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図書館で『パリわずらい江戸わずらい』という本を、手にしたのです。JAL機内誌『スカイワード』人気連載単行本化の第3弾とのこと・・・ちょっと洒落ていて、海外旅行の気分も味わえるかも♪【パリわずらい江戸わずらい】浅田次郎著、小学館、2014年刊<「BOOK」データベース>より長春で梶井基次郎に思いを馳せ、ナポリでナポリタンを追い求め、ラスベガスでマイケル・ジャクソンと運命の邂逅…超多忙の作家が国内外で遭遇した笑いと感動の出来事を綴った傑作エッセイ集!招かれざる客、六十九次てくてく歩き、ちくわぶ綺譚、華麗なるカレー、チップの考察、アメニティ・グッズ、文明の利器、イタリアン・クライシス、ほか極上の40篇。<読む前の大使寸評>JAL機内誌『スカイワード』人気連載単行本化の第3弾とのこと・・・ちょっと洒落ていて、海外旅行の気分も味わえるかも♪rakutenパリわずらい江戸わずらいこの本からエッセイを一つ見てみましょう。p33~36<夕焼け小焼け> 私の本分は小説を書くことなのだが、年齢とともにそのほかの仕事が増えてしまって往生している。 どうにも子供のころから、「誰かがやる仕事」を「自分がやる仕事」と考えてしまう癖があり、よく言うなら責任感が強いのだが、つまるところ要領が悪いのである。 というわけで新日中友好21世紀委員会なるもののメンバーを引き受けてしまった。中国を舞台にした小説を勝手に書かせていただいているので、この際に多少のご恩返しができれば、という単純な動機であった。 新メンバーによる第1回の会合は、2010年2月7日から北京で開かれた。すこぶる楽観的な性格なので、現実に直面するまでは事の重大さに気付かないのである。で、ふと気付けば釣魚台国賓館の大会議室にチョコンと座っており、私の周囲には日中の各界を代表する著名な人々がズラリと並んでおり、夥しい数の報道陣に取り囲まれていたのであった。 二日間にわたる会議のあとは、中南海で温家宝国務院総理との会見だそうだ。むろん予定ぐらいは先刻承知のうえだが、現実が目前に迫るまでは他人事なのである。内心うろたえながら、しみじみと俺は呑気者だと思った。 ガラス張りの大会議室から眺める釣魚台の庭園は、昨夜来の雪景色であった。その純白の上に群れ遊ぶ鳥はカラスではなく、日本ではとんと見かけぬカササギである。 中国作家協会主席の鉄ギ先生は、お名前こそいかめしいが実は妙齢の美しい女性である。 「かつて訪日したとき、たそがれの東京の街に聞き覚えのある歌が流れていました」と彼女は言い、会議の席上でその歌を披露して下さった。 夕焼け小焼けで 日が暮れて 山のお寺の 鐘が鳴る おててつないで みなかえろう からすといっしょに かえりましょ 日本人なら誰もがそらんじている童謡である。古い歌は時代とともに消えていってしまうが、この歌は帰宅の時刻を知らせる合図として、今も日本中の校庭や街角に流れている。彼女はこの歌を、父から口伝えに教わっていたのだった。 私は鉄ギ女史の経歴を読んだ。1957年、北京生まれ。その1行の記述だけで、私の胸をたしかな想像が被った。 「お父上はどうしてこの歌をご存知だったのでしょうか」 と、私は質問をした。思わず声に出したとき、もしや禁忌を踏んだのではないかと思った。私の想像は日中全委員の想像だったはずだからである。新日中友好21世紀委員会はその名称からもわかる通り、両国の現在と未来とを語り合う会合であり、過去を省みる集いではなかった。 鉄ギさんは私をじっと見つめたあと、まるで示し合わせたような答えを口にして下さった。 「私の父は9歳のとき、華北の農村に進駐していた日本兵からこの歌を教わりました。軍歌か、あるいは宣撫工作のための歌かもしれないと思っていたので、私は歌わないようにしていたのですが、心が覚えていたのです」 それからの鉄ギさんと私とのやりとりは、禁忌を踏むとまでは言わぬが、おそらく会議の趣旨をたがえていたと思う。しかし言葉の聖火を握って走るそれぞれの国のランナーとして、言うべきことにはちがいなかった。 『夕焼け小焼け』は望郷の歌である。華北の農村にあった日本兵は、同じ歳ごろの子供を郷里に残していたのかもしれない。「おててつないでみなかえろう」と歌ったとき、兵隊は幼い少年の手を固く握ったと思う。カササギですら日が暮れれば森に帰るのに、戦に出たまま帰ることのできぬおのれの身を、歌に託して嘆いたのであろう。 戦争において言葉は無力だが、その名もなき兵隊の口ずさんだ『夕焼け小焼け』は、粉うかたなき芸術であった。少年は意味もわからぬままその歌を覚え、やがて娘に教え、その娘が長じて日本を訪れたとき、歌詞に込められた真実を知るのである。 鉄ギ女史は多くを語らず、明晰な一言で対話をしめくくって下さった。 「文学は時代の鏡、作家は時代の良心です」
2017.07.31
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図書館で『絲綢の道はるか』という本を手にしたのです。ぱらぱらとめくると、安野さんの挿絵がきれいである。また、作家と画伯が醸し出すボケとツッコミのようなテイストが・・・ええでぇ♪【糸綢の道(シルクロード)はるか】澤地久枝, 安野光雅著、文藝春秋、1987年刊<出版社>より紀行とカラー・スケッチの名コンビ。蘭州―敦煌―西安。作家と画伯は2000年余を遡る旅に出た、迷漢詩をひねりながら…。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、安野さんの挿絵がきれいである。また、作家と画伯が醸し出すボケとツッコミのようなテイストが・・・ええでぇ♪amazon糸綢の道(シルクロード)はるかお二人の敦煌探訪を見てみましょう。p62~64 <敦煌・砂の王国> 結果だけを書くと、わたしは午前中にスタインと王道士の劇的な出会いで知られる第16窟をふくめ、十窟見た。午後は12の洞窟を頑張って見たが、最後の第445窟はもう1段登らなければならないとわかって断念した。見たのは竹内氏一人で、「嫁聚図」のある窟だった。 午前も午後も、懐中電灯をめいめいにもち、行脚のようにして何キロ歩いたのだろうか。 子供一人のからだも入りきらないような小さな窪みにも番号が打ってあり、わずかに彩色の名残りがあった。蜂の巣様といわれるが、想像したより小さい各窟がびっしり身を寄せあってつづく。 「この暗いなかでよく描いたな」 と安野さん。各洞窟の、三方の壁から天井へ、隙間なく描かれた壁画を見てまわる。出入のたびに錠前があけられ、またしめられる。 「これはね、描けといわれたって描けないよ」 参観者はきわめて多く、かちあうと洞窟から人があふれそうになる。21日間の旅行中、ここでいちばん日本人に会った。参観者数のトップを占めるという。しかし、中国人もまたなかなか多い。白人のグループもまじる。 多くの壁面で、顔やからだを塗った肌色の顔料が、成分の化学変化によりルオーのセオイア色に変色している。仏の名や寄進者の名前を書いた短冊型の部分の文字が消え、白地でのこっている。これらが、精緻なモザイク模様のような壁画のつよいアクセントになっていた。異教徒によって顔面が削り落とされたことが逆にある効果をもたらしている部分もある。
2017.07.31
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「海外旅行」でしょうか♪<市立図書館>・絲綢の道はるか・パリわずらい江戸わずらい・伊丹十三の本・『暗黒神話』と古代史の旅<大学図書館>(今回はパス)図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【糸綢の道(シルクロード)はるか】澤地久枝, 安野光雅著、文藝春秋、1987年刊<出版社>より紀行とカラー・スケッチの名コンビ。蘭州―敦煌―西安。作家と画伯は2000年余を遡る旅に出た、迷漢詩をひねりながら…。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、安野さんの挿絵がきれいである。また、作家と画伯が醸し出すボケとツッコミのようなテイストが・・・ええでぇ♪amazon糸綢の道(シルクロード)はるか************************************************************【パリわずらい江戸わずらい】浅田次郎著、小学館、2014年刊<「BOOK」データベース>より長春で梶井基次郎に思いを馳せ、ナポリでナポリタンを追い求め、ラスベガスでマイケル・ジャクソンと運命の邂逅…超多忙の作家が国内外で遭遇した笑いと感動の出来事を綴った傑作エッセイ集!招かれざる客、六十九次てくてく歩き、ちくわぶ綺譚、華麗なるカレー、チップの考察、アメニティ・グッズ、文明の利器、イタリアン・クライシス、ほか極上の40篇。<読む前の大使寸評>JAL機内誌『スカイワード』人気連載単行本化の第3弾とのこと・・・ちょっと洒落ていて、海外旅行の気分も味わえるかも♪rakutenパリわずらい江戸わずらい************************************************************【伊丹十三の本】 「考える人」編集部著、新潮社、2005年刊<「BOOK」データベース>より幼年時代、少年時代、青年時代の未公開写真、湯河原の家、愛用品の数々、妻への手紙、息子への絵葉書、スケッチ、幻の映画監督デビュー作「ゴムデッポウ」、懐かしいCM/テレビ番組、単行本未収録作品、親交の深かった人々へのインタビュー、年譜…etc。エッセイストであり、俳優であり、映画監督であり、デザイナーであり、イラストレーターであり、翻訳家であり、料理人でもあった、空前絶後の才人の全貌をこの一冊に。<読む前の大使寸評>追って記入rakuten伊丹十三の本【『暗黒神話』と古代史の旅】ムック、平凡社、2014年刊<みんなのレビュー>より諸星大二郎のムックです。色々な方が暗黒神話や諸星大二郎について語っています。ちょっと難しいかも。(^^;<読む前の大使寸評>ブログ友お奨めの本なので、図書館に予約を入れたのでおます♪<図書館予約:(7/13予約、7/30受取)>rakuten『暗黒神話』と古代史の旅************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き234
2017.07.30
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図書館で『エメラルドの王国』という本を、手にしたのです。1992年刊とやや古い本だけど、記事と写真のクオリティは、さすがにナショナル・ジオグラフィックだと認めざるを得ないのだ♪【エメラルドの王国】ナショナル・ジオグラフィック協会、岩波書店、1992年刊<「BOOK」データベース>よりいま熱帯雨林でなにが起きているのか 種の絶滅、地球温暖化、森にむらがる人間たち…。消滅の危機が叫ばれている現地を徹底取材。<読む前の大使寸評>記事と写真のクオリティは、さすがにナショナル・ジオグラフィックだと認めざるを得ないのだ♪rakutenエメラルドの王国「森の恵み」を見てみましょう。p89~92<森の恵み:ジェニファー・C・アーカート> 木材産業は世界のあちこちで、何十年間もほとんど経済的な価値を生み出さない伐採跡地をつくりだしている。このような森林破壊を避けるための方法として、一部の専門家たちは森林の産物の持続的な収穫を提唱している。「我々はそれらを産物と見なすべきではない。」ワシントンにある世界資源研究所のニールス・ジョンソンは主張する。「なぜならば、それらはある場合には、木材よりも価値があるからだ。我々はいま、木材以外の森林の産物の経済的価値について、学びはじめたところなのだ」 ブロンクスにあるニューヨーク植物園のチャールズ・M・ピータースは、この意見に賛成する。彼の仲間たちは、それらの価値を実際に見積もる作業をはじめて行った。かれらはアセスメントのためにペルーの1万平方メートルの森林を選んだ。 そこから木材を伐採すれば、すぐにでも千ドルにはなった。これに対して、果物や木の実、ゴムなどの木材以外の物から得られる収益は、425ドルと見積もられた。しかし、前者は一度だけの収入であるが、後者は毎年得られる。もちろんピータース博士は、その見積価格が市場の変動にさらされていること、さらには、熱帯地方の森林がどこでも同じ価値を持つものでないことは認めている。 森を伐採することにともなう社会的コストという重要な側面も忘れてはならない。博士は言う。「アマゾン流域では、熱帯雨林からさまざまな産物を収穫して、それを売ることで生活している何百万人もの人びとがいる。」森を伐採してしまえば、これらの人々は定収入を失うことになるのだ。 たぶん、ブラジルで最も有名で、最大のこうした人びとの群れは、50万人ともいわれるセリンゲイロと呼ばれるゴム乳液採集人たちだ。パラゴムノキはアマゾン原産にもかかわらず、農園にかためて植えると病気にかかりやすい。そのため、ゴム乳液は今でも森林から採取される。熟練した人になると、森の中のゴムノキのある場所をたどり、つぎつぎに乳液を採るための傷を幹につけてゆく。 乾季を通じて、採取するゴムの量は1100ポンドくらいにのぼり、1ポンド23セントで売れるから多少の収入になる。雨期になると、かれらはブラジルナッツを採取する。複雑な生態学的仕組みがあるため、この木も農園ではうまく栽培できないのである。しかし、もっといろいろな、あまり一般に知られていないものなどを採取する人たちもいる。ブラジル政府は最近、これら数種の産物の取引額だけで、推計8600万ドルに達すると発表した。もちろん、これ以外の無数の小さな取引きは、これにふくまれていない。 熱帯のほかの地域、たとえば東南アジアでは、熱帯雨林の産物の交易は、おそらく5世紀ごろから盛んに行われてきた。船の水漏れ防止材とか、紙の仕上げ剤、香油、ジンジャー、それに中国人に好まれる燕の巣など、じつに種々のものがその中にはふくまれる。
2017.07.30
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図書館で『写実絵画とは何か?』という本を、手にしたのです。この本には若い女性を、実物どおりにきれいに描いた作品が多いのだが・・・ワイエスといい、ダリといいスーパーリアリズムは、大使のツボなので、借りたわけです。【写実絵画とは何か?】安田茂美, 松井文恵著、生活の友社、2015年刊<出版社>より実物と見間違えるほどの圧倒的な描写力で描かれた女性像、風景画、静物画をテーマ毎に紹介。刊行にあわせて11月からホキ美術館では5周年記念展を開催。また2016年にはホキ美術館展が全国6会場を巡回する予定。<読む前の大使寸評>この本には若い女性を、実物どおりにきれいに描いた作品が多いのだが・・・ワイエスといい、ダリといいスーパーリアリズムは、大使のツボなので、借りたわけです。rakuten写実絵画とは何か?「女性像の歴史」について、大使好みの箇所を抜き写ししてみました。p26~29<西洋名画で学ぶ女性像の歴史>■17世紀 オランダ絵画黄金時代へ 今やヤン・フェルメール(1577~1640)を知らない人はいないほど人気が高く、その作品は次々に日本の展覧会で紹介されています。フェルメールの生涯残した30数点の作品の登場人物は一人か二人で、室内で手紙を読んだり、鏡を見たり。生活の一瞬を切り取って描かれた小さな作品ですが、左から指す穏やかな光、あたたかなまなざしで描かれ、不思議な静けさに包まれた独特の世界を作り上げています。現地の美術館でも人気で、小さなこれらの絵の前にはいつも人が集まっています。特に《牛乳を注ぐ女》はその絵具の重ね具合が、背景も人物も同じ密度で丹念に描かれているのがよくわかります。自然光の降り注ぐアムステルダムの美術館でフェルメールが感じた同じオランダの光を浴びつつ出会う作品は格別です。■19世紀 写真誕生へ ロンドン・テート・ブリテンの中に、ラファエル前派の作品が多数展示されている部屋がありますが、そのなかで、ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829~96)の《オフィーリア》は細密描写でひときわ魅力を放っています。19世紀イギリスの任意画家ミレイは、文学や歴史的事件から題材をとった作品を細密描写でえ描き絶大な人気を得ました。木々や花が丹念に描かれた中、小川の中に浮かぶオフィーリアの透き通るような肌。その美しい色彩と繊細な表現にしばし時を忘れます。 1839年、ダゲールによりダゲレオタイプの写真が発明されたことで、肖像画家の環境は大きく変化しました。記録が写真に取って替わられるようになったのです。写実にはない表現を求め、印象派などが生れています。■20世紀~ 新たな写実絵画 20世紀になり、アメリカでは写真を投影して描くスーパーリアリズムが盛んになりましたが、そうしたなかで全く異なるテンペラ技法を用い丹念に描きだされたアンドリュー・ワイエス(1917~2009)の作品は絶大な人気を得ています。ワイエスは挿絵画家である父を持ち、ほぼ独学で油絵を学び、義兄がフィレンツェでテンペラを学んでいたことからテンペラ技法を始めました。 アメリカ東海岸の生地ペンシルヴェニア州チャッズ・フォードと別荘のあるメイン州クッシングの静かな町と自然を基盤に、その風景とそこに暮らす人々を描いています。この《女友達》もたいへんな細密描写で、その技術の奥に深い人間性を感じさせる作品となっています。
2017.07.29
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図書館で『本よみの虫干し』という新書を、手にしたのです。関川さんは、この本で「読み直す」ではなくて、大部分ははじめて読んだと明かして謙虚である。大使の場合はほとんど読んでいないので、まさしく日本近代文学のガイドブックになっています♪【本よみの虫干し】関川夏央著、岩波書店、2001年刊<「BOOK」データベース>より『にごりえ』、『三四郎』、『友情』、『一本刀土俵入』、『てんやわんや』、『点と線』、『父の詫び状』など日本近代文学の名作、話題作を、できるだけ現代人の視線から離れ、時代に即して読み直した日本近代文芸思想入門。愛、個人、人生、戦争、家族、病気、貧乏、異文化接触といった近代日本の重要テーマが鮮やかに浮かび上がる。<読む前の大使寸評>関川さんは、この本で「読み直す」ではなくて、大部分ははじめて読んだと明かして謙虚である。大使の場合はほとんど読んでいないので、まさしく日本近代文学のガイドブックになっています♪amazon本よみの虫干し幸田文の『流れる』を、見てみましょう。p120~122<技芸を頼んで生きるシングルたち> 1947年(昭和22)7月、幸田文は父露伴を看取った。 死の床で露伴は、片手を文の手にかけ、「おまえはいいかい」といった。文が「はい、よろしゅうございます」とこたえると、露伴はその手のひらといっしょにうなずき、穏やかな目のまま、「じゃあおれはもう死んじゃうよ」といった。(「終焉」) 文は婚家から戻ってすでに十年、父が逝ったら下駄屋か古本屋でもするつもりだった。が、請われるままに露伴の思い出を書くと、無駄のない、それでいて感覚的な文章が注目を浴び、『父―その死』『こんなこと』『みそっかす』をたてつづけに刊行した。 しかし1951年冬、彼女は突然「女中奉公」に出て、さまざまな職を遍歴した。名犬どもの世話をする仕事に応募すると、「犬には若すぎて惜しい」といわれた。その犬一匹の食費より安い給料で彼女は働いた。 柳橋の芸者置屋の下働きとして住み込んだときは40代も終る頃、「中年と老年の接ぎ合わせ目にあたる、ちょうど残り惜しさの代表みたいな年齢」になっていた。(昔のことですよ、昔の。女性が多忙で、かつ栄養は低く教養は高かった時代のことで、いまは50代でも全然残り惜しくはありませんね) 「蕎麦一ツ」の出前が平気で頼める、「鱈一トきれ、バナナ1本、なんでも一ツが気がねなく通る」、柳橋はそういう土地柄だ。置屋の看板を借りた芸者さんたちは家族に似て非、シングルたちが技芸を頼んで生きる町である。『流れる』はそこでの経験をもとに書かれ、55年雑誌連載、翌56年に出版された。 置屋の女主人は「芸があって綺麗」な人だ。「妙にくなくなっと優しいところがある」。芸者としては一流だったが、いまは「なにか事があると置いてけぼりされる」中年女性だ。売れっ子芸者は出て行く。おどしがかかる、税金の督促はくる、見る見る落ち目の置屋である。(中略) 文は6歳で母を失った。22歳で、結核の弟を懸命な看病の末に送った。露伴は文に家事百般を手ずから仕込み、この間彼女が、女子学院にかよいながら幸田の家を支えた。 柳橋の「くろうと衆」の耳目をそばだたせたものは、まさに父譲りの明治人の気概であった。ゆるみのない家事の合理性に鍛えられた挙止、手仕事とともにある教養の立ち姿そのものであった。 幸田文自身は露伴がこの世に残した作品である。しかし、才覚と美貌とを元手にひとりで生きる女たちが、世相の変転と自らの加齢にあらがう物語、あらがいきれずに滅びていく物語『流れる』は、たんに文豪の娘の作品ではなかった。 旧時代人に哀惜の視線を注ぎ、しかるに感傷とは縁なく冷静に描ききった、作家幸田文の「歴史小説」の傑作であった。『本よみの虫干し』1:カミュ『異邦人』『本よみの虫干し』2:へそまがりの山本周五郎
2017.07.29
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<『本よみの虫干し』>図書館で『本よみの虫干し』という新書を、手にしたのです。関川さんは、この本で「読み直す」ではなくて、大部分ははじめて読んだと明かして謙虚である。大使の場合はほとんど読んでいないので、まさしく日本近代文学のガイドブックになっています♪【本よみの虫干し】関川夏央著、岩波書店、2001年刊<「BOOK」データベース>より『にごりえ』、『三四郎』、『友情』、『一本刀土俵入』、『てんやわんや』、『点と線』、『父の詫び状』など日本近代文学の名作、話題作を、できるだけ現代人の視線から離れ、時代に即して読み直した日本近代文芸思想入門。愛、個人、人生、戦争、家族、病気、貧乏、異文化接触といった近代日本の重要テーマが鮮やかに浮かび上がる。<読む前の大使寸評>関川さんは、この本で「読み直す」ではなくて、大部分ははじめて読んだと明かして謙虚である。大使の場合はほとんど読んでいないので、まさしく日本近代文学のガイドブックになっています♪amazon本よみの虫干し不条理という言葉は、カミュ『異邦人』を語る際あたりから使われるようになったが・・・その『異邦人』を、見てみましょう。p134~136<群衆の中に描いた作者自身の顔> 「私は夏の夕べのかおりと色とを感じた。護送車の薄闇のなかで、私の愛する一つの街の、また、時折り私が楽しんだひとときの、ありとある親しい物音を、まるで自分の疲労の底からわき出してくるように、一つ一つ味わった。すでにやわらいだ大気のなかの、新聞売りの叫び、辻公園のなかの最後の鳥たち、サンドイッチ売りの叫び声、街の高みの曲がり角での、電車のきしみ。港の上に夜がおりる前の、あの空のざわめき」(『異邦人』) 夏の夕暮れどきは懐かしい。心を安らがせる。ただし、そう感じているのは処刑を翌日に控えた死刑囚である。 ヴェルレーヌは獄の高窓から聞えてくる遠い街区の幸福などよめきに、自分の飲酒癖と深酒の果ての狼藉を悔やんだが、『異邦人』の主人公ムルソーはまったく反省していない。不真面目な男ではないし、精神を病んでもいないムルソーだが、「あなたはフランス人民の名において広場で斬首刑をうけるのだ」という裁判長の宣告を、反省とは無縁の気分で聞くのである。『異邦人』の邦訳は1951年「新潮」に掲載された。戦中の外国文学飢餓のゆえのみならず、その「反抗的人間像」は戦後的空気にかなって広く受容された。 書き出しの一文は衝撃だった。「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない」 ムルソーの「無感動」ぶりが鮮烈に印象された結果、これ以後かなりかなり長い間「不条理」という言葉が流行した。
2017.07.28
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図書館で『鉄道員』という文庫本を、手にしたのです。『鉄道員』は高倉健主演の映画は見たが、その原作を読むのが今頃になっちゃって(汗)個人的な浅田ブームは依然として続いているというべきか♪【鉄道員】浅田次郎著、集英社、2000年刊<「BOOK」データベース>より娘を亡くした日も、妻を亡くした日も、男は駅に立ち続けた…。映画化され大ヒットした表題作「鉄道員」はじめ「ラブ・レター」「角筈にて」「うらぼんえ」「オリヲン座からの招待状」など、珠玉の短篇8作品を収録。日本中、150万人を感涙の渦に巻き込んだ空前のベストセラー作品集にあらたな「あとがき」を加えた。第117回直木賞を受賞。<読む前の大使寸評>『鉄道員』は高倉健主演の映画は見たが、その原作を読むのが今頃になっちゃって(汗)個人的な浅田ブームは依然として続いているというべきか♪rakuten鉄道員『うらぼんえ』の冒頭部の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p201~205 ちえ子には帰る家がなかった。 不幸な時代の話ならいざ知らず、今ではよほど珍しい境遇だろうと思うから、口に出したことはない。それが寡黙で控えめな自分の印象になってしまっていることも、よく知っている。 いきさつを考えれば、ふしぎなことは何もなかった。 物心つかぬころ父母が離婚をした。親権の定まらぬ間、とりあえずは父方の祖父母に預けられた。ところが、調停も進まぬうちに、父も母も再婚をして、それがどちらもよほど相性の良いつれあいであったのか、ともにあっさりと親権を放棄した。戸籍上の親は祖父母ということになった。 べつだん生活上の不都合はなく、不幸を感じたこともない。祖父母は若かったし、何よりも江戸前の洒落者で、実の父母と言っても誰も怪しまぬほど若く見えた。 母の行方はようとして知れない。祖父母が何も知らなかったはずはないが、おそらく縁の切れたものとしてちえ子には教えなかったのだと思う。 父という人は、祖母の葬式のときに一度見かけた。様子の良い妻と二人の子供を連れてやって来たのだが、通夜の席で祖父と揉めて、結局あくる日の出棺には姿を見せなかった。 そのとき父は、まったくお愛想のように「大きくなったね」というようなことを言い、ちえ子もお愛想で笑い返しただけだった。空白の十数年の重みを考えれば、父の不器用な挨拶も、むっつりと笑わぬ祖父の態度も、不本意そうな妻や弟妹たちのようすも、無理のないことだった。 高校生のときに祖母が死に、大学3年のとき、祖父が死んだ。 祖父のとむらいは長屋の大家と住人たちが出してくれたようなものだった。ちえ子はたったひとりの縁者として、ちんまりと棺の脇に座っていればよかった。 ずいぶん簡単なものだな、というのがとむらいの実感だったが、その手際の良さと人々の好意には理由のあったことを、ちえ子はじきに知った。 東神田のビルの谷間に、まったく奇蹟のように残った長屋を取り壊すことは大家の懸案だったのだ。土地高騰の真最中のことで、大家は住人たちにとって願ってもない立ち退き条件を提示していたのだが、最も古い店子の祖父が承知しなかった。なにしろ坪あたり数千万円という値のつく都心のことだから、大家の若夫婦が人寄せから段取りから、精力的に力を尽くすのは当然だった。 納骨の帰り、あらかじめ打ち合わせがあったのかどうか、会葬の住人たちはさっさと消えてしまい、大家の若夫婦との三人きりで、ちえ子は生まれて初めてフランス料理を食べた。 デザートと一緒に、大家はマンションの図面をテーブルに拡げたのだった。ねえ、ちいちゃん、と物言いは昔なじみのやさしさだったが、話は露骨だった。7階のワンルームに住むか、それとも百万円の立退き料を受け取るか。 マンションの家賃は、当然のことだが長屋のそれとは桁が違った。礼金も敷金もいらないと言われても、その家賃では百万持って出て行けというのも同じだった。 他の住人たちとは立退きの条件がちがったと思う。足元を見られたとはわかっていても、ちえ子には抗弁のしようがなかった。 こうして、ちえ子には帰る家がなくなった。 新幹線の中は冷房が効きすぎていて、おまけに夫の吐き出す煙がまともに顔にかかった。 ちかごろ煙草の量が増えたが、ちえ子にはたしなめる勇気がない。もっともストレスがたまって当たり前だとは思うが。 富士山が車窓から消えたあたりで、初めて言葉をかけた。 「むこうで、おとうさんやおにいさんに相談するの?」 いや、と言ったなり、夫は週刊誌から頭を上げようともしなかった。 「ねえ、聞いてよ。法事が終って、さあ親族会議なんて言われても、話すことに困るから」 「そんなことはしないよ」 夫は煙草を消すと、せわしなくもう1本をつけ回した。この気の小さい男が、よくも外科医になどなれたものだと思う。たしかに手先は器用だけれど。 「おとうさんもおかあさんも、知ってるんでしょう?」 「あにきは知らないよ」 「そんなわけじゃない。ひとつ屋根の下に暮らしてるんだから」 夫を責めてはいけないと思う。今さら平穏な生活を取り戻せるわけはないのだから、非を責めてかえって背を向けさせるような態度は、賢明ではない。 だが、肝心なときに怯えるばかりで何も言わなかった結果が、これだ。 「おとうさん、きっと私に何か言うわね」 「さあな。でも、あんまりわけのわからんことは言わないと思うよ」 「あたりまえじゃないの。私、何も悪いことしてないもの」 週刊誌をながめる夫の目はうつろだった。眼鏡をはずし、グリーン車の柔らかな照明を見上げて、溜息のような煙を吐く。 「私じゃなくって、小野さんを連れてくればよかったのに。それの方がみんな喜んだわよ」 「もう予定日が近いんだ。いま動かすわけにはいかないだろう」 怒りと情けなさとで、ちえ子は奥歯を噛みしめた。『鉄道員』1
