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先日、NHKで、江戸時代の数学マニアたちの話が出ていました。江戸時代、庶民の間では、趣味としての和算が広がり、身分や性別を問わずに、日本各地で親しまれるようになっていたんですね。関数学の話は聞いていましたが、彼らの息遣いを感じることができて、とってもインスパイアされました。「和算の前では誰もが平等。」旅をしながら各地で数学を教える遊歴算家、橋爪万作。うわー、書きたい、叫びたいことがいっぱい。 と、ゴールデンウィークは、科学寅さんのスケジュールは、結構いっぱい。ちょっと、サボらせてもらいます。
2010.04.30
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実験の予行演習をしていると、思うようにいかないことが、しょっちゅうです。私のように、事前にいろいろ試せる場合はいいのですが、学校の先生のように忙しいと準備に時間が取れないことが多いので、ぶっつけ本番、思うような実験結果が出ないことも少なくないと思います。それで、実験を敬遠してしまうことも、人情としてわかります。 でもね、科学の発展というのは、間違いを前提にしてるんです。そこのところを、子どもたちに、ぜひ伝えてやってほしい。だから、「間違ってもいいんだよ」「間違いこそ大事なんだよ」というメッセージを伝える絶好の機会だと思ってください。 実験が苦手な先生は、実験は成功しなければいけない、という風に、思いこんでいるんじゃないでしょうか? 先生が教科書の書いてある通り実験しても、思うような結果が出ないことは、当然なのです。 たとえば、水の沸点は何度か?100度と書いてあります。しかし、普通、どんなに沸騰させても、98度くらいでストップしてしまいます。100度になることは、まずありません。あれ?これは、失敗なのでしょうか?それとも、教科書がいい加減なんでしょうか? 実は、温度計に問題があるのです。長い、アルコール温度計、あのアルコールが上に伸びていくと、上の方で、冷やされてしまうのですね。だから、お湯の中に、温度計を全部いれなくちゃ正確な温度は測れません。 また、ステンレスのスプーンは、磁石にくっつくか?これは、18-8と書いてある、(高級な)スプーンはくっつくのですが、別の、(安い)ステンレスは、くっつかない。 これを、「ステンレスはくっつくか?」と問題を出すから、あれ?となるのです。「このスプーンは」です。 また、アルミの洗濯バサミ、磁石にくっつくと思いますか?もう、一つ、プラスチックの洗濯バサミ、これは、どうでしょう? じつは、どちらも、見事のくっつくのです。え?習ったことと違う? じゃあ、実験は失敗したのでしょうか?いや、どちらも、正解だったのです。実は、選択ばさみには、鉄のバネがついているのです。だから、「アルミは、くっつくか?」、の問題じゃなくて、この洗濯バサミは、と問題を出さなくてはいけなかったことに気が付きます。 実験って、いつも、「この~~は」という固有名詞なのですね。 実際の実験では、このような間違いは、日常茶飯事です。でも、この実験そのものは、「間違い」ではないですよね。結果に文句を言っちゃいけない。何かがあるのです。新しいことを教わるのです。 だから、軽々しく、「この実験は間違いだった」とは言わないことです。先生が、あれ?という問題にぶつかっても、すこしもおかしくない。こういうことが、世の中にはいっぱいある。そして、それにどう対処するか、おもしろがって向き合うか、その姿勢の方が大事です。 子どもは、先生の完璧さから、学ぶよりも、それ以上に、ズッコケからも、より多く学ぶと思います。そして、実験って、あくまで固有名詞の「これは」「あれは」ですから、一般化するには、いくつもの連続実験じゃないと、確信がもてないわけです。ですから、一発ですごい実験をやろうと肩に力を入れるよりも、小さな、さもない実験を、連続して組み立てて提供する方がいいと思います。 そうじゃないと、マジックショーか、「押しつけ」の結論になってしまいます。ぜひ、間違いを楽しむ風土を育ててください。
2010.04.28
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私は、「どんぐり倶楽部」の宿題についての考えに共感します。心無い宿題は、子どもにとって、大敵だと思います。え? どういうことかって?私が言うと誤解を生むかもしれませんので、ぜひ、倶楽部のHPをご覧ください。 一般に、自分ひとりだけ、違った行動をすることは、危険な行動だと思われています。しかし、環境が変化しているときは、「最も安全な道」と信じられていたものが一転して、「危険な道」になっているものです。 大勢の人が歩くので、過去の成功に裏打ちされた最も安全な道だと思っていたのに、気づかないうちに、最も危険な道になっているのですからたまったもんじゃありません。 それに対して、自分が、ひとり、自己責任で歩いている時は、当然、間違うこともあるだろうと、覚悟して、慎重に歩きます。 ところが、みんなが行くのだから、ダイジョウブだろう、って歩いている人は、落とし穴にはまると、心の準備が無いだけに、それは、ショックです。 実は、正解がわからない現代を生きるのは、「試行錯誤」が当たり前なのです。だから、逆に、ゼッタイ大丈夫だと思って歩くってことは、逆に、ゼッタイ危険な道なのです。 よく「創造性」が大事だから、創造性豊かな子に育てたいと言います。でも、それは、何も、科学を知っているかどうかとは、関係ありません。これまでの一般的な考え方、常識的な考え方、定説などなどに囚われないで、「異説を立てられるか」にかかっています。 少々、論理がつながっていなくても、大胆な発想で、異端的なものの見方ができるかどうかです。 もちろん、何でも反対ではなく、良いと自分が主体的に認めたら、見栄を捨てて、それをとことんマネて、取り入れることもとっても創造的なことです。 だから、明治維新のとき、欧米の文物を積極的に取り入れたことは、その当時としては、創造的だったと思います。逆に、和魂洋才と言って、日本のオリジナリティを大事にと、上っ面の導入に終わってしまう方が、創造性に欠けています。好きになったら、とことん好きになることです。格好つけるのは、創造性の敵です。 で、もし、わかんなくなったら、「わからない」とはっきり宣言すること。これを、私は生徒に何度も口癖のように言います。