全26件 (26件中 1-26件目)
1
政治や経済界で人材難が叫ばれて久しいですね。ついつい、世相を見て、嘆いてしまう自分を発見します。しかし!!これは、教育関係者にとって、大いに責任を感ずるべきところではないでしょうか? 私たちは、あまりにも目先の「教育効果」にばかり目を向けています。せいぜい、小学生の時から、高校入試や大学入試への対策くらいです。さらには、就活のためです。 しかし、子どもたちに、一番力を発揮してもらわなくてはならないのは、20年後、30年後であるはずです。その頃、彼らが日本や世界を背負い、彼らが、破滅か新たな展望かの鍵を握るのです。 当然、今の社会とは、環境が違います。問題の所在自体、変化しているでしょう。 その時、力を発揮する教育というのは、どんなものでしょうか?これだけは言えます。今、役立つこと、今、即効果が上がるもの今、華やかに見えるものは、20年後、30年後には、まず、役に立たないことは、ちょっと歴史をかじれば、すぐ気づくはずです。 じゃあ、何が役に立つのか?それは、基礎的なもの、原理的なものです。戦略的なもの、歴史的なもの、哲学的なものであるはずです。 すぐ使える新卒を育てるのはいいのですが、日本の人材難は、指導者層にあります。先の戦争でも露わになった日本の弱点は、指導者育成です。そのための教育は、別なのです。大胆な発想の転換力が必要なのです。 平成の人材難の責任は、20年前、30年前の教育にあります。また、そういう教育を許した責任は、その上の代にあります。 今の若者は、と嘆くことは、自分が天につばすることです。まず、人を非難する前に、自分がこれまでよって立ってきた基盤を批判したいものです。 ということで、私は、今、もう一度、自分自身のガラガラポンをしています。 やはりまず、親と教師が自己への深い掘り下げをすることです。そうして、日々、指導者が変化していかなければなりません。個々人特有の弱さもあるでしょう。私も、正にそうです。強いところと弱いところが両極にあります。そこを直視して、向き合おうと思っています。その変化の様子を見て、子どもは、無言のうちに必ず感化されると信じて。 社会環境の責任は置いといて、教師自身が、人間理解を深めないと、そこから、ずべてが始まります。 その上で、文科省や政府を批判しましょう。
2010.11.30
コメント(0)
教育の成果は、どうやって測ればいいのだろう?それは、どんな人材が育ったて来たかで見るべきでしょう。数学の関数と同じで、「インプット」と「アウトプット」で見るべきです。その意味で、教育界では真面目に追跡調査がされていませんね。 もちろん、塾・予備校では、合格率で測ります。ある面では客観的です。でも、子どもに教育をするのは、大学に入れるためではなく、(え?そうだって)その後どんな人生を送るかが、本当に重要なんですが、その追跡調査をしているところは、本校出身の有名人くらいなもんですね。ぜひ、それで、優劣を競っていただきたいもんだと思います。 なんて、人ごとのように言ってますが、この私めの「はてなランド」もいろんな形態を経ながら10年目です。さて、ここにご縁のあった子どもたちの成果は? 実は、初期のころ。小学生でここに来た子ども達には、著しい特徴があるのです。え~、普通、自慢して成果をお話するもんですが、正直に報告します。 中学で不登校になった子が多いのです。もちろん、その傾向があった子が、こちらに来たということもあります。 しかし、知識そのものじゃなく、みずみずしい感性を育てようと手塩にかけた子たちが、あの子も子の子も、軒並みえ?行ってないの?!って聞かされると、ショックでした。自信を喪失したのが、一旦、自宅での授業をとりやめた理由でもありました。 なぜなんだろう?元気だけが取り柄で育てたはずなのに。 私は深刻に反省しています。で、まだ、結論は出ていないのですが、良い面と悪い面、ふたつがあると考えています。 それは、不登校できるくらい、自分をしっかりもてる子になったんだということです。今の学校で違和感を感じない方がおかしい。それを、ちゃんと表現できるように育ったんだ。これは、かえって素晴らしいことではないのか?!ということです。その証拠に、単なる引きこもりは、ほとんどいません。(結果的に鬱になった子はいます) しかし、当然、マイナス面としては、私は個人的な感性ばかり追い求めてしまって、集団としてのあり方、特に人間関係への刺激に乏しかったと。 ひどい学校生活だからこそ、その中で敢然と立ち上がる力、また、戦う力を育てなかったいうことです。さらには、抱擁する力とでも言いましょうか? 自己弁護すると、やっぱり、うちに来た子は、もともと、精神的な弱さをかかえていた子が、ほとんどで、中には、すでに不登校の状態だったわけでこのままでは、この子は、学校ではつぶされてしまう心配から避難してきてもいたのです。だから、はてなランドに来ていたときは、不登校ではなかったのは、それだけ、はてなランドの授業が、人間関係にも良い影響を与えてたのかもしれない。とも、思えます。 しかし、その効果は、少なくとも長続きしなかったわけです。 もし、私が単なる癒しのレベルから、もっと、本当のたくましさつまり、社会的な視点をもてるまでに、刺激を与えて行くことができたなら、きっと、違った展開になっていただろう、と反省しています。 お蔭さまというか、5年前や数年前の子については、元気に進路を切り開いています。(まだ、これからですが) 現在、一家庭教師にすぎませんし、また、出前科学実験教室でも、ワンポイントの出会いでしかありませんが、科学や成績だけでなく、社会での、自分の使命感へのヒントとなるそんな心の琴線に触れる触れ合いを目指して、教材研究をすすめております。
2010.11.29
コメント(0)
私は、家庭教師で、数学の指導を期待されることが多いのですが、(個人的には、な~んでも好きですよ)当然、数学が苦手な子とおつきあいするので、ついつい、数学が苦手な子と、得意な子の違いが気になってしまいます。 まず、男の子より、女の子の方が、苦手率が高いですね。これは、男女の先天的な違いなんだろうか?いや、女の子でも、得意な子はいっぱいいます。では、その女の子同士の違いは、どこにあるんだろう? 私は、もしかして好奇心・つまり「子どもの心」を持っているか、どうかが大きいんじゃないか、って気づいたんです。 「大人の心」を、世の中のことを何でもわかったふりをする「世間ってそういうものさ」って、割り切れる大人びた態度とすれば、「子どもの心」は、「どうして?」「なぜ?」を失わない姿勢です。 そういう意味で、女子の方が、早く「大人びる」ので、相対的に、数学が苦手なんじゃないか、って思えてきます。 当然、世の中に出て、必要とされるのは、疑問をもつことを忘れない姿勢です。政府や上司の言うことを、鵜呑みにしていては、たいへんなことになるのが現実です。数学は、この面からも、大切だとよく、「数学って、何の役に立つの?」って質問されますが話していこうと思っています。 もうひとつ、これは、よく言われることですが、音楽との関係です。数学の才能と、音楽を理解する力は、関連が少なからずありそうです。 芸術と数学、ずいぶん違ったジャンルのようですが、どこが共通点なんでしょう?ある方がおっしゃっていて、なるほど、と思ったんですが、どちらも、対象を何らかの形で、「モデル化」しているんだと。 音楽は、たとえば、悲しみや喜びを、音階やリズムと言った抽象的なモデルに置き換えて表現するもんですね。同様に、数学も、記号を使って、抽象的に表現するもんだと。そして、さらに、どちらも抽象的な美しさを求めているんだと。 わかったような、わからないような説ですが、私の生徒を見ても、相関関係は、ホントにあるんです。ぜひ、音楽教育を、数学力のためにも、忘れないでほしいと思います。 また、こういう説もあります。数学と言っても、数学の試験での力ですが、時間配分の力が大切なんだと。音楽も時間のアートです。だから、共通なんだと。 まあ、これは、どの教科にも言えることじゃないか、っても思いますけどね。 土日は、私は、めちゃ忙しいのですが、昨日は、ひどい目にあっちゃいました。夜、車が動かなくなっちゃったんです!ひぇー!仙台のガソリンスタンドに預けて、トボトボ帰ってきました。 今、レッカー車に運んでもらっているところです。年末の出費じゃあ!でも、街の中で良かった。いつもの山道じゃ、たぬきやキツネとおしゃべりしながら帰ってきたところでした。 さらに、歩いて帰る途中で、パソコンのマウスを落としてきたようで。今、マウス無しで書いています。 この気分の落ち込みをどうリカバリーするか。石川遼のような保険が、いや、粘り腰と前向きな姿勢が、今こそじゃあ!
