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今日は、神奈川県立伊勢原射撃場にて射撃体験。国際ルールに対応した施設で、広大な敷地に内に、トラップ・スキート・ライフルなどのの他に、レストラン(現在休業中)やショップ(実包販売)も併設されています。S・B射撃場(小口径)BBR(大口径)ライフル(50~100m)標的は屋外に設置されています。標的の確認はモニターに表示。BBRには、ライフル・スラッグ・ハイパワー空気銃・前装銃(意味不明)の競技が可能。他にクレー射撃(スキュート・トラップ)などの施設がありますが、発砲音がすごいので、今回は省略。これらを利用するためには、銃の免許が必要です。さらに銃を所持することが必要になり、警察への届け出なども必要になります。でも諦めることはありませんよ~!A・R射撃場(エアーライフル)エアーライフルは18歳以上で、免許を取得すれば可能。だが、殺傷力があり危険なので、もちろん銃砲等の所持管理の認可取得も必要になります。爆発音が無いので、こちらは全て屋内施設(使用していない場所は消灯中)免許がなくても体験できるのがこのビームライフで、エアーライフル施設内ににあります。発砲音や衝撃はありませんが、疑似音が発します。銃本体は本物と同じくかなりの重量があり、通常は手持ちで立って打つようですが、初心者には手が震えて無理です。着座し固定打ちです。(やっぱりこれはスポーツだ)高倍率のコンデジで鳥を狙うようなもの、カメラのように手振れ補正はないので、的に標準を合わせるのはかなり大変です。10メートルの距離ですが、銃から覗く的は黒い点にしか見えません。手持ちでは無理なので、テーブルに枕を置いて持っての固定打ちですが、それでも難しいです。尚、ビームとは言っても毎回弾を込める操作をするので、連射はできません(本物の銃と同じような操作)。連射が出来たらマシンガン(笑)ですよね。黒い点を高倍率ズームで見ると、幾重もの輪になっていました。銃の標準器からは、全体が一つの点にしか見えません。そろそろメガネを作らないと駄目かも・・。他に標的が動くものなどもあるらしいが時期早々のよう。標的にあたったかどうかは、右側に置かれたモニターに表示されます。隣の女性の方は、天井を打ってました(笑)。見事中央にあたれば、上の王冠のマークが赤く点灯します。当たった位置は赤い点で表示され、左上に点数が数字で表示されます。ビームライフルの光は、人体に影響しませんが、基本銃口を人に向けてはいけません。奥の方では大学生がエアーライフルの練習中弾は小さな鉛で標的は小さなカード(6センチくらいのカードに書かれた直径1.5センチくらいの黒い円)リモコンで標的を手元に引き寄せ交換することが出来ます。的の中心が撃ち抜かれ破損すると、新しいカードに交換。エアーライフルの重さは、約4Kgあるとの事。三脚のような固定台を使用していました。女性が多いのに驚き!このスポーツ腹が出ているようだと無理かも(笑)思ったよりハードなスポーツです。オリンピックでのバイアスロン?(銃を担いで走る競技)だったと思うが、あの競技の難しさがよくわかりました。クレー射撃は迫力があってすごいね~!ビームライフルの料金大人:1日515円(消費税込み)
2018.02.28
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富士山と桜、素晴らし眺望を満喫しよう!ということで、いせはら観光ボランティアガイド&ウオーク協会主催するウオークに参加し、河津桜を見に行ってきました。この日の天気は雪の予報でしたが、見事に裏切り、ポカポカ陽気の花見日和になりました。毎年、個人で河津桜を見に行くのですが、いせはら観光ボランティア&ウォーク協会が主催とあって単なる河津桜だけの見学に終わらず、歴史的遺産の見学もコースに組み込まれ、これまで知らなかった新たな発見もできました。河津桜については、TVやSNSなどで多くの情報が得られるので、あえて紹介するまでもありませが、やっぱり富士山と桜のある風景はいいですね~。見頃には少し早いようにおもえましたが、中国・台湾からツアーの旅行者でごったがえしていました。今回紹介したいのは、松田山に行く途中にある延命寺(ぽっくり往生の寺)普段は見ることのできない本堂なども、観光協会の根回しで、特別に見学させていただくことが出来ました。小田急線松田駅から徒歩5分(松田山に向かう途中にあり)延命寺正確には萬松山延命寺といい、開山は1472年久野村総世寺3世宗筒和尚(曹洞宗)です。開基は小田原北条氏家臣の遠山丹波守直系です。余談ですが、時代劇に出てくる桜吹雪の刺青で有名な遠山金四郎は、この遠山丹波守直系にあたる人物。(その当時は河津桜はまだありません)本堂・ぽっくり弁天堂・観音堂・放光殿などからなります。本堂の広い天井に格子にものすごい絵(彫刻) 今風に言うとインスタ映えする鮮やかな彩色絵は、見事です。