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次々と嵐が来ては過ぎ去っていく2007年。年末も天気は変わりやすい。今日とて、もともと風の強いところへ、一天にわかにかき曇り、いきなり雨が落ちてくるしばらくして、窓から差し込む光に、日ざしが戻ったと思い、外の道を眺めると、おじさんが傘を差して坂を下っていく。冬の天気雨は初めて。北の方角から強い雨足が響き、またたくうちにおじさんも急ぎ足。雨仕度で出かけてみれば、駅まで雨には会わずじまい。前線の通過でひと雨のあと、風はやんで気温が下がった。寒冷前線だね。午後から友人と会い、経堂の街をご案内。久しぶりにとり平へ。早い時間だったので最初の客。「料理あんまりねぇんだけどいい?酒ぐらしか出せないんだけど」 それでも、10本(10種)焼いてもらって、もつ煮込み、うなぎの蒲焼、ポテトサラダで十分堪能。帰宅は22時前。息子がちょうど外出したところ娘は11時過ぎのご帰宅なかなか全員揃わない
December 30, 2007
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またぞろ、都合の悪いことは一切なかったと主張したい人たちが、太平洋戦争沖縄戦における地元住民の集団自決に軍の命令はなかったと、言い募る。命令がなければ、何故あのような悲劇が起こったか?今年流行の言葉で言えば「集団自決に従わない奴はKYだ!」雰囲気、空気で物事が決まっていくのが日本の風土。文書、口で言わなくとも、実際に住民と接する現場の軍に、手榴弾まで配っておいて無言の強制がなかったと言えるのか?既に、太平洋の島々での全島守備隊玉砕が相次ぎ、サイパン島では住民までを巻き込んだ(当時、住民を巻き添えにした実態が、沖縄を含む国内に知られていたわけではない)。沖縄の邦軍も、死地に赴く覚悟で、数十万という沖縄住民が住む地を戦場とする事実は知っていたに相違ない。いや、はっきり言えば、お前らは邪魔だ、お前らは足手まといだ、俺が死ぬのだからお前らも死ぬのが当たり前だと思っていた将官、兵士も多いのではなかろうか。推測で物を言ってはいけない?ならば問う沖縄で戦うからには、そこに住民が居ることは所与の事実。軍は、住民に逃げろと言ったのか(どこへ?)隠れろと言ったのか(どこへ?)降伏せよと言ったのか?自決せよと言ったのか?沖縄戦の「集団自決」について、岩波書店発行の書物「沖縄ノート」(著者:大江健三郎 発行:1970年)、「太平洋戦争」(著者:家永三郎 発行:1968年)及び「沖縄問題二十年」(著者:中野好夫、新崎盛暉 発行:1965年)に記載された内容が、当時の座間味島での日本軍指揮官梅澤裕および渡嘉敷島での指揮官赤松嘉次が住民に自決を強いたと記述し名誉を傷つけたとして、梅澤裕および赤松秀一(赤松嘉次の弟)が名誉毀損による損害賠償、出版差し止め、謝罪広告の掲載をもとめた裁判における大江健三郎の態度は卑怯、かつ、責任回避だ。出していない命令を出したと大江らが書き、出版したものによって、名誉回復を訴えることは、原告らの正当な権利である。例え、それが引用であろうと、誤った記述で、罪なき人の名誉、尊厳を傷つけたことは許されるべきでない。だが、同じく、係争中の一裁判において命令の不存在が確立されたからといって、鬼の首でも取ったが如く、教科書検定意見の根拠とし、或いは、軍命令全体の証明なしと声高に叫ぶ姿は、同胞としてあまりにも恥ずかしい。私も、お前らのような無責任な奴だから故に、軍に集団自決の責任があるに決まってるじゃないか!なのだ。「沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別の御高配を賜ることを」海軍中将(戦死後特別昇進)沖縄根拠地隊司令官太田実は、自決直前に海軍次官あて決別の電文を打電した。(全文を文末に記載)最後の部分だけを知る人が多いが、全文をお読みいただければ一目瞭然。現地の軍司令官自らが、住民をなおざりにしていた事実を報告しているのだ。しかも、このような電文が送られた背景には、現地の軍に沖縄住民を下にみて、足手まとい視する風潮があったにもかかわらず、誹りに耐え軍への協力を果たした住民への配慮がある。たとえ、当時の法律がどうであれ、今日的観点で、軍隊とは国家と国民を守るものであるはずが、敵に殺されるならばともかく、住民が自ら集団自決することを命令はせずとも、最低限黙認しただけで、それは罪である。極論すれば、自決せよとの命令すら、無責任に放置するよりはマシかもしれぬ。頼るべきものも無い人々に、何らの指針も示さず、死地においやったとすれば、法律云々の前に、人間として、罪である。軍の命令はなかった(=住民集団自決について軍の責任を明確にしない)と記載する教科書で教えることで、将来の日本国に責任をとる人材が育つだろうか?たとえ、文書、口頭で命令がなくとも、住民の集団自決という事実があり、それは、軍隊が国民を守るという目的を持たず、意識しなかった憲法第九条云々以前に、組織維持だけが目的の国民を守る意識の無い軍隊など必要であるわけがない。それが問題の本質なのだ。裁判の結果は、命令はなかったでかまわぬ。文書、口頭のいづれによる命令がないにも関わらず、あったと書かれること、そのことは、軍が沖縄で戦うことにより集団自決が発生したにもかかわらず、軍の命令は証明されていないということと同じく、尊い個人の尊厳の問題なのだから。だが、国は、道義的責任はあり、将来万が一の事態において、このようなことはあってはならぬ、と明言すべきである。或いは、教科書に文書或いは口頭による命令の存在は確認されていないと記載しても良い。だが、その上で、軍隊は国民を守る義務があり、それを果たさず、徒に住民の集団自決を招いた責任はあると書いてくれ。個人の名誉が守られることと、軍(=国)が免責されることは同義ではない。問題は、あった、なかったじゃないんだ。そういう雰囲気を作りだしたのか、それもなかったなのかだ。皆分かっているじゃないか!俺たちの中に、そういう血があることを。かの電報に懇請される「後世特別ノ御高配」は、天皇陛下だけが責任を負うものでは断じて無い。「軍の命令を証明するものはない」とだけ書くことは、許されないのだ。教科書問題、従軍慰安婦問題、薬害C型肝炎訴訟、南京大虐殺全部同じに聞こえる。それを、官僚主義、無責任体制という。現代日本にも蔓延する病気だ。こんなことばかりやっていると、無いことも、あったはずだと言われてしまう。命令がなかったから責任も無いということですらないのだ。***沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既二通信力ナク 第32軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルニ付 本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非(あら)ザレドモ現状ヲ看過(かんか)スルニ忍ビズ 之ニ代ツテ緊急御通知申上グ 沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来 陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆(ほとん)ド顧ルニ暇ナカリキ 然(しか)レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ 残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ 家屋ト財産ノ全部ヲ焼却セラレ 僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難 尚 砲爆撃下 ‥‥(不明) 風雨ニ曝サレツツ 乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ 而(しか)モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ 看護婦烹飯(ほうはん)婦ハモトヨリ 砲弾運ビ、挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ 所詮(しょせん) 、敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク 婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙(どくが)ニ供セラルベシトテ 親子生別レ 娘ヲ軍衛門(ぐんえいもん)ニ捨ツル親アリ 看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ 身寄無キ重傷者ヲ助ケテ‥‥(不明)真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳(は)セラレタルモノトハ思ワレズ更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ自給自足夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住民地区ヲ指定セラレ 輸送力皆無ノ者 黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ 之ヲ要スルニ陸海軍沖縄ニ進駐以来 終始一貫 勤労奉仕、物資節約ヲ強要セラレテ 御奉公ノ‥‥(不明)ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ‥‥(不明)コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島実情形‥‥(不明)一木一草焦土ト化セン 糧食6月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄縣民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
