2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全29件 (29件中 1-29件目)
1
不本意ながら...ってやつは誰にでも経験のあるところそれも人生気を取り直して、さあ次へIndianna Jones and the Raiders of the Lost Ark(1981)のラストシーンマリオンが不本意満面のインディに言う言葉がこれCome on! I'll buy you a drink.Harrison Ford演じるIndianna Jonesの相手Marion Ravenwood役は、Karen Allen。John Landisに見出されて、National Lampoon's Animal House(1978)が実質的なデビュー作。翌年Woody AllenのManhattanが出世作で、その次の年がこのRaiders of the Lost Ark。1951年生まれというから、このときちょうど30歳。Ridersは最も売れた娯楽作品のひとつだが、それでも埋もれずに彼女はこの映画でも高い評価を得ている。いい女に、「気分直して..一杯おごるよ」と言われりゃIndiannaならずとも、しょげた顔が、恥ずかしげな苦笑に、そして満面の笑みへと変わる。悪くなったことばかりではないけれど、年頭に考えていた通りにはコトは運ばない違う展開に進むものもともかく、一年の半分が終わる
June 30, 2007
コメント(0)
「なんか最近人と話すとき、その『そうですなぁ』ってのが多くない?なんとなく年寄り臭いんだけど」「でも君と話すときは使わないでしょ」「年配の方と話すから、相手の言いかたつられちゃうんじゃない?」「そうだね。女の人は使わない言葉だね。『そうですね』って言えば普通なのに、『そうですなぁ』って聞くと、『こいつ年寄り』って思う。何歳ぐらいから使い始めた?」「50過ぎたぐらいからかなぁ」「20代は使わないよね」「30代でも使わない。やっぱり50過ぎぐらいかな?」「ある程度の年になると、断定を避けてやわらかく表現する必要が出てくるんだな。生活の知恵だ」「何よそれ?」「組織の中で、決裁権はないけれど自分の意見をいわなきゃいけないケースってあるじゃん」「それで?」「そこで断定して、そうですって言い切っちゃうと、決裁権者と意見が違ったとき、気まずいでしょ」「だから?」「それで、そうですなぁ とふって、和らげておいて、決裁権者が同じ意見かどうか様子を見る」「或いは、自分が決定する立場でも、人の意見を聞きたいときに、自分の意見を曖昧にしておいて、ほかの連中が言いたいことを言える環境をつくっておくってぇのもあるかもね」「責任回避の そうですなぁ」「...」
June 28, 2007
コメント(0)
6月は3月決算各社の株主総会自分の勤める会社も3月決算のはしくれで、株主総会が開かれ、役員人事、組織人事の季節となる。何の因果か、新しい役回りを承り、会社から身を引かれることになった先輩から引継ぎを受けることになった。某商社財務経理部門のご出身。札幌支店を皮切りに、ウィーン、ニューデリーといった少々毛色の違う駐在地もご経験。自分とは、同じ出向先で財務と開発それぞれの責任者としてはじめてお会いした。その後、先輩の出向先が別の会社となったときにも、偶然に、赤坂見附の地下鉄ホームなどでお目にかかったこともある。それが再び、今度は別の会社で新旧業務の引継ぎとは、よほどご縁が深い。自分より10年ほど上の方だが、卒業後の行き先はとお尋ねしたところ、恥ずかしそうにお名刺をお出しになり、拝見すると慶應義塾大学文学部とある。もともと早稲田政経のご出身と記憶していたが、以前からのご希望もあり、いよいよ教職へと思ったら「いや学生なんだよ」とおっしゃる。既に昨年から、学士入学で勉強を始められ「経済も考えたんだが、はやりすたりで10年もすると経済はぜんぜん変わってしまう。いまどきケインズとか言っても、おっさん何言ってるんや?と馬鹿にされるのがオチ。普遍的なのは文学、特に社会心理学を勉強しようと、文学部へ入りました。学位記(卒業証書)は、通学課程と同様のものが授与されるんだが、単位不足でね」最長12年まで在学が認められ、卒業までの平均所用年数は8年。決して楽なものではないらしく「通学過程と同じ勉強をしていては通らないね」と気を引き締められる。かつて会社の同僚が同じ慶應で、経済学部(本人は工学部卒)の通信制を受講したが、「厳しい」とネを上げていたことを記憶する。「英語の授業など一部は、若い連中に混じって恥じ掻きながらやらなきゃいけない。でも僕より年長の方もいらっしゃるし、がんばらないとね」何をおっしゃる。鼻っ柱の強さで有名だった外人社長を向こうにまわし、毎週の役員会で、経済・為替について大いに議論を戦わせられていた10年前をこちとらよーく記憶している。商社の海外駐在が大学レベルの英語ごときにてこずるわけがない。受講者の8割近くが30歳以上、50歳以上も2割弱。不肖の後輩としては、諸先輩の努力に頭が下がる。学業に専念されるのかと思えば、決してそうではない。「東証の二部へ上場しようという会社が、僕みたいなのを欲しいといってくれているそうだ。商社の子会社からも2社ばかり、どうだと言ってくれるところがあるが、いづれにしても、もう忙しいのはいやだな」いえいえ、十分お忙しいのがお好きとお見受けします。
June 28, 2007
コメント(0)
「今日は小唄のお稽古で銀座へ行って参りました」「銀座はどこいらになるのでしょう?」「歌舞伎座の裏あたりですな」「ほお?」「お食事は?」「近くにシチューを出すお店が何軒かあるというので、今日はそちらに参りました」「いかがなもので」「和風にこなして、おいしいですね」「お客さまは?」「歌舞伎のあとでおば様たちがお遣いになられ、なかなかご繁盛のご様子」「それはそれは」「貴方もそろそろおはじめになったらいかがでしょう?」「小唄ですか?」「はい」「いやぁ。私たちの父親たちの年代はやったでしょうが、友人、年の近い諸先輩方はとんと聞きません。女性の場合は、三味線とご一緒でサマになりますが、私どもは、唄だけだと、どうも形になりそうもございません。ご一緒の方々には、若い方がいらっしゃるのですか?」「私たちは、同級生同士ですから、年齢は皆同じようなものでしょう。三味線は確かにその通りで、私たちの仲間にも三味線から入ったのが結構いっぱいおります」「三味線はちんとんしゃんですか?」「まさにその通りで、始まりはどの曲も同じように聞こえますが、そこから変化していきます。何かのルールがあるというものでもありませんので、これは頭から覚えていくしかない」「それは厳しい」「曲とか歌詞は、意外な方が作っていらっしゃって、なかなか面白いですよ」「歌詞がまた、素養が無いといけない。私たちのような戦後派では、素養がなくてこなしていけません」「いやいや、あなた方は音感がよろしいから大丈夫ですよ。それに、そういう意味では、私どもも戦後派です。戦前の人たちはもうちょっと意味合いが違ったようです。歌詞は、あまりそちらに気をとられてはいけませんけれども、艶っぽい。ですから自然に入って覚えられます。けいこは、一週間置きか二週間置き。間が一週間だと、前日は覚えなければならないのでたいへん」「お師匠さんはどんな方で」「渋谷で...あちらは小料理屋をやっておられるのかな?もとは新橋芸者のNo1だったと聞きます。一度仲間が店に連れて行けと言うので、案内したら、ちょうどその日が地域一番の親分の葬儀にあたってしまいまして」「あらあら」「今日はどうぞお引取り下さいと言われてしまった」「それは残念」「最初に言われてから連れて行くまで2-3年。そこで振られて、次に行くまでまた2-3年」***銀之塔銀座4-13-6 03-3541-639511:30~20:30無休ビーフシチュー(2300円)ビーフシチューとグラタンミニセット(3500円)エルベ銀座4-11-803-3541-205011:30~20:30(土~14:00)日祝休 ビーフ、タン、ミックス等6種類のシチュー各1800円