また、延命寺境内には、約20種2000株の牡丹の花に添えられるように飾られた蛇の目傘の風情が素晴らしいそうです。牡丹の季節に是非いってみたいところですね。この後、地元の中澤酒造さんに立ち寄り、日本酒の試飲と甘酒を飲んで解散です。本来なら画像で紹介するところですが、なんと間抜けなことにカメラにメモリーカードが入っていないことに気付かずに撮っていました。エラー警告もされることなく、どんどん撮れてしまいました。今回、平日の催行とあって年配者が多く、延命地蔵より皆さん、ぽっくり弁天に多く集まっていました。ただ長く生きることが目標ではなく、何をするために生きる目標持つかが大事ですね。私は、ぽっくり弁天よりも先に、ボケ封じに神様(大山にあり)行ってこなければいけないかなぁと思っています。
2018.02.22
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コンデジでは無理だろうと思っていた、鳥を撮ることができました。キセキレイと言う鳥だと思います。この種は何処でも観察できる鳥のようです。ルリビタキのメスはたくさんいるのですが、オスは確認できませんでした。印刷するにはきびしい画質かと思いますが、Web表示なら十分いけそう。光学30倍+超解像ズーム併用(手持)もう少し慣れれば・・。ただ液晶画面で、中央にもって来るのが難しくトリミングをしてます。荷物にならなくて山歩き用には使えそうですね。接写もOK、欲を言えば広角がもう少しあるといいかなぁ~と・・・画角は印刷対応に3:2で運用。全てに満足するようなカメラなんてメーカーは作らないでしょうね。今日は野鳥撮りの人がたくさん。1/2.3のセンサーに、2020万画素となるとやはり風景撮影では、デジタル感が出てきますね。ここは「神奈川県自然環境保全センター」大山・丹沢山系の各ビジターセンターの拠点でもあるが、色々な動植物や自然環境保全の研究施設としての役割もあります。この時期は、なんといっても杉花粉でしょう。この自然環境保護センターでは、花粉の少ない品種への改良もおこなわれています。花粉の多い品種花粉の少ない品種(全くないというわけではありません)と・・ここまでは早く花粉がなくなってくれたらいいなぁ~なんてとこれまで杉花粉に目がいって見逃がしましたが!?杉と同様にたくさんのモミの木も植えられていました。花粉と言えば他にもヒノキもありますが、モミの木にも花粉があったとは知りませんでした。杉花粉だけを悪者にしてきましたが、昨年、ついにヒノキ花粉デビュー(矢倉岳で)しました。モミの木にも注意する必要がありそうですね。花粉から逃れるためには、もう海外に移住するしかないかも・・。花粉症は生産性の低下を招き、経済にも悪い影響があるかもしれません。一方、マスクが売れたり、医薬品が売れたりで、GDPには貢献しそうですね?
2018.02.18
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2月15日ウォーキング協会が主催する「旧小澤家と山口家と梅・菜の花ウォーク」に参加しました。気温16度快晴今回のコース伊勢原駅⇒専修大学入口⇒小沢家⇒金光寺⇒三所石橋⇒上行寺⇒山口家(昼食・梅園・菜の花)先ずは西富岡八幡神社で準備体操(地名で、あの富岡八幡宮とは関係ありません)小澤家小澤家は江戸時代、西富岡村の旗本、水野氏領の名主を代々勤めていました。明治以降は鷹部屋村村長や神奈川県会議会員として、村政や県政の発展にも尽力されました。小澤住宅は、江戸時代末期から大正時代にかけてのものですが、上層農家の建物の特徴が残されているそうです。表門・主屋(おもや)・庭塀(にわへい)が、国登録の有形文化財表門表門は、明治20年頃、平塚宿本陣の表門を移築したもので、旧東海道筋に残る数少ない本陣門として極めて貴重な門です。主屋(おもや)今回も参加人数が多いので、3班に分かれての見学になりました。福沢諭吉の直筆の書もありました。明治初期の建物で、桁行(けたゆき)11間、梁間(はりま)7間、木造平屋建て、寄棟造、茅葺です。柱や梁が太く、特に建具や床の間まわりの造作にすぐれ、精密な細工が施されていました。現在、主屋の一部は実際に使用されているため、通常は一般開放されていません。当主のご厚意により特別に公開していただきました。関東大震災で崩れ落ちた蔵の屋根瓦を使用した庭塀(にわへい)小澤家を後にして次は金光寺へ移動します。金光寺 寺そのものに特別なものはありませんが、この寺の見所は境内に祀られた岩船地蔵です。岩船地蔵金光時の境内には、船に乗った石造りお地蔵さんが祀られていますこの地蔵尊は下野国(現在の栃木県)岩船山高勝寺を起点に、1719年から関東一円に広まった流行神仏「岩船地蔵」の地蔵尊の一つと言われています。つまり、岩船地蔵が村送りで伝えられ他村に伝えて行ったときに、その記念として各地に岩船地蔵が建立されたと思われます。伊勢原市内には他にも、桜台4丁目85-4(岩船地蔵尊堂内)にあります。