2017.07.28
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図書館で『鉄道員』という文庫本を、手にしたのです。『鉄道員』は高倉健主演の映画は見たが、その原作を読むのが今頃になっちゃって(汗)個人的な浅田ブームは依然として続いているというべきか♪【鉄道員】浅田次郎著、集英社、2000年刊<「BOOK」データベース>より娘を亡くした日も、妻を亡くした日も、男は駅に立ち続けた…。映画化され大ヒットした表題作「鉄道員」はじめ「ラブ・レター」「角筈にて」「うらぼんえ」「オリヲン座からの招待状」など、珠玉の短篇8作品を収録。日本中、150万人を感涙の渦に巻き込んだ空前のベストセラー作品集にあらたな「あとがき」を加えた。第117回直木賞を受賞。<読む前の大使寸評>『鉄道員』は高倉健主演の映画は見たが、その原作を読むのが今頃になっちゃって(汗)個人的な浅田ブームは依然として続いているというべきか♪rakuten鉄道員『鉄道員』の冒頭部の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p9~12 美寄駅のホームを出ると、幌舞行の単線は町並を抜けるまでのしばらくの間、本線と併走する。 ガラス張りのリゾート特急が、1両だけのキハ12形気動車を、ゆっくりと眺め過ごすように追い抜いて行く。 ダイヤのいたずらか、それとも都会のスキーヤーのために用意された演出なのか、特急の車窓には乗客が鈴なりになって、朱い旧国鉄色の単行ジーゼルを見物している。やがて鉄道員線が左に大きくカーブを切る分岐まで来ると、特急の広いガラスごしにはいくつものフラッシュが焚かれるのだった。 18時35分発のキハ12は、日に3本しか走らぬ幌舞行の最終だ。 「ふん、いいふりこきやがって、なんも写真まで撮ることないしょ。ねえ、駅長さん」 若い機関士は雪原を別れて行く特急をちらりと振り返ってから、助手台に立つ仙次を見上げた。 「なあにはんかくさいこと言ってんだ。キハ12っていったらおまえ、今どき文化財みたいなものだべ。中にゃわざわざこいつを見るために内地から来んさるお客もいるべや」 「したらさ、なして廃線にすんの」 「そりゃおまえ、輸送密度とかよ、採算とか、そういう問題だべ」 ははっ、と機関士は親指を肩の上に立てて振った。1両きりの客席に人影はなく、緑色のシートがほの暗い蛍光灯の下に並んでいる。 「へえ。美寄中央駅の駅長さんのお言葉とは思えんねえ」 「なして?」 「したっておやじさん、もともと幌舞線は輸送密度もくそもないしょ。俺、もう4年乗務してるけど、高校が休みになりゃいつもこうだべさ。だからあ、なして今さら廃線にするのかってことです」 「知るか、そんなこと。ここまでもったのは過去の実績の論功勲章だべ。おまえだって幌舞の生まれなら、昔の賑わいは覚えてるべや」 終着駅の幌舞は、明治以来北海道でも有数の炭鉱の町として栄えた。21.6キロの沿線に六つの駅を持ち、本線に乗り入れるデゴイチが、石炭を満載してひっきりなしに往還したものだった。それが今では、朝晩に高校生専用の単行気動車が往復するだけで、途中駅はすべて無人になった。最後の山が採鉱を停止してから十年が経つ。
2017.07.28
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「手当たり次第」でしょうか♪<市立図書館>・写実絵画とは何か?・フクシマの荒廃・鉄道員・本よみの虫干し<大学図書館>・エメラルドの王国図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【写実絵画とは何か?】安田茂美, 松井文恵著、生活の友社、2015年刊<出版社>より実物と見間違えるほどの圧倒的な描写力で描かれた女性像、風景画、静物画をテーマ毎に紹介。刊行にあわせて11月からホキ美術館では5周年記念展を開催。また2016年にはホキ美術館展が全国6会場を巡回する予定。<読む前の大使寸評>この本には若い女性を、実物どおりにきれいに描いた作品が多いのだが・・・ワイエスといい、ダリといいスーパーリアリズムは、大使のツボなので、借りたわけです。rakuten写実絵画とは何か?************************************************************【フクシマの荒廃】アルノー・ヴォレラン著、緑風出版、2016年刊<「BOOK」データベース>より本書は、フランスの日刊紙『リベラシオン』の特派員が、福島第一原発事故の除染・廃炉作業に携わる労働者などフクシマの棄民たちから原子力村の面々までを独自の取材とインタビューでまとめた迫真のルポルタージュである。【目次】第1章 非日常に向かって/第2章 早熟な若者/第3章 埠頭/第4章 人間蟻塚/第5章 原発の足元で/第6章 原発ジプシー/第7章 下請けのマトリョーシカ(ロシア人形)/第8章 過剰被ばくの健康への影響/第9章 フクシマの子/第10章 フクシマをつくった男/第11章 日本原子力ムラ<読む前の大使寸評>遠慮のない外国人ジャーナリストなら、福一原発はどう見えたのか・・・興味深いわけです。<図書館予約:(2/02予約、7/25受取)>rakutenフクシマの荒廃************************************************************【鉄道員】浅田次郎著、集英社、2000年刊<「BOOK」データベース>より娘を亡くした日も、妻を亡くした日も、男は駅に立ち続けた…。映画化され大ヒットした表題作「鉄道員」はじめ「ラブ・レター」「角筈にて」「うらぼんえ」「オリヲン座からの招待状」など、珠玉の短篇8作品を収録。日本中、150万人を感涙の渦に巻き込んだ空前のベストセラー作品集にあらたな「あとがき」を加えた。第117回直木賞を受賞。<読む前の大使寸評>『鉄道員』は高倉健主演の映画は見たが、その原作を読むのが今頃になっちゃって(汗)個人的な浅田ブームは依然として続いているというべきか♪rakuten鉄道員************************************************************【本よみの虫干し】関川夏央著、岩波書店、2001年刊<「BOOK」データベース>より『にごりえ』、『三四郎』、『友情』、『一本刀土俵入』、『てんやわんや』、『点と線』、『父の詫び状』など日本近代文学の名作、話題作を、できるだけ現代人の視線から離れ、時代に即して読み直した日本近代文芸思想入門。愛、個人、人生、戦争、家族、病気、貧乏、異文化接触といった近代日本の重要テーマが鮮やかに浮かび上がる。<読む前の大使寸評>関川さんは、この本で「読み直す」ではなくて、大部分ははじめて読んだと明かして謙虚である。大使の場合はほとんど読んでいないので、まさしく日本近代文学のガイドブックになっています♪amazon本よみの虫干し【エメラルドの王国】ナショナル・ジオグラフィック協会、岩波書店、1992年刊<「BOOK」データベース>よりいま熱帯雨林でなにが起きているのか 種の絶滅、地球温暖化、森にむらがる人間たち…。消滅の危機が叫ばれている現地を徹底取材。<読む前の大使寸評>記事と写真のクオリティは、さすがにナショナル・ジオグラフィックだと認めざるを得ないのだ♪rakutenエメラルドの王国************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き233
2017.07.27
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図書館で『韓国夢幻』という本を手にしたのです。ぱらぱらとめくると、文字の頁と写真の頁が交互に繰り返す装丁になっています。つまりは、韓国に関する民俗学的ビジュアル本であり・・・ええでぇ♪【韓国夢幻】伊藤亜人著、新宿書房、2006年刊<「BOOK」データベース>より忘れ去られた70年代の韓国原風景、180点の写真を収録。【目次】1 朝鮮韓国研究のはじまり(文化人類学から朝鮮韓国研究/惹かれた民俗学の世界/水上生活漁民への関心 ほか)/2 珍島の調査研究(珍島をフィールドに選んだわけ/珍島の友人/不思議な話をする朴柱彦氏 ほか)/3 両班の村-安東(李退溪の宗孫/両班/漢学の世界 ほか)<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、文字の頁と写真の頁が交互に繰り返す装丁になっています。つまりは、韓国に関する民俗学的ビジュアル本であり・・・ええでぇ♪rakuten韓国夢幻珍島のフィールドワークの続きを、見てみましょう。p77~80 <満月の夜に揺れる人影> こうして72年からは毎年のように珍島に通いました。最初の頃は街から商品経済とか交通が浸透する以前の農村社会だったといってもよいですね。服などは他の地域から入ってきましたが、食は自ら作った物を食べる生活でした。しかし、道がよくなりバスが通るようになるとだんだん街や都市との関係が緊密になってきました。と同時に村の人は外へ次々と出て行ってしまいました。 最初に訪ねた頃の村は、大人も若者も子供もワイワイワイワイしていました。特に月明かりが明るくなり始めると、村の人たちは夕食が済めば村の広場の方に出てきて、あちこち賑やかでした。 娘たちは縁側に座って歌を歌ったりお喋りしています。垣根越しに通り掛かった大人たちが声をかけると娘たちも負けずと声を返して皆を笑わせます。広場では子供たちが月の光の下で皆で縄跳びをしています。トランジスター・ラジオを聞きながら歩く人もいます。満月の頃になるとこうして皆遅くまで戸外で過ごします。(中略) しかし月がすこしずつ欠け始めると、皆の気持ちもだんだんと落ち着いてゆき、やがて新月近くになると夕食後、外を歩く人も無くなります。たまに暗闇をゆっくり歩む人のタバコの光がゆらゆら見えるのです。皆ひっそりとして早寝するようで、私も夜遅くまでランプを点けているのは気がひけて、明りを落したりしました。豚も鼠もひっそりとします。 そんな夜、嶺越しの松風に紛れてかすかに銅鑼の音が聞えるようで、耳を澄ますと確かに銅鑼です。そっとその音のする方に近づいてゆくと、村の外れの三叉路や橋の袂でタンゴル巫が儀礼をやっているのです。厄払いや病気の災いを追いやる厄メーギとか三災メーギという儀礼です。そんな儀礼がこの村ではほとんど毎週のように見られたものです。 村にも77年にようやく電気が入りました。その頃には、ソウルなど大都市の周辺に工業団地もあちこちにできて、若者や女工さんの仕事場も一挙に増えておりました。70年代の初めには村から都会に出ても、親戚が店の経営をしていればそこで店員になる機会もあったでしょうが、そうでもなければ住み込みの女中、靴磨き、ドアボーイ、縫い子さん、バスの車掌さん、飲食店の出前ぐらいの職しかなかったように見えました。それ以外には喫茶店や飲み屋のように蔑視される職場となります。 私が村に住み始めた72年はセマウル運動がようやく軌道に乗り始めた頃で、村の火の見櫓に拡声器がありまして、早朝からセマウル運動の歌が流されるんです。その後で、里長が今日の作業について通達するのです。ウン 商品経済とか交通が浸透する以前の農村社会ってか・・・70年代の珍島は明治維新時の日本の農村のような雰囲気があったのかも♪『韓国夢幻』1『韓国夢幻』2
2017.07.27
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図書館で『中国55の少数民族を訪ねて』という本を手にしたのです。巻頭に55の少数民族のカラー写真が載っていて、圧巻である。この本は、4年間にわたる日中合作プロジェクトから生まれた労作とのことである。【中国55の少数民族を訪ねて】市川捷護, 市橋雄二著、白水社、1998年刊<「BOOK」データベース>よりこんなにすてきな人たちがいる!世界初。辺境10数万キロを踏破して出会った、歌と踊りと祈りのある暮らし、全記録。【目次】第1章 雲南をめざす/第2章 怒江上流の峡谷を行く/第3章 大凉山からチベットのふもとへ/第4章 ミャンマー国境の山岳地帯へ/第5章 西北イスラムの大地/第6章 モンゴルと狩猟民の末裔たち/第7章 ミャンマー国境から海南島へ/第8章 貴州の山を分け入る/第9章 シルクロードの民/第10章 山の民と海の民/第11章 チベット、そしてインド国境地帯へ<読む前の大使寸評>巻頭に55の少数民族のカラー写真が載っていて、圧巻である。この本は、4年間にわたる日中合作プロジェクトから生まれた労作とのことである。rakuten中国55の少数民族を訪ねて新疆ウイグル自治区のさまざまな民族を、見てみましょう。p235~238 <異文化への入口> 新疆ウイグル自治区の首都ウルムチは東アジア系、中央アジア系、ロシア系など様々な顔つきや肌の色、服装の人々が暮す、国際都市の趣きがある。看板には漢字とともにウイグル文字(アラビア文字を基に作られたウイグル語を表記する文字。右から左へ書く)が並び、バザールに足を踏み入れると香辛料を使った羊肉の串焼きの匂いがたちこめている。 しかし、全体的な印象としては、漢民族中心の町だ。清朝時代以来の中国による支配、そして近年では油田開発に伴う石油産業の勃興などで他省からの漢民族の移住が進んでいる。北京政府にとってはここは辺境統治のための政治、軍事の拠点であり、相当数の政府、軍関係者が中央から送り込まれている。街のたたずまいは他の地方都市とあまり変わらない。 今回は新疆ウイグル自治区の南端から北端まで、二千キロ近い距離を移動しながら、43日間の日程で八つの民族を訪ねることになっている。1995年6月16日、最初の民族であるキッルギス族の撮影地をめざして、私たちはカシュガルに向かった。ウルムチから飛行機で1時間半、カシュガルの空港に着くと思わぬ人たちが私たちを出迎えてくれていた。 中国側スタッフの一人、レイハンさんの家族と親族たちだ。彼女はウイグル族の出身で、今回のロケでは、それを活かして現地とのコーディネイションを行うことになっている。 空港から市内へ向かう道中、車窓からの眺めに釘づけになった。日暮れの時刻ではあったが、ドーム形の屋根をした建物、土壁の民家、荷車にむちを持った男が座り、馬を御している姿、ウルムチで受けた印象とは違って、そこはまさしくシルクロードが栄えた中世の都市そのものであった。 日本側スタッフは一様に「これが中国か!?」という思いに駆られた。北京から来ている中国側スタッフも自分の国とはいえ、その景色を目の当たりにして驚きを隠しきれない。今回のロケの舞台は、私たちが中国に対して抱いているイメージとはまったく異なる異文化世界なのだということを感じさせた。 <軍事基地と遊牧民> 中国領内のキルギス族は人口約14万人(1990年)、定住して暮らす人々もいるが、私たちの狙いは今なお遊牧を続ける人々の芸能を撮影することである。そのためには、かなり奥地に入らなければならない。6月17日、キルギスタン共和国国境の山岳地帯をめざして、カシュガルを出発した。 今回は野営に備えて、通常の機材車2台とスタッフ用のミニバスに加えて、水や食料を積み込んだトラックを伴走させる。途中、ウチャ県までは道路もほとんど舗装されており、2時間ほどで到着した。ここで、県長と民族事務委員会主任らの出迎えを受け、ロケ地の情報を集める。 ここから先は、土砂道を行かねばならない。眼前にはパミールの峰がそびえる。道をさえぎる石を取り除いたり、岩場では車を押したりして何度も車を降りる。標高2500メートルあたりからは、土砂混じりの強風などの作用のためだと思われるが、表面がつるつるになったり、穴が開いたりした奇岩の群れや、オーストラリアのテーブルマウンテンに似た大きな台形状の山など、自然が作る見事な造形物が次々と現れる。外は砂嵐が舞ったと思うとひょうが吹きつけたり、天候もめまぐるしく変わる。周囲に人の住む気配はなく、緑もない。荒涼とした風景が続く。ここはまさに自然が支配する場所だ。 前方に大きな川が見えてきた。しかし、そこから先の道が見えない。雪解け水で増水した川が道を削り流してしまったのだ。この先の道路に出るには、いったん川のなかに入って迂回するしかない。果して無事に川を渡ることができるのか。日暮れが迫ってきた。1日で目的地に行く予定を変更して、途中の集落まで引き返し、民家に泊めてもらうことにした。その夜は冷え込んだ。日本を出発する前は、新疆といえば砂漠、乾燥、強い日差しというイメージが強くて、暑さに備えることに気をとられ、寒さ対策を怠っていたので、薄着のまま寒さに耐えるはめになった。 翌朝はどうやってこの先に進むカデコーディネイターらが動き回った。幸いにも近くの軍の駐在所から大型トラックを二日間借りられることになった。ロケ日程からすると撮影に3日かける予定であったが、他に選択の余地はない。私たちが乗ってきた車は四輪駆動の機材車2台以外は待機してもらい、スタッフ全員が軍用トラックの荷台に乗り込んだ。放牧地では燃料用の木材が不足しているというので大きな木の切り株を何本か積み、食料などの荷物を入れると人間が乗れるスペースはわずかで、隙間に体を潜りこませた。雪まじりの雨も降りだし、寒さもこたえる。とにかく出発し、川のなかに入って大きく迂回して、寸断された道路の先に出ることができた。 このトラックはソ連製で、六つの巨大なタイヤを装着しているので、これならどんな悪路でも走れそうだ。途中かなり険しい断崖沿いの道を三時間ほど走ったところで視界が開け、それまで岩ばかりの景色から一転して、緑の牧草地が広がった。さらに走ると遊牧民たちの白い円形テントがいくつか見え、そこから昇る煙に人の気配も感じられた。高度計は三千メートルを指していた。 ようやく、辿り着いたかと思いきや、目的地はさらに山の向こう側だという。円形テントのすぐ近くには塀で囲まれた大きな施設が見えた。近づいてみると人民解放軍の基地であった。すぐに軍関係者が出てきて、チェックを受けるはめになった。やりとりの結果、これ以上先に行ってはならない、この軍事施設をいっさい撮影してはならない、という条件でそこの放牧地での撮影なら認めるということになった。『中国55の少数民族を訪ねて』1
2017.07.26
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図書館で『中国55の少数民族を訪ねて』という本を手にしたのです。巻頭に55の少数民族のカラー写真が載っていて、圧巻である。この本は、4年間にわたる日中合作プロジェクトから生まれた労作とのことである。【中国55の少数民族を訪ねて】市川捷護, 市橋雄二著、白水社、1998年刊<「BOOK」データベース>よりこんなにすてきな人たちがいる!世界初。辺境10数万キロを踏破して出会った、歌と踊りと祈りのある暮らし、全記録。【目次】第1章 雲南をめざす/第2章 怒江上流の峡谷を行く/第3章 大凉山からチベットのふもとへ/第4章 ミャンマー国境の山岳地帯へ/第5章 西北イスラムの大地/第6章 モンゴルと狩猟民の末裔たち/第7章 ミャンマー国境から海南島へ/第8章 貴州の山を分け入る/第9章 シルクロードの民/第10章 山の民と海の民/第11章 チベット、そしてインド国境地帯へ<読む前の大使寸評>巻頭に55の少数民族のカラー写真が載っていて、圧巻である。この本は、4年間にわたる日中合作プロジェクトから生まれた労作とのことである。rakuten中国55の少数民族を訪ねてかつての支配民族でもある満族を、見てみましょう。p167~171 <かつての支配民族> 次に訪ねた満族は、タンクー郷からチチハル方向に戻った黒龍江省富裕県での撮影となったが、これはモンゴル族やエヴェンキ族の撮影と並行して調査した結果ようやく決まったもので、出発前の事前調査の段階ではどの地域を選ぶかは定めることができなかった。 その理由のひとつには、満族はかつて三百年にわたって中国を統治した清朝の支配民族であった歴史的背景からほぼ中国全土に広範囲に居住していること、また、その長い時間のなかで漢族との同化が進み、満族の言葉や風習が失われてしまったこともある。 さらに、清朝の崩壊後、孫文らがとった「大漢族主義」のもとで、多くの満族が自分の身分を隠さざるをえない時代があり、それが共産党政権誕生後も続いたこともあって、満族の独自の文化は長い間封印されてきたのだった。ここに興味深いデータがある。1982年の人口統計では満族人口は約430万人であったのに対して、1990年にはその二倍以上の約985万人に達している。これは、文化大革命が終って社会が落ち着きを取り戻し、1984年に少数民族の優遇政策がとられ始めた結果、身分をいつわってきた人々が自らの出自を明らかにするようになった結果である。 6月14日、富裕県に満族の人たちが暮らす村があるという情報に接し、さっそく訪ねてみたが、やはりここでも満族の伝統文化は今なお失われたままであった。情報では、小学校の2~6年生には週2時間の満語の授業が行われているということだったが、実際には満語の授業を担当していた先生が退職したため、半年前から授業は中断しているとのことだった。私たちはその先生を探して村のなかを尋ねて回り、ようやく趙金純さん(39歳)に会うことができ、こう話してくれた。 「子供たちに満州文字を教えるための歌があります」 私たちは学校の教室を借りてこの歌を歌ってもらうことにした。「十二字頭歌」というこの歌は、一定の短い旋律を繰り返しながら、16世紀末にモンゴル文字を用いて考案された表音文字(縦書きされる)を教えるものだった。 近年、全国的に満語の復興運動が展開されているという話もあるが、生徒が一人もいない教室に響く趙さんの歌声は、拝金主義が蔓延する今日の中国で今さら満語を復活させたところで、という現実をつきつけているような気がした。 満語を話せる人を見つけるだけでも苦労するなかで、満族の伝統的な歌や芸能はないかと探し歩いた結果、一人のおばあさんが子守唄を歌えるという。呉石井さん(73歳)が歌ってくれた子守唄は次のようなものだった。 バーブー、バーブー(満語で赤ん坊の意) お父さんもお母さんも畑へ働きに行きました。 おばあちゃんが揺りかごを揺らしてあげるから、寝んねしな、寝んねしな。 呉さんの家には、ちゃんと揺りかごも残されていて、実際に近所の赤ちゃんを乗せて歌ってもらった。赤ちゃんをふとんの上から帯でぐるぐる巻きにして、これに乗せ、天井から吊るして揺するのだが、そんなに揺らしたら子供が驚くだろうと思えるほどに大きな振幅で揺らすのが印象的だった。
2017.07.26
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図書館で『EVENA』という本を手にしたのです。椎名誠のトレンドといえば、じいじいのバカ話シリーズなんか出ているが、椎名誠初のエロティックハードボイルドってか・・・その不条理なテイストがいいかも♪【EVENA】椎名誠著、文藝春秋、2015年刊<商品説明>より雨の中、「エベナ」を酒で流し込み、いい気分でトラックを運転中、人を轢きそうになった「おれ」。幸い人は轢かなかったが、「おれ」のトラックの急停止が原因で、多重衝突事故が起こってしまった! トラックから離れ、逃げ込むようにたどりついた田舎町のバー。そこで知り合った奇妙な男に誘われて、「おれ」は大金が隠されているという家に忍び込むことにした。それからも「おれ」は否応なく犯罪に巻き込まれてゆきーー。<読む前の大使寸評>椎名誠のトレンドといえば、じいじいのバカ話シリーズなんか出ているが、椎名誠初のエロティックハードボイルドってか・・・その不条理なテイストがいいかも♪rakutenEVENAこの小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p22~24 <廃棄遊園地> そいつは何年も放置され、生き腐れしたような廃棄遊園地の中を、真夜中にふわふわしながら歩いていたのだけれど、考えてみればおれがそこに忍びこむ前から奴はそうしてふわふわと間抜けなユーレイのようにうろついていた筈なのだ。 その動きを見ていると、絶対にそいつのどこかがイカレテいるのは確かで、おれは錆だらけの、たぶんむかしは小さな観覧車だったらしい、そこだけいやに頑丈そうな鉄骨アームの陰にひそんで、そいつのふわふわ移動していく姿をしばらく観察していたんだ。 こんな真夜中に誰もいないだろうとたかを括って忍びこんだら、おれより先に誰か人がいるのを知ってすぐ逃げようと思ったのだけれど、河口沿いにところどころ点灯されているあまり用途のわからない街灯の薄い明りのなかで、そいつを先に見つけて少し注意して観察していた結果、逃げる必要はないと判断した。 だけど、そいつをどうしたらいいか、そういうことがおれにはよく分からなかった。どう考えたってそいつはまともではないし、そんなことを言うのならおれだってそいつとたいして変わりはないのだけれど、そいつと触れ合うか見過ごすかの判断がすぐにはつかなかったんだ。 おれがこのチンケな町にやってきた用はとりあえず何もなかった。一番やりたいのはクルマを盗むことで、それに乗ってもう少し何かいいコトがありそうな山のむこうの隣町なんかに行ってみることだった。クルマでも金でもとりあえず手に入りそうなものがあれば何でもいい。じいじいのバカ話として聞きながしてもいいが、椎名の文章は教科書に載るほどなので・・・・文章修業にもなりまんがな♪