誰よりも、先に「わからない」と言う人こそ、偉い!先に、「わかんない」と言った人が勝ちなのです。 実は、一人がわからないという時は、ほとんどの子も分かっていないのです。なのに、「わからない能力」が無いために、わからないことを素通りしてしまっているか、無意識的に、カットしてしまっているか なのです。 納得したら、試行錯誤しながらも、真似て、やってみればいいのです。その上で、わからないことが起きたら、自分で考えるのです。 自分自身を決定的に大切にすることです。自分自身がわかったら、わかったものを受け入れ、わからなかったら、受け入れない。ただ、それだけです。 でも、これは、魔法の発想方法です。他人の目にとらわれず、自分自身を大事にしていくと世の中のおかしなこと、違和感のあることが、次々に、発見されてきます。私たちは、あまり物事を正しくというか、複眼的に見てこなかったなあ、ということを実感できます。 ともかく、日本の教育界は、他人の意志に、あまりにも左右され過ぎています。たとえ、マネるにしろ、自分の意志で真似たいものです。決して、「学ばされて」は、いけないと思います。自分の意志で「学ぶ」のです。 だいたい、今の教育現場で、学力調査をすると、一番大事な、基本的な概念すらも、子どもたちに入っていないことに愕然とします。皆さんも、学校で教わったこと、覚えていますか?微分・積分、三角関数、力の法則、オームの法則血や肉になってますか?あれは、単なる苦行を乗り越えたという勲章だけだったんじゃないでしょうか? そうです。「学ばされる勉強」は、身に付かないのです。学力向上のためにも、生徒の主体性を大事にしていかなくては意味が無いのです。一生懸命、「学ばせる」から、成果が上がらないのです。
2010.04.27
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私は、教育界は、もっと「好き・嫌い」に敏感になって欲しいと思います。教える側も、教えられる側も。 「好きでないもの」「教えられたくないもの」は、原則として教えられなくても良いというルールだったら、どうでしょう? そんな身勝手なことをしたら、大変なことになる? 反論は、わかっています。ただでさえ、ゆとり教育批判で、詰め込みが復活しているのに… ほとんどの大人が反対でしょうね。 でも、その人たちは、みんな「勉強って、辛いもの。」だから、「子どもは勉強から逃げるもの。怠けるもの。」という前提に立っているんじゃないでしょうか? そういう前提に立った教師に、教えられる悲劇を私は、もう目にしたくない!それが、実は、一番の理由です。今年、学校から遠ざかった。 もし、本来、学問は喜んで楽しむものだ、という前提だったらどうでしょうか?生徒がやる気を出さないのは、これは、教師や学校の環境に問題があるからとなるのではないでしょうか?だから、必死になって、楽しさを提供しようとするでしょう。 それでも、ついて来られないという子がいたら、それは、その子の特別な事情、LDなど、尊重すべき個性のせいかもしれません。そういう子には、無理して、その授業を取らせなくてもいいはずです。または、同じような、指導でなくても良いはずです。 学校の目的が、生きる喜びを爆発させるためだったなら、どうしてもついていけない授業で、否定され、イヤな思いをさせるのは、本末転倒です。好きで、得意なジャンルでどんどん伸ばしていけばいい。 今、私は極論を言っていると、自分でもわかっています。でも、学校は、子どもが主役で、どうしていけないのでしょう?やっぱり、大人や国が主役なんでしょうか。そして、国が認める人間像をつくるためにあるのでしょうか。 「辛さを我慢して、犠牲を払って勉強した子が偉い。」ということになっているから、優等生は、みんな、「我こそは犠牲を払ってきた」と威張っています。だから、社会から、尊敬されたり、優遇されるのが当然だと思っています。埋め合わせを求めてしまうのです。 ところが、学問を楽しんで来た子どもは、こんな楽しいことをさせてもらって、「ありがたい」、という思いをもちます。だから、「社会に恩返しをしなければ」、と思います。 この差は、とんでもなく大きい。先日、新聞の官僚の天下りに関しての記事に、あるOBが、「官僚は、一流大学を出て、国家試験にも受かっている。大手メーカーやメガバンクと比べたら高い所得ではない」という非常識なコメントをしていました。反論するのもバカバカしい。でも、実は、これが、優等生の本音ではないでしょうか? こういう青年を「苦しい勉強」は、育んでいるのです。
2010.04.26
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話は、平方根に戻ります。3年生になって、唐突に、平方根が出てくるわけです。何で、こんなのやんなきゃないんだ?って思うのが自然でしょう。だって、ショッピングに行くとき、使いませんし、三平方の定理も、普通は使いませんよね。 そもそも、特に、数学は、「覚えたい、知りたい」という動機に欠けるのが最大の欠点です。数学も、すべて人間の必要から生まれてきたのに、(お遊び、思考遊戯も含めて)その取り組んだ、情熱を消し去ってしまって、いきなり、定義や計算方法から、入るのですから、やる気が出ないのも当然です。 私は、数学は、(数学ばかりじゃなく、すべての教科にも通じますが)現状じゃ、やる気が出ないと感じる生徒こそが、正常だと思います。だって、覚えたくもないものを、先生や偉い人が、「とにかく、これを覚えないと、合格させませんよ」と言われるから、理由はともかく覚えるんだ、っていう子ども、怖くないですか?「え?それのどこがおかしいの?」「指示されたことを覚えるの、全然、苦にならないよ。」という生徒だけだったら、日本は滅びてしまうんじゃないでしょうか? 私は、生徒の主体的な動機こそ、学問の主戦場だと考えますんで、どこから、導入したら良いかが、いつも気になります。そこが生命線だと思っています。 で、平方根ですが、この最終目的は、中3の場合、二次関数であり、三平方の定理なのです。 実は、二次関数が解けるようになるために、ルートを勉強し、展開公式を覚え、因数分解を練習するのです。準備が整えて、やっと、さあ、二次関数ですよ、三平方ですよ。これが、3年の最後でやっと出てきます。なあんだ、そうだったのか、です。(生徒は言わないと思いますが) 私は、解ける解けないは別にして、この順番を逆転させるべきだと思います。最初に、三平方の問題や、二次関数の必要性、つまり、落下や加速度の問題、力と加速度でもいいでしょう。