December 28, 2007
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以前にも書いたことですが...もう40年も前のこと経堂のすずらん通りには蕎麦屋さんが2軒ありました1軒は、2-3年前に突然セブンイレブンにお店が変わった田村庵。もう1軒が若竹。こちらのお店は、だいぶん以前に無くなってしまったと思います。一年ほど前に、タクシーで、淡島通りを通ったとき若竹というおそば屋さんを見かけ、もしかして経堂のお店と関係が?と思ったのです。淡島通りは、昔の瀧坂道で、渋谷から経堂までが東京都道423号渋谷経堂線。経堂から仙川までが、東京都道118号調布経堂停車場線。この道、今は、経堂本通とその先のすずらん通りがそれぞれ逆方向の一方通行で、車で走りぬけることは出来ませんけれど、半世紀前までは、世田谷中心部を走るメインストリート。区内にバス路線など殆ど無い時代に、渋谷から淡島経由恵泉女学園までのバス路線が走っていたことは、最近経堂のバス路線と題し、こちらのBLOGにも書いたところです。先日、親切な方から、梅丘にも若竹があるとご教示いただきました。若竹なるおそば屋さんが、そこいら中にあるならともかく、私個人としては、経堂にあった若竹と、太子堂(若林)の若竹、そして新たにご教示いただいた梅丘の若竹と3軒しか知りません。同じ沿道にあり、ご親族、暖簾分け、ともかく何らかのご関係がおありと感じ、一度、お伺いしお蕎麦をいただきながら、お尋ねすることにしてみます。
December 26, 2007
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なにかと気ぜわしく、年末という実感があまり湧かない今年の年の瀬。一方、娘も息子も毎日出かけ、クリスマスぐらいは家族で一緒に過ごすのかと思いきや、何かと忙しい。朝6時半。階下で父の電話が聞こえ、起床。妹夫婦とゴルフだが、寒いし午後から天気が崩れるからと諦める。朝からどうにかすると雪にでもなりそうな空模様だが、なぜか朝食はパスタ2種。なーに、明太子を食べてしまわねばならぬのだが、4人分には量が足りぬだけ。朝食まではゆったりと、そこからあわただしく、クリスマスの買い物に出る。街の中は、混みあっていて、道路への駐車も多く、出遅れると駐車場でだいぶ待つはめに。9時半より手前で現地につかねばならぬ。プレゼントなど、朝10時でも、混むお店ではめぼしい商品は前のうちからあたりをつけて当日は朝すぐレジに並んでも、10分、20分待ちはあたりまえ。早々に切り上げることが出来、12時前に下高井戸長谷川商店に。もちろんこちらも混んでいて、2人の客のあとで5-6分は待った。27日以降の高くて混んだ時期になるぬうちに、数の子、帆立、スモークサーモン、たこ、牡蠣、海老、ねぎとろなど、冷凍しておく正月用品を買い求める。どうしようかと思ったが、小あじ20匹ばかりで500円。八百屋も同様だが、こちらは商品が少ない。この週末の天気が悪いので、生鮮品は値段が高い割に品が悪くなってしまうだろう。白菜(2個)、にんじん、たまねぎ、ほうれんそう、春菊、里芋、生姜、大蒜、みかん、しいたけ、さやインゲン.....ローストチキン用の骨付きももまでで、帰宅。休む間もなく、あじをおろして、ようやく13時過ぎ昼ご飯。あじのたたきと帆立の刺身冬至のかぼちゃ、れんこんだいこんとお揚げの味噌汁「○○さんに出す?」「うーんと、来たら出すでいいや」「めんどくさいから、今出す」「そんなこと言ってるから、毎年減らす減らすって全然減らないじゃない。インターネットで済むところは、もういいよ。これは最後の年賀状だ」「どうして?」「民営化されても年賀状なんてやってるからなぁ。この風習もだんだんなくなるんじゃない?」「でも海外はクリスマスカードがあるよ」「クリスマスは家族で一緒に過ごすんだ。だから、親しい人たちからのカードをみんなで見せ合って、あ、元気なんだとか、子供が生まれたとかって、やるわけだ」「日本の正月だってそうだよ」「...」「だって、君たち正月も家に居ないじゃないか!」「声大きい」年賀状を相談しながらやっていると、もうこの時間だ。夜はかきなべ。おっと軽い地震。
December 22, 2007
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経堂の名前をつけた小学校が桜上水にある。1941年(昭和16年)に経堂小学校が設立されたとき、その敷地は現在の学校敷地の一部であるものの、所在地は世田谷三丁目であった。経堂小学校設立のわずか10年ほど前に発足したばかりの世田谷区にとって、財政支出の相当部分(合併時の総支出400,000円に対し、小学校関係経費は240,000円を超えていた)は、公立学校の設置、維持、運営関係の負担に占められており、さらにそれ以前、この小学校の学区域が属していたところの、世田谷町、松沢村両自治体においては、財政とは学校維持費であると言って過言でない状況にあった。千歳村においては、事情はさらに深刻で、当初世田谷区への合併(それは東京市への編入も意味した)に消極的であった千歳村が、世田谷区成立のわずか4年後、1936年(昭和11年)合併に踏み切った背景には、千歳村にそのときまで残っていた学校経費の住民による自弁負担の重さに耐えかねたことが大きく存在した。そもそも、世田谷区以前の町村成立の前提は、小学校の学区であり、松沢村における松沢の名も、松沢小学校の松沢が、松沢村の松沢となったことからもそのことが知れる。教育の必要が、自治体の成立につながったのだ。したがって、世田谷区成立前の各自治体において、その自治体の名を冠した小学校を持つことは当然のことであり、故に、のちに経堂小学校へその学区の一部を移管する旧世田谷町、松沢村、千歳村が、それぞれに自分の自治体の名を持つ小学校を有していたことは、我々が今日考えるのとは逆に、小学校こそが自治体の名前であり、それが同一であることは自明のことだった。(千歳村については、合併時に、塚戸、烏山の2つの小学校があり、事情は多少異なる)世田谷区成立の時点では、未だ旧町村の対抗意識はかなり強くあったと想像され、また、旧町村成立以前の村々そのものにも、地元意識は強かったのではなかろうか。世田谷区成立期には、世田谷町世田谷であった今の宮坂は、世田谷小学校、松沢村松原には松原小学校(松沢小学校松原分校)松沢村上北沢には上北沢小学校(松沢小学校上北沢分校)など、次々と旧町村名を冠する小学校が設立されていった。その中で、経堂は、小田急線開通以来、村落から急速に宅地化が進行し、子弟のため小学校設立の機運が高まっていた。学校候補地を求める中では、当初候補地の取得が成らず今の所在地となったと聞く。その場所がいづれであるかは、現時点では不明であるが、1930年代中盤(昭和10年代)に入ると、経堂町内はほぼその全域が宅地化され、町内に学校ほどの大規模用地を確保することは、難しかったと思われる。可能性としては、経堂4丁目、現在の銀行社宅一帯。推理の背景は、経堂町内であること当時町内に残る宅地化されていない唯一の大規模敷地であったこと軍事的要請から、興亜廠の工場に提供されたことである。戦前、区役所が用地買収を企図し、特にそれが学校用地である場合、その確保が不首尾に終わるなど考え難く、世田谷区(或いは東京市)よりさらに上の権力が介在したかの土地であるならば、用地取得が不首尾に至ったことも納得される。戦後間もなくの経堂 経堂小学校は写真右上小学校候補地と筆者が考える場所は、その南(下)烏山用水北岸一帯戦時中かなりの大規模工場があった様子が分かる桜丘中学から経堂5丁目で城山通りを越えて経堂3丁目22までまっすぐ北上する道がある。この写真を見ると、その道が完成していたのは工場の敷地内通路部分のみ何の工場だったのか?町内に適地を求めることが出来ず、結果現在の敷地にいたったが、このことは、経堂の南側を通る六郷田無道沿いに桜丘小学校が既に開設済みで、北側を通る瀧坂道(すずらん通り)沿いに経堂小学校、それぞれが建設されることとなり、小田急線に南北を分断された経堂としては、バランスよく小学校の学区を構成することが出来たといえよう。しかし、発足時の経堂小学校敷地は、北側江下山堀(えげのやまぼり)側及び東側体育館敷地を含まぬ狭隘なものであり、戦後学制改革に際し、他校の多くに中学校が併設されたにも関わらず、経堂小学校には、一時桜丘中学校の一部が同居したにとどまる背景のひとつとなった。敷地だけでなく、予算も無かった。体育館が無いだけでなく、夏季のプールも1970年頃まで、すずらん通り沿いにあった防火用水と兼用の15m×7mの貧弱さ。北沢用水支流江下山堀(えげのやまぼり)と瀧坂道に挟まれた傾斜地。瀧坂道側の高い土地の土を削って、江下山堀側の土地に入れて学校敷地を平坦に均した。学校建設当時、現在の学校敷地の北側はまだ水田。江下山堀も赤堤通りの下に隠されてしまった。その名前からも分かる如く、江下山堀は江戸時代中期に開削された北沢用水からの分流である。上北沢自動車教習所の北に堰を作り、そこから水路を分岐、新田を開いた。流れは、桜上水二丁目を通り、東保園脇から経堂小学校北から、経堂赤堤通り団地南で北沢用水本流に戻るまでの水田に水を供給していた。したがって、江下山堀及びそれにより灌漑された水田は上北沢に属した。現在の学校所在地が桜上水一丁目であるのは、敷地拡大に伴い、江下山沿いの水田を取り込んだこと、そして、住所変更に際し、宮坂と桜上水の境界がすずらん通り側に移されたことに拠ると思われる。実は、学校敷地拡大の痕跡は、まだ残る。既に校舎が建設されていた旧敷地はそのまま高く、新敷地は客土することなく、そのままの高さである。したがって、経堂小学校の敷地には、すずらん通り側が高く(すずらん通りからは一段低くなっている)、東保園側が低い。これは学校が歩んできた歴史の痕跡なのだ。写真は木造校舎時代の経堂小学校北側校舎と体育館が増築部分上記写真と比較すると学校敷地が広がっていることが分かる。