2010.11.29
コメント(0)
親は子の立場になかなか立てない。先生は、生徒の目線になれない。政府は国民の気持ちになれない。売り手は、買い手の立場に立てない。だからこそ、マーケティングなんて学問や技術が生まれ、その専門家が、高額な費用で活躍しているのです。そして、消費者の心理を見抜く会社が、少ないからこそそれを、把握した会社が利益を得るのです。 言うは易いのですが、どうしてこうも、相手の立場に立つことは、難しいのでしょう? それは、単に視点が違うだけにとどまらないからです。つまり、世界が違うからです。さらに言えば、「現実」自体が違うからです。 私たちは、真実はひとつ。現実を直視すればわかる、なんて言いますが、とんでもないことです。「現実」は、人の数ほどあるのです。 人それぞれ、認識のフィルターが違うのですから、そこにひっかかる情報自体がそれぞれ、「ゆがみ」をもっているのです。それは、当然のことで、どこまで行っても、「相手のことがわかった」とは、言えないのです。 それを前提に、私たちは常に謙虚さをもって、人と接していかなければなりません。 その最たるものが、「正義」を振りかざす時です。ある人にとっての正義は、別の人にとって、おせっかいの何物でもなかったり、かえって「悪」だったりします。でも、これは、当たり前のことなのです。 個人間でもそうなのですから、国家間だったら、どうなるでしょう。戦争をする国や組織は、自分たちこそが、正義だと信じて戦っています。片方がバカで、片方が正しいのでしょうか?どちらも、それぞれの世界では、正しいのです。 だから、国際間で紛争があるのは、あったり前なのです!普遍的な正義と言ったって、それを認めない立場も、容易に生まれます。そんな中で、私たちは平和を求めています。日本国憲法前文 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」この価値観を世界のどのくらいの国が共有しているでしょうか? この価値観を屁とも思わない国がいれば、この方程式は崩れるのです。 どうすればいいんでしょう?日本国憲法。これはひとつの理想だと思います。が、世界が、これを理想とは認めないでしょう。全然、別の正義をもっているのです。 北朝鮮だって、あれはあれで、正義だと思ってるんです。砲撃も、拉致も、悪いことをしたなんて、これっぽっちも思っちゃいないんです。中国だって、その国民だって、情報の偏りがあるにしろ、同じ情報を得たとしても、結論は違うのです。 じゃあ、こちらの正義を変えるのか?もちろん、それもできません。ですから、紛争は、人類がどうしようもなく背負わされた「原罪」みたいなものです。これを直視することから、新しい世界秩序が見えてくると思います。 私は、正義がひとつに統一ならなければいけない、なんて思っちゃいません。いろんな正義があるからこそ、豊かになれるのだと思っています。でも、だからこそ、野放しではダメで、自由も、圧殺されてしまうのです。 国際社会だけでなく、学校の中でも、最低限の一定のルールの中で、 自由を保障しなければなりません。インター正義のルールです。そして、そのルールだけは断固として、守らせなければなりません。そこに、権力・パワーが必要です。 学校の「荒れ」も、最低限のルールを守らせないからです。生徒の自由・権利と称して、手を出せないのです。良い意味の警察力さえ、学校には無いのです。だから、クラスの中に、北朝鮮や中国のような生徒が、跋扈するのです。そして、逆に、生徒の自由な発言や発想が抑圧されるのです。 この大きな意味での「防衛力」は、国家や組織だけが持てばいいのではないでしょう。一人ひとりが、それぞれ、保持してこそです。(アメリカみたいに、ピストルを持てとは言いませんよ!!)抑圧、脅しから、身を守る力です。人権を守る意志と能力です。つまり個人の独立です。これを助ける教育があってこそ、平和も国家の独立も、実のあるものになるのだと思います。
2010.11.26
コメント(0)
親は子どもに、「宿題やったか」「試験勉強しろ」「ちゃんと学校へ行け」とハッパをかけます。 自分も辛い学校生活を送ってきたのだから、子どもが体験する様子もわかっていると思いこんでいます。 しかし、しかし、学校の教員補助として8年ほど、授業を生徒と一緒に「体験」してきた者として言えることは、親は、子どもの気持ちをわかっちゃいないだろう、ということです。親は、きっとこうだろう、と推測でものを言いますが、教室によって、クラスの雰囲気は、ガラっと違いますし、教え方もずいぶん違うんですよ。本当に、先生の力量の差は、厳然とあるのです。 そして、昔と今の差もあります。何より、子ども時代のことは、良き思い出となってしまって、辛かったことは、忘れてしまうものです。そして、根本的に、本当に子どもの気持ちに立とうという意欲のある大人が(私も含めて)ほとんどいない、ということです。子どもの目線でものを想像できるか、ということです。 本当に子どもの立場でものを考えたければ、やっぱり、子どもと同じ体験をすることが基本でしょう。教室で同じように、席にすわり、授業を受けてみましょう!45分間、じっとしていられますか? 先生の話に集中できますか?寝ないでいられますか?あくびをしないでいられますか? 授業中、そして休み時間、給食中、子どもはどんな気持ちでいるんだろう? もっともっと、関心をもってください。そうしてはじめて、子どもとのコミュニケーションがとれるようになると思います。 ほとんどの子どもは、親が自分の気持ちを理解しているとは、思っていません。本当の気持ち、苦しみ、悩み、それに関心が無いか、共感してくれないし、そもそも、わからないものだと思っています。 今の学校は、「非常事態」です。授業参観日でなくても、頻繁に教室をのぞくことを強くおすすめします。 もちろん、子どもは嫌がるかもしれません。だから、うまい口実が必要です。ここにこそ、知恵が必要です。 そして、ただ、授業を監視するんじゃなくて、一緒に、勉強してみてください。それでこそ、子どもが味わっている、勉強の面白さ、そして、つまらなさ、苦しみ、危険性が、理解できます。 漢字の書き取り練習、あんな写経みたいなもの、大人はちゃんとできるでしょうか?また、同じパターンの計算練習、延々とできますか? また、クラスの人間関係も、体験してみてください。どの子が、どう問題か、味わってみてください。 実は、これ、一番おすすめしたいのが、先生なんですけどね。
2010.11.25
コメント(0)
定期テストの週間です。昨日も、早朝から、深夜まで、ぎっしりスケジュールで、パソコンにも向かえませんでした。 生徒を指導していて、つくづく思うのですが、主体性をもってるかどうかこれが、その子の伸びに、最も関係していることです。 言うまでもなく、個人も国も、主体性が無いと、不利益がいっぱい出てきますね。 (主体性のある日本をつくりましょう!)主体性がないとは、物事に積極的に取り組めませんもんね、 それより、実は、主体性が無いと、得体の知れない不満をもっちゃうようなのです。主体性の有無と、能力、努力の有無は、比例しているわけではないのですが、不満や、妬み、恨み、憎しみ等の感情とは、比例していると見受けられます。 また実際の能力に関係なく、自分に進歩がないように感じることも共通しています。 つまり、不満と進歩のなさを誰かのせい、環境のせいにしてしまうのです。すると、当然、よい人間関係は作れません。だからこそ、多くの子どもたちは、信頼関係を作るのが苦手なのだと思います。主体性が無いと、自分の世界が狭くなります、また、逆みたいですが、周囲からの励ましやサポートも受けにくい状態になるのです。 子どもの人生にとって、主体性のなさは、想像される以上に大きなデメリットになっています。 じゃあ、どうやって主体性を育成すればいいんだろう?