を作る前の僕には、「」という契約を結べる程の力はなかった。当然、何の実績もないアルタミラピクチャーズという会社にも。 つまり、僕が言い出しっぺとなってアルタミラピクチャーズが提出した企画に対して大映は、うちが金を出すから撮らせてあげましょう、だけどできた映画のあらゆる権利は金を出したこちらにあるんだからね、という条件で製作を約束したのだった。 ここで僕が、完成した映画に対する権利を主張したら、だったらこの映画には出資しないと大映はいっただろう。 つまり僕は大映にお金を出していただいて、自分の撮りたい映画を撮らせていただいたのだから、完成した映画の権利を欲しがりません、ということで映画を作ることができたのである(だったら他の会社に持っていけばいいじゃん、と思うだろうが、日本の映画界のしがらみの中にあっては、それもなかなかままにならなかったんだな、これが)。 まあ、映連(日本映画製作者連盟)が、当然、原著作者にあると定めた二次使用に関する権利は、大映は認めざるを得ず、二次使用に関しては何がしかの印税は僕の懐に入ってくるようになっている。そしていつこく交渉した末、やっと成功報酬という名目で、僕が所属するアルタミラピクチャーズに国内での純利益の数パーセントが入ってくることになった。 だけど、これは国内だけに関してで、海外においては相変わらず、何の権利もない。外国でオリジナル映画がどんなにヒットしても、ビデオがどんなに売れても、それに準じて僕の収入が増えるということはない。収入だけではなく、映画をどこの誰に売るのかの権利も僕には一切ないから、外国の配給会社の人間に会いたいといわれても、一体それはどういうことなの、というのがその日の僕の心境だった。 「誠意を持って映画を売りたい。ミラマックスは『パルプ・フィクション』や『ニュー・シネマ・パラダイス』をアメリカでヒットさせた会社です。他には『ピアノ・レッスン』があります。私たちの会社はアメリカの映画産業にあって、ハリウッドのメジャーとは違い、インディペンデント作品から外国映画といった今までアメリカではあまり相手にされることのなかった映画を配給して・・・・」 爆弾ヤンキー娘の炸裂する英語をクールに右から左へさばいてくれる森吉さんは、まったくの好対照の静かな人だったが、その森吉さんが『Shall weダンス?』を持って訪れたサンタモニカで開かれたアメリカン・フィルムマーケットで、エイミーは3月4日に『Shall weダンス?』を発見し、すぐにミラマックスの社長であるハーヴィー・ワインスタインに報告したのだという。 「朝8時半からの試写で、とても眠かったのだけれど、何か予感がして誰よりも早く観なくちゃいけないと思ったの。私の予感は当たった。とても素晴らしい映画で、特に音楽とダンスと家族っていう世界共通のテーマがあるのが最高だと思った」 ミラマックスがどんなに素晴らしい会社でも、僕の映画がそんなに誉められても、僕には何の決定権もないのだろうから、「それじゃ、お願いします」とはいえない。僕はただ、にこにこしながら「ありがとう」と話を一方的に聞いているしかないのだ。それでも彼女は話し続ける。 「『シコふんじゃった。』のビデオも森吉にもらったから観るのが楽しみ。また竹中に会えるわ。彼は最高にファニー」 およそ30分にわたって僕は彼女の賞賛を聞いていた。そして配給がどうなろうとも、僕の目の前にいるエネルギッシュな爆弾ヤンキー娘が、これほど僕の映画に惚れ込んでくれたのだという事実の前に、斜めの僕はいつのまにか素直な僕になって感動していたのである。エイミーお奨めの竹中です。
2017.04.19
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図書館に予約していた『南米「棄民」政策の実像』という本を、待つこと6日でゲットしたのです。垣根涼介の『ワイルド・ソウル』という小説を読んだ後、南米移民がトゲのように気になっていたので、この本を図書館に予約したのです。【南米「棄民」政策の実像】遠藤十亜希著、岩波書店、2016年刊<「BOOK」データベース>より19世紀末から20世紀半ばにかけて、新天地を求め未知の地である中南米に移住した約三一万人の日本人。その多くは、日本政府が奨励・支援した「国策移民」だった。これまで、人口増加や貧困への対策とされてきた日本の移民政策が、「不要な人々」を国内から排除したうえで、移住先の現地において再び「国民」として統合し、利用するためのものであったことを明らかにする。<読む前の大使寸評>垣根涼介の『ワイルド・ソウル』という小説を読んだ後、南米移民がトゲのように気になっていたので、この本を図書館に予約したのです。<図書館予約:(4/07予約、4/13受取)>rakuten南米「棄民」政策の実像1950年~60年代の南米移住における炭鉱離職者を見てみましょう。p160~162 <炭鉱離職者から「農業専門家」へ> 先に見たように、戦後の炭坑ベースの労働運動は、首都圏を中心に展開されていた安保反対運動と連帯するなど、政治色を濃くしていたが、政府は、三池問題の根底には経済問題すなわち炭鉱業合理化計画による失業や生活への不安があると理解していた。そして、炭鉱離職者(以下「離職者」)に転職先や補償制度を提示するなどして、反対派を懐柔し、抵抗運動を押さえ込もうと考えた。 労働省は、離職者問題の本質を次のように分析している。離職者の失業問題は「通常」の失業とは異なり、失業者が地域的に集中していること、石炭鉱業全体の合理化で失業者が一時期に大量規模で発生していること(1959年だけでも18万1000人)、彼らの多くは帰省先を持たないこと、などである。特に、三池労働者は合理化反対闘争で全国に名を馳せたが、実際には採炭以外の職能は持ち合わせていなかったので、自力で再就職することは容易でないとみられた。離職者が抱える特殊な事情には、国による特別な措置で対応する必要があった。 三池での労使対立が深まる中、東京では労働省、厚生省、通産省、経済企画庁が合同で、九州炭鉱離職者への補償問題について協議を進めていた。通産省の炭鉱離職者対策本部は、三井三池の離職者に対して、会社を介して再就職の斡旋を進める一方で、臨時対策として海外移住案を提案。1959年9月8日の閣僚会議で、民間企業からの退職金に加え、政府も離職者援助を行うこととし、その具体策として、就職対策強化、住宅等公共対策、及び、海外移住の斡旋が決定された(「炭鉱離職者臨時措置法」1959年12月18日施行)。 移住計画には、外務省、農林省、建設省も加わり、1959年12月、三池大ストの最中に炭坑からの南米移民も開始されえている。 実は、この移住計画より4年前の1955年、日本政府は離職者を旧西ドイツのルール地方に労働目的で移住させる計画を実施していた。現地の炭鉱技術を習得する名目で、1957年から65年の間に436名(すべて単身赴任の男性)が3年間の契約でルール地方の炭坑に派遣されたが、65年で打ち切りとなっている。 一見すると、西ドイツという先進国への労働移住の方が南米より魅力的だが、炭坑離職者のブラジルへの移住もいくつかの好条件を備えていた。受入国であるブラジル政府は、永住を目的と日本人を家族単位で大量に受入れるというのだ。しかも、開墾した土地が無償で譲渡される可能性も示唆されていた。 ひとつ問題だったのは、移住者の職種だった。先の西ドイツ出稼ぎ計画では、受入国側が採炭労働者の受入を求めていたのに対し、ブラジルへの移民は主に未開地を開墾する「」を想定していたことだ。炭坑離職者は明らかに不適格だった。 しかし、日本政府は「離職者を海外移住者として斡旋するについては、有能技術者として移住せしめる方途は少数しか見込めない。従って、大量的には農業移民として主としてラテンアメリカに斡旋する以外に途はない」と決心した。 離職者対策会議でも、「離職者は農村出身者が多いので、また、体力もあるので訓練を行い、経験者と混入すれば農業移民は可能である」というこじつけにも近い解釈がなされた。最終的に、移住希望者に520時間の短期集中農業訓練を行うことで資格条件を満たす、という方針で決着した。 炭鉱労働者を南米に大量移住させるというニュースは、ブラジルの日系人社会にもすぐに伝わった。邦字紙『サンパウロ新聞』は「筋金入り」の三池労働者の移住に対して神経質になっている地元の様子をこう報じている。[前略]南米通の麻生産業の麻生典太専務の話によれば、ブラジルに早くも三池のスジ金入りの連中がくるという話が伝わって警戒気分になっているとか・・・。三井鉱山では人物を厳選して送り出したいといっているが、この移住計画がうまく行くかどうか一部ではあやぶむ向きもあるようだ。 日本人移民の中に戦闘的労働運動家が含まれているとか、日本が移民を利用して過激派を南米に送っているといった噂が広まることに、移民受入国との折衝窓口だった外務省は神経を尖らせた。北部九州から一部の「炭労」指導者や組合員たちがブラジルへ移民することになった折、鈴木サンパウロ総領事は藤山外相への書簡で、「離職者には左翼が相当含まれると思われているので、ブラジルでこうした活動をさせぬよう要注意」と進言している。 外務省の方でも、離職者のブラジル移民は他の移民と一緒にコーヒー農園に雇用農として入植させるようにし、離職者のみの集団移住は極力避けるよう、現地大使館に通告している。この方針は、ひとつには、農業未経験者だけでは定住が難しいとの配慮であり、もうひとつの理由は離職者が集団移住することで「離職者の移住という印象を受入れ国側に与えぬ」ためであり、また、元活動家たちが集まって現地で騒動を起こさぬようにとの警戒の意味も込められていた。ウーム お役所のなかで三流と評される文科省、農水省、外務省であるが(もっとあるかも)・・・南米移住における外務省の冷酷さが際立っていたようです。垣根涼介著『ワイルド・ソウル』
2017.04.18
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図書館で『不思議の国のアリス』という本を、手にしたのは・・・この本が偶然に平置きされていて、表紙のヤン・シュヴァンクマイエルの絵が見えていたからです。シュールでインパクトのあるイラストが、ええやんけ♪【不思議の国のアリス】ヤン・シュヴァンクマイエル, ルイス・キャロル著、国書刊行会、2011年刊<「BOOK」データベース>より幻想芸術の魔術師が描くルイス・キャロルの夢の王国。新装版にて待望の復刊。<読む前の大使寸評>シュールでインパクトのあるイラストが、ええやんけ♪借りたのはエスクァイア マガジン ジャパン社2006年刊の初版です。rakuten不思議の国のアリスシュヴァンクマイエルが「アリス」について語っているので、その一部を紹介します。p6 ルイス・キャロルの「アリス」は私たちの文明の根幹をなす本、すなわち無人島で生き残るために携えていくような本のうちの1冊といえます。この本によって、革命的にロマンチックな子どもたちが幾多の世代にわたって「教育」されてきました。私も例外ではありません。しかしながら、この本は子ども向けのものではありません。むしろこれは、「子ども向けの芸術」などというものは存在しないという事実をあきらかにする明確な証拠なのです。「子ども向けの芸術」などというものは、商売上のペテンに過ぎません。 ある本(あるいは絵画や映画)が、子どもにふさわしいのか、あるいは早すぎるのかを私たちは推測をもってしか語ることができません。キャロルの「アリス」について言うならば、この本は、読む年齢によってまったく異なった本となります。なぜならば私たちは生涯夢を見つづけるからです。キャロルがここに描いたのは、おとぎ話ではなく、夢なのです。おとぎ話と夢にはあきらかなちがいがあります。 おとぎ話は多かれ少なかれ教育的な側面を持っていますが、夢というものはお説教無用の正真正銘の自由の王国なのです。夢は夢自身の論理に従うものであって、理性によって束縛されることはありません。キャロルは、まさにそのようにして本を書き上げたのです。ネットを巡ってシュヴァンクマイエルの画像を探してみました。この本も気になるイラストレーターに収めるものとします。
2017.04.18
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図書館で『椎名誠写真館』という本を、手にしたのです。おお 椎名誠の写真集&エッセイではないか♪最近読んだ『駱駝狩り』という写真集&エッセイが良かったので、この本も期待できそうである。【椎名誠写真館】椎名誠著、朝日新聞社、1995年刊<「BOOK」データベース>よりモンゴルの草原から厳冬のシベリア、札幌ススキノからイリオモテ島―。あらゆる場所でシャッターを切り続ける“写真家”椎名誠。思考や創作の原点という写真への熱い思いが、風景や人々をのびのびと写し出す。愛蔵の家族スナップも収め、しみじみとおかしい、一生懸命な生きものたちの写真集。<読む前の大使寸評>おお 椎名誠の写真集&エッセイではないか♪最近読んだ『駱駝狩り』という写真集&エッセイが良かったので、この本も期待できそうである。amazon椎名誠写真館映画『白い馬』の撮影エピソードを見てみましょう。p36~39 <私と写真> 1995年に公開された「白い馬」はぼくの4本目の監督作品*だが、この映画をつくる直接的なきっかけは、まさしく数枚の写真であった。 あのムングンモリトのナーダムの時に、ぼくは三脚の上のテレコンバーター付の重い400mm望遠レンズでのぞきながら、その四角いフレームの中を躍動する小さな騎馬の人々をまさしく映画のような気分でとらえていた。静止したスチールにとじこめてしまうのがもったいない・・・と激しい苛立たしさともどかしさの中で、そう思っていた。 1994年の2月にロケハンに行き、同じ年の4,5,6月にかけて映画の撮影をした。 その前の映画を35mmのシネマスコープで撮っていたので、モンゴルの草原の映画こそシネスコがいいのではないか、とスタッフ間でいろいろ議論したが、その新しい映画はモンゴルの野生動物を沢山記録するため別班も16mmカメラで撮影する。そうなるとシネスコ用のアナモルフォックが16mmでは相当に不安があった。 シネスコにすると、16mm別班がいい映像を撮ってきても本編に使えないかもしれない、という不安はとうとう最後まで解消されなかったので、特殊レンズを使わないビスタビジョンサイズで撮ることにした。(中略) モンゴルのような国ではAFカメラがいい、とぼくに教えてくれたのは『オーパ』などの写真で知られる高橋昇さんで、高橋さんはこのモンゴルの撮影歴も永い。そしてその映画のスチールを高橋さんに担当してもらった。