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猫と烏花巻線てローカル線がありまして東北線は南北に走ってますね花巻線は、東北線から出て横に花巻まで行く線なんです。そこに10年ほど前に行ったときに、ある駅で列車を待っていたら面白い光景を見ましてあのときは、カメラを持っていなかったのを後悔しましたねぇ僕はそれまで烏というのは猫と仲が悪いもんだとばっかり思っていたのだけれど、単線の線路の上を猫が器用に歩いていると、後ろに烏が降りてきた。てっきり、喧嘩でも始まるんだと思っていたら、そのまま線路の上を猫は歩き続け、そのあとを2-3歩下がって烏が枕木の上をぴょんぴょん跳ねてついていく。しばらく行くと猫が線路の上で立ち止まって、これも器用に線路の上で横のほうを向く。そうすると後ろにいる烏がなんとかコミュニケーションをとろうとしているんでしょうね猫のおしりをくちばしでつつこうとするこの様子が実に可愛らしくて笑ってしまいましたそうこうするうちに僕の乗る列車がやってきて、烏はぱっと飛び立ち、猫もどこかへ行ってしまいました。
October 30, 2007
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東京六大学野球秋のリーグ戦最終週を飾る早稲田-慶應3回戦は、観衆18000人を集め東都神宮球場で、13時04分プレイボール。1回表の早稲田が4点を先行し、試合の主導権を握り、2回までに6点を先取。結果7対ゼロで慶應を圧倒。リーグ戦3連覇を果たした。3連投の慶應先発加藤幹は、立ち上がりに精彩を欠き、大量リードを許したものの、9回を一人で投げきり意地を示した。将来のリーダーたる者、決して今日この屈辱は無駄にはならない。早大先発斎藤祐は、大量リードに守られ15奪三振、リーグ戦初完封とともに、最優秀防御率を記録した。斎藤祐樹1年生。春の最優秀防御率投手松下まだ2年生。主戦投手須田、春の首位打者捕手細山田、外野の松下も3年生だ。戦力充実の早大は、来期以降、果たして六大学記録リーグ戦四連覇を越えていくのだろうか?
October 30, 2007
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ラグビーワールドカップは、南アフリカの優勝で幕を閉じ、あとの興味は国内リーグ戦。東芝がサントリーに3-10で敗れたのは多少意外。しかし、まだ先は長い。筑波に32-5で破れ、今年の慶應を左右する意味で、結果に非常に興味のあった関東大学対抗戦慶應VS帝京は、前半18-5で圧倒した慶應が、26-10で勝利。明大は、帝京24-16、日体52-19と順当に勝ち、慶應、早稲田戦に照準を合わせる。早稲田は、筑波に33-21と追い上げられ苦しんだ。あと残すは、帝京、慶應、明治。帝京戦が判断材料。順当ならば、早明の勝者の優勝だろうが、これに慶應がどこまで食い下がるか。11月3日慶明戦、11月23日早慶戦、12月2日早明戦と続く。リーグ戦は、関東学院が法政と大東文化戦を残し順当に全勝を続ける。法政は関東学院と大東文化両方を残し、既に2敗と苦しい東海は、関東学院には屈したが、法政と大東文化戦を残し1敗、一応4位内は決まり(中央と同じ4勝3敗で並ぶ可能性があるが、両校対戦で東海が勝っている)大東文化も、関東学院、法政を残し1敗を堅持。リーグ戦は、関東学院が例年通り頭一つ抜け出している感じだが、中大と拓大が法政に勝ち立正が大東文化に勝つなど、大混戦。リーグ戦二部は、一部返り咲きを狙う日大、埼玉工大、山梨学院大、専修大の四校が4勝0敗で並ぶ、上位4校リーグ戦に復活を託す。***Major Leagueは、ワールドシリーズRed Sox勝利で、シーズンを終了。それにしても、松坂というのは、強運。きちんと最後には帳尻が合う。しかし、来年は正念場。本腰を入れて鍛えねばなるまい。岡島、松井はシーズンスタートから見れば望外の結果。十分満足のいくシーズンだっただろう。日本ハムー中日の日本シリーズは1勝1敗で、これから。早慶戦は、3ball2strike2outの土壇場から、第1戦を劇的なサヨナラヒットでもぎ取った慶應有利と思ったが、第2戦早稲田がふんばり1勝1敗。第3戦先発は慶應加藤幹、早稲田斉藤祐の両校第1戦先発投手同士の投げあいとなる予想。第1戦完投に続き第2戦もリリーフで2回投げた加藤だが、文字通り学生最後の試合。春のベストナイン投手ご存知斉藤祐樹相手に、慶應の意地を見せる。***第17回日本シニアオープンゴルフ選手権最終日8バーティ、1ボギーの65で回った青木功(65)がエージシュートを達成。通算12アンダー、276のスコアで大会史上最多となる10年ぶり5度目の日本シニアオープン優勝となった。国内のゴルフでこれほどの緊張感あるゲームを見たのは何年ぶりだろう。それもシニアで65歳の青木とは!室田ほどの名手がファイナルラウンドイーブンパー。追う青木は近年になく充実したラウンド。首位室田に、青木一打差としたところで、一度並べば青木のものと確信した。四半世紀前のハワイアンオープンワイアラエカントリークラブでのチップインバーディ以来、勝ち方を知る相手を勢いに乗せては、勝つものも勝てない。この迫力。10数年前、杉原が同じこの日本シニアで、すざまじい迫力の最終ラウンドから優勝をもぎ取ったが、そのとき以来だ。レギュラーツァーに、これが無くなって久しい。
October 30, 2007
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「あれ、髪の毛切ったの?」「うん」「今日?」「そうだよ」ショートカットは久しぶり。気分転換というけれど、何の気分転換?今週は、なぜかお弁当シリーズ社会人もようやく半年を経て、生活習慣も変わっていく。
October 30, 2007
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ヘンな夢を見た。期末の会社。仕事が終わり、会議室で部員全員を集めて終礼が行われる。こちらだいぶ若返って、入社5年目。ようやく仕事の何たるかを覚えつつある頃。予期せぬ展開。親しくしていた友人の転勤が発表され、部長から辞令を手渡される。多少不本意ではあるようだが、皆が拍手し、席に戻る。仕事のよく出きるエリート然としたK君(なぜか高校時代の同級生が出てきた)は、総合企画室へ配属。辞令を受け取り、礼をしてふりかえると、辞令を上に掲げ、万来の拍手にニヤリと笑う。4-5人の発表が済み、意外にも自分の名前が呼ばれる。エリートとはいわぬまでも、仕事は出きるという自負があり、どこへ行くのだろうかと思い発表を聞くと「少女漫画担当を命ず」拍手はほとんどなく、失笑が漏れるのが聞こえる。「大森さんとこだな、早速電話して挨拶しときなさい」と部長。10年ほど上の先輩で、大学で応援団長を務め、海外重要拠点支店長から取締役までいった人の名前が出る。なんでその人が少女漫画担当なのか、関連は不明だけれど、部長のニュアンスは、「大森さんが担当するような特別のミッションだから、左遷じゃないよ。がっかりするなよ」という意味。それでも訝しげに首をかしげつつ席に戻ったところで、目が覚めた。それにしても、出版社でもなかろうに、少女漫画担当への人事発令というのは、何を意味しているのだろう?
