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子どもの脳は、不思議なコンピューター。ソフトウェアが、ハードをつくっていく。情報によって、脳ミソの在り方が変わっていくんだ。 ドンドン変わる可塑性とともに、非可逆な運命ももっている。これは、恐ろしいことです。 だから、幼い時に、どんな情報やソフトに触れるかどの部分を刺激するか、これは、とってもとっても重要なんだ。だから、教育の緊張感はここにある。 バーチャルな刺激に慣れると、脳ミソは、バーチャルに適応した脳ミソになる。当然です。バーチャルに対応した身体感覚をもちます。リアルとバーチャルで、バーチャルが心地よければ、当然、そこに入りこむ。そして、出てこれなくなる。 知識は感情と一緒になって、はじめて理解されると言う。しかし、感情は、脳ミソでは、「理解」されるが、「感じる」ことはできないそうだ。感情を「感じる」のは、身体のリアルな働きなのだそうな。 リアルな身体感覚を失うと感情を頭では理解しても、感じることはできなくなる。それは、知識の本当の理解への大きな障害だ。 子どもとIT環境との接し方は、食品添加物への注意以上の警戒が必要のようです。、
2010.05.31
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今、高校生のために、確率の授業の準備をしているところで思わず、また書きだしています。確率論は、ギャンブルから生まれたと言われています。確かにそうですが、これは、ギャンブラーの学問なんでしょうか?だとしたら、真面目な?諸君にはご縁がないのか?(ちなみに、先日仕分け人に、消されそうになった宝くじですが、サマージャンボの場合計算上、勝率は、10枚買った時が、10%100枚買ったときが、0.4%と、何と、枚数多く、勝負した方が、極端に下がります!) いやいや、一攫千金の世界じゃなく最も確実な世界だと思われている科学理論の根底にこそ、確率論がしっかり存在しているのです。いや、科学体系の生命線そのものなのです。 量子力学を持ち出さなくても、人間は、過去に起こったことが、未来にも同様に起こるだろうということを前提に物事を認識し、予測して行動します。(アインシュタインは、「神様はサイコロ遊びはしない」と言いましたがアインシュタインの信念を支持する証拠は挙がっていません) 植物も動物も、冬の後には、春が来るという予測の上に種を準備したり、孵化に備えるのです。でも、本当に、春は100%来るのか?そうじゃないわけです。 また、「うちの母ちゃんは、こういう人だ」、という認識は過去の行動を観察して、確率的に予測しているだけであって、明日の母ちゃんが同じ行動をとるとは、限りません。 科学理論も、結局は、過去に起こった諸事象を整理して、そのおおよその特性や傾向を理論化したものでしかありません。 それが未来に対して意味をもつためには、それまでの諸条件や諸環境が不変であるという前提が必要なのです。 確率の問題で出されるサイコロですが、あれも、完璧に1/6の確率の出目なんて、あるわけがありません。人間の目には、ほぼ立方体であるように見えるだけで、面積にの比を計算したら、1/100レベルでズレていてもそのゆがみを見抜ける人はほとんどいないそうです。 そして、前提の諸環境は、間違いなく、変化しています。 現実社会に生きる私たちは、このことを忘れてはいけません。どんなに精緻な学問としての確率論があっても、確率論が現実の変化に先立つものではなく現実の事象の変化の方こそが、確率論に先立つということを。 だから、確率論に支えられた科学の効用は、常に一定の限界が伴うのに、それが、万能の神として、科学教として崇められてしまっています。 さらに、科学や数学の基礎概念も、それが、基礎になればなるほど、あいまいなのです。1という概念、1+1=2ということも直線とは何かという定義もトートロジー つまり 同語反復でしかなくなります。「私は私であり、君は君である」のように、等値を示す語によって同じ言葉を繰り返しているに過ぎないのです。当然、論理学的には、無意味なものですが、表現技法としては、人に妙に納得感を起こさせる魔法があります。 それでも、現代人は、この科学の果実をいただいて発展しているわけです。 じゃあ、私たちは、この不確かで、仮説だらけの概念の洪水の中でどう生きていったらいいのだろう?それこそが、教育の目的の一つでしょう。 雑多な知識の中で、自分を見失わずに自分で自分を創り上げていく力なのです。 目指すは、主体性をもつ人間だと思います。
2010.05.30
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イメージ能力を育てることが大切なことを森の声さんが連続して書いておられますが、理数科学の理論も、絵画や詩と本質的には同じなのです。 ある事象の様態の一表現にすぎないのです。(だから、完全なものでも、絶対なものでもないのです!) たとえば、一本の樹木を表現しようとする場合、遺伝子レベルで表現するか細胞レベルで表現するか根・幹・葉レベルで表現するかそれとも、樹木まるごとを視覚的な映像で表現するかそれらによって、全然変わってきますよね。そして、それらのどらが正しく、どれが間違っているというものでもありません。 そもそも、一本の木とは何か?認識レベルを、もし、原子レベル、素粒子レベルにしたら、たちまち、その境界線は消滅してしまいます。 きっと、仏教の言う、無や空の世界になっていまうでしょう。 科学の本質は、客観性にあると信じている人にとって、近年の量子論や、認識論の言う、人間の主観に無関係なものはないという考えは、ずいぶん違和感を感じるでしょう。 しかし、何を情報と見るか、その要素の取捨選択そのもが人間の意識の働きなのです。だから、人間の認識様態と関わりのない客観的な事実などというものはもともと存在しないのです。 現代科学の研究者が認識論の再評価をしているというのも、科学も、人間の外の世界を見ているつもりが、結局、人間そのものの在り方を、科学は浮き彫りにしているということに、ぶつかってしまうからなのです。 だから、芸術の道を歩もうが、科学の道を歩もうが、やっぱり感受性なのです。数式計算だけ強ければいいんじゃないのです。豊かなイメージ能力こそ、世の保護者は関心をもっともっと持つべきだと思います。
2010.05.30
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パソコンなど、ひとつのことに没頭すると私は、時間をすぐに忘れてしまいます。昨日も、ある打ち合わせを、危なくすっぽかすところでした。これって、ある意味、ひとつのボケじゃないだろうかって、思う時があります。 逆に、時間に追われ、実験の準備などで、ドタバタ家中を走り回っているとき意外に素敵なアイデアが浮かんできて、画期的な進歩を遂げることがあります。 もしかして、体を動かすことと脳ミソとは、とっても関係が深いんじゃないか、と思ってましたら、ありました。「ランニングで頭がよくなる」京大名誉教授 久保田競著 内容は、いかに、気持ちの良いリズミカルな運動が脳をはじめ、全身の若返りに良いかという科学的な解説です。 健康に良いことは、わかりきっているのですが、脳ミソにまで効き目がバツグンだということは、意外に知られていないのではないでしょうか? 子どもたちは、学校で体育をしていますんで、ある程度大丈夫でしょう。問題は大人です。 ダイエットのためばかりでなく、ボケ防止のためにも、体を動かすぞ。今、足踏みをしながら、パソコンを打っています。 ところで、PTA行事ってのは、見事に同じ日を狙うもんですね。予定の入ってない日もいっぱいあるのですが、希望日がぶつかって、残念、ということが続いています。科学実験教室を検討されているPTA・子ども会さんは、月日だけでも、早めにツバをつけておいてください。キャンセルもOKですから、まずは、スケジュールです。
2010.05.29
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「目に見えないこと」を扱うのが科学です。よく、科学って、見えることや、手で確かめられることだけを信じることだと思い込んでおられる方がありますが、全然違うんですよ。科学とイメージについて、森の声さんが、とってもいい言葉を今日のブログで書いておられました。イメージ力を高めることが、思考能力に直結しているのです。決して、知識の量だと勘違いしてはいけません。 ただ、どんなイメージをもつのか、別の言葉で、どんな思考回路をもっているのか、はとっても重要です。 同じ空想でも、破壊的なことばかりにつながる思考回路をもつ子どもも多いのです。 私は幼児教育者でも何でもありませんが、ご家庭での、ご家族のイメージが何と言っても重要でしょう。 そういう意味で、保護者の私たちが、どんなイメージをもって生活をしているか常にチェックしたいものです。 もちろん、子どもには、持って生まれた性格や気質がありますから親のコピーにはなりません。 でも、穏やかで、にこやかな性格に育って欲しければ、そういうイメージで親が生活するのが最も自然だというのは、当然です。 特に、見えない心の部分を大切にする空気を家庭内に充満させたいものです。
2010.05.28
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教育の本質は、ある意味、暗示だと言っても間違いではないでしょう。1973年の昔ですが、米国の心理学者、デビッド・ローゼンハンは、米国の科学誌『サイエンス』に論文でステレオタイプな考えが、"ありもしない事実"を作り出すプロセスを明らかにしました。 その精神科医療の実態の研究の中で「狂気というラベルは狂気を生み出す。脳の状態が診断されるのではなく、診断が脳を作る。脳が私たちを作るのではなく、私たちが脳を作る。私たちは恐らく、この肉体につけられたラベルによって作られている」と結論づけています。 これは、教育にモロに当てはまりますよね。子どもには、前向きの言葉がけ、つまり、前向きの暗示が大事なことは、基本中の基本ですね。 で、そのために肝心なことは、大人側の自己暗示です。つまり、自分のステレオタイプなものの見方です。大人側が、自分がどんな暗示にかかっているのか、その心の枠に気づく必要があります。しかし、そこが自己暗示、それが当然と思っているのだからなかなか気づきにくい。自分だけでは持っている「思考の枠」に気付かないことがほとんどです。そして、ますます結果が出ないという悪循環に陥ってしまいます。 うちの子はどうしてこうなんだろう、って思う時こそ親や教師が持っている「思考の枠」をはずす必要があるのです。それには、他人から、突っ込みをいれてもらうのが一番です。他人って?専門家のこともあるでしょうし。信頼できる友人の場合もあるでしょう。本当は、本当の意味の科学教室で、自由に何でもアリで議論すると、頭の柔軟体操になると思うのですがそういう手間をとらなくても、簡単にできる、突っ込みがあります。それは、自分です。自分の中で、ボケと突っ込みを繰り返すのです。自分の心の中だから、カンタンだと思われますが、それがどうして、結構、抵抗感があるものです。 やっぱり、自分の慣れ親しんだモノの見方を批判するって、苦しいことなのです。でも、他人に言われるよりは、まだ良いという面はありますからお試しください。 子どもに否定的な言葉を使いがちな人は、ぜひ、ひとり漫才を心の中でして、前向きな暗示を発せられるようにしましょう。 ここで、「最高の暗示は何か」、って考えたら、すぐに浮かんでくるのは、親が楽しく活き活きと生きている姿です。楽しく仕事をして、生活を充実させている親を見て、将来を絶望する子どもはいません。 子どもを親の後継ぎにしたかったら、いかにその仕事がすばらしいかを、常に表現していなければならないのは、言うまでもない常識ですよね。それなのに、溜息ばかりついて、「儲からない」「疲れた」を繰り返す親の何と多いこと。 暗示とは、説得ではありません。物事の判断の前提条件を、こちらの意図した方向に変えてしまうことです。「そりゃ、当然でしょ」と。だから、「君が素晴らしいのは、当然なんだ」「疑問をもつことすらあり得ない」と前提条件を書きなおすのです。 そして、この世の真実なんて、星の数より多いのです。だったら…ウソつきになれっていうんじゃないのです。 私も今日の自己暗示をしっかり確認してさあ、出発。
