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失業率の悪化、労働生産性の停滞、消費の低迷に陥っている日本経済の長期不況の本質は何でしょうか。 ”平成不況の本質”(2011年12月 岩波書店刊 大瀧 雅之著)を読みました。 雇用と金融の側面から不況の原因を読み解く鍵を提供し、大震災後のいまこそ、経済成長至上主義から脱却し、社会的共通資本としての教育を充実させることの重要性を強調しています。 大瀧雅之さんは、1957年福島県生まれ、東京大学大学院経済学研究科修了、経済学博士、東京大学社会科学研究所教授で、専門はマクロ経済学、景気循環理論です。 バブル期を1986年-1990年とし、失われた10年期を1991年-2000年とし、構造改革期を2001年-2010年とします。 失われた10年期の国民所得は、企業所得・雇用者所得はバブル期より増えていて、これで見るかぎり何も失われていないそうです。 失われたとしたらそれは金融と不動産の含み資産であろうということです。 デフレと不況は本来因果関係には無く、デフレが不況を引き起こしたという理屈は理論に基づいていないそうです。 この50年間、日本の経済が経験しているのはデフレではなく、ディスインフレだいうことです。 インフレ率は過去50年間一貫して減少してきていて、インフレ率の低下と逆相関しているかのように、高度経済成長以来50年日本の失業率は趨勢的に上昇しているそうです。 雇用の安定は労働生産性の上昇となり、賃金の上昇をもたらします。 それはさらに消費活動を拡大し、次の雇用率を高め次の経済拡張の礎となります。 現在の不況はその逆の連鎖にあるといえるそうです。 現在のディスインフレ期の有効需要の不足が失業率増加をもたらし、労働生産性が低下しそれにともなって名目賃金・物価水準が抑制されているそうです。 民間資本は構造改革期には減少しているにもかかわらず、対外直接投資額の構成比率は3.5%から8.5%に増えたそうです。 対外投資は国内産業の空洞化につながり、失業率の上昇につながりました。 いわゆる構造改革の10年は、日本人の持っていた優れたメンタリティである勤勉、協調、誠実の精神を根本から腐食させかけたそうです。 わずか10年余りのIT革命は、全体的に見れば人類の幸福に資するものばかりではありません。 そして偏差値教育の貫徹による人間の規格化は、社会の持つ包容力を著しく低下させ、社会的進化論や新自由主義という社会そのものの存在を否定しかねない危険な思想を世に広める土壌となっているそうです。 官から民や民富論のスローガンは、この考え方を体現したものです。 民営化の方が優れているといった公共性を軽視する姿勢が働き、企業体は投資家たちの投資機会の拡大をもたらすべきだという拝金主義的な考えが蔓延しました。 この流れの中で、かつて日本の強みと言われていた日本的経営も破壊されました。 日本的経営では、企業を社会の公器として、従業員、関連企業、株主のそれぞれに平等な目配りをしながら経営が行われていました。 しかし、構造改革路線により株主の短期的な利益を中心とした考え方に誘導されました。 その結果、労働者の分け前は減り、下請いじめが起こりました。 短期的な目的が優先され、将来を見越した計画的な経営がないがしろにされ、日本経済全体が実質的に縮小再生産のパターンに落ち込むこととなりました。 若者の失業については、若者被害者・年配加害者論が唱えられました。 しかし、団塊の世代の退職が始まっても、一向に若者の雇用が増える様子はありません。 年齢別の完全失業率を見ると、どの階層もほぼ一様かつ趨勢的に完全失業率が上昇しています。 団塊の世代の退職と若者の失業率の高さの間には、ほとんど何も関連がないことが明らかです。 失業率と労働生産性は有効需要の大きさにより決定され、有効需要が拡大すると失業率が低下します。 同時に技術の熟練者が増えて技術継承も容易となり、長期的にも労働生産性が上昇します。 したがって、財・サービスに対する経済全体の需要である有効需要をいかに喚起するかが、全体の鍵を握っているのです。 日本の労働者のライバルは事実上東アジアの労働者ですから、賃金を国内の平均的レベルに維持しながら、企業立地を進めるためには、どうしても思い切った税制優遇が必要となります。 肝要なことは、小出しかつ場当たり的に政策を打つことなく、例外的ともいえる優遇措置を、一気に時限立法ではなく、被災地特区に立地する企業に打ち出すことです。 これは特区を利用する企業の将来の予想を安定させ新事業に確信を持たせることに大いに資するでしょうし、これによって経済全体の有効需要が喚起されれば被災地に限らず雇用全体として改善されるでしょうといいます。はじめに-不況、そして東日本大震災第1章 「デフレ」とは何か-長期的視野から考える第2章 なぜ賃金が上がらないのか第3章 企業は誰のものか第4章 構造改革とは何だったのか終 章 いま、何が求められているか
