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大学時代の友人のお母様が亡くなった。3年からのゼミで一緒だった友人だ。私の通った大学は、2年まで横浜、3年から東京の校舎なのだが、彼の家は横浜の校舎のある町にあった。ゼミの仲間に鹿児島、神戸、和歌山からの下宿組がいた。彼らは横浜にも通い易い所に下宿していたので、必然的に彼の家がたまり場になった。お茶の先生をしていた彼のお母様の大事な茶室で数知れぬ徹夜麻雀。でも嫌な顔一つしないで、夕食や朝ご飯を用意してくれた。あまりに居心地が良いので、下宿組が代わる代わる泊まりに行き、一週間ぐらい連泊する奴もいた。本当に優しくて気さくなお母様だった。具合が悪くなり、入院した方が良いのか相談している時急にお亡くなりになったそうだ。私の母も脳溢血でたおれ、一度も意識が戻る事無く一週間後に逝った。私はよその多くの葬式のお手伝いをしたが、何故か自分の親は死なないと思っていた。いるべき人がいない喪失感はなかなか埋まるものではない。仲間の何人かはやはり最近親を見送っている。そんな年齢と言えばその通りだが、やはり親には長生きしてもらいたいものである。こんな私でも死ねば家内や娘達は悲しむだろう。自分のためだけでなく、家族のためにも健康には注意しよう。
2004.02.29
昨年暮れ浅田次郎の「壬生義士伝」を読んだ。鼻水まで垂らしながら、体を震わせて読んでいる私を見て家内や子供が大笑いしていた。なのに数日後、私が読み終えた本を手に取った家内が「ひぃ~」なんて薄気味悪い声を立てながら泣き読みしている。一昨年の暮れにテレビ東京で放映された渡辺謙主演の「壬生義士伝」第3話を次女がビデオに撮っておいたが、今年のお正月になってようやく観た。中井貴一主演の映画より原作に忠実だというのだが、泣ける場面が微妙に違う。例えば函館の五稜郭に向かう吉村嘉一郎と大野千秋が別れる場面。御組頭様の大野千秋に敬語を使い続ける嘉一郎が、最後に幼い頃の親友時代に戻って「ちあき、ちあき」と呼びながら函館に行くわけを語る場面が、はじめからため口である。「だめだよ最初からため口じゃ」と叫んでしまう。千秋が嘉一郎に、先祖伝来の藩祖より拝領した昇り旗(のぼりばた)を渡すところも重要であるのに省かれている。一連のシーンが終わったとたんに「あっ!旗を渡さなかった」なんて、自分が忘れたように家内が叫ぶ。一緒に観ている次女がうるさがっている。淀千両松の戦いで、貫一郎が堤の上に駆け上がって「新撰組隊士吉村貫一郎、徳川の殿軍ばお努め申っす」という台詞を言う場面を聞き損なった私が「今殿軍と言ったか?」と聞き返す。大阪の御蔵屋敷で果てた吉村貫一郎に大野次郎衛が、自分で握った南部の米で作った握り飯を「食え、貫一」と言って、無理矢理口に入れようとする場面も描かれていない。五稜郭で中島三郎助が新撰組の赤心を利用した徳川に代わって詫びを言う所は良かったが、貫一郎の名前をついだ息子の貫一郎が佐助とともに越後の豪農、江藤彦左衛門に会う場面はもう少し子役が上手だったらなと思ってしまった。長じて東大の教授になった吉村貫一郎が佐助を背負って田圃の畦道を歩く場面や、大野千秋と貫一郎の姉のみつが東大の寮に貫一郎を訪ねる場面なども観たい気がした。先日、書店を経営している方と飲んでいた時、泣ける本のコーナーなんて作ったら絶対うけますよ、と提案してみた。本を読んで泣きたい方に絶対お薦めの本である。
2004.02.28
横須賀の国道16号線沿い安浦の聖徳寺坂交差点に面している。県立福祉大学のある平成町側だ。テーブルが二つで10席ぐらい、カウンターが5席ぐらいの小さな店だ。一応パスタが充実しているのでイタリアンのお店だが、三浦半島佐島から毎日生け簀に魚介類を仕入れ、地魚のカルパッチョやリゾットなどもある。まだ若いマスターが料理を担当、きれいで愛想の良い奥さんがサービスをしている。昨日はシャンパンで乾杯してから、生け簀から取り出してきた元気のいいスズキのカルパッチョ、葉山牛のカルパッチョ、自家製フォアグラのテリーヌ、ツブ貝のガーリックグラタン、カボチャのポタージュ、などを食べた。5人でいったが、大皿でくる料理をとりわけて食べるとちょうど良い量である。一皿が1000円台後半から2000円台と、多少値が張るので3~4人で少しずつ食べるのが良いだろう。まだ子供が小さい頃、付け合わせのマッシュポテトが気に入ってしまい、何度もそれだけをお代わりしたが、嫌な顔一つせず作ってくれた。こういう小回りのきくのが小さな店の良いところだ。最後にワタリガニのスパゲッティーと、キノコのスパゲッティーを食べてお腹がいっぱいだ。生ビールやワイン、子供はジュースを飲んで26000円ぐらい。十分納得できる金額である。
2004.02.27
2月に結婚の話がまとまって式をいつにするか相談していたとき、母が占いを見たら2月までか11月以降でないとだめだと言う。もう2月の半ばの話である。急遽2月最後の日曜日で、日柄の良い日にと言うことになり、地元の氏神である神社で式を挙げた。それが2月26日である。前の年に結納を済ませ、式の日取りまで決めていながら婚約を破棄した私たちのことである。また破談になってはいけないと考えた母の策略かもしれない。双方の親兄弟だけの挙式で、私の姉夫婦が臨時の仲人役。私はかねがね式はホテルの作り物の神殿ではなく、本物の神社で挙げたいと思っていたので願ったりである。双方の親兄弟と私たちだけで、市内のホテルで昼食をとった。その後である。私は知り合いの結婚式によばれていたのだ。式を挙げたばかりの新妻を姉や母に託し、私は知り合いの披露宴に出席した。家内はその後母や姉と婚礼布団を買いに行き、両親が他に家を建て、私一人が住んでいた戦後まもなく建てたバラックのような家で私の帰りを待っていた。昼には晴れていた空も夕方からはみぞれになり、私が帰った夜には雪に変わっていた。1日に二つの結婚式に出たという話は聞くが、そのうちの一つが自分のなんて言うのははじめて。この時期になると必ず言われる言葉だ。
2004.02.26