2017.07.26
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図書館で『韓国夢幻』という本を手にしたのです。ぱらぱらとめくると、文字の頁と写真の頁が交互に繰り返す装丁になっています。つまりは、韓国に関する民俗学的ビジュアル本であり・・・ええでぇ♪【韓国夢幻】伊藤亜人著、新宿書房、2006年刊<「BOOK」データベース>より忘れ去られた70年代の韓国原風景、180点の写真を収録。【目次】1 朝鮮韓国研究のはじまり(文化人類学から朝鮮韓国研究/惹かれた民俗学の世界/水上生活漁民への関心 ほか)/2 珍島の調査研究(珍島をフィールドに選んだわけ/珍島の友人/不思議な話をする朴柱彦氏 ほか)/3 両班の村-安東(李退溪の宗孫/両班/漢学の世界 ほか)<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、文字の頁と写真の頁が交互に繰り返す装丁になっています。つまりは、韓国に関する民俗学的ビジュアル本であり・・・ええでぇ♪rakuten韓国夢幻72年の珍島のフィールドワークを、見てみましょう。p44~48 <珍島をフィールドに選んだわけ> 72年に農村での本格的な現地調査を控えて、夏休みにソウルで語学研修を受けていた時のことです。ソウル大学の李杜ゲン先生から、民族音楽学を研究している国立音楽大学の内田るり子さんと一緒に珍島に行くので行かないかと誘われました。 韓国では毎年各地の民族芸能の代表を招いておこなう民俗競演大会という催しが開かれていました。文化広報部が主管するもので、国民の伝統的文化に対する関心を高めるための啓蒙的なものでした。内田さんは前年にそれを見たようで、山陰の大田植えとか花田植えとよく似た田植え芸能が韓国にもあることを知ったのでした。 太鼓やケンガリや銅鑼といった楽器を持って実際に田んぼに入って、早乙女たちはお囃子に合わせて歌いながら田植えをしていくもので、それが珍島の田植え踊り(トウルロレー)でした。私もフィールドワークの候補地として全羅南道の農村を考えていましたから、ともかく土地勘を養うためにも良い機会なので随いて行きました。 李杜ゲン先生は中央の文化財専門委員を勤めていて、案内役として全南大学の民俗学者池春相さんが同行しました。池春相教授は全羅道地区の民俗文化財専門委員でもあって、珍島についても経験豊かな研究者です。そこに私も加わって4人で訪れました。珍島の文化広報部の側でも手筈を整えて迎えてくれました。 今考えると、内田先生は李杜ゲン先生と連絡を取りながら現地の日程に合わせたにちがいありませんが、現地では李先生たちとスケジュールを調整して準備したようで、役所の人たちと私たち以外に見物人も有りませんでした。要するに、私達一行のために役所では、この村の人たち数十人にわざわざ田圃に入って演じさせたようです。この時の現地視察がきっかけとなってこの芸能「南島トウルロレー」は73年11月に国家指定重要無形文化財に指定を受けたのです。 ともかく私もズボンをまくって田圃に入って写真を撮ったりしました。 その時、近くの民家で郡庁の人たちも交えて昼食をとった後、お囃子の中の長鼓の上手な男性が招かれました。これが縁となって、その方はやがてソウルでも活躍するようになり、国楽の名手としてCDも売り出され、今日では某大学の学部長にもなっています。(中略) 珍島は伝統的な民俗文化も豊かと聞いていたし、書画の伝統をはじめとして芸術的な土壌も気に入りました。また、本土の山々とはちがって山も小振りで形も良く緑も豊かで、その麓の村もまとまっていて魅力的でした。そして戦乱の影響も少なかったことも分かりました。それが珍島をフィールドに選んだ理由です。著者のHPで珍島への誘いというのを見つけたのです。
2017.07.25
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図書館で『熱砂とまぼろし』という本を手にしたのです。シルクロード列伝といえば、大使のツボでんがな♪借りたのは1994年刊の毎日新聞社のハードカバーであるが・・・表紙の画像をネットで探しても出てきません、つまり、それほどレアな本なんだろう。【熱砂とまぼろし】陳舜臣著、廣済堂出版、2002年刊<「BOOK」データベース>より東西文明の要路、シルクロード。古来、幾多の民族や国家が盛衰をくり返し、さまざまな文化が栄華を誇ったシルクロード。教義、戒律を求め砂礫の大地に挑み天竺へ旅した前秦の僧、法顕。隆盛を誇る北魏に仕え、西域諸国の情勢を朝廷に伝えた宋雲。漢の武帝の命で月氏と盟を結ぶため匈奴との闘いに情熱を燃やした張騫。生涯の大半を中央アジア探検に費やした「ゴビ砂漠横断」の探検家ヘディン。音楽師として各地を放浪のうちに大乱の首魁となったヤクブ・ベク。いまなお人々の夢とロマンを誘う人間ドラマの舞台シルクロード列伝。<読む前の大使寸評>シルクロード列伝といえば、大使のツボでんがな♪なお、借りたのは1994年刊の毎日新聞社のハードカバーでした。rakuten熱砂とまぼろし1933年新疆で起きたウイグル族反乱を、見てみましょう。p224~227 <スウェン・ヘディン> 1933年1月、ウイグル族反乱軍はウルムチを攻めた。ウルムチの政府軍は、やっと彼らを撃退したが、3月に再びウルムチ城を囲んだ。こんどは兵力は初回より多く、完全包囲の態勢をとったのである。包囲下のウルムチでは、金樹仁の弟が市内の小麦粉をのこらず没収し、これを法外な値段で市民に売りつけた。言語道断というほかない。 この防衛戦で、ウルムチを守る中核として働いたのは、亡命の白系ロシアの将兵たちであった。だが、金樹仁は彼らにたいして冷淡であった。自分の地位を脅かす勢力に成長する可能性のあるものには、極端に警戒心をもったのである。白系ロシア部隊が、軍馬を要求しても、金樹仁はそれを与えなかった。白系ロシアの将兵は、騎兵隊としてきわめて優秀であった。彼らに馬を与えたたなら、ウルムチ防衛の大きな力になるであろう。だが、その力は同時に自分の地位をくつがえすおそれもある。金樹仁は首をふった。 ―馬が与えられないなら戦わない。 と、白系ロシア軍の幹部は言った。 新疆省主席のポストを守るためには、まずウルムチを守らねばならない。 そのためにはウルムチ防衛軍の中核である白系ロシア軍に働いてもらわねばならない。金樹仁は渋々、馬を与えた。だが、いずれもよぼよぼの馬であった。良い馬は、自分の腹心の部下・・・親衛隊にしか与えないのである。 白系ロシア将兵が怒ったのは無理もないだろう。彼らは祖国を追われて、この地へ来たのである。この地を故郷とするほかはない。もしかすると、防衛の意識が最も強かったかもしれない。 ―金樹仁ごときをトップにいただいているかぎり、新疆に光明はない。 そう思うようになったのは、なにも白系ロシアの将兵だけではなかった。漢族の幹部のなかにも、金樹仁に愛想をつかした者は多かった。このようにして、反金樹仁感情がたかまり、ついに辞任要求をつきつけるまでになったのである。 クーデターである。戦いがおこった。戦死者は400人をこえ、そのうち白系ロシア人は53人であった。金樹仁は兵卒に扮装して、親衛隊ととおにウルムチを脱出した。クーデター側は、逃げ遅れた金樹仁の弟と、腹心の高官数名をつかまえて処刑した。 臨時主席に、かつての楊増新の友であり、教育庁長であった劉文龍が推された。そして、盛世才が軍事委員長に選ばれた。劉文龍は年老いた文人である。新疆の実権が、兵馬の権を握った盛世才の手中にあることは、誰の目にもあきらかであった。 新疆の軍事情勢に大きな変化があった。東北(満州)で日本軍と戦って敗れた中国軍は、その一部がシベリアへ逃れ、ソ連に武装を解除され、シベリア鉄道で、「裏口」から新疆へ送還されてきたのである。彼らは蘇ヘイ文たちを指揮者とする東北軍だが、17年間、楊増新の下で戦争をしたことのない新疆軍とちがって、昨日まで、近代装備を誇る日本軍と戦っていた軍隊なのだ。 盛世才は日本の早稲田大学に学んだが、帰国後、東北軍に属し、再び日本へ渡って陸軍大学に学んだ。東北軍とはいささか縁故があり、それに金樹仁のような旧派の凡庸政客ではない。 ウルムチを脱出した金樹仁は、親衛隊三百を率い、塔城で態勢を立て直し、再びウルムチに返り咲くつもりであった。彼にとって憎いのはロシア人である。逃亡のみちみちでも、彼はロシア人を見ると殺害した。とにもかくにも、彼は全新疆の人民から、悪魔のように思われていた。楊増新の時代になかった重税や夫役で、住民は疲弊し切っていたのである。重税のほかさまざまな専売化があり、その利益が金樹仁の懐にはいることは、もはや周知の事実であった。 ―この土地では、誰もがあなたを憎んでいます。ウィグル人もキルギス人も、みなあなたの命を狙っていますよ。 そう言われると、金樹仁はもう反撃の気力を失った。ソ連領に逃亡し、シベリア経由で天津に戻り、南京へ出むいてウルムチの叛徒のことを南京政府に訴えた。だが、たとえばヘディン探検隊に協力せよといった、南京政府の命令を、一切無視してきたのは、金樹仁その人であった。さらにそのうえ、南京政府から調査に派遣された高官、黄慕松たちはウルムチで金樹仁がソ連と取りかわした秘密条約を発見した。 金樹仁は新疆における自分の独裁権を確立するために、ソ連から武器の供給を受け、その代償に新疆のすべての商権をソ連に委託したのである。外国と秘密交渉をしたという罪で、金樹仁は禁錮4年の判決をうけ、投獄されるということになった。ウーム いつの時代もウルムチあたりは治安を揺るがす発火点だったようですね。『熱砂とまぼろし』1『熱砂とまぼろし』2『熱砂とまぼろし』3
2017.07.25
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図書館で『熱砂とまぼろし』という本を手にしたのです。シルクロード列伝といえば、大使のツボでんがな♪借りたのは1994年刊の毎日新聞社のハードカバーであるが・・・表紙の画像をネットで探しても出てきません、つまり、それほどレアな本なんだろう。【熱砂とまぼろし】陳舜臣著、廣済堂出版、2002年刊<「BOOK」データベース>より東西文明の要路、シルクロード。古来、幾多の民族や国家が盛衰をくり返し、さまざまな文化が栄華を誇ったシルクロード。教義、戒律を求め砂礫の大地に挑み天竺へ旅した前秦の僧、法顕。隆盛を誇る北魏に仕え、西域諸国の情勢を朝廷に伝えた宋雲。漢の武帝の命で月氏と盟を結ぶため匈奴との闘いに情熱を燃やした張騫。生涯の大半を中央アジア探検に費やした「ゴビ砂漠横断」の探検家ヘディン。音楽師として各地を放浪のうちに大乱の首魁となったヤクブ・ベク。いまなお人々の夢とロマンを誘う人間ドラマの舞台シルクロード列伝。<読む前の大使寸評>シルクロード列伝といえば、大使のツボでんがな♪なお、借りたのは1994年刊の毎日新聞社のハードカバーでした。rakuten熱砂とまぼろしヘディンの冒頭部を、見てみましょう。p166~168 <スウェン・ヘディン> 父に連れられて、よく神戸の突堤へ船を見に行ったのは、たしか小学校にあがる前年の秋であった。 ―今日は日曜日だから人が少ない。 と、父が言ったのをおぼえている。 ―どうして日曜日は人がすくないの? ―来年、学校に行くようになればわかる。日曜日は勉強も仕事も休むのだ。 ―どうして休むの? 私の追及に父は苦笑した。どう答えてよいかわからなかったのであろう。 人影のすくない突堤はわびしいものだ。港は荷役の人たちで賑わっていなければならない。それなのに、父に連れられて行った港の記憶は、人影まばらで、石畳を照らす日ざしもなんとなくさびしげであった。だから季節は秋であったろうと、私は勝手に想像しているのである。 スウェン・ヘディンのRiddle of the Gobi desert(『ゴビ砂漠の謎』)を読むと、彼がシベリア経由で日本に来たのが1929年の秋であったことがわかる。10月14日にウラジオストックで日本汽船天草丸に乗り、二日かかって敦賀に着き、京都へむかった。だが、スウェーデン大使館からの電報で、彼は夜行列車に乗って東京へ行った。東京で二日ばかり滞在したのち、再び夜行列車で神戸へむかい、天津行きの日本汽船長城丸に乗ったのである。 1929年といえば、私が小学校に入学する1年まえなのだ。『ゴビ砂漠の謎』には、神戸で乗船した日付はしるしていない。タークーで碇をおろしたのが10月24日となっている。長城丸の甲板で、ヘディンは瀬戸内海のすばらしい風景をたのしみ、彼の若い二人の道連れは、船が門司に停泊したとき、上陸して山に登っている。逆算してみれば、ヘディンが神戸港で長城丸に乗ったのは、10月20日であったかも知れない。もしそうだったとすれば、まさしく日曜日にあたる。 私が父の手にひかれて、突堤を歩いていたとき、ヘディンはついその近くで船のタラップをのぼっていたかもしれない。『ゴビ砂漠の謎』のそのくだりを読んでいるうちに、私はヘディンをそんなふうに身近に感じた。同時に、私とヘディンとの時間的な距離がよくわかった。またヘディンが中国の西北地域を探検した時代の背景を、私はみずからの脳裡に、よりあざやかに思いうかべることができもしたのである。 ヘディンは若くして中央アジア(いや中国の『西域』と呼んだほうがより適切であろう)に踏みいった。20そこそこで、彼はカスピ海沿岸のバクーに働くスウェーデン人の石油技師の家の家庭教師となった。石油技師の家族とともに中央アジアの一部を旅行したのが病みつきとなったのである。家庭教師をやめたあと、彼はその報酬でモンゴル人の友人とともに、イランやイラク方面を旅行した。 『探検家としてのわが生涯』の冒頭は、つぎのような文章で始まる。将来進むべき転職を、学童時代に早くも見いだす少年は幸運である。私はそういう幸運にめぐまれた少年であった。すでに12歳にして、私は前途の目標をかなりはっきりとたてていた。私の最良の友はクーパーであり、ジューヌ・ベヌルであり、リヴィングストンであり、スタンレーであり、フランクリンであり、ベイヤーであり、またノルデンショルドであり、特に極地探検史上の一連の英雄、および殉難者たちであった。・・・ ストックホルム出身のノルデンショルドが、不可能といわれた北東航路に成功し、故郷に凱旋して大歓迎を受けたのは、1880年4月のことであった。ヘディンはそのとき15歳で、家族とともに歓迎の光景を見たのである。
2017.07.24
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<図書館大好き233>今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「辺境」でしょうか♪<市立図書館>・EVENA・熱砂とまぼろし<大学図書館>・韓国夢幻・中国55の少数民族を訪ねて図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【EVENA】椎名誠著、文藝春秋、2015年刊<商品説明>より雨の中、「エベナ」を酒で流し込み、いい気分でトラックを運転中、人を轢きそうになった「おれ」。幸い人は轢かなかったが、「おれ」のトラックの急停止が原因で、多重衝突事故が起こってしまった! トラックから離れ、逃げ込むようにたどりついた田舎町のバー。そこで知り合った奇妙な男に誘われて、「おれ」は大金が隠されているという家に忍び込むことにした。それからも「おれ」は否応なく犯罪に巻き込まれてゆきーー。<読む前の大使寸評>椎名誠初のエロティックハードボイルドということであるが・・・その不条理なテイストがいいかも♪rakutenEVENA************************************************************【熱砂とまぼろし】陳舜臣著、廣済堂出版、2002年刊<「BOOK」データベース>より東西文明の要路、シルクロード。古来、幾多の民族や国家が盛衰をくり返し、さまざまな文化が栄華を誇ったシルクロード。教義、戒律を求め砂礫の大地に挑み天竺へ旅した前秦の僧、法顕。隆盛を誇る北魏に仕え、西域諸国の情勢を朝廷に伝えた宋雲。漢の武帝の命で月氏と盟を結ぶため匈奴との闘いに情熱を燃やした張騫。生涯の大半を中央アジア探検に費やした「ゴビ砂漠横断」の探検家ヘディン。音楽師として各地を放浪のうちに大乱の首魁となったヤクブ・ベク。いまなお人々の夢とロマンを誘う人間ドラマの舞台シルクロード列伝。<読む前の大使寸評>シルクロード列伝といえば、大使のツボでんがな♪なお、借りたのは1994年刊の毎日新聞社のハードカバーでした。rakuten熱砂とまぼろし************************************************************【韓国夢幻】伊藤亜人著、新宿書房、2006年刊<「BOOK」データベース>より忘れ去られた70年代の韓国原風景、180点の写真を収録。【目次】1 朝鮮韓国研究のはじまり(文化人類学から朝鮮韓国研究/惹かれた民俗学の世界/水上生活漁民への関心 ほか)/2 珍島の調査研究(珍島をフィールドに選んだわけ/珍島の友人/不思議な話をする朴柱彦氏 ほか)/3 両班の村-安東(李退溪の宗孫/両班/漢学の世界 ほか)<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、文字の頁と写真の頁が交互に繰り返す装丁になっています。つまりは、韓国に関する民俗学的ビジュアル本であり・・・ええでぇ♪rakuten韓国夢幻************************************************************【中国55の少数民族を訪ねて】市川捷護, 市橋雄二著、白水社、1998年刊<「BOOK」データベース>よりこんなにすてきな人たちがいる!世界初。辺境10数万キロを踏破して出会った、歌と踊りと祈りのある暮らし、全記録。【目次】第1章 雲南をめざす/第2章 怒江上流の峡谷を行く/第3章 大凉山からチベットのふもとへ/第4章 ミャンマー国境の山岳地帯へ/第5章 西北イスラムの大地/第6章 モンゴルと狩猟民の末裔たち/第7章 ミャンマー国境から海南島へ/第8章 貴州の山を分け入る/第9章 シルクロードの民/第10章 山の民と海の民/第11章 チベット、そしてインド国境地帯へ<読む前の大使寸評>巻頭に55の少数民族のカラー写真が載っていて、圧巻である。この本は、4年間にわたる日中合作プロジェクトから生まれた労作とのことである。rakuten中国55の少数民族を訪ねて************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き232
2017.07.24
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図書館で『樹木と木材の図鑑』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると・・・各々の樹について、幹の写真と木肌の写真が見えるわけで、大使のツボでんがな♪【樹木と木材の図鑑】西川栄明, 小泉章夫著、創元社、2016年刊<「BOOK」データベース>より木と自然を愛する方から、ネイチャーガイド、DIY愛好家、木工・林業関係者、木育活動に携わる方まで、楽しみながら役立ててもらえる、600点以上の写真で見せるビジュアルガイド。1つの樹種について、「樹木」「木材」「使われているもの」をまとめて紹介。日本の有用種101種を掲載。古い時代の道具類も数多く掲載。他の木との見分け方のポイントを紹介。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると・・・各々の樹について、幹の写真と木肌の写真が見えるわけで、大使のツボでんがな♪rakuten樹木と木材の図鑑イチイを、見てみましょう。p27<古の時代から使われてきた、色合いの美しい針葉樹材> オレンジ色から茶色に経年変化していく、材の落ち着いた色合いが美しい。成長が遅いこともあり、年輪は詰まり気味で均一。針葉樹の中では比較的硬く、乾燥は容易で暴れることはない。仕上がりがきれいで光沢も出る。このような特徴から針葉樹の良材として評価が高い。 ただし、かなすじ(鉱物が混入し暗褐色に変色した部分)が現れることがあり、加工時に刃が当ると欠損するので注意が必要である。 昔からの用途で有名なのが、神官が使うシャク。仁徳天皇がイチイでシャクを作らせ、この木に正一位を授けたのが木の名前になったと言われる。硯箱などの工芸品、木彫、床柱や床框などにも重用されてきた。 英国ではウィンザーチェアの部材にも使われる。北海道ではオンコと呼ばれ、明治時代創刊の短歌雑誌『阿羅々木』によりアララギの名も広く知られている。 立ち木は高さ15mほどの大木もあるが、高さ10m以下で直径50cmまでの低木をよく見かける。種子は松ぼっくりタイプではなく、秋に赤くなる仮種皮で包まれており小粒。【科名】イチイ科(イチイ属)【分布】北海道~九州【木肌】目は詰まっており、木肌は緻密で艶がある。製材直後はオレンジ色をしているが、時間が経つと落ち着いた明るい茶色になっていく。針葉樹としては比較的硬い。匂いはほとんどない。『樹木と木材の図鑑』1:カツラ『樹木と木材の図鑑』2:ミズナラ
2017.07.23
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図書館で『ユニクロ思考術』という本を、手にしたのです。ユニクロといえば、ブラック企業との噂がないでもないが・・・柳井会長の突き抜けた思考が有るのではないか? その秘密が知りたいわけでおます。【ユニクロ思考術】柳井正著、新潮社、2009年刊<商品説明>よりユニクロ快進撃の秘訣は、どこにあるのか。最前線で働くキーマンたちが、その仕事力の要諦を惜しげなく公開する。あなたの既成概念を打ち破る一冊。<読む前の大使寸評>ユニクロといえば、ブラック企業との噂がないでもないが・・・柳井会長の突き抜けた思考が有るのではないか? その秘密が知りたいわけでおます。rakutenユニクロ思考術ユニクロ・ホンコン・リミテッド総経理のパン・ニンさんの中国観を、見てみましょう。p90~97<中国は難しいし、面白い> 中国はすごく難しい国です。省が変わるだけで言葉や習慣、思考のスタイルまで変わります。都市部と田舎で違うのはもちろんなんですが、沿岸地域に連なっている都市部に限定しても、北の北京、中央の上海、南の香港では、国が違うといっていいぐらいの差があります。 中国でユニクロがスタートしたのは、2002年の上海からでした。2005年には北京、香港が続いてオープンしました。やっぱり三ヶ所それぞれで、まったくと言っていいほど反応に違いがあります。中国人の私でも、予想を超えた部分がある。そこが難しいし、面白いところでもあるんですけれど・・・。 北京は文化や歴史を重んじるけれど、ファッションにはうとい。着る服の色も黒かグレー、茶色など、ベーシック・カラーを選ぶ傾向があります。白はあまり人気がない。何故かと言えば「汚れやすいから」(笑)。お金はあるんだけど、ファッションにどうやって使えばいいのかわからない人が多いんです。 どうしてそういうことがわかるかというと、私が北京で育った中国人だから(笑)。 北京のニューリッチは、シャネル、ルイ・ヴィトンのような高級ブランドが大好きなんですね。中国はメンツを重んじる国。人に何かプレゼントするときには高いものをあげないといけない。日本人は敢えて高価なものは避けて、心をこめてささやかなものを贈る場合があるでしょう? 中国ではそれは通用しません。「こんな安物を買ってきて、どういうつもりなんだ?」と一蹴されてしまう。 上海は国際商業都市として160年以上の歴史があります。だから外国の文化には敏感。取り入れるのも早い。ファッションへの関心も高い地域ですね。 香港は長らくイギリスの統治下にあったことだけでもかなり異質な風土を形成しています。日本に対する素直な憧れの気持ちが強い地域でもありますね。中国のなかでは人の気質も日本人に共通するものを持っています。<柳井会長の勝負策> 圧倒的な成功をおさめたのは、香港です。香港の人はゴチャゴチャと小さな狭い店舗の並ぶ、建て込んだ雰囲気のなかで買い物をするのが好きなんですね。だから、最初は小さめの店舗でスタートするのがいいんじゃないかと私は思っていたんです。ところが柳井会長は「それは違う。差別化を図るためにも大型店にして、ユニクロのフルラインで勝負するべきだ」というようなことを言われた。 私は正直言って、大型店を出して本当に商売が成立するのかどうか不案に思い、かなり悩みました。香港は家賃がべらぼうに高いですから、売上げの4分の1、下手をすると3分の1ぐらいが家賃の支払いに持って行かれるかもしれない。日本の店舗の場合だと家賃は十分一以下ですから、すでに大変なハンデがあるわけです。 ただ、どうやって売るかについては、上海店で3年経験したことで得られた感触と、香港人の気質や嗜好から、自分なりのやり方を考えていたんです。<日本強調の奇策> 香港店に選ばれた場所はペニンシュラホテルから歩いて10分ぐらいのネイザン通り沿いでした。高級ブランドが集まるエリアではありませんが、決して悪いところではない。ただ家賃のことがあったので、路面の1階ではなくビルの3階に決まりました。香港でショッピングというと賑やかなイメージがある人には、このあたりの人通りはちょっと寂しく感じるかもしれません。私がこのエリアを自分で撮影して、役員会でビデオを見せたとき、うーん、ここですか・・・人が少ないねえ、という声が上がったくらいですから。 ただ、香港人の日本に対する良いイメージが追い風になると信じていました。日本は美しい国、しかも経済大国で豊か、日本製のものはみな素晴らしい。そういうイメージが今も香港では根強いですし浸透もしています。日本への関心がそもそも高いのでユニクロの認知度もかなりある。日本のユニクロで、抱えきれないほど買い物をして帰るのは香港、台湾のお客様だということも、実際に見聞きして知っていました。(中略)<大行列を楽しむ香港人> 開店の初日、蓋を開けたら大変な騒ぎでした。ちょっとこちらの体の具合が悪くなるぐらい(笑)、びっくりするほどお客さんが集まったんです。1階から3階までびっしり並んで、それだけでは間に合わずに行列がはみ出して、ビルの外にまで並ぶ状態が朝から晩まで。それが2週間にわたって続きました。香港人の男女、年齢を問わず、あらゆる人たちが来たんですね。 でもトラブルにはならなかった。そもそも香港人は、あせらずゆっくり買い物をする人たちなんです。Tシャツ1枚買うのに1時間ぐらい並ぶのは平気だし、お店に入ってからもあれこれ品定めをしてすぐには買わない。ウン アジアにおいて日本の友邦といえば、台湾、香港、トルコ、ブータン、ヴェトナム、モンゴルあたりとなり、微妙なのは韓国、フィリピン、ミャンマーあたりかな?
