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アフリカの仕事(援助関係です)を10年以上前にしていたとき、先週の日記に書いた数カ国を含めて12カ国に出張する機会がありました。ここで仕事をした3年間で出張は確か7回。回数としてはあまり多くはないと思いますが、仕事でもないとなかなか行けないところばかりだったので、非常に貴重な経験をさせてもらったと関係者の方には今でも感謝してます。とはいうものの、ここの仕事は基本的に人が足りず、常にもろもろの上流から下流までの仕事でオーバーフローしている状態で、出張に行くにも「人繰り」という言葉があって、「前広」に関係者と綿密な連絡を常日頃保っておかないと、仕事が全然回らない組織でした。そんなことで、常に効率が要求され、アフリカに出張するときは1回行くと場合によっては1ヶ月くらい一人で行ったきりになり(多くても二人)、数カ国巡業は当たり前で、かつ出発と到着は週末を使う(通常日本からアフリカまでは欧州または東南アジア経由で2日はかかる)といった体力勝負でした。金曜日の夜遅くまで準備をして土曜日朝出発、現地の日曜日の夕方到着、翌月曜朝から仕事と言うのは日常茶飯事でした。荷物も大量の資料やら、訪問先の日本人へのお土産やら、エ●本やら、スーツケース一杯に押し込め、出張に行ったら行ったで、ミーティング終了後すぐに日本へFAXで報告を求められ(当時はワープロ。小型のプリンタとともに持って行ってました)、あまり休む暇はなかったです。私は運よくそういうことはなかったのですが、当時の同僚の中には、2回飛行機を乗り継いだりすると、荷物がちゃんと届かないケースも結構あり、スーツが届かずにTシャツとGパンで数日現地の役所などのミーティングをせざるをえないこともままありました。私が遭遇したハプニングは、ケニアに行くはずだった飛行機が悪天候のため隣のタンザニアに行ってしまったこと、アフリカから欧州へ行くフライトがストで急にキャンセルになったことくらいでしたので、運がよかったほうだと思います。出張中の週末は大体移動日で、アフリカの場合、各国間をつなぐフライトが異様に少ない(または危険といわれる)ため、欧州に1回戻って再度アフリカに入るといったことも頻繁にあり、観光など遊びに使えるような時間は正直とても少なかったです。1回でも乗り継ぎに失敗するとすべての日程がだめになるので、朝早い便に乗るときなどは絶対寝坊が許されないので常に緊張感がありました。でもアフリカの途上国でよく出会った世●銀行の方々は大人数でかつホテルはスイートに泊まっていたりして贅沢な出張をしており、もともと途上国出身の人が金を貸す立場になって米国のご威光を笠にしてアフリカの政府の人に対する態度もでかく、当時私としては相当憤慨していました。世●銀行には日本の税金も相当使われているんですけどね。私の今勤める会社の親会社もそうだし、中国様もそうですが、組織や国が大きいと「自分が常に偉い」と自己中心になり、まわりの世界が見えなくなる傾向かつ、誰からも恐れられてチェックされないので効率を求められることもなく、また人が余っているので組織内・国内の疑心暗鬼的な傾向も強いなど、弊害が共通していることを強く感じます。今日はちょっと硬い内容になってしまいました。明日はやわらかく行きたいと思います。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.31
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週末は習慣化した道の駅耐久レースです。本日は朝7時半ごろ家を出て、夜8時半ころに帰ってきたので、おおよそ13時間、約550kmの行程でした。今の仕事がクビになったら、長距離トラックの運転手を目指そうかと思います(大型免許がないですけど)。役所(国土交通省)の分類上、関東の道の駅には長野県の北半分も含まれますが、長野にはまだほとんど行っていないので、手始めに東側のいくつかを回りました。その後群馬県側に抜けて、草津温泉あたりを経由して群馬でまだ行き残している二つのうちのひとつを目指しました。 ひとつめは「雷電くるみの里」(長野県東御市)。ここはなかなかよかったです。「雷電」というのは江戸時代の最強力士「雷電為右衛門」のことですが、雷電が生まれたのがこの東御市。全然そんなことは知りませんでした。道の駅の中には小規模ながら雷電の展示コーナーがありました。これがその展示コーナーです。手形が右にありますが、私も手はそんなに小さくはないものの、比べてみたら異様にでかかったです。当時の番付表なども展示されていました。「横綱」という地位が正式なものになったのは明治以降だそうで、雷電は最高位「大関」となっています。また、あの時代、結構全国巡業をしていたようで、雷電は日本各地に行っていたみたいです。このあたりは、くるみが特産だそうで、「くるみのおはぎ」というものを買ってみましたが、なかなか美味です。2つ目は「みまき」。ひとつめと同じ、最近の市町村合併でできた「東御(とうみ)市」にありますが、前は「御牧村」だったのではないかと思われます。ここは物産販売や温泉、スポーツ施設、老人ホームなどの複合施設です。次は「ほっとぱーく浅科」(佐久市・旧浅科村)。まだ10時ごろだったこともあり、田舎のじいちゃんばあちゃんが野菜などの直販の準備をしながらぺちゃくちゃしゃべってました。4つ目は「マルメロの駅ながと」(長和町。長門町と和田村が合併してこの名前になったらしい)。ここはそれぞれの建物がみんな蔵のような趣があり、敷地内にあったローソンも同じ外観をしてました。群馬県に入ります。これは「草津運動茶屋公園」。この道の駅への訪問は2回目。多くの観光客で混雑していました。草津温泉の入口ような場所にあって、いろいろ情報が仕入れられます。前にここに来たとき、時間がなくて草津温泉は迂回してしまったので、次回は温泉街の真ん中にある源泉「湯畑」を一目見たいと思っていました。 「湯畑(ゆばたけ)」を中心に草津の温泉街は広がっています。湯畑に近づくと、硫黄の匂いが漂ってきます。3枚目の写真が源泉で、これが木製の管のようなものを通って1枚目の写真のところまで流れてきます。緑色に岩が変色していたりして結構きれいです。周りには2枚目の写真のように足湯があったり、「湯もみ」を実演するところもあったりして、なかなか面白いところです。今日は観光客で相当混雑していましたが、今度時間があるときにゆっくりここの温泉に来てみたいと思いました。次は「川場田園プラザ」(群馬県川場村)。ここはテーマパーク並みに広大で、ブルーベリーを摘める農園、レストラン、バーベキュー、ショップなどさまざまあり、家族連れにはいいところかもしれません。これで群馬県の道の駅18箇所のうち残すはあと1箇所となりました。本日最後、ここは2度目ですが「白沢」 (沼田市・旧白沢村)。ここも牧場のような広大な敷地で、フィールドアスレチックなどの遊具があったりしますが、温泉施設が立派で眺望のよい露天風呂があるようです。ここも今度時間があったときに、温泉目的でまた来てみたいと思います。関東「道の駅」ネタもだんだん尽きつつあります。他の地域へ進出を検討していますが、日帰りで帰って来れないのでどうしようかと真剣に悩んでいます。最後までご覧いただきありがとうございました。お休みなさいませ。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.30
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昨日はブログ開始以来約2ヵ月半、初めて休んでしまいました。飲み会で元気なおねえさま方に圧倒され続けていたら家に帰ったのは午前3時をすでに回ってましたのでさすがに寝てしまいました。さて、今日は新しい岩盤浴を探して千葉県方面に行きました。千葉市の蘇我にある巨大なショッピングモール(?)的な「ハーバーシティ」内にある、スパビューナ(Spa Beauna)というところです。横はすぐ港があってロケーションはまずまずと思います。外観はこんな感じ。結構おしゃれな感じで、内部も女性には喜ばれそうな雰囲気。実際おやじ客の数は女性に比べ相当劣勢でした。ここは源泉はなく、人工的に作られた温泉水を使用しているようです。リラックスルームなどは広くてきれいではありますが、風呂そのものはあまり種類も多くなく、特徴もこれといったものはなかったです。岩盤浴にも入りましたが、予約なしで無料なのはいいのですが10人ちょっとしか入れないので、順番待ちせざるをえずちょっといまいち。いつも行くところと比べると、テーマパーク型日帰り温泉マニア及び岩盤浴マニアとしては少々物足りなかったです。評価はB。そんなことで、あまり書くことがないのですが、ついでに私が日帰り温泉マニアになったきっかけについて少々。もともと風呂はあまり好きでなく、入ってもすぐ出てくる方だったのですが、北京に90年代後半に駐在したときに、何か面白いところはないかと思って住んでいたところに近い新僑飯店(崇文門)の地下にあった「新僑ウェルピー」という温泉に行き始めたのが最初です。それまで温泉やサウナなどにもほとんど行ったことがなかったのですが、ここで目覚めました。それとマッサージやあかすりもやってもらったりして、多少金を使ってもこれは許せる、と思ったりしました。その後も帰国してから日帰り温泉にはたまに行っていましたが、今年の始め、ある病気で入院した後、体重が20代中盤ころの体重に戻ったりしたので、折角なので健康維持をしないといけないと思ってせっせと通っている実情もあります。実際、温泉や岩盤浴で新陳代謝がとても良くなり(最近流行りの「デトックス(毒出し)」にも通じます)、各種数値も改善されて効果を感じています。たかが風呂といっても捨てたものではないと改めて思っていまして、皆様にもお奨めしたいと思います。そんなことでまた明日。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.29
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アフリカネタ3日目です。今日は南アフリカ(南ア)について書きます。南アは昨日の日記にも書いたとおり、南部アフリカ地域の大国です。アパルトヘイト(人種隔離政策)が終わってからは、政治的には黒人が掌握している状況にありますが、経済は白人が握っている状況が続いているはずです。天然資源に恵まれていることから経済レベルは完全に他のアフリカ諸国とは別格で、先進国と同等のレベルにあり、次回のワールドカップ開催地になるくらいちゃんとした国ではありますが、極めて貧富の差が激しい状況にあります。南アには他の南部アフリカ地域の途上国に行く関係で、中継地として何度も入国をしましたが、連続滞在日数は最長でも2泊でした。最大の都市であるヨハネスブルクが大半で、そこから車で1時間くらいの首都のプレトリアにも1回だけ行きました。最近ではヨハネスブルクは世界最悪の治安であると言われており、殺人も日常茶飯事と聞いています。金持ちの白人は郊外に住んでいるので、市内はゴーストタウン化し、低所得者が空いてしまったビルに寝泊りしていて昼間でも近づくのは危ないと聞きます。当時(93~94年ごろ)もすでに治安は最悪レベルと言われていたのですが、初めて行ったとき(一人です)ナイロビからの帰途トランジットで1泊したのですが、夜遅い時間に飛行機で到着し、空港からタクシーに乗り、ヨハネスブルク駅にほど近いホテルに泊まりました。また、翌朝時間があったので、駅まで10分程度ですが歩いて往復したりしました。でも、あとで関係者の人に聞いてみると、まず「夜一人でタクシーに乗るのはだめ。迎えの車を手配したほうがいい」とか「ヨハネスブルク駅の周辺には絶対近づくな。殺されるぞ」というのが定説だったようで、知らずに危険地帯に入り込んでいたようです。一応それまでも危ない行動はしないよう慎重にしていたのですが、やはり事前に情報はいろいろ調べておかないといけないと思いました。