October 28, 2007
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昨日は10月下旬の雨台風。伊豆半島沖から、関東東北沿岸をなぞるように北上した様子このため、風はそれほどでもなく、雨台風。夕方5時ぐらいがピークで、夜半には上がった。今朝は台風一過、爽快な一日でありますよう木曜(雨が降るという天気予報に惑わされた)から、洗濯が滞ったので、昨日は、風呂場を乾燥室に。この夏から、湿度をとると同時に、温度を上げるようにしている。考えてみれば当たり前だが、温度が高いほうが同じ容積の空気中に含まれる水蒸気量は多い。反対に、温度が低いと、水蒸気量は少ない。同じに乾燥機をかけても、通過する空気の量が同じに対し、水蒸気量は温度の高いほうが多いので、より多くの水分を液化することが出来る理屈。さらに、温度を上げることによって、いやな生乾きのにおいの元となる菌の繁殖がおさえられて、乾きあがりが気持ちよい。ならば、何故、温度が高い、夏とか、梅雨時に乾燥させてもいやなにおいがあったのか?そこが夏でも温度を上げるようにした理由なのだけれど、温度35度以下では雑菌が繁殖すること。実は、洗濯物が乾くときに、蒸発する水分が気化熱を奪うため、洗濯物事態の温度は、雑菌の繁殖に適した温度を乾いているあいだじゅう維持することになる。だから、夏でも冬でも、部屋の中で干した洗濯物はいやな臭いになってしまい易い。今年独自に発見した方法。実は全く偶然の産物で、間違って暖房のスイッチをおして、風呂場がものすごく暑くなっていたのに、いやなにおいがなく、洗濯物がからっと乾いていた経験による。たぶん、こんなのもう誰かが発見してるよね?
October 28, 2007
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「山梨県て街の名前つけるセンスないねー」「どうして?」「だって、甲府市はもともとだからしょうがないけど、塩山市と勝沼町が一緒になって甲州市だろ。あと、甲斐市ってのがあって、これは、竜王町、敷島町、双葉町の合併だ。だいたい、山梨全体が甲斐の国で、甲州じゃない。甲府は甲斐の中心地だから良いとして、山梨県と甲斐と甲州は全部同じ意味。甲斐市っていっても、甲州っていっても、山梨の中ならどこでもいいわけで、名前に郷土の愛着が出てくるのかしら?」「南アルプス市ってのも批判されてたね。カタカナだからだね。でも、これは良いんじゃない?」「南アルプスは、赤石山脈だよね。主峰の赤石岳は静岡と長野の県境だから、山梨としては、赤石市とは言えないわけだ。でもなぁ。南アルプスは山でしょ?そういうところが市ってのも、いかがなもんか。普通村だろ?市じゃ風情が出てこない」「南アルプス村?」「そう」「中央市ってのもあるぞ。これもひどい。」「玉穂町、田富町と豊富村が合併して中央市かぁ...」「山梨の真ん中にあるから、ってんだろうけど、差別するわけじゃないけど、町ふたつと村ひとつが合併して中央と称するのは日本語として違和感がある」「中央という言葉は、地理的中心であることと、政治的中心であることを兼ねるみたいな ね」「そう。甲府市という言葉の中に、既に甲斐の政治的中心という意味が含まれているから、甲斐市と甲州市の関係と同じく、甲府市と中央市も同じ意味じゃないかってこと」「銀行の合併でも、同じ場所に合併する銀行がそれぞれ大きな店をもってると、新宿支店と新宿中央支店みたいにつけるよね。新宿支店ってのが、一番大きい店か、合併主導行の店で、新宿中央支店がそうじゃないほうなんだけど、名前で配慮はしましたみたいなね。」「北杜市ってのもひどいよね」「最初に北杜ってウィスキーをみたとき、ニッカだと思ったんだ。北杜といえば仙台。ニッカ仙台工場のブランドだと思ったら、サントリーの白州工場。なんかすっきりしないね。仙台は文句言わなかったんだろうか?」「仙台が北杜と変えるわけはないものね」「北杜夫はどうかな?彼の北杜は松本かな」「いや、彼の北杜も仙台だね。旧制松本高校から、東北大学医学部だから」「あ、信州大学医学部じゃないんだ」「知らなかったの?」「清春白樺美術館に行くのに、新宿からだと、JR中央本線新宿駅より2時間、長坂駅下車タクシー(バス)5分徒歩25分って書いてあって、名古屋のほうからだと、JR中央本線名古屋駅より3時間40分小淵沢駅下車タクシー(バス)1O分なのね。」「うん。それで?」「どうして、こっちから行くときと、あっちから来るときで、降りる駅が違うの?一駅だったら、みんな長坂から行けばいいじゃない?」「うんとねぇ。小淵沢の駅はJR東日本の八王子支社の所轄で、次の信濃境から長野支社だから...そうじゃないや。長坂は手前で八王子支社だ」「ああ。そうだ。小淵沢は全部の電車が止まる。特急で来たら、小淵沢には止まるけど、長坂には止まらないんだ。新宿のほうから来れば、ほんとは各駅停車ならば、長坂、特急ならば小淵沢が正解。名古屋から来ると、長坂へ行くには、小淵沢で各駅停車待たなきゃいけないんだ」「そういうことだね」
October 25, 2007
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前日夜のこと帰宅後、何か飲み物はないかと探し、ふだん使わない冷蔵庫の中で緑茶のペットボトルを発見した封が開いていたのだが、行儀悪く直接口をつけて飲んだ一口含み、特におかしいところはない、とさらに飲み進む唇に違和感があり、何か糊のようなものが口に入った「やばい」と口中のものを吐き出し、口を漱ぐしかし、飲んで嚥下したものを吐瀉することまではしなかった...あれは、かつての紅茶キノコの緑茶番だ!朝全身がどことなく硬直した感じで覇気が出ないままよ、と動くが、手足の筋肉が硬直した風そのうち、本調子ではないものの、一応動ける程度まで回復し、一日を過ごす食欲がないこともあり、昼食は遅めの17時にカレー難しいお話しを8時から12時過ぎまでやって、猛烈な便意に襲われトイレに入り、そのまま10分ほどを過ごす腸の中のもの全ては出尽くしたと確信する気がつくと、筋肉の硬直感は解消し、気分爽快だが、今度は強烈な空腹感が襲ってくる我慢して、ブログを書いて寝ることにする果たして何も食べずに朝を迎えることが出来るか?緑茶キノコの害は、ここまでで止まるのか?そして、食わなきゃ多少痩せるかのもしれぬ
October 24, 2007