大学入試が終わりあとは発表待ちの長女と、家内で久しぶりに買い物に出かけた。まずは横浜駅東口の崎陽軒本店で昼食をとる。アボガド、オレンジ、らっきょうを使った酢豚が面白い。ウエイトレスが皿を下げる時、テーブルの一番遠い所から身を乗り出すように皿をつかんでいったが、あれはいけない、とすぐ家内と娘の餌食になった。自分で飲食店を経営する夢を持っている家内は、結構厳しい見方をする。そごうに向かう途中、ポルタでコートや靴を試着する娘は、私が飽きていないか盛んに気にする。昔から一緒に買い物に出かけると早く決めろとか、もう帰ろうと言い出す私に気が気でないらしい。私は気が小さいのか、試着したら責任とって結婚、でなかった、必ず買わなければ悪いと思ってしまう方なので、次々試着して、ではまたと言える家内や娘がうらやましい。結局そごうで靴を買ったようだ。私は二人が靴を選んでいる間、売り場の側の椅子で娘に言わせると「爆睡」していたので何も分からない。他にもいろいろウィンドショッピングしたが、私がおとなしくて機嫌がいいので娘も嬉しいらしい。陽気が暖かくて、女性が薄着になっていたので飽きなかったのだが、こんな事娘には言えない。夕方来客があるので、地下でお弁当を買って早々に帰ってきたが、娘が妹に「今日はお父さんとってもお供上手になっていたよ。」と報告していた。「へぇ~珍しいね」と次女も驚いている。いったいどんな父親だったのか。
2004.02.25
もうすぐ結婚20周年だ。記念に箱根か伊豆あたりで一泊しようかと検討していたが、決まらない。時々宮ノ下の富士屋ホテルにお昼を食べにいったり、乙女峠に富士山を見に行ったりしているので、わざわざ一泊しなくても良いという事になってしまう。もう少し遠くではとも思うが、移動時間がもったいない。無芸大食の我々夫婦は、物見遊山や温泉が楽しみではなく食べる事のみが目的だとやっと気がついて、ではどこにと言う事になった。「ごちバトル」で見たり、知り合いの話で興味があった「うかい亭」に行く事にした。小田急の中央林間が最寄り駅らしいのだが、横浜から相鉄で大和まで行きそこからタクシーを使った。住宅街の中の大きな木々に囲まれた屋敷風の建物は、金沢に建てられたオランダ商人の屋敷を移築した物だという。2階のカウンターの席に案内された。時間が少し早かったので円形に20席程あるカウンター席が貸し切り状態だ。一応少しおしゃれしていった私たちを見てコックさんが今日は何か特別な日ですかと尋ねるので、実は結婚20周年でと答えた。生ビールで乾杯し、私は牛のカルパッチョ、家内は鯛の前菜をいただく。魚介類はアワビの塩竃焼きに何とかというキノコを使ったバターソースをたっぷり合わせた物、これが実においしかった。青森の三戸で採れたアワビをやはりそこで採れた昆布でくるんで、たっぷりの塩を載せた上にワインをふり、蒸し焼きする。身が固くならず、ソースもよくあっている。ソースを最後まで食べられるようパンを一片添えてくれるのだが、お皿をなめるようにパンで隈無くぬぐってしまった。肉は但馬牛の霜降り肉。まずはニンニクを油で揚げていくのだが、焦がさないようにニンニクをカリカリに仕上げるのが結構技術がいるらしい。焦げて苦みがついたらお終いなので、これが出来るまで徹底的に指導させられるとの事。霜降りの肉はミディアムかミディアムレアぐらいの焼き加減がお薦めというので、そうしてもらう。家で自分で調理する霜降り肉は油濃くって嫌だと思っていたが、肉と焼き方両方のせいだったと納得。塩の振り方が見事なので聞いてみたら、これも腱鞘炎になるくらい練習したのだという。黒い紙を敷き、端から端まで濃淡無く振るのは結構難しいんですとの事だ。伯方の塩のパウダーのように細かい粒子の塩を肉に平均にかかるよう振っていく。付け合わせに先ほどのニンニクとタマネギをスライスして絞った物などが付き、ソースも2種類ほど出たがほとんどそのまま肉だけを食べた。デザートは別室のデザートルームで。私はプリン、家内はイチゴを暖かいソースに絡め、アイスを添えた物を頼んだが、お皿の周りに家内のには「おめでとうございます」私のには「結婚20周年」とチョコで絞り書きしてある。そしてデジカメで記念写真を撮ってくれて帰りまでに用意してくれた。別のテーブルでお誕生日のお祝いで来ていた家族がいたが、ケーキを持ったウエイターやウエイトレスがハッピーバースデーを歌っていた。料理はもちろんだが、コックさんにいろいろ質問して料理の蘊蓄を聞いたり、建物や従業員の応対などすべての雰囲気を楽しんでもらう事に徹した店の方針が感じられ、また来たいと思ってしまう。自分の商売のあり方なども反省させられて、有意義な一日だった。
2004.02.24
私はどうもまじめな場面が苦手だ。家内が子供にお説教する場面も、内容がもっともらしいとつい茶々を入れたくなる。先日も家内が次女にお説教を始めた。いろいろ言いたい事も言えたみたいなので、そろそろ助け船を出してあげようと思った。家内「お母さん、そういうあなたの態度がとっても不愉快よ。」私 「お父さんなんか、不愉快を通り越して、もう春かいって感じだ。」落語で憶えたとっておきのネタを出したつもりだ。でも気まずい沈黙。「お父さんって何というか・・・・・本当に場の空気が読めない人だね。」助けたつもりの娘にまでこんな事を言われてしまった。しかもやり場を失った家内の怒りが今度は私の方に来た。雉も鳴かずば打たれまいこんな諺をしょっちゅう人には言っているのに。
2004.02.23
中学時代天体望遠鏡がほしくてお小遣いを貯めていた。高校に受かったら貯まったお小遣いと同額を親が出してくれると言う事だったので必死に貯めた。家が朝の早い商売をしていたので学校に行く前1時間ぐらいアルバイトが出来たし、夏休みも店の手伝いをさせてもらえたので貯めやすい環境ではあった。誠文堂新光社の「子供の科学」を良く買っていたのだが、田村栄という写真家の記事を読んでいるうちに、カメラが欲しくなって来た。田村栄の「昆虫の生態」「自然の片隅で」「日本の野鳥」「多摩川の鳥」などの写真集を学校の図書館で見るうちにいつしか興味は接写で昆虫や野草を写す事に変わっていた。野鳥も写したかったが300ミリの望遠レンズなどとても手の出る金額ではない。高校に受かり念願のカメラ「ペンタックスSP」を買った。マクロレンズは手が出なかったので蛇腹と写真引き伸ばし器のレンズを中古で買い、ストロボは新品を手に入れた。まだ当時は家の近くまで山がせっまており、カブトムシやクワガタも夜の部屋に飛び込んでくる環境だったので、比較的育てやすい(食草が簡単に手に入る)蝶のキアゲハやキマダラヒカゲを育てて、幼虫や羽化の写真を撮った。被写体のバックには誠文堂新光社の「全天恒星図」の裏表紙を使い、バックが落ちないようにスライド映写機でそこを照らし、絞りを絞ってストロボを焚いたら結構いい写真が出来た。まだ当時、東京光学というカメラメーカーがあって、そこの主催の「トプコン接写コンテスト」に応募してみたらキアゲハの写真が特賞、キマダラヒカゲのが佳作に入った事がある。ついつい自慢をしたくて話がそれたが、キアゲハの終齢幼虫は太い青虫でかなりグロテスクだ。だが卵から育てると可愛くてしょうがないのだ。写真を写した時以外蝶を育てた事はないのだが、ベランダの鉢植えの山椒によくキアゲハが卵を産んだ。小さな山椒の木などすぐ食べ尽くされてしまうのだが、そうするとわざわざパセリを買ってきて与えたりするので家族に呆れられている。そうして終齢幼虫まで育つと、指に青虫を乗せて「ほら、手のり青虫」なんてやるものだから、虫嫌いの家内や長女には大いに嫌われたものだった