たまたま運がよかっただけで今こうしてブログを書いていますが、場合によっては10年以上前にこの世からいなくなっていたかも、と思うと結構恐いものがあります(まあ事件に遭遇するかは確率の問題なので、遭遇しない確率の方が高いですけどね)。でも街としてはニューヨークの規模をちょっと小さくしたような雰囲気で、普通に歩いていれば恐怖心などは感じるところではないと思います。街も基本的にきれいでした。車をあるルートで借りて、ヨハネスブルクから100km以上はなれたところにあるサンシティというラスベガスのようなところにも行ってみましたが(カジノや遊園地がある広大なテーマパークみたいなところ)、このように下界とは隔絶された世界もあります。ただ、市内から少し離れたところには、ソウェトという貧しい黒人の人たちの居住地があり、ここにも行くことができましたが、黒人の運転手からは「ドアのカギは絶対閉めて。窓は開けないで。人の写真は絶対撮らないで」と事前に注意をされ、緊張感があるところでしたが、見た目はそれほど小さな家というわけではなく、ちゃんと車を持っている人もいたりして、よくわけのわからない世界だったことを記憶しています(日本人の目からすると家の大きさは特に小さくはなく、白人や金持ち黒人の住む家が大きすぎるのだと思います)。当時はまだアパルトヘイトが終わったばかりのタイミングだったので、今はもう少し良くなっているかもしれません。また、行く機会はありませんでしたが、南アはサファリもたくさんあり、野生動物を間近で見ることができますし、南にあるケープタウンは英国風のきれいな都市のようであり、ケープタウンとヨハネスブルクを結ぶ、相当前でないと予約がとれないという「ブルートレイン」という名の人気の豪華寝台列車もあったりなど、観光地としてはいいところだと思います。ご興味ある方は次回のワールドカップのときにでも是非行ってみてください(というにはちょっと遠いですけどね)。ちなみに南アは最近中国様と資源の分野などで関係が深まっているようですね。きっと中国様の方たちが今は相当増えていることと思います。そんなことでまた明日。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.27
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アフリカ昔話第2弾です。昨日ご紹介したスワジランドと同じ時期にナミビアという国に行きました。ナミビアという国名は「ナミブ砂漠」から来ていますが、昔は「南西アフリカ」と呼ばれ、南アフリカ(以下、南ア)の支配下にありました。ここも南アのヨハネスブルクから空路で入国しました。首都はウィントフーク(Windhoek)というところですが、やはり小ぢんまりした小さな町です。面積は確か日本より広かったと思いますが、人口は国全体で数百万程度だったと思います。したがって、首都は人口数十万くらいしかおらず、あまり人がたくさん集まっているところを見た記憶がありません。この国も南アの影響下にずっとあって、南アから独立したのも90年代初頭ころと遅かったので、南アと同じような雰囲気があります。といっても南アの雰囲気というのをご存知ない方のために少々説明しますと、一般に言われるような未開の地というところではなく、都会はむしろ先進国と大差ありません、というかヨハネスブルクなどはニューヨークのように高層ビルが立ち並ぶ大都市です(今は世界最悪の治安といわれています)。気候も緯度的にはオーストラリアのシドニーあたりと似たようなもので、かつ高地にあるので、穏やかな季節が続く過ごしやすい場所です。基本的に古い時代から白人が植民しに来るようなところは、オーストラリアなどと同様、気候的に本国と近いところがまず選ばれたのだと思います。オーストラリアと違うのは南アや南部アフリカの場合は陸続きでアフリカ大陸とつながっていて外部から人がたくさん流入してくること、そもそも土着の人たちの人口が多かったことで、後代のアパルトヘイトなど、白人が自分の権益を守ろうとして無理な体制を作らざるをえなかったというところが大きな違いだと思います。さて、そういうことでナミビアについても、南アと同じように首都にはきれいな建物がたくさん並び、おしゃれなショッピングモールなどもありました。でも少し郊外に出ると原野が広がり、空港から市内に行く途中も赤茶けた大地が広がっていて、行ったことはないですが写真で見た火星の地表に通じるものがありました。そういえば空港では予約した運転手付レンタカー(Chauffeur Drive)が手違いで迎えにきておらず、タクシーもやっと見つけた感じで少々苦労したことを思い出しました(「運転手付レンタカー」などというと贅沢!と言われるかもしれませんが、仕事で出張する場合は他に足の確保が難しいのでこれが一応普通です)。ここでも政府の役人や政府系の会社の人のところを訪問しました。とても印象に残っているのは、役所の幹部クラスのドイツ系らしき人です。南アと同じように白人が随所にいるのは当たり前といえば当たり前なのですが、ナミビアの場合は第1次世界大戦前に10年ちょっとドイツが植民地にしたことがあり、この末裔の人たちが結構そのまま残っているようです。彼は私とは英語で会話をしましたが、かかってきた電話ではドイツ語を話していました。街中でも英語とアフリカーンス語(オランダ語系の南アのボーア系白人が使う言葉)に加えてドイツ語が併記されているところも多く、100年近く前に10年ちょっとしか統治しなかったドイツ人の言葉がそのまま残っているのはとても興味深いものを感じました。ここでは首都に2泊しただけですが、北側の方に行くと名前は忘れましたが動物に出会えるサファリもあったと思います。帰りは空路で市内にある小さな空港から10人乗りくらいの小型機で真夜中ヨハネスブルクに戻りました。ちなみにこの空港の名前は「エロス空港」。昨日のエ●本ネタほどではありませんが、個人的には好きな地名のひとつです。なお、行った順番でいうと、ナミビアの方がスワジランドより先でしたが、エ●本持込はナミビアの場合は大丈夫でした。また明日もこの調子で続きます。では。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.26
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もう10年以上前になりますが、某政府系金融機関に出向して、3年間アフリカの関係の仕事をしました。おやじの昔話ですが、そのころ行った国で普通あまり行くことのない国、二度と行かない国について少し紹介してみたいと思います。一つ目はスワジランド。この国の名前やアフリカのどこにあるか知っている方はほとんどいないのではないかと思います。南アフリカの右上よりの端にくっついてる、人口80万人くらい(当時。今は100万を超えている)の王国です。この国は南アに三方を囲まれていますが、同様に南アに四方を囲まれた「レソト」や以前南ア領だった北西側で南アに接する「ナミビア」とともに、完全に南アの経済圏に入っています。私は南アのヨハネスブルクから空路で小さな飛行機で入国しましたが、南ア経由で行くしか方法はないと思われます。首都のムババネというところは小さな町ではありますが、結構こぎれいなところで、一般の方がアフリカについて持つような未開な印象は全くありません。この国はスワジ族という部族が大半で、白人が若干います。政府の役人と何回かミーティングをしましたが、スワジ族の人はほとんどDlamini(「ラミニ」と言うような発音)という姓の人ばかりでした。現地語には「クリック・サウンド(粘着音)」といって、息を吸いながら発音する音(説明しにくいですが、舌を少し巻いて犬猫を呼ぶときのあの音に似ています)があります。南アやジンバブエなど南部アフリカ地域の言語で出てくる音ですが、普通耳にする音ではないので違和感がありましたが、音声フェチの私にとっては生でこの発音が聞けて感動ものではありました。この国での思い出は入国のときです。アフリカの他の国でも入国の際にスーツケースを空けられたことは一度もありませんでしたが、めったに来ない飛行機の入国審査の列の先頭になった私はいきなり荷物を空けられることになり少々びびりました。スーツケースのふたの裏に日本の「エ●本」が入っていたからです(なぜエ●本を持っていたかは気にしないでください)。でも、ふたの裏のファスナーで閉まるポケットの中なので、まずここまでは見ないだろうと思っていたら、全部開けてきます。係員は目ざとくエ●本を取り出し、高く持ち上げて「これ何?」と聞いてきます。私は言葉を失いましたが、後ろに7~8名並んでいたので恥ずかしいやら、どう対応したらいいのかわからないやらでいたところ、係員から「別室に来なさい」と言われて、小さな部屋に通されました。ここで係員から、「お金払えばもって行ってもいいよ。いらなければここに置いていけ」みたいなことを説明され、私は当然「いらない」と答えたところ、意外とあっさりと、かつにっこりしながら係員は私を解放しました。一瞬別室行きになったときはどうしようかと思いましたが、もしかしたら彼らはきれいな日本のエ●本を欲しかったのかもしれません。今度行く機会があったらたくさん持っていってあげたいと思います。さて、再度入国審査のところに戻ると、同じ飛行機で来た10数名は誰もいなくなり、たまたま途中でこの日同じ飛行機に乗った日本人の人が心配して待っていてくれました。「何があったのですか」と聞かれて「いやあ、ちょっとした問題が・・・」とお茶を濁しました。10年以上前なので今はそんなに厳しくしていないかもしれませんが、この国に行く機会のある方、エ●本を持ち込むときは、スーツケースに入れるよりも手持ちのカバンに忍ばせた方がいいかもしれません。この国の人はみんな穏やかで、基本的にみんな優しそうでした。たいした産業もなく、南アからの観光などで経済が成り立っている感じなので自然とそうなるのでしょう。中国様とは全く対照的です。ちなみに、スワジランドは当時(今もそうだと思いますが)中国ではなく、台湾と外交関係があって、「中華民国」名義で道路などの経済援助が行われていることを示す看板を何箇所かで目にしました。リゾート系のホテルに2泊して、役人とのミーティングのほか、国王から信頼を受けて技術専門家として長期滞在している当時70歳前後の日本人の方に会ったり、山中のダム現場の見学などをしましたが、今でもとても印象深く記憶しています。この感じで少しアフリカの昔話シリーズをしてみたいと思います。続く。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.25
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北朝鮮ネタ(違うかも)。今日はテレビや新聞で金正日の第4夫人の存在が公になったというニュースが流れています。この第4夫人といわれる女性の名前は「金玉(キム・オク)」。日本語読みすれば「き●たま」 。先ほどの「報道ステーション」では画面テロップでこの名前が連発されていましたが、普通何度か同じ名前が出てくると韓国・朝鮮人の場合は漢字のみの表記になるのではないかと思いますが(TBS系では漢字表記しないと思いますがテレ朝系は確かこの形が通常のはず)、この人の場合は「金玉(キム・オク)」と必ずカタカナ付き。カタカナ表記がない状態を想像してテロップを見ると、結構笑えました。前に北京にいたとき、カラオケ屋の朝鮮族小姐にも「○金玉」という名前(○は姓)の女性がいました。「玉」という字は韓国・朝鮮人の女性の名前にはよく出てきますので、それ自体は不思議なことではないのですが、この人たち、日本に来たりするとちょっと漢字で書くのは勇気が要りますよね。関係ないですが、中国語では「金玉」(金へんに玉)で一文字の漢字もあり、ちょっと琴線に触れます。5月26日の日記で、くだらない地図帳のことを書きましたが、世界にはバリ島にある「キンタ●ーニ」をはじめ、「スケベニンゲン」「チンポー湖」「マ●コ川」など私には思わず琴線に触れる地名もあります。この地図帳の編集チームの方にはぜひ日本語で発音すると憚られる名前を集めた人名編も作ってほしいものです。そんなことで失礼しました。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.24