主体性と自信は、裏表みたいなところがあるようです。そして、誰でも自信が最初からあるわけではなく、失敗の体験から学んで、失敗を繰り返す内に見出してくるもののように思います。 だから、いっぱい失敗させることだと思うのです。自信を失わないように、失敗をさせない、というのは、逆だと思います。 そして、やらされ感を克服するには、なにごとも全体を見渡す力を身につけさせるようにしたいものです。全体を見渡した上で、自分で選択できる自由を与えるのです。 試験勉強で、今日勉強するところを、家庭教師からいちいち指示されないで自分で決められるようにする、ということです。 主体性はその取捨選択から生まれるものだと思います。そして、その選択の責任は自分にあると、渡してしまうのです。責任を引き受けないところに主体性はないからです。 大きく見れば、生徒の成績は、家庭教師の責任だとも言えます。しかし、これは、契約時の話し合いで、何を伸ばそうとしているのか、どういうことを期待しているのかを、しっかりすり合わせしていれば、クリアできます。 そもそも、家庭教師のできることは、触媒の働きでしかなく、化学変化の原料の原子にもなれません。 こんなことを言うと、子どもは好きな勉強ばかりやって、苦手なことに手を出さないと言われるかもしれません。 しかし、勉強の目的の全体像を常に把握できるようにしておけば、苦手で嫌いな科目が、なぜ必要なのかを理解できます。 実は、勉強をする動力は、楽しさばかりではありません。 私は、好奇心や楽しさの重要を訴えてはいますが、脳みその方は、損得勘定に強く影響されるもののようです。勉強する能力に関してはですよ。 だから、自分で、その勉強の損得が計算できるように、環境を整えることまでは、お手伝いをしていきたいと思っています。 間違っても、他人の顔色で意思決定をさせてはいけないのです。それは、あとあと、子どもを地獄のスパイラルに落としてしまうからです。では、今日もそろそろ出動です。
2010.11.24
コメント(0)
現実を変えたいと思ったことはありませんか?私なんか、毎日、思っています。なんたって、飽きやすいし、好奇心が人一倍あるようですんで。 でもね、実は、もともと、この世の中の「現実」というのは、いっぱい、星の数ほどあることを知っていますか? そう、人によって、みんな違うのですよ。私の現実と、あなたの現実、彼の現実、み~んな違います。いや、同じ人でも、1時間後には、現実が変化していることがしばしばです。 これは、何によってもたらされているのでしょうか?認識をするためのフィルターが変化したからです。 そして、そのフィルターで最も簡単で劇的に変化しやすいのが、なんたって「感情」でしょう。たとえば、恋をすると、世界が一瞬にして変わりますね。現実が変容するわけです!!!でも、そうそう簡単に、感情って変えられないと思いますよね。感情の基となっている、思考パターンや、観念要素とも関係がありますから。ふつうは、観念や思考パターンを変えなければ、感情を変えられません。 しかし、私は、逆もありえるように思うのです。とにかく、ご機嫌な感情を持ってしまうのです。その感情の枠組みの中で、思考をするのです。 たとえて言えば、古い爬虫類の脳みその上に、新しい考える脳みそが浮かんでいると、イメージしてみますと、考える脳みそが独立独歩で、思考をしているというのは、幻想であって、古い脳みそに、大きく規定されていることが見えてきます。 だから、元気いっぱいの運動などをしながら、とにかく笑っちゃう!!そうすると、思考パターンが、こっちについて来ます。 こんな意味でも、楽しい授業は、超重要。 感情って何なのか、本当のところ、わかりませんが、怪しげなスピリチュアルの本にも、ガイドだと、書いてありますよね。 どうやって、生徒にこの秘伝を伝授しようか、と腐心をしている科学寅です。 昨日は、角田の皆さま、ありがとうございました。3回の連続講座、皆勤賞の方々もいらっしゃって、うれしかったです!評価の平均も、楽しかったが、4.8をいただきました。タメになったは、4.2でした。実験の見やすさなど、反省すべきことは、多々ありますが、方向として間違いではないと、安心しました。ありがとうございます。
2010.11.22
コメント(0)
明治維新では、好奇心があった日本人が、ずいぶん変化してきたわけです。 では、好奇心を奪い取る方法は、何でしょう? 私は、それは、「押しつけ」、「強制」だと思います。どんなに楽しいことでも、それをしなければいけない!という「仕事」になると違ってしまいます。うまくできなければ、たいへんなことになるぞ!あなたの価値が無くなりますよ!あなたは、愛されなくなりますよ! と言われれば、一気にやる気や、好奇心は消えてなくなります。 たとえば、趣味が将棋の人でも、将棋がいかに、意義あるものかを、じゃんじゃん説教され、将棋が強くならなければ、人生がダメになる、誰からも相手にされなくなる勝つことを、一族郎党、みんな期待している、親を泣かせないでくれ、と深刻な顔を言われたら、将棋の楽しみなんて、吹っ飛んでしまいます。 だから、昨日書いた、武士道だって、本当に身になるためには、いわゆる強制やお説教ではなかったんだろうと思います。身をもって示す、模範があったはずだ、と睨んでいます。 しかし、現代の教育では、好奇心が湧かないのは、当然すぎるほど当然です。強制になっているからです。押しつけになっているからです。せっかく育つはずの好奇心を奪うなんて、これは、泥棒以上に、ひどい話ではないでしょうか? 私は、中学時代、無敗のバスケットチームに所属していましたが、勝つことばかりが、強調され、それに意義のすべてがあったので、一度もバスケットそのものを楽しむことができませんでした。 あ、バスケットって、こんなに楽しいものだったんだ、って気づいたのは、敗れて、引退した後でした。それも、相当時間が経ってから。 負けた当初は、ボールを見るのもイヤでした。何のためにやってきたのか、わからなくなったからです。だって、優勝できなかったら、価値がないとたたき込まれてきたのですから。私の中学時代は、無意味に終わってしまったのです。 科学研究も、もし成功だけに意義を求めたら、とっても割の合わない、損な仕事になります。しかし、そのプロセスを楽しみマインドをもっていれば、これは、天国です。 子どもたちの体は、正直です。頭では、「わかった」「がんばります」と言うでしょう。 しかし、体がついていきません。どうしても、机に向かっても、本を開けなくなるのです。 ともかく、直接的に、「勉強しろ」、と言うのは、愚の骨頂です。
2010.11.20
コメント(0)