ナーダムのような激しくスピーディーな被写体にこの高性能AFカメラは素晴らしい威力を発揮した。 撮影の合い間にはよく馬に乗ったが、馬で走りながらコンタックスT2での片手撮りというのも時おりやった。これはインディアンの片手ライフル撃ちのようでやってみると仲々おもしろい。こういう時もAFというのは有難いもので、他のカメラではこんな撮り方は考えられないだろう。 いままで使ったことのない大型カメラ、ホースマンもこの時はじめて挑んだ。 高橋さんというフィールドワークに優れた先生がそばにいるわけだあら大変有難い。 せっかく大型カメラで撮るのだから、と撮影の休みの日に馬とジープで川のまわりに点在している遊牧民のゲルをひとつひとつたずねて歩き、家族の集合写真を撮ることにした。 遊牧民は狼よけのために犬を2~3匹飼っている。モンゴル犬というのは黒くて大きくて性格は単純性獰猛、ふいの訪問者にとっては要注意なのである。 まず草原のむこうにゲルがポツンと見える。緑の中の白い小さなドームだからわりあいよくわかる。その日の風向きにもよるが、どんどん接近していくと、いきなり草原の中からものすごい吠え声とともにこの犬たちが突進してくるのだ。モロに敵意むきだしである。 ジープに乗っている人はまだいいが馬に乗っていると少々こころぼそい。周囲をそいつらに吠え囲まれながらめざすゲルのすぐ近くまで行くと、ゲルの住民がいったい何者だ?という顔をして入口から顔を出すのである。 そうして主人がはじめて「うるさい!」と叱る。そのヒトコトで、あれほどうるさかった犬どもがピタッと吠えるのをやめてそこらに寝ころがってしまう。まったくほんとにもう単純性獰猛そのもの・・・なのである。*:ホネフィルム映画のうち椎名の監督作品・ガクの冒険(1990)・うみ・そら・さんごのいいつたえ(1991)・あひるのうたがきこえてくるよ(1993) ・白い馬(1995)椎名さんの『駱駝狩り』を紹介します。【駱駝狩り】椎名誠著、朝日新聞社、1989年刊<「BOOK」データベース>よりオーストラリア中央部のあつく乾したブッシュを南から北へ―。その旅の途中で出会ったラクダ狩りの男たち。50度を超える熱気の大砂漠の人と自然をペンとカメラで再現する。<読む前の大使寸評>オーストラリアのラクダといえば・・・『奇跡の2000マイル』というオーストラリア映画で彼の地のラクダを見て以来、大使のミニブームというか、気になっていたわけです。1989年刊の写真付き旅行記であるが・・・大人の絵本のようで、ええでぇ♪amazon駱駝狩り『駱駝狩り』byドングリ
2017.04.17
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図書館で『妄想気分』という本を、手にしたのです。内田先生の『呪いの時代』という重厚なタイトルのエッセイ集も借りたので、もう1冊は明るく軽いエッセイ集で中和しようという魂胆があったのでおます。【妄想気分】小川洋子著、集英社、2011年刊<「BOOK」データベース>より異界はいつでも日常の中にある。目を凝らし耳を澄ますと入口が見えてくる。そこを覗くと物語がはじまる。創作をめぐるエッセイ集。<読む前の大使寸評>内田先生の『呪いの時代』という重厚なタイトルのエッセイ集も借りたので、もう1冊は明るく軽いエッセイ集で中和しようという魂胆があったのでおます。rakuten妄想気分小川さんが創作テクニックについて語っているので、見てみましょう。p180~183 <ミーナの行進> 材料になりそうなものはいろいろ揃ったが、まだ全体像はぼんやりとして頼りなく、一行めを書きはじめるまでにはもうしばらくかかるなあ、という状態の時が、どんな小説の場合にもある。早く書き出さなければと焦りながら、新しい物語の世界へ足を踏み入れるのが怖いような気がして、いつまでもぐずぐずしてしまう。 そんなある日、文学賞のパーティで『ミーナの行進』担当者の0さんと一緒になった。本音を言えば、この段階で顔を合わせたくはなかった。もしかするとOさんの心積もりでは、既に三回分くらいの原稿が仕上がっていて、今日明日にでもそれが送られてくるかと、どきどきしながら待っておられるかもしれず、ここで私が「実はまだ一字も・・・・」と告白すれば、どんなに落胆されることか。 いや落胆だけならまだいい。軽蔑され、愛想を尽かされ、匙を投げられる恐れだってある。Oさんは有能で心優しい方だ。そんな素晴らしい方の心を乱したくはない。不愉快にはしたくない。ああ、だから今だけは人ごみに紛れて、そっと姿を隠そうとした時、 「あら、小川さん」 と声を掛けられた。 「あっ、ど、どうも・・・」 あたかもたった今Oさんに気づいたかのような素振りを見せつつ、私はしどろもどろになって挨拶をした。 Oさんは朗らかな表情で、最近の天気や政治情勢や阪神の成績について語った。小説の話題にはわざと触れないおつもりなのだな、あくまでも控えめに大人の態度で仕事をする。それがOさんのやり方なのだな。そう察するといよいよ私は苦しくなり、焦り、取り乱し、もう自分で自分を制御できなくなった。そして次の瞬間、 「おかげさまで小説の骨格が固まりました」 と、心にもないことを口走っていた。 それからはただひたすらOさんを喜ばせるためだけに、その時点で揃っていた材料を組み合わせ、足りないものをでっち上げ、訳が分からないままに、まだ一行も書いていない小説について長々と語った。主人公は体が弱くて動物に乗って学校に通っているんです。動物はロバ・・・いいえ、違います、間違えました、カバです。小さなコビトカバです。(中略) 不思議なことに、語っているうち、少しずつ靄が晴れ、物語の世界がくっきりと浮かび上がって見えてきた。この材料とこの材料は、こんなふうに結びつく運命だったのか、という発見がいくつもあった。いつしか、Oさんのためではなく、自分自身のために語っているような気分になっていた。 実際、パーティー会場のざわめきの中、私の声は半分もOさんの耳に届いていなかったと思う。突然にコビトカバなどと言われても何のことだか分からなかったに違いない。しかし、この時、Oさんが目の前にいて下さったおかげで、無事『ミーナの行進』はスタートを切ることができた。
2017.04.17
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図書館で『呪いの時代』という本を、手にしたのです。内田先生の言葉には、ネットの「内田樹の研究室」で常日頃からフォローしているのだが、エッセイ集としてまとまったものも・・・ええでぇ♪と思ったのです。【呪いの時代】内田樹著、新潮社、2011年刊<「BOOK」データベース>より巷に溢れる、嫉妬や妬み、焦り―すべては自らにかけた「呪い」から始まった。他者へ祝福の言葉を贈ることこそが、自分を愛することになる―呪いを解く智恵は、ウチダ的“贈与論”にあり。まっとうな知性の使い方と時代を読む方程式を考える一冊。<読む前の大使寸評>内田先生の言葉には、ネットの「内田樹の研究室」で常日頃からフォローしているのだが、エッセイ集としてまとまったものも・・・ええでぇ♪と思ったのです。amazon呪いの時代草食系男子について、内田先生が次のように分析しています。p127~129 <「世渡り術」からのスピンオフ> 僕が学生だった頃、1970年代の新左翼の運動では、「プチブル的安逸を享受している自分」に対する自己処罰という契機がかなりの数の学生たちのうちに見られました。それがほぼ消えたのが1980年代だったと思います。 ポスト・コロニアリズムや後期のフェミニズムの言説の中では、そういう自罰的・自責的な「疚しさ」の感情ははるか後景に退き、もっぱら「弱者の立場から強者に対して、非寛容に権利請求する」言葉が氾濫するようになりました。「被抑圧者の告発の前で強者たちは疚しさを覚えてうなだれなければならない」というそれなりに倫理的な命題が「とりあえず弱いふりをすると他人を屈服させることができる」という「世渡り術」にまで頽落するまでにそれから長い時間はかかりませんでした。 草食系男子という「生き方」はこの「弱いふりをすることで自己利益を増大させる世渡り術」からの一種のスピンオフではないかと僕は思います。草食系男子はおもに性的関係の局面で「弱者」を演じるわけですけれども、そこで得られる利益とは何でしょうか。 とりあえずは恋愛の局面において「傷つかないこと」があります。20年ほど前から、「口説く」人が少なくなりました。それどころか「口説く」という動詞自体がもう今の学生たちくらいの年齢では日常語彙には含まれていないのかもしれません。じゃあ、交際を求めて女性に言葉をかけるときに男性諸君は何というのか。 「今、付き合っている人いる?」です。 これはきわめて巧妙に構築された「口説き文句」だと思います。「今、付き合っている人いる?」という問いは、一見すると客観的な事態についての価値中立的な問いのように見えます。まるで、「今、雨降ってる?」とか「今、6時過ぎた?」と訊いているように。誰でも口にできるし、誰でもイエス・ノーで即答できるように作文されている。 まだ知り合ったばかりでお互いをよく知らないもの同士が、いろいろあたりさわりのないことを話しているうちに話題も尽きてしまったので、ふっと訊いてみた。そういうふうなカジュアルな問いのように見える。あたかもその問いかけに対する相手からの返答に自分はとりわけ関心があるわけではないんだけど、ちょっと訊いてみただけと言わんばかりのノンシャランスをともなって口にされる。 修辞的な問いであるということを誇示しているせいで、仮に「うん、いるよ」と即答されても、「あ、そうなんだ。ふん、でさ、キミ、音楽とか聴く?」というふうに「ぜんぜんそんなことはオレ的にはどうでもいいんだけどさ」的に修羅場から逃走できます。 逆に、「いないよ」という答えがあれば、「じゃあ、僕と付き合わない?」といういきなり具体的な性行動レベルに一気に切り替えられる。 「いるの?」「いるよ」という問答はまったく価値中立的で非情緒的なものであるにもかかわらず、「いるの?」「いないよ」という問答はエロス的関係について検討を開始するにやぶさかではないというシグナルとして解釈され得るからです。自分勝手だと思いませんか!さらに、読み進めてみます。p130~132 <傷つきやすさが前面に> 当今の若者たちは決して感情生活の奥行きがなかったり、性的欲望が淡白であったりするのではありません。そうではなくて、おそらく傷つくのが嫌いなのです。傷つくことを恐れているのです。おそらく、それだけ人間として脆くなっている。 いや、「人間として脆くなっている」という言い方は正確ではありません。そうではなくて、触れたらすぐ皮膚が破れ、血が出るような脆弱で傷つきやすい部分が前面に露出しているというべきでしょう。そういう構え方が採用されているせいで、結果的に脆くなっている。傷つきやすさが前面に出ているので、すぐ怒るし、すぐに泣く。 逆から言えば、傷つきやすさが前面に露出しているために、それをまず保護しなければならない。その傷つきやすさの自己防衛が「他者からのメッセージに対して何の反応も示さない」という極端なかたちをとることもある。 何を言われても傷つくか、何を言われても反応しないか、その二極の間を揺れ動いている。「逆ギレ」というのも同じ頃から社会的行動に登録されたものの一つです。それまで相手に穏健な気遣いを示していた人が、ある瞬間を境にしていきなり凶悪で利己的な態度に転じることです。 ここに共通するのは「ペルソナ」の使い分けができなくなったということです。二極を揺れ動くというのは、社会的「ペルソナ」が2種類しかないということです。 「ペルソナ」というのは、一言で言えば、人間関係の中で、過剰に他者を傷つけない、過剰に傷つけられないための防衛システムです。他人の攻撃から身を守ると同時に、自分が他人に加える攻撃を抑制する。ペルソナは双方向の暴力をコントロールするための装置です。『呪いの時代』1
2017.04.16
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図書館で『呪いの時代』という本を、手にしたのです。内田先生の言葉には、ネットの「内田樹の研究室」で常日頃からフォローしているのだが、エッセイ集としてまとまったものも・・・ええでぇ♪と思ったのです。【呪いの時代】内田樹著、新潮社、2011年刊<「BOOK」データベース>より巷に溢れる、嫉妬や妬み、焦り―すべては自らにかけた「呪い」から始まった。他者へ祝福の言葉を贈ることこそが、自分を愛することになる―呪いを解く智恵は、ウチダ的“贈与論”にあり。まっとうな知性の使い方と時代を読む方程式を考える一冊。<読む前の大使寸評>内田先生の言葉には、ネットの「内田樹の研究室」で常日頃からフォローしているのだが、エッセイ集としてまとまったものも・・・ええでぇ♪と思ったのです。amazon呪いの時代英語といえば宗主国の言葉であり、反米の大使としては意地でも使いたくないのですが・・・そのあたりのメカニズムを内田先生が次のように分析しています。p88~91 <世界でも例外的な日本> 日本の知識人は特権的な言語状況にいる。現にこれを書いている僕だってそうです。僕は学術論文もエッセイも全部日本語で書いています。それで言いたいことはだいたい言える。日本語には僕の言いたいことを受け止める語彙や構文が存在しないというような言語の限界を僕は感じたことがありません。 もちろん、僕の言語表現にはさまざまな不足や欠点がありますが、それは日本語そのものではなく、運用者である僕個人の責任であった、僕の個人的努力によって、それらの瑕疵は修正可能です。そして、そのように母語運用の自由に支えられて書かれた僕の文章は、すぐれた翻訳者を得れば、だいたいのニュアンスを保持したまま、英語やフランス語に置き換えることができるはずです。(僕は「フランス語に訳せるかどうか」を基準ににして、自分の書く文章の論理性を自己点検しています) 母語だけで学術論文が書けるというのは、これは19世紀末の列強による植民地化の恐怖が切迫するまで近代化を先送りしてきたアジアの一小国としては、まことに例外的な言語状況であると言わなければなりません。 日本では政治にしろ、官僚にしろ、ビジネスマンにしろ、言論人にしろ、英語ができない人はいくらもいます。というより、日本では、「英語を達者に使う人」は必ずしも「よいイメージ」を持たれない。総理大臣が他国の首脳とぺらぺらと英語で話しているテレビニュースの画面を見て、おおかたの視聴者は「なんとまあ、頼もしい人であろう」と思うというよりは、なんとなく自分のわからない話を勝手にされているような気になる。