2010.05.27
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私がよく使う力学の問題があります。仮説実験授業の「ばねと力」の第3章の問題1です。上図のように、バネにひもをつなぎ、その両端に、重さ100gのおもりをつりさげます。すると、5センチあったバネが、10センチ伸びて、15センチになりました。次に、下図のように、一方のおもりをはずして、ひもを直接、棒にむすびつけることにします。ばねは、どのくらいのびるでしょう?予想してみてください。 予想ア 前のときの半分くらいのびる。イ 前のときと同じくらいのびる。ウ 前のときの2倍くらいのびる。 どれだと思われますか? 「え?アに決まってるじゃない?」「力学の法則から言って イだろう。」「力学の法則を使って、こう考えると、意外にウなんだよ。」 って、結構意見がわかれるものです。そして、他人の意見を聞くことによって、ずいぶん迷いが生じます。 これが、一人だけで、この問題に直面してもそれほどインパクトはありません。自分一人だけだと、「これに決まってるじゃん。」って問題だとも思わないものです。 ところが、選択肢があることによって、「え? そういう考え方もあるの?」って、はじめて気付かされます。 いかに固定観念が恐ろしいかを思い知るところです。 人間の脳ミソは、使わなければ、どんどん退化というか消滅してしまうのですが、特に、思春期になった子ども達の神経回路は、植木屋さんが、、剪定作業をするように、使われないシナプスの枝が、バチバチ切られて失われていきます。 無限の可能性の子どもの脳細胞を、大人の安定期まで、いかに残してやるかが、大きな大きなテーマのはずです。 ところが、そのためには、「勉強すればいい」、というものじゃないのです。神経回路は、ものを覚えたり、解法を条件反射で体に身につけたりするだけでは、ほとんど使われないのです。逆に特定の回路だけが強く使われますと、その周辺は、かえって、剪定されて、消えてしまうのです。これでは、大人になるまで、子ども達は、頭の固い「アホー」への道を突き進むことになります。私たち大人のアタマがいかに固いかを、思い起こしましょう。子どもたちを同じ運命に合わせたくはないですよね。 愛する子どもたちには、いろんな神経回路をいっぱい刺激してやりたい。そのためには、自分の常識を超える選択肢で、思考の枠を超えさせなくては。 頭を使うっていうのは、覚えることじゃないのです。それは、単に情報をたんすに整理してしまうことです。 そうじゃなく、別のルート、複数の考え方を豊かに思い浮かべられ、そして、その上で自分の価値観で選択することなのです。常に新しい航路を開拓する大航海時代の冒険者になることなのです。 ところで、先の答えですか?簡単に答えを知ってしまうと、脳ミソに、印象に残らないですね。ここは、イジワル爺さんになって、違和感を味わい続けていただきましょう。
2010.05.26
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とにかく本を読んだり、問題集に取り組んでいると安心する親が多いです。試験間際なんかのときは、なおさら、「とにかく暗記!暗記!」、となりますね。 でも、私は、グッとこらえさせます。これは、科学実験教室のときと同じ考え方なのですが、とにかく、すぐに実験をしたり、先に結論を教えちゃうと、全然インパクトが無いし、記憶の定着率も悪いのです。何より、オモシロクな~い。 なぜなら、人間の認識力というのは、問題意識があるところに、ひっかかってくるものだからです。それが無いところで、いくらインプットしても、ザルなのです。しかも、その問題意識にもとづく仮説をもてれば、なおさら結構。 だから、私は、毎日の勉強も、ワクワク・ドキドキの「ミニ実験会場」にするべきだと考えています。 そもそも 日本のほとんどの勉強は、インプットです。しかし、本当に定着させるには、アウトプットが必要だ、とはよく言われていることですね。 たしかに、覚えたことを、自分の言葉や表現方法でアウトプットすると、とっても見晴らしがよくなり、すっきりします。 しかし、私はそれを、もっと前の段階から、使うことをオススメします。 今日は、何をどんな風に学んだらいいのかを、勉強する前に、仮説を立てさせるのです。また、これから学ぶところは、こんなことなんじゃないかなあ、とタイトルなどを、チラっと見ただけで、予想を立てるのです。それを、絵や図解で表現しちゃうのです。 ほんの数分、勉強する前に、内容を予想するだけで、または、ここがこのように、難しくって、理解できないんじゃないか、って予想するだけで、勉強が、自分の予想の検証の場になるのです。 私はB6情報カードを使わせています。それの上のところに、今日の「はてな」つまり、テーマを書かせます。疑問形にします。 「現在完了とは、どんなことを表す文章か?」とテーマを書いて、その下に、思いつく予想を書かせるのです。 実は、まさに今、私のために書いていたのですがそれは「A子さんがまだ、理解できなく、ひっかかっている確率の概念・問題パターンとは何か」です。それの予想を下に図解するのです。そうすると、私にとって、授業はひとつの実験になります。 生徒も、もちろん 集中力が違ってきます。当たっては、喜び、違っては、悔しさと発見があります。 また、人間の脳ミソの集中力は20分だそうですから、20分以内で、中身を切り替えられるように、テーマを区切っています。 勉強にも限界効用低減の法則があります。この理屈から言っても、いろんな学習を並行してすすめると限界効用均等の法則を使え、最大の効果を得られると思うのです。 こんな風に楽しんでおります。効果が出てる?もちろん!社会が虫唾が走るくらい嫌いで苦手な子が、70点以上取れるようになってきましたよ。
2010.05.25
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昨日、ある事情から、プロのカメラマンに写真を「激写」してもらいました。「もっと、笑って」「証明写真になってるよ」「ひきつってるよ」「固い・固いねえ」「眉毛があがってるよ」もう、ダメだしの連続。私は笑顔は自信があったのです。自分では、いつも笑ってるつもりだったのです。しかし、その笑いの中に、いかに緊張が含まれていたかを初めて思い知りました。 実は、私は、とてつもない緊張人間です。人に固定観念をはずす重要さを話していながら、「真面目人間」「優等生的人間」の典型であると思います。(自分で言うのも変ですね)だからこそ、その苦しさと弊害が身にしみ、それを打破することに、異常に情熱を燃やすんだと思います。(あっ、人は私をマジメと見ないでしょう。どこが~??ですね。でも本人は、<突拍子もないことに対して>、マジメなのです。) 話が、それました。どうして、緊張するんだろう?緊張して良いことなど、ほとんどないのに。 それは、過去の失敗や嫌の思いをしっかり受け止めているからだと思います。しっかり「学習」しちゃっているのです。 人間の能力の発揮を阻害しているもの。それは、怖れですね。ほとんどが人の目の怖れ。 私も小さい時は、もっと良い笑顔をしていたと思うのです。そして、本当に、いつもニコニコだったのです。ところが、学校の先生から、怒られたんです。「笑うな!」「ニタニタするな!」怖い先輩からも、怒られた。「歯を見せるな!」歯を見せるたびに、しごかれた。 人間は、イヤな思いって、強烈に学習しちゃいますね。そして、思考回路に、決定的なバイパスを作っちゃう。もっと悪いことに、強烈なバイパスのそばの通路は、みなリストラ削除されちゃう。 でも、さらに言えば、「良いことを」、学習するのも、怖いことです。一度の成功がその人を縛ってしまうことは少なからずあります。昔の成功パターンをひきづって、ついに破滅してしまうのは、大日本帝国陸海軍に限らず、至るところに見受けられます。 逆から言えば、天才って、学習能力の無い人なのかも!!! 世はこぞって、学習能力を向上させようとするけれど、嫌なことにしろ、良いことにしと、テストに出ることにしろ、強烈に覚えてしまうことは、とっても危険なことです。覚えない学習をさせなければ。 なぜなら、人間の知覚、知識、それらの元となる概念は、とっても限られた、いびつなものであるからです。そういう運命なのです。だから、それにとらわれると、いいことは絶対にないのです。 でも、覚えない学習って?私のイメージではですが、それは、いろんな経験を自分の体の中に入れちゃわないことです。おもちゃの道具として、手にとるだけで、いつでも別のおもちゃに取り換えられるようにしておくことです。いつでも分解して組み立て直せるようにしておくことです。 天才は大器晩成とは良くいったものだと思います。小さいとき学習能力の高い子はすぐに限界にぶつかるというのは、まさに、学習にこそ原因があったのじゃないだろうか? って、つらつら思って帰ってきました。
2010.05.24