明治の義務教育が始まった頃、経堂は桜小学校の学区に属していた。しかし、経堂、特に大川(烏山用水)の北側から上町の向こうにある桜小学校は遠隔の学校であった。1885年(明治18年)東京府知事渡辺洪基がその「巡回記」に、「松沢北沢辺ハ学齢ノ割ニ就学多シ、世田ヶ谷村は学齢ノ割ニ就学少シ、其訳ハ村端ヨリ村端マデ凡ソ一里半モアリ通学ノ便ヲ欠クヨリ如此ナリトイフ」と書いた村端とは経堂に違いない。事情は、現在の桜上水1、2丁目、八幡山、船橋5丁目などにおいても同様で、世田谷区発足時、既に世田谷小学校、桜丘小学校(当時は第二桜小学校)は開設されていたが、その時点でも経堂北部に小学校は無く、高等科への進学はなお、桜、松沢、塚戸の各小学校への通学が必要であった(世田谷小学校は尋常科だけ)。1930年代になると、宅地化が進む中、経堂北部への小学校誘致は、小田急開通などに伴う新住民のみならず、元からの住民にとっても明治以来の悲願となっていたことが想像される。学校敷地の住所は桜上水だが、この場所は、桜上水、経堂、宮坂、船橋4町の接点にあたる。桜上水は松沢村(上北沢村)、経堂(経堂在家村)、宮坂(世田谷村)は世田谷町、船橋(船橋村)は千歳村。学校敷地となる前のこの地がどのようであったか。経堂駅から押し寄せた市街地がちょうど途切れるところ。小学校前で旧の瀧坂道が船橋と経堂を分け、新の瀧坂道が世田谷と経堂、経堂と上北沢、上北沢と船橋を分け、瀧坂道から下る水路が世田谷と上北沢を分ける。かつての、それぞれの村から見ての村はずれに出来た小学校は、やはりそれぞれの村から発展した町の子供たちの通う学校となったのだ。世田谷村、世田谷町、(上北沢)、桜上水と学校所在地の住所は変わる。だが、世田谷町には、世田谷小学校、上北沢には上北沢小学校、上北沢村、赤堤村、松原村が合併して出来た松沢村には松沢小学校が既に開校済み。桜上水は元来杉並側由縁の名前で、上北沢から桜上水が分かれたのは1967年(昭和42年)。船橋村にまだ学校はなかったが、千歳小とつけては、歴史ある塚戸小学校、烏山小学校が承知すまいし、千歳村の中心は、はるかかなたの千歳農協あたり。ようやく校地手配も整い、1941年(昭和16年1月27日)小学校は開校した。旧経堂在家村の名を冠した小学校はまだなく、ここに目出度く経堂に、経堂の名を冠した小学校が誕生したのだった。小田急線の南、桜丘小学校から経堂小学校へ転校する児童が、女教諭に「先生は一緒に来ないの」と聞くと「先生はこっちでお留守番なの」と答えたエピソードが残っている。そのような紆余曲折を経て成立した経堂小学校だが、開校わずか3年半後の1944年(昭和19年)9月1日、教職員14名、児童152名をもって新潟県南魚沼郡塩沢村は長恩寺、平等寺、浜田屋、尾張屋の4箇所を宿舎に疎開することとなった。疎開出発に際しての写真が残るが、教諭であろうか、教員側に並ぶ女性のファッションは、白のロングスカートにスニーカー。今でも街でお見かけするようなスタイルで、我々がイメージするところのモンペではないことが印象的である。終戦。児童が戻り、小学校は元に復し、学制改革で、新制中学が出来る。経堂小学校の卒業生は、男子が都立千歳高校併設の平和中学校(現在の千歳中学校)、女子が松沢小学校併設の松沢中学校への進学となった。上北沢小学校に併設された上北沢中学校(後の緑丘中学校)が、現在の桜上水3丁目に移転してくるまで、この変則状態が続き、世田谷区中心部にあって、この地区は、再度公教の狭間に翻弄された。もっとも、新制中学はどこでも教室が足りず、午前、午後の二部授業の原因は、就学児童数の増加よりは学制改革の影響が大きい。宅地化が進み、ベビーブームが到来する。経堂小学校の児童数は急激にふくらみ、校舎の増築、校地の拡大、体育館の建設、さらに校舎の増築…小学校誘致のあと、体育館は経堂小学校最大の悲願であり、千歳村以来の伝統であろうか?父兄からの募金まで行う運動の結果、ようやく建設の運びとなった。今でも、せっかく募金に応じたにもかかわらず卒業に間に合わなかったと苦情をおっしゃるかつての父兄がご存命だ。ベビーブーム世代が卒業しても、宅地化の影響はすざまじい。西経堂団地、東経堂団地と学区内に大型集合住宅が建設され、教室の足りない小学校は、一学級50人を超える状態になっていた。それが、ようやく落ち着いたのは、1961年(昭和36年)八幡山小学校開校のとき。八幡山小学校は、経堂小学校の分校として上北沢小学校からも一部学区の移管を受けて開校した。1970年頃までに、木造校舎は全て鉄筋校舎に建て替わり、体育館、プールも新造となったが、吊り輪、ジャングルジム、鉄棒など、かつての遊具の一部が、すずらん通り側の片隅に残る。2008年で経堂小学校設立67周年。100周年まであと33年。長いようでも短いようでも。
December 22, 2007
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所用で代田方面へ行く用事があり、そういえばそのあたりと記憶の喫茶店邪宗門に寄り道。鎌倉のお店には何度かお伺いしたことがあって、国立、鎌倉などいくつかのお店がある一つおそらくは、北原白秋の処女詩集にその名前のルーツを持つというように勝手に思い込んでいた。しかし、今回のお伺いは、お店の言われということではなく、「きむらけん」という方のBLOG「東京荏原都市物語資料館」が、邪宗門を事務局として活動しておられることへの興味にあった。今ごらんのBLOGは、主として経堂(特に小田急線北側)という街の過去と現在。そこでの私たちの生活に題材をとり構成してきている。当たり前だが、現場主義というか、自分の実体験をもとに文章を書く中で、仮説への傍証、或いは、知識の収集、さらには、新たな好奇心の喚起のため、図書館での図書閲覧、お店など人へのインタビューもさることながら、インターネットで、ある程度のことを検索していくことは、日常良くおこなうところである。そのインターネットで、世田谷の地誌、歴史に関することを検索すると、極めて高頻度でヒットするのが、東京荏原都市物語資料館。よき先人のご研究成果として読ませていただいていた。そこには、同じ世田谷の下北沢、代田を中心とする膨大な知識の集積が披瀝され、私の稚拙な論理だて、検証の甘さ、拙い文章などはるかに及ばぬ、知の大系を観ることとなる。例えば、私たちの町は、烏山川、北沢川に挟まれた南北の馬の背状台地に位置するが、かつての川と町の関係について調べるときも、インターネットで、同じく北沢川下流の谷を挟む代田、下北沢についてのかのBLOGに行き当たることが頻繁であり、その捉え方を勉強させていただいたことしばし。邪宗門(世田谷邪宗門)のお店は、梅丘通りから鎌倉街道を入った一本目の角を曲がった、目立たぬ場所にあった。下北沢、世田谷代田の駅からは、それぞれ徒歩10分ほど。梅丘通り沿いは、駅前立地ではないものの、淡島を通るバス便は頻繁で、その先、私たちの町に至る赤堤通りより、かなりの商業集積はある。しかし、代沢小学校前バス停から徒歩数分、決して便利ではない「かの場所」で長年喫茶店を経営してこられたのは、継続した地道な努力の賜物に違いない。遅いお昼のお客さまも一段落のご様子で、マスターがひとりお出迎え。窓際に席をいただき、コーヒーをお願いする。「下北沢X惜別物語」最新の小冊子を「よろしかったらお持ちください」と思わぬことに拝領し、「ちょうど前夜、そこに記載されている記事を拝見したばかり」と申し上げたところからお話しが始まった。「ちょうど、そちらのお隣、入口から裏のお席に、いつも森茉莉さんがお見えになり、一日書き物をしていらっしゃったところです」「ちょうど、私も、同じような地域のBLOGを書き始めたところで、以前から機会があればお伺いしたいと思っていて、たまたま用事がありまして」「そうですか、きたむら先生のBLOGですね。先生はときどきお見えになるんですが、今日はどうでしょう?ちょうど良いお客さまがお見えになるとよろしいんですが」とおっしゃりながら、席の脇に置いてある中から、写真集、ファイルの中の地図などを次々とご披露になる。自分もその中のいくつかはもっていたり、図書館などで見たりしたものもあって、地域の歴史と文化の渉猟に話しの花が咲く。「それじゃあ、やはり地元でお仲間と?」「いえ...私のほうは、これからお仲間を探していこうかと考えはじめたところです」「そうですか。熱心にご研究の方が何人かいらっしゃいまして、この15日も見学会を開きましたら、25人もお集まりになり、事故でも起きないかと心配してしまうほどでした。少人数でと思いましても、ともすると50人もお集まりのことがある。皆さん熱心で、道路にまで溢れ出す方までおられます」「そうですか」「よくしたもので、分からないことがありましても、お仲間がありますと、こういうことがあったよ、その人ならすぐそこの家だ、うちが商売していて亡くなったときにいっぱいつけがたまっていて参った...いろいろなことが集まってきます。こんなことも頼まれてやってるんですよ」見せていただいたのが、小田急の下北沢駅が地下に入ることに伴い廃止となる環七を横断する鉄橋の保存運動。「小田急はあとのことまで面倒見れないってんで鉄橋をはずす予定ですけれど、代田小学校の通学路として残して欲しいってんですよ。あの交通量の激しいところの脇を歩くんじゃなくて、鉄橋が渡れれば、安全に通学できますから」「いいですねぇ。私も周りの方々にはいろいろ教えていただくことが多いのですけれども、まだとても。でも、いつかは、と思います。きたむらさんのBLOGとは本当にいろんなところで、つながることが多くて。例えば、この本にも書いていらっしゃる、厚木に進駐した米軍が小田急線で東京にやってくる。それを、節穴からのぞいてみていたお話し。私の地元の先輩が、当時戸塚にお住まいで、マッカーサーが厚木に着いたその日でしょうね。長後街道を、軍隊は既に武装解除になっていましたから、警察ですね、警官がずらっと並んで警護する中を、銃を構えてトラックに乗って横浜グランドホテルに入る、その隊列を、婦女子は暴行されるといけないと避難命令が出ている中、屋根の勾配の後ろの隠れて見ておられた話しとまったく同じ。