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子どもには、権威あるものを教えなければならないという考えがあることを知っています。親や、自然、さらには、超自然なものも。少し理解ができるようになると科学も、子どもたちに、権威の象徴として映ってくることでしょう。 しかし、こと、科学について言えば、どんなに確実だと言われる現代科学の知識も、そのほとんどは、不確かさをもっていて、あるものは、とっても不確かなものなのです。いや、絶対に確かなものは、何一つないと断言できるのです。これが科学であり、科学者は、それを当然と思っているので表現することを、しばしば忘れるだけです。 だから、科学の世界で価値あることは、「疑う」ということなのです。 いろんな自由がありますが、疑う自由こそ、人類が苦闘を通して、勝ち取ってきた大切なものだと信じます。疑いを表明できること、不確かだということを、公然と認めることこれができるようになるために、人類はどんなに苦労をしてきたことでしょう。 これは、科学の精神の柱であり、科学以外の分野でも、とっても大切なことだと思います。 これは、「無知の知」の哲学であり、疑いは、決して非難されたり、恐れたりすることではなく、人類の新しい可能性を切り開く、歓迎すべきことだと、次の世代に伝えていく責任を私たちは持っています。 その意味で、親や教師が自らの無知や、疑いを認めることこそ、教育上、とっても大切なことだと思います。 わからないこと、不確かな分野があるから、私たちは、新しいアイデアを求めて、船出をしていくのです。 科学の発展スピードは、単なる観測装置や、テクノロジーの進歩によっているのではありません。テストしたくなる、魅力的なテーマを見出す量によっているのです。 いっぱいハテナマークをもっている人が伸びるのです。 ところで、昨夜のワールドカップ、残念でした。スペインと戦わせたかった。想像するだけでも、ワクワクします。 でも、いつも、スポーツを見て思うんですが、特にサッカーにおいては、どんなに名手であろうとも、人間がコントロールしようもない「ブレ」がありますよね。そして、その「ブレ」が生死を分けるわけです。何て残酷なんだろう、と思う反面、これが、科学的にも宇宙の現実なんだなって、感慨に浸ってしまうのです。 特にサッカーボールの軌道は、とっても不確かですよね。まるでハイゼンベルクの不確定性原理を地で行くようなあいまいさじゃないですか。そして、シュレジンガーの猫のようじゃないですか、ほんのちょっとのミクロの気まぐれが、一国の国民みんなの幸せと嘆きを左右するなんて。世界経済だって、左右するんですよ。 あー、PK戦のとき、このままテレビを見ないで、「観測」しないでおきたかった。そしたら、まだ、灰色状態で存在していたのに。 ふう、ワールドカップに量子力学を見る私は、おかしいのかな?
2010.06.30
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昨日、スポーツや選挙のルールは、絶対ではないということを書きましたが、ルールとは、実は、欠点だらけの人間である、特定の誰かが思いついて作った、欠点だらけのモノの見方でしかないのです。 ところが、それを、しばしば、学校では、まるで神様から与えられた神聖な掟であるかのように、扱われます。 学校の校則も、スポーツのルールも、法律でも、不可侵な、宇宙の所与の法則として、あらかじめ人間に与えられたものなのではないのです。そうだとすれば、宗教になってしまいます。 誰かが、いつの時点かで、そうする方が良いということに気づいて、結果的にそのようにまとめられたに過ぎません。 しかし、学校では、そのルールが作られたいきさつや、その限界に話が及ぶことは、まず、ありません。教室のなかで,本当に、子どもたちに合理性や批判的な精神を育てたかったら、現状の、教え込み型教育の軌道修正をすべでしょう。 ルールは、子どもたち自身が、個人的に理解出来る中で、自己生成していくのが望ましく、また、どんどん変更していくことも大切です。 でも、事は、校則だけではありません。授業内容自体も、たとえば、国語では,「相手や場に応じて内容の軽重を考えて話すこと」,「話の中心点がわかるように筋道を立てて話すこと」,「自分の考えをはっきりさせたりまとめたりしてから表現すること」というようにいろいろ羅列して、指導されます。これらを、ただ覚えて、このルールに沿って表現することだけで、本当に国語の力はつくんだろうか?人間同士のコミュニケーションが,交通違反の取り締まりのような注意書きで、育つんだろうか? スポーツのルールも、毎年のように変更されています。政治は、ルールの変更をこそ、するためのものです。 これからの日本人に必要な教養は、ルール変更力なのではないでしょうか?
2010.06.29
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昨夜のドイツ・イングランド戦をみてもわかる通り、ワールドカップで勝ちあがるのは、必ずしも、実力通りではなく運もいっぱい味方につけなければ、どんなにスーパーなチームでも栄冠は手にできないことは、納得しますよね。 ところが、この実力が成績に反映しない不公平さは、ゲームの中だけでなく、戦い方の組み合わせ方法自体にも、仕組まれていることを知ってます? 優勝候補同士が先に戦っちゃうことを思い起こしても、有利不利があるよな、って当然気づきます。また、実力とは別に、苦手タイプと得意タイプがあり、つまり、ジャンケンのように、三つ巴になっている場合、どの順番に戦うかが、運命を分けてしまいます。 じゃ、どういう組み合わせだと、公平なのか?それが、とっても難しいことのようなのです。いや、難しいというより、不可能なのです。 スポーツだけでなく、選挙でもそうです。民主的な方法だと、誰もが確信している一人一票の直接選挙も、実は、矛盾がいっぱいです。 総投票数の多い党が、勝つとは限りませんし、また、実際問題、投票する我々の意識には、あの党よりは、この党の方が良い、この党よりは、その党が良いという順位が付けてあると思うのですが、一つだけを記入するのは、国民のそういう選考順位の意識を反映できないのです。 じゃ、順位をつけて投票すればいいのか?その煩雑さを考慮しなくても、それでも、それはそれで、矛盾が出てきてしまうのです。 さらには、あの党だけは、断固拒否したいという極端な政党があっても、そして、それを国民の大多数が同様に考えていても、それを好む、熱狂的なグループがある程度存在した場合、政党が乱立しているときには、その圧倒的に、非難されている政党が第一党になる可能性だってあるのです。 事実、昔のナチスなどは、こんな風に生まれてきました。 じゃ、どういう投票方法なら、公正なのか?実は、数理経済学的に、結論が出ているのです。完全に民主的な社会的な決定方式は存在しない、と。この事実は、アロウの「不可能性定理」によって、明らかになっているのです。 さらに、「ギバード・サタースウェイトの定理」によって、いかなる民主的な投票方式においても、必ず戦略的操作が可能だということも、わかってしまっています。そして、皮肉にも、唯一、操作が不可能な状況というのは、独裁者がいる時だけだと。 つまり、公正な選挙による、完全な民主主義は、存在しないのです。ですから、逆に私たちは、この選挙は、どんな操作が行われているのか、ということを、常に意識しなければならないんでしょうね。 さて、ワールドカップの日本には、運命の女神は、微笑んでくれているようです。私たちサポーターにできる最大の貢献は、女神さまのご機嫌をとることなんでしょうか?