そのなぞと、人類は、どう戦ってきたかを、子ども達と一緒に、ひもとくのです。 そこから、そのためには、こういう計算が必要で、そのために、こういう記号が求められたんだ、となってきます。 そもそも、人間の理解力というものは、論理を展開していくと、自然にわかるというものではありません。つまり Aだから→Bだから→Cだから→D という論理で、だから、Dが成り立つんだよ、とは、働かないものです。働かないと言うより、Aから、自動的に Dは発見されないのです。 実際は、人間というものは、Aから、一気に Dを予想してしまうのです。そして、その裏付けとして、論理を逆算していくのです。これが、普通の発見のパターンです。つまり、理屈は後から、なのです。科学の法則だって、そうですよ。 だから、論理展開が得意な、学校の優等生が社会で、画期的な活躍があまりできないのも、飛躍ができないからです。(と、思います。)自由にイマジネーションを膨らまして、絵を描ける人こそが発見をし、新しいスタイルをつくりあげられるのです。 話を、中学数学に戻します。私は、中3生には、一気に、二次関数を教えます。中2生には、まず、一次関数を教えちゃいます。もちろん、その精神と思いからですが、計算のテクニック的には高校で習う、平行移動の考え方で説明しちゃいます。それで、わかっちゃうんです。そして、その高い観点から、教科書を見ると、学校で教えられる解法が、低いところに見えて、びっくり驚いて、おもしろがって、意欲を湧かせます。 ほとんどの子が、高校の参考書に興味を示してくれます。「へえ、こんなの習うんだ」というわけです。もちろん、私は、あおります。「この指数関数、対数関数なんて、おっもしろいぞ。」「三次関数なんて、こんな形だ。」「三角関数は、波だ。この世は、粒と波の両方の側面をもっているって、知ってるだろう?その波の性質を解く、突破口だ。ここから、さらに進むと、波動関数生まれる。これは、現代物理学が取り組む、宇宙のなぞ、そのものだ。こういう方程式が成り立つことはわかってるんだけれど、この方程式の意味が、実のところ、まだ、人類は理解できていないんだ。」「この意味を解明したら、君はノーベル賞だよ。」…… 話をまた、もとに戻しまして、教育の原則として、やさしいことから、難しい問題に進むのが、カリキュラムの原則と言われていますが、本当にそうでしょうか?これは、科学的・実験的に確かめられているのでしょうか? 難しい問題からだと、人間は、不思議に意欲がわき、そして、理解も進むんじゃないでしょうか? 数学がわからないから、もっと、やさしい問題を、と言うのは、間違いじゃないでしょうか?もっともっと、ロマンのある高度な数学や、科学を、子ども達にぶつけていないからじゃないでしょうか? 子どもたちから、学問に対する「あこがれ」を奪ってしまっているのが学校教育だとしたら、この罪は重大だと思います。
2010.04.26
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新しいものを設計する人には、釈迦に説法ですが、、良い設計は、必要とされる機能を果たすべく、その機能に向き合った、それに最適な構造を模索して、作り上げます。 逆に失敗した設計は、本来の目的と違う、別の機能を果たそうとしているものです。それは、しばしば、従来の組織構造を何とか、活かそうとするところからねじ曲がってしまうことが多いものです。 その意味で、日本の学校と日本航空が重なって見える科学寅です。今日も日航が、過去最悪の1600億円の赤字になったと、報道されていましたね。1600オクですよ。あくまでも、企業ですよ。ダム建設の公共事業じゃありませんよ。企業の目的は、利益を出すことです。その意味で、目的逸脱も甚だしいわけです。 いや、日航の目的は、社会的貢献なんだから、赤字だけで評価すべきではない、という考えもあるでしょう。でも、逆から言えば、そういう別の考えをもっているから、こんな赤字体質を変えられなかったわけです。もちろん、社員は真面目に働いてきたでしょう。しかし、そのエネルギーの使い方、方向性が問題なのです。 航空産業を取り巻く、社会的ニーズも、どんどん変化してきているのにそれに、それに対応変化しようとして来なかった、過去の栄光の方程式を捨てられなかったことに問題があります。 昔の日本軍が、失敗したのも、戦争に勝つという目的に対して、組織の権益という横道に目的が反れていたのが、根本問題だと、私は理解しています。 なぜ、こんなことを書くかといいますと、(私も回りくどいなあ)学校は、本当に学力向上を目指す組織なんだろうか?ということです。 え?当ったり前じゃないか? 私にはそう思えません。別の目的と、その構造をもっているところに、とってつけたように、学力向上というお題目が、ちょこんと、たんこぶのように乗っかっているのが現状のように思えます。 もちろん、その前に、何が「学力」か、という問題があります。とりあえず、「子ども一人ひとりが、将来、自分の未来を切り開いていける力」とでもしておきましょうか。 私は、教師批判をしているのではありません。学校の中に6年くらいいて、先生達の苦労は、肌身に感じています。 私が言いたいのは、その先生たちの苦労のエネルギーがどこに吸収されているのか、ということです。もし、学校が学力向上のための組織であるなら、7~8割は、授業向上のために使われるのが当然です。 しかし、7~8割が、生徒指導の方に使われるのが、まぎれもない現実です。2割が授業なら、まだ良い方です。 え?生徒指導も学力につながる?それは、日航の社会貢献と同じ発想です。社会貢献が利益につながるんだ??だったら、NPOは、どこも儲かっているはずです。 同じように、生徒管理が学力向上につながるという発想は、しかも、それが、組織を上げてされるということは、 完全な「すりかえ」です。「だって、統制しなければ、授業が成り立たないんだもの」確かに、そうです。ひどいもんです。だったら、今の授業システムそのものが、子どもたちのニーズから、乖離してしまっているのではないか、と考えるのが、当然でしょう。こちらが用意した、授業システムという枠、学校運営という枠に生徒を合わさせようとするから、無理が生じるのです。 なぜに、それまで、従来のやり方にこだわるのか?それは、生徒を管理側の言うことをきかせることそのこと自体が、学校の目的となっているからです。 生徒のために、学校が変わることを目的とするんじゃなくて、学校のために、自分を空しくする生徒をつくるのが、真の目的だからです。 