「おい、オレの意見は聞かんのか」とテレビ画面に向かって因縁をつけたり、「け、自分だけいい恰好しやがって」と不貞腐れたりすることさえある。 僕たちの父母の世代の方がもっと英語に対しては疎遠かも知れません。この世代は敗戦後の東京でうんざりするほど見聞した「ぺらぺら英語を使う人」の定型的なイメージからなかなか逃れることができないからなのでしょうか。1960年代頃の東宝の「社長シリーズ」などでは、フランキー境や藤村有弘がデタラメ英語を話す詐欺師まがいの人物を演じていました。現実にそんな人物がいたかどうかはわかりません。でも、「妙に英語のうまい人間」に対する大衆レベルの幻想はこんなふうに「物語」で露呈したりもする。(中略) 宗主国の言語を巧みに操り、その能力によって同国人を見下す「外国語使い」に対する嫌悪感というのは、アジア諸国に共通して見られるものかもしれません。 とにかく、そのせいで、日本人の間には「英語ができる人間」についての微妙な不信感がいつもあります。それは当の「英語使い」たちがあまりにしばしば「だから日本はダメなんだ。それに比べてアメリカでは・・・・」という言いかたをしたことに関係があると僕は思います。この心理的な抵抗がある種の巨大な「言語障壁」となって、それが日本における英語教育の進展にブレーキをかけているのではないか。 戦後久しきにわたって、軍事的にも、経済的にも、文化的にもアメリカに占領されてきたにもかかわらず、中学から大学まで、50%の日本人が少なくとも8年間英語を必修科目として学んでいながら、なぜこれほど英語ができないのか。その「よく考えると、ありえない事実」に僕たちはもっと驚きの目を向けるべきではないでしょうか。 文部科学省が日本人の子どもたちの英語力を上達させようと、何年か前に「英語が使える日本人」育成のための行動計画を立てたことがありました。ふたを開けてみたら、日本の高校生大学生の英語学力は行動計画を実施してからさらに一段と低下していることが知られました。 国策として英語学習の重要性がアナウンスされ、教師も親たちも生徒学生自身も「英語ができないとマズイ」ということを知っていながら、なお英語力が下がり続けている。これは区々たる教育プログラムや教育方法の問題ではないと僕は思います。もちろん、日本の子どもたちの知的能力が解剖学的レベルで劣化したせいでもない。もっと根の深い国民的な規模での無意識のブレーキがかかっている。それを解除しない限り、日本人の英語力は世界的にもきわめて低いレベルに固着したままでしょう。 文科省の行動計画はオーラル・コミュニケーションの能力を重視したものでした。英語を流暢に喋る子どもたちを大量に生み出すことを夢見たのです。でも、実際は、「話せる子ども」が増えたというよりはむしろ、「英語を読めず書けない子ども」が増えた。どうしてそんなことが起きるのか。 ふつう、外国へ行った場合、個人差もありますが、3,4ヶ月もすれば日常会話などはできるようになる。それは、使わなければ困る状況にさらされるからです。生き延びるためには僕たちの脳はかなりまじめに仕事をします。ところが日本では、英語を使えなければ困る状況に遭遇することはほとんどありません。だから、ロジックとしては簡単で、「英語を使えなければ、ほんとうに困る」という社会的条件をつければ、たちまちみんな英語を流暢に喋るようになるはずです。 香港やシンガポールやフィリピンなどの諸国のように、英語が使えないと知的職業に就けない、公務員にもなれないというシステムにすれば、たちまち日本中バイリンガルばかりになるでしょう。でも、そうなっていない。ということは、英語教育に関しては、一方で英語教育の充実を謳いながら、他方では「英語ができなくても困らない」状況を一生懸命に作り出しているということです。 右手で作ったものを左手で壊している。それが日本の英語教育の実相ではないか。僕はそんなふうに思います。では、いったいなぜ僕たちは「左手で壊す」ようなことをしているのか。たいへん危険な仮説ですけれど、僕はそれを「攘夷」という心性が日本人の魂の古層に今も生々しく息づいているからではないかと思っています。さらに、漢字文化圏の惨状を見てみましょう。p96~99 <漢字文化圏の破壊的な事態> 漢字文化圏の周縁国はどこでも言語の地政学的状況は似たようなものでした。韓国は漢字とハングルを併用していましたし、ベトナムは漢字とチェノム(字南)を併用していました。日本における真名(漢字)と仮名(ひらがな・かたかな)の併用と同じく、これらは土着語と外来語のハイブリッド言語でした。 けれども、このハイブリッド状態を維持している国はもう多くありません。韓国は公用文を原則としてハングルだけを用いて表記する法律が制定され、1968年には漢字教育が廃止され、1970年には教科書から漢字が消えました。 現在の若い韓国人はもう自分の名前以外の漢字はほとんど読むことも書くこともできない。それは要するに2世代前の人たちが書いた文章が読めないということです。祖父母の世代が書いた文学作品が読めない。政治的テクストも、哲学的論考も、日記も読めない。読もうとしたら現代語訳をしなければならない。目前に、漢字さえ読めれば簡単にアクセスできる膨大なアーカイブがあるにもかかわらず、漢字を使えないばかりにこの宝庫に入ることができない。 過去2000年以上にわたって蓄積されてきた歴史的文献資料がほとんどの国民にとってアクセス不能の「ロゼッタストーン」のようなものになってしまう。これはテクストを通じての国民的エートスの継承、先賢の知恵の伝達という点からすれば、危機的な事態ではないかと僕は思います。 韓国では、漢字の放棄は英語の採用によって代補されています。だから、高等教育を英語で受けることが社会的向上の条件になっている。大学の教師は英語で論文を書き、英語で学会発表する。そういう点では、日本の学者よりも韓国の学者の方がずっと英語がうまい。それを「国際化が進んでいる」と言うこともできるでしょう。けれどもそれは自国に蓄積された知的伝統へのアクセス権の放棄とのトレードオフなのです。それが有利な取引だったのかどうか、まだ判断するには早過ぎると僕は思います。(中略) 人間のほんとうの知的能力は母語の運用において際立ちます。でも、母語についてはどういう訳か人々は「みんな同じようにできる」と思い込んでいる。だから、母語運用能力の巧拙や適否について話題にするということはしません。でも、英語だと話が違う。 英語は読める・読めない・書ける・書けない・話せる・話せないがすぐわかるからです。明示的にわかる。数値的にわかる。それを使って階層的格付けができる。階層化圧力が強い社会では、「能力が外形的・数値的に表示できるもの」を基準にして、細かい格付けをすることが選好されます。たぶん、韓国は日本に比べると、階層化へのこだわりが強いのでしょう。 同じ問題はベトナムにもあります。ベトナムも漢字を捨てました。代わりにカトリックの宣教師が考案し、フランスの植民地時代を通じて広がったローマ字表記が正式の表記となっています。民族解放闘争を指導した主だった人々が、フランス留学経験者やフランス語教育で育った人々であったため、このローマ字表記化は抵抗なく受け入れられました。ウーム ここまで読んでくると、韓国の漢字放棄の意地っ張りというか、愚かしさが際立ってくるんですね。なお、内田先生の言葉については内田先生かく語りき8として、フォロー中でおます。
2017.04.16
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「海外」でしょうか♪<市立図書館>・南米「棄民」政策の実像・不思議の国のアリス<大学図書館>・『Shall weダンス?』アメリカを行く・椎名誠写真館図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【南米「棄民」政策の実像】遠藤十亜希著、岩波書店、2016年刊<「BOOK」データベース>より19世紀末から20世紀半ばにかけて、新天地を求め未知の地である中南米に移住した約三一万人の日本人。その多くは、日本政府が奨励・支援した「国策移民」だった。これまで、人口増加や貧困への対策とされてきた日本の移民政策が、「不要な人々」を国内から排除したうえで、移住先の現地において再び「国民」として統合し、利用するためのものであったことを明らかにする。<読む前の大使寸評>垣根涼介の『ワイルド・ソウル』という小説を読んだ後、南米移民がトゲのように気になっていたので、この本を図書館に予約したのです。<図書館予約:(4/07予約、4/13受取)>rakuten南米「棄民」政策の実像************************************************************【不思議の国のアリス】ヤン・シュヴァンクマイエル, ルイス・キャロル著、国書刊行会、2011年刊<「BOOK」データベース>より幻想芸術の魔術師が描くルイス・キャロルの夢の王国。新装版にて待望の復刊。<読む前の大使寸評>シュールでインパクトのあるイラストが、ええやんけ♪借りたのはエスクァイア マガジン ジャパン社2006年刊の初版です。rakuten不思議の国のアリス************************************************************【『Shall weダンス?』アメリカを行く】周防正行著、太田出版、1998年刊<「BOOK」データベース>より日本映画界の野茂英雄になる-の決意も固く、映画先進国アメリカに乗り込んだ周防監督。ハリウッド流儀を蹴散らし、契約至上主義ビジネスの罠をかいくぐり、米国アカデミー賞に異議を申し立て、前代見聞、満身創痍の悪戦苦闘の末に勝ち取ったのは、「中年の危機」に悩めるアメリカ人の大喝采と、日本映画初の全米大ヒット。強いアメリカに押されっぱなしの日本人のうっぷんを晴らす、痛快ノンフィクション。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、日米の映画産業事情とか、アメリカ人の人間模様が出ていて面白そうである。amazon『Shall weダンス?』アメリカを行く************************************************************【椎名誠写真館】椎名誠著、朝日新聞社、1995年刊<「BOOK」データベース>よりモンゴルの草原から厳冬のシベリア、札幌ススキノからイリオモテ島―。あらゆる場所でシャッターを切り続ける“写真家”椎名誠。思考や創作の原点という写真への熱い思いが、風景や人々をのびのびと写し出す。愛蔵の家族スナップも収め、しみじみとおかしい、一生懸命な生きものたちの写真集。<読む前の大使寸評>おお 椎名誠の写真集&エッセイではないか♪最近読んだ『駱駝狩り』という写真集&エッセイが良かったので、この本も期待できそうである。amazon椎名誠写真館************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き210
2017.04.15
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図書館で『東アジア中世海道』という本を、手にしたのです。おお 古来、良しにつけ悪しきにつけ東シナ海あたりは気になる海域でおます。【東アジア中世海道】民博編、毎日新聞社、2005年刊<民博サイト>より世界の海は、それを共有する多くの国と地域を結びつけ、人、もの、文化、技術などの相互交流の場として、歴史の揺籃となり、原動力となってきました。この展示では、特に12世紀から16世紀の東アジアの海を舞台にして、中国、高麗・朝鮮、日本、琉球などの国や地域、人々が相互に影響を与えながら育んだ交流の歴史と文化の煌めきを、考古、文献、美術、民俗資料など、多様な展示品を通して描こうと企画しました。<読む前の大使寸評>古来、 良しにつけ悪しきにつけ東シナ海あたりは気になる海域でおます。rekihaku東アジア中世海道日宋貿易ルート中世の交易を、見てみましょう。p51 <中世の貿易船と海商> 貿易船の姿は、中国福建省泉州湾東部の后渚港で発見された泉州沈没船や、全羅南道新安郡道徳島沖で発見された新安沈没船からわかる。泉州沈没船は、南宋時代頃の船で、V字船底の竜骨をもつ外洋船である。 推定復元長は34.5mで、12の隔壁で船室が区画されており、積載重量は約200tと推定される。外板構造は「平張り」であり、「鎧張り」の新安沈没船とは異なる。 泉州は当時世界有数の一大国際都市、東南アジアからはるかペルシャ・アラビアへ開かれた南の玄関口であり、泉州沈没船も南から帰ってきた船と考えられる。新安沈没船と泉州沈没船の規模がほぼ一致することから、東アジア中世海道を行き来した貿易船は、このクラスが一般的であったと考えられる。 こうした貿易船を取り仕切るのは、綱首と呼ばれた海商たちであった。数々の記録には、「孫忠」をはじめ多くの宋人たちの名がある。彼らは、行き先・積荷・船員名などを記した「公憑(パスポート)」によって出入国と交易活動を厳しく管理され、抽解や博買といった関税や買上げなどの規制を受けていた。 しかし、その制限を差し引いても手にする利益は魅力的であり、あの手この手で各地への渡航を試みるのである。11世紀の渡僧成尋の『参天台五台山記』に記された、宋から日本への経典や仏像、皇帝信書の輸送をめぐる「孫吉」と「陳詠」の争いはその一例といえよう。また、渡航禁止区域への出帆もしばしばであった。 こうした貿易活動は、時には公的な色あいも帯びた。高麗と宋を往来した宋の海商徐徳栄は、両国間の外交使節的な役割を果たした。これは国家と海商の関係を考える上で大変興味深い。貿易活動に有利なものは何でも利用する海商のたくましさ、したたかさをみると、彼らにとって必用な航海術とは、国家というタテマエと貿易というホンネが交錯する東アジアの海での舵取りや風読みだったのかもしれない。『東アジア中世海道』1
2017.04.15
