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「失敗学のすすめ」(畑山洋太郎)の中のプロローグで今、求められている学習法について、著者がこう言っています。「創造力を身につける上でまずまず第一に必要なのは、決められた課題に解を出すことではなく、自分で課題を設定する能力です。あたえられた課題の答えのみを最短の道のりで出していく、いまの日本人が慣れ親しんでいる学習法では、少なくともいまの時代に求められている真の創造力を見につけることはできません。」 また、最強の物理学演習問題集と言われている「モスクワの森」でも、著者は、「最後に、指導者、そして特に学生諸君には、各自のオリジナル演習問題を作ることを希望する。現代の教育や教授法には、いくぶん実用主義的な傾向があり、出来合いの演習問題を解くことに多大な関心が払われている。しかし、想像力の翼を折り、創造的直感を摩滅させるようなことがあってはならない。」と。 そうですね。もっと、問題を創って楽しむ文化を広めたいですね。 実際、問題をつくる授業をしている先生もいます。中学校で連立方程式で解く問題を作らせる授業をしたところ生徒の感想は・ 今までのように解くばかりではなく,自分で問題を作れたので楽しかった。また,友達のを解いたりできたのがよかった。 ・ 問題を作るのは,とても難しかったけどおもしろかったです。問題を作ることはできたけど,答えが合わなかったりして大変だった。 ・ 問題を解くのは簡単だけど,作るのは難しかった。 ・ 楽しかったです。また,こんな問題作りをやってみたいです。今度はしっかり解ける問題を作りたいです。 ・ 問題作りは数字が合わなくてなかなか大変だった。でも楽しかったです。またやりたいです。 ・ 連立方程式を使えばいろいろ解けると思った。自分自身としては楽しくできた。問題を自分で作るのも悪くないなと思った。 ・ 楽しく問題を作ることができた。1回できちんとできた。でも,一人で作るのは難しいと思う。 ・ 数字を簡単にして作ったので,今回はちゃんとできた。ちょっと難しかったが,作っていておもしろかった。 ・ 自分で問題を作ったことがあまりないが,今日問題作りをして連立方程式の理解ができた。これからも解くだけではなく,問題も作りたいと思います。 ・ 最初は,どうやって問題を作ればいいのかわからなかったけど,最後まであきらめずに問題を作ることができた。 ・ 日本語の整理が難しくて,自分でも文章の意味がわからなくなってしまったけど,自分で問題を作るのはけっこうおもしろかった。 ・ 難しかった。先生の苦労がわかった。いいでしょう?学習効果だけでない、人間関係、社会関係にも良い効果がありそうです。実際、究極の試験勉強方法は、自分で試験問題を作ってしまうことでしょうね。 「期末テストの問題を作って、その解答と解説も書け。」という問題は、最高の問題ですよね。
2010.08.31
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問題1. 「何か面白い問題を考えよ。」問題2. 「問題1で作った問題に答えよ。」これが『科学者という仕事』という本の帯についていた「問題」です。著者は、「言語の脳科学」も著している酒井邦嘉先生「科学者の卵」たちへの心のこもったメッセージ集です。上の二つの問題。この両方を考えることが出来てはじめて、自立した研究者なんですね。 こういう問い立てというのは、学校では訓練されませんね。
2010.08.30
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大学センター試験の「倫理」、なかなか面白いものがあります。ふつう「倫理」を受ける人は少ないと思います。私も、さっぱり目を向けていなかったのですが、結構いけてます。ここに、2010年の第4問の問7は、疑似科学の問題でした。挑戦してみませんか?下線部fとは、「疑似科学」です。わかりますか?、東進ハイスクールの解答を載せます。 正に、今日的な課題だと思います。血液型と言えば、私なんか、典型的なB型だしな~って、勝手に思っていたのですが、人からは、典型的なA型でしょう、と言われることもしばしば。どのようにも解釈できちゃうんですよね。血液型と性格との間に特殊な関連を設定した統計的な検証も行われてはいるようですが、関連があることを裏付けるような統計データはまだ得られていないのです。それに、理論的にも科学的な根拠が存在していません。 もちろん、迷信・言い伝えとして扱うんならいいのです。しかし、科学的な説として扱われることがあるのが問題です。だから、血液型性格診断は、典型的な疑似科学の一つなのですね。 逆に興味深いのは、こういう説を聞いた後、人はどういう思いこみをもつのか、ということですね。「あ、私ってB型なんだ。だから~」って思っちゃいますよね。 薬の世界でもプラしボー効果ってありますが、思いこみで治っちゃうってのも、確かにありますからね。
2010.08.30
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英語嫌いで有名な、ノーベル賞科学者の益川敏英さんは、「先生の学問への動機づけはどういうところにあったのですか?」というインタビューに「学校の影響というよりは遊びですね。古本屋通いをして出くわした戦前の岩波の数学のシリーズだとか。面白いのです。日本の数学にしろ、物理にしろ、輸入するという意識があるので、こういう学問がなぜ必要かというところから説き起こしてしまうのだけれど、昔の本は、なぜこういう学問が必要か、どういう歴史があるのかというところから書いてあるので、面白いです。」とおっしゃっています。 理科離れについては、「根本的なところが間違っているのではないでしょうか。物理は公式を覚えないといけないと誤解されているのですが、大事なのはストーリーだと思います。全部覚える必要はなくて、だいたいの流れみたいなことを頭にいれたら、自分で再現すればいいわけです。」 「ありとあらゆることを教えなければいけないとは思わない。どこかに焦点を当てて、ていねいに学問の面白さを教えていくことが必要なのではないでしょうか。その学問の特徴となっていることを重点的に教える。あとはその考えの応用のようなものだから、ストーリーは紹介するということでよいでしょう。」 いかがでしょう。納得ですね。私も肝に銘じたいと思います。
2010.08.29
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アメリカの教育礼賛みたいなことを書いてきたんで、バランスをとりたいと思います。1996年「Lies My Teacher Told Me」が出版され、ベストセラーになりました。著者は、進歩派社会学者で、バーモント大学ローウェン教授です。今では、アメリカ教育界の権威となっている人です。そこでは、「教科書に書いてあることも間違いなら、それを教えている教師も歴史などまったく知らない」というショッキングなことでした。まず、中学・高校の社会・歴史のほとんどの教師は教科書に頼りきり。教科書に書いてあることは、すべて正しいと信じ切っている。ちょうど、聖書を原理主義者が読むのと同じです。自由闊達な意見交換ができていないのです。 まあ、末端の教育現場なんて、こんなもんでしょう。アメリカには、いろんな面があるのです。 でも、です。この批判をしたローウェンさんが、教育界の権威になったように修正機能は働いているのです。ずいぶん改善されたようです。真珠湾攻撃について「だまし討ち」という表現がなくなったそうです。日本が真珠湾に至る経過についても、ある意味、日本の教科書よりも的確に分析されています。また、原爆投下について、ずっと、その正当性を唱っていたのですが次第に、事実関係だけを書くようになっています。それどころか、原爆投下以外に、戦争の終結手段はなかったのか生徒たちに討議させる項目さえ、あらわれているようです。 それよりも、根本的に、日本の教科書と違うところは、その大きさ、分量です。大型で、百科事典みたいです。そして、その中身。常に生徒にテーマを与え、討議させるようにできています。 まず、章の概観の書き方から、刺激的です。たとえば、The War In The Pacific の章では17.What strategy did the United States use in fighting the Japanese in the Pacific ?18. Why did President Truman decide to use atomic weapons on HIroshima and Nagasaki?『 The Americans 』とテーマを与えることから始まり、『批判的に考えよう』では、「現在、核兵器は1945年当時より、非常に強力になっている。あなたは、こんにち核兵器の使用を支持するか?もしそうなら、どのような状況においてか?」と討議を促しています。 このような、討議スタイルの授業の土台の上に、先日のハーバードの白熱授業があるのですね。 このようにすれば、日本の歴史の授業も、「白熱」するものになるでしょうに。暗記中心の教育が、いかに歴史嫌いを作っていることか。 それから、アメリカでは、教科書は家に持ち帰るものじゃありません。学校に備え付けのものなのです。だから、分厚くてもOKなのです。また、教科書を選ぶ権限をもつ教師もいるようです。
2010.08.28
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アメリカやその教育を礼賛しているわけではありませんが、少なくとも、日本より望ましいところがあるのは事実です。その根本は、日本が、教育をする側にとって大変都合のよいことを柱にシステムができていることで、そこから、 画一的な教育が生まれています。 教育とは子どもたちに知識を詰め込むことではなく、その子が持っている個性をeducate(引き出して)やることは、議論するまでもないことだと思います。 以前、 「アメリカ人は個性を伸ばすためのどんな教育を受けるのですか」 という質問にあるアメリカ人は、次のように答えました。 「私たちは、( 教えられた知識を鵜呑 [うの] みにするのではなく ) あらゆることを疑ってみることを強調して教えられました。また、自分の得意とするものを見つけ、その特技によって自分の身を支えるようにということも強調して教えられました。 "What am I ?" ( 私って何?) と問うことは私にとってはごく自然なことであり、今までに何度も問いかけてきました。」 アメリカの教育は、生徒たちに自らの能カに気付かせるために、個々にいろいろな体験をさせます。それで、よい成績をとって、学校の名誉を高めるためではないのです。(もちろん、その嫌いがあるところもありますが)その典型が、学校内で所属するスポーツのクラブは、一年中同じクラブにいてはならないことになっていることです。 日本では 「一度やり始めたことは途中でやめてはいけません」 と教えられ、いったん入部したクラブをやめると、日本では落伍者だとか脱落者だとか言われてしまいがちです。 日本人の主体性の欠如は、民族のDNAに組み込まれているのかもしれませんが、それを助長しているのが、教育に他なりません。 我が子のためにも、まず、親の主体性が厳しく問われていると思います。
2010.08.27
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昨日の「ハーバード」は、アメリカの象徴と言っても、ある面、間違っていないでしょう。 それは、その建学の理念に見られます。それは、ピルグリム・ファーザーズがメイフラワー号でアメリカに上陸してから、十数年後には ハーバード・カレッジが設立されていることが象徴しています。 何もない土地にゼロから町を作り、宗教の拠点を立ち上げ、自分たちの生活基盤を構築していったピューリタンにとって、最大のそして緊急の課題だったのは、リーダーの養成だったのです。 当時、リーダーと言えば、牧師と政治家です。そこで、まず自分たちのリーダーとしての牧師養成機関として設立したのが、ハーバード・カレッジなのです。 ただし、ここからが、面白いところなのですが、ハーバード・カレッジのミッションは牧師の養成でしたが、ヨーロッパのような伝統的な神学研究機関とは異なるタイプを目指すのです。何しろ新しい世界を切り開くリーダーです。聖書に詳しいだけの神学研究家だけでは、やっていけないことは現実的にわかっていたんでしょうね。 そこでは、どのような教育を行えばいいでしょうか?そこで、使われだしたのが、「リベラル・アーツ」という古代ギリシャに源を発する言葉でした。そのリーダー養成のためのポイントは、・あらゆる問題を総合的に判断できる・狭い視点にとらわれず、幅広い視野で議論し、決断できる・説得力があり、多様な人々とコミュニケーションできる・人格的に優れている・体力的に優れている......など、つまりバランスがとれた人物の養成にあります。特定分野の知識・技術を狭く極めるのではなく、広い視野に立ったものの見方や考え方を身につけることに重きを置くリベラルアーツのカリキュラムは、このようにしてできあがってきたのです。だから、リベラル・アーツというのは、教養学部の「単なる雑学的な教養」とは違うのです。「リーダー養成」という、具体的・現実的なミッションにもとづく、教育体系なのです。 ところで、私の知っているところによれば、ハーバードは、その合理主義・理性重視の伝統から宗教的にはユニテリアンと関係があると思われます。ユニテリアンとは、プロテスタント一派ですが、三位一体に反対し、神の単一性を主張し、イエスの神性を否定する(伝統的なキリスト教からすれば)「異端」です。でも、この流れがあることは、間違いなくアメリカ合州国を建国したリーダーたちは、本音のところで理神論的、または、自然主義を信奉していたようです。 以下は、私が学術的に確かめたわけではないので、私の想像だと思ってください。 彼らは、超越的な創造主の存在を認めていますが、創造主が自然界に介入するという概念は否定しています。したがって、世界を理解するのに、神を理解する必要はないという立場です。また、さらに自然主義の立場をとっている人たちは、神の存在を否定も肯定もしないし、神を超越的存在とも内在的存在とも規定していません。つまり、自然主義は神を不必要な仮定としているのです。科学研究では神は、「余計なもの」だと見なしちゃってるわけです。科学的説明では、モラルや神の目的は、関係ないのです! 現代でもアメリカは、キリスト教原理主義者も多く、聖書の言葉を「そのまま」信じている人が多く、その政治的影響力は、無視できません。しかし、そのアメリカ人の指導者養成の機関は、皮肉にも?合理的な宗教観をもっているのです。ここに、アメリカのしたたかさがあるように思います。 戦前、日本のリーダー養成機関が、かえって教条主義的、一種の神秘主義思想に染まってしまったのと、正に対照的に思います。 ところで、日本でのリーダー養成機関は、どうなってるんでしょうねえ?大学は、その努めを果たしているのでしょうか?もし、大学に期待できないなら、どこで育っていけばいいのでしょう?