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昨日の「龍馬伝 」観ました?私も、龍馬マニアの一人です。私の塾生にも、ほとんど「お~い龍馬」を読ませている。 もちろん、本当に史実かどうかはわからない。龍馬伝も、新しい角度から見せてくれているし、また、明らかに疑問の演出もある。だから、あくまで、本物の半平太がどうであったかではなく、演出上、描かれている武市半平太についてですが、彼の悲劇は、日本の教育と重なって見えて仕方がなかった。どうして、彼は、現実に柔軟に対応できなかったのだろうか? 私は、教育とは、新しい思考回路を柔軟につなぎ変える訓練だと思っている。一つのものの見方を、生涯変わらないように、固定させることではない。 ところで、日本の教育は、「ならぬことはならぬものです。」と絶対に変わらぬ思考回路を徹底的に埋め込むことをモットーとしてきた。そして、そう固定化された生徒を優等生と持ち上げてきた。 現代でも、「藩主の命は絶対」という教育こそないけれど、試験問題は絶対という固定化教育がなされているんじゃないでしょうか? 今、一生懸命、子どもを教育している努力が第二・第三の半平太を生んでやしないでしょうか? 年とともに、私のアタマも、固くなってきていることを痛感し、もっと頭の柔軟体操を!と誓っているところです。
2010.05.24
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どうして、教科書の問題を解いて、ワクワクしないのだろう?「勉強は、苦虫をつぶしたような顔をして、我慢して覚えるもんだろう」という常識を持っている人なら、違和感がないと思いますが、面白くて、思わず徹夜してしまうくらいの本が教科書であっては、何かまずいのだろうか? それとも、この世界そのものが、つまらない、我慢して生きていく筋合いのものなんだろうか? そうじゃないだろう。たとえ、つまらない世の中でも、いや、つまらない世の中だからこそ、ワクワクして生きる切り口を示してくれるのが教育ってもんじゃないんだろうか? もちろん、人によって、ワクワクするポイントは違うだろう。だからこそ、どんな問題が解くに値する問題か広い見地から研究する必要があるはずです。え?文科省の学習指導要領を作成するにあたって専門家が研究している?? 本当にそう思いますか?どうして、このテーマがこの順番に出ているのか根拠がついていますか?議論の筋道が明示されていますか?私にはどう考えても、それまでの慣例を踏襲したものとしか思えません。各方面の分野の権威の顔を立てて、あれものっけましょう、これも出しておかなければ、って顔見せ興行になってやしないでしょうか? たとえば、科学の教科書をつくるのなら、科学者が科学をこれから、どう展開するのか、という展望がなくてはなりません。それは、科学の歴史をふまえ、社会との関わりあいにおいて、一般市民は、どういうものの見方をしていったらいいのかそこの哲学がなければ、学習指導要領でございますって言えないはずです。実は、こここそが一番大事なところであって、そこを先生達に十分説明していれば、授業のもっていきかた、テストの作り方も変わってくるのです。 そして、きちっと踏まえた、指導要領が子どもたちをワクワクさせないはずがありません。その意味で、もう一度、教科書を見てみて、これって、本当に学ぶに値するのだろうか?って思いませんか?もっと、もっと、ワクワクして、興奮しながら解く問題であってもいいんじゃないだろうか? 中学1年の理科の最初が、どうして花のめしべ、おしべなのだろう?これを見て、発見に感激するだろうか?物事は最初が肝心です。最初のインパクトで、全体が変わるのです。たとえ、花の構造でも、せめて、どうして、それが人類にとって問題なのかをスリルとサスペンスと未来展望において展開できないんだろうか? それより、何より、最初なんだから、どうして、ガツーンと一発いけないんだろう?たとえば、携帯電話の電波の性質なんかどうだろう?どうすると通信できなくなるとか。 いや、または、世界観を変えてやるのも効果的だ。原子論や素粒子論だっていいじゃないか? 子どもたちにとって、「知」とは、大人のように、役に立つ雑学を得るということではない。テストで点数を取れる知識を記憶してもそれは決して「知る」にはならないことは、子ども達の本能が言っているはずだ。「知る」ということは、自分の世界認識を変えてしまう知ってしまったら、もう後戻りできないある意味、致命的な体験であり、いわば、取り返しのつかないものでさえあるんだ。 こういう授業を繰り返していれば、授業に出られないのが、惜しくてたまらないはずだ。 私は、特に誰を非難しようと言っているのではありません。まだ、誰も真剣に考えていないなら、これから、研究すればいいと言いたいのです。問題なのは、考えていないのに、こうに決まっているとわかってないのに、わかったふりをすることです。 だって、教師は学習指導要領から逸脱できないんだもん。学校の枠組みから外れられないんだもん。先生も公務員、お役人なんだもん。 たしかにそうです。しかし、客観的な立場はそうであっても、主観的な生き方は、別でしょう。主観的には、または、主体的には、学校や、文科省は、道具であるべきです。それが、主体性のある大人としての立場です。 だったら、研究しましょう。解くに値する問題を!ワクワク教科書を
2010.05.22
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教育界には、いろんな「べき論」がいっぱいあります。受験勉強より、こっちの方が大切だ。いや、学習指導要領が大切だやっぱりゆとりが大切だこころの授業が大切規律・伝統文化が大切…… でも、今まで、本当に「べき論」で世の中は動いてきただろうか?確かに、お上からの指導は、いつも「べき論」でした。しかし、庶民からの運動は、それではとっても難しいように思います。 まさか、私たちの運動が、こういう教育をすれば、儲かるという利益誘導のインセンティブを前面にもってくることはできません。では? 私は、教育も文化の一つの形体だとすれば、歴史的に庶民の文化が広まっていった経過をみれば、ヒントがつかめると思うのです。 出雲阿国にしろ、歌舞伎にしろ、漫画、アニメ日本の「カワイイ」文化も、すべては、楽しくて楽しくて、夢中になっちゃって上から、ヤメロと言われても「こんなに楽しいの止められません。」としぶとく広がっていったものです。 新しい教育も、これと同じ発展を目指せばいいんじゃないでしょうか?そうです。圧倒的な楽しさを提供するのです。楽しくなくては、学問じゃない、と。 そうすれば、紆余曲折はあるでしょうが、必ず勝利は、来ると信じます。 文科省、教育委員会、校長、主任、といろんな立場がいるでしょう。いろんな保護者がいるでしょう。また、受験対策、そして、学校経営と矛盾がいっぱいです。しかし、それらを遙かに、乗り越えるのが、楽しさです。圧倒的な楽しさを提供しちゃうのです。気づかせるのです。そこまで、到達するまで、満足しちゃいけないのです。徹底追及です。
2010.05.21
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方程式と聞いただけで、「ごめんなさい」という人も多いです。逆に、方程式の問題なら、お客さんだ、という人もいるでしょう。また、数学以外にも、科学の方程式があります。また、社会科や、経済学にもありますね。スポーツの世界でも、「フルタの方程式」みたいな勝利の方程式もあります。 でも、学校で、この方程式というものの本質の楽しさをどのくらい伝えているだろうか?って、ときどき疑問し、私自身、反省しています。 方程式は、ご存じの通り、等号「=」で結ばれています。左辺と右辺が同じということです。 簡単に言うと、「AはBである」ということです。だけれども、そもそも 「A=B」つまり「AはBである」というのは一体どういうことなのでしょう?学校で、方程式の問題が出されると、「等しいから等しいんだ」ということになるんですが、何をもって、AとBが等しい、同じなんだ、と言ってるんだろう?この世の中で、「等しいものは等しい」と言ったって何にもなりません。「リンゴ1個は、リンゴ1個と等しい」と言ったって、「だから?」と言われるだけです。意味がある方程式は、「リンゴ1個はミカン2個と等しい」と一見違うものを結びつけなければ、意味がないのです。そもそも、世の中に完全に同じものなんてあるでしょうか?リンゴ1個だって、あのリンゴと、このリンゴは違いますよね。同じ値段をつけて、本当に良いのかどうかわからない。 結局、人間は、混沌としている世の中のものの中で、抽象的な価値を勝手に決めて、その勝手な価値観の中では、一見違うものが同じだと言えるよと、独断しているわけです。とにかく、右辺と左辺は違うから意味があるのです。一見、結びつきそうもないものを、エイヤっと、結びつけるところに驚きと面白さがあるわけです。 昔、お弁当の時間に、自分のおかずと、友達のお菓子を交換したことがあるでしょう?これは、立派な方程式なのです。子どもたちが、熱中しているカード交換、あれもすんごい方程式が子どもたちの中で渦巻いています。そんなの思いつきで、方程式と言えるもんじゃないとおっしゃるかもしれません。 どんなに当たり前だと思われる方程式だって、そこには、決めつけがあります。たとえば、入学試験は、5教科の点数を足してその総点が高い人から合格する仕組みですが、英語と数学の点数って、本当に、足し算ができるのでしょうか?英語の能力と、数学の能力って、本来、関係ないでしょう? マルクスの資本論の中の、大きな議論は、「なぜ、ミカン10個と、リンゴ5個は等しいか」ということなんです。これを延々と論じているわけです。 もっと、教科書で誰でも習う、ニュートンの第二法則「f=ma」だって学生は、「これは当たり前なのだからこれを使って計算しなさい、」って感じで覚えこまされますが、本当に力は運動に転化するの?本当に運動が力に転化するの?しかも、それを等しいと置けるの? これは、大問題なんです。ニュートン自身さえ、この方程式は書けなかったのですから。 難しいことは置いといて、人間がつくる意味ある方程式には、どこかに、飛躍した決めつけがあります。そして、この決めつけ「こそ」が、意味であり、価値をもっているのです。 (話はちょっと深入りしますが、)そもそも、「言葉」、そのものが、どこまで行っても客観的な根拠をもっていないのですから。これは、最近、本屋で頻繁にお目にかかっている言語哲学者であるウィトゲンシュタインの言わんとしているところでもあるでしょう。 (もとに戻って、)ですから、方程式の楽しみは「違うものが同じなんだ、」また、「同じものが、違うんだ」という新しいものの見方を遊ぶことなのです。 さらに、私が言いたいのは、私たちの物事の判断の裏には、無意識にしてしまっている、ある仮定や前提があるということです。それを浮き上がらせてくれるのが、方程式でもあるのです。書いて見て、はじめて見えてくるのです。 私たちは、よく、「こうすべきだ」と言います。この「べき」の裏には、必ず仮説があります。それも、限られた根拠に基づいた、とっても不安定な。それを意識するトレーニングが上にたつ人こそ、必要です。 私は、科学や数学を学ぶ意義の大きなものは、自分の思考を自由にすることだと思います。人間は、自分の思考の前提条件を意識することができてはじめて、自由を得るのですから。さあ、今日も、新しい方程式を見つけるぞ!