2017.07.23
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図書館で『イッツ・オンリー・トーク』という文庫本を、手にしたのです。絲山秋子デビュー作とのこと・・・これは期待できそうやでぇ♪【イッツ・オンリー・トーク】絲山秋子著、文藝春秋、2006年刊<「BOOK」データベース>より引っ越しの朝、男に振られた。やってきた蒲田の街で名前を呼ばれた。EDの議員、鬱病のヤクザ、痴漢、いとこの居候―遠い点と点とが形づくる星座のような関係。ひと夏の出会いと別れを、キング・クリムゾンに乗せて「ムダ話さ」と歌いとばすデビュー作。高崎での乗馬仲間との再会を描く「第七障害」併録。<読む前の大使寸評>絲山秋子デビュー作とのこと・・・これは期待できそうやでぇ♪amazonイッツ・オンリー・トークこの小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p41~44<6 リハビリ> 7月になると都議会の選挙が始まるということで各党のチラシが家の郵便受けに入るようになった。 前は中野区にいたので大田区の議員は本間以外誰も知らない。本間のチラシにはオレンジ色の字で「ここからはじまる、住民主権」と書いてあった。無所属だが野党からの推薦を受けている。五つの公約の中でも最も力を入れているのは住民投票により地域の問題を解決していくしくみづくりで、二番目が都営住宅の民営化だった。教科書問題や個人情報システムなどの懸案は住民投票に懸け、民間に任せられる公共物件はコンサルとゼネコンに委託していく、都はそのサポートとコスト管理に注力するべきだと、まあ、政治家なんてものは皆もっともなことを言うに決まっているのだが、飲み屋で聞いた話がずっとわかりやすい言葉で書いてあった。政治家は翻訳家でもあるのだ。 うちの居候はチラシを何度も読み返しながら私の解説を聞いて少し頭をひねっていた。そして唐突に、 「俺ボラバイトで雇ってもらえないかな」と言った。 「電話して聞いてみたら?」 「優子ちゃん電話して。お願い!」 しばらく前にヤリそこなったとも言えず拝み倒されて電話する。 「うちに穀潰しの居候がいるんだけれど、選挙のお手伝いをしたい、と、もしバイトになればもっと嬉しい、とこのように申しておりますがどうでしょう」 「居候?」 本間はちょっといぶかしげに聞き返した。 「いとこなの、今社会復帰のリハビリ中」 「うちは金ないよ、昼ご飯くらいは出るけど。もしそれで構わないんだったらこっちからお願いしたいとこ。でもバイトが目的だったら他の候補の事務所紹介するよ」 本間の声は笑っていた。私もほっとした。 「ボランティアでいいよ、働くっていうこと覚えた方がいいから」 「働いてないの?」 「恥ずかしい話、今までヒモだったのよ。アホだけど性格は素直だと思うよ」 「明日大森駅の北口に来てよ。朝街宣やるから、7時に来れる?」 彼は愛嬌のあるおぼっちゃんに戻っていた。いい男なのになあ。つけ込む隙はないが少し未練がある。 とにかく私たちはいつもよりもう少しまともな格好をして大森駅北口に出頭した。演説を聞いている祥一は柄にもなくうっとりとして、途中で、 「政治家にもこげん爽やかな人もおんしゃーとね」 「だまされるなよ」 私は笑いながら耳打ちし返した。 演説が終ると本間がのぼりやポスターが沢山入った自家用車のカルディナで事務所まで案内してくれた。事務所というよりは作業場の広さだった。おばちゃんが十人くらい働いている。宛名書きをしたり、封筒にチラシを入れたり、ご飯を作っているおばちゃんもいる。地図の切り貼りや、電話、パネルの裏貼りをしているおばちゃんもいる。ずいぶん忙しそうだ。脇に座ったいとこは辺りを見回してにこにこしている。『イッツ・オンリー・トーク』1『イッツ・オンリー・トーク』2
2017.07.22
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図書館で『イッツ・オンリー・トーク』という文庫本を、手にしたのです。絲山秋子デビュー作とのこと・・・これは期待できそうやでぇ♪【イッツ・オンリー・トーク】絲山秋子著、文藝春秋、2006年刊<「BOOK」データベース>より引っ越しの朝、男に振られた。やってきた蒲田の街で名前を呼ばれた。EDの議員、鬱病のヤクザ、痴漢、いとこの居候―遠い点と点とが形づくる星座のような関係。ひと夏の出会いと別れを、キング・クリムゾンに乗せて「ムダ話さ」と歌いとばすデビュー作。高崎での乗馬仲間との再会を描く「第七障害」併録。<読む前の大使寸評>絲山秋子デビュー作とのこと・・・これは期待できそうやでぇ♪amazonイッツ・オンリー・トークこの小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p29~33<4 ジャージ> ろくでもないメールが福岡のいとこから来た。 「優子ちゃん、最後のこんばんはです。 いろんな話をしに優子ちゃんに会いに行ってからと思ったけど、だめだ。もう疲れた。 さよなら。今までありがとう 6月29日 林祥一」 祥一とは気が合うのでよくメールしていた。この頃カラ元気なのは知っていた。 メールは2時間前に届いていた。見てすぐに電話した。何十回呼び出し音が鳴ってもそして途絶えてもまたかけ直した。こっちも意地になっていた。あの弱虫が結局何もできずに携帯の着信音を聞きながらパソコンの前に座っているのは確実だった。確信があった。本当に死ぬのなら携帯の電源を切るはずだろうと思った。 通話がつながった瞬間に「ばかやろっ」と私は怒鳴った。祥一が眠そうな声で「ごめん」と言った。 「なんかした? 怪我は?」 「首つろうとしたばってん、出来んやったと」 「よかった。生きてて・・・」 力が抜けて泣きたくなった、こんなバカ野郎のためにも流す涙はある。 「ごめん、ほんとにごめん」 「あんた、そんなに謝るくらいだったらさ」謝まられると安堵がまた怒りに変わった。 「今から飛行機乗って東京来なさい。来て目の前であやまんなさい」 「え?」 私は受話器を顎に挟んでパソコンで航空会社のサイトを検索した。どの便も空席はある。20時30分の便名と予約の仕方を教えた。 「交通費ある?」 「三万くらいならある」 多分それが全財産ということだろう。 祥一は長いことパチプロをやっていたが昨年末に大損をして種銭がなくなってからは女の家に転がり込んでヒモになった。 本人は主夫のつもりだったらしいが、キャバクラで働く彼女の家で昼間は眠ってたまにパチスロ、夜中にインターネットをする生活をしていた。 彼女に新しい男が出来たのは今月頭で、彼はすぐに捨てられた。実家に戻っても居場所がないと嘆いていた。彼が行き詰まるのは当然といえば当然で、ギャンブル以外殆ど外にも出ないような男だったのだ。なんとかしてやらないといけない。こいつは何かを見つけないと繰り返し狂言自殺するに違いない。とりあえず東京で目先をかえたやろう、と思った。私の暮らしだって苦しいが、一人分の食費くらいならなんとかなるだろうと思った。(中略) そして、彼はやって来た。 ジャージをはいてやって来た。 「祥ちゃん」 私は到着日に現れたその姿を見て吹き出しそうになった。近所のパチンコ屋に行くような格好で、荷物はトートバッグひとつだった。のぞき込むと携帯と靴下がころっと入っていた、たったそれだけだった。 「なんでジャージなのよ?」 「いや、ジーパンが洗濯機の中やったけん」 「なんで死のうとする人間が洗濯するのよ」 祥一は言葉に詰まったが 「ご迷惑かけます、優子ちゃん」 「ああ、とんだ迷惑だよ。でも死んだらもっと迷惑だったんだよ」 「ごめん」『イッツ・オンリー・トーク』1
2017.07.22
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図書館で『イッツ・オンリー・トーク』という文庫本を、手にしたのです。絲山秋子デビュー作とのこと・・・これは期待できそうやでぇ♪【イッツ・オンリー・トーク】絲山秋子著、文藝春秋、2006年刊<「BOOK」データベース>より引っ越しの朝、男に振られた。やってきた蒲田の街で名前を呼ばれた。EDの議員、鬱病のヤクザ、痴漢、いとこの居候―遠い点と点とが形づくる星座のような関係。ひと夏の出会いと別れを、キング・クリムゾンに乗せて「ムダ話さ」と歌いとばすデビュー作。高崎での乗馬仲間との再会を描く「第七障害」併録。<読む前の大使寸評>絲山秋子デビュー作とのこと・・・これは期待できそうやでぇ♪amazonイッツ・オンリー・トークこの小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p13~15<1 トースト> 「本間はなんで結婚しないの?」 「結婚か。選挙の借金のこともあるけれど、でもその前に僕はいろんなことを諦めちゃってるからだめなんだろう」 「嫁もらった方がお母さん喜ぶんじゃないの?」 「いや、嫁いびりが大変、うちの母はそういう人だからね」 本間はさりげなくトイレに立ち、それで話題が変わった。 「絵は売れてる?」 「賞とった頃は売れてたんだけれど今は全然だめ」 「どうして絵を始めたんだっけ?」 「好きなものを人に見せたい、好きなことだけして生きたい。そんだけ」 「いいね。すごくシンプルで羨ましいね」 「本間はどうして議員になったの?」 「ある日突然使命感に駆られたんだ」 「なんか思想に目覚めたとか?」 「そんなんじゃなくて、僕ができる仕事って銀行よりも議会にあるんじゃないかって気がついたからさ」 「都議会の後は国会議員になるの?」 「いや、僕は赤じゅうたんより首長に興味があるから、タイプが違うんだと思うよ」 「クビチョウ?」 「僕の場合だと大田区長ってことになるかな」 198円のアジの唐揚げをつつきながら本間はしばらく自分の志と政策を語った。教育委員会の問題一つとってみてもとめどなく話が続きそうで、だからこそ住民参加型にする必要があるのだと本間は言った。 それから政治ネタが面白くて、最近の国会の裏事情から23区の区長達の噂話、今度の都議会選挙の見所までいろいろ聞き込んでいるうちにあっという間に日付が変わってしまった。 「今どこに住んでるんだっけ?」 「雪が谷の実家にまだいるよ。パラサイトだよ」 「帰らないと叱られちゃうね」 私がふざけて笑うと本間は「だいじょうぶさ」と口を尖らせた。 「じゃあ、うち来て飲む?」 一瞬本間の目が空を泳いだが「いいよ、そうする?」と言った。 本間は散歩の嫌いな犬みたいに後ろからついてきた。星を見上げながら、ああ、またやってしまうのだなと思った。本間が酔いつぶれて前後不覚になって眠ってしまえばいいのに、そうしたらセックスしなくて済むのに、と思った。どうして自分が本間に限ってそんなふうに思うのか判らなかった。 私は誰とでもしてしまうのだ、好き嫌いはあまり関係ない、淋しいとかじゃない、迷わない、お互いの距離を計りあって苦しいコミュニケーションをするより寝てしまった方が自然だし楽なのだ。この本も絲山秋子ミニブームR8に収めるものとします。
2017.07.22
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図書館で『地下鉄に乗って』という文庫本を、手にしたのです。裏表紙のコピーに、「満州に出征する父を目撃し」、「封印された過去に思わず涙がこぼれ落ちる感動の浅田ワールド」とあるので、借りる決め手になったのです。【地下鉄に乗って】浅田次郎著、講談社、1999年刊<「BOOK」データベース>より永田町の地下鉄駅の階段を上がると、そこは三十年前の風景。ワンマンな父に反発し自殺した兄が現れた。さらに満州に出征する父を目撃し、また戦後闇市で精力的に商いに励む父に出会う。だが封印された“過去”に行ったため…。思わず涙がこぼれ落ちる感動の浅田ワールド。吉川英治文学新人賞に輝く名作。<読む前の大使寸評>裏表紙のコピーに、「満州に出征する父を目撃し」、「封印された過去に思わず涙がこぼれ落ちる感動の浅田ワールド」とあるので、借りる決め手になったのです。rakuten地下鉄に乗ってこの小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p15~17 つまらぬパーティだった。誰もがまるで釣り場で餌をまきちらすように、一束も名刺をまいていた。恩師の挨拶や幹事の報告や、胃癌で死んだ不幸な級友のことなど、どうでも良かった。 最初の30分は名刺をまきながら相手を物色し、やがてそれらしい組み合わせが自然にできあがると、喧噪は静まった。集団見合いのような猥雑さと猥褻さだった。 真次のところにも、人々はまったく営業用の顔でやってきた。しかし「有限会社シンデレラナイト営業部」と書かれた名刺に狐につままれたように見、「オヤジの会社とは関係ないんだ」、という率直な言葉を聞くと、深い事情は問わずにみな消えていった。 理由を問い質すほどの友情を持ち合わせている者がいなかったのは、真次にとってむしろ都合の良いことだった。 いや、彼の安物の背広やすりへった靴や、十年も使っている脂じみたメガネを一瞥すれば、問い質すだけの勇気を誰も持たなかったという方が正しかろう。何しろ25年ぶりに会う友人たちにとって、小沼真次は学年では屈指の秀才で、立志伝中の傑物の御曹司で、典型的な戦後財閥の後継者でなければならなかったのだから。 彼がほとんど思いつきで同窓会場のホテルに立ち寄った理由を、強いて上げるとするなら、それはしごく個人的でたわいない理由である。 このところの不景気で、取引先のブティックや洋品店の売上げは低迷しており、わずかな集金もままならない。虎の子の訪問販売先である飲み屋のホステスたちも財布の紐が堅い。気持ちが腐っていた彼を、ちょうどその時刻に地下鉄が赤坂見附の駅まで運んでしまった、というわけだ。 今さら恥をかいたと感じるほど、まっとうな人生を送って来たわけではない。しかし会費の2万円は、参加することに何の利益もない彼にとっては痛打だった。 きっと、恥は心に感じぬ分、酒に溶けこんでいたのだろう。悪酔いはそのせいにちがいない。せめて会費分は飲んでやろうとして、友人たちの差し向ける懐疑とあわれみの毒を呷り続けていたのだ。 プラットフォームに人影はなかった。赤坂見附からの長い地下道を歩き詰めてきた鼓動が収まると、怖気をふるうほどの寒さが背にのしかかってきた。 ふいに人の気配を感じて頭をもたげると、厚いマフラーで顔の半分をくるんだ老人が立っていた。 「ああ、野平先生・・・」 マフラーを引き下げると、老人は真っ白な口髭を横に引いて微笑んだ。 「君は、二次会には行かなかったのかね」 乾いた、土鈴を振るような声で野平老人は訊ねた。 その声は昔と変わらない。のっぺいと渾名されていた、書道の教師である。 会場では気付かなかったが、きっと教え子たちにないがしろにされて、隅の席にでも座っていたのだろう。もっとも25年前、すでにないがしろにされていた教師なのだが。 「お元気そうですね」 と、真次はスーツケースを引いて席を勧めた。重そうな古外套の背を屈め、ステッキにすがるようにして、のっぺいはベンチに腰を下ろした。背負ってきた冬の匂いが、ひんやりと真次の頬に伝わった。 「87になったよ。この時間に地下鉄を待っておる明治の男は、おそらく僕ひとりだろうね」 ステッキの柄に顎を載せて、のっぺいは答えた。この本も浅田次郎の世界R2に収めるものとします。
2017.07.21
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図書館で『明日は味方。』という本を、手にしたのです。山本一力に関心を持ったきっかけは、浅田次郎との対談で借金額の多さを競いあっていたことである。(浅田1億、山本2億とのこと)その山本が初のビジネス書を出したそうで、面白そうである。【明日は味方。】山本一力著、集英社、2013年刊<商品の説明>より直木賞作家、山本一力氏初のビジネス書。氏は言う。「ぼくの人生は自転車操業でした。しかし漕ぎつづければいい。それを忘れた時、人は倒れるんです」。含蓄に富んだ体験的人生の応援歌。<読む前の大使寸評>山本一力に関心を持ったきっかけは、浅田次郎との対談で借金額の多さを競いあっていたことである。(浅田1億、山本2億とのこと)その山本が初のビジネス書を出したそうで、面白そうである。amazon明日は味方。昭和45年(1970)の大阪万博の頃、山本さんがブイブイいわせていた時代を、見てみましょう。p30~34<その時代の勢いというもの> それでも、近畿日本ツーリストを辞めようと思ったのはもう少しあとのことです。旅行業界もどんどん大きくなって、サラリーマンというのが逆に嫌になったからなんですが。 キックバックをもらったり、女を斡旋したりとろくでもないこともやったけれど、旅行業界って勢いがありました。昭和45年(1970)の大阪万博というのはすごいエポック・メイキングだったんです、旅行業界にとっても。だから、高校卒業の中途採用のぼくみたいな者でもおもしろく働けたんです。 なにしろその年の3月から9月までの会期中、6400万人が入場した。それだけの人間が移動したんです。電車やバスのチケットの手配が大変。そして宿泊施設の確保が本当に大変だった。ツアーはいくらでも組めるんだけど、泊まるところが絶対足りない。まともなホテルなんて望めるわけがない。だから大阪に行って、ラブホテルだろうがつれ込みのいかがわしい旅館だろうが、とにかく交渉して部屋を押さえるんです。公団住宅の空いている部屋も借りました。あの頃の日本人はそんな部屋でも文句もいわず、家族でやって来て、うれしそうに帰って行きました。 また、素晴らしい日本人もいました。仕事に誇りを持っている日本人です。アメリカからツー・バイ・フォーという建築工法が入ってきてまだ間がない頃、その工法を学ぶという静岡の大工さん4人をアメリカ西海岸につれて行ったことがありました。 なにしろ、いまの金銭感覚で300~400万円の旅行です。普通なら、視察が終れば観光もでしょうが、この人たちは「観光はまったくいらないから、とにかく建築現場につれて行け」というんです。幸い、サンフランシスコの空港でつかまえたリムジンの運転手が気転がきく人間で、ツイン・ピークスの建築現場にサッと行ってくれた。大工さんたちも、もう大喜びです。 アメリカでは木と木を大きなホッチキスみたなので留めていくんです。それを見ていた日本の大工さんたちは、日本から持ってきた金槌と釘をやおら取り出して、その釘を口に含んでダダダとすごい早業で打ち付けたんですね。アメリカの大工たちは目を丸くしていた。技というのは言葉がなくても通じるんだな、とその時に教わりました。 西海岸にいる間、毎日がこれです。4人とも40代でしたが、すごい大人がいるもんだと思いました。金門橋だけは見てもらいましたが、最後は家族みたいに仲良くなれて楽しい思い出です。決して、「金髪、金髪」と騒ぐ日本人ばかりじゃないということですね。
2017.07.21
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<『樹木と木材の図鑑』2>図書館で『樹木と木材の図鑑』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると・・・各々の樹について、幹の写真と木肌の写真が見えるわけで、大使のツボでんがな♪【樹木と木材の図鑑】西川栄明, 小泉章夫著、創元社、2016年刊<「BOOK」データベース>より木と自然を愛する方から、ネイチャーガイド、DIY愛好家、木工・林業関係者、木育活動に携わる方まで、楽しみながら役立ててもらえる、600点以上の写真で見せるビジュアルガイド。1つの樹種について、「樹木」「木材」「使われているもの」をまとめて紹介。日本の有用種101種を掲載。古い時代の道具類も数多く掲載。他の木との見分け方のポイントを紹介。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると・・・各々の樹について、幹の写真と木肌の写真が見えるわけで、大使のツボでんがな♪rakuten樹木と木材の図鑑道有林のみどころ「双葉のミズナラ」ミズナラを、見てみましょう。p181<国産広葉樹の代表格。森の中で堂々とそびえ、材は根強い人気を誇る> 日本の落葉広葉樹を代表する木。森の中では存在感を漂わせ、材としいても良質で重用される。ブナ科コナラ属の木の中で、日本では落葉性の木はナラ、常緑性の木はカシと呼ばれる。ミズナラは、日本産のナラ類の中で最も大きく成長する。 陽樹なので各地の日当りのいい山地に分布し、特に北海道での生育が多い。同類のコナラやカシワとは似ているが、葉などを観察すれば見分けがつく。 ナラの名で呼ばれる材は、ほとんどがミズナラのことを指す(一部、コナラが混じる)。落ち着いた木目の美しさや色合い、程よい硬さで強度がある。加工性のよさなど良材の誉れが高い。しかし、明治時代から昭和の半ば頃までは国内よりも海外での評価が高く、欧米へ安価でインチ材として大量輸出されていた。海外の大手家具メーカーでも使用され、オタルオークなどの名で呼ばれた(小樽港から輸出されたので)。 現在は輸出されておらず、国内で家具や合板材として幅広く使われる。ただし、国産材は減少し、ヨーロッパ、北米、中国などからの輸入材が増えている。【科名】ブナ科(コナラ属)【分布】北海道~九州【木肌】年輪がはっきり見える。心材と辺材の区別は明瞭。心材は赤味がかったクリーム色で、辺材は白っぽい。小口に放射組織が出て。柾目面ではこの組織が虎の縞模様のようになって現れる。これを虎斑(とらふ)という。ナラ特有の匂いをわずかに感じる。『樹木と木材の図鑑』1
2017.07.20
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<『樹木と木材の図鑑』1>図書館で『樹木と木材の図鑑』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると・・・各々の樹について、幹の写真と木肌の写真が見えるわけで、大使のツボでんがな♪【樹木と木材の図鑑】西川栄明, 小泉章夫著、創元社、2016年刊<「BOOK」データベース>より木と自然を愛する方から、ネイチャーガイド、DIY愛好家、木工・林業関係者、木育活動に携わる方まで、楽しみながら役立ててもらえる、600点以上の写真で見せるビジュアルガイド。1つの樹種について、「樹木」「木材」「使われているもの」をまとめて紹介。日本の有用種101種を掲載。古い時代の道具類も数多く掲載。他の木との見分け方のポイントを紹介。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると・・・各々の樹について、幹の写真と木肌の写真が見えるわけで、大使のツボでんがな♪rakuten樹木と木材の図鑑和池の大カツラ大使のシンボル・ツリーともいえる桂を、先ず見てみましょう。p53<独特の香りやハート形の葉。古代から人々の心を惹きつけてきた木> カツラは日本の固有種で、古代から親しまれてきた木である。『古事記』や『万葉集』などにも登場する。親しまれてきた理由はいくつか考えられる。葉がかわいいハート形で目に留まりやすい、いい香りを放つ、秋の黄葉の美しさ・・・。 別名のコウノキは「香の木」の意で、ショウユノキは落ち葉の香りが醤油の匂いに似ているからだとされる。カツラの名の由来には諸説ある。「香出ら」「香出ずる」といった香り説、京都の葵祭などでカツラの枝を髪に挿したことから「髪連ら」「鬘」に関連するという説などだ。 立ち木は、株立ちにより大木に成長する姿に存在感がある。比較的真っすぐに伸び、幹も太くなっていくので、木材としても大きないい材がとれる。材質は広葉樹としては柔らかく(クスやトチと同程度)加工しやすい。木質が均一で暴れることが少ない。このような特性から、使い勝手のいい材として重宝されてきた。 普及品の碁盤や将棋盤、漆器の木地、仏像など。特に鎌倉彫では、昔から主にカツラを素材としてきた。【木肌】年輪は比較的はっきりしている。広葉樹の中では柔らかい材で、加工しやすい。わりと真っすぐ成長する高木なので、大きな板材が取れる。板目は針葉樹のような木目をしている。
2017.07.20