2004.02.22
先日、日本野鳥の会のホームページを見ていたら懐かしい先輩の名前を見つけた。リンクのページに先輩の名前があった。背が高くて色白、眉目秀麗な近づきがたい雰囲気を持った先輩は、しかし口を開くと駄洒落と冗談のオンパレードだった。渡りの季節の山中湖や軽井沢、夜明け前の午前3時頃から鳥が鳴き始める。初心者の私には何がなんだか分からない鳥のさえずりの大合唱、その中で「ビンズイ、キビタキ、今のはコサメビタキ、遠くでオオルリ、あつ近くにコルリが鳴いた。」なんて鳥の名前を挙げていく先輩に感動したものだ。次々とプロミナーの視野に鳥を捉え、見せてくれる先輩。あの鳥の見分け方は飛んだ時に初列風切羽の内側が白だ、なんて説明にそれってどこですか、と質問するのが精一杯だった。でも休憩になれば親爺ギャグの連発。何が哀しくてそこまで言うんですかと言う感じだった。ホームページを見ても相変わらずだなと思わず笑ってしまった。ところでバーダーという言葉があった。私は探鳥会に集まる女性をバーダーと言い、男性をジーダーと言うのかと思ったが、野鳥愛好家をどうもそう呼ぶらしい。若い頃鳥を見に連れて行っても全然興味を示さなかった家内が、先日行徳にはついてきた。オオタカがいたが、「オオタカが飛ぶと他の鳥が一斉に逃げるのね」なんてちゃんと観察している。今年は初夏になったらまた山中湖に行ってみるつもりだ。バーダーとジーダーで。
2004.02.21
家内が敬語は小さいうちから自然に使えるようにした方がいいと考えていたので、子供が赤ん坊の時から私に敬語を使っていた。と言ってもお食事召し上がりますかとか、お父さんがおっしゃたでしょう位だが。ある時家内が長女を片手に抱いて片手で電車のつり革に掴まっていた時だから、まだ娘が3歳ぐらいの時だろう。娘が車内広告を見て、「あの方お父さんに似ていらっしゃる」と大きな声で言って周りの人達を唖然とさせた事があるそうだ。幼稚園のお遊戯会の時、家内を娘の母親と知らない隣の人が娘を指して「あの子本当にババくさいのよね」と言われたこともある。そんな育て方をしていたので、女性が使う「でっかい」という言葉に本当に違和感がある。子供達にも絶対に言わせなかったので、小学校の女教師が平気で使うのには親子で辟易している。今ではテレビで女子アナまでがバラエティー番組などで使っている。その娘が先日のサッカーの試合を見ながら「ったく、ざけんなよー。何やってんだよー」なんてやっている。でも電話に出た時はまあ合格点の応対をしている。いざというときに敬語が使えれば良しとしよう。
2004.02.20
昔、桂歌丸の枕話に次のようなのがあった。エー、私の落語はちょっと聞くとなんかつまらなそうだなと思うかもしれませんが、よーく聞いてみるとあァ本当につまらないんだ、という事がおわかりになると思います。これを家内との初デートの時に頂いた。ある書店でアルバイトしている姿に一目惚れして、人を介してお付き合いを申し込んだ。私は30間近だったが、彼女はまだ大学4年生。就職も決まっているという話にいい返事が来る事はほとんど諦めていた。だが一度あってもいいという返事。最初に何と切り出したらいいのか分からない。その時先の枕話がひらめいた。「私はつまらない人間なんです。ちょっと話すとなんかつまらない人だと思うかもしれませんが、よーく話すと、あっ、この人は本当につまらない人だと分かると思います」これを聞いた彼女が、こんな面白い人初めてと思ったと言うのだから人生何が幸いするか分からない。その時行った先が横浜馬車道近くの「たけうち」、しかも定休日。私の日記の最初につながります。
2004.02.19
1996年、カムチャッカ半島で亡くなった動物写真家星野道夫の本に、カール・ギブランの詩が引用されていた。あなたの子供は、あなたの子供ではない。彼らは、人生そのものの息子であり、娘である。彼らはあなたを通じてくるが、あなたからくるものではない。彼らはあなたとともにいるが、あなたに屈しない。あなたは彼らに、愛情を与えてもいいが、あなたの考えを与えてはいけない。何となれば、彼らは彼ら自身の考えを持っているからだ。あなたは彼らのからだを家に入れてもいいが、彼らの心をあなたの家に入れてはいけない。何故なら、彼らの心はあなたが訪ねてみることはできない。夢の中で訪ねてみることもできないあしたの家にすんでいるからだ。あなたは彼らのようになろうとしてもいいが、彼らはあなたのようにしようとしてはいけない。何故なら、人生はあともどりもしなければ、昨日とともにためらいもしないからだ。こんな詩のあとに何か書くというのも結構つらいな・・・子供の学校を私立にするか公立にするかで家内と話し合った時、子供に対する男親と女親の違いがよく分かったような気がする。家内は出来るだけ子供が挫折をしなくてもいい様に、自分が先回りして障害を取り除いてあげようと考えていたようだ。私は生きていく上で障害はつきものなので、壁に突き当たった時自分の力で乗り越えられるように助言してあげるのが親の役目だと考えていた。結局経済的理由で私立ではなく公立の学校に行かせざるを得なかったが、このとき家内と話し合ったことは良かった。成長の過程で、子供達は何度も泣くようなつらい目にあう場面があったが、家内はあなたがこの世界で一番可愛いと抱きしめてやり、私は少し突き放して、世間とは、生きていく事とはなどと教訓を垂れる役と分担しあってきた。今長女は大学受験の真っ最中、家内は受験が終わるまでとお酒を断っているが、私は逆にプレッシャーになってはいけないと、なるべく外で飲み歩くようにしている。それはちょっと違うよとみんなに言われながらも。
2004.02.18