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道の駅も関東地方のものはほとんど行ってしまったので、今日は静岡県東部と山梨県南部に足を伸ばしました。走行距離約500km、所要時間は12時間弱、だんだん耐久レース化してきました。最近は長距離運転も慣れましたが、今日は雨が降っていて山中の林道のような細い道の運転はさすがに少々緊張感がありました。さて、道の駅に先立ち、静岡市清水区の「三保の松原」に行きました。 右の写真、バックの白いのは太平洋なんですが、天気が悪かったのでいまいち。海にはたくさんヨットが浮かんでました。 次は登呂遺跡。昨日も埼玉の古墳に行きましたが、古墳に目覚めたかもしれません。登呂遺跡は弥生時代の住居跡の遺跡ですが、これらは昭和20年代に復元されたものです。博物館もあって、子供向けに弥生人の体験がいろいろできるようになっています。ひとつめの道の駅は「宇津の谷峠」(静岡市)。国道1号沿いにあり、西に行ってトンネルをくぐると岡部町というところに入りますが、同名の道の駅が反対車線にあります。 これは2つ目「玉露の里」(岡部町)。この「玉露」という名前に惹かれて前からターゲットにしていました。このあたりは玉露の産地です。昔一度だけ玉露を飲んだときにとても甘くておいしかったので、是非もう一度飲んでみたいと思ってました。川をはさんで反対側に右上写真の瓢月亭という茶室(まわりは日本庭園など)があり、500円を払うと中の茶室で玉露または抹茶と和菓子をひとついただけます。特に細かい作法は必要なく、畳に正座してお茶をいただくという形です。茶室なるものに初めて入りましたが、なかなか風情はあります。玉露は小さな茶碗で2杯飲むことになっていましたが、正式な飲み方ではお茶の温度がぬるくて量も少ないので、若干期待はずれ。次は山梨県に入って「とみざわ」(南部町)。巨大なたけのこが印象的。富士川の横にあり、なかなかよい景色です。さらに富士川を北上して「富士川ふるさと工芸館」(身延町)。ここは紙鋤きやガラス工芸などの地元の各種工芸を体験できるのが売りのようですが、この施設含め巨大な敷地を占めており、人によっては無駄な公共事業といわれそうです。東へ向かって「しもべ」(下部町)。温泉で有名な下部にあります。ホタルが自然に生息しているそうで、その関係の施設もあったようですが、ここもややバブリー気味の施設かと。下部から山道を登り、トンネルを抜けるといきなり富士山が見えました。すでに夕方でしたが、下の方に雲がかかっているものの、稜線がくっきり見えてなかなかきれいでした。ちなみに下の湖は本栖湖。本日最後の道の駅は「富士吉田」(富士吉田市)。ここは道の駅と他の各種施設の複合体になっていますが、ここに上の富士山レーダーの博物館があります。これは数年前に富士山頂上で役割を終えた富士山レーダーを移設したということだそうです。すでに夕方になっていたので見学時間は終わってました。今日も無事に家に帰れてほっとしています。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.23
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週末はいつも車で出歩いています。今日は比較的近場にある、岩盤浴があるという条件の日帰り温泉を探してみたところ、1時間圏内で埼玉県行田市にある「行田天然温泉・古代蓮物語」というところがあったのでここに行ってみました。なかなか趣のある建物です。内部は撮影していませんが、風呂も新しくてきれいで、種類もいろいろあり、日帰り温泉マニアとしての評価はAAAです。ここは源泉かけ流しですが、源泉そのものは温度が30度台前半と低く、これを加熱した形で提供しているようです。加熱前の完全源泉のものも露天と室内に両方あり、温度が低いので長く入っていたり、サウナ後の水風呂代わりにもなり結構いいものです。室内には生姜風呂、相当高圧なマッサージ風呂、遠赤外線サウナと塩釜(塩サウナ)などあり2時間くらいずっと入っていました。岩盤浴も期待どおりでした。ここはいつも行く「まきばの湯」の温度(45度前後で20分)に比べると、いくぶん低く、そのぶん制限時間は30分と長くなっていてとてもくつろげました。料金は自前のお風呂セットを持っていけば岩盤浴込みでも1000円少々で済みます。完全にお気に入りの日帰り温泉のひとつに入りました。さて、温泉のあとに近くに何か見るところはないかと思って、ここから車で5分程度のところにある「さきたま古墳公園」に立ち寄りました。ちなみに行田は「古墳の町」ということを売りにしています。あと「フライ」という食べ物も一応有名。「さきたま」というのは漢字で書くと「埼玉」と書きます。「さいたま」の語源として、この「さきたま」であるというのが有力な説のひとつだということです(「幸魂」から来ているという説もあり)。行田市埼玉(さきたま)という地名も近くにありました。この公園は写真のように複数の古墳で成り立っています。中央にある「二子山古墳」は仁徳天皇陵ほどの大きさはないものの、形は同じ前方後円墳。大きいので全体は見れませんが、こんな感じです。「稲荷山古墳」の上から隣の「円墓山古墳」をみたところ。ゴルフ場ではないです。「稲荷山古墳」は中国西安(咸陽)の「秦始皇陵」に形が似ていました。これらの古墳は5世紀ごろの関東の豪族の墓だそうですが、その時代関東の歴史などはほとんど知られていないので、これほどの力を持った豪族がいたということは全然知りませんでした。また近くにこんなところがあったことも知りませんでした。こういう歴史を感じさせるものを見るのもたまにはいいかと、やや中国様疲れになっているこのごろとしては、ちょっと新鮮なものを感じました。そんなことでまた明日。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.22
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先週の出張で感じましたが、北京の交通マナーは私が駐在を終えた99年末と比べると、はるかに良くなった気がします。これは昨年9月に約5年ぶりに出張したときにも感じました。中国様も一応オリンピックに備えてやることはやっているとちょっとだけ感心。なぜそう感じたのか考えてみると、(1)大きな交差点には横断歩道のところに監視員のような腕章をした(主に)おばさん(これが概ね目つきがするどくかなり厳しい顔をしている)が配置され、逐一信号無視しようとする輩を旗のようなもので押し返し、歩道から一段車道に下りようとしても「上がれ!」と命令している。(2)かつてと比べると自転車の数が大幅に減った。(3)悪質な場合は高額の罰金が待っている(はず)。(4)左折信号ができたり、信号に関係なく右折可でなくなったところが増えた。※いただいたコメントを踏まえ以下追加(5)バイクが規制されていてほとんど走っていない。(6)スイカを載せた二頭立て馬車などがいなくなった。ということが主な理由だと思います。車の運転そのものは相変わらず荒っぽいし、右折する車と直進する自転車と歩行者の間のつばぜり合いは相変わらず(今回も乗っていたタクシーが巻き込みしそうになりました)ですけど。また大きな通りは改善されてますが、細い道も相変わらずですね。駐在していたとき、会社の入っているビルの前の交差点・三環路の「燕沙橋」高架下は、極めて混沌としていました。そのときは大体お行儀良く信号などを守っていると、通りの幅が広いので絶対渡りきることはできません。左折・右折・Uターンの車と自転車と人でいつも大混乱。日本から出張者が来ると、初訪中の人には横をガードして一緒に渡ってあげたり、いろいろ大変でした。我々が同行できないときは、「通りを渡るときは左側に現地人を立たせ、彼らを壁にして渡るように」とか「途中で止まったり走り出したりせずに、同じペースで悠然と渡れ」などとノウハウをいちいち教えたものです。私は日本ではちゃんと信号を守りますが(でも明らかに車が来ていないような場合はどんどん渡りますけど。日本人の信号守りすぎは外国人には奇異に映ります)、中国に行くとモードが変わって、結構自然に中国人と同化して上手に渡る自信はあります。でもどうしても一気に渡りきれず、車道の真ん中や車線上に立って車をよけるのはやはり恐かったですね。こういう経験をしていると、大げさかもしれませんが、日本のように法律ありきで守られるのが当然といった考え方から、まずは自己責任で行動、という考え方が鍛えられやすいと感じています。前によく思いましたが、日本のうるさい暴走族を更正させるには、一度中国の街中の道路を走らせてやれば、危ない運転はしなくなるのではと考えますがどんなもんでしょうか。ちょっとしまりのない終わり方で失礼します。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.21
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今日は先週の出張ネタからやわらかいお話をひとつ。ただ、女性の方には申し訳ありませんが、不快な内容を含んでいる可能性がありますので、あらかじめご了承ください。上海に行ったときに、現地で日本人向けに無料で配られている多くのフリーペーパーのひとつの内容を見て少々驚きました。このフリーペーパーは約50ページくらいのきれいなもので、レストランや買い物のスポットの紹介などが前半にあり、これはこれで別に普通なのですが、後半からマッサージ店などの紹介に入り、それに続いてナイトライフの紹介があります。このナイトライフ部分を見てみると、健全なマッサージやエステの店に続いて、マッサージ付きサウナ各店の紹介があります。もちろん健全なマッサージで200元前後のものもたくさん書いてありますが、これに並んで800元前後の「特別サービス」も堂々と宣伝が書いてあります。それもひとつではなく、ざっと10店舗くらい広告があって、コスプレ系のアニメの女の子が描かれたものや、「吉原○○」、「男性専用」など露骨にあっち系のサービスを宣伝する内容になっています。もちろん日本でもそのような雑誌などはたくさん売られ、ウェブでも簡単にそういうものは見ることができますが、駐在員や観光客が簡単に手に入れられる形で、それも中国でそういうものが堂々と配布されていることに少々びっくりしました。ここまで進んでいいものか、と思ったりしました。少し前でも日本人向けフリーペーパーはありましたが、せいぜいカラオケ屋の紹介程度で、いわゆる「風俗」関係のものがこんなにおおっぴらに配布されているのは、「すごい」と思わずある種感動さえしました。これを目的に上海に来る日本人も相当いるのではないかと思います。上海の駐在員に聞いたところでは、最近日本人のおっさんの行くところは、かつてのカラオケは減りつつあり、目的のはっきりしている「サウナ」に行くそうです。北京でも駐在員から「最近は北京にもメイドカフェがある」という話を聞きました。でも、日本人向けにはそのようなファジーな娯楽は受け入れられるでしょうが、中国人には寸止めするようなあのようなアナログ的娯楽は好まれないと思います。「やるかやらないか」という中国人のデジタル的感性からすると、きっと北京のメイドカフェというのはコスプレしたおねえさまが出てくるあっち系のサービスをする店ではないのかと想像しています。まあ上海あたりであればアニメ好きも最近増えているのでそういうものもあるかもしれませんが。そんなことで、中国様はますます「何でもあり」という状況になっていると改めて認識を強くしています。現地滞在の方、もし間違っていたらぜひコメントをお寄せください。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.20
