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ホームベーカリーを買いました。以前から欲しいとは思ってたのだけど、最近いろんなブログで使っている人が多くて、思い切って買いました。買ったはいいけど、使わなくなるんじゃないかと、そのあたりが心配でしたが、とりあえず今は、ほぼ毎日焼いています。だって、焼いても、一日で食べきっちゃうんだもの。 すごいのは、炊飯器とほぼおなじなんだということ。材料をセットして、スイッチを押しさえすれば、あとは、できるまで待ってるだけ。パンを焼くのに、炊飯器と同じとは、オドロキです。 パンて、こねたり、醗酵させたりが結構てまだし、なかなかうまくふくらんでくれなかったりするので、自分で作るのはたいへんなのですが、まさかその全ての工程をやってくれる機械がすでにここまで進化しているなんて、ちっょとしたカルチャーショックでした。 技術の進歩ってすごいですね。この機械を作るために、技術の開発にどれほどの試行錯誤が繰り返されたのだろうと、焼けたパンを食べながらしばし考えてしまいました。 ほかにも、練りだけとか、醗酵だけとかもできるし、ジャムや温泉タマゴ、酵母パンもできます。 フランスパンも、できます。食パンの形のフランスぱん。おいしいです。生地だけ作って、自分で、アンこをいれて、アンパンもつくりました。あとは、ショクパン、フランスパン、全粒粉パン、胡麻パン、などもつくりました。ほかにも、機械についていたレシピによると、ケーキもつくれるし、このほかにもいろいろなパンができるようです。まだまだ毎日チャレンジです。 ひととおりつくって飽きても、ダンナが朝食かならずパンなので、食パンだけは、作り続けると思われます。 パンの写真は後日アップしたいなと、思ってます。私が買ったのは、これ。安い割りに、いろいろできる。価格コムでも、評判がよく、しかも、買いたいし、買いに行こうかどうしようかと、思っていたときにちょうど、生協で取り扱っていたので、買ってしまいました。。
2009年04月30日
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草薙君のニュースが今日もテレビで大きく取り扱われています。それほどたいした事件だと思えないのに、ここまで大きくニュースになるなんて、草薙君て、売れっ子なんだなぁと、実感しました。事件を起こした時にドレくらいニュヘースで取り扱われるかで、その芸能人、有名人の人気度がわかるバロメーターになるなぁっと、思います。普通の人なら、捕まって、一晩泊まってでくるくらいなんじゃないのかなぁ。事件を知るのも、家族と親戚くらいで終っちゃうと、思うし。それが、ここまで騒がれるほど、彼は有名人として、人気高いのですね。結構いろんなコマーシャルにもでてるんですね。今回の事件で、しばらくは、芸能界をお休みするかもしれないけれど、一年くらいでもどってくるでしょうね。あんな事件起こしたのに、もう戻ってきたの?という人も結構いますもの。わたしだったら、事件起こして、仕事休んだら、もう、会社行っても、机はなくなってるかもしれないのに、一年ほど休んでも、また仕事があるなんて、芸能人ていいなあ。というか、それだけ、実力あるんでしょうね。同じように事件を起こしても、そのタレントさんの人気度で、たいしてニュースにもならないだろうし。でも、おとといの清水由紀子さんの事件の話題性が落ちました。この事件のおかけであまり清水さんの事件が話題に上らなくなったのは、いいことだと、思う。あのニュースは、ちっょと辛すぎるもの。この事件で、彼女のプライバシーが根掘り葉掘りこれ以上されなくて、良かったかもしれない。 それとも、草薙君がコマーシャルにでてるNTTのイメージを落とすための、KDDの戦略?脱いだ服がきちんと一箇所においてあるなんて、変。騒いでいる時、警察に通報した男性がいるっていうのも、あやしい。しかも、草薙君は、ほぼ記憶ないって言うし。なんか裏がありそうとか、想像しちゃうぞ。
2009年04月24日
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今頃こんなこと書くのもなんですが、世の中の人たちって、どのくらいお祝い事してるのでしょうか。 今回は、我が家とだんなの実家で、ちょっとどうしたものかってことになりました。というのも、話は、三月の末のことなんだけど、なんだかんだしてたら、いまこ゛ろになってやっと、記事を書く暇が出来たのです。 三月四月は、まあ、新入学の時期で、今回も、だんなの実家とのやとりとりでちょっともめました。甥の入学祝いを、もっていくかどうするかです。 もともとは、姑の指示で、結婚以来ずーっとやってきました。だんなの兄夫婦とは、祝い事をやり取りしてました。出産祝いに始まって、七五三だの、入園、入学祝いだのずーっと。 私の実家の方では、家風というか、私の父がそのての儀礼的なやりとりがきらいで、いっさいやっていなかったのです。で、そんなものかなーっと思っていたし、私自身が儀礼的なことがきらい。で、私の母も、特にどうでもいいし、それに、安月給のサラリーマン同士で、そんなことしてみても、しょうがないからと、綿の兄夫婦とは、そのてのことはずーっと、やってません。 でも、だんなの実家は、どうもそのてのことが好きみたいです。しかも、義理の姉の実家はそういうことが大好きな様です。で、だんなの家の家風なのか、義理の姉の手前やらざるをえないのか、ずーっと、義理の兄夫婦とは、祝い事のやり取りを姑の指示のまま、まあ、反対するのもメンドウだし、とりあえず素直に従ってきたのでした。 でも、お互いに、二人三人の子供がいて、毎年毎年、祝い事の応酬をすでに、二十年もやってきて、いい加減めんどくさいなぁと、内心は思ってました。 で、おととしのこと、甥の成人祝いをもっていった時に、その肝心の義理の姉が、今回はいいですということで、断ったのですね。そのあと、どうしようと、姑が我が家に相談に来ましたが、じゃあ、コレをきっかけにお祝い事は今回でおしまいにしてしまおうということになったのです。 この先ずーっと続くのもメンドウだし。 ところがですね。今年になって、義理の兄の甥が高校入学で、姉の実家でもお祝いくれたし、おばさんのところからもくれたから、弟の我が家が持っていかないのは、まずいから、もってこいといわれまして。 え。だって、こっちが持っていった時、ことわったのは、向こうなのに、なんで? と、今回私はすごーく不愉快。一度は、ことわっておいて、やっぱりまずいからもってこいなんて、何考えてるのでしょう。それも、もって行く前に、前もっての内内の話し合いで、持ってこなくていいよというような、やり取りで、ことわったならまだしも、現実にお金をもっていって、それを目の前で受け取らずに、ことわったのに、なんでまた? こっちの立場とか、めんつとか、まるで無視ですか? これだから、長男て、嫌い。どうしても、長男てだけで、こんなにいばってるんだろう。と、どちらも、第二子である我が家の夫婦二人は、毎回しゃくぜんとしません。なにかっていうと、長男はたいへんとかいって、むかつくーーーーーー。 これから先も、お互いの子供のお祝い事のたんびに、やり取りがあるのでしょうかねぇ。 でも、私が、入学祝いが特にきらいなのは、入学式当日に、入学式の出席だけでも疲れてるのに、そのまま、帰ってきてすぐ、お赤飯をとりにいって、前もってかっておいた商品券のお返しと一緒にだんなの実家にもっていって、お茶してなんていう一連の面倒くさいことをしなくちゃいけないからなんです。しかも、そのお返しは、ようするに、もらった額の半分より多い。こんなに返すなら、何のためのお祝いなの?と、思う。しかも、相手の入学式の日は、お返しを持ってくるから、どんなにいい天気でも、何時にくるかわからない、そのお返しを受け取るために、家で、待機してなくちゃならないのですよね。