2010.05.21
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お陰さまで、今年も、多くの団体様から、科学教室などの(社会科の授業もしてますので)依頼をいただいております。本当にありがとうございます。 その都度、気にされるのが、講師料ですね。これを明記していないのは、不親切だと、ご指摘を受けました。 ズバリ申し上げます。講師料は、あなたが決めてください。呼んでいただいた団体様が、このくらいの価値だろう、と考えてくださればそれで結構です! 最近、料金はお客が決めるというレストランがテレビに出ていましたが、正に、アレです。 「こんなつまんないもの、一円も払いたくない」、となれば、それで結構です。逆に、100万円でも安いと思っていただければいくらでも、喜んでいただきます。 また、100万円払いたいのでけれど、予算が5千円しかない、という時。それもOKです。その5千円がその団体の全財産でしたら、5千万円払っていただいたことに匹敵します。さらに、「予算が全然無い!」立場上、お金のやりとりができない学校の先生など。ウェルカムです! そうですね、私が見る視点はというと、その団体の予算規模を分母にした私の講師料の割合なんですね。これを、私は気持ち指数と呼んでいます。小さい学校やクラスの場合、たとえば、2~3人しかいない分校の場合予算規模の2~10倍を工面していただいている場合があります。これは、気持ち指数200~1000で私は最高に燃えに燃えます。(間違って萌えると言いそうになりました)逆に、何十万円も予算がある団体で、千円単位で値切りの交渉を受ける場合があります。一気にモチベーションが下がります。 本当に、これが本音です。でも、これじゃ、かえって不親切だ、という声も聞こえます。「わかりました。で、いくらなんですか?」と、やっぱり聞かれます。ここで、押し問答をしても、仕方が無いので、いやいやながら、ですが、一応申し上げます。「平均的には、一万円です。」でも、これじゃ、おもしろくないじゃないですか!! 私は慾張りなのです。金額にまつわる気持ちのドラマが欲しいのです。金額は、ドラマをゲットするためのツールなのですから。 ある団体の事務局長さんとの話。「6千円の予算しかないのですが、1万円出すと、どのくらい面白いものになるんでしょうか?」ガッカリです。ま、波長が違うんだよな、と割り切るしかないと覚悟をして話します。 私は、ニッコリ。「全く同じです。同じ面白さです。私は予算に関係なく、どんな時でも全力で務めさせていただきます。」でも、心の中は「モチベーション下がるなあ。私のモチベーションこそが命なのに、話のもっていきかたが、ヘタだなあ。」 ※ただし、当たり前ですが、材料費と交通費の実費だけは、お願いしますね。これは、事前に打ち合わせの上、間違いのないように計算させていただきます。じゃあ、きっと材料費がいっぱいかかるのか?いえ、これも、0円からです。その辺の石ころや、水だけでも、2時間楽しめます。かえって、お金をいっぱい使うと、ノーミソを使わなくなるような気がします。それは、私にとっても、参加者にとってもですが。 実は、科学実験で必要な道具は、たった一つ。ノーミソだけなんです。 でも、そんなこと言ったって、何か作りたい、触りたい。普通じゃないものに触れたい。おみやげをもって帰りたい。何か食べたい。となるのも人情です。だいたい、お一人、100円から500円というところでしょうか。それで十分です。 それよりも、もっともっと大切なこと。保護者や大人の方々が、楽しみにしてくれていることです。これが、子どもにも必ず伝わります。当然、大人も参加してもらいたいのです。 子どもが実験ををしている間、大人は別室で会議だっていうこともたま~にありますが、正直、次回から、来たくありません!金額の問題じゃありません。(でも、金額次第じゃ、コロっと転びます) 逆に、保護者の方々が、ノリノリで準備をすすめていただく場合もあります。今、私が使っている魔法学校のマント。これも、実は、ある保護者の方に、作ってもらったものです。また、帽子も、児童館の先生の作品です。さらに、今使っている電子レンジ。これは、実験でぶっ壊してしまった私を可哀そうに思われて、不要なレンジを一台寄贈していただいた、ありがたいものです。 このようなありがたい「思い」で私は育てられてきております。続けられております。 結論。お金は心配することないです。どうか、じゃんじゃん呼んでくださ~い。<(_ _)>
2010.05.20
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先日、非ユークリッド幾何学のことを書きましたが、たった一つの公理を変更しただけで、無矛盾の新しい数学ができてしまうわけです。 相対性理論も、光速度不変という新しい公理を入れることによって、ニュートンさんを超える新しいワンダーランドを描きだしています。 数学や科学は、公理からスタートします。僕たちの認識もそうでしょう。そして、この公理そのものの正しさというのは、それから作られた理論体系が、いかに無矛盾で、完璧、ビューティフルでもそれ自体で証明することはできないのです。 一時、私は、宗教にはまっていたのですが、ま、学生時代なのですが、当時、自信満々の若造はその宗教の理論の矛盾を突けば、簡単に論破できる、と、高を括っていたんですね。でも、予想外に欠点を突けない。「う~ん、参った」となってしまったのです。それは、「神は存在する」、という公理を土台に議論したからです。 そもそも、宗教とは、それぞれの「神」や「仏」などの存在とその性質を「公理」としてそれから構築されたきれいな世界観なんですから、その中では、無矛盾なんですね。だから、その土俵の中で、議論しても勝負にならないわけです。 よく、理系の優秀な科学者が、宗教にはまるというのもその理論体系に、溺れてしまうのだと思います。 だから、いかに反社会的な宗教であってもその理論体系そのものに反論したのでは、ムダなんです。そうじゃなく、その土台となっている公理そのものをまな板にのせなくてはいけない。 でも、公理というもの自体が、そもそも証明不可能な人間が直感的に選択する、いわば、ミニ宗教みたいなものです。信仰です。その公理を受け入れるかどうか、は、全く個人的なものと言えるのです。だから、理屈でその公理が間違っているとは、なかなか説得できません。 これを、不安なことだと考えますか? 私は「だったら」、と、勝手に都合よく考えてしまいます。「黒猫も、白猫もネズミを捕るネコは良い猫だ。」私が生きていくのに、便利な、とっても気分の良い結果をもたらす「公理」を、自分で設定してもいいじゃないか?と。 どう思います?たとえば、「今、目の前に起きていること、過去におきたこと、これから起きること、すべては、神様が私のために、プレゼントしてくれた最善なことなんだ」なんてどうでしょう? もし、これを公理にしたら。え? まさか?いや、誰も否定できないでしょう。たとえ、どぶに落ちても、犬にほえられても、それが私には必要だった考えちゃうのです。すべてそこからスタートしちゃうのです。そんな公理の世界で生きたら、幸せだと思いませんか? このように、いろんな思考遊戯ができます。私は数学の理論も、似たようなもんだと思うのです。そして、それに、ハマルんじゃなくて、いろんな世界をネットサーフィンならぬ、「セオリーサーフィン」して歩く楽しみを もったらどうか、って思います。 今日のファッションやメイクを考えるように今日の世界観を選んで着るのです。
2010.05.19
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でも、そもそも、生きていく上で、必要な勉強なんて、読み書き・そろばんくらいですよね。小学校の中学年で、だいたい終了です。 あとは、自力で学んでいける。 数学の教科書を見てみてください。指数関数の次に、対数。微分だ、次は、積分だ。「私」に何のことわりもなしに、唐突に、登場してきては、「これを覚えろ~」と言ってきます。せめて、ごあいさつくらいあって、しかるべきでしょう。 これを覚えないと、私の生活に不便が起きるの?世界平和に貢献できるの?虚数って、結局「ウソ」なんでしょう?嘘を覚えてどうすんの? これらの疑問に、真正面から応えてくれている先生はどのくらいいるでしょう? 「いいから、覚えておけ」「卒業できないぞ」「入試に出るんだから」せいぜい、「頭のトレーニングだ。」とか「研究者はこの計算を使っているんだ」、くらいでしょう。 「俺、研究者になりませんから。」そりゃ、そうです。 特に、数学は、現実離れした前提に立てられた、一つの魔法の別世界です。実生活との接点が見いだせにくい。だから、頭で理解したようでも、全然、わかったような気がしないものです。そのためには、数学の世界にダイレクトに飛び込むんじゃなくて、数学を自分の世界にまず、引きこむ工夫が必要です。まずは、自分のフィルターにひっかけてみるのです。 ところが主体制を失ってしまった子たちは、すぐに、無条件に数学の世界に入ってしまう。そっちの方が、危険性がいっぱいのような気がします。 もし、自由化したら、困るのは、子どもたちではなくて、これまでいい加減な教え方しかしてこなかった、教師や文科省の方です。 なぜ、この勉強をしなければならないのか?勉強が楽しいのか、を、まずもってプレゼンしなければ生徒が集まらないからです。 これは、学問や文化の発展にとって、プラスにこそなれ、マイナスにはならないと思います。 そもそも、ですよ、いかに、偉いお役人さんや、その諮問機関の学者さんが「何を教えるべきか」ということを決めたからって、それを、子どもたちが望まなければ、それは、「学ぶに値しない」と判断されたことになると思いませんか ? それを、強制力で覚えこませようとしているところに、このアホらしい教育現場の歪みがあるのです。 だいたい、強制的に勉強させようというのは、学問への冒涜です。嘆かわしいことです。 少なくとも、私の実験教室には、怒りながら、参加させて欲しくない。受けたくなかったら、どうぞどうぞ。つまらなかったら、寝ててもいいです。いつも、私は始まる前に言っています。本当に寝る子もいますが、ホントに、そっとしておいてやります。 この現実の世界は、封建制から、自由主義の世の中に変わって急速に発展しました。もし、まだ、お上が、何を生産して、何をどのくらい消費するか決めていたら、国は滅びていました。ところが、教育の世界では、いまだに、「封建制」がそびえ立っており、「学びの自由」は、陰でゲリラ活動をしているくらいです。 自由化への抵抗勢力は、いつも、既得権益をもつ組織団体です。昔で言えば、「株仲間」「座」というところでしょうか?信長のような政治家が、実験的にでも、「楽市楽座」をしてくれないかなあ。