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今日は電話カードについていくつかご紹介します。北京の天壇公園東側にある、駐在員の奥様方には結構人気(今はどうか知りませんが)の紅橋市場(骨董品、装飾品、小物、魚介類などの小規模店舗が集まったビル、アメ横みたいなところ)で、電話カードを買ってみました。本ブログ初日でご紹介した中国で買ったケータイ用のチャージ(充値)カードをもともと試しに買ってみようと思っていました。これが紅橋1Fのカード屋のショーケース。ここでは左上端のチャージカードをまず買おうとして、店員に値段を聞いたりしているうちに、これも買え、あれも買え、まけるからといろいろ言われて、こちらも適当に流しつつ、最終的にはチャージカード(額面50元)と真ん中の列の上から2番目の国際IP電話カード(額面100元)を買いました。値段は合わせて80元。額面の半額近くです。事前にカードの投売りが盛んであることは聞いていましたが、額面とのこれほど大きな乖離は日本ではまず考えられません。売り手の一存でどうにでもなる感じで、そのへんの土産物屋で買い物をするときの交渉とあまり変わりません。この金額でももしかすると十分ぼられているかもしれません。このカードは大体有効期限が1年間なので、カードを買っても使い切れず残高が残るケースが多いため、「余額問題」という通信業界では消費者問題のひとつとして、クレームが多い問題のひとつになっています。要は売り手が相当安く仕入れ、かなり安く売っても利益が上がり、買った人が一番損をするという構造になっているものと思います。これが購入したカードの表裏です。上がチャージカード。チャージは指定された139・・・という番号に電話し、音声案内(英語と中国語が選択可能)に従い、裏面の暗証番号を入力すれば簡単にチャージが完了します。下のほうは国際IP電話カード。IP電話といってもブロードバンドについてくるIP電話とは違って、普通に固定電話や携帯電話から長距離電話をかけるときに頭に特定の番号と暗証番号をつけてかければ中継部分がIP網を通って、普通の電話より安くなるというものです。これは99年ごろから始まって中国ではすでに一般化されています。同じ電話会社の中で普通の電話とIP電話は完全競合しますが、中国様の場合は基本的に自分の利益優先なので、みんながんがん売りまくっている印象があります。こんな形で現地で安い携帯電話端末(プリペイド)を買って、ダンピングされたSIMカードやチャージカードで料金を前払いし、さらにIP電話を使えば、電話料金はかなり安く済ませられるといえると思います。ちなみにプリペイド方式は日本と同様、犯罪の温床になるため「実名登録」をしようという動きはあるものの(上海では身分証が必要らしい)、このような細かい店でもたくさんカードが売られているため管理はほぼ不可能で、身分証も偽造が多いそうなので、日本のような厳しい管理はまず無理だと思います。日本だと電話会社はまだ固いイメージがありますが、中国の場合はここでも「何でもあり」と改めて感じさせられます。そんなことで真面目ネタが二日間続きました。明日は少々趣向を変えようかと・・・人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.19
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ちょっと仕事に関係するネタですが、この前の中国出張で現地の通信関連サービス状況を少しですけど調べてみました。前にもご紹介したソニーの「ロケーションフリー」で、日本の普通の地上波テレビが中国でも視聴できるか試してみました。日本の自宅にベースステーションという小さな箱を壁面のアンテナ端子とつなぎ、ノートパソコン側で専用ソフトをインストールして説明書のとおり設定するだけです。ちなみに自宅の回線は、つい1ヶ月ちょっと前、私の住むマンションが光対応になったので、NT●のひかり電話とBフレッツマンションタイプに入り、実効速度は大体20~30Mbps出ています。たぶん3M以上くらい出ていれば、ADSLでもこの「ロケーションフリー」でそれほど大きな問題なく映像が見られると思います(もちろん、いずれの形でも直接テレビを見るよりは画像は劣ります)。こんな感じで映ります。これは北京で泊まったウイークリーマンションの部屋の中ですが、速度はGYAOのスピードテストのサイトにつないで確かめると約1.5Mでした(ここは公定100Mと言っていましたけど)。たまに画像が止まるときがある以外は、内容は十分にわかる範囲の映像状態です。上海では速さは100kくらいしか出ていなかったようでしたが、一応見ることはできました。ちなみにGYAOの映像は日本国外ではライセンスの関係で見れませんでした。日本の通常のテレビ番組を見たいという需要は、現地に住んだことのある者として考えると、結構それなりにあるものだと思いますので、商売のネタにはなりそうな気もします。でも、ロケフリ使用の前提として、個人使用以外には認めないとなっていますので、おおっぴらには残念ながらできませんね・・・とりあえず真面目な報告でした。ではまた。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.18
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中国出張小ネタは明日からにさせていただいて、今日は道の駅です。ここのところ新規の道の駅から遠ざかっていましたが、今日は茨城県北西部の未訪問3か所を含む5つを回って来ました。所要時間約9時間、走行距離約400km。これで茨城県の9つの道の駅全部を走破しました。茨城県北部山中の「さとみ」(常陸太田市・旧里美村)。小規模で物産販売が中心。ここの近くには何かで日本一か世界一だったか忘れましたが、「竜神大吊橋」というのもあります(以前無駄な公共事業ということでテレビで紹介されたのを見て行ったことがあります)。2つ目は県北西端に近い「奥久慈だいご」(大子町)。ここは今日で3回目。2階には温泉もあります。このあたりは久慈川でとれる鮎が有名で塩焼きがうまいです。卵入りのメスがお勧め。この近くには「袋田の滝」という県北部では有名な観光地もあります。次は南下して20~30kmのところにある「みわ」(常陸大宮市・旧美和村)。ここの物産販売は結構大規模。相当田舎ですが、お昼前で土砂降りだったにもかかわらず、結構品物は売れていました。ここで鮎の塩焼きを食しました。次はさらに南下して「かつら」(常陸大宮市・旧桂村)。那珂川沿いにあって、オートキャンプをしている観光客が結構たくさんいました。これは栃木県茂木町にある「もてぎ」。ここは前に一度来たことがあります。真岡鐵道の線路が脇を走っており、前に来たときは蒸気機関車を見ることができました。近くにはサーキットがある「ツインリンクもてぎ」もあります。帰りは宇都宮経由にしましたので、宇都宮駅前の専門店で宇都宮餃子を食べました。チーズ餃子と鮮肉餃子の2種類を注文しました。店員は主人が日本人男性であるほかはみんな中国人女性のようで、友達と見られる中国人客もいて、中国語会話が響き渡っていました。戦後日本人が満州から帰国して宇都宮に伝えたといわれる宇都宮餃子ですが、こんなところまで中国様がすでに浸透していることに改めて・・・(以下略、いずれ中国ネタにしたいと思います)とりあえず充実した三連休を過ごすことができたようです。ではまた。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.17
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さて、昨日行った北京でヘリコプターに乗って上空を飛んできました。故宮の北側から近づきます。上空500m。市内東側の国貿中心や新しい中央電視台のビルが見えてきました・・・ というのはウソです。すいませんでした。(そもそも写真の腕前が悪いので最初からばればれだとは思いましたが)ここは天安門南側、前門の東にある「北京市規画展覧館」にある巨大(ワンフロア全部これ)な北京市全体のミニチュア模型が展示されています。2年前くらいに新しくできたもので、ビルとしてはとても近代的なガラス張りのもの。北京の今後の都市計画やこれまでの発展の歴史などを総合展示しており、北京市全体を俯瞰する上の写真のものや、市内東側の開発地域、故宮全体などを特にクローズアップしたミニチュア(といっても結構でかい)俯瞰があります。現地の会社関係者に教えてもらったので行ってみましたが、上海にも浦東を俯瞰する巨大な展示館があるということで、北京市もこれに対抗して作ったとか。中はとてもきれいで、中国人はこういうものには関心がないのか、閑散としてました。でも各階をつなぐエスカレーターの乗るところには案内員の女性が配置され、エスカレーターに乗ろうとするといちいち不自然に微笑んで「足元にお気をつけください」みたいなことを言っていて、ちょっと違和感を感じました。なぜかピアノがあります。どうするつもりでしょうか。北京ではオリンピックに備えて、いろいろな観光地も改修ラッシュでしたが、まあ中国様にしては意外と着々と進めている感じがしました。2枚目の写真にあった中央電視台の新ビル(ロの字型のもの)はまだ実際には建設開始前で影も形もありませんが、あの真ん中に穴が開いた設計は本当に大丈夫なのか、あまり奇抜なものを建てると使う側としてはきっと使いにくいものになるに違いありません。このように新しい建物ががんがん建てられる中、道端では相変わらずランニングの腹の部分をめくってまるで女性のブラジャーのようにして街をうろつくおやじたちの姿とのコントラストを見ると、「何でもあり」というこの国の印象を改めて強くさせてくれます。一瞬の滞在だったので、あまりネタがなく、とりあえず一発目はこんな感じでお許しください。では明日へ続く・・・人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.16
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先ほど北京から東京に戻ってきました。この時期やはりどこに行ってもくそ暑いですね。やはり40おやじにはハードな日程でした。今回現地の人たちといろいろな話をすることができて、仕事上はとりあえず所期の目的を達成しましたが、私の駐在していた90年代後半より一層便利になりましたが、一方でさらに混沌とした印象を改めて感じたりもしました。短期間だったのでそんなに深いものはありませんが、また明日以降いくつかネタを紹介したいと思います。完全寝不足なので今日はお先に眠ります。ではまた明日。
2006.07.15
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今北京の某ウイークリーマンションにいます。ここは○○公寓という主に日本人駐在員向けの住宅で、空き部屋をホテル形式でウイークリーマンションとして貸しています。ホテルと違って、台所や洗濯機、大きな冷蔵庫もあり、東京の自宅のマンションより広く、非常に快適です。ブロードバンドも有料(24元・1日)で利用できます(今の接続スピードは1.5M)。ホテル形式で貸しているのでタオルや歯ブラシなども完備してます。これで1泊約600元くらいなので、少々場所がわかりにくいことを除けば、騒がしいホテルよりも個人的にはおすすめです。昨日の上海もほぼ同じような条件(ブロードバンドは無料、ただしスピードは遅い)でしたが、何度も中国に来た経験のある方であれば、このようなウイークリーマンションタイプはなかなかコストパフォーマンスが良く、新しい宿泊形態として使い勝手がとてもいいことがよくわかりました。何かのご参考にでもしていただければ幸いです。では明日は日本から。
2006.07.14
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昼間上海に到着しました。蒸し暑い!今上海中心部やや西寄りにある徐家匯近くの怪しいウイークリーマンションに泊まっています。部屋からブロードバンド接続していますが、なかなか快適です(部屋も含め)。この場所は外から存在すらよくわからず、マンションの名前もどこにも書いてありません。ちなみにトップにある「ロケーションフリー」で日本の地上波テレビが直接見れました。この部屋にも70chのケーブルテレビもあります。やはり、この国は進んでいるところは最先端を行っていることがよくわかりました。ばて気味なのでとりあえず速報でした。また明日。