春先のいい天気の日なのに、もったいない。しかも、お互いの子供が、毎年のようにだれかしか、入学するので毎年毎年なのですよね。 でも、それだけならまだ、いいの。その義理姉が、すごーく嫌な奴なの。仲のいい人、かんじのいいひと、優しいひで、顔合わせても楽しくお話できるなら、まだ、続けててもね、たぶん、嫌じゃないかもしれないの。でも、こちらがもっていった、お中元に対して、あんなものいらないと、面と向かって言われたことまであるのですよね。別に、姉のためにもっていったわけじゃないのにさぁ。お姑さんとか、義兄さんとかがいるから持って行ってるわけでさぁ。姉だけなら、別にもってかないんだけどね。自分がもらってるって、かんちがいしてるんだよね。 私も実家の兄と多少のやり取りはあったし、結婚とかなら、さすがにやりとりするかもしれないけれど、こんなに頻繁にやってたら、なんだかきりがなくて、ちっょとうんざりしてきます。 しかも、お祝いのやり取りはしても、普段はめったなことじゃお互いの家に行ったり、気を許せる会話があるわけでもなく、儀礼的な付き合いだけがちゃんとちゃんと、行われるのって、どういうことなんだろう。 基本、このブログには、あまり人の悪口や、身内の悪口は、極力書かないようにしてます。ときどき母の愚痴かいてますけどね。でもね。今回は、さすがに、ちょっとかなりむかつきました。 うーん。これから先、お互いの子供の結婚式とかは、どうなるのだろう。こういうことでもやっていかないと、せっかくの兄弟なのに、そえんになってしまうよと、姑は言います。でも、男兄弟だし、だんなは、本心では義兄のことをあまり好きではありません。私もとりあえず姑の顔をたてて、やってきたけれど、姑がいなくなったら、そこでぷつんと、関係はきれてしまうだろうと、内心思っていました。 よそのおうちの場合は、こういうやり取りって、どんななのかと、思ってしまいました。 こんなことで、怒ったり、めんどくさがったりする私が、根性狭いだけなのでしょうか。普通のおうちは、どのくらい、祝い事のやりとりしてるものなのでしょう。 そういえば、いままで、あんまり、きいたことなかったなぁ。おばさん見てると、自分のだんなの兄弟の子供の子供まで、毎回毎回、お祝いくれてるのですよね。でも、うちの経済状態では、今後、年取った時に毎回そんなに、やとりりとりしてたら、自分たちの生活費自体がなくなっちゃうきがしてすごく怖いです。それが一番心配なのかもしれません。老後なんて、収入ないのに。儀礼的なことに関係なく、あったらたのしく会話できるそういう関係がまずほしいのでしょうか。
2009年04月23日
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前作の面白さに、パート2は、まだかまだかと、ずーっとうるさかったうちのだんなとともに、早速、観にいきました。そして、パート1と、同様面白かったです。戦闘シーンは、ばりばりに豪快で、むちゃくちゃ見ごたえありです。 前回は、平の兵士の戦闘シーンでの、無表情が気になったのですが、今回は、そういう普通の兵士たちの描写がとても増えていて、戦争が、王様や将軍だけでやっているものではないこと、ふつうの兵士たちの感情や都合、人物描写がよく描かれていたと、思います。ただ、そういう兵士視点での描写が増えた分、曹操の人間描写がぶれてしまっていたような気がします。わかりにくいです。とりあえず、ストーリー上は悪役ですが、人間的には、いい面も悪い面も持ち合わせているはず。そういう描写はあっていいとは思うのですが、戦場でのミスからその場でいきなり二人の部下の首をばっさり切り落とした次のシーンで、自分の兵士たちに、情けのある人物にみせる描写とか、曹操の人物がわからなくなってきます。 三国志の主役って、劉備だと思うんだけど、今回の作品では、劉備の描写は少ないです。そのかわりに、パート1て゜は、周愉、そして、パート2では、曹操の描写が多かった気がします。それで、見終わってみると、曹操が意外と好きになってたりして。白髪交じりの頭がきっちり結い上げてあったり、それが、戦闘シーンで、ばっさり切られてびっくりしてたり、ぞっこんに惚れてる小喬がやってきて、どきどきしたてり、おもわず戦争を忘れてしっぽりお茶飲んでたりするしねぇ。 ちっょとお間抜けなオジサンぶりも、楽しかったりする。最後には、中国のほとんどをその勢力圏内におさめる実力派のおじさん。結構悪くないのかもしれない。 それから、このお話のポイントは、孔明が馬の出産に立ち会うシーンがあることです。そして、ラストシーンでは、その子馬を小喬から譲り受けます。「その馬は、戦場にはださないでほしい」という、小喬の言葉に、「わかりました。私が出産に立ち会った馬なのですから。」と、孔明が答えます。 破壊の戦場を描きながら、その中に、生産、や愛が描かれています。一つの命を生み出し、育てる大変さ、が描かれています。男の人も出産に立会い、子育てに参加していくことで、命の大切さを体感することで、戦争がなくなっていくのでないのかと、思います。 また、孫権の妹の尚香が敵陣に兵士の扮装でもぐりこんでいますが、設定的に無理がある気がします。ちっょと苦しいのではないでしょうか。その状況下で、敵の曹操軍の一兵士と友情が芽生えます。なんで?しかも、戦場で再会し、彼に会いに行こうとする。まずいんじゃない。てか、普通、あの設定では、会わないようにすると、思うのですけどね。 その兵士に友情を感じながら、実際には、その彼の所属する曹操軍を負かすための敵情視察をしているわけです。彼女の中でそのことに対しての心理的葛藤はないのでしょうか。 戦争という大儀と、個人と個人の関係とが、全く別のものとして彼女の意識の中ではあったのでしょうか。それが実はつながった一つのものであることを実感することになるのが、ラストのシーン。兵士が尚香の目の前で、孫権軍の兵士の矢に射抜かれて、戦死するシーンであるのでしょうか。 戦争は、王様や将軍など偉い人たちの都合で行われているものであり、普通の兵士たちは、あくまで、命令されて動いているに過ぎないもの。商香は、自国のために働きながらも、個人的な敵軍への憎しみはないようでした。 国と個人は別物。でも実はそうじゃない。そういうことが、わかる一瞬のシーンだったのかもしれません。 レッドクリフ Part 2 未来への最終決戦―@映画生活
2009年04月21日
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古文や近代文学などは、文章の美しさが言われる。それを現代文に訳すると、ただの普通の文章になってしまう。でも、以前の記事でかいた「夢一夜」のように、現代文でも、うつくしい文章で表現することはできるのだから、原因は、現代文が美しくないからじゃないはず。ポイントは、直訳するから。同じ日本語だけど、現代文での美しい表現となると、単語の配置や表現の仕方がまったく違ってくるからだ。 それは、現代の日本語が明治以降、英語を訳した時に文章にしやすいように改変されてきたからだろうか。普段私たちが使っている今の日本語は、古来から日本に連綿と伝わる日本語ではなくて、明治以降政府によって、英語訳に即応できるようにある程度改変されてきたものなのだそうだ。 枕草子など、日本の古典や近代文学など、みんな、他の外国の文学にしろ、詩にしろ、もちろん原語で読むのが一番なのだけれど、いま、英語の世紀の中で、いろんな文章が英語訳されていく可能性を考えた時、古典をただ、直訳しても、その美しさや、本意は、伝わらない。 古文の教科書をみながら、枕の草子も現代語訳すると、風情がなくなること、美しくなくなることを子供と話した。でも、それは、現代文が美しくない文章、言葉だからだろうか。 