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「ミニブーム」でしょうか♪ミニブームとは、個人的な絲山ブーム、浅田ブームなんですが。<市立図書館>・イッツ・オンリー・トーク・地下鉄に乗って<大学図書館>・ユニクロ思考術・樹木と木材の図鑑図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【イッツ・オンリー・トーク】絲山秋子著、文藝春秋、2006年刊<「BOOK」データベース>より引っ越しの朝、男に振られた。やってきた蒲田の街で名前を呼ばれた。EDの議員、鬱病のヤクザ、痴漢、いとこの居候―遠い点と点とが形づくる星座のような関係。ひと夏の出会いと別れを、キング・クリムゾンに乗せて「ムダ話さ」と歌いとばすデビュー作。高崎での乗馬仲間との再会を描く「第七障害」併録。<読む前の大使寸評>絲山秋子デビュー作とのこと・・・これは期待できそうやでぇ♪amazonイッツ・オンリー・トーク************************************************************【地下鉄に乗って】浅田次郎著、講談社、1999年刊<「BOOK」データベース>より永田町の地下鉄駅の階段を上がると、そこは三十年前の風景。ワンマンな父に反発し自殺した兄が現れた。さらに満州に出征する父を目撃し、また戦後闇市で精力的に商いに励む父に出会う。だが封印された“過去”に行ったため…。思わず涙がこぼれ落ちる感動の浅田ワールド。吉川英治文学新人賞に輝く名作。<読む前の大使寸評>裏表紙のコピーに、「満州に出征する父を目撃し」、「封印された過去に思わず涙がこぼれ落ちる感動の浅田ワールド」とあるので、借りる決め手になったのです。rakuten地下鉄に乗って************************************************************【ユニクロ思考術】柳井正著、新潮社、2009年刊<商品説明>よりユニクロ快進撃の秘訣は、どこにあるのか。最前線で働くキーマンたちが、その仕事力の要諦を惜しげなく公開する。あなたの既成概念を打ち破る一冊。<読む前の大使寸評>追って記入rakutenユニクロ思考術************************************************************【樹木と木材の図鑑】西川栄明, 小泉章夫著、創元社、2016年刊<「BOOK」データベース>より木と自然を愛する方から、ネイチャーガイド、DIY愛好家、木工・林業関係者、木育活動に携わる方まで、楽しみながら役立ててもらえる、600点以上の写真で見せるビジュアルガイド。1つの樹種について、「樹木」「木材」「使われているもの」をまとめて紹介。日本の有用種101種を掲載。古い時代の道具類も数多く掲載。他の木との見分け方のポイントを紹介。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると・・・各々の樹について、幹の写真と木肌の写真が見えるわけで、大使のツボでんがな♪rakuten樹木と木材の図鑑************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き231
2017.07.20
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図書館で『ポルト・リガトの館』という本を、手にしたのです。おお 横尾さんがダリとの会見を題材にして書いたと言われる小説やないけ♪・・・さてどんなかな?【ポルト・リガトの館】 横尾忠則著、文芸春秋、2010年刊<「BOOK」データベース>よりスペインのダリの館で日本人画家が経験する怪異譚(「ポルト・リガトの館」)。アマゾンの大湿原帯で元夫婦が遭遇したものは?(「パンタナールへの道」)。カシミールの高原湖で性の秘儀を会得する芸術家(「スリナガルの蛇」)。異国を旅する三つの能仕掛けの物語が絡まりあい、現実と幻想のあわいへ誘う。<読む前の大使寸評>おお 横尾さんがダリとの会見を題材にして書いたと言われる小説やないけ♪・・・さてどんなかな?rakutenポルト・リガトの館『スリナガルの蛇』の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p209~212 大和は昨日の女の魂という言葉を思いだして言った。一同大喜びして、いつまでも笑っていた。ここの主人は精神科の医者だそうだ。突然の外国人の訪問は、この家では今までに一度もなかった革命的な事件だと言った。そんな二人を一目見ようと、奥の家次から次へと大人から子供まで集まってきた。 この連中は全員が一族郎党で、二棟の大きい家に全員が住んでいるそうだ。二人を連れてきた大学生は、日本人相手に政治の議論をふっかけてきた。大和はパラダイスで政治の話かとうんざりした表情を浮かべたので、医者である父親は、「またお前は政治の話か」と言わんばかりに息子を制した。父に反抗するように息子は、「現代の日本の状況はどうか?」とつめ寄ってきた。 「日本の政治は猫の目のように首相がコロコロ変わって、内外共に厄介な問題をいっぱいかかえていて、精神的繁栄よりも物質的繁栄を多くの国民が求めている国になってしまった」と政治に関心のない大和は型にはまった説明をしたが、この部屋には物質らしいものが何ひとつないので、彼らにとっては皮肉を言ったように受けとめられたかな?とも思った。 一旦ハウスボートに帰ってタクシーを呼んでもらい、スリナガル市内まで足を伸ばすことにした。 タクシーの運転手に「街の中心はどこ?」と尋ねると、ブロードウェイ・ホテルがいいだろうと言って連れていってくれた。なんだかデリーに逆戻りしたような気がしたが、とりあえずホテルの中の喫茶店でチャイを注文した。チャイはハウスボートでも1日に何杯も飲む。スリナガルの冬は格別に寒いらしく、そんな時はカシミール・ティの方が塩分が多い分、身体が温まるので、地元の人達の間では習慣になっているらしい。 大和は昨日のことを駒沢に話すべきかどうか少し躊躇したが、彼もオープンに告白してくれたので話すことにした。 「それはどんな瞑想法? スワミ・サッチダナンダというヒマラヤ聖者らが行う超越瞑想ってやつ?」 「俺はよくわからんけれど、まあヨーガ瞑想のような呼吸を中心としたものやなあ」 「『オーム』なんてマントラを唱えたりするの?」 「イヤ、それはやんないけど、二人で吐く息、吸う息を交互に調息しながらやるんだけけどね」 大和は全裸になって女と抱き合いながらする、怪しげなタントラを連想するようなものだということまでは言わなかった。 「ワタシは、やっぱり座禅の方が好きだわ」 「俺は座禅も駒ちゃんのように長続きしなかったよ。参禅しているときだけで、寺を出て不眠症が治ったらそれっきりや」 「ワタシはあれ以来毎日続けているのよ」 「その信念には崇敬すべきものがあるけど、俺は精神世界とは無縁の人間やから。もっと俗人さ。駒ちゃんに奨められて『シッダールタ』を読んでいるけれど、駒ちゃんはシッダールタと一緒に修行をするゴービンダに近いよね。俺は彼みたいに紗門としてブッダに帰依するなんてとんでもない。俺はむしろ紗門から足を洗って飛び出したシッダールタの方に憧れるな。俺は実に俗っぽい不道徳なゲイジツカさ」 「でもタントラだかの瞑想にどうして急に興味を持ったの?」 「そりゃ理由は簡単さ、相手が女だからさ。瞑想なんてどうだっていいのよ。目的は女なんや。その上、彼女が俺専用のインストラクターだって言うのよ」ウーム 横尾さんは一時期、インドに耽溺していたが・・・大使はその方面に惹かれることはなかったでぇ。『ポルト・リガトの館』1
2017.07.19
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図書館で『女のいない男たち』という本を、手にしたのです。村上春樹の短編小説集ってか・・・『1Q84』ブームの後に、こんな本が出ていたとは、春樹ファンを自認している大使としては不覚であった。【女のいない男たち】村上春樹著、文藝春秋、2014年刊<「BOOK」データベース>より絡み合い、響き合う6編の物語。村上春樹、9年ぶりの短編小説世界。【目次】ドライブ・マイ・カー/イエスタデイ/独立器官/シェエラザード/木野/女のいない男たち<読む前の大使寸評>村上春樹の短編小説集ってか・・・『1Q84』ブームの後に、こんな本が出ていたとは、春樹ファンを自認している大使としては不覚であった。rakuten女のいない男たち『女のいない男たち』の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p265~268 夜中の1時過ぎに電話がかかってきて、僕を起こす。真夜中の電話のベルはいつも荒々しい。誰かが凶暴な金具を使って世界を壊そうとしているみたいに聞える。人類の一員として僕はそれをやめさせなくてはならない。だからベッドを出て居間に行き、受話器を取る。 男の低い声が僕に知らせを伝える、一人の女性がこの世界から永遠に姿を消したことを。声の主は彼女の夫だった。少なくとも彼はそう名乗った。そして言った。妻は先週の水曜日に自殺をしました。なにはともあれお知らせしておかなくてはと思って、と彼は言った。なにはともあれ。 僕の聞く限り、彼の口調には一滴の感情も混じっていなかった。電報のために書かれた文章のようだ。言葉と言葉のあいだにはほとんどスペースがなかった。純粋な告知。修飾のない事実。ピリオド。 それに対して僕はどんなことを言ったのだろう? 何かは口にしたはずだが、思い出せない。いずれにせよ、そのあとひとしきり沈黙があった。道路の真ん中にぽっかりと開いた深い穴を両端から二人でのぞき込んでいるような沈黙。それから相手はそのまま、何も言わずに電話を切った。壊れやすい美術品をそっと床に置くみたいに。僕はそのあとしばらくそこに立ち、とくに意味もなく受話器を手に握っていた。白いTシャツに青いボクサーショーツというかっこうで。 なぜ彼が僕のことを知っていたのか、それはわからない。彼女が僕の名前を「昔の恋人」として夫に教えたのだろうか? 何のために? またどうやって彼はうちの電話番号を知ったのだろう(電話帳には載せていない)。それにそもそもどうして僕なのだ? なぜ夫がわざわざ僕に電話をかけて、彼女が亡くなったことを知らせなくてはならないのだ? 彼女がそうしてくれと遺書に書き残していたとはとても思えない。僕と彼女がつきあっていたのは、ずいぶん昔のことだ。そして別れてからはただの一度も顔を合わせていない。電話で話したことさえない。(中略) 僕がようやく受話器を置いてベッドに戻ったとき、妻も目を覚ましていた。 「何の電話だったの? 誰が死んだの?」 「誰も死なない。間違い電話だよ」と僕は言った。いかにも眠そうな、間延びした声で。 でももちろん彼女はそんなことは信じなかった。僕の声にもやはり死者の気配は含まれていたからだ。できたての死者がもたらす動揺は、強力な感染性を持っている。それは細かい震えとなって電話線を伝わり、言葉の響きを変形させ、世界をその振動に同期させていく、でも妻はそれ以上何も言わなかった。僕らは暗やみの中で横になり、そこにある静寂に耳を澄ませながら、それぞれに思いを巡らせていた。 そのようにして、彼女はこれまで僕がつきあった女性たちの中で、自死の道を選んだ三人目となった。考えてみれば、いや、むろんいちいち考えるまでもなく、ずいぶんな致死率だ。『女のいない男たち』1
2017.07.19
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図書館で『英国人写真家の見た明治日本』という本を、手にしたのです。先日、モース著『明治のこころ』というビジュアル本を読んだ(観た)のであるが・・・・その残り香のあるうちにこの本を借りたのです。 【英国人写真家の見た明治日本】ハーバート・ジョージ・ポンティング著、講談社、2005年刊<「BOOK」データベース>よりスコット南極探検隊の映像記録を残したポンティングは、世界を旅し、日本を殊の外愛し、この世の楽園と讃えた。京都の名工との交流、日本の美術工芸品への高い評価。美しい日本の風景や日本女性への愛情こもる叙述。浅間山噴火や決死の富士下山行など迫力満点の描写。江戸の面影が今なお色濃く残る百年前の明治の様子が著者自らが写した貴重な写真とともにありありと甦る。<読む前の大使寸評>先日、モース著『明治のこころ』というビジュアル本を読んだ(観た)のであるが・・・・その残り香のあるうちにこの本を借りたのです。rakuten英国人写真家の見た明治日本(ポンティングの写真ではないが、ネットで見つけた大使好みの写真です)日本の婦人あたりを、見てみましょう。p236~258<第8章 日本の婦人について> 日本を旅行するときに一番すばらしいことだと思うのは、何かにつけて婦人たちの優しい手助けなしには1日たりとも過ごせないことである。 中国やインドを旅行すると、何ヶ月も婦人と言葉を交わす機会のないことがある。それは、これらの国では召し使いが全部男で、女性が外国人の生活に関与することは全くないからだ。しかし、日本ではそうではない。これははるかに楽しいことである。日本では婦人たちが大きな力を持っていて、彼女たちの世界は広い分野に及んでいる。(中略) しかし、日本の婦人たちのすべてがスパルタ人というわけではないから、時には涙を流すのを見たことがある。こういう場合に、高い教育を受けた者に比して、より貧しい人々のほうが、自分を常に抑制するのが難しいようだ。戦争中、外国の特派員は「日本の婦人は決して泣かない」としばしば書いたが、私は下層階級の婦人たちが夫と別れるとき、激しく泣いているのを見たことがある。 上流の婦人たちと同じように、誰もが感情を抑え切ることはできないとしても、このように人間としての弱さが露呈されるのを見たのは、それほどたびたびのことではなかった。 軍隊が前線に向けて出発するとき、日本の婦人が自分を抑制した態度をとっていることについて、多くの外国人が誤解している。そのため、彼女たちは冷たく、同情に欠け、無関心だと言われてきた。しかし、これは事実とはるかに遊離した見方であって、本当は日本の婦人たちは女性の本能である同情や思いやりに溢れているのだ。 夫が出征する場合に自分を抑えることは、体面にかかわる重要なことなのである。しかし、私は、情のこもった行為を見て、日本人が涙ぐむのをたびたび見たことがある。劇場を埋めた大勢の婦人や子供が、男も含めて皆、巧みな演技で演じられた感動的な悲劇を見て、感涙にむせぶのを見たことがある。外国人の考えは間違っているのだ。日本の婦人の心は非情でも冷たくもない。それは同情と優しさと憐憫に溢れているのだ。 赤十字についてはいろいろな話を聞いていた。誰でも赤十字の話をするが、私は日本へ来るまでは、その本当の内容については知らなかった。(中略) 私は日本の赤十字社の活動を見たいと思って、広島の陸軍病院を訪問する許可を陸軍省からとりつけた。広島に到着して、初めて戦争の恐ろしさと、日本の取り組んでいる大変な仕事のことを、理解できるようになった。病院で過ごした何日かの間に、私は日本婦人についていろいろな事柄を学ぶことができたが、もしここに来なかったら、決してそれを知ることはできなかっただろう。というのは、ここの病院で、戦時に婦人がどれほど偉大で輝かしい役割を演じることができるかを、初めてこの目で見る機会があったからである。
2017.07.19
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図書館で『女のいない男たち』という本を、手にしたのです。村上春樹の短編小説集ってか・・・『1Q84』ブームの後に、こんな本が出ていたとは、春樹ファンを自認している大使としては不覚であった。【女のいない男たち】村上春樹著、文藝春秋、2014年刊<「BOOK」データベース>より絡み合い、響き合う6編の物語。村上春樹、9年ぶりの短編小説世界。【目次】ドライブ・マイ・カー/イエスタデイ/独立器官/シェエラザード/木野/女のいない男たち<読む前の大使寸評>村上春樹の短編小説集ってか・・・『1Q84』ブームの後に、こんな本が出ていたとは、春樹ファンを自認している大使としては不覚であった。rakuten女のいない男たち『シェエラザード』の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p173~175 シェエラザードの外見は、どのようなひいき目で見ても、『千夜一夜物語』に出てくる美貌の王妃とは似ても似つかなかった。彼女は身体のあちこちに(まるで隙間にパテで埋めるみたいに)贅肉が付着し始めた地方都市在住の主婦で、見るところ中年の領域に着実に歩を進めつつあった。 顎がいくぶん厚くなり、目の脇にはくたびれた皺が刻まれていた。髪型も服装も化粧も、おざなりとまではいかずとも、さして感心できる代物ではない。顔立ち自体は決して悪くはないのだが、そこには焦点とようなものが見当たらず、とりとめのない印象しか人に与えなかった。 通りですれ違っても、エレベーターで乗り合わせても、大方の人は彼女に目を留めないだろう。あるいは彼女も十年前は生き生きとした可愛い娘だったのかもしれない。何人かの男たちは振り返って彼女を見たかもしれない。しかしもしそうであったとしても、そのような日々はどこかの時点で既に幕を下ろしていた。そしてその幕がもう一度持ち上がる気配は、今のところ見受けられなかった。 シェエラザードは週に二度のペースで「ハウス」を訪れた。曜日は決まっていないが、週末にやってくることはなかった。おそらく週末は家族と過ごす必用があるのだろう。姿を見せる1時間前に必ず電話がかかってきた。彼女は近所のスーパーマーケットで食品の買い物をし、おれを車に積んでやってきた。マツダの青い小型車だ。古いモデルで、リア・バンパーに目立つへこみがあり、ホイールは汚れで真っ黒になっている。彼女は車を「ハウス」の駐車スペースに停め、ハッチバックの扉を開けて買い物袋を出し、両手にそれを抱えてドアベルを押した。 彼女はそのまま台所に行って、持参した食品を仕分けして冷蔵庫にしまった。そして次に来るときの買い物リストを作った。有能な主婦であるらしく、仕事はいかにも手際よく、動きに無駄がなかった。用事を片付けている間はほとんど口をきかず、生真面目な顔を崩さなかった。 彼女がその作業を終えると、どちらが言い出すともなく、まるで目に見えない海流に運ばれるように、二人は自然に寝室へと移動した。シェエラザードはそこで無言のまま手早く着衣を脱ぎ、羽原と一緒にベッドに入った。二人はほとんど口もきかずに抱き合い、まるで与えられた課題を協力してこなすように、一通りの手順を踏んで性交した。生理期間中であれば、彼女は手を使ってその目的を果たした。その手際のよい、いくぶん事務的な手つきは、彼女が看護士の資格を持っていることを彼に思い出させた。
2017.07.18
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図書館で『ポルト・リガトの館』という本を、手にしたのです。おお 横尾さんがダリとの会見を題材にして書いたと言われる小説やないけ♪・・・さてどんなかな?【ポルト・リガトの館】 横尾忠則著、文芸春秋、2010年刊<「BOOK」データベース>よりスペインのダリの館で日本人画家が経験する怪異譚(「ポルト・リガトの館」)。アマゾンの大湿原帯で元夫婦が遭遇したものは?(「パンタナールへの道」)。カシミールの高原湖で性の秘儀を会得する芸術家(「スリナガルの蛇」)。異国を旅する三つの能仕掛けの物語が絡まりあい、現実と幻想のあわいへ誘う。<読む前の大使寸評>おお 横尾さんがダリとの会見を題材にして書いたと言われる小説やないけ♪・・・さてどんなかな?rakutenポルト・リガトの館『ポルト・リガトの館』の冒頭部を、ちょっとだけ見てみましょう。p4~7 「あのォ、サルバドール・ダリ先生にお会いすることは可能でしょうか」 年齢的にはすでに老女の域に達していると思うが、大きくウェーブしたスペイン人特有の黒髪に混じって白いものが滝のように細く何本もながれていて、それがかえって怪しげな魅力を湛えている。意志の強さを強調した太い眉毛の下には、密集した睫に取り囲まれた黒い大きな瞳が唯典を威嚇している。 「何のご用?」 ダリ・シアタアの女館長はノースリーブから突き出した小麦色の筋肉質の腕を組んだままぞんざいに聞いた。 「日本から来た画家ですが、ぜひダリ先生にお目にかかりたいと思って・・・」 唯典のたどたどしい英語は子供の言葉のようにしか聞えなかったせいか、「ダメ、ダメ、アポイントなしでは会えないわよ」と顔の前で人差し指を左右に振った。 彼の横で首から二台のカメラをぶら下げて不安げに立っている「」誌の多田が、唯典の横腹を肘で軽く突つきながら、「あの手紙を見せたらどうですか?」と言った。 「われわれはスペイン政府観光局の招待で来ており、帰国後ダリ先生にお会いしたことを書いたレポートを日本の文化庁に提出する目的があるのです」 スペイン政府の招待というのは事実だが、文化庁云々はでたらめな作り話である。 「何? スペイン政府の招待ですって?」 「はい、ここにその招聘状があります」 女館長は首にぶら下げた老眼鏡を掛けてゆっくり手紙を読んだ。そして鼻眼鏡越しに、「ちょっと待って、秘書に連絡してみるから」と言って電話を掛けてくれた。 女館長は手紙の内容と唯典の話の両方をまとめて伝えているようだった。しばらく沈黙があって、再び彼女は同じ内容を反復した。 彼は胸がときめくのを感じた。 「OKよ、1時にポルト・リガトのダリの家に来てもいいって。よかったわね」 女館長は住所を書いたメモ用紙をくれた。そして「タクシーの運転手なら誰でも知っているわよ」と言ってニコッと天使の顔になった。彼と多田は顔を見合わせて無言で小さくガッツポーズを交わした。まだ約束の1時まで2時間はある。(中略) とりあえず喉が渇いているので冷たい物をと、アルコールが飲めない多田はスペイン産のケセラコーラを注文した。唯典はシェリーを注文した。 「多田さん知ってる? ケセラって意味」 「それぐらい知っていますよ、なるようになれ、でしょ?」 「ケセラコーラはスペインでは手作りコーラって意味なんだよ」 「本当? なるようになれコーラじゃないんだ」 「俺が飲んでいるシェリーっていうのは、アンダルシア地方のある1ヶ所だけでしか造っていないお酒なんだけどさ、女性が男性と一緒にいる時に『シェリーが飲みたい』なんて言ったら、『今夜あなたと一緒に寝てもいいわよ』って合図なんだってさ」 「ヘエー、いいね、それ一本買っていってダリの奥さんのガラに飲ませちゃおうか」 「グッドアイデアだよ」 なお、横尾忠則のダリ会見記が、『芸術新潮(2016年10月号:ダリってダリだ?)』に載っているので、見比べるのも面白いのです♪
2017.07.18