2010.05.18
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勉強が嫌いな子が多いです。教室からいつも逃げだす子。校舎の隅でつるんでいる子たちを、連れ戻しに追いかけっこをするたびに、アホじゃないか、と思います。 世界では、学校が欲しいと心から願っている国もあります。勉強したい、と悲惨な状況から願っている子どもたちも大勢います。 だから、日本の子どもはけしからん!というのではありません。日本の子どもも、ゼッタイ好奇心がいっぱいです。 学びたいという意欲は、人類の本能だと思います。それが、ストレートに発揮できないのは、どこか、歪んでいる証拠です。 よく、空想します。もし、本当に学びを自由化したら、この子たちは、勉強するだろうか?教室に来るのだろうか?席にすわるのだろうか? なぜ、勉強しなければならないのか?理由がわっからない「勉強」って多すぎませんか? 「俺は、外国に行かないし、日本語だけでいい。」というのも、立派な主張だと思います。「三角関数に、複素数? それがどうしたの?」「俺、研究者になんかならないよ。」 私は、こういう主張は、とっても健全だと思うのです。逆に、何の疑問も違和感ももたずに、「覚えろと言うのだから、覚えるのが当然でしょう。」と納得しちゃう子どもたちが、大半なのが、とっても心配です。 でも、本当に、自由化したら、子ども達は、学ばないでしょうか? 昨日書いた、アインシュタインも、大学の講義にはあまり出席してませんでした。自分の興味ある分野だけに熱中し、物理の実験は最低の「1」、しかし、電気技術では優秀な「6」の成績をとっているのです。 アップル社の創業者のスティーブ・ジョブスも大学を中退してから、とても素晴らしい学びの時をもったと言っています。中退しても、大学を去らず、自分の興味のある講義だけを選んで聞き続けたのです。 もし、才能にあふれた子どもがいるとしたら、関心のある分野には、とっても夢中になる半面、そうでない授業には、身が入らない、いや、邪魔だと思うのは当然です。 いや、だからこそ、苦手な授業も受けさせる必要があるのだ、という意見もあるでしょう。だったら、その必要性を、しっかり説明してわからせるべきです。
2010.05.18
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4歳まで話すことができず、7歳まで文字も読めず、「精神的に遅れており、社会性はなく、いつまでもとりとめのない空想にいる」と言われた人は、誰でしょう? この人は、ミュンヘンのカトリック系公立学校になじめず、ギムナジウムも軍国主義でなじめず、結局退学チューリヒの大学に受験失敗…。 そうです。アインシュタインです。彼は、ディスレクレシアだったと言われています。そのため、教職を2度も失った彼です。 でも、かえって、その障害が、彼の頭脳の働きを単なる記号的ではない、全体を把握する能力を養ったという意見もあります。 私の家庭教師の小学生で、「国語力が弱いので」、という依頼の子がいました。教科書を読ませてみると、どうしても、勝手な読み方をしてしまうのです。一つひとつ字は読めるのですが、本となると、いつも、「え?え?」という、とんでもない読み方をしてしまうのです。もちろん、頭は悪くありません。ただ、思考の流れも、アインシュタインみたいに、とりとめのない空想に流れるクセはあります。 慎重に、私なりに「実験」を繰り返しましたら、隣の行と重なって見えていることがわかってきました。ならば、ということで、読むところだけが、見えるようにするとずいぶん改善してきたのです。 すぐに、この子は、学校で困ってるだろうなあ、と想像できました。そこで、意を決して、お母さん・お父さんにディスレクシアについての、資料を慎重に紹介し、学校の先生に相談することをおすすめしました。実は、最初からご両親には、そういう方面の話は、心理的に拒否したいという空気を感じていたので(以前、先生との間に、トラウマとなるようなこともあったようです)家庭教師としては、ある意味、職を賭しての相談です。 何より、本人から、自分のことをしゃべってもらうようにしました。その結果、家庭訪問の時、 先生が理解ありそうだと判断したら、切り出してみることにしてくれました。幸運なことに、担任の先生は、理解のある方で、既に、先生の方でも気づいていて、配慮してくれていることがわかりました。 欧米では、ディスレクシアの子をギフテッド・チャイルドと呼び、その特別の才能を祝福さえしています。 しかし、日本では、まだ、本がスラスラ読めないと努力が足りない。怠けている、と考えられがちです。 それで、精神的にダメージを受けることで本来持っている、ギフトを発揮できないことが一番のリスクです。 また、将来、試験問題を読むのにも、ハンデが懸念されます。日本の将来は、それこそ、これらの子の活躍にかかっていると言ってもいいでしょう。ですから、何とか、国を挙げて支援体制をつくって欲しいと思っています。 その子は、どんぐり倶楽部の「絵で解く算数」や仮説実験を「あ~、おもしろかった!」と、いつも言ってくれます。ぜひ、大きく育つためのお手伝いをさせていただきたいと思って、今も教材の準備をしているところです。
2010.05.17
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数学も科学も、昔は、「客観的に」存在する真理を学者が発見するものだと考えられてきました。 と言うと、え?違うの? と思われるかもしれません。 そうなんです、違うんですよ。典型的なのが、非ユークリッド幾何学の誕生です。実は、これこそ、数学だけでなく、科学革命と言っていいものです。 ギリシャ時代の昔から、ユークリッド幾何学はその公理からの論理展開(論理演繹法)が、あまりにも見事だったので、学者は、これこそ「完全な理論」と呼んでいました。 この完全な理論は、実は、5つの公理からスタートしていました。その中の5番目の公理「平行線の公理」だけをカットして論理展開してみた人がいるのです。ロシアの天才数学者ロバチェフスキーです。もし、第5公理が絶対必要な正しい公理ならば、この公理を否定して論理展開すれば、必ずや矛盾にぶつかるはずだと考えたのです。覚えていますか、背理法という証明をしようとしたのです。ところが、いざ証明をはじめてみると、行けども行けども矛盾は出てこなかったのです!そして、気がつけば、ユークリッド幾何学とは違う非ユークリッド幾何学を作ってしまっちゃったのです。 これは、「数学の公理さえ、自明なことではなく仮説に過ぎないのだ」という重大なインパクトを学会に与えました。このインパクトは、確固たる真理体系があるといういわば「科学宗教」「学問教」を打ち破った瞬間だからでもあります。そこから、近代の目覚ましい学問の発展が始まったのです。 学者の任務は、真理の発見ではなくその前提とする仮定の吟味(要請)になったのです。前提(仮定)をいろいろ変えてみることによって、相対性理論も生まれてきたわけです。 学問は、真理の発見と言うより、ある仮説を前提とした、「モデルの構築」だと気づいたのです。 ひるがえって、私たちは、学問を学ぶ際、その土台となる仮説の吟味を十分にしているだろうか?子どもたちに、その大切さを教えているだろうか?「そんなことを教えたら、教師の言うことを、素直に受け取らなくなる」と心配してしまうのじゃないでしょうか? これこそ、科学宗教に囚われている証拠です。これが大切なのは、たとえば、現代国際社会でも、前提とする常識が違うために殺し合いの悲劇が起きていますよね。相手の言わんとすることの公理(仮説)を吟味するところからすべてはじめないと、国際社会の中で生き残ってさえいけません。 そして、この新しい学問の考え方は、自分の囚われた考え方を気づかせ、精神の自由な飛翔を後押ししてくれるものです。 ここで、ふと気が付きますね。学問の殿堂であるべき学校です。学校教育には、いっぱい「公理」が決められ明治の時代からほとんどが不変です。その一つひとつは、本当に必要なのだろうか?そもそも検討しているだろうか?その中の一つを取り除いてみるだけでも、全く違った教育の世界というものが、展開するんじゃないでしょうか? そうすると、学校というところが、学問といかに縁遠いところか見えてきませんか?