June 28, 2007
コメント(0)
明治39年11月中旬、徳富健次郎(蘆花)夫妻は、新天地を求め千歳村方面に赴いた。夫妻の歩いた、三軒茶屋、上町、経堂、青山街道(瀧坂道)関東大震災を端緒とする世田谷の都市化がはじまる直前の時代。このあたりの風景を、蘆花の「みみずのたはごと」から抜粋していく ***「青山高樹町の家(うち)をぶらりと出た彼等夫婦は、まだ工事中の玉川電鉄の線路を三軒茶屋まで歩いた。唯有(とあ)る饂飩屋(うどんや)に腰かけて、昼飯がわりに饂飩を食った。」玉川電鉄は、今の東急田園都市線。一部専用軌道もあるが、最初は中目黒から恵比寿を経て、並木橋、渋谷から、大橋、三軒茶屋、駒沢、用賀を経て二子玉川まで、のちに、中目黒から渋谷までを東京都に売却し、渋谷二子玉川間となった。まだ、下高井戸までの支線は、このとき工事は始まっていない(現世田谷線部分の開通は1925年(大正14年)。それにしても、青山高樹町から三軒茶屋まで、1時間ではきつかろう。そこからさらに千歳、東京中央農協までだと、さらに1時間以上。当時の流行作家夫妻は、よく歩いたのだ。***「松陰神社で旧知(きゅうち)の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷宿(しゅく)のはずれまで歩き、交番に聞いて、地蔵尊(じぞうそん)の道しるべから北へ里道に切れ込んだ。」今の世田谷通りは、上町駅の手前で左折していくが、当時は、桜小学校の西側まで行って、そこから左折していた。上町(世田谷宿)から粕谷方面に至るには1.六郷田無道上町から桜木中学校、桜ヶ丘中学校、千歳船橋を経て、塚戸十字路に至る。2.松原大山道=>瀧坂道上町から宮の坂を経て、瀧坂道に合流し、経堂、水道辻、明治大学グラウンド、千歳台交差点を経て、東京中央農協前に至るの2通りの経路が考えられた。六郷田無道が素直とも思ったが、地蔵尊(じぞうそん)の道しるべから北へ里道に切れ込んだのであるから、六郷田無道だと、北とは言いにくい。世田谷線西側の旧バス通りが、北へ里道に切れ込むという表現に嵌る。この道、松原大山道。宮の坂、豪徳寺、松原を経て甲州街道に至る。世田谷八幡脇の坂を世田谷線沿いにのぼり、突き当たりを踏み切りと反対方向へ曲がれば、これが旧瀧坂道。経堂本町通りの入り口。こちらの難点は、のちに蘆花が「みみずのたはごと」書中に何度か青山街道として瀧坂道の往来風景を書いていること。ただしご注意あれ明治39年のこのとき、蘆花はまだ蘆花公園に住んでいるわけでもなく、この徒歩旅行の目的地は「玉川近くの千歳村」だった最初からわかっていれば、青山から青山街道(淡島通り)を通る手があったはずで、どこだか分からないところを歩いた雰囲気を表わすために、敢えて、通った道がどこだったか、この部分だけ具体的に書くことを避けたのかもしれない。***「余程往って最早(もう)千歳村(ちとせむら)であろ、まだかまだかとしば/\会う人毎に聞いたが、中々村へは来なかった。妻は靴に足をくわれて歩行に難(なや)む。農家に入って草履を求めたが、無いと云う。漸(ようや)く小さな流れに出た。流れに沿(そ)うて、腰硝子の障子など立てた瀟洒(しょうしゃ)とした草葺(くさぶき)の小家がある。ドウダンが美しく紅葉して居る。此処(ここ)は最早千歳村で、彼風流な草葺は村役場の書記をして居る人の家であった。」この流れというのがどこであろう?六郷田無道ならば、千歳船橋駅前稲荷森神社あたり。瀧坂道ならば、千歳台交差点付近か?或いは、経堂小学校の手前「江下山ドブ」もあるか?***「彼様な家を、と彼等は思った。 会堂(かいどう)がありますか、耶蘇教信者がありますか、とある家(うち)に寄ってきいたら、洗濯して居たかみさんが隣のかみさんと顔見合わして、「粕谷だね」と云った。粕谷さんの宅は何方(どちら)と云うたら、かみさんはふッと噴(ふ)き出して、「粕谷た人の名でねェだよ、粕谷って処だよ」と笑って、粕谷の石山と云う人が耶蘇教信者だと教えてくれた。」「みみずのたはごと」のあとがき的な終章「読者へ」(四)にこの道を教えてくれた女性が、塚戸小学校第五代校長「長谷川儀三郎」氏夫人であったと蘆花は書いている。長谷川はこの時代に新潟から出て上野の音楽学校を出たとあるから、要するに芸大音楽学部出身。たいへんな人材を、この千歳村の小学校は校長先生に招聘していたわけだ。塚戸小学校の現校長を揶揄するわけでは決してないが、今で、考えられるだろうか?長谷川の居宅を調べれば、蘆花がどの道を通って、どこで道を尋ねたのかがはっきりする。
June 27, 2007
コメント(0)
新聞の朝刊に珍しい名前を集めていらっしゃる方のお話が出ていて、中に、月見里さんという苗字の読み方について書かれていた。月見が出来る里には山がないから「やまなし」さんと書かれていたのだが....朝刊を読んで、2-3時間後。定期健診に出かけた病院の血液採取の窓口で、「つきみざとさーん」と看護婦さんが呼んでいる「へへ、新聞読んでねえな」と密かに笑っていた。呼ばれて窓口へ行った紳士。本人確認のために「御名前を」と言われ「つきみざと」とお答えになった。その通り読む方もいらっしゃるのだ
June 27, 2007
コメント(0)
朝方、書斎代わりのコンピューターテーブルで、駄文を連ねていたところ、向かいのブロックの後ろのほうで突然ものすごい音がした。次にカランカランと金属片が転がる音。 すわ、これは自動車がどこかの家に突っ込んだか?と、ベランダに飛び出す。 さらに、ものすごいエンジン音と、タイヤのこすれる音が数度繰り返される。 なんかヤバイ系みたいだな。と勝手に判断。 何事かと、いったん外に飛び出しかげんのご近所さまも、おびえた様子で逆戻り。 しかし...そちらの方角から坂を降りてきた道行くおじさんは、特段のこともない感じ。 「?」 おそるおそるベランダの日よけの後ろから、覗き見る。 そのうち、すごい音をさせながら、大型ステーションワゴンが角のところに登場した。 どうしたことか、道の真ん中をゆっくり走って交差点の手前で止まる。 反対側から、白のレクサスがやってきて、道をふさぐ対向車に、やむなく交差点の反対側で止まる。 ステーションワゴンからおじさんが飛び出し、「すみませんシャフトが折れちゃったみたいで、迂回していただけませんか?」と丁寧な声。 角の家のおじさんが出てきて、ようやく車を脇に寄せて修理屋の到着を待つことになった。 疑問と不安は解消したが、シャフトが折れた? 等速ジョイントが折れることはあるらしいが、本当にシャフトが折れたのだと、その車危なくない?