2010.06.28
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日本の皆さま、おめでとうございます!岡田監督、おめでとうございます。ものすごいバッシングを浴びていた岡田監督。完全に日本の星になってしまいました。 監督のコメントに「我々はサッカーがチームスポーツであることを証明する」という意味の言葉がありましたが、バラバラなチームが敗退していく中、これが、今回の大きなテーマになりそうな予感がしますね。 でも、思い起こせば、これまで、識者は、「日本に足らないのは、貪欲な個人主義だ」と主張してきたのではないでしょうか? 日本の伝統の和の精神と西洋の個人主義の伝統は、一体、何が同じで、何が違うのでしょう? 個人主義は、やはり、GODから来てますね。超越者からの不可侵な権利なのです。神を、水戸黄門の「印籠」にして、不当な弾圧や強制から、個人を守ろうとしています。 それに対して、和の精神これは、いろんな解釈があるでしょうが、やはり、和と言えば古くなりますが、見本は、聖徳太子の十七条の憲法です。「和をもって貴しとなし」が有名ですが、注目したいのは、第十条です。(現代語訳 金治勇「聖徳太子のこころ」)「心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。」つまり、人間皆凡夫だ! ということです。これは、まるで、フーテンの寅さんの世界ではないですか! そう、この世に絶対ということは無いのだから、違った意見を大事にせよ、という論理なのです。 全く出発点が違うのに、驚くことに、個人主義も、和の精神も、少数派を大切にする精神なのです。そこから、民主主義につながる道ももっているのです。 しかし、どちらも、一歩使い方を間違うと酷いことになります。片方は、絶対的権威を振り回して、異文化を抹殺しても、「正義」でいられます。また、片方は、自分を抹殺した、盲従になります。 どちらが、良い云々は、やめるとして、私は、やはり、寅さんなのです。「あんたも、私もバカだねえ」が一番、性に合ってます。 日本人には、GOD思想の民主主義よりも、 この日本人の遺伝子に組み込まれた和の精神を生かした民主主義を育てることが、もっとも創造的になれると思うのです。 ここにチームプレーの原点もあると思うのです。頑張れ、日本!世界を驚かせ!
2010.06.25
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人間は、間違う生き物です。これをあざ笑うのではなく、受け入れ、抱きしめたいものです。間違うからこそ、いとおしいものだと思います。 でも、だからこそ、生活者としては、この情報社会をうまく泳いでいく、知恵を身につけなければなりません。それこそ、科学的思考能力だと考えます。 今さらながらですが、「脳トレ」ブームには、さまざまな嘘や勘違いが含まれているという指摘がなされています。今年のはじめごろから、イギリスの研究機関から、声が上がったのを契機として多くの学者が、疑問の声を上げ始めました。いやあ、怖いですねえ。いろんな意味で。 メディアによる喧伝には、常に不正確で疑わしい情報も含まれています。とくに、脳「科学」という名前がつくだけで、科学的根拠があるようですもんね。みんな疑いもなく、信用してきたわけです。 この脳の神話だけでなく、食品の例を挙げれば、魚に含まれるDHAチョコレートの中のGABAなども、クエスチョンマークです。大阪大学の藤田一郎教授はニンテンドーDSソフトについても例を挙げて検証しています。『脳を鍛える大人のDSトレーニング』シリーズは、東北大学の川島隆太教授が監修を務めていますが、同ソフトのホームページには、脳を鍛えることがどのようなことなのかが説明されており、さまざまな作業をしているときの脳の活動範囲を、機能性MRIを用いた血流図であらわし、複雑な問題を解いているときよりも、簡単な計算問題を速く解いているときのほうが、活動部位がはるかに広範であることが示されています。ところが藤田教授は、挙げられた実験データについて、その実験方法自体を疑っています。川島教授は、実験の一つとして、認知症患者に計算と音読を週に2~5日、半年間行ってもらい、学習を行っていない認知症患者に比べて脳にどのような変化が起こるかを調べています。この実験の結果、認知機能の低下の防止、前頭葉機能の改善に成功したとされています。 まず、この実験結果の統計処理にも問題があったようですが、百歩譲って、有意な差があったにしても、科学実験の方法論からすれば、この実験のやり方自体に問題があったようです。適切な対照群の設定のない状態で実験がなされていたのです。この実験においては、音読や計算をする人たちには、専門の若いスタッフがつき、会話や指導を行う中で実験が進められていていましたが、対照群とされていた人たちには若いスタッフがつくことがなく、したがって脳の機能の向上が「若いスタッフと半年間交流しながら音読・計算を行った人」と「何もしなかった人」との間で比較されていることになり、適切な科学実験とは言えず、単純作業を繰り返すことが脳の機能を向上させることの裏付けにはなっていない、と藤田教授は主張しています。また、川島教授本人も、このことを認めており、認知機能の上昇はスタッフとのコミュニケーションの機会の増加によってもたらされたのかもしれないという解釈を示しています。この実験は留保のあるものなのです。ところが、ニンテンドーDSソフトとして発売するにあたっては、このように根拠として不十分な実験が、商品の効果を科学的に裏付けるものとして扱われています。発売元の任天堂は、ソフトを開発する際には川島教授が脳の活性化に効果があることを科学的に実証した内容のみをソフトに収録しているとし、あくまで川島教授の研究をゲーム化したものという姿勢を示しています。藤田教授は、こうした反証例を数多く示し、脳科学者が時間をかけて検証すれば、世の中にあふれている脳科学の情報の大半が、しっかりとした科学的根拠のない憶測であることを示しています。さらには、そうした情報が確実なものでないことを薄々知りながらも、商売のために、まるで科学的根拠があるかのように装って販売している企業も多くあることを指摘しています。 さまざまな情報が飛び交う社会のなかで、私たちは何が正しいのかを自分で判断する必要があります。 そして、意図するしないに関わらず、世の中には嘘、ごまかし、勘違いが多く存在します。大半がそうだと言ってもいいわけです。だったら、私たちは、日々の情報や物事に対して、自分の眼と思考によって物事の真偽を問い、判断を下していく姿勢を身につけなくてはならない。 有名な学者がテレビで紹介しているからといってまた、学校の先生が言っているからといって、すぐに信じないメンタリティーを身につけなければ。教科書に書いてあっても、別の考え方もできるのではないか、と二三度は自問するクセ。これこそ、学校教育の必須項目だと思うのですが。
2010.06.24