そうです。学校の機能、つまり社会的目的は、「体制に順応する人間」をつくることだったのです。これは、明治から、基本的に何も変わっていないのです。だから、順応できない人間は、「いけない」わけです。生徒や社会状況に順応できない学校が、悪いのではないのです。 そう理解すれば、先生たちの苦労の方向も理解できます。学校のセレモニーが十年一日どころか、40年前とさっぱり変わっていないのも、なあるほど、って、理解できます。 ところが、日本というか、現代社会が求めている学校の機能というのは、とっくに違うわけです。少なくとも、健全な市民、ひとりひとりが求めるものは、違います。一人、ひとりの子どもが、生きる喜びを拡大する教育です。 生きる喜びを拡大できなければ、それば、失敗なのです。 今、学校に行って、それを失って出てくる子が続出しています。 これは、目的が違うのですから、当然なんですね。
2010.04.25
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昨日の平方根の話で、では、どのように解説すれば? とモアイさんからコメントをいただきました。そりゃ、当然で、私もズルイなあ、と我ながら思います。 一つのものを説明するにも、いろんな角度があります。私は、教科書を批判しているのではなく、(実は、教科書は、丁寧に、よく書かれている)教科書を使っての、教師の指導の仕方に、もっと工夫を配慮をお願いしたいと思うのです。 これは、こうだからね、こうでしょう?だから、こう証明されるんだよ、という論理による解説は、私には、たとえば、このように感じられるのです。たとえば、自動車というものを説明する場合ですよ、こういう部品があります。こちらは、こういう部品です。このパーツとこのパーツをこういう風に組み合わせるとなんと、エンジンが動くのです。そして、このように、車輪と組み合わせると道路を走るんですよ。わかった? てな、感じ。違和感を感じませんか? ここには、フォードの思いも、トヨタやホンダの物語も、また、車社会の影も、ありません。 私だったら、ですよ、まず、ピタゴラスの話から、つまり無理数の話からいきたいと思います。 余談ですが、私は、この「無理数」という言葉、違和感を感じます。何と表現すべきか、わかりませんが、ある人は、「無比数」が適当じゃないか、って言っています。 さらに、脱線。「虚数」って言葉も、誤解のもとですよね。 さて、ルートですが、ギリシャ哲学が花開いている頃、つまり、万物の根源を見つけようと情熱を傾けていたとき、ピタゴラスは、自然界が、一定の法則に支配されていることに気づきます。そして、その法則が、何と数式で表されることも。音楽の和音から、惑星の軌道にいたるまで、美しい整数比があるではありませんか!?ピタゴラスは、そのあまりの美しさに、惚れこんでしまい、数をあがめる「ピタゴラス教団」をつくってしまうのです。 そして、「万物の根源は数である」と主張したのです。ついに、目に見えないもの、観念的なものに根源を求めたのです。これは、すごいことだと思います。 一見、アホなことだと思うかもしれませんが、現代科学にも通じるものがあるんじゃないでしょうか? ところで、その教団の中で生まれた、例のピタゴラスの定理、つまり、三平方の定理がとんでもない結論をもたらします。ピタゴラスが、神聖な「数」と考えていたのは、整数と、整数比だけでした。何せ、この世界の秩序は、整数とその比によって、成り立っているというのが、教義でしたんで。 しかし、そんな中で、ピタゴラスの定理を解けば、どうしても割り切れない、整数でも分数でもない、「無理数」が出てきてしまうことにある弟子が気づいてしまうのです。これには、ピタゴラス、大ショック。教祖様は、自分で自分の教えを否定することになっちゃったのです。 そこで、ピタゴラスはどうしたか…何と、その「無理数」を発見した弟子を、殺してしまうのです。ここには、諸説があるのですが、殺したりして、悲劇的なことになったことは、間違いないようです。 殺人までして、教団の教えを否定する無理数の存在を闇に葬ろうとしたのです。でも、最後は、この無理数とは別に、市民の反感を買ったのか、戦争に巻き込まれたのかして、弟子も、ピタゴラスも、殺されていくのですが。ともかく「無理数」には、ドラマがあります。 ところで、と。話は飛んで、じゃあ、この変な数、無理数を何と表現すればいいのか。という問題になります。いちいち、ジュゲムジュゲムじゃないですが、1.41421356やってらんないわけです。 円周率は、π自然定数は eなどと、一つの記号であらわしちゃいます。 だったら、2の平方根も、何か、アルファベットでも、ギリシャ文字でも、何か1字で表せばいいんじゃないか? しかし、そうは、いかないことに気が付きます。この平方根という変な数は、一つや二つじゃないことに気が付きます。無数にあるのです。 じゃあ、どうすれば?そうです。文字と数を組み合わせるのです。皆さんだったら、どう表しますか? ちなみに、英語では、2乗根のことを、square root と書きます。だから、sqr2 なんてどうでしょう?え?まだ、めんどうくさい? じゃ、もっと、カンタンにって、ドイツのルドルフという数学者が、羽飾りのついた「r」に数字を組み合わせて作ったのが、これです。(って、ここで見せられませんが)ここでのrは、英語のrootからではなく、ラテン語のradix(これも、根っこの意味)からだそうです。でも、さらに、このルドルフさんは、改良を重ね、今のルートの記号の横棒が無いものに、書き改めました。さらに、さらに、上の横棒をひっぱたのが、かの有名な、フランスの哲学者、デカルトさんなのです。 私たちは、教科書や先生から、これは、ルートという記号で、こう使います。と言われると、あたかも、天地創造されたかなたから、決まっている宇宙の真理のように錯覚してしまいがちです。 でも、数学の記号でさえ、とっても、人間くさいのです。じゃ、なおさら、科学の法則もそうですし、道具として使っている自動車や、パソコンなども、人間のドロドロした思いの結晶であり、こういう形をしているのが、「真理」でも何でもないのです。 必要性が変われば、どんどん変更していっていいのです。 ところで、さらに脱線、このルート、根っこという言葉、ふさわしいでしょうかねえ?もっといい言葉、思いつきませんか?どうして平方「根」なんだ。だったら、平方は、幹なのか、花なのか??葉っぱ?
