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日の丸の古い扇(平家対源氏の屋島の合戦)は赤地に金丸だったものの、その後、黄金色の地に赤丸(戦国大名)も使用された。タイの王室に仕えた武士、山田長政は、金色の旗に赤丸を描いた。琉球国の船は黄色地に赤丸の旗を使用して東シナ海を渡り中国との交易を行っていた。江戸時代の本土では、徳川将軍家の公用の旗として白地の日の丸が定着し、扇でも白地に赤丸が一般化したが、そのように移り変わる間、金色の扇が主流を占めていた。金地または黄色の地は、太陽が燦々と放つ光を素直に表現したのであろう。白地は、空が火山の噴煙に塗りつぶされていたころの特異な記憶から来たのかも知れない。----------------------------------------------------------------毛利元就の軍扇の片面。軍扇の反面は夜を表す月などの意匠である。 -----------------------------------------------タイ・アユタヤで行進する山田長政の部隊。「赤丸を描いた金色の旗」を掲げていた。 ------------------------------------------------那覇港を行き交う琉球国の進貢船。さまざまな旗が翻っているが、船の前後に天体を表す「黒地に白い七つ星の旗」と「黄色地に赤丸の旗」の二流(二枚)が掲げられている。
2013/09/30
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日露戦争時、大本営は広島に置かれ、明治天皇は東京を離れた。海戦では偶然の勝利を手にしたが、陸上の戦況は互角。ロシア国内ではナロードニキの内乱に陥り、日本有利の終結に到ったことから、「戦勝」と受け止められた。天皇が東京に戻ると、財界からの拠出金で日比谷に仮設した凱旋門が待っていた。このとき、モノクロ写真を手作業で丹念に彩色したものが商品化された。門には軍旗と国旗が掲げられている。(この掲載写真は色彩を見分けやすくするために実物よりも明るさを高めてある。集まった観衆は洋傘を差しており、雨模様である。)右下の縞模様の幕に注目。紅白ではなく黒白の幕である。官民を挙げての祝賀行事であるが、この当時、紅白の配色を使用するという習慣は無かった。
2013/09/26
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金徳振は統一教会の「復帰の楽園」という聖歌を聞いて、文師に問い質した。「世界を統一する生き神様というのに、われわれ朝鮮人の仇である日本の国の、しかも最も軍国主義を代表する"軍艦マーチ"で自作の讃美歌を歌うとは何ごとですか?こんな愚かなことがどこにあるのですか?なぜあなたが再臨メシアなのですか?」 ・・・・・ 金徳振の証言『六マリアの悲劇』262頁金徳振は民族名をいうとき、ハン民族またはハングク(韓国)サラムとはいわず、チョソンサラムと言うようだ。それはともかく、軍艦マーチを指して「軍国主義を最も代表する」と評している。当時の日本は枢軸国の一員として太平洋からインド洋に跨る地域の平和を築こうとしていた。日本を中心とする国際秩序を平和と称したが、制圧と言い換えても良いだろう。ひらたく言えば、軍国主義者たちは他の枢軸国と協力して世界征服を指向していたのだ。 1938年の絵はがき「仲よし三国」 wikipediaよりドイツ・ナチ党は党旗を正式の新国旗とし、イタリア・ファッショ党は軍旗を正式な国旗の代用とした。日本ではご覧の通り。海軍は軍艦旗を翻して太平洋に展開し、南はインドネシア(蘭印)を越え、爆撃の火炎は豪州ダーウィン港にまで達した。帝国臣民だった半島人の一部(独立運動家を除く全部)は、善戦する帝国陸海軍に喝采を送り一体感をもって興奮に酔っていたことだろう。それは今でいう親日派だ。文師は戦時下の錬成富士登山にも参加しているという。特高資料では協力者の特徴と見られる匿名(江本姓のみで龍明の名を伏せている)で登場する。統一教会の旗を見ると、中心部に正方形の旭日旗が据えられている。これを雄雌2本の帯が周囲を取り巻いている図柄である。韓国中心の教理と天皇が率いる軍隊とは一見矛盾するかもしれない。しかし、勝利の果てに 世界征服というべきか 世界平和を樹立するという団体として、八紘一宇の幻想を振りまいた昭和ファシズム・軍国主義の象徴となったものを継承することに違和感は無いだろう。 『・・・・ ですから一つの国家を中心に見る時にも、エバ国家である日本に韓国が支配されてばかりいたら滅んでしまいます。主管を受けた後には、どうしなければなりませんか? 韓国が支配された立場で、反対に日本を支配するところまでいかなければなりません。』(哀れな復帰の役軍たち 1969年6月8日 前本部教会)『アジアの平和郷を求める神の摂理観からみて、韓日一体化時代に入りました。昔は韓国が東方遥拝をした。しかし今はあなた達は父母様のいらっしゃる韓国に対して西方遥拝をしなければならない。日本人に対して気持ち悪いことを言うけれど、蕩減復帰の立場から、一八〇度反対の道を行かなければならない。』(日本食口の特別集会でのみ言葉 1992年4月11日 ソウル・リトルエンジェルス芸術会館)饒舌な韓国人メシヤを中心に据えるか、寡黙な日本人君主を据えるかの違いに過ぎない。旭日旗の元になった日足紋は車輪紋からの派生とされ、鉤十字もアーリア文明を象徴する車輪の意匠というから、あながち無縁でもなかろうし、なによりも、平然と犠牲を強いるファナティックな全体主義という点で、大差が無い。