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図書館で『食は韓国にあり』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、思いのほかカラー写真が多くビジュアルである。30年ほど前の韓国料理は、如何なるものか♪【食は韓国にあり】森枝卓士、朝倉敏夫著、弘文堂、1986年刊<「BOOK」データベース>より力いっぱい食べる民族の爽快かつ豪快な食の世界<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、思いのほかカラー写真が多くビジュアルである。30年ほど前の韓国料理は、如何なるものか♪amazon食は韓国にあり韓国の代表的家庭料理ということで、チゲとナムルを見てみましょう。p19~23 <チゲ> 突然におしかけて夕食となったとき、主婦が先ず、というか唯一というか作るのがチゲである。農村で畑仕事の合い間の昼食のために、畦道で作るのも、行商人が道端で冷えた御飯を混ぜて暖かい雑炊として食べるのもチゲだった。日本語では鍋ものと訳されることが多いが、食べる感覚としてはその通りでも、調理法、味的には具の多い味噌汁ではないかと思う。 そんなものだから、何度となく作るところを見ているし、教わりもしたが、代表的な作りかたはこんな具合だ。 お湯を沸騰させた鍋に細切りの肉を入れ、煮る。これでだしを取るし、具にもなる訳だ。テンヂャン、好みでコチュヂャン、すったニンニクも加え、豆腐、白菜、ズッキーニ等の具を入れ、さらに煮る。途中、あくを取り、全体に火が通ったらできあがり。このプロセスを食卓にコンロを置いてやってもいいし、台所で作ったものを運んでもいい。どちらの場合でも鍋のまま食卓の中央に置き、全員さじを突っ込んで食べる。 だしは肉ではなくイリコなどでもいい。コブだしはあったが、鰹節はないようだ。白菜ではなくキムチを加えてもいい。その場合はテンヂャンは入れなくてもいいし、入れてもほんの少しだけにする。最初のものはテンヂャン・チゲ、後者はキムチ・チゲと呼ばれる。 この二つが基本的な作りかたとしては代表的だが、具の入れかたでバリエーションはいくらでも広がっていく。テンヂャン・チゲなら、魚、蟹、貝などたっぷりと入れた海鮮風チゲも合うし、キムチ・チゲなら豚の三枚肉などふんだんに加えると旨い。何もなければ、豆腐とありあわせの野菜でも適当に使ってもいい。ま、こんな具合の料理だから大御馳走にもなるし、日々のお惣菜にもなる訳だ。 お惣菜の場合は先にも述べたように、これにキムチやナムル、辛し明太子、イカの塩辛などでも合わせたら、立派な食事になる。キムチ等買ってきて、チゲさえ作ったら「韓国料理の夕食を御馳走するから」と客を呼んで、焼肉を期待した相手が怒ろうとも、貴方は決して嘘をついたことにはならない。 そんな「御馳走」のために、ちょっとしたお惣菜の作り方も記しておこう。 キムチは後の章で詳しく述べるから、先ず、ナムル。日本の焼肉屋でもよく見かけるようになった野菜の和え物だ。ホウレン草やモヤシ、ゼンマイ等が知られているようだが、種類はもっと多い。春の七草のように日本人はよく野草を食べる民族だと自分たちでは言うが、韓国人の野草好きは日本人以上だと、『檀流クッキング』開祖の檀一雄氏が書いておられた。本当にその通りで、市場にも見たことのない野草が並んでいたりする。それがまたキムチやナムルになってしまう。 ともかく、ナムルの実例を上げよう。 大豆モヤシのナムル(コンナムル)1. 一袋分の太めのモヤシにカップ五分の一ほどの水と塩小さじ一を入れ、火にかける。蓋をしたまま中火で5分くらい煎り煮する。2. ぶつ切りにしたワケギ4,5本、つぶしたニンニク少々、ゴマ、(好みで)化学調味料、粉トウガラシ大さじ一、ゴマ油の順に入れ、火を止め、混ぜ合わせる。 他にも様々な作りかたがあるが、これはソウルの友人、鄭さんに教えてもらったものだ。一番難しいのがニンニクの入れ具合。韓国ではたっぷりと入ったものでも、舌がニンニク不感症になっているからか、ニンニクの種類の違いで癖が強くないのか、どうもはっきりしないが、とにかく気にならないのだが、日本でこの料理に入れ過ぎると、食べられたものではない。微妙に入れているな、という程度で止めておいた方がいい。トウガラシは家によっては全く入れない。好みだから、入れずに試して、後で少しづつ加えて比べてみればいい。韓国出張では社員食堂のチゲをいやというほど、食べさせられた大使でおます。社員食堂のチゲ『食は韓国にあり』1『食は韓国にあり』2『食は韓国にあり』3『食は韓国にあり』4
2017.04.14
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図書館で『食は韓国にあり』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、思いのほかカラー写真が多くビジュアルである。30年ほど前の韓国料理は、如何なるものか♪【食は韓国にあり】森枝卓士、朝倉敏夫著、弘文堂、1986年刊<「BOOK」データベース>より力いっぱい食べる民族の爽快かつ豪快な食の世界<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、思いのほかカラー写真が多くビジュアルである。30年ほど前の韓国料理は、如何なるものか♪amazon食は韓国にあり飲み屋とか酒の飲み方を、見てみましょう。p155~162 <夜のつきあい> 俗にマッコリ・ハウスと呼ばれるのは、最も安い酒、マッコリを飲ませる食堂みたいな飲み屋だ。他の酒は置いていない。肴は民俗酒場と似たようなものだが、もっと安く、大衆的に楽しめる。その代わり、アンティック風の雰囲気はなく、単なる食堂風というか安飯屋の感じだ。 ビア・ホール。ホールというのはちょっと語弊があるくらいの普通の食堂サイズの飲み屋が多い。何故か韓国では税制の関係で、普通の瓶詰めビールよりも生の方が安い。その安い生ビールを飲ませるところだ。 韓国ではビールは食いものと合わないと思われているようで、焼肉を食べながらとかの飲まれかたはあまり見られない。ここでもスルメとかピーナッツとか、海苔等の軽いものだけが肴として置いてある。 さて、これまで挙げてきたような各種飲み屋は、焼肉屋などの食べもの屋と並んで、繁華街に散らばっている。ぶらぶら歩きながら、その時の気分、財布の中身次第で店を決め、1,2時間も飲んだら次にまた種類の違う店へと繰り返す。3人なら3次会、4人なら4次会までといった具合に、人数分の店に行くのが基本である。(中略) 戒厳令が実施されていた頃、夜中の12時以降は通行禁止令が出ていたので、その時間が迫るとタクシーの奪いあいに皆が必死になった。当然、飲み屋のほうもその前に閉めてしまわなければならなかった。それがなくなって久しいが、一般的な飲み屋は今でも12時前後には閉める。で、「もうちょっと飲み足りないね、最後に軽くもう一杯だけ行きましょう」という酔客を待ちうけるのが、屋台のポヂャンマチャである。 焼肉の章で記したように、イカ、アナゴ等の魚介類や肉を焼いたものの他に、おでん風の煮物が肴になる。酒は主に焼酎。マッコリを置いている場合もある。 もうかなりろれつの回らなくなった舌で、更に議論の泡をとばし、焼酎を流しこみ、とやっていると、気がついた時には宿や家で寝ているという状況になっている。 かくして、ソウルの夜は明け、二日酔いと後悔が残る。それが消えてしまう夕方、また誘いの電話が・・・。 「昨日はちょっと飲み過ぎでしたね。だから、今日は軽く一杯だけやりましょう」 信じてもらえないかもしれないが、これは全くの実話、しかも頻繁に起こることである。 それにしても、「もう許して、もう飲めません。酒なんか見るのも嫌」とでも言わないと許してくれないような相手も、ちょっと異常なのではないだろうか、と思わないでもなかった。しかし、どうやらこれが韓国式ホスピタリティらしい。田舎的といったら怒られそうだが、ドライで事務的な人間関係ではなく、友情、親切心の表現が徹底的なのではと思わないでもない。 軽く付き合うなんてできないのだ。それをうっとうしいと思う人間には嫌な国だと映るだろうし、ここちよく感じるなら素晴らしい国民性だと思えるだろう。蛇足だが、中国でも同じような感慨を持った。ただし、あちらの方は飲むところまで国営企業だから、官僚的でとても酔いつぶれるまで店を開けておいてくれない。短時間に強い酒をまとめて飲ませられる。酔いが回るころには宴は終わっているから救われるのだが。それはともかく、中国通の友人に言わせると、中国人は本来的に酒が好きというより、酒の席での接待とはそんなものと考えて大量に飲んだり飲ませたりするという。対して韓国人は飲むこと自体も好きで楽しんでいる点に違いがあるというが如何なものか。 ところで、徹底的に飲むことが韓国式ホスピタリティであるといっても、無礼講という訳ではない。むしろ、儒教の国、礼節の国であるから、「親しきなかにも礼儀あり」のほうである。 酒の飲みかたにも独特のマナーがある。先ず目立って悩まされるのが献杯。飲み干したらその杯を相手に渡し、酒を注ぐあれだ。日本の飲み会ではだいぶ廃れてしまったようだが、こちらでは完璧に生き残っていて、ビールでもやる。その席の主賓ともなると次から次へと杯かグラスが回ってきて、間違いなく酔ってしまう。 日本式とちょっと異なるのは、自分が元から持っていた杯を献杯してくれた相手にすぐまた渡す必用はないこと。また別の相手に献杯してじゅんぐりに回していってもいいのだ。ウン 献杯のマナーは大使のふるさとでは細々と残っているが、今の日本では消え去ろうとしている。でも概していえば、酒の飲み方が日本とよく似た韓国であり、稀有で貴重なパートナーだと思うのだが♪大使が友人と韓国旅行に行った際の飲み屋でのワンショットです。マッコリとホッケの開きを所望した次第でおます。『食は韓国にあり』1:キムチ作り『食は韓国にあり』2:韓国の中華料理『食は韓国にあり』3:日本式朝鮮焼肉
2017.04.14
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図書館で『食は韓国にあり』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、思いのほかカラー写真が多くビジュアルである。30年ほど前の韓国料理は、如何なるものか♪【食は韓国にあり】森枝卓士、朝倉敏夫著、弘文堂、1986年刊<「BOOK」データベース>より力いっぱい食べる民族の爽快かつ豪快な食の世界<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、思いのほかカラー写真が多くビジュアルである。30年ほど前の韓国料理は、如何なるものか♪amazon食は韓国にありサムギョプサルとか「日本式朝鮮焼肉」を、見てみましょう。p134~137 <焼肉の種類> 牛肉の焼肉以外にも勿論色々とある。簡単と言えばこれほど簡単なものはなく、しかも安くあがるのが、豚三枚肉を使ったサムギョプサルだ。この言葉の意味がそのまま豚三枚肉を指すのだが、それが料理名として通じてしまうところに人気の程が知れるというものだ。 調理法はソグム・クイとほとんど同じ。金網の代わりに鉄板か、家庭ならホット・プレートを使う。買ってきた豚三枚肉のスライスを一口大に切り、そのまま焼く。油が出てきたらタマネギ、ジャガイモなどをスライスして、シイタケ類は石つきを取って、一緒に焼く。時々出過ぎた油は捨てる。そうしないと油だらけになってしまう。食べ方はソグム・クイと全く同じ。粗塩入りのゴマ油で食べるか、マッジャンを使う。 御覧のように安くて簡単に出来るから、ソウルでは友人の事務所で仕事の時間が終わった後、よくホット・プレートを持ち出しては飲み会になった。病みつきになって、帰国してからも我家でよくやる。この場合、困るのはマッヂャンを作るためのテンヂャンとコチュヂャンの入手法だ。 コチュヂャンは比較的容易に手に入るのだが、テンヂャンはそれそうとうに努力しないと駄目なので、それも面倒なら普通に家庭にある味噌、できれば赤味噌を使う。けっこう似た味で楽しめる。是非とも試していただきたいものの一つだ。 ところで、こう見てくると内蔵、モツ類を使った焼肉はないのかと思われるだろう。それが、ほとんどないと言っていい。内蔵焼専門店も一部にはあるらしいと聞いたのだが、発見できなかった。それだけ珍しいということだ。唯1軒見つけだしたのが、屋台、ポジャンマチャのものだった。寿司屋でネタをガラス・ケースの中に入れてあるように、屋台の台の真ん中は焼きもののネタが占める。気に入ったものを注文すると七厘の網焼きで、切り分けて出してくれる。 さて、そのネタで、イカ、アナゴ等の海産物、豚三枚肉、鶏肉に混じって鶏の砂肝がある。海産物はそのまま皮をはいだぐらいで、特に味は付けないで焼く。食べるときに粗塩に化学調味料と粉トウガラシを混ぜたものに付ける。肉類はたっぷりの粉トウガラシ、ニンニク、少々のしょうゆ、ゴマ油など例の基本的調味料に漬けこんである。これはそのまま食べる。アナゴはちょっと生臭いかなと感じたが、イカなど塩焼きそのものだ。肉類はその味付けの組み合わせで想像のつくそのままの味だ。どれも焼酎を一杯というときにぴったりの肴としかいいようがない。 モツはあったとはいえ、砂肝だけ。では、他は何処へ行ったのか聞いてみると、「あれは焼くものじゃなくて、煮込むものさ」という返事が返ってきた。 日本人とは違って永い肉食の歴史を持つ民族だ。動物1頭屠ったら血まで含めて全部を有効利用するのが当たり前である。食べないところはないと言っていいだけの知恵を持っている。それで出した結論が内蔵は煮込んだ方が旨いということだったようである。(中略) 日本で朝鮮焼肉と呼ばれるようなものが普及したのは、終戦直後の食糧難の時代だったようだ。肉が食べられたら結構なことという時に、それまでは誰も顧みなかった内臓がホルモン焼きという形で迎え容れられた。つまり、パターンとしては韓国の屋台、ポジャンマチャでやるような味付けと焼きかた、材料としては当時でも比較的入手が容易だった内蔵を使うというアイデアが生まれた訳だ。それが関西地方を中心に広まり、やがて、肉が普通に食べられるようになるにしたがって、その焼き方で肉も使われるようになり、現在見られるような形の「日本式朝鮮焼肉」の店が広まったのではないだろうか。 それをはじめ広めたのは在日韓国、朝鮮人だが、自国文化をそのまま日本に持ってくるという発想ではなく、一部を借用して独自の焼肉文化を作ってしまったのではないか。いい例ではないが、アボカドを巻いた寿司、カルフォルニア・ロールみたいなものじゃないだろうか。 ウン 鶴橋のホルモン焼きなんか「日本式朝鮮焼肉」の典型なんだろうね♪『食は韓国にあり』1:キムチ作り『食は韓国にあり』2:韓国の中華料理
2017.04.14