2006.07.13
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昨日までの北朝鮮シリーズに続き、今までも単発で気になる中国語についていろいろ書きましたが、断続的シリーズ化させていただきたいと思います。「先生」という言葉があります。中国語を少しでも勉強した経験のある方であれば、中国語の「先生Xian1sheng」は、日本語の「先生」という意味ではないことはご承知かと思います。中国語の「先生」は英語の「Mr.」、日本語では「さん」「さま」程度の男性への敬称です。英語の「Ladies and gentlemen」=「女士men、先生men」という直訳をし、「紳士」といった意味になる場合もありますが、日本語の「先生」とは全然意味が違います。それなのに、中国側が「鈴木さん」を中国語で「鈴木先生(Ling2mu4xian1sheng)」といった場合にそのまま中国側通訳が日本語で「鈴木先生(すずきせんせい)」と訳す場合がいまだに結構あると思います。これは72年の日中共同声明のときに訪中した田中首相のことを「田中先生(せんせい)」と呼んでから、日本人のことを「○○先生」とよぶと、一般的に日本人が喜ぶことを強く認識したことからメジャーな言い方になったのではないかと思っています。でも田中首相は政治家ですから、日本語で政治家のことを慣習的に「○○先生」というのは普通のことで、この時代全うな形で中国側通訳は、日本語で「田中先生」と読んだのかもしれません。その後日本側も中国人のことを呼びかけるとき、特に中国にある種の幻想を抱く日本人のお偉いさんたちは、こぞって日本語で「劉先生(りゅうせんせい)!」みたいな呼びかけ方をする人がメジャーになってしまった気がします。単に中国側が敬称でもない「○○先生」という意味で日本人を「○○せんせい」と言っているだけなのに、何か「私は尊敬されているのかもしれない。それでは中国の方も○○せんせいと呼ばないといけない」などと変にくそ真面目に考えすぎている人が多くいるのではないかと思いました。かつて、中国に駐在していたとき、日本から来るお偉いさんたちの中国側組織訪問に何度も同行しましたが、「ちょっと勘違いしているんじゃないの」と思うことがしばしばありました。72年当時は中国の呼びかけは「同志!」が主流でしたから、普段使い慣れていない「先生」の定訳がお互いにあいまいな状況もあったかもしれません。でも少なくとも今は、レストランのボーイを呼びかけるときも「先生!」と言いますので、昔よりはちゃんとわかっている人は増えているとは思われますが、一部には根強く「先生」信仰が残っているような気もしています。さて、突然ですが、明日から2泊3日で上海と北京へ強行日程で出張します。そんなことで今日は早めに寝させていただきます。では可能であれば明日は上海から・・・人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.12
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連続北朝鮮シリーズ7日目、たぶん最終日です。9年前の北朝鮮旅行、昨日までに3泊4日の3日目まで書きましたが、4日目は朝北京に帰るだけの日です。お決まりの朝食を簡単に済ませ、ガイドとともにホテルをチェックアウトしました。結局二人のガイドと別行動をとることは一瞬たりともありませんでした。いろいろと一般の北朝鮮人民の話を聞きましたが、基本的にピョンヤンに住んでいる人たちはやはりいろいろな面で恵まれていると感じました。郊外や地方都市、農村で見かける人たちとは明らかに雰囲気が違います。ガイドの若いほうなどは、日本でいえばノー天気で素朴な田舎のにいちゃんみたいな感じで、たいした娯楽がない世界でも、比較する世界を知らされなければ、あれはあれで幸せなのかもしれないと思ったりします。でも全体的に人の顔は暗かったですけどね・・・その後スナン空港に着き、運転手のおっちゃんとはここで別れます。無口な人でしたが愛想はよく、握手をして別れました。そして空港でチェックイン、ガイド二人からは「ぜひ私たちの写真を送ってください。住所はここです。」と言われ、メモ書きを渡してきました。こちら側も確かにべったりでしたがいろいろ世話になったことは事実ですので、たくさん撮ったうちの何枚かを送ることを約束し、彼らともここで別れました。北京に戻ってから写真を彼らに送りましたが、特に返事はなかったのでわかりませんけど、ちゃんと手元に届いたのか、どこかで検閲が入ったのか、間違って失脚したりしてないか、いろいろ考えが頭をめぐりました。空港ではばかでかい中国のバスケットチームと一緒になりました。出国手続きをすると、ビザの一枚紙がパスポートから抜き取られます。一応この紙を旅行前にコピーしていたので、今でもどこかに残っていると思いますが、パスポート上には何も北朝鮮に滞在した記録が残りません。飛行機は1時間半程度で北京に着きましたが、あの4日間は幻ではなかったかと思ったりもします。書きながら思い出しましたが、北朝鮮がらみでは1987年にも北京から中朝国境にある丹東まで列車で行き、国境の鴨緑江で北朝鮮対岸ぎりぎりまで行く遊覧船に乗ったこともありました。このころは中国も北朝鮮も経済的にそれほど格差はなかった時期ですが、それでも遊覧船に向かって北朝鮮側から子供たちの集団が不自然に微笑みつつ手を振っていたことや、川岸にある北朝鮮の工場が全く稼動していなかったことが思い出されます。今回の北朝鮮の暴発で今後の行く末がどうなるかとても心配です。罪のない一般の人民にはもっと世界にはいい世界もあることを知らせてあげたいと心から思います。国連安保理決議が最終的にどうなるかわかりません。中国がいろいろ裏工作を進めているようです。韓国なんかはまるで北朝鮮のような言い方で日本の強硬姿勢を非難するコメントを出しています。いずれにしても、北朝鮮指導部のごね得が通ってしまうようでは、今後が心配になります。中国や北朝鮮のように民主的でもなんでもない、ただ規模がでかい、声がでかいといったような国が将来世界を支配するような気がしてなりません。どこか間違った方向に世界が進んでいるのではないかと憂いを感じつつ、シリーズ最終日を終わりにしたいと思います。全部ご覧いただいた方、ありがとうございました。明日からはたぶん通常ネタに戻ります。ではまた。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.11
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今日は連続北朝鮮シリーズ6日目になります。3泊4日の旅行でしたが、ようやく3日目のネタです。4日目は基本的に朝北京に帰るだけなので、この3日目が実質的な最終日です。3日目は主に市内と近郊の見学です。少々訪問した順番は間違いがあるかもしれませんがご容赦ください。朝食後まず最初に行ったのは「金日成広場」。よくテレビでも出てくる、軍事パレードなどをやるところです。北京の天安門広場ほど広くはないものの、かなり広いことには違いありません。ここがピョンヤンの中心部で大同江(テドンガン)という結構幅の広い河のほとりにあります。今更ですが、北朝鮮の中は基本的に写真撮影については、我々観光客が行くようなところはなんら問題ありません。金日成広場の河をはさんだ反対側に「主体(チュチェ)思想塔」(7月8日の日記にある写真の下段左から2番目)というのがあります。高さは確か100m以上はあったと思います。これは一応金日成が国の基本的思想として定めた「主体思想」のシンボル的モニュメントです。「主体」は本来「自主独立」ということだと思いますが、今となっては世界に迷惑をかける「自分勝手」「独善的」に意味が変わってしまってます。この塔はエレベーターに乗って上まで見学できます。日本人がここに行くと、いわゆる日本人妻として北朝鮮に渡った日本人の何とかさんという当時50~60歳くらいの女性が金日成の業績について滔々とかつ熱心に説明してくれます(ほぼ常駐している模様)。本当にこの人が本心からそう思っているのかはわかりませんが、あまりにも金日成のことを崇拝した内容なので、ちょっと気持ち悪くなるくらいでした。この方はいまだに説明員としての仕事をしているのでしょうか。この塔の近くには確か、他にも共産主義の象徴であるカマとカナヅチの巨大モニュメントもあったような気がします。この日途中に「凱旋門」(同下段一番右)にも行きましたが、これも大理石の巨大なモニュメントで、パリの凱旋門よりはるかに大きいことを売りにしています。確かに遠巻きには美しく見えますが、初日の金日成の金の巨像も含め、人民の生活に何のプラスにもならず、生産手段でもないこのようなモニュメントに金をかけるのは明らかに大問題であり、この国の国名にもある「民主主義」や「社会主義」「労働者の国」とは完全に対極にある状態にもかかわらず、それを誰もチェックもできない独裁体制というのは人間のやることのなかで最も愚の骨頂であると嘆かざるをえません。この日は少々郊外にある金正日が指導しているという芸術学校のようなところに行きました。金親子を描いた大きな絵がたくさんありましたが、たくさんの人民に囲まれた金親子のところだけ後光がさしている絵や、雨の中で金親子が人民に指導しているのに、彼らのところだけ雨が降っていないというような絵もありました。ここまで極端な個人崇拝があると、我々から見ればかなり滑稽に見えますが、ここまで気を使わないと生きていけないことを考えるととても悲しくなります。順番は違うかもしれませんが、託児所(幼稚園といったほうがいいかもしれません)もお決まりのコースとして見学しました。我々と同じような行程で回っている別の日本人ツアー数名と一緒になりましたが、ここでは5歳前後の幼児のパフォーマンスをいろいろ見せられます。歌や踊り、楽器の演奏など、幼児とは思えないほど上手です。みんな一生懸命、笑いたくもないのにニコニコ笑って我々に接してきます。選抜された優秀な子供たちなのでしょうが、こんなに小さいころから強制的に国のために働かされているところを見てこれもまた悲しくなりました。最後に子供たちと我々ツアー客・ガイドが手をとりあってダンスを踊るのですが、なんともいえない気持ちになりました。この日はピョンヤン市内の地下鉄にも一駅だけ乗りました。これもお決まりのコース。有事の際のシェルターとしても使用することから、とても深いところに駅があり、長いエスカレーターで降りていきます。駅のホームも天井が高くてシャンデリアのようなものもありましたが、全体的に暗いイメージ。北京の地下鉄1号線の駅の作りによく似ていますし、行ったことはないですがモスクワの地下鉄も確かこんな感じかと思います。電車の中は少々薄汚れた感じで、電気も暗く、そんなに混んでいなかったものの、乗客はみんな覇気がないように感じられました。ちなみに地下鉄の駅名は「勝利」とか「革命」(ちょっと違うかもしれません)というように地名と何も関係のないものばかりで、ここまで徹底しないといけないものなのか、ある意味人民を信じていない裏返しなのではとも思いました。夕食前にはサーカスの見学にも行きました。他の国でちゃんとサーカスを見たことは確かなかったので、それなりに新鮮さを感じました。施設はサーカス専用らしく、かなりの収容人数です。空中ブランコなどアクロバット的なものはレベルの高さを感じましたし、犬猫など動物が出てくるところは結構面白く、まわりの観衆も非常に喜んでいました。これといった娯楽のない世界で、サーカスはこの国では恐らく最大級の娯楽で、サーカス団員もいい生活が保障されているのでしょう。夕食はピョンヤン冷麺の老舗として有名な「玉流館」というところに行きました。このレストランは非常に豪華な造りで、恐らくピョンヤンの特権階級を中心とした客で結構にぎわっていました。またガイド分も食べさせないといけないのかと思いましたが、なぜかここはガイドは同席しませんでした。ローカルのビールを飲みながら冷麺を食べましたが、確かにここの冷麺は美味でした。北朝鮮に来て初めてツアーらしい食事をした気分になりました。そんなわけでいろいろなことを感じながら、あまりボケるネタのないまま3日目が終わります。最終日の模様はまた明日。では。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.10