忠武飛龍さんから、昨日の日記に、コメントでキーポイントは、傲慢さが墓穴を掘ってきたのであり、逆に初期の成功は、謙虚さと好奇心だったと指摘をいただき、納得しているところです。ありがとうございます。 好奇心のカタマリと言えば、坂本龍馬ですが、龍馬伝もあと2回ですね。 ところで、教育の成果というものを、輩出した人材で評価するとすれば、やはり、江戸と明治の教育を見直してみるしかないのではないか、と思います。 その中でも、明治の初期の人材は、当然、江戸時代の教育が生み出したものですから、江戸時代の教育を、それこそ、謙虚に学び直さなければならないのではないかと反省しています。 当然ですが、科学教育も近代的な教育論もなかったわけです。でも、出たとこ勝負にしろ、貪欲に欧米の文化を消化吸収することができたのは、そこに、知識ではない、知恵としてのヒミツが隠されているのではないか、と睨んでいます。 私は復古主義を唱えているわけではないですし、封建主義は、大っきらいです。また、道徳教育も、体が受け付けません。 でも、あの明治維新は、世界的にも、曲りなりにも、支配階級の武士自身が、自己否定をしながら達成した 世にも珍しい革命であり、普通の教育では成し得ないことだと思います。 私は歴史の専門家ではないので、私が知っている情報の中からの推論ですが、彼らの原動力、それは、やはり、「武士道」だったのではないかと考えてしまいます。 葉隠の「武士道と言うは死ぬことと見つけたり」です。あの時は、一種の狂気が支配していました。しかし、彼らは、自己の栄達や利益のために戦ったのではないですね。世に貢献できること、そこに魂を揺さぶる魅力を感じていたわけです。 そこが、他の国が、革命時の混乱で、醜い争いを繰り返し、結果的にさらに悲惨な状態に国を追いこんでいるのに比べて日本では一定限度の歯止めが効いていたのだと思います。 この武士道精神が、本当に戦国時代から日本人の性質としてあったのか江戸の儒学・朱子学とどう関わっているのかこれから調べたいと思うのですが、少なくとも、幕末の志士の精神に影響を与え、活力の源になっていたことは、間違いないのだろうと思います。 もちろん、これが、近代戦争での「玉砕」や「特攻」に使われたので、たいへんな両刃の剣だと思っています。 だからこそ、劇薬だからこそ、研究を深めなければならないと思うのです。どなたか、アドバイスをいただければ幸いです。 話は代わります。私の生徒の一人が、万引きでつかまってしまいました!!!!友達から脅されての事件でした。友達というもんじゃありませんね。イジメです。 私も彼の悩みに全然気づきませんでした。深く反省しております。 事件の全容がだんだん明らかになるに従って、私は、ご家族に中学校に行かせないように、お勧めしています。今。 不良グループの根は、深いのです。教師がちょっとやそっと、大きな声を上げても効き目はありません。限度を超えた迷惑さなので、彼らこそ、不登校になってほしいのですが、なぜか、来るんですね。学校からの出席停止にも限度があり、一緒に座らせなければならないのです。そして、彼らに「反省」はあり得ません。その親もまた、反省しません!!!学校の対応の欠点を、逆にすぐ訴えるのです。教師が脅されるのです。 本来なら、学校だけでなく、地域社会も、問題の家族へ圧力をかけるものなんですが、残念ながら、そういうコミュニティが新興住宅地でもあり、培われていません。 脅された彼は、ちょっと発達にハンデをもっており、学校には、特別の配慮もいただきたいところなんですが、中学では、そんな気配りがゆき届いた言葉かけは、期待できません。実際、今回のことの処理も、一般生徒と同じ扱い(大声)でした。 狼狽しているお母さんには、反省よりも肝っ玉母さんになることをお勧めしました。これもご縁だと思います。全力でバックアップさせていただきたいと思います。
2010.11.19
コメント(0)
NHKの「坂の上の雲」が再放送されていますね。我が家では、家族で見ていますが、まさにタイミングがドンピシャの放映だと、感謝しています。 まずは、仕事柄、中2生の期末試験の社会の範囲が日露戦争の頃までなんで、これは、教材に使える!というのが、ダイレクトな感謝なのですが、もちろん、それ以上に、日本人に原点を思い起こさせ勇気を与えてくれるものだからです。 あの時代の日本人の知恵と勇気、度胸あれは、どんな教育の賜物だったのか?どうしても、そこに関心がいってしまいます。 逆に言えば、 でも、なぜ、太平洋戦争では、ダメだったんでしょうか?同じ日本人が変質してしまったんでしょうか?教育的には、どこに失敗があったのか? 野球の野村監督の言葉に、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし 」というのがありますが、第二次大戦での惨敗は、運命のいたずらの紙一重があったにせよ、必然性が、しっかりあったのです。そこを本当に反省しないと、いかに自衛隊を強化しても弱点をカバーできないでしまいます。血の授業料を払った先人の教訓を無駄にしてしまいます。 私の個人的な考えですが、日本人は、逆境に強いのです。それも、前提がすっかり覆るような。そして、あるべき姿と現状とのギャップがあればあるほど、潜在的な能力を最大限に発揮するのです。そういう時、日本人は、全脳思考をするのだと思います。明治期は、正にそうでした。目指すべきところと、現状とのギャップが、あまりにありました。 ところが、第二次大戦の頃には、ギャップはあったにしろ、現状の肯定感が強くなり、今の路線の延長線でモノを考えれば良いとなってしまったのです。 人間の脳みそは怠慢です。すぐに楽をしようとします。 根本的な問題を疑わないで、表面的な課題を、もっとガンバレ!で済ましてしまおうとします。数学で言えば、本当は、関数の構造そのもを変えていったり、新しい関数を作らなければならないのに、同じ関数のxへの代入する数だけを増やそうとしているのです。環境は変化しているのに現状の関数で無理矢理対応させてしまおうというのです。 じゃあ、平成の現代、どうすれば日本人の全脳開発ができるのか?(もちろん、私を含めてですが)きっと、大大大逆境が襲ってくれば、目覚めると思います。しかし、それを待ってばかりいるのは、もちろん、バカで無責任です。 私は、未来へのギャップを意識的に作り出すことだと思っています。どういうことかと言うと、現状からは、とても想像できないほどの、理想・夢を、はっきりと描き出せば、それも、誰もが、それは素晴らしい、ぜひ実現したい!と願うビジョンを描きだせればそこにギャップが生まれ、飛躍が生まれるのではないかと思うのです。 日本全体としては、国家のビジョンです。そして、個人的には、とてつもない夢を励ますことです。 私は、これまで、日本人は小さな改善は得意だけれど、画期的な発明や、開発は苦手だと、変な常識にとらわれていました。しかし、明治期をはじめ、激動期の日本人のパフォーマンスを振り返ると決して、そんな小さなもんじゃなくて、底には、全世界をもひっくり返すような、潜在力をもっていると確信します。 と、ここまで書いて、だからこそ、ある生徒にメッセージを贈りたくなりました。 引っ越しで、熊本に行っちゃうK君へ このブログをお気に入りに登録してくれたので、見てるかな?1年あまりのおつきあいだったけど、いろいろありがとう。君の成績が伸びたことは、もちろんうれしいけれど、それよりも、自分で勉強法を研究する姿勢を身に付けたことそれが、なによりうれしいです。 その姿勢さえ、持ち続ければ、そりゃ、何度か失敗もするだろうけど、最終的にはきっと、目標を実現できる。そして、家庭教師も要らなくなる(^o^)/ 実は、私が一番気がかりなのは、目先の成績ではなく、君の目標・夢がまだまだ小さいことです。燃えるような夢を、抱くことさえできれば、君は、とんでもなく伸びることができる。その実現方法は、受験に関しては、作戦の立て方はじめ戦略論からしっかり伝授したつもりです。一度限りの人生です。誰のためでもなく、能力を最大限に発揮してみようじゃありませんか?期待しています。 君は、中学生にしては、珍しく素直でした。それが、君を大きくもしてきましたが、あえて言えば、もっと一回り大きくなるためには、「悪」が必要だと思います。誤解を避けて言えば、親を超えることです。本当の反抗期をまだ越えていないようです。これから、大人の階段を一歩一歩上っていくのでしょう。お互いに楽しみながら、歩いていきましょう。
2010.11.18
コメント(5)