2013/09/06
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「原理講論 第六章 第三節 イエスはどこに再臨されるか」 より抜粋 「西暦一九一〇年、日本が強制的に韓国を合併した後には、韓国民族の自由を完全に剥奪し、数多くの愛国者を投獄、虐殺し、甚だしくは、皇宮に侵入して王妃を虐殺するなど、残虐無道な行為をほしいままにし、一九一九年三月一日韓国独立運動のときには、全国至る所で多数の良民を殺戮した。」「さらに、一九二三年に発生した日本の関東大震災のときには、根も葉もない謀略をもって東京に居住していた無辜の韓国人たちを数知れず虐殺したのであった。」「一方、数多くの韓国人たちは日本の圧政に耐えることができず、肥沃な故国の山河を日本人に明け渡し、自由を求めて荒漠たる満州の広野に移民し、臥薪嘗胆の試練を経て、祖国の解放に尽力したのであった。日本軍は、このような韓国民族の多くの村落を探索しては、老人から幼児に至るまで全住民を一つの建物の中に監禁して放火し、皆殺しにした。日本はこのような圧政を帝国が滅亡する日まで続けたのであった。このように、三・一独立運動で、あるいは満州広野で倒れた民衆は主としてキリスト教信徒たちであったのであり、さらに帝国末期にはキリスト教信徒に神社参拝を強要し、これに応じない数多くの信徒を投獄、または虐殺した。それだけではなく、八・一五解放直前の日本帝国主義の韓国キリスト教弾圧政策は、実に極悪非道なものであった。」http://www5d.biglobe.ne.jp/DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm 「根も葉もない」「謀略」「数知れず」とは誇張です。実際は、「無辜」ではない何らかの犯罪者も含まれるのでしょう。犠牲者の数は内務省が把握して発表していますが、吉野作造教授の調査で2711人です。官憲が煽ったというのは、冤罪でしょう。巻き込まれたのです。この機に乗じてアナーキストを「始末」するという謀略は別途あったようですが。暴走した一部の自警団は、無思慮な庶民であり、「怪しい奴」は全て不逞鮮人(韓国独立運動系テロリストまたは犯罪集団) として拘束し、尋問しながら殺害しましたが、これは流言蜚語に踊ったものであり、警視庁は沈静化に躍起になりました。9月2日の未明には、火災を免れた東京郊外のとある駅前にも流言蜚語を言い触らすために歩き回る男が目撃されました。町内共同の井戸を覗き込み、あっ、やられた! ここも毒を入れられたっ! 朝鮮人にやられた・・・と騒ぐのですが、1日の地震直後からこの井戸の傍を離れず自宅から運び出した荷物を見張っていた幼い少年(大正6年1月生まれ)は、見え透いた嘘に耳を疑いました。大人たちはその男を嘲り、追い払いました。ここではバレバレの嘘でしたが、多少なりとも状況証拠があった町では本気で朝鮮人狩りを始めたのでしょう。発音が下手な人などは真正土着の日本人も「在日認定」され、恐怖を味わいながら殺されました。その数、日本人59人、中国人3人と内務省は公表しました。簡単にジェノサイドの犠牲になる弱い立場にあった民族である、という認識は正しく、その点はかつてのイスラエル民族または欧州のユダヤ人と共通します。しかし、子孫にタカって高額な見返りを求める教祖は、回心したへブル人のクリステアンとは大違いですね。約束の地で土地簒奪に明け暮れ、流血を繰り返すシオニストのようなものでしょうか。
2013/09/05