2010.05.16
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数学や理科の教科書を見ると、素晴らしい科学知識が整然と体系づけられ、そこには、「ちっぽけな私」をはるかに凌ぐ、確固とした知の宮殿が立っているように思えてくるでしょう。 そこに、書かれている、法則や公式は、疑問の余地もなくただ、私たちはただただ、その前に跪き、文句を言わずに覚えるだけだと錯覚してしまいます。 しかし、いかにこれらが、一見完全無欠のように見えようとこれらを作ったのは、欠陥だらけの不完全さや、欲望渦巻くなかで、偶然に影響された愛すべき人間たちなのです。 もちろん、理論は合理的であるべきです。しかし、それを作り上げるプロセスは決して合理的なものではないことを、私たちはしっかりと肝に銘じておくべきだと思います。 科学や数学は、客観的だから、権威があるように思われています。しかし、個々の科学者や数学者を駆り立て、客観的な謎解きに向かわせる原動力や枠組み、いわゆるパラダイム自体は、客観的でもなければ、中立的でもないのです。 だいたい、科学や数学は、それ以外の分野と関係をもって意味をもってきます。そうじゃない、内に閉じこもった科学や数学は、生きたものじゃありません。 自然科学は人によって作られてきたのです。決して、そこに客観的に鎮座している「自然」を写し取ったものじゃないのです。それは、自然と人間の相互作用から、特定の人間の問いの方法に対してその姿を垣間見せ、それを記述したものに過ぎません。 「客観的な」科学も、主観性を土台にしていることこれを教えることが、これからの科学教育の基礎とすべきです。 教科書に載っている科学理論は、いわば、完成した建築物、たとえば、今建築中のスカイツリーの完成版です。しかし、それを建設するには、いろんな足場が必要で、多くの人が、いろんな立場から、工夫をこらして情熱をもって関係しています。それを眺めている人々のことも忘れてはいけないでしょう。地域の商店街への影響もあります。あれがあそこに立つのは、「自然」で「客観的」なことではないのです。人間の情念の塊なのです。 どうも、日本の科学教育は、完成品だけを見せて、「すごいだろう」「文句を言わずに崇めろ」と言っているようです。 そこにあった「人間の生き様」が、意図的に消されています。その理論が生まれてきた背景や思考錯誤が無いのです。未来を切り開いていく子どもたちに伝えたいのは、きれいな理論だけでなく、それを生み出してきた人間の泥臭さではないでしょうか? 私は学校教育に、科学の歴史を、もっともっと導入することをおすすめします。 こんなことを言うと、 「え、今でも、教えることがいっぱいあるのに、さらに科学史まで埋め込むなんて不可能だよ。」とおっしゃるかもしれません。 確かに、教科内容として、科学史を教えるならまた、ひとつの教科が生まれてしまうかもしれません。 そうじゃなく、今の科学の概念を学ぶにあたって当時の科学者の立場に身を置かせ、科学史上の試行錯誤を追体験させるのです。これは、少々、手間はかかりますが、科学の概念の本質を今より、圧倒的に深く理解することに役立つでしょう。それより、何より、子どもたちの興味関心を引き、自分で学んでいく、動機づけになるものと確信します。最低限、授業の中の挿話として、先生が話して聞かせるだけでもいいと思うのです。 実は、この科学史を導入する目的は、もっと別のところにあります。それは、教師にとっての授業改善の貴重な気づきにつながると思うのです。指導計画や手順を考える場合、人間の思考プロセスを考慮しないわけにはいきません。それへの大きなヒントになります。 そして、先生が科学史をひもとくことによって、「正解は一つしか認めない」とか間違った答えを一笑にふすなんて、ことはきっと影をひそめることと期待できます。 まず、先生の誤った科学信仰を取り除かなければならないと思います。 間違った科学信仰は、人間の主体性を奪ってしまいます。しかし、本当の科学は、主体性を確立させてくれるのです。 ここに、人間を主役にした教育を取り戻す切り口があるように思います。
2010.05.15
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子どもにとって、明らかに良くない教育が目の前にあるのにどうして、真剣に回避しようとしないのだろうか? ちょっと曲解かもしれませんが、日本人のメンタリティに、「長いものに巻かれろ」が、変形した「科学教」という宗教が巣くっているように思うのです。 それは、みんなの言うこと、特に、偉いお上の言うことに対してそれは、客観的に正しいことだろうと受け取ってしまうこと公表されてるんだから、客観性をもっているんだろう、と。つまり、客観性というものに対して、過大な信頼を寄せてしまっていう気持ちです。 客観性の守護神である(と思い込んでいる)科学的真理というものに、いわば「信仰」を寄せてしまっている姿があります。日本人は、キリスト教も仏教もイスラム教も、ほとんどの人は信仰をもっていない代わりに、科学教をもってしまっているんじゃないでしょうか?それも、とっても深いところで。だから、自分が信仰してしまっていることすら気がつかない。 科学講師の私が言うのも、本当に変ですが、「科学を信仰してはいけない。」というのが、「科学的」なんです。 「客観的な科学の真理」というものを、「信仰」してしまっているから本来、出てきてしかるべき、「問い」が出てこないのです。今、生きている存在の、人間としての存在の根源から湧きあがってしかるべき「疑問」がかき消されているんじゃないでしょうか? 一人の人間と科学が、相撲を取ると日本人は、最初から戦いを放棄してしまう。それは、科学というものが、客観的な確固たる「知」の体系をもっていると絶対的な真理がそこにあるのだと、思いこんでしまってるからです。もし、理解できないことや、疑問があっても、それは、私がまだ未熟だから、理解できないのであってまずは、科学について、もっと学ばなければならないのだ、と思いこむ。つまり、すべては私が悪いのです。学べば、きっと分かるのでしょうが、「私は頭が悪いから」仕方が無い。もし、勇気を振り絞って、立ち向かっても、その学び方は、科学が主張する、「科学的な方法」で、となります。 相手を疑わず、自分の感性を放棄して、相手の土俵に上がって、相手の言うルールに従って物事を見る訓練をする。 これを宗教と言わずに、何と言うでしょう? ところで、科学の「客観的な知」というものは、厳然として存在しているのでしょうか? いえ、どんな「知」も、それぞれの信念の上で成り立っているに過ぎないのです。特殊なフィルターがかかっているのです。この例は、後ほど、書くとして問題は、教育です。近代の学校教育というのは、それ自体が、ひとつの権威として存在しています。そして、それへの生徒側からの批判は許さない構造で成り立っています。だから、学校で科学を教えられると、その学校が、科学を無批判に権威あるものとしていますから二重、三重の意味で、科学は権威をもって、そびえ立ってしまいます。そして、科学のフィルター以外のものをどんどん死滅させてしまいます。 ところで、教科書に載っている科学は、物理にしろ、生物にしろ、それぞれの分野で、確固たる体系が存在し、さらに全体のまとめ役がいて、疑う余地の無い、つっこみどころの無いもののように演出されてしまっています。 現代社会では、科学にたてつくのは、神を批判すること以上に、侮蔑の対象になる。 何が、この迷信を生み出しているのだろうか?この原因を突き詰めれば、現代の偏った教育を是正し、本当の科学教育をする切り口が見えてくるのではないだろうか? な~んて、つらつら考えています。
2010.05.14
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科学講師が言うのも変ですが、幼いうちから、論理的な訓練をすることの危険性も感じます。シュタイナー教育でも言ってますね。 大人のビジネスシーンでは、ロジックツリーを書いて、論理のモレが無いかどうかチェックします。フローチャートや要点をまとめると、できるヤツという感じがしますね。 子どもへの授業でも、黒板に、先生は、箇条書きの要点をまとめたり、フローチャートを書きます。 いかにも、わかりやすく、よくできていると思えます。 しかし、実際の因果関係や影響は、非常に複雑で、芸術的な心でしかとらえられないことが、現実です。 その現実の一部分を切り取って、単純化して見せるのが、板書された簡略図です。 本当は、複雑なものは、複雑に受け取るのが、特に、幼児期の場合、望ましいものです。 それを、小さい時から、単純化したモデルでだけ教えられると人間の脳みそは、怠けよう楽しようと思いますから、単純モデルでしか考えないようになってしまいます。 私は、小学校の時に、解法パターンをバンバン使わせられるのは、大きな弊害があると思います。 私は、中学校まで、なぜ、分数の割り算では、ひっくり返すのか問題を解くたびに、悩んでいました。悩まなくなったのは、高校に入ってからです。でも、おかげで、分数や割合の問題は、安定感をもって体で感じながら、計算することができています。 これが、何も考えずに、いや、感じずに、計算をバリバリする指導を受けたらきっと私は、今のように、数学が好きにはなっていなかったでしょう。 科学の理論も、至る所に、論理の飛躍があります。そこには、いろんなイメージが蠢いているのです。そこを感じ取る感覚こそが、法則を使って、未来を切り開いていくには絶対に必要です。 実際に、科学技術を応用する場合でも、専門家が「想定外でした!」と言う事態に必ず遭遇します。異分野の考え方と融合しなければ、大失敗に終わることがしばしばです。 単純化は必要です。しかし、それ以上に、複雑系への感性が土台になっていることを忘れてはなりません。 「考える力」と言いますが、学校や塾は、挙げて、子どもたちの考える力を殺いでいるのではないでしょうか? 子どもたちの能力は、プリントの解法パターンよりも何倍も、何百倍も複雑な操作に耐えられる力をもっているのです。それを生かしてやるのが、教育じゃないでしょうか? 混沌とした渦の中に、なぞのジャングルに、子どもたちを招待しましょう。
2010.05.13