「科学研究は、ワクワク・ドキドキですよ!」と、科学教室で私は語りかけます。でも、実際の研究者がやってることって、本当にジミ~~なことが,ほとんどです。特に、研究助手とか、大学院生などは、自分のこの作業の意味を、ときどき見失ってしまうことがあるほどです。 どんなに偉大な研究プロジェクトでも、決められたことを、上から言われた通りにする作業は、たしかに、つまらないし、これは、「科学」とさえ言えないかもしれません。 それに比べて、ほんの小さなテーマでも、たとえば、子ども向けのお遊びの道具開発にしても、誰も挑戦していないことや、誰も成功していないことに手探りで思考錯誤することは、本当に、生きてるという実感をもたらしてくれます。未知の荒野だからこそ、うれしいのです。 私にとって、新しい教育の形を模索することは、大きなジャングルであり、全くもって、血沸き肉踊る(古い表現ですね)娯楽であり、ストレス解消そのものです。失敗することが多いだけ、当たったときの感激が大きい、つまり、パチンコにハマるのと同じ状況なのではないか?とパチンコをしない私が言うのも変ですが、そう思います。 子どもたちは、昔、外で遊んでいたときには、毎日が冒険だったはずで、同様のワクワク感をもっていたわけです。だから、期せずして、頭が良くなったのだと思いますね。 今は、不幸なことに、大人がセッティングしてやらないとその感情を沸き立たせられない。可哀そうですが、仕方がない。ほんの小さな運動でしかないかもしれませんが、本来の姿を思い返すキッカケを作ってやろうと思っています。
2010.11.17
コメント(0)
三者面談のシーズンです。何を言われるのか、ビクビクしている親子が多いのではないでしょうか? 「こんな成績では、あそこは無理だよ」と言われる子の何と多いことかたしかに、事実でしょう。しかし、事実はいろいろありえるのです。 「頑張れば、あそこに入って、ああいうこと、こういうことができる」と、前向きな指導が、本当に少ないのが現状です。 もともと、真面目に勉強していないのです。だったら、本気を出したら、どのくらい伸びるのかは、誰もわからないじゃないですか? 要は、本気モードに入れるかどうかなのです。 子どもに、過去の実績の話は、あまり意味を持たないと私は思います。だって、どんどん変化していくのが子どもです。別人に変わります。 これまでの延長線で、一次関数的に、予測してはダメなのです。そうじゃなく、意欲を沸き立たせることが、すべてじゃないでしょうか? 本気で入りたい意欲を沸き立たせてやるのです。そうすると、すべてが変わってきます。 ところが、現実の三者面談は逆です。意欲を殺ぐことが多い。 そもそも、学校側が、あそこを受けさせない、なんて、ありえないのです。落ちるのも自己責任ですから、受験は自由なはずです。ところが、担任の実績や、学校の実績づくりの道具として見ているところでは、冒険はさせてくれません。 本末転倒です。学校のために、受験をするのではありません。私の人生なのです。そこのところを間違わないように、親御さんは、しっかりガードしてあげてください。 生徒の皆さん、親や先生に何と言われたって、行きたいところに行くんだ!そう決心することこそ、大人への階段の一歩ですよ。
2010.11.16
コメント(0)
私の家庭教師の生徒に、塾やお稽古ごとで、いっぱいいっぱいになっている小学1年生がいます。 お母さんが、仕事の関係でとても忙しく、お父さんもいらっしゃらなく、お手伝いの方が、ほとんど日中、面倒をみられているのですが、学校で、切れたり、残酷な行動をするようになっています。 私の週二回の家庭教師も、そのスケジュールを縫って、芸能人並みという感じで授業をしています。 これでは、ヤバイ!ここで、私がさらに押し付け的な教育をしたら、取り返しのつかないことになる、と直感して、自然の流れで、絵本の読み聞かせが主流の指導をしています。 案の定、その子は人の気持ちを読み取る力が弱いようです。だから、悪意でなく、残酷なことをしてしまっています。それは、その子の体も承知しているのか、絵本の読み聞かせに、強い吸収力でのめり込みます。 今、この子には、塾の試験で80点をとることよりも、いっぱいいっぱい、物語を体にしみこませることが必要で、また、頭を本当に使う「遊び」を、(つまり、素朴で自然な遊び)をじっくりと時間をかけて味わうことが必要なんだと、ヒシヒシと伝わってきます。 これも、どんぐり倶楽部の糸山先生の話を聞いていたからこそです。 感謝なことに、お母さんも、私の説明に納得され、絵本の読み聞かせをしてくださるそうです。 目先の点数でなく、将来の大器をこそ、目指すなら、子どもの日常の行動にこそ、指導のヒントがありますね。
2010.11.15
コメント(2)
「中国や北朝鮮、ロシアとの軍事衝突が起きたら、日本は勝てるのか?」みたいな論議が出回っていますが、即、全面戦争を想定しての議論は、稚拙なことだと思います。 軍事力の基本は脅しであり、使わなければいけない事態は、それだけで、外交の敗北です。 専門家でない私が言うのもおこがましいですが、外交の戦いには、ありとあらゆるものが使われます。経済戦争、思想戦争もそうです。 表面的な軍事力だけを見たら、戦闘機なんか、中国の方が、すでに日本の10倍は持っているし、兵員だって圧倒的に多い。でも、だからと言って、覇権を握れるかというと、そう単純なものじゃないことは、歴史をちょっと見ればわかる通りです。 江戸時代、小さなオランダだって、覇権を握っていたのです。GDPの大きさも、決定打にはならないのです。アヘン戦争の頃も、大清帝国の方が、イギリスのGDPよりも大きかったのであり、今の中国がGDPで世界一になったところで即、世界の覇権国になるということではないでしょう。 現在の世界では、目に見える植民地は無くなっていますが、目に見えない新経済植民地化は進んでいます。中国の経済発展も経済植民地として発展してきたのであり、もし西側からの本格的な経済制裁があれば中国は経済的な打撃を受けて没落せざるを得ないでしょう。 しかも、その経済力も、第二次産業までなら、独裁政権でもバックアップできるでしょう。しかし、情報・文化産業では、どうしても民主的で自由なシステムが発展には不可欠です。 このままの体制では、当然壁にぶつかります。また、国内の矛盾の噴出により、体制自体がぐらつくでしょう。 重要な指標は、科学技術です。これが、覇権の大きなファクターになっていると思います。戦前のドイツはイギリスを上回る技術大国であり、ノーベル賞の受賞者も一番多かったのです。しかしヒトラーのユダヤ人排斥が、優秀な科学者の海外流出を招いてしまったので、技術覇権は戦後はアメリカに移り、経済も軍事も世界のトップになりました。しかしアメリカは製造業を棄てて金融立国を目指し、それも、ハゲタカファンドが、アメリカ国内の企業を食い尽くしてしまって、時間のかかる技術開発は出来なくなってしまっています。 やはり、資源の無い日本にこそ、科学振興が軍備以上に重要だと思います。ただ、科学技術だけでなく、「科学的思考能力」がもっと大切です。先の大戦でも、この欠如が、惨めな敗戦を招いたのであって、決して、国力だけの差ではありませんでした。私は、敗戦の反省をするなら、軍国主義の批判以上に、科学的な思考力の欠如をやり玉に挙げるべきだと以前から強く感じています。 つまり、多角的なモノの見方です。精神主義そのものが悪いのでもありません。超ヤバイのが、他が見えなくなる構造です。必要なのは、精神的に自由な風土です。今でも、日本の思想風土は自由と、ほど遠いところにあると思います。学校をとりまく問題をみると、そう思いませんか? 機銃掃射の前に、銃剣突撃を命じる、コリコリの頭不利な状況を直視できない、無責任体制というか、幼児性。この撃滅こそが、日本が生き延びていくに当たって、核武装より何より、急を要するところだと思うのです。 また、理工系の技術者の養成だけでなく、経済歴史文化などの教育の遅れも問題です。東大にさえ、高校で日本史や世界史が教えられずに入れちゃうのです。地政学や軍事学を教える大学もありません。(防衛大を除いて) これらは、国の屋台骨ではないですか?だから、世界戦力を構想できる政治家が日本に一人もいないのは、当然なのです。思想家もいませんね。 世界戦略と言っただけで、侵略戦争という単語が浮かんできて心のブレーキをかけてしまうのが現状なら、この呪縛を断ち切る、「思想の自由戦争」こそが、本当の戦争なのかもしれませんね。