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図書館で『月島慕情』という本を、手にしたのです。つい先ごろ『五郎治殿御始末』という短篇集を読んだところだが・・・その勢いで、また短篇集を借りることにしたのです。【月島慕情】浅田次郎著、文藝春秋、2007年刊<「BOOK」データベース>より恋する男に身請けされることが決まった吉原の女が、真実を知って選んだ道とは…。表題作ほか、ワンマン社長とガード下の靴磨きの老人の生き様を描いた傑作「シューシャインボーイ」など、市井に生きる人々の優しさ、矜持を描いた珠玉の短篇集。著者自身が創作秘話を語った貴重な「自作解説」も収録。 <読む前の大使寸評>つい先ごろ『五郎治殿御始末』という短篇集を読んだところだが・・・その勢いで、また短篇集を借りることにしたのです。amazon月島慕情「シューシャインボーイ」の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p251~254<シューシャインボーイ> それにしてもスマートな祝儀の渡し方だと、塚田は感心した。ボスは言葉づかいは伝法だし、見てくれも粗野だけど、他人を傷つけぬよういつも配慮しているような気がする。1万円のチップを押しつけられたとき、きっと自分は嫌な顔をしたのだろう。 「やはり、家内には黙っていられませんね」 「そりゃおまえの勝手だがよ。言やあ言ったで、ハンドバックのひとつでも買ってやらにゃならねえぞ」 ボスは高笑いをしてから鼻歌を唄い始めた。 紅い夕日がガードを染めて ビルの向こうに沈んだら 街にゃネオンの花が咲く おいら貧しい靴みがき ああ 夜になっても帰れない ボスの唇から乗り移った悲しい歌を口ずさみながら、塚田はその日、運転席の窓ごしにふしぎな光景を見た。 高層ビルのはざまに、力をうしなった初夏の夕日が沈んでゆく。ほんの数分の間、角筈の大ガードは時の流れに踏み惑ったような、ひといろの茜に染まった。 都電が縦横に走っていたころ、手を引かれて大ガードの下を歩いた記憶がある。青梅街道を荻窪からやってくる都電は、幅こそ広いが高さのないその大ガードを潜ることができなかった。だから都心に入る乗客は、いちど降りて大ガードの下を歩き、歌舞伎町の入口から別の車輌に乗った。 古煉瓦を積み上げた壁も、歪んだ石畳も滑っていた。すえた臭いに耐えかねて鼻をおさえると、祖母に手をはたかれた。叱責の理由は、その陰鬱なガード下に戦争の犠牲者たち・・・傷痍軍人や靴磨きやいかさまの物売りや、あるいはそうした生計のかたちすら思いつかぬ物乞いが、みっしりと居並んでいるからだった。 どうにかなった者が、いまだどうにもならぬ者を蔑んではならないと、祖母は教えたのだろう。大ガードの下を往還する人々は、まるで通行料でも支払うように小銭を投げ、要りもせぬ物を買い、靴を磨いた。 唇を惑わす古い歌と茜色の夕日が、そんな過ぎにし風景を塚田の瞼の裏に焙り出したのだった。 しかしそうして眺めているうちに、大ガードのたたずまいが昔とどこも変わっていないことに気付いた。 いくらかの風通しのよい入口あたりには、ホームレスも居座っていた。物乞いをせぬ分だけ切実さには欠けているが。 すぐに戻る、とボスは言った。塚田は交叉点のきわに車を寄せて、ハザードランプをつけた。ボスは肥えた体をたいぎそうに揺らして信号を渡って行った。 鼻歌に祟られながらしばらく待っても、ボスは戻らなかった。どこへ行ってしまったのだろうと人ごみに目を凝らすうちに、塚田はふしぎな光景を見た。 夕日が赤い紗をかけたような大ガードの入口で、ボスは路端の椅子に腰をおろしていた。何のことない靴を磨かせているのだが、靴磨きという商売そのものがこのところはとんと見かけぬから、とっさにそとは思えなかったのだ。 へえ、と塚田は思わず声を出した。それくらい靴磨きの存在は意外だった。 行き交う車の間に見え隠れするその光景は、まさに一瞬の古写真だった。老いた靴磨きは客の足元を抱きかかえるように背を丸めており、ボスも首を伸ばして何ごとかを語りかけているように見えた。 やがて車に戻ってきたボスがひどく憔悴して見えたのは気のせいだろうか。 「靴磨き、ですか」 と、車を出しながら塚田は訊ねた。ボスは窓ごしに靴磨きを見送り、リアウィンドウを振り返って手を振った。それからしばらく黙りこくり、拍子抜けしたころに答えた。 「あのじいさん、名人なんだ」『月島慕情』1
2017.07.17
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図書館で『月島慕情』という本を、手にしたのです。つい先ごろ『五郎治殿御始末』という短篇集を読んだところだが・・・その勢いで、また短篇集を借りることにしたのです。【月島慕情】浅田次郎著、文藝春秋、2007年刊<「BOOK」データベース>より恋する男に身請けされることが決まった吉原の女が、真実を知って選んだ道とは…。表題作ほか、ワンマン社長とガード下の靴磨きの老人の生き様を描いた傑作「シューシャインボーイ」など、市井に生きる人々の優しさ、矜持を描いた珠玉の短篇集。著者自身が創作秘話を語った貴重な「自作解説」も収録。 <読む前の大使寸評>つい先ごろ『五郎治殿御始末』という短篇集を読んだところだが・・・その勢いで、また短篇集を借りることにしたのです。amazon月島慕情「雪鰻」の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p94~98<雪鰻> 父にはいくら文句をつけたところで暖簾に腕押しだが、私は師団長ののっぴきならぬ反応に、手応えのある壁を感じた。 「では、俺が好物の鰻を食えぬわけを話す」 師団長は長いままの煙草を揉み消し、ソファに背をまたせかけて語り始めた。 鰻は冷えきっていたが、舌をとろかすほどの甘い娑婆の味がした。 * そのとき俺は、目の前に置かれたものがいったい何なのか、にわかにはわからなかった。 室内にたちこめる香りと、赤い漆塗りの重箱が紛れもない鰻の蒲焼であるなら、これは夢にちがいないと思った。 俺は食卓を囲んだ面々を見渡した。誰の表情にも懐疑のいろはない。まるで目前に供された鰻の重箱と、アルミの皿に盛った渇き物とエビスビールが、当然の献立であうように彼らは平静だった。 俺ひとりが仰天していたのだ。 食堂の扉が開いて、ピカピカの軍服を着た供奉(ぐぶ)将校がおごそかに言った。 「宮家がお出ましになられます。お立ち下さい」 20人もの軍人は一斉に立ち上がった。じきにカイゼル髭をたくわえた、恰幅のよい老将軍が入ってきた。元帥刀を佩き、軍服の胸に勲章を懸けつらねた、元参謀総長の宮様だった。 軍司令官が畏みながら言った。 「殿下におかせられましては、御身の危険も顧みず前線ご視察にお出ましになられ、一同、恐くに堪えません。のみならず陪食の栄誉を賜りまして、目下各所において敢闘中の将兵になりかわり、厚く御礼申し上げます」 殿下はひとつ肯き、「一同、楽にせよ」と高らかな貴顕のお声で仰せられた。 供奉将校が言った。 「会食に供せられました鰻は、かしこくも天皇陛下の・・・」 そこで供奉将校はいちど言葉を留めた。席についた軍人たちはすっくと背筋を伸ばした。 「・・・ご下賜品であります。宮内省御用達、上野池の端の老舗より、職人もろとも長躯空輸いたしました。皇国のいやさか、皇軍の敢闘を祈念しつつお召し上がりください」 ああ、そういうものなのかと思ったが、俺はまだ夢とうつつとを疑っていた。供奉将校は士官学校の同期生だった。その思いがけぬ邂逅が、いっそう夢とうつつとを疑わせたのだ。 ほら、夢の中でしばしば意外な人物が、唐突に現れるだろう。ちょうどそんな感じだったのだ。 ところが、夢でなさそうなことには、その供奉将校は俺の席の隣に座って、つぶやきかけてきた。 「三田村、久しぶりだな」、と。 まぎれもなく、同期の北島だった。(中略) たぶん臭いもひどかったのだろう、右側に座っていた将校は、俺を避けるようにして椅子を引いていた。テーブルの上に、帽垂れの付いたしわくちゃの戦闘帽を置いているのは俺だけだった。 「師団長はどうなさった」 と、北島は訝しげに訊いた。 「マラリアで動けん」 「参謀長は」 どうしてそんなことを訊ねるのだろうと俺は思った。前線の戦況をまったく知らないやつに、師団長も参謀長も来ることのできぬ理由を説明することは難しい。むろん、説明する気にもならんよ 「師団長にかわって、指揮を執っておられる」 北村は舌打ちをした。どうやら彼は、わが師団だけがまだ20代の若い参謀を、この後方の島に向かわせたことについて、殿下に対し奉り釈明をせねばならぬらしかった。(中略) 陛下はおそらく、大本営の戦況報告が信用できずに、宮家をご差遣になったのだろう。あるいは宮家が真実の戦況を陛下にお伝えするためえに、みずから進んでお出ましになったのかもしれない。そういうわけならなおさら、前線の悲惨な様子など口にはできまい。 陛下の軍隊はソロモンの孤島で、口にする米の一粒とてなく、マラリアと熱帯性潰瘍に蝕まれて、ジャングルをさまよっています、などと。
2017.07.17
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「男性作家」でしょうか♪<市立図書館>・女のいない男たち・月島慕情・明日は味方。・ポルト・リガトの館<大学図書館>(今回はパス)図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【女のいない男たち】村上春樹著、文藝春秋、2014年刊<「BOOK」データベース>より絡み合い、響き合う6編の物語。村上春樹、9年ぶりの短編小説世界。【目次】ドライブ・マイ・カー/イエスタデイ/独立器官/シェエラザード/木野/女のいない男たち<読む前の大使寸評>村上春樹の短編小説集ってか・・・『1Q84』ブームの後に、こんな本が出ていたとは、春樹ファンを自認している大使としては不覚であった。rakuten女のいない男たち************************************************************【月島慕情】浅田次郎著、文藝春秋、2007年刊<「BOOK」データベース>より恋する男に身請けされることが決まった吉原の女が、真実を知って選んだ道とは…。表題作ほか、ワンマン社長とガード下の靴磨きの老人の生き様を描いた傑作「シューシャインボーイ」など、市井に生きる人々の優しさ、矜持を描いた珠玉の短篇集。著者自身が創作秘話を語った貴重な「自作解説」も収録。 <読む前の大使寸評>つい先ごろ『五郎治殿御始末』という短篇集を読んだところだが・・・その勢いで、また短篇集を借りることにしたのです。amazon月島慕情************************************************************【明日は味方。】山本一力著、集英社、2013年刊<商品の説明>より直木賞作家、山本一力氏初のビジネス書。氏は言う。「ぼくの人生は自転車操業でした。しかし漕ぎつづければいい。それを忘れた時、人は倒れるんです」。含蓄に富んだ体験的人生の応援歌。<読む前の大使寸評>追って記入amazon明日は味方。************************************************************【ポルト・リガトの館】 横尾忠則著、文芸春秋、2010年刊<「BOOK」データベース>よりスペインのダリの館で日本人画家が経験する怪異譚(「ポルト・リガトの館」)。アマゾンの大湿原帯で元夫婦が遭遇したものは?(「パンタナールへの道」)。カシミールの高原湖で性の秘儀を会得する芸術家(「スリナガルの蛇」)。異国を旅する三つの能仕掛けの物語が絡まりあい、現実と幻想のあわいへ誘う。<読む前の大使寸評>おお 横尾さんがダリとの会見を題材にして書いたと言われる小説やないけ♪・・・さてどんなかな?rakutenポルト・リガトの館************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き230
2017.07.17
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図書館で『歯車』という文庫本を、手にしたのです。「歯車」については、浅田次郎さんのお奨めがあったので、借りる決め手になったのです♪【歯車】芥川龍之介著、岩波書店、1979年刊<カスタマーレビュー>より「玄鶴山房」「歯車」「或阿呆の一生」の三つの短編です。本書では、それぞれ「玄鶴山房」は(昭和二・一)[遺稿]、「歯車」は(昭和二・四・七)[遺稿]、「或阿呆の一生」は(昭和二・六)[遺稿]と記されている。作者芥川が服毒自殺したのは昭和二年七月四日にあたる。<読む前の大使寸評>「歯車」については、浅田次郎さんのお奨めがあったので、借りる決め手になったのです♪amazon歯車「歯車」の語り口を、もうちょっとだけ見てみましょう。p45~47<二 復習> 僕は往来に佇んだなり、タクシイの通るのを待ち合わせていた。タクシイは容易に通らなかった。のみならずたまに通ったのは必ず黄いろい車だった。(この黄いろいタクシイはなぜか僕に交通事故の面倒をかけるのを常としていた。)そのうちに僕は縁起の好い緑いろの車を見つけ、とにかく青山の墓地に近い精神病院へ出かけることにした。 「イライラする、・・・Tantalizing・・・Tantalus・・・Inferno・・・」 タンタルスは実際硝子戸越しに果物を眺めた僕自身だった。僕は二度も僕の目に浮かんだダンテの地獄をのろいながら、じっと運転手の背中を眺めていた。そのうちにまたあらゆるものの嘘であることを感じ出した。政治、実業、芸術、科学、・・・いずれも皆こういう僕にはこの恐しい人生を隠した雑色のエナメルに外ならなかった。 僕はだんだん息苦しさを感じ、タクシイの窓をあけ放ったりした。が、何か心臓をしめられる感じは去らなかった。 緑いろのタクシイはやっと神宮前へ走りかかった。そこには或精神病院へ曲がる横丁が一つあるはずだった。しかしそれもきょうだけはなぜか僕にはわからなかった。僕は電車の線路に沿い、何度もタクシイを往復させた後、とうとうあきらめておりることにした。 僕はやっとその横町を見つけ、ぬかるみの多い道を曲がって行った。(中略) 僕は薄明るい外光に電灯の光のまじった中をどこまでも北へ歩いて行った。そのうちに僕の目を捉えたのは雑誌などを積み上げた本屋だった。僕はこの本屋の店へはいり、ぼんやりと何段かの書棚を見上げた。それから『希臘神話』という1冊の本へ目を通すことにした。黄いろい表紙をした『希臘神話』は子供のために書かれたものらしかった。けれども偶然僕の読んだ一行はたちまち僕を打ちのめした。 「一番偉いツォイスの神でも復讐の神にはかないません。・・・」 僕はこの本屋の店を後ろに人ごみの中を歩いて行った。いつか曲がり出した僕の背中に絶えず僕をつけ狙っている復讐の神を感じながら。・・・『歯車』1
2017.07.16
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<『歯車』1>図書館で『歯車』という文庫本を、手にしたのです。「歯車」については、浅田次郎さんのお奨めがあったので、借りる決め手になったのです♪【歯車】芥川龍之介著、岩波書店、1979年刊<カスタマーレビュー>より「玄鶴山房」「歯車」「或阿呆の一生」の三つの短編です。本書では、それぞれ「玄鶴山房」は(昭和二・一)[遺稿]、「歯車」は(昭和二・四・七)[遺稿]、「或阿呆の一生」は(昭和二・六)[遺稿]と記されている。作者芥川が服毒自殺したのは昭和二年七月四日にあたる。<読む前の大使寸評>「歯車」については、浅田次郎さんのお奨めがあったので、借りる決め手になったのです♪amazon歯車「歯車」の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p30~32<一 レエン・コオト> 僕は或知り人の結婚披露式につらなるために鞄を一つ下げたまま、東海道の或停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。自動車の走る道の両がわは大抵松ばかり茂っていた。上り列車に間に合うかどうかはかなり怪しいのに違いなかった。自動車には丁度僕の外に或理髪店の主人も乗り合わせていた。彼はなつめのようにまるまると肥った、短い顎鬚の持ち主だった。僕は時間を気にしながら、時々彼と話した。 「妙なこともありますね。××さんの屋敷には昼間でも幽霊が出るっていうんですが。」 「昼間でもね」 僕は冬の西日の当った向こうの松山を眺めながら、善い加減に調子を合わせていた。 「もっとも天気の善い日には出ないそうです。一番多いのは雨のふる日だっていうんですが。」 「雨のふる日に濡れに来るんじゃないかな?」 「御冗談で。・・・しかしレエン・コオトを着た幽霊だっていうんです。」 自動車はラッパを鳴らしながら、或停車場へ横着けになった。僕は或理髪店の主人に別れ、停車場の中へはいって行った。すると果して上り列車は2、3分前に出たばかりだった。待合室のベンチにはレエン・コオトを着た男が一人ぼんやりと外を眺めていた。僕は今聞いたばかりの幽霊の話を思い出した。が、ちょっと苦笑したぎり、とにかく次の列車を待つために停車場前のカッフェへはいることにした。 それはカッフェという名を与えるのも考えものに近いカッフェだった。僕は隅のテエブルに座り、ココアを一杯注文した。テエブルにかけたオイル・クロオスは白地に細い青の線を荒い格子に引いたものだった。しかしもう隅々には薄汚いカンヴァスを露していた。僕はにかわ臭いココアを飲みながら、人げのないカッフェの中を見まわした。埃じみたカッフェの壁には「親子丼」だの「カツレツ」だのという紙札が何枚も貼ってあった。 「地玉子、オムレツ」 僕はこういう紙札に東海道線に近い田舎を感じた。それは麦畠やキャベツ畠の間に電気機関車の通る田舎だった。・・・ 次の上り列車に乗ったのはもう日暮に近い頃だった。僕はいつも二等に乗っていた。が、何かの都合上、その時は三等に乗ることにした。 汽車の中はかなりこみ合っていた。しかも僕の前後にいるのは大磯かどこかへ遠足に行ったらしい小学校の女生徒ばかりだった。僕は巻煙草に火をつけながら、こういう女生徒の群れを眺めていた。彼らはいずれも快活だった。のみならず殆どしゃべり続けだった。 「写真屋さん、ラブ・シインって何?」 やはり遠足について来たらしい、僕の前にいた「写真屋さん」は何とかお茶を濁していた。しかし14、5の女生徒の1人はまだいろいろのことを問いかけていた。
2017.07.16
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図書館で『エスノグラフィー・ガイドブック』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、民族誌(エスノグラフィー)、文化人類学絡みの本の書評集になっているわけで・・・・大使のツボがうずくわけでおます♪ 【エスノグラフィー・ガイドブック】松田素二, 川田牧人著、嵯峨野書院、2002年刊<「MARC」データベース>よりベテランから若手まで90名のエスノグラフィー研究者が執筆し、100冊以上の本を紹介する、あらゆる分野の研究者に対応するエスノグラフィーのガイドブック。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、民族誌(エスノグラフィー)、文化人類学絡みの本の書評集になっているわけで・・・・大使のツボがうずくわけでおます♪amazonエスノグラフィー・ガイドブック書評の例をもうひとつ、見てみましょう。p212~213<『隣のアボリジニ』> アボリジニとは、オーストラリア大陸に暮す先住民の総称である。シドニー・オリンピック開会式の華麗なパフォーマンスで、アボリジニの音楽や舞踏を効果的にとりいれた迫力ある場面をご記憶の読者も多いかもしれない。 ただ門外漢のわたしには判然としなかったが、そこで使われた衣装、楽器や踊りなどは、地域によってはっきりした違いのあるさまざまなスタイルを組み合わせたものだったという。じつは、アボリジニとは400以上の言語を話し、異なる生活習慣をもつ多様な集団をイギリス人入植者が便宜的にひとくくりにして与えた名称にすぎない。また「アボリジニ=辺境に生きる狩猟採集民」というイメージの流布とは裏腹に、アボリジニと呼ばれる人々の中には辺境地域で昔ながらの狩猟採集生活を続けている人よりも、数世代にわたって都市部で生活し、自分たちの言語も失いつつある人の数のほうがずっと多いのが現実である。 本書は、「地方の小さな町や大都市で、白人たちのお隣さんとして暮すアボリジニたち」を等身大の姿で描くことを試みている。著者が慎重に言葉を選びつつ、くりかえし読者に対して念を押すのは、ここで自分が切りとってみせた現実をオーストラリアのアボリジニすべての現実としてステレオタイプ化することのないようにということである。 なぜならこの本で著者が伝えているのは、都市に住むアボリジニの典型として抽出されたある集団一般の話ではなく、西オーストラリア州の地方都市に小学校のボランティア教師として赴いた著者が、そこで出会い、かかわった生身の人々から聞きとった人生であり、アボリジニ観であり、それを聞いて著者が感じとったことがらだからだ。 たとえばローラという女性がいる。著者の赴任先の小学校で、アボリジニの教師補助員として働く彼女は、逡巡の末、じつはアボリジニのことが知りたくてここまで来たのだ、と打ち明けた著者に自分の属する「部族」バディマヤの言葉を教え、親族にも紹介してくれる。だが、白人社会のただなかで暮すローラの家族は、部族の伝統的規律と複雑な関係にあった。(中略) 白人社会との共生により生きのびるしかなかった彼らは、もはやバディマヤの伝統文化の継承者ではない。とはいえ、伝統社会と絶縁し、白人社会に完全に同化しているともいいがたい。「部族の文化は知らない」といいきるローラも、父やおじの死をもたらしたのが伝統集団のもつ呪術の力だと信じ、畏れを抱きつつ暮らしている。 白人社会への同化度・適応度、伝統文化との距離感も多様でありながら、それでも白人社会に完全にのみこまれることなく、自分たちの独自性をもちつづけている人々。そんな地方都市のアボリジニが生きる現実のひだを著者はていねいに描きだす。(中谷文美)書評は2000年刊の本をとりあげているが、大使が読んだのは2010年刊の新刊でした。【隣のアボリジニ】上橋菜穂子著、筑摩書房、2010年刊<「BOOK」データベース>より独自の生活様式と思想を持ち、過酷な自然のなかで生きる「大自然の民」アボリジニ。しかしそんなイメージとは裏腹に、マイノリティとして町に暮らすアボリジニもまた、多くいる。伝統文化を失い、白人と同じように暮らしながら、なおアボリジニのイメージに翻弄されて生きる人々。彼らの過去と現在をいきいきと描く、作家上橋菜穂子の、研究者としての姿が見える本。池上彰のよくわかる解説付き。<読む前の大使寸評>アボリジニといえば、自然人、岩絵を描くアーティストというイメージがあるのだが・・・上橋さんが報告する現代のアボリジニが興味深いのです。<図書館予約:(5/03予約、5/24受取)>rakuten隣のアボリジニ隣のアボリジニbyドングリ『エスノグラフィー・ガイドブック』1
2017.07.16
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図書館で『エスノグラフィー・ガイドブック』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、民族誌(エスノグラフィー)、文化人類学絡みの本の書評集になっているわけで・・・・大使のツボがうずくわけでおます♪ 【エスノグラフィー・ガイドブック】松田素二, 川田牧人著、嵯峨野書院、2002年刊<「MARC」データベース>よりベテランから若手まで90名のエスノグラフィー研究者が執筆し、100冊以上の本を紹介する、あらゆる分野の研究者に対応するエスノグラフィーのガイドブック。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、民族誌(エスノグラフィー)、文化人類学絡みの本の書評集になっているわけで・・・・大使のツボがうずくわけでおます♪amazonエスノグラフィー・ガイドブック書評の一例を、見てみましょう。p208~209<『コリアンタウンの民族誌』> 本書は、ハワイ、LA、ニューヨーク、シカゴ、大阪市生野区、東京都荒川区、川崎市のコリアンタウンでのフィールドワークをもとにして書かれた比較地域論、比較国家論の書物である。そこには、「ミクロな日常的人間関係、地域社会の構造化過程、日米両国の国家のかたち」が関わっている。 日本にもアメリカにも多くのコリアンが幅広い年齢層で住んでいる。一世は、植民地期から現在に至るまでのさまざまな渡日時期と背景を持ち、二世以降になると生まれ育ちは日本やアメリカとなる。一世にしても二世にしても個々の民族意識・言葉・文化のありようは多様である。 そこで「一世だから」「二世だから」という言い方で生活や気持ちを表すことは、個々人の生の一面を切り取っているにすぎない。そして、筆者がフィールドワークをした各地のコリアンタウンも、それぞれの形成過程は異なる。 ハワイにコリアンが初めて向かったのは、朝鮮王朝末期のプランテーション農業労働者としてである。その次の流れは、植民地支配からの解放後そして大韓民国成立後の移民としてだ。自分を韓国人と考える前者と、コリアン・アメリカンと考える後者は、歴史解釈や自己認識を共有していない。ゆえに、著者は両者を「同じカテゴリーに入れることが問題である」と考える。後者の流れはLA、ニューヨーク、シカゴにも広がっていった。 解放後の朝鮮での動乱、戦争、そして分断。そうしたなかで、人々は「自由」と「よりよい生活」を求めてアメリカに渡った。良くも悪くもコリアン同士の関係だけで生きていけるLAと違って、ニューヨークやシカゴは日々ノンコリアンとの競合が激しいため、コリアンのみの閉鎖社会では生きていけない。ただ、どの地域においても、「白人=アメリカ人」を基準とした同化の圧力とカテゴリーの差異化がはかられていくのである。 コリアン・アメリカンの夢が「自分と家族の安定であり、子どもの社会的上昇」であるとすると、日本定住コリアンの夢は「祖国の統一であり、自らのアイデンティティの維持」であり、前者は社会の一員として認められているが、後者は近年まで認められてこなかったために歴史解釈にも違いがみられるのだと著者は指摘する。 日本のコリアタウン(生野、荒川、川崎)は、どこも日本による朝鮮の過酷な植民地支配とは切り離しては語れない。しかし、日本社会は日本国籍=日本国民=日本人という発想が根深い。それでも、日本を生活の根拠とするコリアンの定住歴は積み重ねられ、80年代以降はニュー・カマーが増えている。 15年ほど前から日本社会では「国際化」が叫ばれているが、実はとっくに日本は「国際的」で「エスニック」な社会だった。ただ、そうした状況など全く存在しないかのような「単一民族神話」がまかり通ってきたのである。 ひとことで「コリアン」といっても、個人が生きてきた道筋は多様でさまざまな時代状況の波とともに歩んでいる。本書はコリアンタウンのコリアンの多様な生の姿を可能な限り描こうとしている。それは、著者が見聞きし感じたコリアンタウンの様子と、そこで出会った生身の人間とのやりとりを通して学習した結果である。私たちは、その結果を読むことで、各地のコリアンの思いや暮らしぶりに想いを馳せることができる。(伊地知紀子)まだこの本を読んではいないのだが・・・くだんの読書フォームを作ってみました。【コリアンタウンの民族誌】原尻英樹著、筑摩書房、2000年刊<商品の説明>よりコリアンタウンの民族誌です。1992年のロス暴動で世界の注目を集めたコリアンタウン。 コリアンタウンの日米比較からあらためて民族と国家のかたちを問い直す一冊です。<読む前の大使寸評>追って記入amazonコリアンタウンの民族誌