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日の丸の幟は、室町時代前夜、南朝で登場し、江戸時代には徳川幕府の公用船に掲げられた。同時に、民衆の素朴な『太陽信仰』と響き合い、旗ではなく「めでたい」扇子の意匠として普及した。 日章旗は1859年の開国当時、船に掲げる国旗として採用された。もちろん、幕府は公武合体政策を貫いた時代であった。しかしながら、「都の天子様」の存在はまったく意識に無かった人々にも、縁起が良いものと感じられただろう。 (いうまでもないが、記紀神話は『太陽信仰』に属する王朝由来譚である。) 旭日旗は多数の光線を放つ意匠で、商船などが掲げる国旗との区別を際立たせている。1870年の太政官布告では光線を16本とする「陸軍御国旗」に統一された。1889年には、陸軍の旭日旗の「日の丸」部分の位置をやや旗竿に寄せて「軍艦旗」が制定された。 如月氏は、国旗というものはたいていの場合、国としての理念や歴史をデザイン化したものだ、革命や独立など、苦難に満ち、犠牲者の血で彩られた歴史を反映している場合も珍しくない、と言われるがその通りであろう。 旭日旗は、戊辰戦争という『王政復古』の内戦に始まり、実質的な革命軍旗である。しかし、旧幕府軍が掲げていた旧体制の国旗・日の丸は、この旗に取って変わられることにはならなかった。その理由は何か。 多くの日本人が好きなデザインだったことに帰するのは、暢気に過ぎよう。むしろ、良識ある日本人であれば、敗者を蔑(ないがしろ)にしない懐の深さに改めて着目して頂きたい。 日の丸の意匠は江戸時代には船印になるとともに、民間では祝い事 (非日常の祝祭)に日の丸の扇子 (縁起物) として用いられていたことは知られている。加えて、光線を伴う赤い半円形の朝日が絵に描かれることがあり、中には、福の神の参詣土産(縁起物)になることもあった。 しかしながら、戊辰戦争からの旭日旗の意匠は、中央から放たれた光線が円形には納まらず、旗の四隅まで埋め尽くし、また、日輪が地平線の上方向に顔を出すのではなく上下対称に展開していて、江戸時代から伝わる縁起物とは明確に異なる斬新な創作物である。 過去の軍旗・軍艦旗であり今も自衛艦旗である旭日旗は、街頭で行われる軍の祝賀行事には登場するが、どこかの寺社の参詣土産、「日の丸の扇子」、「正月の掛軸」などとは異なり、縁起の良い品物またはおめでたい意匠としてきた伝統は無い。 勝利を祈願する縁起物だからという理由付けで、サッカーの試合で応援席に持ち込みたいという主張は、日本の伝統文化を理解していない。準国旗だと主張する向きもあるが、国内の統一を乱す愚行である。 自らの国旗の歴史を忘れた国民に未来は無い。
2013/09/04
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サッカー日韓戦に旭日旗を持ち込んでもよいか否か、という議論について、韓国側はかなり苦戦しているようだ。そもそも偏狭なナショナリズムに染まっている韓国のスポーツ団体や報道機関には、そのような問題提起をする素養には欠けているかもしれない。サーチナの論説を担当している「如月隼人」氏の韓国への忠告は秀逸であり、wikipediaの典拠としても援用され、さらに尾鰭も付いて拡散している。 サーチナ 社会ニュース2013/04/16如月隼人・記『韓国世論「旭日旗とナチス党旗を同一視」の大いなる誤解』http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0416&f=national_0416_026.shtml しかし、ここで如月氏がいうように、日の丸が国旗になったのは、当時から日本人が「めでたい」と感じて愛好していた意匠の一つだったことにある、とするのは、歴史と伝統文化への深い理解に基づく正確なものだろうか、大いに危惧している。 問題の部分を下記に引用する。・・・・ヒトラーが政権を掌握した後の1935年、ナチス党旗は正式にドイツ国旗になった。■特定思想には無縁だった日章旗と旭日旗 一方、旭日旗は日章旗(日の丸)が土台になったデザインだ。「日の丸」そのものは平安時代末期から使われ、縁起物として江戸時代には普及していた。日章旗の起源は、世界的にも珍しくはない「太陽信仰」であり、民衆も愛好したデザインだった。人々は要するに「めでたい」と感じたから「日の丸」を好んだわけであり、「思想的背景」がとくにあったわけではない。 日章旗は1859年、徳川幕府によって日本の国旗として採用された。明治政府も国旗として用いることにした。国旗というものはたいていの場合、国としての理念や歴史をデザイン化したものだ。革命や独立など、苦難に満ち、犠牲者の血で彩られた歴史を反映している場合も珍しくない。 日章旗の場合、素朴な太陽信仰を起源に持ち、多くの日本人が「そのデザインが好きだった」ということで、最終的に国旗にもなった。誤解を恐れず言えば、"きわめてのん気"にできあがった国旗であり、そのデザインの背景は「争いごと」と無縁だった。 旭日旗は、中央に配した「日の丸」が16条の光線を放つ意匠だ。1870年の太政官布告第355号で、「陸軍御国旗」として正式に定められた。1889年には海軍用として、陸軍の軍旗の「日の丸」部分の位置をやや旗竿に寄せるデザインの「軍艦旗」が制定された。 旭日の意匠は軍旗として採用されるはるか以前から、「めでたさ」を強調するために、民間で祝い事などに用いられていた。 ・・・・・(引用終わり 傍線、太字は引用者による) 日の丸のはじまりは平安時代か?