2012.07.31
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7月20日のニューヨーク外国為替市場で、ユーロが約12年ぶりの安値となっています。 対円で一時1ユーロ=95円39銭と、2000年11月下旬以来11年8カ月ぶりの安値を付けました。 対主要通貨で大幅に値を落とし、対ドルでも一時1ユーロ=1.2144ドルと、2010年6月以来2年1カ月ぶりの安値まで値を落としました。 このユーロ安の背景には、昨今のスペインの財政不安の問題があるようです。 スペイン政府は、2013年のGDP伸び率がマイナス0.5%になるとの見通しを発表しました。 バレンシア州が中央政府に債務返済で支援を求めたことも、市場の不安をあおりました。 スペインは、不動産・建設バブルの崩壊で、金融機関の不良債権が資産の9%にまで上昇し、資本増強が求められています。 その上、行政サービスのお金が国庫に不足している模様で、国家財政も危機的状況にあるようです。 EU27カ国でユーロを採用しているユーロ圏諸国17カ国は、スペインへの金融支援を正式に決定しました。 EUによる支援は、ギリシャ、アイルランド、ポルトガルに次いで4カ国目です。 最大1000億ユーロ=約10兆円規模で、金融機関の資本増強に使い道を限定するといいます。 しかし、スペイン国債を売る動きは止まらず、指標となる10年物国債の利回りは7.3%と、1999年のユーロ導入以来、最高の水準にまで上昇しました。 今回の金融支援によっても、市場の懸念は沈静化していません。 その上、ギリシャのように国家財政を含めた包括的な支援に追い込まれるのではとの観測も浮上し、ドイツなど支援側の諸国が慎重姿勢を崩していないようです。 欧州債務危機は出口が見えておらず、先進7カ国の一角を占めるイタリアまでもが動揺しています。 これまで欧州諸国が進めてきた経済通貨統合は、終わりのない信用危機に見舞われています。 加えて、各国の国内政治の対立がそのまま欧州全体に影響し、意思決定に手間取り何を決めるにも時間が掛かるという問題もあります。 はたして、これから、欧州単一通貨ユーロの未来はどうなるのか、その行方は貿易立国日本にとって目が離せなくなっています。
2012.07.24
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般若心経は、大乗仏教の空・般若思想を説いた経典の1つです。 大乗仏教の心髄が説かれていると言われ、読誦経典の1つとして永く伝承されています。 大般若経と大品般若経からの抜粋に、陀羅尼が末尾に付け加えられています。 現在までに漢訳、サンスクリットともに大本、小本の二系統のテキストが残存し、最も流布しているのは玄奘三蔵訳とされる小本系の漢訳です。---------- 摩訶般若波羅蜜多心経観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空・空不異色・色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。菩提薩?。依般若波羅蜜多故。心無?礙。無?礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知。般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚。故説般若波羅蜜多呪。即説呪曰。羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経----------観音菩薩が、深遠なる「智慧の波羅蜜」を行じていた時、五蘊は空であると見抜いて、すべての苦悩から解放された。シャーリプトラよ、色は空性に異ならない。空性は色に異ならない。色は空性である。空性は色である。受、想、行、識もまた同様である。シャーリプトラよ、すべての現象は空を特徴とするものであるから、生じることなく、滅することなく汚れることなく、汚れがなくなることなく増えることなく、減ることもない。