私は一人で飲みに行くのが好きだ。気まぐれで気儘なので、思いついた時に出かけ空いていそうな店に入ってみる。そこで店主やカウンターに座った近くの方と、当たり障りのない話など始める。そんなことがきっかけで、思いも掛けぬ話に発展したりする。そういう楽しみは、カウンターだけとか、それ以外に小さいテーブルが少しあるような店でないと無理だ。それで野毛が好きになった。私のお気に入りのホームページ「居酒屋礼賛」に、まさにぴったりの文章が載った。多少長いがそのまま引用させて頂く。江戸文化研究家の杉浦日向子(すぎうら・ひなこ)さんが、「立ち飲み屋さんは、やはり地元の方のものです。地元のお父さんが寛ぐ場所ですので、よそ者が入る時には、その中にさりげなく混ぜていただくのだという気持ちが必要ですね。そしてひとりで行くべきです。仲間と一緒だと常連さんたちが作っている雰囲気を壊します」ということを書かれているのですが、私もその意見に大賛成です。立ち飲み屋に限らず、家族だけで切り盛りしているような大衆酒場風のお店のすべてに言えるのではないでしょうか。私自身、いろいろな場所に出かけていって、その地域に根付いた大衆酒場で飲むことが趣味なので、杉浦さんの言葉を胸にしまって、気をつけるようにしていきたいと思っています。以上http://hamada.air-nifty.com/raisan/2004/02/__18.html よりの引用である。地元のお父さんは野毛を愛する人とでも言い換えたらいいのだろうか。野毛を知らないお父さんたち、是非一度お越し下さい
2004.02.16
1853年に浦賀にペリーが来航し国書受け渡しのために上陸した際、アメリカの40人編成の軍楽隊が 「ヤンキードゥードゥル」を演奏した。これが日本人が最初に聴いた洋楽である。こんな事を調べてある冊子に書いたことがある。その時面白い話を見つけた。アメリカでは1861年に南北戦争が起こるが、北軍のシンボル行進曲がこの「ヤンキードゥードゥル」。南軍はディキシー音楽だったそうだ。戦後の横須賀旧EMクラブでは、ディキシーが流れると南軍の子孫が大喜びをし、北軍の子孫は激しいブーイング。必ず「ヤンキードゥードゥル」を演奏させ、挙げ句の果ては大げんかになったそうだ。南北戦争が終わって90年ほどたってもそんなことがあるのかと驚いたが、先日日本でも同じようなことがまだあると聞いた。ある地方都市で、開国150年を祝うパレードがあり、会津の白虎隊や、長州の奇兵隊も参加したが、会津の人達は決して長州の人に挨拶をしないそうだ。戊辰戦争が終わったのが1869年。大政奉還により一夜にして賊軍となってしまった会津藩、白虎隊の悲劇は決して忘れることが出来ないのだろう。函館で土方歳三が戦死した七日後に戊辰戦争は終結するが、NHKの大河ドラマ「新撰組」はこの戦いをどうえがくのか、今から楽しみだ。
2004.02.15
「祇園の教訓」という、評判の本を買ったことがある。でも何となく鼻持ちならない内容にすぐ嫌気がさしてしまい、読み続けられなかった。新聞の広告に、銀座のママが書いた同じような本があったなと思い、うろ覚えで本屋に行った。探してみたが、どうも『男が勘違いしている「女の口説き方」』(ますいさくら著)三笠書房、という本らしい。レジは3台あったが、すべて若い女の子ばかりだ。おじさんが買うにはかなり勇気のいる題名だ。しかも若い女の子ばかり・・・でもせっかく買いに来たのだからと意を決して買った。この度胸を誰かに褒めてほしいくらいだった。「あなた、よくこんな本買えたわね!」ちゃんと家内が褒めてくれた。同じ本屋で昔アルバイトをしていた家内に言わせると、いいおじさんが変な本を買うと、アルバイト仲間で話題にすることがあったそうだ。顔を覚えられていなければいいが・・・私と同じで、「祇園の教訓」をすぐに投げ出してしまった家内が、私より先に件の本を読み始めた。しかも大笑いしながら。その中に3Kがあった。銀座のママが選ぶ男の条件、高収入、高年齢、高血圧。どうやら銀座のママにはもてそうにない。
2004.02.14
京急日ノ出町駅とJR桜木町を結ぶ県道の中央あたり、宮川町3丁目交差点を福富町に向かってすぐ左の2階にある。今は金曜日を除く毎日ライブがあるようだ。店は6時からライブは7時からと書いてあるが、だいたい7時半から8時ぐらいに始まる。最初のステージが1時間ぐらい、30分の休憩をはさんで2回目のステージがある。ステージと言っても客席と同じ床の上なので、演奏者が床を踏むリズムがこちらの足に直接伝わってくる。私は一人でカウンターに座ることが多いが、カウンターに8席ぐらい、大きなてテーブルが5つ、いすは全部で40席以上はあろうか。ここのマスターはつねさん、本牧で店を始め、ここに移って10年ぐらいたつという。店の名前の「ドルフィー」はつねさんが好きなサックス奏者、エリック・ドルフィーから来ている。ドルフィンではないのでお間違いの無いように。このつねさんの人柄なのか、和気藹々とした雰囲気がある。ある時カウンターに座って、マスターのつねさんと隣の先客とワインのコルク抜きはどんなのがいいかなんて話していたが、その先客が立ち上がってベースの所に行き、おもむろに演奏が始まったりする。先日の森下滋と三四郎のデュオの時も最初と2回目の演奏の間の休憩に、二人が客席に座ってみんなと話している。ある時などお客同士が演奏中に喧嘩になり、あの時は中本マリさんだったか、喧嘩の仲裁をしながら歌うなんてハプニングもあった。飲兵衛ラリーの時のジョニー宜野湾のライブは異常に盛り上がったそうだ。先日ステージの前にその時のテープを聴かせてもらったが、あとから来たお客さんがフォークのライブの歓声に驚いていた。オタクが深刻な顔して集まっている場所などと思わず、気楽に寄ってほしい店である。店のホームページはhttp://member.nifty.ne.jp/dolphy/index.html ライブスケジュールはこちらで確認してほしい。
2004.02.13