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引き続き連続北朝鮮ネタシリーズ5日目に入ります。ほぼ9年前の話ですがおやじの昔話としてご覧ください。さて、2日目は板門店の軍事境界線への訪問の日です。朝は早めに起床し、ホテルのレストランで北朝鮮初めての朝食です。前日にここへ行けといわれていたので、ホテルの1Fのだだっ広い食堂に行きました。朝7時半前後だったと記憶していますが、我々二人以外に他に客は誰もいなかったような気がします。女性の服務員が何品か料理を小皿で運んできました。あまり具体的メニューは印象に残っていませんが、いずれにしても質素なものだったと思います。ただ少し覚えているのは、服務員のマナーが非常によかったことです。外国人慣れしているのかもしれませんが、同じこてこての社会主義下にあった20年くらい前の中国とは大違い、呼んでも来ない、迷惑そうな顔をして無礼な言葉遣いで話をする中国様の人たちとはかなり違うと率直に感じました。北朝鮮というか朝鮮・韓国人は日本とは本来文化や習慣的にきわめて近く、中国人と比べれば相対的にかなり日本人に近い(もちろん各論での違いはありますが、相対的にです)ことは、北京で出会う朝鮮族のカラオケ小姐のふるまいを見てもよく感じていました。また、北朝鮮の人たちは日本の植民地統治下から民主主義的段階を全く経ずに今の体制下に入りましたので、上の人の命令には滅私奉公的に絶対服従することが当たり前になっており、時代の変化を要求されないままある意味古きよき日本の習慣もそのまま保守的に残しているような感覚を持ちました。その後ガイド二人とともに昨日と同じ乗用車で板門店に向かいました。ピョンヤンから板門店の軍事境界線までは確か300kmくらいだったかと思いますが、一応高速道路が走っていて、3時間程度で着きます。高速道路といっても、日本の低規格な一般道路と特に変わらない、自動車専用道路といった趣です。しかし、ピョンヤン市内も高速道路もほとんど車が走っていない。世界の途上国含めいろいろな国に行ったことはありますが、これほど車が走っていない国というのは初めてです。この日は日曜日だったので、ガイドによれば日曜日は車は使わないことになっているみたいなことでしたが、それにしても少なすぎ。燃料となる石油などの輸入も絞られ、石炭も古い技術で大して生産できないといった状況が垣間見えます。市内も信号はほとんどついていなくて、たまに交通整理の女性警官が立っていたりしますが、それも必要がないほど車がいない。高速道路も3時間ちょっと走りましたが、対向車は10台程度しかなかった記憶があります。そんなことでこの国は「おまえはすでに死んでいる」とケンシロウのセリフがぴったりはまるところだと感じました。途中、サービスエリアで一服して、予定どおり順調に板門店に着きました。6月1日の日記でも書きましたが、前に韓国側からもこの板門店の軍事境界線に行ったことがあったので、北側から見てみることが大きな目的のひとつでした。でも、中国人の100人規模の団体ツアー客と一緒になったこともあって、軍事的最前線という緊張感はぶち壊し。彼らのマナーの悪さ、騒々しさでかなり拍子抜けしてしまいました。韓国側から行ったときは「北朝鮮兵士に話しかけるな、手を振るな、微笑みかけるな」といろいろ注意事項があり、さらに「当局は命の保証はしない」という誓約書に一筆書いたこととは大違い、北朝鮮兵士はとてもゆるんでのんびりした感じですし、田舎の観光地に来たのとあまり違いはありません。同じ場所でも見る角度が違うとこんなに歴然とした違いが出てくることをあらためて思い知らされました。板門店では休戦会議が行われた会議場の中を見学します(ちなみに両国は今も「休戦中」で戦争は一時的に停止している位置づけ)。テーブルの上を走るマイクのコードが境界線になっており(なぜか東芝製)、その両側に韓国と北朝鮮の小さな国旗が立っています。一時相手側の旗よりも高いものを立てようとお互いに意地を張り合ったため、両国の国旗が天井を突き破りそうになったそうです。さすがにお互い馬鹿馬鹿しくなったのか今では同じ高さに落ち着いています。その後、板門店にある朝鮮戦争の展示資料がある建物などを見学して、軍事境界線近くにある、南側が見える展望台(本来は軍の見張り台みたいなところ)に行きました。ここに行く途中、田舎のとても細い一般道を通るのですが、ここで出会う通りすがりの農民を見ると、みんな顔の色がとても黒いことに気づきました。これは畑仕事で日に焼けているということはあるでしょうが、風呂に入っていなくて汚れていること、さらに食糧事情が相当悪くて内臓に支障を来たし、顔がどす黒くなってしまっていることも想像されました。事実みんなやせ細っています。展望台ではあと2kmくらいで南側が見えるところにあり、韓国側の宣伝の看板やのどかな農村の様子も見えました。この時代よりもう少し前までは両側から相手に大音量で宣伝放送を流してお互いに亡命者を呼び込んでいたりしたわけです。この国境一体は人が入らないので、緑が色濃く、自然がそのままの形で残されていることは皮肉です。板門店のあとはここから30分以内でいける一応北朝鮮では大都市で、古都でもある開城(ケソン)に行きました。ここは100万近く人口がいるはずの都市ですが、ピョンヤンよりさらに「死んでいる」印象。活気というものは全く感じられず、暗そうな顔をして歩いている人しか見えない気がしました。開城は京都のような李朝時代の古都ということで、「民俗博物館」みたいなところを見学しました。確か古い時代のもろもろの展示物があったと思いますが、特別に印象に残るものもなく、ここの状況はほとんど思い出せません。この博物館の近くで昼食をとったはずですが、この部分は何も覚えていません。帰りもがらがらの高速道路を飛ばして、夕方にはピョンヤンに戻ってきました。ピョンヤン近くになると、一直線で片側4車線くらいの広い道路を通過しました。この両側には新興住宅地のような新築の高層アパートが並んでいたりしましたが、人影は少なく生活感が全く感じられないところでした。さらに市内の中心からやや西側にある、建設途上で工事が中断し、吹きさらしになった105階建て「柳京ホテル」の近くを通りました。形は三角形の独特なものですが、今となっては全くもって無駄な巨大建築物になっています。ガイドもこのホテルの話題には触れてほしくない感じがありました。この日、夕食は何を食べたか思い出せませんが(たぶんホテルの中だったかと)、夕食後はガイドにお願いして、カラオケに行くことになりました。同行者の冒険王氏がカラオケと小姐好きだったので(私も好きですが)、とても楽しみにしていました。場所としては裏道の薄暗いところにあり、ひっそりと地味なネオンが輝いていました。個室ではなく大部屋でしたが、他に日本人客が何人か個室にいたかと思います。日本のちょっと昔のカラオケバーといった風情で、ここに日本語の少しできるおねえさんが数人つきました。ちょっと金正日の「喜び組」を味わった感覚。曲目としてはそれなりに新しいものもありましたが、基本的に少し前の歌が中心で、演歌好きのおじさん向けといったところ。私のようなアイドル系好きには少々物足りませんでした(一応守備範囲は広いので対応は可)。おねえさんたちと何を話したか覚えていませんが、あまり変なことをいうと捕まるかもしれないと思って、そんな突っ込んだ話はしなかったと思います。夜11時ごろまで歌い続け、日本円でひとり1万円くらいは払わされた記憶があります。酒とつまみを少々頼んだだけでしたが、ここも必要ないのにガイドも一緒だったので出費がおのずとかさみます。2日目はこんな感じで終わり。短期間ですが、中身は結構濃いです。そんなことで明日へ続く・・・(以下おまけ)今日は昼間、某新聞と某証券主催の「中国・香港株セミナー」(無料)に行ってきました。場所は六本木ヒルズ40Fの「アカデミーヒルズ」。事前登録制でしたが1000人規模の人が集まっていました。中国の石油・自動車・航空・アパレル・保険・銀行の代表的企業の幹部が自社の紹介をしたりしましたがなかなか面白かったです。最後には某航空会社が抽選で北京往復ビジネスクラスの航空券をプレゼントしたり、各社が景品を配りましたが、中国にありがちな「公私混同」「公私一体」型、リベート社会を彷彿とさせました。下はセミナーの写真です。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.09
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北朝鮮ネタ4日目です。昔の記録をいろいろ調べてみたら、当時以下のような日程で旅行したことがわかりました。1997年8月2日(土) 11:30北京発(高麗航空152便)→14:00ピョンヤン着 ・到着後万寿台の丘など簡単な市内観光8月3日(日) ・板門店軍事境界線、開城市内観光8月4日(月) ・ピョンヤン市内観光(チュチェ思想塔、地下鉄、託児所等)8月5日(火) 9:00ピョンヤン発(高麗航空151便)→9:40北京着ということなので、昨日の日記には朝の便と書きましたが、昼の便でした。また、昼飯を食べにいくというところで終わりましたが、昼飯は食べてなかったですね(確か機内食のみ)。金日成の銅像にご挨拶したあとホテルに戻ったのは確かでしたが、その後市内観光をして晩飯に至るという順番でした。訂正してお詫びいたします。やはり10年近く前の記憶はいい加減だったと思います。失礼しました。さて、お詫びを兼ねていろいろ部屋を掘り出したところ、以下のようなものが出てきました。これがおととい書いた機内のうちわ。もろもろ出てきました。基本的にパンフは日本語のものが多いです。当時あの国で見る商品はほとんど日本製のものばかりで、ある意味日本の属国ではないかと感じさせる雰囲気もありました。いろいろ日本のことを公式には言いますが、日本からの物資を確保することは、最近中国製品が相当増えたといっても、国の根本にかかわることなのではないかと感じました。ちなみに真ん中上の紙幣は5チョン。チョンはウォンの下の単位ですが、漢字で書けばウォンが「円」、チョンが「銭」なので日本語と同じです。また、この紙幣は昔中国にもあった外貨兌換券で、外人専用の紙幣です。「こども銀行」のような札ですが、外国人が行くところはそのまま日本円払いもできましたので、ほとんどこの札を使う機会はなく、まして北朝鮮人が使う国内用の紙幣は見ることはできませんでした。あと、右上にゴルフ場のパンフレットがありますが、ピョンヤンにもゴルフ場があります。誰がやるのかは知りませんが・・・。このことは下でも少々触れます。さて、1日目、空港到着後、金日成の銅像のある「万寿台(マンスデ)の丘」経由でホテルにチェックインしたあと、金日成の生まれたところとされる、「万景台(マンギョンデ)」に行きました。ここも完全に北朝鮮ツアーではお決まりの訪問地ですが、市内中心部から南西方向の小高い丘になっているところにあります。金日成が生まれたという質素な萱葺きの家がいくつか建っていて、昔の食事風景など、当時の様子が再現されています。確か日本語で専門の説明員が滔々と「偉大な首領様はこちらで・・・」と長々と説明していました。家のそばには白くてまん丸な石が敷き詰められた石庭のようなものがあるのですが、どれも均一な大きさで非常によくできていることは認めますが、こんなものに時間をかけるより、もっと別のものを生産でもしたほうがいいと強く感じました。このあと、万景台の近くにある、スポーツ施設が集中して集まっているところに向かいました。