おそらく数日あとのことなんでしょうね。下北沢に教会が多いと書かれていますけれど、私のほうでも、経堂とか赤堤になんでこんなに教会が多いのか、って思っていたところで、偶然とはいえ面白い。それほど信者があるわけではないだろうから、財政的には苦しいに違いないと思いますけど。それで、どうして教会が多いのか理由はお分かりになったのですか?」「いえ、進駐軍が近くに居たからとか、あるんですが、そこらのことは私よりも、きたむら先生のほうが良くご存知でいらっしゃる」話しの合間に、ひとり、また、おひとりと、年配のお客さまがお越しになっていたが、ちょうど教会のお話しにさしかかったとき、「あ、ちょうどきたむら先生がお見えになりましたよ」と隣の席にご案内いただく。名詞交換もせずに、「ちょうど、こちらのお客さまが、やはり地域のお話しを書いていらっしゃるそうで、なんで教会が多いのかってお話しになったところだったんですよ」とご紹介。ご挨拶もそこそこに、お話しがはじまってしまう。「下北沢が特にそうか、って思っていたら、そうではないんですね。どこでも同じように教会は多い。おそらく、第二次大戦を天皇陛下万歳で一生懸命にやってきたのが、敗戦で行き詰まってしまった。代わるべき心のよすがを求める中で、出てきたのがキリスト教だった。牧師さんのお話しというのは、その中にいくばくかでも、知に訴えるものを含んでいて、それが、世田谷という土地に住む人々、ある意味、川の南西法面に住まいを構えるというのは、ある程度の成功者ですから、そういうアッパーミドルの階層に受け入れられた。そういった背景があるのでしょう」「少し話しはずれますが、今、日本のキリスト教信者は、それほど居るとは思えない。同じように戦後、キリスト教が浸透していっただろうと思う韓国では、日本と違い、キリスト教は完全に定着しているが、日本のほうは、長期衰退傾向じゃありません?日本の場合は、神道、仏教と、回帰できる宗教があったが、回帰できるところが儒教だけだった韓国ではキリスト教がそのまま定着した…」「日本の場合、結局頭から入っただけのもので終わってしまった」「生活に根ざしたもの足りえなかった?」「そうですね。頭から入ったものにとどまり、体に染み付いた生き方にはならなかった」「下北沢のお話しを拝見していてうらやましいなと思うのは、例えばお住まいの作家、文士が、その街で生活する姿が見える。私たちの街にも、そういう方々もいらっしゃるのでしょうけれども、下北沢ほどの厚みが感じられない。或いは、表にある個人としての存在は、生活する場としてはプライバシーの後ろに埋没させてしまう生き方を選ぶのか?」「土地それぞれにその土地にあった文化があり、時間というものも異なる。田園の時間は、茫洋として捉えどころが無く、都市の時間には刺激が含まれる。下北沢という場所は、新宿、渋谷という都会と程よい距離を置いて都会の喧騒が感じられる。その喧騒を聞きながら人間が生活していくところで街の文化が出来上がっていく。下北沢の前は山谷で」「南新宿ですね」「そう。あの切通しと表現されるのが小田急線の鉄橋。あそこは代々木に出られて、新宿の喧騒が聞こえた。そこに人々が集い、その次が下北沢に人が集まった」「なるほど」「誘い合わせてということではなく、そういう人たちが集まり、それが下北沢という土地の文化をつくっていった」「文化は、原因ではなく、その土地の地理がもたらした結果であった?」「そういうことでしょう。西向き法面というのは、神社仏閣でも同じようにあって、北沢川北側には北沢神社、心厳寺をはじめ、神社仏閣が並んでいる。代田八幡もそうだし、豪徳寺は、烏山川の北側ですが、同じような側面がある」「このあたりの神社は、川にせり出した台地の上にあることが殆どですね。世田谷八幡も豪徳寺つながりの烏山川北岸台地です」「世田谷城から続いていますね。東向き斜面というのは、一般に乾いていて、明るい。逆に西斜面は水気があり、弁天さまとか水にまつわる神社が多くなります」「あ、そうなんですね」「そのように、調べていくうちに、それまで見えているものだけで無関係と思っていたいくつかのことが、水面下の形が分かってくると、ああこういうことだったのか、とつながってくることがある」「街の全体像が姿をあらわす」「そうです。そういう中で、北沢川沿いの西法面のつながりも理解できていくところがある。だいたい日本という国は、東西に長い。川も西から東へ流れる。だから東西の交通が発達して、南北のつながりは弱い。乱暴ではあるけれども、それは偏西風のせいだと思っている」「言ってみれば、富士山とか箱根の火山灰が西風で流されて堆積したのが関東平野」「そうです。それは奇しくもB29の空襲経路と同じなんだ」お話しを続けたかったが、時間となり、きたむら先生は引き揚げられ、私もだいぶの遅刻だが戻らねばならぬ。また、お話しを伺う機会がもてればと勝手に思う。帰りがけにマスターがお声をかけてくれて「先日坂口安吾の蒲田の家、新潟日報の社長をやっていたお兄さんの家なんですが、そこの門柱を、こちらの旧宅跡に持ってきました。皆さんが熱心に寄付をこの貯金箱に入れてくださって」と門柱の形をしたかなり大きな貯金箱をお店いただく。「17万円ほど集まり、ほぼ全額現金でこちらに持ってくることが出来ました。すぐそこですから帰りがけに是非ごらんになっていってください」とおっしゃった。残念だが、ゆっくりしすぎて時間切れ。週末にでも再訪し、現地を拝見することにしよう。
December 20, 2007
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安定の方向?抗生物質を変えて、週末を越えた結果確認が出来ればと、早めに帰宅し、ちょうど病院に出かけるところの父に同行。病室を見舞うと、引き続き、3本の点滴。アミノレバン、カダポン、プロビトールと表示されていて、カダポンとプロビトールは検量しながら。しかし、目が開いてまばたきがある。呼びかけへの反応は無いものの、手足も動き、明らかに意識レベルは先週より高い。ナースステーションで経過を聞く。「血液検査は、今日は実施しませんでした。しかし、熱は日勤の間は、ほぼ35℃台で推移し、今は36.5℃。酸素も10Lから2Lに減らして、血中酸素濃度は90台を維持しています。一応抗生物質は合っていると思いますよ。但し、あくまでも先生のご判断によりますが、特に申し送り事項はありません」とのこと。最高血圧は93。いったん今回の肺炎は週末のヤマを越えつつあるようだ。
December 17, 2007
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戦中、戦後を経て1950年(昭和25年)のバス路線。大正の末、玉電が三軒茶屋から世田谷方面への路線分岐計画を検討した際、当時の経堂在家村は、かなりの意気込みで、新線誘致運動を行った(小田急はまだ開通せず免許申請の段階)。しかし、当時の玉川電気鉄道は、桜丘方面などへの路線延長は採算性がとれないこと、及び、京王電気軌道(当時)への電力供給、兼務役員の存在など親密な関係があり、結局計画路線は上町から北上し、京王線下高井戸へつながることとなった(無論、小田急とも山下=豪徳寺で接続している)。玉川電気鉄道下高井戸支線(現東急世田谷線)開通後も、経堂在家村には誘致運動が残った模様だが、結局成就せず現在に至っている。もしこの路線延長計画が実現していれば、世田谷線は、経堂若しくは千歳船橋あたりが小田急との接続駅となり、だいぶん今とは異なる路線網となる。当時帝都線(現井の頭線)は未開通。小田急、帝都線の乗換え駅となった下北沢のその後の発展を考えると、玉電が経堂へ入っていれば、などとも考える。もっとも、その場合に私たちが経堂に住むこととなったかどうか....経堂からの鉄道誘致に応えることのなかった玉川電気鉄道。その後進である東急は、四半世紀の時を経て、東京駅ー赤坂ー青山ー渋谷ー三軒茶屋ー上町ー経堂と、バス乗り入れを果たし、かつての経堂在家村からの期待に報いた?東急は1949年(昭和24年)に東京駅と経堂の間に路線を開設。二系統あるように見えるが、上町ー宮ノ坂駅から農大通りを通って経堂駅へ入り(当時はまだ城山通りは開通しておらず、八幡さま前の通りをまっすぐ走って農大通りへ右折した)、駅前から本町通りを通って世田谷八幡の坂を下って上町に戻り渋谷方面へ向かう一方通行。初期の頃は、上町から、玉電の西側の道を往復とも通ったが、途中からこの道が一方通行になり、渋谷方面だけ、世田谷城址側を通って上町の踏切を渡るようになった。この時期、昭和7年あたりから、淡島通り経由で、渋谷から恵泉学園まで運行されていた路線は、若林まででとまってしまった。その事情は、主として戦後の機材不足にあろうが、上記東急の路線に見られる如く、経堂本町通りが一方通行となったことも見逃せない。さらに、環七の若林陸橋工事が始まると、淡島通りの旧道そのものが分断されてしまった。この時期、西福寺通りがまだ経堂駅前まで開通していないこともあり、淡島から梅丘経由経堂行の路線もまだ開通していない。若林から経堂方面に向かう適当な往路がなければ、復路の本町通りだけあってもバスは運行できない。往路と復路の間があまりにも離れてしまえば、片道だけの利用客が増えて経営効率が悪い。ここに、旧瀧坂道由来の淡島通り経由「渋谷ー経堂」のバス路線はいったんその歴史を閉じ、路線再開には赤堤通りの開通を待たねばならなかった。意外だったのは、恵泉から吉祥寺までのバスを小田急がこの時代運行していたこと。経路は、恵泉から、旧瀧坂道を水道辻、八幡山、廻沢、千歳農協、榎、祖師谷神明社、仙川と辿り、甲州街道から北は、吉祥寺通りか?バス機材の限られたこの時代。不採算路線を運行する余裕があるわけもなく、恵泉ー吉祥寺線は、儲かる路線だったはずだ。その事情は?この時代、旧千歳村内を走るバス路線は図にある如く、この恵泉ー仙川ー吉祥寺と、祖師谷大蔵ー蘆花公園(のちに千歳烏山)間しかない。