2010.08.27
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『ハーバード白熱教室』として有名なマイケル・サンデル教授の日本での特別授業が、東大で行われたそうですね。NHKで放映され、かなりの人気を集めて話題になっているようです。私も早速、WEBで動画を見てみました。確かに、面白い。こういう授業が理想の一つには違いないと思います。それと同時に、1000人を超す、ハーバードで履修者がいるということ。あのシステムに思いをめぐらす人も多いのではないでしょうか?日本のマスプロ授業とどこが違うのか?! まず、あの人数ですが、あれは、ハーバードの哲学科の講義だと勘違いしている人もいるようですが、あれはハーバードの一般教養なのです。だから、どの学部生も受けられるのです。 でも、日本なら、あんなに学生が多ければ、きめ細かな指導もままならなければ、テストの採点だってたいへんです。人数制限をするのが当然で、教授も、自分の利益に直接つながらない場合には、陰に陽に、ハードルを高くして、受講者制限を行うものです。 ところが、ハーバードでは、人数に応じて予算がつくわけです。そして、アシスタント・フェローという名前の研究生が、お給料をもらいながら、少人数を指導していくシステムができているそうなのです。それがあって、あの人数なんですね。 当然、授業は講義だけで終了していません。大量の読書の宿題があります。これはアメリカの大学の授業なら、当然のこと。あの講義に参加している学生は、講義の前に「リーディング・アサインメント」を読んだ上で発言しているのです。「正義の授業」の第一回に関する主なアサインメントは次の本となっています。•· Aristotle, Politics •· Locke, Second Treatise of Government •· Kant, Grounding of the Metaphysics of Morals •· Mill, Utilitarianism •· Rawls, A Theory of Justiceこれらは、超古典ですね。しかもビッグネーム。いかにも、リベラル・アートの伝統を引き継いだ、「グレート・ブック・アプロ―チ」です。 (このリベラルアーツについて、後ほど、考えをまとめてみたくなりました。)これらを、本だけでなく、電子的にも読むことができるようです。 日本では、教授が書いた、テキストを買わせられるだけですが、古典は、やっぱり一生ものです。 もちろん、最大の違いは、一方通行でない、インタラクティブなスタイルですね。でも、あの大講堂でのディスカッションだけではないのです。別の部屋で、履修者を小さなグループにわけ、それぞれを大学院生などからなるTF、ティーチング・フェローが担当し、毎週、少人数で討論しているのです。つまり、白熱教室の討論は、下地があるのです。 あの授業で、マイクをもって走り回っているのも、そして、配布物を配っているのもTFです。期末試験の採点もTFの仕事です。場合によっては採点だけではなく、試験問題の作成もTFとプロフェッサーの共同作業でおこなうようです。プロフェッサーのほうは毎年やっていると問題のネタが尽きるので、TFのフレッシュなアイデアを取り入れるわけです。 つまり、白熱授業というか、ハーバードの授業は、大学院生を中心とした若手を多数動員した少人数のきめ細かい指導を並行して行っているから成り立っているのです。それによって、若手研究者にも教育経験をつませ、さらに生活支援を実現しているわけです。 それにしても、サンデルの授業のシラバスを見ただけでも、哲学が、いかに日常に関係しているかを発見できます。あらゆる教員にとって、モデルの授業であるには違いないと思います。私もこれから、シリーズ全部を見てみたいと思います。
2010.08.26
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科学だけでなくあらゆる仕事は、「楽しむ」プラス「面白がる」ことがポイントだと、つくづく思います。 「面白がる」パワー、これは科学的に説明がつくようです。 脳ミソはどれもが大事ですが、最も人間らしい脳ミソの一つ、前頭前野に関係してるようです。前頭前野は記憶や思考・創造の中枢です。 この前頭前野を働き者にする秘訣の一つが、「面白がる気持ち」。前頭前野は「面白い!」という感情が生まれると俄然やる気を出すんですねえ。 「面白い・楽しい」という感情は、脳の辺縁系というところから、信号の形で、前頭前野に伝わります。そして「面白い」信号を受け取った前頭前野はフル回転して動きだし、いろんなことを考えてくれるんです。 反対に「つまらない・面白くない」という信号は、前頭前野を眠らせてしまいます。授業中、どうしてもアタマが働かないことって、こういう信号が発信されてるんでしょうね。人間、いやいや強制されても、効率も、良い考えも生まれないのはまさに当然。 全ての学習や仕事は、面白がることからスタートなんだと思います。よく、面白くないものをどうやって、面白くするか、と聞かれますが、まず、「面白がってみる」のです。そうすると、面白く思える切り口が見つかります。 面白いから、面白がれるわけではないんですね。この世では、面白くないことだらけ。だからこそ、最初に、これも面白くやれる、という仮説や信念で、スタートしなければならないことが、ほとんどでしょうね。 だからこそ、より多く「面白がる」ことができるのは、立派な才能だと思います。 私の場合、同じ仕事でも、いろんな選択肢を考えて、いつもと違うやり方をしてみるとき、「面白さ」を感じます。昨日は、「事件」の必要を書きましたが、個人的には、「事件」は必要ないことも多いですね。延々と続けることに、面白さがあったりします。でも、いずれも、ですが、「仮説」を立てていることに気が付きます。「こうやってもできるんじゃないか?」「こうすると、こうなるんじゃないか?」「こんな見方もあるんじゃないか?」う~ん、仮説力が、限りなく面白がりパワーの源みたいです。 このブログも、今、免許センターで更新手続き中に書いています。2時間の講習を(違反者で~す)どうやって、楽しむか、いろんな可能性を模索しています。少なくとも、ここは、涼しくて、ありがたいです。くれぐれも自動車の運転は、危険な仮説は立てないようにしましょうね。(反省)
2010.08.25
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「クラス活動が楽しげで、面白く勉強している学級は伸びる」これは、というのは、皆さん、同意されると思います。では、面白がる雰囲気の学級にするには、どんな方法論があるのかということを、科学寅は、考えているのですが、これは、いろいろ方法があるでしょうが、先ほどの授業のストーリーづくりは、核になるでしょう。では、学級活動ではどうだろう?と考えて、それは「アイデアを出す」ということだろうと気がつきました。アイデアを出せる人というのは、きっと面白く主体的に活動できると思うんですね。実は、アイデアは、すごいものを考えようとすると出てきません。大事なのは、すごくないものをとにかくたくさん出すこと。すごいアイデアを出す人というのは、その何倍もすごくないアイデアを出しています。とにかくたくさん出す。そのためのノウハウを考えればいいのです。 これには、まず、ブレーンストーミング゙のルールが参考になると思います。3つのルールです。(1)とにかくアイデアの量を出す、(2)とにかく相手を否定しない、(3)とにかく相手の意見に乗っかる、の3つです。大切にしたいことは、アイデアは個人でひねり出すのではなく、みんなで考えるものとして日々ブレストを習慣化することです。 もちろん、ブレストはアイデア出しのためだけではなく、いろいろな効用があります。まず、子どもたちのやる気を引き出すには最適な手法です。やる気。それは、学力などの結果よりも重要ですよね。「やる気のあるクラス」は、将来、何倍にも化けるもんです。そして、クラス全員がやる気をだすためには、一人ひとりが主体性を持つこと。それは、言い換えると学級の問題を自分の問題として考えるということです。例えば「どのようにしたらもっと学級は楽しくなるか?」というブレストをみんなでします。出てきたアイデアを実際に採用するかしないかは、どちらでもよくて、実はブレストをやるだけで子どもたちのやる気が全然変わってくるんですね。結果として、クラスの雰囲気がすごくよくなります。学級全体のことを初めて自分のこととして考えたという経験が大事なんです。これは本当におすすめです。 でも、よく、ブレストでアイデアを出したり、発言したりするのが苦手な人がいると思いますが、これも、心の中ではアイデアとか内容を思い付いているのに自信がなくて、恥ずかくて言えない場合なんかは、周りがどれだけフォローできるかで、ずいぶん改善します。その人のアイデアを無視しないで、できるだけ拾ってあげる。ときには膨らませてあげる。これを繰り返すと、その子に自信がついてきます。 あと、どうしても、他のことを考えている場合。例えば、ブレスト中に「今日の給食は何かなあ...」なんて考えている場合です。こんなときは、無理をして建設的な発言をさせる必要はないんです。「とにかく腹が減った」と発言すればいいんです。そこからアイデアが生まれることもありますから。 さらに重症な、本当に頭が真っ白になってしまう場合。そのようになったら、誰かの発言をオウム返しのように連呼させるだけでも十分場があたたまって活性化してきます。「何となく、誰ちゃんと同じ」でも全く構わないのです。 そして、何より大切なのは、無理やり発言させられないことです。自然体です。周りの人が、自然に発言していて、否定されない姿を見るとそのうち発言するようになりますし、発言しなくても、心の中では、発言するようになるもんです。心の中で、発言したら、もう勝ったようなもんですから。 とにかく、指導者が、面白がることですね。
2010.08.24
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最近、私は、「楽しい」よりも、『面白い』方が、重要だと感じています。微妙な違いですが、「楽しい」には、受け身の感じがつきまといます。「この試合を楽しみます」という言葉が、一種の逃げに使われているようにも思います。それに対して、「面白い」は、能動的です。だったら、「面白がる」の方が、強いですね。どんな最悪の環境も、「面白がる」ことはできます。 でも、この「面白い」、とか、「面白がる」とは、どういうことなんでしょう?これは、「面白い」問いですね。これが、私のライフワークみたいなもんだよな、と思います。今日は、面白い授業は?という設定で、当然、科学寅が取り組んでいる実験授業を念頭に置きながら、(それにどうしても、思いが飛んでしまうので)「面白い」要素を考えてみたいと思います。 ただ『面白い』と言っても、その意味は、状況によって、様々です。例えばギャグのように、『笑える』が『面白い』こともあります。『血沸き肉踊る』ことが、『面白い』のは、映画の常道です。『悲しみ』や『悲哀』が、『面白い』とされることもあります。学問的には、目の前が、パッと開けてくる感じ。これが、字義的な面白い意味だそうです。このように、いろいろありますが、これら『面白い』の基礎となり得るものは、無いでしょうか?4つにまとめてみました。1.理解できる舞台設定であること私が考えますに、まず、「アッ、あのことだ」と大筋で、パッと理解できるものであることこれが、前提条件だと思います。これは、物語の場面設定です。これが、「あの世界だ」と理解できなければ、どうしようもないのです。科学実験に場合、日常の道具からスタートすることです。自分のアタマの世界の、パーツに当てはまるものがなければ、人間は、認識すらできません。しかも、その内容が、自分が関心をもっているものなら、なお良いわけです。 2. 刺激的な問題設定ドラマには、善玉と悪玉が必要です。そのような二項対立する問題設定が、好奇心を呼び覚ますんじゃないでしょうか?もちろん、三項鼎立もありえるでしょう。しかも、結末がある程度予想されるけれど、はっきりしない状況。確定していない状況。または、どうなるかわからない状況が必要です。 つまり、物語を成立させるのです。そのためには、何らかの事件を起こす必要があるのです。そして、その問題や事件が、解決される見通しがたっていなくてはなりません。変な話ですが、答えがわからないにも関わらず、答えが、内心では予想されている状態です。でも、違うかもしれない、という不安をもっている状態です。3.期待感、裏切り先の、予想できるという要素。それによって、「こうなるだろう」、「こうなって欲しい」という期待感が生まれます。これは、当然、裏側にある種の不安感でもあります。 そして、できれば、それを裏切りたいものです。これは要するに、名探偵の事件解決の手法に、多少は意外性が欲しいということです。