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図書館で『食は韓国にあり』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、思いのほかカラー写真が多くビジュアルである。30年ほど前の韓国料理は、如何なるものか♪【食は韓国にあり】森枝卓士、朝倉敏夫著、弘文堂、1986年刊<「BOOK」データベース>より力いっぱい食べる民族の爽快かつ豪快な食の世界<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、思いのほかカラー写真が多くビジュアルである。30年ほど前の韓国料理は、如何なるものか♪amazon食は韓国にあり韓国における中華料理を、見てみましょう。p70~75 <外国料理店> 中国は歴史的にも地理的にも日本以上に近しい国であったから、中華料理も一般的である。ただし、家庭にまで入りこんでいるのではなく、あくまで店で食べるものとしてである。 韓国人にとって中華といえば地域的には山東省のものだ。地図を見ると分かるが、簡単に渡って来れるほど非常に近い。中国人民解放軍のパイロットや船員が亡命してきて新聞を賑わした話も記憶に新しいが、それより昔、社会主義中国建国の際、船で亡命して来て、韓国に住みついた華僑も数多かった。ともかく、そんな訳で山東式中華料理が広まった。勿論、それ以前から韓国に住みついている華僑もいる。 そして、料理自体に目をやると、何はともあれジャージャー麺(チャジャンミョン)である。これに対抗できるものといったら、少々ハンデをつけてもチャンポンくらいしかない。 ジャージャー麺といえば、中華麺の上に挽き肉などの具が入り、甘味噌で味付けしたたれをかけたものだが、韓国のものは何処でもやたらと甘い。お菓子を食べている気分になるほどだ。子供たちや女性を中心にこれがやたらと好まれる。食べかたも例によってという感じでビビムパブ風に混ぜ合わせてしまう。 少々脱線するが、僕が勝手に『極端の法則』と呼ぶ、食べものの嗜好に関するパターンがある。つまり、極端に辛いものを好む民族は甘さについても極端を求めるという一種の法則である。砂糖を固めてもあれほど甘くはならないほど甘さのきつい、インドやタイあたりのお菓子を御存知の読者なら同意してもらえると思う。辛いものに慣れた舌には極端に甘くないと甘さを感じられないのか、甘いものを食べるときでも刺激を求めるのか、その理由はまだ明確ではないが、とにかく辛いものを好むところでは、たいてい極端に甘いものも存在している。(中略) いささか牽強付会の独断を承知で言うと、この法則通りの嗜好がジャージャー麺に現れている。それ程、中華料理屋にある麺とは思えない程甘ったるい、不思議な味の麺なのである。 これに対して、日本と同じ呼びかたをするチャンポンの方は極端に辛い。たっぷりと魚介類と野菜をのせた麺の味に、これにまたたっぷりとコチュジャンか四川味噌だかで赤みを加えてあり、極端に辛い。それも、四川風の甘辛的辛さではなく、韓国式の鋭角的な辛さである。誰もこのルーツなど調べてはいないみたいで、僕の直感でしかないが、このチャンポン、名前の通り中国の方よりも長崎に連なっているのではないかと思う。それが韓国式『極端の法則』で辛いほうにアレンジされたのではないか。 この他の中華風麺類はそれ程人気がない。ラミョンと呼ばれるラーメンもないではないが、専門店など勿論なく、店で食べるものというより、インスタントものを家庭で軽食にする程度である。(中略) ところで、麺類以外の中華料理、山東料理の特徴だ。海に近いため魚介類を頻繁に用い、北方であるから、北京料理にも近く、粉食も多い。 韓国で食べていて特に感じるのは魚介類をよく使うことだ。中でも、干しナマコを戻したものが焼き飯、野菜炒め風のものにも多用される。元来生のナマコも好まれているから、その嗜好がそのまま中華料理を食べるときにも生きている訳だ。 こちらの方は中華料理の食べかたとは結びつかないと思うが、何故か焼き飯や酢豚にも必ずと言っていいくらいキャベツの千切りが付いてくる。それもケチャップをかけたものだが、なんでそうなのか、何人かに疑問をぶつけてみたが、皆、これが当たり前だと思っているらしく、不思議がるほうを不思議に思うという感じだった。韓国で食べた中華料理といってもジャージャー麺とチャンポンぐらいだけど・・・いまいちというか・・・はっきり言って、美味くないのだ。店主が韓国人に合わした味なんだろうけど、なんか愛情が感じられないんですね。(店主にしても、中国から逃れて来ただけかもしれないし)この中華料理店で食べたビビンカルクッスなど、メチャクチャに辛くて、悪意さえ感じたのだが(笑)ビビンカルクッス『食は韓国にあり』1:キムチ作り
2017.04.13
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図書館で『食は韓国にあり』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、思いのほかカラー写真が多くビジュアルである。30年ほど前の韓国料理は、如何なるものか♪【食は韓国にあり】森枝卓士、朝倉敏夫著、弘文堂、1986年刊<「BOOK」データベース>より力いっぱい食べる民族の爽快かつ豪快な食の世界<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、思いのほかカラー写真が多くビジュアルである。30年ほど前の韓国料理は、如何なるものか♪amazon食は韓国にあり今では中国産キムチの攻勢に圧倒されているキムチを、見てみましょう。p90~99 <キムヂャン> 「上等なキムジャン・キムチを食べないと、本当のキムチの味が分かったとは言えませんよ」 キムチ愛国者の韓国人たちはそう説く。本当にこんな言いかたをよく聞いた。我が国の誇る美味を、運悪く、出来の悪いものを食べたために全てが不味いと思われたらかなわないと、愛国心を発揮するのだ。で、キムヂャン見物から本物キムチ入門は始まったのだった。 訪れたところは京畿道利川郡。ソウル中心部から車で1時間ちょっとの郊外の農村地帯、焼きものの里としても知られる所だ。米作や白菜などの野菜作りの田畑、集落に混じって韓国特有の登り窯が点在する。人間国宝級の巨匠の窯から新鋭のものまで数多いのだが、中でも巨匠の一人、池順鐸氏のお宅が目的地である。 友人の一人、この本の取材でも度々お世話になった宋さんが先生のお店で働いていて、キムヂャンを見るにはソウルのような都会より田舎のほうがいいだろうと、窯に聞いてくれたのだが、「それならうちのを」と言っていただいた。昔の青磁、白磁を今に伝える人のお宅だから、キムチでも簡略化などされていない、正しい作りかたをしているに違いないと踏んで、喜んで好意を受けた。 朝早く着くと、もう塩漬けにされた白菜が庭先の樽の中に積んである。1昨日から1日干して、重石はしないで軽く塩漬けしておいたものだと、ハルモニが説明してくれる。他の材料も家の内外に所狭しと置いてある。 とにかく驚いたのがその量。書き抜いてみると次のようになる。 白菜150個。普通の大根20本と韓国独特の小さいチョンガク大根10キロ。ネギ、ワケギ計14キロ。ニンニク100個。アミの塩辛10キロ。粉トウガラシ15キロ。そのほかにも、ショウガ、干したイシモチ、生ガキ、やはり生のエビ、カラシ菜などの青野菜、それぞれ全てキロ単位で使うのだ。 この家は普段、夫妻と助手兼運転手の三人暮らしなのだが、それでこの量作っちゃうというのだ。客もけっこう多いし、別に住んでいる娘にも分けるし、白菜のキムチ、大根のキムチ(カクトウギ)と小大根のキムチ(チョンガク・キムチ)の三種類になると言うのだが、それにしてもこの量なのだ。ざっと計算して、冬の間、1日に白菜のを半個強、大根のをそれぞれ小ドンブリに1杯は食べることになる。それでも、ハルモニはこうのたまうのだ。 「余所はもっと沢山作るんだけど、うちは年寄りだけだから少なくてね」 僕らがたくあん、おしんこを、箸休めとか、おかずはほとんど食べてしまって御飯が少しだけ残ったときに、お茶漬けにしてかきこむために、ほんの二、三切食べる感覚と、キムチのそれはかなり違う。食卓でおかず一品分の地位を完全に確保している常備菜的存在なのだ。先にも述べたし、この本のあちこちにある食卓の写真でわかるように、キムチと汁ものがあればそれで食事が成立するのもそのためなのだろう。材料から見ても、単なる漬け物というより「」であることが、理解できるだろう。 さて、作りかたである。 「そんな難しいことは何もないよ。見ていたらわかる」 ハルモニはそう言う。で、見ていると先ず白菜のキムチの場合、こんな具合だった。 1. 先に塩漬けにした白菜を更に半分、つまり四分の一に割って、芯の固い部分を切り取り、たっぷりと張った水の中で洗い、積み重ねて水気を切っておく。 2.先の分量の白菜に対して、直径1メートルくらいの洗い桶二つにそれぞれ七分目づつ刺身のツマよりちょっと太めの千切りにした大根を用意する。 3.残りの大根は2,3センチ角のさいのめに切り軽く塩を振り、数時間置いて水気を出す。 4.小大根は洗って水を切っておく。 5.ネギは薄くスライス、ワケギはみじん切りしておく。 6.ショウガ、ニンニクは擂り鉢でつぶし、更に包丁で刻み、ほとんどペースト状にする。 7.干し魚のイシモチは水につけて戻しておき、刺身の一切れ程度に切る。大きめの魚なっら三枚におろしてから、小さめならそのままブツ切りに。 8.小エビは皮をむかないまま、みじんに切り、ミンチ状につぶす。 9.青野菜はざっくりと乱切り。 さて、これで下準備は完了。そのまま使うアミの塩辛や生ガキも含めて並べた。(ドングリ注:この調子で14工程まであるのだが、長くなるので省略) ともあれ、このようにして層を重ねていき、口いっぱいまでつめ、蓋をする。皿をひっくりかえしたような蓋だ。重石はしない。キムチ自体の重さで漬けこむのだ。 そこで保存である。このお宅ではコンクリートを敷いた物置小屋の中に穴を掘り、カメを埋めてあった。それに大きなビニール袋をいれ、中にキムチを詰め込んだ。農家の場合、普通は庭に穴を掘り、漬けたカメを埋めるのだという。すぐに食べる分は軒先に置いたりもするが、どれにせよ、要は温度差が少なく、しかもあまり暖かくならない所がいいらしい。
2017.04.13
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図書館で『東アジア中世海道』という本を、手にしたのです。おお 古来、良しにつけ悪しきにつけ東シナ海あたりは気になる海域でおます。【東アジア中世海道】民博編、毎日新聞社、2005年刊<民博サイト>より世界の海は、それを共有する多くの国と地域を結びつけ、人、もの、文化、技術などの相互交流の場として、歴史の揺籃となり、原動力となってきました。この展示では、特に12世紀から16世紀の東アジアの海を舞台にして、中国、高麗・朝鮮、日本、琉球などの国や地域、人々が相互に影響を与えながら育んだ交流の歴史と文化の煌めきを、考古、文献、美術、民俗資料など、多様な展示品を通して描こうと企画しました。<読む前の大使寸評>古来、 良しにつけ悪しきにつけ東シナ海あたりは気になる海域でおます。rekihaku東アジア中世海道倭寇と明官兵との接戦東シナ海海域の中世の歴史を概観してみましょう。p52~53 <海に生きた地域と人々>■中国人海商の活躍 中世の東アジア諸地域の交流は、海商や僧侶たちが主導したことに大きな特徴がある。 9世紀以降、大宰府の管理下にあるコウロ館には新羅や唐の商人が来航し貿易をおこなった。11世紀中頃にコウロ館が衰退すると、貿易の中心地は博多に移る。宋の海商が来航して、白磁や青磁などの中国陶磁器や銭貨などが持ち込まれた。博多には、中国人が居住する唐房がつくられ、中国人が海外の港において、倉庫・店舗・住居を構えて貿易をおこなう住蕃貿易が展開した。 また商船に同乗して宋に渡る巡礼僧もおり、13世紀には日本や南宋・元の禅僧が、商船に便乗して頻繁に往来した。2度の蒙古来襲で博多は大きな打撃を受けるが、その後に復興した。14世紀前半、鎌倉幕府や建長寺・称名寺などの寺社が、中国商船をチャーターして、寺社の造営費用を調達することを目的とする寺社造営料唐船を派遣した。新安沈没船は、東福寺と箱崎宮が派遣した寺社造営料唐船とみられる。■前期倭寇と海禁 14世紀後半になると、このような活発で平和的な民間の交流を抑制する動きが起きた。民衆の内部からは倭寇(前期倭寇、14~15世紀の倭寇)が出現し、朝鮮半島や中国大陸で米や人などを掠奪した。対馬・壱岐・松浦地方の人々がその主力とみられ、高麗の支配に抵抗する人々や賎民も加わっていたとの見解もある。明や高麗・朝鮮は、倭寇を軍事的に制圧するのとあわせて、日本に倭寇の禁圧や被虜人の送還を求めた。 1368年に明を建国した朱元請ショウ(洪武帝)は、一般の中国人が海上に進出することを一切禁止する海禁政策をとった。その一方、洪武帝は周辺諸国の国王に朝貢を呼びかけた。貿易は、明皇帝の冊封を受けた国王使のみに許した。こうして国家間で使節を派遣し、あわせて貿易をおこなう通交関係が形成されていく。■通交関係の展開 日本では、南朝の征西将軍懐良親王が洪武帝によって日本国王に封じられた。だが、九州探題今川了俊に博多を制圧され、実質的な交渉はほとんどなされなかった。1401年、足利義満は、祖阿・肥富を明の建文帝に派遣し、翌年日本国王に封じられ、日明貿易が開始された。1404年、義満は永楽帝から「日本国王之印」と勘合を与えられた。兵庫・境や博多は、遣明船の出航地としても栄えていく。 足利氏は、朝鮮や琉球との交渉を行っているが、朝鮮に対しては、ほかに守護や国人、商人・僧侶やもと倭寇だった人々などが、おれぞれ使節を派遣した。琉球船は畿内のほか、博多や薩摩にも来航いている。使節は京都五山などの禅僧が多く、外交文書の作成も彼らが担当した。商人は使節一行に加わることで、明や朝鮮との貿易をおこなった。日本海交通の発達により、中国陶磁器や蝦夷島などの産物が交易され、安藤氏の拠点である十三湊が栄えた。■後期倭寇の登場 国家や地域権力による通交関係は、16世紀になると衰退する。朝鮮における三浦の乱(1510年)や、明における寧波の乱(1523年)が、その契機になった。 かわって台頭するのが、中国人を中心とする後期倭寇(16世紀の倭寇)であり、彼らは密貿易をおこなった。16世紀になると、日本列島内では、石見銀山をはじめとする鉱山の採掘が進んでいた。倭寇は、銀の獲得を主たる目的として来航し、中国産の生糸や鉄砲などを日本に持ち込んでいる。このような倭寇のルートに、ポルトガル人、スペイン人も加わり、南蛮貿易がおこなわれ、境や豊後府内には、ベトナム産の陶磁器など東南アジアや中国の製品が持ち込まれた。■対馬と琉球 14世紀以降、上記の通交関係の中で台頭したのが対馬と琉球である。 朝鮮半島にもっとも近い対馬は、古くから朝鮮との関係が密接であった。朝鮮の成立後、対馬からは島主の宋氏らが多数の使船を送り、図書を入手したり、宋氏が文引の発行権を得るなど、さまざまな通交特権を得た。島民の中には、朝鮮半島南岸の海域において漁業をしたり、三浦の恒居倭のように朝鮮領内に居留する者も多かった。 対馬にとって、朝鮮との関係は命綱であり、15世紀後半~16世紀、宋氏らは偽使を派遣し、通交権の維持・拡大に腐心する。 明の朝貢要請にいち早くこたえたのが琉球である。按司たちがグスク(城)をつくり抗争している中で、沖縄本島では、中山・山北・山南という三つの勢力が形成されつつあった。1377年、中山王察度が明に朝貢したのを皮切りに、山南王・山北王が相次いで朝貢使を明に派遣した。その後、三山を統一した中山王尚巴志にはじまる第一尚氏や、クーデターによって国王になった第二尚氏の使節が頻繁に明に入貢し貿易をした。 このように明との密接な関係を背景に、琉球は、高麗や朝鮮・日本、シャム・マラッカなどの東南アジア諸国にも使節を派遣し、中継貿易によって栄えていく。 15世紀後半には彼らによる偽の琉球使節が朝鮮を訪れて貿易をしている。16世紀には後期倭寇やポルトガル人の台頭により、東南アジア諸国との交渉は衰退し、明や島津氏との貿易に依存するようになる。対馬・壱岐・松浦地方の民衆から、このような荒っぽい前期倭寇が生まれたのか。現在のこの海域には、日中韓それぞれが主張する領土問題があるが・・・国境を線引きするのが、どだい無理な話であり、棚上げしておくのがよいのでしょうね。