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知識を増やし、論理的に考えさせれば、学力は高まるというのは、幻想です。 人は、それぞれ、独特の「考えるパターン」というのがあってそれに従ってでないと、理解できないのです。いわば、頭に思考回路のテンプレートが組み込まれていてその枠組みどおりでしか、整理整頓できないし、判断できないのです。 だから、結局、そのテンプレートの善し悪しと豊富さが、その人の能力の限界を形づくります。 決して、知識の多寡ではないのです。 テンプレートの方が、圧倒的に重要なのです。良いテンプレートさえ、もっていれば、それが、一種の磁石のような働きをして、必要な情報は、吸い寄せられてきます。そして、有用な形に加工され、アウトプットされるのです。 しかし、貧弱なテンプレートしかもっていないと、新しいテンプレートを使っての、説明を聞いてもチンプンカンプンです。言葉は記憶できても、それが血肉にはなりません。 そして、さらに、やっかいなのは、このテンプレートのほとんどは、意識下のことなのです。研究者の話によると。 意識して、授業で教えて身につくものじゃないのです。 じゃあ、どうやって?それは、小さい時、いっぱい遊ぶことから培われてくるもののようです。 それも、体を使った遊びです。別名、体験です。行動です。それも、感情を伴った。 小学生までの遊びの重要性は、ここにあると思います。 本当は、塾に行かせるよりも、冒険遊び場のようなところで、思いっきり友達と遊ばせていた方が、何倍その子の将来のためになるかわかりません。 どんぐり倶楽部の糸山先生は、9歳を過ぎると、どんどん思考回路の刈り込みが行われると警告しています。そして、12歳までに、テンプレートの基礎は固まってしまうのです。エネルギーを浪費しないため。つまり、思考の効率化のための必然なのです。 これ以降は、逆に、勉強は詰め込みでも、弊害はあまりない。そのテンプレートに合った形の情報を、じゃんじゃんインプットするだけです。 良く言われることですが、人間は、「真実」なんか見れないのです。「見たい」ものを見ているだけなのです。 人間は自分の思考の枠組みからは、抜け出せません。これは、地球の引力を脱出するより難しい。何せ、時空が曲がっているのですから。 でも、大人になっても、自分は「偏向」しているのだ、ということを意識してつまり、「自分はバカだ。」という「無知の知」を忘れずに、常に、別の考え方・論理をそばに置いておく努力をしている人は素晴らしいと思います。私もそういう大人になりたい。そういう意味で、常に代替案を3つ用意する習慣をつけようと思っています。「これしかない、」という思いは、頭の動脈硬化なのですから。 とにかく、小さい子どもにとって、学習は生活そのものだということ。そして、豊かな体験こそ、将来の飛躍のための英才教育であることを忘れないでいきたいと思います。 ただ、目先の成績が悪いと、周囲から、「お前はバカだ」「お前は悪い子だ」と言われ続け、自己肯定感をもてなくなってしまう恐れがあります。この落とし穴さえ、親がしっかり守ってやれれば、じゃんじゃん遊びの帝王に育てた方が、将来、ゼッタイ楽しみですよ。そして、子どもにとって、感情と切り離された知識は存在しないのです。だから、感情を豊かに育てること。つまり、物事をじっくり味わう生活をすることです。その意味で、糸山先生がおっしゃる「感味力」という言葉はすばらしいと思います。 私の科学実験教室も、感情をいっぱい使うものにしたいと、それを第一に考えています。
2010.05.12
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私の授業は、いつも、選択肢を用意します。できれば、3つ。または、5つ。 なぜか、奇数がいいです。もちろん、男か?女か?みたいな二つの場合もあります。 そして、その選択肢は、あて馬的に、誘導するためのものではなく、意見が割れるものでないと意味がありません。どんな問題でも、よく考えれば、別の方法、別の考え方もありえることに気づきます。 じっくり迷って、考えるのです。いろんな判断基準があります。それに慣れさせるのです。他人の意見を聞くと、とっても刺激になります。そして、反論したくなります。 よく、「科学は真理を教えるものだ」 と誤解している人がいますが、科学の真理というものは、学問といものは、至って、社会的なものです。人が真理だと納得すれば真理になるのです。 そこには、説得活動や、主観的な判断が入ります。真理はいろいろあるのです。そして、人間はどれかの選択をして、決断しなければなりません。科学だって、どこかで、必ず信仰に近い、決断をしているのです。討論すると、その決断を支える価値観に、気づきます。選択が、意識的になってきます。 このブログで、何度も言いますが、実験は、作業ではありません。実験道具を操るのが、実験だったら、サルが動かしても、実験になります。赤ちゃんが、バブバブと遊んでいても、実験している天才になります。 逆に、実験道具を使わなくても、立派な実験になっていることはいっぱいあります。 何が本質なんでしょう。問いかけです。目的意識的に対象に問いかけることです。 日常、当たり前と思っていることに、問いかけをつくること。これが、学問の基本だと思います。 しかし、「何でも自由に考えろ」というのは、親切のようで、全然、親切でありません。人は、選択肢に気づかないからです。特に、意見が半々に割れるような軸を見つけることは、難しいです。これができたら、一人前なのです。 判断に迷う素敵な切り口を示してあげることこれが教師の務めだと考えます。 実は、この「オプション思考」は、ビジネスの世界では常識です。常に選択肢を用意して、それを比較検討することこそ、トップの仕事です。もちろん、一般のビジネスマンも、選択肢をつけて、上司に報告することが、デキルための条件です。 この訓練の対極が、判断力を奪ってしまう詰め込み教育です。条件反射教育です。これも、ある局面では必要です。が、こんなの学校でする必要は全然ありません。一人でできるのですから。
2010.05.11
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「ドラゴン桜」で、なぜ、勉強するのか?という問いに主人公の弁護士は、「だまされないため」とスピーチをしています。「頭のいいやつが、自分たちに都合の良い法律を作って、考えるのを面倒くさがっている連中から、巻き上げている。」ということです。 確かに、そういう面はあります。 でも、この論理には、落とし穴があります。勉強すると、だまされないようになるのか?ということです。 私は、今の受験勉強は、「考えないノーミソ」養成コースだと思います。ですから、かえって、だまされやすい人間になってしまうでしょう。 でも、大学に入ってから、考えるノーミソをつくればいい? 一度失われたものを、取り返すのは、困難ですよ。 使わない脳細胞は死滅してしまうのです。 とすると、受験勉強の以前に、考えるノーミソを育てていなければなりません。でも、ちょっと待てよ。自分で考えるノーミソをもっているなら、「騙されないために」何も、大学に入る必要はないじゃないですか。 じゃあ、何で勉強するんだ?それは、決まってますよ。楽しいからです。 学問がどのように生まれたか。研究することが楽しくて仕方がない人間が、切り開いてきたのです。しかも、その楽しさというのは、孤独な楽しさではなくて、周囲のみんなに、吹聴したくて、楽しさを分かち合いたくて、それを原動力に頑張って、研究してきたのです。 その学問を、しかめっ面をして、これを覚えなくちゃ、落第だ!中学生失格だ!人間失格だ!人間のクズだ!みたいなことを言われて、勉強するなんぞ先人に対して、大変な失礼です。学問に対する冒涜です。 損か得か、というのは、学問とは関係ない。これは、釣りは損か得か?野球は損か得か?将棋は損か得か?と全く同じです。 こういう発想しかできない教師は、自分が、楽しい勉強をしてこなかったから仕返しのつもりで、子どもにお仕置きをしているのと同じです。イジメの世代間の連鎖ですね。 そろそろ、こんなアホなことヤメにしましょう。全然、科学的でも何でもない。 私は、もし、おもしろくない学問だったら、する必要がないと思います。 学問は、おもしろいから発展したのです。楽しくないものは、もともと研究者も研究しないのです。学問が楽しいというのは、実は、論理が逆で楽しいことを選んで研究したから、学問は楽しいのです。楽しくないものは、研究されないのです。だから、研究者の能力というのは、楽しいことを見つける能力でもあるのです。
2010.05.10
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日本の教育界は、親も教師も、塾もみんな、肝心なところの思考放棄をしているように私には思えます。 親は、子どもをどのように育てたいのでしょう?大昔から指摘されてきたことですが、いい大学に入れることが、目的なのですか?いまだに、そこで思考停止している親がいっぱいですね。または、良い会社に就職させて、とにか食いっぱぐれのないようにすること? 学校は学校で、お上から言われた指示に従うのに汲々で、現場で、教育の本質について、議論することは、お寒い限りです。 現代社会は、どの組織も、常にゼロベースで考えるのが当たり前の時代。10年1日、どころか、100年1日の学校という組織にまともな思考力があるとは思えませんね。文科省は、もともと、教師に、自主的な判断をさせまい、させまいと努力してきましたから、すっかり骨抜きにされた教職員の組織に戦略思考など期待する方がおかしいですね。 たしかに、教育を論じるのは、たいへんです。ものすごくいろんな側面があります。 でも、だからこそ、本来、教育は、「ケースメソッド」で有名なハーバードビジネススクールのように常に様々な視点から議論し続けることにこそ、真骨頂があり、教育者のそういう姿勢そのものが、生徒への教材なのです。それが、ほとんど感じられません。 また、塾産業。ここは、親から「成績を上げて」、 という依頼を受けてお金をいただいているのですから、そういう親の期待に、せっせと応えるだけです。親の教育観に反論したり、議論することは、マレですね。(この科学寅も、塾講師や家庭教師のマネごとをしていますんで自分自身への矢でもあります) つまり、戦略思考ができるように、子どもたちが、強く激動の世の中を生きていけるように育てていくはずの教育界が、一番、思考停止状態になっています。これは、恐ろしいことです。 どんな人間に育って欲しいのか?どんな能力が必要だと思うのか?それをしっかり、考えた上で、その上で、大学のブランドが必要だと判断したなら、それは、素晴らしいことです。 親も子どもも、全力を挙げて、考え、議論し比較判断した末の結論なら、たとえ、状況が変化し、うまくいかなくなっても、困難にぶつかっても、後悔はしないものです。次へのエネルギーになります。しかし、自分のアタマで考えることを放棄して人に責任をおしつけて、生きていく人生は、困難に遭遇したとき、うらみつらみ、不平不満何で、私は不運なの?となります。 まず、親が、学校任せ、日本国任せではなく、自分のアタマで徹底的に考え、自分が責任をとる覚悟を決めましょう。だって、子育ては、親の責任なんだもの。そして、親の大切な、「成長の機会」なんだもの。
2010.05.09