そろそろ夕方になったので、この中にあるレストランで晩飯を食べますとガイドから説明されました。このスポーツ施設は、過去ソウル五輪に対抗して北朝鮮が「世界学生祭典」を同時期に開催したときに作ったもののようで、スタジアム、体育館など多くの施設があります。ただ、人影はほとんどなく、閑散としていました。まだ食事まで時間があるので、射撃でもしませんかとガイドに促されて屋内射撃場に向かいました。どうもガイドが自分も遊びたかったようです。私は北京でも人民解放軍経営の射撃場でライフルや高射砲を実弾で撃ったことがありましたので、話しのネタになるかと思ってやってみました。施設はとてもきれいでしたが他の客はだれもいません。ピストルを数発撃って、後で的で使用した紙を記念にもらいました。射撃代は結構高かったですが、ガイドの分も合わせて全部払わされました。その後ゴルフ場(打ちっぱなし)の施設内にあるレストランに晩飯のために向かいました。ここも他に客はいませんでしたが、打ちっぱなしそのものは施設としては小規模ではあるものの、日本のものとそれほど大差のない雰囲気ではありました。さて、「晩飯のメニューは?」とガイドに聞くと、「カルビです」みたいな答えだったので、韓国のように食べきれないほど料理が出てくるのかと一瞬期待しましたが、ガイドが出て行ったあと、運ばれてきた料理は焼肉が10切れと野菜少々、これを岩谷産業のカセット式コンロで自分で焼いて食べるというもので、かなり期待はずれ、「これが14万円ツアーのメニュー?」とも思いましたが、当時すでに北朝鮮は食糧危機が取り沙汰されていましたので、しょうがないと思ってあきらめました。食事が終わるころになると、ガイド2人が戻ってきました。若い方のガイドは、先ほど食事を給仕してくれたレストランのウエイトレスの親しいようで、アタックをしているように見えました。ああいう体制の国でも若者はちゃんとやることはやるんだなと思って、少しほのぼのとしたものを感じました。翌日は朝早くから板門店(パンムンジョム)の軍事境界線に行くスケジュールだったので、食事後はホテルに戻ることになっていましたが、我々が「ちょっとコーヒーでも」と行ったので、ピョンヤンで最高級といわれる「高麗(コリョ)ホテル」に立ち寄りました。最上階が回転レストランになっていて、ここでコーヒーを飲みましたが、外は明かりが極めて少なくて真っ暗、他に客もいなかったので閑散としていました。コーヒー代はそんなに安いわけでもなかったですが、当然のようにガイド2名分のコーヒー代も我々が払いました。1日目なのでとりあえずおとなしくして、その後宿泊しているホテルに戻りました。部屋には盗聴器は見つけられませんでしたので、同行者と北朝鮮の悪口をためしにいろいろ話をしてみました。次の朝ちゃんと我々二人が無事でいるかちょっと不安になりましたが、うるさい冷房の音を気にしつつも、とりあえず結構疲れたのですぐ眠れた記憶があります。ではまた続きは明日・・・(以下本文とはまったく関係ありませんが、本日昼、三浦半島の三崎漁港(鮪で有名)で食べた鮪のあぶり丼です。うまかったです。)人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.08
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連続北朝鮮ネタ3日目に入ります。記憶をたどりながら書いているので、多少の間違いはお許しください。今度当時の写真が見つかったら別途アップしたいと思います。さて、飛行機は依然立ったままのスッチーさんたちとともに急上昇後、やっと水平飛行に移りました。するとようやく機内の冷房が効いてきました。ちなみにこの高麗航空のフライトは当時週2便しかなく、確か中国東方航空が別の曜日で週2便飛んでいたかと思います。この日は8月上旬平日の朝の便ですが、座席は7~8割埋まっていたぐらいでした。ピョンヤンを目的地とするフライトは北京と大連、ロシア極東のハバロフスクかウラジオストックのどちらかくらいしかなく、国際交流が極めて限定されていることが改めて明確にわかります。昔、冷戦時代はモスクワ便や東欧便もあったらしいですが、ソ連崩壊後は中国様とロシア様としか直接的行き来ができないわけです。こういう面からもこれほど閉鎖的な国は世界にないといえます。大連上空を経由するとまもなくピョンヤンのスナン(順安)空港に着きました。フライト時間は確か1時間半くらいだったと思います。心理的には遠い国ですが、距離的にはきわめて近くにあることを改めて思い知らされます。ややでこぼこの滑走路に着陸すると、周りには駐機している飛行機も少なく、確か飛べなくなった古い機体が何機か見えた記憶があります。空港やそのまわりは閑散としており田舎の空港といった感じ。ターミナルの近くに駐機するとタラップを降り、地上を歩いてビルに入ります。建物にはハングルで「ピョンヤン」、金日成の肖像画があったと思います。さて、入国手続きは別に時間もかからず、偉そうに高い位置に座った検査官がスタンプを押し、税関を通ります。ここでもし携帯電話をもっていると当時は没収されるか、特別な手続きを経て一時預かりをされてしまうことになっていて、中国のケータイは持ち込めないことになっていました。事前にそのことを聞いていましたので、この旅行には中国のケータイはもってきていませんでしたのでよかったですが、仮に知らなかったりすると相当面倒なことになっていたと思われます。荷物をピックアップすると、我々の名前を書いた紙をもった男性二人(30代半ばと20代後半くらいか)が近づいてきました。この二人が我々の道中完全同行するガイドです。我々は二人で行ったので、ガイドは一人いれば十分だと思いますが、ガイド同士で相互監視する必要があることから、この国ではこれが基本パターンのようです。二人とも日本語は若干の独特のアクセントはありますが、レベルは高く、ガイド慣れしている感がありましたが、年上の方は目つきも鋭く、何を考えているのかわからないところもありました。一方若い方は、なかなか愛想のいい兄ちゃんで、いろいろ軽口もたたいていました。とりあえずこちら側からは「お世話になります」といった感じで、北京で買ったタバコを1カートンずつ手渡しました。外に出ると、ドライバー(50代くらいのおっさん)が待っていて、全員車に乗り込みました。でも普通の乗用車なので、運転手含め5人乗るのはちょっときつく、ガイドが二人もいることは旅行者から見れば迷惑な話です。空港から市内まで30分程度だったかと思いますが、車はほとんど走っておらず、仕事に行くところなのか、黙々と歩いている人たちが道路の両端を埋めていました。これだけでもちょっと異質な世界に来たことを感じさせます。北朝鮮では、在日などの里帰りでも、日本人など外国人でも、ピョンヤンに着くとまず金日成の黄金の巨大な銅像が立っている広場に直行することが決まっています。ここの名前がしばし思い出せませんが、テレビなどでよく出てくるところです。広場では花を売っている店があって、ガイドからここで花束を買うように促され、それをもって銅像に向かいます(まだ北朝鮮の通貨を持っていなかったので、ガイドに借りたような記憶があります)。他の人たちの真似をして、一礼して花束を壇上に置き、またもう一礼して銅像から離れます。周りには「千里馬(チョルリマ)」の銅像もありました。その後ホテルに向かいます。ホテルは外人向けの「普通江(ポトンガン)ホテル」。ホテルに着く直前の道路で、ほとんど車は走っていないのに、木にぶつかって停まっている車がいました。ホテルは2人で一部屋、ツインルームでした(14万円も払ってこれかい!)。ガイドも我々の対面の部屋にチェックインしました。部屋は一応冷房が効いていましたが、音がすさまじく、これは夜簡単には眠れないと思いましたが、こんなにうるさいと部屋の盗聴はできないのではとも思いました(部屋の中をいろいろ探しましたが、盗聴器がどこにあるかはわからず)。一休みするとそろそろお昼だったので、食事をするためにガイドとともにホテルを出発しました・・・ さて、今日はここまで。ちょっと細かく書きすぎたので最後まで書こうとすると1週間くらいかかってしまいそうです。この旅行、今でも経過を鮮明に覚えていますが、書いていると細かいことも思い出してきてしまいます。適当に読み飛ばしていただければ幸いです。では明日へ続く・・・人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.07
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さて、昨日の続きで97年に北京から行った北朝鮮旅行について書きます。昔話ですいません。でもあの国はほとんど変化していないと思いますので、今もきっとこんなもんかと思います。北京駐在になったときから、機会があれば絶対行ってやろうと思っていましたが、97年8月にそのチャンスがやってきました。日本人会の会報に専門旅行社の案内がありましたので、当時の駐在の同僚といっしょに申し込みました。その同僚は当時私より10歳以上年上のおじさんでしたが、若いころ韓国でレンタカーを借りてドライブしたり、北京でも中国語がそれほどわかるわけではないのに、夜の危ない世界へひとりで突入する「冒険王」と社内では呼ばれていました。ちなみに旅行費用は3泊4日で日本円払いで14万円。ちょっと日数にしては高すぎますが、まああの国ではしょうがないと思って、すべてを旅行社にゆだねました。旅行社に直接カネを払いに行きましたが、狭くてシャビーなオフィスに日本人らしき(在日の人かも)人が2名くらいでやってました。ビザは北京の北朝鮮大使館で旅行社が手続きを行いますが、数日でとれます。パスポートにスタンプを押すのではなく、通行証のような紙がビザとして発行されます。さて、前日には会社の人たちに盛大に「送別会」をやってもらい(当時はすでに拉致疑惑が取りざたされていましたこともあり)、朝の高麗航空の便でピョンヤンに旅立ちました。北京空港では現地に着いたら迎えに来ているであろう北朝鮮人ガイドのために、二人でマイルドセブンを2カートン買いました。飛行機は中型のロシア製アントノフだったかと思いますが、乗り込もうとすると、金日成さま(の銅像)にたむける大きな花束をもった人たちが何人も乗ってきました。おおさすが北朝鮮!って感じ。行ったのは8月上旬でしたが、座席に座ると異様に暑い。座席前のポケットには小さな団扇が入れてあります。少し時間が経ってわかりましたが、地上にいるときは燃料節約のため冷房を切っているということでした。おいおい。飛んでからはちゃんと空調を入れるんだろうな、窒息させられることはないのか少々不安になりました。何分後か、ようやく離陸の準備ができたようで飛行機が動き出しました。でも周りを見ると、スッチーさんたちがまだ乗客に飴を配っています。いつ座るのか見ていると、一向に座るそぶりを見せません。そう思っている間、飛行機は最大加速度に達し、もうスッチーも座席に戻ったかと思ったらまだうろうろしています。そして飛行機は完全に離陸して急上昇しました。それでも彼らは席につかないまま。さすが将軍様の国のスッチーさんたちは高度な訓練を受けているのだと感心しました(ウソ)。やっと飛行機が離陸しましたが、まだ中国領空上の話でした。ピョンヤン到着から先は明日へ続く。小出しにして申し訳ありません。それでは明日また。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.06