現代文でも、枕草子の語る本意は、美しく表現できるはず。枕草子のエキスを現代文で、美しく表現できるものだろうか。その疑問への挑戦が、昨日の文章なのである。 もちろん、全ての文学は作者の書いた言語で読むのが一番だけれど、今、世界の言語が英語というひとつの言語へと集約されつつある時、逆に世界の全ての文学が英語に転換されていった時、どうなるのだろうか。 そういう疑問点からの試作である。それにしても、同じ日本語の中ですら、古文から現代文へと転換した時にこれほど表現や訴えたいものが変わってしまうのだとしたら、日本語から英語への変換など、さらにどうなるものなのだろう。ただ、現代文の方が、英語にしやすいという要素もあるけれど。 さて、ここからさらに、現代文の枕草子を英語にしていきたいのだか、私の英語能力では、無理なのである。英語の堪能な方にトライしていただきたい。 ところで、昨日の記事には、二つの要素が、うまくまとまりきらずに、文章が散乱していたと、思う。のだけれど、書いてみて、読み直してみて、いただいたコメントも読んで、わかったのは、言葉には、大きく分けると二つの要素があるのだなと、いうこと。 情報を伝える道具としての言語。そして、芸術表現の道具としての言語。 情報としては、既に、理系の論文などは、国際的な場への発表を考えて、英語で書かれることは、もはや常識になりつつある。世界中のニュースも先ず英語がセンターの役をして、情報がとりかわされ、世界中に伝わる。日本でも、世界の情報から取り残されないためにも、英語の習得は必須と、「日本語が亡びるとき」でも、語られる。情報の伝達のための言語には、表現の妙は、それほど要求されないし、表現もダイレクトであるのだから、訳す時にもそれほどの問題はない。 その一方で、芸術表現としての言語は、本来の作者の使用した言語での表現であることは、非情に重要なことなのだ。だから、ほれ込んだ文学作品を読みたいというためだけに、その言語を学ぼうという人すらいる。文学を学ぶために、読むために、作者の真意により近づくために、その言語を学ぶ。 それは、単純な情報伝達のための言語とは、別のものだ。 わたしが、「日本語が亡びるとき」の最終章を読んで、なぜか納得できずに、煙に巻かれたような気がしたのは、この二つの言語の特性がないまぜのまま、語られてしまっていたからなのだと、やっと気がついた。 「普遍語」というものは、国をこえて共通の言語でありまた、知性、知識、情報をとりあつかう高位の言語だ。けれど、今現在の英語の位置は、それとは微妙に違うのではないのか。 情報や、技術やニュースや政治的交渉が英語になったとしても、文学という芸術は、そんなにかんたんに英語に摩り替わっていくものなのだろうか。 その言語を使う人間が少ないほど、その文学は、多くの読者に読んでもらえる可能性が低くなる。これからの作家たちは、より多くの読者を求めて、英語で書くようになるのではないかというのが、「日本語の亡びるとき」のいわんとするところだけれど、それは、はたして、作者が幼少期にアメリカで育っているゆえに出せる結論のようにも思える。 どんなに世界の言語が英語になっても、文学のような微妙な表現を必要とし、社会的歴史的背景を内包するものを、母国語以外で書くのは、むずかしい。それは、そう容易には、変換できない。 もし、日本人の作家が、これからさき小説を英語で書くようになるには、どんな社会的背景が必要なのだろう。 すくなくとも、数年、数十年くらいでは転換できない。と、思う。
2009年04月15日
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心も体も凍るように寒かった冬が終わりを告げると、春が訪れる。ほのかにすこしづづ温かくなってゆく、春先にふと、宵のあけ口に目覚めると、窓の外、遠く山の稜線から、日の昇るのを見ることの出来る朝がある。暗かった空に、少しづつ陽光がさし、空はしらみ、山の稜線が、赤く色づく。その空に浮かぶ細くたなびく雲に、稜線の向こう側から陽がさして、赤紫の色に染まるその美しさに、思わず息をのむ。昨日よりも今日、そして、明日と、少しづつ夜明けが早くなる。ああ、春がきたのだなぁと、ほっとして、うれしい。うだるような暑い夏の日が暮れて、あたりが少しだけ涼しげになる夜に、空を見上げると月の光の清涼さが心地よい。月のない夜であれば、宵の散歩に立ち寄る水辺に、蛍の飛ぶ光が、いくつもいくつも、鮮やかに闇夜に浮き上がり、その美しさに見とれてしまうことがある。鮮やかな光もあれば、かすかに消え入りそうに、一つあるいは二つほど飛ぶ光もまた、美しい。そんな暑さの夜中にいきなりざあっと振りはじめる雨が、あたりの熱気を洗い流して、涼やかな風を運んできてくれることもある。そんな雨の夜の雨音が、心に残る。帰り道、からすの鳴き声にふっと空を見ると、もう山の端に夕日が沈みそうな夕暮れで、夏の終わりを知る。自分もからすも家路を急いでいるのは、夏が終って、日の暮れ時がはやまった、秋だからなんだと、思い至る。列を成して飛んでいく雁は、冬の訪れる前にはるか遠い温かい地方へとわたっていくので、すでにその姿はとても小さい。もうじきまた、寒い寒い冬が来るのだ。家にたどり着く前に、日は沈んでしまい、あちこちの草原から、虫の声が聞こえてくる。肌寒い風に秋の気配を感じ、もう自分は秋の中にいるのだと、しみじみ思う。沈み込むように眠っていたはずの寒い寒い冬の朝に、なぜかふつうでない静けさに目が覚めてみると、外には雪が降り積もっている。まだ朝早くて、汚れていない、清浄な雪のま白な美しさは、早朝なればこそ。ほどなくまた、雪が降り始め、あたりは真っ白なけがれない世界に覆われ、自分もまた、その中にとらわれているようなそんな気持ちになる。新しいまだすべてが白い一年が、また始まるのだ。起き出して、部屋に暖を入れると、その温かさが身に心にもしみる。温かさが心地よいのは、寒い冬なればこそだ。雪が止み、陽がさして温かくなった昼ごろに、既に雪は溶け始めてしまって、朝の雪の美しさはもうどこにもなくて、寂しいような、切ない思いに、浸される。 四季瞬抄 以上は有名な名作古典を私なりに現代文にしてみたものです。原文の表現は、とても短く、省略されている部分が多いので、直訳した現代文では、その文章がもつ本来の美しさは表現できません。現代文でも、美しい文章で表現できないかなと、工夫してみた結果です。古文というのは、おおむね、言葉が少なく、省略できるところは、片っ端から省略してあるので、現代人が読むと、わけわかんないことが多いです。それゆえに、ガイドブックなど、現代語訳されたものには、注釈や、補助文が入り込んで、とても文章が長くなります。古文ではとうぜん、ほとんどの文章に主語がなくて、このセリフは誰が言ったのかとか、この行動は誰がしたのかとか、分かりづらいです。でも、昔の人たちは、ちゃんとあれでも、わかったのですよね。これってまさに、日本独特の「察っしの文化」なんでしょうねえ。今でも現代人は、たくさんしゃべるのを嫌います。仲のいい人同士なら、「あうんの呼吸」とか、「暗黙の了解」とかいいますし、「一を知って十を知る」とか、「キモカワ」とかの省略語といい、あるいは「ケータイ」など、日本語は普段の言葉でも片っ端から省略語を使いはじめる。日本人て、だらだら長くしゃべるのは嫌いなのでしょうね。よくしゃべる人は「おしゃべり」とか、いわれる。これって、やはり、悪くいってる表現ですよね。「日本語の亡くなるとき」の本の中でも、美しい日本語が失われるのを作者は嘆いている。少し前の近代日本文学などで使われていた表現は、美しいです。それを現代語訳に直すと、その美しさや風情はなくなってしまう。けれど、今、国際化、グローバル化の時代の中で、日本の省略の美徳は、世界には、通用しない。