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先日、小学5年生のPTA行事で、「貿易ゲーム」を指導する機会をいただきました。私にとって、これも、新たな科学実験であり、新たな道徳教育じゃないか、と気合の入っているゲームです。PTAの皆さまに感謝いたします。 持てる国、持たざる国の立場になって、その悲哀を、肌で実感するゲームです。Aグループは、資源も技術のアリBグループは、資源無し、技術アリCグループは、資源も技術も無し。ルールは至って、シンプル。この与えられた条件をもとに、暴力と盗み以外は、何でもOK。知恵と勇気で、自分の国のお金を儲けるというシュミレーションゲームです。あえて、道徳めいた話は一切しませんでした。感想が面白いので、読んでみてください。「ぼくは、貿易ゲームがものすごく楽しかったです。DチームとCチームがびんぼうで、Aチーム、Bチームは金がけっこうあるのも、くふうしているのですごいです。ぼくのチームは1位じゃなかったので、もう一度やりたいです。」この子は、差別があるのを、楽しんでいますね。 「Dチームになり、最初は、ちょっとやだなあ、と思ったけど、始まってみたら、とても楽しかったです。出稼ぎに行ったり、売りに行ったり、買ってきたり、いろんな体験ができました。お金がたまってきて、兵器を買いたかったけど、みんなが反対したのでやめました。10時30分に病気がひろがる、と言っていたので、早く病院を買わなくちゃと思いました。でも、お金が足りませんでした。でも、またやりたいと思います。本当に楽しかったです。」この子は、ハンデを楽しんでいますね。兵器購入の誘惑に負けなかったんですね。 「貿易ゲームを通して、世界経済や政治などの事に対して関心がわきました。僕たちの国は、Aグループだったのですが、最初の方は、なかなかお金が入らず、困っていました。ですが、先生にアドバイスをもらったり、自分たちの国の人たちと協力してやっていると、だんだんお金がたまっていきました。機会があれば、またやりたいと思いました。」先進国でも、結構、苦労するんですね。国内のまとまりが大切だというこに気づいてくれたようです。 「ぼくたちは、くじで、Aチームでした。ぼくたちのチームは、大人にだまされたけど、ぼくたちもだましました。食料で、お金がなくなったけど、ITパソコンのおかげで、お金をいっぱいもらいました。とちゅうで、かくへいきで、ハサミとコンパスをとられたので、ぼくたちも、かくへいきで、かえしてもらいました。世界には、Dチームみたいな世界があって、かわいそうだなと思いました。」すごい、ドロドロした体験をしてますね!逆に、こういう駆け引きから、相手を思いやる心も出てくるのでしょうか? 「ぼくは、貿易ゲームを聞いたとき、「何だそれ」と思いました。でも、ゲームをやって、貿易の意味がわかりました。お金の大切さがものすごくわかりました。これからは、本当に買いたい物を買うようにしたいと思います。」とってもシンプルな感想ですね。ついつい、余計な買い物をしてしまったんですね。 「私は、貿易ゲームでためたお金は、1回目1万円、2回目、0円でした。3回目1千円だけでした。くやしかったです。でも、お母さんたちと戦って、とても楽しかったです。とてもつかれたし、自分でもがんばったと思います。ほんとうに楽しいゲームを考えてくれてありがとうございました!!」儲けられなかったけど、大人と真剣に戦ったことが楽しかったのですね。 「貿易ゲームの名前が、【お金もうけ】たったので、盗んで、お金をためたりすることかと思いました。でも、予想の「お金もうけ」ではありませんでした。いろんなものをつくって、そして、はたらいて、お金をためるゲームでした。あいざわ先生の実験ゲーム楽しかったです。じっけんは、いろんな薬をまぜて、できあがり、ということかと思いました。でも、ぼくら人間を使ってゲームをしたり、いろんな楽しいことがいーっぱいあることに、気が付きました。べんきょうになりました。」広い意味の実験の楽しさに気づいてくれたようです。 「最初はお金がそんなになかったので、大変でした。けど、だんだん情報をあつめて、がんばって重ね切りをして、売ったら、お金がたまったけど、優勝はできませんでした。けど、めちゃくちゃおもしろかったです。またやりたいと思いました。」情報と知恵の大切さに気づいてくれたようですね。 「ぼくたちの国は、Bチームでしたが、Bチームのなかでは、ビリになってしまいました。家に帰って、お母さんにそのことを話すと、お母さんは『〇〇、お金をかせぐにはね、車がポイントなのよ。まず、1万ドルで、車の型紙を買って、それで車を作って売れば、3万ドルがもらえるのよ」と言っていました。ぼくは、ああ、そうだったのか…と思いました。こんな貴重な体験をさせていただき、本当にありがとうございました。」親子の話題になってくれていたんですね。 「私はDタイプで、最初の方は、何をしていいか、分かりませんでした。でも、2回目からは、他のグループから物を貸してもらって、やっと、お金が入って、少しはよゆうができて、しげんをかいました。となりのグループの人たちは、勝手に、じょうぎを使っていて、いやでした。『私たちのなんで使っているの』と思いました。世の中には、じこちゅうな人がいるんだなと思いました。でも、やさしい人もいて、楽しかったです。貿易ゲームで、いろんなことが分かって楽しかったです。楽しいゲームを考えてくれて、ありがとうございました。」いやな人がいるから、やさしさがありがたいんですね。 「お金など何も無い国でも、がんばって生きている事を学びました。大変な国もあることを、あらためて知りました。貧しい中でもがんばっているんだなあ、と思いました。これから募金などしたいと思っています。」いやあ、すごいです。がんばってください。 「私は 〇〇です。(宗教団体名)このゲームは、核兵器や汚い手を使っていいということで、良心上、できないと思い、やりませんでした。先生は、世の中は、不公平だと言いました。私もそうだと思います。でも、私は、将来、世の中が公平になると思います。絶対公平になってほしいです。」彼女にとっては、試練だったのですね。 「ぼくは、このゲームを終えて思いました。国と国は、だまして買ったりするい事があるんだ、と思いました。」人間の裏側をのぞいたんですね。 「地球で、貿易ゲームと同じようなことがおきていることがわかりました。」ご家庭での話題で深めたそうです。 「最初は、すこし、みんなに優しすぎたかなと、今、思っています。このゲームで、世界が公平になっていない、ということがわかりました。そのことがわかったのは、ぼくにチームがBグループで、最下位だったからです。Aグループから、ハサミを借りようと思ったら、「1000ドルくれるなら、貸してやってもいいよ」と言われ、とても悔しかったです。」なあるほど、苦い教訓ですね。 「ぼくは、Dグループだったけど、最後は117000ドルもうけられました。いろんな作業をしたり、なにかを他の国に売ったりするのがとても楽しかったです。どの国も、平等ではないことがわかり、協力すれば、技術や資源が無くても、もうけられることがわかりました。」すっすばらしいです!! 「私が一番心に残っていることは…全部です。全部おもしろかったのです。私は、また楽しいゲームを、もう一回やりたいです。」よかったです!! 以上、ほんの一部ですが、子どもたちは、大人が思う以上に、不平等な社会、騙しあい、裏切り、に免疫性をもっているもんですね。何より、悲しい思い、悔しい思いをも、楽しんでいます。 科学や学問、それ自体は、人を幸せにも不幸にも、何にでもなります。昔は、社会が幸せにならないのは、「無知のせいだ」と思われていました。だから、教育こそ、幸せを解決する道だと。ところが、「知」は、善と同じくらい、虚偽も悪も、カンタンに教えらるのです。さらに、情報自体に、ウソも混じっており、真に貴重な情報もあれば、プロパガンダも混じっているものです。 国際政治だけでなく、家庭内においても、私たち人類は、どう生きるべきか、実は、太古の昔から、ほとんど何もわかっていないのだ、と正直に認識しなければなりませんね。知らないことを認めること、これこそが、逆に、子どもたちの生きる力を与えるのじゃないでしょうか?