2017.04.12
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「東アジア」でしょうか♪<大学図書館>・東アジア中世海道・食は韓国にあり<市立図書館>・呪いの時代・妄想気分図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【東アジア中世海道】民博編、毎日新聞社、2005年刊<民博サイト>より世界の海は、それを共有する多くの国と地域を結びつけ、人、もの、文化、技術などの相互交流の場として、歴史の揺籃となり、原動力となってきました。この展示では、特に12世紀から16世紀の東アジアの海を舞台にして、中国、高麗・朝鮮、日本、琉球などの国や地域、人々が相互に影響を与えながら育んだ交流の歴史と文化の煌めきを、考古、文献、美術、民俗資料など、多様な展示品を通して描こうと企画しました。<読む前の大使寸評>古来、良しにつけ悪しきにつけ東シナ海あたりは気になる海域でおます。rekihaku東アジア中世海道************************************************************【食は韓国にあり】森枝卓士、朝倉敏夫著、弘文堂、1986年刊<「BOOK」データベース>より力いっぱい食べる民族の爽快かつ豪快な食の世界<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、思いのほかカラー写真が多くビジュアルである。30年ほど前の韓国料理は、如何なるものか♪amazon食は韓国にあり************************************************************【呪いの時代】内田樹著、新潮社、2011年刊<「BOOK」データベース>より巷に溢れる、嫉妬や妬み、焦り―すべては自らにかけた「呪い」から始まった。他者へ祝福の言葉を贈ることこそが、自分を愛することになる―呪いを解く智恵は、ウチダ的“贈与論”にあり。まっとうな知性の使い方と時代を読む方程式を考える一冊。<読む前の大使寸評>内田先生の言葉には、ネットの「内田樹の研究室」で常日頃からフォローしているのだが、エッセイ集としてまとまったものも・・・ええでぇ♪と思ったのです。amazon呪いの時代************************************************************【妄想気分】小川洋子著、集英社、2011年刊<「BOOK」データベース>より異界はいつでも日常の中にある。目を凝らし耳を澄ますと入口が見えてくる。そこを覗くと物語がはじまる。創作をめぐるエッセイ集。<読む前の大使寸評>内田先生の『呪いの時代』という重厚なタイトルのエッセイ集を借りたので、もう1冊は明るく軽いエッセイ集で中和しようという魂胆があったのでおます。rakuten妄想気分************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き209
2017.04.12
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図書館に予約していた『コンビニ人間』という本を、待つこと7ヶ月でゲットしたのです。新種のプロレタリア文学ってか・・・・なるほどね。芥川賞受賞作品としても気になる作品です。【コンビニ人間】村田沙耶香著、文芸春秋、2016年刊<「BOOK」データベース>より 36歳未婚女性、古倉恵子。大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。これまで彼氏なし。日々食べるのはコンビニ食、夢の中でもコンビニのレジを打ち、清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、毎日の安らかな眠りをもたらしてくれる。 ある日、婚活目的の新入り男性、白羽がやってきて、そんなコンビニ的生き方は恥ずかしいと突きつけられるが…。「普通」とは何か?現代の実存を軽やかに問う衝撃作。第155回芥川賞受賞。<読む前の大使寸評>新種のプロレタリア文学ってか・・・・なるほどね。芥川賞受賞作品としても気になる作品です。<図書館予約:(8/26予約、3/28受取)>rakutenコンビニ人間コンビニ経営テクニックが満載の、かつまたカウンセリング対象のような人格を描いた小説である。新種のプロレタリア文学というか、市場原理や非正規の怖さを静かに告発していると言えなくもないが・・・しかし、著者には悪いけど、こんな暗澹たる作品は嫌いでおます。
2017.04.11
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図書館で『定年後を極める』という本を、手にしたのです。「暇なら、働いたら・・・」という嫁さんの言葉を無視しているが・・・・気にはなっているのである。で、何かいい働き口はないかということで、借りたのだが。【定年後を極める】マネー&ライフ取材班編、日本経済新聞社、2003年刊<「BOOK」データベース>より定年後の人生をどう送るか。多くの人が期待と不安を抱いているのではないでしょうか。長年仕事に明け暮れてきた人にとっては、定年でホッとすると同時に、セカンドライフにうまく移行できるか不安の方が大きいかもしれません。本書は2003年2月に発売した『定年後大全』の続編です。『定年後大全』が資産運用や住まいなどに関する実用情報が中心なのに対し、本書はシニアの生き方に焦点を当てました。第1部では各界の第一人者に、生きがいや家族、恋、交友、おしゃれ、マネープラン、起業など12のテーマについてインタビューし、セカンドライフを送る人たちに、大胆でユニークなアドバイスをしてもらいました。第2部は、「私の定年後」をテーマに日本経済新聞で公募した読者七十一人の実践記で構成しています。<読む前の大使寸評>「暇なら、働いたら・・・」という嫁さんの言葉を無視しているが、気にはなっているのである。・・・・で、何かいい働き口はないかということで、借りたのだが。amazon定年後を極める定年後の暇のつぶし方か・・・・それはいいかも♪p128~130 <学問は暇をつぶせる:松井昭男> 定年を迎えて平均寿命まで17年間、この長さは小学校から大学卒業までの16年間よりも長いと考えると、この時間を無駄に過ごすわけにはいかない。会社勤務とは異なり、すべての時間が自分で自由に出来る時間である。 日本より一歩早く優雅に暮らす定年退職者の多かった米国ではいろいろ「Quality of Life」に関する出版物が多く、それらの本を読んでみたが、結局我が意を得たのは、読書、専門的な調査、スポーツ、旅行、絵画、ボランティア活動ならびに友達同士の社交等であった。 一方、以下のことも考えてみた。豊富な自分の時間を持つことができた西欧の近世の貴族達は一体何をして過ごしたのであろうか。16世紀末のフランスの思想家モンテーニュは貴族の家に生まれ、大学で法律を学んだ後、地方の裁判所や高等法院に勤めていたが、35歳で親友や父が死ぬと「自由と平等と閑暇」を求めて故郷の館の3階にある書斎に閉じこもり、古今の書物を読破する傍らあの有名なエセー随想禄で、「私は何を知っているか?」を繰り返し、自己の内外のあらゆる歪みや拘束から自由になり、自然のままに生きることに最高の価値を見いだした。 また18世紀フランスのサロンでは有閑マダム達は文学、政治、科学、思想を話題に議論し、デュ・シャトレ公爵夫人はニュートンやライプニッツの思想をフランスに普及させたと言われる。 さて、翻って結局自分の好きなことに没頭できれば、充実した時間を持てるじゃないかと考えた。その頃神田の古本屋街で一橋大学教授の野々村一雄が書いた『学者商売』という本を手に入れた。その中に衝撃的な言葉を発見した。それは「学問とは金と暇とを無駄遣いするものだ」と言うのである。僕はこの言葉を学問は暇をつぶせるものだと解釈した。 そうか定年後の長い人生、何か学問的なものに没頭すれば有意義な時間を過ごせるものと考えた。 ところで僕は大学で金属工学を学んだが、先生の講義にはそのような理論が、いつ、だれによって発見されたのかという時系列的な説明は皆目なかった。高校時代、数学史に興味を抱いていた者として、その点もの足りなく感じていた。その頃、書店で中沢護人の『鉄のメルヘン―金属学を築いた人々』や飯田賢一の『日本人と鉄―現代技術の源流と土壌』の本を入手した。これらの本ではだれがいつ、何を発明したか、その人達はどんな生活をしていたのか、それは社会のいかなる背景があって為された仕事なのかについて述べられていた。 定年退職により実験手段を奪われた今となっては新しい開発はできなくなったが、常に好奇心を持ってさえいれば、文献で技術の歴史をいろいろ調査できることに気がついた。さらに今ではインターネットにより知りたいことを検索すれば、国内外を問わず資料が容易に入手できることが分かってきた。 そこで定年直前に、日本科学史学会に入会することにした。現在は毎日数時間を鉄の歴史に関する調査に当てている。その結果をなるべく年一回の学会で発表するように心がけている。その一例を紹介すれば「19世紀の英国特殊鋼開発黎明期と米国への技術移転」等である。この記事を書いた松井さんは、難しい論文を書いているようで・・・単なる暇潰しではないようですね。(スンマヘン)
2017.04.11
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デジタル朝日・コラム記事によれば、スギなどの人工林が「切り時」で伐採ラッシュなんだそうです。不振を極めていた日本の林業であるが・・・やっと好機到来のようです♪ (2017.4.07デジタル朝日・コラム(けいざい+)から転記しました) 宮崎県北東部、日向市にある細島港の隣に、東京ドーム7個分の広大な敷地が広がる。国内製材最大手、中国木材(広島県呉市)の日向工場だ。積み上がった大小の丸太がひっきりなしにベルトコンベヤーで運ばれ、皮をそぎ落とし、建材などに加工されていく。 2014年に稼働し、投資総額は300億円を超える。国内最大の製材工場で、主に宮崎や鹿児島など九州南部から仕入れた原木を加工する。九州は全国のスギ生産量の3割超を占め、中でも宮崎県は25年連続で全国トップ。工場の岡田光弘副部長は話す。「土日も関係なくフル稼働です」 同社は主に国内の住宅向けに木材を製材して出荷するが、原木はもっぱら外国産を輸入してきた。安く大量調達できる一方、為替の影響が頭痛の種で、「血のにじむような効率化も円安で吹っ飛ぶ」と堀川保幸会長。 一方、国内に実は「宝の山」が広がっている。国土の2割以上を占めるスギなどの人工林の半分以上が、樹齢45年超で「切り時」なのだ。この好機に、同社は国産材シフトに踏み出した。 日向工場で大型化、効率化を追求。欧米産と価格で対抗できるようになった。大小あらゆる木の製材や乾燥を担える設備を備え、切った木を他の業者などを介さず運び込めるようにして費用を抑えた。20年までに製材能力を1.6倍に増やす方針で、「世界と競争できる『日向モデル』だ」(堀川会長)。東アジアへの輸出も見据える。 「国産シフト」は各地で広がりつつある。農林水産省によると、10年以降にできた大型の製材工場は20ヶ所以上ある。同省の担当者は「国産の原木を大量に製材できる体制が整いつつある」。 中国木材の日向工場への原木供給地の一つが鹿児島県曽於(そお)市。面積のほぼ6割が森林で、丸太を山積みしたトラックが市内をひんぱんに行き交う。 「今や市内や周辺の森林は伐採ラッシュ。依頼が多くて正直、追いつかないくらいだ」。市森林組合の富永昭文林産課長は言う。組合によるスギ原木の伐採量は15年までの10年間で33倍に。所有者に入る代金も1ヘクタール平均で50万円ほど上がった。 国内全体でも原木の生産量は増加に転じており、木材の自給率も、02年の約19%から15年に約33%まで高まっている。12年からの再生可能エネルギー固定価格買い取り制度も追い風だ。木質バイオマス発電も電力会社の買い取り対象で、「捨てていた曲がった木、小さい木にも価値が生まれた」と林業関係者は喜ぶ。 伐採でもカギは効率化。曽於市森林組合も、市などの補助を受け、冷暖房付きの運転席から操る「高性能林業機械」を増やしてきた。先についたノコギリで丸太の長さをそろえ、枝をそぎ落とし、向きをそろえて積む。複数の機械が、流れ作業のようにこなしていく。 ただ一方、林業の担い手は減り続けており、新規採用も思うにまかせない。曽於市森林組合でも今年度に新卒5人を募集したが、採用できたのは1人。また、木を切った後は資源を守るためにまた木を植え直す「再造林」が重要になるが、手入れの費用がかかることや人手不足などから、全国でみれば植え直す比率が2割に満たない地域もある。(柴田秀並)ウン 朗報には違いないが、樹齢45年超の「切り時」で若干潤っているだけのようです。こういう時こそ、「再造林」による持続可能な林業を目指して改革を進めるべきなんでしょうね。(けいざい+)「宝の山」伐採ラッシュ2017.4.07