『そうか、この手があったのか!』は、ミステリーのお決まりです。ラストはこれがなくては、納得しませんね。つまり、『意外性』ですが、でも、この意外性、実は、ある程度、予想の範囲に入っていなければ、逆に意外とも感じません。ということは、可能性として、認識されておくという必要があります。 そのためには、正々堂々と、議論しておくのも手ですが、伏線にしておくことも、有効です。うまい伏線を引くと、それだけで、予告効果で、次回への関心アップにもなります。4.スタートのインパクト人間の脳ミソは、第一印象にとても左右されます。ですから、『スタートのインパクト』に、全力を挙げなければなりません。ご飯炊きみたいに、「はじめチョロチョロ」では、後でどんなにおいしいものが待っていても、今の子どもは、「サヨウナラ」です。だから、冒頭の問題設定が命です。ところで、私もよくやってしまい、反省を繰り返しておりますが、それが「説明のナレーション化」です。わかります?舞台設定の説明、問題設定の説明、この授業の意義、講師の私の紹介、この授業の最終目標の説明などなど それら自体が悪いわけではないのです。が、特に子どもたちには、これらが完全にナレーション化してしまうと、つまり、枠の外からの語りかけだと、間違いなくソッポを向かれます。最初から、物語の中での活躍でいたいのです。ダイレクトに「ぼく」や「あたし」への語りかけ、または、「挑戦」でなければならないのです。 例えばファンタジーの世界で、ハリーポッターの魔法のパワーの解説が最初に長々書かれていたら、読み続けるでしょうか?敵役の戦力と弱点が書いてあったら、どうでしょう?アウトですね。 冒頭では、科学にしろ、ファンタジーにしろ、解説が類型化、記号化してしまうと、人は、どうしても感情移入できなくなります。そうです。私たちが求めているのは、その世界に没入してもらうことなのです。そのためには、感情を伴った、生身の感覚がどうしても欲しいところです。 今日は、以上。ずいぶんまとめられました。今日も、暑い。一昨日は、軽い熱中症にかかったようです。この暑さを、面白がる問題設定をしようっと。
2010.08.24
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勉強が好きになる方法を検索しているうちに、 「野球を好きになる7つの道」(桑田真澄)という記事に出くわしました。これが、なかなか、よく考えてあります!大拍手です。桑田選手をいっぺんに好きになってしまいました。1.練習時間を減らそう2.ダッシュは全力10本3.どんどんミスをしよう4.勝利ばかりを追わない5.勉強や遊びを大切に6.米国を手本にしない7.その大声、無駄ではありませんか これが その7つです。見事、どの分野、特に学習にもあてはまるではありませんか!! 早稲田大学大学院スポーツ科学研究部に入学して「これからの時代にふさわしい野球道」について一年間考え抜いたことの一部だということです。まず、1.練習時間を減らそう 2.ダッシュは全力10本これは、とても重要だと思います。桑田選手はPL学園の一年生のとき甲子園で優勝しますが、その後監督に「全体練習は3時間にしましょう」と提案したそうです。その後PLは黄金期を迎え、彼の2年下の立浪の世代も含め、この3時間の練習で春夏連覇を果たすのです。これに比べて、何と小中学生の練習時間の長いことまた、拘束時間が長いこと。何より、集団練習の長さ。短時間で効果的な全体練習をして、その後は各自の体調や課題に応じて個人練習をした方が良いのは、当然です。 3.どんどんミスしよう 4、勝利ばかり追わないも、名言です。桑田選手は、理不尽な体罰を繰り返す指導者や先輩がいるチームだったら他のチームに移ることも考えろ、我慢することよりも、自分の体と精神を守ることの方が大切だと言っています。また、小学校時代は、礼儀と体づくりの基礎を身につけることが大事、そんなときに選手権大会は必要ないとも言います。 テストの点数や、競争を意識すると、友達の素晴らしさや、学習自体へのあこがれを殺してしまいます。相手チームへのヤジをとばすのも、選手の務めになっていることを批判し、「そんなものを続けるよりも、対戦相手や仲間にリスペクトの気持ちを表現した方が、スポーツマンらしくてかっこいいと思いませんか。」と書いています。それこそ、カッコイイ言葉です。 野球オンチの私が言うのも、変ですが、あの、指導者の罵声は、本当に効果があるのでしょうか?ニコニコした練習では、強くなれないのでしょうか? 普通の精神の持ち主なら、チームは、「野球嫌い養成所」と言えるでしょう。これが、教育だと言えるのなら、それは、「社会には理不尽が横行している」という事を早めに学ぶための社会の矛盾学校のようです。 もしかして、本気でそれを考えて指導しているのかもしれませんが。 「スポーツは、楽しいものなんだ」理論で、好成績を残している方々も絶対いるはずです。 私は、分野こそ違え、学問は楽しいものなんだ理論で突っ走りたいと思います。 逆から言えば、こんな練習をしているところが多かったり、つらい勉強をさせているところばかりなら、簡単に勝てると思いませんか?あっ、また、勝利にこだわってしまった。でも、どんな根性ものも、楽しみでやる人には、敵わないのですから。
2010.08.23
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先日の岡潔さんは、「論理も計算も無い数学」をやってみたいと、おっしゃています。 そう言えば、科学の世界でもイギリスのマイケル・ファラデーという、画期的な業績を残した科学者は、数学をほとんど学んでいませんでした。だから、彼の論文には、ほとんど数式が出てきません。 ファラデーが数学を学んでいたなら、と惜しむ声もあります。しかし、もしかすると、彼の発見した磁力線の考え方などは、通常の数学を積み上げたのでは、生まれなかっただろう、と言われています。高等数学を学んだ学者たちが、電気力学で行き詰まっていたところをファラデーが幾何学的な考察から、電磁気学を切り開き、それをマクスウェルが、数式化して、電磁方程式が生まれたのです。 数学を学ばなかった「のに」、発見をしたのか?いや、数学を学ばなかった「から」、発見をしたと言えるようです。 天才にはおよびもつかない私ですが、もしかしたら、論理が主役なんじゃないんじゃないか、と思います。この宇宙は。論理は、単なる召使いかも。 宮城県では、今日から学校が始まったところ、明日から、始まるところで、宿題戦争は、連日激戦を繰り返しております。また、実験教室も移動するだけで、ヘバってしまってる科学寅であります。 これが、夏バテなんでしょうか。いろいろキャンセルをして、各方面の皆さまに、ご迷惑をおかけしております。申し訳ありません!睡眠時間は大切ですね。皆さま、くれぐれもご自愛のほどを。
2010.08.23
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今日は、こじんまりした子ども会で、低学年の子向けの実験教室をさせていただきました。役員さんが、このブログを見て問い合わせをいただいて実現したケースです。本当にありがとうございました。 今日の子どもたちの中にも、将来の科学者が私には、しっかり見えちゃいました。素晴らしい出会いです。私は、思わず彼らに手を合わせたくなりました。ありがたいことです。 彼らは、決して、知識を受け取っているのではないのですね。ワクワク感、ドキドキ感を受け取って自分のものにしてくれているのです。 日本の生んだ孤高の天才数学者、岡潔は、理数系の真理も、頭の中だけでなく、情のレベルでわからなければ、本当にわかったとは言えないのだ、と言っています。 「私の数学は,情緒を数学という形に表現したもの」とも言っています。 凡人には、及びもつかないことなのでしょうが「自然を普通に見ますと単に自然が見えるだけです。しかし、仔細に見ますといちいちいかにもふしぎなのです。」 という言葉に、そうなんです。不思議なんですね。と相槌を打ってしまいます。 いつの間にか、正解にばかり気をとられ、不思議がったり、思わず見とれてしまう心、聞き惚れてしまう心を忘れてしまっていますね。 科学も数学も、この驚きや、情緒を伝えられない教育であるなら、それは、根っこのところで、ズレているのじゃないでしょうか。
2010.08.21
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私は、自尊心に目覚めさせることが、近代教育の焦点だと考えてます。もちろん、その自尊心とは、〇〇さんよりも偉い、という意味ではなく、認識する力や、判断する力においてです。 そもそも近代啓蒙主義の出発点は、外部から押し付けられた規律からの解放と自ら選択した新たな規律の選択にありました。ルソーは、良き市民は、「自らの判断基準によって行動する」ことのできる人であると考えました。 また、ディドロはそれを「偏見、伝統、すべての人々の同意していること、権威などを足蹴にして、あえて自発的に考える」人のことであるとしました。 18世紀末になるとカントが、「自分自身の悟性を使用する勇気を持て。それが啓蒙主義の標語である。」とか「自ら考えるという行動基準が啓蒙主義である」と定義しました。 啓蒙主義への批判もあります。それは、「血ぬられたフランス革命を起こした」とか、「共産主義を生んだ」とか「科学万能主義」を生んだとか しかし、それらは、本当の意味の自尊心・自立心の現れではないですね。自分の本来の判断よりも、誰かが作った理論や知識(の解釈)を神にしてしまった結果です。 本当の自尊心があれば、社会の「正義や道徳」にも懐疑のまなざしを向けますし、科学理論に基づいて、人生の意味を固めようなどとは考えないものです。また、人にも押し付けようとしないものです。 啓蒙主義は近代科学を生みましたが、その科学理論を神にしては、元の木阿弥なのです。 人間行動は、理性的でなくてもいいのです。そもそも、それが現実なのですから。人間の幸せを求めるための解放運動は、歴史上の知識なんかじゃなく、まだまだ、道半ばだと言えるでしょう。
2010.08.20
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人間の脳ミソは、世界を認識するときある特定の印象を情報としてストックするようです。つまり、余計なものを捨て去り、あるプロトタイプを作ってしまうのです。まるで、美術画家が美を追い求めるのと同じです。脳も捨象をしているのです。 こんなことを考えると、目からの情報が先か、脳からの指令が先か、とわけがわかんなくなってしまいますが、私たちは、常識以上に、脳で見ていると言えるようです。 ここに、モノの見方のヒントがあると思いませんか?子どもの見方のヒントがあると思いませんか? 捨象と言えば、人間が正解を導き出すのも、消去法のようですよ。つまり、失敗をして、試行錯誤をしてこそ、考えられるようになるようです。これは違う、あれは違うと試行して、苦労して発見した法則は、非常に強固な記憶と経験になります。そして全く違う新しい事をするときに、人間の脳の場合にはコンピューターと違い、「応用」が効くのです。全く新しい状況や環境であっても、過去の失敗が多いと、そして、全力を尽くして考えきることで「応用」が効くようになるのです。 科学実験授業も、人生の中で数回、または、たった一回の出来ごとかもしれない。でも、そこで、考え尽くさせて、そして、失敗し尽くせば、人生の大きな財産になりえるのです。 失敗させること、不正解の経験をさせることの重要性は、人間の脳は見たいものしか見ないという性質をもっているからでもあります。 もし、目前の現実と過去に蓄積された情報の間で不整合が起きるとき、人間は、この現実を受け入れることを無意識に拒絶したりつまり、見なかったことにしたり、あるいは、既存の知識の断片から勝手に推測して、実際とは異なるものを見たりするつまり、錯覚することが日常茶飯事だからです。別名、アタマが固くなる、です。 これが強固だと、いろんな悲劇がおこります。特に、責任ある立場の人、戦争責任者や、会社の社長などが、いわゆるアタマが固いと被害は甚大です。 現代社会は、変化の時代です。この変化にまったく対応できない経営者がたくさんいますね。こういう人は、根源的なもの、すなわち自身の物の見方、考え方に関わる変化を求められると突然硬直状態に陥ってしまうのです。 その理由は、内面に芽生える恐怖です。現実を直視する勇気がないのです。変化や現実を恐れる心は、失敗を恐れる心です。それは弱さというよりも、むしろこの場合、未熟さを表します。 これを解決するために、本来、教育があるのだと思います。すなわち、ワクチン接種です。失敗を経験させ、そこから、成功も経験させることによって、失敗しても、失敗を繰り返しても、大丈夫だ。いや、いっぱい失敗した方が、どんどん賢くなれる。