同氏は平安末期に日の丸が成立したといっている。しかし、平安時代、白地に赤い日の丸紋を船印にしたのは朝敵のアテルイで、公家や平家はむしろ赤地に金丸の意匠を好んでいた。鎌倉末期の後醍醐天皇からは、一転、朝廷の旗となった。建武の新政が混乱の中で潰え、京都の天皇(北朝)に叛旗を翻した後醍醐帝は、都の奪還を図る身となって初めて白地に赤い日の丸(日章旗)を採用した。 日の丸は江戸時代から縁起物か?同氏は、江戸時代には日の丸(日章旗) が 「縁起物http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%B8%81%E8%B5%B7%E7%89%A9/ 」 として普及したと流暢な日本語で弁じる。しかし、寺社で売られたり、お正月の門松 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%96%80%E6%9D%BE/ の類であったりした事実は無く、多少なりとも江戸時代に関心がある者から見れば、表現に不備がある。日の丸が正月に登場するのは、男の子向けの遊具である凧 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%AD%A3%E6%9C%88/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/81306024004638/ 、または、女の子向けの羽子板に「初日の出」が描かれるものの場合である。 他方、床の間を飾る正月の掛軸には、霞を通して透けて見えるかのような穏やかな赤い太陽の図 (伊藤若冲 旭日鳳凰図 http://izucul.cocolog-nifty.com/balance/images/2011/09/30/3122_2.jpg ) が好んで描かれることになった。初日の出は新年そのものであり、平和な一年を予兆するものとして、その情景を描いて期待と慶びを表現した。おせち料理として表面が薄紅色の板かまぼこ (朝日蒲鉾 http://dic.yahoo.co.jp/detail?p=%E3%81%82%E3%81%95%E3%81%B2%E3%81%8B%E3%81%BE%E3%81%BC%E3%81%93&stype=0&dtype=0 ) が伝承されているが、半円形の太陽を象った「日の出」の意匠である。そして、これらは、近代の旭日旗の意匠とはしっかり区別されるべきと考える。中心の赤い円から旗の縁まで埋め尽くす十六条の赤い旭光、という特徴は、まったく斬新であり、江戸時代までの幟や掛軸などの意匠からは完全に独立しているからである。このような近代の意匠について、未だ存在しなかった江戸時代に遡って「めでたさ」と関係があるという根拠は見出せない。 日章旗に思想的背景は無いのか?アメリカから軍事的脅迫を受け、亡国の淵に立った難局で、攘夷派にとっては、泣く泣く開国したまさに緊迫する情勢の下であり、平和裏の国旗制定とは言い難い。 江戸時代には幕府の船 (軍船など) が白地朱の丸の旗を掲げていた事実があり、開国に当たり日本の船に掲げるべき国旗に選んだのもこの船印である。極めて実務的な選択であろう。 どこの国旗でも同じだが、忌避される意匠では採用されない。実際に国民投票で国旗を選んだわけではないのだから、「めでたい」から、「好き」だから採用されたに過ぎない、という想像には付き合えない。意匠の「めでたさ」を積極的な理由として日章旗が国旗に選ばれたとする根拠はどこにも無いだろう。 その上で、水戸光圀以来の「大日本史」編纂に連なる学派からの思想的な影響があったのではないかと問いたい。 旭日旗は流血革命の歴史を背負っていないか?戊辰戦争は一種の革命戦争である。旧幕府軍は宥恕を求めながら日章旗を掲げて抵抗した。王政復古を唱える官軍はこれを凌駕する旗を創作する必要があった。中心の赤い円から旗の縁まで埋め尽くす十六条の赤い旭光、という特徴は、まったく斬新であり、江戸時代までの意匠からは完全に独立している。実際に昭和の戦時下を生きた世代の間では、八紘一宇の掛け声に踊らされた苦い思い出とともに前時代の遺物として旭日旗は記憶されることも事実であり、わが国の歴史として欠くことができない貴重な記憶である。 旭日旗は堂々と掲げるべきか?日足紋の幟はほんものの合戦の旗印であり、本来は武器に準じて慎重に扱うべきものである。どこの国の軍旗であっても国際交流を目的とする(戦争を煽る目的ではない)国際競技の場に持ち込むことに正当な理由は見出せない。よほど親密な国同士でなければ許されない非礼だろう。今後の競技の開催にも支障がある。もちろん、スポーツと戦争を混同すべきではなく、自衛艦旗をここで変更するのは竹島不法占拠問題を抱える韓国を増長させるだろうから不適当だ。
2013/09/02
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