2010.04.24
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今、中学3年生は、平方根を勉強しているところです。大人の皆さんは、もうすっかり馴染んでいるでしょうが??この平方根っていうの、つまりこの√5なんていうの、しっくりきます? 教科書には、こう書いてあります。「一般に、ある未知数Xが2乗してaとなるとき、すなわち Xの2乗=aであるとき、その解(根)をaの平方根といい、√aと表す。」 ごもっとも。その通りです。完璧です。でも、これで、「わかる」でしょうか?中学生がぱっと教えられて、「わかっちゃった」ら、逆に怖いんじゃないでしょうか? 「わかる」という言葉のレベルにもいろいろあります。「2回掛けたら、aになる数なんだ。へえええ。」というレベルもあるでしょう。「こう問題を出されたら、こう解けばいいんだ。」っていうレベルもあるでしょう。理屈は、わかるよ。でも、何か、体がしっくりこないんじゃないでしょうか?宮城県の言葉で言えば、「いずい」のです。 でも、中学3年生が、もし、この「いずい」感覚を封殺して、いや、こんなもんさ、数学なんて。わけわかんなくても、教えられたとおり、その通り覚えちゃえばいいのさ。 って、精神状態になっているとしたら、これは、とっても悲しいことだと思いませんか?こんな数学、学校を卒業しても、自主的に続けたいと思いますか? だいたいにおいて、どうして、平方根なんて勉強しなければならないんだよ。俺は、「教えて」って頼んじゃいないぜ。この√を組み合わせた計算なんて、ただのイジメじゃん。 ここに、論理で人を説得することの限界を感じるのは、私だけでしょうか? こうだから、こうでしょう?そうすると、こjなるでしょう?だから、こうなるんだよ。 と、きれいに紙に方程式を書いて説明したとします。しかし、これで理屈では、そうなんよなあ。そうなんだろうなあ。と「わかって」も、ズシンと、わかっていない。体が納得しないのです。上滑りをしているのです。 私は、ズシンとくる「わかる」じゃなけりゃ、役に立たないと思うし、本当のおもしろさを逃がしてしまうと思います。この√のおもしろさを、伝えないで、「わからせて」しまうことは、子どもたちから、数学の楽しさを奪う、一種の泥棒だとさえ思います。 科学の概念もそうですが、数学の概念、たとえば、この√という記号ひとつにも、人類が長い歴史の中で、いろんな人の試行錯誤がぎっしり詰まっているのです。「思い」がいっぱい詰まっているのです。 その歴史を素通りして、結果だけ、つまり、定義だけ伝えても、何の感動も湧くわけがありません。 また、何もズシンと来ないのに、カリキュラムに追われて、どんどん先に進んでしまう授業に「待った。どうも、しっくり来ないんですよ。」と言える子どもを育てたいものです。それを許す、いや、大歓迎する空気をつくりたい。 これこそ、本当の民主主義だと思います。
2010.04.23
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子どもは、表現が下手です。だから、自分が、つまづいている個所を論理的に説明なんかできません。 でも、心の中に、モヤモヤがずうっと、ぐちゅぐちゅしているのです。そして、それが解決できないと、それを無理やり覚え込まなければならないと覚悟すると、そうです。嫌いになっちゃうんです。 子どもは、大人の常識とは、ちょっとずれた脇道でつまずいているものです。たとえば、3+7×9の計算、大人は、当たり前に、掛け算からするものだと思うのですが、子どもの気持ちからすれば、どうして、左から順にしていけないのか、気持ちの整理がつかないものです。また、割り算の計算も、他の三つの計算は、右からするのに、割り算だけ左からするので、とっても違和感を覚えます。そして、違和感を覚える子の方が、自分の感覚をしっかりもっていて、将来楽しみなことが多いのです。 それを放っておかれると、こんなモヤモヤが積み重なって、そのうちに、理屈もへちまもあるもんか、って覚えるのが算数だ、ってなってしまうのです。 これらは、カリキュラムを丁寧に、上手に教えさえすれば解決する問題ではないです。指導案自体が、そういう子どもの気持ちを配慮していないことが多いのです。 子どもがちょっとでも、わからない、とか、違和感がある、というときは、それだけの理由が必ずある、という立場を堅持する必要があります。そこから、大人が気づかない、貴重な考察を得られることが多いのです。要は、子どものアタマの中がどのように動いているのかを深く察することです。 もちろん、今日の記事は、私自身への叱咤激励です。 さあ、今日も、私が子どもに、教えられに行くぞ!
2010.04.22
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子どもの心に、火をつけることを思いめぐらしていたら、ふと、ひらめいたことがあります。 一昨日の日記に、森の声さんが、コメントで「閉ざされた系の中の論理を、系の外側の論理で論破することは出来ません。」とおっしゃってくださいました。 そうなんです。私は、昔、ある伝統的宗教の信者でした。親・兄弟から、しきりに抜けることを説得され、青春の輝きだった部活の部員たちにも、ストライキをされ、最後には、隔離・軟禁までされてしまいました。それでも、信仰は、微動だにしませんでした。まさに、完璧な閉ざされた系だったのです。 その私が、いともあっさり? (とても苦しみましたが)組織を離れたのは、組織内の子どもへの教育方針に疑問をもったのが、発端でした。つまり、内部での一言でした。一つ疑問を持ち始めると、もうドミノ倒しです。逆にどんなに説得されても、行く気にならなくなるんですから、ものすごく不思議なことです。 その後、今度は、うちの娘がはまりまして、何とか、常識を取り戻してやりたいと夫婦そろって、工作をし続けているのですが、これだけは、やはり、外部から説得できるものではありません。 一種の弱い洗脳なんでしょうが、この解き方は、どうすればいいんだろう?ぜひ、学びたいと思っています。 勉強がトラウマになった子や、教師や親に反抗するしか思いつかない子がいます。そんな子の世界も、一種、閉じていることを感じます。教師の説得で、改心なんて、夢のまた夢だってこと感じませんか?外見上は、わかったように見せておいて、実は、中身は、全然変わっていないのです。 じゃあ、その閉ざされた系とコミュニケーションをして、影響を与える方法は無いのか? よく、数学的、論理的に考えれば、正しい答えが見つかったり、人を説得できたり新しいものが創造できるように言う人がいます。 確かに、論理は、人と論争をするための重要なツールでした。 しかし、論理がしてくれる仕事って、自分の系の論理や仮説が正しいかどうかを検証したり、自分の正しさを立証することくらいなのです。 論理によって、別の系の間違いを指摘し、改心させたり、さらには、新しいものを創造したりはできないのです。 だから、論理を超えるものが必要です。ありました。「感情」です。どんなに冷静な戦略家も、一瞬の「感情」が、そのセオリーを放り出して禁断の核ミサイルのボタンを押してしまうことはよくあることです。感情こそが、完璧な秩序の平面に歪みをもたらし、その均衡を破壊します。でも、こんなことを言うと、すぐスピリチュアルの世界に、引用されてしまうので、用心・用心。 論理的な人ほど、神経症」やノイローゼになりやすいようです。人生の恐怖を論理的に、解決しようと何事についても、納得してから、行動をしたいと思ってしまうようです。 ところが、頭では納得出来ても、感情が納得出来なくて、やっぱり行動できなくなるのです。子どもの頃できていたことが、中学生も後半になると急に、平気で出来なくなる事があります。今まで出来た事が、在るときを境に「身構えてしまって」出来なくなってしまうのです。論理的に生きようとしだすからです。感情というものは、論理ではどうする事も出来ません。論理を超えた論理が必要になってきます。それで、禅の教えの「分別を捨てろ」は、このことと関係しているのでしょう。論理の脳ミソでは解決する能力がないのです。解決能力のない脳で問題を抱えているのが「ノイローゼ」「悩み、不安」なのです。 子どもの論理の世界をみくびってはいけません。それはそれで、立派な、ほぼ閉じられた論理体系なのです。 教師は、押し付けではなく、地道な、論理を超える論理で子どもの内部変革を促さなければなりません。その一つが、良質な問題に、真正面からぶつかる機会を増やすことであり、また、もう一つが、教師の感情そのものなのだと思います。 ワクワク・ドキドキ・活き活きした教師の感情が、閉ざされた系の扉を開いていくのだと、再び感じました。 また、系を飛び越え、打ち破り、新しい理論を創造するエネルギーも感情こそにあるのではないでしょうか? 鳩山首相が窮地に陥っているのも、感情・魂が、前面に出ていないからではないのかな?