2017.07.15
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図書館で『五郎治殿御始末』という本を、手にしたのです。ぱらぱとめくると・・・明治維新時の侍たちの苦悩にからむ短篇六篇とのことで、なかなか魅力的なラインナップではないか♪【五郎治殿御始末】浅田次郎著、中央公論新社、2014年刊<「BOOK」データベース>より男の始末とは、そういうものでなければならぬ。決して逃げず、後戻りもせず、能う限りの最善の方法で、すべての始末をつけねばならぬ。幕末維新の激動期、自らの誇りをかけ、千年続いた武士の時代の幕を引いた、侍たちの物語。表題作ほか全六篇。<読む前の大使寸評>ぱらぱとめくると・・・明治維新時の侍たちの苦悩にからむ短篇六篇とのことで、なかなか魅力的なラインナップではないか♪yodobashi五郎治殿御始末『五郎治殿御始末』の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p229~231 今でも職場を辞めさせられることを「クビ」と言い習わすのは、武士が一斉に職を失うたあのころの流行語が、今日もなお生きているのであろうよ。潰しのきかぬ武士にとって禄を奪われることは、首を斬られるも同然であった。 旧藩における立場といい、その年齢といい、あるいは倅を御一新の犠牲にしたという事実からしても、辛い御役目を全うできる人物は、わしの祖父しかいなかったのであろうよ。 そう・・・名は五郎治というた。岩井五郎治が、おまえの5代前の爺の名だ。したたかに酔うて帰ったあの日、五郎治は玄関の式台まで出迎えたわしの手をむんずと握って、よろめきながら屋敷の唐紙を何枚も突き破り、奥の書院に入った。 明治の初年というても、祖父は未だ二本差しであったからの、よもやいたずらが露見して手打ちにでもなるのではないかと、肝を冷やしたものであった。 低い弱陽が荒れ庭から射し入る、冬の昼下がりであったと思う。 祖父は書院の床の間に、これ見よがしに飾られていた父祖伝来の鎧に向き合って座り、かたわらにわしを座らせた。 たしかこのような言葉をかわした。 「半之助。これより爺の申すこと、よく聞け」 「はい、何なりと」 「爺はきょう、御役御免と相成った。いよいよ御家中の旧禄下げ渡しが打ち切られたさかい、人を選んで禄を奪う爺の御役も、その必要はのうなった。わかるな」 「はい。わかりまする」 「ついては、旧藩士に対し、県庁より公債といくばくかの金子が支払われるがの、わしは辞退いたした。いかに御役目とは申せ、数年にわたって多くの同輩を野に追いやり、長州の走狗とよばれた、あげくに銭金を懐に収めるわけには参らぬ」 「お金がなければ米が食えませぬ」 わしが口にした道理がよほど身に応えたらしく、祖父は乾いた唇を噛みしめ、膝の上で両の拳をぐいと握りしめてうつむいた。 「お爺様・・・」 「おまえは母の在所へ行け。先方では何を今さら桑名者めがと申すであろうが、尾張のお爺様にしてもおまえは血を分けた孫じゃ。わしが手をついてお頼申せば、どうでも聞き届けて下さろう」 そのとき、わしは幼な心にもとっさに、二つのことを考えた。 ひとつは岩井の家の行く末だ。そしてもうひとつは、祖父のこれから先のことだ。正直をいえば、顔すら知らぬとはいえ、生みの母のもとに引き取られるのは嬉しかったが。
2017.07.15
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図書館で『韓国の小さな村で』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると・・・韓国のシャーマニズムに注目したかなり異色のノンフィクションである。 【韓国の小さな村で】神谷丹路著、凱風社、2017年刊<「BOOK」データベース>より心奥で響く魂の根っこをつかみたいー村人たちが集う祝祭は、一つの完成した体系をもつ宇宙を描く。隣国の精神世界に触れる旅が始まる。小さな村々には「歴史」がいくつも刻印されていた。統治と被統治の痕跡もその一つ。学び合う気持ちで臨めば見えなかったものがおのずと立ち現れてくる。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると・・・韓国のシャーマニズムに注目したかなり異色のノンフィクションである。rakuten韓国の小さな村で改修前のソウル駅旧駅舎日本統治の遺物を、見てみましょう。p114~119●「日帝」のにおい なんとなく、身に憶えのある雰囲気がする・・・。 延世大学の学生だったとき、京畿道春川にある友人の家に招かれたことがあった。玄関を上がるとまっすぐな廊下があり、その左右に部屋が配置されている。その家の雰囲気に、なにか身になじんだものを感じた。 韓国の近ごろの家は、たいてい玄関を入るとそのままフローリングのリビングにつながっていて、そのリビングを中心にしてオンドルの各部屋がドアで接している。ところがこの家の造りは、どうもそれとは違う。 「日本人が建てた家らしいの」 友人は、ちょっと声をひそませていった。 たいして大きな家ではない、ごくつましい庶民の家だ。だが、確かにこれは日本の家の造りである。 1945年の解放後、家は人手から人手へとわたった。朝鮮戦争のとき越南してきた父と、春川生まれの母との間に生まれた友人は、その家のかつての居住者の顔など、知るよしもなかった。けれども、そのときの友人の声のひそませかたが、その後もずっと私に、なにか引っかかるものを残した。 ソウルのど真ん中に残された、いかにも居丈高にそびえる旧朝鮮総督府の建物(1996年に解体)や、京釜鉄道の終着駅である、ハイカラをもって任じた旧京城駅(今のソウル駅)、百貨店の老舗として凝った意匠を誇った旧京城三越(今の新世界百貨店)など、ソウル市内に残された、いくつかの「有名」な日帝時代の遺物は、それなりに知っている。 しかし、日本人の建てた庶民の住宅が、内部を改造され、いまも韓国人によって住まわれているのを、私はこのときはじめて知った。植民地朝鮮をあきらかに支配する目的で建てられた、華美で尊大なソウルの「有名な」遺物たち。それに比して、春川の友人の家は、部屋が三つに台所という、平凡な日本の庶民の家だった。 そのとき以来、私のなかには、植民者としての日本人ひとりひとりの顔が描かれはじめた。総督府、郡や町村役場、警察、学校、こうした顔のない上からの植民地支配機構を、下から支える「庶民」という名の植民者日本人。そういう日本人が、かつて朝鮮全土にわたって津々浦々に住みついていたのだ。 その後、日帝時代の「遺物」たちは、さまざまなかたちで、韓国の農村や地方都市を訪ねる私の前に、立ち現れるようになった。 日本には、「路上観察学会」なるものがあると聞いているが、さしずめ私のは、韓国版の「路上観察学」のようなもの。町や村など訪れた先々で、なんとなく「日帝」のにおいがするほうへうろうろと歩いていくと、たいていなにかにぶつかる。 それらは解放後、さまざまな運命をたどった。しかし共通するのは、人々の暮らしのただなかで目障りなものになっているという事実だ。目障りどころか、七面倒な無用の長物にさえなっている。空いたからといって容器だけを利用するには、あまりにナマナマしさが漂う。当時の「日帝」の財力をつぎこんだ建造物は堅牢であるがゆえ、なおいっそう厄介なのだ。●塗り込められた壁 全羅北道の湖南平野は、錦江、万頃江、東津江などの水脈が縦横に走り、古くから朝鮮半島隋一の穀倉地帯として知られる。 大田から分かれた湖南線の列車が、論山、イ里、金堤などの見わたすかぎりの沃野を南に向かって駆け抜けると、新泰仁という駅に到着する。このあたりの駅の周辺はどこも、日帝時代の建築物が多く残っているが、ここ新泰仁の駅前も例外ではない。金融組合、精米所、日本人商店、住宅、映画館などの建築物が、韓国式の新しい建物に交じって残っている。 駅から5キロほどのファ湖里という村に、かつての日本人農場主の家と事務所の跡を案内してもらったことがある。日帝時代、このあたりの大地主だったという。地元の人たちは、ウンボン農場と呼んでいた。漢字をたずねたら、熊本農場だった。この熊本農場の倉庫の写真を日本の友人に見せたら、「これは、まさしくトマソンの純粋階段だ」と叫んで、大いに感激していた。 「トマソン」というのは、先の路上観察学会におけるキーワードで、使いようのないもの一般を表しているのだそうだ。 「倉庫」は、ちょっとした体育館ほどの大きさもあり、立派な瓦葺きの二階建てである。そして正面中央には、花崗岩でつくられたいかにも尊大なトマソン階段がある。階段を登りつめると、あったはずの扉は、みごとに塗り込められていた。階段の横には「エンタシスの柱」が2本そそり立ち、三角形の「シャレた」屋根を支えている。いまとなっては失笑ものというほかない。 かつてはこのあたり一円の米を根こそぎ吸い上げて、群山の港から日本へと積み出して巨利を貪り、栄華を誇ったのであろう熊本農場の「倉庫」。その階段は、みごとにトマソン化していた。 熊本農場の主の名は、熊本利平という。長崎県壱岐島の出身である。 1904年(明治37)、日露戦争がはじまり、日本に有利に戦局が展開すると見てとった日本のブローカーたちは、かねてより垂涎の的であった湖南平野の大沃野をめざして、つぎつぎに玄界灘を越えた。そして群山を根拠地として、耕地の買収に血眼になる。そのときのさまは、あたかも「朝鮮に金の棒でも転がっているかのごとくに、我も彼もやってきた」(群山開港史)という。まだ「韓国併合」(1910年)前である。『韓国の小さな村で』1
2017.07.14
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図書館で『韓国の小さな村で』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると・・・韓国のシャーマニズムに注目したかなり異色のノンフィクションである。 【韓国の小さな村で】神谷丹路著、凱風社、2017年刊<「BOOK」データベース>より心奥で響く魂の根っこをつかみたいー村人たちが集う祝祭は、一つの完成した体系をもつ宇宙を描く。隣国の精神世界に触れる旅が始まる。小さな村々には「歴史」がいくつも刻印されていた。統治と被統治の痕跡もその一つ。学び合う気持ちで臨めば見えなかったものがおのずと立ち現れてくる。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると・・・韓国のシャーマニズムに注目したかなり異色のノンフィクションである。rakuten韓国の小さな村でムーダンソウルのムーダン事情を、見てみましょう。p12~17●二つのムーダン・グループ 何度か電話をした甲斐があって、ついに明日はクッをするという日にめぐりあった。 次の日、仁王山のふもとでタクシーを降りた私は、さて、どの坂を登っていけばいいんだかわからず、うろうろしてしまった。前回はどういうわけか迷わなかった。まさかこの一帯の路地がこんな迷路のように入り組んでいるとは思ってもいなかった。加えて私の方向音痴。さらに加えて、国師堂という言葉は、韓国語がまだヘタクソな私には、とても発音しづらい。「国師堂はどこですか」がうまくいえない。 道のあちこちで通りがかりの人をつかまえてはこうたずねるのだが、人は、けげんな顔をして通り過ぎていったり、じろじろと見られたあげく知らないと首を横に振って行ってしまったりで、私はすっかり臆してしまった。それでも3,40分もこの路地のなかを徘徊しているうちに、なんとなく高みへ登ってきた。ふと気がつくと、見覚えのある坂だ。そこで目を上に転じると、目的の国師堂はひょっこりと頭上に現れた。 ほっとした。振り返ってみると、けっこう勾配の急な坂だった。坂道を上がっていくと、しゃんしゃんという鈴の音とともに、地を這うようなムーダンの祈りの声が響いてきた。 国師堂のなかは、前回とは一変していた。12枚の壁の巫画の前にはそれぞれ餅や果物などが供えられ、お香が焚かれている。あでやかな衣装に身を包んだアジュモニたちが大勢いて、中央には2組の祭膳が整えられていた。色とりどりの果物や餅、見たこともないような料理の数々。なかでも、もっとも目を引いたのが豚の頭だ。とんがった鼻がつんと上を向いて、供えられていた。 一方の祭膳の前では、洋服を着た中年の女性がひとり何度も韓国式にぬかづき、ムーダンが祈祷をしている。もう一方の祭膳の前では、沈んだ空気のなかで、真っ白いチマ・チョゴリを身につけた女性たちがうつむいてムーダンの祈祷を受けている。 向こうの、きれいにお化粧をし、ハデな洋服の女性に対して、手前の白装束に身を包んだ女性たちの沈鬱な表情が対照的だ。雰囲気の異なる二つの膳に、なんとなく違和感を感じた。そのうちに、白い女性たちがすすり泣きをはじめた。おばあさん、お嫁さん、子供たち、そんなふうに見える。 ひとりでやってきた私は、ひたすら想像力をたくましくするしかない。全体は神聖な雰囲気に包まれていて、無駄口をたたく人もいないし、私のような見物人もいない。儀式の最中に、これはなんですか? なんて、とても訊けそうもない。 洋服のほうの女性は、神妙な顔つきこそしているものの、泣くようなそぶりはまったくない。ムーダンはつぎつぎにあでやかな衣装を取り替え、衣装を替えるごとに剣をもったり、槍をもったり、鈴をもったりと、手にするものも変えて、祈祷を続ける。一方、白い女性たちのほうでも、ムーダンが祈祷をしながらつぎつぎに衣装を替えていくのだが、今度は扉を開け、女性たちがうつむきながら外へ向けて頭を差し出した。すると、その頭上をムーダンが明太の干物をグルグルと振り回して呪文を唱えて、なにやらお祓いをしている。 わけのわからないまま、私も目を凝らした。霊験あらたかな何かのおまじないにちがいない。 そのうち今度はなんと、ムーダンのハルモニが赤や黄色の装束の上から男の人の着古した背広を着込んだのである。この珍妙な姿を前に、白いチマ・チョゴリの女性たちのすすり泣きは、一段とトーンを上げ、激しい嗚咽へと変わっていった。 ここにいたって、私はようやく気がついた。向こうのクッとこちらのクッがまったく無関係であることに。それほど大きいとはいえないお堂のなかなので、向こうとこちらのムーダンの祈祷の歌は、ときに重なり、やや奇妙な光景を展開していくが、それは諸般の事情というものなのだろう。クッの日取りは重要な要素だから、たまたま占いで出た日が重なったのかもしれない。●異文化体験 やがて、お昼の時間になった。向こう側とこちら側の控えの間に、それぞれが二つのグループに分かれた。ふたてに分かれてみてはっきりとわかったのだが、洋服の女性のほうにはムーダンが3,4人もいるし、楽士、つまりムーダンの歌にチャング(長鼓)で合の手をいれる男性もいるのに対して、白い女性たちのほうでは、ムーダンはひとりでクッをしていた。 みんな、ヘンな人がさっきから外で見ているというのは承知していて、それなりに気になってはいたらしい。洋服の女性を祈祷したムーダン・ハルモニのひとりから、声をかけられた。 「どこから来たのかね」 「日本からです」 「日本の娘かね」 「はい」 「入っておいで」 これから昼ご飯を食べるらしい。もじもじしていると、さらに手招きされた。私にも、ご飯とスープを食べろと勧めてくれる。あいかわらず私は、祈祷をうけた洋服の女性からはほとんど無視されていたが、人懐っこいムーダン・ハルモニに助けられた。簡単な昼食の膳の端に私も入れてもらった。 「キョッポ(在日同胞)かい?」 「いいえ、日本人です。延世大に留学中なんです。シャーマニズムが専攻なものですから・・・」 ムーダン・ハルモニたちに、どういうふうに受け取られているのかわからなかったが、彼女たちはふんふんとうなずいている。シャーマニズムを専攻しているなどというのは半分出まかせだったが、ハルモニたちは、とくにいぶかしがりもしない。私は、そっとたずねてみた・・・なんのクッなんですか? 「チョボククッ(招福祭)よ」 子孫繁栄、家運隆盛の、福を招き入れるクッであるという。ムーダンについては、韓国旅行「コネスト」の巫堂(ムーダン)に詳しく出ています。なお、シャーマニズムについては大阪のシャーマンとして、とりまとめています。
2017.07.14
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「民族誌(エスノグラフィー)」でしょうか♪<市立図書館>・歯車・五郎治殿御始末・英国人写真家の見た明治日本<大学図書館>・エスノグラフィー・ガイドブック図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【歯車】芥川龍之介著、岩波書店、1979年刊<カスタマーレビュー>より「玄鶴山房」「歯車」「或阿呆の一生」の三つの短編です。本書では、それぞれ「玄鶴山房」は(昭和二・一)[遺稿]、「歯車」は(昭和二・四・七)[遺稿]、「或阿呆の一生」は(昭和二・六)[遺稿]と記されている。作者芥川が服毒自殺したのは昭和二年七月四日にあたる。<読む前の大使寸評>「歯車」については、浅田次郎さんのお奨めがあったので、借りる決め手になったのです♪amazon歯車************************************************************【五郎治殿御始末】浅田次郎著、中央公論新社、2014年刊<「BOOK」データベース>より男の始末とは、そういうものでなければならぬ。決して逃げず、後戻りもせず、能う限りの最善の方法で、すべての始末をつけねばならぬ。幕末維新の激動期、自らの誇りをかけ、千年続いた武士の時代の幕を引いた、侍たちの物語。表題作ほか全六篇。<読む前の大使寸評>ぱらぱとめくると・・・明治維新時の侍たちの苦悩にからむ短篇六篇とのことで、なかなか魅力的なラインナップではないか♪yodobashi五郎治殿御始末************************************************************【英国人写真家の見た明治日本】ハーバート・ジョージ・ポンティング著、講談社、2005年刊<「BOOK」データベース>よりスコット南極探検隊の映像記録を残したポンティングは、世界を旅し、日本を殊の外愛し、この世の楽園と讃えた。京都の名工との交流、日本の美術工芸品への高い評価。美しい日本の風景や日本女性への愛情こもる叙述。浅間山噴火や決死の富士下山行など迫力満点の描写。江戸の面影が今なお色濃く残る百年前の明治の様子が著者自らが写した貴重な写真とともにありありと甦る。<読む前の大使寸評>先日、モース著『明治のこころ』というビジュアル本を読んだ(観た)のであるが・・・・その残り香のあるうちにこの本を借りたのです。rakuten英国人写真家の見た明治日本************************************************************【エスノグラフィー・ガイドブック】松田素二, 川田牧人著、嵯峨野書院、2002年刊<「MARC」データベース>よりベテランから若手まで90名のエスノグラフィー研究者が執筆し、100冊以上の本を紹介する、あらゆる分野の研究者に対応するエスノグラフィーのガイドブック。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、民族誌(エスノグラフィー)、文化人類学絡みの本の書評集になっているわけで・・・・大使のツボがうずくわけでおます♪amazonエスノグラフィー・ガイドブック************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き229
2017.07.14
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図書館に予約していた『戦争まで』という本を、待つこと7ヵ月でゲットしたのです。ぱらぱらとめくってみると、歴史や地政学、軍事同盟から説き起こす、ものすごくファンダメンタルなスタンスに驚いたのです。【戦争まで】加藤陽子著、朝日出版社、2016年刊<出版社情報>よりこの講義の目的は、みなさんの現在の日々の生活においても、将来的に大人になって社会人になった後においても、交渉事にぶちあたったとき、なにか、よりよき選択ができるように、相手方の主張、それに対する自らの主張を、掛け値なしにやりとりできるように、究極の問題例を挙げつつ、シミュレーションしようとしたことにあります。1章 国家が歴史を書くとき、歴史が生まれるとき2章 「選択」するとき、そこで何が起きているのか --リットン報告書を読む3章 軍事同盟とはなにか --20日間で結ばれた日独伊三国軍事同盟4章 日本人が戦争を選んだのはなぜか --日米交渉から見える痕跡と厚み講義のおわりに 敗戦と憲法 <読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、歴史や地政学、軍事同盟から説き起こす、ものすごくファンダメンタルなスタンスに驚いたのです。<図書館予約:(12/9予約、7/05受取)>rakuten戦争まで著者は経済を絡めて帝国日本を語っているので、見てみましょう。p50~53<植民地帝国日本の経済力とは> 少し情念を前に出して語ってしまいましたが、ここからは安心して聞いていただけます(笑)。談話を読んで、日本近代史の研究成果と関連づけたとき、不満に感じられた箇所は、世界恐慌、ブロック経済、植民地支配について、この三つを関連づけた展開部分です。 先ほど引用した、日露戦争の戦勝について述べた第二段落と、植民地経済について書いた第四段落をつなぐ部分、そのつなぎ方に、私はひっかかりを覚えました。植民地帝国を早くから築いていた西欧列強が世界恐慌に際し、いち早く経済のブロック化を進めたのに対して、遅れてきた帝国主義国であり、経済的に脆弱な資本主義国であった日本が、経済的な打撃を受け、打開の道を武力による侵攻に求めた、そのような理解でこの部分は書かれています。 左のグラフ(イギリス・フランス・日本の対植民地輸出)を見てください。これは、戦前期に植民地帝国となっていた日本の経済史について、画期的な研究を進められてきた京都大学経済学部の堀和生先生がつくったグラフです。これがめっぽう面白い。 イギリス、フランス、日本、この三つの国が、それぞれの植民地にむけて、どのくらい輸出していたかを表すグラフです。 1921年時点では、やはりイギリスは力がある。インドなどの英国植民地へ向けて輸出した額は、フランスや日本を引き離して8億ドルに迫っている。対して、同じ時点での日本の対植民地輸出額は2億ドルに届かない。(中略) 英仏が、自国と植民地間の帝国経済をブロック化し、自国の利益のみを考えて、他国を出し抜いた結果、英仏ほどは経済の強くなかった日本などが損害を蒙り、国際協調に背を向けてグレました、とのイメージが頭の中に根強くある方もいるかもしれませんが、それは実態とは違うのです。このようなイメージは、太平洋戦争が始まって以降、特に戦況が悪化して以降の新聞やジャーナリズムにおいて、徹底して描かれたイメージに過ぎません。更に読み進めました。p57~59<日本帝国と植民地との緊密な経済的結びつき> では、台湾、朝鮮を見てみましょうか。台湾が1937年に日本から輸入しているのは83%。日本への輸出は92%で、ほとんどが日本向けですね。朝鮮を見ても、輸入、輸出の両方とも日本との関係が8割を超えている。 ここからなにがいえるというば、戦前期の日本は、植民地と非常に緊密な経済的連携をつくっていた国だったということです。意外にも英仏は、手から水がこぼれていっている。 なんだか、こう、イメージが変わっていきませんか。英仏など世界帝国がブロック経済化を進めた結果、後発の遅れた帝国主義国日本は経済的に生きる道を絶たれ、やむなく武力に手を出したというイメージが。 日本と台湾・朝鮮など植民地との関係性は、経済的な側面から確認すると、英仏とその植民地との関係性よりも、ずっと密なものでした。支配される側から見れば、それは親密な関係というより、息もつけないほど逃げ場のない緊密さだったのではないでしょうか。ですから、考えをめぐらせば、韓国など、日本の植民地にされた国の人々の記憶が、他の欧米の植民地であった国々の人々の記憶と異なったものとなったのは、ある意味では当然だといえるのです。 堀先生によれば、台湾よりも朝鮮のほうが、日本帝国への包摂の度合いが高かったといいます。1930年代においては、朝鮮から輸出される産品の97%から98%が日本帝国内に向けたものでした。台湾には日本向けではなく、世界市場に向けて輸出しうる品目があった。このあたりに、戦後の日本に対する認識という点で、現在の韓国と台湾の間に違いが見られる要因の一つがあるのかもしれません。帝国の本国であった日本側からは与りしれない、植民地とされた国の側の戦後の歴史認識の生まれる原風景があると思います。『戦争まで』1:7世紀、東アジアで戦われた、日中戦争『戦争まで』2:談話の中の日本近代の歩み