June 24, 2007
コメント(0)

先日、久しぶりに祖師谷、上祖師谷、千歳台と屋根の上に見え隠れする梢を追って歩き、楽しく半日を過ごした。同じことを経堂でやってみる。まずは、駅南口。城南信金の裏手、裏通りに抜ける細い歩行者専用道路を抜けた緑地帯に、ヒマラヤ杉だろうか高い木が3-4本並んでいる。マンションに建て替えられた昔のお屋敷の名残か、ビルの中に埋もれてしまっているが、おどろくほど高い。福昌寺境内地。高木はことごとく、短く剪定(というか切られて)しまっていて痛々しい。何年に1回かは必要な作業なのだろうけれども、お寺の境内だけに殺生なという気持ちを禁じ得ない。これだけの駅のそばにお寺というのも珍しいけれど、鬱蒼たる杜からは遠い。お寺の裏手から、手入れの行き届いた濃い緑のお庭がならぶ街なみを抜けて烏山用水の緑道へ。用水のさらに南、桜、桜ヶ丘のご町内には、まだまだ木造平屋でお庭の広いお宅を何軒もみかけるけれど、経堂1丁目では、緑道しかまとまった緑を見るところはない。経堂5丁目方面に大きな緑が見えるのでそちらへ向かう。大榎を見ることが出来る長島大榎公園。もとは水源地だったであろう池もあるが、おそらくはこちらが経堂一の緑の集積だろう。大榎は落雷でなくなったが、隣地にはおおきなクヌギの木が見える。世田谷区第3代区長長島壮行氏がお屋敷の一部を寄贈されて出来たのがこの公園。公園の中のパネルに長島氏の業績が記載されているが、区画整理にご苦労のあったことが行間ににじみ出る。公園奥は長島氏私有地で保存地域になっていて(年8回ほど公開)ふだんは入れない。小田急線のガードをくぐり、天祖神社へ。こちらもこんもりした森で、烏山用水南岸の台地突端に作られている。1507年の創建と伝わる古いお社。昔は境内でよく子供達が遊んでいて、神社の周りには、もっと商店が並び、駄菓子屋などもあったと記憶する。近頃は、子供の数が少なくなったせいか、遊具も、境内も昔に比べ、手入れが行き届いていないように思えるが、思い過ごし?ふたたび烏山緑道を小田急線の線路のほうに戻り、石仏公園へ行ってみる。こちらは逆に昔に比べ、木が大きく育ち、今の経堂にあっては、大きな緑の集積になっている。石仏公園から住宅街の中を横切り、坂を登ると、そこは恵泉女学園の裏手。以前の恵泉女学園の学生寮がマンションに建て変わったのはもう20年も前のことだろう。そのときから道路が拡幅された反面桜並木は半減してしまったように感じる。角の小さなお社で手を合わせる。ここからすずらん通りまでの一画には昔とあまり風景が変わらないお屋敷の庭に高い木がならぶ。そのまま歩いて、一色さんの洋館をぐるりと一回り。恵泉学園の農園ができたこともあり、一時に比べ、鬱蒼とした感じではなくなった。昔は、緑青のふいたエキゾチックな銅葺屋根の洋館で、近寄り難い存在だったこのお屋敷。10数年前に世田谷の洋館という企画展が世田谷美術館で開催され、そのパンフレットの表紙がこちらのお屋敷だった。もう一回り、宮坂、桜、桜ヶ丘、船橋、桜上水、赤堤と巡れば、さらに緑を見ることもあるが、経堂と地名につく中での緑は、こんな程度になってしまっている。
June 24, 2007
コメント(0)
渋谷の温泉施設「松濤温泉シエスパ」付属施設の爆発事故を受け、東京都の石原都知事は20日、「新たな事件が起こればチェックする手を講じないといけない」と語り、現在法や都の要綱などで定めのない営業施設への安全規制を強化する考えを示唆した。ご存知ない向きへ。昔は、温泉と言えば自噴があたり前だったが、過去から現在に至るそのときどきの温泉ブームの中で、より多くの湯量を求めて利用し尽くされ、温泉地であろうと、都会であろうと、よほどの僻地か偶然でもない限り、新たに自噴で温泉が出るなどあり得ない。特に、最近できる「温泉」は、地下から無理やり「温泉?」を汲み上げて使っているのが実態。20年ほど前、伊豆で温泉旅館の仕事をしたときに温泉を掘ったことがある。空からエアボーン探査を行うと、だいたいの水脈が分かるらしく、今はどうか知らないが、俗に100千円/mと言われる掘削代を払い、地下数百mまで井戸を掘り下げて温泉を探した。「だいたい1億円(つまり1000m)まで掘る覚悟があれば、どこでも温泉は出ます」というように当時業者から聞いた記憶がある。ところが、報道でご存知の通り、1000mも井戸を掘り下げると地下メタンガス帯が広がる東京とか千葉の一帯では、温泉の一方メタンガスも出てくることになり、そこで温泉とメタンガスの分離施設が必要となる。温泉とは、湧出時の温度摂氏25度以上が一応の目安で、かつ、成分の中に指定された物質が一定以上含まれていることが、温泉法で決められている。逆に言えば、地下から汲み上げても、条件を満たせば温泉と呼称することが出来るわけだ。なんでもそうだが、1000mも深い井戸を掘って、無理やり地下水を汲み上げ、みたいなことを続けていれば、そのうちこういう事故も起こってくる。東京の温泉は、ここ10年ちょっとでほぼ倍増。家の近くの温泉でひとふろ、とライフスタイルの一部に定着しつつあった動きにまさに冷水を浴びせる今回の事故。だからといって、いきなり都内温泉施設への人出が減るわけではないだろうけれど。
June 21, 2007
コメント(0)

以前ご紹介のアメリカ合衆国の作家・ジャーナリスト、ジェーン・ジェイコブスの「いい街をつくるための4原則」先に経堂でやっておかねばいけなかったことではあるが、ちょうど書いているので、祖師谷をあてはめてみる。1.道路は短く幅狭く、曲がっていること(人の通行を多くし、子どもらの安全を確保する)まさにその通り。とにかく分かりにくい祖師谷の道。カーナビが普及した現在でも、地理を知らない人が車で走りたいと思うところではない。特段の施設があるわけではないが、商店街が充実していて人の交通も多い。2.古い建物を大切にのこすことこれは東京の住宅地はどこでもそうだが、古い建物が急速になくなりつつある。ところが、祖師谷にはまだまだ大きな農家が何軒か残り、それ以外にも深尾須磨子、富本健吉に見られる如く、Artist系が多く好んで住んだ土地でもあり、台地の稜線沿いなど、なかなか雰囲気のある住宅も数多く残っている。新しいほうでも、こんないろどりのお宅を発見。3.ゾーニング(用途地域の単一指定)をしないこと(住居専用、商業専用といった画一的な用途指定をやめる)祖師谷の場合駅前通り(祖師谷通り)両側の近隣商業地域が深く北へ延びていて、その奥も住専ではなく、住居地域。千歳通り沿いも中高層住宅対応で、住専地区ばかりというところよりは、その中での建物用途にだいぶんバリエーションがある。建物のバリエーション以外にも、町の中に川が流れ、橋がある光景が見られ、神明社、釣鐘池などの、今様でないが、しかし都市空間における緑地(日本の住宅地における本来あるべき緑地の形)が点在する大型都市公園である祖師谷公園(いたって事件の場になったりもしているが)が、周辺住民以外に使いにくい形で存在する仙川は北沢用水、烏山用水と異なり、暗渠化されておらず、町の中を流れている。水量もそこそこで、水質もそれほど汚いようではない。という如く、土地そのものもかなりの変化に富む。4.人口密度を十分に高く保つこと東京都世田谷区である。人口密度についてアメリカ人に低いといわれるわけがない。このように分析をしていくと、祖師谷という場所が「いい街」であるための条件をほぼ完備していることがお分かりになるだろう。街を歩いていると、こんなところも見つけた。産後養生院とある。今風の色合いの家であるが、いわば現代のお産婆さん。祖師谷大蔵駅から徒歩20分ほどのまったくの住宅地の中だが、こういうご商売が成り立つ土地柄である。近くには、陶芸工房という案内看板も見えて、いろいろな人たちが、さまざまな生活様式を確立している土地であることがよくわかる。決して歩いても繰るまでも便利ではない。しかし、ちゃんとバスの循環便など整備されている。前回ご紹介のスモークハウスTERAなどもそうだが、地元の人しか知らないようなところがほかにもいっぱいあるに違いない。これは、男女の仲ともつながる?いい街とは、そこに居る人たちだけで共有できる秘密がいっぱいあるほど良い??