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「東急百貨店の渋谷。当時の東横デパートには、エレベーターもありましたし、木製のエスカレーターがありました」「えっ?」「今は金属で作られているステップ部分が木製だったんです。いつも音ががたごとがたごと言っていました。」「エスカレーターって相当に精度を要求されるんじゃないですか?」「あれは精密機械ですね」「木製ですから精度なんて出ないですよね。遊びを相当とったでしょうから、音はしますね。固い木を使ったんでしょうけれど、それでも磨耗がはげしかったんではありませんか?」「子供の足だとステップの間に靴が挟まってしまい、それこそ事故がおきたら、大変なことになったんじゃないでしょうか。エスカレーターはそんなだし、床が寄木細工で、油敷きますでしょ。下からひどい匂いが上がってきて気分が悪くなる。目の前に見えるのは女性のお尻ばかりで、子供にとってはいいところではありませんでした」***「エスカレーター (Escalator)」は、もともと米国オーチス・エレベーター社(Otis Elevator Company)の登録商標で、商品名であった。しかし、当時この自動式階段を表す適当な語句が無く、一般に「エスカレーター (Escalator)」と呼ばれたため、普通名称となった経緯がある。オーチス・エレベーター社では、既に商標権を放棄している。---Wikipediaニューヨークのメイシーズデパートにステップ上面や手すり部分が木製の古典的エスカレーターが現役で使われている(1階から2階は金属、それ以外、地下へ行くESCも木製)ロンドンの地下鉄にも木製のものがあったけれども、1990年代に火事があり、漸次金属製への交換が進んでいるそうだ。今日の駅頭など、動くエスカレーターをさらに歩いて上り下りする時代に木製では耐久力がもたないが、悠然と登る(降りる)に任せるだけならば、それほど耐久性が悪いということでもないわけだ。日本では、耐久性のほか、気候、防災という観点からも、不特定多数の人間が利用する場所に、木製エスカレーターは、生き残る余地はなかった。メイシーズの1階から2階のESCが金属製であることには、耐久性のほかに「雨」(これも耐久性といえばそうだ)という原因があるかもしれない。
October 23, 2007
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「昨日、あなたとデートしている夢を見たの」「うれしい!ご飯でも食べる?」「そう。とってもいいところがあるって言われて、電車に乗って海の見えるレストランへ」「いいじゃん」「ところが、景色の良い一番良い席が取れなくて、斜めになった変な席」「...」「何もかも斜めで、飲み物も食べ物も斜めで、飲めないんだけど、こぼれもしない。おいしい料理が出てきても食べることが出来ないの。みんな斜めで....くやしい!」「怒んないでよ。斜めになって寝てたんで、そういう夢みたんじゃないか?」「そうかな?」「どうせ、僕とのデートなんて、夢でも、そういうオチがつくんだ」
October 23, 2007
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会社の先輩に、損保関係で全国を転勤して周られた方がいらっしゃる。今から21年前、札幌から長野へご転勤となったとき、奥さまのご様子がどことなくおかしく、お痩せになりはじめた。「すぐに検査をすれば良いものを、長野と札幌で離れていたこともあって、しばらく様子を見ていたら、さらに状態が悪くなり、これは、と思い、あわてて検査を手配しました」ご出身地を離れての転勤先からさらに別の転勤へでは、お子さまの学校、その他、ご家族帯同での移動は、すぐにはままならない。診断の結果は癌病院からはすぐに入院と長距離電話があり、あわてて休暇をとって札幌へ戻る。まだ二人の小学生と、突然、今まで当たり前のようにいらっしゃった奥さまが、そこにおられない生活。幸い手術は無事に終わられ、今年で術後21年。「かみさんが癌だったら煙草をやめればよかったものを」とおっしゃりつつ、一日一箱コンスタントなペース。「僕は全部カミサンの言いなりで」と申し上げると「いやいや、わがまま言わず、相手の言うことは半分は聞いてあげて」とやわらかくご注意。話しなど実は聞いていないことはお見通し。21年前のご経験が自然と、奥さまを大事になさる形になって表れる。「去年、面白いことがありまして」とひとつエピソードを「ちょうどそのとき、家内と同じ病室に、乳がんの手術をされた方がいらっしゃり、術後10年の記念にバラを10本贈ったのです。そうしましたら、去年、20本のバラがそのお相手から送られてきました」おふたりとも、20年を経てご存命ということで、なによりです。相手を大事にすることこれこそ夫婦円満、長寿の秘訣?だが、誰がカミサンの言いなりになど...
October 22, 2007
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一足早めの紅葉狩りにと、遠出。中央線の長坂駅から2キロ弱(直線距離は1km)。たいした距離ではないが、途中に谷を二つ挟む歩道のない道は、車も多く、達者な人でも30分では歩けない。武者小路実篤は、1915年(大正6年)10月、同人誌「白樺」第8巻第10号に「日記のかはり」なる一文を寄せ「小さくても気持のいい、本物のわかる人が見て喜んでくれる美術館を建てたく思ふ」と述べていた。爾来四半世紀余、八ヶ岳南麓の清春白樺美術館(きよはるしらかばびじゅつかん)は、実篤、志賀直哉ら「白樺」の同人が建設しようとして果たせなかった構想を、彼らと親交のあった銀座吉井画廊のオーナー吉井長三氏が1983年、この地に実現したものである。吉井氏は、もともと尾道の人。「文化は本来、大都会中心ではなく、地方から生まれた文化が、次第に広まって、中央に発信していくものだ。今のように、東京からだけの発信ではいけない。そんな思いから、尾道白樺美術館も造った。だから、大作に頼らず、ずっと手づくりにこだわってきた。尾道は、歴史と伝統の町である。だが、伝統とは、作ったものをただ守るだけではだめで、現代にも根付かないと意味がない。新しさとも一緒に共生して、その上で古いものを生かしていく―。若い芸術家の「原石」を見つけ出すことも、われわれの大切な仕事と思う」(中国新聞びんご人国記)との信念の下、1999年には、尾道にも尾道白樺美術館を設立している。こちら清春白樺美術館の収蔵、展示品は、実篤らが早くから高く評価してきたルオーの作品にはじまり、白樺派の同人である実篤、志賀直哉ら書画、同人が望んだセザンヌ、ロダン、ゴッホピカソ、マティス、白樺派の運動に参画した岸田劉生、高村光太郎、バーナード・リーチ、宮本憲吉、梅原龍三郎、中川一政らの作品、原稿、手紙などの資料が網羅されている。但し、白樺派が何たるかも承知しない自分には、美術館より、周りの景観のほうに興味が行く。美術館の入り口正面、広い芝生の真ん中には、ラ・リューシュ=蜂の巣と名づけられる建物。これは、エッフェル(エッフェル塔のエッフェルだが、実は彼のエッフェル塔への関わりは設計ではなく、彼の会社が施工したもの)が設計した1900年パリ万国博のワインパヴィリオンで、後にモンパルナスに移築、アトリエに改造され、若い頃のシャガール、モジリアニらが住んだことで知られる建物の再現。会員になると、各ユニットは一日6000円で借りることが出来る。折からの土曜日、14時からは美術館奥の教会で結婚式。披露宴がそのあとなのだろう、美術館に附属のレストランの営業は13時まで。三々五々人が集まり、ラ・リューシュ1階の一部が控え室に使われていた。芝生の向こう側には、檜の木を利用した茶室「徹」NHKの新日曜美術館などでも紹介されたので、ご存知の向きもいらっしゃるか。解説を写真に撮ったが、読みにくいので本文を下に記す。茶室 徹(てつ)この茶室は、建築史家・藤森照信氏(東京大学教授)の設計によるものです。屋根の銅板や壁の漆喰を塗る作業は縄文建築団のメンバー赤瀬川源平、南伸坊、林丈二氏らが手伝って作り上げました。茶室を支える檜は清春芸術村に植わっていた樹齢八十年の木を使い高さは地上約四メートルで室内は一.七坪になります。命名は作家・阿川弘之氏によるものです。2006年4月完成美術館前のベンチに腰を下ろして本を読みつつ、ふとラ・リューシュの方を見やると、紋黄蝶がひらひらと舞っていった。アキアカネもやってきて膝に止まる。これほど近くアキアカネを観るのは何十年ぶり。朱赤のビロードのような胴体 と思った視線にアキアカネは飛び去る。