2017.07.13
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図書館に予約していた『戦争まで』という本を、待つこと7ヵ月でゲットしたのです。ぱらぱらとめくってみると、歴史や地政学、軍事同盟から説き起こす、ものすごくファンダメンタルなスタンスに驚いたのです。【戦争まで】加藤陽子著、朝日出版社、2016年刊<出版社情報>よりこの講義の目的は、みなさんの現在の日々の生活においても、将来的に大人になって社会人になった後においても、交渉事にぶちあたったとき、なにか、よりよき選択ができるように、相手方の主張、それに対する自らの主張を、掛け値なしにやりとりできるように、究極の問題例を挙げつつ、シミュレーションしようとしたことにあります。1章 国家が歴史を書くとき、歴史が生まれるとき2章 「選択」するとき、そこで何が起きているのか --リットン報告書を読む3章 軍事同盟とはなにか --20日間で結ばれた日独伊三国軍事同盟4章 日本人が戦争を選んだのはなぜか --日米交渉から見える痕跡と厚み講義のおわりに 敗戦と憲法 <読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、歴史や地政学、軍事同盟から説き起こす、ものすごくファンダメンタルなスタンスに驚いたのです。<図書館予約:(12/9予約、7/05受取)>rakuten戦争まで首相官邸ホームページで平成27年内閣総理大臣談話を、見てみましょう。p40~46<談話の中の日本近代の歩み> みなさんの中で、首相官邸ホームページを常に見ている方は少ないと思いますが(笑)、官邸ホームページに、「平成27年8月14日内閣総理大臣談話」が掲載されています。韓国語、中国語、英語の各版もありますから、各国語をくらべながら見るのも面白いし、勉強になります。(中略) 日露戦争について書けば、遅れてきたアジアの非白人国家である日本がロシアを敗北させたことで、植民地支配のもとにあったアジアやアフリカの人々に元気を与えたと書けるわけですね。日清戦争について書くと、なにをいうことになってしまうのか。-日本の立場がレベルアップした。 そう、清が日本に敗北したことで、日本は、朝鮮の李王朝など東アジア情勢に発言力を持つ国になっていった。よいところを掴んでいますが、もう少し。日清戦争が、世界へ与えた衝撃といえば、なんでしょうか。-それまでは「眠れる獅子」と呼ばれていた中国が敗けてしまった。 眠れる獅子という表現はなかなか古風で、中学生のあなたからこの言葉が出て来るとは思いませんでした(笑)。 日本の開国に先駆け、列強に開国を迫られたのは清でした。ただ、清が、1840年のアヘン戦争のイギリスに対する敗北で国力を一気に喪失したことなどと考えるのは早計です。日清戦争にいたる十年、清は、官界の最高実力者となった李鴻章のもとで緒改革を進め、英国やロシアなど列強との関係も再調整しつつ、朝鮮との外交関係も近代的に再編しつつあった、というのが実態です。そして、日清戦争の敗北で背負った賠償金負担がっその財政を圧迫し、東アジアにおける清の権威が決定的に下がったことも事実です。 政府の談話が、日清戦争を直接書かないことにしたのは、なかなか意味深長かもしれません。日清戦争を書いてしまうと、現在の中国の人々が感じているはずの「この国のかたち」、民族としての歴史認識を刺戟することになるので避けた、とも考えられます。 我々日本人は、戦後70年という言い方をして、ああ、「先の大戦」の敗北から70年が経ったな、と思うわけですが、中国にとって2015年は、日清戦争敗北の120周年に当たるわけです。アヘン戦争から始まる一連の国辱の歴史にあって、大きな画期となったのが日清戦争でしょう。 この談話に書かれていないことで、私が思うことをついでにお話ししておきますと、文化や学術について書かれていないな、ということです。戦前期の日本の学問が東アジアに与えた影響は、実のところ相当に大きいのではないか。 戦前期の日本には、政治史という学問を初めて本格的に作り上げた吉野作造や、初めて精緻な憲法学を作り上げた美濃部達吉などがおり、漢字文化圏に強い影響を与えていました。確かに、談話の第二段落では、日本がアジアで最初の立憲政治を導入し、独立を守ったことが語られていますが、日本とアジアとの連関の中で学問の影響関係が語られてもよかった。 今、日本のアニメ『進撃の巨人』などが、字幕をつけられて、アジアでも広く観られているでしょう。それと同じことが、かつてもあったということです。アニメと比較するとは、と、泉下の吉野先生や美濃部先生は絶句しているかもしれませんが、比喩にアニメを持ってきたのは、その影響力が同じくらい大きいと言いたかったからです。 中華民国時代の中国の憲法思想を研究している中村元哉先生が明らかにしたことですが、日中関係が必ずしも順調ではなかった1928年から37年にかけて、むしろ、中国における日本語書籍の翻訳は最盛期を迎えていたといいます。この期間でいえば、アメリカなど、中国と関係の良かった国の本がたくさん翻訳されていたと思いきや、そうではなく、日本語の書籍が依然としていちばん翻訳されていたことが出版データからわかるのです。『戦争まで』1
2017.07.13
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図書館に予約していた『戦争まで』という本を、待つこと7ヵ月でゲットしたのです。ぱらぱらとめくってみると、歴史や地政学、軍事同盟から説き起こす、ものすごくファンダメンタルなスタンスに驚いたのです。【戦争まで】加藤陽子著、朝日出版社、2016年刊<出版社情報>よりこの講義の目的は、みなさんの現在の日々の生活においても、将来的に大人になって社会人になった後においても、交渉事にぶちあたったとき、なにか、よりよき選択ができるように、相手方の主張、それに対する自らの主張を、掛け値なしにやりとりできるように、究極の問題例を挙げつつ、シミュレーションしようとしたことにあります。1章 国家が歴史を書くとき、歴史が生まれるとき2章 「選択」するとき、そこで何が起きているのか --リットン報告書を読む3章 軍事同盟とはなにか --20日間で結ばれた日独伊三国軍事同盟4章 日本人が戦争を選んだのはなぜか --日米交渉から見える痕跡と厚み講義のおわりに 敗戦と憲法 <読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、歴史や地政学、軍事同盟から説き起こす、ものすごくファンダメンタルなスタンスに驚いたのです。<図書館予約:(12/9予約、7/05受取)>rakuten戦争まで東アジアの地政学を、見てみましょう。p64~67<7世紀、東アジアで戦われた、日中戦争> それでは、日本という国家が書いた歴史書『日本書記』が、どのような背景で生まれてきたのか、それを中国大陸、朝鮮半島の情勢とからめてお話ししましょう。誰が、どのような意図で、この書を書かせたのか、順々に見ていきますね。まずは、中国大陸と朝鮮半島が連動するかたちで、その中に対立の萌芽が生まれます。 618年、隋が滅亡し、より強大な中央集権国家である唐が興りますと、朝鮮半島にあった高句麗・新羅・百済の三国は、624年、そろって唐の冊封体制下に入り、唐の皇帝に、臣下の礼をとるようになりました。大陸と半島は地続きですので、7世紀前半のこのとき、唐を中心とする東アジアの国際秩序が形成されたといえるでしょう。 ところが、半島からさらに海を隔てて東に位置していた倭国は、633年、唐から官爵の授与を受けない関係、つまり、唐からの冊封の外に立つ道を選びとりました。 唐は南から高句麗を牽制しうる新羅と手を組み、高句麗に圧力をかけます。圧力をかけられた高句麗は百済と結び、錯綜した対抗関係が、大陸と半島の間に結ばれ、このような情勢のもと、日本は高句麗や百済と結び、唐と新羅に対抗するようになります。 645年になりますと、唐の太宗(第2代皇帝)は、10万の大軍で高句麗の領土に攻め込みました。倭国は、高句麗・百済と親交を結んでおりましたから、このように唐が、軍事的な圧力を直接、高句麗にかけてきたことは、衝撃をもって受け止めたはずです。高句麗の次に、唐が攻めてくるのは倭国なのではないか、と。 唐がまさに一線を越えた645年という年、倭において、中大兄皇子などを中心とした宮廷勢力が、豪族の長である曽我氏を滅ぼし、国内改革である「大化の改新」を行いますが、それは偶然ではありません。 中大兄皇子、後の天智天皇が、曽我氏を滅ぼさなければならなかったのは、単なる権力争いなどではありませんでした。それぞれの地域で豪族が連立した状態では、対外的に結束できない。唐からの攻撃が予想され、東アジア世界が軍事的に極度に緊張する中で、倭国としては、国内の権力を、天皇のもとに集中して対外危機に備える必用がありました。 この国内改革に力のあった人が中大兄皇子、後の天智天皇であり、改革に協力したのが弟の大海人皇子、後の天武天皇でした。天武は、『日本書記』が完成したときの天皇ということになります。 高句麗を攻めあぐねていた唐の高宗(第3代皇帝)は、高句麗と親交を結んでいた百済を先に討つ作戦に出て、660年、百済を滅ぼしました。倭国は、百済の遺臣からの派兵要請を受けて、一歩、唐との戦争への道に進みます。朝鮮半島へ派兵したのです。 当時の天皇であった斉明天皇に加えて、中大兄皇子なども、半島への出撃拠点であった九州まで下向していました。国の存亡を賭け、倭国は、唐・新羅連合軍に挑みますが、663年、白村江の戦いで大敗を喫します。 戦争に敗れた後、倭国の緊張は続きます。今度は唐と新羅は日本の海岸に現れるだろう、と。ですから、対馬・壱岐島に防衛施設をつくり、筑紫の大宰府に堤防である水城を築き、怖れと緊張感をもって日本は備えていたのです。これは意外でしょう。 7世紀の日本に、外国からの侵略を受けるという怖れを感じなければならないような客観的状態がある。日本は島国だという言い方をしますが、大陸と中国の緊張感というものが、古代の時代にもたらしたものは、ものすごく大きいのです。 東アジアで、唐と新羅vs日本と百済(遺臣)という海戦が起きていた。朝鮮半島の二つの勢力、新羅と百済が関与していますが、白村江の戦いは、7世紀に起きた、もう一つの日中戦争といえそうです。
2017.07.12
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図書館で『明治のこころ』という大型本を、手にしたのです。おお これこそ元祖クールジャパンみたいな本やないけ♪・・・と思った次第です。 【明治のこころ】小林淳一, 小山周子編、青幻舎、2013年刊<「BOOK」データベース>より豊かさより、便利さより、大切なものがあった。自然を愛し、ものを大切にし、日々を楽しみ、正直に生きる。大森貝塚の発見者として知られるモースが感動した130年前の日本。アメリカ最古のピーボディー博物館、ボストン美術館所蔵モース・コレクションより生活民具、写真、スケッチなど約600点を収録。<読む前の大使寸評>おお これこそ元祖クールジャパンみたいな本やないけ♪・・・と思った次第です。 rakuten明治のこころ明治のなりわいを、見てみましょう。p143<なりわい> 人が生きてゆくためには、まずは日々の糧を得なければならない。自明のことである。モースの目は職人や商人はむろんのこと、大道芸や見世物、はては物売りの世界にまで注がれる。「魚売り、きせるやブリキ細工を修繕する者、古道具屋等の、それぞれ異なる町の叫び声がある」とし、その日、たまたま梯子を売る男と新聞屋の声を聞いたので、モースは真似をするつもりで帰宅した。 妻や2人の子どもたちに聞かせようとしたのだろう。しかし、やろうとしても「すっかり忘れてしまった!」と述懐している。モースがスケッチしたなかには、いまとなってはすでに失われてしまった仕事も多々みられる。 モースが格別の関心をもって観察した対象は、やはり職人たちの「技」であった。「日本その日その日」でも彼らの仕事ぶりを克明に記し、スケッチを描き、かつ多数の道具類も収集している。江戸時代から引き継がれる優れた在来技術の基盤は、明治以降、欧米からの近代技術の移植を容易にし、とくに戦後、資源の少ない日本が世界に冠たる技術立国として立ち上がれた土壌となったとも考えられる。ここにわが国の「ものづくり」の系譜がしっかりと見てとれるのである。明治のこどもを、見てみましょう。p105<こども> モースの日本での興味と関心は、実に多岐にわたっていた。なかでも彼が瞠目したのは「こども」である。日本ほど子どもが大切に扱われる国はないというのである。ある日のこと、往来で祭礼に出くわしたモースは、子どもたちだけが山車を引く姿を見て「子供が蟻のように群れ、人が皆笑い叫んでいる光景は、まことに爽快であった。日本はたしかに子供の天国である」と述べている。さらに「この種の集まりのどれでも、また如何なる時にでも、大人が一緒になって遊ぶ」光景を見てとてもうれしくなってしまった、とも述べている。 日本は子ども天国・・・それは、来日したことのある他の外国人たちも一致した意見である、とモースは断定する。子どもが甘やかされて増長してしまわないかと懸念されるが、「世界中で両親を敬愛し老年者を尊敬すること日本の子供に如くものはない」「これは日本人に深く染み込んだ特性である」と結論づけた。『明治のこころ』1:はじめに『明治のこころ』2:日本と日本人、東京生活
2017.07.12
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図書館で『すべての愛について』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、作家や役者たちとの対談集であるが・・・武士道や戦争小説などを題材にしているところが浅田さんらしくて、ええでぇ♪【すべての愛について】浅田次郎著、河出書房新社、2006年刊<「BOOK」データベース>より恋愛、家族、ギャンブル、馬、ゼイタク、涙、まち、東京、日本…読書、小説。そして書くことへの、さまざまな「愛」について。作家・浅田次郎の本音。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、作家や役者たちとの対談集であるが・・・武士道や戦争小説などを題材にしているところが浅田さんらしくて、ええでぇ♪amazonすべての愛について森まゆみとの対談を見てみましょう。<オタクふうに・・・>p82~87森:今年は大変お忙しい年になられましたね。直木賞を受賞されて、いかがでしたか?浅田:賞をもらう以前から、忙しさに関しては、時間的にも、もう飽和状態でした。その上に直木賞が乗っかったわけですから、正直いって、何やっているか全く分からない状態です。今も何やっているか全然分からない(笑)。森:今日は今年刊行された本をめぐる対談なんですが(笑)。浅田:今一番の悩みは何かと聞かれたら、本が読めないこと。だから僕が二つ返事で朝日新聞の書評委員を引き受けた理由は、ただ一つ、本を堂々と読める、それですよ。森:無理しても新刊を読みますものね。新聞書評をなさってみて、普通の原稿を書くのと比べてどうですか?浅田:おもしろい。読んで感じた通りのことを書けばいいわけですから。そういう意味では、もっとやりたいんですけどね。何しろ時間がなくて。森:いやいや、ぜひたくさん書評してください。そこで、と言っては何ですか(笑)、書評にお書きになったものも含めて、今年、おもしろかった本はありましたか?浅田:おもしろかったというのとちょっと違うかもしれないけれども。遠藤周作さんの『無鹿』(文芸春秋)は、いい本だと思った。森:私は『夫婦の1日』(新潮社)のほうを読みましたけれども、どんなところがよかったですか。浅田:どうして遺作と言うのは、いいんだろう? これが最後の1冊だなという思い入れがあって読むからかもしれないけれども、いいんですよね。例えば芥川龍之介。あの人の作品は全て暗くてシリアスな、どれでも遺作になりそうな小説なんだけれども、やっぱり『歯車』という作品は、何度読んでもいいなと思います。ちょっと他のものとは違う、ある澄みわたった世界というのがある。それを『無鹿』には感じました。(中略)浅田:もう一つ非常に興味を持って読んだのは『アンダーグラウンド』(講談社)。だって、「なぜ村上春樹さんが?」という感じでしょう? 僕は、これは村上さんにとって「偉大なる習作」なのではないか、という気がします。森:書評に採り上げておられましたね。浅田:『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社)に、ノモンハン事件のことが出てきました。ノモンハン事件は小説の素材としては最も厄介なものじゃないかなと僕は思っていて、村上さんがそれに触れたということにびっくりしたんです。村上さんは僕より一つか二つ上の、いわゆる完全な戦無派。いつかは、戦無派の人たちが、僕も含めて、戦争を題材にした小説を書くことになるでしょう。でも今はなかなか難しいんですよね。ですから『アンダーグラウンド』は将来村上さんが書かれるはずの「戦争」への一つのステップじゃないかと推理しています。森:今年は戦争を知らない世代が戦争を考えるという試みが目につきました。小説以外でも、加藤典洋さんの『敗戦後論』(講談社)が論争を巻き起こしました。浅田:戦後生まれの学者が客観的な戦争論というのを語り始めたということは今年の収穫ではないでしょうか。森:私が読んでよかったのは、川村湊さんの『満州崩壊「大東亜文学」と作家たち』(文芸春秋)。日本が植民地を持っていた頃というのは、ほとんどの人が満州や台湾、朝鮮に関わっていますよね。引き揚げてきた人も非常に多い。そういう人たちがまだたくさんいて、それなりの記録や回想記はあっても、私たちになかなかつながってきませんでしょう。浅田:去年、中公新書の『キメラ-満州国の肖像-』(山室信一)を非常に興味を持って読んだんですよ。読んでいる最中に気がついた。この人、もしかしたら若いんじゃないかなって。客観的だったから、記述が。森:藤原ていさんの『流れる星は生きている』(中公文庫など)のような、体験談が今まで主流でした。それも貴重ですけれど。浅田:僕、実は満州オタクなんです(笑)。「満州」という名前がつく本は大体読むんですけれども、『キメラ』には驚きました。こういうのが出始めたんだなって。『すべての愛について』1:山本一力との対談『すべての愛について』2:阿川佐和子との対談この記事も浅田次郎の世界に収めておきます。
2017.07.11
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図書館で『明治のこころ』という大型本を、手にしたのです。おお これこそ元祖クールジャパンみたいな本やないけ♪・・・と思った次第です。 【明治のこころ】小林淳一, 小山周子編、青幻舎、2013年刊<「BOOK」データベース>より豊かさより、便利さより、大切なものがあった。自然を愛し、ものを大切にし、日々を楽しみ、正直に生きる。大森貝塚の発見者として知られるモースが感動した130年前の日本。アメリカ最古のピーボディー博物館、ボストン美術館所蔵モース・コレクションより生活民具、写真、スケッチなど約600点を収録。<読む前の大使寸評>おお これこそ元祖クールジャパンみたいな本やないけ♪・・・と思った次第です。 rakuten明治のこころコレクション蚊帳第2章で130年前の暮らしを彩る品々を、見てみましょう。p39<日本と日本人> 日本に滞在していた約4年間、モースは日々の出来事を詳細に記した。この日記は、3500ページにもおよぶ膨大な量で、どのような方法で世に出すか、長年、モース自身が考えあぐねていた。そのようなとき、モースの3回目の来日に同行した畏友ウィリアム・スタージェス・ビゲローが差し出した手紙が、モースに出版の決意を固めさせた。 その文面は次のとおりである・・・「君と僕とが40年前親しく知っていた日本の有機体は、消滅しつつあるタイプで、その多くは既に完全に地球の表面から姿を消し、そして我々の年齢の人間こそは、文字通り、かかる有機体の生存を目撃した最後の人であることを、忘れないで呉れ。この後十数年間に我々がかつて知った日本人はみんなベレムナイツ『今は化石としてのみ残っている頭足類の一種』のように、いなくなってしまうぞ」。換言すれば、ビゲローはモースが日本で経験した大切な記録を書物として残しておかないと、誰も分からなくなってしまう、と警告しているように受けとれる。 そして、この日記は1917年(大正6)、モースが79歳のとき、最後の来日から数えて実に24年を経たのちに、モース自筆の777点のスケッチを含め、『日本その日その日』の書名で上梓された。今日、この日本滞在の記録は、江戸から明治へと時代が大きく移り変わるなか、当時の庶民の暮らしを示す貴重なエスノグラフィー(民族誌)として高く位置づけられる。 1886年(明治19)の『日本の住まい』、および1901年(明治34)の「モース日本陶器コレクション目録」とを合わせた「日本関係三部作」の著作と、みずから収集した約2800点の実物標本資料により、モースは明治の日本と日本人を克明に捉えたのであった。モースの東京生活を、見てみましょう。p42<モースの東京生活> 初来日してすぐに、モースは東京大学動物学研究室初代教授に就任することが決定し、1877年(明治10)9月から、現在の東京大学本郷キャンパス内にある加賀屋敷第5番を住まいとした。2回目の来日では、家族とともにこの官舎に入居した。 「私はしばしばヤシキの門から出て、大通りをぶらぶらしたり、横丁へ入ったりして、いろいろな面白い光景を楽しむ」と述べたとおり、気の向くまま本郷の周辺を散策して人々の暮らしを興味深く眺めた。当時の東京大学は、まだ神田錦町にあり、モースは人力車で大学に通っていた。『明治のこころ』1
2017.07.11
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