千歳村中央部は小田急、京王のどちらにも距離が遠く、また、道も未整備。地域中央部へのバス便は、地域住民、開発業者両方にとって必要だった。その千歳村中央部を横断する唯一のバス便がこの路線だった。(祖師谷大蔵ー蘆花公園線は縦断)区役所など世田谷中心部との連絡にも、この路線は使われたはずだ。この路線がなぜ経堂でなく恵泉を終点にしていたのか?おそらく、1.駅周辺にバスの折返し所をもたなかった。(まだ西福寺通りは経堂駅前に入ってきていない)2.渋谷-恵泉女学園の免許があるため、恵泉ー経堂間の重複区間について免許が下りなかった。3.2と同様だが、恵泉女学園までの運行は、若林営業所の所轄で、吉祥寺から仙川までは仙川営業所が担当していた。といった理由が考えられる。ただ、恵泉女学園を終点とする限り、旧千歳村中央部の旅客は、経堂ではなく、仙川を最寄の鉄道駅とする可能性がが高まり、小田急グループとしては京王に塩を送る結果となっている。昭和30年代になると、経堂駅近くに折り返し所が確保され、小田急は、渋谷ー駒場ー淡島ー梅丘ー赤堤ー経堂と淡島通り、梅丘通り、赤堤通り、西福寺通りを経由する渋谷ー経堂間のバス便を復活させた。一方で、恵泉と吉祥寺を結んでいた路線は、経堂ー仙川、仙川ー吉祥寺に延長、分割された。この時期、ボンネットバスがすずらん通りですれ違う、今では考えられない光景が見られた。今は赤堤通りが完成し、本町通り/農大通りーすずらん通りの車両通行量は往年とは比較にならないほど減少したけれど、昭和40年代中盤の赤堤通り完成まで、これらの通りは、地域唯一の幹線道路として、今からは想像できないほどの混雑ぶりであった。やがて、小田急の渋谷ー経堂便は、赤堤の町内の道路網整備に伴い、ゆりのき通りを走るようになる。経堂ー仙川便は、環八完成の頃、経堂ー希望ヶ丘団地便に変更となり、すずらん通り周りから、赤堤通り周りへの変更を経て、現在の形となった。希望ヶ丘行きのボンネットバスには、最後まで車掌さんが常務していたと思うが、記憶は定かでない。東急が運行していた東京駅南口ー赤坂見附ー渋谷ー三軒茶屋ー上町ー経堂は、1980年手前に廃止となり、今、上町と経堂を結ぶバス便は無い。東京駅と経堂を結ぶバス路線があった時代。東急バスの折り返しは、今の種子島共立医院、和田楽器などが入居するマンションの敷地。バスが最大4-5台停車。一番西寄りに、小ぶりではあるが乗務員控の建物があった。一方、小田急は、今の三菱銀行の一画に2台のバスが留まれる停留所。バスはバックで入居するが、乗務員用の控え室はなく、西側に小さな待合があっただけ。特に仙川行きは、後年、希望ヶ丘団地行きとなったあとも、ボンネットバスで、かわいそうに思ったものだった。小田急ボンネットバス 仙川或いは、希望ヶ丘団地行きのボンネットバスは、もう少し短かったような記憶がある。なお、現在梅01梅ヶ丘駅北口~千歳船橋駅は、小田急バス全額出資の子会社で若林営業所内に本社を置く小田急シティバスによって運行されている。
December 17, 2007
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経堂からのバス便というと、今は、梅丘、渋谷へ行く路線と、希望ヶ丘団地、千歳船橋駅方面梅01 梅ヶ丘駅北口~千歳船橋駅 渋54 渋谷駅~希望ヶ丘団地 歳25 希望ヶ丘団地~梅ヶ丘駅北口が走る。その前は、小田急バスが、渋谷から経堂までと、経堂から仙川まで東急バスが都バスと相互乗り入れで、東京駅南口ー赤坂見附ー渋谷ー三軒茶屋ー上町ー経堂の3系統。さて、その前は?***世田谷区内、経堂までバスが走るようになった歴史は案外と古く1932年(昭和7年)に遡る。1920年(大正9年)代々木乗合自動車は、渋谷駅前~代々幡町三角橋渋谷駅前~代々幡町代々木西原代々幡町三角橋~代々幡町幡ヶ谷代々幡町三角橋~世田谷町淡島前の4路線、合計5.6kmの営業許可を取得する。大正14年には、このうち淡島前までの路線が世田谷町役場まで延長となる。この世田谷町役場は、今の世田谷区役所の北。後に都立明誠高校の敷地。さらに同校が都立千歳高校と合併し蘆花高校となるに伴い払い下げられ、現在、国士舘大学新校舎が来年2008年の完成を目指し建設中。代々幡町三角橋は、東北沢から東大裏に向かった松蔭学園の角。中豊沢は渋谷区南平台交差点付近。渋谷ー淡島間は、渋谷ー南平台ー東大裏ー三角橋ー池ノ上ー淡島と、渋谷ー南平台ー松見坂ー(淡島通り)-淡島2つのルートがあった。別資料では、1925年(大正14年)に中渋谷ー淡島前ー世田谷町役場の路線が日東自動車により開設されているとある。もっとも、東急50年史からと記載があるが、自分は50年史中にその記載を見出すことが出来ず、再度確認が必要。もし、別資料通り、このことが東急50年史に記載されているならば、日東自動車は、後年、玉川電気鉄道と合併。さらに玉川電気鉄道が、東急と合併し、最終的に、玉川電気鉄道、代々木乗合の両社とも東急に合併(代々木乗合の一部は京王)しているので、三角橋経由が代々木乗合、淡島通り経由は日東自動車により運行されていた可能性が高い。バス以前に、三角橋から淡島経由の乗合馬車があったという資料も見たことがある。これはいくつかの事実が混同されているのではないか。ここで言う淡島とは、今の淡島交差点のひとつ北の信号、淡島郵便局前(交番のところ)だろう。以前、バス路線が淡島から森厳寺のほうを通っていたらしき記述を見た記憶があるが、手許資料(世田谷区史)の図は、淡島通りを行っているように見える。昭和7年の路線図では、代田本村という記述が出てくるが、これは十字路か代沢小学校前。淡島通りは、若林中筋から、今は環七若林陸橋で分断された旧道をわたったところ、今のコジマが世田谷町役場。ついに経堂までバス便が延びたのは、1929年(昭和4年)のことのようだ。昭和7年のバス路線図では、バスは世田谷町役場からさらに、「玉電」宮ノ坂駅(当時は世田谷八幡神社横の坂の上に駅があった)を通って経堂本町通りに入り、小田急線経堂駅を経て、恵泉学園が終点。この年、世田谷区発足。まだ船橋町は東京市内でなく千歳村。恵泉学園が終点となった事情の一つには、経堂までが東京市内という免許の問題?いや、むしろ船橋、桜上水、上北沢、八幡山といった経堂の北西の旅客を求めて、恵泉学園まで路線を伸ばしたと捉えるべきだ。或いは、この路線を世田谷町役場(山崎)から先へ延伸するにあたり、既にこの時代、本町通りーすずらん通り沿道に、恵泉学園までの間、適当な折り返し所を手配できなかったことがあるかもしれない。都市化の進展に伴い、瀧坂道(甲州街道より栄えていた)沿道の土地を売ろうという人は、恵泉学園までの間になかった?昭和16年には、このバス路線の終点、恵泉学園停留所と道路を挟んだの北側に経堂小学校が新設される。時代は既に太平洋戦争前夜。やがて、バスもガソリンではなく木炭、薪を焚いて走るようになる。恵泉学園バス停は、経堂小学校とすずらん通りをはさんで"はす向かい"と推測する。
December 15, 2007
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午前中は、年に一度の健康診断でクリニック。7月に会社の所在地が変わり、丸の内から代々木へ。内容は同じようなものだが、丸の内では、日を分けたか、或いは、待合が分かれているのか、異性の姿は見かけなかったが、代々木では男女とも同じ待合。私が待つ前で受付手続きをしているのは、御年40、しっかりしたグレーのスーツに身を包んだ、身長1650mm、体重52kgの美形キャリアウーマン(記入上の質問があって時間がかかっていたのだが、後ろから全部読めてしまうのは問題だ。自分は老眼だが視力は1.5。その距離は十分読める)。受付で各人メッシュのジョギングウェアをわたされ、男女別の更衣室で着替える。男性が水色と白、或いは、薄緑と白、女性は薄手のピンクと白、或いは、薄黄と白のコントラストで、診断の内容により色分けされているらしい。最初のうちは、待ち時間もあまり無く、次々と名前を呼ばれる。受付が近い順番だったので、あの美形キャリアの顔を頻繁に目にする。あと3科目となるあたりで、急にペースがゆっくりとなり、胃カメラの待ち時間に、つい居眠り。「○○さーん」と遠くで私を呼ぶ声がして、目を覚まし、おぼつかない頭で周りを見回すと、目の前に立ちはだかるのは、何か?一瞬の中の出来事がスローモーションのよう。私:目の前にあるのは、女性の臀部であり、薄い色のメッシュが透けて、下着の色と形(String Bikiniまではいかないのが仇)を理解しつつ、声のするほうを向く臀部の女性:動く私に反応したか?私の方を向く私:こちらを向いた女性の顔が目線をかすめ、あの美形キャリアと認識する臀部の女性改め美形キャリア:私が彼女の臀部を眺めていたと感じたらしく、臀部から私の目をそらすべく前を向き、厳しい表情を見せる私:声のした方角へ目を向けていく美形キャリア:やましいところありと目をそらしたと認識したと思われる私:ふたたび目を戻し、美形キャリアを鑑賞せんと目線を戻す美形キャリア:私を睨みつけている私:目線を美形キャリアに戻し、厳しい視線を向けられているのを知り、ふたたび目をそらすそんな経過で、罪の無い私が、彼女にとって、自分のパンティラインを凝視していたふとどき者と認識されたらしい。美形キャリアは私を再度睨みつけると、後ろへ歩き、私の視界から姿を消した。もう一度私を呼ぶ声がして、検査室へ入る。今回の胃カメラは、局部麻酔だけで、そのまま飲み込むことを勧告され、その通りにする。検査終了後約30分横になって休んでいたところ、突如横のカーテンが開き、振り向くと、唖然とした表情をしたかの美形キャリアが私の寝姿を凝視しているではないか!一瞬の沈黙のあと、彼女は、謝罪するでもなく憮然とした態度でカーテンをシャッと閉め、別なほうのカーテンを開けて休憩コーナーから出て行く音が聞こえた。胃カメラの休憩が終わり、医師との面談が済むと、早めの昼食。名札の通り通された席の斜め前では、例によって美形キャリアが食事中。「ふんっ」と嫌な顔をされるが、もはやしょうがない。食事を終えて、いったん用も無いのにトイレへ向かい、息抜きをするが、ほかに行きようもないので、席に戻りCTスキャンに呼ばれるまでPCを叩く。あちらは、あちらで、やはり行くところが無く、コンパクトを片手にお化粧を始めた。...この酷い関係は、CTスキャンの待合と、最後の手続きまで続き、彼女の後ろでチェックアウトを待つ間、げんなりして携帯の電源を入れ、留守録とE-mailを確認した。しょうがないよねぇ。怒るこたぁないっすよ。私のせいじゃない。だって、目にはいっちゃったんだもん。