さらに、失敗し、間違った方が、認識が広がって何より、面白い!楽しい!と、いう感覚までもっていけるのです。 実は、脳は、「ルーティーンワーク」だと、つまらないという積極的な本能ももっています。生物としての人間は、その生き残ってくる過程で、マンネリでは、脳の中のネットワークの再編成が起こらなくなって変化に対応できない、という苦い経験をしてきてるんでしょうね。脳学者も、脳の力を引き出すためには、老化を気にするよりも「子どものような新鮮な視点で世界を見られるか」を意識することが、ずっと大切だと言っています。脳の本質は、ものとものを結びつけることだそうですが、画一的な結びつきで固定させたい怠慢な本能に対して、結びつきを変化させることによって、創造的なことをしたいという積極的な本能で挑戦していかなくてはなりません。 その際、「これ、おもしろいなぁ」と、ふと感じることはお宝です。それにより、自分の視点に一滴、新しい要素が加われば、脳の中のパターン認識が増えるので、そこから、様々な組み合わせが生まれ、驚くほどおもしろい考えや発見を生み出していくのです。それに、間違った方が、学習効果が高いのです。だって、大昔は、「失敗=死」でした。だから、失敗は重点的に記憶するのです。人間の行動原理の第一は『ブレーキ』であり、よって、脳は消去法で学習するのです。 でも、それだけだと、失敗を恐れて、さらなる失敗経験(学習)ができませんから、というのも、人間も自然の生き物ですから、本来非常に『臆病』に出来ていますから、安全を確保してやる必要があります。失敗したら、笑われたり、不利益を被るのでは、やらなくなります。安心感が絶対に必要です。その上で、自分から「したい!」「やりたい!」と言う状況を作ってあげるのです。 生徒の何かをさせるとき、「失敗するな」というのは、愚の骨頂です。「失敗を恐れるな」と言うのも、弱いですね。「失敗しても、今の時代は死ぬことはない。それどころか、失敗すればするほどに、君のアタマは良くなるんだ。失敗は良いことなんだ。」と言ってやりましょう。 ということは、「ダメならば、アタマが良くなる。」「成功すればラッキー」どっちに転んでも、良いことずくめなんですね。
2010.08.19
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私は子どもの頃、よく反省させられました。親にも、先生にも、先輩にも。正座をさせられて、泣いたりしました。暗い蔵にも入れられました。 しかし、怖かった思いはありますが、実際、反省した記憶はぜ~んぜんありません。私だけだろうか、と思っていたら、先日 森の声さんが、「科学と物語は兄弟である」という記事の中で、「子どもには反省ができない」とおっしゃっていました。素晴らしい指摘だと思います。 物語と科学ですが、両方とも時間軸に沿って原因と結果の関係性を明らかにしようとしているという点では同じなんですが、「物語」では時間軸を未来へとたどり、「科学」では過去へとたどっているのというのです。 つまり、物語では「次はどうなるんだろう」という形で展開していくのに対して、科学では「その前はどうなっていたんだろう」と過去に収縮していくのです。そして、子どもたちは本来「物語」思考しかできないと、断じています。だから、子どもは常に未来のことばかり考えているのです。というより、子どもは過去のことを考えることが出来ないのです。子どもには未来しかないのです。子どもは、未来のことを順序立てて考えることは出来ても、時間を遡るように過去にあった出来事を逆に語ることは出来ないのです。つまり、子どもに「反省」を求めても無駄だったのです。私だけが、傲岸不遜だったわけではないのです。 森の声さんがおっしゃるように、反省させるのではなく、「次は気を付けようね」と未来に向けて注意をすればいいわけです。小さい子への科学教育にも、注意が必要です。原因追究型ではなく、未来への予想型にするのです。そこから、いろいろな素敵な物語を垣間見せてやれればいいのです。 とにかく、子どもへの指導は、原因追究の科学型ではなく、ファンタジーのような素敵なストーリー提供をモットーとしていきたいものです。 それにしても、未だに、大人になっても、本当に反省ができない人間です。私は。
2010.08.18
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科学実験教室をしても、楽しめるかどうかは、別の問題です。楽しい科学実験もあれば、あまり楽しくない科学実験もあります。 実験をすれば、理科好きが増えると考えがあり、実験の補助教員を増やそうという動きがありますが、あんまり意味が無いと思います。 何が楽しみをもたらしているのか、という解釈が重要だからです。それは、解放感です。自由にものを考えられ、間違っても怒られなく、押しつけがなく、ある意味、学習内容やテキストより、自分が上に立てる。この世を解釈する自由をもらった、一種の神のような存在になれるからです。予想があたっても、はずれても、ひとりひとりが素晴らしい、素敵な存在だと再発見できるからです。 仮説実験授業には、必然的にそういう流れに導いてしまう仕組みが入っています。ですから、いつもは、高圧的な授業をしている先生でも、全然別世界の授業ができてしまうのです。だから、生徒は、実験をして欲しいと思います。 でも、他の授業でも、いや四六時中楽しむことはできるのです。生徒も先生も。科学だからできるというもんじゃありません。 あれがこうだから、できない。こういう仕組みになっているから、やらざるを得ない。いろいろ制約条件があるでしょう。 しかし、精神の翼、想像の飛躍力だけは、無傷のはずです。想像の世界だけは、自由なのです。もし、それまで制約を受けていると思っているなら、それは、その人の責任で、自分であえてそうしているに過ぎません。 まず、自分自身に対して、楽しいストーリーを語りましょう。それが基本です。自分に語れなければ、子どもに語ることは不可能です。 楽しむにもトレーニングが必要なのです。毎日、トレーニングをしましょう。
2010.08.18
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教師こそ、ストーリーテラーでなければならない、と思います。子どもの「現実」を分析するのではなく、子どもの未来の物語を、いくつも語ってあげるのです。物語を創ってあげるのです。 実は、科学者もストーリーテラーです。現実から、物語をつむいでいるのです。 しかし、物理理論と教室での物語が違うのは、素粒子は科学者の物語りに影響されて、行動を変えたりしませんが、教室では、生徒は物語に影響を受けて、その行動を変えるところです。 教師の物語は、天気予報では良くないと思います。子どもたちの統計上の予測、確率的な予測をしてもその子たちにとっては、実存的に意味が無いどころか、害になるだけだと思います。天気予報によって、雲はその動きを変えたりしませんが、子どもは、どんどん変えていくのです。ですから、予報自体が成り立ちません。 もともと可能性の無い子はいませんが、たとえ、そう見える子でも、 ほんのちょっとの可能性でもあるなら、十分に語る意義はあるのです。 「素晴らしい物語」は、目の前のテストの100点より、何倍も意義があります。 その子の人生の素晴らしさは、テストの評価とは比較にならないのです。常に教師は、テストを突きぬけたところに焦点を合わせておかなければなりません。 大丈夫です。素晴らしい物語に焦点を向けることができたなら、テストの結果もみるみる良くなります。子どもが元気になるので、教師の評価も高まります。 しかし、テストに焦点を合わせても、素晴らしい物語は生まれてきません。 テストに焦点を合わせると、どうしても点数を気にします。点数が良くても、悪くても、です。 本当は、テストから、知恵を得ること、が重要なのに、せっかくの知恵のきっかけを、点数稼ぎのテクニックにしてしまうのです。子どもの想像力の翼を折ってしまうのです。 指導者は、少なくとも、点数にとらわれないように気をつけるべきです。そうじゃなく、子どもの思考の流れを褒め称えることに精力を集中しましょう。 たとえ、正解でも不正解でもです。たとえ、なげやりな解答でもです。100のうち、1の思考が入っていたら、それを顕微鏡で拡大して、ほめたたえましょう。 私は、悪いところを批判して、良くなった子どもを見たことがありません。悪いところは、無視するのです。そして、良いところだけを注目するのです。 さらには、可能性が見えない場合でも、つまり、現実から切り離されているような物語でも、無駄だと思わずに、素敵な話をしてあげましょう。もし、子どもに、隠れた素敵な素質があるのなら、その現実離れした話にも、きっと反応するはずです。反応するかどうかは、教師の責任ではなく、すべて子どものタレントです。 ただ、教師の側からできることは、お話をすることだけです。素敵なお話をしてもらった子どもの心には、教師はずっと生き続けます。しかし、点数の取り方を教えてもらっても、それっきりです。 これが、私が生徒と接して、つくづく感じてきたことです。
2010.08.17
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楽しい科学、楽しい勉強と言うと、楽しさという手段を使って、学ばせるんだ、と考えている方が多いと思います。 でも、私は逆だと思うのです。学習という手段を使って、「楽しさ」を学ばせるんだと。 誤解を恐れずに言えば、「楽しさ」とは、この世で、最も重要な生きる力だと思います。 私たちは、何のために、歯を食いしばって、日々の努力をしているのでしょう?それは、人生を楽しむためじゃないないでしょうか?楽しむために、楽しみじゃないことを通じて、それを得ようというのでしょうか? いや、楽しむ力は、養わなければ、衰えてしまうのです。人生を楽しむ力。これは、片時も目を離さず、楽しみに注目していなければ、すぐ見失ってしまう、デリケートなものです。 楽しんでばかりいちゃ、生きていけない、と心配な人も多いでしょう。しかし、私は、確信しています。楽しむ力がなくては、これからの時代、生きていけない。と。 考えてみてください。世のヒット商品、有能な人材とはどんなものでしょう?人を楽しませる人や、モノではありませんか?人を楽しませるのに、自分が楽しんでなくて、どうして楽しみを「生産」できるのでしょう? 時代は、すっかり変わっているのです。昔でも、本当はそうだったのですが、「マジメ」の鎧が、どうしても必要でした。 しかし、今は、もう違います。鎧は脱ぎ棄ててOKなのです。 ところで、楽しさの源泉は、どこにあると思いますか?お笑いみたいなものでしょうか?確かに、「お笑い」にも、学ぶべきものがあります。しかし、もっと深いところを、教育者は見るべきだと思います。 それは、私たち一人ひとりの奥にある、素晴らしさです。黄金のお宝です。これを褒め称えることです。 建前で、身を守らなくても、素の姿、スッピンでも、いや、スッピンこそに、比較しようもない素晴らしさがあるということ、それに気づかせてくれるものが、楽しさの根源だと思います。つまり、解放感です。本当の自分を表現できる、ということです。 自分を尊ぶ人だけが、他人を尊ぶことができます。自己否定感をもっている人は、教師には、完全に不適格です。そういう人は、子どもの至らなさにばかり、注目してしまい、そこを拡大してしまいます。 「現実」は、どのようにも解釈できます。地獄のように、解釈もできれば、パラダイスとも解釈できます。子どもも、どのようにも解釈できます。素敵な才能の塊だと、解釈もできれば、未熟な、矯正すべき塊とも、解釈できます。 しかし、欠点を注目して、欠点を矯正できるでしょうか?いや、できっこありません。だったら、学校の混乱は、とっくに消滅しています。 良さに注目してこそ、欠点は解決するのです。「現実」に、「正直に」対応すればいい、というもんじゃありません。「真実」が判断基準になってはいけないのです。 同様に、科学教育をすれば、何でもいいわけじゃありません。科学や学問に対する、解釈こそが、命なのです。 どんな解釈でしょう?科学や学問は、人類の「人生を楽しむ力」「楽しむエネルギー」が凝縮してできた、エネルギーボールだということです。 だから、これをひもとくには、楽しむ解釈ことが、鍵なのです。別のひもとき方では、真髄に触れられないのです。 しかし、あくまで、学問は楽しみごとです。それぞれの人生を楽しむための、指標に過ぎません。でも、先人の楽しむパワーに触れたとき、未来への私たちの、「楽しむ能力」が触発されるのです。 どんな学力をどのように身につけさせようと、神経質になることはないと思います。子どもたちには、まだ、楽しむ力は、死んでいないと思うからです。その力をすこしづつ、呼び覚ましてやればいいのです。 それが呼び覚まされた子は、どんな学習塾のスーパーカリキュラムよりも、効率的な(その子にとって)学習を黙ってても、始めるでしょう。そして、それこそが、学びなのです。やらせられる学びは、ただのママゴトに過ぎません。あなたは、我が子に、そんな学びで満足しますか? 私は、愛する子に、そんな惨いことはできません。それは、レストランのメニューの見本品を食べさせるのと同じです。私は、本当の料理を作って、食べて欲しいと思います。 人生は、親の私たちが想像する以上に、素晴らしいものだからです。