2010.06.23
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風邪をひいてしまいまして、その影響か、血圧が200まで上がってしまってました。病院にも行って、もう落ちついているのですが、ここ数日、「休養」しておりました。そんなに心配いらないそうです。 ところで、今回のダウン騒ぎ、女房からは、パソコンのしすぎを、また、親父からは、深夜のサッカー観戦をやり玉にあげられ、肩身の狭い思いをしております。 もちろん、因果関係は、そう簡単に言えるものではありません。でも、人間って、二つの事実が並んであるだけで、なぜか、原因と結果で結び付けてしまうものです。 まるで、高校英語で習う、分詞構文みたいなものですね。片方に、「~~している」また、片方に、「~~なった。」という文章を並べているだけなのに、勝手に、読み手が、因果関係を想像して、「読み取る」わけです。 Having failed several times, he succeeded at last.これなんかも、失敗した後、成功したとも失敗したから、成功したとも、読み取れないこともありません。でも、失敗した事実と、成功したことは、科学的に因果関係は何も証明されてませんね。 私が「夜更かしをした」こと、と、「風邪をひいたこと」、これは、普通、夜更かしをしたから、風邪ひいた、と解釈するのが、普通と言えば普通ですが、これは、解釈の問題にしか過ぎないのです。他の可能性もいっぱいあるわけです。実は、私本人の解釈はこうです。風邪で、咳が出て、みんなに迷惑をかけるので、ちょっとベッドから出て、テレビをみたのです。つまり、風邪をひいたから、夜更かしをしたのです。 でも、これも、一面の解釈です。このように、人間は、勝手な都合の良い、解釈をどんどんしちゃうクセがありますので、そのワナにはまらないように、訓練する必要があります。これこそ、科学のお役立ちの場面であるのです。 科学は、常識的な原因と結果を例外を掘り出して、その誤りを指摘する快感に心奪われたもの、とも解釈できるでしょう。 常識をひっくり返す楽しみは、一度、はまったら、病みつきになります。もちろん、新しい、より正しい(と思われる)法則をみつけることもです。 科学者は、ある意味、自分の間違いを見つけ出すことにも興奮を覚える、ドMだとも言えますね。少しでも、早く、自分の誤りを証明しようと、日夜努力しているのですから。 また、たとえ、原因と結果がわかったからと言って、それで、それが善いことか、悪いことか、すべきかどうか、という価値判断は、科学にはできない相談です。これは、注意しなければならないことです。 経済学者は、消費税を上げればこういう状態になります、ということは、言えるかもしれません。ですが、消費税を上げるべきか、どうかは、経済学の守備範囲ではなく、別の問題です。価値判断をするところに、政治があるのです。 だから、事実と、価値判断をごっちゃにしては、よい政策論議ができないのです。 私の件で言えば、たとえ、風邪をひくことがわかっていてもそれでも、サッカーを応援することが、何倍もの価値があると判断するかもしれないということです。 だいぶ、体調回復したので、これから、生徒の試験対策に、出動してきます。私の体調より、そっちが大切だ、と価値判断したのです。
2010.06.22
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試験週間の突入で、家庭教師としての科学寅は、ここが勝負と分単位で動いています。 勉強というと、条件反射で、「イヤなもの」「つらいもの」というイメージが湧きあがってきますが、それは、アタマが固い証拠です。 どんなに難しく、面倒な勉強にもあらゆる意味付けが可能なのです。マジメな子も、勉強はこういうもんだ、って 思いこんでいるものですが意味づけに正解も間違いも無いのです。正義や悪さえ無いのです。自分にとって、最も都合のいい、超ムシのいい意味づけを考えてみましょう。モテるため、お小遣いのため、ライバルをギャフンと言わせるため何でもOKです。そんな意味づけを十分したら、そうしてから、もう一度、教科書を開いてみましょう。 それだけで、ほうら、勉強が違ってみえてくるでしょう。ワクワクさえしてきます。人生は、何でもワクワクになれるのです。なれないのは、アタマが固い証拠です。
2010.06.19
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今日の午前中は、仕事の中休み。ハードなスケジュールが続いていたので、眠たくて仕方がない。 こんな時、そこはかとなく、本を手にして古代ギリシャの原子論者に思いを馳せていました。彼らが目指したのは、迷信からの解放。合理主義者というよりも、ヒューマニストでもあったようです。 ですが、中世キリスト教の世界では、危険思想とみなされる。科学の伝統を引き継いだイスラム世界でもそうです。 しかし、本来、宗教と科学は、分野が違うのです。科学は価値の問題は扱えない。だから、人間が生きていく上で、何らかの宗教や信仰はみんな持っているものです。 科学では、アリンコと私とどっちが偉いなんて、決められない。逆に、基本的人権があるってことも、科学では何も言えない。 さらに、現代の科学では、科学も宗教も、認識論的には兄弟であることが、どんどん指摘されだしています。 「客観的な世界」などというものは無く、あるのは、私の「心」だけ。という説に、私も大分傾いています。もちろん、単純な唯心論ではありませんが。 科学をするのは、要は、便利だから。役立つから、というのは、実はまっとうな考えです。この役立つという考えの中には、ものの見方を豊かにするそして、それによって、生活に潤いと活力を与えるというのもあるでしょう。 とりあえず、問題となる現象をうまく説明できればいいのです。 不倶戴天の敵のはずの、科学と宗教は、同じムジナであるにも関わらず大きく違うところがあります。それは、価値を宗教が主張しているところにこそ、あると思います。科学は、価値判断をしません。だから、意味づけは、ひとりひとりの自由に白紙委任しています。 ところが、宗教は、人間のアタマの理解を超えた、価値判断を下します。宗教の名を借りた、(いや、宗教だからこそ起こしえた)虐殺・テロ。神の名の下では、人間の判断力はぶっ飛ぶのです。 昔から、科学は唯物論的で、機械論的で、非人間的だと捉えられ、宗教は人間的だと思われていますが、私には、逆のように思われます。 科学は間違いを前提としています。 人間は、迷いに迷っていいのです。迷わなくなったら、宗教になるのです。「迷わずに突き進め!」は、気持ちはいいですが、恐ろしく人間的でさえありません。「大いに迷え!」こそ、科学のメッセージだと思います。
2010.06.18
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地球は丸いというのは、今や、学校で習わなくても知っている知識です。しかし、この地球が球体だというのは、いつ、誰に発見されたのでしょう? 実は、古代ギリシャの哲学者は、知っていたのです。あのアリストテレスも書いているのです。だから、紀元前4世紀には、わかっていたのです。しかも、地球の大きさも、当たらずも遠からずの線で計算していたのです。 でも、どうやって、わかったのでしょう?もちろん、地球一周もできなければ、宇宙から写真を撮ることもできません。 古代の人に、発見できたのですから、現代の私たち、小学生にだって、発見できるはずです。 しかし、この発見物語は、学校では教えられません。こんな貴重な瞬間を。 また、お月様が、お盆のように、平べったいものじゃなくて、これも、ボールのようなものだと、どうして気づくことができたのでしょう?望遠鏡を使わないでも、発見できるのです。 さらに、天動説から、地動説に転換した決定的な発見は何だったんでしょう?これも、普通、学校では教えられません。 さらに、さらに、原子の発見。この世が粒粒でできているって、これも、古代のギリシャ人が、きれいに説明しているのですが、今でさえ、目に見えない原子を、どうやって疑り深いギリシャの人たちに説得する論理を組み立てられたのでしょう? 学校教育の理科は、人類のお宝を、いっぱい、そぎ落としているように思われます。 科学の歴史には、本来、人間が疑問に思うだろう様々な、今から考えれば、アホな間違いも、いっぱいあります。この間違った考えこそが、また、お宝なのです。昔の人も、いっぱい間違ってきたんだ、と知ることは私たちに大きな勇気とエネルギーを与えてくれます。 ところで、科学実験はどうして人気があるのでしょう?私が言うのも変ですが、普通は、マジックのような驚きが目の前で味わえるから、と考えているでしょう。実際、そういう場合も多いし、それを売りにしている実験ショーの方がこの科学実験ブームの中で多数派だとも、言えるでしょう。、でも、だったら、プロのマジシャンには敵わないはずです。 私は、科学実験に関心をもたれている方々は、自分でも意識されていないですが、昔の科学者の立場に身を置いて、その発見の瞬間を追体験しているのだと思います。その感激が、私たちを引きつけるのです。 実験ブームの中で、見て驚く実験は、いっぱいあります。しかし、謎を解いていく、アタマの働かせ方の参考になる実験はまだまだ紹介されていないと思います。私は、この方向に、これからも注力していきたいと思っております。(まだ、私も力不足ですが)
2010.06.17
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菅総理が、「第二のケインズ革命が必要」と発言されたとか。やっぱり、大きな政府を目指すんでしょうか?でも、ケインズの有効需要の処方箋は、今の日本では、効き目がなくなってるのは、素人の私にも肌で感じられます。 よく、リーマンショックなどの、金融危機が100年に一度の不況の原因だと言われていますが、ド素人の感触では、金融危機も、バブル崩壊も、外国勢力の台頭も日本の不況の根本原因では無いと思います。 それは、日本の企業に活力がなくなったことです。新たな冒険をしなくなったことだと思うのです。小手先の「カイゼン」ではなく、もっと、根本的なこと、そう、何を売るのか?に関わるものです。 科学の世界でも、一番大切なことは、アタマが切れることではなく、よいテーマを見つけることです。 誰も手をつけていない、素敵なテーマに取り組めば、三流の科学者も、一流になれちゃいます。 今、日本の企業は、使い古されたテーマにしがみついて、乾いた雑巾を、さらに絞るように、生き残りを図っています。これでは、目先のことだけで、未来への希望はありません。 経済用語で言えば、コンドラチェフの波のように、技術革新の波が、主原因であり、また、企業の寿命30年説が、本当らしいということなのかな? とにかく、小手先の対策では、借金を膨らますだけです。そうじゃなく、国民に意識改革を呼び掛けるのが、本筋だと思うのです。(エラそうに!!) 教育では、物事を覚えることよりも、疑問をもつ力を重視すること人が気づかない、問題点を見つける力を評価することチャレンジ精神を奨励し、その反面、リスクを回避する方法も教えること これでしか、日本が借金地獄から、抜け出る道はないように(あくまで、素人判断ですが)思うのです。 そこに、私の科学教室の意義がある、と我田引水ですが、思いこんで、今日も出動してきます!