美術館を出て近くの道を散策していると、栗の毬が落ちている。割れて中の実が見えているものもあり、拾い集めていると、むこうから婆さんが坂を登ってやってくる。叱られるのかと思ったら、「古いのばかりで色悪いだろ?そっちの土手のところにまだ少し残ってるかもしれねぇぞ」と教えてくれる。「ほれ」と言って差し出された手の栗は、落ちていたとは思えないつややかな栗色をしている。「山栗だかんな。あまり、うまくはないけどな」そう言ってさらに2-3個拾って差し出され、自分でもいくつか拾ってみた。近くの都市農村交流センターで野菜を買う。建物前の駐車場で八ヶ岳の油絵を制作中だったおじさんが、慌ててやってきて「あらかた売れたあとなので」と申し訳なさそうにレジを打つ。かぼちゃ、じゃがいも、たまねぎと選んだら、大きな冬瓜をおまけにつけてくれた。全部で350円。美術館の敷地内に、岩波書店の社長だった小林勇(冬青)の居宅を鎌倉から移築した「冬青庵」で、庭越しに、鳳凰三山、南アルプスを眺めながら昼食。鮎の塩焼き、きのこのてんぷら、松茸の炊き込みご飯、つけもの、栗のグラッセゆっくり時間をかけて昼ご飯を済ませ、白州へ向かう。山梨県西北部の小淵沢町、長坂町、大泉町および高根町の各町は、その町域のほとんどが八ヶ岳南麓の古い泥流により形成された台地「七里岩」の上にあり、長坂町所在の清春村芸術村は、その南端に位置する。以外と険しい七里岩南面のつづら折を、標高差で150mばかり下ると、やがて、長坂町から白州町に入り、釜無川を渡り、今度は登りに転じる。台ヶ原から白須上にかけての旧街道台ヶ原宿は、木曾の馬籠、妻籠ほど知られてはいないが、江戸時代甲州街道宿場の雰囲気を今に残す。銘醸七賢、信玄餅の金精軒ほか、おそらくは宿場以来の旅館が3-4軒。洪水時には、岩と岩がぶつかり合い火花が散ると聞く急流釜無川。南アルプス北部、山梨県と長野県の県境に位置する鋸岳(のこぎりだけ)に源を発し、南アルプス、八ヶ岳の水を集めて、甲府の南で笛吹川と合流。富士川と名前を変えて、富士西麓を流れて駿河湾に注ぐ。釜無川の治水は、鉱山開発とともに、武田家土木技術のバックボーンを鍛え上げ、やがて、織田、豊臣、徳川へと受け継がれる。徳川氏による、当時の世界最大都市「江戸」の都市開発は、武田家以来の技術無くば、実現し得なかった。釜無川を境にその南岸は、南アルプスの山麓となる。台ヶ原から国道20号をしばらく北西へ行くと、サントリー白州蒸留所。蒸留施設、貯蔵施設の手前赤松林の中に、工場見学者用の、山崎蒸留所の建物を模した博物館、レストラン、バーが並ぶ。駈け足で、最上階の展望台まで登ると、ガラス越しに、南に鳳凰三山、北に八ヶ岳を展望する。白州とは、川の流れにより、花崗岩の山肌が削られ運ばれて形作られた白砂の扇状地から名づけられた地名で、サントリーは京山崎に次ぐ二番目の蒸留所として、1973年に設立された。博物館のあと、売店に入り、昨年、留さんとここで買って楽しみにしていた、白州蒸留所限定のウィスキーボトルは、連れ合いの友人の鈴木君という人が飲んでしまったので、再び購入する。(もっとも鈴木君からは、そのあと北杜の12年をお返しにいただいているようなのだけれど)白州蒸留所は標高700mだが、残念なことに、まだ紅葉には2週間ばかり足りない。ならば、と武川(むかわ)沿いを登るか、と思うが、夕暮れまで時間がなくなってきたので、武川から一谷西の尾白川渓谷を登ることにした。シャトレーゼ(お菓子屋)の工場から坂を降りて、もう一度国道20号にとって返し、白州小東の信号から2kmばかり借入の終わった畑の中を登っていくと、やがて林間の別荘地へ入り、さらにその奥へと進めば、急に林が開け、山間は尾白川沿いの駐車場に行き当たる。そこから先は、キャンプ場までは、そこまで行く車だけが通れる山道。駐車場から10分ほど、途中川原のキャンプ場を眺めながら、さらに川に沿って登ると、駒ヶ岳神社。甲斐駒の登山口入り口だ。お参りして、神社をさらに奥へと進むと、吊橋があり、尾白川渓谷の対岸に渡る。標高は1000m近くはあるのだろうが、吊橋の上から上流、下流と景色を眺めても、残念なことに、まだ紅葉までは、ここでも間がある。やむなしと、紅葉は諦め、山を下ることにした。白州の名前の通り、尾白川渓谷は、花崗岩を水流が削り取った白い岩と砂の川原だった。
October 21, 2007
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母の病状に関する主治医のコメント「戻した原因は分からないが、数値的には悪くない。誤飲も考えられるので、前回のように肺炎を起こさないように抗生物質を投与している。本来であれば3日ぐらい胃を休ませたら経管食に戻してもいいところだが、週末にかかってしまうと、土日に何かあっても対応できないので、来週初めから戻すことにしたい。経管食に慣れてきたところなのに、また振り出しに戻ってしまった。以前は経管食(エレンタール)とアミノレバン両方を経管から投与していたが、アミノレバンはかなり量が多いので、まず経管食だけを再開し、アミノレバンは経管でなく、このまま点滴で投与を続ける」今日はとても落ち着いていて回復傾向。良かった。
October 21, 2007
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昨夜の雨と一転して、今朝は晴天。土曜の朝、街を行くと、空が高く、並木も赤く変じている。「秋だ」と思う。そういえば、先日お目にかかった先輩がおっしゃっていた。「春のとんぼは、里で生まれて山へ登り、そこで出来た子供が秋に里へ降りてきます。毎年同じところに同じ向きにとまるのは、去年来た親の孫だからでしょう。花屋さんの店先には一文字せせりが居ましたよ」とんぼを見かけたのは一昨日か?一文字せせり、名前に覚えがあるが、どんな蝶だったか?紅葉を観に出かけることにした。
October 20, 2007
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小中学校の同級生で、自宅で私塾をやっている女性がある。ご亭主も彼女を通じて存じ上げていることもあり、ときたまご自宅へおたずねする。感心することの一つが彼女の蔵書。わが家もそうだが、連れ合いと同居するということは、お互いの蔵書も境界近くでは次第に交じり合い、今やはっきりとした一線があるわけではない。そういう意味では、「彼女の」というより「ご夫婦の」というべきなのかもしれぬが、これが実に良い。蔵書の内容は無論のこと、蔵書は、すなわち、持ち主の読書歴であり、何を読み、何を残し、いかに整理するかは、持ち主の人生を一部表わす。翻って自分。もとより書斎があるわけもなく(PCが置いてある部屋は、家人の洋服ダンスも並ぶ、通路兼、倉庫兼、書庫兼、衣装室のような場所で、私がPCを叩く後ろを家族が行き来する)、従ってさしたる蔵書もないのだが、実に濫読。残すべき本はどこかに散逸。書架にある本は二度と読まぬようなものばかり。中にはビデオテープ、CD、あげくに、78回転のレコードまで出てくる。残念なことに、かの女性の蔵書と同じ本が棚にあるケースもままあるのだが、同じ本が、持ち主と整理の仕方で、こうも違って見えるものか...彼女の蔵書を観ると、ますます自分の蔵書が自分の人生と頭の中の結果であることが実に良く分かる。こりゃまずい。
October 19, 2007