2010.04.21
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学校や塾の授業は、ある意味、思考の強制連行です。「これは、大事だから覚えなさい。」「これは、こう解きなさい。」「こう考えなさい。」そもそも、因数分解にしろ、三角関数にしろ、そんな世界を作ったのは、ある特定の学者であって、その世界に子ども達を無理やり連れていこうとしているのですから自分のアタマを大事にしている子どもほど、逃げたくなるものです。 先生と教師も、恋愛関係に似ていて、「教えたい、教えたい」と熱を入れるほど生徒は「逃げたい、逃げたい」と頑張ります。 物理的に拉致監禁されるのも、つらいけれど、強制的に考えさせられるほど実は、つらいものはないし、人間性へのダメージも大きいのではないかと、思います。 私は、科学も数学も好きですが、好きだからこそ「解き方を覚えて、速く正確に解答するのが学問なんだ」って、子どもたちが思っちゃうことに、耐えられません。 だから、試験勉強は、こりゃ、本当の学問とは違うんだよ。ただの、点取りゲームさ。だけど、せっかくだから、このゲームを徹底的に楽しもうって、ハッパをかけています。 が、何とか、子ども自身が考えたくなる方向、考えるのが、自然で楽しい方向へ導いてやれないものだろうか、と日夜悩んでいます。もちろん、全国、全世界の教師が、これは、気にしているところでしょう。そして、とっても難しい問題なのです。なぜ、難しいのか? 自分が、おもしろいと感じること自分が楽しいと感じること、自分が大事と思うことこれらを、人は、同じように感じていないからです。 私には、劣等感があります。それは、小さいときから、学問が、ほとんど何でも好きだったのです。だから、学問が嫌いな人の気持ちをつかめないところがあります。ちょっと、嫌みかもしれませんが、勉強ができたかどうかとは、違います。 でも、「勉強」は嫌いでした。自分で勝手にする学問が、この上なく好きですが、強制的にさせられるドリルは大嫌いでした。 人間は、意味を求める動物です。意味の無いドリル、意味のわかりにくい問題を大量にさせられるのは、拷問です。 もしかして、今の教育は、人権宣言に違反しているのではないでしょうか? 子どもの頃、イヤだった想いを、大人の教師という立場になると宇宙のかなたに忘れてしまう。ずっと子どもの心を持ち続けられている人、こういう人こそ、教員に採用して欲しいものです。
2010.04.21
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予想外の出来事、というのは、予想をしなければ、出会えませんね。単なる知識の詰め込みでは、予想外の感動は味わえません。 そして、その予想は、主体的な問いかけであればあるほど、効果は高いですし、別の予想の子との、対立関係があれば、あるほど、問題点が鋭くなってきます。そして、説得するための道具が欲しくなります。 そこで登場するのは、原理原則です。 自由に思考させればいい、と言っても、一般的原理や、基本概念を使わないと自由に奥深くは考えられないことに、気づかされます。 それらを、論理の筋として使って議論のバトルをすると、実験は、格段に深い、哲学の世界、宇宙の神秘にタッチするまでになります。 科学を学ぶ醍醐味の一つは、予言能力の増大です。「こういうことが、原理だとすると、この場合にもあてはまって、こうなるはずだ」ということです。つまり、仮説力です。 この力は、通常の授業では、育成することが難しいと思われます。問題集を解くプロセスでも、いくらか使うことは使いますね。でも、仮説力そのものを鍛えることを目的としていませんから、一足飛びに、結論に行ってしまいがちです。 さらには、この仮説力は、人生観にまで触れるのです。ある子どもの感想文です。友達の予想に引きずられて、予想変更して、結局間違ってしまった子の文章です。「いくら敵側が、反対意見をだして、うるさくとも、自分が正しいと思ったことはらりとげることだ。自分は操り人形ではない。やりとげないと、人に支配されるようになってしまう。弱いものはしっかりとした人間になれない。自分が正しいと思ったことは、一人になってもなるべきやりとげようと思う。」 逆にこういう感想文もあります。「ぼくは、はじめの意見を変えなかった。さあ、じっけんだ。じっけん!やっぱりぼくが後から考えたとおりだった。ぼくはまちがえた。やっぱり人に、きたない、と言われても、人の言うこともとりいれるべきだと思う。」
2010.04.20
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科学実験をしてまわっている私が言うのも変みたいですが、何度も言いますが、実物教育と科学とは、違います。実物教育に期待されている人たちの科学観は、ものごとをありのままに観察して、とらわれの無い心で見れば、迷信を排して、真実に近づけるというものでしょう。 もちろん、これも、中世を支配していた権威主義的な偏見からすれば、画期的なことではあります。アリストテレスという紀元前の学者の言ったことも、鵜呑みにするという風潮がありました。だから、たとえば、アリストテレスの、「重いものは、軽いものより速く落ちる」という理論を2000年近くも、科学者たちはずっと信じ込んできたのです。そこに挑戦したガリレオは、すばらいいものがあります。 しかし、いわゆる「帰納主義」ですが、たくさんの観察や実験を切り返し、データを蓄積してそれに基づいて、理論を構築したから、科学ですよ~、っていう方法は、なんの問題もないようでいて、とんでもない落とし穴があります。え?これこそが、客観的というもんじゃないの? 実は、データから導き出される理論というのはいっぱいあるということに気づいて欲しいのです。先の天動説だって、立派に説明しているのです。天体の動きを。 さらに、典型的な似非科学でも、いくつかの「証拠」や「実験結果」からすぐに超能力や、霊能力の理論に結びつけることができちゃうんです。 私たちも、日常的に使いますよね、自分の主張を通したいばかりに、自分の都合の良いデータを都合よく解釈して、いっぱいもってくるわけです。ほら、これらのデータが語っている、これに目をそむけるのは、科学的ではないって。オカルト宗教だって、すぐに科学になってしまいます。人間って、目の前で、不思議なことを見せられると、すぐに信じてしまうもんですよね。それがテレビ画像でさえそうなんですから、目の前で繰り広げられたら、カンタンに信じてしまいます。 この帰納主義だけでは、中世の迷信の排除どころか、新しいオカルトを大量生産してしまうのです。 高校以上の数学をみれば感じられるかと思いますが、新しい数学、矛盾の無い理論なんて、いくらでも作りだせるものです。しかも、それらは、どこにも、矛盾点が無い完璧なものを。だから、オーム真理教の科学だって、ちゃんと頭の良い人が見れば、間違いをすぐ指摘できるのだというもんじゃないのです。ボロが出ないものも、いっぱいあるのです。では、どうやって?ほんものの科学って見分けるの? ここが、科学哲学のおもしろいところであり、科学論が戦わされてきたところです。 でもね、現代の相対性理論だって、量子物理学だって、厳密に言ったら、似非科学の仲間なんです。 さらに、学校でならっている科学さえもが、みんな似非科学なんです。ホンモノの科学というものがあるとすれば、つまり、正しいと確実に言える理論があるとすれば、そうとう空虚なもになってしまうのです。極論すれば、この世にあるのは、似非科学だけなのです。だから、科学なんて学ばなくてもいいんじゃなくて、だから、常に疑いをもって思考する習慣が大切だということです。このことを、学校教育は、教えていない。または、力が入っていないと感じるのです。