たとえ、英語でしゃべっても、その英語すら、最小限の単語を使い、あとは、相手が、察してくれることを望むような表現をするのは無理だろうと思う。初めてあった相手、全くお互いの文化を知らないのであれば、なるべくたくさんの言葉を使い、より多く説明し、話していかなければ、意志疎通は出来ない。省略の美徳という日本の文化は通用しない。だから、枕草子を現代文で読もうとする時、そこには、原文にはない過剰なほどの説明と、修飾語と、表現が必要だ。それでいて、文章としての美しさや、風情を表すには、現代文なりの表現が、必要なんだと、思う。省略された古文の文章をどこまで分かりやすく現代文で表現できるだろう。枕草子を知らない人に、どこまで、その真髄を、美しく伝えられるだろう。日本人はもっと「おしゃべり」にならなければいけないんだと、思う。そうすると、なぜ外国の本があんなにも分厚くて、文章がやたらめったら長いのか、少しだけ分かったような気がする。外国の教科書もとても分厚いらしい。最低限のことだけ書いて、あとは、読んだ人におまかせ、というわけにはいかないらしい。日本の政治家も、もっと、饒舌にならないと。英語は下手でもいいから、とにかくたくさんしゃべることで、通じる度合いもあがるのかもしれない。そして、現代の社会も日本の中でも、それは同じなんだろうな。私自身、とても、口数がすくなくて、人生、損ばかりしてきた。わかっちゃいるけど、そんなにスグには変われない。せめて、慣れ親しんだ気の許せる親と子で、もっとオシャベリをして、自分の本心を表に出す、そんな訓練をしないといけないのかもしれない。親や兄弟や友人だけじゃなくて、全然知らない人や、初対面の人に、出会った時にも、うまく自分の気持ちや考えを相手に伝わるように、話せる練習をしておいたほうがいいんじゃないかと、思うのだ。枕草子を現代文に直してみると、清少納言がそれぞれの季節のそのタイミングをなぜ「をかし」といったのかが、少しだけ、分かったように思う。「をかし」は、「趣がある」というような意味だけではないのかもしれない。現代文は、なるべく現代の生活でも多少つじつまのあうようにしてみたので、火鉢などは、はぶきました。蛍もちょっと苦しいですが。 以下は枕草子原文と、普通の現代語訳です。 春はあけぼの春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく 山ぎは、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。夏は夜。 月のころはさらなり、やみもなほ。蛍の多く飛びちがひたる、また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光て行くも をかし。雨など降るも をかし。秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近こうなりたるに、からすの寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて、がんなどの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、また言ふべきにあらず。冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし、昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。口語訳春は日の出前がよい。だんだん山のきわの空が少しづつ明るく白くなっていき、紫がかった雲が細くたなびいてるのがとても風情があってよい。夏は夜がいい。月の出ている夜は言うまでもない。闇夜でさえやはり、蛍がたくさん乱れ飛んでいるのはいいものだ。また、ほんの一匹二匹と、かすかに光って飛んでいくのもいい。 雨などが降っている夜も、趣がある。秋は夕暮れがいい。 夕日が差して山の端にたいそう近くなったころに、鳥がねぐらに帰ろうとして、三羽四羽・二羽三羽などと飛び急いでいる様子さえもしみじみとして趣深い。まして雁などが列を成して飛んでゆくのが、たいそう小さくなっていくのを見るのはたいそういいものだ。 日が沈んで、風の音や、虫の声などが聞こえてくるのは、また、言うまでもないくらいだ。冬は早朝がいい。 雪が降ったときは言うまでもなく、霜が真っ白に降りているのも、またそうでなくても、たいそう寒いときに、火などを急いでおこして炭を持って運んでいくのも、たいそう冬の早朝の光景に似つかわしい。昼になって、寒気がだんだん緩んでいくと、火桶の火が白い灰ばかりになってしまって美しくない。 にほんブログ村
2009年04月14日
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素肌に片袖通しただけで色とりどりに脱ぎ散らされた床に広がる花模様着てゆくものが決められないといらだたしげに戸惑う君の瞳の中の恋模様君に会う日のときめきはあこがれよりも苦しみめいて ああ 夢一夜一夜限りに咲く花に酔う匂い立つ 恋するなんて無駄なことだと恋する君に言っては見ても誰かを思う夢模様最後の仕上げに手鏡を見る明かりの下でわらった君のかげを集める泣きぼくろ君に会う日のときめきは喜びよりも切なさばかり ああ 夢一夜君に知られず見つめていたい紅が濃い君を愛した儚さで、僕はひとつ大人になったああ 夢一夜一夜限りでさめてく夢に身を任す☆ ☆ ☆ ☆ ☆この歌好きだったんですが、私ばかでした。小椋桂の歌だとずーっと思っていたのですね。検索してみたらなんと、南こうせつの歌だったんですね。うわぁああああ。 しかも、聴いてみたら、歌詞が微妙に私の記憶と違う。 せっかくなので、自分の記憶でメモしてみたら、だんだん話が膨れ上がってきました。 この歌は、もともとは、男に惚れる女が、逢引または、デートに行くのに着ていく服を選んでいる場面なのですが、 それをさらに、その女性を横でみている男性視点になるように、歌詞をちょっと変えてみました。 もち、この男性は、他の男にほれてる彼女に片思いしてるのですね。着替えてる女性と同じ部屋にいるなんて、年下のイトコかなとか、さらに想像はどんどん広がっていきます。 たのしいです。いい歌ですね~。つくづく。
2009年04月12日
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この春休み。息子もやっとバイトしました。やはり、塾バイトでした。割に合わないという話はよく聞くのですが、だからといって、単純作業の仕事や、売り子は、彼にはとても無理な気もしますし、せっかくものにした知識をもったいないとも思いました。以前にも、バイトの登録はしたのですが、それは結局、なしのつぶて。それでバイト募集のサイトをあれこれ見た結果、以前本人が行っていた塾に行くことになりました。昔は、いつか大学にはいったら、講師になってまた働けるといいのにと、思ってはいましたが、まさか本当にそこに行くとは。しかも、当時おえてくれた先生がまだ在職中。先生は、成長した息子をみてどう思ったのでしようか。 それにしても、申し込んでから、面接までに、一週間、その返事がくるまでに、数日。そのあと、本部に行って研修、さらにそのあと、三回ほど、研修。本番までに、春休みのほとんどを使い、春休み最後の二週間でやっと、バイトにありついた感じです。仕方ないといえば仕方ないけど。ほんとに二ヶ月も休みがあるのに、もったいない。 でも、たかがバイトにこんなに研修があるとは思いませんでした。人によってはもっとやるらしいのですが、うちは、もともと通っていたので、わりと、勝手が分かっていたのも、少なくてすんだ理由かもしれません。 いまどき、塾のバイトも、ふつうの店員さんのバイトも時給はたいしてかわらないし、塾は下準備も必要だし。時間で考えれば、わりにあわないかもしれません。