知り合いにスワロフスキーの大ファンがいる。専用のケースを備え、コレクションを飾っているそうだ。彼女にプレゼントを買ったことがあるが、デパートでは包装紙がそのデパートの物になってしまうから買わないと聞いていたので、わざわざランドマークプラザの直営店に行かざるを得なかった。彼女はビーズで家内や子供の携帯ストラップを作ってプレゼントしてくれている。私の友人にスワロフスキーに勤めている男性がいるが、彼女がスワロフスキーの事をいろいろ聞きたいからと言うので、彼に会わせたことがあった。引田天功の飾りや、叶姉妹の携帯ストラップで人気が出たと思っていたが、スワロフスキーに勤める友人によれば、雅子様のブローチから人気が出たんだそうだ。その友人が男性なのにスワロフスキーの携帯ストラップを持っていた。ブラックダイアモンドというビーズをただ連ねているだけのシンプルな物だ。スワロフスキーなど男性には縁のない物だと思っていたのが、彼のストラップを見たとたん、私もほしくなってしまった。彼に言うと、同じようなのをもう一本持っているからと無期限で貸してくれた。持ち始めると何となく人に見せたいのである。女性がイヤリングだのブレスレッドだの指輪だの飾る気持ちが分かったような気がした。胸のポケットに携帯を入れストラップだけ外に出してみたが、家内がみっともないから辞めろとうるさい。仕方がないのでジャケットのポケットから外に出したり、ズボンのポケットから出してみたりもしたが、すぐ中に入ってしまい上手くいかない。結局セカンドバックの中に携帯を入れ、ストラップだけを出すことで落ち着いた。それでも光り物を見えるように持ち歩くのは、なれないせいか何となく照れくさいので、ついつい言い訳してしまう。「こんな物持たなくても、じきに頭が光り物なんだけどね」「そんなことないですよ~」という答えを期待してのことなのに、戸惑ったように視線をそらし、困ったような周りの反応に『桐一葉落ちて天下の秋を知る』という言葉が頭に浮んだっけ。
2004.02.12
先日横須賀の「ソルト・イン」でばったり同期生に出会ったことはこの日記に書いたが、その時設計士の彼が「今おれ、野毛で焼鳥屋を一軒やってんだよ。もうじき開店するぞ」と言っていた。彼に聞いていたおよその場所にあたりをつけて行ってみた。店の名前も聞いていなかったので、それとおぼしき新しい店に入って同期生の名前を言ってみた。「はい、バクさんには大変お世話になりました。今日予約されているバクさんのお友達ですか?」えっ!バクが来るの。30年で3回しか会っていないのに、一月で2回会う。これも野毛の巡り合わせか。ここが「鳥剛」だ。焼鳥屋では必ず食べるハツ、これが美味しかった。野毛でもグレープフルーツビールが飲めるように、説明をして是非メニューに加えてとお願いしておいた。暫くして二人連れが入ってきたが、この方達もバクの知り合いらしい。バクを肴に飲んでいると、すでに帰られた先客が、あとで「鳥剛」の向かいの店のママに届けてと30本ぐらいの注文をして出て行った。「向かいのママがいろんなお客さんを紹介して下さって、本当に有り難いんです。いまのお客さんもママの紹介です」向かいのお店、名前も聞かなかったが今度必ず寄ってみよう。その後バクが待ち合わせしていた二人が見えて、最後にバクが登場。相変わらずの調子だ。「何でおまえがここに居るんだ!」と叫んでいた。ここのウズラの卵も旨かった。まとめ買いがあったりで売り切れになってしまったが、バクが私に分けてくれた。ここの主人の剛さんもとても感じよく、何より敬語を丁寧に使う姿勢に感銘。是非頑張ってほしいものだ。「鳥剛」を出るとすぐ筋向かいが「波の上」我が師匠、ゴーヤ泡盛さんのフランチャイズではないか。時間がなかったので今日は通過。その後「ドルフィー」へ。カウンターで隣になった落語好きのお客さんや、マスターのつねさんと雑談していたら、あの綾戸智絵がブレイクする前に、よくここでライブをやっていたそうだ。ケイコ・リーもここの出演者だ。名の通ったミュージシャンも多く出演するが、若手でいいなと思わせる人も多い。今日の森下滋(ピアノ)、三四郎(サックス)のデュオもよかった。楽斗ばりのビジュアル系の滋のテクニックが凄い。「船の上のピアニスト」のピアノが煙を噴くシーンを思い出してしまった。綾戸智絵さんの専属のような状態の滋だそうだが、是非また聴きに来たい。三四郎のバラードも、本当に歌うように奏でる旋律に心が引き込まれる。隣のお客さんとマスターで今度はドルフィー寄席もいいね、なんて話したが、結構つねさんも乗り気。若手の古典落語もじっくり聞いてみたい。ドルフィーを出て、すぐ近くの「巳華」(みはな)に行った。メニューが皆200円。本当にいいのとママに聞いてしまった。素朴な感じのママが「何とかやっていけますから」大きな社員食堂の様なところで調理の仕事をしていたが、体をこわして辞め、ある時白い蛇の夢を見てここを始めたそうだ。そこで巳に華やかにの華で「巳華」が店の名前の由来だそうだ。たまたま「鳥剛」で、野毛飲兵衛ラリーの公式ガイドブックをもらって、その地図に載っているので「巳華」に来た。気がついてみれば、最近野毛飲兵衛ラリーの参加店ばかりに来ている。でもどの店でもラリーに参加してから、リピートのお客さんが増えたと言っていた。そして「波の上」のママの話が必ず出る。きっと人望のある人なんだな。
2004.02.10
私は優しい人、家内はきつい人と思われている。私は結構意地悪で、短気なところもあり、無愛想で、とっつきにくい所がある。家内はいつも笑顔で、朗らか、社交的で、誰とでもすぐに仲良くなる。でも私たちと付き合いのある人に言わせると、優しいご主人と、きつい奥さんだ。結婚してしばらくすると、お互いの文化の衝突が起きる。私の常識は家内の常識ではなく、家内が私に期待していた行動は、私には思いもつかないことだったりする。お互いに予想していたことなので、いたわりの気持ちで黙っていたり、我慢して黙っていたりで、それぞれの心の中で処理をする。男の頭の引出はよく言われるように、大きな引出ひとつなので、その一つひとつはなかなか思い出せない。でも女の頭には小さい引出がたくさんついていて、記憶の逐一を瞬時に取り出せる。何か些細なきっかけで爆発は起きる。夫婦喧嘩だ。家内があの時あなたはこう言ったとか、こうしてくれなかったとか、次々並べ立てる。私は自分の不満を何かひとつでも思い出して反論しようとするのだが、すぐには思い出せない。言葉が出てこない。まるで漫才の宮川大助、花子状態である。家内は私の退路をすべて絶って責め立てる。私はいつしか無言になって、ひたすら酒を飲み続ける。(こうなったら何を言っても無駄だ・・・・)こんな事を何度か繰り返しながらも夫婦を続けてきた。そして最近分かってきた。家内の基本は「許さない」で、私の基本は「許す」であることが。家内が対人関係で傷ついた時、あるいは子供がどうしても言うことを聞かない時、「許さない」と思う心が逆に自分を追い込んでいくことに気付かない。だから私は常に「許してあげなさい」と言い続ける。完全な人間なんて居ないし、誰だって自分がどうしようもない人間だって分かっていながら、嫌なこともしてしまうものだと、気がつくと完全に自分の言い訳になっている。私は今ここにこうしていられるのは、過去に起きたことがすべて今に生かされていると過去をすべて肯定してしまう。過去オール善である。家内も最近私の意見に同調することが多くなり、ずいぶん生きているのが楽になったわ、などと言ってくれる。でも時々どうしても言ってしまうのだ。やっぱりあの時のあなたは許せない。いい加減忘れろよ。