2010.08.16
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私たちが、勉強が楽しくないのは、正しいことだけを追い求めるからだと思います。間違うことを恐れるからなのです。間違えることを楽しみましょう。そうすると、一気に楽しくなります。教室がマンザイのようになります。 実は、自分のアタマを働かせるからこそ、間違えるのです。自分のノーミソを使わずに、人の頭で考えていたら、そりゃ、間違わないかもしれません。でも、それでは、自分のノーミソは、どんどん、仙台味噌になってしまうのです。ロボットは間違えませんよね。 ところで、わかるってどういうことでしょう。あの、「Ah! Hah!」は、どういう時に生まれるでしょうか?実は、人の話に従って、正解しても、本当には「わかった」ことにはなりません。本当に「わかる」のは、自分のアタマで考えて、イメージして、試してみて、それも、何度も、「あーでもない、こーでもない」と試してみて、はじめてわかるのです。 だから、教えられて、簡単に納得しちゃいけません。一度は、自分の心の声に聞いて、自分で実験や確かめをしてみましょう。これが、学問なのです。これが、科学なのです。そして、これが、未来を切り開く力なのです。テストの点数ではありません。このように自分の心の声に聞くと、もしかすると大人に、「イタズラするな!」とか「言うことを聞け!」とか、「生意気だ」と叱られるかもしれません。 悲しいけれど、残念だけれど、理解の無い大人がいることも現実です。また、理解してやりたいんだけれど、日本の社会が、いろんなルールで、がんじがらめになっているので注意せざるを得ないのも事実です。こういう壁にぶつかったとき、どうしたらいいでしょう?その時にも、頼りになるのは、やっぱり、自分の心の声です。あくまで、自分の思いを貫き通すのも、いいでしょう。逆に、ここは、言うことを聞いて、「お利口さん」になっておこう、というのも、良いことです。とりあえず、やり過ごしておいて、陰で、実験するのです。でも、「おとなしい良い子」になっていなければならない時が多いでしょう。そういう時でも、「本当は、疑問なんだよなあ」って気持ちだけは心の片隅に残しておきましょう。いつか、いつか、その残り火が、大きく燃え上がり、すばらしい発見の喜びを与えてくれるでしょう。「マジメに」自分の心の声に聞くと、一見、イタズラをしているように、外からは見えるものです。そうなんです。マジメに生きるとは、イタズラをして生きることに近いと思います。ワクワク・ドキドキするイタズラは、時間を忘れます。成功しても、失敗しても、楽しいものです。これが、本当の学問の面白さです。
2010.08.15
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仕事も勉強も、面白がってやる人には敵いません。 よく、勉強は努力だ!辛いのを我慢してやらないと、一人前にならないと言います。 私は、逆だと思います。努力をさせていたら、また、我慢させていたら、一人前にならないと思います。 要は、人がつまらないと思うものを、どうやって面白いと思うのか、です。ここに、知恵があると思うのです。 やっと涼しくなってきました。今日は、ようやくお盆休みです。
2010.08.14
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社会の第一線で活躍されておられる方々には、実感なされると思いますが、社会で幸福をつかむために、大切なのは、「知識」であはなく、「知恵」ですね。 で、その知恵は、記憶から来るものではなく、「気づき」から得られるものです。同じ現象を見ても、気づくか、どうか、なのです。教えれば済むことではありません。そして、その、一つの気づきが、人生を大きく左右します。 でも、この教えられない「気づき力」このコントロールできそうもないようですが、ある程度、「気づきやすい環境」は整えることができるのではないでしょうか。 そのためには、「気づき」はどういう時、起こるのか、ということです。 まず、問題意識をしっかり持っていなければなりません。それも、燃えるような意欲・夢・熱意として。つまり、寝ても覚めても、ちょっとした細切れ時間にも、それを考えてしまうような。 それは、当然、解答が安易に教えられていないことが前提になります。 わかりやすく教える教育では無いのです。疑問から疑問へと、進んで行く教育です。 もちろん、ヒントとなる情報や実験は用意します。しかし、結論を安易に教えないことが大切です。焦らしに焦らすのです。 そして、ヒントや仮説を掴んだら、即、試してみる柔軟な余裕が欲しいところです。 教師は、打ちたくなる球を投げるピッチャーです。しかし、いろんな変化球を投げます。なかなか打てそうで打てないのが、最高の球です。それで、バッターである生徒は、空振りをしながら、コツを気づいて、つかんでいくのです。
2010.08.13
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私のモットーは、「学問はそもそも遊びだ」 です。だから、どうでも良いというのでも、だから、とっても大切だ、というのでもありません。 つまり、将棋やゴルフと同じだということです。野球だって、ボール遊びなのに、いろんな精神道にまで高められています。お茶だって、歌舞伎だって、伝統流派がありますが、それは、遊びの流派に過ぎません。 とかく権威を帯びると、人間の精神活動は、停滞するものです。 科学も、あのニュートン権威主義者だったものだから、彼が、イギリスの王認学会の会長になってからは、学会の会合が、宮廷の儀式のように変更されてしまいました。「会合では、会長に話しかける場合を除いて何びとも私語をしても、協会の活動を中断させるような大声を出してもならない。」なあんて、規則も作っています。こんな感じですから、どんどん参加者が少なくなっていきます。何より、科学活動が停滞してしまいます。 それまでは、技術屋のオヤジのようなロバート・フックが(私のイメージでは、本田宗一郎)実験を見せていたときには、参加者が実験に加わったり、参加者の発案で実験に工夫をくわえることもあったのに。 まあ、これで、科学活動が庶民とともに、外に出ていくのですから、功罪半々というところなんでしょうが。 単に、やりたいから、やる。ワクワク感に逆らえずにやるという感覚。これを指導者が忘れては、子どもたちに大きな誤解を与えてしまうと思います。 そもそも、ワクワク感でやられる活動に、義務でやる活動が、勝てるわけがありません。
2010.08.13
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お盆前、子どもたちの宿題対策も佳境に入ってきました。手作り線香花火の研究をすすめている中2の女子グループを応援してきました。(私がけしかけたのですが) それにしても、宿題をどうして、子どもたちは嫌うのでしょう。 え?宿題は嫌われるに決まっている?そうでしょうか?思わずやってみたくなる宿題って、ありえないのでしょうか? これは、、「人はなぜ好奇心を燃やすのか?」を考えれば、見えてくるんじゃないでしょうか? つまり、認識のワク組みをちょっとズラしてあげるのです。ズレると、気になってしまうものなのです。あんまり、ズレ過ぎていてもダメです。 たとえば、いつも水でやっているものを、塩水にしてみたり、砂糖水にしてみたり、牛乳にしてみたり。 また、いつもより、長くしてみたり、これも距離と時間がありますね。逆にちっちゃくしてみたり、 さらに、やり方を変えてみたり。 人間は、認識のワクを破ることに、快感を覚えるものです。(やりすぎは、不快ですが) 無駄でも、いろんな見方を試行錯誤することによって、人間は認識を深めていきます。夏休みこそ、ムダな努力をする絶好の機会です。できれば、オバカな努力は最高ですね。一生、記憶に残ります。 実は、そういうオバカな自由な思考から、問題意識というのは、育まれてくるのだと思います。 本当の勉強とは、自分で問題を見つけることが出発点であり、それで80%決まると言っても過言ではありません。興味深い問題設定なら、やる気も持続し、解決策も、いろんな人から提起されます。反論もできますし、それで、さらに深く考えることができるようになります。 日本では、正解を求める教育ばかりしています。それも、自分で考えることではなく、結局、正解を教えてしまう。これは、あなたのアタマを使ってはいけない、ということを繰り返し教えていることになります。 社会に出たら何が必要か?正解を即座に出す能力ではありません。問題を発見できる能力です。 これは、知識が必要なのではなく、ものの見方が大切なのです。 そして、これは、自由に考える精神が育むのです。 ひたすら100マス計算している時よりも、イタズラをしている時の方が、本当はアタマを使っているのだと川島教授のような実験道具は無いですが、私は直感的に思います。 今は、学問の面白さを、学校教育につぶされないように、我が子を守るしかないのかと思います。
2010.08.12
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昨日も、ある児童館で、空気と水の実験をしてきました。今年は、暑いこともあって、よくこの実験をしてしまいます。お風呂場の実験の延長なので、低学年の子にぴったりと思ってやるんですが、その児童館によって、子ども達の結果予想がまるっきり違うのには、正直驚きます。 完全に正解ばっかりの児童館がある半面、ほとんどハズレばっかりの児童館もあるのです。片方の地域がアタマがよくて、片方が、オバカということはありえません。 とすると、要因は何だろう?数人の友達に引きずられているとしか思えません。 しかし、もしかすると、ですが、やはり、科学が好きな地域とそうでない地域の差も本当にあるのかもしれません。否定しきれないものがあります。 親や先生の言葉や挙動の端々に、あらわれているのかもしれません。 でも、科学力の本当のポイントは、正解率ではないことははっきりしています。討論の内容などです。 そこにも、ずいぶん違いがあるのです。低学年でも、明らかな違いです。その日の体調や、疲れもあるのでしょうが、興味深いところです。 違いをもたらすものは何か、私自身の研究をしてみたいと思います。
2010.08.11
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科学実験の結果の予想で、 子どもたちに、自由に意見を言わせると、ほとんどの場合、間違った方向に議論がすすみます。 中には、完璧な正しい意見を言う子もいるのに、です。 声の大きさや、妙なことに共感して、みんなフラフラと引きずられていきます。 もちろん、私は、そばで、シメシメと、ニタニタしてるわけですが。 もちろん、私は、これを子どもの知恵の足りなさだ、とバカにはしません。だって、大人だって、きっと、予備知識がなかったら、きっと間違うんですから。 私は、「だから教育が必要だ、」と力むんじゃなくて、、どうして、普段は、間違わないのだろう、と腕を組んでしまいます。 もし、、もし、あの正しい意見を担任の先生が同じようにしゃべったなら、子どもたちは、どう思ったかを想像してみたいのです。きっと、「先生の言うことだから、そうなんだ、」それを覚えておかなくちゃ、試験で点数がもらえない、と有無を言わさず覚えたと思います。自分の心の声を封印して。 ここに教育の怖さがあると思うのです。 子どもたちは、間違って、びっくりする貴重な経験を奪われるのです。自分の本心に従って、間違う経験は、何物にも代えがたい経験です。ある意味、その問題については、一生に一度のチャンスなのです。それを、大人の権威で奪ってしまっていいものでしょうか? これを押しつけと言わずに、何と言いましょう? 大人が教育効果だと、満足していても、それは、子どもにとって、おそろしい押しつけであることが、しばしばなのじゃないでしょうか? なぜか、この宇宙は、「考えれば自動的にわかる」、ようには、できていません。つまり、間違うのが、自然の姿なのです。そこを浮き彫りにしてこそ、科学の論理のすごさについて本当の「わかった」や「感動」は生まれるのだと思います。 どっちみち、実験すれば、正しいことはわかるのです。十分に間違わせてあげたいものです。 理科に限らず、社会に出る前に、十分にあらゆる間違いをさせるのが、教育の使命ではないでしょうか?