でも、簡単にできる責任のないバイトをやっても、いい経験や、学びはえられないし、逆にこんなものでも、お金がもらえるのだと、思ってしまうのもどうかとも思いました。 どうせ働くなら、やはり、責任感が必要な仕事の方がいいと、思いました。 さて、わずか、二週間でしたが、彼なりに学んだものはあった気がします。というのも、本人頭がいいので、周りの人間が自分ほど頭が回らないということが、口で言っても、理解できないのですね。だから、高校でも、自分より成績の悪い人たちは、ただサボっていて、ちゃんとやらないからだと、思っていたのではないかと、思います。でも、どんなにがんばっても、その人間の能力には限界があるし、世の中には、いろんな能力値の人間がいるんだと、バイトで、勉強を教えてみて少し分かったみたいです。 仕事は個人指導なのですが、一対一で教えるのですが、塾に来るのはほとんど、勉強のきらいな子、苦手な子、成績の悪い子が多いので、そういものなんだなっと、実感したのではないでしょうか。それでも、その子なりの限界まで、引っ張ってあげることはできると、思います。彼はまだ講師としては未熟です。でも、それでも、普通の親では教えられない勉強や、学校の先生では、対応しきれない部分があると、おもうのです。そういう部分を教えてもらえるだけでも、生徒はありがたいと思う。 なんせ、我が家の下の娘も、お兄ちゃんに教えてもらって、助かってます。うちには、ただで教えてもらえる先生がいて、助かります。自給にしたら、5000円はするものね。もちろん、彼がうけとる額はもっと少ないですが。 それで、彼が塾で教えていて、かわいそうだというのが、今年中学生になる子だったりする。これから学校に入れば普通に授業で習うことをわざわざお金をだして、塾に来てやってるなんて、無駄だと、言います。いまこれ勉強しちゃったら、学校の授業中なにするの?退屈でしょうにと。 うちも受験が終った後、塾では、5月くらいまで通わせて、少し中学の授業を先取りさせますというような、お誘いはありました。もちろん、そんなもの、私は申し込みませんでしたが。 そういう、自分の本音と、実際の仕事の矛盾も、息子は経験したわけです。実際、社会にでても、そういう、自分の本音と仕事の矛盾に向き合うことはあるわけですから。 それから、契約してるのに、当の生徒本人がいつも塾をサボってこない場合があるのだそうです。で、そういう場合、バイト代は、出ないそうです。でも、親の側は、授業をサボっても、お金払うのに。こういうのって、つまり、塾のまるもうけです。釈然としませんが、たちばよわいですからねぇ。サボるくらいなら、さっさと止めさせてあげればいいのに。 こういう塾の仕事のいろんな矛盾はしかたないとはいえ、釈然としないです。でもしかたない。それが嫌なら、自分で自力で家庭教師をやるか、塾をはじめるしかないですからね。でも、何をどう生徒に教えていくかとか、テテキストを用意して、親とも交渉してなんて、息子にはできそうにないし、まして、本人そこまで気合入れてやる気もない。 やはりしかたない。 さて、新学期が始まって、ほっとしました。とりあえず、春のバイトは終ったけれど、彼は、はたして、夏もバイトにいくのかどうか。本人いやそうです。勉強を教えること自体はきらいじゃないんだけれど、搾取されるのはいやなんだって、あいかわらず、寝ぼけたこといっていて、この先が思いやられます。今の大学生は、いそがしくて、三年になれば、就活だし、四年になれば、卒論だし、免許も取らないといけないし。忙しいですね。このあとは。
2009年04月11日
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平日にダンナがおやすみなので、九段の千鳥が淵に桜をみにいきました。先日土曜日に行ったところは、まだ咲ききっていなくて、今一だったので、仕切り直しです。しかも、千鳥が淵は、靖国神社の中の花の下は屋台がたくさんでていて、グルメスポットでもあるので、それが目当てでもあります。 もう葉桜になりはじめている木もあり、花見のできるぎりぎりの日だったようです。どこもここも満開の桜で、きれいなこときれいなこと。 千鳥が淵の歩道がきれいにリメイクされていました。おかげで歩きやすくて、ゆったり桜をみることができました。しかも、平日なので、すいてるすいてる。 平日だったので、ボートもすいてました。いつもは、混んでて混んでて1,2時間まちだったので、乗ったことなかったのだけど、今回初めて千鳥が淵の桜を水上からみました。^^ だから、写真に水上視点のものがあります。ここの桜は、水面までずずずーっと枝がのびていてすごいです。これも。ボートじゃないとみられません。ホントに視界の中がすべて桜だらけで、たのしかった。^^ しかも、この日は日本大学の入学式を武道館でやっていたらしく、新入生らしきスーツの男の子やその母親らしき、スーツの女性や、母と息子というスーツ姿の親子ずれも、うじゃらうじゃらと、いっぱいいました。私は、以前ここで、理科大も見たことあるんだけど。自校の講堂でははいりきれないのか、最近武道館での入学式を良く見かけます。やはり、スポンサーである、親御さんも今はみんな参列するのでしょうね。他にも、このあたりの私立高校などの入学式とみられるファミリーもたくさんいたし、学校がえりの高校生もいっぱいしました。 ボートを漕いで、ダンナはいい運動になったそうです。腰痛にもいいらしい。つくづく最近、運動不足です。歩いた歩いた。くたくたです。 そのあとは、靖国神社に行きました。境内の花の下には、屋台がすごくいっぱいで、昼間でも結構お客さんがきてました。テーブルと椅子も用意してあります。 このタコヤキは、たこのほかに、うずらの卵、もち、コーンなどが入っていました。このあと、焼き鳥、やきそば、おでん、広島焼き、五平餅と、つぎつぎたべたのでした。ここの屋台はどこもみんなすごくおいしい。やっぱ、東京だなーっと思うのです。ただ、ちょっと高いかも。タコヤキ500円。もう終わりの桜の花びらが、たべてるところに、吹雪のようにすっごくたくさん降ってくるんですよ。テレビで紙吹雪まくみたいにね。すごいすっごい美しかったです。 ここのチョコバナナのカラーコーデネートがすごくておもわず激写!!この色使いすごいよね。始めてみた。 最後に靖国神社の敷地内にある遊就館も、チラッと見てきました。ここは一階はフリーなので、再現されたゼロ戦を見学してきました。ああ、つかれたぁ。くたくた。でも、久々に楽しかった。
2009年04月09日
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今話題の一冊。有名なブロガーさんたちが、ブログで賞賛したので、アマゾンの売り上げ一位になったとか。それにのせられて私も買ったのだから、おんなじか。 いままさに、世界中の言語が英語になりつつあり、日本人はきちんと勉強してまともに通じる英語を習得しないと、日本語自体が亡びるということ。 日本語を保存するために、英語を習うべき。というのが、この本の最終的に言いたいことなんだけど、えーっと、どうしてそういう結論になるのかが、やっぱりなんだか、いまひとつ、よくわからなかった。なんとなくは、納得するんだけど、それでどうして、そういうことになるのか、読み終わって考えてみると、やっぱり、分からなかったりする。 言葉には、「普遍語」と、「国語」と、「現地語」があるというのがまず、この本の言わんとするところ。国語は普通に、その国の言葉。現地語は、その国、ないしは、その土地で、普通の人たちが話す言葉。国語より、少し格がおちるらしい。 で、「普遍語」というのは、社会の上層階級の人たちだけが使う、教養のある各国共通の言語であり、書き言葉。 これが、昔のヨーロッパの「ラテン語」であり、日本や、アジア圏の「漢文」である。