June 20, 2007
コメント(0)

深尾須磨子のことを書いていて、祖師谷のことを思い出した。小学校時代の祖師谷は遠いところではあたけれど、まだ、環八も出来ておらず、廻沢(今の千歳台)のガスタンクの向こう。上と下の神明さん、釣鐘池、教育大の農場(東京教育大農学部は目黒区駒場の現駒場野公園、東京都立国際高等学校、大学入試センターの場所にあった)などは、小学校高学年時代の遠征場所。学生時代は、当時つきあっていたガールフレンドが、北の粕谷で、このあたりは、よく自転車で遊び回ったところ。祖師谷の都営団地(東京都住宅供給公社)近くの学習塾で教師のアルバイトをしていたこともある。妹が結婚して、一時上祖師谷に住んでいて、子供たちが小さい頃は、よく散歩ででかけたものだった。或いは、家のそば、駅前で自転車がなくなると、しばらくすると、塚戸小学校のそばにある保管所から、お宅の自転車を保管しているので取りにくるように、と通知を受け取り、出かけたことも数度ある。そのように結構ご縁があったにもかかわらず、世田谷屈指の高級住宅地「成城」の手前で、小田急線も各駅停車しか止まらないので、どうしても印象が薄い。だが、個人的には、密かに祖師谷というところは、逆に世田谷の中でももっとも好きな場所のひとつであったことを思い出した。こんなことを言うと顰蹙ものだが、まず、第一に道が最高に分かりにくい。カーナビの普及前、世田谷区タクシー泣かせとはよく言われたものだが、その時代もっとも嫌われたのが、経堂と、「成城の裏」実は、この「成城の裏」というのが祖師谷から上祖師谷の一帯。今は千歳台と地名も変わり、区画整理が進んで往時の面影はないが、廻沢という古い地名からもわかるとおり環八の無い時代は、雑木林の中に紛れ込むと何時間も迷うということが本当にあった場所。(山が見えないから方角が分からない。方角がわかっても、まっすぐな道が無いから、思うとおりには歩けない)経堂もそうだが、まっすぐな道が少ない。もともと祖師谷の地形は、仙川の東岸の低いところと、その西側の高い台地、台地の稜線は入り組んで複雑だ。台地と低地を結ぶ細い坂道群は、曲がりくねり、坂の上と下、そして途中ではまったく違う景色が広がる。池、お社、お堂...いろいろなところに昔のままのものが残り、角を曲がったところ、坂を登ったところには何が登場するか、わくわくしながら歩く。好んで街中へ迷い込み、歩きまわるのを趣味のごとく思う自分にとって祖師谷は、今でも時間さえ許せば最高の場所だ。街の中を歩く前提で、経堂から祖師谷へ入るには、ひとつは、もちろん小田急線。経堂駅から祖師谷大蔵駅へ。二つ目は、線路沿いを歩き、小田急のガード脇の城山通りで環八を渡る。三つ目は、千歳船橋からバスを利用して千歳通りをたどって塚戸十字路あたりで降りる。四つ目は、神戸屋レストランのところの横断歩道で環八をわたり、旧廻沢側から入る。すずらん通りをまっすぐ行って、環八千歳台で環八をわたり、蘆花公園側から廻沢へ入っていくこともできるが、これは遠回り。あとは、歩道橋が何本かある。船橋から千歳通りをたどり、塚戸十字路でバスを降りる。深尾須磨子の組詩「祖師谷」にある「道しるべ」は塚戸十字路のものだろう。東世田谷、南二子道、北高井戸道で、雨に打たれるのでときどき掘りなおしをするものなのか、須磨子の道しるべから60年を経過し、「西府中」は読めない。礎石は上の庚申塔より新しい。塚戸十字路は、世田谷通り砧小学校前の交差点から祖師谷の駅前を通り、塚戸十字路、そこから千歳通りへ入り東京中央農協前を経て蘆花公園駅から甲州街道に至る旧高井戸道?と、世田谷代官屋敷から上町、桜、桜ヶ丘、千歳船橋、環八船橋、塚戸十字路、榎、烏山と抜けていく六郷田無道の交差するところ、で小田急線が出来る前は、いわば千歳村のメインストリートだった。千歳村役場は少々北の東京中央農協の角(最初南側、後に反対側の今の東京中央農協の場所へ移転と聞く)、塚戸小学校は、古くは千歳村尋常小学校(設立の明治8年当時は塚戸小学校)であり、このあたりでもっとも古い。経堂小は昭和16年、松沢小が明治20年、桜小学校が明治15年(前身の桜学校が明治12年)。今は、北側の東京テラスがここまでと思うほど迫り、祖師谷あたりもまた開発が進むかと憂鬱になる。この写真を撮ったときの同行者は、人のことを「犬」と表現された。地図なしで、何故あのような複雑なところを迷いもせず歩けるのか?ということらしい。実は、今の祖師谷で街歩きが楽に出来るのは、街なかの建物がそれほど高くなく空き地も多いので、緑の木立をたどっていけば、ほぼ主要な場所には全て行き着けることだ。とはいえ、道は複雑なので、祖師谷をお歩きになるときは、必ず地図を持参するべき。塚戸十字路から祖師谷の街区に入り込んでいく。住宅街を抜けて屋根の向こうに見える緑をたどっていく。2-3軒、かつての農家と思しきお屋敷の庭の大木をつてにたどっていくと、坂道にかかる途中の森は成城学園哲士寮。旧初等学校校舎を利用した運動部の学生寮らしいが、表からはわからない。昔、ここにあったお寺の祖師堂が祖師谷の名前の起こりと聞いたことがある。次の緑は、坂を降りきって南へしばらく行ったところに釣鐘池。武蔵野台地の下を通ってきた地下水が、地上に出る路頭のひとつで、昔の廻沢の地名は、このような湧水が、台地沿いに点々と存在したからと言われる。環八の向こう側は、烏山用水水系ではなく、野川/仙川水系で、この釣鐘池の湧き水も仙川へ流れ込む。あるとき釣鐘池を尋ねた折、池畔の向こう側にきれいな日傘のご婦人を見たが、そちらへ向かうと、忽然と消えうせていたことを思い出す。池の精というのが当時はまだ居たものなのか?祖師谷が不思議なところは、たとえば、釣鐘池の近くのなんの変哲もない住宅街の中に忽然と数軒商店が登場すること。祖師谷駅から歩いて20分。最近はまん前にバス停が出来て多少わかりやすくなったが、スモークハウスTERAという店など、何を好んでこんなところに、と思うが、どうも隠れた名店らしい。坂を登ると、今度は、骨董店。やぶ深き奥みたいなところに骨董店を作って大丈夫なのかと心配になるが、それなりに商売にはなったのだろう。そこから、次の緑を求めれば、再び坂を登った神明社。祖師谷には神明さんが2つあり、こちらは南の神明さん。境内に戦没者慰霊碑があるが妙に新しい。揮毫を見ると、元国務大臣越智通雄とある。裏に回ると、戦没者のお名前には、田中さん、福田さん、加賀美さんが多く拝見される。古くからの地元の方々なのだろう。そういえば、塾教師のバイト時代にも加賀美という名前の人が居たなぁと思い出す。粕谷のガールフレンドの中学時代(千歳中)の同級生にも加賀美君という人が居たと聞いた。神明さんから、祖師谷団地(東京都住宅供給公社)に出る。ここは、昭和30年代からの団地でけやきの並木がすばらしい。だいぶ老朽化して建て替えも視野にはいってきているのだろうが、都市景観としては、旧東西経堂団地より遥かに優れている。ここまでくれば、祖師谷大蔵駅まであと徒歩5分。にぎやかな商店街を歩いていけば、右には都市温泉の走り「祖師谷温泉21」なぜか環八の向こう側は、祖師谷温泉21のほか、環八沿いには、巨大Uniqloとスポーツ施設併設のセントラルウェルネスタウンThe Spa成城(駐車場227台、Uniqloへは船橋から専用バス便も)。仙川駅からほど近いゆけむりの里と、経堂と異なり、新しいタイプの温泉が多い。1時間に2本ほどだが、祖師谷大蔵駅から祖師谷通りを北上し、けやき並木を通って、神明社入り口を通って塚戸十字路手前から釣鐘池へ降り、鞍橋(旧教育大農場跡、現祖師谷公園)を経て祖師谷大蔵壁に戻る小田急バスの路線がある。半日お時間があるとき、このバスをうまく利用して、祖師谷廻りはいかが?なかなか楽しいものではあります。