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最近、ドラゴン桜を、リバイバルで観ているのですが、つくづく、受験勉強に適応した頭をつくることの恐ろしさを感じます。 結局、スピード勝負なので、瞬間的・機械的に反応する脳ミソを作り上げるわけです。また、エッセンスを凝縮した解説が求められます。脱線は要らない。 しかし、本当の「考える力」というのは、その問題自体を疑う力です。さらに、問題設定を生み出す力です。そして、これこそが、社会で求められる頭の力です。 でも、こんなことを、受験生がしていられるわけがない。 たとえば、微積分ですが、普通、微分から教えられますが、人間の普通の思考回路からいったら、積分から入るのが素直だと思います。また、積分が微分の反対だというなら、積分が面積を表すというのは、理屈が飛んでいます。あたかも、微分から、当然に積分という面積を求める公式が生まれてくるように教えられますが、その論理の流れから言えば、もとの曲線の長さを求めることを積分と言ったっておかしくはない。または、ベクトルの集合ってことにすることも理屈になります。 実は、理屈はすべて後付けで、もともと、関数の曲線の下の面積を求めることを目的としてそれを、「積分」と名づけたのです。だったら、最初からそう言えばいいんじゃん!変に、もっともらしく、宇宙の最初からの真理のように「こうなるの当然じゃん。え?わからないの?」と解説されると鋭い子ほど、違和感を感じます。 もちろん、受験勉強に毒されている子は、何も感じません。それを覚えようとするだけです。 私は、大学時代、寄り道をするようにと強く教えられました。 人間は、一つのものを認識するとき、エッセンス、つまり、一つの方向からの映像からだけでは、よくわからないのです。右から、左から、上から横から、そして、分解して食べてしまわなくてはその概念をつかむことは無理です。 寄り道をいっぱいしなければ、道路はわからないのです。確かに、高速道路を通ったり、飛行機で観光地にいけば、速いです。しかし、そこの風土や道端の草花に触れることはできない。新しい魅力発見もできないのです。 新しい発見や発明、技術革新は、ひねくれ者が作ってきました。 ひねくれと言えば、ここで、ヒネクレ話をひとつ。皆さん、砂鉄って知ってますよね。あれ、鉄だと思ってるでしょう。でも、鉄なら、外にあれば、サビちゃいますよね。そして、サビた鉄は、磁石に吸いつきません。じゃ、どうして? 砂鉄は、鉄じゃなくて、磁鉄鉱だから、もともと、サビているのですが、黒サビと言って、普通の赤サビとは、組成が違うのです。そして、砂鉄そのものが、磁石なのです。 話は長くなりましたが、その砂鉄が磁石だという説明をするために、ある本に、紙の上の砂鉄に、下から磁石を近づけた後、磁石をひっくり返して、 N極とS極を変えれば、上の砂鉄も、ひっくり返って立つ。というのがありました。 実際、やってみると、おもしろく実験できます。 しかし、実は、砂鉄じゃない、普通の鉄の粉でも試してみると同じ現象が起きるのです。これじゃ、証明になりませんね。 理科の先生は、(他の教科もですが)ヒネクレ者に、もっともっと配慮する必要があります。いや、率先して、ヒネクレればいいのです。へえ、そんなヒネクレ方もあるんだ。と見本を見せてあげて欲しいと思います。 ところで、受験勉強方法を否定しているわけではありません。あれは、一種のゲームやスポーツと同じですから。それにあった、トレーニングは否定するもんじゃありません。 でも、小さい時から、特殊な競技ばかりさせられていれば、偏った人間、偏った能力になってしまうのは、避けられませんね。
2010.05.08
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連休中、ご無沙汰いたしました。更新をサボっているにも、かかわらず、たくさんの団体の方から、このホームページをご覧になって、お問い合わせのメールや電話をいただきました。ありがたいことです。そして、「真面目に更新しなくっちゃ!」 今日のお昼のテレビで、慶応義塾大学生がスプーン曲げの超ウルトラマジックを披露していましたね。あれは、「マジックです。」と言っているからいいものの、もし、「すごい超能力者が現れました」とテレビでやったら、もう騒然ですね。 手も触れないで、スプーンやフォークが、クネクネ曲がっていく現象を「ほら、あなた見たでしょう。」「これが現実です。実験の結果を否定するのですか?現実を認めないなんて、科学的態度ではありませんね。現代の物理学の常識がいかに拙いかがわかったでしょう。」「この新しい物理現象を発見した私は、アインシュタインを超えるノーベル賞だ!」 となるでしょうか?なるわけがないのです。 カールポパーが、「反証主義」という科学思想を打ち出して多くの人から、もっともだと思われているのですが、実際は、一つや二つの反証実験をしてみせても科学理論というものは、そう簡単にひっくり返りません。 もし、あの学生が、「僕は、未知のパワーを身に付けた」と宣言し、学会に報告しても、さらに、100歩譲って、いや千歩譲って本当に、超能力者だったとしても科学界は、彼の主張をカンタンには受け入れません。その実験の前提条件のどれかが、満たされていないからだろうと言われるだけです。「ズル」も含めてね。考えても見てください。一流のマジシャンは、魔法としか思えないことを、いとも簡単に「この眼に見せて」くれるのです。それを一々科学の常識がひっくり返ったと、騒いだら、たいへんです。あの場合、まず、テレビ局自体が、「やらせ」じゃなかったかという疑いから入らなければならないでしょう。「スプーンの金属は特殊じゃなかったか」などなど。何度も言いますが、あれは、「マジック」であり、「マジック番組」の中での話なのです。それでも、うちの女房なんかは、もうすぐに超能力ってあるんだあ。と、感激しちゃっています。だから、マジックだってば、と言ってもです。ユリゲラーに、みんなひっかかるのは、当然と言えば当然ですね。 よくも悪くも、科学の実験には、前提条件が数え切れないくらい沢山あります。だから、仮に、おったまげる実験結果が見出たからといって科学理論は、そう簡単に兜は脱がないのです。その意味で、ガリレオが望遠鏡を発明して、著名な学者たちに、天体を見せたとき特に、月にあばたがあることを見せたとき、偉い先生たちが、「月がデコボコに見えるなんて、望遠鏡がイカレテいるんだ」と判断したのは、これも、もっともなことだったのです。 だから、科学の最大の問題は、科学実験を行って、理論と違う結果が出てもだからと言って、理論が間違いだとも、実験の前提条件がおかしいからだとも、すぐには、結論づけられないことです。よく、「実験すれば、黒白が判断できる」と言いますが、また、私の科学教室でも、「決着をつけよう」って、言っちゃってますがそんな簡単な問題ではないのです。だから、学校教育でも、カンタンな実験の一つや二つで、難しい科学概念を教え込もうとしますが、頭の表面の方では、理解しても、心の奥底では、しっくりいっていないのは、当然なのです。「本当かよ??」「先生が言うのは、特殊な場面での話だろう?」「毎日の生活では、そんなの関係ねえよ」と思うのが本音じゃないでしょうか?そして、それは、とっても健全な脳ミソの働きなのです。 実際、先日も書きましたが、特に、学校で先生がやる実験は、やる度に、結果が違ったりします。それなのに、「実験結果はこうだけど、本当は、教科書に書いてある通り、こうなってるんだ。こうだと覚えなさい」と押し付けられるから、イヤになってしまう。だから、学校の先生は、実験をしたがらないのも当然だと思います。ヘタに実験なんかしない方がいいと、私も思います。結局、新しい理論を認めさせるには、たくさんの実験の積み重ねと、激烈な討論に打ち勝たなければならないのです。無数の批判の矢を交わすタフさが必要なのです。 超能力の問題は、悪意あるデモンストレーションだけではなく本当に、真面目に信じて取り組んでいる人の場合にも、当の本人の判断力が正常か?という基本的なところから、丁寧に疑っていかなければならないものです。
2010.05.07
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今日、5月5日の科学寅が出没する場所は、宮城県南の角田市にある、コスモハウス日本の誇る、H2ロケット開発の地であることを記念したでっかい、ロケットの模型がドーンとそびえている公園です。 今日、10時から、「宇宙っこまつり」が開かれます。コスモハウスの入り口の前の広場に、科学実験テントを貼ります。そこで、1日中、大道芸ならぬ大道科学実験をしています。また、メインステージには、12時から、「ご出演」いたします。 科学寅の「生実験」を体験してみませんか?
2010.05.04
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久々に、「ドラゴン桜」を観ました。(you tubeで)一見、私の教育方針と、真逆のようですが、「香辛料として」嫌いではありません。しかし、この唐辛子の食べすぎは、胃をこわします。 特に、数学の「考えるな。瞬間的な反応をせよ。」は、思春期前の子どもたちには、全くオススメしましせん。 でも、これは、高校3年生が東大入試のためにする受験勉強なのです。その意味では、何でもアリだと思います。常識にとらわれない、いや、常識の逆をあえてしようという姿勢は、私は、どちらかと言うと、「好き」です。 でも、これを、小中学生の親が、真似をするだろうなあ、と思うと憂鬱になります。 それに、たとえ、あの方法で、合格したとしても、大学に入ってから、彼らが「学問」ができるのか?それは、「無理」というものでしょう。 (英語の指導はまあ、いいと思いますが) 本当に才能のある子ほど、あの勉強では、つぶれていってしまいます。無能の子には、一発逆転をかけて、あれもアリでしょう。 でもね、ああいう高速機械的学習をするにも、その前提として、脳ミソが、ある程度の理解力を備えていなければいくらなんでも無理ですよ。その準備とは、何か?問題分析と解決のための、「型」、「テンプレート」です。これを、どのくらい豊に持っているか、です。この養成は、卵が先か、にわとりが先かの問題ですが、まずは、自発的に、本人が自分の内部でテンプレートを発見し、自分のものにしていなければ、それと似通った解答さえ、理解できない。解答が「わからない」のです。たとえ、テストで〇をもらっても、「わからない」で終わるのです。 子どもに教えてみればわかることですが、結局は、その子の理解力の範囲内でしか、教えられないのです。教師は、その子のテンプレートに合わせて、情報を提供しなければなりません。それを超えて、教えると逆効果になるのです。 思春期までは、テンプレート養成を主力にすべきだと思います。
2010.05.04
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江戸時代の数学愛好者たちは、自分たちの学問の成果を絵馬にして、神社の奉納して、発表していました。人は、もちろん、金銭の損得で動きますが、学問については、それ以上に、成果を喜んでくれる他人、びっくりして、評価してくれる人々という社会的な動機を抜きにしては、語れないだろうと思います。 受験勉強の動機も、いろいろありますが、人からの評価というものが、実際は、大半以上でしょう。学校に入るという実質機能以上のものがモチベーションになっています。 よく、学問への好奇心が大切だ、好奇心を刺激したい、と私も言いますが、その好奇心の中身も、「これを、みんなに知ってもらったら、びっくりしてくれるだろうなあ。喜んでくれるだろうなあ。」という社会的、対人的な動機がずいぶん含まれていると思います。 これを、使わない手は、ないでしょう。 この科学寅さんの、活動自体、多くの方々の喜んでくださる顔を思い浮かべるだけで、パワーが充電なっています。
2010.05.03
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