2010.11.15
コメント(0)
昨日のPTA行事でも、皆さんに楽しんでいただいたようで、良かった、良かった、と帰ってきました。が、考えてみると、一般の参加者は、嫌でも何でも、強制的に参加させられているわけですよね。そうすると、面白ければいいけど、もし、つまんなかったら、延々、1時間半も、忍耐の時を過ごさなければなりません。 きのうも、学校からは、「椅子を用意しましょうか」、という心配をいただいていたのですが、「椅子は、邪魔です。」と断っています。ですから、もし、つまんなかったら、1時間半、親子で、立ちっぱなしで、地獄の時間を過ごさなければならないのです。これは、リスクですよね。 もちろん、あらかじめ、今日は「科学実験を見せるらしい」という情報を与えられていますから、きっと、でんじろう先生みたいな、面白いものが見れるかもな、という期待はあるでしょう。 でも、もし、科学実験とは、こういうものであるはずだ、という固定観念があって、また、ああいうスタイルで参加するものだ、という思いがあったら、それと、ずいぶん違っていたら、裏切られた思いが湧き上がるはずです。 私なんか、常に、人の期待を裏切ることに快感を覚える人間なんで、裏を、裏を、と準備しちゃいます。 こういう場合、裏切られたことを楽しんで、一緒にはしゃいでくれる人もいれば、真面目な方は、「こういうことをしてくれると思ったのに、」と失望するかもしれませんね。 だいたいにおいて、科学が好きな人ばかりじゃないですね。科学を好きにならないなんて、てめいら、人間じゃねえ!なんてことは、ないわけです。ですから、そういう人が、「運悪く?」科学教室に、連れてこられた場合、どうやって、時間を過ごせばいいんだろう?と、ふと考えてしまいます。もちろん、私は、本当の科学は、「誰でも」ワクワクさせる、と確信はしています。そして、そういう実績をあげてきたとも、自負しています。でも、それにしても、私の関心領域と無関係な時間を過ごさなければならない時って、絶対、訪れるわけです。 そういう時、どう過ごせばいいのだろう?たった1時間といえども、貴重な人生の一コマです。 大学で講座を選ぶときも、きっとこういう話なんだろう、と期待して取りますが、大概、「はずれ」です。そんな場合、1年間、忍耐だけで過ごさなければならないのか?映画でも、「はずれ」がありますね。そんな時、席を立つことができる場合だけではありません。 こういう、「はずれ」の時の時間の過ごし方、これをもっと研究したり、練習したりする必要が、私たちの人生を充実させるためには、とっても実用的に重要だと思います。 私は、そのポイントは、余計なことをアレコレ考える能力だと思います。化学の講義がサッパリだったとしても、先生が魅力的だったり、道具が面白そうだったり、いや、受講者にかわいい子がいることを見つけたり、さらには、この時間、別の本を読む機会にすることもできます。映画でも、主役でなく、脇役の子に注目したり、風景・背景に注意したり、音楽を気に行ったり、さらには、昼寝の時間にすることもできますね。 つまり、人に与えられたテーマや目標でなく、自分で、どんなちっぽけなテーマでもいいから、面白いものを見つける能力です。どんなにちっちゃい、アホなことでもいいのです。 オタクの人の興味関心は、一般の人からは、アホらしいことが多いのですが、それでも、十分いいのです。 そこから、意外なことが見えてくることが、しばしばなのですから。 実は、「文化」なんか、そんな、さも無いことに、人が目を向けないことに、オタク的に目をむけてきたことではないでしょうか? 科学でも、業績の半分以上は、面白いテーマを見つけることにあります。自分が面白いだけでなく、これを発表したら、みんなが面白がるぞ、という予測がなければなりません。また、いくら面白そうでも、あまりにも難問で、太刀打ちできないだろうってものはやめといた方がいいわけです。 で、このステキなテーマを見つけるには、どうしたらいいのでしょう。それには、やっぱり、他の面白いテーマを経験する場数を踏まなくては、勘にしても、磨かれないものだと思います。つまり、そういう意味での勉強です。勉強は勉強でも、面白い勉強なのです。 何のために、私たちは勉強するのでしょう?それは、人生が楽しくなるテーマを見つけるため、見つける嗅覚を磨くため、とも言えるのだと思います。 そして、自分なりのテーマを見つけたら、それを大事にして、そのメガネで、いろんなものを見てみるのです。そうすると、芋づる式に、いろんなものが発見されてきます。 近代史に興味のある人は、そのテーマで化学の授業を受けるのです。そうすると、面白い発見がゴロゴロ出てきます。 そういう、自分なりのテーマのストック。それが、学力であり、お宝だと思います。
2010.11.13
コメント(0)
昨日の貿易ゲームでは、最貧国のケニアに「レアアース」が発見されたのですが、それを、気前よく、どんどん配ってしまうという展開がありました。 実は、これには、伏線があり、学校とパソコンをもった国に、事前に、ケニアにレアアースが発見されそうだ、という情報が入っていたのです。 その情報を握った先進国が、こぞって、懐柔策に出て友好ムードを盛り上げていたのですね。 お蔭で、ケニアは絶好の逆転チャンスを逃してしまいました。 ところで、昨日の日記に、森の声さんが、生きる力とは、コミュニケーション力ではないか、とコメントを下さいました。確かに、論理力だけでなく、感情力も含めて、それを表現し、コミュニケートする力こそが大事ですね。 今回の尖閣のビデオ映像についてもビデオの内容を見る限り、宣伝戦と外交の観点からも、一般公開を拒否してきた政府の判断力とコミュニケーション力にクエスチョンマークがいっぱいです。 科学の世界でも、発表力がとても重要です。引力の法則は、ニュートンが発見したことになっていますが、公平に考えて、それ以前にフックが立派にまとめていました。 ニュートンの「プリンキピア」に先立つ、13年前に、フックは、論文で次の仮説を出しています。まず、天体は、それ自身引力ないし重力をもつ。引力は相手が近いほど強まる。そして、物体の直線運動は、別の力がなければ変化しない。の3点です。 これは、もう、ほとんどニュートン力学です。実際、かれは、「逆二乗の法則」にも達していました。 しかし、どうして、ニュートンにもっていかれたのか?それは、このアイデアを数式化する力が無かったからです。 ところが、そのニュートンですが、微積分学の先取権争いで、ミスを犯します。 運動の基礎理論に不可欠な、微積分の概念をニュートンが早くから自在に駆使していたことは、確かだったのですが、かれは、その発表が遅かったのです。それで、全く別に、微積分学を研究していた、同時代のドイツのライプニッツに先を越されてしまうのです。 これは、後に、イギリスとドイツの学会を巻き込む論争になるのですが、現在、高校で教わる微積分の記号や用語は、ライプニッツのものです。 さて、時代はさかのぼって、ガリレオの宗教裁判ですが、その後、彼は、不屈の精神で、「天文対話」「新科学対話」というやさしく書かれた地動説入門書と、科学物理学の理論を書いています。 「専門家」へのPRというより、一般大衆へのPRです。というのも、通常のラテン語ではなく、庶民のイタリア語で書いているのです。 そして、これこそ、科学の金字塔となっているのです。 情報化時代と言われる現代、私たちは、本当にコミュニケーション力を重視しているでしょうか? 私も含めて、反省したいところです。 本日は、鹿島台小学校の5年生との出会いが待っています。 行ってきます!