December 14, 2007
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病院から父に電話があり「主治医が、午後2時に面談したい」父から連絡を受けて、病院に行くことにするが、内容がいまひとつ要領を得ない。危篤など病状の急変ならば、時間指定ということではないだろう。いづれにしても、良いことではあるまい。おそらくは、・水曜未明の高熱に関する治療の経過説明(対処しきれぬ事態に至る可能性ありかも)・病状の中に、当該病院では対処しきれぬ事態があり、転院治療を望むか否か?・病状推移に鑑み、近い将来に重篤な事態に至る可能性が高い・今後の治療方針の中に、本人若しくは代理人の同意を必要とするものがあり、その意思確認といったことのいづれか?妹にも連絡をとり病院へ。途中、年末14日の金曜日で道路が混み、かつ、工事で、予定時刻を1-2分過ぎて到着。待つこともなく、主治医からの説明。「熱は39.9℃まで上がったあと、いったん下がり、落ち着くかなと期待したですが、また今日は上がってしまい38℃台が続いています。酸素は最大15L100%だったものが、10L60%でやっていますので、これはよくなってきた。肝機能、及び、腎機能にも改善が見られ、アルブミン、ビルビリンは一昨日かなり低下しましたが、今日はその前の水準まで戻しています。肺のレントゲンをみると、大きくは変わっていませんが、機能しているところの輪郭がぼやけなくなってきていて、機能しているところは、うまく換気が出来てきていると思われます。意識レベルは、一昨日は極めて低く反応がありませんでしたけれど、今日は痰の吸引時の反応があり、またまばたきもあることから、多少上がってきています。全体で言えば、治療が効果を上げてきているものの、中には叩ききれないものが残っているということでしょう。懸念されるのは、血小板が少なくなってきていることです。従来60,000-100,000の間で推移していたものが、この2日で65,000、50,000、49,000と推移。50,000あればまず大丈夫ですが、10,000を切ると生命が維持できない。播種性血管内凝固症候群(はしゅせい けっかんない ぎょうこ しょうこうぐん disseminated intravascular coagulation:DIC:本来出血箇所のみで生じるべき血液凝固反応が、全身の血管内で無秩序に起こる症候群)と言いますが、手足に出血がみられるようになっています。この出血を止めるために血小板が消費されて少なくなる。末期癌、肝硬変などに見られる症状で、このまま悪化していけば腎臓などの内蔵その他にも出血が発生し死に至る。それを阻止するため、既に、今日から今までとは違う抗生物質に切り替えて、血小板の減少を抑えていこうとしています。薬の効果が分かってくるのには48時間ほどかかりますが、血小板の減少といっても、いきなり今の49,000が10,000を切るわけではなく、短い場合には一週間ぐらいでしょうか。薬というものは、何でもそうですが、身体にとっては異物であり、肝臓を酷使する部分が必ずあるため、本来長く使い続けるべきでありません。この抗生物質も一、二週間が限度で、薬効がなければ投薬をやめて別の方法を考えねばならないでしょう」想定していた中では、一番穏やかな範囲覚悟はしていたが、DICか....母は、左手に大きな出血が出来た。DICによるものか?いや、場所からして、カテーテル挿入が上手くできなかった部分ではないか。マスクをしていても、ときどき呼吸が止まる。肺炎は処置できても、身体のメカニズム全体を矛盾なく統御していくことは、不可能だ。一つの処置をするということは、一つの無理をすることと同義という矛盾。今日は12月14日。遅くなったが父は、泉岳寺にお参りにいく。数十年にわたり変わらぬ行事。本来、今日はそちらから帰ってきてから見舞いに連れて行こうと考えていたのだが....今夜は寒い。
December 14, 2007
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民営化したあと、郵便局というものがどうなったのか、よく分からない。郵便、銀行、保険がそれぞれ別の会社になり従前の普通郵便局、特定郵便局、簡易郵便局の違いがなくなった...郵便局株式会社?未だ馴染まない社名。こちらの会社の千歳郵便局というのが、経堂一丁目40番1号にある。こちらのほうは、地元に馴染んでいる名前だが....民営化後の「郵便局」は、従前の「普通郵便局」が取り扱っていた集荷・配達は担当しない。集配を取り扱うのは、「郵便事業株式会社」の「支店」で、かつての普通郵便局「千歳郵便局」の集配業務は、「郵便事業株式会社東京千歳支店」のようだ。なお、世田谷区内には、千歳(156-XXXX)以外に、世田谷(154-XXXX、155-XXXX)、玉川(157-XXXX)、成城(158-XXXX)の3箇所に郵便事業株式会社支店がある。以上の経過はあるものの、とりあえず「千歳郵便局」と呼ぶ。前にも書いたことがあるが、経堂にある郵便局が「千歳」とは、多少違和感がある。ここでいう千歳とは、千歳船橋、千歳烏山の千歳。千歳は、東京府北多摩郡千歳村に由来し、かつての村域は、現在の地名で言えば、北烏山、南烏山、給田、上祖師谷、粕屋、八幡山、船橋、祖師谷、千歳台であった。一方、経堂は、東京府荏原郡世田谷村。千歳は経堂ではない。では、なぜ千歳郵便局=郵便事業株式会社東京千歳支店が経堂町内にあるのか?1970年前後まで、千歳郵便局は、同じ経堂でも、船橋五丁目11にあった。桜上水1郵便局(でいいのかな?)とすずらん通りをはさんではす向かいだ。船橋は、千歳船橋の駅名にある如く、千歳村の大字船橋。従って、船橋五丁目にあるときは千歳郵便局の呼称に矛盾はない。船橋五丁目時代の千歳郵便局。この場所、実は、斜め前が桜上水1郵便局であることからもお分かりの通り、船橋、経堂、桜上水(上北沢)の境目に立地する。世田谷区成立前で言えば、世田谷町、千歳村、松沢村の境目だ。1936年、千歳・砧の両村が世田谷区と合併し、世田谷区がほぼ今の範囲となった時点で、区内の郵便局は2箇所、世田谷郵便局と松沢郵便局(世田谷区史)。合併前の旧千歳村には、三等郵便局が2つあったと記録にあるが、おそらくそれらの所在は、千歳烏山駅付近と、東京中央農協本所あたり。船橋五丁目ではなかったはず。昭和前半のある時期、世田谷西北部等の人口増に伴い、世田谷郵便局、松沢郵便局、それに、千歳村の集配を担当していた、おそらくは調布郵便局の業務、それぞれの一部を、船橋五丁目の地に千歳郵便局を設置し、再配置したのだろう。船橋五丁目時代の千歳郵便局は、経堂随一の立派な建物だった。経堂にコンクリート製の建物など殆どない時代。駅から商店街を抜けて10分ほど行くと、大きく立派な郵便局が現れる。すずらん通りに面した建物正面の階段を数段上がったところが受付だった。水はけの悪い場所ではないと思うので、ボイラー、変電設備など地下室があったのだろうか?重い扉を開けて中に入ると、天井の高い建物に幅いっぱいの石造りのカウンターにガラスで仕切られた窓口が横にずらっと並び、その前が待合。待合は建物の北側にあるため、日が射し込まぬ、壁の色も白乃至灰色で寒々しい印象。味も素っ気も無い建物は、おそらく1936年から1940年にかけてのものではなかったか?南側、恵泉学園との間の小道沿いにあったお墓の存在も千歳郵便局の薄暗いイメージに拍車をかけた。お墓の前が郵便局の通用門。時間になると、青い制服の配達夫たちがいっせいに赤い自転車に乗り、街へ散っていく。郵便車も通用門から出入りしていた。もともと千歳郵便局は、旧千歳村の範囲を越えて、世田谷の西北部の集配業務を担当していた。船橋五丁目に郵便局が移転した後、1970年前後まで、世田谷の都市化が進み人口が急増した。ダイレクトメール等の取り扱いもあり、千歳郵便局の取り扱い業務は大きく伸びていった。特に伸びたのが、旧千歳村、砧村の地域。当時は大きな建物でも、船橋五丁目の建物では、取り扱い業務量に対し設備は老朽化し手狭になった。建て替えるにしても敷地は狭く、道路事情も悪い。すずらん通りは一方通行で、横の小道は大型の郵便車は通れない。そういった事情があって、経堂一丁目への施設移転、成城郵便局の分離、が実施され、千歳郵便局民営化前の担当範囲が定まった。成城郵便局を千歳郵便局にして、経堂郵便局とする手もあったかもしれぬが、既に、千歳郵便局は、経堂の郵便局として定着していた成城郵便局は旧砧村地域も守備範囲に含むので、千歳の名称は馴染まないといったことがあったのだろう経堂一丁目の郵便局は「千歳郵便局」としてスタートした。現在、郵便事業株式会社東京千歳支店(民営化後、郵便事業会社東京千歳支店に同居する千歳郵便局は集配業務を担当しない...面倒な話しだ、分かりにくいものには何か問題がある)は、大原・羽根木・松原・赤堤・桜上水・宮坂・経堂・桜・桜丘・船橋・八幡山・上北沢の集配業務を担当している。このうち、旧千歳村に属するのは、船橋と八幡山だけ。従って、所在地だけでなく、担当地域でも「千歳郵便局」は、名前と実際が一致しない。今、船橋五丁目の場所には郵政の宿舎が立つ。***松沢郵便局は松原三丁目の住所、ということは、下高井戸駅近辺が所在地。今下高井戸に残る郵政関連の事業所は、松沢電報電話局だけなのだが、それが松沢郵便局の立地か。松沢郵便局は、たぶん、杉並区の南側まで集配業務を担当していただろう。