ゆえに空性においては、色は無く、受、想、行、識も無い眼、耳、鼻、舌、身、意も無く、色、声、香、味、触、法も無い眼で見た世界も無く、意識で想われた世界も無い無明も無く、無明の滅尽も無い"老いと死"も無く、"老いと死"の滅尽も無い「これが苦しみである」という真理も無い「これが苦しみの集起である」という真理も無い「これが苦しみの滅である」という真理も無い「これが苦しみの滅へ向かう道である」という真理も無い知ることも無く、得ることも無いもともと得られるべきものは何も無いからである菩薩たちは、「智慧の波羅蜜」に依拠しているがゆえに心にこだわりが無いこだわりが無いゆえに、恐れも無く転倒した認識によって世界を見ることから遠く離れている。三世の仏たちも「智慧の波羅蜜」に依拠するがゆえに完全なる悟りを得るのだ。それゆえ、この「智慧の波羅蜜」こそは偉大なる呪文であり、偉大なる明智の呪文であり、超えるものなき呪文であり、並ぶものなき呪文である。すべての苦しみを除き、真実であり、偽りなきものである。では、「智慧の波羅蜜」をあらわす呪文を示そう、"ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー"(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に正しく往ける者よ、菩提よ、ささげ物を受け取り給え)http://ja.wikisource.org/wiki/より。
2012.07.17
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江戸時代の漂流体験者としてよく知られているのは、ジョン万次郎と大黒屋光太夫です。 万次郎が19世紀半ばにアメリカに渡ったのに対し、光太夫とその仲間たちは18世紀後半にロシアで苦難に満ちた10年を過ごしました。 漂流民の多くは悲惨な運命に遭遇し、運よく見知らぬ土地に漂着しても、生き延びること自体が至難の業でした。 ”大黒屋光太夫 帝政ロシア漂流の物語”(2004年2月 岩波書店刊 山下恒夫著)を読みました。 江戸時代の鎖国の中に駿河湾沖で遭難しアリューシャン列島に漂着した乗員が10年ぶりに帰国したときの船頭らの数奇な運命を描いています。 山下恒夫さんは、1939年生まれ、早稲田大学文学部を卒業し、雑誌編集者を経て漂流記の研究に従事しています。 光太夫は幼名を兵蔵といい、宝暦元年(1751年)に伊勢国亀山藩領南若松村の亀屋四郎治家に生まれました。 家は船宿を営み、母は伊勢藤堂藩領玉垣村で酒造業・木綿商などを営む清五郎家の娘でした。 父の四郎治は兵蔵の幼少期に死去し、四郎治家は姉の国に婿養子を迎え家督を相続させました。 兄の次兵衛は江戸本船町の米問屋白子屋清右衛門家に奉公し、兵助も長じると母方の清五郎家の江戸出店で奉公しました。 1778年(安永7年)に、兵蔵は亀屋分家の四郎兵衛家当主の死去に際し養子に迎えられ、伊勢へ戻り名を亀屋四郎兵衛と改めました。 伊勢で次姉の嫁ぎ先である白子の廻船問屋一味諫右衛門の沖船頭から、廻船賄職として雇われ船頭となりました。 1780年(安永9年)に沖船頭に取り立てられ、名を大黒屋光太夫に改めました。 ロシアからの史上最初の帰国者となった2人の漂流民、船頭の光太夫と水夫の磯吉は、伊勢白子の廻船・神昌丸に乗り込んでいました。 天明2年12月(1783年1月)に白子の港を出帆したとき乗船者は17人でしたが、翌日の夜に駿河湾沖で遭難しました。 一行はアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着し、先住民のアレウト人や毛皮収穫のために滞在していたロシア人に遭遇しました。 当時、千島列島に現れたロシア人は赤蝦夷と呼ばれ、真紅色のラシャをまとった不気味な怪物として噂が広まっていました。 彼らと共に暮らす中で光太夫らはロシア語を習得し、4年後の1787年にありあわせの材料で造った船でロシア人らとともに島を脱出しました。 その後、カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年にイルクーツクに至りました。 カムチャツカではスエズ運河を開削したフェルディナン・ド・レセップスの叔父のジャン・レセップスに会い、イルクーツクでは日本に興味を抱いていたキリル・ラクスマンと出会いました。 そして、漂流と漂泊の9年間が過ぎると、生存者は6人しかいませんでした。 そのうち2人の水夫の庄蔵と新蔵はロシアヘ帰化し、同年中に水夫の九右衛門が病死しました。 日本への帰国については、生き残る試練、帰化の強要、嘆願活動の困難さの壁がありました。 8か月余の漂流、4年間の孤島暮し、カムチャツカでの飢餓によって、配下の仲間たち11人を失いました。 イルクーツクでは、帰化の強要に直面しました。 そして、女帝工カテリーナ2世に直訴し、ものの見事に日本帰国の願望を叶えました。 遭難後10年経って、ロシアの遣日使節船エカテリーナ号で送られたのは、光太夫と会計役の小市・磯吉の3人だけでしたが、蝦夷地の根室で越冬中に小市が病に倒れました。 