2004.02.09
今日の神奈川新聞に、みなとみらい線が開通してにぎわう中華街、閑散とする野毛地区という記事があった。でも野毛こそ未来を先取りした地域だと思う。野毛地区の再開発が、にぎわい座の入っているあのビルだけで済んで良かった。もし横浜市に十分にお金があって、昭和50年代にでも野毛全地区の再開発が実現していたら、と思うとぞっとする。今の町並みが残ったことは天佑と慶賀すべき事だろう。野毛にもうこれ以上ハードは必要ない。ハードに資金を必要としない恵まれた地域だ。必要なのはソフトだ。住む人、商売をする人、訪れる人の野毛に対するそれぞれの意見を集約し、共有出来るビジョンを提示する活動をオープンにし、積み重ねていく工程を話題性を集めながら見せる事が必要だ。ITを活用することも重要だろう。街づくりは住む人だけで完成するモノではない、訪れる人が楽しんで初めて完成する。通行客を相手にするのでなく、わざわざよそから来させる魅力とは何だろう。野毛が好きで野毛でいつまでも楽しみたい人が、自分が好きなことを楽しくやりながら、自然に輪が広がっていく。気が付いたら輪の中にいて、街に集う人が楽しんだ結果がそれぞれの社会的自己実現と結びつく。そんな参加型の街づくりが出来るのが野毛ではないかと考える。かごに乗る人担ぐ人そのまたわらじを作る人、である。行動するのが好きな人もいれば、評論家的に批判するのが好きな人もいる。でも目的が一緒なら、それぞれの立場を認め合い、おおらかに楽しむ大人の心が必要だ。以前中華街の林兼正理事長の話を聞く機会があったが、印象的だったのは、絶対に行政には頼らない街づくりを進めてきたという自信である。例に出していた話が山下町公園の公衆トイレの立て替え。詳しくは書かないが、自分たちの街づくりは、まず自分たちが金を出してはじめるという当然のことだが、誰もが忘れている基本を貫いている事が素晴らしい。行政が参加を求めてきたら、野毛好きの人のネットワーク作りの活動資金を補助してもらう。あるいは横浜の歴史散策コースは必ず午後5時に野毛で解散するとか、昭和の横浜を散策する夜の野毛コースを新設してもらうとか、最小限の費用で出来るようなことを頼んでみればいい。野毛に対する免罪符が安く手に入るのであれば中田市長も飛びつくのではないか。行政主体で屋上屋を重ねるがごとく各種委員会で議論を積み重ねていく街づくりとはおさらばして、ネットワークを広げながら、楽しんで作り上げる。そんな夢も時々語りながらまた飲みに行きたい。
2004.02.08
今は映画はほとんどロードショーだが、私が高校生の頃は二本立てや三本立てが普通だった。高校の帰りがけに良く映画館に寄ったが当時はまだベトナム戦争中で、横須賀の映画館は8割ぐらいがアメリカ兵というのが当たり前だった。アメリカの映画を上映している時は、字幕では全然笑えないシーンで彼らが結構笑うのだ。多分我々の3倍は笑っている。ずいぶん損している気分で面白くない。でもある日二本目の映画が始まった時、館内がいっせいにどよめいた。「オ~~ ノ~~!」フランス映画が始まったのだ。先日「ラスト・サムライ」を見た時に、昔のそんな情景を思い出してしまった。今度は9割は日本人だった。日本語のちょっとした台詞が可笑しいのに、アメリカ人が無反応という場面がいくつかあった。私の拙い英語力でもこの台詞にこの英訳ではニュアンスが伝わらないのではと思えるところもあった。「ラスト・サムライ」細かいことを気にしないで楽しむ映画だ。とくに遅ればせながら「壬生義士伝」を読み終えた直後だったので、武士が死んでまで守る義とは今の私にはあるのだろうかなどと考えてしまった。仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌久しぶりにこんな言葉が頭に浮かんだ。でもこの映画は日本人には出来ない映画だ。私の世代では明治天皇に英語をしゃべらせるなんて発想は出てこない。でも英語で話さなければ、「勝元はどの様に死んだのか」との天皇の問いにI will tell you how he lived. なんて日本人にも理解できる英語は生きてこないな・・・なんて思ってもみたり。
2004.02.07
先日横須賀の「ホームズ」に行ったとき、BGMにボビー・ソロの「ほほにかかる涙」がかかっていた。もう40年ぐらい前、16才のジリオラ・チンクエッティーが「夢見る想い」でサンレモ音楽祭で優勝したとき2位になった曲だ。そして私が初めて買ったレコードでもある。ここの所、ラーメン屋や居酒屋などでも60年代のジャズやポップスがBGMに使われていることが多い。CDを買いに行ってもVerveのクリード・テーラーによるCTIシリーズなどが並んでいる。本当にいいから使われているのだろうが、ひょっとして団塊の世代を囲い込むための戦略かななどと勘ぐってもしまう。テレビのCMでも宮崎駿の昭和30年代を描いたアニメが使われている。野毛の街を彷彿とさせるような情景である。あと数年もすると団塊の世代が定年退職をする。一概にシルバー世代などと言うが、この世代はシルバーと呼ぶには早いような気がする。なかにはそのまま濡れ落ち葉になる男性もいるだろうが、自分の趣味を持ち一人で時間を過ごすことの上手なナイスミドルになる人も多いだろう。何故と聞かれても具体的に答えられないが、ここの所私より少し年上で、普通のおじさん、おばさんなのだが、いい雰囲気がにじみ出ているような人を見ることが多くなったような気がする。若い時は苦しかったが高度成長期の恩恵をすべて手にして退職していった世代とは違い、若い時はよかったが、定年近くになっていきなり嵐に遭遇し、自分の人生を何度も見つめ直しながら定年を迎える世代。この世代の潜在的なエネルギーが昭和レトロブームの背景にあるのではと思った次第。蛇足ながら、こんな世代が引き寄せられるのが野毛。もうすぐ時代が追いついてくる。
2004.02.06