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下の息子が消音ドラムの練習をしていると、私の大嫌いな地震かと思ってはっとする時がある。昔、ご近所の男の子がドラム(当時は消音ドラムなぞない)の練習を毎日やっていて、父親がどなりこんだことがあった。隣の家の芸大声楽科へ行ってたお姉さんの歌声も相当応えたが、そちらにどなりこまなかったのは権威主義による差別。うちの妹もピアノでは相当に迷惑をかけたはず。最近は、あまり耳には入ってこないけれど、ご近所の騒音公害はまだまだ結構あるようだ。近所の女子寮から、24時間絶え間なく音楽が流れてきて、気持ちの良い季節なのに窓を開けられなくなって困ったYYさん。菓子折持って、そちらに伺い「音楽を流されるときは、窓をお締めになったほうがよろしいですよ」とやわらかにチクリ。騒音公害ではないが、最近、屋外で宴会をやらかす連中があるらしい。学生さんたちが、派手におやりになっているのは、聞こえてくるが、住宅街でも発生するとは!しかも、学生さんではなく、社会人みたいな連中らしい。学生さんだから良いというわけではないが、経堂にしても、ある意味学生街は、今に始まったこっちゃなかろうし、毎年同じ人がやるわけじゃない。私達にも覚えがあって、人に迷惑をかけなかったかどうか、必ずしも自信はない。しかし、そういう経験も経たであろう?常識あるべき社会人がやるとはただ事ではない。マンションの自転車置場で宴会して、朝になると食べ残し、空き缶などが散乱。当然、植え込み、物陰はトイレに使われる。と聞くと、世の中困ったことになってるわけだ。
October 18, 2007
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日曜に見舞いに行ったとき、顔色はよかったのだが、反応が鈍く、調子が悪いのかな?と思った。昨日、見舞いに行った妹から連絡があり、2回戻したということで点滴対応になっている様子。しばらく胃を休ませるためということで、戻したものに血が混ざっていたので、止血剤とアミノレバンを点滴中。前回は戻したあと、誤飲→肺炎→危篤となってしまった。早く点滴状態からもとに戻れればよいのだが、それも心配。
October 17, 2007
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1950年代日活の「女中っ子」という左幸子主演の映画で、緑中(世田谷区立緑丘中学校)がロケに使われている。一度はテレビで、もう一度はどこでだったか?見たことがあるけれど、記憶はそれほどはっきりしたものではなく、機会があれば、もう一度見たいと思っていた。先日、インターネットを調べていたら、Amazonでは在庫切れ、たまたま在庫切れの表示がないサイトがあったので、注文したところ、10日ばかりした土曜の夜に、ビデオが配達された。特に急いでやらねばならぬことも思い当たらぬし、週末ということで、早速見ることに。白黒映画で、上野駅に秋田から左幸子演ずる女中が上京してくるところからストーリーが始まる。上野駅の山手線。白黒だから黒にしかみえないが電車はあずき色で、前サボが、電車正面の真ん中にオレンジ色の三角で、山手若しくは山手線と入ったものだった記憶がある。電車の上に換気塔が何個も並んでいるのが特徴で、ドアは片開き。ドアを入った中央には縦に鉄棒が立っていた。田舎から出てきた女中が、東京郊外の住宅地に住むサラリーマン家庭(で過ごす数箇月間の生活を、その家庭の次男と女中とのやりとりを軸にストーリーが展開していく。サラリーマン家庭といっても、佐野周二演じる家長の職業は、時計会社の総務部長というふれこみだから、車でお迎えが来る、今で言えば、セイコーの執行役員専務管理本部長殿みたいなもの。映画では世田谷区以下は架空の地名を言っているけれど、ビデオの解説には田園調布(ご存知の通り田園調布そのものは、世田谷区ではない)と書いてあるので、由起しげ子原作の舞台はそうなっているのかもしれない)緑中は、次男が通う小学校のシーンで使われていて、運動会のシーン、運動会が終わったあと、数を頼んで次男を「女中っ子」とはやしたて、いじめた同級生(会社上役の息子)にかけっこで「ずる」をしていないことを証明するため、左幸子が一緒に走るシーン、そして、ラスト前の次男とのお別れ合計3回使われている。お別れのシーンの校庭に運動会徒競走のラインが引かれたままになっているのは、ロケがおそらく一日若しくは、極めて短期間で終了したことを示している。今の校門あたりから「けやき」方向への徒競走などを、スタートからゴールに向かうにつれ、カメラ一をだんだん上方にパンしていく撮影が多様されているが、たぶん、クレーン車を使った、当時としては斬新な手法だったのだろう。けやきから、今の桜丘高校、桜上水3丁目から赤堤3丁目のほうを展望するシーンが映るが、向こうのほうに林の梢が見える手前に家は全くない。真新しい空色の木造校舎は、けやきより南側までしか完成していない。(といっても、昭和50年以降の卒業生は、木造校舎を知らない)木造校舎は最終的に、第三校舎まで建設されたが、この時期は、第二校舎の建設途上だった。後に、校舎の正面玄関になった入り口が校舎の端。学校の先生が、左幸子といじめっ子の母親を呼んで話しをする応接室のシーンが出てくるのは、もしかすると、緑中の応接室の映像かもしれないが、私の時代ではないので、定かでない。緑中以外のシーンは、緑中近辺のものではないと思われるが、それでも、当時の世田谷とは、駅からちょっと離れれば、田園調布といえども、あんなものだっただろう。旦那さんを演じているのが、佐野周二(関口宏の父親で、昔からオヤジのほうがイイ男と言われていて、実際、久しぶりに見るとその通りだ)。左幸子、佐野周二のほかには、奥さま役が轟夕起子。長男の家庭教師役で宍戸錠。東山千栄子も出ている。短期間で撮影されたのだろうけれど、映画全体としては、驚くほど丁寧な作り。監督・脚本の田坂具隆という人は、戦前のヴェネチア映画祭で賞をとるほどの水準にあった監督で、桜上水在住。地元の中学校をロケに使用したわけだ。映画の家庭「加治木?家」は、坂道の途中の家だが、田坂家も坂の途中。イメージは自宅そのものかもしれない。当時の緑中を記録する貴重な映像ご希望があれば、ビデオをご披露したい。
October 14, 2007
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りそな銀行は全国に271ある支店で「支店長」職を廃止する。一部地域で試験的になくし、2008年度から全廃する方向で検討。行員の法令順守の徹底など内部管理で支店長の負担が重くなっているため、内部管理と営業担当の責任者を分けて置くことで、顧客との接点を強化する。支店長の肩書を廃止するのは大手銀行で初めて。 かつて、銀行へ勤める子弟とその親御さんたちは、「できれば」「せめて」支店長まで出世したいといっていたもの。地域の営業現場最高責任者「一国一城の主」的なところがよく見える象徴的な職位ということだった。(同じ支店長でも、大きい店から小さい店まであって、一律では無いし、実際には、商社、生損保、ゼネコン等の支店長のほうが、希少性があり、かつ、権限も大きいような気がするが、良かれ悪しかれ、20世紀後半の日本では、象徴的ポジションだったということができよう)むき出しで立身出世を望むのは時代錯誤或いはエコノミックアニマル?だが、向上心がそのような形で現れることを、鼻で笑うような風潮には賛成しかねる。仕事をしっかりこなすこと、そのことに悪い部分があろうはずもない。こつこつ真面目に、人並みの努力を続ければ、支店長まではなれるかもしれない。そんな思いで、大多数の人々が働き、その努力に社会が報いることが出来る。違う道へ進もうと、途中で挫折したとしても、暖かく社会に迎えられる道が常に確保されている。ともあれ、銀行の支店長というシンボリックな役職が廃止されることまで出てくる時代になった。何ごとも永遠には続かない。その事実の前には、誰も逆らうことはできない。