光太夫は、ロシアの進出に伴い北方情勢が緊迫していることを話し、この頃から幕府も樺太や千島列島に対し影響力を強めていくようになりました。 1792年に松前の地でキリルの次男のアダム・ラクスマンと幕府の老中の松平定信とで行われた史上初の日露外交交渉は、定信が決めた方針通りに進められ、光太夫と磯吉の身柄引渡しが滞りなく終わり、日本側はそれで満足しました。 定信には、次回の長崎での外交交渉においてロシア側か強く要求すれば蝦夷地での交易を許す秘策があったといいます。 しかし、その年の7月に、定信は老中職を辞任し、開国のあけぼのはあっけなく消え失せてしまいました。 後に江戸暮しを許された二人は、番町の幕府お薬園内に新居を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流しました。 光太夫は日本とロシアとの貿易樹立という未来図を描いていましたが、鎖国体制という拒絶の壁が立ちはだかっていました。 1804年(文化元年)に、ロシア帝国の外交官であるニコライ・ペトロヴィチ・レザノフが長崎の出島に来航しましたが、幕府はすでに外交能力を失っていて、半年間出島に留め置かれたといいます。 結局、翌年、長崎奉行所において中国・朝鮮・琉球・オランダ以外の国と通信・通商の関係を持たないのが朝廷歴世の法で議論の余地はないとして通商の拒絶を通告されました。 光太夫の伝記については、すでに亀井高孝さんの『大黒屋光太夫』(1964年古川弘文館人物叢書)が知られていますが、刊行から40年の間に『魯西亜国漂舶聞書』『寛政五年神昌丸二漂民両目付吟味録』『幸太夫談話』『一席夜話』などの新史料が発見され、他にアダム・ラクスマンの『日本来航日誌』などのロシア側資料も多数存在していますので、それらの新しい視点を加味して執筆されたということです。序 章 赤蝦夷の噂 第1章 頼もしき若松浦衆 第2章 遭難、そして漂流 第3章 霧と風の島アムチトカ 第4章 カムチャツカからシベリアへ 第5章 イルクーツクでの望郷の日々 第6章 帝都サンクト・ペテルブルグ 第7章 ロシアの黒船と蝦夷地 第8章 鎖国下の日露交渉 第9章 大江戸暮しとなった伊勢二漂民 終 章 使節レザーノフの長崎来航
2012.07.10
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国の借金が2011年6月末時点で943兆8096億円と過去最大額になり、毎年の予算編成で巨額の財源不足が課題になっています。 公共事業費の削減や社会保障費の抑制などで大幅な歳出カットを行い、足りない差額は増税で穴埋めせざるを得ないとされていました。 後者の第一歩として、消費税増税を中心とする社会保障と税の一体改革関連法案が衆議院に提出されていました。 この法案が、このたび6月26日の衆院本会議で可決され、参議院に送られることとなりました。 消費税は1954年にフランスで最初に導入され、日本では1988年に竹下内閣のとき消費税法が成立し、12月30日公布、1989年4月1日から施行されました。 最初の税率は3%でしたが、1997年に橋本内閣のとき税率5%に引き上げられました。 今回の可決により、参議院でも通過して成立となれば、消費税率は2014年8%、2015年に10%引き上げられる見込みです。 ある経済研究所の試算では、夫婦のどちらかが働く子供2人の標準世帯で、年収が500万~550万円だと、消費税率が8%になった段階で現在より年7,2948円、10%だと119,369円負担が増えるといいます。 また、東日本大震災の復興財源を賄う増税も控え、所得税は2013年1から現在の納税額に2.1%上乗せされるほか、社会保険料の上昇も家計を圧迫します。 給料の上昇が期待できない中、家計にとって負担だけが増えていきそうです。 法案の動向について財政の面から評価する声が相次ぐ中、増税による消費の冷え込みを懸念する声もある上、政局への懸念も強まっていて、政治の停滞が起これば、経済成長の足を引っ張られることになります。 また、増税の前提となっていたはずの歳出削減の取り組みは、不徹底であると言わざるをえないでしょう。 さらに、消費税率を10%にしても、借金依存の財政を脱却できるわけではありません。 増税による歳入増を当て込んで、財政出動が増える恐れも懸念されます。 法案が可決成立しても、やはり財政再建への道筋は見えて来ないのではないでしょうか。 まず、行政と政治が身を切る覚悟を示す必要があるのではないでしょうか。
2012.07.03
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