先日父が食事に来て、娘達に昔の横浜の思い出話をしていた。関所の内側だから「関内」で外の伊勢佐木町は関外、などの話を娘達も楽しそうに聞いていた。昨日それを思い出して関内から家内と待ち合わせている元町まで歩いてみた。関内駅から常盤町に向かい、新井清太郎商店から横浜公園の角を曲がりYMCAを通り過ぎて中華街へと進むコースだ。関東大震災で父の実家が潰れてしまった時、新井さんには大変世話になったと父が親から聞かされていた新井清太郎商店の新井ビルに、前日行った野毛の「鳥良」の看板があった。野毛のお店もかんばっているなと、少し嬉しくなる。ここいら辺に家があったんだ、と言われていたYMCA辺りを過ぎて横浜公園の周りを歩いた。父の出た横浜小学校は確かこの公園の中にあって、ここがお父さんが通った学校だよと言われた時はまだ校舎が残っていたような記憶がある。昭和23年頃廃校になったそうだが、いつ頃校舎を取り壊したのだろうか。先日その横浜小学校の全卒業生が集まる会があったそうだ。80歳を過ぎてもデジカメを駆使する父が10年先輩と10年後輩を集めて写した写真を見た。呼びかけても集まってくるのは女性ばかりだったそうで、10年先輩が4名ほどいたが、とても90歳を過ぎているとは思えない、きれいで若々しい姿に驚いた。10年後輩はたくさん写っていたが、この方達あたりが最後の卒業生なのかもしれない。中華街では(父はいまだに南京町というのだが)「徳記」を覗いてみた。父の同級生に「徳記」の地主さんがいるそうで、その友人と「徳記」にいっても特別扱されず、混んでる時は「ハイ!後ろに並んで」とやられるので大好きなんだと父がよく言っていた。昔二階の狭い部屋でコース料理を食べたことがあるが、ここの奥さんが「はい、ちょっと電気つけるよ」と言って円卓の上に乗って蛍光灯のひもを引っ張ったのには唖然とはしたが、不愉快ではなく愉快に思えたくらいだった。関帝廟のそばの路地の奥に、昔ながらの佇まいに一安心した。一時マスコミで豚足ラーメンなるものが取り上げられていつも長蛇の列、すっかりご無沙汰だった。今日は全然並んでないと喜んだら何とお休み。そこで父に良く連れていってもらった「鴻昌」へ。これも父の話だが、むかし「鴻昌」ではお客がマッチをくれというと、勘定場に居る太ったおばさんが「はい、ここ」と指を指す。そこにはパイプ印の徳用マッチがおいてあってお客はわざわざそこまでたばこの火をつけに行ったそうだ。その「鴻昌」で子供の時に食べた玉子スープ、本当に美味しかったのだろう。それから何度も母に同じようなものを作ってもらった記憶がある。でも中華街は凄い人出だった。平日に行くことが多いが多分休日並みの人出だろう。その後行った元町のお店で話を聞いたら、やはりみなとみらい線が開通してから毎日休日並みのお客さんの数だと言っていた。中華街も元町も圧倒的に中年過ぎが多かった。この人達がくつろげるのは野毛のような街並みではないのかと考えてしまった。昨日「鳥良」に居たお客さんが、馬車道駅から野毛まで弁天橋方面の出口を使えばすぐですよ、と言っていたのを思い出す。元町で、家内が今日はなんか安いみたいと店員さんに言ったら、みなとみらい線の開通を記念して、いつも2月下旬から始める「チャーミーセール」で出す値段を付けていますと答えていた。中華街でも関帝廟の周りで何か催しがあったようだ。野毛でもみなとみらい線開通記念飲ん兵衛ラリーでもやればいいのになんて、外野の気楽さで考えてしまった。家内が車で来てしまったので元町中華街駅の様子は見られなかっが、元町の駐車場の前にあるウチキパンの棚が4時には空っぽになっていた。多分予想を超える客数だったのだろう。野毛も千載一遇のチャンスと捉え、みなとみらい線を利用する客を呼び込めばいいのになどと考えてしまった一日だった。
2004.02.05
昨日はみなとみらい線に初乗りして、野毛に行ってきた。東横線が地下に入るところから見たくて、まず各停で東白楽へ。横浜から先頭車両の運転席の後ろに陣取って電車でゴー状態。3枚の窓のうち右の端しかブラインドが開いていなかったが、上りではこの席を独占できた。、なのに下りでは激しいポジション争い。東白楽に入ってきた電車の運転席の後ろのブラインドが全開だったので油断したのがいけなかった。運転手がいきなり右端を除く2枚のブラインドを上げたので、8人ほどが一斉に右端に移動し私は取り残されてしまった。地下では後ろが明るいと運転しにくいのだろう。上りも下りも多分最後尾、車掌室前で振り返る方が良かったかもしれない。伊勢佐木町で用事を済ませ、まず野毛の「鳥良」へ 。以前からみそかつをどうしても食べてみたかったしお腹も空いていたので鳥のみそかつを頼んだが、想像よりも甘かった。カウンターの隣の席のお客さんが「マスター、反町からみなとみらい線で来たけど、馬車道駅の野毛弁天橋方面という出口から出ると野毛はすぐですよ」そのお客さんも食べていた手羽先の唐揚げやメニューにあった鳥の天ぷらなども食べてみたかったが、団体客が入ってきたのでその店を後に。飲ん兵衛ラリーの参加店で気になっていた店があった。「ホッピー仙人」だ。都橋と宮川橋の間の長屋の様な飲食店街2階の中央あたりにある。そこのマスターは昼はサラリーマンをしていて、6時ぐらいから10時までの営業とのこと。ホッピーと焼酎の割合、温度、使うジョッキなどにこだわっていて、おいしいホッピーが飲めた。食べられないけどもう少し飲みたいという時などぴったりのお店だと思う。帰ろうとした時に入ってきたお客さんをマスターが紹介してくれた。「この人うちの記録保持者なんですよ、何杯飲んだと思います?」答えは12杯。それじゃー二日酔いどころか三日酔いでしょう。と聞いたら「もう一日ぐらい・・・」とのお答え。まだ若い方からといっって暴飲はいけない。そのマスターに飲ん兵衛ラリーの様子を聞いてみたら80人お客さんが見えたとか。「分かると思いますが、この規模で80人というのは凄いことですよ。」今までネットで検索しても一つしかヒットしなかったのが今は8つ位ヒットしますとのことだった。「ドルフィー」でも朝5時まで入れ替わり立ち替わり、初めて来たというお客さんで、大変な来客数でしたと「せいさん」の話。私は参加できませんでしたが、飲ん兵衛ラリーを企画運営された方々、本当によいことをしてくれました。有難うございます。
2004.02.04