2010.06.16
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昨日は、ダブルヘッダーで、実験教室、その後家庭教師で、パソコンに向かえませんでした。え?深夜? サッカーしかないでしょう。おめでとうございます!! でも、全国紙が皆、スポーツ新聞になっちゃってるのは、異様ですね。サッカーに関心があるのが、当然だろう、という姿勢は怖いです。 ところで、昨日も学校の先生と、「ハガネの女」について雑談しましたら、やはり、真面目な先生ほど、事件に巻き込まれて、辞めていくケースが多いそうです。 私が、これは、本末転倒だから、意識改革できないか、と聞きますと、現場からの声は、届かないとのこと。上の方では、もっと別の意図での変更が予定されていて、現場としては、適当にバランスをとるしかないということで納得しました。 それにして、少年の非行は、教師や親の責任だ、という常識。これを、払拭しないと、教育環境は前進しません!(と思います) たしかに、犬だってえさを与えれば芸を覚えますし、犬の責任は、飼い主にあります。言葉が通じないうちは体に覚え込ませるしかない、という考えもあります。 また、子どもを社会に送り込むのは、親なんだから、親の責任だ。社会に送り出す際に必要な「教育」を怠ったという考え。さらには、そういうことを放置した社会の責任という考え。いろいろあります。 しかし、ですよ!私が子どもだったら、親や社会が、こぞって、「こういう生き方がイイ。」とすすめてきたら、意地でも、別の生き方を見つけると思います。 中には、素直に従うことが、安心でいい、という子もいるでしょうが、「悪い子」がいない社会なんて、ぞっとします。 もし、ですよ、教育技術が進歩して、すべての子を、こちらの意図したように、成長させることができたら、それは、素晴らしいことでしょうか?そもそも、そういうのは、マインドコントロールと言って、教育とは違いますがね。 もし、教育と非行との因果関係と言うならば、科学的に考えて、ひどい親や教師の下でもあるにも、かかわらず、健全に育った子どもの数の方が、圧倒的に多いはずです。また、すばらしい教育者の家庭にもかかわらず、グレてしまった子も、ものすごくいるはずです。 ですから、安易に、子どもの行動と教育の因果関係は論じられないのです。唯一、言えるのは、子どもは生まれた時から、別人格だということ。そして、それを最大級に、恐れて、尊重しなければならないということです。 先生の仕事は、意味の無い、生徒指導にあるのではありません。そのために、教員を増やすなんて、税金の無駄遣いです。先生は、良い授業づくりのために、命を懸けて欲しいと思います。
2010.06.15
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昨夜、女房が録画してきた、ハガネの女を観て気分が悪くなりました。出てくるキャラクターの気持ち悪さは、当然ですが、これじゃ、学校の先生をやりたいと思う人が、いなくなるんじゃないか心配になります。 私は、現実は、もっと楽しいと言いたいのではありません。たしかに、現実は、五十歩百歩なんです。先生たちの気苦労はたいへんなものです。 そうじゃなくて、ヒネクレタ子どもたち、また、親の人格を矯正するのが、教師や学校の仕事なのか、という根本的なことに疑問を抱きました。ここからは、ドラマの話ではなく、一般的な学校教育の中のことです。 学校では、いろいろな情操教育が行われています。 本当に、「良い子」に育てるのが、学校の使命なんでしょうか?そもそも、何をもって、良い性格と言えるのか、という問題もありますが、それは、ごく一般的な常識を使うとして、では、「悪い子」でいる自由はないのでしょうか? そもそも、人格や、道徳は、「教える」ようなものではありませんよね。人に、「愛し方」を教えられますか?教えられた愛し方で、人を「愛する」のって、それって、愛なんでしょうか?さらに、学校で「愛しなさい」と指導されたから、「愛しました」と報告されて、「よくできました」と花丸をあげるのでしょうか? 学校というのは、教師の人柄がどんなに良くてもあくまで、権力機関です。その権力が、個人の人格にまで手を出すことは、危険極まりないと思うのです。 実は、こんなことにこだわるのは、明日、古川第三小学校で、「貿易ゲーム」の指導をしてくるからでもあります。 貿易ゲームとは、「貿易」を中心に,世界の動きを疑似体験することによって,そこに存在するさまざまな問題について学び,その解決の道について考えることを目的としたシミュレーションゲームです。 1982年に,イギリスの代表的なNGOの1つであるクリスチャン・エイド(Christian Aid)によって出版され,開発教育の代表的教材として,イギリスはもちろんのこと,欧米各国で知られるようになったもので、私も、既にいろんなところでファシリテーターとして楽しんできました。どんなゲームかって?参加者はいくつかのグループに分かれ,はさみや鉛筆などの道具と紙を使って「製品」を作り,「マーケット」で売って収入を稼ぐのです。 ただし,スタートの時点で渡される道具はグループによって異なり,「先進工業国グループ」には,はさみや定規などの道具(工業技術・設備)がある代わりに紙(資源)が少なく,逆に「発展途上国グループ」では,紙(資源)がある代わりに道具(工業技術・設備)はほとんどありません。また,中には紙も道具もない国もあります。これらの初期設定をもとにゲームを進めると,各グループの間の「格差」はどんどん拡大していくと同時に,グループ間で道具と紙のやり取り=「貿易」も自然発生的に生まれることを疑似体験します。 ここで、大人は、しばしば、良い平和な世界を作るように指導してしまいがちです。先進国は、思いやりをもって、援助をするのが「良い子」だと。また、発展途上国同士も、手を携えて、助け合うべきだと。 でも、私は、あえて、何も言わないで自由にさせるつもりです。唯一の目的、「お金をいっぱい儲けること」に照らし合わせて評価を下すだけです。 科学実験でもそうですが、思考の自由こそが、命なのです。自由に考えるということは、タブーを作らないことです。この自由を保証することこそ、私の役目だと考えています。 この世界には、いろんな考え方があります。雑菌の世界と同じなのです。かえって、無菌状態ほどモロイものはありません。雑菌の中で、どうやって免疫力をつけていくか、です。 言うまでもなく、道徳や人格は、大事です。学力よりも、比較にならないほど重大問題です。だからこそ、安易に手をつけてはならないと思うのです。 農業で言えば、自然農法です。化学肥料や、除草剤はまくべきではないのです。しかし、自然農法にしろ、それは、作物を収穫するためです。ところが、人間は、作物ではありません。ある特定の人に、おいしく召し上がってもらうために教育を受けているわけではないのです。みんなが、リンゴの実をならせつ必要はないのです。途中で、ミカンになってもいいし、実をつけない自由だって保証されるべきなんです。 みんなが、一定のことを、理解し、わかる必要はないのです。「わからない自由」だって、大切だと思うのです。「私は納得できない」という自由です。 じゃ、学校は一体何なのでしょう?私もそれを考えているところです。 少なくとも、先生が、生徒や保護者の人格や道徳にまで責任を持つ必要はないと思います。いや、もってはいけないのです。それは、愛とは、似て非なるものだからです。(もちろん、安全のためや、授業の健全な進行のためには断固たる措置が必要です。それは、ビシバシ、機械的に処置すればいいのです。生徒の自殺さえ、教師は必要以上に引きずっては、いけない!と思います。それは、かえって、その子の人格への冒涜です。)