2010.11.12
コメント(0)
一連の国際関係のニュースでもって、日本人のメリットと言えば、ようやく、自助自立の精神が大切だということに、気づきはじめていることだと思います。福沢諭吉の「学問のすすめ」と並んで、明治の精神的支柱になった「自助論」(サミュエル・スマイルズ)の「天は自ら助くる者を助く」は。永遠の真理であることを忘れてはならないことで、教育の柱であるはずです。 国の独立だけだはありません。個人が国や社会に依存するのもそうです。困っている人を助けるのは当然ですが、バランスの軸をどこに置くかです。最近の政権は、「困っているだろう、なら、助けてやろう」ばかりです。その結果、とんでもない重税国家に向かっています。このツケは、すぐに国民に跳ね返ってくることは、冷静な頭、科学的な思考力のある人なら、見抜けるはずです。 この方程式を理解できない人は、たいてい、論理的な思考力が不足していると思われます。そして、その象徴が、表現力の不足です。ズバリ、言葉の貧弱です。 歴代の総理の言葉の貧しさ。(小泉さんは、すごかったですが)言葉は、扇動する危険な道具にもなりますが、まずは、その危険な道具を使いこなさなくては、戦いにならないのです。 料理には、やはり包丁が必要なのです。人を説得できないってことは、自分自身もわかっていないのです。どこか、論理的に穴があいているからなのです。 資源をもたない国の武器は、知恵であり、論理です。これは、多様な考えをぶつけあって生まれてくるものです。このバトル力は、小さい時から培うものであって、大学に入ってから練習すればいいものではありません。 尖閣問題で、中国や政府への怒り、いらだちが、燃え上っていますが、そのエネルギーは、これまでの教育への反省に向けられるべきです。福沢諭吉も言ってますが、国家の独立は、自助自立している国民が支えるのです。 先の戦争で、日本が負けたのも、ズバリ、この論理のバトル力の不足でしょう。冷静に戦っていたら、勝機はいくらでもあったのです。 ミサイルをぶっ放すだけが、戦争ではないはずです。国防は、今日の教室の討論から、そして、親子の会話からはじまっているのです。 そんな流れの中、本日、公民館で貿易ゲームを指導してきます。
2010.11.11
コメント(2)
科学の理論にも、いろんな幻想が生まれては、消えていきました。たとえば、18世紀後半にもてはやされた、「フロギストン説」日本名「燃素」元素のひとつで、燃える物質には、すべてこれが入っていて、物質が燃焼して変化することを燃素が追い出された結果であると考えたわけです。物質が燃焼によって酸化されるという変化を、フロギストンの離脱ととらえたわけです。いわば、フロギストンは負の酸素と言えます。 もちろん、矛盾をこのように指摘もされました。中学で習いますね、金属を燃焼させて金属灰にすると、質量が増えると。これも、フロギストンを疑わない人たちは、このように説明しました。フロギストンは、マイナスの質量をもつ、と。 しかし、とうとう、ラボアジェが、酸素による燃焼理論を組み立てて、この説は崩壊します。 このように、ある時期まで、定説となっていた理論が、ものの見事に、その座から転がり落ちることは、よくあることです。 教育の世界でも、当然あってしかるべきなのですが、科学的な証明が難しいこともあって、なかなか劇的な変革は起こりません。 でも、間違いなく、「幻想」の理論は、日本の教育界にあると確信しています。そのひとつに、「易しいものから教える」ということ。これは、何度も、このブログで言ってきましたが、この幻想は、仮説実験授業が、物の見事に打ち砕いてくれています。「誰もが間違う難しい問題から入ると、脳みそが活性化して、その世界に入りこんでしまうのです。」 今、ひとつ、最近、私が意識しているのは、立って歩くことを許すことです。よく、学級崩壊の象徴と言われる立って歩く子たちですが、 私の実験教室では、先生方にお願いして、できるだけ、自由に歩き回れるようにしています。 そのせいで、授業が崩壊したことは一度もありません。かえって、集中力が増すばかりです。 そもそも、人間は歩きながらの方が、よく考えることができるように設計されています。行動と思考はセットになっているのです。 特に、低学年の子は、体を動かさなくては、脳にスイッチが入らないはずです。 もし、勝手な行動で、学級が崩壊するなら、それは、立って歩くことを許したからではなく、授業に引きつけられなかったからだと言えます。その場合、たとえ、立たないように注意をしても、崩壊するものは崩壊するのです。 だったら、より集中力アップのために、体を動かせた方がいいのではないでしょうか? 机に座っていないと、ノートに字が書けない?だったら、黒板に書かせればいいのです。子どもは黒板が大好きです。それは、立っていられるからです。(と思います)脳全体にスイッチが入るのです。 また、体全体を使って表現できるから、黒板はいいのです。 子どもは、はしゃぎながら、ダンスを踊りながら、物事をインプットしていくのです。お行儀よく座っていなさい、という指示は、子どもの脳みそのスイッチを切る指示を出しているのです。 実際、私は、家庭教師でも、特に低学年の子の授業には、、机をほとんど使っていません。走りまわりながら、汗をかきかきやっています。間違いなく、この方が効果が上がっています。
2010.11.10
コメント(4)
先日、何で、ドタバタ準備に駆けずり回っていると、ヒラメキが生まれるんだってなことを書いてましたが、ふと、脳医学の吉田たかよしさんが主張する「歩きメデス法」というのを思い出しました。 何のことはない、歩きながらだと、脳の活性化が図られ、効果的だということです。たしかに、昔のギリシャの哲学者は、逍遥学派と呼ばれ、お散歩をしながら思索をしたものです。 机にじっと座っている「お地蔵さん受験生」は落ちるとも言われています。生徒に動きのある学習を勧めようと思います。
2010.11.08
コメント(0)
時間があるときに、プログラムの開発をしていればいい、というのはわかります。しかし、本番の切羽詰まった時に、爆発的に何かが生まれるんですね。 「あ、あれを忘れた」「いつもの装置が壊れた」「環境が良くない」 こういう時に、ブレイクスル―が起きます。半分近くは、本番で試行錯誤、というより、断崖絶壁の中で生まれたものです。 こう考えると、やっぱり、人間、試合や試験って、大事なんだなあって思いますね。シュミレーションと本番は違います。私は風呂の中で、シュミレーションを繰り返します。 しかし、朝、ドタバタ準備で走り回っていると、必ず方向転換が起こってきます。 また、意識的に、私にとって初めてのことに一つはトライしたいと思っています。だから、大概、ひとつは失敗します。初めてのトライは、まず、うまくいかないものだからです。でも、早いうちに、じゃんじゃん失敗してしまいたいと思いますし、私の緊張感というのが、会場に伝わるものだからです。
2010.11.06
コメント(0)
先のイジメ対策の続きの、アレコレ思索ですが、変わり者を排除する論理というものは、生物学的にどうなんだろうか、とフト考えてみたくなりました。 生命の歴史というのは、同じようでちょっと違う変異体を作ることで維持されてきました。ある特定の方向だけでなく、ありとあらゆるパターンの変異が常に起こっているのです。それが、突然の環境の変化に対応させてきました。 生命は豊かな多様性を生み出そうとしてきたのです。 また、同時に群れるということも、キーポイントです。生物は単細胞生物のときから、独立自尊なんて言わないで、複雑な情報交換をしながら、群れることによって、環境対応をしてきました。 その過程では、ミトコンドリアのように、他の生命(遺伝子)を取り込んだように、合体をくり返しながら、不完全な生命体をより複雑で、適応力の高いものに、進化させてきたのです。 よく、利己的な遺伝子とか言って、利己的な動機をもともと持っているかのように言われた時期もありますが、今は、単に、環境適応するために多様性を生み出しながら、協力しあってきただけ、と見られているようです。 これは、進化の過程で、階層性を高めながら、深まってきているわけです。 人類の基本も、その延長上にあるはずです。とすると、排他原理よりも、環境に適応するために多様性を意識的に作り出しながら、手をつなぎ合い、群れて、問題に対処する姿というのが、本来の性質なのではないでしょうか?子ども達の仲間づくりの欲求も、その生物としての本源的なものなのだと思います。 この視点から見ると、今の教育が、疑問に思えてきます。また、私自身も、「自立」を教育目的に掲げてきましたが、不完全で、一人では生きられない、というのが、生物の基本構造だとすれば、より良い依存方法を追求することこそが、正しい方向性なのではないか、とも思えてきました。 もちろん、クローン的な集団をつくることではありません。そこに、自立、つまり多様性の確保が、必要なのですが、異質なものが手をとりあうメリットというものに、目覚めさせることが大切なのであって、一人、孤高に生きることを薦めるのではないわけです。 でも、このことに気づくためには、集団への困難な課題が必要であって、現在の薄っぺらな教育課程では、個人への利己的な損得勘定を刺激するだけで、本当の群れをつくる力の涵養になっていません。 人類にとって、学校は「群れ方」の学び場であるべきだったのです。
2010.11.05
コメント(0)