October 14, 2007
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「つい悪口を言ってしまうけれども、まだ若いのに亡くなってしまうと、可愛そうだなと思います」と、行き着けの酒場でご一緒する先輩。学校(大学院)の後輩にあたる建築家黒川紀章氏が10月12日朝亡くなった。心不全(多臓器不全)。「ご内儀の若尾文子さんは東京のご出身だが、仙台の第二高女にいらっしゃって、当時から第二高女の美女として有名でした」かくおっしゃる先輩も、ちょうど若尾さんが在学していらっしゃる時期に仙台の学校へ通っておられた。黒川氏より先に若尾文子を知っていた!「好みのタイプではありませんでしたから」とは贅沢。***1983年にご結婚。プロポーズの言葉は「きみはバロックの美のようだ」若尾さんの「私っていい奥さんじゃなかったわよね」との問いかけに「そんなことない。そんなことない。本当に好きだった」と答えたのが最後の会話黒川紀章をやるのも、若尾文子さんの旦那さんをやるのもしんどいだろうなと思うが、存分におやりになった。ご冥福を
October 13, 2007
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宮坂3-30に小さな祠がある。敷地にあるけやきの大木の根が周りの閑静な住宅街にアクセントを与えている。昔から、この祠の意味を考え、かつ、図書館などで、言われなどを調べているのだが、残念ながら、未だ資料に行き当たらない。しかし、いくつか別の資料を読んで思い至るところがあり、備忘録として書き留めておくことにした。古い資料で、世田谷の地名という本が、図書館にある。その資料を見ていると、明治初期の経堂在家村の地図が手書きで乗っていた。明治14年というのが、参謀本部が全国を測量して作らせた、俗に「フランス式」と言われる表記の方法による日本最初の近代地図編纂の皮切りだが(それ以前の伊能忠敬の地図は、測量のレベルとして素晴らしいが、さすがに細かい部分まで、記載されてはいない)、それとは違い、手書きの略図。それによれば、当時、今の宮坂の町内は、北から、鶴免、辺房谷、宮ノ坂と字が続く。鶴免というのが、ほぼ今の宮坂3丁目。辺房谷、宮ノ坂が宮坂2丁目か。宮坂と松原宿の境は、今は、世田谷線の線路だが、昔は、世田谷宿(上町)と高井戸宿を結ぶ(松原)大山道(世田谷八幡脇の坂から世田谷線の線路を渡り豪徳寺駅に至る)。鶴免、辺房谷あたりでは、昔の瀧坂道(青山街道)が、旧世田谷村と経堂在家村の境。そのように書くと、経堂の中心を、農大通り、旧瀧坂道である本通り/すずらん通りが小田急線と交差する経堂駅であると考えるわたしたちの感覚からすると違和感がある。しかし、前述の地図を見ると、明治前期までの経堂在家村の中心は、経堂駅付近ではなくて、瀧坂道の旧道と、六郷田無道(上町から農大裏を経て、千歳船橋駅前を通る古道)以上二本の古道筋であることが分かった。瀧坂道古道は、宮坂常徳院の手前、宮坂1-43で経堂本通りと別れ、南西方向に向かう。ここの追分には、庚申さまが置かれている。追分を左に入り、しばらく行くと住所が宮坂1丁目から経堂1丁目へと変わり、やがて城南信用金庫の南で農大通りと交差する。この交差点の東北角に祠があり、大家のおじいさんから「交通事故で亡くなった人の供養」と教わった。今思えば、行き倒れの旅人の供養の意味を噛み砕いて説明していただいたのかもしれぬ。農大通へ曲がらず交差点を直進すると、やがて小田急線をくぐり、経堂西通りのほうへ出る。小田急線の北へわたり、今度は経堂2丁目と3丁目の境をたどり、経堂3-28恵泉女学園前の角に再び祠を見て、北へ転じ、経堂小学校前で再びすずらん通りと合流する。明治14年参謀本部作成地図において、「古道」沿いに集落が見られるに対し、本通り、すずらん通り沿いは、山林の表示である庚申塚、祠などの道標が、本通り、すずらん通りにはなく、こちらの道に見られるまた、庚申塚、祠などの道標のあり方は、烏山川を挟んで、六郷田無道においても「旧道」とほぼ同様に見られるこれらのことから、明治前期まで経堂在家村の中心は、「古道沿い」及び六郷田無道沿いであったであろうと想像できる。農大通りは、経堂大橋をはさんで、経堂在家村南北が行き来する経路であったのだろう。さて、宮坂3-30の祠に話しを戻すと、この場所の住所は宮坂であり、このあたりは古くから経堂在家村ではなく、世田谷村に属していた。したがって、この祠を含め、この一帯の祭祀は、世田谷八幡のお差配と考える。実際、わたしたちの同級生で宮坂3丁目にお住まいのM君は、経堂天祖神社ではなく、世田谷八幡にお参りしているようで、元旦に八幡さまでお見かけしたことが一二度ある。先ほども書いた通り、明治前期まで宮坂3丁目一帯は山林であるが、中に何本かの道路が走っていて、祠の周りの道は、その頃の風情をわずかに伝えるものなのだろう。祠の意味であるけれど、ひとつは、ここが世田谷村のはずれであることに関係しているだろう。この場所は、世田谷から連なる瀧坂道が走る、烏山川と北沢川間の馬の背状台地のひとつのはずれであり、北沢川の合流点に張り出した岬のようなところである。北沢川の田んぼに団地が建つ昭和35年より以前までは、祠の裏(東)に入れば、やがて眼下に北沢川流域の田んぼが広がり、北に上北沢村「左内稲荷(経堂赤堤通り団地北の祠)」の森を望む風景が見られたはずだ。祠の前を通る道は、坂を下り、北沢川とその支流にかかるいくつかの橋を渡って、北沢村、赤堤村へとつながる。つまり、この祠は、世田谷村から上北沢村、赤堤村との行き来の道標としての役割、及び、それ以前には、上北沢方面への見張りの役割があった場所なのだ。隣村ではあったが、世田谷村と上北沢村/赤堤村とは、あまり関係が良くないのかもしれない。もともと、江戸時代、世田谷村は井伊領だが、上北沢、赤堤村は天領。明治に入っても、当初世田谷村に帰属する(最近の町村合併と一緒)予定だった上北沢/赤堤/松原連合村は、最終段階で、世田谷村に入らず、別に独立して新たに松沢村を形成し、その関係は、昭和7年世田谷区成立まで続く。また、経堂在家村と世田谷村の関係も微妙かもしれない。経堂2丁目の古い字は「かじ山」だけれど、今、梶山さんと名前のつくお宅は、宮坂3丁目に多く、経堂2丁目でお見かけすることは少ない。このことは、「世田谷の地名」にも記載があった。経堂駅前、福昌寺の墓地を拝見すると、松原というお宅の墓碑が非常に多い。松原は、旧松原村、松原宿の松原であろうから、経堂在家村は世田谷村と同時に、松原村との関係が深いところだったかもしれない。そういえば、宮坂には松原さんはお見かけしない。今後ここいらを調べて、さらに詳しくご報告していきたい。***経堂周辺の神社は、川に臨んだ台地の上に多く見られる世田谷八幡は烏山川の北岸沿い経堂の天祖神社は、烏山川の南岸沿い八幡山の八幡は、烏山川の北岸祖師谷の北神明社は仙川の西岸南神明社は仙川の東岸上北沢の八幡は、北沢川の南岸それぞれ台地の上にある赤堤の六所神社も北沢川支流を見下ろす台地の上松原の菅原天神は、六所神社前を流れる北沢川支流のさらに上流、水源地の上松蔭神社は烏山川の南岸上馬駒留八幡は、蛇崩川の緑道を望む北岸台地の上鶴巻神社は、その上流、蛇崩川の合流点を臨む西の丘の上船橋の稲荷森神社は、烏山川支流のほとり街道沿いの低い場所にあり、こちらは、上の例に入らない同じく船橋の神明社は、台地の上でこちらも例外(おそらく宝性院が別当寺で、近世にお寺が勧進したのかもしれない)但し、希望ヶ丘小学校の裏手に小さな祠があって、こちらは烏山川に臨んでいる。