そして、近代以降では、ラテン語が消失した代わりに、「英語」、「フランス語」、「ドイツ語」がヨーロッパにおける「普遍語」になったのだ。 そして、現在、「英語」が、世界共通の「普遍語」となりつつあり、全ての情報や、教養は、この英語によって、やりとりされるようになりつつあるのだから、日本人は、英語を習得しておかないと、世界から立ち遅れてしまう。ということ。 かつて、ヨーロッパの寄宿学校で、なぜ生徒たちがラテン語を習っているのかすごく不思議だったのだか、この本を読んで納得した。そして、現在日本や外国の大学で第二外国語を習う本当の理由が、こんなことにあったのだと、初めて納得した。 ヨーロッパにおいては、この普遍語を習得してさえいれば、それぞれの文学を作者の書いたことばのまま読めるからだ。 それにしても、ここまでは納得できるのだけれど、最後の部分で、よく分からなくなってくる。英語を学ぶのは大事なことだとして、そうすることが日本語の保存につながるというあたりが、いまひとつよくわからない。 それと、「普遍語」「国語」現地語」という表現だけど、わたしなりに、解釈すると、「普遍語」は、「エリート語」、そして、「現地語」は、「庶民語」と、言ったほうが、分かりやすい気がする。 いくら世界中に英語が浸透していて、かつて、イギリスの植民地だったところまで、英語を使う人々が多いとはいえ、矛盾がある気もする。 だって、正しい英語って結構、英語を母語にするアメリカの庶民の人たちですら、ちゃんと使いこなしてはいないらしいし、まして、一応英語が標準語になっていたりする国でも、結構現地のスラング化していたり、とりあえず英語だけど、かなりくずれていたり、するらしい。 だいたい、英語だって、アメリカではすでに、「米語」といわれていて、本国イギリスのものともかなりずれてきているらしいし、英語を使うオーストラリアの英語は、また、豪語になっている気配。 でも、作者が求めているのは、きちんとして英語。回りくどい言い回しすらこなせるようなハイレベルの英語なのだ。そういうエリートイングリッシュは、英語を使える国の人たちだって、社会の上層のエリート層だけなのでは。 そして、日本語だって、普通の庶民は普通の日本語しか知らない。教養のある人たちだけが知っているハイレベルの言葉や、表現はやはり、教養のあるエリートしかしらない。 だとすると、普遍語というより、エリート語というべきものが、世界の中に存在するのであって、それはまた、普通の英語とも違うのでは。 学ぶべきは、普通の英語なのか。普遍語として、「エリート英語」なのか。 そして、作者が憂えているのは、世界の中でも高い評価を得ている日本近代文学の喪失だ。けれど、今の日本に、作者の納得できるような文学がないのは、既に、「魂の叫びを表現するような作品」の表現形態が、小説を離れ、漫画や、アニメーションにいってしまっているからなのでは。そして、素晴らしい表現者たちもまた、小説ではなく、漫画家や、アニメーターという選択をしているからなのでは。 作者は、これから日本の作家はもう、この英語の世紀の中では、小説を英語で書くようになること、だから、日本語では書かなくなってしまうことを危惧している。けれど、今現在すでに、高位の表現者は、小説ですらなく、漫画や、アニメーションを選んでいる。そして、普通の人たちも、あるいは、本を書いている人たちすら、話の引用に小説ではなく、漫画を使うようになっているのだ。 いったい、この作者は、漫画やアニメーションは、今の時代に生きていても、見ないのだろうか。 「エヴァンゲリオン」や、「20世紀少年」なんて、子供や、教養のない一般庶民のものだとでも、思っているのだろうか。 英語の世紀の中で、日本の優れた作品が、英語に翻訳されなくなるかもしれないというけれど、日本の漫画やアニメが見たくて、日本をおとずれ、日本語を学ぶ人たちがいる。日本の漫画が翻訳されて、パリのブックショップに並んでいる。すでに、時代の表現形態は、小説ではないものへと、変化していることに、作者はきづかないのだろうか。それはやはり、作者が小説家であり、すぐれた文学の表現者であるゆえのこだわりなのだろうか。 本当においしいものをもとめて、グルメは、山奥の隠れ家まで、訪ねていくものだし、本当にいい作品であれば、やはり、見つけ出され、掘り起こされ、翻訳されて、世界中に伝わっていくのでは。 そして、そんなことに興味のない人たちは、街中で、マックやデニーズで満足するように、三流週刊誌で満足する。そういう人たちに、すぐれた日本文学を訳して渡しても、もちろん、読まないだろう。夏目漱石が今の時代に生まれたら、英語で書くというより、漫画家になってしまっいるのではないのだろうか。だとすると、手塚治こそが現代の文豪であり、あるいは、夏目漱石の生まれ変わりかもしれない。 もちろん、美しく、教養高い日本語が失われるのはおしいし、その継承者がい続けて欲しいとは思う。しかし、それは、やはり時代の変化の中で、どうにもならないのかもしれない。 そう考えてくると、英語を学び、漫画やアニメをみるという麻生さんというのは、今の時代の政治家としては、結構分かっているのではないかと、思ってしまった。日本語の教養も大事だけれど、あれもコレもできるはずもなく、日本語が瑣末でも英語を優先し、日本文学にさく時間を漫画やアニメに触れて過ごしているのだとしたら、結構そっちの方が正しいのかもしれない。新聞記者や、マスコミさんたちは、麻生さんの日本語教養を揶揄するけれど、それは、自分たちのエリート語へのプライドでもあり、それをあっさり捨てている麻生さんへの微妙な反感なのかもしれない。 この本を読んでいて、もし、第二次世界大戦で、日本とドイツが勝っていたら、世界の普遍語は、日本語と、ドイツ語になっていただろうかと、考えてしまう。 はたして、世界の普遍語になるには、英語というのは、いまひとつ使い勝手が悪い。何しろ必ず文章は、主語、述語、修飾語という順番に並べなければならないし、英語を母国語にする人たちすら、正しい文法を使いこなせないのだから。しかも、発音にくせがあり、日本人には、どうしても、聞き取れない音声が存在するのだ。 日本語なら、文法があるとはいえ、単語をどんな順番に並べても、言葉として、通用するし、発音も、習ったばかりの人がしゃべってもわかるくらいくせがない。 そして、英語でつくられているはずのコンピューターの言語の中にも、英語ではなく、日本語的表現や文法が使われていたりする。 かたや、ドイツ語も、発音はほぼ、ローマ字読みで、そのまま読んでもいいのだから。 そして、世界で一番美しいと言われ、日本でも、著名な人物が、日本の母語をフランス語にしたいと、考えたほどだけれど、実際のところ、フランス語は、アールとエルの発音の違いを日本人にはどうしても、聞き分けられないし、発音し分けられない。そのうえ、フランス人は、Hの発音ができないから、フランス語には、Hの発音が存在しない。そういうフランス人だけに共通のくせや、単語の一つ一つに女性、男性の性別わけが存在していて、それにあわせて、他の部分が変化しなければならなかったり、リエゾンがあったりして、世界の普遍語にするには、くせがありすぎると思う。 いったい、世界の普遍語にちょうどいいのは、どんな言葉なのだろう。 あのエスペラント語も結局は、普及せずにそのままなのだし。 日本とドイツが勝っていたら、アジア圏は、日本語、ヨーロッパ圏は、ドイツ語、ということは、ありえただろうか。 出来れば、世界の言葉がミックスされた一番効率のいい言語が世界のグローバル化の中で、できあがってくれればいいのにと、思う。 しかしまあ、実際、世界で一番通用しそうな言葉が英語であるという現実は、確かにある。そして、一番英語を習得させるべきなのは、政治家なのだろう。