2010.06.13
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人類がこれまで、嫌な思いを味わってきた悲劇は、カチンコチンの絶対的な思想、たとえば、宗教や、イデオロギーなどから影響を受けていますね。私は、これらは、人間の理性を過信したところから生まれたものだと思います。ナチズムやスターリズムなども、ここに根っこがあったと思うのです。そして、それらは、「客観的な真理」があるということを前提にしているのがミソです。 ところが、これらを批判するとすべては相対的なものだ、という相対主義に陥ってしまい、カール・ポパーも言っていますが、「アナーキー」に通じてしまいます。 アナーキーは困る、虚無主義はいかん、ということでカントをはじめ、ポパーも、いろんな解決策を考えています。 でも、私は、どこがいけないんだろう、って思うのです。よく、アナーキーになると、存在する意味、人生の意味が無くなってしまうと心配する人がいます。でも、本当に、存在目的がなければ人生はむなしいのでしょうか? 私は、逆じゃないか、と思います。私の存在目的が、すでに客観的に決定されていたら、それこそ、人生はむなしいのではないでしょうか? 自分で、価値を創造できるから、楽しいのです。誰かから、楽しいことを教えてもらうのでは、本末転倒だと思います。 ある人にとっては、全然興味が無い、鉄道にマニアになってもいいのです。フィギュアに価値を見出したって、いいのです。もちろん、科学や、出世に、偉大な価値を見てもいいのです。 恐ろしいのは、あらかじめ、これが素晴らしいのだ、と真っ白なキャンパスの代わりに、下絵を与えられることです。宇宙が無意味ということは、困ったことではなく、真っ白のキャンパスを与えられているということで、そこに、何を書いてもいいという自由があるということなのです。ありがたいチャンスなのです。 これこそ、人生の冒険者にとっては、たまらない世界じゃないでしょうか。誰か、偉い人に、決めつけられた絵を描くなんて、拒否して自分の絵を描いていいんだよ、ということです。決められた線路を走らなくても、自由に寄り道していいんだよ、ということです。、これこそ、人類の知的経験が叫んでいることじゃないかと思います。 ただ、人間は、一人よりも、ある程度大勢の人と、価値を分かち合うと、より、うれしいという性質があります。だから、「だれにも共通だと思われるもの」を模索する必要性が生まれてきます。これこそ絶対的な真理ではない新しい普遍性なんでしょうね。 とにかく、私たちこそが、価値創造者なんだ、その意味で、神なんだ、って思うのです。
2010.06.12
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「科学も宗教も共産主義も同じ構造だ」、と言われたら、「そりゃ、とんでもないことだ」と否定しますか? 科学講師の私が、こんなことを言うと変に聴こえますが、ポール・ファイアーベントは、こう主張しているのです。ファイアーベントって?以下ウィキペディアからの転載※※※※※ポール・ファイヤアーベント(Paul Karl Feyerabend,1924年1月13日 - 1994年2月11日) は、オーストリア生まれの 科学哲学者である。カリフォルニア大学バークレー校での30年に及ぶ哲学教授としての職歴によってよく知られている。主著は『方法への挑戦("Against Method")』(1975年)、『自由人のための知("Science in a Free Society")』(1978年)、『理性よ、さらば("Farewell to Reason")』(論文集:1987年)。ファイヤアーベントは科学へのアナーキスティックな見方と、普遍的な方法論の否定によって有名になった。ファイヤアーベントは科学哲学にくわえ、科学社会学においても影響力を持つ人物である。以上です。※※※※※※ ファイアーベントは、単に科学理論ばかりでなく、あらゆる知識について、優劣をつけるような 合理的な基準が存在しないことを見抜いて、主張したのです。だから、神話や、魔術、占星術とも、根本的には、優劣は論じられないというのです。そして、無理に決着をつけようとすると、どこかで、私の大嫌いな「権威主義」にならざるを得ないのです。 「いくらなんでも、星占いと科学が同列???そりゃ、ないでしょう!!」科学は、この世界を説明するのに、最適な解釈をバージョンアップを繰り返しながら、ここに至っているのですから、現代科学に勝るものは、ないはずです。 しかし、トーマス・サミュエル・クーン(Thomas Samuel Kuhn、1922年7月18日 - 1996年6月17日)は、アメリカ合衆国の科学史家・科学哲学者。この人も、科学のパラダイムが変わることには、合理的な基準は存在していない、と主張しています。科学が新しいパラダイムの変換するにあたって、決定的に重要なのは、「真理」や「客観」ではないというのです。 そうではなく、科学者集団における「信念」や「主観」にもとづく合意だというのです。そして、古いパラダイムと新しいパラダイムの間には、概念の共通項がないのですから、比較することもできないのだと。 もちろん、これらの主張に対して、ブーイングはいっぱいあります。「科学に対する最大の敵」とも言われました。 しかし、論理学者に検証してもらっても、論理的に間違いはないのです。簡単に言えば、科学的方法を使うか、非科学的な方法を使うか、は、必ずしも、科学的な方法が、絶対に良いわけではないということです。 だいたいにおいて、科学は、暗黙の了解で帰納法を使っていますが、この帰納法には、根っこのところで根拠が無いのです。明日も、万有引力が働くと、絶対保証しているわけではないのです・ 現在では、多くの科学者や哲学者が、科学も物語の一種なんだ、ということに同意しています。 科学も人類が導き出した思考方法のひとつに過ぎないのです。これを、信じるのも、信じないのも、本来、私たちの自由なのです。宗教上の理由で、豚を食べない人を、軽蔑することはできないのです。いかに、豚肉にビタミンがあると、科学的に論じても、意味がないのです。 またまた過激なファイアーベントの言葉です。「科学こそが、もっとも新しく、もっとも攻撃的で、もっとも教条的な宗教制度」皆さんは、どう思いますか? 私は、科学を、もともと非科学的な思考をも許容する理想的な「自由世界」だと、ググっと超拡大解釈しているので、一向に動揺しないのですが、思考の自由を保証しない、学校教育の科学は、こう非難されても仕方がないと思っています。
2010.06.11