June 19, 2007
コメント(0)

隣村のことでありますが....与謝野晶子に師事した詩人・深尾須磨子は、上祖師谷の雑木林に窯を築いた陶芸家の富本憲吉・一枝夫妻の勧めで、彼らの近くに住むことになりました。その祖師ヶ谷をうたった組詩「祖師谷」山田一雄という、有名な指揮者、作曲家(彼も祖師谷在住)が曲をつけていて(1946年)、呼び出しみたいな歌い出しが印象的と聞きますけれど、どんな曲なのか。「序詩」「祖師ヶ谷」「道しるべ」「釣鐘池」「小径」「葦」「花鳥」「杢太郎さん」「闇夜」「小屋ずまい」「Intermezzo」「結び」と続きます。ひとつひとつの詩のタイトルだけでも、何十年か前の私の記憶にあるこのあたりの風景が目に浮かんできます。居酒屋とかよろず屋があって、道しるべの書きぶり風景としては、榎から神明社あたりを思いおこしますが、北へ行く道はもう、そのあたりまで行きますと北へは高井戸から烏山に入ってしまっています。そうすると、塚戸十字路、東京中央農協前あたりでしょう***道しるべ南 二子道北 高井戸道西 府中底の抜けた駕籠が通りそうな四つ角居酒屋もありよろず屋もあり深尾須磨子 詩・山田一雄 曲「祖師ヶ谷」より
June 18, 2007
コメント(0)
これでも、一応二児の父親である。6月の第三日曜が父の日であることも知らないわけではない。だが、当たり前のようであるが、我が家で母の日、父の日といえば、我々の親の世代のことであり、私たちは、子供たちから何かをしてもらうということは、発想の中になく要求もしなかった。前日の帰宅は遅くなったが、レオナルドダヴィンチ展が最終日といういう娘との約束で朝一番は上野の国立博物館まで。朝9時前の国立博物館は思いのほかすいている。早い時間に家に戻れたので、大学野球選手権決勝と思ったが、さすがに疲れが出て居眠りし、気がついたら時間が過ぎていた。齋藤佑ちゃんは東海大学相手に先発で6回途中降板。でも勝利投手。なんと早稲田の大学選手権優勝は33年ぶり。日本生命へ行った前川が4番で、矢野というのがピッチャーだったと記憶する。それにしても齋藤君は運の強い選手だ。去年の高校日本一から一年もたたないうちに大学日本一。個人でも最高殊勲選手。次は何を目指す?夕方に連れ合いと一緒に父親に同行し入院中の母を見舞う。病院の外にある蛇口で、3人揃って、手を洗い、口を漱ぐ。ここのところ悪い風邪がはやっているので注意しなくては。青梅、焼酎、赤紫蘇、蜂蜜と買い込み家に戻る。夕食後、テレビを見ながら梅酒を漬けていたら、娘からワインのプレゼント。東急ハンズでラベルのデザインが気に入ったのと、パーカーポイント87ということでのプレゼントだそうだ。娘から初めての父の日プレゼント一日が終わった。
June 17, 2007
コメント(0)
ずいずいずっころばしごまみそずいちゃつぼにおわれてとっぴんしゃんぬけたらどんどこしょたわらのねずみがこめくってちゅう ちゅうちゅうちゅうおっとさんがよんでもおっかさんがよんでもいきっこなしよいどのまわりでおちゃわんかいたのだ-れ***「うふふ」「なんだよ」「ずいずいずっころばしのうたあったじゃない」「ああ」「日本じゅうメールだして聞いたの」「へー?」「みんないどのまわりでだったんだけど、ひとりだけ北海道の友達から"裏の厠でっておぼえてます"ってかえってきたの」「だって、この間4対2で"裏の厠で"が優勢だったじゃない」「みんないいかげんなんだから。"井戸の周りで"に決まってるじゃないってのから、僕そんなうた知らないってのまで居る」「俺は"裏の川原で"だけどね」「そうだったっけ?北海道って入植地でいろんなとこから人が行ってるじゃない」「そうだね。富山とか広島、新潟なんかが多いね」「そう。お酒の"あて"って酒の肴のことなんだけど、とか、関西の表現をいっぱい使う人で、その人から、裏の厠でって覚えてますってE-mailもらった」「あれはほんとは遊郭の戯れ唄だと思うな」「僕もそう思います」「隠語ってあるじゃない。茶壷ってのはたぶん女の人のあそこのことで」「そうそう」「ずいずいってぇのは。、ずいずいってやってるんだよ」「そうなんだよね」「ごまみそずいはごまみそだけ?」「とっぴんしゃんは、どっぴんしゃんってのもあるってメール貰った」「ずっころばしてやっちゃっているんだ」「だから、おっとさんがよんでもおっかさんがよんでもになるわけですね」「驚いたのは、明治の時代に、もう全国に広まってったこと」「だから遊郭の戯れ唄なんだよ」「あ、そうか」「?」「江戸時代にはもう仕事とか出張で全国回る職業の人たちがいたわけじゃない」「そりゃそうでしょう」「そういう人たちが、遊郭のお座敷で三味線かなんかで、ずいずいずっころばしって謳うじゃない。それで広まったんだ」「そうですねぇ」「気がついたのは、最初ずいずいずっころばしで始まって、おっとさんが呼んでものとこで転調してるんだよ。井戸のまわりで、でまたもとに戻る」「もともとひとつの曲じゃなくて、いくつかの曲が集まってできてるんじゃない」「そうかもしれない」「子供が唄うのと、三味線で唄うのとはたぶん全然違うんだよ」「みんな盛り上がって。やらしいんだから」「...」
June 17, 2007
コメント(0)

「いい写真でしょう?」「いいですねぇ」「デザインがわかってないと、こういう写真は撮れないです」「こういう町を作っていかないといけません」
June 16, 2007
コメント(0)