2010.04.19
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私は、よく落下の法則にひっかけた、問題を出すのですが、落下と言えば、頭の良い人ほど、ガリレオが頭に浮かぶようです。ガリレオと言えば、落下運動を研究しただけに、重力や引力についても、ニュートン以前とは言え、何かしかの切り口をもっていたと思いますよね。 何せ、地動説で戦ったんですし、望遠鏡で惑星の運動を「ありのままに」観察したんですから。 ところが、「見れども見えず」ということが、ガリレオ自身にも起こっていたのです。 天体は完全だと思い込んでいる偉い人たちが、ガリレオの望遠鏡で、月がデコボコした球であることが見えたにもかかわらず望遠鏡の方を否定してしまったようなことが、ガリレオにもあったのです。 ケプラーが、「潮汐の原因は、太陽と月が磁力に似たある種の力で海水を引っ張るためらしい」と万有引力の概念にあと一歩にまで迫っていたにも関わらず、実際、それを裏付けるデータも揃っていたにも関わらず、ガリレイは遠隔力なるものを認められなかったのです。 彼は言います。「ケプラーが、月の水に対する支配力やまた、隠れた性質や同じような子どもたしいことに耳を傾け、同意しているのは、驚くべきことであり、そんなものは、「想像力の産物」にすぎず、それが「潮の満ち引きの原因である、あるいはありうるなどというのはとんでもないことだ」と嘲笑しているのです。 本来なら、地動説体、天動説の戦いにおける最も頼りになる、同盟軍であるはずのケプラーに対するガリレオの態度。 これは、私たちにとって、笑えない教訓です。 たしかに、ケプラーは占星術と関係がありました。そして、月がはるかに離れた地上の物体に影響を与えるなんて中世そのままの、魔術思想の妄想か、占星術のたわごとであり、ガリレオの目指す、近代科学にとって、打倒すべき対象でこそあれ、到底、受け入れることはできなかったのです。 天体が回転したり、磁石が引き寄せたりする現象は、それは、目に見えない微細な物質(エーテルなど)が回転していたり、出入りしているからだと、考えることこそが、科学的だと思われていました。それが常識でした。 我々は、幼い頃から、ニュートンの引力の法則の教育を受けているがために、大地が私たちを引っ張るという考えに、違和感を抱かないのですが、そういう前教育が無い場合、「物が落ちる」ということだけでも、たいへんなハードルがあったのです。 まるで、「だまし絵」の世界で、絵の模様の中のある輪郭に意識を集中すると別の模様や図案が見えなくなってしまうのと同じようなもんでしょう。 実際、天動説だって、バカにできない緻密な論理体系をもっていたのです。だから、天体の動きを、天動説でも地動説でもどちらでも説明できたとも言えます。 このように、別の考えでも、ちゃんと説明できちゃう、という概念は、結構いっぱいありますし、現在、常識となっている科学理論も、いつひっくり返るか、わかりません。 要は、いろんな文脈でも、読める力を培っていきたいものだと思った次第です。
2010.04.18
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お陰さまで、新年度も多くも団体様から、科学教室の予約をいただいております。ありがとうございます! ただ、私が言うのも変かもしれませんが、気になることがあります。依頼される方々の言葉の端はしに、「今、学校では実験を見せないから、理科ができないだよね」とか、「実際にモノを見せないとダメだね」というフレーズを聞きます。 つまり、実物教育への期待の中で、科学実験教室をとらえられているのです。 実は、これは、大きな勘違いだと思っています。 科学の基本概念というものは、目で見えません。原子にしろ、力にしろ、宇宙論にしろ、進化論にしろ、目で見えない、肌で触れられないものを想像して考えるところに、骨組みがあるのです。 目で見えない考えを使って、目で見えるものを分析したり、仮説を立てて、実験してみると驚くべき、常識では考えられない結果が得られるのです。 目で見えるものを大切にするという思想は、一見科学的なようですが、「自由な想像の翼を認めない」という恐ろしいワナが口をあけています。 もちろん、最終的には、その想像を使って仮説を立て、実験を繰り返して、本当かどうかを確かめていくわけですが、その前提として、自由な仮説力が豊かに培われている必要があるのです。 このワナは、日本の場合、実は、文字通り、ワナなのです。「理科」という教科は、明治政府が途中から独自に作った言葉ですが、それまでの物理や化学とどう違うのかというと「実物教育」という枠をはめたのです。 ですから、理科には、原子が出てきません。進化論も出てきません。 なぜ、実物にこだわったのでしょうか?それは、自由な発想を制限したかったからとしか考えられません。 私が私の教室を理科実験と言わずに、科学実験と言っているのも、ここにこだわりがあります。
2010.04.17
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近代科学の初期の頃は、まだ、直接接触しない遠隔作用というのは、霊魂的な、また、魔術的なものというのが、常識でした。現代では、磁石や静電気の「引力」は幼いときからの教育効果により、ほとんどの人が魔術的なものとは、切り離されて考えています。しかし、1600年に地球が巨大な磁石であることを発見したギルバートですら、地球を霊魂をもつ生命的な存在とみなしていました。そして、そのギルバートの影響を受けてケプラーが天体間の重力を構想したのも、遠隔作用としての魔術的・占星術的な連想からでした。 科学史を学んでいると自然に対して、宗教的な自然観や、魔術的な自然観といった多様な見方がごちゃごちゃしていた時代の歴史を現代人の常識の近代科学のみが正しいものと認められるモノサシで、一刀両断することは適切ではないことがわかります。 また、逆に、中世社会の分析を中世の概念や言葉だけで説明しては、相対化して、幅広く検討することはできないことも当然です。 江戸時代の教育を分析する場合江戸時代の言葉や概念だけを使って説明しても幅広く相対化することはできません。しかし、また、現代の常識語だけ使っても説明できないものです。 同じように、現代の教育の分析をする場合、現代の常識的な単語を使って説明や議論をしても本当に、歴史に耐えうる議論ができているのか、はなはだ疑問があります。 たとえば、学力という言葉現代の学力という言葉とその意味が、歴史の中でどう評価されるものでしょうか? 最近、フィンランドの歴史特に、近現代の大国の狭間で、必死に小国の独立を死守してきた歴史をちょっと学びまして、かの国が、どうしてあれほどまでに、教育に真剣なのかが、わかってきたような気がします。 日本の教育がこれほど衰退してきたのも、危機感が無いからとも言えるのではないでしょうか?でも、ある意味、それはそれで幸せなことなんでしょうがね。いやいや、こういう教育が本来、人生がもっている豊かさ、楽しさを奪っているとすれば、これは罪でしょう。このツケが、そのうちドバッとやってくるんじゃないでしょうか。