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北朝鮮がまたとんでもないことをしました。ミサイル発射の意図がいまひとつ読めません。強国を相手にしたたかな対応をしているというような人もいますが、あの国は実はそんなに統制がとれた状態ではないのではないかとも思ったりします。少なくとも中国様や韓国様、ロシア様の面子をつぶしたような感じになりますので、ますます各国から見放されることになると思います。さて、話は変わりますが、私は中学生のころ、BCLと言って、海外の短波放送(ラジオ)を聴いて受信状態や番組の感想などを書いた報告書を送ると、放送局からベリカード(Verification Card)が送られてくるのですが、そのカードを収集するという趣味が一時的に流行したとき(同世代の男性であればご存知かと思います。SONYのスカイセンサーとかNATIONALのプロシードといった機種が人気でした)、初めて北朝鮮と接点をもちました。当時は1977~78年ごろですが、私はそのころすでに外国のことに関心をもっていましたので、手軽に外国の雰囲気に接することができる短波放送を毎晩のように聴いていました。そのころ、日本の周辺の国は各国が日本語放送をやっていました。その中で社会主義の国、中国、ソ連と北朝鮮は、特に電波の出力が大きかったので、夜になるとかなりよく聞こえていました。中2くらいだった私は、社会主義の意味もわからず聴いていましたが、「偉大な指導者毛沢東主席」とか「民族の太陽、偉大な首領金日成主席」などといった言葉がしょっちゅう出てくるのは違和感を感じつつも、何かひかれる部分も正直あったような気がします。これらの放送局は「受信報告書」というものを出すときに、いろいろリクエストをする、例えば語学講座のテキストがほしいとか、地図がほしいと書くと、気前よく短期間でそういうものを無料で送ってきたりしました。北朝鮮の朝鮮中央放送からは国境のない朝鮮半島のきれいな地図をもらったこともありました。拉致問題のニュースで、横田めぐみさんの話が出てくるといつも思うのですが、私がそのような地図を北朝鮮からもらっていたのが77年ごろで、横田さんが拉致されたのも77年で彼女が中1のとき、私が中2のときでした。ほとんど歳も変わらないだけでなく、私のほうは数回北朝鮮に「受信報告書」を送っていたので、私の住所などの個人情報はあの国にあったわけです。ちょっと間違えれば、自分も拉致された可能性があったのではないかと、後で考えると他人事とも思えず恐ろしい気がしています。今も拉致問題のニュースを見ると、そんなことでとても身近に感じています。さて、そのころから北朝鮮には関心を少しずつ持ち始めました。また、朝鮮半島の問題にも関心を持つようになり、高校生のときから韓国語を少しずつですが独学で始めました。その後大学卒業直前には韓国を短期間旅行し、当時(85年)はまだ緊張していた板門店へのツアーにも行きました。(このあたりのことは6月1日の日記でも少し触れています)そんなわけで世間でまだあまり注目されていない時期から北朝鮮問題には関心がありましたが、90年代後半北京に駐在していたとき、一度自分の目で見てみたいと思ってチャンスをうかがっていましたが、念願がかなって北朝鮮旅行をすることができました。長くなりましたので、北朝鮮旅行ネタは明日の日記に続く・・・人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.05
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今日はちょっと真面目に仕事上気をつけないといけない中国語について書いてみたいと思います。中国語で「協議Xie2yi4」という言葉があります。日本語の「協議」は「話し合う」「議論する」といったような意味になりますが、中国語では一部そのような意味で使われる場合もありますが、通常中国語の「協議」は日本語の「合意」という意味になります。「達到協議=合意に達する」という表現はよく出てきます。このことをよく知らない日本人が、交渉のような場で中国側が「協議書」を結びましょうと言ったりすると、レベルの低い通訳が介在した場合にそのまま「協議書」と訳してしまうので、日本側は単に「議事録の確認」程度のことだと思ってしまうケースがあります。中国語の「協議書」は英語で言えば「Agreement」という意味なので、「合意書」「協定」、場合によっては法的根拠も含む「契約」に相当するものになってしまいます。中国語の「協議」は「プロトコル」という意味にもなります。例えば「Internet Protocol(IP)=互聯網協議」のように、関係者間で「合意を経た取り決め」たことから「合意」が前提となっています。もうひとつ、「合作He2zuo4」という言葉、これも注意が必要です。日本語の「合作」は「お互いに力を合わせて作り上げる」といった感覚だと思いますが、中国語の「合作」はそんなに重いものではなく、英語にすれば「cooperation」、「協力」「提携」といったどちらかといえば軽い感覚です。中国側がよく「合作しましょう」などと言いますが、これも通訳が「合作」をそのまま訳してしまうと、真面目な日本人は中国側がコミットしてきていると思い込んで、振り回されるケースがよくあります。このブログをご覧いただいている皆様にとっては、そんなこととっくに知っていると言われるかもしれませんが、いまだに中国に幻想を抱く数多くの日本人が、このような言葉の行き違いから、泥沼にはまることも数多くあると考えます。真面目に憂いを感じつつ、また明日。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.04
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中国人は日本の蔑称として「小日本」という言葉を使います。この「小」という字は、中国人が自分の「大中華」とは反対に、「小物」という意識で言っているのだろうと思います。かつての「大日本帝国」という呼び方を意識して、それと反対の言い方を思い浮かべている人もいそうな気がしますが、そういう人は経済力や技術力など国際的な日本の地位が「大きい」ことを強く意識していることの裏返しであるような気もします。「小」という字は、「小李」「小劉」のように姓の前につけて主に年下の人を呼ぶときにも使います。日本語では軽く「ちゃん」と呼びかける言い方に近いとはいえますが、「小日本」と言った場合に「日本ちゃん」といった愛称のイメージには全くなることはないのでしょうか。もし、「日本」の「本」をとって「小日」といえば、少なくとも「日本ちゃん」みたいな感じに個人的には聞こえます。また、「小泉」「小沢」「小渕」とか日本の政治家によくある苗字を見て、中国人はどのような語感を感じるものなのか関心があります。「こいつら自分のこと『○○ちゃん』って呼んでるぜ。へっ!」などと思ったりする中国人は中にはいるのではないかと思ったりします(中国人でも電話するとき自分で「わたぁし~。小楊よ!」みたいな言い方はします)。もしかすると「小・泉純一郎」とか「小・沢一郎」などと思っている中国人も結構いるのではないかと思ったりします。まあ、中国人でも「トウ小平」とか「周小川」などという人もいますが、いくら歳をとっても「小」という字が入っていると、私はちょっとおちゃめな印象を持ってしまいます。そんなわけで、別に「小日本」と言われようとも、「ああ、愛称で言われてるのね」と考えれば、あまり腹の立つことはないかもしれないとふと思ったりしています。私の思い違いがありましたら、ぜひご指摘ください。ではまた。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.03
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今日は定例の道の駅ネタ。先週日曜日に予告したとおり、千葉県で1ヶ所未訪問だった「ちくら・潮風王国」という道の駅に行きました。これで千葉県内18ヶ所すべて制覇したことになります。ついでに房総半島南端を回りました。まずアクアライン経由で東京湾を渡ります。東京湾上に浮かぶ海ほたるPAで少々休憩。今日は風が強く、海をまたぐ橋ではハンドルをとられました。アクアラインから館山道を南下していくと、高速からも一般道からも入れる「ハイウェイオアシス」兼「道の駅」の「富楽里(ふらり)とみやま」(南房総市・旧富山町)があります。次は館山に近い「とみうら」(南房総市・旧富浦町)。ここは「枇杷倶楽部」という別名がついていて、びわの産地なわけですが、びわはもちろんのこと、びわのキャラクターグッズなどがあって結構面白いです。そんなことで、びわソフトを食べました。びわがまるごとトッピングされたソフトもあります。この道の駅の対面に「猫だPARK(にゃんだぱーく)」というのがあって、室内に放し飼いにされた猫と遊べるところがあるのですが、小心者なので中に入らずに覗いただけで出発しました。実は私猫好きです。このあと、館山駅前を経由して房総半島南端を回りました。西側の洲崎(すのさき)灯台を経て「フラワーライン」という道の両側に花が並ぶきれいな道路を通って、最南端の野島崎灯台まで行こうとしましたが、その前に想定外の道の駅の看板が見えてきました。道の駅地図やサイトにも載っていないところが出てきました。「白浜野島崎」という道の駅。でも閑散としていて、物産の販売などは全くなく、職員がひとりいるだけ。新設なのかもしれませんが、中途半端に暫定開業しているだけといった感じ。 これが房総半島最南端にある野島崎灯台(厳密にいうと最南端からはやや右上)と海岸の景色です。このあたりは砂浜がなく、岩場になっていますが、打ちつける波が風情を感じさせるところです。そして、これが千葉県で行き残していた「ちくら・潮風王国」(南房総市・旧千倉町)です。広大な敷地に海産物中心の店やレストラン、船もあります。なかなか雰囲気のいいところです。アワビが人気なので食べようかと思いましたが、高かったので鯨肉にしてしまいました。あとはおまけで道なりにふたつ訪問済のところに立ち寄りました。これは「ローズマリー公園・丸山町」(南房総市・旧丸山町)。「ローズマリー公園」という花と風車の公園に道の駅が併設されています。これは「鴨川オーシャンパーク」(鴨川市)。なかなか個性的な建物です。ここは鴨川シーワールドにほど近いところです。最後に、これは道の駅でなく、本物の駅です。小湊鉄道の養老渓谷駅。とても風情のある駅だったので写真に残したくなりました。ほとんど毎週道の駅めぐりをしているので、だいぶネタが尽きてきました。新たなテーマも今後検討したいと思っています。最後までご覧いただきありがとうございました。ではまた。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.02
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中国に限った話ではないですが、発展途上国を形容する場合に、「活気がある」とか「エネルギーに満ち溢れている」などという人が結構いますが、私は常々この表現は全くおかしいと思っています。特に中国のような国は、無秩序で混沌としているだけであって、さらに人の量が多いことがその混乱した状態に拍車をかけていることに過ぎないのに、それを「活気がある」などという表現を使うのは現状をミスリードする言い方だといつも思います。例えば、暮れのアメ横のように、人がたくさん集まり、売り子の声がひびきわたるような賑やかな状況が「活気がある」というのではないでしょうか。そういう人はまるで日本は全然活気がないみたいな前提で言っているケースがよくあると思います(まあ地方の駅前なんかはシャッター通りになっていて本当に活気はありませんが)。単に交通マナーが悪く、クラクションが鳴り響き、縦横無尽に多くの人や車が行きかうだけの状況は、「混乱している」というのが普通だと思うんですけどね。日本を含む秩序正しい先進国の中にも、混沌とした途上国でも、市場や露天の食堂が集まるところなど、本来の意味で「活気がある」ところがたくさんあります。そういうところと単に混乱しているところを同列に表現する人はぜひちゃんと現実を見ていただきたいものだと思ったりします。中国ネタが絡むとどうも説教しているようになるこのごろです。文字通りおやじ化しているかもしれません。申し訳ありません。では皆さま、よい日曜日を。人気blogランキングへ中国BLOGGER人気ランキングよろしくお願いします。
2006.07.01
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