「ずいずいずっころばしってあるでしょ。あれ歌ってみて」「ずいずいずっころばしごまみそずいちゃつぼにおわれてとっぴんしゃんぬけたらどんどこしょかわらのねずみがこめくってちゅう ちゅうちゅうちゅうおっとさんがよんでもおっかさんがよんでもいきっこなしようらのかわやでおちゃわんかいたのだーれ」「私はうらのかわらでって覚えましたが」「僕もうらのかわらでと覚えてます」「うらのかわらだと、大きい家だね」「厠はだいたい裏にあるからね」「たわらのねずみじゃないかな」「米俵のたわらでそれならば意味が通じますね」「じゃあずいずいずっころばしってどういう意味だよ_」「ずいはサツマイモのずい」「ズイキのずい?」「分かってるから余計なこと言わない」「とっぴんしゃんってなに?」「トッピングだ」「あるか!」「川原のねずみだと意味が難しい」「瓦ってのもある」「そうか」「...」***ずいずいずっころばしごまみそずいちゃつぼにおわれてとっぴんしゃんぬけたらどんどこしょたわらのねずみがこめくってちゅう ちゅうちゅうちゅうおっとさんがよんでもおっかさんがよんでもいきっこなしよいどのまわりでおちゃわんかいたのだ-れ自分は、遊郭の戯れ唄が元と思うが、岡本昆石編『あづま流行 時代子供うた』薫志堂 明治27年には、「ずゐずゐずっころバしゃ胡麻味噌ずゐ、烏坊(からすぼう)に追ハれてすっぼんちャん、抜けたァらとの字のどんどこしョ」平出鏗二郎『東京風俗志 下の巻』冨山房 明治35年では、「ずい、ずい、ずっころばし、胡麻味噌ずい、茶壺に追はれて、とち車、ぬけたら、どんどこしよ、お父(とつ)さま呼んでも、おッ母(か)さま呼んでも、いきつこなしよ、それがほんとの鬼ごつこ、俵の鼠が、豆喰つて、ちゅう、米喰つて、ちゅう、ちゅう、ちゅう、ちゅつ」又は「ずいずいずつころばし、胡麻味噌ずい、鴉べいに追はれて、とつぴんしやん、ぬけたらどんどこしよ、俵の鼠が米喰つて、ちゅう、ちゅう、ちゅう、ちゅつ」竹久夢二編『日本童謡集 あやとりかけとり』春陽堂 大正11年「ずいずいずつころばしや胡麻味噌ずい。茶壺に追はれてとつぴんしゃん。ぬけたらどんどこしよ、俵の鼠が米食つてちゆ。ちゆう、ちう、ちゆう。」夢二は松原に住んでいたので、明大前、桜上水地元派はこれで決まり。広島高等師範学校附属小学校音楽研究部編『日本童謡民謡曲集』目黒書店 昭和8年「ずいずいずんごろまはし ごまみそずい 茶壺におはれて とつぴんしやん ぬけたら どんどこしよい 俵の鼠が 米くて ちゆ ちゆ ちゆ ちゆ。(広島地方)」「ずいずい ずつころばし こまみそで ちやつぼに おはれて とつぴんしやん つけたら どんどこどん 俵の鼠が 米くてちゆ ちゆちゆ お父さんが呼んでも お母さんがよんでも 言つこなしよ。(富山県上新川郡上瀧地方)」とあるから、全国に知られていたわけだ!茶壷は茶どころのお殿さまで、「大名行列は横切ると即切られるので、 子供が飛び出したりしないように、言い聞かせるための歌」との説、将軍家への献上物のお茶の行列のこととの説もあるらしい。暗号説はこちらをごらんあれhttp://www32.ocn.ne.jp/~yoshihito/zuizui.html
June 15, 2007
コメント(0)
日本経済新聞の最終ページに交遊抄というコラムがあり、先人たちの交遊が抄録されている。2007年6月15日の同コラムに下島和光という名前が見え、ふと中を読んでみると、高校の同級生。クラスは違ったが、共通の友人が何人かおり、高校時代から面識はあった。大学に入り、おや?と思ったのは、家業を継ぐことを決意し経済とか経営の方面の学部に進学していたこと。十数年前、共通の友人のつてで当時自分が勤めていた会社へ、提携の可能性について打診をしてきたことがあり、熱心に足を運んでもらったが、残念ながら脈なしと判断されてしまった。熱意、勘所を押さえた質疑、決断の速さは、さすがオーナー経営者の系譜と感心した。のちの彼の会社の盛業を考えると、そのとき、何らかのきっかけを作ることが出来ていれば、と悔いる部分もある。実は、彼には弟さんが居て、そちらは連れ合いの高校同級生。月1回程度の定例飲み会がある。同級生で交遊抄に登場したのは、確か彼が初めてではないはずだが、我々の世代も載るようになったかと、改めて年を感じる。
June 15, 2007
コメント(0)

「珍しいものを手に入れまして」「これは?」「昭和9年の路線図なんですよ」「ほーっ」「澤北下とあるから何かと思ったら下北沢でした」「東北沢はちゃんとありますね。代々幡上原は誤植じゃないんですか?」「さあ?」「世田谷中原、これは世田谷代田でしょう」「梅ヶ丘はまだありません」「明大前もまだありませんね」「松原というのがそうですか?」「井の頭線の西松原が明大前です。松原は今の明大前と下高井戸の間」「玉電は七軒町と六所神社ですね。その真ん中が今の松原になったわけですな」「豪徳寺前というのは今はありませんね」「そうですね。宮の坂は今は坂の下ですけれど、もっと山下寄りで坂の上だったと聞いたことがあります」「今の太子堂は三軒茶屋のひとつ西側ですが、当時は東側で三宿と三軒茶屋の間にあります」「京王に戻ると桜上水は、京王車庫前」「八幡山が松澤で、芦花公園が上高井戸」「松澤というのは、松原と北沢が合わさった地名です」「昭和9年だと、徳富蘆花はもう亡くなったあとですか?」「まだぎりぎり存命だったかもしれませんね(実際は昭和2年=1927年没)」「世田谷から用賀、経堂から上高井戸、千歳船橋から松澤を通って久我山のほうまで線が引いてあります」「単なる書き込みじゃないですか?」「いやいや」「計画路線でしょうか?」「軽便鉄道」「聞いたことないなぁ」(鉄道馬車か何かの便があったのか?)「西駒場と東駒場ですか。これは知らないなぁ。一高前と駒場になったのは、そのあとですな」「昭和9年にはまだ第一高等学校は駒場には来てなかったんでしょうか?」「いや。もうありました。関東大震災で一高の建物が壊れまして、それで今の農学部のところから駒場に移転してきましたから」「なるほど」「戦後、学校制度が変わって一高がなくなったとき、一高前の駅名も変わることになりました。そのとき、駅名の中に一高を残すべしとの議論がありました」「そうなんですか」「一高跡」「...」「それが一番正しく実態を表わしますから。でもどうしても京王帝都が受容れてくれなかった」***時代背景からみると、昭和7年(1932年)に、世田ヶ谷町、駒沢町、玉川村、松沢村が合併して東京市世田谷区ができ、昭和11年 (1936)に千歳村、砧村が東京市(世田谷区)に編入されるちょうど間の時期。当時の千歳村の中心は、今の塚戸小学校あたりと、千歳烏山駅周辺。千歳村と世田谷区役所との行き来などに、宮の坂ー上高井戸(蘆花公園)間、とか、千歳船橋ー松澤(八幡山)間に何かの交通手段が設けられた可能性があるかもしれない。或いは、当時だから人力車の便?かつて経堂と仙川の間にバス便があり、千歳郵便局はすずらん通り沿い、経堂町のはずれに設けられていた。これらを考えてみると、今は埋没してしまっている古い街道が、鉄道路線が敷かれる前まで交通、連絡に果たしていた役割が見えてくる。また、調べてみたいと思うことが増えた。
June 13, 2007
コメント(0)