December 13, 2007
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疲れたらしく11時近くまで寝ていた父の起床を待って、午後イチで病院行。昨日から特段の連絡はなく、大きな変化はないだろうが、顔を見て、一応状況確認。最高血圧96酸素供給は、違う機械を使うようになり10Lで60%という表現血中酸素濃度96体温は朝から37.7=>37.1=>36.5と推移と聞いたが、見た感じでは37.5℃前後ありそう排尿は昇圧剤の副効もあり順調=>良かった一応、予想される範囲に収まっていると思われ、父を送って午後は出かける。
December 13, 2007
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朝6時半母の入院先から電話があり、発熱39℃とのこと。急ぎ病院へ。早速、当直医師から説明。未明に発熱。39.1℃。血中酸素濃度は80台。最高血圧も80.病状は肺炎で、原因はおそらく誤飲。意識状態も悪い。もし会わせておきたい人が居れば、お声がけを。人工呼吸器をつけるかどうかご判断を下さい。と一連の説明。家族で打ち合わせるが、人間の尊厳、経済的負担、呼吸器をはずすタイミングの問題...意見がまとまらず、いったん解散。父親の食事のため、いったん家に戻る。戻って、慌しく家人用意の朝食をとり、ひとごこち。経済的負担はともかく、生きている人が大事と私は思う。しかし、私の中で、母は既に生きている人ではない。一方で、人間の尊厳というが、自力で栄養が取れないことと、自分で呼吸できないことの間に、Point of No Returnがあるとは思えない。自分ならばどうして欲しい?わずか一日とは、経管の栄養摂取に戻すのが前回より早いなぁと思ってはいたのだが...しかし、いつかは来ることであり、自分だけではなく、覚悟はあったはず。それでも、そのタイミングは、当たり前だが、不意をつかれる。人間には、生と死の状態だけでなく、死んでいく過程があると、改めて思う。父の仕度が終わった。出かけなければ。***ふたたび、病院へ。当直医の時間が終わり、主治医が話しをしたいと言ったのが10時前。「前回ご危篤状態になられたとき、ご家族のご意向を確認させていただきましたが、その際には苦痛を伴うような処置をしてまでの延命は望まないとお伺いしたと記録にございます(主治医が途中で交代した)。このご意向には、お変わりございませんでしょうか?」おいおい、そうじゃあないだろう。主治医なんだから当直医がいきなり数字を見て驚いたのとは違うだろう?「ええ。ただあのときは、病状の悪化が急で、特に環境の変化に敏感な母は、おそらく、あの際の治療に必要な機器を完備した病院への転院などを含む処置には耐え得ないと思った部分があります。一方、今回の如き、病状の緩慢な悪化の中で、果たして、自分で栄養の摂取が出来ない、或いは、自分で必要なたんぱく質を造れないということと、まだそこまでは行っていませんが、自発的呼吸が出来ないから人工呼吸器をつけるということの間に、Point of No Returnがあるとは考えにくいということが出てきたのは事実です。また今回の肺炎は、誤飲が原因であって、命が燃え尽きたというのとは違うのではなかろうか、ならば、もし延命の方法があるならば方法を尽くすべきとの思いもあります。ただ、今の段階は、人工呼吸器をつけねばならないという状態なのでしょうか?」「いえ。まだ、人工呼吸器をつけるかどうかということの前に、やらねばならない処置があります」そう。そうこなくちゃいけない。まだ自分で呼吸できる人間に、人工呼吸器をつける話ではないはずだ。「幸い。一時39.9℃まで上がった熱もだいぶん下がってきています。酸素吸入も最大の15Lから、これも下げてきました。アルブミンは、前回の危篤状況だったときに1.1だったのが、今回は1.7。但し、肝硬変の末期の彼女としては、最大できる範囲はここまでかなという感じがあります。本当は、もう少し待ってからと思いますけれど、昇圧剤を入れて、これには利尿作用もあるので、おしっこが出れば改善するところもあるでしょうから、点滴で栄養補給とアルブミンを、前回同様鼠径部から入れていくことをしたいんです。頸部からという手段もありますが、血管など複雑な場所なので、まずは鼠径部から使っていきたいと思います。危険が無いわけでもありませんし、また、長いあいだ鼠径部から入れ続ければ、場所がら感染症の可能性も出てくるということもあり、出来れば午前中に処置をしたいということがあって、同意書をいただけますか」そうでしょう。その処置があって、そこで人工呼吸器をどうするという議論になるはずだ。「そこまでの処置を尽くして、それでということならば、人工呼吸器までをお願いするということではないです」残念ながら、午前中に鼠径部へのカテーテル着装は出来ず、午後の処置となり、ふたたびいったん引き揚げる。軽く昼食。***無論、緩慢な悪化とはいえ、病状は進行していく。誤飲そのものは事故であっても、その原因は嚥下する力が不足してきていることにもあるだろう。わずかな違いが、病状の急変につながることも分からぬわけではない。また、今すぐでなくとも、いつ病状が急変、人工呼吸器をどうするといった事態に立ち至ることも分からぬのだから、質問は当然である。だが、聞き方、言い方には順番がある。医を尽くす話しをせずに人工呼吸器はない。***出かける用意をしていたところ、病院に見舞い行ってきた親戚が3人、様子見に。ちょうど私たちが引き揚げたあと。様子を聞いてからと念押ししたにもかかわらず、父が連絡してしまい、早速に連れ立って見舞いに行った帰りという。お見舞いの金一封まで頂戴したにもかかわらず、男所帯と物入りで、お茶だけのお構いで失礼してしまった。何やらで手間取り、ふたたび病院へ着いたのは午後4時過ぎになってしまったけれど、カテーテル装着も、遅くなって5時前後の処置。昇圧剤の効果で、夕方の最高血圧は103まで戻し、懸念された排尿も再開。体温は37.5℃で、まだ微熱が残る。今夜はひとつの山で油断はできぬが、幸いに今朝懸念した最悪の事態からは脱しつつあるやに思う。家に戻り、父、妹と、夕食にしていると、家人と子供たちがそれぞれ予定を繰り上げて帰宅。状況を説明し、皆、ひとつ安堵。疲れた。階段を登る途中で躓づく。寝よう。
December 12, 2007
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土曜日夜、母が入院中の病院から「熱が出た」と電話38度9分!翌日、父親が簡保の旅行とて朝から外出の予定で「どうしよう」父は遊ぶほうも熱心で、現役の頃でも、休みといえばゴルフ、旅行で出かけるのが常。母は、そういう父が休みに出かけるのを不満と諦観のまざった複雑な感情で送り出していたのだろう。その感情が為せる業なのか、ここ10年、母の病状悪化は、不思議と父の旅行、ゴルフにタイミングが合う。「いいよ。行ってくれば。昔と違って今は、たとえバスの中へでも連絡がつく」と、日曜朝送り出し、病院へ行ってみれば、「特に解熱剤その他特別な処置をしたわけではなく、鼠径部、脇の下を冷やし、経管から点滴に栄養補給を切り替えただけですが、落ち着きました。起床時の検温で36度。食後の検温で35.8度。重大な変化があれば、またお知らせします」とのこと。「やはり」と思い至る。とりたてて、他と比べ、仲が良いとか、悪いとかというほどのことはない父母の関係だが、長年の習慣で、父が遊びに出る前の微妙な変化を母の身体は感じ取り、それに対する煩悶の反応をみせるのだ。夫婦生活の中で、このような反応は抑制されていたが、制御をはずれた今は、反応の一部が直裁に表面化する。発熱そのものは良い兆候ではないが、そのように捉えれば、母の中に感情の一部が強く残ることの証左と考え、実際はともあれ、改善の兆しかもしれぬと思ってもみる。
December 10, 2007
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「最近○○さんのお仕事のご様子はいかがなのかしら?」「なかなか○○さんの業界もいろいろあって、大変みたいだよ」「そうなの?」「うん。でも○○さんは、きちんといろいろおやりになるから大丈夫だろう」「きちんとおやりになるってどういうこと?」「ちゃんとやるから、次の商売につながるってこと」「次の商売につながるってどういうこと?」「そのお客さんが次の仕事をくれるかもしれない」「だったら、その1回だけって分かってるときは、ちゃんとやらないの?」「その人だけじゃなくて、お知り合いにご紹介いただけるかもしれない」「だって、すぐに仕事があるとは限らないじゃない?」「来月、半年後ということでなくても、5年後、10年後ということもある」「次の商売につながるからきちんとやるの?」「そうだねぇ。そういう部分もある」「そんなこと考えて仕事ってするもの?」「結果として、次の仕事につながることもあるから、しっかりやりなさいってこと。外資系企業に勤めていたとき、よく社長が言ってた言葉にEverybody is a customerってのがあって、要は、誰がいつお客さまになることがあるかもしれないのだから、きちんとおやりなさいって意味なんだけどね」「2度とやりたくないと思う相手だっているじゃない」「そういう人とは仕事しなければいい」「選べないときもあるでしょ?」「幸いにして、そういう立場になったことはない。会社だからね。受けてしまった以上、責任の範囲で仕事はちゃんとする。だけど、次はいやだってのがあるだろうなぁ」「その仕事しなければ、お金が貰えない。生きていけないって時だってあるじゃない」「....」「やっぱり次の商売につながるからきちんとやるとかいうべきじゃないんじゃない?」「そうだね。仕事をちゃんとやることは、自分の心の問題なんだ」***Everybody is a customer単に他人がお客さまになってくれるというだけでなく、もっと広い意味での処世訓だと思う。「誰もみていないと思っても、天の神さまが見ている」というのと一緒で、簡単に言えば、誰がどこで見ているかわからないから、なんでもちゃんとやりなさいという意味だが、きちんと仕事をするのは、他人が見ているから、次の商売につながるから、ではないですね。それは結果でそういうことがあるかもしれないということに過ぎない。難しいことを言わなくとも、日々の生活を黙々と生きることから人生も仕事も始まる。他人が見ていなくても、商売につながらなくても