October 8, 2007
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朝、家の雨戸を開けると、風の向きか、庭先のオレンジ色の花から強い香りが漂ってくる。「今日は沈丁花が強く匂うなぁ」と家人に声をかけると「沈丁花は春の花よ。貴方がおっしゃっているのは金木犀でしょ」と、朝からご注意。「芳香剤の香りで花の名前を覚えているような人」「同じ漢字三文字だから、どちらがどちらなのか。来年沈丁花が咲いたら教えて上げるわ」経堂には、なぜか金木犀がいっぱい生えているような気がすると言えば、「夏は暑いからお散歩しないじゃない。秋になって昼間お散歩するようになって、花の香りも強いから、印象に残るのよ。秋に、桜が多いなとは思わないでしょ」なるほど。古い時代の外来種で、日本には雄株しか入ってきていないので結実しないそうな。そうすると、全部挿し木で増えたわけ?庭には、芙蓉も咲いた。あとの花の名前は分からない。
October 8, 2007
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角川クロスメディアという会社が出版する雑誌に東京ウォーカーというのがあり(エリア毎の編集なので関西ウォーカーとか横浜ウォーカー、北海道ウォーカーとかもある)、そのホームページに、「東京住みたい街」ベスト100が毎年出る。最新版では、1位 吉祥寺2位 自由が丘3位 下北沢4位 恵比寿5位 神楽坂6位 表参道7位 お台場8位 浅草9位 代官山10位 二子玉川がベスト10若い世代が中心の調査だろうから、わたしたちの感覚とは必ずしも一致しない。小田急線その他、世田谷の駅がどれぐらいのところにあるのかをご案内する。12位が三軒茶屋、成城学園が28位サンチャのどこに人気を感じるかは人それぞれだけれど、個人的には、三軒茶屋より成城が好み新宿26位、渋谷33位この場合の新宿、渋谷ってどこだ?町田30位、代々木上原31位、経堂59位、豪徳寺94位と小田急沿線個人的には、梅丘、祖師谷大蔵のほうが豪徳寺よりは好きだ調布39位、笹塚49位、府中53位、下高井戸55位、八王子78位、明大前90位、千歳烏山92位、仙川97位と京王線都心からの距離感と、街としての機能が微妙に入り混じった順位だな。京王のラインナップを見ると、小田急の梅丘、千歳船橋、祖師谷大蔵はランクインして当然と思える(東京の駅なので町田は登場するが、登戸、向ヶ丘遊園、新百合丘などは登場しない)井の頭線は、吉祥寺、下北、渋谷のほかは、浜田山64位だけ。西永福いいんだけどなぁ。知名度でいえば、久我山、永福町といったところかな?東急は、駒沢大学54位、用賀58位、桜新町60位、池尻大橋67位、上野毛83位と並ぶ中、学芸大学80位は、それはないだろっという感じ。原宿86位、青山99位とか、表参道とどこが違うんだ?と思うように、個人の地名に対するイメージ、地名の認知度も相当に影響しているし、そのまま人気投票というわけでもなさそう。まあ、ご参考まで。
October 7, 2007
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駅前のスーパー、図書館と用事があって、ついでにお祭りにおまいりに行こうと、家人と家を出た。ぶらぶら駅方向へ向かう。今週は足の裏にマメをつくってしまい。ゆっくりしか歩けない。「こんにちわー。お散歩ですか?」と声をかける人が居るから、家人の知り合いだろうと思ったら、案に相違して、近所の飲み友達のNさん。夜と違い昼間のお髭姿はなかなか精悍でいらっしゃるちょうど外出から戻られたとだそうで、「ちょっと待って」と車の中から見事な梨をふたつ取り出し、それを下さった。御礼を申し上げて、先へ進む。図書館で本を返却し、書架の本をいくつか眺めて、外へ出た。しばらく行くと、家と家の間の通路から向こう側の道が見える。今まで何十年も歩いて、そのことには気づかなかったから(気づいていれば当然、小中学校の時代に抜け道として使っただろう)、最近の建て替えで何か途中の建物が変わったのかもしれない。子供たちに知っているかどうか尋ねてみよう。(わが家の連中は、親の影響か、学校の行き帰りには、街のありとあらゆるところを通って好奇心を満足させてきた)話しながら歩いていると、向こうから中学校同級の金子君が歩いてくる。すれ違いに軽く目礼。「数年見かけなかったのが、ここ3回ばかり頻繁にお見かけする。転勤か何かで地元にいなかったのかな?」などと話しているうちに神社に。そろそろ3時を回るというのに、屋台の人たちはのんびりムード。昔、境内にところ狭しと並んだ頃の3分の1もない。土曜の午後、4時に近いこの時間となれば、小遣いの中でどうやりくりして何を遊ぼうかという子供たちが大挙して押しかけてたものだが...うちの子供たちも良くお祭りへ行っていたけれど、それからわずか数年で、ここまで誰も居ないとは。お祭りがはやらないのかな?と言うと家人が「子供の数が少ないのよ」ご寄進いただいた方々のお名前と金額を張り出しているところで「一万円も出せば一番上か お金集まんないんかな?」「5千円で二段目じゃない。6千円なら一番上に行ける」「5,050円じゃだめかな」「せこい。たぶん5千円の上は一万円なんだよ」旧家のお名前と、ご商売の方々のお名前が並ぶ。「○○さんは偉いもんだ。一番上にお名前が出ている」昔、通勤で7時過ぎに○○さんのお宅の前を通りかかると、奥さまが家の前の道路を掃き清められ、旦那さんのお出かけには、奥さまが玄関先から家の前の道まで出てこられて、お辞儀でお見送り。旦那さんもだが、奥さまが良く出来た方なのだろう。昭和30年代には良く見られた光景だろうが、それから2-30年後のこと。家人にその光景を話したものだ。「○○さんは地元の方じゃないと思うんだが」「じゃあなたも1万円?」「そういうことじゃないさ」あん肝を塩とお酒に漬けて家を出たのに、小ねぎが買っていないのに気づき、もう一度駅前スーパーまで行って帰宅。日曜夜8時過ぎに、家人と娘がお参りに行ったところ、「まあまあの人出」とのこと。なんとなくほっとした。
October 7, 2007
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その後の容態を主治医に聞いた経過は良好左胸の胸水は、前回と比べ少なくなり、レントゲンで黒い部分がくっきりと分かるようになってきたたんぱく質の多い栄養剤に変えたことと、利尿剤を変えたことが効果を発揮したと考えられる結核は陰性、ガンの可能性は低いよって、来週もう一度レントゲンをとり、胸水が減っていたら先日説明の検査を行う必要はなくなる良かった睡眠もとれているようだ
October 6, 2007