2017.04.10
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図書館に予約していた『半農半Xという生き方』という本を、待つこと4日でゲットしたのです。昨今は、ⅠターンやUターンで営農希望の人も多いと聞くが、そのあたりが知りたいのです。【半農半Xという生き方】塩見直紀著、ソニーマガジンズ、2003年刊<商品の説明>より「年収300万円社会」を乗り越えて?好きなことをして食べていく時代! 半自給的な農業とやりたい仕事を両立させる生き方を、私は「半農半X」と名づけて提唱している。自ら米や野菜などのおもだった農作物を育て、安全な食材を手に入れる一方で、個性を活かした自営的な仕事にも携わり、一定の生活費を得るバランスのとれた生き方である。お金や時間に追われない、人間らしさを回復するライフスタイルの追及でもある。(本文より)<読む前の大使寸評>昨今は、ⅠターンやUターンで営農希望の人も多いと聞くが、そのあたりが知りたいのです。<図書館予約:(3/26予約、3/30受取)>amazon半農半Xという生き方京都府綾部市の移住者を、見てみましょう。p27~32 <「Ⅹ」を求め磨く人々>■移住者の北上現象 都会から、綾部近辺の田園への移住者が漸増している。 美山町は500人の移住者を数えるという。全人口の約1割にあたる。ここは萱葺の里として有名で、そこには日本の原風景がある。移住者の中には、陶芸、木工、書道などの創作活動をしながら小さな自給農を行っている人も少なくない。 田舎には後継者がいないため、空き家が増加しているだが、古くから移住が多い美山町にはもうその余裕がない。そのせいか、移住の北上現象も見られる。綾部、北に隣接する大江町、舞鶴市へと移住者が北上しているのだ。 綾部も例外ではなく過疎化が進んでいるが、移住者は増え、かなりの世帯数を数える。 綾部市は京都府の中部に位置し旧丹波の国。京都駅から山陰線特急電車で1時間のところだ。近畿の市では4番目の広さを持ち、人口約3万8000人。九鬼氏2万石の城下町で、明治以降は製糸業により発展し、グンゼ創業の地である。市名の綾部も古代からこの地に産出した綾絹にちなむと言われている。平家落人が伝えたとされる黒谷和紙もよく知られている。足利尊氏生誕地、大本教、合気道の発祥地でもある。 「里山ねっと・あやべ」のある地域をはじめ大半は、夏に冷房がいらない。雪は温暖化のせいか、積る日も少なくなった。 秋になると、清流由良川から川霧が立ち込めてくる。霧の都と呼ぶ人もいる。 綾部に移住者が目立つようになったのは、1992,3年ころからだろうか。当初は、なんらかの創作活動をしている人が多かったが、最近ではさらに多様な人が移り住むようになった。 しかし、共通するのは、みんな真摯に生き方、暮らし方を模索していることだ。■「自分の存在に自信が持てた」―映画字幕翻訳者の場合 1999年秋に移住してきた永田若菜さんは30代前半で、映画の字幕翻訳の仕事をしながら田んぼ2反、畑3畝を耕している。永田さんは余った分を家族や友人に分けている。 1年間の海外放浪経験を持ち、映画好きの永田さんは、在宅で好きなときに好きなだけ仕事ができるのが魅力ということもあり、1999年に字幕翻訳家として独立した。 前年、永田さんは岐阜県で新規就農した30代の青年と知り合った。彼と食糧自給率や環境問題で激論を闘わせたのだが、永田さんの考え方が机上の空論に思えたのだろう、彼から「当事者になってから言え」と一喝された。 愛知県の濃尾平野に生まれ育った永田さんは、田園風景に慣れ親しんでいた。 「お百姓さんを尊敬していた。でも、無意識のうちにお百姓さんと自分の間に境界線を引き、遠巻きに眺めていただけだった。農業や環境の問題を好んで口にし、机上の空論をばらまき散らしては自己満足に浸り、解決はすべて境界線の向こう側に押しつけていた」 と当時を振り返る。 それだけに、青年の一言が永田さんの心に、わだかまりとなって残った。 そこで綾部に移り住み農業を始めて4年になる松尾博子さんを紹介され、同年齢ということで親近感が湧き訪ねた。即決で彼女の家の離れを借りた。境界線を越えるチャンスだった。近所には米づくりを教えてくれる心強いカリスマ篤農家、井上吉夫さんがいる。インターネットと宅配があるので、字幕翻訳の仕事は続けられる。 しかし、移住当初は職業を明かすのに気が引けた。たとえば、近畿周辺で新規就農した若者たちと交流する機会がある。彼らの多くは農業に人生を懸けている。自己紹介をするたびに、彼らが「農業はそんな甘いものではない」と語っているようで、やりきれなかった。それを口にする人はいなかった。それは、農業で食べていこうとしていない、永田さんのコンプレックスから生まれた思いだった。 思い悩む気持に整理をつけるきっかけとなったのが、「暮らしのベースにあるのはあくまで『農』で、そのうえで自分に与えられた使命を尽くせばよい」という「半農半X」の考え方だったという。
2017.04.10
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図書館で『ドーン』という小説を手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、おお 平野啓一郎のSF小説ではないか♪期待できるかも。【ドーン】平野啓一郎著、講談社、2009年刊<「BOOK」データベース>より2033年、人類で初めて火星に降り立った宇宙飛行士・佐野明日人。しかし、宇宙船「DAWN」の中ではある事件が起きていた。世界的英雄となった明日人を巻き込む人類史を揺るがす秘密とは?愛はやり直せる。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、おお 平野啓一郎のSF小説ではないか♪期待できるかも。rakutenドーン中連(中華連邦)が誕生するあたりを、見てみましょう。p159~160 <俺は何に巻き込まれている?> 東アフリカ戦争について、ネイラーは、中国が中連へと体制を転換するに際して、当地でのプレゼンスが一気に低下し、代わって進出したロシアとの資源開発競争に加え、極度の貧困、原理主義的な宗教勢力の拡大、部族間抗争、独立運動とイデオロギー対立、武器の密輸入と溶解国家から垂れ流しになっている兵器の存在、憎しみの連鎖、幾つかの致命的な武装解除の失敗例、更には表沙汰にならない攻撃合戦について、ひとつひとつを丁寧に説明し、ハー政権が、その粗雑な情報分析と国連を無視した乱脈な過剰介入、更には外注する民間戦争企業の荒れによって、結果的に自ら戦争当事者となってしまっていることを痛烈に批判したが、その正しさを理解した有権者はほとんどおらず、ここでもやはり、キッチンズの「問題はそんなことじゃない。シンプルなのです。より安全で、平和な世界にするためにアメリカは何をすべきか?・・・そう国民一人一人が問いかけてみれば分かることです!」という反撃の破壊力の方が勝っていた。 更にキッチンズは、国際的な枠組み作りを無視した、帝国主義的膨張と批判されているハー政権の宇宙開発事業を、小惑星のレアメタル採掘への大胆な予算投入を柱として拡大する方針を打ち出し、関連株が軒並みストップ高になるというオマケまでついた。 明らかに、実態と掛け離れた宇宙ビジネスは、既にバブル化しつつあった。その傾向は、《ドーン》の有人火星探査成功後、とりわけ顕著だったが、エコビジネスのバブル崩壊後に、散々な目にあったはずの国民が、新たな投資先の登場に、まったく自制的でないことが、ネイラー陣営の悩みの種であり、彼らのより現実的で、抑制的な計画は、どうしても消極的に映り、見栄えが悪く地味だった。 《ドーン》に関連して、思いがけず妙な動きがあったのは、丁度その矢先のことだった。 最初こそ、それは選挙とはまるで無関係なことのようだったが、次第にそうでもなさそうな雰囲気になってきていた。 きっかけは、中連の火星衛星が捉えたという、《ドーン》クルーの火星滞在モジュール内での「手術映像」なるものの流出だった。 映像は、15秒ほどの短いもので、手術台らしいベッドの上に一人が横たわって、その傍らにもう一人が付き添っている様が、赤外線カメラによる不鮮明な映像に収められていた。顔は二人とも見えず、体もシーツらしきもので覆われているので、誰が何の手術をされているのかは分からなかったが、そうした手術の事実自体が、これまで公表されておらず、かつての「宇宙人モノ」を連想させる。そのいかがわしい動画の真偽を巡って、ネット上では様々な議論が交わされていた。流出先とされる中華連邦からの公式コメントはなかった。 たった半日で、様々な憶測が飛び交ったが、噂の一つに、こんなものがあった。・・・手術を受けているのは、現在もまだNASAのクリニックに入院しているノノ・ワシントンである。ノノは、単に精神失調を来たして地球に帰還したのではない。「メルクビーンプ星人」という宇宙人に火星で人体実験を施されたのだ。有人火星探査は、生きたままの人間を宇宙人に引き渡すための、壮大な偽装計画だった。NASAは、この事実を隠し続けている。・・・・ ノスタルジックなSF的妄想に彩られたこの噂は、次々にその「証拠」を積み上げてゆき、人気の小説共作サイト《ウィキノベルWikinovel》には、早速そのための数章が作られることとなった。おお 中国がソ連のような体制になるのは・・・・ちょっと無理っぽいけど、アメリカでは大統領選を控えてフェイクニュースまで登場するところが鋭いですね。更に読み進めてみます。p176~178 <問題としてのリリアン・レイン>《ドーン》が地球を出発してから4ヵ月半、ノノ・ワシントンの精神疾患の発祥から1ヵ月半が経過していた。火星軌道に到着するまでは、残りあと約2ヶ月の予定で、NASAとの交信は、既に3分ほどのタイムラグを来たすようになっていた。些細な時間ではあったが、クルーたちにとっては、それもまた、神経を掻かれるような不安と苛立ちの種だった。 地上では、湿度100%の室内に空腹状態で閉じ込められて、30年前のパソコンに、何度やっても正常にインストールできないアプリケーションのインストールを試み続けるといった、極力無意味なストレス負荷の訓練を、驚異的な忍耐力で冷静にこなすことが出来、火星と地球との交信の片道5分のタイムラグ・シミュレーションにも十分に対応していたクルーたちが、今やそのたった3分間に、どうしても耐えられなくなっているというのが、ヒューストンのジョンソン宇宙センターでは、深刻に受け止められていた。 事件は、そうした最中に起こった。 この日、ミッション運用部長のドナルド・スターン宛に届いたメアリー・ウィルソンからのメールは、所長のハロルド・アレン、宇宙飛行士室長イアン・ハリス以下、安全管理担当官、精神心理支援担当官、統括医療部長の計6名にのみ回覧されたが、一読後、誰もが、万事休すといった絶望的な気分になった。1兆ドルを費やし、アポロ計画以来の悲願として、NASAが総力を結集して取り組んできたこの有人火星探査プロジェクトも、今や崩壊寸前という暗澹たる予感が、それぞれの顔に染み渡っていた。 極秘の3時間にも及ぶ検討会議の末に、彼らは一旦、文章化された内容をメアリーに返信し、それから改めて対面で対応を協議した。 モニターの前に座ったメアリーは、憔悴を隠そうとしなかった。 「・・・とにかく、アストーに診察させるしかないが、・・・彼にその余裕があるかな?」 直接話す役目は、クルーたちの直属の上司で、彼らの信頼も厚いイアン・ハリスが引き受けた。質問してから6分待つ間に、手を叩いたり、腕組みしたりする彼女の様子を観察していた精神心理支援担当官は、頭に浮かんでくる考えを必死で押さえつけようとするかのように、時々、顎の筋肉を膨らませながら唇を噛み締めていた。 「ないと言えば、何か手立てがありますか?」 両手の親指で強く目頭の上を押すような仕草を見せてから、メアリーは苛立ちと格闘しながら言った。 「ノノのケアで、彼が限界に近づいていることは確かです。・・・しかし、クルーで協力して負担を分かち合うより他はありません。ニールも、一時のように取り乱すことはなくなりました。船内はむしろ、ノノの精神疾患を共通の困難と見做すことで、緊張感と団結とを取り戻しつつあります。火星着陸までの時間を、どうにか協力して乗りきろうとしているんです。・・・リリアンの今回の問題は、その危うい均衡に、取り返しのつかないダメージを与えるはずです。・・・現状を正確に認識して、実効性のある的確な指示を与えてください。ヒューストンの対応に、我々はまったく不満です。」 「・・・OK、分かった」『ドーン』1『ドーン』2
2017.04.09
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<『RARE(絶滅危惧種写真集)』2>図書館で『RARE(絶滅危惧種写真集)』という英語タイトルの本を、手にしたのです。おお ナショナル ジオグラフィックの本やないけ♪買えば高価なナショジオ写真集であるが、図書館で借りて観るのが至福というか・・・ええでぇ♪【RARE(絶滅危惧種写真集)】ジョエル・サートレイ著、スペースシャワーネットワーク、2013年刊<商品の説明>よりこれは『ナショナル ジオグラフィック』の写真家ジョエル・サートレイによる20年越しの代表的作品集だ。サートレイ氏は、北米に生息する絶滅危惧種の撮影を自らの使命としてきた。本書で紹介されているのは、カタツムリから食虫植物、オオカミからアメリカシロヅルまで69種。氏は本作品を通じて、全ての人々に野生生物の保護を強く訴えかけている。<読む前の大使寸評>買えば高価なナショジオ写真集であるが、図書館で借りて観るのが至福というか・・・ええでぇ♪amazonRARE(絶滅危惧種写真集)絶滅のおそれがある種に関する法(ESA)の成り立ちや現況を見てみましょう。p12~16 <最後の一羽> 絶滅のおそれがある種に関する法(ESA)は、1973年12月、リチャード・ニクソン大統領の署名によって成立した。以来36年間、この法律は野生生物にとって絶滅と生存の境界線に立つ休息所となり、絶滅のおそれのある生物の後見役のような役割を果たしてきた。呼び名に正確を期すなら、ある意味では「絶滅のおそれのある種とその生息地に関する法」と呼ぶほうが適切かもしれない。この法律の目的が、絶滅のおそれのある種を保護種に指定し、重要生息地を保護することで守ろうというものだからだ。(中略) ESAは緊迫感を伴った法律だが、それは1970年代に制定された大気浄化法や水質浄化法といった、その他の環境関連の重要な法律にも共通している。1962年に発表されたレイチェル・カーソンの『沈黙の春』や、クジラやアメリカシロヅルなど多くの種の個体数急減といった様々な事実によって、環境問題に対する人々の意識が高まり、これらの法律に緊迫感を与えたのだ。ESAは、ある意味では人間以外の種の「権利章典」、つまり基本的権利宣言の第一歩だと言える。 だが、今の地球に緊迫感を伴わない問題などあるだろうか。1973年には、アメリカ合衆国の人口は今より1億人ほど少なく、地球の人口は29億人ほど少なかった。科学者たちは、現在のような大規模な気候変動を、ようやく仮想しはじめた段階だった。今や次々と報告される生息地の消失や地球規模の森林破壊、水産資源の乱獲、渡り鳥の急減といった事実は、多くの種、いやおそらくほとんどの種の状況が、法律制定当時に比べて大幅に悪化していることを明示している。 そのような状況だというのに、今ではESA自体が存続の危機に追い込まれている。この法律は、1973年にほぼ満場一致で可決されたにもかかわらず、1990年度末からは再認可されず、複数年の予算が獲得できていない。現在では、内務省による年度ごとの申請で予算を得ているが、もちろんこれは大統領の政策に準拠した状況だ。絶滅危惧を回避できた種を見てみましょう。p140 <アメリカハヤブサ> アメリカハヤブサも、DDTの使用が禁止されたおかげで個体数が回復し、1999年に絶滅危惧種のリストから除外された。 上空から時速320キロのスピードでミサイルのように急降下する能力を持ったこの猛禽は、現在ではアメリカ全土に生息している。『RARE(絶滅危惧種写真集)』1