京急汐入駅近く、横須賀芸術劇場裏から京急の線路をくぐってすぐの所に、赤いネオンが目印の「ソルト・イン」がある。横須賀にいるのに、ゴーヤ泡盛さんの日記を見るまで知らなかった。先日家内と「厨」で待ち合わせしたが満席だったので行ってみることにした。中にはいると知り合いの夫婦二組が一つのテーブルに。某国総理大臣の弟さん夫妻だ。カウンターに4~5席、テーブルが3つで4人掛け二つと6人掛けが一つだろうか。あいていたその隣のテーブルへ。ポテトのチーズ焼きやトッピングが自由に選べるピザなどを注文していると、隣のテーブルの奥さん達が、「スパーリングワインを飲みたいんだけど、二人じゃ無理だからご一緒にいかが 」名前は忘れたが、飲みやすくおいしかった。しばらくすると一人の男性が入ってきて、カウンターに腰掛けて「お酒」と言っている。メニューを見たが日本酒は載っていない。後で聞いたが仕方がないんで料理用の日本酒を出しているらしい。その彼の顔を見てびっくり、高校卒業後30数年間でほぼ10年おきに今回会うのが3回目の同期生だ。お互いに顔を見て「あ!おまえ誰だっけ」10年前も確か同じ事を言っていた。ようやく名前を想い出し合い、いろいろ話していたが彼はこの店の奥さんとずいぶん長い付き合いらしい。設計事務所をやっている彼は「この店は俺が作ったんだよ。だけどこのコルクは俺じゃない。やめろと言ったのにこんなの勝手に貼りやがって。」その壁中貼られたワインのコルクがかなりいい味を出している。「良かったですね~、言うこと聞かなくって。」初対面の私の友人の前で家内が奥さんに言った。かなり失礼だ。「あ!また無い。もう料理用のお酒まで飲むなと言うのは諦めたけど、無くなったら次のは必ず買っといてっていつも言っているじゃない。何度言えば分かるのよ!」こんな事を度々叫ぶ彼女には、料理用の酒まで飲む男は相当評価が低いようだ。その彼が「ここのピザは最高だぞ、特にトマト、オニオン、アンチョビがうまい。」と言った。残念、トマト、オニオン、ベーコンを頼んでしまっていた。陽気な彼は、私の前で「おまえの奥さん気に入った。携帯の番号教えて。」と家内の携帯番号を聞き出している。「ついでにおまえのも。」ついでかよ。仕方ないので彼の携帯番号もこちらに入れてあげた。妻の携帯番号を聞き出す男を前にこんなに寛大でいられるのは、妻に対する揺るぎない信頼と、脳天気な頭と、長年養った節穴の眼のおかげだ。2回目に行ったときも3人の知り合いにあった。何か「私達だけが知らなかった」気分。その時食べたローストビーフ、牡蛎とほうれん草のグラタンも旨かった。調理を担当するご主人の腕がいいのだろう、一人で作っているにも拘わらず、次々と料理が出てくるのも気持ちいい。もっと早くに知っておきたい店だった。
2004.02.03
小学校6年生の頃か、祭の宵宮の帰りに母が夜空を見上げて、北斗七星を教えてくれた。他にもたくさんの星が見える。家にあった科学画報というグラフ誌に星図が載っていたのを思い出し、二階の部屋から一階の屋根に出て本と星空とにらめっこ。これが星好きのきっかけだった。当時良く読んでいた誠文堂新光社の「子供の科学」の天文記事に夢中になり、宇宙に関する本を読みまくった。その頃出会ったのがポプラ社から出ていた、東京大学の小尾信弥先生が少年少女科学シリーズという子供向けに書いた本だ。「宇宙の神秘」だったか「星の誕生」と言った題名の本だった。その本に書かれていた、星の誕生の話。水素原子が二つ結合してヘリウムに変わるる時、0.7パーセント質量が減少し、その質量の減少がエネルギーとなって放出される。核融合反応の初めである。そのわずか0.7パーセントの質量の減少が、この宇宙を生み、人類やこの世界のすべての生命を育み、さらに無限の膨張を続けることをこの本は教えてくれた。このとき感じた目の眩むような不思議さは今でも私の心に棲み付いて、ふと夜空を見上げた時などに突然私の心を支配する。無と無限の間。久遠と永遠の狭間。この空間に漂う弱い葦、しかし人間は考える葦である、故に人間は偉大だ。こんな哲学者の言葉に、何言っているんだ、ただの葦ではないか、たかが人間、何を偉そうに、と考えてしまう。宇宙から見たら超極微少な人類、宇宙の時間から見ればゼロに等しい人類の歴史。なのに何故生きて行かねばならないのか。でも刹那的に生きようとは思わなかった。こんな無に等しい自分でも、何かしらの意味があってこの世に存在しているのだろう。だったら生かされるままに生きてみよう。でもこんな瞬間でしかない自分の人生、下らぬ事に悩んだり、怒ったりするのは時間の無駄。そんなことには関わらないで、なるべく前向きに生きよう。何か悩み事があるとすぐ星を見上げる。そのうち星空が無くても心の星空で解消できるようになった。でもどんな風に生きればいいのだろうか。ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ 自然の前では為すすべもなく、あるがままに。ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ 人の前でも、あたかも風景に溶け込む自然のごとく。サウイフモノニ ワタシハナリタイ そういうモノになりたいと本当に願ったことがある。木偶の坊で、褒められないは実現済みだが苦にはされっぱなしだな。イカン、イカンマダマダダナ・・・・・
2004.02.02
京急横須賀中央駅前広場に面して大きな提灯を掲げている店、それが「源氏」である。この店とはかれこれ30年以上の付き合いである。カウンターだけで10人も入ればいっぱいのこの店は、お客さん同士が自然に会話してしまうような不思議な雰囲気がある。若い頃友達二人で入ったが、めいめい隣のお客と話してしまい、友達を忘れて帰りそうになったことがあるくらいだ。ある朝目が覚めて財布の中身を確認してみるとお金が全然減ってない。昨日金を払い忘れた。そう思って夕方「源氏」に払いに言ったら、「何だよ、全然覚えてねーのかよ。きのう隣の客が全部払ってくれたじゃねーか。ったく!しょうがねーな。」昔は学校の後輩なんて理由だけで、いろんな人にご馳走になってしまったものだ。ずいぶん乱暴な口を客にきくと思われるかもしれないが、ここのご主人は同級生のお兄さん。私にとっても兄貴のような存在である。私の好きなホームページ「居酒屋礼賛」に、にこやかなおかみさんとブスッとしたおやじさんと書いてあって、家内と「いえてる」と大笑いしたことがある。私がいつも頼むのは若鶏の塩焼き、時間がかかるのではじめに頼んでおいて刺身やおでんをもらう。メニューは30年以上前からいつも黒板に手書き、前に食べて美味しかったからと頼んでも、今日はいいのが無かったので置いてない、と自分で吟味したものしか出さない店だ。もうすぐ娘がお酒を飲めるような年になる。真っ先に連れて行きたいお店だ。
2004.02.01
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