だとしたら、大学の法学部や、経済学部では、もっともっと、英語を教えるべきなのかも知れない。 けれど、母語以外の言語の習得というのは、ものすごく時間と、労力を費やすものだ。やはり、翻訳のできるプログラムの開発をして欲しいと、思う。世界の情報をより早く得るためには、やはり翻訳機の開発が、一番早くて楽だし、この先えんえんと、子供たちが英語を学び続けなくてもすむだろう。作者は、今の翻訳の性能はひどいものだし、翻訳機には期待できないと、言うけれど、日本の技術が本気をだせば、決して出来ないことはないと、私は思う。だって、一昔前にいわれていた、未来の機械としてのテレビ電話は、もう開発されてし、しかも、それがケイタイに普通のセットされているというほどの状況なのだから。 とりあえず、この本を読んで日本の近代文学を読むべきだと、思った。でも、本音はメンドウ。英語がどうという以前に、日本語のできる人間がすでに、日本の近代文学をおよそ読まないという状況自体のほうが、よっぽど問題だと、思う。 そして、英語を学ぶべきなんだなと、思った。けれどこれもやはり、メンドウ。どんなに勉強しても、日本に住んでいる限り、覚えたはたから、忘れていくだろう。言語ってそういうものだ。だって、知識や、教養や、学問とはまったく別のものなのだから。 そして、コレだけ完成されていて、使いやすくて、しかも、安全で住み心地良い国の言葉がある以上、外国語として英語をみにつけるのは、しんどい。なにせ。英語の教師や、英語の仕事をする人たちすら、英語を使うことにしんどさや面倒くささを感じてしまうのだから。 にほんブログ村
2009年04月07日
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私立最高峰ともいわれる慶應義塾の付属校を舞台にしているといわれていると聞いて、興味があって、読んでみた。 物語は、慶應義塾大学の経済学部を卒業後、大手企業に就職した、エリート女性社員が、渋谷で娼婦とした働いていた末に、その客に殺されたという実話から、作者が、その事件の内面を想像して描き出したもの。 物語の最初の舞台であるQ学園女子高校は、慶應女子校らしい。慶應女子といえば、高校受験における最高峰で、いまや、偏差値がたおちの都立高校のおかげで、ほんとに最高峰。この学校に受かるには、並みの努力と才能じゃあ、まず無理というもの。 中学受験なら、女子御三家があるし、大学受験なら、国立大学があるけれど、高校受験は、公立が低いせいで、早慶がダントツに偏差値高いのですよね。 で、その高校受験で慶應に受かり勝ち誇って入学してみると、中には、中学から、あるいは、小学校から、既に慶應という生徒たちがいて、高入組は、非情に肩身が狭くて、いじめられたり、差別されたり、、友達もろくろく出来ないという、結構しんどそうなお話がえんえんと書いてあります。 実際のところ、付属のある高校は、わが子も受験の段階でいやだと、言ってましたし、多少の想像もつく。そんなことはないですよと、説明会で言う学校もあるけど、私は、入ったこともないし、息子の学校は、高入は、いっさいなかったので、分かりません。学校にもよりけりなのかもしれないし。 ただ、この学校を知る人は本当にこの通りだったと言うそうです。誰もがあこがれる学校だけど、いざはいってみると、ぜんぜん楽しくないということでしょうか。 物語の中では、付属上がりは、イコールエリートという、なんかすごい世界です。 物語の主人公の友達佐藤和恵が、ようするに、渋谷で殺されたエリート会社員なんだけど。それを物語の最初では、主人公が、第三者的な目で、見ているわけです。 で、渋谷で、娼婦をしているあたりの描写もかなりえぐくて、ほんとにグロテスクですが、読み終わってみると、で、結局、和恵はなんでエリート社員だったのに、娼婦になったのかという、肝心のところ、女性の心理は、書いてないのですよね。 ただね。たとえ、名門の学校をでて、大企業につとめて、エリートになっても、女はそれだけでは、しあわせにはなれないという難しさって言うか。 男なら、仕事で成功ししたり、出世したりすれば、金も女も幸せも、よってくるけど、女の子は、逆に、仕事で成功すると、女としての幸せを掴みにくくなるというか。日経ビジネスの記事なんかでも、時々読んでいると、「成功女子」と、『幸せ女子」は、ちがうと、書いてあるんだけど。 もちろん、大学を出て、仕事して、それと平行して、結婚して、子供もできて、という、ちゃんと両方手に入れてしあわせになってる女の人たちだって、たくさんいるとは、思う。 けれどやはり、女の子は男の子のようにがむしゃらにがんばらせて、高学歴、高収入、エリートという方向性だけで、育てるわけにはいかないむずかしさがあって、いつもとまどってしまう私の普段の思いがある。 それで、この物語の佐藤和恵は、成功はしたけれど、恋人もなく、結婚もなく。 そんな時に、ふらっと、町で声をかけられて、知らない男性と、ホテルに行ってしまった。そのあとに、お金を渡されて、自分が娼婦と思われてしまった。それがきっかけとなり、娼婦の道に入り込んでしまう。独身のまま、セックスもしらない、恋人もいないという、寂しさから、恋人もなく、でも、セックスするには、娼婦のふりをするしかなかったのかもしれない。女は男のような種類の性欲はないけれど、でも、独り身は嫌だし、さびしいし、だれかに抱かれたいとは、思うんじゃないかと、思う。 と、私なりに、佐藤和恵が、娼婦になった心理的ないきさつを想像してみたりもした。 物語の中にでてくる和恵を殺したと予想される中国人チャンについても、その生い立ちからずっと、描かれていて、すさまじいものがあります。とにかくものすごく貧乏なのですよね。なにしろ彼の家族は、住むところがなくて、洞穴にすんでいる。で、都会に行こうとした彼がのった列車は蝶満員で、トイレにも行けない。だから、たったまま、その場で、用を足すしかない。という。 物語り全体がとても壮絶で、本当にグロテスクに書いてあります。気持ちに余裕のある時でないと、よめません。 で、社会の中の極貧の世界と、お金持ちの富裕層のひとたちが、接点をもつ部分がえんえんと書いてあるのです。エリートで富裕層の多い学校に通う主人公は、公団住宅に住む祖父のところに住んでいたり。父親が東大生なんだけど、結局のところそれほどの財も成功もなく、庶民的にはちょっとお金持ちにみえる家に住んでいたり、でも、母親は高卒で、という佐藤和恵の家族描写とか。 で、作者の言いたかったことは? えっと、分からなかった。 ちなみに、読みながら配役を考えてしまった。 佐藤和恵は、光浦靖子。 主人公のわたしは、成海璃子。設定では、そんなに美人じゃないんだけど、なぜか読んでいて、彼女のイメージがわいてしまった。つめたい感じがピーンときた。だいいち、妹がすごい美人なんだから、そんなにブスなはずはないし、彼女は本当は美人なんだけれど、自覚がなくて、しゃれ方が下手なだけなのでは。ドラマ化または、映画がされるときに、彼女がうまく、ブスでださい女性にみえるように、メイク演出してくれると、いいですね。 主人公の妹のユリコは、沢尻エリカ。一見馬鹿そうで、ものすごく美人なんだけど、自分の意志もなさそうで、本当は結構賢こかったけれど、美人すぎて周りの男たちに遊ばれてしまう。でも実は、それが大好きという女の子。かなり、微妙で難しい役どころ。 慶應女子の中でも成績トップで、東大に進み、医者と結婚したのが、ミツルなんだけど、ミツルはだれがいいか、思いつきませんでした。 それにしても、すごい小説だった。
2009年04月06日