2010.08.09
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受験生に、私が必ず手元に置かせている本があります。赤本です。そして、中学生には、過去問集です。特に、高校生で進学を目指している生徒は、問答無用でこれも手元に置かない生徒は、見捨てます。このブログを私の生徒も見ているので、これはッ私の生徒への指令です。 赤本は単なる過去問の寄席集めではないのです。そこには入試に必要な情報が凝縮されています。科目の配点、合格最低点、出題傾向の分析と、絶対必要な情報ばかりです。 戦争に行く時、相手の兵力や、その作戦傾向を予想しないでどうして戦うのでしょう。参謀本部が赤本なのです。 どの教科に重点を置けば良いのか、どの分野に重点を置けば良いのか、明確にわかります。しかも、安い!!活用しないのは愚の骨頂です。 昔、昔になりますが、私は夏休みに赤本の分析だけで終始しました。(あと、英単語だけは5000語覚えましたが)古川高校の図書館にこもって。赤本をならべて、作戦を練りに練って、何をどれくらい勉強すればどこにすべりこめるかを研究し尽くしました。 受験生の多くが赤本を「入試直前の力試し」として使っています。これは、大きな間違いです。赤本は入試直前に、力試しに使う問題集ではありません。志望校の傾向を徹底的に研究するために使うものなのです。だから、できるだけ早い時期から、手にすべきなのです。 たとえば、上智の英語と京大の英語。早稲田の社会と東大の社会。偏差値的にはそれほど開きはありませんが、問題の傾向は全く違います。上智の史学科と青学の史学科。問題の傾向よりも、配点が全然違います。この違いを読みとらなくてはなりません。 多くの受験生は、自分で作戦を立てる力が弱い。弱すぎます。学校や塾の言われるままに、ズルズルやっています。先生の顔色をみる勉強になっています。自分自身の確固たる戦略がないために、貴重な時間を、不必要な勉強に費やしています。徹底的に傾向を調べ、最短ルートの勉強法を実践しなければ第一志望に現役合格なんてとっても無理です。 旧日本軍みたいな愚かな戦法をとらず、弱者の戦法に徹して、ピンポイント突破を狙うのです。 ただし、赤本の取り扱いには注意が必要です。この夏休みに「力試し」としての使用することです。これは、絶対にダメ。この時期に、問題が解けるはずがないじゃありませんか。歯が立たないのです。それで自信を無くし、志望校を変更してしまう可能性があります。だから赤本で問題を解いてはいけないのです。それに時間がかかりすぎます。あくまで赤本は傾向を調べる指針とすべきものなのです。答えを最初から、バリバリ見るのです。解答だけをみるだけでも全然OKです。 調べればわかりますが、ほとんどの大学で毎年出題傾向が一致しています。京都大学の英語など、進化の止まったシーラカンスのようです。そういった情報が、赤本を見れば一目瞭然なのです。志望校でどのような問題が出るのか理解していないと、重点分野の勉強がおろそかになったり、非重点分野に時間を費やしてしまいかねません。 また、配点もわからなければ作戦は立てられません。英語の苦手な受験生が英語の配点の高い大学を受けるのは、十字砲火の中を銃剣突撃したガダルカナルになります。古文の比率もそうでしょう。大学によっては、特定のテーマが好んで出題されることがあります。慶応の理工学部はその代表です。頻出のテーマがわかれば、そのテーマに即した英文に多くに時間を割けますし時間がなければ、訳文を読むだけでもいいのです。 ただし、理系の英文が出題される傾向の場合、文系の英語ばかり、練習していると特有の単語や言い回しに、不慣れになってしまいます。これもチェックです。 赤本で、身につけるべき学力の目標が見えたら、あとは、それを埋めるだけです。大丈夫です。どんなに差があっても、そのギャップは、参考書3~4冊程度です。安いもんだし、居直れば、それを読んじゃえばいいということです。これまでどんなにサボっていても、数冊でチャラになるなんて、ラッキーじゃないでしょうか。あとは、投入時間の配分戦略だけです。 参考書は無駄になるくらい揃えてちょうどいいのです。数千円単位ですよ。塾や家庭教師を雇うより、よっぽどよっぽど安い。(私が言うのも変ですが)これで将来が開けるのです。(もし、無駄にしたら、私がアマゾンで売ってあげます。 ) とにかく、受験はゲームです。それも結構、血沸き肉躍る、楽しいゲームです。親から怒られるどころか、バックアップしてもらえるゲームなんてそうないですよね。しかも、ご褒美が、ものすごい。思いっきり楽しみましょう。失敗しても、殺されることはないのですから。
2010.08.08
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科学時代と言われる現代ですが、実は、オカルト時代と言えるほど、スピリチュアルなもの、また、科学の顔をした、迷信がわがもの顔に歩き回っている時代もないんじゃないかと思います。 じゃ、科学なら信じられるのか? 私たちは、ついつい、科学を「信じて」しまいます。しかし、科学というのは、「信じる」ものではありませんね。 同様に、オカルトというのも、信じるというのとは、本来ちょっと違うと思います。オカルトという言葉自体、ラテン語で、「隠れたもの」ということです。自然の隠れた法則を知ることが、オカルトということでした。この自然の法則を知ることで、魔法のようなことができる、というものです。マジメな真理追求だったのです。ですから、17世紀頃までは、このオカルト、そんなに、うさんくさいものではなかったことでしょう。錬金術だって、オカルトなのです。ニュートンやガリレオだって、錬金術や占星術を研究していたことはわかっています。 考えてみれば、占いだって、錬金術だって、カバラという言葉の魔法だって、神学だって、科学と同様に、すべて「世界を読み解きたい」という人間が発展させてきた、脳ミソの性質、つまり、目に見えないものを想像する力のたまものです。 すなわち、象徴的な思考力 パターン認識力そして、それらをつなげる力のことです。。象徴的なものと象徴的なものを結びつけると、そこから、物語を生うまれます。そして、その物語が、目に見えないものを見る力を育て、目に見えない法則に思いをはせるようになる、とざっと私は考えています。 だから、スピリチュアルも、科学も、兄弟と言えば、兄弟なのです。ただ、科学の方は、因果関係を軸に追及して、再現性を重視します。その法則は、現在まで100%の的中率で将来もそうであると十分に予想されるのでなければ、科学の「法則」にはなりません。占いは、60%の的中率でも、驚異の占い師になれます。(そもそも、誰も的中率を測っていませんが)それに対し、昨日と今日で、原子の性質が変わらないと予想されるから、化学法則はあるのです。一回でも、予想外の反応があったら、法則は書き直しになるのです。 しかし、現実社会では、複雑に要素が絡み合っており、純粋な要素だけ取り出した、「実験」ができません。また、意識をもったものが入りこむと、実験しようとする意図が、対象に影響を与えてしまいます。それに、科学が解明した分野は、まだまだ、ほんのちょっとです。 ですから、私たちが現に今日、生きていくには、どうしても、占い的な、パターン類推力を使わなくてはなりません。そこには、さまざまな見えない世界を見ることになります。 だいたい、現代の科学と言われているものだって、掘り下げていくと、因果関係で説明できないところに出くわすことがほとんどです。根本のところでは、星占いみたいなものだと思います。なぜかわからないけれど、この場合には、こうなる、というのですから。 つまり、一概に、オカルトを否定するものではないし、排除もできっこないということです。私たちの毎日の行動は、それぞれが作ったオカルト行動の積み重ねですから。逆に、目に見えない世界を想像する力は、すべての学問の基礎ですから子どものときから、大切に育ててやりたいものです。 でも、大切なことは、オカルトを「信じてしまっては」いけないし、同様に、科学も「信じちゃ」いけないのです。 うまく使っていきたいものです。
2010.08.08
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「不登校の子の原因は、家庭にある」「キレル子どもの原因は××である」「……計算で、脳ミソが良くなる」から、「〇〇を食べれば、ダイエットできる」「現代人が不健康なのは△△のせいだ」など、白黒を単純につけているものは、まず、科学的根拠を欠いていると断定して間違いありません。 しかし、シロクロをつけた方が、圧倒的に受けが良いのでマスコミは常に、単純化したがるんですね。 この単純な因果関係というところに人間の悲しい生得的な迷信受け入れ体質を見ることができます。私たちは、自然の中に見出したと考えるパターンによって、点と点をつないで意味を作り出しています。ある場合には本当にはつながっていなくても、ちょっとでもつながっている可能性がある場合には、そしてもし、それがつながっていた場合、大きなリスクがある場合には、そりゃ、チョーこわ~い思いをするのでしたら、無駄でもいいから、ついつい、つながりがあるものと思っておくものなのです。 科学が高度化、専門化するにつれて個人がその全体像を把握することは不可能になりつつあります。ただ一つのマスコミ情報をを突き詰めるだけでも長期間の高等教育を受ける必要があります。よく、マスコミの踊らされないように、ひとりひとりが科学的な判断力を身につけなければと言われますが、そして、それは、正論ですが、実際には、正確な知識に基づく判断力を手に入れるのは並大抵のことではありません。 それに対し、「あるある大事典」のようなニセ科学の特徴は、素人でもすぐに理解できる簡単な論理と明快に白黒つける断定が売りです。 迷信を批判するコストは、とっても高いのに対して、迷信を受け入れるコストは、チョー安い、お手軽価格なのです。どっちをお買い求めるか、当然ですね。 また、迷信を信じても、失うものがほとんどなく、逆にそれを信じることによるメリットがあると(思い込む)場合も、『違うかもしれないけど、もし当たったらすごいから、いいじゃん」とまるで、「宝くじ」のように買ってしまいます。 健康法なんて、ほとんどそうですね。「水からの伝言」なんて、もし違ってても、「ありがとう」と唱えるのは、道徳的にすばらしいことだから、それだけでもOK 元が取れる。イイことづくめで、リスクは無いに等しい、って判断されちゃうわけです。 でもね、一見リスクが無さそうですが、実際には、いろいろ被害が出るものです。そして、その被害の責任は、まず誰もとってくれません。マスコミも、ほとんど逃げちゃいます。結局、悪いのは騙されるあなた自身、ということになるのです。 現代のような情報化社会で、情報をかぎわける能力こそ、「教育」で身につけなければ得ることができないものです。「疑い力」こそ自然的には、育てない、大事な教科なのだと思います。そこに、科学教育の意義もあると思うのですが、学校の理科の問題は、権威ある説を信じて、問題を解く練習ばかりです。 学校では、権威を疑う練習は、お目にかかりません。子どもたちを伸び伸びと育てれば、人間の生得的な性質から、白黒をつけたがる子になっちゃいます。つまり騙されやすい子です。 懐疑主義を植え付ける学校なんて、自己矛盾で、存在しえないものなのでしょうか?いや、ありえるし、これこそ、21世紀の権威ある 学校の姿だと思います。
2010.08.07