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北口に信号がつく。あれだけ信号をつけるのが大好きな警視庁(警察庁かな?それとも世田谷区役所?)ほかにあれだけ、いらない信号機をつけておきながら、なんで経堂駅前だけって思っていた。踏切があった時代、無くてもあまり問題がなかった。線路が高架になって、車がいろいろな方向から来て、いろいろな方向に向かう。車だとどうしようかと思うときもある。農大通りから出て、西通りへ農大通りから出て、すずらん通りへ農大通りから出て、西福寺通りへ(農大通りから出て、本通りへ)西通りから出て、すずらん通りへ(曲がっていいのかな?)西通りから出て、西福寺通りへ西通りから出て、本通りへ西福寺通りから出て、すずらん通りへ西福寺通りから出て、西通りへ西福寺通りから出て、本通りへこれに歩行者がからむ信号がついたら、今度はそれで渋滞しないだろうか?駅前広場が出来るからどうにかはなるのだろうけど。
October 3, 2007
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現在、経堂小学校の学区域は、桜上水2丁目の一部と船橋5丁目を除き、緑丘中学校の学区域と重なっている。緑丘中学校の歴史を見ると、緑中は1947年5月3日に今の上北沢小学校内に上北沢中学校として設立、2年後の1949年5月4日に現在の住所に移転してきた。すなわち最初の2年間は上北沢小学校に同居していた。中学校といっても実態は、戦時中の国民学校高等科(初等科6年、高等科2年、以下便宜上小学校という)で、校舎は新設されるまで小学校(国民学校)の校舎を使うのが一般。このときの疑問は、しかし、たとえば経堂駅北口に住む新制中学1年生が、上北沢の北口まで毎日通ったのだろうか?だった。おそらく、1947年の新制中学発足当時は、上北沢中学校、松沢中学校のほかに、経堂中学校(或いは、上北沢中学校の経堂分校?)が存在したのではあるまいか?と考えていた。ところが、最近知った事実は、さらに?過酷だった。経堂小学校の卒業生で新制中学校へ進学した女子は、松沢中学校へと進学した。この場合、当時の経堂小学校の学区域を考えると、一番過酷なのは、西経堂団地あたりに住んでいる女子が、蜿蜒下高井戸まで、歩いて通ったあたりか?一般にすずらん通りの南側は厳しそうだ。男子はさらに過酷。平和中学校というのが、当時の都立千歳高校に併設され(現在の都立蘆花高等学校の場所)、そこへ、塚戸、祖師谷、経堂出身の男子全員が集められた。経堂駅あたりからだと、蜿蜒すずらん通りを通って水道道路を越え(これで1km)、八幡山の八幡神社を経て、千歳台交差点から東京中央農協(当時は千歳農協)を過ぎて千歳高校へ。或いは、道路が混むようだと(すずらん通りは、当時、準幹線の都道)、烏山用水沿いを使う経路もあったかもしれない。いずれにしても、3km、片道4-50分の距離。それは緑中が出来てよかったなと思うが...娘の同級生で、上北沢5丁目(環八の山田電気の北ぐらいか?)から緑丘中学校へ通った人が居た。八幡山駅まで歩いて10分。そこから京王線で桜上水まで電車が5分。桜上水から緑中までさらに10分。歩いて帰ると40分。意外にまだ過酷なのだ。
October 3, 2007
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病院から呼び出しを受け、主治医の話を聞いた。 話の主旨は、胸水が左側だけたまっている状態に関する治療方針の確認だった。 ・この1ヶ月ぐらいほぼ安定した状態を保っている ・微熱がある状態が続いており、最初は尿路感染を疑って抗生物質の投与を行ったが、効果が出ず、原因は尿路感染ではないと推測 ・白血球など炎症を示す数値はさほど高くない ・8月に比べ、9月下旬・10月上旬の胸のレントゲン写真を見ると、左側の肺だけが白く映っている。CTでも左胸だけに水がたまり、肺・心臓を圧迫している状態が確認できる ・昨日、本人が胸の苦しさを訴え、胸部モニターを取り付けた しばらくで表情は通常に戻ったが、体の向きによっては胸水に圧迫されて肺・心臓が苦しいのかもしれない。さらに悪化すると呼吸不全に陥いる。 ・肝硬変が原因の胸水だとすると、両胸にたまっていくはずなのに、左胸だけなのは肝硬変以外の原因が考えられ、結核または肺ガンが疑われる。それが熱の原因かもしれない ・現在、検査中で結果がまだ出ないので何とも言えない。検査でどちらか判別か付かなければ、長い注射針で胸水を少量抜き取り検査する方法をとって、原因を究明したい。この検査はさらに病状を悪化させる危険性を伴うので、同意書が必要。 ・肺ガンであれば全身状態から考えて治療は出来ない。結核であれば治療は可能 ・胸水を強制的に抜く方法も考えられるが、血液が混じっている場合にはそれは出来ない。いろいろな可能性を考えると、今回は検査として胸水を少量抜く方法をとりたい。 ・他の検査結果によっては、血が止まらない危険性が高い等の場合は、胸水を抜く検査も行えないことがある。 ・胸水を抜くには、一時的に息を止めるなど本人の協力も必要。今はある程度意志の疎通が出来るが、協力が不可能な場合には結果として胸水をとらずにやめることもあり得る。 ・左胸に限らず、全身に水がたまって浮腫みが出ているのは肝硬変によってアルブミンが極端に減っているためである。 危篤からの回復以降、徐々にアルブミン値が上がってきているが、まだ正常値からは程遠い。 アルブミンを投与することにより、浮腫みの進行を止めることが出来るが、一時的なものになりがち。 ただ、このまま水が溜まり続けるのをほっておくよりは、アルブミンを投与して改善をはかりたい。血液製剤のためHIV等に感染する可能性があるので、これも同意書が必要。 ・昨日から高たんぱくの栄養食に切り換えている。(アルブミン値改善のため) ・昨日は興奮して一晩中眠れなかったようだ。栄養食を変えたことが原因か? 以上が説明。 家族で相談し、胸水検査、アルブミン投与とも同意書にサイン。 新たな事態の可能性とは別に、母は昨日、今日とても元気で、看護士さんが痰を吸引しようとすると「痛くしないでね」とか、いろいろなことをしゃべる。 興奮の原因が何かは良く分からないが、そのせいか。 だが、眠れないのは困る。
October 3, 2007
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東京駅の北側に1921年開設された交通博物館は、1936年、施設拡充のため、神田須田町、旧万世橋駅跡地に移転、爾来約70年。過日その歴史を閉じ、今般、さいたま市の「埼玉新都市交通」大成(おおなり)駅前に新たに建設された鉄道博物館に、その役割を引き継ぎ、10月14日オープンする運びとなった。JR中央線の御茶ノ水と神田の間。廃止になったホームと赤レンガを尻目にオレンジ電車が走りぬける。保育園の卒業記念の遠足で訪れて以来、デートに、子供たちを連れて、等等、「結局は自分の趣味」とか家族にいやみを言われながらも何度も通ったもの。子供の居ないWeekday、山手線の運転シミュレーターに会社を抜け出し通った人々もあるとか。新しい博物館がオープンしたら、みんなで出かけようという話しがあるが、混雑を避けるには、しばらく待ったほうが良いのでは。気がかりは、交通博物館が鉄道博物館になると、万世橋の時代にあった船とか航空機はどうなってしまったのかということ。船の展示は、青函連絡船のことだけしかHPには出ていないので、たぶんほかのことはないんだろうなぁ。
October 2, 2007
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