December 9, 2007
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「僕はサラリーマン生活というのを殆どやったことがないので、よく分からないのですが、12月はいろいろなところと忘年会があってお忙しいんでしょう?」「最近は、できる限り断るようにしています。それでも、いくつかはしょうがないですね。ひどい年は、毎日忘年会でも日程が足りず、早い時間から始まる会は、許してもらって中座し、別の会の途中から参加するなどということもやりました。」「よくお金が続きますね」「会社関係は、自前というわけでもないです。全額自腹だったら大変です」「民間企業だからそれができるけれど、お役所はご法度でしょう」「昔はともかく、今の風潮では、そうですね」「社内など、毎日顔あわせてるから、何も忘年会とかいらないじゃありません?」「いや、たまたま、忘年会という理由をつけているだけで、いつも飲んでるそのままってのもあるんですよ。忘年会は言い訳で、実際はいつも飲んでる」「会社と夜と同じメンバーで、つまらないじゃないですか?」「いや。夜の飲み会は仕事です。昼間は建前、夜は本音の仕事です。ちょっと酒代さえ出してやれば、時間外をつけることなく社内コミュニケーションで打ち合わせやってくれますから、会社としては、ありがたい話しでしょう」「あ、あれは仕事なんだ」「そうです。そうは言っても、仕事の話ばかりですから、つまらないといえばそれまでですね。社内の忘年会は、できるだけ少なくしようと思っても、なくせないのがいくつかある。一つは、自分より偉い人からのお誘い。もう一つは、同年輩、同一境遇の連中からのお誘い。もうひとつは自分の所属部署の忘年会。この3つに出ないというのは、人でナシ扱いされる。それから、地方に居る昔の部下が上京してきて飲みたいという場合。さらに、泊りがけでの出張。」「そんだけやってちゃ、忘年会がなくならないわけですね。若い人はいやじゃないんですか?」「会社によっては、そういうところばかりではないかもしれませんね。でも知る限り同じ。会社でやる忘年会は”仕事”ですから、若い奴が参加しないなどということは許されません」***いつまで時代錯誤なこと言ってんだい。おっさん!そんな考えじゃぁ、若い連中、おっさんの家族から見放されるぜ。これからぁ、おっさんより若い連中がどんどん増える。おっさん一族はこれ以上増えないんだから、早く考えかた変えたがいい。
December 9, 2007
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昭和30年前後。すずらんストア前あたりから経堂駅方面を撮影したもの。写っている車両(車両等かな?)はオート三輪。といっても若い方はご存知ないだろう。これは昭和26年。すずらん通りの入り口あたりから、北側に向かって。写真中央縦長の看板は亀屋のだが、ピンボケで読めない。すずらん灯の有無で、下の写真のほうが古い時代のものであることが分かる。
December 8, 2007
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「いい仕事がみつかって給料が入ったから」とTさんのお誘い。「どこにしようか?」遠くだと帰るのが億劫なので「経堂」先日ご案内の大田尻屋と道を挟んだ反対側、すずらん通りは「せいろ屋」で一杯。経堂駅7時の待ち合わせで、経堂小学校手前のせいろ屋まで歩き。途中、この間まで本通りにあったBrasseire Paradisが12月11日にすずらん通りに移転Openと表示があり、「結構ちゃんとした造りだね(前の店と色づかいは一緒)。ここ前なにだっけ?」「なんだっけ?」「ここは、前薬局でケロリン?が立ってたよね」「この焼鳥屋は結構長くやってる。もう30年以上だ」「角のラーメン屋は小学校へ入った頃できたんだ」「へー。俺が記憶してる頃にはもうあったなぁ」とか言いながら、せいろ屋到着。「ここは前なんだったんだっけ?」「ビデオ屋」「そうだね」地元ならではの会話。お勘定はTさんもちだったので、いくらだか分からぬが、途中から近くの真理ちゃんにも声をかけて合流。焼酎1本。ワイン1本。ほかにビールと玉露割り2杯。食事も、魚・牛肉のそれぞれ蒸しもの、野菜蒸し、じゃこ豆腐、生牡蠣、筑前煮、だし巻き卵、おしんこ...と盛り沢山にいったので、結構お値段が張っただろう。仕事が決まってからのTさん。以前と打って変わって元気。皮肉っぽい言い方も復活で、職場でも期待されている様子。何よりだ。「(小学校担任の)先生、腰が立たなくなっちゃったそうなんだ」「この間行ったときは、歩いてたのにね」「ご主人も同じで、付き添いの人が居ないと、お風呂にも入れないんだって」「早く行っておかないとね」「こないだは、ゆずありがとう」「あ、ゆずはそっちへは行ったんだ」「そうなの」「先生のとこ、年内に行くの?」「どうかな?」「前もって言ってくれれば、三週間に1回土曜出勤なんだ」「雪降るからなぁ」「福島は雪降るの?」「うん」「年内のがすと来年3月かぁ」「新年会やろうよ」「どこで」「ほんとは経堂駅に近いとこがいいんだろうけど、今回は俺んちで」「いいよ。誰か呼びたい人は?」「了ちゃん来れるかな?」「どうだろう?正月だからねぇ」「山本さん」「宗俊!ぜったい文句言ってやるんだ」「Sさん」「茂美君が何回か企画してるんだけど、いつも直前に言うから、集まらない」「今から言えばぎりぎり間に合う」「山本さんは、E-mailアドレス変わっちゃったみたいだから連絡がつくかな?」「住所分かるんだったら連絡してみたら」「三原君に聞いてみるけど、出てきたくないんじゃないかな?」「俺だって最初そうだったよ」「そうだね。じゃやってみる」「Sさんは、連絡はつくし、会いたいねって言ってるんだけど、看護方面の仕事やってるんで、なかなかスケジュールが合わない」「誘ってみようよ」「日取りは?」「1月5日土曜」「ごめん。その日はボランティアで行ってるわんんぱく倶楽部の新年会なんだ」「じゃあ3日」「決まりだね」10時ラストオーダーで、10時ちょっと過ぎに解散。BLOGお読みのご関係者。6年3組でなくともご参加を!これからご連絡行きます。***せいろ屋(セイロヤ) 世田谷区宮坂3-46-3 吉田ビル 1F 03-3425-1766 ランチ 11:00~14:30(L.O.14:00) ディナー 17:00~23:00(L.O.22:00) Brasseire Paradis世田谷区経堂2-3-703-3420-4111(電話番号はかわりません)
December 7, 2007
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今月から駅前のスーパー小田急OXが24時間営業となった。今の建物は確か3代目。かまぼこ屋根の建物は初代だったか、2代目だったか?もう20年も前だろうか?その時読んだマーケティング調査で、24時間対応が進んだ住宅地として経堂がトップに挙げられていた。まだコンビニエンスストアもまだ24時間対応ではなくて、評価の基準は、夜間の買物ができること夜間の飲食ができること終電が何時まであるか?終電のあと、タクシーの便があるか?あたりから、レンタカーなどというものもあった。たまたま、当時ジョイフルの北側に24時間対応の日本レンタカーがあったこと南口側線路沿いを中心に何軒か、朝までご飯が食べられる店が、あったことなどが、調査のポイントとなり、経堂が首位になっていたと記憶する。実態は果たしてどうだったかと思うが、農大通りはもちろん、すずらん通り側も西通りも、当時の経堂は確かに夜でもにぎやかだった。それが、1990年台後半はひどい状態で、終電を降りてすずらん通りを歩くと一軒も開いている店がなかく、冬は木枯らしの駆け抜ける、あたかも地方のシャッター商店街を見るが如くだった。それを考えれば、今はセブンもローソン(ナチュラルローソン)もあるし、夜遅くまでやっている店も何軒かある。しかし、駅前で24時間というのは、果たしてどうなのか?コンビニエンスストアが、OXの24時間営業でそれほど打撃を受けるとは思わないけれど、夜駅まで人が流れるようになるとも、あまり思えない。深夜の時間帯、車でOXまでという需要が増えて、静かな住宅街を夜も車が走るようになるというだけかもしれない。果たして結果やいかに?
December 6, 2007
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経堂のお風呂やさんというと塩原湯。昔は駅北口の横丁を入って坂を降りたところにもう一軒、東経堂団地の北側、四谷軒牧場との間にも一軒あったけれど、それぞれだいぶん前になくなった。すずらん通りをだいぶん行って水道道路の手前あたり、南口にも経堂大橋の北あたり烏山用水沿いにあったような記憶があるが定かでない。世田谷区の銭湯が今どれぐらいあるかを見てみると表の通り。塩原湯から環八までは一軒もない。
December 3, 2007
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ここ数日、ときどき小雨も降る寒いお天気だったが、今日はお昼前後から久しぶりのいいお天気。洗濯物も良く乾いたけど、たたむのが大変。珍しく天祖神社の神楽殿が開いていて、内装を新装した模様。奉納の舞なのだろうか?ご近所と思しき奥さまがたがお稽古をしていらっしゃる。
December 1, 2007
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