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不自由な思考と言えば、天動説と地動説の衝突で有名な、ガリレオ裁判がありますね。私は、当然、カトリックは根っからの天動説だったと思ってました。しかし、ガリレオの時代の約半世紀も前、コペルニクスの著書『天体軌道の回転について』は、不思議なことにカトリック教会から温かく迎えられていたのです。あれほど明確に地動説を書いたのに、どうして?実は、コペルニクスは、1543年に著書『天体軌道の回転について』を公刊しましたが、それはトレント公会議が開かれる2年前のことであったことがキーポイントのようです。トレント公会議、それは、ルターによっておこされた宗教改革に対処するための反宗教改革会議です。その中で、カトリック教会の中で従来明確でなかった多くの教義上の諸点を明らかにし、ローマ教皇の権威を確立しようとしたのです。 トレント公会議の以前には、カトリック教会は、太陽中心説が必ずしもキリスト教の教義に反するという意識はなかったようです。当時、自然現象と、信仰の問題を論じている「聖書」とは、視点がズレているということで真正面からぶつかることはなかったのです。事実、教会では、熱心にコペルニクスの著書を読んで勉強していたのです。彼の主著は、教皇パウロ3世にも献辞されています。 しかし、この本来衝突することがないところに、亀裂を作ったのが、実は、宗教改革を断行してきたマルティン・ルターだったのです。ルターといえば、カトリックの人間的な堕落・退廃を非難したはずですが、すべてを聖書とのズレで判断していた彼は、何と、自然現象の解釈にまで、聖書とのズレに焦点を合わせてしまったのです。実は、ルターこそ、コペルニクスの太陽中心説に最初に、そして最も激しい非難を浴びせていた人物なのです。 ルター対カトリック教会の論争は、本来、宗教的・人間的な頽廃に対するものだったはずです。しかし、「教義の争い」は、よくあるようにその周辺のどうでも良いことにまで及びだし、シロクロをつけさせるように圧力をかけてしまうものなのでしょう。そして、お互いに自らが示す教義の強化を計り、異論やそれを唱える者への矯正を強めることとなったのです。 もともと、ガリレオの支持・不支持も、単純に個人的なものだったようです。支持者は、カトリックの中にも、プロテスタントの中にもいました。性格的にも、思いやりがあり、礼儀もわきまえていました。しかし、どんなにえらい人が相手でも、はっきりと自分に意見を言う性格が、ファンと同時に、敵も作っていったようです。ガリレオが異端尋問所に召喚を命じられたのも「教義の解釈」が「告発者」と異なるからであり宗教組織がからんだものではなかったようです。しかも、ガリレオの友人にプロテスタントがいたことから、プロテスタントに憎しみが高まっていた折、非難の対象になってしまいます。さらに、もともと、ガリレオの擁護者であった教皇が、政治情勢から、コロっと、ガリレオを裏切り、ガリレオ裁判をカードとして使ってしまいます。 だから、単純な宗教対科学という問題だけではないようなのです。 でも、どんなに不利な状況、分裂させられる状況にあっても、カトリック・プロテスタントを問わず、ガリレオの魅力は、多くのファンを持ち続けてきました。それは、ガリレオの性格そのままの、物事や現象への明確さ、率直さではないかと思います。そして、それで多くの人が惹きつけられたということは、それまでの学問は、スッキリしていなかったということです。 もちろん、誰もが、スッキリしたわけではありません。スッキリした!と思える人の条件がありました。それは、神学や、スコラ哲学に、とらわれない物の見方ができる人という条件です。 ガリレオ自身、自分の支持者の特徴をわきまえていたのでしょう。彼は、著書を学問の常道の、ラテン語では書かず、庶民の言葉、イタリア語で書いているのです。 もちろん、どの組織に所属しているか、「教義の解釈」の違いからもガリレオをめぐって支持・不支持の人々が分かれました。しかし、その組織の中にあっても、人々は何らかの個人的解釈を持っていたようです。ガリレオの率直な考えを聞いて、考え方を改める人々がいたわけです。 いつの時代にも、思想が統制されている時代にも、人々の思考の自由だけは、縛ることはできないものです。たとえ表面的に、統制がどんなにとれているように思えても、思考の流れは、どんどん発展進化していきます。 軍国主義の日本にも、思索を発展させた人がいました。きっと、北朝鮮内部でもそうでしょう。学校教育でがんじがらめになっている人々の心もそうでしょう。その大きな流れを信じて、活動していきたいと思います。
2010.08.07
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先日の重さの実験で、小学3年の子が、少数意見ながら、立派な意見を述べました。水槽に木片を浮かべた時の重さを問う問題です。しかし、実験が始まる前に、「ドキドキするから、見てられない」って、教室から逃げてしまいました。 ドキドキする実験って、科学って、本来、こういうことの連続であるはずなんです。 ところで実験をする前に、必ず結果の予想を立てさせて、できるだけ討論が起きるように、しています。 しかし、これまた、極力、答えを誘導しないように、注意をしています。 なぜでしょう?自分で考える力を育てたいから、が主な理由ですが、討論すると、実は、半数以上の確率で、間違った議論展開が行われます。 先日も、体重計に乗ったときの重さの問題で、体重計の上で、踏ん張った時の方が重くなる、という予想に多くの子がどんどん引きずられていきました。 また、虫眼鏡の実験でも、外の景色を集めて、映し出すことができるか?という問題に、木や建物は光を出していない、という意見にどんどん影響されていきます。 その間、私は、議論を活発にすることには、努力しますが、間違った考え方や、幼稚な意見を、指摘することも、誘導することもありません。 ですから、一見、講師としての仕事を放棄しているように見えるかもしれません。 実は、なぜ、多くの場合、間違った方向に議論が流れるかというと、自分の考えに自信がないからです。根拠の無いまま、それまでの授業の流れから言うとこっちの方かなあ、と空気を読んで、手をあげる子が多いんですね。(それ自体も、悪いことでもありませんが) そこに、強烈な論理をもった意見が飛び出してくると、足元がぐらつきだして、予想をもっていかれちゃうのです。 だから、間違った考え方を吹き込まれるというよりも、自分自身の本当の考え方をあぶりだされるのだと思います。 ここで、もし、ですが、私は極力していないわけですが、自由な討論をさせないで、先生が解説をしながら、「みなさん、どっちでしょう?」と聞いたら、ほとんどの子が、正しい予想に手をあげることでしょう。そして、それを見て、授業成果が上がったと先生および、教育関係者は喜ぶっでしょう。 しかし、それでは、子どもたちに潜む、「でも、本当はこういうことは、ありえないんじゃないか」「常識的にこうだよ」 「ほんとうかなあ」という心の奥の声は、押しつぶされていっちゃうんですね。 これは、表立っては、誰もが気付かないうちに行われる圧殺です。子どもたちさえ、気づかないことが多いと思います。が、心の奥では、こういう押しつけに反発が生まれ、それが積み重なって、理科嫌い、勉強嫌いになっていくのだと私は思います。 議論は、どんなに間違ってもいいのです。かえって、大勢の子が間違えば間違うほど、感動的な実験になります。(いつまでも、間違ってばかりいるのは、問題ですが) じゃあ、講師の役割って、なんだろう? それは、面白い問題、考えるだけで、ワクワクする問題をもってくることです。そして、それを一目瞭然に判明させる実験を用意することです。あとは、子どもたちの自然の流れを見守るだけです。
2010.08.06
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学校教育の基本は、基準を作ってそれへの達成率を測るものです。とすると、いつも、差を測られることになります。その思想は、「頑張って、努力してここまで上がってきなさい。」というものでしょう。ということは、です。「お前たちは、今、バカなんだけど、これをクリアすれば、少しはマシになる」と言っているのです。子どもの外部に基準を作っているのです。 これでは天才は育たないと思いませんか?天才は、まず、自分は天才であると確信しなければなりません。少なくとも、そこからスタートしなければ始まらないと思うのですがいかがでしょう? 確かに、今はわからないことがいっぱいあるけれど、教科書よりも、問題集よりも、自分の方が上であるという意識つまり、教科書なんて、私の食卓を飾る料理の素材のひとつにすぎない。そして、そんなのおいしく私流に平らげてしまえるし、私流にもっと素敵な料理に変身できる。という意識です。 決して、教科書を神だなに上げて、拝むんじゃないのです。拝むのは、自分の天才性なのです。 それじゃ、唯我独尊になってしまうという心配があるかと思います。でも、私は唯我独尊こそ、教育の土台だと思うのです。ま、いろいろな考えがあると思います。しかし、こと、天才性をスクスク育てるには、他人の基準で物事を見るんじゃなくて、自分の基準で解釈する習慣がどうしても必要です。 その意味で、学校教育は、その基本として天才性を殺すように仕組まれていると言えると思うのです。だから、学校外で十分にカバーしてあげる必要があると思います。
2010.08.05
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親や教師は、子どもをうまくコントロールできていれば幸せを感じ思い通りにならなければ不幸になります。というのが、常識ですね。 でも、もし、そうなら、世の親や教師は、何とみじめな失敗者でしょう。 でも、教師は子どもたちを指導するのが役割ですよね。だから、何とか、うまい指導方法を探しまわります。 しかし、人間というものは、外から規則や懲罰を押しつけてもそりゃあ、一時的に従うふりをするかもしれませんが、それは、本心を隠しているだけです。そして、反抗期には、それが表に出て反抗的な行動となるだけです。誰でも、心の奥には、自分は他人を喜ばすために生きているのではないことは、わかっているのだと思います。 ということは、本人が本心から援助してもらいたいと思っていることしかサポートできないということになります。 人それぞれ、発展段階があり、それぞれ必要としている経験も違うのだと思います。ニンジンを欲しがっている子にいくら美味しいからと言って、アイスばかり与えても仕方がないのです。 だから、勉強したくない子には、強制させるのは、愚の骨頂だと思っています。全く、家庭教師の風上にも置けない考え方ですね。でも、「無理に教えなくてもいい」、「子どもの受け入れ状態を尊重しなければ」と考えると、とっても気が楽になります。ま。社会的に、それが許されないのが現状だとしても。 じゃあ、周囲の大人の役割って、一体なんなんだ?意味が無いのか? 私が考えるに、良い影響を与えられる大人になること。つまり、その大人が「自分の人生」を生ききっている姿を見せることだと思うのです。 別な言い方をすると、心の底から活き活きといきているかということです。 この意味は二重のものがあります。一つには、モデルになるということです。こういう大人になりたい、というのも、もちろんあるでしょうが、人生や社会・宇宙というものに、肯定的な思いを抱いてもらえるのではないかということが大きいです。 もうひとつは、活き活きと自分の人生を生きると言うことの中に、きっと自然な形で、周囲の人が幸せになるという青写真も入っていると思うのです。自分の幸せを追求していくと、最もナチュラルなプロセスで、副次的にその青写真が達成されていくと思うのです。もちろん、その青写真をコントロールの道具にすることはできません。細部をいろいろ意識しても意味がありません。 でも、何と顔色の悪い教師が多いことでしょう。機嫌の悪い母親が多いことでしょう。家庭教師を雇うより、塾に通わせるより、みんなでニコニコしている方が、何倍も何百倍も効果があることは間違いありません。 当ったり前のことですが、成績で幸せが決まるなんて考えてる親・教師は世の害虫だと思っています。 そもそも、幸せになるってことは、論理的なことではないですよね。森の声さんも、先日書いていましたが、論理的な基準で、「役に立つか、立たないか」という価値観で大人は価値判断してしまいますが、 もともと、人間は、自然物なので、役に立つ云々と関係ない世界の住人なのです。否応なく、存在がそうさせてるのです。 論理的にしか考えられない人は、自然物の「子どもの世界」が理解できないのです。 だから、「役に立つことだけを目的にした科学」は、子どもの心を感動させません。 感動は、感動する心を提示するしかないと思います。感動する科学をこそ、提示したいと願っています。
2010.08.04
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昔のイギリスでの公開科学実験講座の隆盛を森の声さんが、人々が新しい魔法だと思ったのかもしれないね、とコメントいただきました。 正に、そうかもしれない、と私も思います。科学と魔術、これは科学にとっては、宿敵であってこれを倒すために科学者は頑張ってきたとも言えるのですが、ある角度から見れば、やっぱり科学も魔術の一種だと言えるのかもしれません。 科学哲学者ファイヤアーベントは、こんな過激なことも言っています。「科学理論ばかりでなく、あらゆる知識について、優劣を論じるような合理的基準は存在しない。したがって、科学と神話・魔術・占星術との優劣も論じられないし、それを無理に分離させようとすれば、権威主義に陥らざるをえないことになる。」と。 今、これについて論じる時間はありませんが、100%受け入れないまでも、科学は、科学者が考えているよりも、ずっと神話に近いのかもしれません。科学は、人類によって発展させられた数多くの思考形態の一つにすぎなく、それが、自明として最良の思考形態である、と証明されているわけではありません。だから、科学教育そのものを受け入れるかどうかも、特定の思想を受け入れるかどうかと同じように、根本的には、個人の自由にゆだねられるべきなのでしょう。 このような考えに、皆さんは、どうお考え、反論されますか?