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昨日の『十戒』の記事からつづきます。ガンジーは、最初はやはりイギリスで学んでいて、弁護士だったんですね。 そのうえでやはり、インドのリーダーとして、イギリスからの独立をめざすわけだけれど。彼の指示に従って、インド人のすべてが、同じ日の同じ時間にストを決行したり、イギリス製の服を焼き払ったり、塩の行進をしたりする。 彼は、叫ぶでもなく、戦うでもなく、武力を行使するわけでもないのに、全インド国民を従わせられたのはなんでなのだろうか。 リーダーは、一つの集団のために行動するわけだけど、どうすれば周りをうまく動かせるのか。それが自分のためでなく、その民族のためであることが、人々に伝わっているからなんだろうけれど、 自分の名誉や支配欲のために、王様や、皇帝や、大統領や、総理大臣になる人たちとは、随分ちがう。特に今の日本の総理大臣とか。 この二つの物語には共通する部分が結構多い。二人とも支配者側の教育機関でまず、学んでいるのですよね。軒先を貸して母屋をとられるみたいな感じ。 そのうえで支配者からの民族の独立を扇動していく。でも、独立した後の、統率者にはなっていない。モーゼは、ユダヤ人が最後に約束の地に行くとき、その河の先に渡ってはならないと、神様にあらかじめ止められているので、ユダヤ人たちが河を渡って、幾野を一人見送っているのです。あんなに苦労してきたのに。 ガンジーも、最後に、暗殺されてしまいます。 独立のための先導者としての、能力はあったけれど、そのあと、国が出来て、政治をつかさどっていくための能力はなかった。だから、神様にそこまでだよーって、ストップをかけられちゃったのでしょうか。支配者、君主になると、また別の能力がとわれるのでしょうか。 リーダーシップについて、いろいろと考えさせてくれる映画でした。つくづく。 でも、同じ日の同じ時間に国民全員が彼の指示にしたがって、ストという行動をとれる、って、すごすぎる。と、思います。なかなか出来ません。というか、絶対並みの人間にはできません。わが子一人うまく指導できないんだから。 親は子供のためを思って、いろいろというのに、ガンバーがインド国民のためを思って言う言葉ほど、説得力がないのはなんでなんだろう。人間としての力量の差が天と地ほど違うからなのか。テクニックや、話術や方法論なのか。 映画だけではわからいと思って、ガンジーについて、検索して、読んでみたげれど、あまりにも、いろいろあって、ふかすぎて、難しすぎて、くらくらしました。 そんなに簡単に答えの出る問題じゃないんですね。
2009年04月04日
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光をいれたので、とりあえず、NHKのBSがみられるようになった。先日二日間続けて、ノーカット名作映画で、『十戒』、『ガンジー』が放送された。どちらも、リーダーってなんだろうと、考えさせてくれる映画だった。『十戒』は、紀元前のエジプトで、フォラオの奴隷として長い間過酷な労働につかわれていた、ユダヤ人たちを奴隷から開放して、約束の地へと導く物語。『ガンジー』は、イギリスによる長い植民地支配から、インドの国民を解放しようと戦い続けるマハトマ・ガンジーの物語だった。どちらの作品も、過去に見たことがあるけれど、あらためて、ノーカットで、見てみると、さすがに、素晴らしい作品だったと、再認識させられる。しかも、過去の作品なので、デジタル処理もなくて、群集シーンは、全部エキストラで迫力ありました。出エジプトのシーンで、ユダヤ人が、家畜から家財から、盗んだ財宝まで全て持って、荷車やら、車やらに乗せて、ぞろぞろぞろぞろと、旅立っていくシーンがすごかったです。このあたりの描写にかなりの手間と時間をかけてあるのです。そのあとの有名な海が割れて、そこをユダヤ人が抜けていく、シーン。このすごい数の人間を渡らせるのに、海を開くっていう発想自体がすごいですよね。さすがに、神様。人間だけだったら、泳いで渡るか、船を調達するか、さもなきゃどっか迂回するしかないと思うんだけど。1体どういうマジックなのでしょう。ひとつひとつ、モーゼがおこす奇跡は、最初のうちは、それなりに、科学的に理由がつけられそうなんだけど、だんだん無理になってきて、本当に神がかった奇跡。コレは本当にどこまでが、実話なのかなーと、考えてみてもしかたない。それでも、ユダヤの人々を奴隷支配という状況から救い出すには、一人の傑出した 人物が必要だったのだろうか。モーゼは、たまたま、エジプトの王子として、育つけれど、考えてみると、これは偶然というよりは、最初からしくまれた偶然。天の采配なのかも知れないとも思う。あの当時には、王子でもなければ高い知識を得ることもできなかっだろうし、モーゼは、王子として育てられることで、帝王学を学ぶことが出来たわけで。あの当時、帝王学を学ばせようと思えば、エジプトの王子にするしかないだろう。そのうえで、彼が大人になってから、実はユダヤ人だったとか、あなたは、リーダーとして、ユダヤ人を奴隷から救い出さなければならないと、告げられるわけだし。ただ、全体にユダヤ人にとってだけ都合のいい解釈とか、ユダヤ人だけがやけにいい解釈で、神様なのに、ユダヤ人のために、エジプト人が死ぬことにはなんのためらいもないのかなとか、ちょっと不可解な部分も感じました。あくまでユダヤ人のためだけの神様なんですよね。キリスト教の神様って唯一神のはずで、だとすると、世界に神様は一人だけのはずになのに、その神様はユダヤ人のためだけにしか、行動してないのが不思議といえば不思議。しかも、最後のゴールの約束の地って、20世紀に世界的に物議をかもしだす場所なんだよね。もともとは、ユダヤのための宗教と神様でしかなかったのが、なぜかキリスト教に進化して、世界中に広まって、そのキリスキ教信者がユダヤ人を迫害したり、虐殺したりしてて、本当に、日本人から見ると、不思議。キリスト教って不思議。『ガンジー』に続く。
2009年04月03日
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久しぶりにお台場に行きました。かつてはよく行ったのですが、ホントに久しぶり。以前ほど混んでいなくて、遊びやすかったです。夏に来ると、ここは、異様に暑くて…。で、お台場のレッドロブスターにはいりました。これは、お店の前のロブスターちゃんたち。おいしそうです。 窓からレインボーブリッジの見える席です。眺めだけはいいですね。のんぴり~。 ロブスターのパエリアです。まあまあだけど、ロブスターの味付けにマヨネーズはやめてほしいですね。それにこのロブスター直系15センチくらいしかなくて、小さい。ほとんど食べた気がしなかった。昔、オーストラリアで食べた時は、もっと大きいのが2000円くらいで、一匹たべられて、それだけで、お腹いっぱいになった記憶があるのですが、これは、小さい。ここのお店だと、一匹だいたい5000円くらいださないと、食べられないんだけど、それがこの大きさって、高いなぁ。損した気分でしたが。 こちらは、ロブスターの爪いりパスタです。こちらの方が麺も、アルデンテが渡し好みのおいしさでした。 いまさらだけど、一応定番のレインボーブリッジなのだ。とりあえずアップ。 なんでこんなところに自由の女神なんて置いたんだろう。ま、パリのセーヌ河畔にもあることだしね。世界の三大自由都市ってことでしょうか。 お台場の海岸は人工的に造成されてますが、なぜかものすごく貝殻があって、貝だらけ。ちっょと気持ち悪い。モダンアートにこんな絵がありそうです。 でもって、なぜか砂浜のあちこちに本物のイカリが置いてあるのです。赤く錆びていて、なかなかアートなんだわさ。いいアイデアですね。どこからか、古くなった碇もらってきたんだと、思います。 お台場久しぶりに遊んだけど、年なので、ちょっと歩いただけで、くたくたでした。なさけない。
2009年04月02日
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