昨年2006年9月に別のところで「メディカルケア施設」と題し、高齢者対象の高級共同住宅について少々のことを書いたことがある。実は、そのときの話しに出た施設がコムスン傘下。まさかこのような事態となることを想像していたわけでもないのだけれど、「施設を見るだけで、営業トークに乗せられて契約してしまう。契約書もちゃんと読んでいないし、土地建物の謄本も見ていないから、あれだけ金を払って、何がしてもらえるのかよく分っていない。経営が行き詰ったら追い出されないかどうかも知らない。紺屋の白袴。ほかの人たちは、もっと、あきれるほど何も知らないんだ」とは、長年法律関係の仕事に携わってきた入居者の弁。事業会社の不祥事で、世話になってきたヘルパーがどうなっていくか分からない担当する事業会社が変わるのはしょうがないけれど、人と会社が変わり、これまで積み上げてきた自分の介護に関する経過記録、ノウハウはきちんと引き継がれるのか自分に残された大切な時間を過ごすための空間が、先払いした対価(実際に法律的にそうなっているかどうかは別にして)にも関わらず奪われてしまう可能性がある本来は、こういうことまで含めてケアマネージャーとそのバックアップ組織が相談に乗れる制度が望ましいし、或いは、保険などと同様、ファイナンシャルプランナーあたりが窓口となることも考えられる。単にケアというだけでなく権利保護の観点も必要。お金の多寡は別にして、高額な入居一時金に不審の念を抱くのはまさにこういうところ。10百万円先払いして入居した施設が倒産してしまったらどうするか?信託銀行に施設の権利関係を管理させていくなど制度をちゃんとしていかないと、老人の権利保護は、ゴルフ場の会員権とは違うのだ。コムスンの今後で気になるのは、受け皿として名前の挙がる会社に、大手商社など必ず出てきそうなメンバーがいないこと。何故か?本来、儲け主義では成立しない介護事業に、民間資本を導入したことは、諸般整わない中ではやむを得ないことではあったけれど、この時代、所詮人的集約度の高い産業に大手資本が直接に携わるのは、難しいということなのかもしれない。根深い問題が横たわっている予感。
June 13, 2007
コメント(0)

昭和35年頃の地図を見つけた。そんなもの役に立つものかと思っていたけれど、何年かたってみると地図というのはその時期時代の、土地の記録になっている。とはいえ、細かく見るとだいぶデフォルメされているようで、地図を信用して歩いたり、車に乗ったりしたらひどい目にあいそうな気がする。経堂は経堂町で何丁目というように細かく分かれていない。172とか252とかいうのが番地だ。世田谷区経堂町560とかやってたわけだ。船橋も同様。赤堤、上北沢(現桜上水)には(一)という字が見えるので、何丁目かに分かれていたことが分かる。まだ桜も、桜ヶ丘も宮坂も無いけれど、おおまかにいえば、宮坂が世田谷三丁目、桜が世田谷四丁目、桜ヶ丘が世田谷五丁目。城山通り、赤堤通りは、見えない。(環八も見えない)本町通り、すずらん通りの太さを見よ。この2つは幹線道路だったのだ。烏山用水はまだ暗渠ではなく、町の真ん中を流れていた。千歳郵便局は、経堂小学校の先、船橋町にあった。(今の千歳郵便局は経堂の町内=旧経堂町=にあるから、旧千歳村の郵便局ではなく、経堂郵便局と本来は移転のときに改名するべきだったのではなかろうか?でも、今はそんなことを言う人は誰もいないのだろう)
June 13, 2007
コメント(0)

紫の杜若から、白の花菖蒲へ移りつつある時期。どうしてもという家人に促され、善福寺公園まででかけることにした。善福寺公園は、杉並区の西北端。井の頭公園と、それほど離れているわけではない(直線距離約2km)が、広い井の頭公園が、吉祥寺の駅に近いこともあって喧騒であり、善福寺公園は落ち着いた住宅地の中。ボートの営業はあるが、それ以外の売店などは全く無い。途中、2軒ばかり人を訪ねるというので、上北沢駅へ向かう途中で一軒、駅前へ出て、鎌倉街道を北へ向かう。自分は鎌倉街道というのは、このまま北へ浜田山、成田西を抜けて五日市街道を渡るルートと理解していたけれど、一説には浜田山一丁目の信号の一本北側の一方通行を右に折れ、西永福から大宮八幡を通って中野に至るという方がいらっしゃっる。確かに、そのまま浜田山へ北上するルートは、この分岐の北側で坂が厳しい。神田川と善福寺川、日本の川を越えるに、いくつかのルートが開拓されたのであろう。井の頭通りを渡り、人見街道を右折。人見街道は大宮八幡から府中を結ぶ大宮街道とも呼ばれた古い街道で、現在は浜田山駅入口交差点が起点とされているので、この浜田山の町内を走っている部分は正式には八幡通り。高千穂大学裏から大宮八幡入り口あたりまで、住所を頼りに尋ねる先を求める。「先にインターネットで調べておけば」「大丈夫、すぐに分かるし、そういうの好きでしょ?」「雨が降りそうなときは別!」などといいながらも、迷いもせず、ほどなく尋ねる先の住所に行き当たる。雨がぱらぱらと降り始めたが、ひるむことなく一路善福寺へ向かう。晴れていれば、かなりの人出があるだろうが、天候不順で公園内は人もまばら。それを狙った雨天の善福寺行だが、残念ながら菖蒲は家人が期待するほではなかったようだ。公園の水鳥が散策路に上がっているが、間近で見ると思いのほか大きい。散策路からは遠く対岸の菖蒲のほうが良く見える。ところが、せっかく対岸まで回ってみると、思ったほどではない。良く見ると菖蒲は池のほうを向いて咲いていて、苦労が報われないわけだ。雨脚が速くなりそうな気配に、早々と切り上げ、急ぎ家に戻ったら、落雷からいきなりの大降り。ま、物事は早めに済ますのにしくはない。
June 10, 2007
コメント(0)
友人の娘さんが結婚することを決意。お相手が親御さんの家を訪問する段取りとなった。学究肌で真面目ではあるが、茶目っ気も多い友人。開口一番「僕は残念ながら、女性というものを家内しか知らずに来たのだが、ときに、君はどうなのかい?」「娘が出来て、結婚相手を連れてきたら必ずこう聞く」と、学生時代から言っていたのだが、まさか本当にやるとは....果たして娘さんがお相手を連れてきたのは、それを知ってか知らずか?思わず「それで答えは?」と聞きたくなる。無論、正解は無いが、強いていえば2通り。真っ赤なうそか、正直な答え。中途半端は無いはずだ。困った親父には違いない。
June 9, 2007
コメント(0)

June 9, 2007
コメント(0)
高い一時金を払っても、場合によれば10年、20年と長期にわたってきちんと面倒を見てもらえるのか?はてまた、10年、20年という期間お世話になり続けるだけの経済基盤が続いていくのか(大きな経済変動がなければ大丈夫だが、インフレが到来した場合に、入居の経済条件にも変化が生ずるのでは?)。まあ、70、80過ぎから20年以上入居が続くということは、90、100歳ということだから、それはそれでめでたいことではあるけれども...老人ホームという業態は因果なもので...最近整備されつつある業態なのだが、土地、建物の取得に要する初期費用負担が重く、それを入居一時金で回収していくことが通常で、そのことも高い一時金の原因の一。介護保険がカバーしていても、食費込み一人月宛200-300千円で、どの程度のお世話が出来るものやら。うわさによると、高額老人ホームの平均入居期間(つまり入居してから死亡するまで)は4年9ヶ月とか。施設として月々の料金が収支トントンぐらいであると、どうしても入居一時金に期待することになる。商売でいうところの回転率を上げることが、収益向上にとって一番貢献するとなると、果たして入居者の待遇はどうなるのか?最近話題のコムスン。高い施設ばかりでなく、日常お世話になっている人たちも多い、わが国シルバー産業最大手だ。どなたにもお世話になる可能性がある反面、制度も頻繁に変わり、なにかと不審なことが多い業界でもある。最大手として襟を正さないと、制度の根幹が揺らぎ、崩壊してしまうおそれなしとしない。しかもコムスン、前回は、従業員雇用にかかわる不祥事(大量にいったん就業した従業員を解雇)もあり、襟を正さねばならぬのは初めてではない。老人ホームの入居一時金は、一時高騰しその後暴落したゴルフ場の会員権と経済的には同等のものである。高額な入居一時金は、結果として親会社のファイナンスに利用され、施設の投資以外に振り向けられる例もある。コムスン、姑息な策ばかり弄さず、顧客、或いは潜在顧客たる一般の人々から広いコンセンサスが得られる解決策をフェアに示していかねば企業として存在の意義が問われる。まったくしゃあねえなぁ。