いじめのニュースが後を絶ちません。いじめを、どこにでもある必要悪と考えたり、学校というものの本質的な欠陥と見る見方もありますが、私は、教育の中身でどのようにでも、解決できると思います。 もちろん、厳罰・体罰復活や、「道徳教育」をすることでもありません。人間という生物は、性悪説でも、性善説でも捉えられないものです。 なぜ、いじめが発生するのか?それは、いじめる方も、それを傍観する方も、そして、いじめられる方も、「仲間を求めている」のからだと考えます。 そうでなけりゃ、一人で給食を食べたって、苦痛でも何でもないのです。苦痛でなければ、いじめる意味も無いのです。 傍観者も、仲間はずれになりたくないから、黙っているのです。 だったら、です。仲間づくりを、授業の大きなテーマのひとつにすればいいじゃないですか? 人と共感しあうのが、いかに楽しいことなのかこれを、骨の髄まで体験させるのです。 その中には、当然、いろんなタイプの子がいるからこそ、面白さ・楽しさが倍増することも味あわせます。 一度、楽しい構造を体験した集団は、それを乱す要因に対しては、それを守ろうとする防衛力が働きます。 そのための授業のヒントは、演劇教育でよく使われる、表現ワークが有効だと思いますが、学問の授業の中でも、多様な意見を尊重する風土づくりこそキーポイントだと思います。 よく、協力しあわなければ達成できない課題を与えることが現在でも現場で行われていますが、それでは、まだ不十分だと思います。ここでもイジメは発生してしまうからです。というより、かえって、辛いイジメを体験してしまうのです。 まず、自由な表現がクラスで行われることによって、いかに教室が面白くなるか、盛り上がるか、を実証してやるのです。多角的なものの見方が、実際に役に立つのかを、繰り返し味あわせる必要があります。 そうすると、変なお友達こそが、お宝だ!ということに気がつくはずです。お母さんがフィリピン人だからって、いじめるはずがありません。かえって、面白がるはずです。明るい考え方ばかりでなく、暗いモノの見方も、とっても大切だということを気づかせてやるのです。 そのためには、良いテーマが必要です。いろんな切り口があるものがいいのです。そして、どんな突飛な意見でも否定しない。 そして、事実を確かめると、意外性に富んでいるもの。いろんな意見が出たからこそ、深まったと思えるもの。 こういうテーマは、なかなか見つけられないかもしれませんが、真剣に探せば、きっと見つかります。また、普通の授業の中でも、意識して、余計な考えも入れていくのです。常に、複眼思考を教師がしていくことだと思います。 仲間づくりの楽しさを味わうこと、これこそ、学校の意義ではないでしょうか?受験勉強そのものなら、学校はほとんど不要です。かえって、学校に通わない方が、試験勉強ははかどるものです。 実際、私の生徒で、自分で受験対策計画をたてられるようになった子は、学校に行く時間がもったいないと考えだします。当然だと思います。
2010.11.05
コメント(0)
これまで100人以上の子の家庭教師をしてきましたが、その子が伸びるかどうかは、ほとんど、感情力で決まっていると断言できます。 これは多くの教育者が語っていますので、相当裏付けられた話だと思います。 感情力とは、感情のパワーだけでなく、そのコントロール力もですがまず、好奇心を湧かす力は、感情です。そして、記憶も感情の網の目の中に、ひっかかっているものです。だから、感情無しでは、学習自体ができません。ロボットのような条件反射はできるでしょう。 また、コントロールが効かないと、すぐ切れてしまって、学習どころではありません。感情力が充実していれば、たとえ、入試の半年前で悲惨な模擬試験の結果でも、奇跡は簡単に起こせます。 では、感情力とは何ものであって、どう育てればいいのか?それは、脳の機能として、特定の部位を活性化させることのようです。そして、本来、自然に順を追って、人間はこの大切な脳機能を熟成させるのですが、余計な早期の「教育」が、発達を阻害してしまうことが最も怖いことのようです。 小学生までの子どもは、自然と十分に触れ合いながら、感情そのものをいっぱい浴びる必要があります。物語をいっぱい読むことも大切ですが、それをどう伝えているかです。 ここに教育者の感情力が重要な理由があると思われます。 私の教室ではアンケートをとりますが、一番重視しているのは、「楽しかったか」です。本当は悔しかったかなども入れたいのですが、たいてい、コメントに書いてくれます。同じ実験を見て、勉強ができる子が、反応してくれているとは限りません。つっけんどんな感想に、しばしば優等生がいます。そして、勉強が苦手な子に、すばらしい感想を書く子がいます。 将来、逆転するだろうなあ、と心の中で思ってしまいます。
2010.11.04
コメント(2)
私の科学教育の目的は、「自立心の育成」と言えると思います。それは、福沢諭吉のこの言葉が、バックボーンにあります。 「自立の気力のない者は必ず人に依頼する。人に依頼する者は必ず人を恐れる。人を恐れるものは必ず人にへつらう。そして人にへつらうことによって、時に、うそ・悪事をなすことになる。自立心の欠如が結果として、不自由と不平等を生み出す。学ぶことの目的は、まずは自立心の涵養である。」残念ながら、日本の社会では、大人になるというのは、組織に依存する体質をつくることと同意義になっていることが多いですね。そして、学校教育も、しばしば、この「大人」をつくることに手を貸してしまっています。 この世は不平・不満でいっぱいです。 働けど、働けど、豊かにならないのは、国や社会に問題があるのだ、というのは、一面真理ですが、個人的意識としては、それは、社会に依存していることの表明であり、その裏側で、自分の尊厳を汚していることにもなります。 今の日本の閉塞状況は、やはり国民ひとりひとりが「依存」傾向であったことに起因するんじゃないでしょうか? 国際・外交力も、自立心があればこそです。まずは、政治家ひとりひとりの自立心を求めたいところですが、それよりも、まず自分の依存心のチェックから入らなくては。 学校に依存していないか?会社に依存していないか?親に依存していないか?子どもに依存していないか?妻や夫に依存していないか? 自立した者同士のみが、本当の協力関係を築けるのですから。
2010.11.04
コメント(0)
日本を取り巻く情勢が、だいぶ騒がしくなってきましたね。今までノー天気に暮らしてきた分、ガツンと頭を叩かれたかのようです。 これで、日本の世論も国防力の強化などの意見が強くなるでしょうが、こういう時こそ、国民ひとりひとりの情報判断力が問われてきます。 たとえば、北方領土の件で、アメリカの高官が、日本支持を表明したということですが、そもそも、北方領土の問題は、アメリカが演出してきたようなもんだ、ということを忘れては、かえっておかしなことになります。ヤルタ会談のときの裏取引に端を発していることは、明らかです。また、戦後、2島返還で平和条約を結びそうになったときに、4島一括返還を要求させて、対米従属の流れを作ったのは、アメリカにとって、都合が良かったからに他なりません。 アメリカは、1951年には日本に「歯舞・色丹もあきらめろ」と言っていたのに、1956年には「歯舞・色丹だけでなく、国後・択捉の返還もソ連に要求しないと許さない」と迫ったと言われます。もし、アメリカが最初の主張で一貫していたら、日本は、1956年に歯舞・色丹の返還だけで満足してソ連と和平条約を結んでいた可能性が高いようです。 逆に、アメリカが最初から日本の右派の「4島返還」を支持していたら、ソ連は1955年に、日本に4島を返還して和平条約を結ぼうと提案してきたかもしれません。アメリカは、ソ連の出方に応じて日本への圧力のかけ方を変えたのです。その結果、日ソ和平条約の締結を阻止することに成功したのです。 日本国民は、マスコミや教科書で、4島一括返還が当たり前の正義であると情報を一方的に流されるので、そうだと思うしかないのですが、もともと、外交というのは、権謀術数が当たり前、陰謀やインテリジェンスの上に成り立っているものです。マスコミというフィルターを通じて発せられるメッセージを素直に受け取ると、とんでもないことになります。 だいたい、各地で盛り上がっている、反中国のデモも、インターネットでしか、知ることができない状況です。 私たちは、明らかに情報操作されているのです。私たちの世界観は、一握りの戦略家に、簡単に操られてしまいます。 科学は、疑うことが基本です。科学教育に力を入れるとは、「ああ言えば、こう言う」ヒネクレタ人材を育てるのと同意語なのです。 そして、緊急事態の時ほど、本当の科学的な判断が求められるのだと思います。国難の時ほど、多角的な意見が必要であり、ひねくれた人が指導者として、求められます。総理や外相は、「食えない人物」こそが、ふさわしいと思います。「素直な」リーダーは、国を破滅に導きます。
2010.11.02
コメント(0)
昨日の実験教室のアンケートでも点数をつけてもらったのですが、その中に「点数なんかつけられないよ!すごく面白かったんだもん。100000点!」という評価をいただきました! そんなに感情を出す子ども達では、なさそうだったんですが、こんな熱烈な感想をいっぱいもらいますと、やっぱり、天に舞いあがってしまいます。 今朝、NHKのテレビで、「ほめるパワー」についてやっていました。あらためて、私は子ども達のおかげで、ここまでやってこれてるんだ、ということに気づかされます。ありがとう。
2010.11.01
コメント(0)
全26件 (26件中 1-26件目)
1

![]()
![]()