2017.04.09
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図書館で『RARE(絶滅危惧種写真集)』という英語タイトルの本を、手にしたのです。おお ナショナル ジオグラフィックの本やないけ♪買えば高価なナショジオ写真集であるが、図書館で借りて観るのが至福というか・・・ええでぇ♪【RARE(絶滅危惧種写真集)】ジョエル・サートレイ著、スペースシャワーネットワーク、2013年刊<商品の説明>よりこれは『ナショナル ジオグラフィック』の写真家ジョエル・サートレイによる20年越しの代表的作品集だ。サートレイ氏は、北米に生息する絶滅危惧種の撮影を自らの使命としてきた。本書で紹介されているのは、カタツムリから食虫植物、オオカミからアメリカシロヅルまで69種。氏は本作品を通じて、全ての人々に野生生物の保護を強く訴えかけている。<読む前の大使寸評>買えば高価なナショジオ写真集であるが、図書館で借りて観るのが至福というか・・・ええでぇ♪amazonRARE(絶滅危惧種写真集)この本にはオオカミの仲間として3種載っています。そのうちのメキシコオオカミを、見てみましょう。・メキシコオオカミ・アメリカアカオオカミ・ハイイロオオカミp94 <メキシコオオカミ> タイリクオオカミの亜種で、遺伝的差異が大きい。絶滅が危惧されるほどに個体数が減少しているが、飼育下の繁殖計画といった努力により、さらなる減少は食い止められている。 アリゾナ州とニューメキシコ州に飼育個体が再導入され、少数が定着しているが、密猟者やオオカミに敵意を持つ一部の住民など、いまだ問題は残されている。 基本的に、撮ろうとする動物が小さければ小さいほど撮影は難しいものだが、オオカミは例外だ。オオカミの撮影は常に難しい。J.S.絶滅した種の1例を見てみましょう。p14 <最後の1羽> ハイイロハマヒメドリ最後の1羽に与えられた永眠の地は、フロリダ自然史博物館のガラス容器の中だった。その鳥はオスだったが、今や鳥類標本の一つとして保存液に浸されて、羽を逆立たせ、目を固く閉じて眠っている。容器に取り付けられた紙製のラベルによると、この鳥が息を引き取ったのは1987年6月16日。その3年半後、政府官報に、ハイイロハマヒメドリが絶滅して絶滅のおそれのある種のリストから除外されたという事務的な記事が掲載された。 ハイイロハマヒメドリと、その重要生息地だったケネディ宇宙センターの拠点フロリダ州メリット島の塩性湿地は、もはやESA法の保護対象ではない。 メリット島のハマヒメドリを殺したものは何だったのだろう。犯人は、人間による生活改善の努力だった。人間は、この小さな鳥を捕って食べたり、撃って楽しんだりはしなかった。巣を破壊したのでも、新たな捕食者を導入したのでもない。島での暮らしを快適にしようと、生態系に手を加えただけだった。 だが人間がハマヒメドリの窮状に気づいた時にはもう遅かった。この鳥はミクリ科の草本が茂るメリット島の環境に特化しており、それ以外の環境では生きられない鳥だったのだ。生物を保護しようと思ったら、生息地や生態を考慮して保護計画をたてなければ意味がない。ガラス容器に眠るこの最後の1羽は、生息地を永遠に失った種の姿そのものなのだ。
2017.04.08
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図書館で『今夜もひとり居酒屋』という新書を、手にしたのです。最近読んだ池内さんの『本は友だち』という書評集が良かったので、この酒にまつわるエッセイ集も期待できそうである。【今夜もひとり居酒屋】池内紀著、中央公論新社、2011年刊<「BOOK」データベース>より居酒屋に人一倍したしむようになったのは、「二合半のおじさん」のせいである。三十代初めに出くわして三十年ちかくつき合った。そしていろんなことをおそわったーへんくつだが、心をひらいた者にはこよなくやさしい。そんな居酒屋が、方々の町の片隅で慎ましやかに提灯を掲げている。よく知る店もよし、見知らぬ町の見知らぬ店もよし。ふらりと入れば、酒に食べ物、店主と客が織りなす独特の時間がそこにある。<読む前の大使寸評>最近読んだ池内さんの『本は友だち』という書評集が良かったので、この酒にまつわるエッセイ集も期待できそうである。rakuten今夜もひとり居酒屋池内さんお奨めの珍味を、見てみましょう。p88~91 <珍味について考える> 塩辛をなめながらチビリチビリと酒を呑む。若いころ、そんな酒呑みを見るたびに首をひねった。何がたのしくて、こんなせこい呑み方をするのだろう? 箸の先っぽをチョイとなめては、お猪口を口に運ぶ。かわりばんこの手の動きを、昔の人は子供の遊戯になぞらえて「イタチごっこ」といったようだが、まさにイタチ式の呑み方である。それにイカの切れはしだか何だか、しょっぱいだけのしろものであって、塩の辛みをサカナにしているしみったれ・・・。 中年すぎたある日、自分が塩辛をなめなめチビリチビリやっているのに気がついた。いつのまにか塩辛が、魚の腸や卵巣を塩漬けにして、発酵させたものであることも知っていた。かつては「魚醤」と書いて、「なしもの」とよんだというから、「馴れ味」を賞味するとされたのだろう。箸の先に馴れた味を移しとって、口に運ぶのはしみったれではなく、いたってオーソドックスな「食べ方」なのだ。 居酒屋のメニューでは、たいてい「珍味」のところに入っている。塩辛というのは総称にあたり、店によっては総称を省いて個々の品目を掲げてあう。よく目にするのが「酒盗」だろう。カツオの腸の塩辛であって、数え方は「1本」という。物知り客は注文のとき、それとなく名前の講釈をまじえたりする。 「酒を盗んでも呑みたくなるほど旨いってねェ」 通説はそうだが、どうもそうでもないようだ。書物で知ったのだが、酒が馴れ味の旨みを盗み、馴れ味が酒の旨みを盗む。両者がたがいに盗み合うおもしろさをこめたのが酒盗だという。なるほど、こちらは通説より何倍か意味深い。たかがカツオの腸にこれだけ含蓄のある用語をあてるところが、酒呑みの世界のふところの深さというものである。 イカのワタと肉の塩辛が赤づくり。一般に塩辛といえばイカの塩辛と思われるほどおなじみだ。赤づくりにイカ墨を加えたのが黒づくり。メニューにはほかにも、いかにも珍味にふさわしいマカ不思議な名が並んでいる。 このわた うるか きりこみ めふん このわたはナマコの塩辛のこと。ナマコのワタを熟成させる。「ナマコのワタ」の上の二字を省いたわけだ。うるかはアユの卵と腸の塩漬け。きりこみは主にアワビのワタと肉からつくる。めふんはシャケの背ワタ。へんな名前だが、小皿にのって出てくると、いかにも「めふん」といった感じがするものである。 店によっては珍味の項にクジラのペニスとか、イナゴの黒焼きとか、ハチの子が並べてあって、何やらゲテモノ感をただよわせ、注文のときに気おくれを感じる向きもあるだろうが、大きなまちがいである。珍味こそ居酒屋文化がはぐくんだ特上品であって、料理屋ではいただけない。ちゃんとした割烹の献立についぞ見ないものなのだ。 それもゲテモノだからではない。だからもし珍味を献立に入れようものなら、ほかの料理が食われてしまう。酒盗とめふんはふるさとの珍味ということもあって、大使の好物なんでおます。もっとも、めふんの方は、川が汚れてきたせいか作る人がいなくなったようです。
2017.04.08
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図書館に予約していた『忘却された支配』という本を、待つこと約5ヵ月でゲットしたのです。今次大戦までの満州、台湾、朝鮮は日本にとって最初で最後の植民地であったが、その植民地支配とは如何なるものだったのかと、思うわけです。【忘却された支配】伊藤智永著、岩波書店、 2016年刊<「BOOK」データベース>より戦争体験と比べて、意識されることの少ない「植民地支配」の記憶。だがふとした日常に、その消えない記憶、忘れられない遺物が見え隠れする。宇部、北海道、筑豊、紀州、知覧、そして四国…炭鉱や特攻で死んだ植民地出身の犠牲者を想起し、追悼しようとする人びとの営みをたどる。植民地支配の体験とはなにか、それは日本にどのような感情や記憶を刻み、当時と今になにをもたらしているのか。毎日新聞の連載「支配した国 強制の記憶」をもとに単行本化。<読む前の大使寸評>日本にとって、最初で最後の植民地支配とは、如何なるものだったのかと思うわけです。<図書館予約:(11/17予約、4/04受取)>rakuten忘却された支配朝鮮支配の歴史を、見てみましょう。p173~177 <呉越同舟の近代史研究会> 宮田節子さんは早稲田大学史学科の卒業論文に「誰も手掛けていない分野」を探していた。在日朝鮮人の先輩が「朝鮮支配の歴史を誰もやらない」と怒るのを聞き、「私がやろう」と決めた。(中略) 宮田さんは数少なかった朝鮮史専攻の若い研究者たちを誘い、朝鮮近代史研究会が発足した。1958年、朝鮮戦争休戦から5年後のこと。メンバーは、学生が20代の宮田、姜徳相、梶村秀樹、権寧旭の四人。協会側は、4、50歳年長の朝鮮総督府元幹部ら四人。 植民地支配に批判的な学者の卵たちが、元統治者たちに体験談を聞き、資料を引き出し、議論する「呉越同舟の場」(宮田さん)である。毎週水曜日の午後6時、職員が帰った後に集まり、穂積の依頼で総督府の元幹部ら大物から、専門分野の実務担当者まで、多くのゲストを招き、貴重な証言を蓄積していった。のべ300回に及んだ討議は、すべて録音されている。 総督府の組織と人、民族運動と治安対策、土地調査事業、土地払い下げ、東洋拓殖会社、農政、林政、工業化、専売、教育、大学、鉄道、在満州朝鮮人、鉱業、水産業、逓信、発電、金融、米作、司法制度・・・・。テーマは行政の多岐にわたる。これだけ徹底して網羅的に「生の支配」の実態を直に聞き取った記録は、友邦協会の刊行物を除けば、後にも先にも他に例がない。 <支配意識なき植民地支配> 貴重な「二次体験者」となった宮田さんに、統治者たちの植民地観は、どう映ったのだろうか。 「朝鮮に対して良い仕事をしたという自負心が強く、過ちを犯したとは全く考えていなかった。日本の統治は、朝鮮を日本にしたのであって、イギリスのインド支配のような欧米の植民地支配とは違うと本気で信じていて、そもそも植民地という言葉さえ使いたくないのね。口にするだけで、もっと勉強しなさいと色をなして怒る人が何人もいましたよ」 アジアで唯一近代化に「成功」した日本と乗り遅れた朝鮮は、民族の祖先は同じ兄と弟、本家と分家のような、指導し指導される信頼の関係だったのであり、支配し支配される強制の関係ではなかったとする「日鮮同祖」論は、戦後も依然、根強い。 ある高齢の証言者は、熱弁の勢い余って、思わず宮田さんたちに「半島の青年諸君」と呼びかけた。関東大震災時の朝鮮人虐殺事件を巡っては、激論になった。 「いくら一視同仁、内鮮一体、皇民化と言ったって、同化政策の中身を具体的に聞けば聞くほど、矛盾はいくらでも出てきた。私は天皇制の問題だと思います。この支配者意識なき植民地支配は、直接の統治者たちだけでなく、間接の統治者であった日本人の多くがいまだに持っている。だから、在日コリアン問題も続く」 協会側のメンバーで事務局長役だった元京城新聞論説委員は、宮田さんたちを露骨に警戒した。出入りする元官僚たちからも「なぜアカ(共産主義者)のような学生たちに微妙な資料まで見せるのか」という反発はたくさんあった。穂積に相談したら、事もなげに諭された。 「あんな大きな戦争をして負けたのに、何の反省もしていない連中が多いんですよ。なに、あなた方は気にしなくていい。私だって、やってもいないことをやったとか、事実と異なる批判は承服できない。でも、朝鮮統治に対するどんな批判でも聞く耳を持っているつもりです」。穂積は協会内の不満を百も承知で、宮田さんたちを擁護し、自分が元気なうちは毎週の研究会を熱心に続けた。 「私たちも、元総督府官僚とつき合っているというだけで、頭撫でられているだけだと批判された時代です。結局、日本人一人一人が、朝鮮侵略と植民地支配をどう考えるか、無知と偏見はどこから来たのかを、自分で自分に問いかける内面の戦いなのです」。そう語る宮田さんは、早稲田大学、日本女子大学などの講師をしながら終生、在野の研究者を通してきた。 収集された膨大な資料は「友邦文庫」と名付けられ、穂積の死後、後任理事長のあっせんで学習院大学に寄託された。録音記録のうち特に重要な証言と討論は、音声を文字に起こし、宮田さんが構成を組み立て、内容を検討し、2000年から同大学東洋文化研究所の研究誌に「未公開資料 朝鮮総督府関係者 録音記録」として順次掲載されている。 半世紀たって音質が劣化しているうえに、話し言葉なので、発言の内容や微妙なニュアンスを判断できる人がほとんどいない。今や宮田さん自身が二次的な「生き証人」であり、史料価値を定着・普及させる最後の機会なのである。
2017.04.07
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