2010.04.16
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学校はたいへんです。私も、そのたいへんさから、逃げるように?今年、学校のお手伝いをやめたわけですがまあ、私なんか、お客さんもいいところで、ただの傍観者とも言えました。 でもね、学校に行くと疲れるのです。その疲れは、塾や家庭教師、そして科学講座での疲れとは全然異質のもので、根源のエネルギーを奪い取っていきます。 たしかに、ひどい生徒がいっぱい、いっぱいいるのです。酷い、信じられない親もいっぱいいます。それらに対し、学校が毅然と立ち向かうことは必要です。今、直接的には、まともに立ち向かっていないことこそが、問題だとも言えます。 しかし、そういう問題が起きる土壌集団の規律になじまない子どもが大勢生まれる背景これを、多面的に調査し、実証し、議論する姿勢すなわち思考の柔軟性が、足りないと思うのです。 私は、教育機関というのは、実社会よりも、柔軟性に富んだ思考活動を保証すべきところだと思うのですが、現実は、実社会よりも、硬直化した化石人間・化石のようなモラルの組織です。 これも、伝統を受け継がせるという役目だと考えれば当然だ、という考えもあるでしょうが、現代の学校教育に求められているものは、知識や礼儀作法も、たしかにありますが、それ以上に大切なのは、明日の日本を、そして世界を切り開いていく力です。テキストは無いのですよ。いや、今までのテキストを打ち破らなければ解決がつかないことだらけなんですよ。 すなわち、どうやって、自己変革していくか、です。これは、単なる知識では教えられない。教師自身が、そして、学校という組織自体が絶えず自己変革を繰り返している姿を見て子どもは、そのやり方とスピリッツを学ぶのです。 学校は、文化の最先端を指し示すべきです。今、いや、とっくの昔からですが、学校には、その活力がすっかり奪われています。 たしかに、文科省のせいにもできるでしょう。しかし、現状の制約の中でも、ありとあらゆる知恵と勇気を絞りだせば、すごいことができるはずだし、その姿勢が、生徒に伝染しないはずがありません。 要するに、エネルギーの方向を、みんなで燃えざるをえないようなワクワクする方向に向けて、そして、そちらに、今の2倍も3倍もエネルギーを出し切るのです。絶対に、今の何倍も働けます。時間じゃないですよ。知恵です。 学校の「たいへんさ」は自分は変わらずにおいといて、生徒を含めて、周囲だけをコントロールしようというところにものすごい「疲れ」を感じさせるのだと思います。 民間の「たいへんさ」は絶えざる自己変革のたいへんさです。昨年と同じテキストなんか、使えるわけがありません。 要は、常識のレベルを上げることです。こういうのが、学校なんだ、という常識レベルをもっと、もっと、高度なものに、変革していくことです。生徒の質が悪化しているのではなく、学校の質が、相対的に(社会の進歩に比較して)低下していることだけは確信をもって言えると思います。
2010.04.15
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学校教育は、体制順応型の子どもを育成するために作られていますね。そして、善し悪しとは別に、そこの順応した優等生が先生になっています。 ですから、線路からはみ出した生徒は、脱線をしているとしか、見えないのです。これは致し方がないことです。今のシステムでは。 でも、ドロップアウトした子どもたちへ本当の教育効果をもたらすためには、路線からはずれた子を、脱線者とみないで、道のまんなかを走っている子と認識することです。 その意味で、つくづく学校教育は無力だと実感しました。
2010.04.14
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家庭教師など、教育産業で最も大事なのは保護者から、金を出しただけのことはあると思われることつまり、成績が目に見えて上がることです。 これは、至極もっともなことで私たちの絶対使命でもあります。 しかし、そのための手段は、ほとんどの場合、答えを詰め込むこと安直な解き方をマネさせること条件反射の訓練をすることに頼っています。 日々、様々な教材が開発されていますがどれも、つまり答えを教えるものです。 思考力とは、答えを見つける力と言うより問いをつくる力です。何が善で、何が悪かを根本から、洗い直さなければならない時代それができなければ、とっても生き辛い時代に入っています。 問いをつくる力を養わせてやりたいものです。そして、それが、本当の成績をあげるポイントであることを実証してやりたいものです。 ところで 今の、私の課題は、ダイエットです~~。ずいぶん運動量が少なくなってしまいました。動きながら、知的仕事をこなす方法。そして、ストレスを食事以外で解消する方法です。これを仮説を立てて、実証していこうとしています!
2010.04.14
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もう、恥ずかしいです。あんまり更新していなかったもんですから、敷居が高くなってしまいました。 今年は、雑用(?)が多くなったもんですから、中学校の教員補助の仕事は、お休みさせてもらいました。あまり忙しすぎて、パソコンにも向かえなかったので、もう一度、人間らしさ、科学寅さんらしさを復活させようと学校をやめたのに、このブログに向かうまで、4月も、もう半分近くかかってしまいました。 えい、とばかり、とにかく書き始めています。お陰さまで、科学教室は、結構させていただいております。先日は、東北電力さん関係のお仕事?をさせていただきました。さらに、これから、角田市にあります、ロケットエンジン開発センター関連そこのイベントで、連続でお手伝いすることができそうです。 でも、それよりも、宿題がいっぱい残っておりまして、それをこれから、猛烈な勢いで、仕上げていこうと思います。 それから、昨年より、家庭教師の仕事が雪だるま式に増えておりまして本当に、お陰さまです。それだけで、ある程度、食べていけるほどになってきました。ご縁のあった方々との絆を大切にするためにも、いろいろフォローの時間が必要で、これから、今までの、ツケの解消に励むつもりです。 相澤、何やってるんだ、と思われている方々、本当に申し訳ありませんでした。今月中に、体制を立て直します。 では、では!
2010.04.13
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