2010.08.04
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ニュートンが力学を完成した後、意外にもイングランドでは、しばらく科学研究が下火になります。しかし、その間に、例の産業革命が始まるのです。常識的には、科学が盛り上がっているときに、技術革新が起きると考えられますのに、どうしてでしょう? 実は、その頃、大学内ではなく、外での公開科学実験講座が生まれてきているのです。高額な参加費をとって、それで生計を立てる人も出てくるのです。それだけ人気がありました。また、小学校も存在しないか、できたてのヨチヨチ歩きで、公的な学校教育に期待できない中、そういった街の大道科学教室こそが、一般の人たちが触れられるアカデミーであったのです。 それこそ、私も興味があるので、調べていますが、参加者は、もちろん強制されてでもありませんし、テレビで人気者になった講師でもありません。それでも、人が集まったのです。有料で。 まずは、楽しかったに違いありません。 さて、翻って、現代日本の公開科学講座の果たす役割って何でしょう?調べようと思えば、いろんな方法で情報は入ってきます。単に、知識を求めてというのは、ちょっと弱い気がしますね。 私は、専門家され、細分化されてしまった科学の原点を思い起こすためにあるように思っています。科学って、本来、王侯貴族の「文化」ではなく、庶民の権力への明るい抵抗運動だったように思うからです。
2010.08.03
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私は数年前から、小学生には、どんぐり倶楽部の算数問題を使っていますが、その絵で解くスタイルは、10才、12才の壁を過ぎてしまった中学生にもまだ、一部かもしれませんが、有効であるとの「実験結果」を得ています。 社会の暗記が、どうしても苦手な中1生(現在2年生)に覚える内容を絵にさせていったのです。つまり、信長キャラや、家康キャラを作って、それを自由なイメージで活躍させていったのです。 ラッキーなことに、絵を描くことが好きだったので、勉強と思わずに、楽しむことができました。 早速その成果は、小テストから現れ、それまで半分も取れなかった点数が、80点以上になってきました。そして、ついに定期テストでも限りなく80点に近い70点台に乗ってきたのです!当然通信表も、4をゲット! これによって、他の教科にも、少しずつ、しかし確実に効果が出始めています。それまで、機械的に、デジタルデータとしか暗記できていなかったのが、イメージの動きとして働きだしたのです。 やはり、キーポイントはイメージ力です。豊かなイメージを描けるか、これは訓練で年をとってからも開発できると思います。私も、まだまだ、脳ミソを開発したいと思っています。また、大学受験生にも、一発逆転を目指す子にも、秘伝として伝えたいと思っています。
2010.08.03
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ロバートフックの前にも、いろんな科学者が重力の研究をしています。当然ですね。ガリレオだって、デカルトだって、ケプラーだって。 でも、ニュートンより前の学者は、物体は直に接していなければ、力を及ぼしあうことはあり得ないと考えていたのです。つまり、機械論的に説明しようとしていたのです。 ところが、ニュートンは、莫大な距離の天体間に引力が瞬時に伝えられると説明します。「なぜ?それは、わかりないけど、そう仮定して計算するとバッチリつじつまが合うんだもん。」ということだったのです。 だから、当時、常識的な科学者は、天体がその引力をどのようにして相手の天体に伝えるのか、その仕組みを説明しないニュートンの理論など、科学が否定してきた、オカルトなどの神秘思想そのものではないか、と反発します。実際、フランスでは、ニュートン力学を受け入れられるまで40年かかっています。 でも、これって、ある意味当たり前ですよね。なぜかわからないけど、そう計算すると、バッチリ当たるんだ、というだけですから。 これで、引力が解明されたと言えるのでしょうか?いえいえ、当然、まだわかってないのです。この科学が高度に発達したと言われる現代、重力のことさえ、私たち人間に、納得のいく「わかった」という説明ができていないのです。 重力の発見・研究はこれからなのです。 でもね、わからないけど、計算が合って、実験の結果と理論と数値が合えばいいのだ、という考えは、後の「実証主義」につながってくる源流に思えます。(直接ではないですけどね)私たちは、目の前の物質世界が「リアル」だと感じています。そして、物質の背後に存在理由を求めたく思います。乱暴に言えば、そういった態度のことを「実在主義」と呼んでいるようです。それに対して、実証できることがらだけが重要だと主張する立場、それが実証主義です。目の前の物質や空間が実在するかどうかなんて関係ないのです。何かが実在するかどうかも、実は関係無い。実験して理論と数値が合うかどうかだけが問題なのだ。 あおホーキング博士の、「虚時間」の理論も、そうです。 その理論は、宇宙には虚時間が存在しているということではないのです。虚時間でも計算できる、ということであって、あなたは実時間でビッグバンなどを計算してもいいんだよ。ということです。宇宙の時間が虚数か実数かなんてどっちでもいいんだという考えのようです。 この考えの流れも、大きいものがあります。これに反対する流れもあります。 私は、人間が「わかった」というものはやっぱり違うように思えます。数学の計算だけでは、私は満足できません。
2010.08.02
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リンゴが木から落ちるのを見て、視線をリンゴより上に上げてリンゴと同じ丸い月がなぜ落ちないかと、考えたのがニュートンさんの万有引力の発見の物語と、子ども達は、信じています。 私も、しばしば、当たり前のことを疑う大切さの例として使ってしまったりしてますが、 実は、どうひいき目に見ても、引力の法則の発見はニュートンとは言えないと思います。だって、ニュートンが重力の問題に関心をもつようになったキッカケというのがはっきりしてるのです。それは、ロバート・フックからの手紙です。あのバネの伸びの法則「フックの法則」のフックです。あの天才、科学職人は、以前から、「惑星や月の運動は、慣性の法則と天体間に働く引力をもとにして説明できるに違いない」と考えていました。そして、イギリスの王認学会でも、振り子を振り回して説明をし、小冊子でも、「天体の運動は、次の三つの仮説をもとに説明できるに違いない」と書いています。その仮説とは1.天体はどれも自分の中心へ向かう重力=引力をもっておりその引力によって他の天体をも引き付けている。2.すべての物体は他の力によって曲げられない限り直線運動を続ける3.引力は距離が遠くなるほど弱まる。です。なんと、まさにではありませんか。 そして、その後、これを数学的に証明できないか、ニュートンに意見を求める手紙を書いているのです。 しかも、その半年後の、ニュートン宛ての手紙の中で、フックが考えている万有引力は、「距離の二乗に反比例する」という見通しまで述べているのです!! もちろん、数学的に証明できたのはニュートンです。彼は、微積分の方法まで開発して、解いています。それは凄いことです。 でもね、問題提起を明確にすることと、その問題を解くことでは、どちらが、創造的でしょうね。明らかに、後者です。 ニュートンはいろんな意味で、ラッキーな立場にいた人です。でも、引力の発見物語から、私たちが学ぶとすれば、ロバートフックの発見物語をはずすことは、科学教育的に、とんでもない損失だと思います。(ニュートンは科学者としての仁義を切ってないところからも私は、あまりニュートンが好きになれません)(でも、そのニュートン主義ともいえる考え方は偉大です。)
2010.08.02
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今、朝の勉強会から帰ってきました。全国学力テストで、宮城県が平均値を上回ったというのが、大きく新聞に出てました。今まで、宮城県は沖縄に次いでの、学力に縁の無い県であることを誇っていたのに。さらに、その宮城県の中でも、この大崎地区は低い。ということはだ。君たちは、本州でトップ地域にいるという栄光の中にある!、と。 ま、冗談はさておき、夏休みの宿題の出し方をみると、学校の姿勢、先生の姿勢がよくわかります。まずは、その量の多さ。自主学習する余裕がありません。オームの法則だけで、100問出してきた先生がいます。それも、バリエーションの無い、100マス計算みたいなものばかり。私は、こんなもの全部やるとアタマが悪くなるから、やめさせました。(私が解いてやりました) 写経もびっくりというくらい、英単語をただただ、書かせる宿題もあります。英語の先生は、精神修養まで担当してるんですね。 学習計画表をきめ細かく、書かせている学校もあります。企業の中でだったら、フォーム自体がノウハウであり、それに忠実にするのが、務めというものです。しかし、モチベーション自体が希薄な生徒たちに、きめ細かなフォームを与えて、どうなると想像してるのでしょうか? まず、適当に埋めてしまいますよね。特に反抗期の子ども達に、フォームに従えというのは、あまりに稚拙なやり方です。 さらに部活動の多さ。早朝は駅伝の練習。それが終わったら、学校での勉強会その後、部活動。 それも4時間~5時間 何が「夏休み」何でしょう!?垣間見えてくるのは、大人が子どもをいかに信用していないか、ということです。 ゲームの「ぼくの夏休み」は、本当に夢の世界になっちゃったようです。「失敗しないように」「有効に使えるように」くそくらえ! です。失敗し、無駄なオバカなことをするために、夏休みってあるんじゃないんでしょうか?無駄なことをする自由って、基本的な人権じゃないでしょうか?これじゃ、子どもたちのアタマが悪くなると、思いませんか?
2010.08.01
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