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実験の楽しみは、びっくりすることがあるからではありません!!どうなるかわからないから、実験するのです。びっくりするという結果がわかっていれば、もう、びっくりしないでしょう。(おばけやしきは、それでもびっくりしますが)意見の違いがあって、その決着をつけるために実験するのです。そこにこそ、心臓バクバクの世界があります。科学の楽しみがあります。 また、冒険というものも、どうなるかわからないから、冒険なのです。絶対安全確実なのは、冒険とは言いません。そこに、ワクワクドキドキがあります。 よく、科学が発展して、冒険する余地が無くなったなんて言う人がいますが、何の何の!現代だって、地球は平らだ、と言っていた昔の人と五十歩百歩なんです。天動説を、全然笑えないんですよ。 科学が進歩すればするほど、この世界は、その何倍もの謎を私たちに垣間見せてくれます。 この世界は、たとえば、モナリザの絵を小さい点くらいに縮小して、そのモナリザの点で、長島さんの顔を描きだし、その長島さんの顔を縮小して、点のようにして、その点で、アインシュタインの顔を描きだしているようなもんです。どの縮尺で見るかによって、見え方が全然違ってきます。そして、どれが、真実で、どれが違っているというもんじゃありません。 また、縮尺だけでなく、光を当てる角度によって、右から見ると、鬼のようになり、左から見ると、マリア様になるようなもんです。これが、幾重にも、重なっており、人類の認識なんて、その主観的な視点を抜きにしては、何も語れないと気づきだしています。 だから、今、わかっている(つもり)ものも、きっときっと地面を指差して、この地面は平らだ、と言っていた古代人とほとんど同じなんです。少なくとも、そう思うことこそが、科学的なのです。 でも、だからこそ、人類は、永遠の冒険を続けられるのです。みんなで、オバカな私たちを喜ぼうではありませんか?!オバカだからこそ、楽しみがあるのですから。
2010.06.10
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私の生徒に、テニス部員がいるのですが、なかなか選手になれないでいました。私は、テニスを楽しむことの大切さを繰り返し説きました。彼女も、素直に受け取ってくれ、楽しいイメージコントロールができるようになってきたようです。昨日、うれしい知らせを受けました。今まで、勝つことなんて夢だった先輩に練習で思いもかけず勝っちゃったんだそうです。 勉強やスポーツを楽しむことは、とても有効なので特効薬とか、万能薬のようにすら思えるほどです。まあ、実際、そうなんですが、私は、楽しむことには、もっともっと、奥深いものがあると思っています。 仮説社に、「楽しい授業」という雑誌があり、そのバックボーンは、「楽しさ」は「わかりやすさ」よりも何倍も重要だ、という主張になっています。 突き詰めると、勉強に限らず、勝つために「楽しむ」などの願っている結果をひそかに望みながら、「楽しむ」のは、本当の意味から逸脱しており、逆説ですが、私たちの状況を真に変える力をもっていないと思います。 楽しむということは、現在の状況を、全面的に喜んで受け入れることです。勉強で言えば、「わからない」ことを喜び、スポーツで言えば、弱いことを喜ぶのです。そして、教育で言えば、子どもの現状を、丸ごと受け入れて、問題だらけの現状を喜ぶのです。 私の経験では、不登校をしていた子は、不登校をしてきたことを心より、喜べたとき、状況は劇的に変わります。うちの末娘もそうでした。 今、元気に高校生活を送っています。個人指導した生徒も、そうです。中学時代、ほとんど学校に行けなかった子が、今、東北大学の理学部で、研究に勤しんでいます。 でも、それもこれも、不登校が治るから、「喜んでみよう」というのじゃないのです。純粋に、ひっちゃかめっちゃかの現状を、そのまま喜ぶのです。そこから、楽しさが生まれます。 下の新聞は、本日、ローカル新聞に出たものです。先日、私の母校で、やらせてもらいました。とてもありがたいことですが、メッセージを伝えきれなかったようです。ちょっとお祭りだけになってしまって、反省している面もあります。
2010.06.09
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ガリレオは、落下の法則を発見したのに、どうして、引力の法則まで考え及ばなかったのだろう?それは、離れて働く力ってのは、オカルトや魔術の世界だって科学が打倒すべきものだと「信じて」たからのようです。だから、潮の満ち引きを月と結びつける考えを軽蔑しています。 また、コペルニクスは、どうして地動説を考えられたのか?惑星の動きが気にいらなかったからだ。もし、コペルニクスが大雑把な人で、一つや二つの天体が、変な動きをしても、それもアリじゃん、って思っていたら、どうってことなかったのに、彼は、天界は、神様の世界だから、完璧な動きしかないと「信じて」いた。だから、気になって、完璧な世界を描こうと思ったんです。 ところが、彼の信仰の中では、完璧と言えば、円運動しかなかった。だから、楕円運動は、思いも及ばなかったのです。そこが、限界。 ケプラーが楕円運動を発見するまで、完璧な円だと信じられていたのです。 信仰は、悪いものじゃありませんね。それがなくては、認識すらできない。だけど、それが、すぐにネックになってしまう。だから、いろんな信仰を渡り歩く習慣をつけられればいいのです。 でも、それが難しいのですけどね。数学で言えば、別の公理の世界に身を置いてみるのです。 ものの見方を変えるには、ものすごく高い目標を持つことも、とっても素敵な方法です。明日の試合に勝つことを意識しているのと、世界チャンピオンを目指して試合に臨むのでは、見えるものが違ってきます。 いろいろ試してみたいところです。
2010.06.08
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この世に、「良い子」も「悪い子」も存在しません。ただ、そう見る視点があるだけです。 同じ子を、高級官僚のご家庭が見る場合とスポーツ一家が見る場合と宗教家のご両親が見る場合では、全然違うでしょう。 複雑な側面をもつ人間だからそうなんじゃありません。すべてがそうなんです。確固たるものと思われている科学法則、それも近代科学の基本中の基本、「質量保存の法則」すら、視点によって、揺らぐのです。たとえば、原子や素粒子の視点をもつと、数量化すること自体が不可能になります。また、宇宙の銀河団を単位とする視点をもつと、地球一個分の質量なんて、常の増減を繰り返しているわけです。 「真実」や「科学法則」も、人間の側の、法則性を見出そうとする意図に応じて現れてくる幻みたいなものなんです。相対的なものなんです。 科学の世界ですらそうなんですから、子どもの評価なんて、分かれて当然です。教育の評価は、大人の価値観の裏表です。価値観、つまり、人間の生きる価値ですね。これ、自信をもって、語れますか? 逆に、生きる意味を、一つに固定されたら、これまた、怖いですね。人間は、どうしてもスッキリしたいのですが、複雑でヘンテコリンでいいのです。 だからこそ、ここに救いがあるのです。別の見方がどこまでもあるからです。 もし、お子さんに問題を感じておられましたら、あなたのフィルターをもっと豊かにしろ、とのサインだと受け取りましょう。それを問題だと思うフィルターがあるから、気になるのです。スポーツなんて、どうでも良いというフィルターをもっていれば運動会でビリになっても、全然、へっちゃらなのです。 今、もっているフィルターを捨てるのではなくて、さらに、豊かにするのです。豊かにする方向は、いろいろありますが、どうせでしたら、幸せなフィルターがいいですね。 それには、ものすごく有効な方法を私は知っています。それは、「すべてのことを感謝する」ことです。私は、以前クリスチャンだった、と書いたことがありますが、この言葉だけは、特別な思いで残っています。一見、どうしようもなく悪いことでも、頭では、全然、理解できなくても、とにかく、神様に感謝してしまうのです。ここど、一気に「神様」なんて言葉を出してしまいましたが、用語は何でもいいのです。たとえば、泥棒に入られたとします。この場合、泥棒に感謝しても、仕方がありませんね。だから、第三者の神様を持ち出すのです。 この方法は、奇跡的な視点の変化をもたらします。そして、実際、奇跡的なことが起きます。私にも、最近、起きていますが、これ以上書くと科学講師をやめなければならなくなるので、ストップします。 しかし、この宇宙は、量子物理学の視点からみると可能性の「マトリックス」の上に乗っかったバーチャルな世界です。だから、実は、可能性としては、何でもアリ。 これはともかく、子育てや教育は、親のための豊かな視点をもつためのありがたい、特訓道場であることは、間違いないでしょう。 (ネット環境が安定しません。ご連絡などで、ご迷惑をおかけいたしております。すみません。)