次は三所石橋造立供養塔この道は、赤坂見附から、東海道柏尾村から大山詣りでの人たちが歩いた大山道で、土地の人は青山道・戸田道呼んでいたようです。また三所石橋造立供養塔は、この場所とこの近辺に架けられた三ヵ所の石橋を供養するために、1802年に洞昌院の住職と村人達によって建てられました。石橋の供養(道標)ね~!当時は大変重要なものであったことがうかがえます。道標を撮るのを忘れてました(汗)。(洞昌院:太田道灌公の墓苑あり)次は上行寺へ上行寺は、日蓮宗のの寺院で、富士山上行寺と号する。この寺は、1567年小田原花木に創建、その1596年に、江戸桜田に移転、さらに数か所に転じた後に、東京芝日本榎から伊勢原に移転されました。江戸の地に長い期間あったことなどから、寺内墓域には歴史的著名人の墓搭を見ることが出来ます。上行寺近代的な造りのお寺さんのように見えますが、現在の地に定着するまでには長~い歴史と事情があったようです。大橋宗桂(安土桃山~江戸時代期の小技師 初代将棋の名人 信長、秀吉、家康、・秀忠に歴任、信長から宗桂の名を賜る。これは将棋の桂馬から取ったものと言われています。墓石が将棋の駒の形をしています。将棋ってそんなに古くからあったとは・・将棋ブームでこれから人気になるかもしれませんよ~?丸橋忠弥の墓石江戸時代の武士。出目は不詳で諸説あるようです。由比正雪とともに慶安事件の首謀者で、槍の名手であったとも言われています。正雪・忠弥らの反乱計画は事前に漏れ、計画は失敗に終わり、忠弥の母・兄やその縁類を含め正雪らの一味30余人が処刑されたといいます。室井其角の墓石1661~1707年江戸時代の中期に活躍した俳人。豪放闊達、しかも鋭い感覚と豊かな感受性を示した其角は、芭蕉門第一の作者と言われます。最後の吟「鶯の暁寒しきりぎりす」。石庭のような造りの墓石です。桂川甫周の墓石1754~1809年江戸時代中期の医学者・蘭学者。代々幕府医官であった桂川家の三代甫三の長男に生まれる。1777年幕府奥医者となる。前沢良沢・杉田玄白らに蘭学を学び、杉田玄白の「解体新書」翻訳事業には初めから終わりまで参加、協力した。次は山口家山口家の建物は、もともと上粕屋の石倉にありましたが、幕末に曳家してこの地に移されました。この構造は近世民家によく見られる六間取りであるが、明治初頭に二間続きの座敷を二階に増築した、他にに類を見ない古い民家となっている。上質の木材や銘木がふんだんに使われた屋敷は重厚な趣を醸し、内部の建具も欄間や障子の細部に至るところまで緻密で精巧な細工が施されています。一階の座敷は書院風、二階は数寄屋風の造りとなっており、民家でありながら武家屋敷のような風格を漂はせている。また主屋の奥にある奥にある離れは、明治初期に建てられたもので、、宮家をもてなすための特別な部屋であったと伝えられています。山口家は江戸時代中期ごろ、江戸幕府六代将軍家宣と七代将軍家継の側用人として活躍した間部詮房の弟、詮之がこの地を領するようになり、山口家は間部家の家政に深く関わっていたと言います。当家の質の高い建築は、こうした家柄とそれに裏打ちされた財力を反映する。江戸末期の最後の代官所とも言われています。明治時代には、自由民権運動の結社である湘南社の初代代表に当主の山口佐七郎が就任し、屋敷は湘南港学会の会場としても利用されました。平成11年に主屋と離れが国の登録有形文化財となっている。山口家手前後ろに倉があり、資料館「雨岳文庫」に使用され、主屋後ろに離れがあります。山口家を本部として、沢山のNPO法人が活動しています。蔵は大山の歴史などの資料館「雨岳文庫」として活用されています。山口家の梅園菜の花には少し早かったようですね。大勢の参加になったため屋内と野外に分かれての昼食になりました。当主が皆さんにと、豚汁を作って歓迎してくださいました。梅の花を持ち帰りに用に準備してくださいました。暖かくて最高の一日になりましたが、そろそろ花粉の気配・・。
2018.02.16
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雑記1月に入って研修日程が立て込み、ブログの更新も滞っていましたが、2月中旬には一期目の受講が終了予定。このところの寒波で体が動かず、少し運動不足のよう。2期目の研修日程が決まる迄、ウオーキングイベントに積極的に参加しようかなぁと・・。先週末からの日経平均株価が下がり始め、昨日・今日とあれよあれよと言う間に下がり始め大暴落。見通しがついたら、PCとカメラを買い替えようと思ってましたが、夢と消えそう・・いや消えた。すべては投資ファンド任せ・・”どうも歯がゆい”ですね。 さて明日はどうなることやら・・。とにかく今年も年初から色々と話題が多すぎ、一ヶ月もするともう過去のものに・・。
2018.02.06
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