June 8, 2007
コメント(0)
最近ご近所さまに空き地が目立つ隣家が突然に引越し、まだ新しいと思っていた3階建ての建物が取り壊されてはや一年。道路を隔てた家の裏手も気がつかないうちに空き地になっている。3週間ほど前に、横丁の曲がり角から2軒目のお宅に解体のお知らせ看板が立ったと見れば、昨夜の帰り路には既に全くの更地。バブル期以来の土地価格上昇で、土地を手放す人が多いということなのか。しかし、いっこうに新しい家が建つ気配がないのはどうしたこと?前回バブル期には、都心の土地を売ってこのあたりに土地を求める人たちがいらっしゃった。ところが、今回の土地価格高騰は、都心商業地の値上がりは一緒でも、ほとんどの土地所有者は個人でなく、プロの不動産投資会社。都心の土地取引が、住宅地の不動産需要にリンクしないところが前回との違い。次に、土地を買おうとなさる個人富裕層が動かない。都心に新築高級マンションが増える中、戸建住宅はどうしても流動性に欠ける。そこの需給ギャップが、空き地の増加につながっていると考えられる。しかし、それでもプロの不動産業者はこのあたりの土地を買う。なぜか?買う土地が無いからだろう。東京から名古屋、福岡、大阪と主要都市都心商業地の値上がりが一巡したあと、不動産投資市場に流入した資金は、次の行き場を求める。過去の経験から、都心商業地の次に堅いのは、都心隣接の住宅地。東京では、港、渋谷、目黒、品川、大田の城南各区では、環七内側のめぼしいところはほとんど物色されてしまっている。次に資金が流れ込むところはどこか?不動産各社のポートフォリオには、それぞれのシナリオに対応できるよう、次の可能性が仕込まれている。答えの一つが、戸建用地であっても流動性が高い、更地ということなのだろう。
June 7, 2007
コメント(0)

758年-811年というから、ちょうど平安遷都の時代。平安遷都の背景はいまだ分からぬ部分が多いらしいが、その時期、東国ににらみを効かせた征夷大将軍坂上田村麻呂の墓が特定されつつあるようだ。京都は、山科区西野山岩ケ谷町というから、伏見のお稲荷さんの裏手(伏見稲荷の稲荷山東北麓という見方もできる)。山科から七条へ抜ける滑石峠途中に「西野山古墓」と記した碑がある。これが今回坂上田村麻呂墓とされつつある大正8年発見された古墳で,金装大刀・鏡等出土品は国宝(京都大学蔵)。現在の国道1号線は、山科から東山を清水寺の南側で抜けて五条に入る。東海道53次は、山科から京都へ入らず伏見へ下っていたが、古代、このあたりを通った滑石街道は、当時、東国から都に入る主要ルート。伝承される田村麻呂の墓からは西北へ1.5kmほど。勅命により甲冑兵仗(かっちゅうへいじょう)を身に付け,立ったまま葬られたと伝わる。南へ1km下れば、忠臣蔵大石良雄山科隠遁の地。因みに大石良雄が通った花街は、実は、山越の丸山ではなく、伏見=今の中書島。しかも歩いてではなくて、水運を利用していた可能性がある。清水寺の建立にも携わった坂上田村麻呂。次回の京都行きでは、このあたりまで足を伸ばすことにする。
June 5, 2007
コメント(0)
歌舞伎の興業は一年単位で行われ、スタートは十一月で「顔見世」といわれました。顔見世の初日は暗いうちから舞台を清め座元が三番叟(さんばんそう)を舞い、一年間の繁盛を祈願しました。団十郎が出演するときは、必ず『暫(しばらく)』が上演されました。江戸庶民の楽しみだった芝居見物は、防火対策上夜の興業は許されませんでした。日没には終了するように定められていたため、明け六つ(不定時法のため季節によって異なるが、平均すると午前6時)に開演されることになっていました。朝六時から観劇とは...ギリシア悲劇など海外ではどうだったのでしょうか?
June 3, 2007
コメント(0)
1603年(慶長8年)に江戸幕府が開かれ、長きにわたって戦乱のない平和な時代が続きました。この江戸時代は、日本文化が大きく花開き、生活様式や社会秩序も成熟期を迎えた時代でもあります。この時代の人々の暮らしの中から、四季折々の年中行事や祭りが生まれ、洗練された美意識や生活文化が形成されました。また、寺子屋が発達し、その識字率は世界でも最高の水準に達しました。環境にやさしい循環型社会の知恵や、多くの災害を乗り越えた都市再生の活力などにも、学ぶべきものが多くあります。現代の日本は、技術の進歩、経済の発展により豊かな時代を謳歌していますが、反面、「心の時代」への回帰も提唱されています。日本の近未来には、食料・エネルギー・環境などの問題が山積されています。本来、日本の心はモノを大切に人の力で、環境にやさしくというライフスタイルを形成してきました。その身近なルーツが江戸の社会にあるのです。こうした先人と時代の優れた文化や生活の知恵を学ぶことで、今見失いがちな日本の心を思い起こし、未来に役立てようという趣旨のもとで、昨年、秋、第1回「江戸文化歴史検定」が開催されました。団塊世代の男性を中心に9歳から89歳までの老若男女の方々が全国から1万人余に及んで受検に臨みました。これも、次代を目指す多くの方々の賛意と意気と受け止め、更に多くの方々と共に、この事業を発展させてまいりたいと思います。この検定は、江戸文化と歴史発信センターである「東京都歴史文化財団 江戸東京博物館」を主体に、江戸文化歴史検定協会が実施しています。ということで、第二回江戸文化歴史検定が実施されることになるらしい。さて例題をひとつ江戸庶民にとって芝居(歌舞伎)見物は、大きな楽しみの一つでした。興奮して、夜眠れない人も多かったようです。さて芝居の興業ですが、何時頃から始まったでしょう?ア 朝6時頃イ 朝10時頃ウ 午後2時頃エ 午後6時頃電気など無い時代。照明がネックだから昼間だろうと思ったけれど、そうではなかったらしい(たからといって答えがエだということではないのだが)
June 2, 2007
コメント(0)
ようやく学校もぼちぼち再開されはじめたけれど、はしかの次は、百日咳、さらに再びO157と....最近の若い者はとか言って笑っていたら、強烈な風邪をひいてしまった。灯台下暗し。少々調子が悪いところを無理して出かけ、同じく風邪気味の人の相手をした。おそらくは、そこでお互い病気を交換。ときどき悪寒が走り、こもったような熱が自分でも分かる。こいつはダメだ!
June 2, 2007
コメント(0)
全29件 (29件中 1-29件目)
1

![]()