2010.06.07
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ピカソのキュビズムの発端となった『アビニョンの娘たち』という絵があります。これは一枚の絵の中に複数の視点を持ち込んだキュビズムの発端ですが、これからの教育の方向を示唆していると思いませんか?科学の発展の歴史が指し示しているように人間は、「客観的なもの」を認識することができません。事象から、何か意味を汲み取ろうとすると何かを捨象してしまわなければならないジレンマを抱えています。だから、いろんな視点をもてるように、訓練しなければなりません。まるで、だまし絵の世界のようなものです。これらは、たしかに、気持ちが悪い。私もキュビズムを見て、猛烈な違和感を感じます。何か、一つのイデオロギーで統一した方が、スッキリさわやか。しかし、これに、正面から挑んでいくことが大切なのです。この努力を放棄したら、人類の意識は、また眠りについてしまいます。ここに人類の叡智があると思います。 たとえば、歴史上の人物の評価も、複数の視点から議論する習慣をつけること。ヒーローも悪役も、視点を変えると、違った姿が浮き上がってきます。科学の理論もそうです。100%の学説なんて存在しないのですからそれを否定する学説もつけ加えること。または、対立してきた考え方の歴史を添えること。いわゆる「とんでも科学」も、それを否定する考えもきちんと添えて、どのくらいの比率で専門家が、支持しているのかを解説すれば、教科書にだって、載せたっていいと思うのです。そういう意味で、「タブー」もどんどん取り上げるべきです。そして、免疫力をつけさせるのです。
2010.06.06
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科学は、独善的な主観では、ダメですが、だからと言って、この世には、純粋な「客観的な世界」など無い!、というのが、現代科学の成果でもあります。 要は、客観なのか、主観なのか、ではなく、みんな主観の寄せ集めなのだから、それらの世界を通訳して歩くものが必要だということです。 簡単に言えば、相手の立場に立つこと。これが、科学をする者の必要な資質です。 考えてみれば、教育もそうです。私の主観の世界にみんなを引っ張ってくるのではなく、子どもたちの独自の世界を、どう理解し、それと、大人の世界を、どう通訳するか、これが、教育者の資質なのでしょう。 私も、保護者の世界、学校の先生の世界、校長先生の世界そして、子どもの世界、最後に、私の世界をうまく、橋渡しをしながら、サーフィンを続けています。(そのつもりです) つまり、思いやりなんだなあ。
2010.06.05
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政治は権力闘争であり、それ自体は、正邪で論じるものじゃないでしょう。 小沢さんも、鳩山さんも、権力志向が人一倍強かったから、あそこまで上り詰めたんでしょうが、これが、教育の世界、教室にまで感染してくると問題です。 私は、もともと、一糸乱れぬ行動などは、性格的に受け付けないのですが、大勢の人間を自分の意志のままに操作をすることに快感を覚える人は多いようです。(私も時々、誘惑にはまります。)スポーツの監督や、指揮者は気持ちいいでしょうね。もちろん、それは、迅速に手っ取り早く、望む結果を出しやすい。何より便利です。だから、権力者は、その権力でもって、強制的に指示を出します。もちろん、その強制力は、合法的なものであり、全く正当なものです。戦争で、兵士の自主判断に任せたら、国は滅びます。 しかし、それを教育の現場で、教師が使うとどうなるでしょう?強制は、それをされる側の自主的な判断力を停止させるものです。自分の脳ミソを使わないように、使わないように、と訓練されるのです。 また、強制する側にとっても、理解できないのは、受け取る側が悪いという論理になってしまいがちです。 たしかに、ピリっと強制力の効いた教室の方がテストの成績は良いでしょう。保護者の受けも良く、また、生徒たちでさえ、居心地が良いことがあるでしょう。 しかし、そこでは、自分のアタマで試行錯誤するという本当に自分を大切にする心を失ってしまうのではないでしょうか?何より、思考が横道にそれたり、あぜ道で道草をしたりすることを許されなければ、学問の真の担い手も育つはずがありません。 だって、学問の魅力的なテーマは、教科書から欠落しているところにこそ、あるのですから。 目に見える結果や成果のためには、少々の強制は仕方が無いという論理は、まるで、選挙の勝利や国会運営のためには、主義主張には目をつぶって、突破していこうというどこかの政治とそっくりに思えます。
2010.06.03
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最近、我が家は、口蹄疫ならぬ、風邪が流行っておりまして、ついに、私も、頭痛がひどくて、ダウンしてしまいました。でも、今日は、私の母校の小学校での実験教室。朝から準備で走り回っていたら、すっかり良くなっておりました!う~ん、健康法はこれだな! ところで、学校に行って、つくづく思うのです。私は、学校の先生は大好きです。お一人お一人は。本当に。だからこそ、可哀そうに思うのです。ああいうシステムの中で、子どもたちと接しなければならないことに。 目先のことじゃありません。どうしようもない、アリ地獄みたいなところを感じるのです。教師というのが、合法的に権威が確定しているということに対して、です。 生徒が、教師の指示に従うのは、正しいことだから、従うのでしょうか?教師に権威があるから、従うのでしょうか?じゃ、その権威って?足が早いから?いっぱい覚えているから?いや、国が、「先生」と認めた人だから? それって、おかしくないだろうか? 殺人をしないのは、つかまって、死刑になるから?それって、おかしくないだろうか? 人を愛するのは、愛することが正しいから?それって、おかしくないだろうか? 今日みたいに、私のような、変なおっちゃんが、出てきて何をしたっていいよ、って、一旦、統制を解除して、それでも、食いつくように、迫ってくる子ども達。そういう子ども達と接することができて、私は幸せだなあって、感じるのです。(まあ、それでも、子どもたちは、配慮してくれているんだろうけど。) この人を愛さなきゃならないから、って、愛してくれている人どう思います?学校にすごい矛盾を感じます。 疲れの中で、変な妄想を繰り広げてしまいました。
2010.06.02
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